漂泊の仙人と煙雲の少女(六)

 水面に波紋を立てる浮きを見つめ、垂らした釣り糸が風に揺れる様を眺める。

 穏やかな時間が過ぎてゆく中、夕暮れまでいま少し時間があるかと、若い猪は傍らの釣りビクを見遣った。素焼きの瓶を藁を

編んだカバーで覆った口が広いビクの中には、活きのいい香魚(アユ)が

「いっぱい釣れたね!」

 長い縞々の尻尾を立て、嬉しそうに左右に揺らすレッサーパンダの子に、猪は厳めしい顔を綻ばせて「おばさんもビックリす

るかもな」と応じた。

 レッサーパンダはまだ身長100センチ程度で、フカフカした鮮やかな体毛に覆われた子供体型はぬいぐるみのような愛らし

さ。顔立ちも愛くるしく、表情豊かで懐っこい印象。村の誰からも好かれる元気な子供である。

 一方猪は身長170センチほど、アンバランスなほど肩幅があるゴツい骨格で、手足も太く恰幅が良い。肥満体に見えるが弛

んでいるという印象は無く、体中パツンパツンに張った固太り。特筆すべきは、厳めしい牙と顔立ちに対し、笑うと目尻の皺が

目立って柔和な顔になる事。

 ホンスー八歳。チョウ二十一歳。

 同じ村で育った二人は幼馴染とも少し違う関係。だいぶ年上のチョウはホンスー達から見ればかなり年上のお兄さんといった

具合で、皆がヨチヨチ歩きの頃から面倒を見て貰っていた。中でもチョウと家が隣り合っているホンスーは、赤子の頃からあや

して貰っていたので、とりわけ懐いている。
この日、チョウの久しぶりとなる帰郷を喜んだホンスーは、二人きりでたっぷり土

産話を聞きたかったので、村から三十分ほどの川へ釣りに誘っていた。

 高く切り立った崖と深い谷に囲まれ、大きな山の山腹に段々畑を築いた、総人口90人にも満たない小さな村。風光明媚で水

が綺麗な深山の、しかし往来が不便なため村落が少ない区域。田舎の中の田舎だと、村の皆が笑って述べる通り、もはや秘境一

歩前という立地のそこが、二人が生まれ育った場所。

 しかしそんな場所でも生活に不自由はない。峻険な崖や急峻な坂道、谷にかかるみすぼらしい吊り橋など、他の場所と行き来

するには不便であっても、この村は活動に必要な物を単独でほぼ賄える。

 雨を溜めてくれる池が近くの山頂にあり、石清水も沸いており、沢も滝も穏やかな川も水が綺麗で、多様な魚が多く住まう。

 山の一部は土壌が粘土質で、水を溜めてくれるだけでなく、食器などの焼き物の材料にも不自由しない。

 山の木々も乱雑に伐採さえしなければ、薪や建材に利用してまだまだ余る上に、食用の実も採取できる。

 豊かな実りをあてにして獣や鳥の往来もあるので、狩猟対象にも困る事はない。

 山中にも桃の木がポツポツ自生しているが、村内の畑や家の脇、さらには道端でも暴風樹として育てられており、季節には桃

園で大量に収穫できる。

 この規模の村だからこそ、得られるささやかな糧でも豊かでいられる。発展と近代化から取り残されたような僻地において、

都市部よりも安定した平和な生活が送れるのは、ある種の皮肉とも言えた。

 そんな、田舎ではあっても生活に不自由しない、穏やかで長閑な環境で育った村民の中で、チョウはある意味で変わり種と言

える。
この猪は、この村の歴史上初めて軍人を志した。その上、高名な学校を出たわけでもなく、独力の努力で知識を物にして

飛び級を重ね、学力に根本的な差があったにも関わらず、並み居る都市部出身者達に追いつき、追い越し、最優秀士官候補生と

して表彰までされた。

 そのくせ本人は増長する事なく、根っこはこの田舎で育ったまま。期待の若手士官の素顔は、素朴で真面目で少しだけ茶目っ

気があり、面倒見が良い青年のまま変わらない。タフで頭もキレる、その上努力のひととくれば、周囲から一目置かれないはず

もなく、村が誇る出世頭だと、誰もが喜んで褒め称えた。

 そんな風にチョウが褒められるのを聞いていたので、村の子供達も、ホンスーも「ボクもグンジンやる!」と言い出したが、

これは子供によくある一時の憧れ。周囲も判っているので、愛想よく付き合ってやっている。

「全部塩焼き!?」

「せっかく活きが良いんだから、それが良いだろうな」

「ヤッター!」

「ホンスー君は本当に焼き魚が好きだよな…。何で?」

「形がそのままだから!」

 回答はあったがそれでも意味が解らず、猪は「…何で?」と繰り返して首を捻る。

「うんとねー…。チョウお兄ちゃんは、食べ物がそのままだと、ぜいたくな感じしない?肉も大きい方が、鳥も骨がついてる方

が、ぜいたくに見えない?」

「あ~…、なるほど。何となく判ったかな…」

 手の込んだ高級品志向の料理より、素材の元が窺える方が贅沢に感じられるのだろうと、レッサーパンダの子の主張を理解し

てチョウは微笑む。

「おじさんも、ユェイン様も、どっちかと言えばそういう料理が好きだったな」

 煌びやかな料理より野趣溢れる物を好むというのは、何もおかしな事ではない。知り合い数名の顔を思い浮かべたチョウは、

よそ見しているホンスーが垂らした釣り糸の先で、縞々の浮きがピョコピョコ浮き沈みしている事に気付いた。

「ホンスー君、引いてるぞ!デカい!」

「え!?ヤッター!」

「慌てずに竿を流して釣り上げる機会を待…ホンスー君!?」

 猪が目を丸くする。釣り糸がピンと張り、それにツンッと引っ張られた格好で、レッサーパンダが竿を持ったまま前のめりに

なった。

 タパァン、と水面にダイブしたレッサーパンダを追って、猪がザボォンと川に飛び込む。

 川辺付近は大人の腰程度の深さしかないが、途中から急に深くなるし川底は岩がゴロゴロしているので、チョウは慌ててホン

スーを捕まえ、太い両腕で軽々と水面より上に持ち上げる。そしてウェイトリフティングのような格好でレッサーパンダを水平

に掲げ持ち、川岸に押し上げた。

「ケホケホッ!」

 ホンスーは涙ぐんで咳き込んでいるが、その両手はまだ竿を手放していなかった。チョウは川に腰まで浸かったまま、まだ引

いている事に気付いてそれを掴み取ると、予想以上の引きの強さで目を真ん丸にした。そのまま
足の下で転がる川底の石を踏み

締め、グッと力を込めて吊り上げれば、川面を突き破るように跳ね出たのは立派なニジマス。

「これは凄い…!大物だぞホンスー君!」

「ホント!?うわでっかい!ヤッター!」

 糸を掴んでぶら下げて陸に上げてやると、元気にビタンビタン跳ねるニジマスを、ホンスーは周囲をうろうろしながらしげし

げと見つめた。

「はっはっはっ!これを入れたら、ビクにはもう一匹も入らないな!」

 岸に上がり、ビショビショの服の裾を掴んで絞りながら、チョウが恰幅の良い体を揺すって笑う。小柄で筋肉もない自分と比

べて、本当に立派だなぁと、ホンスーは憧れをもってその体つきを惚れ惚れ眺めた。

 服を着ている状態では一見すると贅肉で肥え太っているように見えるシルエットだが、裸体になった上に濡れて被毛が寝ると、

太い筋肉の束に覆われたはち切れんばかりの固太りである事が判る。胸は分厚く二つに割れ、出ている腹も筋肉で張りがある。

骨太で元々体格がガッシリしている上に、鍛え込んで形成された頑強な肉体…、古い物語の武侠を思わせる、絵に描いたように

頼もしいガタイである。

「釣り勝負はホンスー君の勝ちだな!」

「ヤッター!」

「というわけで、たくさん釣れたし、ビショビショになったし、今日は帰ろう」

「あわ~…!ずぶぬれ…!」

 ホンスーは水が滴る服を見下ろし、困り顔になった。

「お母さんに怒られちゃう…」

「ははは!一緒に謝ってやるから!それに、これだけ釣って帰ればおばさんも機嫌が良くなる。心配しなくたって大丈夫だよ!」

 上衣もズボンも脱いで絞り、担いだ釣り竿に衣服を旗のように引っかけて、股を特鼻褌で覆っただけのほぼ裸の格好でも、ふ

たりは気にする事無く村への道を戻る。

 土がむき出しの坂道、チョウはホンスーの手を取り、転ばないように気遣って、ホンスーはチョウの顔を見上げ、あれこれ話

しかけて談笑を続け…。

 朗らかな声と会話が途切れたのは、三十分ほど歩いた後。村の入り口の支柱が見えた所での事だった。

 静かだった。元々騒々しくはない村だが、落ち着く静けさとは別種の静寂に、チョウはすぐさま気付いた。

 ひとの声どころか家畜の声すらない。鶏の声やら子供の声やら、生活雑音までもが一切聞こえない。気味が悪い静けさである。

「ホンスー君、ちょっと待っててくれ」

 レッサーパンダの子も違和感に気付いたのか、不安げに顔を曇らせていたが、猪は傍の桃の木の影に荷物を置き、ホンスーを

茂みに隠れさせると、まだ湿っているズボンに脚を通し、目についた太い枯れ枝を二本拾い上げて両手に握り締め、身を隠しな

がら村へ近付いた。

 そしてチョウは、自分が抱いた違和感が正しかった事を、村に入ってすぐ知った。

 ひとっこ一人居なかった。

 家畜も、犬も、居なくなっていた。

 畑に出ている者も、道を歩いている者も、家の前で談笑している者も、一人として居なかった。

「…親父?お袋?」

 もぬけの殻になった村の中、チョウは自宅の入り口に立ち、中へ踏み込む。

 居間には誰も居なかった。まだ熱い茶が入ったままの湯飲みだけが、まるで見えなくなった家族がまだそこに居るかのように、

湯気を立てていた。

 

 カナデが火にかけて、ラーメンを茹でている鉄鍋を見つめながら、ホンスーは思い出していた。

(あの町も…、同じケースだとしたら、手掛かりが掴めるチャンスだったのに…)

 あの日…。村からひとも家畜も消え去った、十二年前のあの日…。日が暮れるまで周りを探し回った後、猪は鍋を火にかけて

粥を作った。静かな、誰も居ない村の、無人になった彼の家で。

 チョウの連絡を受けて軍が駆け付け、保護されるまでの丸一日、ホンスーはずっと泣いていた。

 最初は訳が分からなかったのだが、不安になって、寂しくなって、居なくなった皆ともう会えないのかもしれないと考えたら、

涙が止まらなくなった。

 両親を喪ったホンスーはまだ子供だったので、引き取られて養育された。

 チョウは軍に戻ったが、せっかく手に入れた上級将校養育コースの切符も士官試験も辞退し、エリート士官としての道を蹴る

格好で現場配備を希望した。

 故郷の村は無人のまま、花木に埋もれて行った。

 チョウの態度が変化したのはいつからだったろうかと、ホンスーは記憶を辿る。

 はっきり何時だとは断定できなかったが、少なくとも、大きくなってから…軍人を志す事を決めた頃には、態度が素っ気なく

なっていたような気がする。いよいよ本腰を入れ打ち込み始めた頃には、勉強や心構えなどについてアドバイスを貰おうと頼っ

ても、チョウは冷たくあしらうようになっていた。

 人が変わったように冷たくなり、同じ部隊に配備されても気に掛けるどころか、厳しい言葉を投げつけられる事が多かった。

 理由には、心当たりがあった。

 あの日、里帰りしてきた猪を誘って釣りに出掛けたから、自分は助かった。そうでなければ他の村人と同じように消えていた。

その客観的な事実を認識しながら、レッサーパンダは知っている。

 チョウは、そう考えてはいない。

 あの日、自分が村に留まっていれば、助けられた者が居たかもしれない。…彼がそう思っている事を、ホンスーは知っている。

 恨まれているのだろうと思う。憎まれているのだろうと思う。

 父母を、親類を、友を、仲間を、故郷を、守る事ができなかった。その場に居合わせられなかった。軍人として無念だろう。

(その原因であるボクを、チョウお兄ちゃんはきっと…)

 ホンスーが軍人を志した動機は、憧れでもなければ、復讐ですらない。

 故郷への、同胞への、償いである。

「元気ないネ。傷が痛むかナ?」

 ハッと顔を上げたホンスーは、カナデに「大丈夫です」と首を振って応じた。

 民間人に不調を気遣われるような軍人…。これではチョウが情けなく思うのも、連隊長が不安視するのも当然だと、胸中で深

く落ち込む。

 チョウとは対照的に、ホンスーは軍人としても兵士としても、優秀とは言い難かった。

 身軽で活発な子供だったが、その程度の事は鍛えた兵士の体力的にはアドバンテージにもならなかった。むしろ重い荷物を所

持しての行軍などでは力の無さが欠点となった。頭も悪くは無かったのだが、エリートが多い中では平凡なレベル。現場判断力

に至っては、落ち着きの無さがマイナスになって標準以下という評価。

 軍人には向いていない。他の兵の邪魔にもなる。諦めて故郷に帰れ。

 そんな、かつてチョウから投げかけられた叱責混じりの厳しい言葉が思い出されて、落ち込んでいる心をチクチク刺す。

「じゃあお腹減ったんだ。カナデ、もう少し?」

 狐の娘が無邪気に口を挟み、狸が「ほんのちょっとの辛抱だよ」と笑って返す。

 和やかなやりとりと、話題がそれた事で少し救われた気になり、ホンスーは口元を綻ばせた。その直後…。

「おい」

 囲いになっている岩の一枚を乗り越え、ザシッと大きな足音を立てて着地したシャチは、洞窟に向かって顎をしゃくった。

「飯はお預け、出発準備だァ。身元が判るようなモンは残すな。急げよォ」

 前置きもなく唐突に話を始めたシャチの態度で、カナデは急を察して立ち上がると、焚火に土を蹴りかけて緊急消火に移る。

「何が起きたんだよ?」

 反論もせず火の始末に取り掛かりながら問うカナデに、洞窟内へ荷物を取りに駆け込むシャチが答える。「団体さんのお出ま

しだぜェ」と。

「数は4~50ってトコだァ。距離は1万2~3千ってトコ、ジョギングペースだが真っすぐ向かって来る。そこの軍人を襲っ

てたヤツと同じだぜェ。正気じゃねェなァありゃァ。誰か手伝え、爺さんの袋も担ぎ出すぜェ」

「余裕ないナ!ごめんネ最後のラーメン!」

 謝りながら鍋をひっくり返し、土を被せた上へさらに被せて完全に消火する狸。

 武装の種類と腕にもよるが、相手が携行型火器のみの場合でも、カナデは4キロ以内は危険エリアと見なす。単純な武器の射

程だけを問題視しているのではない。姿を視認され、追跡を振り切る事が難しくなるのが4キロ。特に相手の足がこちらより早

い場合、平地で4キロ以下まで距離を縮められるのは致命的である。距離12~3キロで、体力十分な兵士、かつ真っすぐに向

かって来るならば、子供と老人と怪我人も居るこちらは、さほど余裕がある状況ではないと考える。

「お爺ちゃんはどうしてるんだよ!?」

「双眼鏡で動きを見張って貰ってるぜェ」

 シャチの報告は部分的に嘘。何せシャチもルーウーも機器に頼らず地平線まで視認できるのだから。そもそも巨漢が持ち歩い

ている双眼鏡は、その異常さを周囲に悟らせないためのフェイクアイテムである。

 加えて言うと、ルーウーはただ単に見張っているだけではないのだが、それは説明する訳に行かない事なので、シャチはあえ

て黙っておいた。

「ボ、ボクも荷物を纏めます!」

 ホンスーは蒼褪めながら、シャチと共に洞窟へ駆け込んだ。そこへ巨漢は冗談混じりに、

「オメェ、まさか本隊から命狙われてたりしねェよなァ?グフフ!」

 と不謹慎に声をかけた。

「実は自分でも気づいてねェ内に何かヤベェ軍事機密とか知って狙われてるとか、そんなサスペンス映画みてェなオチじゃねェ

よなァ?グフフフ!」

「え?」

 レッサーパンダは少し考えて…。

「いえ、そん…………………。まさか!?」

 否定し切れないホンスー。

「ウソだろおいマジかァ?」

 返答に詰まったレッサーパンダをマジマジと見つめるシャチ。

「い、いや、その、あのっ…!心当たりはないっていうか自分ではないとは思うんですけど絶対ないとも言い切れないっていう

かその…どどどどどっどっどうしよう!?何かヤッチャッター!?」

 心当たりがあるから否定できないのではなく、何も知らないから否定できない。頭を抱えて塞ぎ込むレッサーパンダ。

「落ち着け馬鹿野郎ォ!で、狙われるかもしれねェ理由は?だいたい判らなくても構わねェからちょろっと判る範囲でだァ!」

 あまりにも頼りないので思わず声を大きくするシャチ、この男にしては少々珍しい態度である。そして要求内容がかなり雑。

「え…と…!バグ…的な!?」

「バグゥ?」

 ホンスーは、しまった、といった様子で口を噤む。しかしシャチは追及のタイミングだと見て取った。荷物を纏める手を止め、

顔を真っ直ぐ向けてレッサーパンダを見据える。

「状況が状況だァ、少しは話せよ軍人。ありゃ何だァ?あんな人形みてェな兵士、普通じゃねェだろォ?」

 まだ試験段階の秘密の作戦。そもそもホンスーも全てを知らされてもいない。何処まで話せるか、そもそも話していいのか、

悩むレッサーパンダだったが…。

「連中はこっちを殺さねェ…。そんな確信があるなら黙ってても構わねェがなァ?」

 その言葉に背を押された。彼らの生死を自分の発言が左右するとなれば、黙ってはいられなかった。

「…彼らは、強化された兵士です…。投薬とかで恐怖とかそういう動きが鈍るような感情を弱めて、どんな状況でも冷静に対処

できて、体力も並の兵士を遥かに上回る兵士…のはず…、だったのに…」

 ホンスーの説明を聞いたシャチは、その情報が正しくない事を察している。

(強化兵じゃなく僵尸兵。人為的に死体に近い状態にした兵士なんだがなァ…)

 ホンスーが嘘をついていない事は伺えた。新米士官である彼が真実を知らされておらず、建前の説明を聞いているのだろうと

考えると、異なる角度から状況の新たな一面が見えて来る。

(おそらくだが、こっちで警戒してたほど計画は進んじゃいねェ。僵尸兵はようやく試験運用に入ったばかり、軍の中でもまだ

大半には正式な説明が回ってねェって訳だァ。ま、非人道的だしなァ。…グフ…。グフフフフ…!)

 シャチは口の端を歪ませて笑う。

 ここまでは接触や戦闘を避け、昨夜も兵士を殺害しなかったシャチだが、これは倫理観と慈悲に基づく物…では勿論ない。

 統制の取れた中国軍は、混戦時でもないのに部隊一つ兵隊独り音信不通になれば、当然対処する。こうなると、例えシャチが

自分の正体を隠し通せたとしても「何者かが介入した」という情報と疑惑は残る。そしてその情報は、「国外の何者かが仙人を

狙っているかもしれない」という疑念を軍に抱かせる可能性が高い。

 その価値を正確に把握できている者は少ないが、優れた仙人は、ラグナロクが入手したい最上級の遺物…バベルにも匹敵する

価値がある。

 例え死体だったとしても、その肉体だけでも価値が高い。それはひとのステージからかけ離れた高みを体現した、秘匿事項関

連情報の塊。国家間のパワーバランスも変えてしまう。

 そんな存在だからこそ、中国政府が仙人について嗅ぎ回る何者かが潜り込んでいると確信した場合、その警戒レベルの上昇と

行動は想像するまでもない。

 ラグナロク側としては、元々見込みが薄い仙人確保の失敗より、警戒を強めさせる事の方が痛手。特にシャチ個人としては既

に「任務の完遂は諦めている」ので、プラスを稼ぐのではなくマイナスを生まない事が肝心である。

 故に、慎重に秘密裏に行動しなければならなかったのだが、少々状況は変わった。

 僵尸兵が試験運用段階で、不具合による暴走…同士討ちも起こし得るとなれば…。

(グフフフ…!ついてるぜェ!暴走の末に同士討ちしたって筋書きで偽装すれば、殺してもいいなァ!)

 乱暴な手で活路を開く事は可能だと、シャチは行動方針を一部修正する。選択肢の自由度が大幅に上がったので、カナデの目

に気をつけつつ邪魔者を排除する格好で安全を確保できるようになった。

「それで、連中はそのオクスリで強化されてるんだろうが、その投薬の不具合で狂ったって訳かァ?」

 シャチは方針を固めつつ、他に得られる情報はないかと考え、ホンスーにかまをかけた。

「いえ、違うんじゃないかと…。あの特殊兵達は、ひとより優れた感覚で捜索ができるんですけど…、でもそのまだ研究中の技

術だかなんだかっていう話で、安定性を疑問視してる上官も居て…。感覚が鋭くなったのに心は鈍感になってるから?ちょっと

齟齬があったりして、普通じゃない異常行動が見られるっていう噂も…。よく知らないんだからあんまり悪く言うべきじゃない

ですけど…」

「それで「バグ」…かァ、なるほどなァ…」

 シャチは荷物を手早く纏めつつ思案する。

 彼の組織でも自動的な兵士の生産は行われている。感情が殆どなく、故にどのような戦場でもストレスを受けず、死も恐れな

いので作戦行動に淀みがない。

 しかし、それは「数の戦争」での主力にはなり得ても、デリケートな作戦には投入し辛い。その能力と性格故に単独行動を好

むシャチも一応は指揮する立場を与えられているので、選択肢にそれらを加えられる事もあるのだが、完全には信用しないよう

にしている。

 機械に近い思考エンジンを積んだ者は、機械同様に突然不具合を起こす事がある。「万が一」が「最悪のタイミング」で起こ

る確率は低くても、これを無視する事はできない。

(たぶん、連中はキャッチした信号で狂ったんだろうぜェ。グフフフフ!)

 シャチは気付いている。軍は仙人を探しており、僵尸兵はその探索装置でもあると。そして僵尸兵が異常をきたした原因は、

まさにその「センサー」と、「嗅ぎつけた対象」にあると看破した。太陽を直視した目が焼けるように、強い反応で分析機能が

焼き切れた。それが故障原因とみて間違いないと…。

(グフフフフフ!とんだ不良品だぜェ。先進国政府連合軍がワールドセーバー探知兵士を造って、悉くダメにした案件とほぼ一

緒じゃねェかァ?人類史上最悪の天才様も言ったそうじゃねェかァ、そもそものコンセプトに無理がある、ってよォ。ひとの脳

みそをベースにセンサーを増築なんかしたら、キャッチした信号の情報量によっちゃァ、一発でオーバーフローだァ!)

 そしてシャチは情報と状況の整理を完了した。

 僵尸兵はやはり、ルーウーの痕跡か反応か、何かを察知して追ってきた。しかも今は本隊が手綱を握れていない状況にあると

思える。兵器の暴走は避けたい事故のワースト3に入るお馴染みの物、本隊が壊滅さえしていないなら、すぐさま事態の収拾に

動くはず。となれば…。

(とっとと断つに限るぜェ…。グフ…!)

 

 その頃、ルーウーは胸の前で両手を合わせ、地平線を半眼で眺めていた。

 次第に平原に霧が漂い始め、視界を制限するが、それを裂いて銃弾が数発、老虎の周辺で岩に当たる。

 しかしそれらが音を立てる事はない。岩を欠けさせながらも、ライフル弾は無音映像のように静かに潰れ、弾け、落ちる。

 如何なる現象によるものか、散発的に届く銃弾は、的が大きい老虎の体には一発も当たらない。そう定められているかのよう

にルーウーから少し離れた位置を通過し、必ず岩に当たっている。皆を動揺させないよう着弾音を消している剣牙虎は、間違っ

ても自分の後方に銃弾が行かないよう、この場を守る壁となっていた。

 銃撃そのものに恐れを抱かない老虎は、しかし狙撃して来る側が、普通の兵士とは段違いの腕だと認識してもいる。

 アサルトライフルの有効射程を遥かに上回る狙撃…、これを走りながら行えるのだから、僵尸兵は基本性能が極めて高い兵器

と言える。肉体的には殆どひとのままでも、それを管理運用する機能面が強化され、驚異的な精度と持久力を得られた。この二

点を活かせば、ひとを相手にする銃撃戦であれば、自分達の十倍の頭数からなる部隊をも相手にできるだろう。

 しかし、これはもう本来あるべきひとの進歩から、大きく外れつつある。

 心。曖昧で不安定で下らなく数値化もできない物と見られがちな、しかし人を人たらしめている不可欠な要素。この絶対的な

欠落は、ひとの進歩にはあってはならない方向性…。

―全ては 四凶四罪の 責… ひいては 我らが 責也…―

 やがて、後方から「いいぜェ!」とシャチの声が響くと、ルーウーはゆったりと裾を翻して洞窟入り口前へ戻り…。

 

 

 

 息を切らせて坂道を登る。切り立った岩肌を剥き出しにした、牙のように鋭い岩山が無数に連なる山岳地帯入り口付近、カナ

デは岩山の隙間を縫う見通しの悪い道を時折振り返り、平地まで直線で見る事ができなくなった事を確認した。

(逃げるに具合のいい場所だよ。あとは、ジョンが上手くまいて無事に戻れればいいけどネ…)

 ここへ案内し、先頭をゆくルーウーは、大柄で太った体にも関わらず、石ころが転がり雑草が茂る歩き難い坂を、ヒョイヒョ

イと身軽に登ってゆく。

 そのすぐ後ろに続くチーニュイも飛ぶように軽やかな足取りで、息も乱していない。

 最後尾のカナデは、そんなふたりから遅れがちなレッサーパンダの背中に片手を当てて軽く押し、登るのを手助けする。

「す、すみま、せん…!」

 腕の傷に響くので、痛みのせいで歩行バランスが悪くなり、疲労し易くなってしまう。息が上がっているホンスーは、軍人が

一般人より疲弊している事を恥じる。しかも今は、その一般人のひとりが僵尸兵の陽動を買って出ているのだから、忸怩たる思

いがある。

 勿論反対はした。だが、この中で最も体力があって足が速いのはシャチである事、そしてこれ以上に効果的な代案が出せない

事を理由に、ホンスーは説き伏せられてしまった。

 根性論や責任感でどうこうなるような問題ではない。自分が命を懸けて足止めした所で数分も稼げず、自己満足の無駄死にに

終わる事は判っている。それでも…。

(情けない…!)

 歯を食い縛る。連隊長ならどうにかできるのだろう。その副官も何か思いつくだろう。しかし自分は、この差し迫った状況で

も無力で…。

「万が一、囲まれた時は…」

 背を押すカナデの言葉が耳を打つ。

「僕達は、君に頼むしかないよ」

「えっ?ど、どういう…」

「これで囲まれたらお手上げだから、君に交渉をお願いするしかないんだよ。話が通じると期待してネ。ジョンはきっとそれも

見越してあの案を出したんだよ。自分一人なら危なくなった場合も逃げ切る自信がある。けれどこっちはそうでもない。だから、

「最後の切り札」として君を僕達に付けたんだよ」

「………!」

 カナデの言葉でホンスーはキュッと口を引き結んだ。昨夜出会ったばかりなのに、このひとはどうして、自分が本当に望んで

いる事が判っているように、己でも気付いていなかった「欲しい言葉」を言えるのだろう、と。

 最後の砦。最終防壁。その役目が自分には残っている。情けないだとか考える前に、その時に備えて覚悟を決めるべき。ホン

スーに今必要だったのは、自虐で消費する心のエネルギーを、前へ進むための気構えに回す事だった。

 ペースが上がったホンスーについてゆきながら、カナデは丸い耳を後方に向け、奥歯を噛み締める。

(ジョン…!)

 銃声が、遠く聞こえた。

 「適材適所」には時に犠牲が伴う。カナデはこの哀しい現実を嫌というほど味わってきた。今は、自分が彼を犠牲にしたので

はない事を祈るばかり…。

 

 無表情な兵士が、どっと地面に横たわる。目の下に赤黒い穴を穿たれ、絶命の瞬間にも表情を変えずに。

 発砲したライフルは同じ服装の別の兵士が構えている。が、その兵士は頭部を真横に貫通する銃撃を受けて既に死んでおり、

死体になってなお倒れる事を許されず、後ろから支えられて銃を握られ、発砲させられていた。

 見通しの悪い谷底のような山道、その入り組んだ坂道はにわかに沸き上がった白い霧に包まれ、視界が著しく制限されていた。

 その煙雲に紛れ、シャチは口の端を吊り上げてギラギラと目を光らせる。

「グフフ…!」

 シャチは死体になった僵尸兵を後ろから支え、鬼気迫る笑みを浮かべていた。直後、前方から銃撃が浴びせられるが、盾にし

た死体をふたり並んで発砲する僵尸兵めがけて突き飛ばし、素早く横に跳んで自分に銃を向けている兵士に組み付き、腰の拳銃

を奪って顎に突きつけ…。

 パウン。

 頭部を上下に貫通する銃撃で即死させたシャチは、その手からライフルを奪って振り向きざまに掃射、数名の足を撃って転ば

せると、往復させた銃撃で頭部から背面をハチの巣にする。

 シャチは僵尸兵達を片っ端から確実に仕留め、動く骸から物言わぬ骸へ変えてゆく。能力は使用せず、怪力に物を言わせた肉

弾戦も行なわず、奪った銃器を活用し、敵兵の土俵である近代銃撃戦で。

 シャチにしてみれば一種の縛りプレイだが、それでもなお、新機軸の兵力として期待されて生み出された僵尸兵部隊は、なす

術もなく蹂躙される。

「グフフフフ…!」

 含み笑いを漏らしながら、鯱の巨漢は丁寧に、確実に、僵尸兵達を殺してゆく。

 その笑みは快楽に由来する物ではない。不快であるが故の、怒りと嫌悪に由来する笑みだった。

 シャチは、僵尸兵計画という物の存在を一年近く前に報告書で読んだ時点から、これを不快に感じていた。手強いだとか、面

倒だとか、そういった理由からではなく、単に気に入らなかった。

 兵士には、戦場に立つ者には、必ず「背景」がある。

 金のため。家族のため。国のため。理想のため。出世のため。友のため。復讐のため。趣味のため。大義のため。敗北したた

め。環境で仕方なかったため。流れで何となく…。

 そんな、百人百種の理由が、動機が、経緯が、戦場に立つ者には背景として存在する。

 だから嫌悪する。

 だからこそシャチは、僵尸兵を強烈に嫌悪する。

 戦場に赴く誰もが平等に持っているはずのバックボーンを剥奪し、不平も言わず望みも持たない量産品に貶める僵尸兵計画を、

シャチ・ウェイブスナッチャーは腹の底から嫌悪する。

 それは、それでは、そんな事では、兵器で在るよう造られた自分達よりも、よほど、よっぽど、酷い成り立ちではないか?

 望むと望まざると、出来上がった時から「こう」ならば仕方がない。例え本人の意図に反して兵器に仕立てられようと、己の

意思が残るなら生き方も死に方も多少は選べる。

 だが、全てを剥奪してまっさらで何もない兵器に造り変える所業は、シャチの極めて個人的な価値観では「下の下」である。

 こんな事を必要とする世界であれば、存続に値しない。

 怒りと不快さから含み笑いを漏らし続けるシャチは、速やかに、丁寧に、背景を剥奪されて薄っぺらい消耗品に変えられてし

まった者達を、骸に変えてゆき…。

 戦闘は、五分も必要なかった。

 ルーウーは逃走経路として適しているだけでなく、シャチが戦い易い場所を提供してくれた。見失わずに追跡してきた四十余

りの僵尸兵は、見晴らしの悪い立地と、図ったように立ち込めた霧を活用したシャチの手で始末され、同士討ちに見せかける偽

装工作を施される。

(これで良…ん?)

 足跡の処理を完了したシャチは、呼吸を止め、足音を忍ばせ、そっとその場から距離を取る。そして、可能な限り離れて現場

を監視した。

 程なく、霧の中から歩み出たのは、巨漢のシャチと同等以上の巨躯。

 身長2メートル近いジャイアントパンダ。

 大兵肥満。隻眼。軍服姿。両腰に長剣を吊るす。

 足音は殆どなく、動作は緩やか、かつ隙が全く無い。

 そこまで確認したシャチは、距離も近すぎるので非常にまずいと、呼吸どころか心拍含めた体内活動まで一時的に停止させた。

(軍の特殊将校…。資料で見た覚えがあるぜェ…。確か八卦将、「震将ユェイン」…)

 他国であれば、「サー」、「ファンタジスタ」、「神将」、「コンキスタドール」、あるいは「アドミラル」など、専用の呼

称を用いられる国就きの特殊な存在。この国では歴代その席を八つ設け、その座についている者を「八卦将(はっけしょう)」

と呼ぶ。

 シャチが視認したのは、正にその当代の八卦将のひとりに他ならない。ラグナロクが要注意リストに載せている「戦略兵器級

能力者(ユニバーサルステージクラス)」である。

 肌がヒリつく。神経がトガる。兵器として人為的な手を加えられていてもなお、シャチの本質は戦士であり捕食者。故に、機

械には判らない物を本能で察知する。

 直感していた。「アレは厄ネタだ」と。全力でやりあって勝てるかどうか…、そんなレベルだと危険度を判定する。

 生体反応を可能な範囲内全てでダウンさせたシャチは、その辺りの自然物同様の気配となる。直接視認でもされなければやり

過ごせると踏んだが、万が一の場合には交戦込みでの緊急離脱も覚悟した。

 ジャイアントパンダは僵尸兵達の死体を見下ろしながら、足を止めずに確認する。その視線と首の動きから、殺害者と加害者

の位置関係などまで確認している事が察せられた。

(手間かけて偽装して正解だったぜェ…)

 全ての殺害には矛盾が生じないよう工作してある。最後の一人となった僵尸兵は、腕を取って自分の頭に銃口を向けて発砲さ

せ、自殺を偽装した。しかし…。

「…私だ」

 コールがあって通信機を取ったユェインは、副官からの報告を受ける。

 僵尸兵の一部は団体行動しておらず、散った方には機動力のある少数チームを複数追跡にあてて位置の把握と監視を進めてい

た。ユェインが多数の塊となった側を追う方に加わったので、副官の猪は状況把握と情報共有のため、そちらの追跡チームを統

括する前線指揮部隊に同行している。

「なるほど、三方向に移動とは厄介だな…。当面はそのまま追跡を続行し、手が回せるところから捕縛、あるいは鎮圧せよ。…

時に上尉」

『何でしょう?』

「こちらの状況を伝え、その上で意見を聞きたいのだが、少し良いかな?」

『本官に判るような事でしょうか?』

「君で判らんなら私にも部隊の誰にも判るはずもないから、すっぱり諦めもつく」

『持ち上げても何も出ませんよ。それで、どういった状況ですか?』

「実は今、私は追跡してきた僵尸兵の集団を見つけたのだが…」

 銃声を聞きつけ、戦闘を確信し、様子を見に単独で接近した。そうして今見ている現場をユェインはチョウに伝える。猪は聞

き終えた後で…。

『またホイホイ一人で突出なさった件については申し上げたい事が一つ二つございますが、今お聞きになりたいのはそういった

話ではないでしょうから、手短に』

 チクリと刺されたユェインが「むぅ」と唸る。そうする必要がある場合はチョウも単独行動を咎めないのだが、当然ながら副

官という立場上、腰の軽い上校に小言の一つや二つも言いたくなる。

『結論から言えば、どちらにせよ仙人ではないでしょう。何にしても歓迎できる状況ではありません』

「同感だな。とりあえず今はその結論だけ聞ければ十分だ」

『はい。詳しくは後程…。くれぐれもお気をつけて』

 ユェインは通信を切ると、周囲を一瞥してから再び通信機を顔に寄せ、後方で待機させていた部隊を呼び寄せる。

 その隙にシャチは機能を復帰させ、慎重にその場を離れた。

(バレちゃいねェが、アイツ、疑ってやがるなァ…)

 シャチの予測は当たっている。

 偽装は完璧だったが、ユェインは勘レベルで引っかかりを覚え、現場の状態を副官へ客観的に説明していた。そしてそれを聞

いたチョウは「どちらにせよ」仙人ではないと発言している。これは、ユェイン自身も見たままの状況を疑っている事を察して

の回答である。

 これが同士討ちであれば、勿論仙人の仕業ではなくただの自滅。暴走の原因はともかくとして、今その場に仙人は居ない。

 そして、同士討ちが偽装された物だった場合だが、これも仙人の仕業ではない。彼らはそんな面倒な事をする必要が無い。

 意見を求められたチョウの返答は、これらについて断言する物。これで気を抜くようであれば、シャチにとっては遣り易い相

手なのだが…、そうではなかった。

 もしも偽装だった場合、僵尸兵達が遭遇したのは「彼らを手玉に取れて、なおかつ仙人ではない何か」であり、その正体を隠

したがっている。仙人でなくとも警戒を要する手合いである事は確実だからこそ、チョウは「何にしても」歓迎できる状況では

ないとした上で、お気をつけてと忠言を添えた。通信の傍受や盗み聞きされているおそれも考慮し、ぼかした言い方に終始して。

(さて…。チョウがああまで注意を促す以上、遺憾な事に私の気のせいではない可能性があるな…)

 ユェインは何者かが近くに潜んでおり、襲撃の機会を窺っている可能性も頭に入れたまま、改めて隻眼を周囲に巡らせた。

 第三者の存在を警戒しながら僵尸兵達の死体を見回すと、やはりどの僵尸兵も額の金属片が毒々しく濁っている。これは先に

確認したのと同じ変化だった。

(仙人の痕跡に反応したまでは良いが、捉えた仙気の影響で不調をきたしたと見るべきだろう。これでは、周囲に被害を撒き散

らしながら目標に向かう追尾ミサイルだ。散った僵尸兵達を追った各隊が取りこぼさないよう、改めて通達しなければ…)

 現在の優先事項は暴走した僵尸兵の鎮圧なので、居るかどうか定かではない第三者について捜索の労力を割く真似はしないが、

ユェインは、僵尸兵達が目指したこの先に何があるのか考える。

(仙人…か?それとも…)

 ジャイアントパンダの隻眼が思案の色に染まり、やがて軽く眉が上がった。

(…僵尸兵の数が…、減っている…?)

 数え直してみたが、発見報告を受けた時の数とは合わない。数え間違いか、それとも途中ではぐれた者があったのか、照合を

待たなければ確実な事は言えないが…。

 

 三時間ほど荒涼とした景色の中を進んだ先。風化して崩れ落ちたのだろう岩塊が絶壁の下に折り重なった、見通しの悪い位置

で、カナデは岩陰に屈んでじっとしていた。

 ルーウーに勧められた合流地点、何事も無ければシャチが合流してくるはずの場所。他の三人はもう少し先に進んだ場所で待

たせてある。

 運良く霧が出てきたが、シャチの到着が予想よりも遅い。谷間から見上げる空の明るさを確認しながら、カナデは待つ。

 やがて、大狸はポケットに手を突っ込んだ。護身用のスタンガンを握り、微かに聞こえた音に耳を澄ませる。

 しかし、その緊張は程なく緩んだ。

 聞こえたのは足音。隠す気の無い大股な足取り。察せられる体重は重い。

「居るかァ?グフフ!」

 先に感知したシャチが声をかけると、カナデは岩陰から立ち上がって姿を見せた。

「無事だネ?」

「お?心配したかァ?グフフフフ!」

「それはするよ!当たり前にネ…」

 心底安堵しているカナデの表情を見たシャチは、きょとんと驚いているような、それでいて何か物言いたげでもあるような、

何とも言えない顔で目を丸くし、何か考えるように視線を上に向け、ポリッ…、と人差し指で頬を掻く。

 だが、すぐにいつも通りのふてぶてしい表情に戻ると、「グフ!」と短く含み笑いを漏らした。

「なら無事に戻った所でお疲れさんの一発…」

「は置いといて、どうなったんだよ?」

「つれねェなァ…」

 気持ちも話も纏めてスッパリ切り替えるカナデ。アテが外れたと言いたげに半眼になるシャチ。

「連中は完全にまいたぜェ、もう追って来ねェよ」

 確信に満ちたその言葉を信じ、カナデは顎を引いた。途端に、太鼓腹がキュ~…と鳴って…。

「…う…。歩き通しの動き遠しだったよ…。流石にそろそろ何か口に入れないと、僕も皆ももたないナ…」

「グフフフフ!そういや夕べは徹夜で、今日は飯もろくに食ってねェなァ!慌ただしいぜェまったく!」

 ふたりは並んで歩き出しながら、心許ない互いの携帯食について情報交換した。