漂泊の仙人と煙雲の少女(七)

 雨が降っている。

 強く、強く、大地に打ち付けるそれで、男は磔にされているように伏したまま起き上がれない。

 ごひゅ、ごぽ、と喉が鳴る。うつ伏せで地に這う男の肺は圧迫され、込み上げる血で息が血泡を作り、喉がゴロゴロ鳴る。

(ヨン大隊長…。リーミン…。皆は…)

 左の眼球が垂直に断たれ、半分になった視界。地面すれすれの低い視野。逞しい黒腕はしかし、失血と傷の痛みで震え、力が

入らず、這いずるのもままならない。

 脚が見えた。脛から足首までの、ブツ切りになったひとの脚が。泥にまみれたズボンに覆われ、割る前の薪のように転がるそ

れは、友の誰かの物。そしてその向こうには、顔を下に向けて泥に埋もれさせた生首…。

「ぐ、ううう…!」

 怒りに唸る。伸ばした手が指先で泥を掻く。

(仙人め…!)

 全滅だった。七十名規模の部隊も、救いたかった町も。

 動いている者は誰も居ない。それどころか、ひとの形を留めている者が少ない。どの死体も、鋭利な爪で蹂躙されたようにズ

タズタで、切断された部位があちこちに散らばっている。叩きつけられた雨粒が砕け、煙霧となって地面付近に漂う豪雨の中で

も、臓腑と鮮血の臭いはむせ返りそうなほどだった。

 かろうじて息がある者も他に四人残っているが、それも死にゆく時を待つばかりの、致命傷を負って動けない状態。

 そう、この若いジャイアントパンダと同じように。

「ゲフッ…、ゲボッ…!」

 咳込んだ瞬間に、ドロリと喉の奥から血がせり上がり、口内を満たした。

 右の脇の下に生じた裂傷は、胴体の右側から四分の一にも達している。あばら骨を纏めて断ち、片方の肺を半ば切断するほど

の、生きているのが不思議なほどの深手である。

 それでも、ジャイアントパンダはかろうじて動く左腕で、前へ這う。

 隻眼が見つめるのは通信兵。胸部から上を失って座り込んでいる。

 彼が背負ったザックの中で、通信機は無事かもしれない。

 もしかしたら、助けを呼ぶ事ができるかもしれない。

 まだ生きている仲間を助けられるかもしれない。

 その、「かもしれない」に賭けて若者は這いずった。それが不確かである事など、止める理由にならなかった。体から命が流

れ出てゆくのも顧みず、泥土の上を這い進んだ。

 あと1メートル。もうすぐ手が届く。かろうじて喋れる内に手が届く。感覚が失せかけ、冷え切った腕が、雨の勢いで地面に

押し付けられる。

 その眼前で、ぬかるんだ大地を踏む足があった。

 血まみれの顔を起こす。雷が走る曇天を背に、その男は立っていた。

 古い時代の文官が纏っていたような、漢服様式のゆったりした着物。長い牙が左だけ覗いた口元。淡い浅黄色の被毛に走る黒

い縞模様。

(仙…人…!)

 黒雲の影に染められた中で、瞳が鬼火のように青白く発光している老虎の顔を、ユェインは歯ぎしりしながら睨み上げた。

 

 

 

 顔を起こす。

 折り畳み式の椅子は窮屈で、骨組みが尻の左右に食い込むが、それでも一時微睡んだらしいと、ユェインは腕時計を確認した。

 荒涼とした山間の坂道で、部下達が僵尸兵の死体を確認している間の待ち時間。意識が飛んでいたのは三分程度だろうが、遠

い日の記憶をまざまざと追体験させられるような夢を見た。

 普段は気を配っている副官が居ないので、天幕なども用意させず、日があたる場所に陣取って座るだけで休憩していたユェイ

ンは、夢の内容を思い出しながら自問した。

 疲れているのか、それとも神経が昂っているのか、あるいは…。

(無意識に、仙気を捉えて記憶を刺激されたのか…)

 あの頃の夢を見る事など珍しいと、少し感慨深くなる。

 討仙特務大隊。若かりし頃に所属した特殊部隊。既に解体され、生き残りはユェインただひとりとなってしまったが…。

 短時間とはいえ脳をリフレッシュさせられたユェインは、現状を再確認する事で意識をはっきりさせる事にした。

 一つ。間違いなく仙人が近くに存在する。

 二つ。もしかしたら腕が立つ第三者が潜伏しているかもしれない。

 三つ。散った僵尸兵の方を追わせた各部隊は、まだ捕えきれていない。

 四つ。死体が確認できなかったホンスーの行方は、未だ判らない。

(案外、無線機が壊れるなどして連絡が取れないだけで、ピンピンしているのかもしれないが…)

 そうだったら良いなという希望的推測は早々に中断し、ジャイアントパンダは腰を上げた。

「連隊長、お疲れのようですが、助手にお茶を用意させましょうか?」

 初老の羊…従軍医師が歩み寄りながらそう声をかけると、ユェインは「いやホウ先生、お気遣いなく」と目を細めた。

 この医者は連隊の…というよりも、今回試験運用している僵尸兵の観察についての医学的アドバイザー役でもあり、衛生兵部

門の客分でもある。軍人ではないが従軍経験豊富で、一般には公にしていない軍内の事柄についても熟知しているので、軍にも

ユェイン個人にも重宝されている。

「ホウ先生も、検死までは休んでおいて下さい。引っ張り回す事になって申し訳ありませんが…」

「構いません。見合うだけの報酬は頂いておりますから。特別手当てがつくならもっと引っ張り回して頂いても構いませんよ?」

 ウインクした医師の冗談に、ユェインは口の端を少し上げて目を細める。

「しかし連隊長も丈夫でいらっしゃる。他の皆さんは交代制で休んでいるというのに、貴方だけは昨夜から働きっぱなしですね。

しかし長い任務、お疲れもそれ以外もそろそろ溜まっているのでは?」

「体力と気力が私の取り柄ですから。…失礼」

 個体の称号に当たっていた下士官が小走りに駆け寄って来るのを見て、ユェインは雑談を中断し、迎えるように歩み寄る。

「ご苦労。照合は?」

「二名足りません…」

 小声で言い交わしたふたりは、じっと互いの目を見つめた。

「…この場の処理を頼む。私は…」

 ジャイアントパンダは曲りくねって続く坂道を見遣った。

「少し、離れる…」

 

「ご飯だ!必要だ!食べなきゃ死ぬんだから!」

 合流し、かなり歩き、そろそろ安全だと聞いた途端にチーニュイはそう主張した。自分も空腹だが、目に見えて皆の疲労が溜

まっている事を狐の娘は察している。

 既に日が中天を過ぎてしばし経つ。なるべく離れたいのはやまやまだが、このまま無理は続けられない。

「もうラーメン無いネ…。何か材料あるかナ?」

 移動するにせよ何にせよ食事は必要だと同意するカナデに、ルーウーは大きな袋からいくつかの包みなどを取り出して見せた。

昨夜、無人の町で「購入」させて貰った食材である。

「良かった。携帯食料はいくらかあるけど、人数分にはちょっと足りなかったからネ」

「じゃあ俺様は水汲みでもしてくるか。ついでに見回りもなァ」

「それならボクも同行します!」

 シャチの言葉尻に被せたホンスーは、決意の目で巨漢を見上げる。

「さっきは役に立てませんでしたけど、見回りなら!」

 シャチは即座に「足りてんだよそんなモンはなァ」とぶっきらぼうに応じて、レッサーパンダは肩を落としたが…。

「どっちかって言やァ、欲しいのは水を運ぶ人手だ。腕の傷があっても片腕は無事だろォ?ついてこい。グフフフフ!」

 そう巨漢が言葉を続けると、耳と尾をピンと立てて背筋を伸ばし、「はい!」とはっきり応じた。

 勿論、これはシャチの真心…による物ではない。さきほど見たジャイアントパンダ…彼と遭遇しかけた事は伏せておきたいが

情報は欲しい。彼が本隊の総指揮を担っていると察しはついたので、あわよくばホンスーが知る範囲で情報を得ておきたかった。

交戦する必要が生じた際に備えて。

 一方老虎は、では自分は野草なり何なり食材と、薪になるような枝などを探して来よう、と提案。結果的に、臨時キャンプの

番人はカナデとチーニュイの二人という事になった。

「チーニュイが作ってもいい?」

 皆が出て行った後で狐からそう訊かれたカナデは、「いいよ」と火起こししながら応じる。

「じゃあね!マーボードーフ!お爺ちゃんが時々作るの!」

 ルーウーが確保した食材の中には豆腐や挽肉が入っていた。きっと作る気だったのだとチーニュイは語る。

「一昨年お爺ちゃんと行った街で食べたヤツ、すごく美味しかったんだ!それから作ってくれるようになってさー」

「へぇ、楽しみだナ!」

「お爺ちゃんは粥も美味しく作れるんだよ!あとね…」

 支度をする狐の娘は、ずっと祖父の事を話していた。よほど好きなのだろうと目を細めながら話を聞くカナデは、故郷の祖父

を思い出す。

 菓子屋一筋に人生を捧げた、頑固職人気質の近付き難い祖父だった。引退した今でも性格はそのままで、孫を甘い顔で迎える

祖父ではなかったが…。

(ビックリしたよ…。渡航費用にって、分厚い封筒手渡された時はネ…)

 怖い祖父だったが想われていた。ぶっきらぼうにしか接してくれなかったが理解もされていた。あれはちょっとした、嬉しい

驚きだった。

「チーニュイちゃんは、お爺ちゃんが好きなんだネ」

「うん!カナデは違うの?お爺ちゃん居る?仲良くない?」

「僕も、お爺さん好きだよ。あまり話をしないけど、それでもネ」

 帰ったら土産を持って行こうと決めて、カナデは豆腐をカットする。その間にチーニュイは大袋から取り出した調味料類を駆

使して、鉄鍋相手に格闘した。

「あ、ちょっと火力心配だネ。枯れ枝がその辺に…」

 と、カナデが腰を上げ、傍で枝拾いしていたその時だった。唐辛子と花椒の小瓶を両手に持って振っていたチーニュイの手元

から瓶の蓋が外れて足元に落ち、鉄鍋へ香辛料が大量に降りかかったのは…。

(…ま、いっか!辛いのは美味しいに決まってる!)

 狐の娘はあどけない笑顔のまま、小さな失敗と断じて何事も無かったように瓶に蓋をした。

 

「お?あったあった、ついてるぜェ、グフフ」

 ホンスーを連れて水を探しに出たシャチは、首尾よく岩の裂け目から湧いている清水を見つけ、ルーウーから預かった袋に確

保する。

 …が、実際には湧いていたのを見つけたわけではなく、シャチがその能力を用いて地下水を上昇させて作り出した水飲み場。

おまけに濾過も済んでおり、そのまま飲める代物になっていた。

 不思議な事に、ルーウーから借りた革袋は見た目通りの容量ではない。内側の空間が拡張されている事をシャチは把握してい

た。それがどれだけ世の摂理に反した無茶苦茶なのかという事も含めて…。

(小道具の中にイマジナリーストラクチャーを造って定着させてあるのかァ…。グフフ、おっかねェなァ仙人)

 後ろで待つホンスーが妙に思わないよう、適当な所で切り上げて別の袋に汲みながら、シャチは口を開く。

「仙人」

「!」

 一言、それだけで十分だった。振り向く必要もなくホンスーの動揺を感じ取り、シャチは続ける。

「噂じゃ、軍が仙人を探してる…ってなァ。どうなんだァ?」

「それは…」

 言い淀むホンスーに、シャチは続ける。

「運がねェなァ軍人。エラいひとの命令かァ?そんな居るはずもねェ物を探せとかよォ」

 レッサーパンダは強張っていた表情を少し緩めた。下らない噂、シャチはそう思いながら話しているのだと思って。

「ええ、まぁ…。でも命令ですから」

「あ、もしかして強化兵士ってのも、わざわざそんな夢みてぇな探し物のために用意したのかよ?人民の金なんだと思ってやが

んだァ?それとも、仙人ってのは何かの隠語かァ?実は凶悪犯罪者とか、指名手配犯だとか…」

 勘違いしてくれるなら都合が良いので、ホンスーは曖昧に笑う。少し緊張が緩んだが、正にそれがシャチの思惑通りだという

事には気付けない。

「その運が無ェ司令官はどんなヤツだァ?おかしな強化兵士まで押し付けられてよォ」

「立派な方です。聡明で、冷静で、皆が敬意を抱く、とても立派なひとです…」

 よし、とシャチは心の中で顎を引く。ホンスーの緊張を解き、雑談の延長という体でこの話題に持ち込めた。

(あとはどの程度の情報を引き出せるか、だなァ。グフフフフ!)

 

 それからしばし、ルーウーが食べられる野草や薪の足しを集め、シャチとホンスーが水をたっぷり持って戻った頃には、麻婆

豆腐は完成間近になっていた。

「グフフフフ!良い匂いじゃねェかァ?」

 カナデが火の番をしている鍋を覗き込むシャチ。挽肉がたっぷり使われ、トロリと表面が光る麻婆豆腐は、見た目と香りだけ

で食欲をそそる。

「本当ですね…、あ!」

 腹が鳴ってしまい、恥ずかしそうに背を丸めるホンスー。ルーウーも楽しみだというように耳をピコピコさせていた。

「うん!チーニュイちゃんの力作だよ!」

「えっへん!」

「ほォ」

「へぇ!」

 …?

 約一名リアクションが妙だったが、カナデは気付かないまま「そろそろいいネ」とお椀によそい始める。

 とろみのついた赤い餡かけの海に浮かぶ挽肉と豆腐、食欲を刺激する香りと湯気。車座になった全員が『いただきます』と匙

を口元に運んで…。

「!!!」

 カナデの全身で毛が逆立った。元々丸い体が風船のように真ん丸になるほど。

(熱…、いや、痛っ!?)

 舌が焼けるほどの熱さ…と誤認したのも一瞬。口内を蹂躙するのは、痛み。

「????????」

 匙を咥えたまま、何が起こったのか判っていないレッサーパンダは、生理反応で涙と鼻水をタラタラ垂れ流す。

「………」

 シャチは普段の胡散臭い笑みが消えた真顔である。兵器としての彼の肉体は、口にしたその品についての情報をダメージとし

て計測し、損傷データとして処理している。

 とんでもない辛さであった。熱や他の味が感じられなくなるほど。

(いや、でも、もしかしてこの味も地方特有の物かもしれないよ?)

(か、家庭の味的な、ちょっと刺激が強いのが好みのひと向けの麻婆なのかも…)

(グフ…。まさか仙人食とか、そういうモンかァ?)

 そのように考え、カナデ、ホンスー、シャチが目を向けた先では…。

― ……… ―

 匙を咥えたまま硬直しているルーウーが、垂直に立てた尻尾をボサボサに太くし、目を真ん丸にして、ダラダラと滝のように

汗を流していた。

(違うんだよ!?)

(違うの!?)

(違うのかよォ!?)

 次いで三人が見遣った先では…。

「なにこれ辛っ!食べられないぐらい辛っ!」

 作ったチーニュイ本人がビックリして水を飲んでいる。

 狐の申し出を受けたカナデは、そもそも勘違いしていたが、チーニュイは普段から料理などしていない。お爺ちゃんが作って

いる…、とは言ったが、自分が作っているとは一言も言わなかった。今日この日が麻婆デビューである。

 我慢すれば食べられるとかいうレベルではない。空きっ腹に流し込んだら大惨事間違いなしの暴力的麻婆。完全に食材が無駄

になり、がっくりと肩を落とす一同。

「…移動しながら、兎か鳥でも探して目についたら狩る…。果物でも見かけたら採る…。そいつを手早く食うかァ…」

 シャチとしては、あの危機感を刺激するジャイアントパンダとは間違っても御近付きになりたくない。僵尸兵の検死などに時

間を取られて、そう早くは移動しないだろうとは思うのだが、これ以上モタモタしたくないというのが本音だった。

 皆も空腹だし落ち着ける所まで早く移動したかったので、結局その提案に反対する者は居なかった。

 

 一方その頃、散った僵尸兵の捜索を続けていた部隊は…。

「ファン上尉!僵尸兵を発見したそうです!前方、竹林の際!」

「出たな!」

 先行するバイク搭乗の捜索兵から連絡が入るなり、中隊長は帽子を取り、短く刈り込んだ頭にヘルメットを被り直す。

「随分迷うように移動したじゃないか…。よし、逃がすなよ?近くに集落やら村やらは無かったはずだが、狩猟者などが居る可

能性もある。まかり間違っても、軍に所属する者が人民を害するなどあってはならない。中隊、前進!」

 三方に散った少数の僵尸兵は大きく弧を描くように移動している。直線的な移動ではないので追いつき易かった。特に、見通

しの悪い山岳地に入られる前に捉えられたのは運が良い。残る二隊も別の隊が追跡中だが、そちらはまだ発見報告が上がってい

なかった。

 勢いよく走り出したバギーの助手席で、中隊長は中折れ式の二連ショットガンを手に取り、装弾に間違いがない事を確認する。

(可能性はまだ、皆無ではない…)

 まだ推測に過ぎないと前置きされたが、チョウから語られた事がある。

 僵尸兵は、単に仙人の痕跡に反応しただけではおかしくならない。サンプルなどを用いた試験ではそうならなかったからこそ、

計画はここまで進んだのだから。では、おかしくなった原因は何かというと…。

(強烈な反応…。つまり、強力な仙人の痕跡を受信するには、僵尸兵側の耐久性が低過ぎたという事だが…)

 資料も何も提示されていないが、おそらく猪の予測で合っていると、中隊長は信じる。

 やがて…。

「あれか!」

 報告があったとおり、竹林手前に人影が見えた。が、その傍に横転したバイクと、倒れ伏す兵士が見られる。先程発見の報告

を寄越した兵だった。

「包囲!生け捕りは考えるな!無力化しろ!」

 上から命じられている生きたままの回収より、今生きている兵士の無事が優先。そう判断しての指令を発し…。

「…待て!全体停止!」

 中隊長は即座に停止命令を出す。

 様子がおかしかった。

 竹林間際に立つのは僵尸兵だけではない。三体の僵尸兵が包囲しているのは、裾の長い、ゆったりとした道服を纏った人影…。

頭の角からキョンの獣人と思われる中年男性だった。

 さらに、よく見ればその周辺には何かが散らばっている。

 はじめは岩か石ころかと思ったそれらは、まるで分解された人形のようにバラバラになった、僵尸兵の残骸である。

 そして、横転したバイクも、倒れた兵も、まるで鋭いギロチンで垂直に両断されたように真っ二つにされていた。

 タタタタンッと銃声が響いた。道服を着たキョンに、僵尸兵が銃撃を浴びせる。が、軽く揺れただけで、キョンは倒れない。

それどころか、小蠅でも追い払うように、面倒くさそうな動作で腕を軽く振り…。

「総員攻撃準備。火力集中で一気に叩く。通信兵…」

 中隊長は低い声で命じた。

「本隊へ報告。「仙人と遭遇、交戦不可避」と…」

 その言葉が終わると同時に、キョンの周辺で僵尸兵が二体、膝から崩れ落ちた。首をポンと、鮮血の噴水に押し上げられるよ

うに宙へ飛ばして。

「軍か?妙な兵隊を送って来たと思えば…」

 キョンは残り一体となった僵尸兵の顔面を、至近距離で銃撃されながら鷲掴みにする。次の瞬間、まるで綺麗に切り分けたリ

ンゴのように、僵尸兵の頭部が八分割されて開き、内容物を零れ落とさせる。

「総員!銃撃開始!」

 中隊長の命令で張られる弾幕。掃射により地面まで抉り、土埃まで上がり、視界が制限される。

(確か「斬鞭(ざんべん)」という仙術だったな…!見えないせいで射程も有効範囲も掴み辛い!的を絞らせては不利だ!)

 中隊長は二連発の中折れ式散弾銃を手に、歩兵隊を指揮して散開命令を出す。各々が所持した散弾銃に込められているのは、

数が限られている特殊弾頭だが、惜しんではいられない状況だった。

(釘付けになっている間に…)

「ああ、何だそれ?嫌な匂いがするじゃない?」

 中隊長はギクリとした。

 声が聞こえたと同時に、すぐ傍でジープがガギンと音を立て、左右に分割される。

 それは、空から降りた。道服を翻し、土埃の上を越えて、まるでゆるやかな階段を下りてくるように。

「その銃、切り札っていうヤツかい?考えてるんだ、仙人と戦う事…」

 その見下した微笑を目の当たりにし、中隊長は悪寒に襲われた。その視線はキョンの襟元…首に向いている。

(太極炉!)

 キョンの喉仏には、直径3センチほどの太極図が浮かんでいた。

「苛立つなぁ、身の程を知らない虫けら風情が、ボク達をどうこうしようだなんてさぁ」

 スッと、その手が振られる。タクトを振るう指揮者のような手付きで。

 その動作を視認するや否や、中隊長は横っ飛びに身を投げ出した。その、寸前まで彼が立っていた位置で、地面が2メートル

ほどの長さに渡ってバックリと、鋭い剣で斬られたように割れる。

(しまった!)

 間一髪だった。が、本当にギリギリだった。しかし、手にしていたショットガンが、何の抵抗もなく半ばで斬り飛ばされてし

まっている。

 有効打を与える手段を失った中隊長は、「撃て!構うな!」と、突然の事に驚いている部下達に叫ぶ。しかし、ショットガン

を放てば上官も巻き添えになる事が判っている部下達は命令を実行できない。

「何をしてる!早く!仙人一人とひと一人、収支は吊り合うどころじゃないだろう!撃てぇ!」

 腰から拳銃を抜いて素早く銃撃を加える中隊長。キョンの額、首筋、右胸に着弾したが、出血は無い。

 銃弾は粘土に埋もれるようにキョンの体内に埋没したが、やがてその弾痕周辺がうごめき、まるで果物の種を吐き出すように、

鉛玉をプッと排出する。傷跡は、一切残っていない。

「中隊長っ!」

「中隊長をお助けしろ!」

 周囲の兵が拳銃など、同士討ちを避けた武器に持ち替えると…。

「小うるさいなぁ…」

 キョンはその手を水平に振るう。ボボボンッ…と、兵士達の首が纏めて断たれて宙に舞う。

 懐に飛び込まれた隊列は脆い。同士討ちを躊躇い火力も出せない。こうなってしまうと成す術がない。

「撤退だ!総員撤退!一人でも多く逃げ帰れ!」

 果敢に銃撃しながら叫ぶ中隊長に、キョンは「アンタの声も耳障りだな…」と目を向け、右手を振り上げ…。

「?」

 動きを止め、視線を上げた。そこに、金属の光がチカリと光る。

 唸りを上げて大気を押しのけ、放物線軌道で高速接近する、玉のような影。その両手には抜き放たれた双剣の輝き。

「!」

 キョンが両腕を下から振り上げるように交差させる。指揮によって伸ばされた視認できない断裂領域は影に接近し、ガィンッ

と甲高い金属音を上げさせる。

「っと…」

 切断領域を断ち割り、そのまま接近し、飛び込んできた影が首元めがけて伸ばした剣先を、キョンは仰け反って避けた。その

傍らを高速移動してきた大質量が通過し、もう一度金属音を上げる。

 接近しつつ首筋への一撃、かわされると同時に肩口を狙った逆の剣の切り落とし、刹那の剣筋が鋼の光条を残して通過すると、

キョンは高質化させた道服の肩を見遣り、顔を顰めた。

 その背後で、ドズゥッと重い着地音と擦過音を立てて、吹っ飛んできた恰幅の良い体躯が大地を踏み締め、ザリザリと滑走し

ながら制動をかける。

「痛いじゃないか。オマエ」

 キョンは自分を攻撃した男を振り返った。

 二本の剣を両手に掴み、腰を落として構えるその男は、軍服姿の猪。

「ファン中隊長!無事か!?」

 大声で呼び掛けた猪に、「お袋の所に逝きかけたが、お陰様でね」と、中隊長は少しだけ表情を緩める。そして、部下達に向

かって声を張り上げた。

「総員後退して包囲!「仙術兵器」の起動に備えよ!間違っても戦闘範囲に踏み入るなよ!」

 兵達が銃を構えたまま、指示に従って素早く後退。キョンと猪から一斉に距離を取り、空白地帯が生まれる。

「…何なのオマエ?」

 キョンは猪を睨んだ。ボリュームで言えば二倍以上もある大男だが、怯むどころか不快さを隠しもしない。

「第八連隊所属、司令部付き上尉、江周(ジァン・チョウ)と申す」

 応じるチョウの姿を、キョンは改めて確認した。

 両手に握るのは対となる剣。

 刀身の長さは50センチほど、対して幅は20センチほどと長さに対して幅が異様に広く、刀身先端部の五分の一ほどが緩や

かな曲線を描いて切っ先に至る。峰側は鍔に当たる部位から十手のように鉤が伸びており、柄頭には王冠のようなギザギザの金

属があしらわれていた。特筆すべきはその厚さ。鋼の色に鈍く光る刀身は、厚みが2センチ近くある。

 胡蝶双刀と呼ばれる形式の刀剣だが、主流の物より大振りで分厚い。しかもそれをチョウは、背中に交差させて背負う黒革貼

りの鞘から引き抜いた二本の他、太い腰に革ベルトを回し、腰の真横、斜め後ろ、尻を隠す真後ろと、左右それぞれ三振りずつ、

合計八本も装備していた。

「剣なんて、時代遅れな物を持ち歩いてるんだな。それにしても頑丈だなそれ?ボクが飛ばした斬鞭を弾くなんて」

 猪は表面には出さず、キョンが発した一語一句を解析する。このやり取りの中にも分析可能な情報が複数紛れていた。

「…仙人と見受け、問う」

 チョウは真っすぐにキョンを見つめながら、房の付いた尻尾をヒュンと鋭く上下に振った。まるで自分に鞭を入れるように。

「旬苅…。ここから30キロほど離れた位置にあった町だ。住民が消えたそこに、心当たりは?」

「えー?どうだったかな、行ったかな?」

 キョンは軽く肩を竦める。

「もう一つ、そこから七キロ東にある集落も無人になったが…」

「う~ん?どうだろうな?そっちは寄った所かな?」

 面倒くさそうに唸るキョン。

「最後に一つ…。商南県の山岳地、居慶という村…桃が実る山間の村を知っているか?」

「さあ?ボクは土地の名前とか覚えるの苦手でさ」

 記憶を手繰ろうともせずにキョンは応じるが、猪はなおも続けた。

「十二年前、住民も家畜も一切が消えた。彼らを…、お前は「食った」か?」

「ああ、つまり…」

 パンと、何か思いついたようにキョンが手を叩く。同時に、周囲で兵士達の死体が、衣類ごとザラリと、湯に入れた角砂糖の

ように崩れて溶け、灰色の塵になり、舞い上がって煙る。

 後には、血痕も残骸も遺品も残らない。無人の町がそうであったように…。

「こういう風に?」

 ニタァッと、キョンが笑う。その体に向けて、兵士達の死体が変化した煙が吸い寄せられ…。

「おっと!」

 キョンが首を傾ける。6メートル以上もの距離を瞬時に詰め、猪は右剣でキョンの頭部を狙って斜めに切りおろしている。

「その肥えた体で良く動くものだなぁ。それ、仙術だろう?高名な道士に札でも貰ったか?」

 キョンがせせら笑う。左剣を下から振り上げ、キョンの脇腹から胸部への逆袈裟斬りを仕掛ける猪。

「さっきも、乗り物も使わずにあんな速度で突っ込んできた。神行法だろ?」

 しかしその踏み込みが力強く大地を踏み締めた瞬間には、キョンの姿は半歩遠のいて、切っ先は空を裂いている。

「でも所詮は借り物だ。本物の仙術は…こう!」

 キョンの喉元で太極図が回転する。チョウはすかさず左腕を引き、脇を締める。そこへ、一瞬で位置を変えたキョンが、横合

いから回し蹴りを叩き込んだ。

(仙術…!縮地!)

 コマ落としのようだった。瞬きよりもなお短い一瞬で側面を取られた猪は、咄嗟にガードしたものの、太い腕がメリベキッと

音を立ててへし折れて、そのまま胴に食い込んで肋骨が連続して砕ける音を上げた。

 木っ端のように吹き飛ばされる猪。「ジァン!」と中隊長が堪らず声を上げた。かなりの大男であるチョウの体が水平に10

メートルも飛ばされ、激しく地面に激突し、土煙を上げながらさらに10メートル転がる。

 細身と見えるキョンだが、その身体性能はひとの域に無い。

 大岩も砕く膂力に、百里を休まず駆ける体力、そして銃弾を浴びても物ともしない生命力に、衣を鋼鉄のように変えたり一瞬

で位置を入れ替えたりする術も使用できる。

 仙人。

 ひとを超越した存在である彼らは、そう呼ばれている。

「何だ、見掛け倒しもいいところ…」

 残りを片付けようと、キョンが向きを変えようとした次の瞬間、もうもうと立ち込めた土煙を割って、猪が飛び出した。

「は?」

 ポカンとするキョン。目にした物が信じられなかった。

 腕が折れた。肋骨も折れた。内臓も破裂した。手ごたえは間違いなくあった。なのに、殆ど停滞なく跳ね起きて土煙の中から

飛び出してきた猪はピンピンしている。無傷にしか見えない。

 キョンは考えてもいなかった。縮地による不意打ちも最初から想定されていた事など。それで即死さえしなければ良いと、

「回復可能な重傷」に留める覚悟でチョウが備えていた事など
。死にさえしなければ、意識が飛ばされさえしなければ、修復

して戦闘続行できる事など

「な、何だオマエ!?何で「治ってる」!?」

 キョンが驚き混じりの反射で腕を振るう。しかし、その水平に伸びて猪の首を狙った断裂領域を、チョウは駆けながら四つん

這いに近い低姿勢になる事で回避する。見えている訳ではないが、キョンの斬鞭が手振りの延長線上にのみ発生する事と、その

効果が及ぶ範囲を、先に見ただけで完全に把握していた。

「禁圧解除…!」

 猪は姿勢を低くした回避姿勢から、そのまま脚に踏ん張りを利かせる。

 全身でボコリと筋肉が盛り上がる。右剣の柄の先を右腰に吊るしている剣の柄頭にカキンと合わせる。王冠のような突起が噛

み合うなり、片方の柄から芯が飛び出し、反対側が受け入れ、接合される。

 それぞれ刃を反対側に向け、二枚羽のフィンのような形で連結したそれを、チョウは大きく後ろに引いて…。

「仙術解禁!」

 柄を中心にクルリと一回転させた双刃が、一瞬、その円回転の軌跡に白と黒の円…太極図を浮かび上がらせる。

「乾坤…回天(けんこんかいてん)!」

 走力、膂力、遠心力、回転力、その全てを一点集中させた猪の吠え声と共に、投擲された刃が驚きを隠せないキョンに迫った。

 弾丸よりもなお速い、鋼の旋風が唸りを上げる。回転鋸以上の速度で回転するソレが、キョンの首を狙って飛び…。

「っく!何だその妙な剣!?」

 グニャリと、背骨が無いかのような動きでキョンが上体を反らせた。ほぼ九十度、それも腰ではなく背骨の真ん中から折れ曲

がって鋼の旋風を避ける。が…。

「余所見などっ!」

 キョンの顔色が変わった。道服の両袖に何かが引っかかって、グイッと引き寄せられる。

 顔を起こしたキョンが見たのは、投擲から間髪入れずに急加速し、肉薄した猪の顔。

 駆け込み、接触距離に至ると同時に、逆手握りで新たに抜いた右の剣と、同じく逆に持ち替えた左の剣…その峰側の十手のよ

うな部位が、キョンの両袖を引っかけている。鎖を編んだような強度になっている布地を、易々と貫いて。

「どぉりゃっ!」

 逃げられないよう両袖を捕らえたその状態で、駆け込んだ勢いも体重も乗せ、さらには腕を後ろに引いてキョンを引き込み、

チョウは地面を片足で蹴る。

 メゴシッ…。

 そんな音と共に、猪の飛び膝蹴りがキョンの顎を下から砕いた。

 顎が割れ、潰れ、上あごにめり込み、顔の厚みが二割ほど減る。堪らず仰け反るキョンへ、さらに…。

「ふんっ!」

 跳び膝蹴りを繰り出しつつ大きく背を反らしたチョウは、キョンの顔面に全体重を乗せて頭突きを見舞った。

「………っ!」

 上顎と下顎がグッシャリと潰れ、強烈な頭突きでマズルまで陥没して短くなったキョンの口元から、血と歯がポロポロ零れて

飛び散る。

(な、何だコイツ…!?何なんだコイツ…!?)

 キョンは自分の体を過信していた。傷を負ってもすぐに治る、永久不滅の存在だと「勘違い」していた。だからこそ何故体が

動かないのかも判っていない。チョウが見舞った顎への強打と頭突きの連続攻撃で、脳震盪を起こしている事に気付けない。相

手の力量を見極めもせず不用意に肉弾戦を許した油断が、この致命的な状況を招いた。

「せいっ!」

 キョンの袖から絡ませていた剣を、衣を裂いて振り解きつつ、チョウはその場で半歩引き、全体重を乗せて回し蹴りを放った。

肉体のリミッターを外し仙術による駆動強化を加えた、全力の、単純極まる肉弾攻撃は、その軸足も蹴り足も常人の目には霞ん

で見えない。

 ドボッ、と音を立てて飛び込んだ猪の太い脚が、先ほどの意趣返しとばかりにキョンの胴体をひしゃげさせた。左側から入っ

た蹴りは、胴体中央までめり込んで背骨の位置に達している。

「!!!!!!!!!」

 声にならない。叫びも出ない。きりもみしながら打ち上げられるように宙に舞うキョン。

 仙術、神行法(しんこうほう)。それは疲労も物ともせず一日に何百里も駆けられるようになるという、伝承に語られる有名

な仙術の一つ。

 しかし、これは確かに移動を助ける仙術ではあるのだが、厳密には肉体の駆動を強制的にコントロールする術である。これを

駆使すれば、疲労も、負荷も、損傷すらも物ともせず肉体を強制駆動させられる。

 禁圧を解除し、この神行法によるブーストを加えた肉弾戦こそがこの猪の闘い方。彼はその戦闘方法を用いて、これまでに四

十六名の仙人を狩っている。

 そして、とどめの一手は既に放たれていた。

 右剣を鞘に納めた猪が後ろへ跳ぶ。そして、腰を落として前傾し、右腕を前へ…。

 宙を舞うキョンは風鳴りを聞いた。何らかの攻撃だと察した。

 が、何故それが「後ろ」から来るのか判らないまま、ボンッと、首を刎ねられた。喉仏の太極図も上下に断たれて。

 投擲され、高速回転しながら飛び去った鋼の旋風。それが舞い戻ってキョンの首を斬り飛ばし、猪の手元に戻る。飛来したそ

れの柄を掴んで受け止めたチョウが勢いに押され、踏ん張った足を2メートル近くも滑らせて後退した。

 砲弾の重さ、回転鋸の切断力、投擲後に旋回して手元に戻る回帰性…、その三つが仙術、乾坤回天の特色。

 首を失ったキョンの体が横倒しで落下し、少し遅れて首が地面にドサリと落ちる。チョウは剣を分離させて鞘に戻し、元の二

刀スタイルに戻ると、キョンの生首に近付いた。

 まだ意識があった。キョンは眼球を動かして猪を見上げる。

(何だそれ!?何だその武器!?まさか…宝貝なのか!?)

 動揺、驚愕、そして恐怖。力が失せてゆく喪失感に苛まれ、眼前の猪を見上げるキョンは、チョウの胸元にハッと視線を止め、

目を大きく見開いた。

(オマエ…!ボク達と同類だったのか!?)

 猪はムスッと口をへの字にして吐き捨てる。

「貴様らの同類などと言われるのは心外だ…!」

 そして猪は小さく息を吐き、再び尋ねた。

「もう一度聞く。旬苅を襲ったのはお前か?十二年前に居慶の住人を食ったのは、お前か?」

(違う…!違う、知らない!どっちも行った事が無い!「ボク達」が食ったのは一昨日…!もっと小さい、山の村だけ…!だか

ら助けて…!)

 チョウは軽く目を閉じて「そうか」と呟くと、双剣を背中の鞘に収め、輪郭が崩れ始めたキョンの首に告げた。

「自分がもう助かりっこない事も、判らないか」

(………!)

 ザラッと、砂のようになって崩れたキョンの頭部は、そのまま地面へ沁み込むように、より細かな塵へと繰り返し分解し、溶

け消えてゆく。

 それを見届けた猪は…。

「うげぼっ!」

 脇腹を押さえて咳込み、赤黒い血の塊を地面に吐き出した。

「ジァン!大丈夫か!」

 片膝をついた猪に駆け寄った中隊長は、振り返って部下に「薬持ってこい!」と命じるが…。

「傷は問題ない、仙術で補修した…」

 肩で息をしているチョウは、骨折も内臓破裂も無い。全て修復されており、残ったのは喉に詰まった血塊だけだった。

「ただ、今のと合わせて仙気を使い切った…。治癒の仙術はどうにも適性が低くて敵わない…。毎回の事だが…、ほぼスッカラ

カンだ…」

「薬はいいから水持ってこい!あと菓子でも何でも味を誤魔化すヤツ!」

 猪がポケットから薄紙に包んだ赤黒い玉…親指の先程の大きさの丸薬を取り出すのを見て、中隊長が指示を変更する。

「…しかし…、これはまずい…!」

 猪が呻き、中隊長が怪訝な顔をする。

「まずいとは、何がだ?」

 その問いかけに、チョウは表情を強張らせたまま応じた。

「今の仙人、「弱過ぎる」…」

「それは…、さすが仙術兵器という所だろう?謙遜するなって、お前にかかれば仙人も…」

「そういう事ではなく…!」

 キョンの頭部同様、体も崩れ去っている。細かな塵となって僅かに残ったその残骸を見つめながら、猪は首を振る。

「弱過ぎるし知らな過ぎる…。強大な仙術も行使できず、宝貝も所持していない…。さらに我ら「仙術兵器」の存在も「双翼刃

(そうよくじん)」も知らない…。戦い方もなっていなかった。策も講じずに俺が単騎で何とかできる程度の弱さだ…。それど

ころか自分が用いる仙術の性質も把握できていない…!斬鞭は斬撃する術ではなく、「そこにある物が断裂する領域」を敷く陣

術の一種…。それを、「飛ばした物を頑丈な剣で弾いた」と誤認し、剣その物を警戒しなかった…。その上、この剣の正体を見

抜けず、時代遅れなどとのたまう始末…。コイツはせいぜい仙人になって数年程度。得た力で有頂天になった子供に等しい…。

なら、おのずと答えは出る…!」

 そこまで聞いて中隊長は青褪める。チョウの懸念が何なのか、ようやく判った。

「散って移動した僵尸兵…。三方と、団体…。「まずい」とは、まさか!?」

 中隊長の呻きに猪が「ああ」と顎を引く。

「一隊は今ここ、残る二隊も痕跡から推測するに、同じように大きく弧を描いて移動…。そして連隊長達が追った集団…。まさ

かと思ったが確信が持てた。あれは合流を目指している軌道…。連隊長が向かった山岳方面への合流ルート…!あんな未熟な状

態の仙人が単独で放浪しているとは思えない、必ず兄弟子か師が近くに居る!」

 猪は「上校に連絡を…」と唸り、丸薬を握り締める。

「仙人は、最低でも他に三体居る…!」