漂泊の仙人と煙雲の少女(八)

 乾燥した風が抜ける、岩山の隙間。

 稀に降る大雨が川を作り、土を削り、永い時をかけて生み出した、乾き切った岩と谷と岸壁の風景。

 時と自然だけが生み出せる景観の中、日没迫って伸びた岩山の影から、ずんぐりした影が谷間の直線を覗く。

「よォし、こっちは安全だなァ」

 先行して安全確認するシャチは、切り立った崖の間から直線上の気配を探った。見通しの良い所は注意が必要だが、ひとの生

体反応などは感知されない。むしろ小鳥が多いので、おかしなモノは居ないと判断できる。

「…で」

 振り向いたシャチが見下ろすのは、狐の娘。

「この先から道は下りになって、降りて行った先に町があるんだなァ?」

 確認されたチーニュイが「そうだよ」と頷く。

「なら、だいぶ離れたからなァ、ここらで待って合流するかァ」

 シャチの役目は一種の偵察。隠れ潜みながら移動し易い地形は、裏を返せば待ち伏せにも向いた場所。いくら後方に脅威が居

るとはいえ、これを警戒しないシャチではない。

 いくらか土地勘があるチーニュイは、シャチが安全確認する進路の指針アドバイザー役として同行している。

 食料確保のために別働している三人を待つ事にし、シャチは手近な岩に腰を下ろすと、ポケットからカロリーバーを取り出し

て狐の娘に差し出した。

 無言でひったくるように受け取ったチーニュイは、シャチを胡散臭そうに見る目がまだ変わっていない。

「…オメェ、何で爺ちゃんにくっついて回ってんだァ?」

 シャチはスキットルを取り出して酒を一口流し込みつつ、他者の耳が無い状況でそう切り出した。

「仙人と一緒ってのは、普通はあり得ねェ生き方だぜェ」

 チーニュイはルーウーがどういった存在なのか知っている。シャチはそう老虎から教えられていたし、その素性をカナデに知

らせない事についても両者同意済み。チーニュイも老虎から言われているので、カナデに自分達の素性を語る気はない。

 しばし黙ってシャチを見つめた狐の娘は、「そういう物だから、だよ」と応じた。

「チーニュイはお爺ちゃんと居る。それ以外にないから。お爺ちゃんもチーニュイが一緒だと目的を果たしやすくなるし」

「ほォ。…で、爺ちゃんが目的を達したらどうすんだァ?」

「それまでチーニュイが生きてるか判らないけど、ずっと同じじゃない?チーニュイはお爺ちゃんの物だ」

 この回答を聞いて、シャチは狐の娘への興味を薄れさせた。期待外れだった、と。

 正直なところ、ルーウーに連れられて旅をするチーニュイが、どんな人生観を持っているのかは少しだけ興味があった。

 本来助からなかったはずの赤子が超越者に育てられて、拾った命にどんな執着を持つようになったのか。ひとを超越する存在

の傍らにあり、どんな思考形態と価値観を有するようになったのか。

 だがこの狐は、ルーウーに救われて生を得たにも関わらず、己の命を生きていないのかと考え、シャチは探るのを止めた。

(まァ、珍しい素性も自分で得たモンじゃねェ。奇跡をどう使い潰そうが、どう死のうが、こいつの勝手だァ)

 自身を「死体」と称するシャチは、「生きようとする意思」を好む。

 その生に遣り甲斐を見つけたり、生きる事を楽しむ者を好ましいと感じる。それと同様に、憎悪や怒りを糧に生きる者や、復

讐を支えに生きる者など、一般的に「負の側面」と称される物を生きる理由や動機とする者にも理解を示す。どんな理由であれ、

生への執着を持つ者には興味をそそられる。リンを養女として引き取ると決めた時もそうだったように。

 その一方で、惰性で生きる者は気に入らない。

 今のところはシャチの中でも確たる理由になっておらず、本人も説明できないのだが、とにかく嫌いである。

 無駄な生だから、というのとも違う。生を謳歌する生命の、一見すれば無駄になっている趣味趣向や贅沢、浪費や無為な行い

も、シャチは許容する。命というのは生きる物であり、機械的に必要な事しかしない物ではない。そこに意味など求めない。愚

かな事も無駄な事もするのが生物だからと。

 なのに、その「シャチが許容できる無駄」には、惰性でただ息をしているだけの者は含まれない。

 後々、異邦人との幾度かの問答と、養子の生活を眺めていて、ああそうか、と自分の中の理由と理念に気付く事になるのだが、

それはまだ先の話である。

 

 一方、先行する二人から2キロほど遅れた位置で、食料確保班のカナデはレッサーパンダと老虎を伴い、崖を登った上に居た。

 目当ては、崖際に生えている実がたっぷりついた桃の木。

 すぐ手に入りすぐ食える食料が見つかったのは、崖下から見上げたホンスーのお手柄。周辺は乾いた土が剥き出しの岩山ばか

りなのだが、崖の近くで山間を流れる川が丁度滝になっており、すぐ脇に滝つぼがある。その水飛沫が霧になって周辺の土壌を

潤しているらしく、桃の木周辺だけ草木が茂っていた。

「もうちょっと右に…、も、もうちょっと…!」

「あんまり左に伸びちゃダメだよ?滝つぼに落ちちゃうからネ」

 狸に肩車されたレッサーパンダが、高い枝になる熟れた桃に手を伸ばす。ルーウーは機嫌良さそうに尻尾をくねらせながら、

収穫された桃を袋に詰め込んでいる。

「おっとっとっと…、どうかナ?」

 大きく傾いたホンスーの重心が傾いた方に移動し、巧みに支えるカナデ。

「取れました!ヤッター!」

「何個になったかナ?…え?十五個!?流石にもういいかナ…」

 ルーウーに目を向けてもう十分だと判断したカナデは、屈んでホンスーを下ろしてやる。

「立派な桃ですね…!故郷を思い出します…」

 両手で持ったズッシリした桃を見つめ、目を細めるホンスー。縞々の尻尾が揺れる様を見て、ルーウーも微笑む。その鼻は熟

れた桃の香りで満たされていて…。

「それじゃあ追いかけて、チーニュイちゃんとジョンに合流…」

 肩車している間に乱れたベストを、襟を掴んで戻したカナデは…。

「!」

 ルーウーの元へ向かおうとしたホンスーの、その向こうを見て目を見開いた。

 岩を乗り越える格好で現れた、手。そして引っ張り出される、顔。額の濁った銀板が、夕刻迫る空の光を反射する。

「仙人、発見。障害、排除」

 それは、反射的な動きだった。

 僵尸兵の銃口が、最も距離が近いレッサーパンダに向けられる、その動作の最中にカナデは地を蹴っていた。

「え?」

 ホンスーが声を耳にしてから気付く。胸から上しか見せていない岩陰の僵尸兵に。

 直後、銃声が響いた。

 斜線から押し出すように、カナデはホンスーに体当たりし、崖から滝側へ飛び出し…。

「わぁああああああっ!?」

「お爺ちゃん、飛び降りるんだよ!」

 落下しながら叫んだカナデは、ホンスーをしっかり抱えて体を丸める。

 下は滝つぼ。水とはいえ落ちてただで済む高さではない。しかしあの場に留まっては確実に死ぬ。そう判断しての決死のダイ

ブだった。

 ふたりの姿が崖下に消えるのを見届けた剣牙虎は、その全く動じていない視線を僵尸兵に向ける。

 飛び降りた二人は即死さえしなければどうとでもなる。カナデのタフネス具合からすれば少なくとも命に関わる重傷にはなら

ないと判断した。

 むしろ都合が良かった。ここで僵尸兵を大人しくさせるのが先決だが、二人の目があっては滅多な事はできないので。

「仙人、反応、確認」

 僵尸兵が腰の後ろからショットガンを取る。銃口が二つ並ぶ中折れ式のそれをひたりと向けられた老虎は、体の左右で肘から

先を軽く上げ、左右に広げつつ親指と人差し指で輪を作る。

 転法輪印という印相に似た形にした手を、肘を支点に右手を下から、左手を上から、回転させて腹の前に移動させ、双方の指

で作った輪を上下から向き合わせて…。

― …? ―

 ふと、ルーウーは動作を止めて腕をだらりと垂らし、何かに気付いた様子で背後を振り返った。

 鼻をヒクリと動かし、香りを嗅ぎ、巡らせた老人の視界に入ったのは、陽光を背に浴びて中空に在る、黒白の巨躯。軍服姿で

両腰には長剣。

 風鳴りを伴い、崖を見下ろす高い岩山の頂から、落差80メートルを物ともせず跳躍してきたのは、ジャイアントパンダの巨

漢だった。

「…仙人、反応、確認」

 僵尸兵が反応を示す。同時に、地面を震わせ足元の岩盤をドガンッと踏み割り、ユェインが着地する。その右手は既に左腰で

長剣の柄にかかり、抜刀の構えを取っていた。

「…目標補足…」

 ジャイアントパンダの隻眼がギラリと輝き、高所から着地し屈んだ状態で、右手が左腰の長剣にかかった。

 腰を低くして向きを変え、二連のショットガンを構え直す僵尸兵。

 両者の間に立つルーウーは、ジャイアントパンダの方だけを見ている。

 刹那、ユェインの大腿が膨れ上がり、全身が薄く燐光を纏った。

 岩盤すら踏み割り、爆発するような勢いで地を蹴り、翡翠色に輝く刀身を抜き放つジャイアントパンダ。押しのける空気の流

れすら置き去りにする突進で、一気に前進し…、

「御免!」

 一言残し、ルーウーの脇を抜ける。そして薄緑の剣閃が一瞬、逆袈裟の軌道で弧を描いて煌めくと、僵尸兵の手の中でショッ

トガンの前半分が宙を舞った。

 剣筋は視認できず、その残光のみを空間に残した一閃に続き、ユェインの左拳が僵尸兵の腹部を捉え、ズンと、踏み込みと打

撃が同時になって重い振動音を立てる。

 僵尸兵が吹き飛ぶ事もなくその場で膝から崩れ、昏倒すると…。

「重ねて失礼!」

 ユェインはチンッと素早く剣を収めつつ、崖から滝つぼめがけて飛び込んだ。ここへ飛び降りて来る前に、大狸がレッサーパ

ンダを庇いながら身を投げる所までは確認している。

 飛び降りるジャイアントパンダを見送ったルーウーはただ、静かにそこに佇んでいる。懐かしそうに目を細めて。

―まこと 奇なる 縁也―

 飛び降りたユェインは、落下中に下の様子を確認した。

 どうやらレッサーパンダを抱えて跳んだ大狸は、着水の衝撃で気を失ったようで、浮かんだまま身じろぎせず水面を流れてゆ

く。
一方、抱えられていたホンスーは、まるで流木にすがる漂流者のような格好でカナデの体に乗り上げたまま気絶していた。

 水面までの高低差は20メートル余り、重傷を負う可能性が高いどころか、落ち方が悪ければ死んでも不思議ではない落下距

離だった。
まんまと生き抜く狸のタフさに半ば呆れながら、ユェインはその身を気功術で保護したまま着水。高々と水柱が上がっ

た地点から5メートルほど離れた位置に浮上し、そのまま泳いでふたりに近付くと、ホンスーの後ろ襟とカナデの肩を掴み、溺

れないよう両者を仰向けの格好にさせ、自らも後ろ向きで水を蹴って泳ぎ、力強く牽引して岸に向かう。

(両者とも無事…。ホンスー、やっと見つかった…。チョウも安心する事だろう。こちらの若人にはどう礼を尽くせば充分に応

えられるだろうか…)

 そうして川岸にたどり着き、ふたりを押し上げ、自らも上がると、ジャイアントパンダはふたりを仰向けに寝せてそれぞれの

呼吸を確認し、顎を起こして寝かせ直す。

「ホンスー…。よく生きていてくれた…」

 小さく呟き、ホンスーの濡れた頬をそっと大きな手で撫でるユェイン。隻眼には安堵の色が浮かんでいる。そしてジャイアン

トパンダはその場で姿勢を正し、片膝をついて…、

「先程は失礼を…」

 胸の前で右拳を左手で包む格好になり、頭を垂れた。

 下げた頭の先には、いつの間に降りて来ていたのか、気絶している僵尸兵を軽々と肩に担ぎ、足音も無く現れた老虎の姿。

「ご無沙汰しております、老君」

 ユェインは深々と頭を下げる。かつて自分と仲間の命を救ってくれた恩人に。

 ルーウーは僵尸兵を地面に寝かせ、目を細めて微笑し、首を垂れるジャイアントパンダを懐かしそうに見下ろす。

―顔を 上げよ 身共に 傅く 必要は ない―

 そっとジャイアントパンダの肩に手を置くルーウー。

 老虎の手の温もりに、かつての出会いを思い出すユェイン。

 あの、雨に打たれた冷たい夜と、その手の温かさは変わりなく…。



 

 大地を叩いて霧に煙らせる、激しい雨音。

 流れ続ける雨に刻々と奪われてゆく体温。

 胸を三分の一ほど裂かれ、這いつくばったまま、かろうじて呼吸するジャイアントパンダは、片方だけになった目で睨み上げ

る。鬼火のような光を青白く目に灯す、片牙の剣牙虎を。

(新手の…、仙人…!)

 カハッ、カハッ、と吐息に咳が混じり、血の飛沫が弾ける。

 雨に叩かれ、泥土に這うユェイン。

 隊は壊滅。動ける者はない。助けを呼ばねばならない状況で、今にも息絶えそうな彼の前に立ったのは、確実に人外であろう

老人だった。

 ズタズタになった屍が折り重なる、凄惨な光景の中、突如現れてユェインを見下ろしていた老虎は…。

―動くな―

 その、意図が直接頭の中に飛び込んでくるような感覚で、ユェインは残った右目を見開く。

 瞬時に理解した。その老人に敵意はなく、むしろ…。

―其処許 それ以上 動けば 命は ない―

 泥に膝をついた老虎は、その両手を体の脇で左右に広げ、親指と人差し指で輪を作る印を結ぶと、それらを上下から回転させ

て腹の前へ。上と下から向き合わされた輪の下で、漢服にも似た衣の腹に、太極図が影絵のように浮き上がり、ゆっくりと回転

し始める。

 たちどころに、その回転は目にも止まらぬ速さとなり、鬼火のように青白く輝く円と化す。そしてその図の前に据えられてい

た両手にも、瞳に灯された物と同様の青白い燐光が宿された。

 被毛の色も褪色した手に、鬼火のような青白い光を宿させたルーウーは、這いつくばるユェインの背中…肩甲骨の上にそっと

添える。

 たちまちそこから温かさが流れ込むような感覚。ユェインの体は火照り始め、叩きつける雨が気化して煙雲が立ち昇った。

 それは、生物が持つ治癒力を引き出す仙術。意識を持って行ってしまいそうだった痛みが和らぎ、苦しかった呼吸が楽になる。

それでも死にかけの状態からすればマシなだけで、健康体ではないのだが、それでもユェインにはたちまち体が治ったような驚

きがあった。

―しばし 待つよう―

 ある程度治癒が進んだ後で、老虎は衣が汚れるのも構わず泥の中に胡坐をかき、ユェインをひっくり返して仰向けにさせ、胡

坐をかいた自らの脚を枕代わりに寝かせると、先ほどと同じ手順を行なって、今度は分厚い両胸に手を添えた。

 降り続ける雨を遮るように身を乗り出している老虎の、上下逆さまの顔を、片方だけになった目で下から見上げながら、ユェ

インは呆然としていた。

 あまりにも突然で、こんな事が起こり得るなど想像もしていなくて、それでいて間違いないのだと実感もできていて、だから、

感動の大きさとは裏腹に、何の感情も表現できなかった。

 「神仙」。

 悪しき仙人や妖怪も逃げ惑う、伝承に語られる超越者。実在する神話その物。

 そんな存在に自分達が出会える日が来るなど、この時までユェインは考えた事もなかった。



 

 老虎に促されて立ち上がったユェインは、白濁している左眼の、目尻にそっと指で触れる。

 あの日、因縁の仙人を追って現れたルーウーの術で一命を取り留めたジャイアントパンダだったが、その術は基本的に生物本

来の治癒力を引き出すという物であり、被術者の生物としての治癒の限界を越えられない。要するに治癒できる範囲は、「時間

があれば自然治癒する」傷に限られる。

 よって、ユェインはあの時、かろうじて喋れるようになった後、ルーウーからある選択を委ねられた。

 その結果、今のユェインが在る。ある事を手放し、代わりにこの生を得て、今日が在る。

 最善を尽くし、最後の選択を自分に預けてくれたルーウーの配慮に、ユェインは深く感謝している。

 後悔は、していない。

―そこな 兵より 毒気は 抜いた 二人の 治療も 身共が 請け負おう―

 高所から水面への落下で全身打撲を負っているカナデとホンスーを見遣り、老虎はたっぷりした顎を深く引く。「かたじけな

い」と深く頭を下げるユェイン。

―最後に 会うたは 九年は 前であろう… 息災か ユェイン―

 懐かしい恩人に優しく呼びかけられ、顔を上げたジャイアントパンダは「はい。お陰様で」と目を細める。

 それは、良く言えば質実剛健で謹厳実直、悪く言えば四角四面の強面連隊長が、こんな表情もできるのかと、隊の多くの者が

見れば困惑しそうな、優しい微笑だった。

「老君も御健在で何よりです。…チーニュイちゃんは何処に?」

 孫娘の姿が傍にない事を訝ったジャイアントパンダに、近くに居ると剣牙虎は応じた。

「…いや、もう幼子という歳でもなくなったか…」

 ジャイアントパンダは微苦笑した。前に見た時は本当に小さかったが、今ではもう少女の年頃、おぶられていなくて当たり前

か、と。

―難儀 しておるか―

 ルーウーが大変そうだと印象を伝えると、ユェインは耳を伏せて「面目ございません」と、深く首を垂れる。

「この度は配下の兵がとんだご無礼を…。申し開きもできません」

 跪いたまま詫びるユェインに、よいよい、とゆるやかに首を振って応じたルーウーは、ジャイアントパンダの腰…そこに吊る

された一対の剣を見つめた。

―その宝貝 今は 其処許が…―

「はい」

 ユェインの表情にも態度にも変化は無かったが、ルーウーは察した。剣の持ち主が変わっている理由を。

―そうか… あの 黒熊の大男も…―

「ヨン隊長も、皆も、ここに…」

 ジャイアントパンダは自分の分厚い胸に手を当てる。

「あの折に救って頂いた五名、今や私独りとなりましたが、皆の志は、未だ我が内に」

 ルーウーは思い出す。

 二十年以上前。雷鳴響く豪雨の中、微かな気配を頼りにある者を追った先で、泥土を這いずっていた若者を見つけた日の事を。

 酷い有様だった。息があったのは軍人五人だけ、他の多くの兵士も、近くの村の住人も、悉く無残な骸となり果てていた。

 仙術、斬鞭。その大規模かつ改修した物が行使されたと推測される断裂領域は、半径1キロにも及び、範囲内で生物だけが解

体されていた。ひとも、鳥も、虫も、全自動補足で悉く…。

 しかしルーウーはその時、本命に迫っていると実感しながらも、追跡を断念した。

 まだ追いつける可能性がある。一刻も早く追うべきである。そう考える一方で、目の前で消えかけている命を見捨てる事が、

どうしてもできなかった。

 結局のところ、救えたのは五名のみ。その内の一人が、当時まだ新米将校に過ぎなかったこのユェインだった。

―そこな ホンスーに 同類の 匂いが あった 其処許の 仙気で あったか―

「む?そうでしたか…」

 顔を上げたユェインは、気絶したままのホンスーを見遣って怪訝な表情になった。移るほど接してはいなかったはずだが、と。

「消息不明で案じておりましたが、ホンスーを救って下さったのは老君でございましたか」

 連絡が途絶えていたレッサーパンダ。生き延びられたのはかつての自分同様、老人に救われたからだったのかと考えたジャイ

アントパンダに…、

―否 そこな 若人 カナデ也―

 ルーウーは並んで寝かされている大狸を示し、カナデがホンスーを救出して今に至るまでの経緯を掻い摘んで伝えた。シャチ

の事だけは伏せて。

「こちらの若者は…、異邦人と見えますが?」

―左様 蓬莱の 稀人也―

 気を失っているカナデに深く頭を下げるユェイン。窮地から助け、そして先ほども助け、二度も命を救って貰った。

 素性などは勿論気になったが、彼が老人と同行している理由などを問おうとはしなかった。詮索しないのは、老虎を煩わせた

くないのと、のんびり話をしている贅沢が今の自分に許されない事を理解しているからである。

「老君。実は先の兵、仙気に反応するように仕立てられております。銃を向けたるは老君を誅すべき「仙人」と誤認しての事…。

これは我らも想定外の不手際、ご迷惑をおかけして申し訳ございません。事態は早急に収束させま…」」

 ユェインは胸の無線機の着信に気付く。一時無視しようとしたが、ルーウーが促して…。

「…私だ」

『チョウです。手短に申し上げます。仙人と交戦しました』

 ピクリと、ユェインの眉が上がった。

『仕留めましたが、弱過ぎました。単独で放浪するには不相応な未熟さです。おそらく近辺に師か兄弟子が居るものと思われま

す。僵尸兵の行動及び移動から推測するに、少なくとも三体以上は…。おそらくですが合流を目指しています。…連隊長が向かっ

た先、山岳付近で』

「…そうか」

 僵尸兵が反応した内のひとりは、目の前に居るルーウーだろうと考えたユェインだったが…。

―慧眼也―

 老虎の感心したような意思を察して眉を上げた。

―確かに 「身共以外に」 まだ三名は 在ろう―

「っ!?それは…」

 問うジャイアントパンダに、剣牙虎は目を閉じながら答えた。

―ともすれば 「四罪四凶」か とも思う―

 ユェインは半眼になる。予想もしていなかった大物の名が挙がった。

―身共は それを追い ここへ 至るもの也―

 ルーウーは今まさに、その足取りを追う途中にあった。あの嵐の夜と同じように…。そう老人の意図を受け取ったユェインは、

『もう一つ、事後承諾を頂かねばなりません事柄が一点…。上校?どうかなさいましたか?』と声を届け続けている無線機に話

しかけた。

「上尉。周囲に気取られないよう聞いてくれ。私は今「神仙」に謁見している。君もお会いした老君だ」

『は!?い、一度切りますので、お済みになられましたら…』

「いや、このまま聞いてくれ。ただし、神仙がここに居られる事、くれぐれも周囲の者に気付かれないよう配慮を頼む。気付か

れれば上に報告せねばならず、しかしそれでは老君が煩わしい思いをなさる」

 驚き、緊張し、気を利かせようとするチョウに、ユェインは告げた。

 ルーウーの情報は軍上層部は勿論、国の中枢も求めている。所在は把握したいだろうし、護衛という名の監視もつけたい。

 しかし老虎は軍とも国とも関わりたくない。ユェインはこの意図を汲んで、今回接触した事は公的な記録に残さないと決め、

チョウも『御意に』と了承した。

「老君はおっしゃった。四罪四凶が近くに居る可能性があると…。それを追っておいでなのだ。その上で推理して貰いたい。君

が誅した仙人、及び他の仙人…。その合流地点が山岳中…。向かう先で合流する相手が四罪四凶である可能性は、如何に?」

 周囲の者に内容を聞かれないよう移動しているのだろう、無線に雑音を少し混ぜたチョウは、極めて短い思考時間を挟み、固

い声で応じる。

『四罪四凶が本当に居る可能性は高いと見ます。そこの山岳地に潜んでいるとすれば、奴らが直線移動せず、しかも分れて移動

していた事にも説明がつきますので…』

「説明がつく、とは?」

『奴らの狙いから逆算して申し上げます。山岳地に至る道中で、三者三様にそれぞれが人家のある場所を襲いつつ移動するとな

れば、あの三条の弧を描く道筋は、地理の面から言って必然…。分かれて移動し、かつ直線的な移動でなかったのは、手分けし

て「献上物」を集めるため…。単に仙人同士が会うだけならそこまでして土産など集めないでしょう。無礼があってはならない

格上と会うからだと考えれば納得が行きます。つまり、仕留めた仙人、及びこちらが想定している残り二体の目的は、「手土産

を持参しての四罪四凶との謁見」と考えます』

―同意 也―

 無線機から僅かに漏れ出ている声にルーウーが相槌を打ち、ユェインは無意識に唸った。

「であれば、だ」

 気同様に声も低く鎮めて、ユェインは問う。

「目的と経緯が判明した今、連中のより正確な移動経路を割り出せるか?」

『ただちに取り掛かります!』

 力強い返答を得て、ユェインは顎を引く。

「私は仙人達のルートから見た場合、目標地点により近い位置。結果的には先回りした位置に居ると考えて良いな。では、君の

移動路予測の結果を待ち、来る仙人を迎撃する」

 僵尸兵の検死と周辺警戒及び探索を続けている大隊には、自分の方から連絡する事を副官に告げると、ユェインは「それで」

と話を戻した。

「先程言いかけた、事後承諾が必要な件とは…」

『は!恐れながら、仙丹を服用しました。また、大隊一つ喪失した損害状況を鑑みた上で、仙人との連戦が予想される事態のた

め、独断で最寄りの中継基地へ補給を要請しまして…』

「結構、手間が省けた。どのみち物資の補給は必要。報告があれば私が要請し、我儘を言って茶葉もねだる所だったが…」

『そうおっしゃると思い白牡丹を要望しておきました。他、将兵の慰労のため菓子類と酒も少々』

「つくづく、君が居ると連隊長付秘書官を配備して貰う気にならないな。それで、いつごろの到着に…」

『最優先物資は日付が変わる前に届きます』

「早いな」

『ええ、まぁ…』

 少し言い辛そうに口ごもるチョウ。「どうした?」というユェインの問いに、猪の副官は小声で応じた。

『要請後、折り返し連絡がありまして…。中継基地においでだった「離将(りしょう)」が、要請を小耳に挟むなり、直々に、

お一人で、止める間もなく出陣なされたと…』

「相変わらず動きが良い」

『良過ぎます』

「上尉は彼に気に入られているからな」

『………』

 腰が軽過ぎる八卦将に対して他に感想はないのか、と言いたくなったチョウだが、あえて黙っておく。自分が今話している相

手もホイホイ単独行動する点で一種の同類だったと、遺憾に思いながら。

「時に上尉、私以外の八卦が作戦行動中の同地区内で中継基地に居たのは、たまたまだと思うかね?」

『情報が少ないので何とも…。ただ、「あのひと個人」について申し上げるなら、何の含みも無いでしょう。隠れるどころか直

々にいらっしゃるぐらいですから。何らかの任を帯びての駐屯だとすれば、まず僵尸兵計画の監視が考えられます』

 他の八卦将であれば何らかの密命を帯びている事や、裏から手を回されている事も考える。そう遠回りに述べたチョウに「同

感だ」と応じ、こちらに不利益が及ぶような動きは無いだろうと判断したユェインは…。

「こちらからはもう一つ報せがある、ホンスーは老君に同行していた」

『!?』

 チョウが息を飲む。

『無事…なのですか!?』

「気絶している。全身打撲といった所だ」

『何があってそんな状況に…!?』

「私もまだ詳細を把握していない。落ち着いてから確認する」

『了解しました…』

 副官の安堵の気配を察しながら、ユェインは「では、手筈を整えて待つ」と一度通信を切った。そこへ、ルーウーが微かな笑

みを向ける。

―あの 猪の若人 チョウと いう名で あったな―

「は」

―良い 片腕に なったようだ―

「老君に頂いたこの命、そしてこの剣と並び、私には過ぎたる三つでございます」

 本人が聞いたら顔を真っ赤にして謙遜するだろう褒め方を真顔で真面目にして、ユェインは改まってルーウーに向き直る。

「老君。もし…。もしもその四罪四凶が、「三苗(サンミャオ)」であったならば…」

 ユェインの脳裏に、あの嵐の夜の光景が、見送った後ろ姿が蘇る。

 ルーウーに救われる前、自分達の隊を壊滅させ、多くの民の命を奪い、食らうでもなく放置して立ち去った怪物の、黒々とし

た背中と、吐き捨てられた言葉が…。

 

―不味い… 食う気にもなれぬ…―

 

 ギシリと、噛み締められたユェインの奥歯が鳴った。

「私に…、皆の仇を討つ機会を与えて頂けますか?」

― ……… ―

 ルーウーは思案するように目を細めた。

 老虎がこの広大な陸を漂泊する理由…、それは「四罪四凶」と名乗る八仙の足取りを追っての事である。

 神仙達が住まう「桃源郷」にかつて在った四罪四凶は、それぞれが名のある神仙の弟子であった。しかし彼らは、ルーウーの

友がある人物にもたらそうとしたモノを奪い、野に下った。そして、今やひとに害を成す地上の仙人…ユェイン達が抗う邪仙達

の祖となった。

 ルーウーの友はその責を問われ、桃源郷を追放され、四罪四凶が居る限り大陸に居られないよう、呪詛による禁を受け、海を

渡った。

 自ら桃源郷を出奔したルーウーがこうして流離い続けるのは、四罪四凶をどうにかして、友にかけられた禁を外すためである。

 悲願ではある。万が一にも四罪四凶がひとに討たれれば手間が省ける。だがルーウーは、ひとをけしかけたりする気にはなれ

ない。本来は自分達が…、否。「桃源郷が人類を見限った」以上、自分が成さねばいけない事だと考えている。

―アレらは 本来 ひとが 手を出せる モノに 非ず―

 足取りを追って二千年余り。これまでにルーウーが討てたのは二名。一名は自らこの地を去り海を渡った。大陸に残るのは五

名だが、ひとが立ち向かってはいけない、近付いてはならない、そんな存在ばかりである。

 だがルーウーはユェインに対し、危険だとも、死ぬぞとも、言わなかった。そんな言葉でこの巨漢が引き下がらない事は判っ

ていた。あの日救った五人が、全員同じ考えだっただろうと想像もついた。

―一考 しておこう―

「有り難うございます…」

 深く頭を下げたユェインは、気を失ったままのふたりを見遣った。

(老君が手当てして下さるだろうが、すぐには動けまい。目覚めを待って説明する余裕もない。やはり…)

 ユェインは自分が来た方角に目を戻す。

(仙人達がここへ至る前に迎え撃つ。それが最も安全な策だ)

 夕暮れが迫る。夜は、すぐ近くまでその足を伸ばしていた。

 

 

 

「遅ェなァ」

 シャチは後方を窺いながら呟く。食料を確保しながらとはいえ、少々時間がかかり過ぎではないかと。見れば、待ち疲れたの

かチーニュイは岩にもたれかかり、うとうとと頭を上下させている。

 適宜前方を窺い、安全なままかどうか確認して待機を続けるシャチは…、

(ん?何か居やがる…?)

 谷間の直線状、夕暮れに染まる切り立った岩山の上を注視した。

 そこに、何かが居た。

(……………)

 牛の獣人だろう。長毛種と見える。ゆったりとした赤黒い道服を纏い、切り立った岩の上に片足で立っている。

(………)

 十数秒前、そこには何も居なかった。絶対にと言い切れる。なのに今そこでは、得体の知れない長毛の牛が、前に真っすぐ伸

ばした腕で、喉を掴む格好でひとをぶら下げている。

 その手は、全体のバランスから見て妙に大きく見えた。

(…ヤベェなァ)

 ユェインが行方を追っていた、はぐれた僵尸兵の一方。そんな軍側の動向を知らないシャチだが、それを殺している何者かが

あからさまな「危険」である事は察した。

「おい小娘ェ」

「寝てない!」

 シャチの呼びかけでチーニュイが顔を起こす。

「いや寝てたろォ?」

「寝てない!ほら起きてる!寝てたら喋らない!オッサンなのにそんな事も判らないんだな怪しいヤツは!」

 憤然と抗議する狐の娘。相変わらずシャチには気を許していないのに、目の前で居眠りはする。

「寝てても喋るんだぜェ?寝言とか」

「チーニュイは寝言言わない!知らないけど!」

「知らねェのに何で自信満々なんだァ?」

「お爺ちゃんに言われた事ないからだ!」

 そんなやり取りをしながら、シャチは努めて考えない。

 見なかった事にした。

 さっきのアレはヤバ過ぎる。だから見なかった事にする。

 気付かなかったし見てもいない、だから同行している娘と、のんきにこんなやり取りをする。ほら、気付いていないだろう?

と、自分の頭上から覗き込んでいる牛の、大きく見開かれた目を、決して見上げずに…。

 いつのまにそこへ移動したのか、岩壁に水平に立ち、そこから腰を折って覗き込む牛は、シャチと同等の大柄な体躯。

 青黒い鉱物のような毛色で、全身がのっぺりと同じ色。右手には、首を折って殺した僵尸兵の死体をぶら下げたままである。

 顔に被さった長毛からギョロリと覗く目は、常人が見れば悲鳴を上げるような異相。顔の半分を埋めるほど大きいグレープフ

ルーツ大の眼球が二つ、頭頂部から伸びて顔を覆った長毛の中からシャチをじっと見ている。

 妙な、そして不味そうな、銃を向けてきた無礼な兵士を殺した後で、彼は視線を感じた気がした。そして、あの距離で自分に

気付いたならまともではないし、殺しておいた方が良いとも思った。

 気配がある。微かにだが仙気を感じる。しかしそれは自然物にも時折宿る程度の物。出所がこの鯱なのか、狐なのか、そもそ

もこの二人なのかどうかも判らない。

 だから、牛は観察している。別に欲しくはないが殺すべきだろうか?と…。

 シャチは考える。気付いていないふりを演じながら。

 もしもチーニュイが自分達の真上に居るソレに気付いたら、その時は手を打たねばならない。しかし問題は、自分の能力がこ

の状況では制限される点。

 周辺は乾燥しているが地下水はある。距離はあるが小川もある。だがそれらを近くまで導くにはどうしてもタイムラグが生じ

る。引き寄せておくなどの事前準備は、その挙動自体を察知される可能性が高いのでできない。つまり、もしも仕掛けて来られ

た場合、この「できれば交戦するどころかお目にかかりたくもないレベルの厄ネタ」相手に、後出しで勝負しなければならなく

なる。

 ユェインを百点満点の厄ネタとするならば、こちらは二千点以上の厄ネタ。隙を突けば一泡吹かせられるかどうか、そしてそ

の後は勿論面白い事にならないのが確実な存在…。

 程なく、シャチは気配が消え去ったと感じた。その事にも特に反応らしい反応はせず、後方を振り返り、イライラしているよ

うな態度で貧乏ゆすりなどをする。

「おいオメェ、ちょっと戻って連中がまだ来ねェか見て来い」

 やがてシャチがそう声をかけると、反発するかと思われたチーニュイは…。

「判った!」

 意外にも素直に応じた。…というのも祖父の傍に居たいからである。

 狐の娘が駆けて戻るその後ろ姿を、シャチは黙って見送る。

 先程のアレは立ち去ったが、念のために危険から遠ざけるための指示…。何故自分はそうしたのかと疑問に思った。別にどう

でもいい小娘。重要でもないし興味の対象でもない。それなのに…。

 結局のところ、話し相手にもならないし邪魔だから行かせたのだと結論付けたシャチは、気付いていない。

 自覚しないまま、頭のほんの片隅で、「リンと同い年程度だ」と意識していた事など。

 スキットルを取り、煽る。酒は残り少ない。町に辿り着いたら老酒でも求めようかとぼんやり思い…。

 ふと、その目が地面に向く。

 ほんの5メートルほど先。僅かな間だけ視界の外に出ていた範囲。そこに人間が横たわっている。

 軍服姿のそれは僵尸兵の死体。

 音は無かった。気配も無かった。いつ落とした?

 シャチの視線が死体の上方を素早く確認したが、そこには何も居ない。

―なぁんだ―

 ゾワリと、シャチの背筋に悪寒が走った。

 死体が転がっている。それに驚く。それだけならば普通の事。

 だが、周囲を見回すのではなく、迷いなく見上げたその反応は、上に何か居るという意識が元々あった事を裏付けてしまった。

 僵尸兵の死体の死体に目を戻す。動いていた。ただし、手足が動くとかそういった事ではなく、その胸部がボコボコと波打っ

て肥大化し、軍服のボタンがはじけ飛ぶ。

―お前 やぁっぱり―

 ブヂュッと、僵尸兵の胸が裂けて臓物が飛び散り、砕けた骨が赤の中に白く覗く。

 その体内からモコモコと、大きくなりながら姿を現すそれは、赤黒い臓物にも、濁りきった汚泥にも見えた。

―気付いていたんじゃあ ないかね―

 ゴポゴポと、まるで臓物の噴水のように立ち上がるそれは、赤黒い道服に身を包んだ長毛種の牛…。

 顔にかかった前髪を押しのけて、ボコリと盛り上がって露出したグレープフルーツ大の眼球が、真っ赤な瞳孔を左右バラバラ

にギョロギョロと巡らせたかと思えば、立ち上がって身構えたシャチに視線を据える。

―お前 不味そうだね でも まあ 邪魔だから―

 牛の両手が上がる。まるで角スコップのような、手足のバランスに比して異様に大きな手は、片方だけで両胸を完全に覆い隠

せるサイズ。そしてシャチに向けられたその両掌には、ゆっくりと回転する太極図が浮かんで、橙色の光を発している。

 シャチが通常の生物ではないと感じた牛は、目障りなので潰してゆく事にした。煩わしく飛び回る蠅を叩き落としておく…、

そんな感覚で。

(畜生…、やっちまったぜェ、グフフフフ…!)

 シャチは、そもそもの失策が何処だったのか、今更ながら気付いた。

 念のためにチーニュイを戻したその行為…。あれが、まだ監視していた仙人に疑念を抱かせてしまった。

 皮肉にも、垣間見せた配慮が、断片的な情けが、この状況を招いていた。

 不敵な笑みを浮かべ、シャチは愛用のスキットルを、肩越しに後方へ放り投げる。

 能力を発動しても、初動は致命的に遅いと判っていた。

 ガコンと、岩壁に当たったスキットルが地面に転がり…。

 

 ミシリ…。

 そんな小さな音を聞いて、狐の娘は立ち止まる。

 振り返り、耳をピクピクさせ、しばし佇んでいたチーニュイは…。

「怪しいヤツ…」

 ポツリと呟き、いけすかない巨漢の顔を思い浮かべ、引き返す。

 早歩きが駆け足になり、やがて駆け足が疾走になり、少女はまるで谷風のように坂道を駆け戻り…。

「………」

 そこは、十数分前とは様相が一変していた。

 自分とシャチが腰を下ろしていた辺りから先、50メートル以上に渡って、まるでスプーンで杏仁豆腐を掬ったように、すり

鉢状に抉れて穴になっていた。

 谷間の岩肌のあちこちから噴水のように水が噴き出し、大穴の底に泥水が溜まってゆく。

 狐の娘はおもむろに屈むと、穴の縁近くに落ちていた物を拾い上げる。

 それは、鯱の巨漢が使っていた、表面が黒革張りのスキットル。

 両手でそれを胸の前に持ち、チーニュイは水音が響く崩壊した渓谷を眺め、スンスンと鼻を鳴らしてから呟いた。冷たく、硬

く、思いつめた表情で。

「…タオティエ、見つけた」

 独特な仙気が周囲に漂っていた。

 チーニュイは仙人ではなく、基本的に仙気を感じ取れない。だが、たった一種類だけ、自分が生まれた村に残されていた特定

の仙気だけは、気配として第六感が感知する。長い年月を経て、それだけは判るようにしてきたから。

 老虎が追う者。自分の父母を殺した者。自分から故郷を奪った者。あまりにも用心深く、疑い深く、痕跡も軽率に残さないた

め、手掛かりを掴む事すらままならない相手。

 その名は、四罪四凶「饕餮(タオティエ)」。

 チーニュイにとっては怨敵であり、愛する祖父が追う相手であり、現在の自分を成す「因縁その物」でもある。

 少女はシャチのスキットルをポケットに押し込むと、傍らの崖を見上げ、スルスルと身軽に這い上り、夕闇迫る中へ姿を紛れ

込ませた。