漂泊の仙人と煙雲の少女(十)

 蝉も賑やかで、川のせせらぎが耳に心地よい、中秋節まで一ヶ月を切った八月半ば。

 川を見下ろす岩場の上に、小さなレッサーパンダが立っている。脚を閉じて膝を心持ち内側に曲げ、背中を丸めて小さくなっ

た男の子は、小柄な体がなお小さく見えた。

 ホンスー七歳。岩場から1メートル下の水面を見下ろすその目には、判り易い怯えの色。

「大丈夫。ここは俺の胸ぐらいの深さだから、飛び込んだって怪我はしないさ」

 傍らで恰幅のいい猪の青年がそう言うが、頷くホンスーの足は少し震えている。どちらも下着一枚…特鼻褌を腰に締めただけ

の格好である。

(まぁ、危ないと感じる事…自分では手に負えない、自分には無理、そう感じた事を避けたがるのは、賢い事なんだが…)

 チョウは竦んでいるホンスーの震える耳を見下ろしながら、そんな事を考えていた。

 君子危うきに近寄らず。怖い事を怖いと、危ない物を危ないと、認識して距離を置くのは間違いではない。無理強いしなくて

も良いのではないかと個人的には思うのだが、隣の家のジャイアントパンダから聞いた話は気になっている。

 最近子供達の間では、川への飛び込みが流行しているらしい。どれほど高くから飛び込めるか、どんな格好を決めて飛び込め

るか、そんな事を競ったりもしているとか…。

 まぁ自分達も滝飛び込みで度胸比べなどもやったし、行くなと言われていた崖伝いの絶壁探検などもしていたので非難はでき

ないなぁ…。と、振舞われた月餅をご馳走になりながら茶飲み話を聞いていたチョウに、ホンスーの父は言った。

 どうも、倅はその飛び込みが苦手なようで、最近友達に馬鹿にされたりからかわれたりしているらしく、時々帰って来て悔し

がって、風呂桶に向かって威嚇のポーズを取ったりしている、と…。

(ホンスー君自身が悔しがってるっていうんだから、協力もやぶさかではないけどな…)

 遊びの流行などすぐに変わるし、拘るのはくだらないと言えばそうなのだが、聞けば何とかしてやりたくなる。ホンスー達子

供らは、歳が離れているチョウからすれば、全員ずっと面倒を見てきた可愛い弟妹のような物である。

「しかし…、何で苦手なんだろうな?」

 そこが判らなくて、チョウは緊張の和らげの狙いもあってホンスーに話しかける。ホンスーは身軽で鈍臭いとは言えないのに、

何故川への飛び込みは苦手なのか…。そこには何か理由があるような気がした。

「ホンスー君、木登りなんかはかなり得意な方なんだし、高い所が特別怖いっていう訳でもないだろう?」

「そうだけど…」

 レッサーパンダはチョウに向き直ってその顔を見上げると、不満げに漏らした。

「何でみんなへいきなの?水の中に大きい魚とかいて、ぶつかったらどうするの?」

「………」

 一瞬黙ったチョウは、なるほどなぁと納得した。

 見えない向こうに何があるか判らない。それが水面への飛び込みをホンスーが嫌がった理由…。そう理解したチョウは目を細

くして笑った。やっぱりホンスーは賢い子だ、と。知能や知識とは別に、気付き方や考え方が「賢い」。
例えば軍人などであれ

ば、あえて危険に飛び込まねばならない時もある。だが、普通に生きている限りは危ない事をしないに限る。

「よし、それなら…」

 言葉の途中で歩を進めたチョウは、「そーれ!」と掛け声を上げて川に飛び込んだ。太い水柱が上がり、跳ねてきた飛沫から

腕を上げて顔を庇ったレッサーパンダは、胸から上を水面に出している猪を見下ろした。

「今ので魚は追っ払ったから、飛び込んだってぶつからない。何だったら俺が受け止めるから、思い切って飛び込んでごらん」

 両手を広げ、危ないようならキャッチするとアピールしている猪にそう言われて、ホンスーは唾を飲み込んだ。

 村に戻ってきた貴重な休み、皆からあれこれ話をせがまれて忙しい中、わざわざ時間を割いてくれたチョウの配慮は、幼くて

も身に染みる。ここで良い所を見せなければと、レッサーパンダはフンスと鼻息を漏らし、背筋を伸ばした。

「じゃあ、いくよ!」

「よしどんと来い!」

 宣言したホンスーが数歩下がる。そこまで助走は必要ないのにと、遠ざかって岩陰に姿を消したレッサーパンダを訝しがりな

がら見守ったチョウは…、

「たぁー!」

 声を上げて駆けてきたホンスーの様子を見て焦った。

 ガッチリ、思い切り、力いっぱい目を閉じている。しかもそのせいで踏み切り位置を誤り、かなり手前で跳躍し…。

 猪は悟った。コレは相当ヤバい放物線だ、確実に、と。

 確かに、チョウが要る位置は深い。飛び込んでも問題はない。しかし猪の目測と計算では、レッサーパンダは踏み切る岩の端

を掠める放物線で、滅茶苦茶浅い位置に着水してしまう軌道になる。

 大慌てで前進し、水をかき分けて迎えにゆくチョウ。相変わらず目を閉じたままのホンスーは、スカイダイビングするような

恰好で飛翔し…。

 ズムンッ…。ザポォン!

 弾力のある柔らかい物体に当たったかと思えば、肌に心地よい水の感触が全身を包む。息を止めたホンスーは、飛び込みが上

手く行ったかどうかも判断がつかないまま、脇の下に入った手に持ち上げられて…。

「がふぁっは!げっほ!」

 目の前には、体勢を戻しながらも思い切り咳き込んでいるチョウ。川の端の浅瀬へピンポイントで飛び込むレッサーパンダを、

駆けこんで何とか受け止めた猪は、そのまま背中から水面に倒れ込み、鼻から水が入ってしまっていた。ホンスーが感じた弾力

は、体を張って受け止めたチョウの腹…鳩尾の辺りである。

「できた!ヤッター!」

 できていないが自分の中ではできた事になっているらしいホンスーが万歳。よかったね、の声も出せないまま咳き込んでいる

チョウに…。

「チョウお兄ちゃん!今のもういっかい!」

 面白かったらしいホンスーが無邪気に催促する。

 結局、水面飛び込みというか、猪の弾力がある腹で受け止めて貰う遊びというか、ホンスーが気に入ったそれは日が傾くまで

続いて…。

 

 

 

 ドドドッと音を立てて震動する、急峻な斜面。

 昼日中であれば舞い上がった土煙が目を引くだろう勢いで、軍服姿の猪が、ほぼ崖と言える角度の山肌を駆け上がる。さらに

眼前に現れた幅15メートルの谷を飛び越え、向こう岸に着地するなり四つん這いに近い姿勢で猛ダッシュ。そのまま下りになっ

た斜面を駆け下り、勢いそのままに45度を超える坂を駆け上がる。

 チョウはユェインと通信した直後から、神行法による駆動力を活かして単独行動に移り、山岳地帯へ単身で突入していた。

 バイクや車、まとまった数の部隊であれば移動を制限される地形でも、チョウひとりならば問題にならない。その平均時速は、

高低差や障害を乗り越えながらでも約40キロ。まさに一日何百里を行くと謳われる神行法の真骨頂、岩山も谷も一切関係なく、

千山万水一気駆けである。

(ホンスー君…!)

 疲労とは別の理由で、チョウの頬を汗が伝い、軍服の背にも腋にも染みが浮き出る。

 ホンスーの生存は確認された。信用できる人物に同行していた事も判った。しかし仙人が移動してゆく先に居る上に、付近に

は四罪四凶が滞在している可能性が高い。

 彼は士官ではあるが、兵として満足な戦闘力も、生存技術も持ち得ていない。訓練を受けてなお、一般社会人の平均程度の体

力しかない。射撃の腕は、当たるかどうかはともかくまず味方を誤射しないという程度。格闘の腕は、通信教育で拳法を齧った

アマチュアにも負ける程度。機転も人並み程度にしか利かず、軍人として突出した優秀な特色は何もない。「ずっと見てきた」

から、チョウは誰よりもよくその事を知っている。

 もしも彼が単身で仙人と遭遇してしまったならば、あるいはその戦闘に巻き込まれてしまったならば、よほどの幸運にでも恵

まれなければ殺されてしまう。

 ギリリと歯を噛み締める。

 腹立たしかった。

 腹立たしくて仕方なかった。

 きつく当たったつもりだったが、まだ甘かった。例えユェインや他の将校から苦言を呈されようと、力づくでも追い出すべき

だったと、深く悔やむ。

「!」

 突如、チョウは姿勢を低くして踏ん張り、急制動をかけた。

 ザシャシャシャッと砂が堆積した岩場の上を滑走しつつ、両肩越しに背負った剣の柄を握る。手首を軽く捻る動作で峰側に蝶

番が付いた鞘が割れるように開き、胡蝶双刀が鈍く刃先を光らせた。

 そこは岩山が半分から水平にカットされたような、ほぼ平面になっている砂礫の台地。向こう200メートルほどまで見晴ら

しが良い場所。

 腰を沈めて足元を踏み締め、半身になって右剣を胸の高さで水平に、左剣を垂直に立てて牽制するように前へ構えたチョウの

目は、30メートルほど先、枯れて倒れた木に腰掛けている人影に据えられている。

「うん?…人違い、か」

 腰を上げたその男は、ゆったりした道服を纏う、壮年の羊。チョウはその鳩尾を見つめている。

(仙人!あの太極炉の大きさ…、百年級か!)

 羊が大きくはだけて袖を通し、臍の上まで開いている道服の間から、林檎ほどの大きさの太極図が確認できた。

「チャンかと思えば…、誰だ?」

 壮年の羊は胡乱げな顔になる。弟弟子のキョンが慌てて来たのかと思い、足を止めて待ってみれば、見慣れない相手。それも、

軍服を纏っている上に…。

「軍人に成りすましている仙人など初めて見たぞ。どなたの弟子だ?」

 羊の目はチョウの左胸に向いていた。

 そこには、軍服の上に見える、ある紋様…。

 刺繍でも、プリントでもない。内側から浮き上がって被毛と被服の上に現れているそれは、ゆっくり回転する太極図である。

 チョウは二度、長く細く息を吐く独特な深呼吸をした。それだけで激しく上下していた胸も肩も、上がっていた呼吸も静まり、

発汗も発熱も落ち着き、戦闘態勢が整う。

 ユェイン同様に、チョウももはやまっとうな人ではない。太極炉心を埋め込まれたその体は既に、仙人の成り損ないにして、

ひとの成れの果てと化している。

「仙人ではない。第八連隊所属、司令部付き上尉、江周と申す」

 猪の名乗りを聞き、羊の目がつり上がって鋭くなる。

「第八…?仙人にちょっかいを出す身の程知らず共か!」

 知っていた。弟弟子が何人かその手にかかったと聞いた。

 討ったのは、見目麗しくも冷たい目をした、人形のように表情の無い少年兵…宝貝を複数使いこなす、ひとではないかのよう

な者だったという話だったが、それも「第八」の何某などと名乗ったという。

「問う。ここから60キロほど南にある旬苅という町、そこの住民が消えた事に心当たりは?」

 自分に鞭を入れるように、房の付いた尾を鋭くヒュンと振るチョウ。気が弱い者なら直視もできない、猪の鋭い眼光を受けな

がら、羊は「ああ」と顎を引いた。

「なかなか質が良かった。若い者が多かったからな」

「重ねて問う。そこから7キロほど東にある集落に心当たりは?」

「弟弟子が向かったはずだな」

「…最後に一つ…。十二年前、商南県の山岳地、居慶という桃が実る山間の村で、住民も家畜も全て消えた」

 幾度も繰り返してきた問いを、チョウはこの夜も投げかける。

「彼らを…、お前は「食った」か?」

「思い出せないが、その地名にも特徴にも心当たりはない」

 羊の答えは、記憶は曖昧でも断言できるという物。「そうか」と顎を引く猪。

 チョウが追い求めているのは故郷の仇。

 どんな者なのかも判らない、手掛かりもない、ただ殺す前に訊く程度しかできない。相手が憶えていない可能性も、誰かにも

う屠られている可能性もある。探し当てる事は勿論、その手で仇が取れる保証などどこにもない。

 それでも、チョウは問う事を決して止めない。

 問答を終えたチョウが攻撃態勢に移ると、羊は改めてその姿を仔細に確認した。いかにも頑強そうな肥り肉で骨太な体型と体

格。纏う軍服は極々普通の品で、防具と呼べる物は脚部を保護するレッグガードとニーパッド。軍靴はやけにゴツいブーツ仕様

だが、これも特別な物ではない。

(宝貝の防具は身に着けていないな。しかし…)

 注意すべきは三点。羊は油断せずそう判断する。

 一つは、その身に帯びた剣「群」。背に二本、腰を取り巻く格好で六本、合計八本もの過剰積載された胡蝶刀。

(あの剣は「模倣物」ではない、全て「本物の宝貝」だ。同じ形状で八本もある剣…?そんな特徴の品は聞いた事も無いが…)

 もう一つは仙気。太極炉が生み出す力を無駄なく循環させ、身に纏っている。太極炉心を与えられたばかりの仙人ではこうま

で御すのは難しい。

(五、六十年修行した仙人と同等の御し方…。扱いに精通している)

 最後の一つは能力。基本的に、仙人としての資質…太極炉心をその身に定着させられる資質を持つ者は、能力者に多い。仙人

になれる者は一握りだが、その内およそ五人に一人は何らかの能力を持った者である。

(予想は難しいが、警戒はしておくか…)

 見下しはしても油断はしない。その性格故に、羊は今日までひとに敗北した事がない。

 羊は両手を一度頭上に上げると、その手をパンと閉じ合わせ、合掌の形のまま垂直に下ろす。その手が胸の前で止まった瞬間、

地面が震動した。

 チョウの周辺で岩場に亀裂が走り、いくつも盛り上がったかと思えば、岩や土、砂まで舞い上がって形を整えてゆき、甲冑を

纏い、槍や刀を持った人の姿になる。

(土傀儡(つちくぐつ)!)

 兵馬俑の名で知られる人形が外見的には近いだろう。ボコボコと盛り上がった地面から続々と現れる武装した兵は、あっとい

う間に六体出現し、チョウを包囲した。しかもその後方でも同じく地面に動きがあり、まだ数を増やしている。

(これほどの仙術の使い手か…!)

 人生の三分の一程を仙人との戦いに費やしてきたからこそ、チョウには判る。それぞれが生きている兵と変わらない…施術者

によってはそれ以上の働きをする傀儡の兵。これを使役できる仙人は、少なくとも百年以上生きてきた者達である。

 包囲する土の兵を、油断なく見回すチョウ。それらがどの程度動けるかによって、自分が単身で対処可能かどうか見極める心

積りだが…。

「おやおや、急いで来てみる物だ。なかなか見物な状況じゃないか」

 場違いに呑気な、そして涼やかな声が、羊と猪の頭上から落ちてきた。

「その声…!」

 ハッと見上げた猪の目に映ったのは、三日月を背にし、尖った岩山の上に座し、台地を一望している青い獣の姿。

 それは、体長2メートルはあろうかという虎…。獣人ではなく、四足獣の虎だった。

 しかもただの虎ではない。黒い縞模様が刻まれた被毛は青く、白く濃く漂う靄を纏い、青白く燃える火の玉を左右の肩の脇に

浮かべている。

 その胴体にはハーネスが回され、肩と腰の両脇に合計四つ、軍馬に取り付けられるような鞄が装着されていた。

「やはり離将!」

 チョウの声に、すまし顔に薄笑いを浮かべていた虎が、あからさまに残念そうに口の端を下げる。

「ジァン上尉…、「やはり」じゃないぞ。そこは「その声は!我が師「李徴(リー・ヂー)」ではございませぬか!」とか、驚

きか喜びを込めてそれなりに良いリアクションを取って貰いたい物だね?僕が一体何のために目立つ高台に、バックの見栄えま

で考えてよじ登ったと思っているんだ?演出のために決まってるじゃないか」

 見た目は動物の虎…それも青い上に妙な物を周囲に漂わせているのだが、その表情はひとのように豊かで、声も完全にひとの

物で聞き取り易い…どころか無駄に声質も活舌も良い。

「何故こんなに早く…」

「おいおい、君に神行法を教えたのは一体誰だジァン上尉?僕だろう?僕じゃないか。この天才が為す事をそこらの凡人と同じ

定規で測って貰っては困るぞ」

 得意げに顎を上げ、フフンと鼻を鳴らす虎。

 全く説明になっていない返事だったが、チョウは察した。到着が予想より遥かに早かった二つの理由を。

 要請の通信を入れたあの時、すぐ「虎に変じ」た上で神行法を駆使すれば、今ここに居る事は可能。ただしそれはチョウでは

叶わない。

 チョウに神行法を伝授したのはこの青虎なのだが、完全な獣型であるという肉体的特性だけでなく「資質」の面でも違いがあ

るため、同じ神行法の使い手でも効果には差が出る。理由の一つはこれである。

 基本的に、仙人ならざる人の身では習得できる仙術が限られる。この資質は木火土金水の五行になぞらえられており、本人が

宿す資質と相生及び相克の関係性によって、習得し易い術、習得し難い術、習得不可能な術、そして向き不向きが決まる。

 例えば、チョウが宿す資質は「金」。刀剣を用いた乾坤などの術に最も適した資質を持つ。

 そして五行において相生の関係にある「水」…流体やその運動に纏わる仙術とも本家ほどではないが相性が良く、神行法は適

した術の一つである。

 その一方で、五行において相克関係にある「木」…生かし癒し育む仙術とは相性がすこぶる悪く、戦闘行動において利用価値

が高い自己治癒の仙術は何とか体得したものの、仙気消費効率が極めて悪い。

 そして青虎の資質は「水」であり、神行法の効果はチョウ以上に発揮できると同時に、効果を抑えれば一時的に他者へ術をか

ける事も可能。持続時間も作用の強さその物も、チョウを上回っているからこそ、この短時間で到着できた。

 なお、羊の仙人が使用した土傀儡の術は相克関係にある金と木と土を含む複合仙術。これは人の身では習得自体が不可能な部

類に入る。

 そして、青虎がこんなにも早く到着できた理由の、もう一つは…。

「それはともかく、君自身と君の上官の素直クールにまた貸しを作りたくて急いで来たんだが、欲は出しておく物だな。おかげ

で仙人がまだ残っていた。高みの見物と洒落込もう」

 状況に似つかわしくない、世間話を楽しむような発言を繰り返す青い虎を見上げ、羊が顔を顰めた。

「貴様、羅々(ルォルォ)か?妖怪が軍に肩入れするなど…、どういう事だ?」

 これに耳を震わせた青い虎は、不機嫌そうに口を尖らせる。

「失礼な。僕は妖怪じゃないぞ?半分妖怪、半分人間だ。言うなればルォハーフ…いやこの略称はイマイチだな、忘れてくれ。

とにかくアイデンティティは尊重すべきだろう。半分不正解だから地に頭を擦りつけて謝るべきじゃないか?そう謝るべきだ。

ホラホラすぐに。凡人は謝るべき時を逃すと謝るタイミングが掴めなくなるぞ?」

 首を伸ばし、鼻先を上げ、尊大な姿勢で羊を見下ろす青虎。

「つまり「妖化人」か…」

 呟いた羊は右腕を頭上から垂直に振り下ろした。

 仙術、斬鞭。岩山が天辺から15メートル以上も、バターを切るように虎ごと真っ二つにされ…。

「おいおい乱暴だな?これだから凡人は…」

 羊はバッと勢いよく背後を振り返った。

 4メートルほどの近距離。そこにスフィンクスのような格好で、いつの間にか青虎が伏せている。斬ったと思ったのは青い残

像だった。

「僕に戦う気はないぞ?今回は届け物をしに来てやっただけだからな。そもそも…」

 ザゴン、と地面が割れて、またしても虎が消え…、

「ちゃんと話を聞かないか凡人!それと、どうせ当たらないんだから一回で諦めろ!」

 少し離れた場所にまた伏せた姿勢で現れると、不機嫌丸出しの顔でイライラと尻尾を振る。

「テレポーテーションとかしてる訳じゃなく凡人には見切れない超ハイスピードで動いてるだけなんだからな!高速で動いた上

で余裕のある演出のためにいちいち伏せの姿勢を取る僕の気持ちにもなってみろ!」

 言いがかりも甚だしい怒り方だが本人は至って大真面目である。とはいえ、発言内容はともかくその行動からは有り余るほど

の余裕が覗えた。

 八卦将が一角、「離将ヂー」。チョウの要請をたまたま聞きつけてしゃしゃり出た、諜報部第八室の室長…秘匿事項関連案件

対策のエキスパート。「妖化人」と称される、妖怪に変ずる力を持つ存在にして、神行法の達人である。

「離将!そ奴は百年級です!」

 猪が警告する。そこへ、羊の仙人の操作により土傀儡達が、手にした槍を突き込んだ。

 岩の硬度の槍は、黒曜石を割ったように穂先が鋭く尖っている。掠めただけで肉がパックリと口を開ける凶器だが…。

「なんの!」

 チョウは右の剣で一本下から弾き、左の剣の峰部分にある十手型の部位で逆側から突かれた槍の穂先の根元を絡め捉えた。正

面から迫った槍に対しては太い脚を高々と上げ、踵落としの要領で蹴り下げつつ、地面に落としてそのまま踏み折る。

 さらに、槍を捕らえた左の剣を大きく引きながら時計回りに回転し、引かれてつんのめった土傀儡の頸部めがけ、一回転した

勢いを乗せた右剣を見舞って首を刎ねる。そのまま頭部を失った傀儡の泳いだ背中へ左足で回し蹴りを見舞い、反対側の土傀儡

へ勢いよく衝突させる。

 そこへ背後から突きかかった土傀儡の槍を、素早く屈んで穂先を首と肩の間に通過させると、双刀の峰側の十手を上から引っ

かけて引き下ろし、柄を肩に担ぐ格好で力任せにへし折る。かと思えばそのままお辞儀するように前屈みになり、馬や牛が後ろ

蹴りするように背中側へ右足を跳ね上げ、頑丈な靴底で下から顎を蹴り砕く。

 片足立ちの隙を晒したそこへ、別の一体が柳葉刀を振り上げるが、猪の体は落下するような勢いで地べたに伏せ、鋭く素早い

水面蹴りを繰り出す。丸太のような脚が土傀儡の両足を纏めて払い、宙に浮かせると、両手で剣を突き上げて胴を二点で串刺し

にし、そのまま担ぎ上げ…。

「どっせぇ!」

 反対側から迫った土傀儡へ、撞木で鐘を突くように叩きつける。土傀儡双方の頭部が衝突し、木っ端微塵に砕けて土埃が舞う

中、猪は鼻から機関車のように息を吹いた。

 土傀儡の動きはよく訓練された兵士よりよほど良く、歴戦の兵士顔負けの機敏さと力の強さである。だがその群れに囲まれて

なお、チョウは四方から同時に繰り出される攻撃に対処、迎撃してのける。肥え太った体躯は見た目に反して非常に機敏で、ス

タミナも十分。多勢相手に危うさすら感じさせない暴れっぷりである。

「流石は仙術兵器六号。惚れ惚れする大立ち回りじゃないか」

 荒々しくも豪快なチョウの戦いぶりを久々に眺めて、本当に見物に徹するつもりの青虎が機嫌よく笑った。

「頑張れジァン上尉、仙気を使い切っても心配いらないぞ?お望み通り、君らの好物の仙丹も持ってきてやった事だしな」

 軽口を叩いて本当に見物に徹しているジー。仙丹は好きではないどころか嫌いだと思ったチョウだが、文句は言わない。感謝

こそすれど不満など無かった。

 青虎は戦う気が無いと言うが、その訳を猪は察している。ヂーが予想外に早く駆け付けられた理由のもう一つが正にそれ。

 ジープを飛ばして八時間の距離を二時間で到着という驚異的な短縮に加え、第八の本隊や陣ではなくチョウを探して直接駆け

付ける…、その労力はいかばかりか。ヂーはそのせいで仙気をほぼ使い切り、涼しい顔を作ってはいるが疲労困憊で、戦闘に参

加するどころか援護の術を施す余裕すらなく、休憩を余儀なくされている。ただし…。

「もし負けたらお仕置に…、そうだな、尿道にポッキー突っ込んで嗚咽も出なくなるまで嬲ってやるからせいぜい頑張れ」

 エキセントリックな発言で気を散らすのは勘弁して欲しかったが…。

「これだけの土傀儡相手にしぶといな。だが…、いつまで戦える?」

 羊は術を重ねて使用し、破壊された土傀儡を補充する。だが、先ほどから喋り続けている虎を憎々しげに警戒し、何かあれば

術を使用できるよう緊張状態を保っているため、土傀儡の生産に注力できず、生み出す速度が落ちてイラついている。

 逆にチョウは、壊した傍から戻る戦力を前に、押し切れないながらも焦りはしない。

 土傀儡は生物と遜色ない柔軟な動きが可能で、その俊敏性は西洋式のゴーレムとは比較にならない。

 しかし弱点がある。その駆動系式は全身を血液のように循環する仙気による物であり、制御するのは頭部、動力源は胸部と、

人体を模した構造は運動性を高めて細やかな動作を可能としているが、これは急所も人体に近いという事。西洋式のゴーレムは

半壊しても動くケースもあるが、土傀儡は頭部や胴を激しく損傷すれば崩壊する。

 攻撃を捌きつつ、一体一体確実に破壊してゆくチョウ。物量で押す事を主眼に、土傀儡を随時補充する羊。そこだけ見れば拮

抗しており、体力に限界がある猪がいずれは押し切られると思えたが…。

「だいぶ激しくなってきたじゃないか。いいぞいいぞ。ところで仙人、同じ芸も飽きてきたんだが他に何か無いのか?」

 チョウに蹴り壊されて転がってきた土傀儡の頭部を、猫が遊ぶように前足で弄りつつ、青虎が煽るように口を挟み、羊は神経

を逆撫でされて集中を邪魔される。

 無言で展開された斬鞭が地面を抉り、青虎に遊ばれていた土傀儡の頭を両断するが、ヂーはまたしてもその場から消え、気付

けば枯れた大木の太い枝の上に移動して、くつろいだ格好で伏せている。

「凡人がどうしても僕を眩しく感じて、どうしようもなく惹きつけられてしまうのは仕方ない事だが、そんな余裕が自分には無

い事にそろそろ気付けよ。…そら」

 ヂーが口の端を吊り上げる。やっちゃったな、と失敗を嗤うように。

「グズグズしてたから、ツキ(月)が落ちた」

 月光を思わせる光が土傀儡達の上を走った。

 羊は目を剥く。土傀儡と格闘する猪…、その向こうから高速接近し、宙返りしながら土傀儡達を飛び越え、上下逆さまで両手

の剣を一閃させる巨体。

 大きく跳躍して敵陣を越え、ドンと地面を踏み締めて着地したのは、隻眼のジャイアントパンダ。左目の瞳孔の位置には、既

に太極図が浮かび上がっている。

 そこへ、土傀儡を一体、交差させて振り下ろす袈裟斬りで仕留めて後退したチョウが滑り込み、ドンと背中を預け合う。

「遅くなった、上尉」

「いいえ、手間取ってしまい申し訳ございません。よくここがお判りに…」

「派手な破壊音が何度かこだましたので、十中八九、君が仙人か岩か蹴り壊したのだろうと考えた」

 言葉を交わすなり四本の剣が翻り、押し寄せた土傀儡が四体同時に破壊される。二体は胡蝶刀で頭頂部から腰までを垂直に唐

竹割りされ、もう二体は剣筋も見えない無数の高速斬撃でみじん切りにされて。

 羊は目を見張っていた。

 突然現れたジャイアントパンダ。左目に太極炉があり、青白く鬼火のような光を立ち昇らせている。巨体に満ちた仙気は殆ど

零れ出ておらず、接近するまでその存在を感知するのも難しい。

 何より、その両手が握る一対の長剣の特徴が、以前師から聞いたある宝具と一致する。

(「その刃、月の光を束ねて鍛えたるが如し」…、アレがそうなのか?だとすれば…)

 師が喜ぶだろうから欲しい品だが、危険でもある。警戒心がチリチリと刺激される。

 一方ヂーは、駆け付けたジャイアントパンダを見て、また面白くなってきたぞとほくそ笑んでいる。

「ようやくのお出ましか「仙人殺し」」

 青虎の声でユェインの耳がピクリと震え、肩越しに仙人の向こう側…立ち枯れた巨木の方を振り向いた。

「その声は…、我が友、李徴ではないか?」

「お、良いリアクション。これには僕も満足だ」

 ニッコリ目を細めて口角を上げ、機嫌よく尻尾を揺らすヂー。

「ところで上尉、あの仙人だが…」

 ユェインがゆっくり瞬きし、白濁した左目の瞳孔の位置に太極図が現れる。

「は。百年級と見ます」

 仙人は基本的に生きた年月が長いほど強力である。

 チョウ達が「まだ成り立て」と認識する十年未満の者は、装備と人数、そして相手が習得している術次第だが、有効な武装を

用意した一般兵の中隊レベルで討伐できる。無論、犠牲が出ないとは言い切れないが。

 仙人になって数十年経過している者は、肉体がより強靭になり、再生速度も扱う術の危険性も増す。この辺りになると、人と

の抗争、あるいは師による淘汰を抜けて生き残っており、知識がついて戦い方が上手い者が多くなる。

 そして百年級とは、百年から数百年に及び、永いを超えて生き続けている存在。一括りにされているので、その力は生きた年

月の違いで差も大きいが、この辺りになると総じて人の身では体得不可能な仙術を行使するようになっており、災厄と呼べる規

模の存在になっている。

「やはりか。炉心が安定している」

 察していたのだろうユェインの落ち着き払った呟きに、チョウは「では…」と、片耳をピクピク震わせる。

「試みる価値はあるだろう。周りはもう気にしなくていい、下準備を頼む」

「御意」

 同時に動き出すふたり。補充された土傀儡が穴を埋め、包囲網を再構築するが…。

「禁圧解除…。仙術解禁…」

 不意に、身を撓めるように低くして半身に構えたチョウを残し、ユェインの姿が掻き消えた。かと思えば土傀儡達の背後に、

同時に四人出現する。

 ひとりは右剣を袈裟懸けに振り下ろし、もうひとりは左剣で傀儡の首を水平に薙ぎ、三人目は頭部を右剣で両断し、四人目は

両剣を平行に振り下ろして土傀儡の両肩から腰まで斬り下ろし、全て剣を振り終えた格好である。

「何だと!?」

 羊が驚愕して目を見開いた。

 四人に増えて見えたユェインは全て残像。縮地を加えた高速移動からの攻撃で、速度が落ちた一瞬だけの像。実際には四体順

番に斬り倒しているのだが、それがほぼ同時にしか見えない。

 さらに、三日月状の軌跡が間断なく複数、反射光のように煌めき、羊との間に居た土傀儡が全て斬り倒され、視界が開ける。

 次の傀儡が湧くまでの短い猶予…その刹那には、猪がもう準備を終えていた。

「仙術解禁!」

 右手に握られているのは柄を連結された胡蝶双刀。太い胴体それ自体を太く強靭なバネ代わりに、腰から上を大きく捻転させ

たチョウは、双翼刃の投擲体勢に入っている。周囲の傀儡はもう気にしない。その全てを、ユェインは残像だけを見せながら単

身で細切れにしてゆく。

「乾坤、回天!」

 放たれるのは弾丸より速い鋼の旋風。プロペラのように高速回転するソレの威力を、羊の仙人は看破した。防げない事は無い

が、強靭化させた衣でも裂けるし、傷も負う。何より当たったら体勢を大きく崩す。しかも、宝貝の剣である以上、どんな作用

を持っているか判った物ではない。

 首を刎ねんと水平回転で迫るそれを、縮地で真横へ移動する事で回避した羊は…、

「二連だと!?」

 全身を使って投擲した猪が、勢いそのままに大きく踏み込み、既に半回転している様に目を見張った。その後方から引っ張っ

て来られている右手には、もう一本の双翼刃。

「乾坤、回天っ!」

 もう一組連結させておいた双翼刃を、後ろ手を振り抜き間髪入れず投擲するチョウ。今度は地面すれすれの低空飛行、しかも

左右にブレる不規則な軌道の変化球。

 後方に大きく遅れて砂塵を巻き上げて迫ったそれを、羊の仙人は跳躍して躱す。

 が、それこそがチョウの狙いだった。

 土傀儡は高等仙術。そこに意識と仙気を割くなら、熟練の仙人といえども並行して術を乱用するのは困難。一度は術でやり過

ごせても、二度目は使いたくないだろう。何せユェインがその大半を破壊し、旗色が悪くなっているのだから。加えて言うなら

一投目から間髪おかず放つ回天に、熟考して対処するだけの時間的猶予も無いと踏んでいる。

 土傀儡を放棄して防御に専心するか、術を継続したまま避けるか。前者であれば土傀儡を破壊して回るユェインが数秒早くフ

リーになり、後者であればチョウが攻める。打ち合わせも無しに、二人の間にはその意図が共有されていた。

 跳んだ羊は目を見張る。二連投擲した猪が即座に身を伏せ、腰の後ろから胡蝶双刀を抜き放ち、跳躍の準備を終えている事に

気付いて。

 禁圧解除に加えて神行法、その最大駆動。元々太い脚がズボンがはち切れそうなほど怒張し、足元の岩盤を踏み割って砂塵を

吹き飛ばし、猪の巨躯がロケット砲弾のように離陸する。

「しま…、っ!!!」

 失策を自覚した羊の声が途切れた。文字通り吹っ飛んできた猪と激突し、激しくきりもみしながら、そのまま持って行かれる。

立ち枯れた巨木…ヂーがくつろいでいる木の方へ。

「ちょぉっ!?こっち来るなら来るって先にっ…!ニャアッ!」

 これは堪らないと、枝の上で青虎が慌てて立ち上がり、姿を消した次の瞬間、乾いた大木の幹を半ばまでへこませて轟音を上

げ、羊の背中が叩きつけられていた。

 羊の両腕は反射的に組成変換され、激突する前に肩側から順に骨が分解して鞭のように変化し始めていたが、一瞬遅かった。

前腕…橈骨と尺骨の間を通すようにチョウの双刀で刺し貫かれ、術が中断されている。

 さらに、腰の中心から右側には猪の膝がめり込んで、巨木との間で厚みを数センチにまで減らしていた。取っ組み合いからの

膝蹴りはチョウの十八番だが、最大加速が乗ったそれは破城槌の一発に等しい。羊の腰を粉砕して突き抜けた衝撃が、巨木の反

対側で内から裂けたようなささくれを生じさせ、その威力を物語る。

「ぎぃいいいいいいいいっ!?あああああああああああああっ!」

 両腕を貫いて封じられ、腰骨の半分を圧砕され、身の毛もよだつような絶叫を上げる羊。相手の両腕を貫いて潰した剣から手

を離したチョウは、その両襟に指を噛ませて掴むと、グンと背を弓なりに反らして…。

「ふんっぬ!」

 もう一つの得意技、頭突きを見舞う。硬い額がめり込んだ羊の顔面が陥没し、絶叫が止まると同時に、戦場に変化が起こった。

 視認するのも困難な速度で縦横無尽に駆け回るユェインに、切り刻まれていた土傀儡達が、ピタリと動きを止めた。そして、

ボロボロと端から崩れて土の山に変じてゆく。

 巨木の幹にめり込まされていた羊は、今まさにメキメキと音を立てて折れてゆくそこから頭突きの反動で離れ、チョウと共に

落下。そして猪は両腕を頭上に上げる。

 そこめがけて飛来するのは、先ほど投擲した双翼刃二つ。投げられた後に弧を描いて舞い上がり、戻って来たそれらを受け止

めれば、その勢いで落下が加速。体を突き抜けるような勢いを受け止めたチョウは、それを羊の胸…両腕の付け根に近い位置に

突き立てた。

 刹那。地響きを立てて地面へ背中から落ちた羊は、そこに縫い留められる格好になる。

「上校!」

 ドシッと、羊の腹を左足で踏みつけ、最後の二本となった胡蝶双刀を油断なく抜き放ったチョウが声を上げると、仰向けに地

へ縫い留められている羊の頭側に、砂埃を立てながら滑り込んだ格好でジャイアントパンダが出現する。

「仙術解禁…」

 連結した長剣を横に伸ばした右手でクルリと回し、軌跡に太極図を浮かび上がらせるユェインは、指を揃えて平手にした左手

を、拝むように眼前に上げて目を閉じている。

 五秒ほど目を閉じていたジャイアントパンダが開眼した時、その左目に宿る太極図は回転速度が上がって灰色の円と化し、鬼

火のように青白い光を強く放っていた。そしてその左手も、手首から先が蒸気を発するように青白い光を纏っている。

 ユェインは、チョウに抑え込まれている羊の、鳩尾に見える太極図にその左手を近付け…。

「や、や…、やべろ…!げふっ、やべで!嫌、嫌、嫌ぁっ!やべでぐだぢゃあっ!」

 頭突きで顔面を潰された羊が、顔中から血を飛ばしながら必死に首を振る。ジャイアントパンダが何をするつもりなのか、自

分がこれからどうなるのか、直感していた。

 しかし、両前腕と両胸を刺されて地面に縫い留められ、腰の半分も潰された上で腹を猪に踏みつけられては身動きも取れない。

 治癒の術はどういう訳か発動しない。しかし恐怖と焦慮に囚われている羊は、それが身を貫いた複数の胡蝶刀…チョウの宝貝

の作用である事に気付けない。接触の瞬間に両腕を武器化させての反撃ができなかったのも、そのせいだと気付けるだけの余裕

はもう無い。

 やがて、ユェインの左手…その揃えられた指先が羊の腹の太極図に触れ、

「魄奪(はくだつ)」

 ズブリと、水面に沈むように潜り込んだ。

「!!!!!!!!!!」

 目を見開き、ビクリと身を反らす羊。その腹中でユェインの手が握り込まれると、その体がガクガクと痙攣し始める。

「獲った」

 呟いたジャイアントパンダが左手を一気に引き抜くと…。

「…!っ!……、…」

 羊は痙攣を断続的な物に変えて、やがてぐったりと脱力し、その体がザラリと塵になって崩れる。その最期を確認したユェイ

ンがゆっくりと左手を開けば、掌の上にはホログラムのように太極図が浮かんでいた。

 直径1センチ程、どの角度から見ても太極図の紋様を成すその球体は、薄赤い光を纏う太極炉心。ただし、ルーウーがユェイ

ン達へ株分けしたのとは違い、向こうの景色が薄く透けて見える半透明の炉心である。

 仙術、魄奪。

 これもルーウーが漂泊の内に編み出した仙術であり、ユェイン他、最初の仙術兵器とされる中の二名が伝授された術。数秒の

精神統一が必要なため、発動までに隙があるこの術は、そのデメリットを上回る唯一無二の特色を持つ。

 対象から太極炉心を奪い完全沈黙させる…、成立さえさせれば仙人を即死させる術。同時に、太極炉心その物を手に入れられ

る術。それが魄奪である。

 この太極炉心はルーウーが分けた物とは質が違い、四罪四凶が造った不安定で不完全な物のため、そのまま通常の人類が身に

宿せば変質して邪仙に変生してしまうのだが、使い道は他にいくらでもある。

 ユェインやチョウのような体内の太極炉に代わり、携帯する護符に封入して扱う「携行式太極炉」…。

 様々な対仙武装…「模倣宝貝」などとよばれる武器や防具、道具類の動力核…。

 仙人に対して有効な、大規模な結界などを構築するための芯…。

 ひとが仙人に立ち向かうために、抜き取られた太極炉心は重要な物資となり、様々な用途で活用される。

 ただし、ユェインも毎回これで炉心を入手できる訳ではない。

 まず、炉心が安定していない場合…相手が未熟な仙人の場合は、抜き取った段階で太極炉心が崩壊し、消滅してしまう。つま

りある程度強力な仙人からでなければ炉心は得られない。

 また、これを行なえるのは周囲に被害が及ぶ心配なく相手を狩れる場合のみ。強力で危険極まりない仙人を相手に、一瞬の隙

を狙ってこの術を使用するのは困難。欲から炉心狙いに走り、これを得たいがために周囲に犠牲を強いては本末転倒であると、

ユェインは考える。

 よってユェインがこれを狙うのは、信頼でき、信用できる、背中を預けられる手練れを同伴している時のみ。今回はチョウが

居たのでこの術を使う事を考えたが、単身で遭遇していたならば諦め、殺す事に専心していた所である。

「上校、失礼します」

 最後まで油断せず握っていた剣を鞘に納めた猪は、断りを入れて上官の脇に屈むと、その太い腰を締めるベルトに括りつけら

れている軍用ポーチを開け、中から瓶を取り出した。

 チョウが手に取ったのは、一見すれば掌に収まるサイズの透明な小瓶…少し洒落た鉱石状の蓋が目を引くだけの品。しかしこ

れは太極炉心を封入して持ち運ぶための専用品である。

 物質ではなく特殊な「場」の一種である太極炉心は、身を仙気で充填できるような存在…神仙や仙人、仙術兵器や妖怪でなけ

れば手に取る事も触れる事もできない。そのため、鉱石専門に細工を行なっている道士が、清涼な気を宿した水晶を加工してこ

の小瓶を作成している。

 チョウが蓋を開けて恭しく差し出した小瓶の中に、平手を近付けたユェインが太極炉心を落とすと、それは瓶の中央に固定さ

れたように浮遊し、薄赤い光を弱めた。

 再び蓋をされた瓶を受け取ったユェインは、先ほどチョウが羊を潰すのに使ったせいで、真ん中から折れてしまった木の脇を

見遣る。

 そこには、お座りの姿勢で顔を洗っている青虎の姿。

「ヂー室長、預かって貰えるか?」

「お使いついでだ、まぁいいよ。感謝するように」

 ユェインに声をかけられたヂーは、肩の位置にある鞄の蓋を咥えて持ち上げる格好で開け、放られた小瓶を口で器用にキャッ

チし、その中に収納した。

「仙丹も持ってきてやったぞ。感謝するように」

「勿論感謝している。上尉、早速貰いたまえ」

 ユェインが目を向けると、チョウは「…判りました」と応じつつも嫌そうな顔。

「上校はよろしいので?」

「さほど消耗していない。それに、私は仙丹があまり好きではない」

「当たり前ですが俺も好きではありませんよ。あまりどころか、かなり好きではありません。…どうしました?」

 溜息をついたチョウは、ユェインが目を大きくして自分を見ている事に気付いた。この巨漢には珍しい事に驚き顔である。

「…君に食べ物の好き嫌いがあったとは…。付き合いは長いつもりだが、知らなかった…」

 しみじみと述べるユェイン。好きだと思って事あるごとに勧めてきたので、若干ショックを受けている。

「そういう事で真面目に驚くのはよして頂けますかね?だいたい、食べ物に分類する品ではありませんからアレは…」

「何だって?仙丹は好きじゃなかったのか?一息にガーッと食うから好きだとばかり思っていたぞ」

 ヂーも意外そうに述べ、チョウは再びため息をついた。

「舌がバカになりそうなので、手早く噛み砕いて飲み下しているだけです…!」

「ところで」

 話の流れには構わず、ユェインは唐突にヂーを見つめると、単刀直入に尋ねた。

「君が最寄りの中継基地に居たのは何故だ?第八連隊の監視か何かを命じられたのかね?例えば、僵尸兵の暴走について予見し

ていた誰かの命を受けただとか…」

 ユェインの切り込み方は率直に過ぎる物言いだったが、チョウは何も言わない。この青虎はユェインや自分に不利になるよう

な隠し事はしないと確信しているからである。

 素行にだいぶ問題があり、相当エキセントリックで、天才肌の自信家。尊大であるが故に敵も多いヂーだが、そのプライドと

打算から、利害関係で対立しない大物であるユェインを敵に回す事はない。チョウはこの男をそう評している。

 もっとも、神行法を教わる間に個人的にこの男がどんな人物か理解もしたので、立場や位置関係を抜きにしても、敵対する事

は無いと信じている。

 善人とはとても言えないが、間違っても悪党ではない。チョウはこの青虎をそう評していた。ただしいたずらに邪悪な時もあ

る、とも付け加えるが…。

「安心しなよ、おたくらには関係のない案件だ。まぁ、僵尸兵がどんな具合かは上も気になるようだし、何かあったら情報をい

ち早く届けて恩を売ってやるのもいいが…。成果が気になって仕方ないのも判らないでもない」

 ひとが肩を竦めるように首を縮めて、青虎は考えていることまで含めて素直に答えた。

「何せ仙造人間「羅車(ルォチゥァ)三式」を参考にした人体改造だ。まかり間違ってアレと同等の何かにでもなって、しかも

暴走でもしたら手に負えないだろう?まぁ宝貝持たせてる訳でもなし、火尖鎗振り回して大暴れされる恐れは無いが…」

「ヂー室長、結論から言えば僵尸兵計画は早急に見直しか、計画の中断が必要だ」

 ユェインが言うとチョウも大きく頷き、ヂーは面倒そうに顔を顰めた。

「…補給が要るほどの被害っていうんだから、ある程度大きいとは思っていたが…。そんなに?」

『そんなに』

 ジャイアントパンダと猪が声を揃えて大きく頷くと、青虎は「マジかー」と天を仰いだ。

「僵尸兵のほぼ全員が暴走した。詳細は纏めてから報告するが、被害は甚大だ。民間人に犠牲者が出なかったのは、たまたまと

言っても差し支えない」

「…オーケー、そのつもりでいよう。君が反対意見を唱えたら一票味方してやろうじゃないか。…ルォちんも「重大な懸念有り」

とか言ってたな。アレが自分の劣化コピーに見えてたのかもしれない。まぁとにかくルォちんは最初から計画に反対してたし、

これで八卦の内三人は反対票だ。少なくとも当面は運用中止になるだろう。恩に着ろよ?恩に着るべきだ」

「勿論、感謝する。何か礼を考えよう」

「よし言質はとった。今度君の奢りで花町に繰り出そうじゃないか」

 満足げな笑みを浮かべた青虎は、さて、と思考を巡らせる。

(たまたまだったが丁度いい、本来の仕事を進めるとしようか。確か入国後はこちらの方へ観光取材の予定だったはず…)

 諜報部第八室の仕事は、秘匿事項に関する物。特に品物であるか情報であるかを問わず、国外から持ち込まれる事、国外へ持

ち出される事への警戒と対処が彼らの任務となる。

 そして今回、入国の際の情報伝達にヒューマンエラーがあり、ある「警戒対象」がノーマークのまま入国してしまった。

 各国の紛争勃発、あるいは大事件の発生などに前後して姿を見せる事が多いそのジャーナリストは、今年になって諜報部第八

室の警戒対象者リストに入ったばかりなのだが…。

(「小玉彼出」、首尾よく見つかるといいがね)