漂泊の仙人と煙雲の少女(十一)

 仙丹を摂取し、絶対にゲップをしない覚悟で口を覆っている、硬い表情の猪を横目に。「さて…」とユェインが声を発する。

 羊の仙人を討ってからニ十分弱。小休止と負傷の手当てを含め、体勢は立て直せた。

「こちらの仙気充填は済んだ。上尉、そちらは?」

「万全です。作戦行動に支障はありません」

 応じながらも苦々しい顔のチョウ。よくもまぁこれだけ酷い気分になる味に仕上がる物だと憎々しく思うものの、仙丹の効力

は確かな物。使い切った仙気がものの数分で満ち、体内に充填された。

 仙気とは、言わば生物の生命エネルギーの上澄みと言える。純粋で上質なエネルギーであり、これを浴びるか体内を循環させ

れば、体調は良くなり、疲労は癒え、傷の治りは早まる。

 カナデが、睡眠を取っていないのにおかしいと、自分の疲労の薄さに違和感を覚えたのは、ルーウーの体から発散されている

仙気にあたり続けて疲労回復していたおかげである。あの剣牙虎の傍に居るだけで、例えば焚火にあたって体が暖められるよう

に、一般人は仙気を浴びて元気になる。

 ただしこれは、自分の仙気を殆ど持たない場合であり、ユェインやチョウなどのように自身が充分な仙気を発している者には

あまり効果が無い。低い所へ水が流れ込むように、仙気は無い所へ優先して向かう性質があるので、既に溜まっている所へは流

れ込み難い。

 この仙気というものは、生きている限りどんな個体でも必ず生み出せるのだが、しかしそれは極々僅かな量。一般人が一日に

生み出せる量が1だとすれば、簡単な仙術での消費量ですら10から20程度にもなる。そして、体に充填しておける量も限ら

れており、せいぜい5日分も溜まれば満杯となり、溢れた分は発散されてしまう。

 しかし太極炉は、常人が生み出す数十倍から数百倍の速度で仙気を発生させ続ける。ユェインやチョウは数時間休憩する事で

常人が一ヶ月ほどもかけて生成するだけの仙気を得られ、常人の二十倍以上もの量を蓄積しておける。仙人達はそれ以上の量を

発生させ、蓄積もできる。それが仙人や仙術兵器と一般人との大きな違いである。

 これが仙術を扱う通常の人類…太極炉を持たない道士の類となると、仙気の確保は無視できない問題になり、自然界から徴収

したり、太極炉を模した構造の道具を活用したりして、仙術を行使するようになる。

 対仙人用の装備や道具類が少量しか生産できないのも、この仙気の確保が課題となるせいだった。何十人もが何日もかけてよ

うやく抽出した仙気を込め、やっと弾丸が一つできあがるのだから、人類は仙人に対抗する手段を理屈的に有してはいても、到

底有利には立っていない。

 この仙気問題を条件付きで一部解決できるのが、この「仙丹」である。

 太極炉を持つ者や、それに類する仙気生成可能な器官を持っている妖怪の類など、条件に合う者が服用すれば、たちどころに

体内の気が澄み渡り、仙気を一気に確保できる。一般人が飲んでもそもそも仙気を体に留め置けないのだが、即座に利活用でき

る者にとっては、緊急時の助けや作戦行動の長期継続において頼りになる薬だった。

 この仙丹は、作れる者も少ない上に材料も貴重で、製造作業にも時間がかかる。年間通して五十個程度しか生産できず、基本

的には有効活用できる者に一つずつ、例外として八卦将に二つずつ常備が許されているのみ。少ない備蓄は軍上部で管理されて

おり、手持ちが無くなった者へ順番に付与される。が、それだけの貴重品なので、一個使用する毎に報告書まで提出しなければ

ならない。

 しかし、これが酷く不味い。驚くほどに。

 食感は紙粘土。味は鍋底にこびりついたカリカリの油焦げに草汁のえぐみと香り、数日放置した海老の頭、悪くなった魚の肝

を加え、後味として甘苦い果物の腐汁のような物がしばらく口内に残るという品。

 なお、チョウは丸一昼夜で二個も服用する羽目になったが、ユェインは一つも服用していない。その攻撃面の主力を自前の能

力である気功術に依存し、戦闘をサポートする極々短距離の縮地は仙気を多量には食わないため、消耗は太極炉の自然生成量で

賄えている。

「では、今聞いたばかりの情報を天才であるこの僕が咀嚼して解析して熟考した上で、現状の再確認にして最終確認をしようと

思うが…。良いかなお二人さん?嫌と言ってもさせて貰うつもりだがな、最悪の事態を回避するために」

 伏せの格好で寛いでいる青虎が尻尾を上げ、周囲をフワフワ浮かんで漂っている二つの鬼火を先端の周りで周回させ始める。

休憩をとっていくらか疲労が取れたようで、体の周囲に漂う白いモヤは先ほどより色濃くくっきり見えてマフラーや襟巻を纏っ

ているような具合。浮かんでいる鬼火も青々と活きが良くなったように見え、動きが軽やかである。

 息を整えて態勢を立て直す短い休憩の間に、ユェインはヂーに現在の状況を掻い摘んで説明していた。僵尸兵の不具合、部隊

の損害状況、ここまでに討伐した仙人、彼らの移動経路、そしてその先に四罪四凶が居る事が確実視される…といった情報を。

 ただし、神仙…ルーウーと接触した事については内密の話と前置きした上で、政府に報告しないようヂーに頼んだ。ルーウー

は政府…国家その物、ひいては「歴史」と関わる事を避けている。現行人類達の歴史…その表舞台は勿論、舞台袖にも神仙は姿

を見せてはいけないと、自分を律している。ユェインは常にその意思を尊重し、最初の一度目を除き、老虎と会った事は報告書

に記載しないようにしていた。

「ではまず上尉、いまの僕らにとって最悪の事態は何だ?」

「情報を一切持ち帰れない事ですな」

 即答したチョウに、ヂーが「その通り」と満足そうに目を細めて頷く。

「この状況で考え得る最悪の結果は四罪四凶を取り逃がす事じゃない。取り逃がしたとしても追えるなら良い。捕捉し続けられ

るなら災害予想の要領で対策も回避策も立てられる。だが全滅は最悪だ。判ってると思うが、ただ負けるのが不味いって話じゃ

終わらない。全滅して情報を一切持ち帰れない…四罪四凶がここに居たという事実が何処にも伝わらず、何の手も打たれないの

は最悪だ」

「それに関しては、最悪の事態だけは逃れられると確信している」

 ヂーにそう告げたのはジャイアントパンダ。

「君が離脱すれば情報は確実に持ち帰られる」

「おい。それはつまり僕を戦力に計上しないと?それはあんまりじゃないか?あんまりだとも!相手が四罪四凶なら千年級の仙

人どころじゃないだろう?「まともな人類なら相対しただけでまともに動けなくなる」し、瘴気だって発散してるはずだ。凡人

なら近付いただけで死ぬ事すら在り得るぞ。「目が合う」どころか「姿を見られる」だけでヤバい。下手をすれば「あっちを直

視しただけ」でも精神に変調をきたす。第八連隊の兵隊達がいくら精鋭揃いといっても、まともに戦える相手じゃない」

 まくしたてながら顔を顰める青虎だったが、ユェインは眉一つ動かさずに応じる。

「相手の正体も出方も、使用する仙術がどのような物かも判らない。下手を打てば会敵直後に全滅も在り得る。君が最初から戦

列に加わらないのは確実な予防になるだろう」

 そう淡々と告げられると、ヂーも反論できずに押し黙った。

 千年級の邪仙の討伐記録はある。それは、彼らにひとが抗えるという何よりの証拠だった。

 だが、四罪四凶を討った人類は存在しない。ひとの手が届くと証明できた者は、この二千数百年の間、たったのひとりも存在

しない。

「…判っていると思うがあえて蒸し返すぞ?四罪四凶にはあのヨンでも勝てなかった。それを理解した上で言うんだな?」

 青虎が言及した人物の名に反応して、ユェインの右手は腰の剣の柄頭にそっと乗り、チキリと小さく金属音を立てた。

 両腰に長剣を帯びた、広く頼もしい熊の背。

 かつての上官にして、かつての八卦将。そして、この宝剣のかつての使い手…。

 ユェインが知る限り最も強かった男でも、四罪四凶を討つ事は叶わなかった。

「承知の上だ」

 ジャイアントパンダは顎を引く。内心はどうあれその感情は顔に出ない。怒りも憎しみもその判断を狂わせはしない。刃のよ

うに冷たく、月光のように静かに、ユェインは冷静さを失わずに先を続ける。

「勿論だが、何も敗北を前提にした対策だけではない。勝算はある。我等が有利な点も僅かながら存在する」

 ユェインの言葉に、ヂーが「何だって?」と胡乱げな表情を見せた。

「私が嫌というほど経験してきた事を彼らは知らない。故に付け入る隙もある」

 青虎は猪を見遣る。だが、付き合いが長い副官でも連隊長が何を言わんとしているのか判らず、横目で一瞥を返すばかり。

「彼らは私と違い、勝ち続けた側の存在だ。そして勝てない勝負からは逃げてきた存在だ」

 静かに述べられた言葉、そこに宿る重さを理解できるチョウとヂーは、口も挟まずジャイアントパンダを見つめた。

 ユェインはその武勲と実績で八卦将の一角に列席しているが、その人生は輝かしい勝利にばかり彩られている訳ではない。

 軍に入り、訓練を積み、実戦を経験し、ひとの成れの果てと化し、数多の仙人を狩り続けた。その間、護るべきものを護れな

かった事も一度や二度ではない。始末すべき仙人にまんまと逃げられた事もある。強大な仙人を前に死にかけた事もあるし、同

僚を失った事もある。苦渋も辛酸も人一倍舐め、あらゆる戦闘結果を経験してきた。敗走と敵前逃亡以外は。

「彼らは知らない。勝利も敗北もない血生臭い生存競争も。徒労感ばかり募る泥臭い痛み分けの味も」

 負けを知らない相手だからこそ、敗北を味わい続けた自分に好機はある。

 そんなユェインの意見を聞き、チョウは無言だった。無言で思っていた。

 このひとはこういう所が「怖い」のだ、と。

 相手と比較し、普通なら劣っている点と見る所を、単純に彼我の差と考えて利活用する方法を模索する、強靭過ぎる精神性が。

 強大な、次元すら違う存在を相手取り、斬り結ぶ事に恐れを抱かない…。無謀ではなく、思考の末に畏怖しない、覚悟の量が。

 誰しもが、月のように静かで、刃のように冷たいと感じる震将。しかし彼の裡に宿るのは、激しく渦巻く執念と、煮え滾るよ

うな使命感。

「…教えてやるのは結構ですが、向こうにとっては、学んだ事を後に活かせない授業になりますな」

 チョウも腹を括り、軽口で応じる。「授業料は徴収しますが」と。

「無論だ上尉。私の授業は高くつく。加えて言うと、私の教導はヘタクソだと定評がある」

「教導官としては最悪じゃないか」

 ヂーが思わず突っ込んだ。まぁこの男を基準に練兵メニューを組んだら誰もこなせないのは当たり前だが、と思いながら。

「加えて言うと、それとは別の勝算もある。例え私達がどうにかできなかったとしても、「今回に限って」は」

「…なるほど、神仙か…」

 ヂーは唸った。青虎自身は面識が無いのだが、ユェインが知己の神仙を信頼しているらしい事は判っている。実際にその神仙

は、この期に及んでも人類の味方であり続けている以上、物好きか変人なのだろうと考えている。だが…。

(問題は、その神仙が四罪四凶以上の存在かどうか、なんだがな…)

 戦力として期待して良いのか?四罪四凶に匹敵する力の持ち主なのか?青虎はその点でやや懐疑的だった。

「上尉。手筈についてだが、向こうの進路を把握しつつ、ある程度制御しながら理想の位置で白兵戦に持ち込むにあたり、君が

妙案など出してくれると非常に助かる」

「また無茶な振り方をなさいますな…」

 ユェインから流石にザックリし過ぎな話の振り方をされて、即座に嘆息するチョウ。

「こんな時だ。頼り甲斐のある副官が傍に居るのだから、頼りたくもなる」

 このジャイアントパンダはよく部下を褒めるが、それら全てが世辞ではなく本音。本心からの素直な称賛を冷静な口調と真顔

で告げて来るので、面と向かって褒められるチョウは背中がムズムズしてしまう。

「さあ上官が策を所望しているぞ?スパッと有用な物を献上して差し上げろ。面白い物ならなお良いな」

 そして青虎は他人事のように煽る。何かまた面白い事を発案しないだろうかと興味深そうに。

 雑に奇策の類を求められた猪は、右手の指を二本立てた。

「お?策が二つか」

 これはなかなか、と眉を上げた青虎は、

「ここに至るまで考えていた物も含め、二十ばかり思いつきました」

「うんそうだろう」

 猪に十倍の数を口に出されて、さもそれが当然と言わんばかりの顔でウンウン頷く。内心では「マジか」と舌を巻いているが。

「組み合わせ次第ですが、それなりに期待できる策が四つ。見込みは薄いものの打っておいて損にはならない手が十一。実現困

難なので見送った方がよさそうな物が五つほど…。問題は、その半数の成否は下準備が間に合うかどうかにかかって来る点と、

酷く支出が大きくなる点…上校が何枚も報告書を上げる羽目になります。併用できない策もありますので、採択は上校の判断に

お任せしますが」

「判った」

 ユェインは深く頷き…。

「君はつくづく優秀だ。居てくれて心強いと、常々思っている」

「…そういう台詞を真顔で直接言うのはよして頂きたいと、常々思っております…」

「ところでダメな五つの策は何だ?参考までに聞いておこう。凡人には無理でも天才の僕なら何とかできるかもしれないぞ?」

 そう青虎が興味を示すと、ユェインも聞きたいというように顎を引いた。単なる興味ではなく、チョウが没にした物を知って

おけば、対処を誤る…つまり思い付きで失敗を起こす可能性を潰せるからである。

「離将の他にもう一人、八卦将…時間的に最も早く到着して頂けそうな坤将、仙造人間「羅車(ルォチゥァ)三式」に助力を乞

うという事も一瞬考えました。ですがこれはまず間に合いません。数分の足止めも困難な相手を、ルォ君の到着まで数時間阻む

となれば、割に合わない消耗戦となりましょう」

 猪が名を挙げると、ユェインが「なるほど」と納得したように眉を上げた。

「確かにナタ太子であれば、何も無ければ文字通り「飛んで来てくれる」か…」

 これにはヂーも顎を引いて同意。思い浮かべたのは、人形のように表情がなく、見目麗しい顔をした少年の顔と、それに贅肉

を過剰搭載してプクプク膨らませたような少年の顔の、二種類。

「一度は考えた理由も、ダメと判断した理由も判った。いくら速いって言っても、ルォちんは今回どう考えても無理だからな…。

第八空挺兵団は上海の街中に紛れ込んだ仙人の炙り出しが長引いて動けないでいる。例の政府高官の連続捕食事件、知ってるだ

ろ?まさにアレの捜査が大詰め。確実に仙人を殺せる坤将を、このタイミングで持ち場から離せるはずもない。そして、あの子

以上に速い八卦は居ないし、僕のようにこの近くまで来てるのも居ない。他の八卦将の援軍が間に合う目は無いと考えていいな。

他の四種のダメな策も他の八卦将絡みか?」

「はい。そもそも動く訳に行かない乾将以外の、という事になります。加えて言いますと、先に上校がおっしゃったように、全

滅して情報を持ち帰れないのは困ります。よって、総力戦は最初から考えず、策からは除外しております」

「だな。一般人じゃ戦闘行為に及ぶのも難しい。瘴気や呪詛の影響を受けない僕みたいな妖化人や妖怪、絶対的な耐性を持つ君

らみたいな太極炉心持ち、対抗手段を用意できる道士や、ルォちんみたいな対邪仙特攻存在…。そんな辺りじゃないとまともに

相対する事もできないだろうから。という事は…」

 四罪四凶と兵隊を直接戦闘させず、かつ交戦は避けられないという状況で、チョウが考え、ユェインが取れる選択となれば…。

「一つ、言っておく事がある」

 青虎は真面目な顔で尻尾をピンと立てた。

「ジァン上尉。失敗したら尻の穴にコーラのボトルの口を突っ込んでシェイクして中身全部絞り入れてやるからそのつもりで。

泣くまでやる。いや泣いてもやめないが」

 失敗したらそもそも生きていないのだが…、と思ったチョウだったが、神妙に頷いておいた。失敗してなおかつ生き延びられ

た場合限定とはいえ、勘弁して貰いたいお仕置である。

「室長」

 口を挟む隻眼のジャイアントパンダ。

「飲み物を粗末にするのは如何かと思うが」

 何か一言返してくれるのかと思えば、つっこむ箇所が残念ながらユェイン過ぎるのだよなぁと、物言わず天を仰ぐチョウ。

「ともかくだ。相手の位置がだいたいでも判らないと話にならないな。せめて遭遇し易くなるように手を打っておいてやろう。

これも貸しだからな?忘れるなよ?感謝すべきだ。感謝するように」

 ユェインに念を押したヂーは、「はて?さっきその辺りに居たんだが…」と、きょろきょろ周囲を見回してから、チョウが羊

の仙人を仕留めた際に折れた大木に目を向ける。

「お、居た居た。おーい、君!」

 青虎が呼び掛ける方を見遣って、ユェインが「む…」と眉を上げる。それで気付いたチョウも、上官達が視線を注いでいる木

の根元に視線を向け、意識を集中し、仙気を瞳に巡らせた。

 すると、直前まで見えなかったものの姿が、そこに見出せるようになる。

 折れた巨木の根元に隠れて、向こう側からそっとこちらを覗いているのは、十歳前後の人間の女の子に見える何か。ただし、

ルーウーが身に着けている物にも似た、漢服に酷似した衣装を纏うその体は、身長が20センチもない上に半透明で、向こうの

景色が透けて見えている。

「花魄(ファポォ)…!こんな所にも居るとは…」

 驚きと感嘆がチョウの声に滲んだ。

 彼女はファポォという、いわゆる妖怪の一種である。半透明なので時に幽霊とも見間違えられる事もある彼女達は、古い樹木

を好んで住み着く存在。

 他国の言葉で言うならば神話級危険生物…太古から存在する種。もっとも、危険生物とは言ってもひとに危害を加える事はま

ず無い。命を脅かされたりするなどの危機的状況にでも陥らない限りは、いざこざを嫌って自分から姿を消すような気性である。

 大人しくて平和主義者な上に、基本的にひと…特に大人には知覚し難いため、その存在を気取られる事はまずない。仙人達も、

エサにならない無害な存在なので無視している。

 彼女らは「思念波に近い波長その物が生物として機能している」存在で、音波や電波が飛び交う場所は好まず、近代都市や文

化からは距離を置いて暮らしている。小さな女の子の姿ではあるが、実は長命な種で五百年近く生きる。幼く見えるこの個体も、

百五十年は生きている立派な成体である。

 伏せの姿勢から身を起こした青虎は、怖がらせないよう、ゆったりとした足取りで近付く。「やあ、いい月夜だねお嬢ちゃん。

僕は好きだけど、君はどう?好き?だよね!」などと話しかけながら。

 対してファポォは、木の陰に寄り添うように身を隠しながら、恐れているような困っているような顔で、小さく高い声を早口

に発していた。

 ファポォは鳥の囀りにも似た心地良い声をしているが、極めて早口で声が高音過ぎる上、言語自体が妖怪達の一部…高度な知

性を持つ危険生物が用いる物のため、何を言っているのかはユェインにもチョウにも正確には判らない。断片的に、自分よりも

遥かに上位の存在であるヂーと言葉を交わすのは恐れ多い、と言っている事だけは察せられたが…。

「そう畏まらないでくれる?ちょっと話をしたいだけなんだ。ついでに頼めるなら頼みたい事もあるけどまぁ緊張しないで、そ

う手を煩わせるような事じゃないからさ。もしかしたら君から聞ける話が僕の友人達の助けになるかもしれないんだ」

 すぐ傍で伏せて、目線を自分に近付けたヂーにそう言われると、ファポォは困惑しているような顔でジャイアントパンダと猪

を見遣る。

 ひとが、羅々の血族たる貴方様の、友人なのですか?

 意外さが隠せていないその言葉だけは、ニュアンス的にユェインとチョウにも理解できた。

 彼女らにとって、ひとは自分達の後に発生し、一時は寄り添い、そして相容れず離れて行った存在である。文化水準や総数が

どうあれ、構造的にはまだまだ下等生物の枠組みから脱せていない。それどころか、一部の妖怪にとっては、その生活圏を損ね

て台無しにしてゆく、蝗のような害に近い。

 なのに、自分よりも遥かに高位の妖怪…その血を半分以上継いでいるだろう青虎が、彼らを友人と言う…。それがファポォに

は不思議だった。

「そうだよ、友達だ。まぁひと共なんて大半が存在に値しないカスで、度し難いクソ共の気持ち悪い集まりだし、絶滅した方が

良いんじゃないかって時々思うけどさ」

 軽薄な物言いだが、冗談めかしている訳ではない。これはヂーの本音である。

 父親は人間で、一応ハーフという事になるのだが、ヂーの「内訳」は半々ではない。その肉体構造も存在強度もスタンスも極

めて妖怪寄りで、二百歳になる頃までは妖怪達と過ごしていたため、価値観も社会性もそちらに近い。人間社会に足を踏み入れ

てから二十年余り経ったが、その視座は妖怪寄りのままである。

 彼はひとという種全体に対して好意的という訳ではない。八卦将の一角を引き受けているのも、政府との交渉がし易いという

メリット故の事。忠誠心や愛国心などはさらさら無く、やるべき事をやりたいようにやるためにそのポジションに居るだけとい

う、ビジネスライクな関係である。しかし…。

「それでも、たまにマシなのが居るんだよ。「捨てたものじゃない」ヤツらが、ね」

 こう述べるのは本音である。ひとなど居ない方がこの大陸には良いのではないかと時々感じるし、初回特典付き人気商品が買

い占められた時などは滅べば良いのにと思いもするし、通信販売でかなりのバッタモンを掴まされた時にはいっそ滅ぼしてやろ

うかとも考える。

 だが、気に入った人々が僅かながら居る。

 復讐という原始的で血なまぐさい動機を力に変え、幾度倒れても執念で立ち上がり、顔を上げ、前を向き、しかし高潔であり

続ける武人が居る。

 悔恨という後ろ向きで鬱々とした想いを理由に、無様に這いつくばり、滑稽に這いずり、醜く傷つき、ひたむきに力強く駆け

続ける軍人が居る。

 そういった物は悪くない。あがき、もがき、それでも折れずに前へと足を出し続ける…、そんな在り方は捨てたものではない。

 だからまぁ、そんな連中のためにちょっとは肩入れしてやろうかな?という気になっている。

 それに、ヂー個人としては、ひとが創った文化の一部を好ましい物と感じている。現行人類が生み出す映画、漫画、小説、舞

台、詩に絵画に音楽…、そういった「ひとが創る素敵なもの」は気に入っている。

 週末に欠かさずチェックしているドラマがあるし、楽しみにしているラジオ放送もあるし、次の話を心待ちにしている連載漫

画もあるし、贔屓にしている映画監督も居るし、お気に入りの俳優も居る。美しい絵画や味のあるイラストは目を惹きつけ心を

楽しませ、美しく囀る歌手の声に酔いしれ、作家が綴る物語に一喜一憂させられる。

 生存に不可欠でないが故に、自分達妖怪がついぞ持たなかった「娯楽の存在を許す文化」と、「それを提供して生きる人々」

を、ヂーは愛している。きっと自分は妖怪としてはかなり俗なのだろうと自覚しながら、まぁ好きなんだからいいじゃないかと。

 そんな愛する物が無くなっては寂しいので、できれば人類は絶滅しない方がいいなと考えている。だから八卦将の一席に座っ

てやっている。政府の為でも国のためでもない。自分が気に入った物を庇護してやろうと、上から目線で。

 ファポォは、ひとを友人と称して一定の評価を覗かせたヂーの言葉を、かなり不思議そうな面持ちで聞いていたが、やがて恭

しく首を垂れた。

 彼女らにとってヂー…その身の半分と、そのルーツである母親は、種族的に遥かに上位の存在に当たる。そのため、よほど不

可能な事でもなければ頼まれ事を嫌とは言わない。

「これは心強い」

 ユェインが顎を引く。ファポォ達は木に住まうが、本質的には現行人類が「地の精」や「土地神」と呼ぶような物に近く、大

地の地脈から広範囲の情報を入手できる。そこに居る生物の詳細な位置情報をリアルタイムで探知できるのは勿論、「嫌な気配」

も感知する。

 地脈にも悪影響を及ぼす四罪四凶を直接探る事はできないが、逆に、地脈が冒されるが故におおよその位置は判る。地図の黒

染みのように、その周辺だけ窺えなくなってしまうから。

「いやー、ありがとう助かるよ!お礼と言っては何だけど新しい家を探してあげるから!なんならどこかから大樹を引っ越させ

る!植樹して森にしてもいいし、希望は可能な限り叶えよう!」

 交渉が成立し、機嫌よくそう請け負った青虎の発言で、猪は「ん?」と眉根を寄せた。

 ファポォ達は年経た木や、長く立ち続けるだろう木や、生命を吸った木に好んで住み着く。

 そして、彼女がいま寄り添っているのは、先ほど折れてしまった巨木。

 先程、自分が羊の仙人ごと膝蹴りしたせいで…。

「も、申し訳ない!貴女のお住まいとはつゆ知らず、あのような乱暴な真似を…!何とお詫びすればよろしいか!この埋め合わ

せは責任をもって、必ず!」

 チョウはその場で跪くなりガバッと平伏した。

 猪将校の態度は貴婦人に対するソレ。根が実直かつ誠実なので、相手がひとかどうかで区別しない。相手が妖怪でも、自分が

故意ではなくとも、理不尽に害を与えてしまったと感じれば、罪悪感から頭を下げずにいられなくなる。

 房付きの尻尾まで股間に丸め込んで土下座し、穴があったら入りたい気分で詫び続けている猪の姿を眺めていたファポォは、

やがて、傍に伏せているヂーの顔を見上げて言った。

 ひとにもマシな者が居る…本当かもしれませんね?と。

 

 そこから数キロ離れた、刺々しく切り立つ岩山が多い、荒涼とした区域…。

 濃く、溜まるように谷底へ霧が漂う。

 流れ出るソレが山間の道を埋め、風も無いので停滞する。

 徐々に高さを増す霧の中に、尖った岩先…登り坂を途中で切り落としたかのような崖が、薄っすらと浮き出ていた。遠目から

は鋭く見えるほど狭いそこは、幅が4メートルも無い。

 その端に、足を胡坐と逆に組む結跏趺坐の姿勢で座して、長毛が顔を覆い隠している牛は、弟子が来るのを待っている。

 もうすぐ約束の時間。今日は三人の弟子と会い、貢ぎ物を受け取る事になっている。

 太極炉心を与え、弟子を作り、生気を集めさせ、それを食う。これが、「四罪四凶タオティエ」が、二千年以上も続けてきた

サイクルである。

 タオティエは年に一人か二人、新たに仙人に変生させているが、そうやって造った殆どの弟子は十数年と保たない。

 多いのは、ひとが嫌になってやめたくせに、ひとを食うという行為に忌避感を抱き続け、結局モノになれない者。

 ひとを食い、その生気を太極炉にくべるのが最も手っ取り早い。それどころか炉心を安定させられない者は、そうしなければ

命を維持できない。にも拘わらず、ひとを食えなくなる…。そういった、人の倫理観を捨てきれない、ある意味人らしさを失わ

ない者は、早々に雲散霧消するか、「ノルマ」を達成できずタオティエに食われる。

 また、殺される者もある。仙人とはいえ不完全ならば、地上に敵無しとは行かない。

 桃源郷が下界と関りを断った後も、人の世に伝え続けられてきた一部の仙術を用いる者…道士の類。

 知恵持つ太古の危険生物…、中でも強力で戦闘向きな妖怪の類。

 そして、仙人を殺す手段…宝貝などを得た武人の類。

 こういった者を相手にすれば、未熟な仙人ならば後れを取る事もある。

 一方で、仙人になって百年を越えれば、そうそう死ぬ事は無い。もはや人が太刀打ちできる域ではなくなり、妖怪にも不用意

に出くわさずにすむだけの経験が積めるので。

 今回会う弟子の一人は、タオティエが百九十年ほど前に仙人にした羊。出来が良いので気に入っている弟子である。

 今年はどれだけ大量に生気を集めてくれただろうか?

 ゾロリと、その口から長い舌がまろび出る。先が五つに分かれ、ひとの手のようになったそれで口の周りを舐め回した牛は…。

―おやあ―

 微かな音を耳にした。

 硬い岩場を跳ねる、軽い足音。

 僅かに砂礫と擦れる、靴の音。

 風も無く、静まり返った濃い霧の中、下方の岩山の隙間…細い道を小さな音が移動してゆく。

―おやおやあ―

 前髪を押しのけるように、ボコリと右目が膨れ出て、ギョロロロッとあちこちへ向き、正面に戻って瞳孔を大きく開く。

―何だろう 何だろうなあ 不快な匂いがするよお―

 その間にも微かな音は後方に回り、斜面を上がって来た。そして、タオティエの後ろ側…山の峰を均したような坂の上に、ソ

レは姿を現す。走り抜けてきた勢いのままに濃い霧を纏って。

 ザゥッ…と、タオティエの後方から風が押し寄せ、長い毛髪を揺らした。

 その風を起こしたのは、急停止した年若い狐。雲煙を羽衣のように纏った娘。

 ボコッと、牛の後頭部で長毛を押し分けるようにし、メロン程の大きさの巨大な眼球が浮上する。

 ギョロギョロとしばし瞳孔をあちこちに向けていた眼球は、やがて少女にピタリと視線を定めた。

 途端に少女の周囲で、寒い中で火を焚いたように景色が揺れ動く。

 邪視。桃源郷の神仙達とは流れが異なる、邪仙特有の超高等呪詛。タオティエは道具も用いず図も描かず印も結ばず、ただ視

るだけでこれを成す。見られれば、羽ばたく鳥がたちどころに落ち、駆ける馬がその場で倒れ、泳ぐ魚が浮き上がる、致死の視

線。抵抗力を持たない定命の者であれば、瞬時に息も呼吸も血流も止まって死に至る。が…。

―おやあ?―

 タオティエは不思議そうに首を傾け、腰を上げる。

 ボォッ…と景色が揺らいだだけで、狐の娘の命脈は枯れなかった。何事も無かったようにその場に立っている。

―娘 近付くまで 判らなかったねえ 「視」ても 死なないねえ 仙人… ではないなあ 何だろうなあ―

 ゆっくりと立ち上がり、向き直る巨躯の牛を、狐の娘はじっと、臆する事無く睨む。

 その表情は、カナデが見てきた溌溂とした物ではない。ルーウーに向ける甘えるような柔らかさなど欠片もない。落ち込んだ

り元気を絞り出したりぎくしゃくしたりするホンスーを面白がって見ている時の好奇心旺盛な幼さも無い。

 嫌悪と憎悪、それらを凝縮して固形にし、研ぎ澄ませて刃にしたような、鋭く冷たい怒りの貌…。細いマズルの上には無数の

小皺が深く刻まれ、唇が捲れあがって噛み付かんばかりに牙が剥き出しになり、双眸は鋭く吊り上がっていた。

 タオティエは知らない。数えきれないほど食ってきた村の中に、生き残りが居ようが居まいが気にした事も無い。

 しかしチーニュイは違う。村を滅ぼされ、親を失い、現在の境遇を作った原因こそがタオティエである。

 タオティエはチーニュイが存在していようがいまいが関係ないが、「今現在のチーニュイ」という存在は、彼なくして成立し

ない。チーニュイにとってのタオティエは、因果の「因」であるとも言える。

 仙人が行使する仙術は、概念、思想、因果などにまで範囲を広げ、およそ現行人類の科学や常識では測れない術式基盤が特長。

彼女の保護者であるルーウーは、この仙術の達人…、因果を逆手に取った紐付けは得意とするところ。

 タオティエに対し、チーニュイは「一方通行の因果関係」を持つ。よってルーウーはこれを活用した。タオティエは物理的な

知覚距離に入らない限り彼女を感知できないが、チーニュイはある程度近付くとタオティエを認識できるという、関係性を逆手

に取った加護を逆説的に成立させ、老虎は孫娘に施した。まさか、その探知機能を活かして仇敵に単身挑みかかるとは思ってい

なかったが。

「探したぞ、クソ野郎…!」

 怒気を孕んだ声がその口から漏れる。その昂る感情に反応するかのように、娘の身を覆う雲煙が、まるで強風を受けた羽衣の

ように後方へ激しく棚引く。

「四罪四凶タオティエ…、生んでくれた両親の仇…!故郷の仇…!桃源郷が人類に失望した元凶!真性のクズ野郎!」

 チーニュイは叫ぶように声を叩きつけ、別人のように口汚く罵る。

「テメェには…!明日の朝日も拝ませねぇっ!」

 それは、一瞬の出来事だった。

 まるで輪ゴムを伸ばして飛ばすように、狐の娘は異形の牛に、常人離れしたスピードで躍りかかった。

 「小周天」。八つのチャクラを回し、これを制御する方法。禁圧解除ともリミッターカットとも呼ばれる、獣人にかかる肉体

の枷…禁圧を解除する技法。ユェインやチョウが修練の末に会得しているこれを、彼女もまたルーウーから護身術として教わり、

基本的なレベルで体得している。

 ヒュンッと風が唸り、牛の側頭部に少女の足がめり込んだ。足首を引っ掛けるような、速度もミートポイントも完璧な蹴りで

ある。

 …が、蹴られて首をやや斜めに傾けた牛は、ギョロリと、左目も浮上させて狐を見つめる。

―んん ん~…? 嫌な匂いだなあ 娘… お前からは 嫌ぁ~な 匂いがするなあ 道士に 加護でも 貰ったのかなあ?―

 牛の巨大な眼球がチーニュイの襟元を見つめる。そこから僅かに覗いているのは、竹を親指の爪ほどの小さな板状に削って、

墨で太極図を記し、周囲に八卦を書き込み、紐を通して首からかけられるようにした御守り。

 飾り気のない、簡素で素朴なソレは、しかし明らかに異常だった。

 描かれた図の中央…太極の陰陽が、ルーウー達の太極炉と同じように時計回りに回転している。さらに、何かに反応するよう

に薄っすらと青白い鬼火のような光を発していた。

―…!?―

 タオティエの頭を覆う長毛の中から、まるで泥に浮かんだ泡のように、ボコボコッと大小無数の眼球が浮き上がる。

―その札…! 娘 お前ぇえええ おぉおおまぁああえええ! それえええええええっ!―

 浮き上がって御守りを凝視する全ての瞳に宿るのは、深い嫌悪と拒絶の色。

―桃源のぉおおおおおおおお 護りぃいいいいいいい!―

 それは、ルーウーが拵えて孫に身につけさせている御守り。しかし実はそれだけではない。チーニュイの服にも、靴にも、全

て同様の加護が与えられている。

 それらが起動している今は、神聖な気が煙雲の如く白く昇り立って少女の体を覆っている。天女の羽衣のように。

 それは、悪しきを退け清涼なる気を保つ小規模結界。効力はせいぜい施してから2~3日程度だが、その澄んだ気は天地のそ

れに通じ、外界に紛れて捉える事困難。しかして神仙が全力で施したるこの加護は、命を即座に散らす、致死の一瞥すらも完全

に無効化する強固な物。こと「邪悪な力」に対しては、その災いの及ばざること別世界の如く。

 これこそは二千年以上に及ぶ試行錯誤と研鑽の末、老虎が生み出した対邪仙用個人結界。タオティエの邪視も、定命の生物に

とっては猛毒に等しい息も、その結界を穿つに能わず、仙術での長距離探知でも捕捉不可能。息を潜めて隠れれば、この加護を

得ている者は千年級の邪仙にすら見つからずにやり過ごせるという代物。

 ごうっと風が唸る。

 スコップのように大きな牛の平手が乱暴に払われたそこから、チーニュイの姿は素早く離脱し、2メートルほど下がった位置

で地面を踏み締め、クラウチングスタートに似た姿勢を取っている。

「テメェらが居なかったら、お爺ちゃんは仲間と暮らしてた!」

 風のように狐が走る。煙雲を棚引かせ、真っすぐタオティエへ突っかかる。

「テメェらが居なかったら、神仙様達は皆を見守り続けてくれてた!」

 加速をつけた飛び蹴りは、顔面を射貫くような鋭さだった。が、これを牛は右腕を上げて前腕で受ける。

「テメェらが居なかったら、たくさんのひとが人生を全うできた!」

 しかしチーニュイは、右の蹴りが止められるや否や腰から下を捻り、左足で牛の顎先を狙う。

「テメェらがしでかした事のせいで、神仙様達はひとの世界を見限った!」

 首の骨が無いように、タオティエの頭がグニャリと後ろへ引っ込み、蹴りから逃れる。首をクランク状に曲げて。そして、そ

の口がカパリと開き、赤黒い手のような舌が姿を見せ…。

「テメェらは全人類を!全ての神仙様を!そして!「フーシー様とニューワー様」を裏切ったっ!!!」

― !!! ―

 手のような舌で少女を捕えようとしたタオティエの動きが、一瞬止まった。

 チーニュイが叫んだ「力ある者達の名」が、その身を竦ませた。

 これは邪仙であるが故の反応。創造主にして守護者である夫婦の高次存在の真の名は、それだけで「意味を知る者」に、「連

なりの裡に在る者」に、影響を与える。

 チーニュイにとっては「すごく昔のカミサマ」「感謝すべき偉いひと」「お爺ちゃんが敬うひと」の名前。しかしタオティエ

にとっては、精神の底まで響き肌が粟立つほど恐ろしい名…。

 

 かつて。未だ現行人類が存在していなかった頃、この世界には戦争があった。

 「人間」…現行の人間とは異なる、いわば旧人類たる強靭な種を巡り、世界の管理者達の意見が割れ、争いにまで発展した。

 「人間」を護る一派。その他の生命を護る一派。遥かな太古に起きたその二派の戦争は、天を焦がし大地を砕き、生物の住め

る土地を失わせた。

 その終戦の後に、傷ついた大地を憐れみ、残った命の為に、我が身を糧に大地を蘇らせた者があった。

 そして、癒された大地と向き合う空が、もう血涙を流し地を冒さぬよう、天空を補修した者があった。

 夫婦と伝わるそのふたりはかつて、配下であった者達を、「人間」を屠り、世界の管理者すらも殺せるよう強く造った。

 だが、戦後まで生き延びた兵器達へ、自分達が消え逝く前には、こう言い残した。

 戦争の後に生み出された、新たな「ひと」…現行人類を、そして戦火を逃れて永らえた種を、自分達に代わって見守り、見定

めておくれ、と…。

 そうして、彼らによって住まいたる桃源郷を与えられた配下…神仙達は、永らく人類を見守り世界を見定めていた。

 いつか現行人類が成熟し、その精神レベルや文化レベルが充分な域に達したならば、自分達が保持する様々な知恵や技術を、

発展の為に授けよう、と。

 そして現行人類は、神仙達が期待した通りに、ひいては己の存在をもって天地を癒した夫婦が夢見た通りに、文化を成熟させ

て行った。

 曲を奏で、詩を詠み、文を記し、絵を描き、驚くほど多様な物を生み出した。

 神仙達は喜んだ。主であった夫婦が期待した通り、ひとは、素晴らしい文化と世界を築ける生き物だったのだと。

 やがて桃源郷の神仙達は、下界に足を運び、様々な知恵や恵みを人類に与え始めた。

 争いはあった、飢餓はあった。病はあった。愚かな行いはあった。

 それでも神仙達は、多くの人類は善良だと、本質的に平和で穏やかな営みを望むものだと、いつか彼らが自分達と同じような

存在になれると、信じて期待した。

 そして、特に見所があると判定した人類を桃源郷に迎え入れ、進歩した存在…「仙人」になる手順を教え、修行を積ませ、事

実その一部を人類の枠を超えた存在…自分達に極めて近いステージへ羽化させるに至った。

 何もかもが順調だった。地に争いは絶えずとも、悪の芽は尽きずとも、いつか人類はそれを克服すると、神仙達は信じていた。

 しかし、二千年余り前、事情は変わった。

 仙人になれる見込みがあるとされ、桃源郷に迎えられていた修行中の者達七名と、仙人に至れた者一名…合計八名が、裏切り

行為を働いたのである。

 既に羽化していた者はともかく、まだ修行中で仙人に至っていなかった彼らは、ある神仙が下界にもたらそうとした物を奪っ

た。修行を飛ばし、ひとっ跳びに、ひと以上の存在となるために。

 結果、彼らは成った。変生し、「邪仙」に。

 正規の手順で獲得していない、赤光を発する太極炉心を身に宿し、他の生物から命を取り込み続けることで不老長寿を実現さ

せる怪物…。彼らの内七名がそれに変じた。

 それだけならばまだ良かった。精神的な未熟さで過ちを犯しただけと、神仙達はまだ赦すつもりで居た。

 だが、彼らは桃源郷に至る道を破壊し、逃げて下野し、人々を脅かした。

 それもまだ良かった。道は直せる。彼らを止めて被害を抑える事もできる。やり直せると神仙達は考えた。

 しかし邪仙達は、説得のために赴いた師や、かつての仲間を、話に応じるふりをして騙し討ちにした。

 さらには、ひとを護るために下野した神仙までもが犠牲になった。

 四罪四凶の手にかかってではない。護ろうとした「ひとの手にかかって」である。

 ひとを護りに赴いた神仙数名は、最初だけは歓迎された。だが、邪仙…ひいては仙人そのものへの恐れから、人類は疑心暗鬼

に陥った。結果、彼らは人類の手で封じられ、解体された。皮肉にも、自らが人類を護るために授けた術や武具によって…。

 そうして、人類は桃源郷に見限られた。

 神仙達は、ひとに寄り添おうとした自分達の考えは過ちだったとした。

 かつての主が遺した天地を害するようであれば、人類を間引き、あるいは滅ぼす事もやむを得ないとした。

 守護者ではなく監視者として、桃源郷は、現行人類に対して「敵対寄りの中立」という立ち位置になった。

 ひとが神仙と共にあった時代は、もう遥か昔の事…。

 人類はその行いにより、味方してくれるはずの者達を失ってしまっていた。

 

(止まりやがったな、デクノボーめ!)

 素早く、チーニュイの身が回転する。逆袈裟の軌道で上に抜けた前蹴りを、追いかけるように細身が回り、右の後ろ回し蹴り

がタオティエの顔面を捉えた。

 顔面を覆う長毛に踵がめり込み、ゴム毬のように目玉がひしゃげる。

 が、目玉は潰れない。蹴り足がそのまま、タイヤを蹴ったように弾かれる。

 所詮、チーニュイは人である。

 その身を加護に守られても、護身の術を教わっても、ただの人である。資質を持たず、例え修行しても仙人になれる見込みは

なく、太極炉心を与えられたとしてもユェインやチョウのように定着しない。どこまでいっても、人の範疇から抜け出せない。

 最初から勝ち目などなかった。渾身の一撃ですらもタオティエの体を傷つけるには至らず、何の痛痒も覚えさせない。その行

為はただ…、

―小娘ぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええっ!―

 タオティエを、怒らせただけ…。

 頭の中に声を響かせて腕を振るう牛。その握り締めてなおスコップのような面積の手の甲が、宙での三連撃に次いで無防備に

なった狐の娘に、空を切る裏拳となって迫り…。

 タンタンタンタンッ。

 そんな乾いた音と共に、タオティエの肩や腕、足元などに鉛玉が当たって跳ねた。そのおかげで裏拳はチーニュイを直撃せず、

軌道が逸れて掠めてスピンさせるに留まる。

「う、動くなっ!」

 震えて上ずった声。小刻みに揺れながら煙を上げる銃口。

 チーニュイの後方、ミルクのように濃い霧から駆け出して姿を現したのは、レッサーパンダの若い軍人だった。