漂泊の仙人と煙雲の少女(十二)

 小さな狐の女の子は、目を細くして笑っていた。頭を撫でる黒く大きく分厚い手を、受け入れるように耳を左右に倒して。

 サイズがやや大きくて、袖も裾も余るブカブカの人民服を着ているが、真新しいそれが嬉しいのか、肌触りが心地良いのか、

無邪気に笑っている、五つになったかならないかという年頃の女の子…。その前には、片膝をつき、巨体を屈めて目線を近付け、

隻眼を細くして微笑んでいるジャイアントパンダ。

 軍服を纏い、両腰に全長1メートル程の長剣を帯びている巨漢は、手を伸ばしてせがむ狐の女の子の細い体を、脇の下に手を

入れる格好で持ち上げ、高い高いしてやる。

 キャッキャと声を上げて喜ぶ女の子を、ジャイアントパンダの後方から、漢服を纏う太った剣牙虎の老人が、柔和に微笑んで

眺めていた。

 寄り添う民家の灯りが地平線近くに見える、夕暮れ迫る乾いた土の上。赤茶けた大地に緑が点在する、春が近付く季節の事。

「私の実家でお預かりする、という事もできますが」

 そうユェインが話を持ち掛けたのは数時間前。幼子を育てながら漂泊する老人の苦労を考えての提案だった。少し年上になる

が他の子供も居るので、きっと寂しい思いもしない、と。

 だが、チーニュイが大人達の話の内容を察して大泣きしてしまったので、その話は無かった事にした。一生懸命あやしたので、

もう機嫌は直っているが。

 ルーウーも旅の目的が目的なので、連れ歩く事には危険が伴うと、常々案じてはいた。何処かで養子にして貰うのが良いと考

えた事も一度や二度ではない。

 だが、親を知らないチーニュイには、老虎がたった一人の家族という認識。ルーウーはチーニュイにとって、彼女の世界のほ

ぼ全てだった。

 拾って育てている間に情も移り、愛しいと感じながら、しかしルーウーは思う。自分の傍に居る限り、この娘は本当の意味で

安全ではないのだと…。

 災害も、猛獣も、老虎にとっては些細な物。そういった物からであればチーニュイを護り通せる。しかし、老人が追っている

相手は…。

 もう少し、と考える。

 幼子が少女になり、分別がつく年頃を迎えたなら、改めて考えよう。

 別離の時を…。

「中校!お待たせし…」

 三人が居る場所と村との中間、一台の軍用車両が停まり、それを支点に簡易テントが張られた所から、猪が恰幅のいい体を揺

すって小走りに近付く。が、幼い狐の娘を肩車している上官が声で向き直ると、言葉を途切れさせ、生真面目な顔を緩ませて笑

いを堪えた。笑顔ではあるが、少し寂しげな表情だった。

 ユェインも以前は、幼いホンスーにせがまれて、よく肩車してやっていた。桃の実に手が届きそうだと、故郷の桃園ではしゃ

いでいたレッサーパンダの声が耳に蘇る。

「?どうした、チョウ?」

 言葉の途中で黙り込んで立ち尽くす、猪の珍しい態度に、ユェインも思わず階級ではなく名前で呼んでしまう。

「いえ…。茶と拔絲紅薯(バースーホンシュー)の支度ができました。老君とチーニュイちゃんもどうぞこちらへ」

 踵を返して先導するチョウに、ユェインに下ろして貰ったチーニュイがトトトッと後ろから近付いて、じゃれつくように太腿

にしがみ付いた。

 驚き、戸惑い、困ったように見下ろした猪は、キラキラした目で見上げ、笑いかけて来る狐の幼女を見下ろすと、微苦笑しつ

つその手を取る。

「チーニュイちゃんは、お茶よりも椰子乳(ココナッツミルク)の方が良いかな?」

「うん!ココヤシすき!」

 少し窮屈そうに腰を曲げて背を丸め、手を繋いで笑い合いながら歩くチョウと、懐っこくついてゆくチーニュイを、ユェイン

が、ルーウーが、目を細めて眺めながら後に従う。

―面倒を 見る事に 慣れを 感じさせる 所作也―

「チョウは年下の面倒を見慣れています。世話を焼く事自体が好きなようですが、持って生まれた性格でしょう。気配りも細や

かで良く気が付く男なので、私も日頃から助かっています」

―立場上 重宝する 人材と 見受ける―

 副官として性質自体が有用だろうとルーウーが目を細めると、首肯したユェインは、副官に手を引かれて歩く狐の娘の背に隻

眼を定めた。

(四罪四凶にその人生を…、両親も、出自も、何もかもを初めから奪われた少女か…)

 ジャイアントパンダはチョウとホンスーの故郷の事を思う。

 彼らには失った故郷の思い出がある。チーニュイは家族も故郷も物心つく前に失っている。どちらがより不幸で、どちらがま

だマシなのか…。

(論ずる必要性も無い。どちらも、起こってはならない事だった)

 チキッと小さく金属音が鳴り、ユェインは自分の腰を見下ろす。その右手が無意識に腰の剣にかかり、柄頭を握り締めていた。

 ユェインは基本的に物静かで冷静である。時に鈍感と揶揄されるほど物事に動じず、感情の起伏が顔にも声にも殆ど出ない。

軍人然とした威厳ある立ち振る舞いのせいで近付き難く感じる者もあるが、平時はむしろ穏やかで、貴人の質を備える。

 だが、邪仙の被害に関しては心中穏やかではいられない。外面は取り繕えても、煮え滾るような憤怒が胸を焼く。

 憎悪は、怒りは、行動を乱し、判断を誤らせ、精神の安定を妨げ、術の安定を欠かせる。

 故に、ユェインはいつでも努めて平静さを保ち、静かに怒る。

 月の光のように冴え冴えと静かに、剣の刃のように鋭く冷ややかに…。

 

 

 

 銃口から煙が昇り、周囲を漂う煙雲に混じる。

(な、何だあのひと…!?まさか…あれが…!?)

 照準がブレそうになり、手の震えを必死に抑え込むホンスー。視線の先には、両手がやけに大きな、道服を纏った長毛種の牛

獣人…。

 ルーウーとカナデと離れ、手分けしてチーニュイ達を探しに出たレッサーパンダは、不自然に濃い霧を遠目に確認して、まさ

かと思いながらも近付いた。

 確信があったわけではない。だが、「何となく感じが悪い」と思い、その避けたくなる原因が判らないが故に、疑い、あえて

進んだ。「危険な何か」があるのではないか、と。

 その考えは的中した。本能的な忌避感を覚えるその方向へと勇気を出して進んだ結果、少女の怒声を頭上に聞いて、ホンスー

はこの崖上へと辿り着けた。

(見た目からして普通じゃない!もしかしてあれが…!?第八がずっと交戦してきた「仙人」って、ああいう…!?)

 ホンスーが実物を直接見るのは初めてだった。多少知っていれば人から逸脱した外見になっている者もあると理解し、いくら

かは落ち着いて構えられるのだが、いきなりタオティエの異形ぶりを目にした精神的なショックは大きい。もっとも、人から逸

脱した見た目だった事もあり、躊躇わずに発砲できたのだが…。

 ホンスーは体の芯からジワジワと何かに侵されてゆくような悪寒を覚える。それは、現行人類という枠組みの内にある存在が、

無条件に抱く嫌悪。無条件に被る悪影響。絶対的な序列により、「ソレら」は現行人類に対する天敵として君臨する。

 一方、着弾により僅かに軌道がずれたタオティエの裏拳は、狐の娘を直撃できなかった。ただし、脇を締めてガードしたチー

ニュイの左腕を掠める格好で通過し、それだけで激しくスピンさせている。

 腕が吹き飛んだかと思うような激しい衝撃で、狐の娘の五体は痺れ、腕の皮膚が裂け、鮮血がパッと散ったが、致命傷にはなっ

ていない。神仙の加護によりチーニュイには運が味方し、天数が加えられた事で偶然の要素が有利に働く。

 とはいえ、その加護も絶対的な結果を覆すには至らない。「机から落としたガラスのコップが無事だった」という程度の結末

は引き寄せるが、「ビルの屋上から落としたコップが無傷だった」という程の結果の置換は起こせない。チーニュイが仙人に勝

つ結果など、どうあっても引き寄せられない。

 ドザンッと地面に落ち、跳ね、ゴロゴロと転がったチーニュイは、呻きながら身を起こす。

 その目は、まだ怒りの色を損なわず、真っすぐにタオティエを見据えている。

 その足は、痺れる体を支えて大地を掴み、真っすぐに仇敵へと歩を進める。

 その腕は、片方しか利かなくなってなお、牙を剥く意思を失っていない。

―小娘ぇえ 生意気だなあ 苛々するなあ―

 いくらか冷静さを取り戻したタオティエは、

「う、う、うわぁあああっ!」

 恐怖に絶叫しながら走って来るホンスーを、面倒くさそうに見遣った。銃弾を撃ち尽くしたのだろう、ポーチから取り出した

マガジンと入れ替えながら駆けて来る。

 作戦など無い。勝てるとか、倒せるとか、そんな事も考えていない。

 助けなきゃ。

 ホンスーの頭の中を埋めるのは、ただ、目の前の少女を救わなければという意識だけ…。頭痛を感じたような気もしたが、目

の前の事に集中する。

―おやあ? 視ても 死なない?―

 タオティエは疑問を覚えた。レッサーパンダが死なない。目が合ったのに、邪視が成立したはずなのに、死なない。

 だが、そちらは後で良いと考えた。何か護符のような物で加護を受けているのだろうと。そもそもただの鉛玉など自分には何

のダメージも与えられないので問題ない。

 それよりも、匂いも声も言葉も神経に障る狐の娘の方が、よほど…。

―桃色の 肉片になれ 娘ぇ―

 抜けきっていない衝撃で体が痺れ、足取りにも精彩を欠くチーニュイめがけ、タオティエは指を大きく広げた右の平手を振り

かぶる。
予備動作すら無く、陣の構築も、符の使用も、言葉による組み上げもなかったが、仙術は発動している。触れた生物の

肉も皮も裂け、体の内外が裏返しになるという仙術が。

 しかし…。

 タタタタンッ。

 連続した銃声に続き、着弾した右腕の外側に、長い針で刺されたような痛みをタオティエは覚えた。

―?????―

 肩の付け根から肘の上まで、その弾痕は等間隔に、図ったような正四角形に並んでいた。しかも、穴が穿たれた上に再生の開

始が遅い。

 これはホンスーも知らなかった事だが、彼が装填し、銃が吐き出した弾丸は、対仙特殊弾頭。連隊長が彼に置いて行ったポー

チに入っていたマガジンには、「仙人殺し」のユェインが常備している弾丸が詰め込まれていた。

 その弾丸は邪仙特有の仙気に反応し、接触するなり発散元へ軌道修正するという、追尾機能を備えている。さらに、自動的に

着弾痕で陣を形成する性質があり、弾痕が描いた四角形の内側には、即座に太極図を中心にした八卦の紋が浮かび上がり、ジュ

ウッと音を立ててタオティエの表皮と被毛を焼く。

 一発分の弾頭を作るのにも、腕利きの道士が数日かける代物だが、効果はこの通り。千年級の仙人にすら傷を負わせ得る。

 痛みで肘が縮み、腕が伸び切らず、触れれば加護すら役に立たず裏返されてしまうタオティエの平手は、チーニュイの眼前を

通過した。その一瞬の幸運を、狐の娘は逃さない。

「あああああああああっ!」

 皮が裂けて血が指先まで滴っている左腕、拳を作って振り上げて、チーニュイは殴った。タオティエの脇腹を。

 …ぽこっ。

 それは、児戯のような拳だった。

 痛みと痺れでまともに動かない左腕で無理矢理殴っても、タオティエにダメージを負わせるどころか、道服に血の染みを薄く

残しただけ…。

 ニヤリと、狐の娘は不敵に笑った。

― ……… ―

 それが、タオティエの癪に障った。

 みすぼらしい、取るに足りない、ひとの娘。

 もはやひとを超越した、上位の存在になった自分に、不敬にも拳を振り上げ、衣を汚した下等生物。

 それが、何を得意になっているのか、自分を笑ったのが許せない。

―お前 もう死ねよう―

 それは、無造作だった。あまりにも無造作に、道ゆく野良犬をむしゃくしゃした酔っ払いが蹴り上げるように、タオティエは

その少女を…。

「!!!」

 声も出ず、狐の娘が宙を舞う。ボールを蹴飛ばすような前蹴りで、あっけなく。

 防御もできなかった。何の備えもできなかった。ひとが反応できるスピードではなく、耐えられる威力でもなく、少女は蹴り

上げられて20メートル以上舞い上がりながら、感じた。

 自分の中で、大事な何かがフツリと切れて、定められた何かが尽きてしまった事を。

(マジかぁ…。これで終わりなのか、チーニュイは…)

 重力を感じる加速度の中、やがて減速し、頂点に至って止まる。

(でもまぁ、「やる事はやれた」かぁ…)

 痛むどころかあまりの衝撃で体が痺れていた。寝起きに変な恰好だった時のように感覚が無かった。

(けどさ…)

 放物線を描いて落下に移りながら、チーニュイは思う。

(帰りたかったなぁ、お爺ちゃんの所に…)

 満足していた。あとは祖父が何とかしてくれる。自分を救い育ててきてくれた恩人の目的が、一つ達せられる。

 しかし、ずっとこうする事を考えてきたのに、今になって思う。

(生きたい…)

 娘の目から涙が溢れた。

 大きなジャーナリスト。怪しい大男。頼りない軍人…。彼らを交えた、たった一日だけの賑やかな道中は楽しかった。

 祖父とふたりだけの旅路は幸せで、それ以上を求めて来なかったが、最後になった一日で自分は知ってしまったのだなぁと、

チーニュイは悔やんだ。

 きっと、世の中にはたくさんのひとが居て、皆違っていて、楽しい事も面白い事も自分が知らない事も溢れていて…。

(やっぱり…、生きたかった…なぁ…)

 時が来れば自分の命を、恩人の為に捨てるつもりで生きてきた報恩の復讐者は、最後の最後でそう思った。

「チー…!」

 叫ぶ声も途中で、ホンスーは駆け出していた。自分でも驚くほど素早く、考えるよりも先に、体が動き出していた。

 蹴り上げられたチーニュイが向かう先は崖の下。ホンスーは必死に走る。

 受け止められるはずも、抱き止められるはずもない。落下する先は煙雲漂う空中。

 それでも、レッサーパンダは止まらなかった。

 「練習」は昔たくさんやった。今度は上手く行くと確信していた。

 崖から跳ぶ。躊躇いなく、落ちて来る少女に手を伸ばす。

 伸ばした指はその袖に触れ、絡め捕るように掴んで…。

(ちゃんと跳べたよ…。チョウお兄ちゃん…)

 少女の体を抱えるように捕まえたまま、真っ白な霧の中へとホンスーは落ちてゆく。

 その姿が消えた後、ゴッ、ガッ、ザリザリッ、と激突音や擦過音が霧の中から響いて…。

 …グチャ…。

 霧が僅かに薄くなる。

 崖の上にひとり残って佇むタオティエは、崖下を見下ろした。

―死んでる だろうけど ねえ―

 桃源郷由来の加護を得ていた小娘の事は気になる。

 ちゃんと死んでいるか確認しておこうかと、宙へ足場を作って踏み出そうとした、その時…。

 

 

 

― さ が れ ―

 

 

 

― !? ―

 ブワリと、タオティエの全身で毛が逆立った、

 弾かれたように周囲を見回す牛。怖気と寒気すら感じるのは、精神に沁みついた反応。

 神仙の「声」。清廉な気配を孕む、威を宿す声音。

―居る… のか…!?―

 しばし周囲を窺っていたタオティエは、ガバッと屈み込んで地面に両手をつく。その触れた部位に二つの太極図が出現し、回

転しながら拡大、統合。二つが溶け合って一つの黒い円になると、まるでそこが水面であるかのように牛の体が沈み込み、トプ

ンと潜って地下に消えた。

 仙術、土遁の一種。地中を通って隠れながら離れた場所へ移動する術である。

 タオティエが仙術まで使い、弟子との待ち合わせの事も無視し、気になった娘の生死確認もせず、最優先でこの場を離れた十

数秒後…。

(体…、動かない…)

 硬い地面に仰向けの状態で、ホンスーは目を開け、崖の上を見遣った。

 寒い。全身が痺れたような、シクシク、ジワジワ、絞られるような痛みがある。

 首を捩じって何とか横を見る。そこには、横向きで倒れ、こちらに顔を向けたまま気を失っているチーニュイの姿。

(よかった…)

 呼吸を確認してホッとする。飛び込むように崖から跳んだホンスーは、空中でチーニュイを捕まえる事に成功すると、そのま

まギュッと抱き締めた。

 そして、崖に幾度も激突しながら転げ落ち、地面に叩きつけられた。

 チーニュイは左腕が折れており、肘から逆方向に曲がり、頭も打ったようで左耳の付け根の辺りから血が滲んで被毛を染めて

いる。

 肋骨なども折れており、重傷である。が、手当てが間に合えば助かる。

(でも…)

 ホンスーは思う。残念だと。

(できない…)

 仰向けのレッサーパンダの周囲に、ジワジワと、溢れ出た血が広がってゆく。

 後頭部を強打しており、脊椎も損傷している。もはや痛みすら遠く感じるほどの致命傷だった。

 チーニュイを手当てするどころの話ではない。動くどころの話ではない。ホンスーの体は生命活動を停止しかけている。

(誰か…)

 言う事を聞いてくれない、感覚も定かではない手に、頼む。

(通信を…)

 ユェインに預けられた通信機がある。それで助けを呼べば、チーニュイの手当ては間に合うかもしれない。

(…あった…)

 動かせたという感覚は無かったが、ホンスーの手は念じた通りにポーチの蓋を開け、通信機を握っていた。

(ボタンを…)

 朦朧としながらスイッチを押す。微かなノイズに次いで、すぐにツッと、通信が繋がった音が聞こえた。

 

「助かりました」

 半透明の小さな女…地脈を利用して邪仙の位置を探索してくれたファポォに、深々と頭を下げたユェインは、地図をチェック

している副官にその隻眼を向けた。

「四罪四凶の座標を仮想して照らし合わせましたが、幸いと言いますか想定範囲内ですので、作戦は組み立てた通りに実行可能

です」

「では、各隊に伝達して早速行動に移らせる」

 ユェインが通信機を取り、チョウの案を元にした作戦を各隊へ伝えるその傍らで…。

「ところで、追加で申し訳ないんだけど、「人探し」も頼めない?頼まれてくれると助かるなあ。特徴は、そうだなぁ…」

 伏せの姿勢の青虎は首を下げ、ファポォに顔を近付けて何事か頼む。

 その間にもユェインは、山岳地帯に侵入していた部隊と、取り囲む形で広域包囲陣の構築に回っていた部隊、念のために周辺

警戒に当たらせていた部隊にそれぞれ別の指示を出してゆく。

 仙人の痕跡を追う形で遠回りしていた部隊の内、交戦せず健在のままの隊へは、万が一の状況に備え、転身して野営の準備を

しつつ待機するよう指令を下し、第八連隊の総員を行動に移す。

 まずは行動に入らせることが肝心なため、細かな指示はユェインの指令を追いかける格好で、チョウが通信を入れて補足。そ

れぞれの作戦行動を再確認し、手順を説明し、伝達を確実な物にする。

 これにより第八連隊の各部隊は、まず動き出してから通信兵が指示の仔細を通達され、移動しながら支度をするという、高い

瞬発力をもって作戦に臨む。

(いやいや。相変わらず薄ら寒くなるな、この手際の良さには。何より、四罪四凶を相手にするっていうのに逃亡する兵士も居

ないっていうのがまた…)

 青虎は半眼になって、手早く指令を飛ばしてゆくふたりを見遣った。

(中央が傍に置きたがらない訳だ。このふたりは有能過ぎる上に相性が良過ぎる。ユェインは全く興味を示さないが、心酔する

将校も政治家も多い。「戦力」は充分なんだ。こんな手際でクーデターでも起こされたらたまったもんじゃないだろう)

 政治に興味がなく、向いていないとも述べる。そして適材適所として、自分は戦場に在るべきだと定義する。成すべき事の為

に軍内である程度の権力は要るが、ひとを統べるような席は欲さない…。しかしもしも、このジャイアントパンダに権力欲や野

心があったなら…。

(この国、もっと面白い事になってたかもな。まぁ戦が起こるだろうが)

 そんな事を考えていたヂーは、物言いたげに自分を見上げているファポォの視線に気付く。

「え?見つかった?もう?キミ仕事メッチャ早くない?ってか割と近い?マジで?」

 目を丸くした虎は、ファポォの小鳥が囀るような言葉を聞くと、

「悪いがお二人さん、そろそろ外す事にする」

 すっくと身を起こしてユェインとチョウに呼び掛けた。

「事が済んだら野営だな?じゃあそっちに顔を出そう」

「了解した」

「ご無事で、室長」

 頷くユェインと敬礼するチョウ。「「ご無事で」はこっちの台詞だぞ?」と応じた青虎は、ファポォの着物の後ろ襟を咥える

と、ひょいっと持ち上げて首を捻り、蓋が開いていたポーチの中に入らせる。

「万が一にも巻き込まれちゃ可哀そうだ。新しい家も提供しなくちゃいけないし、責任もって一旦預かろう」

 恐れ多いと囀るファポォを連れて、ヂーは身を翻す。

「では後ほど。ユェイン上校、ご武運を。ジァン上尉、しくじったらおしおきに、全裸に荒縄巻いて縛ってハムみたいにして一

昼夜天井からぶら下げるからそのつもりで」

 心底嫌そうな顔をするチョウ。食べ物飲み物を粗末にする行為ではないからか、ユェインは口を挟まない。

 トトン、トン、ト~ン、とまるで重さが無いように、一足飛びで2~30メートルも軽やかに跳躍する青虎が、岩山の天辺を

ジャンプ台にする格好であっという間に遠ざかり、小さくなって視界から消える。

 見送ったチョウは、無線機を手に「詳細の通知、完了しました」とユェインに向き直る。

「では、あとは我々が上手くやるだけだな」

 しかしチョウは、頷く前に「ん?」と声を漏らすと、顎を引いたジャイアントパンガの顔から視線を外し、手元の無線を見遣

る。
通信が入っていた。何処かの部隊から作戦の手順について再確認かと、一度は思ったチョウだったが…。

「上校。呼び出しが来ておりますが…」

「む?私が?…いや、切ってある」

 操作ミスかと自分の手元を見遣ったユェインだが、通信はオフになっている。

「しかしこの番号は上校の予備回線…」

 言いかけたチョウはハッとした。

 ユェインは通信機を二つ持つ。メインで使用する物と、自分と二股で通信するための予備を。

 そして先ほどユェインは、ホンスーを発見した際に、故障した彼の物の代わりに予備を預けたと言っていた。

 目を見開いたチョウは、通信機のボタンを押し込み…。

 

『ジアン・チョウだ』

 通信機越しの声で、ああ…、とホンスーは目を閉じる。自分が最期に聞くのはこのひとの声だったのか、と。

『フー少尉か?』

 声が出ない。もう指一本動かない。

 痛くはないが、寒い。チリチリと、真冬の冷え切ったベンチに座っているように、体中から体温が抜けていく。

『どうした?状況を述べよ』

 通信機を顔に寄せる力も無い。応答もできない。

『…状況を…』

 いつものように苛立ったような声。今回は少し違うような気もして、それが苛立ちではなく焦りではないかとも感じる。

『フー少尉…?』

 謝りたかった。ずっと。きっとあの日、自分が釣りに誘ったから、巡り合わせを変えてしまったから、故郷を失い、その場に

居合わせられなくて、悔恨を抱え続ける事になった彼に…。

『ホンスー君!?』

 悲鳴のような声が頭の芯を揺らす。ずっと昔、川に落っこちた時に聞いたような声…。

―…チョ……兄……ん…………―

『どうした!?何があったホンスー君!?』

―…ごめ………さい…―

 ああ、そうか。

 自分が最後の最後に言うのは、結局、この言葉だったのか。

 通信機にかかった指から力が抜けて、ボタンから外れ…。

 

「ホンスー君!ホンスー君!?」

 通信は切れ、応答はない。目を見開いているチョウは、名の呼び方に気を配る余裕すら失っている。

 嫌な予感しかしない。通信機が受信した相手機の座標は、先ほどファポォが示した、四罪四凶が居ると思しき範囲内だった。

 通信機を耳に押し当てる。最後に聞いたのは、消え入るような謝罪の声…。

 違う。

 違う。違う。違う。

 そうではない。そうではないのだ。

 腹立たしかった。

 腹立たしくて仕方なかった。

「上校…!」

 キッと顔を向けた猪に、ジャイアントパンダは頷くより早く「急行せよ」と命じた。

「君ひとりの方が早い」

「は!先行します!」

 言うが早いか身を翻し、目的地の方向を見定めたチョウは、腰を屈めて膝を曲げ、前傾しながら右拳でドンと、左胸をどやし

つける。

「仙術解禁!神行法、臨界駆動開始!」

 軍服の生地を透かして左胸に太極図が浮かび上がり、普段の何倍もの速度で回転を始める。炉心に火を入れた途端、チョウの

両脚は地を抉り返すような一歩目から疾走に移った。

 加速をつけて谷間を飛び越え、急峻な斜面を走力に物を言わせて駆け登り、最短距離で移動し始めた猪に、自らも駆け出した

ユェインが続く。

 短距離での瞬間速度であればまさに神速のユェインだが、チョウのように何キロも継続して高速移動する事は出来ない。ジャ

イアントパンダの移動もまた、まっとうなひとが辿れるルートではなく、発揮できる走力でもないのだが、持続巡行速度は猪の

方が遥かに上。こんな地形と状況ではチョウを単独で向かわせた方が早い。

(ホンスー…)

 崖を駆け下りながら、ユェインの隻眼が物憂げに細められた。

 

 カラリと、小石が硬い地面に転がり落ちた。チーニュイを抱えて落下する際、ホンスーが激突した崖の面から。

 小石が血溜まりに入って止まる。それを、大きな影が一つ、間近で見下ろしている。

「………」

 無言でホンスーとチーニュイを見下ろしているのは、衣類がボロボロになった鯱の巨漢。

 ルーウーに傷を塞がれた後、シャチも手分けしてチーニュイを探しに動いたのだが…。

(軍人は…ダメだな。じきに死ぬ。娘は…まァ何とかなるが…)

 その顔にはいつもの薄ら笑いは浮いておらず、何処か不機嫌そうな無表情。

 判らなかった。

 状況的に、自分が遭遇したあの仙人と、この二人が戦闘を行なったらしい事は解る。崖上の状況からも、拳銃の発砲痕跡から

も、それは確かだった。おそらくは落下したチーニュイを、ホンスーが身を挺して庇ったのだろうという事も。

 だから判らなかった。

 絶対に敵うはずがないと、おそらくは相対した瞬間に理解できていたであろうふたりが、立ち向かったのが判らない。

 自分を死体と定義するシャチは、「生」に関して独特な観念を持つ。生きている者は、生物は、その生命活動を継続させる欲

求と本能を持つはずで、それは何よりも優先されるはずだと、シャチは考える。

 それは良い。生きたいというその意思は自然であり、命の営みの根幹を成す物。逆に、ただ漠然と惰性で生きるだけの命につ

いては、シャチはあまり良い印象を持たない。

 必死に生きる命の横で、生を浪費するだけの命…。両者が偏在するこれを、シャチは「歪み」と認識している。

「お…じ……ちゃ……」

 シャチがチーニュイに視線を向ける。か細く、うわ言を漏らす狐の娘は、何処か勝ち誇ったように、口の端を少し上げていた。

「やっ……た……よ…。帰……から…。待っ…てて…」

 朦朧としたまま、チーニュイは祖父の元へ帰る夢を見ていた。

「………………………」

 シャチは考える。

 何らかの意図を持ち、何かを決意し、仙人に挑んだ少女。

 自らの身を投げ出すように、少女を庇ったレッサーパンダ。

 自ら命を捨てるに等しい蛮行。だが、その行為に及んだこの二つの命は、果たして「生を浪費する命」に分類されるものか?

「グフ」

 含み笑いが巨漢の口から漏れた。

「グフフフフフフ…!」

 否。

 シャチはそう考えた。

 これは生の「浪費」ではない。本能以上の意思をもって、その使い道を選択した命である。ならば、生きたいと言った娘を養

女にしたように、この命にも多少報いてやっても良いか、と…。

 「命を生きる」。

 シャチは今、その概念に触れていた。浪費ではない、使うべき時にその命を使う、生命の在り方に。

 巨漢は軽く首を起こし、崖上を見遣る。

 徒歩ではなく、何らかの術を用いてこの場から消失するように移動したと、察しもついているが…。

(追跡は可能だァ…)

 先に接触した時に生体パターンは確認した。

 水を支配するシャチにとって、まとまった量の水が流れていないこの地域は適した戦場とは言えないが、無いなら無いで打つ

手はある。
追跡も交戦も可能。勝てるかどうかはまた別の話だが…。

(やられっ放しってのは、性に合わねェからなァ…!グフフフフ!)

 スッと首の向きを変えたシャチは、何かを窺うように目を細めると、素早く身を翻して霧の中に消えた。

 その直後、漂う霧を押し分けるように、凄まじい速度で接近して来た物が、ガリガリと崖の斜面を水平に抉りながら減速する。

(あれは!)

 常軌を逸した経路をミサイルのような速度で駆け抜けてきた猪は、垂直の崖に足を踏ん張り、抜いた剣を一本突き立て、ガガ

ガガッと音を立てて抉って制動をかけながら、霧の中に倒れる二つの影を眼下に確認した。

「チーニュイちゃん!?」

 最初に見えたのは倒れ伏す狐の娘。最後に会った時とは見違えるほど大きくなっているが、毛色や、この場に居るという状況

から、面識がある老虎の孫娘だとすぐに判別できた。

 飛び降りる格好で崖から下り、ドシンと着地したチョウの周囲で、風圧に押されて霧が追いやられる。神行法による限界に近

い酷使の過負荷で、全身汗だく、息も上がっている猪は、一息つくのも後回しにして狐の娘に駆け寄った。

(生きている!浅くはないが、助かる傷だ!)

 屈み込んで手を取り、傷の具合と脈と呼吸を確かめるチョウ。手当は必要だが助かると確認し、ホッとしたが…、

「?」

 ヒクンと、その鼻が震えた。

 濃い血臭。まだ生の。酸化が進む錆臭さが混じった…。

 首を巡らせる。ゆるい風で動いて薄れた霧の向こうに、横たわるもう一つの影が見えた。

「ホン………」

 腰を浮かせ、立ち上がり、一歩踏み出した次の瞬間に声が途切れた。

 見開かれた目に映ったのは、大輪の花のように鮮やかに広がった赤。その中心に五体を投げ出し、横たわるレッサーパンダ。

「~~~~~~………」

 声にもならない吐息で喉を震わせたチョウの膝が、ガクリと折れて地につく。

 膝から崩れ落ち、へたり込んだ猪の視線の先で、レッサーパンダはピクリとも動かない。

 致死量を遥かに超える出血。一目で判った。手遅れだったと。

「う…、う…!」

 膝を擦って、チョウはレッサーパンダににじり寄った。

「ううっ!う…!」

 視界が揺れる。這いずって地につけた手がホンスーの血で染まる。

 のろのろと、血溜まりの中からホンスーを抱き上げる。

 レッサーパンダは苦しそうな顔ではなかった。痛みを堪えるような顔ではなかった。むしろ穏やかで、満足したような顔にも
見えて…。

「うおああああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!」

 両腕に抱えてホンスーを抱き起し、チョウは天を仰いで叫んだ。

 違う。

 違う。違う。違う。

 こんな結末は違う。

 あってはならない、こんな事は違う。

「ホンスー君っ!ホンスー君…!」

 震える腕で抱き締める。きつく瞑った目から涙が零れ出した。

 腹立たしかった。

 腹立たしくて仕方なかった。

 仇討ちを果たすのは任せればよいと、ホンスーに思わせる事ができなかった自分が。

 軍人になる事を彼に決意させてしまった、成果を挙げられなかった自分が。

 ずっと、ずっと、腹立たしくて仕方なかった。

 強くなりたいと願い想い描いた。なのに今でも成せぬまま。君まで去ってしまうのか。

「ホンスー君…!ホンスー君、何故…!」

 まだ温もりが残る、しかしもう息もせず、鼓動も止めてしまった血まみれの愛し子を、抱き締めてチョウは唸る。

 自身の損傷は修復できても他者の傷は癒せない。長く戦い、多く殺すために学んだ仙術…、それらでは大切な者を救えない。

「ううっ…!ううううっ…!」

 昔そうしたようにホンスーを抱えたまま、血に染まって冷えてゆく背中をさする。しかし、応じるように立って来た尻尾は、

もう手の甲に跳ねては来なかった。

 ホンスーは、赤子の頃から知っている、この世にたった一人残った同朋だった。失われた故郷の最後に残ったひとひらだった。

家族を、友を、親類を、知り合いを、誰も彼もを失った自分にとって、ただ一人残った古馴染み、それがホンスーだった。
あの

村の事を憶えている、居なくなった皆の事を憶えている、自分以外の最後の…。

 いつかこの身が擦り切れて、五体が崩れ去って、骨も残さず消えたとしても、彼があの桃の実る村を憶えていてくれるなら、

故郷を忘れないでいてくれるなら…。そう思えばこそ、何に怯む事も、何を恐れる事もなかった。

 拠り所だった。自分に残った、故郷の、幸福の、永遠に失われた平穏の、最後のひとひら…。

 最後に残った桃の花弁が、君だった。

「ううううううううっ…!」

 猪が噛み締めた牙が鳴る。きつく閉じた目から大粒の涙が零れる。

 冷たくなりつつある手を取る。成人してもなお小さい手…。大きく分厚い自分の手とは違う、柔らかな掌の小さな手…。銃を

握るべきではなかった手…。

 ズボンまで血を吸った脚に触れる。鍛えてなお頼りない脚…。幼いあの日、軽やかに野原を駆けていた脚…。軍靴など履くべ

きではなかった脚…。

 なのに君は軍に来てしまった。努力を実らせてしまった。進むべきでない道を歩み出してしまった。

 嫌われても良かった。憎まれても構わなかった。恨まれても仕方なかった。

 それでも、君を危険から遠ざけたかった。

 だから、きつい言葉を選んでぶつけ、軍を去らせようとした。

 自分は愚かだ。職権乱用とそしられようと、横暴だと非難されようと、どんな手を使ってでも君を軍から追い出すべきだった。

 悔恨を背負うのは自分だけで良かった。未来を奪われた皆の分まで幸せになって欲しかった。君まで来る必要は無かった。君

が暮らすそこへ何者も悪さができないよう、自分が剣を握り続けるから…。

 自分は無力だ。何百体という妖怪を屠れても、何十人という仙人を殺せても、たったひとりを助ける事ができなかった。

 許してくれなど、どの口で言えようか?君を戦場に出させ、こうして駆け付けるのも遅すぎた自分が、どうすれば許されると

いうのか?

「ホンスー君…!」

 ふと、チョウは目を開ける。気配と呼ぶにもささやかな物を感じて。

 すぐそこに、老人がひとり立っていた。

 漢服にも似たゆったりした衣服を纏う、片牙の剣牙虎が。

「老君…」

 かすれ声で呟いたチョウは、ルーウーとの再会を喜ぶ余裕も、挨拶を口にする余裕も無かったが、違和感を覚えた。

 老虎は目を見開いていた。訝しんでいる…否。哀しんでいる…否。驚いている…否。それは、「驚愕」していると言って良い

表情である。

 神仙たるこの剣牙虎が、一体何を見てそんなにも驚いているのか、チョウはぼんやりとその視線を追い、自分が抱き起してい

るホンスーの顔を見る。

(老君は、何に驚愕して…?)

 老虎は一度、横たわる孫娘を見遣る。

 重傷だが、天数は尽きていない。ここで死ぬ事になっていない。滅びの匂いが漂うものの、それはもう去った後…。

 つまり、一度は定まった結果が「書き換え」られ、失われるはずだった天数が「戻されて」いる。

 事情は察した。残り香のようなこの邪仙の気配には覚えがある。無謀にもタオティエに立ち向かった孫娘が、このレッサーパ

ンダに庇われて九死に一生を得たのだという事も理解した。

 しかしそれだけではない。単にホンスーが庇った所で、タオティエがその気ならとどめを刺せた。むしろ、彼をよく知るルー

ウーにしてみれば、タオティエが労力もかけずに処理できる面倒の種をあえて放置するのは不自然すぎる事だった。では、何故

殺されなかったのか?何故死なずに済んだのか?その答えは…。

―「聞こえた」 その折に もしや と―

 ルーウーはゆっくりと血溜まりに中に膝をつくと、チョウに抱えられているレッサーパンダの顔に手を伸ばす。そして、下顎

をそっとつまむと、口を開かせた。

―こういう 事であったか…―

 チョウは目を見開き、ホンスーの口内を凝視した。

「太極…炉…!?」

 レッサーパンダの舌、その表面に太極図が浮かんでいる。

 それは見るからに不安定な物で、薄く透けている上に、ノイズが混じった映像が乱れるように、ジジッ…、ジジッ…、と明滅

しながら揺れているが…。

「消えかかっているが…、邪仙の物とは違う…?この僅かな発光は…、俺やユェイン様と同じ色…!?」

 チョウはホンスーの舌に浮かんだ太極図を凝視した。

 止まりがちだがゆっくりと回転し、何とか存在を持続させようと必死にあがくそれが、発している光は赤くない。邪仙の物と

は違う、自分達が宿す神仙由来の太極炉心が発する物と同じ色…鬼火のような青を帯びている。

 それはまさしく、神仙が持つ物と同じ「正規の太極炉心」だった。

 術として成立されていなくとも仙術同様の軌跡を起こし、定まりかけていたチーニュイの死が結果の上書きで回避されたのも、

この太極炉がホンスーの願いを汲んだおかげ。形式を踏まずに簡易展開された仙術が、世界にとって取るに足りない規模の奇跡

を起こし、少女の天数を変動させた。

 タオティエが「言葉」を聞いて神仙の牽制と誤認したのも、声も出せなくなったはずのホンスーの「言葉」をチョウが無線で

認識できたのもこれのおかげ。
先刻ホンスーが発した「言葉」は、ルーウーが他者へ語り掛けるのと同じく、「肉声ならざる声」

と化していた。特にタオティエは天敵である神仙の気配をそこに感じたため、警戒心を刺激されて立ち去る事を選んだ。

―なれば 打つ手は あろう―

 ルーウーは急ぎ衣の襟に手をかけ、もろ肌脱いで上体を晒し、腹の太極図を露出させた。

―孫の 命の恩人也 死なせてなど なるものか―

 ひとに対して施せる治癒には限度がある。ひとの体は仙気を留め置く事が構造上難しいので、優れた治癒術でも上手く作用し

ない。
しかし、相手に太極炉心があるなら話は違う。完全に死んでいなければ、体が崩壊を始めていなければ、太極炉さえ運転

させられれば、死の寸前からでも復活させられる。

 座禅を組んだルーウーは、肘の高さで左右水平に広げた両手の親指と人差し指で輪を作り、転法輪印という印相に似た形に印

を結ぶ。そこから肘を支点にし、右手を下から、左手を上から回して腹の前に移動させ、双方の指で作った輪を上下から向き合

わせる。

 前で印を結ばれると、腹の太極図が回り出し、次第に速度を速め、白と黒が混然一体となった灰色の円と化し、老虎の全身が

淡く、鬼火のような青い燐光に包まれた。

 両手に光を集めて施術に移りながら、ルーウーは遥か昔、自分達を生み出した主から聞いた言葉を思い出していた。

 

我らが天地に溶け入るならば

いつか子らも似るのであろう

 

 彼と彼女は、後に現行人類となる者達を「我が子ら」と称した。子らが生きるために、片や地に、片や空に、己が身を溶いて

大地を癒し、大気から穢れを除き、ひとが生きられる環境を作った。

 そして予見したのだろう。細分化されて個ではなくなり、天地と同化した自分達のエッセンスを、いつか宿して生まれる子ら

もあるだろう、と…。

 おそらく、何も無ければ目覚めなかったのだろう、ホンスーの中の「因子」。それはルーウーから二度にわたって治癒を施さ

れ、純度の高い仙気を浴びた事が呼び水となり、開花に至った。

 天然の神仙。

 神仙に正規の炉心を与えられるのでも、四罪四凶に疑似炉心を埋め込まれるのでもなく、自前で太極炉心を生成した現行人類。

その確認し得る範囲で最初の一人に、ホンスーは成った。

 孫の恩人というだけではない。ホンスーというこの一個体は、数百年に渡るルーウーの説得にも耳を傾けなかった桃源郷の同

胞達をも動かし得る「現実化した奇跡」…。
ホンスーを目の当たりにすれば、桃源郷の神仙達も、一度は見限った人類について

再考するしかなくなる。
彼らを再び人類の味方にできるかもしれない、現時点で唯一の説得材料。ひとと神仙の間に再び橋をか

ける事ができるかもしれない、思いがけず降って湧いた希望。ルーウーが同胞達に再考を促す為にも重要な鍵である。

「助かる…のですか…?」

 抱えているホンスーの体が発熱し始めたのを感じながら、チョウは老虎に尋ねる。期待…ではなく確信があった。何とかして

貰えるのだと…。

―仔細 無し―

 言葉少なく応じたルーウーは、停止して分解してしまいそうなほど不安定なホンスーの太極炉心に、送り込んだ仙気で自分の

太極炉心にバイパスを繋いで調整する。

 太極炉心が正常な運転さえ始めれば、治癒の仙術を受け入れて自己修復を進めるよう促せる。ひとの領分を越えた修復で、こ

の酷く損壊した肉体も元に戻せる。

 これは緊急心肺蘇生と開腹手術を同時に行うような物だが、しくじる可能性は無い。ルーウーにとっては、ひとに太極炉心を

定着させて蘇生させるよりも、「同族」を蘇生する方が遥かにやり易い。

 トクン…。

 チョウがハッとホンスーの顔を見つめる。

 抱えた腕に感じるのは微かな脈動。次いで、半開きの口が僅かに息を吸い込む。

 真剣な顔でホンスーの治癒を進めるルーウーが、猪の問いかけるような眼差しを受けると、大きく頷く事で返答する。

 蘇生は成った。

「ホンスー君…!」

 感極まって再び涙が溢れかけると、チョウはグッと目を瞑り、老虎に頭を垂れる。ポタリと、ホンスーの頬に雫が落ちて沁み

込んだ。

 最後に一度、軽く、しかししっかりと抱き締めてから、そっとレッサーパンダを地に横たえると、猪は老虎に平伏して口を開

いた。まだ治癒は途中だが…。

「再会のお慶びを申し上げる間もなく、また、「身内」を救って頂いた御礼もろくに申し上げられぬまま発たねばなりませぬ非

礼…、平にご容赦を。本官はこれより作戦に基づき、邪仙を追います」

 ルーウーは顔を上げたチョウを見つめる。

―この場に 居ったは タオティエ也―

「四罪四凶のいずれかである事は承知しておりました。サンミャオでないと知れば我らが連隊長はさぞ残念がる事でしょうが、

そこはそれ、私情は挟まず粛々と…。最重要誅仙対象である事に変わりはございませんので」

 大した胆力だと、ルーウーは目を細めた。四罪四凶についてこの物言いは、なかなかできる物ではない。

「それにタオティエであれば、孫殿の因縁の相手でありましょう」

 まだ気を失ったままのチーニュイの顔を一度窺い、チョウは老虎の顔を真っ直ぐに見つめる。

「老君のお気持ち同様、本官らにも見逃すという選択はございません」

―アレは 強力な 仙人也―

 遭遇するだけで危険な相手。ユェインやチョウの武力を知ってなお、老虎は念を押す。しかし…。

「俺は…」

 チョウはホンスーの顔を見遣る。

「俺は…、皆の、兄でした。小さな村、ひとの少ない村、若者や子供は皆、兄弟のような物でした。とりわけ、ホンスー君は俺

を慕ってくれた…」

 一時、昔のように穏やかな物に戻った顔をホンスーに向けて、チョウは呟く。

「弟が体を張りました。四罪四凶を前にして勇敢に。ここで臆病風に吹かれては、俺は兄貴風を吹かせられなくなります」

 猪は立ち上がる。血染めの衣はまるで迷彩。汚れ、染みて、色濃く重々しい。

―…土遁による 移動也 遁甲式の 法則に 基けば タオティエの 行く先は…―

 不退転の意思を察して折れたルーウーは、タオティエが移動したであろう先を告げた。緊急避難にも似た移動なので距離は稼

げていない。まだチョウならば追いつける範囲内に居る。

「有り難い情報です。では手短に…」

 チョウは現在取り掛かっている作戦の内容と狙いを告げ、老虎が欲する情報も伝える。掻い摘んでの短い説明だったが、要点

を押さえてルーウーに必要な情報だけは余さず与えられた。

「本官はこれにて。「老君のお望み」に沿うよう力を尽くすと、お約束致します」

 やはり頭の良い男、そして豪胆な男だと、老虎は半眼になる。おそらくはそもそもルーウーの狙いも織り込んでの作戦行動。

タオティエが移動した事で陣の敷き直しなど、修正事項がいくつも発生しているはずだが、その修正のために、自分がすべき事

をチョウは理解している。

 一礼した猪は身を翻すと、垂直に近い崖を駆け上がり、タオティエが地に沈んだ地点に到達する。

 作戦は始まっている。想定範囲から外へ出られてしまっては立ち行かなくなる。一刻も早く追いつき、立ち去られないよう足

止めする必要がある。

「上校、予定に若干の変更が…」

 通信機を手にしたチョウは、疾走しながらユェインに報告する。

 ホンスーはとりあえず生きている事、ルーウーと会った事、そして、タオティエが予定位置から移動し、遠ざかった事…。

「作戦予定区域から出られてはかないません。まずは移動を阻みますので、各部隊の配置位置について、これから申し上げる通

りに変更をかけて頂きたく」

 決意に染まったその双眸は、まるで空気が淀んで濁り、煙が渦を巻くような行く手へと、真っすぐ向けられていた。

 作戦での想定位置から移動された。陣の敷き直しはユェインが再度通達するが、各部隊の準備が完了するまで時間が必要。本

来はユェインとふたりで相対する予定だったが、合流を待つ間にさらに移動されてしまっては取り逃がすのは確実…。

(やれるなジァン・チョウ?男を見せるはこの時ぞ!)

 腹を決め、チョウは挑む。単独での、四罪四凶の足止めに。

 

 一方その頃…。

(居ない…!どこにも姿が無いよ…!)

 坂道を駆けのぼり、切らした息もそのままに、カナデは視線が通る範囲をカメラのファインダー越しに確認する。視界は狭ま

るが高倍率の視線、これを走らせて短時間で広範囲を視認し、探せるのは、職業柄磨かれた眼力のなせる技。

 軍のいざこざに巻き込まれてはかなわないと、身を潜めている可能性も高い。あの鯱の巨漢と一緒ならばチーニュイにも滅多

な事は起こらないと思うのだが、当たり前に心配である。

(問題は、ジョンと別行動の場合だよ…!)

 動いた事とは別の理由で噴き出た嫌な汗が、カナデの肥えた体をじっとりと湿らせる。

 ふたりともあの崩落現場から姿を消していたが、一緒に行動している保証はない。鯱の巨漢が狐の少女を探して場を離れたと

いう可能性もある。そもそも二人があそこに居なかったという可能性もあるし、最悪、あの場に埋まっている可能性も…。

 だいたい、あれは本当に自然災害なのだろうかと、カナデは頭の隅で考える。

 あのおかしくなっていた軍人などが、爆弾なり砲なり何らかの武器を用いて攻撃、鯱の巨漢はチーニュイを伴って離脱し、息

を潜めているという展開もあり得る。この可能性を自分の中で払拭できないからこそ、カナデは大声で呼びながら捜索する事が

できない。

 可能性がいくつもある。選択肢がいくつもある。どれが正解かなど考えても判るはずもない状況で、カナデは焦りを抑えてで

きる事に専念する。

 ほぼ崖と言える角度の斜面を滑り降りて、再び移動しながら、カナデは歯を噛み締めた。

(ジョン…!チーニュイちゃん…!必ず無事で居るんだよ!)

 しかし、カナデは気付いていなかった。

 今まさにこの時、自分が全く知らないメカニズムの探査に引っかかって、行方を辿られている事には…。

 

「こっちかな?」

 切り立った岩山の上、三角錐のような尖ったそこへ爪を立ててしがみ付いている青虎が、夜風の香りをスンスン嗅ぐ。まるで

人がそうするように、右前足を額の前に出してひさしを作りながら。

「資料から言うと相当ふくよかさんのはずなんだがな…。アレか?ユェイン連隊長やジァン上尉と同じ動けるデブか?存外移動

が早いし全然止まってないぞ何なんだコイツ?何だろうなコイツ?一般人じゃない線がますます濃厚になってきたな。体力が正

規軍人以上だ」

 その肩の横で、ポーチの縁に手をかけて顔を覗かせているファポォが、小鳥のような声で何か訴える。

「うん?気配に花木の妖怪に似た感触がある?へぇ。今どきの獣人にしては珍しいが、「自然に近い輩」か?」

 基本、文明に染まれば染まるほど、ひとからは自然物の気配が薄れてゆく。しかしファポォはヂーが追跡している相手の気配

について、自分達…自然に溶け込み生きる存在に似た印象を抱くと述べた。

「しかしひとじゃないのか?普通の獣人じゃなかったのか?妖怪の血が混じっている訳でもないだろうし、勿論仙人の類でもな

い。…どういう事だ?」

 ますます確かめずにはいられないなと、ヂーは顔を顰めた。