路傍の少女と檻の幼女(二)

 ホテル一階の、旅行客がちらほら見られるバー。

 カナデとシャチは旅先の見知らぬ同士という体で、観光の話題を主にして話に花を咲かせながら、酒を飲み続けていた。

「見てたぜェ。オメェ優しいんだなァ?グフフ…」

 つまみのウインナーを齧りながら、カナデは「見てたって、何をだよ?」と問う。

「売春しようとした娘に金渡してやってたなァ。グフフ…!」

 ああ、と困り顔になったカナデに、「聖人様だなァまるで。グフフ!」と、冗談めかして茶化すように持ち上げたシャチは

狸の横顔を見やり、軽く瞼を上げる。

 一瞬。ほんの一瞬の事だったが、カナデの瞳に厳しい光が見えた。憤りにも似たそれは、しかしシャチに向けられた物では

ない。

「僕は聖人なんかじゃないよ。聖人はそのまま「ほったらかし」になんてしないナ。目の前の困窮をそのままに去ったりはし

ないナ。そこで生涯を捧げてでも、問題に取り組み解決するはずだからネ。むしろ僕は罪深い方だよ。観るだけ。撮るだけ。

貧困を、紛争を、疫病を、災害を、見て知って、それでなお用事が済んだら、結局は殆どの事を変えないまま立ち去るんだか

らナ。今日の事だって立派な事なんかじゃないんだよ。その場凌ぎの小金を渡して、偽善で自分を慰めているだけだからネ」

 あの行為は偽善に過ぎないと、カナデは考えている。

 一食飯を食わせてやったからといって、それが何になるだろうか?

 数日暮らせる金を与えたからといって、それが何になるだろうか?

 何にもなりはしない。根本的解決になど成り得ないし、例え彼女独りを救ったからといって何が変わる訳でもない。

 なのに、何度も似たような事をしている。

 まるで、諦め悪く無駄な足掻きを繰り返すように。

 あの時、してしまった事の埋め合わせをしようとするように…。

(僕は、聖人なんかじゃないよ…。だからこの道を選んだんだよ…)

 狸の言葉を聞きながら、シャチは数度瞬きした。

 それは不思議な言葉に思えた。自分を卑下する内容を淀みなく平坦な口調で述べる狸は、客観的に自分を分析しているよう

にも感じられたが、同時に、「何処までも冷厳に何かを赦していない」とも感じられた。

 鯱の巨漢が察知したそれは、普通ならば気付かないほど微かな違和感。この、「捉えた」というよりも「引っかかる」感触

を、シャチは「張り詰めた歪み」と認識する。それは、観察したこの狸の陽気でおおらかな言動の中では、異物と呼べるほど

浮いた印象だった。

 もっとも、シャチが感じたそれは一瞬だけ。後から勘違いだったかと思い直してしまいそうなほど、あっさりと消え失せて

いる。
グイッとグラスを煽って空にしたカナデは先と同じ雰囲気に戻っている。またバドワイザーを頼もうとして、シャチの

手元をちらりと見て気が変わり、ラガービールを注文する。

「何より子供相手じゃ性欲が湧かないからナ、断らせて貰ったよ」

 おどけて肩を竦めたカナデに「ふうん」と相槌を打ったシャチは…。

「で、ゲイってのは本当かァ?」

「いつから見てたんだよ!?」

 目を丸くしたカナデに答える代わりに、シャチはニヤリと窺うような笑みを浮かべた。舌なめずりでもしそうな顔である。

「で、本当なのかァ?」

「本当なのと嘘なのと、どっちが面白いかナ?」

 カナデは茶目っ気のある笑みを浮かべて見せてはぐらかし、出てきたばかりのグラスを煽る。

「グフフ!なるほどなァ。ところで俺様はバイなんだが…」

「本当なんだよ?」

「本当なのと嘘なのと、どっちが面白ェ?グフフ…!」

「なるほどネ」

 笑い返すカナデを、シャチは観察し続ける。

 隙だらけ…なようで違う。狸がついているカウンター席はバーの入り口との間に鉢植えと仕切りがあり、カウンター内へ入

れる両方向に開く低い戸が近い。何かあっても…例えば銃を持った不審者が乱入してきても、カウンターの裏側に飛び込んで

隠れられる位置である。

 おまけに、ホテルの中庭…関係者しか入れない植樹された庭に面した窓はこの席からでも見えるが、タクシーや部外者など

が入れるフロントロータリーからは外の植え込みが邪魔になり、立った状態でも姿が見えない位置取り。狙撃などで唯一射線

を確保できるのは、シャチが監視者をあてがった、向かいにあるホテルの二階…宿泊者専用のレストランのみ。

 計画や下準備無しには盗撮も狙撃も容易ではない席を、カナデは選んでいた。

(歩き方なんかを見ると長距離を歩き慣れてる感じはあるなァ。少なくとも軍人のそれとは違うが、まるっきり堅気のモンっ

て訳でもねぇ歩き方だぜェ)

 そんな内心はおくびにも出さず、シャチはカナデと数時間飲み続け…。



(さァて、確認はしなきゃあいけねェなァ…。勿体ねェがアルコールは浄化だ)

 部屋に帰るカナデと別れた後、シャチは空けさせておいた部屋には戻らずそのままホテルを出た。

 歩きながらも、体内に入ったアルコールを分解中和して軽い酔いを払拭する。ほろ酔い気分が名残惜しいが仕事は仕事、通

りかかったタクシーを止めて乗り込んだ。

「お疲れ様でした」

 感情の篭らない無機質な声を発した運転手は、ラグナロク製の汎用クローン…アメリカンショートヘアータイプの合成獣人

である。

「ああ。…グリスミルはウルをちゃんと迎えたかァ?」

「はい。現在はお部屋でおくつろぎ頂いております」

「ならいい。ああ、戻る前に一件用事があるんでなァ、繁華街近くで下りるぜェ。迎えはいらねェ」

「かしこまりました」

 偽装タクシーは鯱の巨漢を繁華街入り口で下ろすと、入れ替わりに監視員を拾って走り出す。一般客と接触せずにタクシー

が姿をくらますのを尻目に、シャチはカナデが食事を取っていた裏通りへ入ると、そのまま彼がホテルへ向かったルートをな

ぞって歩き、客引きしている女性に目を向ける。

「そこのお兄さん、安くしとくよ?どう?」

 化粧が目立つ女へ、シャチは「ふうん…」と思案する目を向ける。外からは値踏みしているように見える目つきだが、実際

には拘束か始末の必要があるかどうかを考えている。

「ホテルに来るのかい?それとも、どっかに部屋があるのかァ?グフフフ…!」

「店まで案内するよ?すぐそこさ」

 脈ありと見た女は、シャチに店の名が入った名刺を差し出した。

(…コダマ・カナデに渡していた物と一致する。どうやら何らかの情報伝達をしてた訳じゃあねェようだなァ…)

 ひとまずは、本当に地元の店に務めている女らしいと確認したシャチは、

「で、一発おいくらだァ?グフフ…!」

 楽しみついでに、入念に店舗内まで確認する事にした。



「首尾は?」

 午前二時。アジトの部屋に入ったシャチに、ウルは問う。

「「久しぶり」とか「御苦労」とかねェのかァ?グフフ…!」

 狼と向き合う形でドスンと巨体をソファーに沈め、シャチは「まァ、良かったぜェ。…グフフフフフ…!」と視線を上に向

け、何かを思い出して下品な含み笑いを漏らしながら呟いた。

「何がだ?」

「追跡調査での役得がだァ」

「そうか」

「今んトコ、判断はつかねェなァ」

「そうか」

 狼のあまりにもそっけない態度に、鯱は呆れたような半眼になった。

「…オメェよォ…、「弟ども」相手の時なんかはもうちょい愛想あんだろォ?」

「愛想が必要か?」

「ま、必須じゃあねェがなァ。グフフ」

 テーブルの上に置かれたティーポットを取ると、シャチは冷たくなった茶を手ずから淹れて一口に飲み干す。

「で、こっちはまだ継続中だがなァ、…ああ、本来の仕事じゃねェ方の事だぜェ?そっちはどうなんだァ?」

「目下、鋭意推進中だ」

 そっけないウルに対し、シャチは意味ありげに目を細める。

(ハティがグレイブ隊に左遷されてからかァ?ますます愛想がなくなったぜェ)

 が、そんな内心を口には出さず、シャチが言うのは別の事。

「そっちはそっちで任務を優先しときなァ。こっちはオメェの出る幕はねェ。決着までそうかけてられねェからなァ」

 こちらは任せろ。そう提案したのはウルを気遣っての事ではない。

 シャチはカナデの調査に時間をかけるつもりはない。例えグレーであろうとクロと見なし、後腐れなくさっさと片付ける考

えでいる。どんな形でも調査に邪魔は無い方がよかった。



「今日の取り分だ」

 痩せた男がテーブルに置いた金を、少女はサッとかき集めた。

 カナデに売春をもちかけた少女は、売春斡旋業者のマネージャー室から逃げるように素早く出ると、頼りなく明滅する裸電

球が下がった狭い廊下を足早に進み始める。

 この界隈では何をするにも無許可ではできない。繁華街も、その裏の屋台通りも、遺棄された未整備地区に至るまで、その

金と権利の流れをある「団体」が牛耳っている。少女が所属する売春斡旋業者はその直系の子飼いにあたる。
「売り上げ」の

大半は保険料や仲介料や手数料などと称されて巻き上げられるので、少女達の手元には殆ど残らず、日々を暮らす最低限の金

銭を得るのも簡単ではない。
そのため彼女達は、業者が設定した値段よりも少し高い代金を客に要求し、その差額をポケット

に入れる。勿論、これがバレたらただでは済まず、見せしめとして一生消えない傷を肌に刻まれた少女も居るのだが、生きる

ためには仕方がなかった。

 そして今日、少女はその懐にかなりの余裕を持てた。値上げして要求した額どころか、それに色をつけて金を渡し、しかも

何もしなかった大男の顔を、少女は思い出す。

 あの大きな旅行客は、どうして自分にあんな事をしてくれたのだろう?

 本気で十年後の予約をしたとは思えない。一体どうしてあんな事を?

 考えても考えても判らなかったが、何故か、あの男の事を思い出すと胸の中がポカポカした。

 少女は真っ直ぐには帰らず、地下通路を歩いてある一角へ足を運ぶ。

 何度も角を曲がった末に辿り着いたのは、コンクリートがむき出しの、鉄格子が嵌められた行き止まり。元々そういう設備

ではない所に急ごしらえで造られた牢屋である。

 大型の猛獣を二頭か三頭入れても余裕がある、広く取られた牢の中には、清潔なベッドと綺麗なテーブル。

 ベッドの上には小さな盛り上がりが見え、そこに誰かが寝ているのが判る。

「…アリス…」

 小さな声で少女が呼びかけると、ベッドの膨らみがモゾモゾ動いた。

 起き上がり、眠たげな目と寝ぼけ顔を少女に向けたのは、栗色の髪の愛くるしい幼女。

「お菓子、持ってきたよ」

 アリスと呼ばれた幼女は、自分を起こしたのが少女だと判ると、パッと顔を輝かせた。

 フリルつきの白いネグリジェを纏う幼女は容姿も可愛らしく、まるでお姫様のようだと少女は感じている。

「レイン」

 嬉しそうに笑顔を見せたアリスへ、少女は頷いて棒付きの飴を差し出した。幼女に微笑みかける少女の目は、暗がりに立っ

て客を誘う疲れ果てて虚ろだった時とは違い、生気と慈愛の光を灯していた。

 太い鉄格子越しに飴玉を受け取った幼女は、ペコリと優雅にお辞儀する。

 レインは英語が判らないし学ぶ余裕もない。アリスも英語しか喋れない。身振り手振りや知っている単語である程度の意思

疎通はできるが、詳しくやり取りする事はできないので、詳細な身の上や状況を伝え合うようなコンタクトは取れない。
だか

らレインは、三ヶ月ほど前にここに連れて来られたこの少女の素性を知らないし、彼女が置かれている状況も判らない。

 レインは首を巡らせ、改めて周囲を見回す。

 地下通路の一角に作られた、簡素な、しかし大掛かりな牢屋。

 途中でチェックや鍵が掛かるドアがあるでもなく、この売春斡旋業者に所属する売春婦達が普通に入れる休憩室からここま

では、何の障害も無く来られる。

 雑に扱われている…かというとそうでもないのか、牢屋にはアリスが食べきれないほどの食事が三食運ばれているし、売春

婦の休憩室にも無い立派な空調設備がつけられている。ベッドも安物ではなく、毛布も布団もマットも高級品。

 身代金目当てで誘拐されてきた子供なのかもしれないとも思った。大事に扱われている気がしたから。そうでなければ、高

級娼婦にするために用意された子供なのかもしれないとも思った。

 だが、それにしては何だかおかしいと、レインは感じている。

 ここには誰も来ない。

 マネージャー達が話しているのを聞いたが、「最近幽霊が出る」という噂が広まっている。

 両腕の無い幽霊を見たという者も居るし、赤子のような小さな幽霊が跳ねているのを見たという者も居る。だから皆が気味

悪がってこの近くには用事が無ければ近づこうとしない。

 バカみたい、とレインは思う。

 幽霊なんかより、ひとの方が怖い。お金が無くなるのが怖い。食べる物が無いのが怖い。ひもじいのが怖い。それと比べた

ら幽霊なんて何でもない。

 だからレインは、皆が来ないここへ来て、アリスに会っている。

 年頃が死んだ妹に近いというのもアリスに興味を持った理由の一つだが、ひとりぼっちのアリスは会いに来ると喜んでくれ

るので、つい足を運んでしまうというのもある。
レインがここへ来ている事はマネージャーなども知っているが、止められた

ことはない。物好きな奴、という目を向けられた程度で、咎めるような事は何も言われない。

「今日はさ、ホントは客が捕まらなかったんだよね」

 細い棒のついた小さな飴を舐めているアリスの前で、レインは床に座り込み、鉄格子越しに話をする。話す内容は殆ど相手

に伝わらないのだが、それでも別に良かったし、むしろ売春の中身など伝わらない方が良いとも思う。

「でも、変な外国人に会って…、抱かないけど金だけ払ってくれたんだ。しかも多くだよ?前払いだってさ。予約金だってさ。

「十年経ったら」だってさ。おかしいよね?十年後なんて生きてるかどうかも判らないし、そいつだってまたここに来るか判

んないじゃない?」

 レインが首を傾げると、アリスも首を傾げた。

「…判るわけないよね。アリスは言葉も判らないし、子供だし」

 微苦笑したレインは、多めに手に入ったお金は隠したから、しばらくは食べるに困らない、と小声でアリスに囁いた。

 レインの稼ぎは九割が持っていかれる。相場よりかなり高めにふっかけたところへ大きな旅人が自発的に上乗せして寄越し

た差額の合計は、一回の手取りの十倍以上になっていた。普段は手が出ないまともな食事を一ヶ月は食べて行けるほどの金額

がレインの懐に入っている。

「お菓子、ちょっと良いの探してみるから。待っててね?」

 格子越しに伸ばした手で栗色の髪を撫でてやり、レインは微笑む。嬉しそうに目を細めたアリスは、何か思い出したように

少し目を大きくすると、立ち上がってトテトテとベッドに歩み寄り、布団の中に隠していた物を持って戻った。

 幼女が差し出したのは、紙にくるまれたパンだった。レインが菓子を持ち込んでいるだけではない。アリスもまた、食べき

れない食事の内、隠せそうな物をレインのために確保している。汁物などは無理だが、紙に包めるような物が出た場合は優先

して取っておいた。

 アリスはパンにだいたい何か挟んで隠しておくのだが、今回はローストビーフとレタスが挟み込んである。

「有り難うアリス!」

 レインの一日の食事で、最も豪勢なのはアリスが隠しておいてくれる物。喜んで受け取り、貪るように齧りつく。

(あの外国人、またあの辺りを通るかな…)

 飢えを癒しながらレインは考えた。

(旅行するぐらい金持ちなんだから、もしかしたら、せびったらもっとお金が出て来るかも…)

 上手く行けばしばらく凌げるだけの金を得られるかもしれない。

 そう考えて、レインはまたあの辺りで張り込む事にした。



 翌朝、ホテルの簡素なレストランで朝食を済ませたカナデは、仕事用のカメラを持って外出した。

 荷物は腰のベルトポーチ、首から吊るしたカメラ、肩から斜めにベルトをかけたショルダーバッグのみ。一通りの貴重品は

持っているが、パソコンなどはホテルの部屋に残してある。

 ホテルを出て寂れた区域を見て回り、写真に収め、標識やゴミ箱の中身まで撮影する大男に…。

「おじさん」

 身なりの良くない少女が、建物の隙間から声を掛けた。

「あれ?君、夕べの…?」

 目を丸くしたカナデが自分の顔を憶えていた事を確認し、レインは小さく唾を飲み込む。

「おじさん、やっぱりダメ?」

「うん?」

 とぼけようとしたカナデに、レインは「買ってくれないの?」と踏み出しながら問う。

「それはそうだよ。…そういうのは、君が大人になったらネ」

 ウインクしたカナデに、「じゃあ」と少女は食いついた。

「セックス以外なら?」

 恥じらいも無くストレートに口にした少女を見つめるカナデは、一瞬、瞳の底に悲哀を湛えた。この娘にとってセックスは

仕事、身を売る事に忌避も抵抗も無いのだと、改めて思い知らされて。

「何でもするよ。部屋の掃除も、食事のパートナーも」

 雑用娼婦や高級娼婦がやらされている事を掻い摘んで知っているレインは、そういった事を自分もやるからとカナデへ訴え

た。
狸は少し困ったような顔をしていたが、視線を逸らさず真っ直ぐ見つめ続ける少女に根負けしたように、軽く肩を竦める。

「…じゃあ、いくつかお願いしようかナ」

 レインが目を大きくし、頷く。

「よろしくおじさん。何でもするから…」

「カナデ」

 言葉を遮ぎられ、疑問の顔を見せたレインに、カナデは繰り返し名乗る。

「カナデ・コダマ、僕の名前だよ。…それと、これでも二十代なんだよ」

 おじさん呼ばわりは嫌だとアピールする三十歳直前の狸。

「…ヨコヅナ?」

 日本と聞いて、大男の体格を見て、知っている物を引っ張り出してみたレインに、狸は「これはまた大きく見られたもんだ

よ」と、苦笑いしながら頭を掻いた。

「ヨコヅナでもないしスモウレスラーでもないよ。僕はジャーナリストだネ」



 数分後。レインは掌に乗せられた硬貨を見て、「え?」と声を漏らした。

「何これ?」

「何って、ここまでの案内賃だよ」

 雨に錆び付いて壊れかけ、傾いた看板がぶら下がっている廃ビルの前で、カメラを構えながらカナデが応じる。

「…え?それだけで?」

「立派に仕事してくれたからネ。ああ、次に行きたい所は…」

 写真を撮る手と目を休ませず、カナデはレインに行きたい場所を告げた。挙げられた廃墟の場所を知っていた少女は、疑問

に首を傾げながらも頷く。

(観光とか、買い物じゃないんだ?何でそんな所に?)

 レインは知らなかったが、カナデが巡りたいと言っている箇所は、十数年前に大規模な反政府活動が行なわれた際に拠点に

されたり、惨劇が起きたりした場所である。政府にもみ消されてしまい、活動家達の主張も活動自体の痕跡も残されておらず、

国内では単に「反政府ゲリラ」として知られるのみとなっているが、国外へ亡命した生き残り数名が現政権の不正を訴え続け

ている。

 カナデはどちらの側でもないが、公正に判断するには亡命した活動家達の話の裏付けは必要だと考えて、この取材を行なっ

ている。

 雨漏りも酷くて風の入りも激しく、ホームレス達も見捨てて数年経っている廃ビルの中を、細かく写真に切り取ってゆくカ

ナデに、レインは奇妙な物を見るような目を向けていた。



 数箇所案内された後、比較的賑やかな通りまで引き上げてきたカナデは、目に付いたカフェでレインに昼食をご馳走しなが

ら取材成果を簡単に纏める。

 簡素な地図に要所だけ書き込み、撮影した写真をチェックしたり、パスタを頬張る傍らでテキパキ進めるカナデを、レイン

は驚きを隠さず見つめていた。

「カナデ、もしかして結構「デキるひと」?」

「どうかナ?まぁ見た目より動きが良いって、たまに言われるけどネ」

 語彙が少ないのかストレートな表現を多用するレインに、苦笑しながら応じるカナデ。

 一通り纏め終えつつ食事も終えて、デザートのフルーツパフェを二つ注文しながら、大男は少女に今後の予定を語った。カ

ナデから見て回りたいと希望された所は、その殆どが場所を知っている所。引き受けたレインは、

「君、ガイドとしても働けるんじゃないかナ?」

 感心したカナデにそう言われて、目をパチクリさせる。

「旅行者のガイドとかだよ。地理に明るいし、何より治安が悪い場所も危ない通りも知ってるからネ。大人になったらガイド

さんっていうのもアリだと思うよ」

 レインは知らず知らず右手をキュッと握っていた。

 ガイドの賃金としてカナデから硬貨を渡される度に戸惑ったのは、売春の上前をはねられた残りの賃金として受け取った硬

貨とは、感触が違っているような気がしたから。

 その感触は、何故かとても新鮮で、心地良くて、すっきりしているように思えて…。



「ホテル何処?そこまで送るから」

 この日の予定をほぼ消化して、少女の都合も考えて日が暮れる前に引き上げにかかったカナデは、レインの申し出に、一瞬

視線を上に向けて考えてから頷いた。

 そして、ホテル前につくと、送り賃として貨幣を渡そうとしたが…。

「いいよ。サービス」

 きっぱり拒否されて苦笑いする。

 何とかしてもっと金を巻き上げられないだろうかと考え、カナデに接触したレインだったのだが、ガイド賃として正当な労

働の対価を受け取ると、少し意識が変化した。

 カナデの人柄を少し知って、いけ好かない金持ちではなく、良識ある親切な好漢だと感じたのもある。受け取った貨幣の感

触を気に入ったというのもあるし、ご馳走になった昼飯とデザートが美味しかったのもある。

 財布をしまったカナデは、ニッコリ笑って少女に尋ねた。「明日の予定は決まってるんだよ?」と。

「もし暇があるなら、またガイドして貰えると助かるよ。取材場所だけじゃなく、ラーメンが美味しいお店とかもネ!」

 きょとんとしたレインは、一拍おいてから頷いた。自分でも気付いていない、楽しげな笑みで口元を緩めながら。

「という訳で…、待ち合わせの時間とか打ち合わせたいけど、立ち話も疲れるよ。ちょっと早めだけど夕食とかどうかナ?あ、

勿論…」

 肥った狸はウインクして笑う。

「代金は僕が持つし、正式に「食事のパートナー」として依頼するよ?」

 レインは「え?」と目を大きくしてから、今度ははっきりと笑みを見せて…、

「うん!」

 喜んで、大きく頷いた。



 夕食を終えてタクシーを呼び、レインを帰らせた後で、カナデはホテルのバーに足を運んだ。

 カウンターにつき、グラスビールを前に写真のデータを眺めて数分過ごすと、ゆったりくつろぐ狸の隣に巨漢が腰を下ろす。

「おや。今お帰りだよ?」

「グフフ!まァなァ、観光三昧の一日だったぜェ」

 隣に座ったシャチはビールを注文しながら、今日一日見張っていたカナデの行動を振り返る。

 監視には気付かれていないだろうが、決定的な判断材料も得られなかった。地元の浮浪児を案内に、観光名所とも言えない

場所を巡る…、行動そのものは怪し過ぎるのだが、きな臭い動きや妙な相手との接触なども見られなかった。何とも判断材料

が手に入り難い相手である。

「そっちはどうだぁ?」

「収穫はまぁ、ボチボチだよ」

 カメラを気にする様子を見せたシャチに、カナデはあっさりと手渡して画像を見せる。

「…何かの名所なのかァ?廃墟みてェだが…」

「昔、反政府活動を行なっていた活動家達が拠点にしていた場所なんだよ」

「ほォ…。今で言う反政府ゲリラか?」

「政府側の表現ではそうだネ。ただ、国外に逃亡してまだ政権の不正を訴えている彼ら自身は、自分達をそう思っていないよ」

 シャチはカナデの、簡潔でありながら判り易いここ十数年の政治情勢と反政府活動家達の話を聞き、適当に相槌をうちなが

ら、この狸は政府側にも反政府側にもスタンスを寄せていないと感じた。

「判断するには双方の主張を知らなきゃいけないよ。けれど反政府側の話は、彼らが国外に居る以上裏付けを求められない…。

だから僕は自分の目で確かめに来たんだよ」

「ジャーナリストってのは大変だなァ」

 気のない返事とともにカメラを返し、シャチは考えを巡らせる。シロだろうがクロだろうが、この男がこの先も黄昏の領分

に首を突っ込んでくる可能性は高い。堅気だとしても充分邪魔者に成り得る、と…。

「まぁそれなりには大変だネ。それはそうと、ついつい面白くもない話に付き合わせちゃったよ」

 苦笑いしたカナデに、「いや判り易かったぜェ」と応じたシャチは、

「教師にも向いてるんじゃねェかァ?グフフ…!」

 そんな事を言って、「どうだろうナぁ…」と狸を困惑させた。



「変なひとだよ。本当にね」

 カナデから得た労賃で「今日の稼ぎ」を埋めたレインは、豪勢な地下牢へこっそり赴き、幼女相手にジャーナリストの話を

していた。

 クリームとバターが挟まれたクッキーサンドを貰った幼女は、レインの言葉が判らないながらも話に耳を傾けている。

「こーんな、おっきくてね?腕なんかもう、ここの男達の二倍ぐらいに太いの。でも怖くはなくてね?ここの用心棒みたいに

大男なのに、あんな風に睨んで来ないし怖くないし乱暴もしない。あ~…、何て説明すればいいのかなぁ…」

 例えば家族と遊園地などに行った経験がある少女だったのなら、大きなきぐるみのような、などと表現もできたのだろうが、

レインには残念ながらそう説明する事ができない。大きいが怖くない。可愛くてホッとする。そういった「無害な何か」を少

女は他に知らなかった。

 だがアリスには彼女の「不思議がっているが楽しくて面白い」というようなポジティブな気持ちが理解できているようで、

話を聞きながらニコニコしている。

 しかし、今日の雑談はそう長く続かなかった。

「…ゴメン、今日は行くね?」

 レインは素早く通路の先を見遣ると、急いで腰を上げて、足を忍ばせその場を離れた。

 少女が姿を消し、幼女だけが格子の向こうに残ったそこへ、十秒ほど後で複数の足音が届いた。

 牢の前に姿を見せたのは、幼女の身柄を預かっているここのオーナーと、現場管理者であり売春斡旋の責任者でもあるチン

ピラのような身なりのマネージャー、そして仕立ての良いスーツ姿の男が三名。

 三名のスーツ姿の内、二名はボディガードだが、一名は護衛対象。その一際高級そうなスーツを纏った品の良さそうな中年

は、この国の政治家…若手ながら国民にも人気がある政府の幹部である。

「それで、ハンフリー先生…。この娘が…」

 ベッドの上で、アリスはギュッと枕を抱き締める。政治家の中年が自分へ向ける視線に、気味の悪い物を感じた。

 張り付いたような薄ら笑い。その下に覗く欲と打算。そして、自分への嫌悪…。

 姉を、母を、父を、家族を殺して自分を攫った者達…。

 彼らから自分を買い取って、色々な検査をさせた者達…。

 そこから買い取った、今も格子の向こうに居るオーナー…。

 彼らと同じ印象が、その政治家の顔にはあった。

「素晴らしいよ。うん。実に…」

 政治家…エルモア・ハンフリーは熱を帯びた口調で呟いた。

「我が国は秘匿事項に関して後進国もいいところだ。対策部隊は傭兵紛いの烏合の衆…、君達のような国外の組織とパイプを

持つ「友人」が頼りという有様だった」

 しかし、とエルモアは述べる。

「私が秘匿事項に関する国防を担う事になったからには、これまで通りではない。我が国は変わる。大国と対等に付き合える

だけの力を得る。…そう、先進国連合に加入できるほどに…」

 熱にうかされたような政治家の声を聞きながら、オーナーは愛想笑いを浮かべていた。

 彼が何をしたいのか、幼女をどうするつもりなのか、察しはついている。

 本物の、それも非常に貴重な力を宿した「能力者」…。能力を解明する為に「使う」のか、実際の戦力として調教するのか、

どちらにせよ幼女はもう「まともな人生」を送れないだろう。

 だが、正直そんな事はどうでもいい。政治家の思惑も、幼女の行く末もどうでもいい。

 ただオーナーは、この気味の悪い能力者の子供を早く何処かへやってしまいたかった。無論、収支が吊り合うようそれなり

の対価を貰って。

(上手く買い叩いたつもりだったんだが…)

 忸怩たる思いを抱え、オーナーは胸の内で呟く。

 正直、「怖い」と感じている。この娘の周囲で起こる得体の知れない奇妙な現象を。しかし彼女を売ってくれた組織はその

すぐ後で他組織との抗争に敗れて壊滅しており、もはや突っ返す事もできない。エルモアが買い取ってくれるのであれば万々

歳といったところだった。

(厄介払いできるなら…)

 オーナーは思索を打ち切る。マネージャーが小さな悲鳴を上げ、ボディーガード達が緊張した面持ちで懐に手を突っ込み、

拳銃を握る。

「素晴らしい…」

 エルモアが呟く。格子の向こう、幼女の前に出現した存在を凝視しながら。

 前触れもなく唐突に現れたそれは、ウサギのように見えた。二本足で立つ、一抱え程の、デフォルメされたウサギに。ただ

し、フォルムでウサギと察せられるものの、その姿は異様だった。

 ノッペリとした目鼻も無い顔。チョッキを着ており、右手には金色の懐中時計。白い体には毛が無く、マネキンのようにつ

るりとしている。

 目鼻も無いウサギは手にした懐中時計を弄りながら、枕を抱えているアリスの前で男達を「見つめ」、小首を傾げていた。

 それが幼女の能力。本人も使い方を知らない、「正体不明の何か」が周囲へ勝手に出現する能力。

 彼女を検査した組織の記録によれば、出現する「何か」は五種類ほど確認されており、「触れる事はできたがセンサー類に

は反応しない」との事。故に重さも、温度も、硬度も不明だが、しかしはっきりしているのは、「生身の体では触れられるの

に、爆弾や銃撃でも破壊できず、傷もつかなかった」という事だけ。

「素晴らしい…!」

 エルモアが再び呟く。無限の可能性が、自分の手の中に転がり込んできたような気がした。



(…売られる?アリスが?)

 かなり離れた通路の角で、レインは反響してくる声に聞き耳を立てていた。難しい話は判らないし、話の断片しか届いて来

ないが、値段の交渉と、受け入れ準備が済んだら引き取るというくだりは聞き取れた。

 人形のように愛らしいし、品もあるし、高く売れる商品だろうとレインも思う。だが、友達として接している内に情が湧い

たのか、自分と同じような事をアリスがやらされる所を想像したら、言い様のない吐き気を覚えた。

 静かにその場を離れたレインはポケットの中の金を探る。

 カナデから貰った報酬はまだたくさんある。だが、この自分にとっての大金が、身請けの金額には到底届いていないだろう

事は察している。

(もっと金が要る…)

 思い浮かべたのはカナデの顔。レインにはこれまで、この町で、この国で、相談できる大人がひとりも居なかったが…。

(カナデにお金を払って貰う?でも、そんなにお金持ってるかな…。ホウリツでホゴして貰う?外国人なら、確かその国の人

だったらタイシカンで守って貰えるって話を聞いたような…)

 レインは顔を顰めて悔しがった。

 自分は頭が悪い。物を知らない。こんな時にどうするのが良いか、正解を導き出せる頭が無い、と。

 生まれて初めて、学校へ行けなかった事を、勉強できなかった事を、少女は悔やんだ。