漂泊の仙人と煙雲の少女(十三)
喉に異物感があった。
息苦しさを自力で何とかしようと考えるよりも早く、我慢できないそれに対して体が勝手に反応し、肺が急に動き出す。
「ゲフッ…、ゲホッ!ガファッ!」
喉に詰まっていた何かを吐き出し、酸素を取り込むべく肺が活発に動く。そこにも違和感はあるが、息をするのに忙しくて気
を回す余裕も無い。
視界は真っ白で眩しく、目を開けているのか閉じているのかも判らない。そこにチカチカと星が舞って、徐々に視力が戻り、
夕暮れに染まった景色が見え始めると、猪は朦朧とした意識の中から、見えた物の名前を掬い上げて口にした。
「ユェイン様…」
仰向けになっている視界に横から顔を出し、覗き込んでいた隻眼のジャイアントパンダが、安堵したように溜息を漏らす。
「意識は戻ったな。調子はどうだ?」
質問の意図を理解しながら、しかし猪は即答しない。
感覚がおかしい。しかしそれを表現し難い。
不快だったり、痛みがあったり、不調を感じたりしている訳ではない。しかし何故か、体中どこもかしこも違和感がある。
あえて言うならそれは、「調子が良過ぎる」という違和感。
(俺は、気絶していたのか?…そうだ。避け損ねて被弾を…。傷は浅いのか?それとも当たっていなかったのか?)
痛みが無いので、意識が途切れる直前の事を振り返りながら、そう推測した猪は、しかしすぐさまハッとした。
そんなはずはない。
猪は意識が途切れる前の事を思い出し、息を飲む。
慌てて身を起こし、その場に座り込む姿勢で自分の胸を見下ろした。
軍服が破れていた。血塗れの服は、胸部から鳩尾にかけて左寄りに大きく裂け、肉付きよく張り出した胸と腹の上部が露出し
ている。
しかし奇妙な事に、軍服には血が染みてドス黒く変色し、茶色の被毛にも生乾きの血がこびり付いているのに、それだけの出
血を生じさせたはずの傷はどこにもなく、痛みも一切ない。
そんなはずはない。
胸を貫かれたはずだった。貫通して背中まで突き抜けて行ったはずだった。その証拠に軍服には前後に貫通した穴があいたま
まで、血痕も残っている。
あれは間違いなく致命傷だった。腕がそのまま入るような大穴が胸にあいて、位置的にも肺の片方と心臓の一部を持って行か
れたはず。あれが夢でない限り、こんなはずはない。
「自分が無傷なはずはない」。その確信があるが故に、猪は愕然としていた。
「チョウ。深呼吸して落ち着きたまえ。状況を説明しよう」
そんな上官の言葉に、猪は質問を被せた。
「中校…!リーミン様はっ…!?」
座り込んでいる猪の問いに、片膝をついているジャイアントパンダは、即答しなかった。しかしその隻眼が一瞬チラリと向い
た方へ、猪は首を巡らせる。
軍服が、そこに落ちていた。
クリーム色の乾いた土が、微風で砂塵を舞わせるそこには、靴と、衣服と、ポーチと、鞘におさまった二本の柳葉刀…。脱ぎ
散らかしたというよりは、中身が無くなってそこに落ちたように、それらは一ヵ所に纏まっている。
「う…、うううううっ…!」
声が漏れているのは自分の口からだと、気付くまでしばらくかかった。
自分は死ぬはずだった。少なくとも「そのままでは」助かるはずがなかった。だから、「太極炉心を移植」した上で、何らか
の方法で治療された。
猪は把握した。
自分もまたジャイアントパンダ達と同じく、ひとの成れの果てにして仙人の成り損ない…、「仙術兵器」になったのだと…。
夜風が止む。淀んだように気流が滞り、湿気が失せて夜気が乾く。
荒涼とした、岩肌と乾いた土が剥き出しの景色。棘のように、牙のように、尖った岩山がいくつも重なって見える剣山のよう
な山岳地の一角。砂礫の上に影が落ちたように黒ずみが一点現れたかと思えば、それが音も無く直径2メートルほどに拡大し、
波紋を立てる。
ヌポリと、そこから長毛の牛が首を出し、浮上した。
移動してきたタオティエは、まず周辺の気配を窺った。地上にあって自分達に害せる者など皆無と自負するが、神仙は別。警
戒するに越した事は無い。
―なんだろうねえ あの娘… 桃源郷の出では ないなあ―
既に桃源郷は人類を見限り、ひとに協力する事はないと認識していた。しかし…。
―でも 無関係では ないのかなあ―
あの娘の加護が、かつて桃源郷からもたらされ、人々が伝えていた物ならば良い。だがもしも、桃源郷が再び介入してきたの
ならば由々しき事態。神仙達が地上を見限ったからこそ、我が世の春とも言えるこの状態が続いている。桃源郷が人々を再び護
る気になったのならば、自分達も対策を練らなければならない。
タオティエ達四罪四凶は強力な存在である。もはや数千年に一度の天災に等しいと言ってよく、存在が既に災厄の規模である。
だが、そんな彼らも桃源郷の神仙は恐ろしい。単純な戦闘性能や殺傷能力の比較であれば、四罪四凶は桃源郷に住まう標準的
な神仙を上回るが、それでも彼らの様々な仙術は脅威である。いかに武力で上回っても、それを帳消しにする、あるいは無力化
する、搦め手に嵌められれば敗北も在り得る。
何より恐ろしいのは、神仙の中でも上位の数名…桃源郷全体の意思決定を統括する三仙。万が一にも彼らが直接下野したなら
ば、大きな脅威となる。
無論、対策はいくつもしてある。四罪四凶は自分達の太極炉心を弄り、発生する仙気が変質するように細工した。これは桃源
郷の仙人達が持つ、互いの仙気を遠方からでも知覚できる能力への対策。正規の炉心とは違う赤い発光が特徴で、特に神仙の感
覚では感知し辛いようになっている。
同時に、強力な仙気を遠方から探知し、識別する術も身に着けた。強い力を持つ神仙になればなるほど仙気は濃くなり、純度
を増し、気配も強く特徴的になるので、判別は容易になる。逆に、探知し難いならばあまり力が無い神仙のため、接近されても
致命的ではない。
脅威となる神仙の存在を遠方から一方的に察知し、かつこちらの気配を掴ませない事で、遭遇を回避する事ができる…。それ
が四罪四凶が立てた対策だった。
もっとも、ここ数百年はそんな神仙の気配を感知した事は一度も無かったが…。
―あの「声」の主… 何者で 何処に居るんだろうねえ―
念のために身を隠して距離を取ったが、位置が特定できないほど仙気を感じなかったし、特徴も全くなかった。何らかの術で
隠匿でもしていない限り、致命的な危険性を持つ神仙ではないだろうが…。
―斥候… という可能性も あるねえ―
何にせよ油断はできないが、距離さえ取ってしまえば追われる心配も無い。
弟子との合流は諦める事にし、タオティエはゆったりとした足取りでその場を離れにかかる。
が、そうは行かない、行かせられない、理由を抱いた一頭が、乾いた山腹を駆け抜けて、砂塵を巻き上げ接近する。
(酷い「臭い」だ…!)
猪は肺腑が刺激されるような邪気に顔を顰めつつ、絶壁から跳んだ。
―ん~?―
振り向くタオティエ。その顔面の真ん中に、長毛を押しのけて巨大な眼球が一つ、ボコリと出現する。
地上20メートルの高所、切り立った岩山の斜面をジャンプ台にするようにして駆け上がり、跳躍して降下するチョウ。ゴウ
ゴウと耳元で風が唸る中、一気に距離を詰めて…。
「ぐっ!?」
ガクンと、その頭が顔面を真正面から殴られたように、勢いよく仰け反った。
邪視。それもタオティエが単に見たのではない、明確な攻撃意思に基づいた一瞥。常人ならば即死する死の視線である。
跳躍から放物線を描いた落下に変わり、落ちてゆく猪を、この時点で初めて軍人と認識し、神仙ではないと気を緩めた牛は…。
―…んん?―
顔面の真ん中に出した目をギョロギョロと動かす。頭を下にし、こちらに背を向けて落下中だった猪は、死んでいない。宙で
膝を抱えてグルンと反転。地面に激突する寸前に体勢を立て直し、ドズンと四つん這いで着地した。
鼻からツツッと血が垂れ、袖でグイッと雑に拭ったチョウの左胸では、浮き上がった太極図がゆっくりと回転していた。仙術
兵器であるチョウだからこそ、第八連隊の対邪仙用戦闘服の防御性能と、持ち前の抵抗力を合わせてしのげたが、普通ならば即
死である。
―お前… 変なヤツだなあ―
タオティエが疑問の声を発し、ピタリと、チョウの姿を正視した。が、キッと睨み返したチョウの顔を、ボフッと突如発生し
た黒い霞が覆ったものの、何も起きずに流れ去るだけ。まるで見えない何かが命中直前に気化して散ったように。
これが千年級の邪仙の恐ろしさ。抵抗力や何らかの防御手段を持たない者は、その姿をはっきりと視認しただけで不調をきた
し、殺す気で視られただけでも命に関わる。精神攻撃などへの防御措置が最初から組み込まれているシャチなどは例外だが、現
行人類は基本的に、気配を殺す事をやめた彼らと相対しただけで生命活動を停止しかねない。
第八連隊の兵士は方士などが作る護符を身に着けたり、まじないによる戦闘服類への加護をもってこれらを防御するのだが、
チョウやヂーの懸念通り、タオティエの邪視はそれを易々と貫通して見せた。こうなると連隊の中でも、上乗せの抵抗手段を持
つ少数の隊員か、仙術兵器であるチョウやユェインでなければ、戦闘行為に持ち込む事すら叶わない。
(強烈…!姿を見ているだけで精神にヤスリが掛けられ、削り落とされてゆくようだ…!)
両手が異様に大きい異形の牛を睨むチョウは、太極炉心の運転で自分の体を小結界として成立させた。これでもう邪視による
攻撃など、直接肉体や精神に干渉する術は通らない。
基本的に、能力者の力も、各国様々な文化圏の術も、極々稀なケースを除いて個人の体内に直接何かを行なう事はできない。
水を支配するシャチですら例外ではなく、相手の体内の水分を直接操作して殺す事はできない。これは個人の肉体が、その生命
が保有する支配領域…「一つの世界」という性質を持つが故。
しかしいくつかの仙術は違う。概念に働きかける物も多く、世界の境界を曖昧にして作用する物もあり、肉体の在り方や精神、
思考までがその作用対象にされる事も多い。これに抗するためには自分と外界の間に強固な境界線を引き、「ここではその理が
働かない」と定義する事で対処する必要がある。そうでないと、邪仙が操る「内臓を腐らせる」「価値観を書き換える」などの、
「自分の内側」へ変化を生じさせる術で即座に殺されるか、行動不能にされてしまう。
―太極炉… 桃源郷の…―
タオティエのこめかみにあたる部分にピンポン玉サイズの眼球が二つ、ギョロリと浮き上がった。
―ふふ うふふふ―
おかしくなった。なんだ馬鹿馬鹿しい、心配しただけ損だった、と。神仙の手引きかと思った一連の事は、太極炉を宿したこ
の男の仕業だったのか、と。
仙人ではない。仙気の量があまりにも少ない。最低限条件を満たしているだけの人の体に太極炉心を仮付けした、醜い継ぎ接
ぎの出来損ない…。タオティエは猪をそう認識した。
八本の剣の内、背負っていた分の二振りを抜いて構えているチョウは、タオティエを真っ直ぐに睨みつけて口を開いた。
「第八連隊所属、司令部付き上尉、江周と申す。仙人…四罪四凶が一角、饕餮と見受け、問う」
房の付いた尾を鋭く上下にヒュンと振り、怖気を誘う邪気にも怯まず、猪は名乗る。
「十二年前、商南県の居慶という村…桃が実る山間の村で住民と家畜が消えた。彼らを、お前は「食った」か?」
しかし、念のために問いながらも、チョウは感じていた。
違う。
あの日、あの夜、ホンスーを護りながら過ごした無人の故郷で感じた、こびりつくように微かに残ったあの嫌な気配…。忘れ
られないあれは、目の前の牛が放つ物とは似ているものの、違う。はっきりと感じられるほど強い邪気だからこそ比較もし易い。
―さあねえ あの辺りは 行った事が 殆ど無いからなあ もう何百年も 行っていないなあ―
どうでもいいし思い出すのも面倒なので、タオティエは自分達の時間感覚で、そちらの方角へはしばらく赴いていないと、素
直に答えた。
そして、チョウはそれだけ判れば十分である。
仇ではなかった。が、見逃せる相手でもない。それに一つ判った事がある。故郷に残されたあの気配…。タオティエが放つ濃
厚かつ腐臭のように不快な邪気は、これまでに感じた中で最もあの気配に質が近い。
四罪四凶と質が近いが、厳密には違う気配の持ち主…。つまり、チョウ達の故郷を滅ぼした者も四罪四凶である可能性が高い。
(ますます退けん。それに、ますます死ねなくなった!)
故郷の仇がまだ存在している。それに何より、ホンスーが示した挺身に、ここで退いては合わせる顔が無い。
「もう一つ、問う」
チョウは素早く頭を巡らせながら口を開く。変化した状況は当初の図面と様相が異なるが、その修正を含め、一点書き加える
ために。
「俺の弟分を傷つけたのも、貴様だな?」
―弟分…? ん~… あのレッサーパンダかあ 勝手に 飛び降り自殺しただけだがあ? あの仙気 それとあの娘の護り…
やっぱりお前のかあ―
挑発混じりに答えたタオティエは結論付けた。あの軍人が弟分ならば、やはり先程の「声」も、狐の娘に施された桃源の護り
も、この男の仕業だろう、と。
(支度は済んだ…)
チョウは牛の反応を仔細に窺いつつ、一度大きく深呼吸する。念押しの思考誘導で、タオティエは仙気の主がホンスーである
と考えない。神仙に羽化し得る可能性を宿している事に感付かない。狙う事も、殺しに戻る事もないだろう。
加えて、仙気の正体が自分であると誤認させた事でルーウーの存在も秘匿でき、逃走する気を削ぐ事に繋がった。
打てる手は打った。あとは…。
(こんなモノと向き合ったんだな、ホンスー君…。怖かったろうに…、逃げ出したかったろうに…、それでも君は、その手に銃
を握ったんだなぁ…)
ホンスーが軍人として生きる事に、チョウは今でも反対である。この戦いが済んで無事だったなら、退役するよう説得する。
嫌だと言うなら、どんな手を使ってでも軍から追い出す。その気持ちに変わりはない。
だが、それでも、今はほんの少し…。危ない真似をした事を思い切り叱りたいが、褒めたい気持ちも少しだけある。
小さなホンスーは、誇らしい弟になった。
(ここで俺が自分の役目を果たせねば、男がすたるという物だ!)
胡蝶双刀を構え、禁圧を解除し、神行法を起動するチョウ。左胸で太極図が回転速度を徐々に速め、フル稼働に備えた運転を
始める。
―その剣… 宝貝 だなあ―
タオティエはチョウが持つ二本の剣と、腰に帯びている残り六本を窺った。
宝貝(パオペエ)。他国の言葉ではレリックと呼ばれる物の一種。桃源郷の仙人達も有する、太古の文明由来の遺産。非常に
希少で、人智を越えた力を宿し、品によっては世を動かせるほど強力な物もある。タオティエもまたいくつか所持し、異層空間
に保管している。
チョウが持つ剣を注意すべき宝貝かどうか識別しようとしたタオティエだったが、結局、それが何なのか判別できなかった。
「八本の胡蝶刀」。そんな特徴の宝貝をタオティエは知らない。少なくとも桃源郷にはそんな品は無かった。
―人類が 宝貝を模した 偽物かあ―
いわゆる疑似レリック。現行人類がその科学力を総動員し、秘匿事項関連技術や知識、素材を用いて作った、宝貝の模造品。
この猪が持つ剣はその類だろうとタオティエは考える。軍はそういった品をいくつも製造していたから。
回収の必要は無い。そう判断した牛の口が、ガパァッと開いた。顎骨の可動範囲も無視して、喉の穴が見える程深く、大きく。
ジュボッ…。そんな音を立てて大気が黒々と染まる。タオティエが吐き出したのは、色が濃すぎて黒く見える程の赤紫の霧の
塊。生物が触れればたちどころに肉体が爛れ、吸い込めば肺腑が腐り落ちる強烈な毒気である。
範囲にして直径20メートルほどに一瞬で拡大し、僅かに降りかかった地面から目を刺激する煙が発せられる毒の領域から、
しかしチョウは寸前に脱していた。
神行法による肉体の強制駆動。弾丸のような勢いで横っ飛びしたそこから地面を蹴り抉って、ほぼ直角に進路変更しつつタオ
ティエに突進する。
「せいっ!」
加速と体重を乗せて、水平に、そして二刀平行に、体の捻りを加えて繰り出す横斬り。強靭な妖怪の胴ですらも達磨落としす
るように真ん中を斬り抜かれる、チョウが得意とする絶息の剣筋。タオティエの脇を駆け抜ける軌道で剣を振るったチョウは、
しかしその身を上下に断つ事はできなかった。
コマのように回転するほどの速力と遠心力まで乗せながら、太い石柱ですら真ん中を抜かれる二条の剣閃は、ガギギンッと金
属音を響かせて弾かれている。
タオティエの腕を確認し、猪は目つきを険しくした。手の甲から肘、そして肩に至るまでの腕の外側に、獣毛の下からビッシ
リと棘が生えている。蟹などの甲殻類の一部に見られる形状の、やや湾曲した鋭い棘は、仙人の体も破壊し硬化された衣も断つ
宝貝の刃ですら折れなかった。
(硬い!そして…)
―くふふふ―
振り向きざま、タオティエが左腕を「伸ばす」。組成を変えてゴムのように伸長した腕が、駆け抜けて転身、地面を滑ってゆ
くチョウを追いかけ、掴み掛る。
「くっ!」
斬り払う格好で弾いたチョウだったが、タオティエの肥大化している手は、その掌中にある太極図を赤く光らせ、太い五指を
バラバラに伸ばした。その各々が、先端にまた指を生やして五本の腕となる。
追尾する手の先から分かれて伸びた五本腕が、蛇のように連続して、間髪入れずに襲い掛かり、猪は素早く身を捌き、斬り返
しながら立ち回る。が…。
(断った傍から!?)
鋭い一振りで、指が変じてできた腕の一本から、手首から切断されて飛んだ。が、切断された側と根本側から、まるで熱した
チーズのように糸を引いて肉が伸び、繋がって戻る。斬り落とされた四肢を自らの手で繋げて癒着させる仙人は頻繁に見るが、
ここまで自動的に、しかも瞬時に修復する手合いはチョウも初めて目にした。
(これも仙術!過程を捻じ曲げ「修復した」という結果を強引に現出する、高等仙術か!)
単なる治癒ではない。傷同士がくっつきあうというその現象は、チョウが習得した物とは基本原理以外の何もかもが違う。
過程を飛ばすなり省略するなりして「結果」を発生させるのは、世界中の術を見比べても仙術のみに見られる特性だが、タオ
ティエはそれをごく普通に、呼吸するレベルで行なっている。そのため、多くの術は普通に行使される仙術よりも効果が高まっ
ている。
と、性質を見抜きはしたが、チョウでも対処方法が簡単には思いつかない難題だった。
―なかなか 活きが良い ヤツだなあ お前―
タオティエは後方のチョウを振り返りもせず、左腕で追いながら、その場に立ったまま後頭部に目を出して立ち回りを眺める。
まるで宙に浮く巨大なヒトデに襲われているような物だが、チョウは掴み掛るそれらを斬り、払い、弾き、撃退はできないま
でも凌ぎ切っている。その剣は力強く素早く重い。幾度となくひとの武人や方士と戦ってきたタオティエも、この二千年余りの
間、ここまでの使い手とは五十人も遭遇していない。
―これは 美味そうだ…!―
先端が手のようになった舌を出して、ゾロリと舌なめずりするタオティエ。ひとを食う好みは個体ごとに異なるが、タオティ
エは特に屈強な武人や清廉な僧などを好む。その絶望と命乞いをスパイスに食うのが堪らない、と。
ヂーもひとを責めるのが好きで、エキセントリックかつサディスティックではあるが、しかしタオティエは根本が異なる。
ひとに責め苦や試練や課題やおしおきを与え、「さあ頑張れ」と、頑張ったり必死に耐えたりする姿を、おもしろおかしく見
守るのが好きな青虎。顔を真っ赤にしながら踏ん張る様子を眺めるのは好きだが、殺す目的で嬲るのは趣味ではない。
対してタオティエは、誇り高い精神や、強靭な肉体を蹂躙し、泣き叫び命乞いをする…あるいは殺してくれと懇願する相手を、
蔑み、見下し、悦に入って殺す。自分が上であると判らせた上で、愉悦に浸りながら絶望を鑑賞し、最終的に食らうのがこの牛
の趣味である。
伸びて追跡して来る巨大な手と、そこから生えた瞬時に再生する五本の腕。後退しながら捌いていても埒があかないと、チョ
ウは方針を変える。
―ん? 逃げるか―
ダンと音高く踏み切って、後方へ大きく距離を取るように跳ぶチョウを、伸びた手が追いかける。空中で縦横無尽に剣を振る
い、辛くも全て捌きおおせて落下する猪は、着地と同時に高速で横移動。追ってきた腕が地面へ喰いつくように掴み掛って粉塵
を上げる中、タオティエ本体めがけて爆発的に加速、接近する。
―お 速いなあ お前―
粉塵を突き破るように追跡に戻った腕を振り切り、タオティエの懐に入ったチョウが、疾走速度そのままに体重と加速を乗せ、
回し蹴りを放った。その二本の剣は、タオティエの右腕の下に入り、喉元に入り、斬れないまでも抑えに掛かって防御行動を阻
んでいる。ひと相手なら反撃を封じるついでに腋の下と首の動脈静脈を断ちながら、内臓破裂を起こす勢いで蹴り飛ばすという、
殺意の濃度が高過ぎる相当えげつない技である。
猪の太い脚が牛の胴に飛び込む。爆音と表現して差し支えない、大砲を空へ撃ったような轟音が、ドォンと大気を揺すって鳴
り響いた。が…。
「ぐ…!」
チョウが顔を顰める。タオティエはその場に立ったままだった。その足元から四方に亀裂が入り、岩が隆起する。
それは、タオティエが足の裏からも、根を張るように無数の細かな腕を生やして体を固定したせい。周囲のひび割れは、チョ
ウの強烈な蹴りの威力が「根っこ」に掴まれた地面へ浸透した結果だった。無論、相手が微動だにしなかった以上、猪の脚は負
荷で逆にダメージを負う羽目になっている。
タオティエの左手が翳され、覆い被さるように掴み掛った次の瞬間、チョウは即座に軸足で地を蹴り、高速離脱。制動をかけ
て距離を取ったそこで改めて構え直す。
―お前 それ 神行法なのかあ―
独特過ぎて最初は別種の仙術かとも思っていたが、牛は猪の動きが神行法による補助を得ている事を察した。これはタオティ
エから見ても珍しい、仙人の使い方ではない神行法であった。
肉体の駆動に各種仙術で補強を施す…その思想は理解できるし、幾度も見てきた。そして神行法を戦闘に活用する者も何人か
見てきたが、それらはいずれも「突撃に使用する」「攪乱のために動き続ける」など、単純な動きかある程度纏まった動作の補
強だった。チョウのように、ここまで複雑な白兵戦の動作を補強し続ける者は見た事がない。
―変わった 使い方だなあ―
タオティエが両手を伸長させる。大蛇のように宙をうねって迫ったそれを、猪は前屈して潜り、横っ飛びで避け、反転しつつ
斬り払い、殺到した指が変じた五本腕を正確な剣筋で残らず弾き、払い、捌く。正確で小刻みで素早いその動作は、見れば見る
程タオティエには不可解だった。
千里を駆ける仙術として知られる神行法。その認識が広まったのは、実際に長距離走を補助するのに最適だったからである。
肉体を強制駆動させるこの仙術は、有り体に言うとプログラムした動作を肉体に実行させるという形式。例えば「走る」という
単純動作の反復運動を仕込むのは容易く、御し易くもあるため、長距離疾走は代表的な使用方法と言えた。
しかし、チョウの扱い方はそこから数歩進んでいる。
事前に予想してプログラムした物を実行させるだけでは、変化する戦況に対応できない事もある。プログラムした段階では予
想もできなかった相手の行動で後手に回ってしまう可能性もある。そのため猪は、戦況を読みながらリアルタイムで神行法の強
制中断と再設定、起動を繰り返す。
これにより、チョウの戦闘機動を支える神行法は、原理は同じでも通常の物とはほぼ別物となっている。術の乱発に等しいの
で仙気の消耗が強いられる反面、汎用性と対応力が極めて高く、意図した通りの駆動を実現させ続ける。
これは仙人の使い方というよりは妖怪のソレに近い。これをチョウに伝授した青虎由来の技術であり、仙気を発生させ続ける
器官…太極炉や妖核などを持たない者にはそもそも実行できない技である。加えて言えば、戦闘中に幾度もプログラムとデザイ
ンをし直してリリースし続けるという作業は、それを実現する思考の速さと計算の正確さが無ければ不可能。ヂーが神行法を教
えた中で、実戦レベルでこの手法を使いこなすに至れた人類はチョウただ一人である。しかし…。
―他の仙術は 使えないのかあ お前―
タオティエは拍子抜けしたように言う。
―それだけ ぶら下げてる剣も 二本しか 役に立ってないなあ―
あるいは、模倣した宝貝であるが故に耐久性に難があり、予備としていくつも持ち歩かなければならないのだろうかと、牛は
考える。
神行法の使い方は珍しいが、それだけ。他の仙術は全く使えない。脅威ではなく、注意すべき点もない相手だと、タオティエ
はチョウという軍人を判断した。
―なかなか 粘るなあ―
猪の攻撃は通らない。有効打と呼べるだけのダメージが入らない。防戦一方である。
だがタオティエもこれをなかなか捕まえられない。もう少しという所までは行くのだが、反応と判断が良くて捕え切れない。
地面を抉るようにのたくった腕を、飛び越えて逃れる猪。空中ならばと掴み掛っても、剣でいなして捕まるのを回避する。決
定打を放てない一方で、ギリギリ避け続ける相手にじれながら、タオティエは両腕で猪を追い回す。
(これでやっと三分半といった所か…!)
一つしくじれば即座に終わる、薄氷の上を渡るような防戦を続けながら、チョウは頭の中で数えていた。
作戦予定区域からタオティエが動いたため、チョウの計算では陣形の敷き直しに十二分かかる。これは第八連隊の練度を考慮
し、指揮官の面々を信用しての計算。最速でその時間である。作戦を立てた当初、タオティエの移動前であればユェインとふた
りで事に当たれたが、距離ができてしまったのでまずは単身で相手をしなければならない。時の王朝、その軍を、単身で壊滅さ
せ文化圏を滅ぼせるだけの脅威を相手に…。
(消耗が…!)
チョウの全身で発汗が次第に増して、背中や脇の下、鳩尾などを中心に軍服がジワジワと汗で変色してゆく。可能な限り消耗
を抑えるよう心掛けてはいるが、神行法無しでは均衡を維持できない。体力も仙気もみるみる減ってゆく。
―ん~―
タオティエが唸る。何か悩むように。そして、30メートルほども伸びてチョウを追っていた腕が、急にシュルルッと縮んで
元に戻った。ザリリッと地面を滑走しながら踏ん張ったチョウが、停止して構えると…。
―飽きた―
「!?」
タオティエはポツリと漏らす。
基本的に、この邪仙は「手軽に気楽に面倒無く」が基本方針。煩雑な物や面倒くさい事が何より嫌いで、できれば労力もなる
べく使いたくない。チョウに興味は持ったが、疲れるのも頭を使うのも嫌になった。
つまり、欲求に面倒くささが勝ったのである。
―もういいな お前は―
牛の大きな手が胸の前で向き合わされる。その両掌に太極図が浮き上がって回転を始め、橙色に発光し…。
―そ~れ―
無造作に、両手で胸の前からボールを放るような動作で、タオティエはソレを投げた。
―潰れて 消えろ―
チョウの周囲で小石が転がり出す。砂塵がソレめがけて流れてゆく。牛が放ったのは…。
(重力操作とは!)
似た物を以前見た事があったチョウは、使用された仙術の正体を即座に看破し、背中を冷や汗で濡らした。気圧が急激に変化
し、体の重さの向きが前へと方向を変える…。重力に逆う事が難しいように、対処を誤って捕らえられたらまずそこで終わる類
の仙術である。
タオティエが放った不可視の重力球に向かって、周囲の小石や砂塵、土や岩が「落下」してゆく。その中心点に囚われたらど
うなるかは、吸い込まれた石や土がその体積を減じて「点」になってしまっている事からも想像に難くない。
咄嗟に地面へ胡蝶双刀を二本突き刺し、「落下」を免れた猪だったが…。
―動かないなら 簡単だあ―
「!?」
ハッと顔を上げる。重力場を無視して跳躍し、宙に浮いたタオティエが、チョウを見下ろしていた。その右手が既に伸びて、
眼前まで迫っている。
重力場は囮。これだけの仙術がただの足止め手段。
改めて相手の恐ろしさを認識しつつ、チョウは左手で楔代わりに地面へ打ち込んでいる剣を掴んだまま、右手で剣を振るう。
が、掌を正面から斬ったと思った剣は、そのままタオティエの腕を通過して虚空へ走った。
空振りではない、幻覚でもない。間違いなく刃は入ったが、タオティエの手が切断される傍から再生したため、まるですり抜
けたように見えた。
そして次の瞬間、チョウはその頭部を牛の大きな手ですっぽりと、鷲掴みにされていた。
眼前には掌の、赤々と光る太極図。
瞬間、チョウは感じた。自分が世界との間に引き直した境界が「侵食」されるのを。
(これは…何だ!?)
それは「仙術」ではなく、「性質」だった。
チョウがこの戦いに挑むに際して、予期していなかった完全な計算外。「そのカテゴリー」を知らない以上、対策の立てよう
もない事象。
「ん"ん"っ!?」
くぐもった声を漏らしたチョウの喉がボコリと膨れて、口内に発生した生暖かい何か嚥下させられた次の瞬間、重力球は前触
れもなくフッと消え去った。仙術が解除され、落下が止まり、気流の乱れも嘘のように落ち着く。
そして、着地したタオティエの腕がチョウの顔面を放し、シュルルッと戻った。
(しくじった…!)
喉を押さえて、カハッ、ケハッ、と咳き込んで力み、飲まされた物を吐き出そうとしながらも、猪は悟った。攻撃を成立させ
てしまった事を。
―あ~ 嬲りたかったなあ まあ 面倒だからいいか―
牛が呟く。無数の目を頭部に浮かべて、ギョロギョロと動かしながら。その直後…。
バボンッ。
何かの内側に籠ったような爆発音と共に、猪の腹部が一瞬、一回り膨張し、軍服が裂け、ボタンが飛び散った。
タオティエがチョウの結界を破って口内に発生させ、体内に侵入させたのは、接触した臓腑を爆薬に組成変換する物質。内臓
を損なわせるどころか、それを凶器にして体内をズタズタに破壊するという物。前触れなく唐突に体内で手榴弾を炸裂させられ
るに等しく、普通ならば腹に大穴があくか、胴体がまるごと爆ぜ飛んでいる所である。
ボブッ…。
天を仰いだチョウの口腔から、焦げ付いて赤黒くなった、ヘドロのような吐しゃ物が、噴水のように吹き上がった。
食道から胃まで爆破され、臓物と血液の煮こごりを吐き出し、仰向けに倒れてゆくその最中、しかしチョウは…。
(それでも、まだ…)
気が遠くなりながらも、不敵に口の端を吊り上げ、夜空を目に映している。
待ちかねたが、間に合った。
(ツキ(月)はこちらにある…)
夜闇に二条の光が奔った。
それは、抜き放たれた翡翠色の刃の反射光。チョウがこの場に至った経路を追うように、跳躍したジャイアントパンダの両手
は二本の長剣を抜き放っている。
右目に灯るは、月のように静かで刃のように鋭利な怒り。
左目に灯るは、神仙より預かった太極炉心の青白い輝き。
両手に握るは、月光を集めて固めて鍛えたような刃の光。
―ん?―
顔を上げるタオティエ。その頭上に迫ったユェインは、胸の前で腕を交差する格好で構えた剣を…、
「その首、貰い受ける」
ヒュンッと、外側に一閃させた。鋏のように、その軌跡がタオティエの首を挟み込んで通過する。
―お―
チョウがドウッと仰向けに倒れたその瞬間、ポンッと、コミカルとすら言える音を立てて牛の首が飛んだ。
さらに、ユェインが両腕を左右に広げて剣を振り抜いた姿勢でいるにも関わらず、無数の剣閃が三日月のような弧を描いてタ
オティエの頭に殺到、その生首は一瞬で肉片と切断された長毛に変えられ、八十個近い、一片3立方センチにも満たない破片と
なって飛び散る。
剣筋も見えない連続斬撃は、しかし仙術ではない。これはひととして練磨、研鑽した末の到達点にある戦技。気功術のエネル
ギーを、剣を振るう腕の進行方向と逆側で爆ぜさせてロケットのように加速。逆噴射によって制動や軌道変更も自由自在な、ま
るで刃がついた超音速誘導ミサイル。
「高速剣」。単純明快な名を付けられたそれは、しかし字面の印象ほど大人しくはない。その超音速にも至る剣閃をもって、
至近距離で撃ち込んだ散弾以上に対象を細かく破断する、凶悪極まりない殺傷力の権化…。ユェインの剣が届く範囲内全てが、
仙人の肉体すらも容易く分解せしめる制圧領域。
一瞬の交錯で首を刎ねられ、それを粉微塵にされたタオティエの体が、地面に落下してゆき…。
―おっと―
激突寸前にクルリと宙返りし、トンと軽やかに着地した。その後方で、ズシンと地面を踏み締めユェインも着陸する。
タオティエの首の断面がグニグニ波打って蠢くと、そこからヌポリと新たな頭部が、何事も無かったように生えた。
―月光のような刃… 癇に障るほど清廉な仙気… その宝貝 懐かしいなあ…!―
新たに生え変わった牛の顔が、暗い笑みに彩られた。
知っている。その二本の長剣を知っている。遥か昔の大戦時から現存する神殺しの兵器。ある二人の神仙がその身を転じた、
桃源郷の至宝の一つ。
「干将(かんしょう)」。そして「莫耶(ばくや)」。
四罪四凶を誅すべく野に下った神仙がかつて帯び、人類の武人達がそれを受け継ぎ、今日まで戦場を渡り歩いてきた、決して
折れず、欠けず、損なわれる事のない、雌雄一対永劫不滅の夫婦剣。これは即ち、神仙が剣の形を取っているに等しい「強大な
存在そのもの」という特色を備えた宝貝。「存在して当然」という概念そのものと化し、「壊れる」という結果を無かった事に
上書きするため、いかなる手段でも破壊できない。
表情に憎しみと苛立ちを覗かせたタオティエに、爆風のように砂塵を巻き上げ、着地した姿勢から跳ね飛んで来たユェインが
迫る。
太り肉の巨体という外見からは想像もつかない、まるで砲弾が放たれたようなその移動速度は、気功術で纏ったエネルギーを
爆砕噴射して推進力に変え、仙術縮地を併用して距離を縮めるという手段による物。銃弾すらも追い抜くその加速力と制動によ
るGの負荷は、気功術によって肉体を保護していなければユェインの体が自壊してしまうほどである。
瞬きにも満たない一瞬で肉薄される牛。刹那の煌めきと同時に、ガギギギギンッと連続する衝突音。接近しつつの二十七連撃
を、タオティエは甲殻類のような棘を生やした腕で捌き切る。
―いきなり斬りかかるとは 乱暴な 奴だなあ―
「敵味方識別済。私の副官が剣を向けていた以上、貴様は世の敵…」
いなすように身を捌くタオティエ。ザリザリと滑って制動をかけ、2メートル弱まで開いた間合いを、食らいつくように再び
詰めたユェインの両剣が閃く。
「少なくとも、私の敵である事は明白」
「副官」が敵を見誤る事はなく、彼が武力制圧を試みるならば、それ相応の理由があるか、相手が世のためにならない存在で
あるかのどちらか。そうでなくとも「チョウ」が牙を剥いたならば、無条件で「自分の」敵。誰何の必要も無ければ是非も無い。
ユェインはこれを猪への「信頼」とは思っておらず、もはや「常識」の類である。
間断なくギギギギギギンッと連続して剣の音が響き、月光の如く清廉な光が何条も煌めく。
ジャイアントパンダが繰り出したのは、右の振り下ろしから左の逆袈裟の二連撃に見えるが、実際には二十一回の斬撃が繰り
出されている。まるでユェインの動きとは別に斬撃だけが生じているような、目にも止まらぬ剣筋。
タオティエは頭部の長毛から小さな眼球を七つ覗かせ、ひとの目では視認すらできない無数の剣閃を、棘で固めた腕で立て続
けに防ぐ。そして、その大きな手の指を蟹の脚のように甲殻で覆い、斬撃の隙間を縫うように反撃に転じた。
まるで至近距離から撃たれる銛のように、鋭く尖った指が発射されるような勢いでユェインを襲ったが、それらは左右の剣で
全て打ち払われる。
―名乗る余裕も 無いとはねえ―
「名乗りが欲しくばくれてやる」
右に、左に、残像すら僅かにしか残らないほどの高速で、剣の煌めきと火花を残しながら両者が移動する。ユェインが常に間
合いを詰めて追いつくため、互いの距離は2メートル以上離れず、間合いは一足一撃の距離のまま。両者の位置が目まぐるしく
入れ替わり、秒間に何十という攻撃が交錯し、金属の鐘を連続で叩き回るように激しい音が鳴り響く。
「第八連隊司令官、伏月陰上校である。貴様の同類、サンミャオに一度は殺されかけ、無様に地を這い生き恥を晒し、仙人を殺
し続ける者だ」
タオティエの耳がピクリと動いた。
―あのサンミャオが 殺し損ねた…? それは… 何かの間違いだろう?―
気功術による加速を最大限に活かし、縮地を駆使し、息をつく間も与えないユェインの猛攻に、肉体の改造によって速度を上
げて対抗するタオティエ。その余りにも激し過ぎる両者の移動の余波と、攻撃が相殺されて発生する衝撃で、周辺の地面が弾け、
崩れ、抉れてゆく。
ひとである事を辞め、既にその域にないタオティエに対し、仙術兵器とはいえ、ユェインは「ひと」である。それが、単身で
互角に立ち回れている。
異常だと、タオティエは感じた。仙術を行使すれば様々な手で圧倒する自信はある。だが、いくら肉弾戦に限った事とはいえ
自分と渡り合えるなど、太極炉心を埋め込まれていてもひとにできる事ではない。
―現行人類で 五本指くらいには 入ってるだろうねえ―
牛の見立ては正しい。
仙術兵器フー・ユェインの白兵戦能力は、各国のユニバーサルステージ級能力者の平均を軽く凌駕し、英国の「サー」最強の
殲滅者や、日出る国の「ウォーマイスター」最強の獅子に比肩する。ひととして到達し得る限界点に、このジャイアントパンダ
は身を置いている。
この域に到達した武人をタオティエも三人しか知らない。シャチが一目で接触を避ける事を決めたのも、「黄昏の盟主」にす
ら届き得るその力を察しての事である。
―お前 仙人になる気 ない?―
向き合う格好で足を止め、間断なく剣と手を叩き合わせながら、タオティエは問う。
―その太極炉心 肉体は 造り変えて ないなあ お前 ひとの体に 炉心だけ積んでる 状態だろう? いずれは体が 崩壊
するなあ―
自分の手で幾人も仙人に変生させてきたからこそ、タオティエには分かる。
ユェインには僅かながら資質があった。一生かけて修行を積めば、もしかしたら条件も整い、桃源郷の神仙の手によって正規
の仙人化が叶ったかもしれない…そんな資質が。
だがユェインの太極炉心は、緊急措置により生命維持装置代わりに埋め込まれただけ。体を仙人に造り変えてはいないため、
長寿でもなければ不老でもない。神仙のように仙気の循環だけでの生存もできず、邪仙のようにひとを食って寿命を継ぎ足す機
能もない。いつかは肉体が塵となって崩れ去る運命にある。
―お前を 仙人に してやれるよお?―
タオティエの無数の目玉が笑みの色を浮かべた。
「勧誘」には自信があった。ひとは、永遠を求める生き物だから。
―太極炉心を 新しく 与えてやろう 弟子になれば 新たな生を 永遠に謳歌できるぞお?―
激しい打ち合いの間に、タオティエはユェインを誘う。これほどの腕を持ち、仙術を使いこなしているならば、自分達の仲間
に引き込むのも面白い。きっと優秀な「収穫者」になるだろうと、牛は期待する。
―ひとなんて すぐに死ぬ 怪我でも死ぬし 病でも死ぬ そうでなくたって 一生なんて あっという間だ 無意味な労働
無駄な毎日 それで少ない時間を浪費して あっという間にくたばってく―
その誘う言葉で、ユェインの目つきが鋭さを増した。
―つまらなくて 下らない 食料にしか ならない存在だろう? ひとなんてさあ その点 我々は違う―
打ち交わし続けながらも反論しないユェインに、タオティエは囁く。
―それに その力… お前も 疎まれてるんじゃ ないのかねえ? ひとは身勝手で 違う者を 厭うからなあ ひとの為に働
くとか はっ 馬鹿馬鹿しいだろう? 徒労じゃないか そんな生き方その物が―
ユェインの脳裏を過ぎるのはいくつもの悲劇。見つめ続けた生と死の光景と、痕跡も残さず消された数多の命。
守るように赤子を抱いて事切れている母親。
誰も居なくなった村に取り残され放心する老人。
一夜にして活気も笑顔も営みも消え去った商業都市。
お母さんはどこ?泣き腫らした目を向け自分に問う幼女。
無人の村で寂しげに鳴き続け、主人の帰りを待っていた忠犬。
―おじさん…。みんなは、どこにいっちゃったの…?―
泣きながら問うレッサーパンダに、答える言葉を持たなかった。
―俺が居合わせたら、何か変えられたでしょうか…?―
壁を向き項垂れながら悔やむ猪に、かける言葉を持たなかった。
ユェインはそんな景色を、残された右眼でいくつも見てきた。
それぞれに明日があった。それぞれに家族が居た。辛い目にもあって、苦労もして、精一杯生きて、ささやかな幸せを噛み締
めて…、皆がその時を、確かに生きていた。
確かにくだらないかもしれない。だがそれを「くだらない」と、自虐や愛着や満足をもって口にして良いのは、当事者それぞ
れのみ。決して、他者が嗤ってよい物ではない。
タオティエはそれらを、ユェインの前で嗤った。
「朝の訪れを待つ人を、降らない雨を待つ人を、歯を食い縛り生きる人々を…」
ジャイアントパンダが唇を捲り上げ、憤怒の表情を見せる。
「嗤う資格が貴様にあるかっ!」
タオティエの発言はユェインの逆鱗に触れ、激昂させた。
ジッと、短い擦過音。タオティエの右腕が、外皮を削ぐように生やした無数の棘を綺麗に切断される。高速での打ち合いの最
中、狙った角度になる瞬間を逃さず、表面を削ぐように右剣を振るうなり、左の剣を腕に対して垂直に打ち込む。
ボンッと、コルクの栓が飛ぶようにタオティエの右腕が宙に舞う。
ユェインは激昂している。だが激昂しながらも、その剣筋は精密性と速度を損なわず、力んでブレる事もない。怒りはしても
怒りに呑まれないユェインにとって、感情の爆発は腕を送り出す起爆剤であり、自分の背を押し足を進める燃料。判断にも動作
にも悪影響は一切出ない。
「虐げられた無垢なる犠牲が、我等に逃げを許可(ゆる)さない!」
鋭く突き込まれた右剣が、避け損ねたタオティエの首筋を掠めて深々と裂く。
「踏み躙られた全ての願いが、貴様に明日を許容(ゆる)さない!」
圧されて半歩退く牛に、その半歩を踏み込んで間を詰めたユェインは、剣の柄を握ったまま左拳を腹部へ打ち込む。
「清算の時だ、四罪四凶タオティエ。仙術解禁!仙気…発勁!」
その打点を起爆点に、月の光のように冷ややかな、白い閃光が両者の間で炸裂する。
仙術「仙気発勁(せんきはっけい)」。纏う力場を直接打ち込み、炸裂させる仙術。
一般のエナジーコート能力による力場の炸裂と異なるのは、命中した点を中心に、行使者が設定した直径1~2メートルの球
体状の範囲に爆発が留まり、破壊が任意の範囲内に限定される事。同時に、密閉空間で炸裂したに等しくなるため、余波すらも
範囲内に閉じ込められて威力が格段に跳ね上がる。
力場で全身を覆っているとはいえ、ユェインも至近距離での爆破の反動で後方に弾かれる。しかし、踏み止まったジャイアン
トパンダの隻眼は、吹き飛んで遠ざかるタオティエを見据え、片時も視線を外さない。
衣類が吹き飛んで上半身が露わになった牛は、爆発を浴びた体の前面が炭化しているが、それを内側から、被毛まで含めて再
生した新たな肉が押し上げ、脱皮するように万全の状態に戻る。
―あ~…―
タオティエが頭を抱えた。これにはユェインも驚愕する。切断した腕…まだ宙を舞っている右腕。それが、一時も目を離さな
かったにも関わらず、新たに生えていた。
しかも、右掌にあった太極炉が、切断された側からは消えて、新たに生えた方に現れている。
(結果の書き換え…!)
邂逅時に首を刎ねた時もそうだったが、一瞬でもタオティエの意識が飛ぶ事はなかった。元々脳が胴体にあったとか、頭部は
ダミーだったとか、そういう話ではない。切り離された瞬間には、「そちらに全て揃っていた」事にされている。
おそらく、仙術「魄脱」で太極炉心を抜こうとしても結果は同じ。抜いた途端に「実はそっちには無かった」事にされる。
存在力で自分よりも下位に位置する者に対し、「後出しジャンケン」で結果を塗り替えてしまう…。これが高等仙術の、ひい
ては上級仙人の恐ろしさ。
―あ~ あ~ 面倒だぁああああああああああ! もう嫌だぁああああああああああ!―
頭を掻きむしるタオティエ。その爪が長毛からいくつも覗いている眼球まで乱雑に掻き潰すが、おかまいなしである。毛が抜
け、血が飛沫き、爪に付着し…。
―な~んて フッ…―
おもむろに、牛は手を顔の前に上げて吹いた。取り乱したように見せかけ、不意を突いて。
血が付着した長毛が吐息で飛ばされ、宙に舞うと、それらが蠢き、体積を増し、形状を変化させ…。
「!」
ユェインの反応は早かった。察するなり距離を詰め、大きくなりつつあるタオティエの毛を切り刻む。が、不意を突いた行動
だったために一拍遅れ、対処は完全には間に合わなかった。
トン…。トト、トン…。
チキリと剣を止めて身構えたユェインの周囲には、大きくなって形状を変え、軽い足音と共に着地したタオティエの毛…。十
三体のそれらは全て、牛本人と同じ姿格好をしている。
「仙術、身外身(しんがいしん)か…」
ユェインの隻眼が「タオティエ達」を油断なく見据える。
幻による分身ではない。その「タオティエ達」は超高等仙術で生み出した「分け身」であり、物理的に存在している。思考は
本体と同期しており、身体性能も本人と変わらない。つまり物理的な強靭さ…膂力も早さも本人そのもののタオティエが、十三
体増えたという事になる。
「相手にとって不足なし」
ヒュヒュンッと両手の宝剣を振り、牽制するように構えて注意を払わせるユェイン。しかしその思考は、タオティエに気取ら
れないよう注意しながらも、ある事に向いている。
そう。この場に馳せ参じた直後から、ユェインは一瞥もしていない。そして、激しい剣戟により牛の注意がそちらに回る余裕
もない。
完全に、マークが外れている。
(そろそろ、か?)
タオティエは全く気付いていなかった。
仰向けに倒れたまま呼吸も止まってピクリとも動かない、事切れたようにしか見えない猪。その、焼け爛れた血と臓腑を吐き
出して赤黒く染まっている口元が、自分とジャイアントパンダが交戦していたその間に、ゴリッ…、と何かを噛み砕く音を立て
ていた事には…。