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漂泊の仙人と煙雲の少女(十六)

「まあ、何だ。そういう訳でだ」

 地べたに胡坐をかいた大柄な黒熊が、煙草の箱を取り出す。伏せた青虎…獣人ではなく、四足獣の虎の前で。

「おめぇ、よ。ひとの味方になっちゃあくれねぇかい?」

 土饅頭のような見てくれの悪い男。…そう、ヂーは感じた。

「一体全体突然何の話だ?火遊びのし過ぎで脳みそが沸騰でもしたか?獣人」

 苛立ちをこめて吐き捨てる青虎。

 周辺一帯は焼け野原。あちこちにすり鉢状の抉れ痕ができ、切り裂いたような裂け目が無数に走り、今も黒煙がもうもうと立

ち昇り、燻った火の匂いが鼻孔の奥まで入って来る。

 抉れ痕や、巨大な獣が爪で裂いたような並行する亀裂群は青虎の仕業だが、野火になって燃え広がりようも無いほど燃え尽き

た枯草の草原も、焼き畑のようになった土も、黒熊のせいである。

 指先にポッと火を灯し、咥えた紙煙草に火をつけている黒熊は、人相が悪かった。

 垂れ目気味ではあるが愛嬌が無い。むしろ覇気に欠けて見えながら腹の底で何を考えているか判らない、いかにも逸物抱えて

いそうな半眼に、緩んだ肉が下がり気味な頬。大男ではあるが、立派というよりはだらしない体つき。でっぷり肥えた体は軍人

とはとても思えず、むしろ汚職で私腹を肥やしながら政争に明け暮れている中央の悪徳官僚とでも言われた方がしっくりくる。

 年齢は二十代前半だろうが、若々しさが無いどころの騒ぎではなく、それより二十は老けて見える。胡坐をかいた太腿にはせ

り出した腹の肉が乗り、股の間が濃い闇になるくらいなので、軍人らしい戦闘行動などとてもできそうもなかった。

 なのに…。

(なのにこいつは、この僕を負かした…!)

 ヂーは内心歯噛みした。

 名が売れて調子に乗った妖怪狩りを自称する道士や方士を、返り討ちにしてやった回数などもはや数えられない。英雄気取り

で狼藉を働きに来た者を、微塵に刻んで花木の肥やしにしてやった回数も覚えてはいない。名声が欲しくて狩りに来た勘違い達

に、命をもって身の程を判らせてやった回数など思い出せない。

 自分の領地…逃げ込んでくる妖怪達を保護する、この「梁山泊」と名付けた山塞へ押し入る者達は、ヂーから見ればただの侵

略者。生きる土地を奪われ、住む場所を追われ、行き場をなくして自分に庇護を求めてきた弱い妖怪達を、息を荒げて声高に正

義を叫び、虐げにやって来る狼藉者。領地を汚すのだから無礼討ちにして当然である。

 ところが、今回はそうも行かなかった。

 これまでにやってきた方士や軍人や殺し屋…そういった手合いよりも若く、動きも鈍そうで戦闘に不向きと見えたこの黒熊は、

ヂーが戦った誰よりも強かった。
今までに遭遇したどんな軍人よりも上手く立ち回り、どんな方士よりも優れた術の使い手で、

どんな殺し屋よりも的確で、冷や汗を幾度もかかされた。術具でもある得物、名高い二本の宝剣のせい…もあるだろうが、それ

を差し引いても黒熊は強かった。

 徹底的にやり合った。完膚なきまでに打ち倒すつもりでやった。爪の先っぽでも引っかかれば脂身ばかりのヤワな肉体を一瞬

で血袋に変えられるし、触れられなくともペシャンコにする事も、輪切りにする事も容易い。そのはずだった。

 それが、結果はこうだ。

 結局全力を出し切って、疲弊して動けなくなった。周囲も顧みずに全力で殺しにかかって、なお仕留められなかった。

 その上この男は、結果的に誰一人殺めていない。自分の元に身を寄せていた弱い妖怪達は、火に巻かれる前に逃げ散った。こ

の男の火遁に脅されながらも、その火が逃げ出した者達を焼く事はないどころか、まるで案内するように道をあけて逃がした。

 思えば、そのおかげで巻き添えになった者は誰もいなかったのだ。

 伏せの姿勢から立ち上がれないヂーの前で、その男は威嚇の唸りを浴びながらも、咥え煙草のままモゴモゴと言葉を紡ぐ。

「まあ、何だ。そうおっかねぇ顔すんじゃねぇよ。脅したって意味がねぇぜ?何せ…」

 田舎育ちなのか、地方の訛りが耳につく黒熊は両手を上げた。降参するように。

「符も使い切ったし、桃剣も全部焼けた。聖貨も仙丹も打ち止め。これ以上やる元気もねぇし、もう煙草を吸いつける程度の火

種しか出やしねぇ。脅されなくなって、こっちにゃな~んもできやしねぇよ。打つ手無しってヤツだ。ほんとに、よ」

 その両側では、翡翠のような色の刀身が美しい長剣が二振り、地に突き立てられている。先程まで緋色の炎を纏っていたのが

嘘のように、涼しい色の光を反射して。

 伝承にうたわれる名高い宝貝。ひとの手に渡っているとは聞いていたが、こうして目にするのは初めての事だった。

「バカ!」

 思わず、口を突いて悪態が出た。

「余力がない事なんか黙っていれば判らないだろう?わざわざバラすとかバカか?バカなんだなお前!」

「騙そうったって、足腰立たねぇのはすぐバレちまうから、よ。黙ってても仕方ねぇ。幸い、胸張って見せなきゃならねぇ部下

もここには居ねぇし、よ。…バカバカ言うな腹が立つぜ」

 咥え煙草をピコピコと上下に振りながら、ふてくされたように応じる黒熊。

「まあ、何だ」

 口癖なのだろう、同じ言葉を繰り返しながら、醜く肥え太って見栄えも悪い黒熊は言った。酒焼けしているのか、煙草の吸い

過ぎか、ガラガラした美しくない声音だったが、聞き取りにくいとは感じなかった。

「おめぇがまたやる気になって、その物騒な爪が生えた前足でチョンと撫でるだけでワシの首は飛ぶんだ。だから、よ。ちょっ

とだけ話、聞いちゃくんねぇか?こいつぁな、この辺りの妖怪を纏めてるおめぇにしかできねぇ相談だ」

 口調も粗雑で俗っぽく、軍人というよりも田舎の町人か農夫、あるいは山暮らしの狩人のよう。そもそも咥え煙草で「おめぇ」

呼ばわりなど、半分だけとはいえ大妖怪の血を引く自分…羅々の女頭領の息子である自分に対して不遜も過ぎる。そう、思わな

いでもない青虎だったが…。

「…どんな話だ?獣人」

 聞くだけ聞いてみようと、心を動かされた。自分を負かしながら降参する、美しさの欠片もないのに魅力的にも感じる、この

奇妙な黒熊に。

 それは、二日二晩、昼夜も休みもなく戦いを繰り広げ、精魂尽き果てた末の出来事。

 何の事は無い。その男は自分を殺しに来たのでも、捕えに来たのでもなく、庇護される妖怪達を狩りに来たのでもなく、交渉

に来たのだと知って、青虎は何とも言えない気持ちになった。

 バカなのか?とも思ったが、話を最後まで聞いてみれば頷ける。前段として、力がある事を証明しなければ、成り立たない交

渉内容だった。

「ワシが失敗したら旅団が派兵される予定だ。そうなったら、無害な妖怪もまとめて皆殺しだ。まあ、何だ。寝覚め悪ぃわな。

そいつぁ、よ」

 黒熊は語った。軍と政府にしてみれば名を挙げたい者…ひいては犠牲者を誘引するこの梁山泊は、民の不安の声や安全の面、

政府の体面維持から言っても放置できなかったのだと。だから自分にやれる事には多少の縛りがある、とも。

 一つ。梁山泊は潰す。これは国威を人民に知らしめるためでもあり、これ以上腕試しなどが押しかけないようにするためには

必須。こればかりはどうしようもない。

 二つ。ただし、開発により住処を追われ続けている妖怪達が、ここで静かに暮らしていた事は把握しており、この状態は比較

的望ましい。よって居住区域は政府が確保する。大人しくそこへ移るなら安全も保障する。

 三つ。…ただしこれは軍上層部の意図でも、政府の要望でもなく、黒熊個人の提案。

 妖怪の側に立ったままで構わないので、ひとも護る手伝いをして欲しい。妖怪とひとは違い過ぎるから、双方平穏に生きるに

は橋渡しが必要となる。自分も可能な限り協力する。それが実現できるか否か、協力者として不足が無いかどうかは、今日見せ

た力から判断して欲しい。

 …それが、黒熊がもちかけた交渉の中身だった。

 こうして梁山泊の妖虎をたらしこんだ男は、雍東風(ヨン・ドンフォン)といった。この出会った当時は下っ端将校のひとり

に過ぎなかったが、最終的には八卦将…震将の席にまでついた男である。

 見た目は悪徳官僚か悪徳商人のようなその男は、「まぁまぁいいやつ」だった。

 飄々としていて抜け目なく、強硬な手段を取る事も、駆け引きで相手をハメる事も、内政で邪魔になる相手を失脚させる事も

あった。必要であればどんな汚い手も悪辣な策も辞さない、善人とは言い難い男ではあった。

 が、それでも必要以上に冷酷でもなければ、好んで残虐な真似をする男でもなかった。本当に必要な時、あるいは示威や見せ

しめとして有効な時には酷い手を選ぶ事も躊躇しない一方で、そうしなくて済むなら平和的解決手段を、どんなに面倒でも模索

する事を忘れない男だった。

 清濁併せ呑む気質とでも言おうか。清廉潔白謹厳実直な軍人などではないが、名誉や道徳だけで腹は膨れないとうそぶきなが

らも、義を通す者を決して軽んじず、徳を尊ぶ者を決して嗤わず、そう在ろうとする者に理解と敬意も持っていた。

 だからヂーとその保護下にあった妖怪達に対しても、梁山泊は焼き払うが、そこに暮らす者の命は一つとして取らないという

方針を貫き、味方につけた。無論、力量が伴わなければ不可能な事だったが。

 結局のところ、彼は国への忠誠や奉仕のために軍に居たのではなく、その行動は「なるべく多くの命が息衝く大地であって欲

しい」という、多様性を許容する理念に基づいたもの。手柄も地位も名声も、全てその手段に過ぎなかった。

 人並みにちょっと贅沢がしたいだとか、楽をしたいだとか、そんな欲求はあったものの、得た地位や財からすればささやか過

ぎた。何せ上級将校の地位と給金があっても、たまにはちょっと良い料理店で飯を食いたい…というような、良い勤め先でそこ

そこ稼げる独身成人男性が身の丈に合った散財をするような贅沢が関の山。そのくせ、部下には飯も酒も気前よく奢り、出費は

ケチらないので人気がある。物理的に腹回りは肥え続けているのに、比喩で言う私腹を肥やす事には一切興味が無い男だった。

 ひとと妖怪をあまり区別していなくて、双方の生存権を認めている黒熊を、ヂーもはじめは奇妙な奴だと思っていたが、次第

に納得もした。

 黒熊は捨て子だった。何も持ち物が無かったので親が名前を付けたかどうかも定かではなかったが、不要とされたのが明白な、

裸一貫の捨てられっぷりだった。

 東風の強い秋の朝、片田舎の診療所前に裸で放り出されていた赤子が彼。

 拾って育てた父親は、田舎町で医者崩れをしていた、引退した方士。そして母親代わりは、その世話女房の妖怪…火龍の精。

 伴侶として暮らすひとと妖怪の、傍目に見ても仲睦まじい夫妻に育てられたので、黒熊の価値観は最初からひとと妖怪の双方

に跨っていた。よって、凶暴で害があるような相手は例外として、実害が無いか交渉可能な妖怪に対しては進んで駆除する考え

が無く、互いに領分を侵さずに暮らせる、あるいは共生を望むならそれも叶う環境の構築を理想に掲げていた。

 半分が妖怪で半分がひとであるヂーは、興味の他、共感と親近感もあって次第にこの男に惹かれていった。

 黒熊は最初に約束した通り、政府と交渉し、武勲と引き換えにしたり、脅し混じりにストライキなどをちらつかせたり、「あ

の地は古い王に呪われて呪詛溜まりとなっておりまして至極残念な事に人が住むには向きませんな。あと金とか銀とか玉とか燃

料の類とかも一切出ない枯れ地です」などとでまかせを言ったりして、妖怪が生きるのに適した区画を様々な手で優先的にもぎ

取って、次々ヂーに委ねた。

 馴染んだ生息域を追い出され、環境も悪くなって、生きるのにも苦労していた力の弱い妖怪達は、ヂーが生態系別にノリノリ

でプロデュースした「新梁山泊」、そして「梁山泊改」「ネオ梁山泊」「ニュー梁山泊」「梁山泊ツー」…等々で、ひとと衝突

せず、安全に暮らせるようになった。

 利害が一致しているだけのビジネスライクな関係。…とヂーが思っていたのは初めの頃だけだった。気の置けない間柄という

か、親しい悪友関係というか、気付けばそんな具合に収まっていた。

 結局付き合いは三十年以上にも及び、彼を通して知ったひとの社会は、往々にして下らないが素晴らしい箇所もあって、それ

なりに愛着が湧いた。

 特に、芸術は良かった。前々からひとが生み出す詩句や楽曲は耳に心地よいと思っていたが、それらに加えて絵画、劇、彫刻、

そして様々なサブカルチャー…、ひとが培った感性が生み出す様々な物は、その多くが素晴らしいと感じられた。もっとも、黒

熊がやたらと高いカメラを買っては得意げに見せて来る、趣味の写真の数々には辟易したが…。

 楽しかった。そう、間違いなく楽しい年月だった。本当にあっと言う間…。あの黒熊と出会ってから、飛ぶように月日が過ぎ

去ったと、ヂーは時々振り返る。

 出会ってから黒熊は、戦って、出世して、戦って、仲間が増えて、戦って、後輩が増えて、戦って、偉くなって、戦って、部

下が増えて、戦って、歳をとって、また戦って…。危ない目にも何度もあって、真っ当な人類ではなくなってしまって、しかし

結局あまり変わらなくて…。

 酒を飲んで、下らない話をして、面白いのかつまらないのか判らない難解な洋画を鑑賞して揃って首を捻って、いけすかない

官僚の悪口で盛り上がって、たまに羽目を外し過ぎてユェインに困った顔をされて…。

「まあ、何だ。何なら「阿東(ドンちゃん)」って呼んでも良いぜ?二人の時は、よ」

 などとのたまうあの男を、反発か意地か、それともそう呼んで喜んだ顔でもされたら癪だからか、ついぞ下の名前で呼ぶ事は

なかった。まあ、悪態だった「土饅頭」が愛称のようにもなっていたのだが。

 後悔先に立たずというべきか、もう二度と会う事も叶わなくなってから、ヂーは幾度も思った。

 一回くらい、ドンフォンかアドンとでも呼んでやれば良かったか、と。

 そして一回くらいは、趣味の写真も褒めてやれば良かったかもな、と。

(いくら天才の僕でも見破れる事と見破れない事があるんだぞ?他の余計な事は良いから、そういう事は言えよバカ。目があま

り見えなくなっていたなんて、大事なことは…)

 仙術兵器になる前から、人の身でその領分を越える方術…しかも仙術に近付いた高度な術と力を扱い続けた代償だったらしく、

ドンフォンは次第に視力をはじめとする様々な物を損ねていた。上手く誤魔化せているつもりになって、しかしピンボケしてい

る事に撮った本人だけは気付けていなかった写真類を、ヂーは今でも、全て大切に保管している。

(もしも生まれ変われるなら、今度は妖怪にしておけよ?短過ぎるんだよ。ひとの生は…)

 あんな時間がもう五、六十年くらい続いても良かったと少し思っていたのに、あの黒熊は、結局最後はひとりでサンミャオと

やり合って、なんにも言い残さず逝ってしまった。ユェインや近しい部下達には遺言を残していたのに、自分には一言も無かっ

たのが今でも腹立たしい。

 だが、黒熊は最期まで約束を破らなかった。

 だから、借りがあるあの男への義理は通す。

 ただ、期限を決めていなかったのは失敗だと、ヂーは度々反省する。少なくとも、彼が一番信頼していた部下のユェインがひ

とを護る限りは、それから、そのまた部下であるチョウがひとを見限らない以上は、そして、自分のお気に入りの仙造人間がひ

との為に槍を振るい続ける内は義理を通して、「まあ、何だ。気が変わらない内は人類の肩も少しは持ってやろうか」と、あの

男の口調を真似ながらうそぶいているが。

 下らないはずの人類にも、「捨てたものではない」と思える相手がそこそこ現れるので、一向に軍と縁を切れなくなっている。

そんな状況に、天才を自称するヂーは気付いていない。

 

 

 

 唸りを上げて蹴りが夜気を裂く。鞭のように鋭く、棍棒のように重いそれを、狸は腕でガードしながら諦めずに訴えた。

「大人しく従うから、今は時間が欲しいんだよ!」

 一貫して人探しのために猶予をくれと言うカナデを前に、虎の仮面で素顔を隠した若い男は、息もつかせずに素早い攻撃を繰

り返す。

 自分に対して敵意が無い事は判ったが、だからといってこの国にとって害ではない…つまるところ人民に有害な存在ではない

という保証は無い。

 離将という立場にも第八室長という肩書きにも、拘りもプライドも遣り甲斐も持っていないヂーだが、「約束」がある。

 政府が不利益を被るだけならいい。だが、例えばスパイ活動などで無辜の人民が脅かされる事に繋がるならばよくない。

 だから、クロの可能性がある者を見過ごすわけには行かない。それは、最期まで約束を違えずに逝った、借りがあるバカな悪

友への義理である。

(しぶといが、とにかく一発キツいのを食らわせて捕縛するか…。尋問でも拷問でも、その後ですれば…)

 その時だった。ズン…と、微かな振動を足裏に感じて、両者が脚を止めたのは。

(地鳴り?地震の前触れか?)

 周囲の地盤は脆いし、何よりユェイン達が大仕事の真っ最中である。ここで茶々が入ったらまずいと警戒したヂーだったが、

その割には地脈に動きが感じられない。どちらかと言えば大地の脈動ではなく、地表に加えられた衝撃が伝播してきたような震

動とも思える。

 しかし、動揺はカナデの方が大きかった。

 抉れたようになって底に水が溜まった崩落現場。あの光景が頭をよぎり、チーニュイとシャチの安否が気になる。

「地震が来るかもしれないよ!地盤が丈夫な所まで逃げた方がいいし、誰か居るなら呼び掛けるべきだよ!」

 それはそっちの都合だと、主張を無視する事にしたヂーだったが…、

「近くに高齢者も居たんだよ!」

 カナデが発したその言葉で、踏み出しかけていた足を止めた。

 老君。その単語が頭の端を掠めた。

 今この近くにはユェインと面識がある仙人が居るはず。この異邦人が言及したのはその仙人の事か?知り合いなのか?たまた

ま見かけただけか?それとも…。

 ヂーが止まったのを確認すると、カナデは必死になって訴えた。

「そのお爺ちゃんのお孫さんが、はぐれて行方不明なんだよ!お爺ちゃんも心配だし、孫娘さんも心配なんだよ!」

 ユェインとチョウは意図して情報を伏せていたし、先代の震将も話を全く出さなかった上に、いざという時は自分も知らない

方が都合が良いとこれを受け入れて追及していなかったため、ヂーにはその老君が孫を連れているという情報が無い。狸が言う

老人が当人か別人か判断できず、この場で問い質すべきかどうか、ヂーは油断なく間合いを保持したまま考え込む。

 今度は反応があった。説得が通じるかもしれない。諦めずにカナデは口を開く。

「捕まってもいいよ。何でも正直に話すよ。去れと言われたら去るし、説明しろと言われるなら説明もするよ。でもネ、今は危

ない事から一人でも遠ざけるのが大切だよ。だから、今だけは、ついてきて監視して貰って構わないから、やるべき事をやらせ

て欲しいんだよ」

 カナデの主張も要望も一貫している。油断させて隙を突く事など考えていない、真摯な懇願だった。

 無言で考えるヂー。本当にそうなのか、信じても害はないか、慎重に思案しつつ、値踏みするように油断無く、説得を続ける

カナデを見つめ…。

 そして、二度目の震動が来た。

「!まただよ!?」

 今度は大きかった。小石が地面から跳ね上がり、膝に衝撃が上がってくる程の、直下型地震に近い揺れ。最も強い揺れがのっ

けに到達し、ゴォン…と大地が軋んで唸り、周辺の崖からバラバラと落石する。

(地震ではないぞ!これはもしや…)

 ハッと、ヂーは天を見上げた。

 先程まで出ていた三日月が見えない。いつの間にか不自然な雨雲が頭上を覆っていた。

(気象に変化が生じる規模の仙術行使か!?それとも…)

「危ない!」

 鋭く声が張られたのはこの時だった。

 ヂーが見上げたその視界の右側で、崖の一部が剥離するように滑り落ち、砕けて跳ねた。

 土砂が降り注ぐ。しかしこの程度、浴びた所でどうという事は無い。ひとの姿に変じていても、ヂーの肉体はその強度をいさ

さかも損なわない。虎身でいる時同様に、至近距離から対戦車砲を打ち込まれても死にはしない。

 だが、そんな事をカナデが知るはずもない。

 狸の反応は早かった。

 土砂を確認する前に、位置的に虎仮面が居る場所は危険と経験則から確信し、二度目の強い揺れを感じた直後、声を上げた時

にはもう震動したままの地を蹴っていた。

 反撃も考えない。隠し持った刃物などで刺される事も考えない。自分の身を護る事すらも考えていない。ただ、助けるために

起こしたこの行動は…。

「…!?」

 ヂーの反応も想定も超えていた。駆け寄る狸に気付いた時にはもう遅く、虎仮面は平手で肩口を突き飛ばされ…。

「バカ!」

 思わず、口を突いて悪態が出た。

 ヂーが見たのは、間に合ってホッとしたような顔のカナデが、側頭部に西瓜大の岩塊を食らう光景。

 激しい音と共に土砂が注ぎ、もうもうと土煙が上がる。

 次第におさまって土煙が薄くなってゆくその中で、ヂーは呆然と立ち尽くしながら見下ろす。砂礫を浴びて石膏像のように白

くなり、俯せに倒れている狸を。

「バカか…?何でこんな真似をした…?」

 知り合いでもない、顔見知りでもない、むしろ敵対関係にあるのは明白なのに、我が身を顧みず自分を庇った。困惑するヂー

に、頭からの出血で白く被った砂礫を赤く染めながら、

「理由とか…、判らないし…、要らないよネ…」

 カナデは弱々しい声で応じる。

「助けたいって、思ったら…」

 それきり、狸の声は途切れる。

 頭蓋骨陥没による脳挫傷。致命傷だった。

「始末はついた。スパイ活動及び工作員の真偽は不明のまま、被疑者は事故死」

 そう呟くと、虎仮面は目を閉じて片手を上げ、ガシガシと頭を掻いた。

 避けなくてもよかった。あの程度の土砂崩れ、浴びた所で多少の傷で済んだ。だが、相手がそんな事を知るはずもない。この

異邦人は間抜けにも、救いが必要ない相手に手を差し伸べようとして、結果、助かるはずだった命を投げ出す格好になった。

「…「借り」だ…」

 ボソリと、虎仮面は呟いた。

 他意の無い献身に対して妖怪は義理を感じる。ましてそれが命を投げ出すほどの物になれば、それは大きな「借り」となる。

実際の損益や結果は関係なく、妖怪はその行為そのものに対して心を動かされ、その誇りにかけて恩を返す。恩に恩を返す事は、

妖怪にとって自身の存在表明に近い、決してないがしろにできない問題。特に「妖怪としての」ヂーは名だたる大妖怪の息子、

恩を返せないようでは沽券にも関わる。これは誰が見ていても居なくても同じ事。己の誇りと在り方の話である。

 そして「ひととしての」ヂーは、ひとの社会に入り込んで暮らし、その弱さも狡さも汚さも間近で観察してきたが故に、そう

いった無私の利他的行為…「美しい行動」に胸を打たれる。特に今回は相手が相手、殺してもいいかと考えながら接した調査対

象が、身を捨てて自分を助けようとしたのである。

「あー!もー!クソッ!借りができた!ああもうっ!バカだろ!?バカだな!?バカじゃないか!勝手に恩人になんかなられて

も困るんだよ!」

 頭を抱えて仰け反って声を上げる虎仮面を、少し離れた所の草の中に隠しておいたポーチから出てきた、半透明の小さな女…

先程引っ越しを約束して保護したファポォが窺う。

「はぁ~…。も~…。確か…、「まあ、何だ。要らねぇだろ、いちいち理由なんか。探してから動いてちゃ助けるのも間に合わ

なくなるし、よ」…だったか。アイツと似たような事まで言って…」

 悪友の言葉を一字一句違わずに、口調も真似ながらブツブツ呟いて、今まさに死んでゆく最中の異邦人の傍らで跪く。

 胸の前で向き合わせた掌の間に、ポッと鬼火が灯る。

 火のようで、しかし燃えてはいないそれは、そっと狸の側頭部…出血が続く傷口に近付けられると、端から次第に白い霧状に

変化して、傷口に吸い込まれるように尾を引きながら薄れて消え…。

「ま、辻褄を合わせるには、打撲ぐらいにはしておかなきゃな…」

 傷が塞がり被毛も元通り。しかし腫れが残った狸の側頭部を確認して、ヂーは頷く。

 妖怪は仙人と違い、太極炉心ではなく「妖核」を動力とする。これが発する妖気は、根本的には仙気と同じ。多少成分が違い、

妖怪の体を循環して維持するのに適した物ではあるが、これで仙術を行使する事もできる。妖術とも呼ばれるが、根源を辿れば

同じ術大系に属する分派とも言える。

 もっとも、仙人とはまた違う進歩と歴史、生活史を経て現在に至っている妖怪達は、継承しながら種に最適化させてゆく過程

で、従来の仙術には無い技術も編み出している。

 その一つがこの治癒術。とはいっても厳密には治癒専用の術ではなく、ヂー曰く「ナノテクレベルの作業術」。仙術による治

療は、太極炉心を持たず、仙気への適合が上手くできない者に対しては数割しか効果を発揮しないが、これは理屈からしてそれ

らとは別物。

 ヂーが使用したのは、妖気で構築された原子サイズの「作業体」を対象の内部に送りこみ、作業を行わせるという物…、つま

り驚くほどミクロでありながらどこまでも物理的という、仙人もビックリのトンデモ妖術。いわばナノマシンに細胞単位で外科

手術を行なわせるような物で、治癒仙術とは違い仙気への適応力を問わないだけでなく、生物どころか、構成物質にもよるが「

物体」まで修復できる。

 血管も骨も肉も皮も、内部の出血に至るまで、妖気のナノマシンは修繕と調整を行なった後、分解して被術者の気脈に溶け込

み滋養となる。

 なお、この妖気ナノマシンは、拡大してみると丸くデフォルメされた虎の顔に二本の手…作業肢が生えた大変コミカルな見た

目をしているのだが、なんでそうなっているのかはヂーにもよく判らないし、この術の考案者である母にも判っていない。

 ちなみに、この妖術が人類に使われた場合は必ず副作用が出る。

 チョウ曰く「無視できない重篤」な副作用、ヂー曰く「誤差だろ?誤差だよ。大袈裟だろう」な副作用が…。

「そろそろ動かしても良いか」

 やがて、ヂーは狸の上に積もった埃や土を、美術品を傷つけないよう慎重に扱うような丁寧な手つきで払い始めた。その手の

周囲には風が巻き、掃除用スプレーを吹きかけるように土埃が除去されてゆく。

「よっと…。結構重いな…」

 そしてヂーはカナデの体を、腕を取ってゆっくりと丁寧に、しかし細身の体で苦も無く引き起こす。ひとの姿でもその頑強さ

も膂力も人間離れしているので軽々とした動作だった。ぐったりしている狸を背負い、軽く揺すって体勢を調節して、あまり揺

さぶらないように歩き出したヂーは…。

「さっきの震動…「二回目のはまずい」。どうやら連隊長も我が弟子も上手くやりおおせた様子だが…、これは待ったなしだ。

念のために離れておいた方が良いな。恩人を放置もできないし…。とりあえず「無関係な民間人の保護と解放」という事にする

なら、第八連隊が面倒を見た方が都合が良いだろう。八室のお墨付きって事も添えれば問題ない。第八連隊の仮設ベースに運ん

で休ませるか。…さて待たせたね、こっちの用事は済んだ。行こうか」

 ポーチの傍に歩み寄り、自分よりもかなり大きい狸を背負ったまま拾い上げると、ヂーは小鳥のさえずりのような声を発した

ファポォを「ん?」と見遣る。

「鎮静沈痛作用がある息か…。うんまぁ、虎になって走ってる途中で目覚められても困るし、麻酔代わりにやってくれるかい?

悪いね」

 カナデをおぶったまま、ヂーは懐かしく感じた。

 体に触れる、贅肉過多な腹部や胸の柔らかな感触。これも、悪友の事を少し思い出させ…。

 

 

 

「なあ、土饅頭」

 広い寝台の上で、柔らかな敷布団に両前足を揃えて寝そべり、体の下半分を横に向けた青虎は、自分の脇腹に背中を預け、全

裸のまま仰向け気味のだらしない姿勢になっている黒熊に声をかけた。自分に対してこんな無礼で馴れ馴れしい真似など、普通

なら相手が幼子でもなければ許さないが、この黒熊には特別に許可する。

 黒熊が八卦将の一席…震将に抜擢された、その大々的な祝いの宴の後の事である。凡愚共と席を並べて飲む気にはならないの

で宴会は欠席する。が、祝いの酒は用意したから謹んで自分の部屋へ来るように。…と、勝手な事を言ったヂーの所に、黒熊は

酔っぱらいながらも律儀にやってきて、酒を酌み交わした。

 天蓋がついた広い寝台の脇には、古い亡国の宮廷で使われていた骨董品…どころか文化遺産級のテーブル。上に乗せられてい

た鶏腿の炙り焼きや高級老酒はすっかり片付いており、酒と肉と脂と、汗と雄の匂いが部屋に充満している。

 テレビ画面は、所々暴力的でありながら哲学的で風刺が効いた、移民と当局の取締官を描いたフランス映画を流している。酒

を飲みながら鑑賞するには頭を使い過ぎる内容だったので、もうふたりともまともに見てはいないが、薄暗くて騒々しくない映

画はこんな時のBGMとしては悪くなかった。

「あ~、何だ…?」

 もう夜明けが近い。応じる黒熊は疲労している上に酒も回って眠くなり、気怠そうな寝ぼけ眼。

「お前が初めて僕に会いに来た時、どうして抱き込もうと考えたんだ?」

「そんな事か。今更、よ…」

「有能な天才の僕を欲しがるのは当然だと思っていたから訊いた事は無かった。まぁ、酔った気まぐれに理由でも訊いてやろう

かと思ったわけだ」

 そんな青虎の問いに、黒熊は生あくびを噛み殺しながら応じた。

 自尊心が高く自分勝手で尊大。だがそれ故に、その誇りを損なうような不義はしない。良いも悪いも自分で決め、決定に責任

を持ち、自らの誇りのために主義を貫く。何より、敵対者には辛辣で容赦がない一方、保護すると決めた者には配慮を欠かさず、

決して見捨てない。

 それは領主の気質。保護が必要な弱い妖怪や人々を、その下に送っても安心できる、良い領主の気質…。

 などと詳細に把握したのは付き合い始めてからの事だったが、梁山泊に赴く前に耳にした噂や、纏められていた情報から、黒

熊はヂーの性質をある程度見抜いていた。被害者目線の情報ばかりだったが、その中には一つも、自分から周囲に打って出たと

思えるケースが無かったから。

 自分に庇護を求めた者達に降りかかる火の粉を払っているだけ。侵略には断固とした態度で臨む一方、無駄に奪う事も無為に

殺す事もない。

 だから思った。話が通じない怪物でも、話が判らない小人物でもない。保護すべき者のためになると判れば、こちらの交渉に

応じてくれるだけの、大きな器の男なはずだと…。

「…まあ、何だ。そんなところ…」

 ムニャムニャと口を動かして、くあ…と大あくびすると、黒熊はそのまま寝てしまった。

「おい」

 青虎が尻尾を上げて、黒熊の弛んだ胸をポンポンと叩く。

「おい。もっと褒めて良いんだぞ?褒めろ。許す」

 頬を尻尾の先端でグリグリ押すが、起きる気配は無い。

 諦めたヂーはひとり、画面を眺める。移民の主人公と、上から睨まれる事になった取締官は、少しだけ、自分達と似ているよ

うな気がした。

 ひとがその物差しで評価したところで、スケールが違う自分にとっては大して意味はない。

 …そう考えはしても、悪い気はしなかった。

 

 

 

 その、少し前…。

 逃げ去ったタオティエが残した抜け殻が、ポロポロと崩れ去って消える。

「しかし…。去り様も「ああ」ですか…」

 疲れ果てたように呟いたチョウの横で、ユェインの体からボッと鬼火が上がった。

 ロングコートのように纏っていた仙衣の結合が解けて、燃え落ちるように上から裾へと消えてゆく。

 極致の維持限界。切り傷に跨れた左目で太極図が回転を停止し、たちまち体中の筋肉と関節が悲鳴を上げ、激痛が全身を絞り

上げるが、ユェインは軽く顔を顰めるだけ。

「情報が少ない割に、性格だけは有名だった理由がよく判った」

 そう応じたユェインが「莫耶、来たれ」と呼び掛けて、投擲した婦剣を手元に戻したその瞬間、チョウは力尽きて両膝から崩

れ落ちた。首周りから鬼火が生じ、穴だらけになっていた仙衣が上から下へと燃え落ちて消えると、そのまま俯せにドウッと倒

れ込む。

「よくも、まあ…、命が…あった、物です…!」

 ゼヒュウ、ゼヒュウ、と乱れた息の隙間から零したチョウは、もう指一本動かせない。

 個人差はあるが、極致には必ず何らかの反動がある。チョウはユェインなどよりも少し長く持続させられ、力が尽きて強制中

断になる事もまず無いものの、反動は人一倍深刻。解除後は立っている事もできないどころか、身動きもままならなくなってし

まう。

 全身の感覚が希薄になり、麻痺したように動けなくなるこの無防備な状態が2~3時間は続くため、使って仕留めきれなけれ

ば反撃で確実に殺される。さらに、極致が再使用できる状態まで体が回復するのに丸一日はかかってしまうため、おいそれとは

使えない。

 一方、チョウに歩み寄るユェインは足取りもしっかりしているが、これはただの痩せ我慢。極致の反動で、指一本動かすだけ

で全身を激痛が駆け巡る有様。戦闘行動も当然不可能である。しかも極致は勿論、仙術のみならず気功術までもが、だいたい六

時間前後は完全に使用不能となる。これは反動で気の経絡が閉じてしまうせい。

 これらの反動は、仙丹の服用などである程度の軽減や回復はできるものの、発生自体は不可避である。

 だがユェインはそれでも、「指揮官は、部下の前では威風堂々泰然と」、…そんなかつての上官の言葉を、倒れ込んだら気を

失いそうな疲労の中でも愚直に守り、背筋を伸ばす。

 片膝立てて跪き、動けなくなったチョウを仰向けにして、正座するように曲げて地につけた左脚に背中を乗せる格好で起こし

てやったユェインは、首の後ろに左腕を回して支えながら、副官の顔を覗き込んだ。

「ご苦労。当初の想定から状況が大きく外れながらも、何とか予定通りに漕ぎ付けられたのは、他でもない君の手柄だ」

 ユェインと合流するまで、チョウが単独で場を維持できるか否か…、それが変化した状況での最大の懸念点だった。

 伝え聞くタオティエの性格を考えれば、本当に面倒くさいと感じたら去ってしまう。そして、面倒だから一気にかたをつけよ

うと思われても、ひとりで凌ぎ切るのは難しい。だからチョウは一計を案じた。

 すぐに終わる、取るに足りない相手、本腰を入れれば容易い…。そう思わせるギリギリの立ち回りで粘る時間稼ぎ。これを成

立させるために、猪は自らを「手ごろな生餌」に見せかけてタオティエを引き付けた。危険性を把握しながらも、誅仙陣に備え

て宝貝の機能も凍結し、神行法以外の仙術は使えないかのように立ち回って。

 だがまだ足りない。それだけでは完成しない。ユェインが到着するまで場を持たせられたとしても、二人掛かりで予定の刻限

まで足止めしなければ作戦は成功しない。千尋の谷で綱渡りするような一仕事の後にこそ、チョウの本番があった。ユェインも

同じだが、昨夜から一睡もせず、三十時間以上ろくな休息も取っていない、疲労が蓄積した状態で…。

「君の機転と勇敢な力戦、心から誇りに思う」

 少し抱き寄せるようにしながら、ユェインはチョウの丸く張りがある腹に触れる。右側に丸く、被毛が無く桃色の肌が露出し

た箇所は、タオティエの触手に貫かれた傷。治癒の仙術で毒素も中和し、塞いであるが、大仙術誅仙陣に備えて修復に割く仙気

を抑えたため、肩も太腿も同じく生々しい傷跡が残っていた。

「また、無理をさせてしまったな。…痛むか?」

 桃色の傷跡をユェインが指先で労わるように撫でるも、チョウは「いいえ」と、やや気恥ずかしそうに応じる。

「不幸中の幸いと言いますか、鈍痛程度はもう感じない有様ですので…」

 本当は、傷跡に触れているユェインの指の感触を、ぼんやりとだがこそばゆく感じていた。

「合流後、ホウ先生に診察して貰おう」

「ああ…!確実に渋い顔をされてしまいますよ…。また心労をかけてしまいます…」

「とにかく、よくやってくれた。君と轡を並べる私は、果報者だ」

 猪の左胸…回転が停止している太極図にそっと手を置き、労わるように撫でるジャイアントパンダ。首も動かせないチョウは、

胸に伝わるこそばゆい熱と、面と向かって告げられる率直な誉め言葉に顔をカーッと赤らめ、高鳴る心音に気付けれはしないか

と心配になった。そして、目だけ横に逃がしながら、照れ隠しに話を変える。

「タオティエには、対四罪四凶に想定していた戦法がある程度通用しましたが、あれだけやったにも関わらず何事も無かったよ

うに去られては、流石に徒労感がありますな…」

 総決算とも言えた。四罪四凶を想定して何年も練磨してきた二人掛かりの連携も投入し、何もかも出し尽くした。今回は戦陣

を構えて迎え撃つという理想的な展開にこそできなかったが、追撃からの足止めとしては満点と言ってよい出来。

 それでも、タオティエを誅する事はできず、逃げられた。おそらくその命…天数の一部しか削れなかった。

 四罪四凶という存在の強大さを、改めて認識したチョウは…、

「だがタオティエも、一つ学んだ事だろう」

 ユェインの呟きで視線を戻す。

「学んだ、とは?上校…」

「勿論、未経験だった物をだとも。あれは本人がどう思っていようと、軍隊の基準に照らせば「敗走」だ」

 眉を上げたチョウは、吹き出しそうになるのを堪えて肩を震わせる。言われて気が付いた。今日という日は、人類が初めて四

罪四凶を敗走させた日になったのだと…。

 これはただの一勝。それも相手を仕留め切れなかった辛勝。しかし大きな意味を持つ勝利でもある。人類は四罪四凶を退け得

ると証明できた。そして、自分達の刃は四罪四凶に届き得ると確信できた。

「授業料は、高くつきましたな」

「ああ。高くついたとも。しかも…」

 ユェインの隻眼が細められる。鋭利に。そして冷厳に。

「次に活かす機会もない」

 タオティエは逃げたが、部下達はもう行動を起こしている。自分が頼みとする副官が目算を違える事など、ユェインは全く考

えていない。

「我らの役割は果たした。あとは…」

 視線を上げたユェインは、「む」と眉根を寄せる。

 仰向けに近い格好で抱えられていたチョウは、上官の視線が天に向いている事に気付くと、三日月が無くなっている夜空を怪

訝な表情で見つめた。

「いつからだ?月が蔭ったな…」

「そんな予兆はありませんでしたが…。ここまで来ればもう作戦に支障はありませんが、見誤りましたか。それとも…」

 チョウの予測には存在しなかった色濃い雨雲。それが周辺上空にいつの間にか、湧き出たように出現して広がりつつある。

「老君の仙術…か?」

 ユェインが隻眼を細める。局地的な天気の予測をチョウが外す事は滅多にない。前触れもなく天候にそれだけの変化を起こす

となれば、原因はただならない物としか思えないが…。

 

「いやいや、本当にただの軍事訓練なので…」

 山を越えた先にある村では、軍の部隊が深夜に突然訪れた事で、全員が目を覚まして大騒ぎになっていた。

 村長の老人は、もしやこの村に罪人が潜んでいて、それを検めに軍が派遣されてきたのではないかと、詰め寄るような勢いで

尋ねたが…。

「そんな事はありませんよ村長。夜間行軍演習だったんですが…、実は折悪く、昼飯にあたってしまって体調を崩した隊があり

ましてね。お恥ずかしい…」

 人間の上尉…ファン中隊長は、簡素なテントと湯を沸かしている焚火を見遣った。

「不甲斐ない事に、予定通りの行軍は叶わず、臨時の大休止です。村の軒先を借りる格好になってお騒がせしている件も含め、

後で連隊長から大目玉をくらいますよこれは…」

 情けない顔で肩を竦める中隊長に、ホッとした村長は同情の苦笑を見せた。

「そうでしたか。薬など要りようでしたら遠慮なく言ってください。病人が休むのに必要なら、寝台も準備できますので…」

 おや?とファンは眉を上げた。

 基本、軍人は疎ましく見られるか、警戒されて然り。弾圧に来たのかと怖がられるのは常の事。人生を賭して民を護っている

第八連隊も、その行動を秘しているので哀しい事に例外ではない。

 だが、村長もそうだが、様子を見に来た他の村人達も事情を聞くなり表情を緩め、力になれる事はあるか、必要な物は無いか、

と心配して声をかけてくれた。

「どうかしましたか?隊長さん」

「ああいえ、自分達はこう…、何処へ行ってもあまり歓迎されないもので…。軍はだいたいそうですが」

 ファンが苦笑しながら正直に言うと、村長は「ああ」と笑みを見せる。

「昔、この村は兵隊さん達に救われまして。突然の長雨と鉄砲水に襲われた時でした。いち早く予見したのでしょう、急にやっ

てきた軍の部隊が、とにかく避難しろと誘導をして…、ほんの一時間後ぐらいですよ、ここが濁流に襲われたのは。避難を促さ

れなかったら怪我人が大勢…いや、もしかしたら死人まで出たかもしれない…。そんな災害でした」

「それはまた優れた采配です。部隊名や責任者の名前など御存じですか?」

「いやそれが…」

 老人は首を捻り、極秘任務の途中につき詳細は明かせない、と言われた事を告げた。

「極秘の任務中だと言って、最後まで名乗られませんでしたが…。隊長さん達の事はよく覚えていますよ。チベタンマスティフ

とジャイアントパンダの、それはもう立派な体格の若い偉丈夫を連れた、恰幅が良い黒い熊の隊長さんでした」

「!」

 中隊長は顔に驚きは出さず、「そうですか。残念ながら知らない軍人達だな…」と首を縮めた。

 本当は、思い当たるどころか誰の事なのかすぐに判った。特徴ですぐに判ったユェインと、その同期の友人…。彼らを連れた

「隊長」と言えばひとりしか居ない。

 「炎龍方士」ことヨン・ドンフォン。仙人すらも灰塵に変える術の使い手と讃えられた、先代の震将。そして彼が率いていた、

第八連隊の前身とも言える特殊部隊「討仙特務大隊」。彼らがかつてこの村を訪れていたのだと、中隊長は確信した。

(本当に、何処ででも人助けしていたんだな…。連隊長も、先代の震将も…)

 そして今宵も、あの連隊長は人類の天敵とやり合っている。それを、護られる民達が知る事はない。安寧の為にも、知らせる

必要はない。

(連隊長、チョウ上尉、こっちは抜かりなく命令通りに事を進めている。無事に戻らなかったら恨みますよ?何せ…)

 ファンは焚火を見遣る。複数燃やしているそこの中で、火にくべられているのは、対仙人用特殊弾薬や爆薬、その他特殊装備

をほぐした中身や、方士が清めたもち米や菖蒲、黒妖犬の毛、桃の木剣、由来は定かではないが色褪せた虎をモチーフにした素

焼きの鈴の魔除けなど、生産や確保に恐ろしく手間がかかる貴重品類。

(これだけの事をした報告書を、下っ端将校が分担して書かされる羽目になるんですからね…)

 これこそがチョウがユェインに上げた案。邪仙に有害なそれらや邪気払いの効果がある品を焚く事で忌避剤にし、移動範囲を

制限するという、恐ろしくコストが高い策である。そもそもこれを行なう範囲の広さと、数の多さから、ちょっとやそっとの人

数では実行不可能。

 だが、これをやれるのがひとの強みで、彼ら軍隊の価値。

 仙人と相対し、これを単独で打ち破れる者など、第八連隊にもそう多くはない。しかしだからと言って、無力でもなければ対

抗手段が無い訳でもない。

 その最大の武器は「集団の統率力」。訓練された軍人が連隊規模で動けば、突き止めた仙人の進路から人々を残らず避難させ

る事も出来るし、包囲網も敷ける。一人一人は取るに足りない障害にしかなれなくとも、頭数は力になる。

 第八連隊が「連隊」である理由がこれ。大隊規模の戦力を失ってなお、広大な山岳地を短時間で包囲できる速度と数は、損失

を避けられない対仙人部隊としては理想の規模である。

(さて、景気よく燃やしたは良いが…。損失に見合う価値があると、期待したいな…)

 焚いて煙にしてしまえば効果は薄くなり、例え邪仙が直接煙を嗅がされたところで実害は無いに等しいのだが、発案したチョ

ウの狙いはダメージではない。

 邪仙の鋭い感覚は薄まったそれをも無意識レベルで捕える。ましてや、最終的にはチョウが念入りに、「それをなるべく痛い

思いをさせながら食らわせる」という仕上げまでこなした。傷は元通りになっても、体が痛みを憶えているタオティエは無意識

にその気配を避けるはずだった。

 山岳地帯を取り巻く明け方までの風向きと変化は斥候部隊の調査報告から把握済み。気流の癖は地図と地形図で読み解いた上

で、気象に詳しい隊員の意見も確認済み。天候、地形、季節を把握した上で、第八連隊の各部隊はチョウが発案した陣を指定時

刻までに敷き終えた。

 これはチョウの故郷で行なわれていた、村を上げての害獣駆除の手法を参考にした物。煙でいぶして獣の退路を絞り、追い立

てる側と待ち伏せする側に分かれての狩りが、作戦立案の土台になっている。

 煙でいぶすのは通達を受けた各隊。

 追い立てる側…勢子の役割はユェインとチョウ。

 この作戦は、本命である「四罪四凶を討つ場」へと、タオティエ自身には気付かれないよう誘導するのが目的だった。

「ん?」

 ファンは軽く眉根を寄せた。

 燃やす火と煙に注目していたせいで気付けなかったが、いつの間にか、空が曇り始めて月も星も隠れてきている。

(ここまで来れば、もし降って来ても何とかなるが…。万が一にも火が消えないように、大至急で覆いの準備をさせるか)

 

 その頃。重ねて敷かれたムシロの上で目を覚ました狐の娘は、手にした小石をじっと見つめていた。

 隣に寝かされているのはレッサーパンダ。ふたりとも治療が済んで、傷跡も残さず完全に元通りになっている。

 祖父が来た。そして行った。その事をチーニュイは知った。

 枕元に置かれていた何の変哲もない小石には、孫が手に取った時に発動するよう、術が仕掛けてあった。チーニュイにしか見

えない幻の文字が空中に浮かび、祖父のメッセージを伝えてくる。

―汝の 両親と 故郷の 仇は 討つ 迎えが 参るまで そこを 動かぬよう―

「お爺ちゃん…」

 老虎が触れていた石を、胸の前で握り締める。

 親の顔も声も知らないチーニュイにとって、ルーウーがたったひとりの家族だった。血が繋がっていなくとも、存在レベルで

種が違っていようと。

 だが、失った故郷を、居たはずの両親を、どうでもよいと思った事は一度も無い。

 チーニュイにとって、ルーウーは家族だった。だから、両親も親族も、きっと祖父と同じように自分を愛してくれて、自分も

愛したはずだとチーニュイは信じた。
言葉を交わした事は無くとも、どんな人物だったのか判らなくとも、ルーウーと同じだっ

たはずの家族を奪ったタオティエを、チーニュイは許せない。

 そして、こうも思っていた。仇討ちを果たせるなら、自分が死んでもいいかな、と。

 チーニュイには、呪詛に近いある強力なまじないがかかっている。神仙ですらその影響下から逃れられない、ルーウーが自身

を対象にしてかけたまじないが。

 それは、孫娘を害する者への排除を強制するまじない。

 チーニュイがタオティエに挑み、傷を負い、あるいは死ねば、その強力なまじないによって、ルーウーには排除行動に必要な

全ての段取りが整えられる。

 今やタオティエは、いかに体を新生させようとも、「チーニュイを害する存在」というターゲットマーカーを消す事はできな

い。どれだけ距離を取っても気配を誤魔化しても、「いつかルーウーがそこに到達する」という結果を完全に消す事はできない。

その追跡から永遠に逃げ続けるか、迎撃するしか選択肢はない。

 自分が死んでまじないの効果が出れば、祖父の悲願は一つ達される。そしてもう、「足手まといのひとの子」など、護りなが

ら旅をする必要も無くなる…。

 愛されている事を判っているからこそ、チーニュイは理解していた。自分という存在が、祖父の足かせになっている事も…。

人類を見限らなかったあの優しい神仙は、それを自覚していながら、自分を捨てて行けない事も…。

「チョウ…お兄…ちゃ…」

「!?」

 ハッと石から目を離したチーニュイは、傍らのホンスーを見遣った。

 うっすらと、途絶えかけた意識の中で、このひとが助けてくれた事を理解していた。自分は結局、一番良い方法だと思ってい

た行為に、護ろうとしたこの軍人まで巻き込んでしまい…。

「…チョ…え?「チョウお兄ちゃん」?」

 引っかかりを憶えて、チーニュイは反省の気持ちを一度脇に置く。

 耳を立てて聞いていると…。

「ごめん…さい…、チョウ…お兄ちゃん…。ちゃんと…跳べたよ…。ごめんなさい…、不甲斐、なくて…」

「………」

 狐の娘は考え込む。

 チョウという名。お兄ちゃん。軍人…。

 別々だったらそうでもないが、これらのキーワードを合わせると、チーニュイに思い浮かぶのは猪の軍人の事。

 軍服姿が厳めしく、ガッシリして体格が良くて、背筋が伸びてキビキビしていて、なのに自分にはとても優しくしてくれた、

手が大きくて暖かい「チョウお兄ちゃん」…。彼が作ってくれた、飴がけされたサツマイモと甘い月餅の味は、今でもよく憶え

ている。

(もしかして…。ホンスーって、チョウお兄ちゃんの知り合い…?)

 何だか不思議だとチーニュイは感じた。

 昨日の昼間から、いろんな人物に会ったり、いろんな事が起こったりして、様々な事が積み重なって、ドミノが倒れてゆくよ

うに全部綺麗に繋がって…、長年探した仇とも遭遇して…。

 ホンスーが助けに入らなければ自分は死んでいた。そもそもこの山岳地に入り込まなければタオティエと遭遇できなかった。

ここに来たのは兵隊に追われたから。ホンスーもまた、カナデに助けられなかったら自分達と一緒に来ていなかった。

 そして、チーニュイは知る由も無いが、シャチが一度逃がしていなければ、チーニュイは最初にタオティエに見つかった時点

で命が無かった。そのシャチもまた、カナデが居たからこそ一行と行動を共にしていたのであり…。

 

「グフフ…」

 その時、衣類もボロボロになった鯱は一頭、高く切り立った棘のような岩の天辺で、空を見上げていた。

 周辺からかき集められた水分は気化させられ、舞い上がって上空を覆う雨雲となった。

 ニタリと、獰猛な笑みを浮かべるシャチ。支配対象が液体に限られるとはいえ、その力を活かせば気象兵器の真似事も可能。

神頼みの雨乞いではなく、自力で雨を降らせられるのがこの男。

 そして水を支配する彼は、地中の水脈もまた支配対象にできる。つまり、地中を移動する異物があったとすれば、ある程度は

痕跡を追う事もできるし、「接近を察知する」事も可能。つまり、移動するタオティエは、シャチのセンサーに引っかかり…。

「グフフフフフフ!」

 やられっ放しは、性に合わない。

 攻撃のための水を無理矢理大量に集めて消耗してしまったので、できる事は特大攻撃一度きりだが…。

「目に物見せてやるぜェ!その後は…」

 ちらりと、シャチは視線を横に向ける。そこにはゆったりした漢服を纏う、片牙の剣牙虎が立っている。

 チーニュイとホンスーの治療を終えたルーウーは、チョウが伝えた位置…つまりタオティエが確実に移動するルートに現れて

いた。攻撃準備を進めていたシャチとはたまたま合流した格好だが、それは即ち、シャチの索敵が当たっていた証拠でもある。

「アンタに任せるぜェ、仙人」

 自分にできるのは一発やり返す所まで、後はルーウー次第…。そう目で告げる鯱の巨漢に、老いた剣牙虎は無言で深く頷いた。