漂泊の仙人と煙雲の少女(十七)

「そもそも誤っていたのだと、今は思っています」

 風が白波を立てる海を前に、崖上に立つその男は言った。

 引き締まった筋肉質な体を、ボリュームのある純白の毛が覆った狼の美丈夫である。白い漢服の上に、武人を思わせる古代中

華様式の装飾がなされた胸甲や腕甲などの軽甲冑を身に纏う一方で、武器の類は一切帯びていない。

「俺は、神仙になるべきではなかった」

 その肉声の呟きを、丸々とした老虎はすぐ隣で、座布団のように平たい岩に座って聞いている。

 波が高いのに若い兄弟が小舟を出し、漁をしている。

 狼は立ったまま、虎は座して、波の音を聞いていた。

―渾沌(フンドゥン)―

 ずっと沈黙していた剣牙虎が口を開く。

「そう呼ばれる資格も、名乗る資格もありません。俺はもう桃源の一員たる神仙ではなく、桃源郷を裏切った大罪人です」

 虎の声を遮って狼は言い、その両手を眼前に上げ、それぞれの手の甲に浮かぶ太極図を物憂げに見つめた。

 武術を極めんと邁進する若人は、八十年前、その資質を老虎によって見出された。

 武の道を極め、またそれを遍く天下へ広めるには、途方もない時間が必要になる。であれば、ひとの寿命を遥かに超えて在り

続ける神仙になるのは理に適っていた。

 才能があった。老虎の目に狂いはなかった。狼はたった二十年足らずの修行で太極炉心を受け入れる素地を作り、四十年目に

は二つ目の太極炉心を自力で完璧に複製し、多くの仙術を修め、後進を導く立場となった。

 だが、己がこの道を選んだのは誤りだったと、狼は悟った。

 道が誤りだったのではない。自分がそれを歩んだ事が過ちだったと。

「俺は、結局他人と殴り合う事にしか、自分の生を見いだせない異常者です」

 無限に近い時間を得た。好きなだけの研鑽を重ねられる寿命を得た。だがその一方で、もはや人類に狼と競える武道家も武人

も居ない。上位存在となった彼に、ひとの到達点を過ぎてしまった彼に、もう血沸き肉躍る武の競い合いはできない。

 相手がひとでなければ…、例えば神仙であれば戦力的には近いが、それは彼が求める物とは違う。仙術を用いた手段を選ばな

い潰し合いをしたい訳ではない。鍛えた肉体と技を競い合う真剣勝負こそが彼の生き甲斐であり、最上のそれを誰かと行なう事

を夢見ての研鑽と練磨だった。

「師匠。俺を誅しに参られたのでしょう?」

―………―

「元始天尊様が俺達を放置なさるはずがな…っ!?」

 言葉を切るや否や、狼は一瞬で衣類と鎧を脱ぎ捨てて褌一丁になり、崖から跳んでいる。

 その隣で、同じく抜け殻のように漢服を脱ぎ捨てて、老虎も下着一丁で海に跳んでいる。

 眼下の海では横波を貰った小舟が転覆して腹を見せ、若者達が波間に投げ出されている。

 大慌てで海に、やたら綺麗な飛び込みフォームで飛び込んだふたりは、それぞれ漁師を救助し、浜に引き上げ…。

「…何処まで話しましたか」

 再び崖の上。元の位置で元の格好で話を再開する狼。

―元始天尊が 汝らを 放っては おかぬはず と―

 やはり元の位置に座り、衣を纏って応じる老虎。

「扶桑樹を奪い、あのような形で使用した俺達を、放置なさるはずが…」

―解せぬは そこだ フンドゥン 扶桑樹を 他の七名が 欲したは 太極炉を 得たいが ため也 しかし 汝は…―

 狼は既に正規の太極炉心を得ている。他の造反者のように太極炉を得るために秘宝を欲した訳ではない。

「俺は…、あるいは扶桑樹でなら、「神仙からひとに戻る」事もできるのではないかと…。結局それは…」

 得られた不老長寿を手放す事に未練はない。だが結局は扶桑樹をもってしても叶わなかったと、狼は自嘲で頬を歪める。そし

て胸鎧の首元に手を入れて、何かを取り出そうとし…。

「また!」

―また!―

 声を揃えて子弟はまた崖から跳ぶ。懲りない漁師兄弟が再び船を出し、また転覆していた。

「………何処まで話しましたか」

 またも崖の上で話を再開する狼。

―扶桑樹の くだり也―

「そうでした。とにかく俺は使えなかったので、これは師匠に…」

 鎧の裏に収納していた物を取り出すと、狼は師にそれを手渡した。

 それは、折り取られた木の枝に見える。握れば掌に収まる小さく短い物だが、樹皮にも特徴はなく、葉もついていないため、

どんな植物なのか全体像が見えてこない。

―汝を 誅すか 否かだが……… また!!!―

「また!!!」

 三度宙に跳ぶ半裸の子弟。懲りないを通り越して、もはや危機意識の欠如が疑われる漁師兄弟が、またしても船を豪快に転覆

させていた。

―………どこまで 話したか―

「俺を誅すかどうかの話まで」

―左様で あったな―

 いちいち崖上に戻るのも面倒くさくなってきたのだが、また登ったふたりが言葉を交わす。どうやら漁師兄弟は助けてくれた

二人にお礼をするために無茶を重ねていたようで、両者の間に敷かれたムシロには、貰った小魚が四匹。

―汝は 桃源郷に 戻るべきで あろう―

 老虎は再確認していた。この弟子は本人が自分自身をどう思おうと、助けが要る者を見過ごせない、好ましい性質を有してい

るのだと。

「戻る訳にはいきません。俺がおめおめ戻っては、弟子可愛さに慈悲をかけたと師匠が陰口を叩かれます。師匠が俺を誅せない

ならば、俺は…、海を渡ります。二度とこの地に戻る事はありません。さすれば、徐福(シュフー)様にかけられた禁の一つは

外れましょう」

 自分が過ちを犯したせいで、師の友人は責任を問われて放逐された。師が自分を殺せぬならば、せめて二度と戻らない事で、

彼の帰還を禁じる条件の一つを解こう…。

 老虎は沈黙した。強く風が吹く。海から陸へ、彼方の島国からこの大陸へ。

―蓬莱へ 参るか―

「いいえ」

 島国へ渡るのかと訊ねた師へ、弟子は首を振る。

「シュフー様に合わせる顔などありません。我らのせいで追われたというのに、どの面下げてお会いできましょうか。お優しい

ひとですから、詫びに行った所で俺を責めはしないでしょう。困らせるだけです」

―そうか… フンドゥン―

「いいえ」

 狼は首をまた横に振る。

「俺にフンドゥンと呼ばれる資格はありません。頂いた名で呼ばれるべき男ではありません」

―………では 白狼(パイラン)―

 老虎は諦めたように、弟子がひとであった頃の名を口にした。

―この 扶桑樹は 身共が 預かろう―

「有り難うございます。師匠…いえ、「ルーウー様」」

 狼は背筋を伸ばし、深く首を垂れて別れを告げる。

「幾久しく、お健やかに…」

 さっと軽やかに、潮風が吹いた。胡坐をかくルーウーの脚の上を、哀しげに鳴きながら通り過ぎて。

 一握り程の、何の木の物かも定かではない小枝だけが、そこに残っていた。

 岩に座る孤影は、しばし海原を眺めていた。

 それは、ある師弟の今生の別れ。二千年以上も昔の、誰も知らない話である。

 

 

 

 湿った風が鼻につく。

 いつの間にか空には雲が出て、月と星は隠れていた。

 地面から生えるように現れた牛は、崖と岩が作る道のような隙間を、流れるように進んでゆく。

 急いでいるという程でもないが、何か面白くない事があったような速度で、地面を滑ってゆく。

 もう会う事も無い。もう考えなくていい。もう気にしなくてもいい。そう割り切りながらゆく。

 しかしその進路は時折曲がり、修正される。本人は道を選んでいるつもりもないのだが、山岳地帯近辺の村や民家に近付く方

向へは、その舵が切られる事は無い。

 無意識に、タオティエは避けていた。焚かれた対邪仙用品の希薄な気配を。ただでさえ好きな気配ではないそれは、チョウが

思い切り痛い記憶を焼き付けるようにお見舞いした事もあって、認識していなくとも体が避けている。

 もうじき山岳地を抜けて平野に至る。見晴らしが良くなったら、高速移動で遠くまで…。などと考えているタオティエが、岸

壁の隙間をジグザグに滑っていたその時。

「グフフフフ…!」

 それを遠くから眺めてほくそ笑む者が、一体在った。

 焚火に水をかけて消した後、どろりと流れる灰のような黒雲を頭上に、シャチ・ウェイブスナチャーは攻撃準備を終えている。

 水に乏しい乾いた山岳地。地形によって湿気は溜まり、細い水脈はいくつかあるものの、膨大な水が纏まって存在していない

完全なアウェー。だがその程度で戦力を失うようなら、エインフェリア評価基準で最上位のトリプルS評価など受けていない。

 頭上に湧いた、第八連隊の面々の予想にも無かった黒雲はシャチの能力による物。この山岳地に点在する数少ない水源、湧水、

霧などの湿気をかき集めて気化させた。

 シャチの能力は「水の支配」。誰の支配権も及んでいない水、あるいは液体を自由に操作する能力。それをジェット水流にし

て撃ち出す事も、圧縮硬化させて「氷」にする事も、ウォーターメスのように物体を切断する事もできれば、ライフラインを断

つどころか、それを逆手に取って都市一つを殺す事も可能なシャチにとって、単に「移動させる」事など造作もない。もっとも、

この短時間で必要量を集めるだけで一苦労だったが。

「さァて、だいぶ疲れたから一回きりだがァ…。コイツばかりは全力でお見舞いするぜェ?」

 ニタリと不敵に口の端を上げたシャチは、切り札である超越駆動モードを起動する。

「オーバードライブ…。フロム…オケアノス!」

 咆哮と共に全身の筋肉がメキッと軋んで膨張する。筋肉の印影がくっきりと見え、より逞しくより重々しい印象に変化したか

と思えば、ツートーンカラーの体の黒ずんだ部位に、傷跡が青白く無数に現れた。

 顔の右半分には白い部位と右眼を跨ぐ形で四本筋の掻き傷が浮き上がり、マズルを跨いで水平に走る大きな刀傷が出現。さな

がら虎のように古傷の縞を身に纏ったシャチは、その全力をもってタオティエへの攻撃に入る。

 とはいえ、白兵戦をするつもりはない。伝え聞く話によれば、仙人は結果の上書きという厄介な現象を起こす。攻撃を見られ

ても予期されても、結果が推測できる物では対処される可能性が高い。

 よって、遠距離…認識外から一方的に叩く。

 兵器としての経験に裏打ちされた勘による物だが、これは仙人と事を構える上では正解の一つ。結果の上書きも仙術である以

上、準備、発動、終了の段階がある。つまり最前に予測を立てられない、認識外からの干渉については準備ができないため、結

果の上書きは一手遅れる。

「そうだなァ…、名前でもつけるかァ」

 この攻撃手段について特に名称も設定していなかったシャチだが、ふと思った。

 仙術は声紋により儀式の一部を担わせ、精度や効果を高める。東洋の島国でも言挙げと呼び、宣言や発声によって思念波の充

実を図る。名を付ける事でイメージが強固となり、扱い易くなるという点についてはシャチにも経験がある。素体となった男が

名付けた氷の盾…アイギスは、特別そういった物と認識しているせいか、他の応用よりもよく馴染む。

 ならば養女に名前をつけたように、これにも何か呼び方を用意するべきか、と考えて…。

「…よし、決めたぜェ」

 上空の雲に隠れて水分が圧縮され、落下しながら巨大に成長する。降下しながら形成されてゆくのは直径2メートルほど、長

さ5メートルほどの、先端が尖った氷の杭。その数、数百本。それが一斉に雨雲を突き破り、移動中のタオティエ…というより

も周辺一帯を標的にし、高空から質量爆撃を敢行する。

「こいつの名前は、ヘビー「レイン」だァ!」

 それは養女に捨てさせた名。今はもう使われなくなった名。

―ん?―

 ふとタオティエが立ち止まったのは、雲を突き破った氷が放つ反射を、頭頂部の目で捉えたからだった。

―………はあ!?―

 気付いた時にはもう遅かった。視界を埋め尽くす無数の氷柱が頭上に迫って…。

―!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!―

 やられっ放しは性に合わないので数十倍返し。激しい轟音と共に、タオティエの姿が氷柱群に圧し潰されて消える。

 大質量の絨毯爆撃が地表を一気に叩き、衝撃が四方へ走り、広範囲に地鳴りを響き渡らせ、山岳地の一角が地形を変え、堆積

した瓦礫と穴だらけの平地になってゆく。

 地形すら変化させる程の爆撃は、七秒ほども続き…。

「グフ…!」

 もうもうと土煙が上がる一帯を眺めながら、全身の古傷が消えたシャチは脱力し、その場で片膝をついた。

 水分を集める事前準備で疲弊したのもあるが、高空に舞い上がらせた水蒸気で大量の「氷Ⅴ」を形成する事前操作も、おそろ

しく消耗する難行である。加えて、ルーウーに手当てして貰ったとはいえ、タオティエの攻撃によるダメージはまだ残っており、

精神面はともかく肉体が本調子ではない。消耗が大き過ぎたので、たった10秒でオーバードライブ状態の維持が限界を迎え、

強制解除に至っている。

 シャチのオーバードライブ、フロムオケアノスは、ユェインと同じタイプの反動…長時間の能力使用不能と全機能低下という

大きなデメリットを伴う。一度解除に至ったら以降は交戦も不可能。これ以上タオティエに攻撃を仕掛ける事はできないが…。

「グフフフフ!後は任せたぜェ?仙人様よォ」

 

―仙術… では ないなあ 何だ 今のは…―

 認識外からの不意打ちにより、咄嗟の防御も回避もできず、氷に圧し潰されたタオティエは、グチャグチャに潰れて平たくな

り、あるいは飛び散った肉体を引き寄せて、元の形状に修復しながら唸った。

 原型を殆ど留めていない、無残な死体にしか見えない状態になりながらも、タオティエに深刻なダメージはない。修復でまた

少し削がれてしまったが、命のストックは十分にある。

―あの連中の 仲間かあ? しつこいなあ まだ追いかけて 来てい…―

 ようやく脚が繋がり、立ち上がろうとしたタオティエは、跪く格好で止まっていた。

 見上げるその目…本来の位置に出現した二つの赤い目が、眼前の人影を凝視している。

 圧縮されて投下され、砕け散った氷が水晶のように周辺に突き立ち、ドライアイスのようにシュウシュウと気化してゆくその

中で、タオティエはついに再会した。二千年余りの時をおいて。

―まさか―

 いつ、そこに立たれたのかも判らなかった。あまりにも無駄のない、余波のない、兆しのない縮地だったので、接近された事

にすら気付けなかった。

―まさか…!?―

 タオティエの「声」が上ずって震えた。影になって見えない片牙の老剣牙虎の顔を、映す赤い目には動揺と焦りが色濃く滲ん

でいる。

―そんなまさかああああああああああああああああああああああっ!―

 氷塊に貫かれた雲が一部切れ目を作り、三日月の仄かな光がふたりを照らす。

 身に着けているのは漢服様式のゆったりした着物。簡素な意匠の白地の着物で、襟はワスレナグサを思わせる淡い青。それは、

桃源郷の仙衣。

―「太上老君」っ!?何でここにいいいいいいいいいっ!?―

 桃源郷を出奔した、漂泊の仙人「金陸吾(ジン・ルーウー)」。

 その本来の名は「太上老君(たいじょうろうくん)」。

 桃源郷の最高位に当たる三仙の一柱。その名と存在自体への祈願や宣誓が、現象を左右するほどの「被信仰規模存在」。具体

的には、その名を、似姿を、文字に記し絵に描き祝詞に込めれば、それが効果をもたらすだけの存在力を持つ「一つの神話」。

 ユェインやチョウが「老君」と呼び、平時はその真名を決して口にしないのは、彼由来の太極炉心を持つ自分達がうかつに名

を呼べば、何らかの現象をいたずらに起こしてしまう可能性があるため。そして、大仙術の際に名を挙げるのは、株分けされた

太極炉心に強大な出力増強補正がかかるため。

 神話「級」存在ではない。彼個人が一つの「神話そのもの」と言える。

―まさか タオウーが居なくなったのはああああああああ あなたに誅されてえええええええええええ!?―

 動揺して取り乱すタオティエに、その「声」は届く。

―久しいな タオティエ 我が 古き友の 弟子―

 旧交を温めるようなものではなく、どこまでも冷厳に響きながら。

―………?―

 だが、牛はふとある事に気付き、冷静さを取り戻した。

 疑問。そして違和感。目の前にいる剣牙虎は、間違いなく自分が知る存在…かつての師、桃源郷からもこの大陸からも追放さ

れた神仙の友人だった男。だが、落ち着いて探ると印象がだいぶ違う。具体的には…。

―………あは―

 立ち上がった牛の口元が笑みの形に緩む。

―あは… あはははははあ…!―

 相対するルーウーは何を思うのか、無表情で、何の感情も浮かべない目を、古い友のかつての弟子に向けていた。

―もはや 汝の 犯しし罪を 数えるべくも 並べるべくも なし―

 その静かな「声」に、タオティエの笑いが被る。その哄笑は止まらなくなっていた。

―あはははははははは! お久しぶり お久しぶり お久しぶりです 太上老君んんんんんん! お元気そうで お変わりなく

 あは! 仙人なんだから 変わりなくて 当たり前かああああ―

 牛は笑いながら、長毛に覆われた顔面にポコポコと蜜柑大の眼球を浮き上がらせた。その無数の眼球がルーウーの体を隅々ま

で観察する。

―いやあ お変わりなく …でも ないんだなあああ―

 近付かれるまで感じなかった。かつては遠くからでも感じ取れた、膨大な仙気を。

 そして今は感じる。近付いてやっと把握できる程度の、少量の仙気を。

―…衰えた…―

 ぼそりと呟いたタオティエの口が、左右に広がり、顎骨の付け根まで裂ける。

―あははははははあ! 衰えた! 衰えた! 衰えたなあ 太上老君! 仙気があああああああああああああっ!―

 唐突に、タオティエの右腕が伸びてルーウーの喉を掴む。関節が無いように柔軟にうねるその腕が、大柄で丸々とした老虎の

体躯を軽々と持ち上げ、ブンッと、しなりながら地面へ叩きつけた。

―枯渇しているううううううううううううう! あはあああああああああああああっ!―

 瓦礫に埋没したルーウーを再び宙へ吊り上げ、今度は触手を伸ばしつつしならせて投げる。まるで小石のように軽々と飛ばさ

れた老虎は、地面に突き刺さっていた氷塊の一つに激突し、砕き散らしながらきりもみ状態で跳ね飛んだ。が…。

「…ウス式……術…、第百八…、リ……層解…。コル……束…、第九十…」

 ルーウーは何事か呟いている。神仙の声ではなく、肉声で。

 タオティエが跳躍する。その全身からザキュッと鋭い棘が伸び、空中にあるルーウーを捕え、そのまま地面へ叩きつける。

「…リウス式拘…、第八十…。コルネ……」

 そう。叩き付けていた。刺し貫けずに。

 刺さらなかった棘はルーウーを、単に押し遣るようにして地面へ落としただけ。しかも…。

「…ルネリウ……、第七十九層より…」

 ルーウーは呟き続けながら、何事も無かったように立ち上がる。

 おかしいと、タオティエが気付いたのはこの段階だった。仙気はか細い。脆弱と言えるほど。なのに、貫けない。壊せない。

殺せない。

 タオティエが縮地で移動する。背後を取り、ルーウーの後頭部に強烈な蹴りを叩き込む。単なる打撃ではなく、内部に呪詛が

浸透し、爆砕せしめる物だったが、前に吹き飛び、顔面から地面に叩きつけられ、激しくバウンドし、地面へうつ伏せに落下し

てなお…。

「…リウ…式…、六十九層…」

 両手をついて身を起こすルーウーは、ブツブツと低く呟き続ける。呪詛は発動しなかったのか、効果を表さない。

―んんっ? 何だあ…?―

 牛が両腕をギュンッと長く伸ばし、大きな手をさらに巨大化させ、畳二枚分にもなるそれで老虎を左右から挟んで叩く。が、

叩き潰そうとしたのに、挟まれたルーウーは微動だにしない。その場で、何事も無かったように呟き続ける。

 その静止した状態になって、タオティエはルーウーの言葉をはっきり聞いた。

「コルネリウス式拘束術、第五十九層より第五十層解除」

 それは異国の言葉。現行人類の英語圏の言語。そしてタオティエは気付いた。両手の太極図を高速回転させ、そこから発した

超高熱の炎で包み込んでやっても倒れないルーウーから、感じられる仙気が次第に増してきた事に。

「コルネリウス式拘束術、第四十九層より第四十層解除」

 ルーウーが口にしているのは、「異邦の友人」が構築してくれた術の「解除術式」。

 その友人は、老虎が追う相手が、彼自身の仙気を遠方から感知してしまうという点について、対策を立ててくれた。

 邪仙は神仙の仙気を遠方から感じ取る一方で、邪仙は自分達の仙気を神仙が感じ取り難いく、場に残り難い物へと変化させる

進化を遂げた。このせいで神仙は一方的に不利な追いかけっこを強いられてしまい、邪仙側が何らかの不調などで接近を感知で

きなかった場合か、上手く仙気を抑えて接近に成功した時でもなければ、誅するどころか見つける事もままならない。

 そしてルーウーの場合、「強大過ぎる」のが何よりの問題だった。老虎自身がいかに抑えようと、発散される仙気を減少させ

るには限度がある。あまりにも存在そのものが強大過ぎるため、限界まで抑えこんでも並の神仙程度には漏れてしまい、それを

何十キロも先から気取られてしまう。

 だからその友人の術士は、ルーウー専用の術を一つ組み上げた。その力を、仙気を、拘束して封じる術を。

 とはいえ、「太上老君」はひとにどうこうできる存在ではない。ルーウー自身がそう望もうと、ひとの力量では拘束など叶わ

ず、神仙数人がかりでも難しい。そこで、その術士は特別な工夫を凝らして構築した。

 「太上老君自身が太上老君を封じるための、専用の多重拘束型封印術」として。

 具体的には、ルーウー自身が内から外に向かって封印をかけるという、言わば自縄自縛術式。これであれば施術者の力量が被

術者を下回るという心配はなく、何者かに逆手に取られる心配もない。

 その全百八層からなる多重拘束はまさに天才の発明。密閉度も強度も申し分なく、しかしルーウーが通常の行動をとる分には

支障がない。さらには内から封印をかけてはいても、本人の存在強度に変化はないため無力になっている訳ではなく、攻撃を加

えられても本来の頑健さはそのまま。実に絶妙な塩梅で完璧に役目を果たした。

 それが「コルネリウス式百八拘束」。「OZの魔法使い」がもたらした、芸術と呼べる域に達した異邦の術。

「コルネリウス式拘束術、第九層より、第一層解除…」

 その言葉が終わる前に、タオティエは口をガパッと開け、毒を吐いた。たちどころに瘴気が爆散し、地面が爛れて腐る、あら

ゆる生命を否定する猛毒を。しかしルーウーはよけもせず、これをベシャッとまともに浴びた。

「コルネリウス式百八拘束…」

 ドロドロとした赤紫の毒液を被り、立ち込める猛毒の霧の中で、それは静かに宣言される。

「全解除承認」

 ズンッ…、と大地が震えた。

 周囲の地面がひび割れて岩塊が隆起し、地面が結合を解かれて食い違い、城壁のように起き上がり、衝撃波が波紋のように広

がって駆け抜け周辺を蹂躙する。

 直下型地震にも似たその震動は、しかし震源が地下にはない。その激動はルーウーが原因。「太上老君」という桁外れの存在

力が突然出現するのは、地表にちょっとした衛星レベルの巨大質量体が発生したような物。これこそが、カナデやシャチがこの

国へ来る原因となった、局地的地震と思われた現象の正体である。

 仙気の解放に伴う余波に、前傾し、足裏から生やした棘を地面に打ち込み、吹き飛ばされないように抗うタオティエは…。

―あ… ああああ あああああああああ…!―

 その場に佇んだままの、「平常の状態」に戻ったルーウーを見つめ、動揺の声を漏らした。

 それは、究極の個。

 七百万年以上も前、世界の管理者達が争った大戦…、その折に世界の管理者が同種を屠るために造り出した、生ける兵器。

 その中でも、大戦を生き抜き、当時から存在し続ける数少ない一体、「根源にして究極の個」のひとり。

 失敗したとタオティエは悟った。

 衰えたと勘違いした。勝てると思ってしまった。一瞬でもそんな事を考えてはいけなかったのに。正解は唯一つ、何が何でも

逃げる事だけだったのに。

 ルーウーは両腕を袖の中に引っ込めると、胸の前で手首を交差させ、それを頭上へ上げるようにして、襟を内からこじ開ける。

 胸元から出された腕が上へ伸び、ゆっくりと左右に広げられ、仙衣は諸肌脱いだ格好へと裏返り、腰帯から脚へ下がる。

 露わになった太鼓腹の太極図は高速回転し…、

―推して誅仙 つかまつる―

 その表情も、姿も、一瞬で変化していた。

 柔和で穏やかそうだった半眼は鋭い物に変わり、鼻面には憤怒の形相を思わせる無数の小皺が深く刻まれ、友への礼に贈るた

め自ら折った右剣牙の根元までもが、唇が捲れあがって露わになった。

 薄い黄色に色褪せていた被毛は、黄金を溶かし込んだような金色となり、色が濃かった黒い縞模様とつり合いが取れている。

 緩い肉がポヨポヨしていた贅肉過多の体は、一転して筋肉が隆起し、盛り上がりが刻み付けた陰影に覆われ、まるで限界まで

膨らませたバルーンのように肌が張っている。

 元々190センチある体躯が、纏った威圧感のせいか一回り膨れ上がったように感じられるが、顕著な変化はそれらだけでは

ない。その両手の甲、両足の甲、両肩側面にも太極図が浮かび上がり、全身を淡い月光のような気功術の燐光が覆っている。

 腹の大太極炉に、両手両足両肩の小太極炉、計七つの炉心が完全同調。仙人としても桁違いの仙気量。タオティエもこの姿は

初めて見る。何せルーウーがこの姿を見せるのは、対象を本気で、確実に、完全に屠る時のみ。よってこの姿とその力を知る者

は、ルーウーがあえて見せた友らと、既にこの世に居ない者のみ。

―力を… 隠して…!―

 責めるのもお門違いだが、非難がましい声をタオティエが発したその瞬間…、

―?―

 黄金色の剣牙虎…「太上老君」は、既に牛の眼前で、大きく腰を沈め、固めた拳を腹の脇につけ、半身になって踏み込み終え

ている。接近の動作すら感知させずに。

 ふたりの周囲で地面が陥没し、割れた岩が屹立し、まるで二人が蓮の花の中に立っているかのような光景を作り出した。直後

にやっとズンと音が響いたが、それは牛の体の中心を、虎の拳が捉えた音。

 縮地からの、崩拳…拳による踏み込み中段突き。その接触面からほんの一瞬、波紋のように太極図が広がる。

―えぼおおおおおおおおおおおおおおおおおお!?―

 タオティエが崩れ落ちる。殴られた方が吹き飛ぶこともないのでそうは見えないが、拳打一発が山を抉り飛ばすだけの威力。

 次いで、太上老君が伸びあがりつつその右足を垂直に振り上げ、態勢が崩れたタオティエの顎を蹴り上げる。またしてもズン

と、打撃音とは思えない、地鳴りのように腹に響く震動が走ったものの、タオティエは吹き飛ばず、射程に捕まったまま。

 さらに、蹴り上げた足を引き戻し、ズシンと力強く震脚を行ない、流れるように深く腰を落とした姿勢に以降。顎を蹴り上げ

られて仰け反ったタオティエを真正面に捉えたまま、半身に構えたその姿勢で…。

―「万虎陣(ばんこじん)」―

 この状態になってなお、太上老君が声紋を発する本気の攻撃が開始された。

 刹那、タオティエは視界を覆い尽くす「拳の壁」を目にした。両拳が左右交互に猛烈な速度で撃ち込まれる、まるで弾幕のよ

うな乱打。声も出ないタオティエの体は、前面を余すところなく拳打で蹂躙され、雪崩のように間断なく隙間なく打ち据える太

上老君の一撃ごとに、直径30センチほどの太極図が、接触面から波紋のように一瞬広がっては消えてゆく。

 それは、一つ一つが対仙術用仙術。ユェインに伝授した万枯陣(ばんこじん)の発展形。それが拳打一撃ごとに発動し、タオ

ティエが身に宿した、「彼を彼たらしめている仙術」を剥がしてゆく。

 邪仙がひとを食う。…それは捕食行動だが儀式でもある。その天数…寿命や存在力を取り込んで、正規の物とは異なる変質を

遂げた太極炉心に薪のようにくべるという儀式。つまり邪仙の長寿は、呪いに等しい永続性がある劣化仙術によって実現された

物。永久機関の一種である太極炉心によって不老長寿を実現させている神仙とは、作動原理が根本から異なる。

 食った天数は常に消費し続けるとはいえ、その予備はそのまま命のストックとなる。これが邪仙が持つ不死性…凄まじいまで

の復元力と生命力の正体。

 だが、正調の不滅を授ける神仙は、裏を返せば不滅を滅するスペシャリスト。こと、この漂泊の仙人は二千年以上邪仙を誅し

続け、誰よりも不滅を滅する事に長けていた。タオティエが食らい、献上させ、集め続けてきた膨大な命のストックを、拳の乱

打で連続発動する解除及び無効化の術が、瞬く間に喪失させてゆく。

 何の事は無い。ユェインの飽和攻撃も乱暴な理屈ではあるが、あれで理に適っていた。圧縮された命の物量である邪仙を、正

攻法の物量で磨り潰すのは正解の一つ。

―こん… な…!―

 攻撃密度が桁違いな拳の雪崩と、吹き飛ぶという結果を許可(ゆる)さない「結果の上書き」の合わせ技により、叩かれると

いうよりも潰されてゆきながら、牛は激しい危機感を抱いた。このままではすぐにストックが尽きる。

 ドロリと、その輪郭が滲む。黒いタール状に変化したそれを、太上老君の拳がトプンと突き抜け、液状化したタオティエはそ

のまま地面へ零れた。そして、滑って後退しながらムクムクと起き上がる。

 堪らず黒い水たまりのように液状化して逃れたタオティエは、そこから真っ黒な裸体を形成した。

―こんな… 事でええええええええええええええええっ!〕

 顔面を覆う長毛から、冷えて固まりかけた溶岩のように赤黒い眼光が覗く。その全身は、限りなく暗いが故に黒く見えるとい

う、色とは厳密には異なる黒に変色している。

 ユェインとチョウに見せた形態変化。彼らにとって未知の変貌だったが、太上老君にとっては既知の物だった。何故なら…。

―やはり 汝も 「そう成って」 おったか―

 禍々しく黒々と蟠る、牛獣人の形をしていながら、もはや半ば「現象」になりかけているタオティエを見据えながら、太上老

君は呟く。前々から懸念はあった。これまでに誅した四罪四凶の二名もまた、この現象になりかけていたから。

 現行人類が誕生する前の大戦は、いずれかの陣営の勝利によって決着した訳ではない。もはやそれどころではなくなり、勝者

がないまま終息したに過ぎない。太上老君もまた大戦末期には、抹殺対象が世界の管理者から「別の存在」へと変更されていた。

 タオティエは今や、その大戦当時の生き残り全てが、あらゆる生命の存亡をかけて挑んだ存在の、同類と化していた。

 命とは太極図のように、生と死が一組になっている。

 邪仙は命を食らい、その生を炉心にくべて消費してゆくが、その対となる死は消えず、蓄積され続ける。そうして淀んで溜まっ

た物が齎す歪みが、彼らを変質させる。

 その浸食形質は「偏在する死」。生のみを消費された死が文字通り死蔵され、循環に還れない。その淀みがもたらす悪性変異

が、生の数だけを減じ死だけを凝縮して死蔵し続け、やがては破れて溢れ出し、世界を侵食し尽くす。

 これ即ち、世界の行き止まりの一つの形…「滅亡現象」。

 それこそは、二千年を超えて在る死体。

 相対するは、二千年漂泊し続ける異邦人。

―…現時刻をもち 対象を… 「浸食者タオティエ」と 認定―

 殲滅すべき「世界の脅威」と認め、太上老君が構え直し、その腹で高速回転する太極図が青白い鬼火を迸らせて、全身への力

の供給を増量する。

〔あああああああああ ああああああああああっ! 死にたくないいいいいいいいっ!〕

 タオティエが絶叫する。その全身が脈打ち、無秩序に触手が生える。先端が手の形になり、その指先がまた枝分かれして手の

形になり、その先端がまた…。

 フラクタル構造の「手」が周辺の空間を埋め尽くしながら四方へ伸びたかと思えば、本体の数百倍の総質量にも至ったそれら

が、太上老君に殺到する。

〔嫌あああああああああ! 死にたくないいいいいいいい! 死ぬのは嫌あああああああああっ!〕

 悲鳴のような金切り声と共に迫った手の群れに太上老君が飲み込まれ、四方八方から掴まれ、吊り上げられる。

〔だからあああああああああっ! お前があああああああああ! 死ねええええええええええええ!〕

 四肢と尻尾と首を、巻き付くように捕らえ、地上20メートルほどの高さにぶら下げた太上老君を、手の群れはバラバラに引

き千切ろうとした。

 が、手足と尻尾と首を引っ張られて真っ直ぐに伸ばされながらも、ミシリと軽く軋んだだけで、剣牙虎の体は千切れない。吊

り橋を支えるワイヤーですら容易く切れる程の牽引力が、虎一匹を五体裂きにできない。それどころか、太上老君が四肢に力を

込め、全身に纏う燐光を明るくさせながら引っ張り返すと、触手の方がブチブチと音を立てて千切れ、接触部位がジュウジュウ

と塵になってゆく。

 太上老君が触手に捕らえられたのは、避けられなかったからでも、逃げ損ねたからでもない。防ぐ必要も特段無かったからで

ある。タオティエが精製する毒素も、放つ高熱も、その全てが太上老君の体に傷一つつけられない。

 神仙にとって仙気は循環する血液のようなもの。ひとであれば能力者しか使えない気功術は、太上老君には基本機能として備

わっている。纏う気功の光はユェインが纏う強力な物すら比較にならず、その身は「一つの世界」とも言える強靭さを備える。

 そもそもユェインの仙気発勁や月下光帯も太上老君に学んだ物だが、この大陸でひとに伝わる気功術の技の多くは神仙由来の

技。特に太上老君らが扱う、古代の大戦当時に確立された数々は、伝承と派生を経てひとが扱うようにバージョンダウンされた

物とは桁違いの、究極にして原点たる御業。

 ただ一つ、今回の戦闘で不便なのは、安全の為に空間隔離しておきたいところを、それを実行できる補助者が居ないため、周

辺一帯を破壊し尽くさないよう「加減しなければいけない」という点。

 自らを捕らえる無数の強靭な触手を、その剛力で事もなく引き千切って右腕を自由にすると、太上老君は左手首にまとわりつ

いていた触手をムンズと掴み…。

―「魄奪(はくだつ)」―

 ブチッと音を立てて千切り、握り潰す。その掌が広げられると、そこには、冷えつつある溶岩のような色で発行する、どの角

度から見ても太極図になる球体…太極炉心があった。

〔ろ… 炉心っ!? 何でえええええええええ!? 何でそこにいいいいいいいいいいいいいいっ!?〕

 太極炉心の片方を奪われたタオティエが動揺する。そこには無かった。触手の先になど移していなかった。なのに何故か炉心

はそこにあって…。

〔まさか! まさかあっ! こんな結果の上書きがああああああああっ!?〕

 上書きできる結果の規模が、タオティエと比較しても段違い。「そこに炉心がある」という事にした上での、仙術による太極

炉心の奪取。言うなれば、指先に心臓がある事にして、かすり傷で致命傷を負わせるような物。奪われた炉心は虎の手で再び握

り締められると、ガシャンッと、落とした陶器が割れるような音を立てて砕け散り、命のストックと溜まった死を浄化され、閃

光に変えて四方に放った。

 一つ、注意が必要な事がある。

 太上老君らにとって浸食者は不倶戴天の敵ではあるが、「天敵」ではない。一括りに浸食者と呼ばれる、総じてひとの手には

余る世界の脅威は、その大半が、太上老君にとっては粛々と一方的に殲滅する対象だった。ましてや幼虫のような未熟な個体な

ど、複数同時に相手取っても問題にならない。

 これこそが「太上老君」。これこそが「根源にして究極の個」。これこそが「一つの神話」。世界の管理者が存在しなくなっ

たこの大地を守護する、最終防衛装置のひとり。

―出力 制限 仙術解禁―

 全ての触手を塵にし、あるいは引き千切り、宙で五体が自由になった太上老君は、眼下で茂みのようになった触手群の中心…

タオティエ本体に向けて両掌を突き出す。その両手首には手枷が嵌るように、威力をセーブするための拘束陣である太極図が発

生して…。

〔や やめ やめろおおおおおおおおっ!〕

 タオティエの無数の触手が本体を護るように幾重にも重なり、ドーム状の防壁を形成する。その表面に幾何学模様のように赤

い光が走り、空間の断絶まで含む多重結界と補強が施されたが…。

―「蒼火天槌(そうかてんつい)」―

 ジボッと、まるでターボライターの火のような形で光が走った。3メートルほどの間隔をおき、節のように太極図を周囲に広

げた光柱が。

 太極図型の制御結界により周囲への力の拡散と被害を防ぐと同時に、漏れなく閉じ込められたせいで威力が増しているそれは、

簡易起動した小規模な月下光帯とでも言うべき物。空間の断裂すらも埋めて踏破し、結界を易々と食い破り、遮る触手の全てを

瞬時に焼き払い、タオティエ本体を飲み込み…。

〔ぎゃあああああああああああああああああああっ!〕

 絶叫が上がる。タオティエは一秒にも満たない閃光の照射で胴体を中心に塵化し、照射を打ち切った太上老君はトンと、その

体躯に見合わぬ身軽さと足音で着地した。

 本体側から塵になってゆく触手群。タオティエすらも物ともしない、圧倒的戦力差を見せつけた太上老君は…。

―?―

 塵になる途中で無数の触手がウゴウゴとうねった事に気付き、素早く見回した。その、うごめいた触手が、小さな人型に形状

を整え…。

〔嫌あああああっ!〕

〔死ぬのは嫌あああああああああっ!〕

〔死にたくないいいいいいいっ!〕

 10センチほどの無数の小さなタオティエに変じる。

 仙術、身外身の応用。本体を叩かれて残った触手が、小型の牛になるなり…。

〔逃げろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!〕

 一斉に、蜘蛛の子を散らすように遁走した。

―………―

 この期に及んでの、あまりにも見事な、迷いのない、逃げっぷり。もはや清々しいほどの往生際の悪さに、太上老君はポカン

と目と口を丸くしたが…、

―っ!?!?!?―

 焦りながら慌てて四方に視線を走らせる。

 生じた小タオティエ達の数は千単位。しかもそれぞれが土遁や縮地、神行法と、あらゆる手段で逃走をはかる。身外身での分

け身一つ一つに本体同様の意思と権限が付加されて、仙術を自在に操れるようになっていた。これは太極炉心をそれだけの数に

分割した事を意味する。

 言うなればそれは「全部が本人」。無数の自己が存在し、情報が並列処理されている状態など、ひとの精神では本来堪えられ

ない。仙人が浸食者になるとここまでのデタラメが可能になるとは、デタラメの権化のような太上老君ですら考えていなかった。

 全方位地下深くまで抉るような超広範囲殲滅術で薙ぎ払う事は可能。だが、タオティエの移動可能距離を考えれば、逃がさな

いように放った場合は地殻変動が起こる規模で広範囲に被害が生じ、確実に孫達まで巻き込んでしまう。

―やむなし!―

 逡巡は一瞬、太上老君は万歳するように両手を空に伸ばし、天を見上げた。その腹で大きな太極図が、四肢と両肩で小太極図

が、高速回転してボッと青白い光を漏らす。

―来たれ 「崑崙」―

 その声に応え、雲海の上に影が生じ…。

 

「む?」

 チョウをおぶって山道をドスドス駆け、息を乱して移動していたユェインが、立ち止まって厚い雲を仰ぎ見る。

「何か…、起きましたか?周囲の空気が…」

 肉眼では雲を見通せないが、猪もただならぬ気配を感じ取って眉根を寄せた。嫌悪感などはない。邪悪な物ではなく、悪い事

が起きる予兆でもなさそうだが…。

「老君が、何事かなさったのかもしれん」

 呟いたユェインの隻眼は、暗さを増し、黒々と渦巻く分厚い雲を、まるでその上に何か巨大な物があるようだと感じながら見

つめていた。

 

「マジか」

 四足獣に変じたヂーは急停止し、前へ滑って落ちかけたカナデを首を起こして止めると、慌てて平らな地面を探す。

「おいおい。おいおいおい。神仙だとは聞いた。うん。聞いたとも。だがな…」

 地滑りを起こしそうにない岩盤を目に止めた青虎は、気絶したままのカナデをそこに寝かせ、ファポォが不安そうに顔を出し

ているポーチを外してその脇に寄せると、何が起きても守れるよう、その上に覆いかぶさって立つ。

「疾く立ち現れよ四方の守り!我が身、我が土地、我が配下に、万物一切触れる事能わず!」

 たちどころにキキキンッと、ガラス棒が軽く触れあうような澄んだ音を立てて、テントのようにピラミッド型の青い半透明な

結界が構築された。下手な神仙に匹敵するヂーでも、起動するために声紋まで必要となる強力な結界術である。

「三大神仙か!?三大神仙だな!?しかも「アレ」が出現するという事は…、「太上老君」だ!そうだろう!?言えよ!流石に

そういう事は言っておけよなヨン!バカか!いじわるか!どっちもか!」

 鬼火の光を発するようになった双眸で、ヂーは分厚い雲を透かし、上空に出現した物の全容を目視した。可視光線だけでなく、

気脈を直接視られる状態にした両目で確認できたのは、空を覆う大質量。

「下手をすれば陸地の形が変わる、「桃源郷の決戦兵器」じゃないか!」

 直接見るのは初めてだが、それが何なのかは一目で判った。母から聞いていた存在に間違いない、と…。

 

 切り立つ崖。塔のように聳える岩。峻険な山肌に、細い道や階段、洞や祭壇が見られる。

 絶景と呼べる山々の合間に、遺跡群のように人工物が点在する、秘境のような光景。

 異層…イマジナリーストラクチャーから浮上し、まるで蜃気楼のように現れたそれは、山脈であった。ただし、地と繋がって

いない、空に浮いた山脈である。

 山岳地帯全域に跨り、すっぽりとその上空を覆った巨大で広大なソレこそが、太上老君の宝貝。現存する遺物遺跡の中でも最

大、桁違いのスケールを誇るレリック…浮遊山脈「崑崙(コンロン)」。

 太古の戦において、敵対した陣営の一つが所持していた難攻不落の「空中城塞ヴァルハラ」を轟沈せしめた大要塞。大海の向

こうからミサイルのように撃ち込まれた「前線基地たる無数の塔」を、大陸に届く前に一つ残らず現在島国になっている付近へ

撃ち落とした砲撃兵器。

 それは数千人規模で兵力を駐機させる要塞であり、国規模で地域制圧を行なう陣地であり、敵対兵力を薙ぎ払う砲門でもあり、

鉄壁の防衛拠点でもあった。

 大戦後は太上老君がその管理を任され、今や常駐兵力も置かれていない崑崙は、今も大戦当時の機能を維持している。管理者

同様に。

 被認迷彩機能により、妖怪や仙人など、一部の存在にしか見えず、感じられない状態になっているその山脈は…、

―全砲門 解禁―

 太上老君の命に従い、その膨大な仙気を装填された崑崙は、全体に配置された無数の八卦鏡に太極図を浮き上がらせた。

―捕捉対象 浸食者タオティエ その一切―

 その思考イメージを受け取り、崑崙が地表へ細い光の帯を投射した。バーコードを読み取るスキャン光のように。そうして一

瞬で攻撃対象を走査し、地に潜っている者、空間跳躍する者、自然物に擬態する者、その全てを捕捉し…。

〔え?〕

 タオティエの一体が気付く。ふと向いた横に太極図が浮かんでいた。走る自分の真横にくっついているように、一緒に移動し

ながら…。

 縮地の最中でも、土遁で潜っていても、それは追尾していた。横に、頭上に、背後に、あるいは正面に。

 それはロックオンマーカー。崑崙が砲撃目標として捕捉した全てのタオティエに、その太極図は追尾している。

―最小力にて 砲撃―

 号令は短く、攻撃は一瞬。

 崑崙のあちこちでキラリと光が瞬いたかと思えば、流星のように光の筋が地上へ降った。

 直線で、あるいはカーブし、時には穴も穿たず地面に潜り、縮地の最中へも追いつくそれは、瞬き一つの間に捕捉した対象を

射貫く、ホーミングレーザーとでも言うべき多角攻撃。起動者が望めば大陸一つから命を根絶やしにする事さえ可能な超兵器崑

崙の主力の一つ。

 全てのタオティエはロックオンされたと気付いた直後、ほぼ同時に、無音無熱の流星に貫かれた。

〔あああああ ああああああああ…〕

 結果の上書きも許されない。逃げ延びた個体をタオティエ本体という事にするという目論見も、上書きすべき物がそもそも無

ければ成功しない。

〔死ぬ… の…? ついに… 死んで… しま…〕

 時間差なく、一体残らず、タオティエは撃ち抜かれて消えてゆく。

〔何処で… 間違えた…? 何処で… 失敗して…〕

 あの軍人達だろうか。あんな痛い思いをしながら構ったりせず、さっさと逃げれば良かった。そうすれば太上老君に追いつか

れずに済んだ。

 だいたい、あの猪に関わったりせず、無視して去れば、ジャイアントパンダは間に合わず、時間を食わなかった。

 いやそもそも、あの狐の娘と出会った時、レッサーパンダと出会った時、神仙の気配を感じた時、去っていれば良かったのか?

 そのように、何が悪かったのか振り返るタオティエが、気付く事は決してない。

 チーニュイがあの場に辿り着けたのは、一度目のニアミスでシャチに庇われ、殺されなかったから。

 ホンスーが駆け付けたのも、前の晩に救出され、死なずに済んだから。

 シャチが居合わせたのも、彼が一行と行動を共にする理由ができたから。

 ユェイン達が山岳地へ入ったのは僵尸兵達を追っての事だが、それは一度ホンスーを救いに戻ったせいで移動が遅れ、その後

もひとの歩みで逃げるしかなかった一行に、僵尸兵達が振り切られなかったから。

 ドミノのように連なった事象の先、元となる原因を遡ってゆけば、タオティエが認識できていない、一度も会っていない、向

こうもまたタオティエを知らない、たった一人の異邦人に辿り着く。

 余りに縁が無く、余りに迂遠で、直接的な関りが一つも無い、まさに「認識外から」であったが故に、結果の予見はできず、

対策の練りようもなく、警戒のしようもない。

 その人物の選択と行動によって、あらゆる要素がタオティエへ繋がって行った。まるで、節理その物がタオティエの排除を望

んだように、偶然と言えるほどか細い線を確かに繋いで。

 相対する舞台がこうして整った「原因」と、出会う事無くタオティエは終わる。

〔何が… 悪かった…〕

 タオティエの脳裏を、フラッシュバックするように古い記憶が埋めてゆき…。

 

 

 

 二千二百年以上も昔、牛は斉という国に生まれた。

 父は、家名がある家柄ではなかったものの、文官として可もなく不可もなく、内政の補助をこなしてきた官僚だった。牛もそ

の背中を見て、こうして生きてゆくのだなと、幼い頃から漠然と考え、そしてその通りに文官となった。

 基本的に事なかれ主義で、面倒を嫌い、ほどほどに頑張り、時々ちょっと贅沢をする…。そんな牛は有能とは評価されずとも、

こなすべき仕事は間違いなくこなす、父のようにほどほど有能と言える公正な官僚になった。

 汚職に手を染めるほど困窮もせず、賄賂を受け取るほど欲深くもなく、今に不満がないから出世欲も無い。役職からすればそ

れなりに裕福な生活だった。

 だが、そろそろ妻を貰おうかと、縁談の話を家族からされる頃になって、その生活は変化した。

 兆しは、国際情勢の悪化だった。

 時は戦国、それも末期。統一国家が生まれる前夜の頃の話である。七雄と呼ばれた強国も無常。牛が暮らす王の膝元は比較的

平和だったが、大陸各地で激しい戦いが続き、時代は列国の統一という流れに入っていた。

 斉は本当に最後まで、裏を返せば後が無くなる寸前まで、比較的平和だった。

 燕、楚、魏、趙、そして韓…、他国が次々に滅ぼされてゆく中で、国の執政を担っていた者は強国秦の傀儡となり、若き王を

上手く誘導して、各国の滅びを傍観する立場に落ち着いていた。

 だが、自分達が無事でいられる保障などなかったのである。秦軍は突然…つまりは予定通りに牙を剥いた。

 軍備の増強なども行なってこなかった斉は、敵うべくもなく滅び、這う這うの体で逃げ延びた牛は、こつこつ貯めた財も、馴

染んだ家も、家族も失った。世に無常はないと痛感し、亡国の文官となった自分はこの先どうあがいても楽には生きられないと

悲観した。

 ひとは愚かだ。

 何が統一だ。何が国家だ。ひとりひとりが楽をしてそれなりの幸せで満足して静かに穏やかに生きて行ければそれでいいじゃ

ないか欲を出して馬鹿な真似に手を染めて土地を荒らして街を焼いてそのあと苦労して何をする気なんだ下手な欲と力を誰かが

持ったせいで自分はもう平和に楽に生きる事はできなくなった呪ってやる呪ってやる呪ってやる呪ってやる…。

 三日三晩はそうしていただろう。残党狩りや野党が跋扈する中、山野の草むらに身を潜めていた牛は、三日月の晩に出会った。

―大変な目にあったんでしょう そんな折にこう持ち掛けるのもどうかと思うんですけど ゆっくり説明していても君が飢えて

しまうから 単刀直入に…―

 それは、幻のように現れた。

 足音も無く、気配も無く、気が付いたら呆然と座り込んでいる自分と向き合って座っていた。

 ゆったりした白い漢服。ねじくれた木の枝のような杖。鹿のような角に蜥蜴のような鱗、馬のような鬣と、髭を備えたその奇

妙な姿の獣人は、まるで、伝説の「麒麟」のように見えた。

―君には才能が有ります 具体的には仙人になれる可能性があるので 一緒に来て修行してみませんか? つまり勧誘していま

す 唐突で戸惑うでしょうが 怪しくしかなくても怪しい者ではありませんから ご安心を―

 飄々とした若者のような、若々しい老人のような、歳も定かではない奇妙な獣人は、そう、牛に持ち掛けた。

 そして翌日、牛はその男に導かれ、桃源郷という場所を目指して旅に出た。

 饕餮(タオティエ)。

 世俗で使う名とは別の、仙人としての名は、師になった麒麟から貰った。

 

 何故、桃源郷を裏切ったのか?

 それはおそらく、神仙になるべく修行しつつも、ひとが持つ負の面を捨てきれなかったからだろうと、タオティエは思う。

 師となった麒麟は、ある人間を神仙にする事を考えた。

 素養があり、神仙になれる見込みがある者を弟子に迎えるのは珍しい事ではない。だが、その対象が問題だった。

 その男は、タオティエの故郷を滅ぼした国…秦の頂点。つまり始皇帝だった。

 国を滅ぼし、国を治め、皇帝という地位にあり、なお仙人になれる素養を持ち、師と懇意になる…。

 恨み。妬み。怒り。そして、なかなか神仙になれない自分に愛想を尽かした師は、あの男を贔屓にして自分を捨てるのではな

いかという焦慮と疑心…。それがタオティエを突き動かした。冷静に考えれば、どんな不出来だったとしても、あの師が弟子を

捨てる事など在り得ないのに…。

 

 皇帝に使われるはずだった扶桑樹…師が育てていたまだ幼木のそれを共犯者達と共に奪ったのは、それが不老長寿の仙術儀式

の中心となる材料だと、同期が調べてきたから。

 結局、その情報は正しかったが、使い方や儀式そのものの手順は判らず、学んだ事を継ぎ接ぎして実行した。

 結果、神仙にはなれなかった。

 得られたのは不完全な偽物の太極炉心。永久機関には程遠い、ひとの命を取り込んで燃料にしなければならない模造品。

 だがもう引き下がれなかった。戻れるはずがなかった。だから、桃源郷に通じる道を破壊し、追っ手を退け、逃げ続けて生き

続ける道を選んだ。

 不安なく、平和に、楽に生きたかっただけなのに、他者から奪い続けて生き永らえる存在となったのは、皮肉としか言えず…。

 

 

 

―…あれ…?―

 目を開けた牛は、星空を見ていた。

 二千年以上、毎日のように見上げていた夜空。変わり続けるひとの世とは違い、瞬く星は昔と殆ど変わらない。

 三日月が懐かしい。もう殆ど思い出せないのに、印象深い出来事が、三日月の晩にあったような気がした。

 どうなったのだったか。ぼんやりと考え、ふと気が付いた。

 体が無い。首から下がなくなっている。

―気が 付いたか

 声はすぐ頭上から聞こえた。

 目を上に向けると、見下ろしている剣牙虎と視線があった。

 杭のように尖って聳えた大きな岩の、狭い天辺。そこに太上老君…ルーウーは座していた。封印術の拘束をかけ直し、元の姿

に戻って衣も纏い直して。

 ルーウーは全部破壊した触手の海と塵の中から拾い上げた、崩壊していた本体の残り…タオティエの首を、胡坐をかいた足の

上に乗せている。

 その周辺には、古い時代の鎧や兜、刀剣に弓、槍などの武具類や、腕輪や鏡などの装飾品類など、様々な品が散らばっている。

それらはいずれもタオティエが二千年余りの間に集め、弟子達に献上させてきた宝貝。その保管庫と言える異層が崩れ、出現し

た品々。

―ああ そうだった…―

 タオティエは思い出した。自分は負け、逃げる事もできなかったのだと。

 ああ、仕方ないなぁ、というのがタオティエの感想。どうあがいても勝てないし逃げられない。何より、自分はもうじき終わ

ると実感できた。

―………―

―………―

 牛は星々に目を戻し、ルーウーもまた顔を上げる。

―…何で ですか?―

 長い沈黙の後、タオティエは尋ねた。怒りも憎しみもなく、誅する前の厳しさも消えて、まるで孫でも膝にのせて日向ぼっこ

でもしているように穏やかな、老虎の脚の上で。

―月も 星も 美しかった ので…―

―ので?―

 先を促すタオティエ。ルーウーはしばし黙した。

―汝は…―

 肉厚でプックリした柔らかな手が、タオティエの髪を梳くように撫でる。

 牛は思い出した。この老虎は他者を「其処許」と呼ぶ。「汝」と呼ぶのは…、

―シュフーの 弟子で あった―

 「身内」だけ。

 老虎がまだ自分を汝と呼んでいた事に気付いて、タオティエは沈黙した。頭が触れているルーウーの太鼓腹が、一瞬、息を乱

したように大きく動いた。

 赦されない事をした。裏切りを働いた。数多の命を奪って回り、あげく世界の脅威になり果てた。多くに憎まれ、多くに恨ま

れ、その死を望まれた。だが、それでも…。誰にも悼まれずに逝くのは哀しい。せめて自分くらいは悼んで弔わねば、哀し過ぎ

るとルーウーは思っていた。

―貴方は こうして…―

 悲しみが招いた、老虎の呼吸の一拍に満たない乱れを感じ取って、タオティエは少し、後悔した。

―誅した仙人を 全員弔って…―

 問う意図はなかった。そうなのだろうと確信して、タオティエは呟いていた。

 気が遠くなるどころか、想像もつかないほど永い年月、人類の歩みを見てきた老虎。取るに足りないひとの死に、下等な命の

終わりに、裏切った者の末路に、いちいち哀しみを感じているなら、それは…。

―何という苦行… 何という地獄…―

 死にたくない、安全に生きたい、そんな動機で志した神仙への道。結局為せず、成らなかったが、それも当然だとタオティエ

は感じた。

 これほどの大罪を犯した者を、誅しはしても憎まず、哀しみをもって弔う…。そんな精神性など、自分が持ち得る事はなかっ

ただろう。この老虎のようには、どれだけ経っても決してなれなかっただろう。

 綺麗な者ばかりではなかっただろう。美しい物ばかりではなかっただろう。永い年月、ひとの世界を漂泊し続けて、それでも

損なわれなかった人類への愛と希望…。

 果たして人類には、そんな精神性が持ち得るのだろうか?果たして人類は、そんな信頼に応えられるのだろうか?

 少なくとも自分には無理だったが…。

―いい 月夜です ねえ…―

―然り―

 首の断面からホロホロと、タオティエは塵になって消えてゆく。

―桃源 郷の… 列柱に 皆 で 座って…―

―覚えて おる ゴンゴンが …詩を そのぅ… 詠んで―

 若干口ごもるルーウーと、笑みの形に口元を弛緩させるタオティエ。

―はい 突飛な… 詩を よく… あはははあ…―

―されど 身共は 嫌いでは なかった 難しくは あったが… 否 新し過ぎた のか…?―

 あまり評判が良くなかったかつての同胞の詩について、フォローしながらルーウーが頭をそっと撫でると、タオティエは懐か

しむように目を細める。

 その首はかつての姿…まだひとであった頃の、神仙を目指していた頃の物に戻っており、長毛の隙間には本来の位置、本来の

数になった両目が見えている。

―あの 頃 は…―

―うむ―

―……… …たの… ………―

―あの頃は?―

―……………―

―タオティエ?―

―老君…―

―うむ―

―……… ご…め…―

―うむ―

―お師… 様…―

―うむ―

―済み ま…―

―うむ―

―   ―

―………―

 さっと軽やかに、夜風が吹いた。胡坐をかくルーウーの脚の上を、哀しげに鳴きながら通り過ぎて。

 一握り程の、何の木の物かも定かではない乾いた木の根だけが、そこに残っていた。

 パイランは海を越えて永久に去った。ゴンゴン、タオウーに続き、今宵タオティエを誅した。

 持ち出された扶桑樹の半分を回収し、残る四罪四凶は四体。その全員が浸食者と化している事は確実。

 岩に座る孤影は、しばし月夜を見上げていた。


















































(グフフ…!さて、決着はついたかァ。俺様も少し休んだら、煙に巻いたストレンジャーを探しに行ってやらねェとなァ)

 高い岩の上に胡坐をかいたシャチは座している老虎の様子を窺う。オーバードライブの反動で視力も含めて機能低下している

ため、何をしているかはよく判らないが。

(…さっき、雨雲の上に出たアレは…)

 シャチは考える。おそらく、ラグナロクが有する移動拠点たる本部のような、小国規模の超巨大遺物…。確信は持てないが、

そういった存在については一つしか情報が無いため、「崑崙」という物がアレだったのではないかと考えた。

 持ち帰れる情報は多い。多いが、果たして自分はそれを報告できるのだろうか?

「………」

 シャチは黙考した。

 仙人…。神仙と邪仙。邪仙に抗する人類…ラグナロクが「特殊将校」と仮称していた存在。危険生物…それも他国ならば神話

級と称する古い存在「妖怪」。三つ巴とも違う複雑な状況は、ルーウーから多少説明を聞けたのでいくらかは把握できた。

 この状況。上役であるフレスベルグ翁に報告すべきか?盟主スルトに伝えるべきか?ラグナロクは国内に脅威を抱えたこの国

の状況を好機と考えてつけ込むか?それとも、危険と考えて距離を置くか?あるいは…。

 今回の件でシャチは気付いた。最高位の神仙「太上老君」は、無敵であろう、不可侵であろう、ひとの物差しでは測るに足り

ず、もはやワールドセーバーと同じレベルで「ひとがどうこうできない」存在である。…が決定的な弱みが二つある。

 一つ目は、孫娘…チーニュイの存在。

 ワールドセーバーに次ぐ準高次存在とも言える神仙が、人類の小娘ひとりの命を重要視しているなど、馬鹿馬鹿し過ぎてそう

そう勘付きはしない。ひとの基準で考えるなど愚策でしかないと、賢いつもりで見逃してしまうだろう。だが、使い古された下

らない手ではあるものの、チーニュイの命を盾にされたらルーウーは確実に無視できない。

 シャチ自身にもまだその自覚は無いのが、それは自分と養女リンとの関係に鑑みた「予感」だった。理屈や合理性抜きに、護

りたい、死なせたくない、そんな存在はできてしまう。神仙にも、エインフェリアにも。

 そして二つ目の弱点は、ルーウーが「人類を殺せない」事。

 兵への対処や、自分の正体を把握した上での振る舞いを目にし、幾度かの意志交換を経て、シャチは確信していた。相手が悪

人だろうが非道な輩だろうが、あの老虎は人を誅せない。禁じられているという訳ではなく、心情的にできない。人類への希望

と好感を捨てきれず、誰一人として見限る事ができない。ルーウーはそれほどまでに人類を愛している。ある意味カナデと同じ、

度し難く呆れる他ない甘さである。

 これら二つの弱点を把握し、活用できる者が現れた場合…、ルーウーは、ひとがひとを、国家が国家を、恫喝するための超越

的威力にされてしまう。それを行なうのが自分の組織であれば、世界に対して勝ったも同然のアドバンテージを得られる訳だが、

それはシャチにとって面白くない。

 自分があの狐の娘を人質に取り、老虎を脅迫して言う事を聞かせようとする…、その手順をシミュレートできない。理屈や道

理を説明できないが、そうなるのは「嫌」だった。あの老虎も孫娘も、自由であるべきだと…。 

(あの娘の価値が知られれば、世界のバランスが崩れる訳だァ…)

 シャチ・ウェイブスナッチャーは、その視座が大きく変化しつつあった。

 黄昏の中に在り、今の人類が存続するに値するかどうか懐疑的に眺めていた男の価値観は、今や黄昏自体をも観察対象に含も

うとしている。

 その男は、まるで異邦人のようにいずれの「世界」にも属さぬ者。

 違うのは、世界の内に入って見るのではなく、世界の果てより眺める者であるという事。

 組織に対しては、当たり障りのない…しかし全く無価値でもない程度の情報を報告し、ルーウーの孫娘については存在を伏せ

る事に決めたシャチは、しかしここに置いていては安全弁にも終末装置のスイッチにも成り得る少女をどうするべきかという、

最大の問題に思い至り…。

 チリッと、砂礫を踏む音が聞こえた。

 五感が鈍っている上に思考に没頭していたシャチは、接近されていた事に全く気付けなかった。

 視線を下げる。右後方、崖の下へ。

 そこに、息を乱したジャイアントパンダが一頭立っていた。上半身裸の猪を背負って。

「上校…」

 チョウが小声で囁く。

「うむ…」

 ユェインの隻眼がシャチをじっと見ている。区域内から離脱させ損ねた一般人か、それとも…。

(グフフフフフフフフ!………やべェ)

 ピンチの余り笑えてきてしまうシャチ。あちらは歩いている上に特大酒樽のような猪をおぶっているが、こちらは立ち上がる

のも難しい。端的に言えば足腰に来ているので戦闘など無理。

 一方ユェインは…。

(ボロボロの人民服…。戦闘行為か、それとも巻き込まれた事による物か?ひと…か?仙人でも妖怪でもない。気配が希薄過ぎ

て捉え難いが…、しかしこういった気配、初めてではない気が…)

 素性はともかく無関係ではないと判断。邪仙ではないが気配がおかしいと警戒を強めるが、既知のある人物に通じる物がある

と、微かに違和感を覚える。そしてチョウは…。

(見た目などは全く違うが、そこはかとなく、ルォ君と似た気配が…?)

 同じく気配が奇妙だと感じながら、そこが知人に似ているという印象を持った。

(とはいえ、敵か味方か第三勢力か無関係か…、少なくとも只者ではない。ユェイン様も本調子ではない今、どのような手を打

つべきか…)

 チョウは対処についてユェインと相談すべく、口を開きかけ…。

「老君!」

 ハッと、歩み寄る老虎に気付いて声を上げた。

 すぐさま目を向け、チョウを背負ったまま跪くユェイン。タオティエが残した宝貝を回収してきたルーウーは、シャチがふた

りに見つかってしまっている事を確認すると…。

―あれなるは 身共の 連れ也 今回は 協力を して貰った―

 シャチを連れだと主張した。その言葉にふたりが異を唱える事はなく、感謝を示して深く首を垂れる。が…。

「神仙ではない協力者、と申されますと…」

「もしかすると、老君のお弟子様でございますか!?」

 興味津々のふたり。仙人ではないが協力者…。ルーウーが力を借りるならば只者であるはずはなく、名の知られた方士か、あ

るいは古の伝承のようにひとから神仙になるべく修行中の者かと、ユェインもチョウも物凄く食い気味である。

 誤魔化すつもりが逆効果で、ちょっと困ったルーウーは少し考え…。

―弟子に 非ず そう あれなるは …あれなるは あ~ そのぅ…―

 答えを期待する軍人二人に…、

―…そう 「せふれ」 也…―

 概念としてよく判っていないまま覚えたての言葉をその場凌ぎで出す。

(「せふれ」…)

(「せふれ」?)

 ユェインもチョウも言葉の意味が判らなかったものの、ひとに判るよう言葉に訳して説明するのが難しい仙道用語なのだろう

と解釈した。

「グフ」

 流石にセフレと称されたシャチは妙な声を漏らしたが、口を出して変な事になっても困るので、あえて黙っておいた。

 じきに日が昇る。長い夜が、ようやく明ける。