漂泊の仙人と煙雲の少女(十八)
よく憶えている。狐の赤子を育て始めたばかりの日々の事は。
弟子を育てた事はそれなりにあったが、子育ての経験は無かった。
薬学に練丹法、持ちうる知識を総動員して四苦八苦、母乳に近い成分の飲料を拵えた一週間後、乳児用にミルクが市販されて
いる事を知り、脱力しつつ己の無知を恥じた。成分表記を見ても当世の表現だったため、質も違いも判らず、一番良いのが欲し
い、と曖昧過ぎる説明で買い求めたのも、今では良い思い出。
意味を成さない声で欲求を訴える赤子は、しかし根気よく言葉を教え、徐々に発音から似せて来た。爺爺(イェイェ)。赤子
が最初にそう言った時、表現し難い喜びのような物が胸を突いた。
自力で寝返りを打つようになり、這いずるようになり、ヨチヨチと四つん這いで移動するようになり、目が離せなくなって大
変になってきても、自分を見て笑い、喜ぶ、無垢な命に心を洗われた。
チーニュイ…天の川岸に佇む織女。そんな名を付けたのは、誰も彼もと引き離された孤独な赤子が、いずれ大切にしてくれる
誰かと巡り合えるよう…。
「しかして老師。このような山越え…修行になるので拙僧は大歓迎ですが、ニャンニャンにはなかなか厳しいのでは?」
やたらガッシリした人間の中年が、焚火を枝でつつきながら口を開いた。伸ばし放題の髪と黒髭、ボロボロの長衣が、苦行者
のようにもホームレスのようにも見える。
空気が冷たく夏でも雪が消えない山中の相当な高度。毛布にくるまれルーウーに抱かれている六歳の狐は、もうウトウトして
いた。
寒くはない。というのも、焚火に当たっているからでも、祖父に抱かれているからでもなく、周囲一帯が燃え盛る炎に囲まれ
ているせいである。
暖を取るには壁が必要。…というセリフは当たり前に聞こえるが、男が実行したのは炎の壁でぐるりと自分達を囲むという斜
め上に突き抜けた対処。傍目には火に巻かれた絶体絶命の窮地に見える光景である。
とはいえ、燃料も無く地面から直接上がっている炎が内側の三名を脅かす事は無く、風が吹いても揺れもしない。より正確に
は炎の外側で風がシャットアウトされて微風しか吹かない。その上で、炎の壁は10メートルも離れると内側を認識できなくな
る不可思議な領域と化し、完全な安全圏は快適な温度を保っている。
これは仙術とも異なり、学術都市OZの系統及びその派生…世界中で主流となっている一大術体系とも根底から違う物。刻ん
だ特殊な文字が起動キーと儀式を兼ね、これをもって術の発動を行なう、現代の地上には使い手が殆ど居ない術である。
旅の修行僧を自称する髭面の男は、祖父の古い友人の一人。長い間修行の旅を続けているとの事だが、ルーウーに比べれば子
供どころか赤子のような物だと男は言う。
変わり者だが賑やかで、よく構ってくれるこの男の事を、チーニュイは嫌いではない。が、子供から見ても突飛な行動が気に
なる変人である。
本当の、普通の焚火にかけていたケトルから、コーヒー粉と砂糖をたっぷり入れたカップに湯を注いだ髭面の男は、そこへ少
量ウイスキーを加えて混ぜ、老虎に差し出す。
「拙僧思いますに…。「どこかへやられる」という事に、会えなくなるという事に、ニャンニャンは不安を感じるのでしょう」
カップを受け取った老虎は、スモーキーなアルコールが存在を主張する、ホットコーヒーの湯気を顔に受けながら覗き込む。
「「預ける」と、そういう話でならば、いずれ納得してくれる事もあるのでは?」
髭面の男は言う。老虎が目を向けると、孫娘はもう眠ってしまっていた。
「すぐには難しいでしょう。そういった事が判る歳になってくれば…という事ですな。その時が来たら、ただ離れるのではない
と、きちんと話してあげるべきです」
チーニュイを連れ、その一生を旅のまま見続ける事はできない。ルーウーの目的はさしもの神仙でも難行と呼べる、達し難い
物なのだから。だが、髭の男はチーニュイを何処かで養子にして貰うという老虎の案自体には賛成したものの、それで終わりで
はないとも主張した。
「ニャンニャンにとって、貴方はたったひとりの家族なのですぞ?無頼無宿の拙僧でも、その寄せる思いと縋る気持ちは判りま
す。拙僧これでも元は人間ですからな」
髭の男はカップを吹いて冷ましながら続けた。
「何処かで預かって貰う。そして、それっきりには決してしない。そう話せば…。ニャンニャンは良い女子に育ちます。きっと
判ってくれましょうぞ」
無言のまま、ルーウーは孫娘を見続けている。
別れ難いのは老虎も一緒。もうチーニュイは、一時保護しただけの命ではなく、自分を慕う愛しい孫娘…。
「そしていっそ!いつか!結婚!してしまわれれば宜しいのでは?」
髭の男が身を乗り出す。それを軽く笑っていなしたルーウーは、いつか来る別れに思いを馳せた。
「ううん…」
何となく腰が痛い。寝返りを打とうかと、寝辛さをぼんやり感じる半覚醒の状態から、
「!」
大狸はパチッと目を開け、一瞬で覚醒状態に戻る。
目に飛び込んだのは幕の天井。白に極めて近いクリーム色。
「目が覚めましたね」
顔を覗き込んだのは年若い人間の若者。男性…だと声で察したものの、その顔を見てカナデは感嘆する。美人の女性と言って
も通用する、美しい顔形と黒水晶のような瞳。耳にかぶる程度まで伸びた髪はサラサラときめ細かな光沢を持っている。
「軍の医療テントです。覚えていますか?貴方、山中で倒れていたんですよ。崖崩れに巻き込まれていたんです」
微笑む男は軍服姿。声を上げて従軍医の老人を呼ぶと、カナデを診察させ、聞き取りさせ、「大事なかったようで何よりです」
と笑みを深める。
問診へ正直に受け答えしたカナデは、「身元確認とかは良いんだよ?」と訊いてみたが、意識が戻るまでにパスポート類は検
めさせて貰ったと、若い男がサラリと答えた。悪びれた様子も無いが、意識が無い異国人を軍が保護したらどこでもこういう物
である。
「立てますか?同行者の皆さんは別に設けた居住テントで休んでいますから、ご案内しますよ。ああ、荷物もそちらにあります」
「同行者?って…、お爺ちゃんもチーニュイちゃんも、ホンスー君も!それから…!」
「はい。こちらの少尉と、お連れ様三人ですよね?少尉は別ですが、お爺さん達は皆一緒に居ます。手狭になるので休憩テント
は二つ用意しましたから、自由に使って頂いて結構ですよ」
無事だと知ってひとまずホッとし、大きめの簡易寝台から起き上がりながら、カナデは自分の体を再確認した。些細な事だろ
うと報告はしなかったが、体のちょっとした異常を自覚している。
(何だか体が重いよ?それに、少しムクんでるかナ?)
実はこれ、青虎の妖術治療の「副作用」である。
ヂーが施した修復作業妖術…送り込まれた妖気のナノマシンは、作業後に分解して被術者の体内で気脈に溶け込む。送り込ま
れる作業体は体積で言えば微量だが、それは大妖怪たる羅々の血が半分流れるヂーの妖気で構築された物…つまりナノサイズに
圧縮されたエネルギー群である。その体内吸収は、通常の人類にとっては超高カロリー栄養剤を強制摂取させられるようなもの。
「そんなもの誤差だろう?」というのがヂーの意見だが…。
(いやでも調子は悪くないナ…。ちょっと熱っぽいけど)
体の調子は良いが、数日分のカロリーを一時に注ぎ込まれたカナデは、頬も指もパンパンに張っており、カロリーの燃焼でや
や熱っぽくなっている。体重も5キロほど増えていた。
何となく足が重いと感じながら、若い男に先導されて外に向かいつつ、カナデはそっと周囲を窺った。
並ぶのは二種類の簡易寝台。体が大きい獣人などにも対処できる配備。点滴台なども兼ねた衝立がそれらを区切って、テント
内に小スペースをいくつも設けている。
二十名は収容できるだろうテントは、専門の工兵が一個小隊は必要になる立派な物。組み立ても分解もやや手間がかかる上に
作業人数はそれなりに要するが、支柱同士を途中で複数個所繋げてバツの字状に補強柱が入っており、壁になる幕はそれを挟ん
で内と外の二重構造になる。防音断熱機能を備える不燃幕が外壁と天井を形成し、土台はなくとも地面にしっかり固定され、台
風でも飛ばない優れ物。ただし、日本円換算で一基200万円は下らず、業者に頼めば施工費用も高くつくが。
(とはいえ、これは「味方用」だよ)
怪しい者や捕虜であれば、これだけ動き回れる共有スペースがある場所で治療しない。戦場での医師は生命線、それを危険に
晒すような真似は避けるのが普通である。
どうやら自分は即時拘束対象とまではならなかったらしいと、ホッとしたカナデは…。
「ところで、怪我はしなかったんだよ?」
天幕から外に出た瞬間、若い男はその問いかけで足を止めた。
「…参ったな。バレないだろうと思っていたんだが、何で判った?」
振り返った男は、失敗したという内心が顔に出ている。
「良い声してるからすぐ判ったよ」
「マジかよ良い声なのか?そんな物より文才か画才が欲しかったぞ僕は」
ブツクサ言うその男は、リー・ヂー。
第八連隊の仮設駐屯地にカナデを運び込んだ彼は、そのまま容体が急変したりしないか、目覚めるまで具合を見守っていた。
仮面も被っていたし夜だったしバレないだろうとたかを括っていたのだが、しかし気を失う間際に聞いた肉声を、カナデはしっ
かり覚えていた。
「容疑は晴れたのかナ?」
「まあね。そういう事にした」
前へ向き直って肩を竦めるヂーに、カナデは口元を緩める。「そういう事にした」…、義理堅いのだなぁ、と。
ヂーはカナデについて「ただの民間人の旅行者」と報告を纏める事に決めた。
悪友やユェインなどが言っていた老君…初の対面を果たした最上位の神仙「太上老君」が「連れ」と言った相手へ、軍や政府
から手出しさせる訳には行かない。何より恩義に背くマネはできないし、人民にとって害悪になる人物でもない…悪事を働くど
ころか危なっかしい善性がある人物だと判った。
第八連隊の仮設拠点は広い。連隊全体で見れば休息中でも、補給隊が持って来た物品をチェックする兵や、周辺警戒に出てゆ
くジープなど、あちこちで動きがある。そんな中をサクサク歩いて案内したヂーは、
「さあ、あのテントだ」
20メートルほど手前で立ち止まり、並んでいる四角いテントを指さした。
「ひとまず休んでおいてくれ。後で誰か呼びに来たら、連隊長に引き合わされる事になるから」
「ああ、なるほど…」
身元をパスポート類で確認しただけで、何も取り調べが無いのは不自然だと思ったが、ここの責任者から直々に尋問でもされ
るのかとカナデは察した。何せ、気が変になったような軍人に襲われるという体験をしたのだから、こちらが無実でもただでは
終わらないと腹を括っている。
それに、滝つぼに飛び込んだ折、ホンスーと自分を連隊長が助けてくれたとルーウーからも聞いている。個人的にも会って礼
を言わないと気が済まない。
「ま、気楽に構えていていい。何せ君は、僕やこの連隊の一員を助けた「恩人」だ」
「ん?ああ、気にしなくて良いよ?こっちも助けられたんだからネ」
カナデの気恥ずかしそうな苦笑いに、ヂーは眠っている猫のように目をギュッと瞑り、懐っこそうな笑みを返した。
「カナデ!」
テントを潜るなり、退屈そうに椅子に座っていた狐の娘が立ち上がり、駆け寄ってカナデの顔を見上げた。
「大丈夫なの!?怪我したって…」
「うん。かすり傷と軽い打ち見だよ。もう何ともないからネ」
安心させるように笑いかけて、狸はテント内にチーニュイしか居ない事を不審がる。
「お爺ちゃんは一緒?ホンスー君は?それから、ジョンは…」
何せカナデは、自分がここへ運び込まれたのはともかく、他の面子があれからどうしていたのかが判っていない。案じる狸に
狐の娘が応じる。
「お爺ちゃんと怪しい奴は一緒、隣のテントで大事なお話だって。ホンスーは一番偉い隊長さんのところかな?ホーコクレンラ
クソウダン?とか?色々あるからって言ってた」
チーニュイはそう言って、祖父から言われた通り、仙人やシャチについては伏せたまま、「バラバラになった自分達は山岳を
捜索していた軍人達に救助された」と説明した。
地崩れに驚いて、チーニュイとシャチはその場を離れようとしたものの、安全な場所が判らず、しかも見通しが悪いので迷っ
てしまった。
ホンスーは、カナデと自分を助けてくれた連隊長の命で山岳を捜索していた本隊の兵達と合流し、事情を説明してルーウーも
探し出して合流、チーニュイとシャチもすぐに見つかった。
カナデだけ見つからなかったが、少し遅れて土砂崩れに巻き込まれた状態から別の隊が発見し、救出してきた。
…それが、カナデに対してルーウー側と軍側が主張する「真実」。
やがて、隣のテントで声を聞きつけたのか、天幕入り口が揺れて、シャチとルーウーが顔を出す。
「よう。お目覚めかァ、ストレンジャー。グフフフ!」
ニヤニヤするシャチと、目を細くして微笑むルーウー。顔を見てやっと心から安心できたカナデに、椅子に座りながらシャチ
が告げた。
「ホンスーがなァ、世話になったって事、潔白だって事、上に証言してなァ。グフフ。多少話は聞かれるだろうが、すぐに交通
の便がいい町まで送ってくれるってよォ。ああ、言うまでもねェが…、「俺様達はおかしな兵なんか見てねェ」、いいなァ?」
そういう事件が起きた事は知らない。そういう体裁にしろとシャチが念を押すと、カナデは当然のように頷いた。「それがい
いネ」と。深入りしてはいけない事という物は、どこにでもある。誰も不幸にならないならそれでいいが、懸念事項は一つだけ
あり…。
「あと、空っぽの町だがなァ」
丁度カナデが気になった事について、シャチがタイミング良く言った。
「こことは別の部隊が強制移住を執行したんだとよォ。俺様達が居た時は落ち着いてたが、あそこ、あちこちで地下からガスが
出てるんだと。人体に害が出る濃度だが、貴重な資源でもある。で、金と権利が絡めば…判るなァ?あとは政府絡みの話だァ、
そっちも深入りは危険だぜェ」
「そういう事か…」
状況説明の為にでっちあげられた情報は、むしろカナデにとっては信憑性がある話だった。深入りするなと釘を刺す効果も抜
群である。
―では チーニュイ 汝に 話がある 参れ―
ルーウーはカナデが元気な事を確認すると、孫娘を招いた。
「うん!隣のテント?お菓子も持って行っていい?」
チーニュイは月餅が入った皿を持ち、ルーウーについて行く。
「…さて、爺さんに頑張って貰う間に、こっちは一服…」
「頑張る?何をだよ?」
シャチの言葉を遮って質問したカナデは…、
「何で!?」
隣のテントから、二重の幕越しにも響いた狐の娘の声で耳を立てる。
「まァ、いろいろ、だァ」
シャチは隣でルーウーが孫にしている話の内容を知っている。それを提案したのは彼自身だったから…。
「失礼します」
その時だった。天幕の入り口に、ガッシリと恰幅の良い猪が姿を見せたのは。
「連隊長付副官、ジアン・チョウ上尉と申します。コダマ・カナデ様、体調は如何でしょうか?」
背筋を伸ばして敬礼する体格が良い猪に向き直り、「もう元気ですよ」と応じたカナデは、問題が無ければ連隊長に会わせる
というチョウの言葉を聞いて、これを承諾した。
「じゃ、俺様はのんびりしてるぜェ、異邦人」
ひらひらと手を振って見送るシャチ。テントを出たカナデは、気遣うように歩調をゆっくりにしている猪に案内され、テント
や整備中の車両の間を抜けてゆく。
「先に申し上げますが、緊張なさらなくて大丈夫です。尋問や面倒な事や物騒な事はありません。連隊長からは、直接お話しし
たい事があるのでご案内するよう命じられています」
仮眠も取っておらず疲労も濃く、極致の反動も完全には消えていないのだが、チョウの姿勢や身振りからは調子の悪さは覗え
ない。事情を知る由もないカナデは、軍人らしい、背筋を伸ばした姿勢とキビキビした動作、ハキハキした口調だと感じる。
大声を張り上げる機会が多いからだろう、喉が少しガラガラした綺麗とは言えない声なのだが、そこに現場の人物という印象
を抱いた。
連隊規模の部隊を率いる司令官付きならば副官も大尉前後の階級。チョウが副官であっても階級上おかしくはない。ただ、普
通ならば現場慣れした将校よりも、幹部として養成されたエリート将校など、むしろ現場と遠い将官候補の士官が充てられるの
ではないかとも思うのだが…。
(どっちかって言うと、幕僚よりは民間に近い感性の、現場叩き上げ軍人っていう感じだネ)
警戒心や緊張を和らげるためなのだろう、猪は案内しながら気さくに話しかけてくれて、だいぶ気が楽になったし、その取っ
つき易さにも親近感を覚える。
こういった人物は軍人にも少数ながら居る。そして、カナデはこういった人物の方が好きである。
体の調子を気遣う問いに、災難だったと同情する声、そしてこの辺りは景色が良い所が多いでしょうという世間話…。唯一口
ごもったのは、「ひとが少なく見えますネ?」という、陣の規模や車両などの機材類に対して、見かける兵が少ないという感想
をカナデが口にした時だった。
「大部分が仮眠中でして…」
チョウが言葉少なく濁した途端に、カナデは察した。動いている兵が少ないのは、夜間行動の休息のため。これを言っては救
助された側である異邦人が気にすると考えたのだろう猪を、カナデは気が回る優しいひとなのだなと感じる。
「先生からは大丈夫だと聞いておりますが、お腹が受け付けるようなら、茶と菓子をご用意いたしますので、よろしければ連隊
長とお茶の一杯もお付き合い頂ければ」
「そういえば少しお腹が減ったかナ…」
「であれば、月餅などしかございませんが、是非」
そんな調子で和やかに話していたチョウは、突然ピタリと口を閉ざした。
「あ、カナデさん!」
何か食べ物が入っているのだろうか、包みを両手で大事そうに持ったレッサーパンダが、テントの間を抜けてゆく狸に気付い
て、後ろから声をかけた。
「ホンスー君!」
応じた狸がパーッと顔を明るくし…、
(…あれ?何か引っかかるナ?何だろう?)
ホンスーの顔を見た途端に、頭の中で何かが繋がりそうな気がした。
「大丈夫ですか?起きたって聞いて、ご飯とか要るかなと……」
気を利かせてテントへパン類を届けようとしていたホンスーは、先導していた猪が横にずれて、カナデの向こうからぬっと姿
を見せると、ビクッと小さく跳ねて背筋を伸ばした。
「じょ、上尉…!」
「少尉。連隊長からは天幕から出ないよう、待機を命じられたはずだが?」
カナデと話していた時とは打って変わって、チョウは厳しい顔と声になっていた。
進み出て間を詰め、威圧するように見下ろす猪の前で、レッサーパンダは小さくなってしまう。
「す、済みません…。戻ります…」
スゴスゴと回れ右するレッサーパンダ。その、しょんぼりと落ちた肩と垂れた尻尾、落ち込んだ後ろ姿を、仁王立ちで見送り
ながら…。
(おや?)
カナデは気付く。叱責した猪の幅広い尻の真ん中に、房付きの尻尾がクタンと、落ち込むように下がった事に。
「申し訳ありません、お見苦しい所を…」
振り返ったチョウは耳を倒し、済まなそうにカナデに頭を下げた。
対外的な甘い顔と、軍内での厳しい顔を使い分けている…とも見えるのだが、どうもそういった単純な話ではないような気が
した。まして、食事を持って行こうとした者を、届けられようとした者の前で追い返すなど…。
(この軍人さん、部外者の前では叱るのを抑えるぐらいの配慮はしそうなひとだよ?なのに…)
カナデはハッとした。待機という表現からも謹慎を命じているのではないと察せられる。謹慎処置であれば見張りなどが監視
もして、今のように気軽には出歩けないだろう。体は自由でありながら自主的に大人しくしているよう求められるというのは…。
「隔離?」
ポツリと漏らしたカナデを、チョウが驚いたように見つめた。何という鋭さだと、感心すらしてしまった。
「あ、いや…。感染症の類だとか、そういう話ではありませんのでご安心を」
隔離という言葉は否定せず、可能な限りの誠意をもってチョウが答える。
「情報の流出防止に備えた一時的な措置と考えて頂ければ。無許可で他言されては困る情報に触れてしまったので、一時待機を
命じております」
まさか、本人にもまだ言っていない、部隊の仲間にもおいそれとはできない、「神仙のタマゴになった」話などカナデに言え
るはずもなく、チョウは説明を濁した。本来であれば上層部へ最優先で報告すべき事なのだが、これについては「本当にそうす
るべきか」も含めてユェインと相談し、一時伏せておく事に決まっている。
「それは…、僕達が原因で、罰せられるような事になった訳じゃ…」
「いいえ!処罰されるような事ではなく、皆様に何らかの原因がある事でもありませんので、どうかお気になさらず」
これにはチョウが力強く応じた。そして…。
「…有り難うございます…」
チョウが口の中で小さく転がした、聞かせるつもりもなかった、ホンスーを案じてくれた事への礼を、カナデはその耳できっ
ちり聞き取っている。
(何だか複雑そうだよ…。あ!)
この瞬間、先程繋がりかかっていた事が何なのか、カナデは気が付いた。
「ジァン・「チョウ」さん…。貴方が「チョウお兄ちゃん」なんだよ?」
「はい?何故…?」
目を丸くする猪。どうしてその呼び方を?と、虚を突かれた驚きの顔である。
「実は、ホンスー君が…」
狸は語った。滝に落ちて一緒に気を失った時、先に目を覚ましたカナデは、レッサーパンダがうなされながら口にしていた言
葉を聞いていた。「チョウお兄ちゃん」に、何度も繰り返し謝り続けていたうわ言を…。
「…そう…、でしたか…」
チョウは絞り出すように言うと、踵を返す。「参りましょう」と。
カナデは目を逸らす直前のチョウの瞳を、そこに浮かんだ感情の細波を、確かに見ていた。
猪の目に揺らぎを与えた物…。それは、申し訳なさと悔恨だった。
ドーム状の丸屋根が特徴的なそのテントの前で、猪が「お連れしました!」と声を上げる。
「ご苦労。お通ししてくれ上尉」
低く太い、威厳を感じながらも穏やかな声。さぁ一体どんな人物かと、猪に続いてテントに入ったカナデは…。
(ああ、なるほどナ)
すぐに納得した。丁度椅子から立ち上がる所だった、大兵肥満のジャイアントパンダを目にして。
軍人である。そして大部隊を預かる司令官である。そう言われて、そうだろうと思うしかない説得力が、見た目にも佇まいに
も現れている。
仕事上様々な国の軍人と会ってきたし、幹部もそれなりに見てきたカナデだが、感嘆するほど立派な将校だと、一目見ただけ
ですっかり感じ入ってしまった。
大男といえるカナデやチョウと比べても、その体躯はどっしりと大きく、重々しい。太り肉であってなお鍛え上げられている
事が、腰や太腿のボリューム感で判る。それでいて単に武骨なだけではなく、佇まいや仕草は貴人のそれ。
「第八連隊の隊長、フー・ユェイン上校と申す。コダマ・カナデさん、御加減はどうだろう?」
声質は重いが聞き取り難くはない、典雅な発音と豊かな声量。威圧する事なく相手を包み込んで落ち着けるようなバリトンボ
イス。カナデが抱いた印象は、「名刀」だった。
斬る、倒す、殺す事を本来の役割としながら、しかしひとを惹きつける魅力を備える武器。煌びやかに飾り立てられるのでは
なく、その在り方をもって目を引く名刀…。カナデはユェインにそんなイメージを重ねる。
「お陰様で助かりました、隊長さん。滝壺からの救助、お礼申し上げます」
「いや、そもそも我が隊の隊員を庇っての事。お礼を申し上げるはこちらの方というもの。…どうぞ」
カナデはユェインに椅子を勧められて腰を下ろし、テーブルにつく。折り畳み式ではなく、しっかりした脚がついたオーク材
の机と椅子のセットだった。
見ればテント内の物品類は持ち運びを重視した物ではなく、野営地に将官を迎えても非礼にならないよう一級品が揃えられて
いる。現場ではあってもここは指令室兼応接室、公的な軍の執務室なのである。
「お茶をお淹れします」
チョウは一礼してテント端の棚に向かうと、用意しておいたティーセットで茶の支度を始める。
「さて、私が職務上話すべき件は…」
向き合って座るカナデに、ユェインはその隻眼を据えながら口を開く。
「「旅行中の貴方はたまたま通りかかった地区で災害に巻き込まれ、我々はこれを救助した。なお、同地区内で行なわれた我が
国の軍による如何なる軍事行動も知らず、見てもいない」。それでよろしいか?」
カナデはキョトンとして、それから「え?」と思わず聞き返していた。
よく聞いていると判るが、それは「何も見なかった事にしろ」と圧をかけているのではなく、「こちらは見なかった事として
処理する」という宣言と、それで良いかという提案。
「い、いいのかナ?それで…」
軍事機密に触れた一般人に対する物としては、交渉の末に様々な条件を取り付けたうえで示す最大限の譲歩…そんなレベルの
話である。まして他国の旅行者なのだから、何らかの理由をつけて拘束、あるいは始末するのがベターだろうとカナデも思う。
だが、ユェインが提示したのは何の条件もつかない解放…。ヂーやチョウが言ったとおり、緊張して望むような沙汰は待って
いなかった。むしろこの状況においては破格の待遇と言える。
「こちらとしてはその程度の事しかできない。無論、口外しないで貰うという約束を頂くのが前提だが、如何か?」
「是非も無いよ。でも、それだと隊長さんは…」
もしこれで何かあったら、上からのお咎めは免れない。そこを心配するカナデの様子を見て、ユェインは厳めしい顔を僅かに
緩め、茶を淹れているチョウも思わず微苦笑してしまう。優しいひとなのだな、と。
「問題ない。何せ貴方は…」
ユェインは目を細め、あのヂーに「無実ってお墨付きを第八連隊からも出してくれ」とまで言わせた異邦人の顔をじっと見つ
めた。
軍務には従う。が、恩に叛くは良しとせず。離将もそうだが、震将もまた恩義に報えない振る舞いを魂が許可(ゆる)さない。
「甥の命を、二度も救ってくれた。これしきの事では、恩を返すには到底足りない」
カナデは少し考え。「あ」と少し間が抜けた声を漏らした。
「そういえば「伏(フー)」って…!隊長さんは、ホンスー君の親類なんだよ!?」
「うむ。ホンスーは兄の忘れ形見である」
「じゃあ、ホンスー君のあの名乗りは、真似しようとしてたんだナ!?」
「真似、とは?」
カナデは微笑ましく感じながら説明した。最初に会った時のホンスーが、ものすごく背伸びしたように上ずった声で、彼の素
とはまるで違う口調だった事。それも非常にたどたどしく、噛みそうになっていた事を。
カチャリと、チョウの手元でティーセットが音を立て、背中が僅かに震えた。ユェインは少し嬉しそうに、しかし何処か寂し
そうに、耳を倒していた。
「お待たせしました」
チョウが持って来たお盆には、美しい乳白色の茶器セットが乗せられていた。茶壷…急須と、茶杯…湯飲み、双方とも桃の実
がついた枝花が描かれている。
ふたりの前に湯飲みを置いたチョウは、口が外側に向かってゆるく広がり、口にフィットして飲み易い形状の薄口湯飲みを一
つ取り上げ、急須から少しだけ注ぐと、クイッと煽って空にする。薬など入っていないという、律儀な証明の毒見である。
「お茶も勿論だけど、これは良い茶器だネ!」
「お目が高い!高級玉磁です」
味わった客にすぐ褒められ、ちょっと得意げなチョウ。しかし…、
「私も気に入っている、副官が選んでくれた品だ」
黙っておけばいい事を上官がさらりと口にしてしまって、若干がっかりする。
ユェインは食器や調度品、装飾品に拘らない。普段などは、内側に仕切りが付いた、直接茶葉と湯を注いで手軽に飲める安い
大型マグカップを愛用しているほど。個人で楽しむ分にはそれでいいが、副官としては誰かと席を共にする時の見栄えや格式に
も意見がある。だから、この上校は良品を見る目がある、…と客に思われるよう気を配って選んでいるのだが、それを本人がバ
ラしては台無しである。
実はこの連隊長、軍務に手抜かりは無いが、そこと関係ない事や私生活にはだいぶ手抜かりがある。有体に言えばかなり大雑
把な面が見られる、とも…。
「あ」
客の前では言うな、と言われていた事を思い出したユェインが、茶を注ぐ手に動揺の震えを見せたチョウを見遣る。
「私が選んだ事にするのだったな。済まない上尉」
素直に言ってしまうあたりがとてもユェイン。脱力しそうになるチョウ。笑いを堪えたカナデは、手に取った月餅を口元に寄
せて…。
「お菓子も美味しいナ」
「月餅は上尉の手作りだ。何でもできるが、料理も上手い」
「上校!?」
客の前では伏せておいて欲しい事まで口にしたユェインをチョウが咎めて、茶を零さないようにカナデは笑いを必死に堪え…。
「チーニュイちゃんを養子に?」
和やかな歓談後、夕刻には着くように交通の便が良い町まで送らせるとユェインから言われたカナデは、テントに戻るなり、
帰りを待っていたシャチから告げられて仰天した。
「そういう提案をしたってだけだァ。すぐって訳でもねェがなァ」
隣のテントでルーウーがチーニュイに話をしたと、シャチは語る。今はもう静かになっているが…。
「たぶん、だいたい決まったんだろうぜェ」
チーニュイという存在が持つ危険性…神仙を束縛する重要な存在であるという客観的事実と、ルーウーが邪仙を追い続ける以
上は彼女が危険から離れられない事を、シャチはカナデが目を覚ますまでに、老虎へ率直に告げていた。「仇討ちが終わったっ
て節目でもあるだろうしよォ」とも言いながら。
もっともカナデには「年寄りが旅に小さな娘を連れ歩くのはしんどい。まして爺さんは孫に、普通の娘として育って欲しいっ
てのが本音だァ」と、もっともらしく説明したが。
「一人引き取るのも二人引き取るのも変わらねェ。リンも姉妹が居た方が退屈しねェだろうしなァ。グフフフ!たぶん」
ドゥーヴァに聞かれたら「そういう所ですわよ」と冷たい目で見られるのは確実な、放任パパの適当過ぎるセリフである。
「どっちが幸せかは、判らないけど…」
カナデは老虎と孫の事を思う。かつて経験した離別を思い出しながら。
「…ちゃんと話して、納得が行く結論が、出せると良いナ…」
「じゃ、僕はそろそろ行くから、後はよろしく」
連隊長のテントを訪れたヂーがさらっと言って、
「もう行くのかね?」
と、物資大量焼却作戦及び四罪四凶タオティエの消滅確認に関する報告書に手を付けていたユェインが顔を上げ、そのデスク
に容赦なく必要書類と資料をハイペースで重ねてゆくチョウも手を止めた。
カナデとの歓談が予想以上に盛り上がって予想外に時間を使ったので、ユェインは数時間先の休憩も返上で処理ペースアップ
中。チョウもこの後は手伝えなくなるので、必要な物を揃えて重ねていく速度に配慮も加減も無い。
「滅多に会えぬだろう老君と、話くらいはした方が…」
「あー、それな…。うん…」
話に聞いていた神仙が「太上老君」と知って驚き、それ以降は客のテントになるべく接近しないようにしているヂー。この態
度を不思議に思ったユェインに、大妖怪の息子はボソボソと言った。「昔、母上がな…」と、言い辛そうに。
ひょっとして因縁がある相手だったのか?とユェインとチョウが静聴すると…。
「太上老君を襲ったらしいんだよ…」
「何故!?」
流石に声を大きくするチョウ。
「あ、敵対したとか殺そうとかそういうんじゃなく、性的な意味での「襲う」だ。男女の関係を迫ってだな…。四罪四凶が居な
い頃だから、何千年も前の話らしいんだが」
「それにしても何故!?」
「力ずくで既成事実を作ってねんごろになろうって考えたみたいでさ…。我が母親ながら在り得ない女だろ?在り得ない。在り
得ないな。いやマジで。…それで顔を合わせるのは気まずいんだよ…。向こうはこっちの素性に勘付くかもしれないし、息子の
僕はどんな顔をして会えば良いか判らないだろう?判らないとも。判らないさ。マジで」
「そういう物か?そもそも生まれる前の事ならば、室長自身には関係のない話では?」
淡白過ぎる反応に、思わずユェインを凝視するヂーとチョウ。
「それはまぁ理屈じゃあそうなんだけれどなフー・ユェイン連隊長殿…」
「そういう事ではないのです上校…」
「む?」
残念がられている理由を察せられないジャイアントパンダ。つくづくユェインである。
「まぁとにかく僕は行く。最悪に備えて念のために声かけておいたせいで、仕事片付けたルォちんが途中まで来ちゃってたし、
無駄足踏ませた分は埋め合わせしないとな」
「そうでした!かの婦人の新しい住処には、どうか良い所を都合して頂きたく…!」
ファポォの家を膝蹴りで思い切り破壊してしまったチョウは、頭を下げて懇願した。
「ま、その件は改めて頼まれるまでもないさ。ただし一つ貸しだぞ?」
そう言いながらヂーは笑う。この猪もジャイアントパンダも、妖怪を異物と見なさない。そんな所は悪友だったあの男と少し
似ているな、と…。
「…で、ここから列車で移動するよ。長距離になるな」
「グフフ、引き上げルートだなァ。取材は終わりかァ?」
「この付近の分はネ。配慮して貰ったんだから、周辺をウロウロしてるのはちょっとナ。…お?」
地図を開き、シャチと向き合って話し込んでいたカナデは、天幕入り口を見遣る。
夕刻。今後の旅程について相談していたふたりの所へ、長らく隣のテントで話をしていたルーウーとチーニュイが戻った。
「あ、お茶飲んでる!チーニュイも!」
カナデの隣で椅子に座った狐の娘は、いつも通りだった。ただ、狸は気付いている。チーニュイの目が赤くなっている事に…。
「いいお茶ねこれ!」と、チョウが届けてくれた高級な白牡丹(バイムータン)に、蜂蜜シロップを垂らして楽しむ狐の娘は、
普段よりもむしろ明るく見えるが、それは、そう振舞おうとしているだけ。
静かに茶を啜るルーウーの表情からは何も窺えないが、おそらく…。
(空元気、だネ…)
話は決まったのだろうと、カナデは察した。
ユェインに連れられてホンスーが訪れたのは、たっぷり休憩を取った一行が出立準備を終える頃の事だった。
レッサーパンダは深々と頭を下げて、「あの…」と、モゴモゴ俯いて言う。
「役に立たなくて…、本当に済みませんでした…」
これを聞いて、そんな事は無いと、カナデが声を発する前に…。
「何言ってんだァ?」
シャチが肩を竦めて口を開いた。
「そんなのは気にすんなァ。役に立って生きてるヤツなんて、世の中そんなに居ねェんだぜェ?グフフフフ!だいたいは世界に
不要だからなァ!」
シャチらしいシニカルな「誰だってそうだ」は、突き放すようでいて、聞いていると気楽になる、妙な説得力があった。
「ホンスー。まずするべきは、役に立てなかった事を詫びる事ではない。こんな時に言うべき事は…」
ポンと肩に手を置いたユェインの笑みを仰ぎ見て、ホンスーはハッとした。お詫びではなく、今ここで言うべき別の事…。
「あの!有り難うございました!お世話になりました!」
カナデが「こちらこそだよ!」と大きく頷く。チーニュイが「賑やかで楽しかった!」と笑い、ルーウーが無言で温和に微笑
み、シャチはいつものように「グフフ!」と含み笑い。
直々に案内に来た人間の中隊長に導かれて去る一行を、その場に留まるレッサーパンダとジャイアントパンダは、並んで一緒
に見送って…。
「ホン」
一行の姿がテントの向こうへ消えた後、ユェインは太い声で優しく語り掛ける。
「恩に恩で報いる…。それは、ひとができる中でも特に美しい事であり、当たり前であるべき事でもある。もしもこの先、その
機会ができたなら、君が受けた恩を忘れずに接する事を、私は願う」
「はい、連隊長…!」
表情を引き締めて応じるホンスーだったが…。
「いや、これは軍人としての話ではない。君の父なら言うだろう事を、君の叔父として話している。そうするのが好ましい、と
いう個人的な話だ」
ジャイアントパンダが優しく細めた隻眼で見下ろすと、レッサーパンダは一度戸惑いの表情を見せた後…。
「うん!恩返しは必ず…、お父さんもそう言ってた!」
と、甥の表情になってジャイアントパンダに笑顔を見せた。
「そうか。言っていたか…」
兄を懐かしがったユェインは、ホンスーが小さかった頃からよくやってきたように、その頭にポンと軽く手を置いてクシクシ
と軽く撫でる。レッサーパンダはくすぐったそうに、そして受け入れるように、耳を伏せて照れ笑いした。
兄とは全く似ていない、顔立ちも性格も義理の姉にこそ良く似ている甥を、ユェインは愛している。頼りなく、そそっかしい、
兄の忘れ形見を。
ホンスーが軍人になりたいと言い出した時、止めるべきだと言うチョウの気持ちに共感しながら、実は少し嬉しくもあった。
動機や理由が嬉しかったのではない。その選択を最適解とも思っていない。だが、反対されても自分の道を自分で選んだホン
スーの、家を出る時の兄を思い出させる行動が、懐かしくて嬉しかった。やはりヤングァンの子なのだな、と…。
ユェインは愛おしく思いながら、甥に語りかけた。
「夕刻まではテントに戻ってそのまま待機していなさい。夕餉が済んだら私の所へ来るように。…今夜は、ホンにしなければな
らない、大切な話がある」
「はい。…大切な話…?」
「うむ。とても…、大切な話だ」
ユェインは午後の太陽を眩しそうに見上げた。
どうかこの子の行く末を永く護られよと、亡き兄に祈りながら。
「では、町までお送りしますので、搭乗願います」
アイドリングしているジープの脇で待っていた猪がそう言うと、カナデは「え?」と眉根を寄せた。
「上尉さんが直々に送ってくれるんだよ?」
連隊長の副官が運転手という人選にカナデは戸惑ったが、これは第八連隊及びユェインとしては最良の選択肢。
安全を保障する以上それなりの者を付けるべきだが、頭数を揃えては目立ってしまう。しかしチョウであれば何があっても適
宜適切な判断と行動ができる。まだ本調子ではないが、もうじき力も戻って来るし、護衛戦力としても十分。何より…。
「皆様の宿泊先、及び食事、明日使用なさる列車の運賃、全てお詫びとお礼を兼ねて連隊長がもたせて頂く事となりました。軍
に判る形で履歴を残しては後々面倒にも繋がりかねませんし、連隊長のポケットマネーからになりますので、支払い代行者とし
ての同行でもあります。それに、例え別の部隊と鉢合わせて身元確認などされそうになっても、本官なら上手く「説明」できま
すからな」
一般兵や下級将校では何かあっても対応し辛いが、上尉階級であるチョウなら多少の無理も通せるし、もし検問があっても行
動を咎められず、変に詮索される事もない。財布も兼ねる生きた通行手形である。
そして何よりユェインには、副官…否、「信頼するジァン・チョウ個人」にしか託せない、ルーウーへの大切な要件があった。
一応は軍務から離れた非公式行動であるため私服なっているチョウだが、カーゴパンツを穿いて軍用防寒着を思わせるフード
とファーつきのジャケットを羽織ったその姿は、着替えてなおまだ軍人っぽい。
「恐縮しちゃうナ…」
「なに、我が隊の若手士官の命を二度も救って頂いたのですから。連隊としては仲間の恩人、連隊長と本官にとっては身内の恩
人です。…高級料理店で好きなだけ飲み食いしても、文句は出ませんよ?少尉の命に比べれば、何を頼んでも高いとは絶対に言
いませんので」
後半は小声で告げ、悪戯っぽく笑う猪。
その態度に、笑みを返しながらもカナデは違和感を深めた。
ホンスーの生還を喜び、安堵している。ユェインとの歓談の折にもそうだったが、ホンスーの話題になると声の弾み方や表情
の緩み方などが顕著だった。今も連隊長と自分にとって「身内」と言っており、彼を大事に思っている事が態度からも口ぶりか
らも伝わって来る。
なのに、この猪が直接ホンスーと向き合った時にかけた言葉も、見せた態度も、今の物と比べれば妙と言えるほどに厳しい物
だった。
立派になって欲しくてあえて厳しく接する。そうやって後進を導く人物は、軍人に限らず居るものだが…。
(でも、たぶん違うよ)
直感に過ぎないものの、カナデにはチョウの態度がそれらとも異なる気がしていて…。