漂泊の仙人と煙雲の少女(終)

 一行を乗せたジープは、チョウの運転でかなりの距離を走った。

 道自体が少ない開けた平地から舗装道路に乗ると、あっという間に民家や建造物が増えてゆき、次第に人の手が入っていない

風景の方が少なくなってゆく。

 先に言われた通り日没前には到着するペースで、快適に走る車の中、「じゃあ明日列車に乗るまでは一緒なんだね?じゃあ晩

御飯も一緒だね?だよねチョウお兄ちゃん?」と、チーニュイは同行者が増えた事を単純に喜んでいた。

 シャチとしては正直、特殊将校が案内するという事態は気が休まらないのだが、固辞してしまっては余計な警戒心を抱かせか

ねないので、何食わぬ顔で大人しくしている。

(八卦将ほどじゃねェとしても、この猪も厄ネタの匂いがプンプンするからなァ…)

「夕食のご希望などありますか?評判が良い料理店など調べますが…」

 そんなチョウの言葉に対し、シャチとチーニュイから『ラーメン!』と声が上がった。なおルーウーも、―ラーメンー、と同

調している。

『ラーメン?』

 チョウは意外そうに、カナデは困惑して、同じ単語を同時に発する。

―カナデの ラーメン 美味也―

「ニッポンのラーメン食べたい!」

「グフフフフ!体に悪そうなカロリー高ェヤツなァ!」

「なるほど日式拉麺ですな?宿場もあるそれなりに大きな町ですから、提供している店もあるかもしれません」

 理解したチョウは着き次第探してみると請け負うと、「野菜がたっぷり乗せられた味噌ラーメンなどあれば嬉しいですが」と

付け加える。

「おや。上尉さん、詳しいんだネ?」

「日本には軍の視察研修や上校の供回り、あと個人的に私用でお邪魔しております。特にマツシマには幾度も、長く滞在した事

もありまして」

 チョウが挙げた地名から、確か近くに自衛隊の基地があったなと、記憶を手繰るカナデ。

「航空基地かナ?」

「はい。何と言っても本命はブルーインパルスですな!実に見事な、圧巻の編隊飛行には毎回惚れ惚れ致します!…実は本官、

子供の頃から飛行機が好きでして…」

「あァ?まさかそれで軍人になったのかァ?」

 少し照れた様子で鼻の頭を掻きながら語ったチョウは、シャチが思わずといった様子で口を挟むと、「ええ、当初は空軍を志

望しておりました」と隠さずに応じた。

「オープンコクピットのクラシックなプロペラ機、あれが子供の頃の憧れでした。結局、飛行機乗りになる夢は諦めましたが…」

 きっかけはホンスーの父から何かの折に土産で貰った、プロペラ複葉機の小さな金属製模型だった。それがすっかり気に入っ

て、プロペラ機から戦闘機、ジャンボジェットまで飛行機全般が好きになったチョウは、飛行機の観覧旅行が数少ない趣味であ

る。なお、もう一つの趣味はホンスーの父から習った甘味作り。

「そんな仕事や趣味の旅程の中で、絶景と海産物、センダイミソのラーメンには毎回大変良くして頂きました」

 気に入った事を良くして貰ったと言い換えるチョウの軽妙な表現で、愉快な言い回しだとカナデが笑う。

「僕も時々、特に新型機のお披露目飛行や曲芸飛行なんかは、専門の友達の取材に付き合って撮りに行くよ。もしかしたら今ま

でも何処かでニアミスしていたかもネ」

「そうでしたか。もしかしたら今後お会いする事もあるかもしれませんな。その時はどうぞよろしく」

 終始和やかな移動だった。道中でチョウは盗聴や張り込みが無い証明も兼ねて、一行に宿を決めさせて、食事を摂りに出やす

い位置の洋式ホテルに車を乗り付けた。

 荷物を下ろし、ひとを下ろし、駐車場に車を回すためにハンドルを握ったままのチョウは…。

「どうかなさいましたか?」

 最後に残り、皆を先に行かせた後部座席のカナデを振り返った。

「うん。まぁ、余計なお世話かと、ちょっと思うんだけどネ…。話しておいた方が良いかナと思って。ホンスー君の事…」

 チョウは表情を変えなかったが、耳の先がピクンと震えて、微かに動揺が現れていた。

「どういったお話でしょう?」

 猪は顔を前に向ける。触れられたくない話題だというのはその仕草で判ったが、この場で言わなければタイミングを逃すかも

しれないと、カナデは気持ちを決める。

「ホンスー君は、貴方を慕っているよネ?」

 そうして、異邦人はお節介だと自覚しながら、あのレッサーパンダについて話し始める。

 ホンスーが何か考え込む度に見せていた瞳の色に、カナデは共感めいた物を感じていた。

 大切な誰かに置いて行かれたような、親しい誰かに居なくなられたような、そんな哀しさや寂しさ…。ホンスーが抱えている

のはそんな物であるような気がしていた。

 つまり、自分と似たような想いをしたのではないか、と…。

 猪とレッサーパンダそれぞれを見たカナデには、ホンスーがチョウを慕い、チョウがホンスーを気にかけ、なのに大きく距離

が空いたその関係性が、気になって仕方なかった。

 同じ隊の仲間だとか、先輩と後輩だとか、そういった関係だけではないと憶測するが、ふたりの間柄は知らない。これは知ら

ないままの出しゃばりだと自覚しながら、それでもカナデが言いたかったのは…。

「黙って居なくなられるのって、嫌な物だよ」

 一緒に過ごしたホンスーの様子を、なるべく丁寧に語って感謝を伝えた後で、カナデは自分の意見を口にした。

「それはネ、ひとはいつか死んじゃうものだし、別れは必ず来るよ」

 チョウはバックミラー越しにカナデを見ていたが、自分を見つめる狸の真っすぐな目にハッとさせられた。

 豊かな国で平和な環境に育った一般人の目には、とても見えなかった。むしろその眼は、汚い物も綺麗な物も見続けて、何度

も褪せてなお輝きを取り戻し、決して失望しない…、敬愛するあの上官の、静かな眼差しにも似ていて…。

「ひとは死ぬよ。災害で。事故で。病で。争いで。貧困で。宗教で。誇りで。憎しみで…。…愛で…。誰だって、必ずいつかは

居なくなるよ。一人ずつとも限らない、何人も一緒にお別れする羽目になる事だってあるよ。軍人さんで、危ない目にも遭うな

ら、なおさら可能性は高いよ…。でもネ」

 それは、「必ず後悔する」と諭すような、「今ならまだ間に合うと」引き留めるような、厳しく、哀しく、そして何より寂し

そうな声と表情だった。

「例え突然の別れでサヨナラを言う事ができなくても、言葉を交わせる内にできるだけ伝え合えれば…、満足はできないとして

も、多少納得は行くものだよ。でも、そういう時が来ると思っていながら、伝え合うべき事がたくさんあるにも関わらず、黙っ

て居なくなるのはネ…」

 カナデは一度言葉を切り、俯いた。

「居なくなられた方からすると…、嫌な物だよ…。黙って去られたって、忘れられるはずなんて無いんだよ…」

 カナデは気付いていないが、その「居なくなられた方」に立った物言いで、チョウは確信した。

 きっとこのひと「も」そうなのだ。自分達と同じように、大切な誰かに居なくなられてしまったのだ、と…。

「…心に留めおきます。まずはご忠告に感謝を。そして、ホンスー君ともども、気を遣わせてしまった事にお詫びを…」

 少しだけ、カナデの目元が緩んだ。

 「ホンスー君」。このひとはあのレッサーパンダを、本来はそう呼んでいたのだな、と…。

 

「こんなにたくさん…、全部食べていい物なの?これも?あの餃子みたいなのも?」

 積み上げられた水餃子、焼売、熱々の海老春巻き、棒棒鶏に油淋鶏などを、目をしばたかせながら見つめるチーニュイ。一行

が囲んだ卓の上には所狭しと皿が並び、それぞれ希望したラーメンが湯気を立てている。

 シャチが勧めたトンコツチャーシューメンなる暴虐のカロリーを味わい、濃厚なスープが絡んだ麺の味に目を白黒させている

ルーウー。

 食べながら日本の味噌ラーメンの地域別トッピング差と合わせる麺の特色についてディープに語るカナデと、同じくゾルゾル

麺を啜りながら熱心に聞き入り情報入手、ちゃんと理解するチョウ。

 一行の希望に沿うようチョウが探し当てた料理店は、オーソドックスな中華がメインの高級店だった。だが、練磨された本場

の伝統料理にのみ拘る事なく、海外の料理もメニューに加えてグローバル化に対応している店。日式拉麺もシオ、ミソ、ショー

ユ、トンコツとスープ別だけでも四種類取り扱っており、トッピングバリエーションも豊富。ラーメンを渇望していた三名を大

いに喜ばせた。

 中国に起源を持つとはいえ、日本で多様化し別進化を辿ったラーメンを、この国では日式拉麺と呼んで区別している。本場の

口に合うのかと疑問に思う日本人も多いが、チョウ達はもはや別物の料理…つまり日本料理のカテゴリーで見ており、食感が大

きく異なる麺や味が全く違うスープを近代の気軽な海外美食と認識している。

 個室が取れたので他の客の目を気にする必要もなく、絶品料理の数々に舌鼓を打つ一行の声は、自然と大きくなっていた。

「ユェイン様もトンコツスープが好きですな。特に、そのようにチャーシューがたっぷり乗った物を好まれます」

―濃い スープ 大変… 美味…也…!―

 二千年以上大陸を漂泊し続ける仙人を、一食で虜にするトンコツチャーシュー。両手で捧げ持ち、スープを飲み干した丼をコ

トンと置くなり、深く息をつき顔を緩ませるルーウーは再認識。やはり人類は生きるべき、その歴史は続くべき、と…。

 太上老君、人類への加点基準が激甘である。

 チーニュイは大人達にシェアして貰い、複数食べ比べた上で「ショーユかな…。でもシオも…。難しいな…」と一番を決め兼

ねて悩む。

「チーニュイちゃんはどっちかっていうと、塩味であっさり系が好きなのかナ?だったらブシ系っていうのもあるけど…」

 ブシ?と首を傾げた狐の娘に、「乾燥させた魚から取るダシのスープです。魚介系でダシを取り、他の調味料でバランスを整

える物ですが、舌に直接感じる物とはまた違う味わいの深さがあります。同じブシ系でも使う魚によってまた味に変化が生じる

ので、何を使うか配分がどうなるかで大分変化がありまして、さらにはこれに他のスープの味付けに近付ける工夫が凝らされた

品も…」とチョウが長々と説明。本職と国籍が怪しく思える詳しさである。

「日本じゃ店ごとにだいぶ味が違うんだぜェ?ショーユもなァ、あっさり系に焦がし醤油、そいつらのミックス、鶏ガラ自慢の

濃厚醤油なんてのもあるぜェ」

「ええ!?何それ?同じショーユなのに種類があって味が違うの?」

「スープは店毎にウリが違いますからな。それと、具材は勿論、麺にも特色が強く出ます。太い細いの差だけに留まらない麺の

形態や、歯応えまで違うのも奥深い所です。見落とされがちですが喉越し…、麺表面の粘度の違いでモチっとするかツルツル行

くかも違います」

「喉越しを押さえるあたり、だいぶツウだネ、チョウさん…」

「嘘?じゃあ毎日食べても飽きないんじゃない!?」

―蓬莱の ラーメン… 魔境 也…―

 勿論ラーメンだけではなく、伝統ある点心類もたっぷり注文され、シャチとルーウーとカナデは酒も楽しみ、満腹するまで夕

餉を楽しんで…。

 

「クコァ~…、プス~…。クコァ~…、プシュルルルゥ~…」

「どういう事だよ…」

 一時間後、カナデはホテルの部屋で呟いた。

 各々が個室をあてがわれた洋式ホテルのベッドには、鯱の巨漢がうつ伏せで寝ている。やたらうるさい口呼吸で。

 枕元には愛用の黒革貼りスキットル。タオティエと遭遇した際に放り投げたが、拾っておいたチーニュイからシャチに返却さ

れた。放った折に岩に当たって傷がついていたのだが、孫から預かった老虎がチョイチョイと仙術で修復したので、擦れや傷が

全て消えて新品のようにピカピカである。

 なお、ルーウーが修復ついでに内部をイマジナリーストラクチャー化させ、重量そのままで2リットルまで入れられるように

なっているのだが、愛用品が与り知らぬ所で、ちょっとしたサービス感覚の軽さでレリック化されている事に、シャチはまだ気

付いていない。

(疲れがたまってたんだろうナ…)

 肩透かしというか、やや拍子抜けした感。何とも複雑な表情でシャチの寝顔を眺めるカナデ。

 追加料金。後払い分。そう言って押しかけ、夜のお楽しみを迫ったシャチなのだが、押し切られる格好で渋々承諾したカナデ

がシャワーを浴びて戻って来るとこの通り、すっかり熟睡してしまっていた。

 狸には知る由もないが、シャチが他者の前で、疲弊していたとはいえこうまで無防備に、完全な休息状態に入る事は極めて珍

しい。

 何せシャチは普通の生物とは大きく異なる、肉体に人為的処置が施されている兵器。機能面から言っても本人の性格から言っ

ても、シャチ自身ここまで油断する事は想定外だった。気を抜いたら寝ていた、などという経験はこれまで殆どない。

(仕方ないナ…)

 起こすのも可哀そうだと思ったカナデは、ソファーに腰掛けて苦笑い。

(追加料金の取り立ては、元気になってからにして貰おうかナ)

 

 その頃別室で、チーニュイは胡坐をかいた祖父の脚の上に座り、ベッドの上からテレビを眺めていた。

 馴染みが無いテレビはチーニュイにとって珍しい物なので、見かけたら釘付けになるのが常だったが、今夜は眺めていてもワ

クワクしない。

 仇討ちが終わった今、チーニュイの人生は節目。生き方を変える時が来たのだと、祖父は日中、孫に語った。

 シャチの養子になって引き取って貰う。これからは異国で普通の少女として生きる。日中にされたその話を、少女はまだ受け

止め切れていない。
今はただ、旅の終わりが近付いているのだと、漠然と感じるだけ…。

 チーニュイは祖父の言葉に、結局頷いた。

 何でも望みを聞いてくれた祖父が、泣いても、喚いても、縋っても…、今回は駄目だった。チーニュイは聞き分けが悪い娘で

はない。祖父がもう決めた事に反対し続けても、困らせるだけだと理解できたら、もう折れるしかなかった。

「…お爺ちゃん…」

 呟いた孫の頭を、老虎の厚くて柔らかい手が撫でる。

「チーニュイ、長生きするから」

 狐の娘は知っている。祖父の目的が如何に達成困難なのか、子どもなりに理解している。神様のようにひと以上の存在である

祖父が、
二千年余りかけてやっと半分…。状況は変わって来ているが、残る四罪四凶を誅するまで、あとどれだけかかるか定か

ではない。
それでも、孫は言った。

「待ってるから。お爺ちゃんの用事が済むまで…」

―うむ 必ずや 迎えに 行こうぞ チーニュイ―

 ルーウーは約束する。ひとが涙を流すのはきっと、こんな時なのだろうと感じながら。

 七百万年以上も生きてきて、これから先も永劫に近い時を生き続けるルーウーにとって、ひとの一生はほんの一時。必ずチー

ニュイは自分より先に逝くと、判っていながら背負い、抱き上げ、手を引き、共に歩んできた漂泊の日々…。

 それは気が遠くなるほど長いルーウーの生の中でも、一際輝かしく、一際新鮮で、一際刺激的な時間だった。

―手紙を 書こう―

「うん…」

―汝の 話を 教えて 貰おう―

「うん…!」

―年に 一度程度は 会えるよう 計らおう―

「うんっ…!」

―チーニュイや… お爺ちゃんは 汝を 愛しておる―

 顔をグシグシと擦って、チーニュイは祖父の胸に後頭部を押し付けながら、泣き笑いの顔を上に向けて見せた。

「チーニュイがお婆ちゃんになる前に、迎えに来てよね!」

 

 一方、第八連隊の仮設駐屯地、連隊長のテントでは…。

「そうか。苦労を掛けたな、チョウ」

 通信機を手にしたジャイアントパンダは、机に山積みになったままの、しかし残り二割ほどまで片付いた報告書の束を前に、

チョウからの報告を受けていた。

『老君は、こちらから打診されなかった場合は、後に改めて話を持ち掛けるつもりだったとおっしゃいました』

 ユェインは半眼になり、「そうか」と応じた。

「では、明日の見送りまで引き続きよろしく頼む」

『御意』

「君も疲れている事だろうが、済まない」

『何をおっしゃいますか。お互い様、でしょう?』

「そうか?…そうだな」

『心配しておりましたが、調子は如何ですか?』

「問題ない。順調だ。残りは三割を切った」

『………』

「む。どうしたチョウ?」

 猪の沈黙を訝ったジャイアントパンダは、自分の返答に重大なミスがあった事に気付いて「あ」と声を漏らした。チョウが訊

いた「調子」は書類の進捗状況ではなく…。

『ユェイン様。心配なのは報告書の進捗ではありません。むしろそのようにろくに休みも入れずに進められるのではないかと懸

念しておりましたがやっぱりですか。急ぐ必要があるのは確かですが明日明後日中にどうこうしなければならない物ではありま

せん。まずはお体を労わり…』

 それからしばしの間、自分が心配だったのは書類進捗ではなくユェインが休憩を忘れて没頭する事だと、副官の小言を聞かさ

れた連隊長は、通話を終えると…。

「…怒られてしまった…。仕方ない、十五分ほど休憩するか」

 そういう所である。

(ホンスーが老君に弟子入り、か…)

 椅子に深く腰掛け、長くため息を漏らしたユェインは、話題に出た甥の事を思う。

 本人にも話したが、ホンスーは現時点で確認できている限り、太極炉心を独力で構築した唯一無二の現行人類である。その事

に軍…ひいては政府が気付いたらどう扱うか?どう贔屓目に見てもホンスーが幸せな環境にはならない。少なくとも「貴重なサ

ンプル」として隔離幽閉される事は間違いないだろう。

 とはいえ、ユェインは迷った。

 自分は軍人である。多くの部下に命令を下し、結果、従った部下を死なせる事もある指揮官である。そんな自分がホンスーを

軍に捧げないのは身勝手過ぎるのではないか、と。

 だが、そこで背中を押したのはチョウだった。

「伏家が軍に捧げる人身御供は、ユェイン様お独りで充分でしょう」

 その言葉でユェインは決断した。ホンスーを退役させ、ルーウーに預ける事を。

 ホンスーは神仙にとっても重要な存在になったと、ルーウーも語っていた。

 桃源郷は人類を見限った。現行人類が浸食者になり得るという懸念から、太極炉心や知識、力を与える事を止めた。今ではむ

しろ、何かあれば滅ぼす事も止む無しという、中立よりも悪い立場から人類を観察している。

 だが、そこへ一石を投じるのがホンスーの存在。人類から自分達の同胞が発生する可能性がある事を示せば、少なくとも議論

にはなる。ホンスーは桃源郷に、人類の裁定をもう一度やり直すよう求めるための、生きた説得材料になり得るのである。

 老虎はこう考えている。かつて空と大地を修復するために、その身を散らせて溶け込ませた、自分達の創造主…。その想いと

力は、この地に生まれる者達へ影響を与え続けているのではないだろうか、と。

 創造主達に直接造られた神仙と、創造主達が世界を譲った現行人類。種は異なるが、大きな枠で見れば「きょうだい」と言え

なくもない関係性…、それがルーウーの考え。ホンスーは創造主が託した未来に生まれてきた希望、現行人類の可能性を示す存

在なのだと…。

(背負う物の重さは、一介の軍人の比ではないが…)

 ユェインは思う。銃を握るより、剣を奮うより、重い物を担う事になる。だがそれでも、チョウから見ればよほどマシな生き

方かもしれない。生きていれば、兄もその方が良いと言うだろう。

(あとは、両親と妹夫婦にどう説明するかだが…)

 ホンスーを可愛がっていた実家の面々に、甥が神仙のタマゴになった事も含め、何と言うべきかと、ユェインは頭を悩ませ始

めた。

 説明が難しいのではない。ホンスーが仙人になりそう、とユェインが雑に説明しても、すごい、と大雑把かつ率直な感想を言

い、仙人化に伴う諸々の問題は些細な事として扱うのは確実。そんな事よりもどう祝おうかと相談し始めるような面々である。

何せ奇妙奇天烈な事には先祖代々接して来ているし、ユェインの家族なのだからこんな物。

 むしろ、修行の為に家を出たホンスーが、たぶんあまり連絡がつかない状態になるという事を問題視するはずだった。特に軍

人になる事に猛反対していた母など、家に先生を招いてここで修行して貰うべきだと言い出しかねない。

(…せめて、不定期でも構わないのでいざという時の連絡手段などは用意しておかなければ、母上を説得するのは難しいか…)

 ユェインにとって、ホンスーを溺愛する母の説得は、千年級の仙人を誅仙するよりも骨が折れる仕事である。

 

 ベッドに寝たまま、レッサーパンダは明るく照らされた天幕をじっと見ていた。

 なかなか寝付けない。救助されて以降、奇妙なほど疲れが感じられない理由については叔父から説明されたが、実感に乏しく

て戸惑うばかり。

(仙人…)

 自分がそんな存在になった事を、まさかと思いながら聞いていたが…。

 身を起こしたホンスーは、ベッド脇の小さな鏡を取り、自分の顔を映してベッと舌を出した。

 そこに、薄っすらと太極図が浮かんでいる。

 回転はしておらず、静止した状態だが、それでも仙気を生成して体内を循環させている。ひとの数十倍にも及ぶ量を、その小

さな体に蓄積させて。

 カナデやチーニュイ達と異なり、ルーウーと一緒に居てもホンスーだけ疲労が軽減されなかった理由がこれ。最初に治療され

た時に太極炉心が不完全ながらも発生し、ルーウーが発する仙気が流れ込み難くなっていたせい。

(僕…)

 複雑な気分だった。頑張った方向とは全く無関係に、重要性を見出された事が。

(僕、これで皆の役に立てるように、なれるのかな…?立派な仙人になれたら、チョウお兄ちゃんは…見直してくれるかな?そ

れとも…、やっぱり軍人には向いてなかったんだって、言われちゃうかな…。謝りたいな…。ちゃんと…)

 結局のところ、目下ホンスーの行動の動機と選択の根拠は、自分はどうすれば皆に報いる事ができるのかと、どうしたらチョ

ウに赦して貰えるだろうか、という二点に帰結する。

 ふたりが村で最後の生き残りになったあの後から、今もずっと…。

 

 一方、ユェインとの通話を終えたチョウは喉の渇きを覚え、客室からホテルの廊下に出ていた。

 思い出すのはカナデの忠告。ホンスーが退役するならば、無理に厳しい態度で接する必要はなくなる。言うべき事、伝えたい

事、たくさんあるのだが…。

「判ってはいる…。のだが…。むむむっ…!」

 難しい顔のまま廊下に出た所で立ち尽くすチョウ。

 負い目があった。

 恨まれても憎まれても嫌われても構わない。ホンスーの無事が一番だと考え、二度と会えなくなっても良いとまで考えてきた

ので、態度を改める、和解する、などのプランは皆無。ユェインが聞いたらさぞ驚くだろうが、あれだけ臨機応変に知恵が回る

副官は、こと、ホンスーとの関係性に関しては完全にノープランだった。

(今更…、あれはホンスー君の為を思ってなどと説明したところで、言い訳にもならない…。彼の知った事ではない…。辛く当

たられた、嫌な思いをした、という事実は消えず、それを水に流せなどと言うのはおこがましいにも程がある…!)

 基本、何でもそつなく器用にこなし、他者の評価も人道に沿うかどうかも二の次で、必要であれば自分の心情を殺して何でも

やるチョウだが、自分の生き方や在り方に関してだけは不器用極まりなく、己を甘やかしたり赦したりする事に関してはド下手

糞である。

(だいたい、今更昔の態度で臨むなどムシが良過ぎる。やはり嫌われたまま二度と会わないのが一番良いのでは…。むしろすっ

ぱり忘れ去られてしまえるなら、その方が…)

 謝られても迷惑だろう。昔のように接されても腹が立つだろう。しかもそれだけではないぞと、猪は顔を顰めた。話はそもそ

も、ホンスーが軍人を志す前から始まっている。

 仇討ちができていない。それどころかまだ仇の手掛かりもろくに無い。不甲斐なくて顔向けできなかったから、父方の実家に

引き取られた後のホンスーとはあまり会えなかった。自分を不甲斐ないと思うが故の負い目が、ホンスーへの昨今の態度と一緒

になり、なおさら言い出し辛いのである。

 しかし、「関係を改善しない方が良い理由」を無意識に探し、距離を置く事に考えが戻りがちなチョウに、カナデの忠告がス

トップをかけている。

 軍から離れるならもう会わない方が…と思っても、「黙って居なくなられるのは嫌な物だ」と…。

 すっぱり忘れ去られてしまえるなら…と思っても、「忘れられるはずなどないのだ」と…。

 カナデ本人にその自覚は無いが、あれだけの、それほど長くもないやり取りの中で、ストレンジャーはチョウに効果的な言葉

をいくつも発していた。結局それで「ホンスーと向き合わないための理由」を潰され、あらゆる退路を断たれて、向き合い方を

模索するよう仕向けられている。まるで結末との対峙を強いられたタオティエのように。

「何かあったのチョウお兄ちゃん?」

「!?」

 目を見開き、尻尾と耳をビクンと立てて背筋を伸ばす猪。気付けば、老虎仕込みで足音を含めて気配が希薄な狐の娘が、すぐ

脇に立って心配そうに見上げていた。

「チーニュイちゃん…!君こそこんな時間にどうしたんだ?老君は?」

「お爺ちゃんは寝なさいって言うけど、せっかくお宿に泊まってるんだから、早く寝ちゃうの勿体なくて。でも長く起きてたら

喉乾いたから、お茶を買いに行くの。そうしたらチョウお兄ちゃんが変な顔で立ってたから…」

(変な顔…)

「お腹痛い?それとも頭?腰とか?」

「いや、大丈夫。考え事が難しくて、少し…」

 溜息をついたチョウは、自分も飲み物を買いに行こうと部屋を出た事を思い出すと、チーニュイを案内して販売機があるフロ

アへ向かった。

「そういえばね」

 旅から旅の生活で知り合いが少ないチーニュイは、嬉しそうにあれこれチョウと話したがった。

 嫌な顔もせず、子ども扱いもせず、丁寧に接し返す猪に、ふと、狐の娘は思い出して言う。

「ホンスーが寝言でチョウお兄ちゃんの名前言ってたよ?」

「…ほぇ?」

 思わず目を丸くし、間の抜けた声を漏らすチョウ。カナデも言っていたが、寝言に出る程なのかと…。

「何があったかチーニュイは判んないけどさ」

 しかつめらしい顔をした狐の娘は、頭の後ろで細腕を組む。

「許してあげたら?夢の中でまで謝ってるなんて、気にしてる証拠だよ」

「それは…、そうでは、なくて…。ホンスー君が悪い事をしたのではなく…。本官の方が謝るべきで…」

 しどろもどろになる猪。

 謝りたいのである。ホンスーが死んだと思ったあの時、あれだけ悔いたというのに、自分はまだ…。

 階段の途中で立ち止まってしまったチョウを、数歩進んでから気付いて振り返ったチーニュイは、トントンと数段戻って来て、

二段ほど下から手を伸ばし、ポンと元気づけるように平手で叩いた。本当は肩か腕でも叩きたかったのだが、手が丁度届くのが

そこだったので猪の太鼓腹を。何とも大雑把である。

「ホンスーも謝りたい。チョウお兄ちゃんも謝りたい。なら、同じ気持ちのふたりは、仲良しじゃない!」

 無邪気に励ますチーニュイの言葉が、チョウの胸を打ち…、

(仲良し、か…。あの頃はそうだったな…、ホンスー君…)

 正直、泣きたくなった。

 

 

 

 翌朝。猪に駅前で見送られた一行は、列車の指定席に乗り込んだ。

 カナデとシャチにとっては帰路。チーニュイにとっては旅の終わり。

 途中で長距離を走る高級寝台車に乗り換えるのだが…、チョウがユェインの指示で予約したのは、シャワーとトイレがついた

二人用客室二組という、最上級席であった。

 恐縮するカナデと、はしゃぐチーニュイ。走り出した列車を駅の外で確認し、黙礼で送ったチョウは、駐屯地に戻るべくジー

プのハンドルを握った。

(急いで戻り、ホンスー君と話そう…。このままで良いという事は無い。いつ話せなくなるかも判らない。まして、老君に連れ

られて旅立ってしまえばそうそう会えなくなる。…ええい!男を見せるは今ぞ、ジァン・チョウ!)

 きつくハンドルを握り締め、気合いを入れるチョウだったが…、結論から言えば、そのまま帰ってホンスーと話をする事は叶

わなかった。

 この後に起きる面倒事諸々のせいで…。

 

 午前九時。観光名所近くの賑わう街並みの中、屋上に開かれたカフェテラスの一席で、女性と見紛う程目鼻立ちの整った若者

は、中国紅茶を楽しみながら向きあって座る相手に話しかけていた。

「結局シロ。空振りだったが、まぁ無駄って訳でもなかったな」

 ファポォと、邪仙からユェインが奪った太極炉心入りの小瓶が入ったポーチを脇の椅子に乗せているヂーは、手渡した写真集

を見ている相手に、「良くないかい?それ。良いだろう」と笑いかけた。

 それは、調査前に部下に取り寄せを命じた資料…カナデが地中海で撮った物が纏まった、旅レポを兼ねる写真集。昨晩ようや

く移動中に接触した部下から受け取った物で、調査の助けには間に合わなかったが、無駄ではなかったなとヂーは思う。

 写真集を手にしているのは、コロコロと太った子供だった。頬がパンパンに張って、手首や肘などに赤ん坊のようなくびれが

見られるほど丸々としている。背中の中心まで伸びている印象的な黒髪は、襟足の所で赤いリボンで一旦纏められ、そこから三

つ編みになって下がっている。

 子供らしい薄着姿だが、濃い青色デニム生地のホットパンツは腿が太過ぎて隙間が無く、体にピタッとくっついたノースリー

ブの黒いシャツは腹の下側が少しはみ出ていた。両手首に嵌められた金色の細いリングがアクセントになっており、陽光にキラ

リと光る。

 頬肉に押された目は瞑っているように細く、同じく左右から押されている唇は口笛を吹くように前に出ており、不細工と言う

者も可愛いと言う者も同数居そうな男の子は、十歳を超えた辺りの年頃と見えた。

 その眼前にはヂーが頼んだ大量のスイーツ類。フルーツで煌びやかに飾られた杏仁豆腐や、雲を菓子にしたような龍の髭飴、

パフェやプリンなどの洋物も合計10品ほど所狭しと並んでいるが、男の子はそれらに見向きもしない。唯一、甘いチョコレー

トミルクのグラスに少し口をつけただけで、しばし写真集のページを捲っていた男の子は…。

「ドンフォンの写真と、共通点確認」

「ん?ヨンの写真とぉ~?流石にそれはないさ。ないとも。ないだろう。月とスッポン雲泥の差、比べたらコダマカナデに失礼

だ。…でも、どの辺が似てる?参考までに。それ以上の意味はないが。ないが!」

 悪友の写真の出来を鼻で嗤いつつも、結局気になって男の子に尋ねるヂー。

「被写体選択傾向に、共通点あり」

 表情に変化が無く声も抑揚に乏しい男の子が淡々と指摘すると、ヂーはハッとした。

 構図のセンスは比べるべくもない。ズームすべき被写体の距離感も言わずもがな。背景との深度や臨場感も当然段違い。だが、

悪友が趣味で撮っていた写真とカナデの写真は、好む題材がとても似ていた。

 景色。そしてひと。時に距離感を出したカナデの写真は、時に世界とひとの在り方の解離性を指摘するようで、時にひともそ

の一部に過ぎないと主張するようで、結局離れがたい物なのだと帰結させるようで…。メッセージ性に富む物から単に美しい撮

り方に拘った物まで、バリエーションが豊富で、ずっと見ていても飽きないのがあの狸の写真だった。

 そして悪友が遺した写真は、拙くて失敗ばかりで上手く伝わらない物ばかりだが、本当はきっと…。

(そうか…。お前本当は、こんな風に撮って見せたかったんだな…、ヨン…)

 少ししんみりした気分になったヂーは、スリッと、うなじをくすぐられたような感覚に囚われた。

(何だ?静電気?)

 首筋に手をやってからそれを見た若者が、視線を前に戻すと…。

「あれ?ルォちん?」

 向かいの席には男の子の姿が無く、写真集と、手付かずのままの大量のスイーツと、飲みかけのチョコレートミルクだけが残

されている。

 ハッと視線を上げたヂーの目に映ったのは、屋上のさらに上…とはいえ周囲の視線も及ぶ高さで、しかし衆目を一切引いてい

ない、空中に浮かぶ男の子の姿。

 その下には炎が形成する車輪二つ。素足はそこから数センチの隙間をあけて浮遊しており、上に居る男の子の姿は見る間に変

化していた。

 急激に七、八歳成長するように背丈と手足が伸び、丸々としていた体がしなやかに締まる。痩身となったその背中には、三つ

編みがほどけた黒髪がサラリとかかる。

 髪を結わえていた赤いリボンは、生きている蛇のように背面を移動しながら広がって、ロングスカートほどの長さの腰巻きに

なって自動装着。手首に嵌められた金のリングは武骨な腕輪を思わせるサイズに面積を増して、瞑っているようだった目は細く

鋭い物に変わった。

 その姿はもはや「男の子」ではなく、少年と青年の中間。身長170センチ余りの細身で、中性的で見眼麗しい顔立ちだが、

誉め言葉ではない意味で「人形のような」容姿とも言える。そう、生物的な雰囲気が極めて薄く、どこか作り物めいているよう

にも感じられる姿だった。

 第八空挺団所属の中校。八卦将…坤将、羅車(ルォチゥァ)。

 分類は「仙造人間」…、かつて桃源郷から下野した神仙のひとりが、ひとを護る為に製造した三機の兵器…、その最後の一機

である「羅車三式」。

 ヂーやチョウなど、その素性や正体を気にしない者は「ルォ」という愛称で呼ぶが、ユェインをはじめとする関係者は伝承に

なぞらえてこう呼ぶ。「ナタ太子」と。

 実は、シャチの気配がルォチゥァと似ていると感じたユェインとチョウの直感は、相当正確な物であった。

 ルォチゥァと、シャチ・ウェイブスナッチャー。ひとではなく仙人でも妖怪でもない仙造人間と、死体を素に製造されたラグ

ナロク製のエインフェリア。この両者は、アプローチも製造過程も技術体系も異なるが、結果として近しい質を持つ。

 省エネモードを解除し、鋭い目でじっとある方向を凝視している青年は、おもむろに呟く。

「膨大な妖気発散、感知。人類への敵意の有無、不明。看過するには強大」

 直後、グッとクラウチングスタートに似た前傾姿勢を取った青年は…、

「予防的防衛措置の必要性を確認。非常巡行速度にて現地急行」

 ボッと、紙袋をいきなり潰して空気を吐き出させたような音を残して消えた。

 正確には、周囲の人々に感知されない、しかし亜音速という、人類の技術も理解も超えた高速移動で飛び去っている。

「え?今何て言った!?」

 慌てて立ち上がるヂーは無線通信に気付いてポーチに目を向け、ファポォが困った顔で捧げ持っている通信機を受け取る。

「おっと有り難う。…僕だ、何があった?………は?落盤?地崩れ?地下ガス噴出?妖気計に反応?何処で!?………ウソだろ

バカか!?バカなのか!?バカだろう!?あそこはタイソェイの縄張りだってあれだけ…。…はぁ!?開発計画に変更!?何で

ウチや他の八卦将に相談も報告もなくそんな勝手をするんだ開発局の凡人どもは!あそこはヨンが不可侵措置を政府に可決させ

た地域の一つだろう!何のために周辺住民と妖怪達の引っ越しで骨を折ったと思ってるんだ!?楽に開発させるためじゃ断じて

ないぞ!結界は…、要を崩して強行!?あーっ!もーっ!ええい判った!今ルォちん飛んで行ったし、僕がここから直接行く!」

 部下からの緊急報告は、どうやら開発工事で手を出してはいけない大妖怪を刺激してしまったらしい、という困った物だった。

しかも…。

「凶星でも背負ってるんじゃないのか?でなきゃ何かに憑かれてるんじゃないのか?あの異邦人は…!」

 ユェインから聞いていた「彼ら」が利用する路線は、問題の地域…先代の震将が人類の不可侵を主張した隔離エリア近くを通

過する物で…。

 

「了解しました!本官は至急現場へ!…上校?上校、聞こえますか?」

 一帯が停電して信号も消え、騒ぎになっている中、道の路肩にジープを寄せて車外に出ていたチョウは、ユェインからの緊急

通信が勝手に切れるなり深刻な表情で周囲を見回した。

(どの程度の範囲で、どんな異常が発生している!?)

 周辺一帯…規模の予想も困難なほど広い範囲で、送電だけでなく電波の送受信にまで不具合が生じていた。現行人類の強みに

は電力とネットワークが含まれる。その二つを欠く不利の重大さが、猪には理解できていた。

 ジープの後ろに回り、バックハッチを押し上げて二つのゴツいトランクを確認するチョウ。

 防弾仕様のキャリーつき大型トランクの中身は、誅仙四宝剣一式と、方士による保護処理が施されたタイガーカモの夜間迷彩

戦闘服、そしてデリンジャーや吸着地雷等の戦闘用装備、三日分の食料や様々な小道具などの物資が詰め込まれている。客人達

の無事な出立を見送るまでの護衛は、危険が少ない見込みだったとはいえ、チョウの備えに手抜かりは無い。

(老君がおられる以上、滅多な事にはならないと思うが…、ええい!旅人にこの国の悪い印象ばかり与えてしまう!それとっ!)

 猪はギュッと目を瞑る。何かに耐えるような顔である。

(腹が決まっていたのに、ホンスー君に謝る機会が遠のいてしまった…!)

 

「あれ?」

 列車の客席内で、カナデは速度が急に落ち始めた事を不審がった。駅へ進入するための減速と違う事は、電光パネルなどが一

斉に消えている事から察しが付く。

 送電が途絶えた車内で乗客がザワつき始め、ルーウーはチーニュイをそっと抱き寄せた。

 シャチは「山賊かァ?列車強盗かァ?グフフ」などと言いつつ、抜け目なく脱出するためのルートと位置取りを確認する。

「機器トラブルかナ?」

「だったらまだ良いがなァ。グフフフフ…」

 シャチは本能的に警戒を強める。タオティエという世界の脅威レベルと遭遇したばかりなので、気を抜くのは性格的に難しい。

 そしてルーウーは、孫娘を護るように腕を回したまま、軽く鼻先を上げてスンッと空気を嗅いだ。大気中のイオンに変化が確

認できる。周辺から静電気が消失してゆく。列車の動力が失われたのと同様に…。

―「大妖怪」の 仕業也…―

 結局、カナデはこの後も大騒ぎに巻き込まれ、そうと知らずに三人目の八卦将と知り合い、国一つの興亡に影響するレベルの

大事件の収束へ間接的に関り、何度もシャチに「追加料金」を請求され…。

 その後もゴタゴタに遭遇し続けて、帰国は一ヶ月ほど先になった。

 

 

 

 

 

 

 

 山を登り、草むらを掻き分け、大きな狸は海が見える崖に至る。

 亀裂が入った大きな岩が鎮座した、狭く開けた小さな広場で、カナデは口を開く。

「ただいま」

 話しかけた相手は、岩の亀裂から生えた楓の細木。日本海を背に微かに揺れるソレを眺めながら、カナデはナップサックの肩

紐から腕を抜き、敷物を取り出す。

 山とはいえ本格的な登山装備は必要ない、散歩の気分で訪れられる場所である。実家からすぐの距離なので、部屋着のような

色褪せたグリーンのトレーナーに、クリーム色の綿パン、トレッキングシューズという格好。ザックの中身も食料と敷物、雨合

羽程度の軽装である。ただ、ゴツいカメラだけはいつも通りで、首から鳩尾にぶら下がっていた。

 カナデはザックから荷物を一つ取り出すと、包装紙を開いて中身を取り出し、楓が生えた岩の脇にトンと置いた。

 海の方を向くように置かれたそれは、大陸土産の像である。

 それからシートを広げて敷き、風に跳ばないよう四隅に靴と荷物を置き、中心にどっかと尻を据え、ここからでは見えるはず

もない海の向こうの大陸を望む。

「…ロマンだナ…」

 幾多の国が興り、幾多の文化が花開き、倒れ、散り、掘り起こされ、受け継がれ、極彩色の糸で煌びやかに編み上げられたよ

うな、連綿たる歴史群に思いを馳せる。

 広く、深く、古い文化。幾多の人種が混然となって紡ぐ歴史。激動の時代を幾度も経て、なおも変わらぬ美しい、雄大な大地

と美しい景観。

 来る途中で買った、鶏五目おにぎりを齧り、ペットボトルのお茶で喉を湿らせ、結局一ヶ月ほども続けた旅を振り返り、カナ

デは微かに微笑んだ。

 ジョン・ドウと出会った。漂泊の老虎と孫娘に巡り合えた。他にも何人もの人物と知り合った。アクシデントだらけで、いく

つも事故や事件があって、片っ端から巻き込まれて…。大変だったが、今回の旅も終わってみれば、良い旅だったと振り返る事

ができる。

 カナデはお握りを齧りつつ、岩の脇に置いた土産の像を見遣った。

 計画通りに移動できなくて、あちこち寄り道した道中、それは、多くの都市や寺院、観光名所近辺などで見られた。

 ゆったりした衣を纏い、大きな袋を担いだ、太鼓腹の虎。あちこちに像が置かれ、拝まれる対象。

 漂泊の僧侶で、仙人だったとも、衆生を救う者の化身だったとも言われており、カナデの国では七福神に数えられ、その特長

的でユニークな姿から、布袋腹という大きな腹を示す言葉でも名が知られている。

 道中でその大型座像を観た孫娘は「あ、ここにもお爺ちゃん」と言い、思わずカナデは吹き出しかけた。言われてみればルー

ウーとの共通点が多かったので。牙が大きく描かれたり造形されたりするのも似ている点だと感じたが、老虎とは違って石像の

牙は左右同じである。

 似ていると言われてむず痒かったのか、老虎はそっと目を背け、そんなに似ていないと思う気のせい気のせい的な事をモゴモ

ゴ言っていた。

 シャチは、ほォ~、ほォ~?ふゥん…。などと漏らしながら、興味深そうに石像と老虎を見比べていた。

 あまりに事件続きだったので結局は護衛として出国直前まで同行した猪は、何やら微妙な表情で、まさか…?と呻くように発

していた。

(確かに、福の神様みたいなお爺ちゃんだったネ)

 二つ目のお握りを開封しつつ、のんびりと故郷で休暇を満喫しながら旅を反芻するカナデ。

 枝が一本折れている、いつまで経っても大きくならない細い楓を、風が静かに、優しく撫でて吹き過ぎて行く。

 カナデの気のせいか、でっぷりふくよかな虎の像を添えられた楓は、何だか少し、喜んでいるようにも見えた。

 

 

 

「グフフフ、ただいまァ」

「おかえり~」

「お帰りなさいませ」

 巨大ビルの上層階1フロアを占有する、広大な居住空間。その中心となるだだっぴろいリビングに入ったシャチに、カップア

イスを楽しんでいた養女と、また様子を見に来ていた同僚が、顔も向けずに応じる。

 約一ヶ月ぶりの帰宅なのだが、不在が長引く事は珍しくもないし、ドゥーヴァがシャチの動向について定期的に報告を確認し

ていたので、帰宅への反応はドライ。しかし…。

「リン、姉妹増えるぜェ」

『……はい?』

 流石に首を巡らせたリンとドゥーヴァは、鯱の巨漢の隣に狐の少女が立っている事に気付いた。

「今日からコイツも養子だァ」

 唐突かつ説明も雑。ドゥーヴァは形の良い眉を顰める。

「初耳ですわ。リンちゃんには言ってあったんですの?」

「いや?」

「シャチさんはそういう所がダメなんですわ」

「…グフ?」

 苦言を呈されても、何が悪いと言われているのか全く判っていないシャチ。先に迎えている養子に対する配慮だの気回しだの、

一般常識的な所は残念ながらまだ欠如している。

「…はろー…」

 母国語しか話せない狐の少女は、聞き齧っていた異国語の挨拶を口にする。が、不慣れな環境への緊張のせいで表情は硬い。

(何だここ…。でっかい建物、でっかい部屋、高い窓…。何で崖でもないところに高い物作って寝るんだろう?っていうかお金

持ちだったのか怪しい奴…)

 緊張と警戒を見せる狐の娘に、中国で拾ったと、雑にも程がある端折り過ぎな説明を養父からされたリンは、

「ニーハオ!」

 と、立ち上がりながら笑顔で挨拶し、意外そうな顔をした狐の娘に歩み寄る。

「言葉判るの?」

「少し、だけ、ね!」

 リンが故郷に居た頃は中華圏の金持ちも客になっていた。片言だが挨拶はできるし、簡単な指示語なども理解できる。「教育」

されたので客を喜ばせるための言葉も、意味は知らないながらもいくつか…。

(言葉通じるんだ…。よかった…!)

 見たところアジア系と思われる少女が意思疎通できると知って、少し安堵した狐の娘に、今度はドゥーヴァが微笑みかけなが

ら流暢に、イントネーションまで完璧な中国語で話しかけた。

「初めましてお嬢さん、ドゥーヴァ・オクタヴィアと申します。念のために確認致しますわ。シャチさんに誘拐された訳ではな

いですわよね?」

「グフフフフ、俺様の信用度ゼロだなァおい!」

「まあ、信用度ゼロが不満だなんて…。ふふふ、鏡をご覧くださいませ」

 優雅で辛辣なドゥーヴァの物言いに、

(「…ますわ」、それと、「…ませ」…、か…)

 やはり大人の女性は上品に振舞う物なのだなと、ちょっと感じ入る狐の娘。

 シャチはまだ少し緊張気味な狐の娘を眺めながら、この様子も彼女の祖父に報告しておくかと、記憶に留めておく。

 シャチが所有するいくつかの海運企業の中には、中華圏に子会社を持つ所もあった。

 その無数の子会社の中で、シャチは配送エリアも狭い小さな配達業者…、裏稼業にも関わっていないごく普通の一般業者を選

び、ルーウーとやり取りするための中継ポイントとした。

 さして重要な会社でもなく、本業とも無関係なそこは、自分に何かあっても調べが入る事はない。繋がりを知る者も皆無の普

通の会社なので、非常に安全性が高い。

 シャチはルーウーにそこを紹介し、会社側にも「親会社の上客の御隠居」という形でルーウーの話を通し、伝言や手紙を預け

ておく中継窓口とした。

 そしてもう一つ、孫娘を預かり衣食住と学習、愉快な毎日と豊かな生活を保障する交換条件を取り付けた。

 シャチは自分に何かがあっても養子が遺産で暮らしていけるよう手配している。自分が機能停止した後もドゥーヴァが生きて

いるなら、彼女に遺産の管理権が移る事にもしてある。だが万が一、自分が機能停止し、ドゥーヴァも死に、その後になって財

政的な事以外…主に関係者として始末されかかるなどの害が養子に及ぶような状況になった場合は、養子達は一時老虎のもとに

身を寄せて庇護して貰う…。つまりシャチはルーウーに、孫娘の安全と生活を提供する見返りに、最悪のケースに備えた最強の

シェルターになって貰ったのである。

 もっとも、養子達の安全についてはそれでも十分ではないので、腕が立ち、信用でき、自分の裏事情も共有できる使用人か秘

書でも欲しいところだが…。

(まァ、しばらくはあの国に近付ける口実もねェ。少し様子見かァ)

 ユェイン達は知らない事だが、シャチが意図的に内容を偏らせた報告によって、ラグナロクはあの国への積極的な介入を見送

るという決定を下した。

 シャチは今回の一連の件で、自分達ラグナロクが大きな勘違いをしていた事に気付いた。そもそも、ラグナロクの前身となっ

た組織内でも仙人についての情報は極めて限定的な数名しか保持しておらず、触れる事が許されない機密事項だった。現在組織

が保有している情報自体が酷く少なく、そして曖昧だったのである。

 彼らラグナロクが断片的な情報から想定していた「仙人」とは、正にルーウーのような存在だった。人智を超えた力を宿し、

悠久の時を生き、ひとの世に過度な関りを持たない存在…。

 しかしあの国の軍が挑む仙人は違う。民間人はともかく、軍…特に事情を正確に知る者達が仙人と呼ぶのは、いわば「邪仙」。

ひとを食らって命を継ぎ足す、邪悪で有害な者である。あの大陸に興った数多の国は、数多の軍は、「国と人の害であり敵」で

あるそれらと、二千年以上前から秘密裏に戦い続けていた。

 そして彼らはルーウーのような上位存在の事を、敬意と畏怖を込めて「神仙」と呼び、敵対する仙人は「邪仙」とし、明確に

区別している。

 あの国の軍事行動に不透明な部分が多いわけにも納得した。ひとを襲う仙人が広大な国土を災害のように多数放浪しているな

どと知られれば、それを弱みと見てあれこれ考える輩も出て来るのだから。

 しかしシャチはこれを、国崩しの隙とは考えない。

 跋扈する邪仙達は、ラグナロクが想定していた「仙人」に脅威の度合いでは及ばないものの、考えてもいなかったほど数多く

存在している。

 その親や師匠である四罪四凶に至っては、シャチと同レベルの戦士が複数名で挑んでも、相性によっては戦闘すらまともに行

えないまま完封されかねないレベル。

 そしてラグナロクがイメージしていた仙人に該当する存在…ルーウーに至っては、旧時代の大戦当初から存在し続ける「根源

にして究極の個」。「ニーベルンゲンの族長」などと同様に「想像の範疇を越えてどうしようもない」、本物の「規模不測存在

(アウトスケール)」だと判明した。

 シャチと同レベルの戦士でもなければまともな戦闘にもならない相手が複数うろつき、ラグナロクの最高幹部達ですらどうこ

うできるか怪しい四罪四凶が潜んでいる国に介入するなど、リスクがメリットを大きく上回る。何より、ルーウーを敵に回す可

能性を作るのは愚行としか思えず…。

(グフフフフ…。おっかねェなァ、神仙…)

「パパ、この子の名前は?」

 リンが話を振ると、大陸で買ってきた土産物入りの小袋を大量にザックから取り出しながら物思いに耽っていたシャチは…。

「「ヴァージニア」だァ。…ま、愛称なら「ジニー」ってトコだなァ」

 こうして、チーニュイという名を祖父の元に置いてきた少女は、シャチの養子の一人「ヴァージニア・ウォーターフロント」

となった。いつか祖父が迎えに来る、その時まで…。