新弟子フー・ホンスーの手紙~発見と気付きの日々~

 ある地方の、ある山の、雨風を防げる程度の浅い洞窟の中で…。

「これを、ここに…ですか?」

 レッサーパンダは、手のひらサイズの八角形の板の中心に、磨いた円形の銀板を据えながら顔を上げる。

―然り これで 完成也―

 盆に足をつけたような、幅40センチ奥行30センチ程度の簡素な作業台を挟んで、じっと見守っていた剣牙虎の老人が頷く。

 ふたりとも白い漢服様式の衣に袖を通しているが、ホンスーの方は神仙の衣をまだ自力生成できないため、ルーウーのそれに

似せられた普通の布製の衣を纏っていた。

 指示された通り、ピッタリのサイズに整えた板の中心に銀の円盤を嵌めると、ホンスーは完成した品を眼前に掲げ、中心の銀

板を覗き込む。
そこに、すぅっと白と黒の紋様…太極図が浮かび上がった。

―此度は 成功也―

「ヤッター!」

 完成した品を掲げ持って万歳するホンスー。満足げに丸い顎を引くルーウー。

 八卦鏡。宝貝とまでは行かないが、立派に仙具の一つ。通信装置、仙気を貯蔵する簡易バッテリー、様々な波動や粒子などに

反応するマルチセンサー、そして、西洋の術具…グリモアのように、プログラムするようにあらかじめ仙術を仕込んでおく事も

できる、小さいながらも優れた多目的ツールである。

 土台となる八角形の板には、長方形の板状に加工して磨いた玉石類が埋め込まれて八卦の紋を形作り、中央の鏡は仙気を浸透

させる事で変質させた銀…他国では精霊銀と呼ばれる物でできている。

 素材の調達はルーウーが行なったし、ホンスーは製作工程を七度も失敗してしまい、自力で全てをこなせた訳ではない上に、

結局出来上がるまで丸一ヶ月かかったが、ようやく中サイズの八卦鏡を形にできた。

 特に太極炉心の制御がまだ自在ではないホンスーは、各素材に仙気を宿す作業に時間がかかってしまい、一つの部品に丸一日

かけて取り組む有様。小鏡はいくつか形にできたものの、中鏡はこれが成功例第一号となる。

 ホンスーは手先が器用で、素材の形状を整えるなどの作業はそれなりに上手な点はプラスに働いた。出来上がった物を弟子か

ら受け取り、しげしげと表裏を見つめるルーウー。綺麗な仕上げだと、新たな弟子の丁寧な仕事を評価し…。

―あ―

「あ」

 八卦の紋から一枚、板状の玉石がポロッと落ちた。本来は土台を起点に座標的な位置固定が行なわれ、動かないはずの部品が。

―形状固着が まだ 緩い―

「ヤッチャッター!」

 頭を抱えて仰け反るホンスー。

―されど ここまで できれば 上出来也―

「ヤッター!」

 フォローされると一転して万歳するホンスー。

 ルーウーも弟子にしてみて初めて判ったのだが、この一喜一憂の差が激しく、感情表現もだいぶ豊かで人なつっこいのが、ホ

ンスーの素の性格であるらしい。最初に会った頃の、礼儀正しく立派に堂々と振舞おうと…つまりユェインをイメージして真似

るよう頑張りながらも、常に緊張気味でギクシャクして、すぐに落ち込んでいたホンスーとは、表情も声のトーンもまるで違う。

 本人曰くこの変わりようは、長々と色々あった事が、全部いっぺんに片付いてスッキリしたから、との事だが…。

「お師匠様、これこのままはめ込んでもちゃんと動くでしょうか?」

―八卦を 描く 順番は 守られねば ならず…―

「あ、そうか!じゃあコレの後に嵌めた物を一回全部外してから組み直せば…」

 さっそく再組立てに入るホンスー。おっちょこちょいな性格ではあるが愚かではない。むしろ利発だとルーウーは評する。一

度聞いた事はきちんと覚えるし、理解度が高いので応用も利く。今も一言告げただけで組み直し工程をすぐ理解できた。思考力

と柔軟性、発想力は、変に力んだ状態でさえなければ発揮され、称賛できるレベル。

 叔父のユェインからは、ホンスーの父はチョウに家庭教師的な立場で色々な事を教えていたと聞いたが、どうやら息子もその

教育は施されていたらしく、頭はとても柔らかい。

「できました!」

―もう?―

 ちょっと考え事をしている隙に八卦鏡を組み直した弟子に、ルーウーは少し驚いた。

 手先の器用さもあるので、仙具作りには向いていそうな気がしたが、予想以上に馴染みが良い。仙具を作る事は仙気の制御力

を培うのに丁度良く、本人も興味を持って打ち込むので、この方向性で修行をしてゆこうと、改めて考える。

 ただし、ホンスーが持つ本当の才は、「こちら」ではないという事を、ルーウーは悟っている。

 舌に太極炉。この相を持っていた神仙を、ルーウーは他にひとりしか知らない。

 それは他でもないルーウーの古き友。四罪四凶の離反をもって責任を問われ、大陸を追われて海を渡った麒麟の仙人…。

 おそらくは彼と同じ資質を、ホンスーもまた有しているだろうと老虎は確信している。

 それは、対象に命じ禁じる力。条件が定まりさえすれば相手に行動を、あるいは不動を強制する力。対象に不存在化…つまり

自害や自壊すら強制するその力は、「禁術」と呼ばれる特殊な仙術。当時は旧人類を殺すために使われ、ルーウーの友はその言

の葉で多くの相手に存在を禁じてきた。

 思えば、後年あれだけ人類を愛するに至った彼にとって、当時のあの所業は苦痛だっただろう。憎んでなどいなかった。ただ

そうしなければならないから、言の葉一つで多くの命を禁じてきた。ひとに対して無関心になれば苦痛ではなかっただろうが、

そうなれなかった事は後年の彼を見ていれば判る。

 その術をホンスーに学ばせるつもりも教える気も、ルーウーにはない。自分が持つ文化圏レベルで対象を殲滅する「根絶者」

の力と同様、あの力も今の世界にはもはや無用の長物。ホンスーが体得すべきは、より広く柔軟で、可能性に溢れた…。

―そう 人類が 模して 拵えた 方術 道術の如き… 発想と 発展に 富んだ物也―

「はい?何ですかお師匠様」

 独り言に反応したホンスーが顔を上げ、

「あ」

―あ―

 手から滑り落ちた八卦鏡がうつ伏せに作業台へダイブ、パーツが一つ残らず外れて飛び散る。

―あー!ヤッチャッター!…ぐえ!」

 頭を抱えて仰け反り、勢い余ってひっくり返るホンスー。

―ホンスー 汝いま 念で 声を…―

「え?ホントですか!?ヤッター!」

 起き上がり小法師のようにグインッと戻るホンスー。

―戻った―

「戻っちゃったー!!!」

 思わず笑ってしまうルーウー。孫を養子に出してからホンスーを弟子に迎えるまでは、久しぶりに静かな毎日を送っていたが、

今は随分賑やかである。
弟子だった白狼の修行時代に、彼を連れて下界を旅をしていた頃もそうだったと、老虎は昔を懐かしん

だ。最後の愛弟子がああして去った後は、もう弟子を取る事は無いだろうと思っていたのだが…。

―ホンスー その八卦鏡は 汝の 好きにして 構わぬ―

 カチャカチャと部品を戻して組み直すホンスーに、ルーウーは告げる。

―同じく作り 同じく其処許の 仙気を宿せし 八卦鏡とは 離れても 意思疎通… あ~… あれ テレビ電話? の如き 

遠方の 通信が 可能也 其処許の 親しき 相手などに 渡して おけば 話す事も 叶おう―

 神仙がその手で作った八卦鏡は、金属が磁力を帯びるように、何もしなければ半永久的に仙気を宿し続ける。そしてそれらは

仙気の微弱な共鳴を利用した遠距離通信が可能。鏡を利用して立体映像を投影する事もできる。もっとも、有効距離や精度、解

像度や安定性などは、それを用いる者の仙気に依存するが…。

「ほ、ホントですか…?」

 ホンスーは半信半疑。仙人の技を疑っているのではなく、神仙のタマゴであるという自覚が薄く、自信も全然無いので、自分

が作った物で本当にそんな事ができるだろうかと考えてしまう。
ルーウーは目を細めて笑いかけ…。

―汝の 炉心の 制御力と 鏡の 出来次第 ではあるが―

「ボクと鏡の出来次第ですかー…。よし頑張ります!…ん?」

 突然首を傾げるホンスー。どうしたのかと、つられて同じ方向に首を傾けたルーウーは…。

「お師匠様。陣を組む時とかに、基点に仙気を宿すんですよね?岩だったり地面だったり、何かとか何処かに…」

―如何にも―

 それがどうしたのかと、質問の意図をはかりかねたルーウーだったが、次いでホンスーが発した言葉で目を丸くした。

「そういう風にして、中継点とかにできないんでしょうか?電話とかの電波塔みたいに…」

 それは、出力の関係でそういった物が必要なかった神仙には、これまで無かった発想だった。足りないが故に補う手を模索す

る…。人類が築き上げてきた技術を基にした発想で…。人類生まれの神仙ならではの発想というのは面白い物だなと、ルーウー

は感心させられた。

―存在しない 下敷きの無い 術と 陣に なろうが… 理屈の 上では おそらく 可能也―

「ホントですか!頑張ります!」

―頑張れ也 …時に ホンスー 名乗る 名は まだ 決まらぬか―

「あ~…。名前は、まだ悩んでて…」

 ホンスーは眉を八の字にした。

 基本、神仙も邪仙も仙人としての名を持つ。神仙の仲間入りをした者達も、四罪四凶やその弟子達も、ひとであった頃の本名

とは別に仙人としての名を名乗る。仙人としての名という物は、格にもよるがそれ自体がまじないや宣誓としての効果を持つ物

となるので、非常に重要だった。ホンスーもその名を持っておくべきなのだが、まだ決まっていない。

「誰かに頼んで決めて貰うのとか、オッケーですか?それともやっぱりダメでしょうか?」

 ダメなんだろうなぁと考えながらも一応訊いてみたホンスーは…、

―おっけぃ也―

「オッケーですか!?」

 意外にも軽くオッケーされて逆にビックリした。

―良い名を 貰えるなら それが良い―

 特に自分でつけなければならないという決まりも無く、師匠がつけたというケースも多々あると、ルーウーは述べた。

―…身共 これまで 言って おらぬ か?―

「聞いてませんけど」

―それは あい 済まぬ―

「ボクもお師匠様に名前つけて貰うのは…」

―それは…―

 ルーウーは口ごもった。

 唯一自分が名を与えた愛弟子は、その名を捨てて去った。当時その事自体にさして意味は無かったが、「太上老君が付けた名

を持つ者が桃源郷と袂を分かった」という事実が今はある。それも該当数で言えば一分の一…、つまり割合にすれば100%で。

 因果が逸話に倣おうとするのは、何も仙人に限った話ではない。概念と因果にすら影響を与える老虎の存在力に鑑みれば、こ

こに「太上老君に名を貰った仙人は袂を分かつ」というジンクスめいた物が発生している可能性もゼロではない。

―…諸事情あって 避けた方が 無難也―

「そうなんですか…」

 残念そうなホンスーだったが、「でも、誰かにつけて貰って良いなら…」と、何か決めたような顔でウンウン頷き始めた。

 こんな具合で、ルーウーとホンスーの修行と旅は、日々順調に進んでいた。

 以前一時旅路を共にした老虎の正体を知って、一度は畏怖して慄いたホンスーだったが、いざ弟子入りしてみるとルーウーは

あの好々爺のまま。別に世を忍んで振舞っていたのでもなく、素があのとおりなのだとすぐに悟った。むしろ思ったよりフラン

クで気さく、色々と訊き易い。

―では そろそろ 夕餉の 支度を―

「はい!片付けて用意しますね!何作ろうかな!」

 ルーウーと新弟子のホンスー。修行は始まったばかりだが、子弟関係はすこぶる良好である。

 

 

 

 その四日後。

 行政区画中枢の一角に建つ、軍中央本部管轄の、一時滞在する軍人などが過ごすホテル代わりの臨時宿舎が、夕刻過ぎて窓の

灯りを目立たせる。

 五階建てで高さの三倍は横幅がある、全体のシルエットはまるで学校の校舎のような見た目だが、窓が小さく部屋数が多いの

が特徴。一時身を置くだけの場所ではあるが、基本的に利用者が少尉以上かその補佐官に限られるため、高級ホテルにも負けな

い設備とサービスが整えられている。

 ダブルサイズのベッドが置かれた部屋は広々としており、空調設備、バスルームも完備。書類作成もできるようパソコンとプ

リンター、スキャナーとFAX兼コピー機も置かれており、滞在中の軍務にも支障がないよう配慮されていた。

 なお、食事のルームサービスは当然として、予約すればマッサージどころか、実は公言できないサービスまである。滞在中の

世話係をつける事も可能で、若い軍人や執務及び事務の担当者をつけて貰えるのだが、者によっては「仕事以外の世話」をさせ

る目的で手配を求める。ひとが増えれば要望も増える、ましてそれなりの権力や立場を掴み取るだけの精力や行動力を持った者

が揃う場所ならば、そういった欲望が人一倍あっても不思議ではなく、それを慰めるシステムも組まれてしまう物。歯に衣着せ

ぬ離将はどは、「ダークサイド湯屋」こと高級将校用の地方の慰労館と並べて、ここを「贅を凝らした爛れた魔窟」と称する。

 もっともここに対し、らんちき騒ぎに興じる趣味も、裏側を詮索するつもりもない第八連隊長とその副官は、単に過ごし易い

宿泊施設という印象しかもっていないが…。

 その綺麗な魔窟の一室、上官が他の八卦将によって強引に繁華街へ連れられて行った夜、猪の上尉はひとり、食事もろくにと

らず部屋にこもり、脱衣所で体を乾かしていた。

 シャワーを浴びて体を清めるのも戻ってから二度目。ちょっとしたアクシデントで四ほど分抜かして良いほど栄養を過剰摂取

させられる羽目になり、やたらと火照っている体は妙に汗ばむ。温風ではまた汗が出てしまうので、ドライヤーは冷風。乾かし

難いが仕方がない。

(うう…。まだ腹が張って…、異物感が…)

 鏡と向き合い、普段より二~三割大きく膨れている腹を、情けなさそうに眉尻を下げながらさするチョウ。被ったランニング

シャツは張った腹のせいで前にせり出し、裾がヒラヒラ浮いている。シャツにトランクスという薄着でいないと暑くてかなわな

いし、歩くたびに腹の中からタポンタポンと水音が聞こえるのも落ち着かない。

 今夜は近くにできたというケーキバイキングの店に行こうと決めていたのだが、正直もう水の一口も飲めない。恨みがましい

気持ちにもなるが…。

(はっ!いかんいかん、離将は俺を気遣ってなさったのだ。恨んではバチが当たるぞ)

 首を振り、無意識に腹を撫でながら脱衣所を出て、部屋に戻ると、空調の風が当たる位置でベッドに腰掛け、後ろ手をついて

腹が楽な姿勢になりながら、ぷふぅ~…と溜息をつく。時折ゲップが込み上げてきて、その都度眉を八の字にしてガリガリ頭を

掻く。

(ユェイン様が不在になったのは幸いだった…。今日は用事もない、早めに休もう。…シーツが朝までに汗でグショグショにな

らなければ良いが…。いや、そもそも眠れるか?まだ落ち着かん…!)

 程無く立ち上がり、少し動いた方が腹もこなれるだろうかと、落ち着きなく部屋を行ったり来たりする猪は…。

「はい、ただ今」

 急に鳴ったインターフォンに驚きながらも、流石に肌着姿で出るのは憚られたので手早くズボンを穿きながらドアに向かう。

ルームサービスも頼んでいないのにと、妙に思いながら応対に出ると、ドア脇のモニターには封筒を手にした下級士官と思しき

若い狐が、緊張気味の顔で映っていた。

「お待たせしました。用向きは何でしょう?」

 のっそりと姿を見せた猪のラフな格好を、一度目を大きくしてから瞬きした狐は、「お、お寛ぎ中に失礼致しました!」と慌

てて背筋を伸ばし、踵を合わせて敬礼した。キビキビした動作が若干ギクシャクもしている初々しい初級士官は、真新しい中士

の階級章を着けている。

「いや、特にする事もなくボーっとしていた所です。お気遣いなく、中士」

 基本的にチョウは誰に対しても丁寧な応対。隊で直接下についている身内の兵などは別だが、よその下士官や民間人が相手で

も敬語を用いる。厳めしい顔の大男…それも遥か上の階級である尉官が、思いの他穏やかな声で返答し、目を細めるのを見て、

狐は意外に感じながらもホッとした様子を見せた。

「確認失礼致します!ジァン・チョウ上尉殿でお間違いないでしょうか?」

 敬礼から直立に戻った狐に、「はい。本官がジァンで間違いありません」と応じたチョウは、狐が宛名を最終確認してから向

きを変えて差し出した封筒に視線を落とす。

「第八連隊副指令殿より、至急との事で封書が転送されております。…その、連隊長殿かジァン上尉殿あてとの事でしたが、連

隊長殿がお戻りはでないご様子でしたので…、お受け取り頂いてもよろしいでしょうか?」

 優先順的には上に渡すべきだが、至急とあるので副官に預けるよう指示されたのだろう狐が伺いを立てると、チョウは幾分怪

訝な顔をしながらも顎を引いた。

「了承しました。本官が受け取りましょう」

 猪が少し前傾して封筒を受け取ると、濃く残ったボディソープの香りが鼻先を掠めて、狐はホワッとする。

(怖そうな顔だけど対応丁寧…。ここに泊まる将校にしては珍しく、偉ぶった感じが全然ない…。敬語だけどへりくだってる感

じしないし、腰が低いとも感じない…。堂々とした、余裕がありそうな、紳士的な態度…。あ、良い匂い…)

 前もって聞いた噂とも、顔を見た第一印象とも一致しない、チョウとのやり取りで垣間見た人柄に、狐は少しドキドキしてし

まう。腹が出てはいるがだらしないとは感じず、薄着故に戦車のような力強さと重量感がある肉体のラインを、はっきり視認で

きてしまう。

「受け取りの記名はどちらに…。どうかしましたかな中士?疲れているのでは…」

 少しボーっとしている狐を、疲労していないかと気遣うチョウ。

(ホンスー君と同じ歳か、少し下くらいか…。初々しい新人だな)

 そんな猪の内心など判ろうはずもない狐は、「失礼しました!」と慌ててボードを取り出して、受け取りのサインを貰い…、

「ご苦労様です。夜勤対応大変でしょうが、無理せず休憩しながら頑張って下さい」

 猪にそう言って笑いかけられ、敬礼して、そのまま閉じたドアを数秒見つめ続けた。

(何だか…、思ってたのと…)

 

「なんかさ…」

 三分後、詰め所になっている一階の待機部屋に戻って休憩に入った狐は、同僚と向き合いながらポツリと漏らした。

「教導官して貰った同期が、滅茶苦茶厳しい訓練だったって言うから、物凄い鬼教官みたいなひとを想像して行ったんだけど…」

 うん、と向き合っているアナグマが頷く。どっちが持って行くかコイントスで決めた手前、行かせた同僚をちょっと心配して

いたのだが…。

「思ってたのと全然違ってた…。疲れてないかとか心配してくれて…。頑張れって励ましてくれて…」

「怖い人じゃなかったっていう事?」

「そう!怖いどころか優しそうだった。敬語で喋るんだよ、俺みたいな下っ端のヒヨッコ士官にも。あ、でも敬語で話してても

軟弱な感じは全然なくて、頼もしい感じだった。俺の教導担当、やたら威張り散らす軍曹だったけど、あっちよりよっぽど堂々

としててさ…」

「やっぱり連隊のトップの副官やってると違う物なのかな?この間チェンが当たった中尉なんか酷かったらしいぞ。酔っぱらっ

てウザ絡み…。真夜中の廊下で三十分ぐらい騒いでたってな」

「ああ、結局同じ階に泊まってた中校さんが起きて来て説教されてたっていうアレか?」

「そうそう」

「そういう感じじゃ全然ないなぁ。お兄ちゃんって言うか、お父さんって言うか、良い匂いしてたし包容力ありそうなひとだっ

た。なのに軍人らしくないかっていうとそうじゃなくて…。ああいうひとにだったら…」

 無言になる二頭。休憩しているのは二人だけではないので、注目されている訳ではないが声を潜める。

「あのひとにだったら「そっち側の希望」で、世話係要望されてもいいな…」

 ここで将校の世話をする命を受ける面々は、訓練を終えたとはいえ少年から青年の若手が殆ど。学生気分が完全に抜けていな

い者や、幼い紅顔がそのままの者も居る。だが、誰も無邪気なままでは居られないのがここであった。

 彼らもゆくゆくは部隊を預かる士官や、卓から指示を飛ばすオフィサーとなる。中央に来る将校の面々の覚えを良くするため、

そしてパイプを作る為に配置される。とはいえ、政府への忠誠心込みで優秀と判断された者や、特別コネがある者などはここに

配置されず、充てられるのは自力での出世が見込めないか、護ってくれる後ろ盾が皆無の、平民出の若手下士官ばかり。中には

生活苦の実家を支えるために軍に入った者もおり、ここで知り合った上級将校の覚えを良くして出世のきっかけにしたいと思っ

ている者も少なくない。

 そして実際にこの中からは、「実務能力以外の点」で気に入られて、名指しで取り立てられる者も時々出る。だからこそ余裕

がない者は自分の身にも頓着しない。縋るつもりで自らを差し出す事もある。この狐も家が裕福ではないので、できれば早く出

世して、歳を取った両親への仕送りを増やしたい。チャンスがあるなら、相手にもよるが自分を捧げても我慢するつもりで居た。

 軍の、中央の、下士官が集いながらも、この部屋の空気が淀んでいるのは、彼らの多くがそういった背景を持っているから。

中央から離れている軍人達の半数はそんな実態や内情を知らないままここに宿泊しており、ユェインとチョウもそんな事になっ

ているなどと夢にも思っていないが…。

 腐敗の皺寄せは常に見えない所に寄るが、どうしても近くにできる物だ。…とはヂーの弁だが、言い得て妙である。

「あの上尉さんは今夜、誰を呼んでるんだろ?代わって貰えないかな…」

「え?誰か呼ばれてる?」

 疑問の声を発したアナグマに狐が頷く。「判らないけど石鹸の匂いがした」と。

「いや、今日から世話係入るヤツ居なかったし、今夜は珍しく「臨時慰問」の要望が出てないって聞いたぞ?」

「え?じゃああの石鹸の匂いって普通に身だしなみ?はぁ~…、綺麗好きなひとなんだ~…。見た目は凄く野性的な感じでゴッ

ツイのに、物腰は優しいし綺麗好きなんだなぁ…」

 また会話が途切れた。「用事」を申し付かるならああいったひとが良いなと、狐はぼんやり考えた。痣が残って被毛が擦り切

れる程乱暴に凌辱された、先週の事を思い出しながら。

 

 一方、自分がこっそり話題にされている事など想像もしていない猪は、受け取った封筒を入念に確認していた。

 第八連隊で転送用の封筒に詰められた中身はホンスーからの私信封筒。その宛名は「第八連隊 伏月陰上校様か江周上尉様へ」

となっていた。ざっくりしているが判り易い、この開けっ広げで真っ直ぐなところに本来のホンスーらしさが出ている。

(外部から術を仕込まれた形跡はなし…。開封後に再封緘を偽装した痕跡もないな)

 テーブルに封筒を置き、その八方に真鍮の文鎮を配して簡素な陣を敷き、青白い鬼火のような色の八角柱を出現させて両手を

かざしているチョウは、偽装などが無いか仙術で調査している。
専門家ではないので解術や性質看破まではできないし、ユェイ

ンの勘のように即座に異常を感知できる訳ではないが、ヂー仕込みのこの術で異常があるかどうか、攻撃的な罠が仕掛けられて

いるかどうかは、ほぼ確実に判別できる。見た所、青白い半透明の幻像として現れる八卦の八角柱に揺らぎも変色も見られず、

安全だと判断できた。

 至急とホンスーの字で書いてあるので、チョウはユェインに事後報告する事にして、封筒に鋏を入れる。

 中には、やや丸くなる癖があるホンスーの字で記された、ユェインとチョウそれぞれにあてた手紙が一枚ずつ入っていた。

 ユェインあての物は封筒の中に戻し、自分宛ての手紙を、目を素早く往復させて末尾まで一気に読んだチョウは…。

「…ふぅ…」

 一息つく。そして目を閉じ、何度か顎を引き、冒頭から読み直し…。

「…はぁ…!」

 今度は満足げな息を吐く。

「ホンスー君…!こんな丁寧な文面で手紙を書けるようになって…!」

 感動と感心のグレードとハードルがだいぶ低い猪。曲りなりにも元軍人の、成人したレッサーパンダからの手紙なのだが、褒

め方がまるっきりローティーンに対する物である。おそらくホンスーが鉄棒で逆上がりしても褒めちぎる。おそらくというか絶

対にそう。

 内容その物は、作業が上手く行くようになってきたとか、最近丁度いい気温だとか、天気が良い日が多いとか、第三者が読ん

でもおかしいと思わず、内容も看破できない当たり障りのない近況報告。そこにチョウお兄ちゃんは元気にしていますか、変わ

りないですか、と健康を気遣う言葉が続く。

(旅と修行の最中にも俺の体を気にかけてくれるなんて、ホンスー君は相変わらず良い子だなぁ…)

 冒頭から四度読み返しつつ、ひとしきりほんわかした猪は、末尾に記された一文…「御爺様もお話ししたいと言っていました」

という文言を改めて確認すると、そっと手紙を裏返した。ホンスーが「御爺様」と言い換えている相手は師匠であるルーウーの

事。「話したいと言った」というのは、既に連絡を記してある事を意味する。特に変わった内容でもないのに至急と封筒に記し

てあった理由は、おそらくそちらに関係するのだろうと予想できた。

 手紙の裏面には、普通は認識できない発光する文字で文が記されており、ホンスーの様子と修行状況が綴ってある。

 それは老虎が仙気の痕跡で記した文。ルーウーが自身の太極炉心を基準にした解禁条件を設定しているため、彼由来の太極炉

心を宿すユェインとチョウでなければ視認できない。仙気自体は発していない、筆圧の痕跡に近い物なので、どのような術で走

査しても引っかからず、例え開封されて検分されても裏面に何かが記されている事に気付ける者は居ない。

 こちらの文は最初からゆっくり、一字一句逃さず読み進めるチョウ。師の目から見た弟子の成長、そしてホンスーの日々の暮

らしぶりについての報告が続き…。

(仙人としての名を決められないでいる…。そちらで決めて貰えないか…。なるほど、至急というのはそういう………は!?こ

ちらで!?そんな大切な事!至急とはいえ俺には!ユェイン様にお話ししなければ…)

 上官の判断を仰ぐ事にしたチョウは、最後の文に目を止める。

 この面を向き合わせて折り、閉じ合わせてから開くよう指示してある。それに従って二つに折り、開くなり、チョウの手の上

で手紙は重さを増した。
開いた手紙の上に、手品のように現れたのは小さな八卦鏡。首にかけて胸に吊るせるサイズの品である。

 金属が磨き上げてある中央の鏡は、目を凝らすと表面の映り込みに明るい反射と暗く見える所が浮かび上がり、太極図が見え

て来る。仙気が込められている特別な品だと一目で判ったが…。

(我々の…ひいては老君の仙気とは印象が違うぞ?これは…)

 これについて説明は無いかと手紙を読み返すと、この鏡を取り出す事が条件になっていたのか、文末と思われた所よりも先に、

新たな文字が浮かび上がってきた。

 自分由来の太極炉心を持つ者が手順を踏む解除されるイマジナリーストラクチャーを用いて、ルーウーが手紙に仕込んだそれ

は、ホンスーがこれまでに作れた数少ない仙具。出来が良かった二つを二人に贈るという事が記してある。

(発信側が未熟なため本来の機能を発揮できないが、ゆくゆくは通信などが可能に…。これで!?)

 マジマジと小さな鏡を見つめたチョウは、それを大きな手でそっと包み込むと、拝むように額を押し当てた。ホンスーがこれ

を一生懸命作ったと、やっと練られるようになった仙気をこれに込めたのだと、想像するだけで温もりのような物を感じる。


を握るより、剣を取るより、こうした品を作っている方がよほどホンスーには良いと、安堵や満足も覚えた。

(本当に、神仙として歩み始めたんだな、ホンスー君は…)

 感激した。仙具を作れたという事にも、それを自分に贈ってくれたという事にも…。

 

 

 

―今しがた 開封された―

「え?判るんですか!?」

 焚火を挟んでミルク粥を煮ながら、ホンスーは唐突に言ったルーウーを見遣る。

―片側のみ ジァン・チョウが 手紙を読み 開封した―

「チョウお兄ちゃんが!どうかな…、今更だけど出来栄えが心配になって来ちゃいました…」

 耳を倒したホンスーに、

―あれらは …あれら「だけ」は 申し分ない 小鏡也―

 実は十七個ほど失敗して、仕上げられたのはあの二つだけだった。完成数では中鏡以上だが、失敗率では上回っている。それ

でも、普通ならば仙気を封入した品を作るのは、ひとから仙人になる修行の行程十数年で手掛けるようになる段階なので、自前

で太極炉心を得たホンスーはスタートラインから段違いと言える。

―あの品を 目にすれば ユェインも 努力を 認めよう―

 ルーウーは目を細めて思い出す。この弟子をジャイアントパンダから預かった日の事を…。

 

 そこは、何の目印も無い、雑草が茂り雑木が点在する、平地の真ん中だった。

 ユェインは車で送って来たホンスーをルーウーに引き合わせ、一緒に頭を下げた。

―では 問う―

 ルーウーは開口一番、ホンスーに問うた。

―よく考えて 参ったか? 其処許は 仙人になりて 何を望む?―

「え?」

 レッサーパンダはきょとんとした。同時にこの「初耳なんですが」的な顔と反応を見たルーウーも眉根を寄せる。

 弟子入りまでに、自分が何を成したいか、どうしたいか、考えて来させるようルーウーはユェインに言った。しかしそれは甥

に告げられておらず…。

「ホン。思うままに答えなさい。自分がどうしたいのかを」

 ジャイアントパンダは戸惑う甥っ子にそう告げた。

 言い忘れたのではなく、あえて言わなかったのである。

 考えさせてしまっては、ホンスーはきっと、「立派な答え」を用意する。
ただしそれはきっと、ホンスー自身の気持ちとは関

係なく、その使命感から、建前と道理を前面に出した物となる。

 実際問題として、桃源郷と人類の関係修復についての希望は、ホンスーの双肩にかかっている。建前でも大義名分は立派な物

になるだろう。
だが、それではホンスーは置き去りである。望んだ訳でもなくその立場に置かれ、それでやり遂げられるかどう

か…。皆のためではあっても、そこに自分の理由が無いなら、そこに己の想いが無いなら、いかに大義であっても力を持たない

と、ユェインは軍人として考えた。

 そして、彼の叔父としてのユェインはこう考えた。ホンスー自身がそこに意味を見いだせないなら、そこに彼の人生を賭けさ

せたくはない、と…。

 だから、問われたその場で本心を言うよう、ユェインは甥にルーウーの話を伝えなかった。その結果、弟子入りを断られる答

えをしてしまったとしてもかまわない、と…。

 悩むだろう。すぐには答えられないだろう。だがそれでも本音を絞り出して欲しいと、ジャイアントパンダは目を瞑り…。

「あの!」

 すぐに目をあけ、口を開いた甥を見遣った。

「修行して神仙になれたら、おじさんとチョウお兄…チョウ上尉から、太極炉心を取ってひとに戻す事はできますか!?」

「!!!」

 殆ど悩む時間も挟まず甥が口にした言葉で、ユェインは目を見開いていた。

「ふたりがひとに戻って、ひととして死ねるようになる事は、神仙になればしてあげられますか!?」

 ふたりが「仙人の成り損ねにしてひとの成れの果て」だという事は、ホンスーも本人達の口から説明された。もはや子孫を残

す事も出来ず、死すれば痕跡も残らず、体が崩れて塵になり、この世から消えるのだと…。

 その時にホンスーは思った。

 神仙になって大切な役目を果たす…。それは自分にしかできない大役だと理解した。だがその他に、もしも本当に自分が神仙

になれたなら、ふたりをひとに戻す仙術などが使えるようになったりはしないだろうか?と…。

(ああ…、そうか…)

 ユェインは感じ入った。これがホンスーなのだ、我が兄の忘れ形見なのだ、と…。

―そのような 術は 存在せぬ―

 ルーウーの返答は簡潔だった。ホンスーはこれを聞いて耳を倒したが…。

―今は まだ―

 老いた剣牙虎は目を細めた。

 ユェインは太極炉心を宿す事で致命傷から持ち直したが、今は視力だけでなく、生命活動の一部もこれに委ねている状態。

 チョウに至っては、ユェインがかつての同僚から抜き取って移植した太極炉心が、そっくりそのまま喪失した心臓の代わりに

なっている。

 ふたりともそのまま太極炉心を抜けば死んでしまう。炉心を奪われた邪仙と同じように、その場で崩壊してしまう。

 それこそ、太極炉込みで成立している体をひとの物に回帰させた上で、傷つけないように炉心を摘出しなければならない。

 そのような術は無い。

 だが、できないから無いのではない。今はまだ無いというだけで、不可能かどうかも含めて判らない。

 神仙をひとに戻す事はかつての弟子にもできなかった。だが、神仙に至らず、邪仙でもない、仙術兵器であればあるいは…。

―もしも それを望み 求めるならば 身共に 反対の理由は あらず 為せるか 否かは 其処許次第―

 微笑むルーウーは良い予感がした。雨季の終わりの晴れた夜明けが近い時にも似た、展望が明るくなるような期待感があった。

―今一つ 問う 其処許 この道を往かば 四罪四凶 そして 邪仙 その関心を 集める事となる―

 可能な限り存在は伏せるし、出来得る限り護るつもりだが、ホンスーという希少な例は四罪四凶達にとって垂涎のケース。存

在を知られれば確実に狙われる。その事をルーウーが念を押すように告げ、覚悟を問うと…。

「死ぬのは怖いです」

 ホンスーはきっぱり答えた。

「ボクは臆病で、気が弱くて…。自分が死ぬところ、考えるだけで怖くて震えます」

 ユェインは頷く。ホンスーだからではない、誰だって怖くなる。仙人がどういった物なのか知った軍人ならば、自分が邪仙に

標的にされる事がどれだけ恐ろしいか、絶望感を抱きながらまざまざと想像できる。

「だから、弟子にしてください」

 ん?とユェインは首を傾げた。甥の話が突然飛んだように感じて。

「死ぬのは怖いです。ひとが死ぬのも怖いです」

 見上げるホンスーの、緊張気味な声を聞きながら、ルーウーは軽く目で頷き、先を促した。

「ボクが神仙になって、桃源郷がひとの味方になってくれて、それで、死ぬひとが減るなら…。やっぱり、そっちが良いかなっ

て思うんです」

 ふんわりとしていて、宣言というには力強さが足りなかったが、しかしジャイアントパンダは、この若いレッサーパンダを誇

りに思った。

―了承した―

 ルーウーが厳かに、そして穏やかに、新たに弟子とする事に決めた若者に頷きかける。

―今日 この時より 「汝」を 身共の 弟子とする―

 

「お師匠様、食べごろになりました!熱いのでフーフーして下さいね!」

 元気なホンスーがハキハキと、お椀に粥をよそって師に差し出す。米にネギとチンゲンサイを加えて、山羊の乳で煮込み、塩

で味を調えた粥には、サワガニの身をほぐして混ぜ込んである。ほんのりとカニの身の香りがついた、ミルクスープのような素

朴な味わいだが…。

「凄い…。チョウお兄ちゃんが教えてくれた「ある物だけでもすぐ作れるし具材を加えて応用するのも簡単な野外飯集」…、外

れが一つもないし素人のボクでも美味しく作れる…!」

 こんな所までマメ過ぎる猪の気遣い。野宿中心の旅の助けにと、チョウが贈った手書きのレシピ集は大活躍である。なお、食

材が確保できる季節順に記してある上に、レパートリーは百八十を超えており、順番にローテーションしても一年の約半分はメ

ニューが被らない。唯一の難点は、「たくさん作って美味しく食べる」をモットーにしている猪の著なので、どのメニューも分

量が多過ぎる事。多過ぎた分は無駄にならないようルーウーが食べているが…。

―もはや 何を 本職にするのが 正解で あったのか… 皆目 解らぬ 男也…―

 できる事が多彩過ぎて神仙も唸らせられるチョウ。一体何なら苦手なのか。

 

 

 

 その十数分後、宿泊棟の廊下では…。

「遅いんだよ!」

 廊下に響く罵声。続いて小さく呻く声に重なり、壁にドンとぶつかる音と、食器類が床に落ちたけたたましい音が響いた。

「も、申し訳ありません!」

 殴られた拍子に切れた口を手の甲でサッと拭うなり、若い狐はすぐにその場で直立不動の姿勢を取る。

「貴様、いつまで待たせるつもりだ!」

 怒鳴っているのは半分瞼が落ちている黒い熊。息が酒臭く、相当酔っている事が窺える。狐ほどではないがまだ若く、二十代

後半と見えるが、酒に酔ってくつろいでいる内に着崩れたらしい軍服には中尉の階級章がついていた。

「貴様ぁ…、何だその態度は!フラフラと…、バカにしているのか!」

 自分の視界が揺れている事など自覚していない熊は、狐の胸倉を掴んだ。

「は!申し訳ございませんっ!」

 反論せず、殴られる事を避けようともせず、むしろ進んで応じるように背筋を伸ばす狐。

 事の発端は、世話係のひとりが注文された酒とツマミを違う部屋に届けてしまい、熊に届けるのが遅れたせい。怖くて行きた

くないという、ここに来たばかりの新人に代わり、狐が代わりに届けながら謝罪に来たのだが…。

 落ち度はこちらにある。だが、本当は嫌だし逃げ出したいし泣きたい。それでも堪えて、甘んじて殴られようと狐が首に力を

込める。

 熊は運ばれて来たばかりの中身が入った酒瓶を握り、振り上げ…。

「待って下さい」

 かけられた太い声が、熊が振り上げた酒瓶を制止した。

 振り向いた熊が揺れる瞳で見たのは、ランニングシャツに綿のズボンというラフな格好の、腹が出た猪。

「穏やかではありませんな。何かありましたか?」

 何処かへ出る所だったのか、たまたま通りかかって財布を片手に歩み寄ったチョウは、やはり敬語だった。熊の階級を確認し

ていても。

「…何だ貴様…?」

 だから、熊は勘違いした。コイツは自分より階級が下だろうと。

「既にお休みの方もおられます。何があったかは知りませんが、どうかここは一つ穏便に…。諫める場を選ぶのも士官の度量で

すぞ、中尉?」

「生意気に意見するか貴様!」

 熊が狐を突き飛ばすように放り出す。尻もちをついて壁に背を打った狐はむせてしまい、すぐには声が出なかった。

「揺れるな!背筋を伸ばしてそこになおれ!だらしない腹をしおって!」

 大股に歩み寄った熊が握った酒瓶を振り上げる。舌もそうだが足にも酔いが回っているようで、躓いた熊が転倒しかけ…。

「おっと、足元にご注意を!」

 チョウは殴りかかられたにも関わらず、熊が瓶を握っている右の手首をはっしと平手で包むように握り取ると、右腕を熊の脇

の下に入れて、転びかかった体を抱き止めるように支えてやった。

「放せ貴様ぁ!」

 酔っぱらっている熊は猪が自分を取り押さえに掴みかかったと誤認して暴れる。なるべく穏便に済ませたいチョウだったが…。

 ズムン!

「!?…ぅぇぷ…!」

 滅茶苦茶にもがいた熊の不規則な動きから肘が飛び出し、腹に命中して目を見開く。普段であれば何でもないが、今は諸事情

あって上から下から色々漏れそう。

「まず…落ち着いて下さい…中尉…」

 チョウは笑顔である。ただし、取り繕ってはいるがコメカミと口元がだいぶピクピクしている。憤慨しているのもあるが、腹

に一発貰ったせいで吐きそうだし漏らしそう。そこへ…。

 ガシャン。

 熊がでたらめに振り回した酒瓶が、猪の石頭に命中。見事に割れてチョウは中身をまともにかぶった上に、息が詰まった直後

のタイミングで浴びて、鼻と口に吸いこんで飲み込み、激しくむせ返る。

「じ、ジァン上尉殿!申し訳ありません、とんだ騒ぎを…!」

 その時身を起こした狐が、驚きながらも仲裁者の名を口にし、詫びた。

「中士!構わないので、少し離れておいて下さい!」

 応じたチョウは、ふと、熊の抵抗が収まった事に気付く。

「………ジァン…上尉殿…?」

 狐の声を聞いてキョトンとした熊の顔から、サーッと血の気が引いた。相手の階級が上だと知ったから…というだけではない。

 実はこの熊、特殊将校の候補に挙がっている中の一人で、試験の為に中央に呼び出されていた。秘匿事項情報にもある程度触

れられるので、一般の下級士官である狐達よりも軍の内情に詳しい。

「…ジ、ジァン・チョウ上尉殿!?第八連隊の!?」

 狐達と熊では、「第八連隊のジァン上尉」という同じ言葉が持つ意味がだいぶ違う。狐達から見れば連隊長の副官であるチョ

ウも、熊から見れば「仙術兵器六号」。顔写真などを含むパーソナルデータまではまだ閲覧が許されないため、不幸にも顔を知

らなかったが、特殊将校候補として推薦した上官から、50を越える邪仙を仕留めた優秀な特殊将校として名前は聞いていた。

「も、申し訳ございませんでしたぁああああああっ!」

 一瞬で酔いがさめた熊が廊下に這いつくばって詫び初め、チョウはため息をついて「瓶の破片が散らばっております。そんな

真似をしては手足を破片で切りますぞ?」と、立ち上がらせる。

 騒ぎにはしないし咎めもしないが、迷惑になるので廊下で大声を上げないようにと注意した猪は、そのまま熊を開放してやり、

あっさり部屋に戻してしまう。熊の行動は感心できない物だが、狐の側に激怒させるだけの落ち度があったなら、黙っておいて

やった方が互いの為に良いだろうとの判断だった。
寛大な処置が意外過ぎて驚いた狐と熊だったが、チョウにとってはこれが最

も手間がかからない穏便で合理的な処分である。

 任務から離れた宿泊施設で、他に迷惑がかかった者も居ない騒ぎ。下らないゴタゴタでいちいち処分など、下す側も暇ではな

いのだから面倒なだけ。衆目監視の上で狼藉があったなら別だが、今回は当事者三名が黙っていれば、周囲に示しがつかないと

いうような事でもない。軍紀は大事だが、ユェインなら大目に見るところだろうというのも、チョウがこの判断に至る基準の一

つである。

(穏やかそうなひとだと思ったけど、荒事に慣れてらっしゃる様子だ…)

 狐は呆然とその振る舞いを見届け、感心していた。

「災難でしたな中士。ひとが多く泊まるここならば、こうした巡り合わせが悪い事もあるんでしょうな…」

 同情して気遣ったチョウが、自分の酒臭さに気付いて「しまった、流石にこれでは買い物に行けん…!」と顔を顰めると、狐

は「あの!」と口を開いた。

「御用がおありでしたら何なりとお申し付けください!入り用な物も揃えてお持ちします!」

 

 それから数十分後。またシャワーを浴びて酒を洗い流したチョウが体を乾かし、着替えていると、インターフォンが鳴った。

「早いな…。はい、ただ今」

 応じながらドアに向かった猪は、頼んだ品を届けに来た狐に微苦笑を向けた。

「手間を取らせて済みません。助かりました中士」

「いいえ!こちらこそご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした!」

 恐縮している狐に礼を言いながら品を受け取ったチョウは、大判の封筒に入っている物を確認して感心した。

 頼んだのは手紙用の封筒と用紙。狐が持って来たのは封筒と用紙共に二種類、それぞれデザインと透過性が異なる物。添えて

ある厚紙は下敷き用で、筆圧によってはレター紙に書き難いかもしれないという配慮。

 感動がさめない内にホンスーとルーウーへの返事を纏めたいと思っての事だったが、もう一つ別件で感動してしまった。

(よく気が回る子だなぁこの中士は!)

 自分もヤングァンに憧れて気配りや作法を学んだチョウは、他者が見せるこういった何気ない配慮にもすぐ気が付く。

「少し時間を取れますかな?よければ先程の件について事情を聞きたいところですが」

 部屋に通そうとするチョウに、狐は表情を引き締めて頷く。事を荒立てないよう配慮して貰ったものの、せめて事情説明する

のは義務と感じた。

 部屋に招き入れられた狐は、ビア樽のような猪に勧められて椅子に座る。

 改まらなくて良いというチョウの言葉に従い、てきぱきと茶を淹れる猪の背中を恐縮して眺めながら、先程猪を巻き込んでし

まった騒動について、発端から包み隠さず報告した。

「…なるほど。有り難う、状況は掴めました。どうぞ」

 茶を勧めたチョウは、「中士が納得できるのであれば、穏便に済ますのがよいでしょうな」と結論付ける。

「軍は広く軍人は多い、とはいえ何処で一緒の隊に配属されるか判りません。変に軋轢など拵えないのが一番です。無論、今度

の事で何かありましたら、本官も次第を証言しましょう」

「あ、ありがとうございます上尉殿…」

 恐縮して俯き、茶を啜る狐は、屈んでゴソゴソと荷物を漁っている猪のずんぐりした背中を見遣る。

 変わったひとだなぁと改めて思う。自分のような下っ端下士官にもこんな風に丁寧に接してくれる上に、体を張ってトラブル

から救うなど、聞いた事も無い。まして相手は連隊長付きの副官、階級でも立場でも遥か遠くの相手である。

「同僚の過ちを庇って、行き難い所へ代わりに出向くなど、中士はお優しいですな」

「い、いえ!泣きつかれて仕方なくでありまして…!」

「それに胆力もあります。嫌な役目を変わるのもそうですが、階級で上にあたる相手が、酔っぱらって理不尽に拳を振り上げて

も、君は避けようともしないで堂々と背筋を伸ばした」

「そ、そうでしたか?動転していてよくわかりません…」

「いや!夢中な中でこそ、そうできるのは素晴らしい事だ!そういう心根の強い子こそ頑張りを認められるべきだと俺は思う!」

 あれ?と狐が首を傾げる。口調が少し砕けてきたな、と。そして飲み終えた茶碗から顔を上げると、荷物を漁って何か持って

来た猪は、その正面で跪く。

 塗り薬が入った八卦紋デザインの小さな容器を手にしているチョウは、何故か妙にニコニコしていた。相好を崩して満面の緩

んだ笑みを浮かべている。

「あの…、ジァン上尉殿?」

「うん?何かな?ともかく怪我の処置をしよう!あ~あ…、随分と腫れが目立ってきてしまったぞ?可愛い顔に痕でも残ったら

大変だ!」

 そう言いながら、猪は狐の右頬に手を添えて、逆の手で額を押さえて首を曲げさせた上で、先程熊に殴られていた左頬の腫れ

を確認する。

(か、顔が近い近い近い!)

 鼻先が頬につきそうなほど顔を寄せ、至近距離で頬を見られる狐は、猪の息から酒の香りを感じた。それは、さきほどチョウ

の頭に命中して割れた瓶に入っていた、アルコール度数55パーセントの白酒(バイチュー)の匂いである。

 チョウはあまり飲酒をしない。非番の時でも。しかし酒が飲めないわけでも、苦手なわけでも、弱い訳でもない。むしろ人並

み以上に飲める方で、美味い酒はちゃんと楽しむし、舌で蕩けるような濃くて甘い酒は大好物。程度が判らない飲み方をする事

もなく、だらしなく酔い潰れる事も無い。

 なのにあまり飲まないのは、自分の酒癖を自覚しての事である。酔っている間は自分の行動がおかしくなっている事に全く気

付けなくなるのだが…。

 実はこの猪。頭にアルコールが回るとタガが緩み、甘くなる。そしてユルユルになる。

 具体的には、故郷で身内の年下を内心でベタ褒めしながら甘やかしたように、誰に対してもベッタベタに甘やかすようになっ

てしまう。故郷で暮らした少年期の頃の気持ちに近い状態で、それこそ相手を勘違いさせるほど、そして相手によってはハラス

メントになるほど、遠慮されてもおかまいなしに。

「薬をつけてあげるから、我慢してじっとしているんだぞ?ほら、ほっぺをこっちに向けて…」

 器から取り出したゼリー状の塗り薬は、特殊将校…それも高級士官限定で配布される物。止血から打ち身の治療、炎症抑制に

皮膚の修復速度増進と、外傷への抜群な効能が多岐に渡る。対仙人用の弾薬や爆弾と同じく、生成にひどく手間がかかる貴重品

だが、チョウは惜しげもなく頬の打撲傷にそれを擦り込む。ヂーなどが見たら「バカなのか?バカだろう?バカだ!」と白目を

剥くところである。

「痛くないか?すぐだから我慢だぞ~」

「は、はい…!」

 炎症を抑える成分が浸透し、スースーし始める頃には、猪は手を引っ込めて拭うと、おもむろに狐の頭に手を乗せてワシワシ

撫で始める。

「よし終わりだ!ちゃんと我慢出来て偉いぞ!他に痛いとこは無いかな?」

「い、いえ!大丈夫です…!」

 ニコニコ猪に頭をワシャワシャされ、顔をカッカと熱くさせている狐は…。

「よしよし強い子だ!ん~…!」

 やおら立ち上がった猪が両腕を広げ、抱き締めると、目を真ん丸にした。

 ギュッギュッと二度強く締めるようにハグした後、顔の位置を左右入れ替える格好で再び抱擁し、またギュッギュッと二度強

く締める。

 チョウの田舎の辺りでは、よく親が子供にしている、体から悪い気や憑き物や不運を追い出すおまじないなのだが、そんな事

を知らない狐にはいきなり熱烈な抱擁をされたようにしか思えない。

「さぁ!これで悪いのは抜けたから、元気出して仕事頑張るんだぞ?」

 身を離した猪がニコニコしながら、分厚い両手で肩をポンポン叩くと…。

「は、はひぃ…!ありがてょうござひますぅ…!」

 狐は、悪い物どころか何か別の物まで半分抜けかかっているような面持ちで返事をした。

 

「なんかさ…」

 数分後、待機部屋に戻った狐は同僚のアナグマに言った。殴られた腫れが引いてきた、塗って貰った薬で少しスースーする頬

に手を当てながら。

「ああいうひとの下で働きたい…。殉職しそうな所でも良いから…。世話役の名目で呼び出されて滅茶苦茶になるまで乱暴に抱

かれたい…」

「何かあったのお前!?」

 出向いたチョウの部屋で一体何があったのか、狐はポワンと夢見心地の表情。酒でも引っかけたんじゃないだろうなとアナグ

マは心配になった。

 

 

 

 そして同時刻…。

「感謝するナタ太子」

 ビル上層階の高級レストランの「外側の空中」。

 しなやかに細いすらりとした肢体が印象的な、両足の下で炎の車輪を燃やして飛行している青年が、両手で太い右腕を掴んで

引き上げる格好で、ジャイアントパンダと共に滞空していた。

 高級将校連中に捕まって飲み会に参加させられていたユェインは、なかなか解放されないし、無理矢理酒を飲まされそうにも

なるし、やたらと縁談を勧められ、辟易して脱走していた。乾将ルォチゥァに助けを求めたのは、まともなルートでは脱出不可

能と考えての事だが、これは別に大げさではない。

 眼下の地上では、特殊部隊よろしく高級将校直属の近衛兵や護衛、お抱えの秘密工作員などの精鋭達が、トイレに立つふりを

して姿を消したジャイアントパンダを捜索中。民間人居住区に邪仙が紛れ込んだ時のような本気っぷりで、完全に市民に紛れた

り障害物に隠れたり気配を消したりしており、普通ならば気付かない間に包囲連行されてしまうところである。

 二倍どころではない体格差の巨漢を、風火二輪の推力で引っ張り上げるルォチゥァ。何とも目立つ格好だが、ユェインが仙術

による幻で姿を秘匿しているため、地上から夜空を見上げてもふたりに気付けない。…のだが…。

 

「まぁまぁまぁ各々方」

 酒宴の席の空いたテーブルの上に、ふっくらした龍の老人が、空になっている酒瓶を置く。

「まぁまぁまぁ落ち着きなされ。まぁまぁまぁ…ヒック!」

 大きな腹が弾むほどのシャックリをした老龍は、半分酩酊した眠そうな笑顔で、テーブルに瓶を置いてゆく。

「まぁまぁまぁ、まぁまぁまぁ、一肌脱いでしんぜよう。ヒック!」

 すっかり出来上がっている最高齢の八卦将が、ふらつきながら卓上に置いて行く瓶は、まず四隅に置いて正確な四角形を作る。

次いでその内側に空になった小皿やスープ皿などが八角形に置かれ、中央にクリームがまだたっぷり残っている魚介のクリーム

煮込みの大皿が置かれる。

 それは、広域捜索向けの術を発動する陣。構築資材が食事用の卓と酒瓶と食器類と、でたらめで滅茶苦茶であるにもかかわら

ず、これでもそれなりにきちんと機能する

「まぁまぁまぁそれでは御照覧。ヒック!当たるも八卦、当たらぬも八卦、ユェイン坊が何処におるやら、これなる陣にて占っ

てみましょうぞ!」

 会場が「おお~!」と歓声と拍手に包まれる。こんな事に超高等方術を雑に使う老龍も酷いが、高官達の悪乗りも酷い。

 

「警告。巽将の探査方陣の展開準備を察知。簡易式と推測。予測探査範囲は半径8キロ。幻術看破確率、「高」」

 陣が構築されて儀式準備が整った段階で、発動の兆しを感知したルォチゥァが移動を開始。距離を取るべく飛翔する。

「何と大人げない…。さては老公、相当酔っておられるな?」

 ぶら下げられたユェインは加速で斜めになりながらボヤく。

「推奨降下地点、候補を提示」

 ルォチゥァが淡々と移動先を提示すると、ユェインは少し考えてから、「朝まで市中のホテルに身を隠す」と回答。相手側の

本気度を考えると、宿泊施設に普通に帰ってもまた捕まってしまうので。

「了承。離将が抑えている、隠れ宿へ移動」

「助かる。…チョウに今夜は戻れないと連絡を入れておかなければ…」

 月の下、遊覧飛行と言うにはいささか風情が無いが…。

「ナタ太子。下りたら飲み物でも奢ろう」

「謹んで了承」

「今日は何かと忙しい一日になってしまったな」

「同意。そして同情」

 

 

 

 それから数日後。

 狐の中士は上官に呼ばれて、もしや先日夜の騒ぎを聞きつけられたのだろうかと、こわごわと部屋を窺った。

 そこで聞いたのは想定していなかった事。第八連隊駐屯基地司令官と軍中央人事部長の連名で、配属替え命令の通達が届いた

という話。

 通達では、第八連隊駐屯基地と中央を繋げる、連隊中継基地への配属変えが命じられていた。行き先で最上官となるユェイン

からは、堅苦しい文面で抜擢理由が述べられているが、要約すると、持ち前の細やかな配慮に期待しての人事である旨が記され

ている。面識も無いのにと不思議がった狐だったが、すぐにピンときて猪の顔を思い浮かべた。

(もしかして…!?)

 上官は大抜擢だと驚いていた。前線に出る実行部隊のような部署ではないが、連隊駐屯基地と作戦行動中の隊へ、物資送達と

情報伝達を行なう重要な事務方部隊である。

「駐屯基地本部とは別になっているとはいえ、連隊長が頻繁に訪れる、支部のような重要な部署だ。粗相が無いよう心して勤め

上げるように!」

「はい!」

 敬礼で応じた狐は、あの猪が連隊長に推薦してくれたのだと、背筋を伸ばしていた。

 

「それにしてもだ。君が個人を、それも事務方の配属で推薦するとは珍しいな上尉」

 中央から馴染みの駐屯基地に戻り、溜まっていたデスクワークを片付ける合間に、茶を楽しんで一息入れていたユェインは、

ホンスーの仙人名を任されて、脇の机で必死になって辞書を引いているチョウに話しかけた。

「は…。出過ぎた真似とは思いましたが、ご容赦頂きたく…」

 ふたりの首からは、赤紐をつけてペンダントにした八卦小鏡がぶら下がっている。傍目に見ればペアルックになってしまうの

で、衣服の下に収めているが。

「見込みがあると感じまして。あの先回りさせた気の利かせ方は、訓練や実務でも早々には身につきませんので、良い人材かと」

「そういった所について君の目利きは確かだ。よい働きをしてくれるだろう。これからは中継に携わる事務方の質も向上させて

ゆきたい所だった。機会としても良い」

「恐縮です。…本人に言う必要もない事ですので、本官が推薦したという事は…」

「心得ている。評判を聞いたと記すに留めた。たまたま聞いたと語った方が、評判になっていると感じてあちらの上官と人事部

の評価も高くなろう」

「………」

 チョウは黙して軽く頭を下げた。気に入ったのだろうと察したユェインが、彼が昇格し易くなるよう根回ししてくれたのだと

気付いて。

「ホンスーの二つ下だったか。歳で言えば花の頃だな」

 ユェインは目を細める。チョウは「ええ」と微笑し…、

「…花…?」

 呟いてしばらくぼんやり考えると、ピンと来た様子で耳を立て、目を大きくした。

 そして猪はおもむろに筆を走らせ、候補に絞っていた字に今思いついた文字を加える格好で、紙に三文字並べて記す。

 「原陽華(ユェン・ヤンファ)」。

 名付けは決まった。

 日を浴びて溌溂と、荒野に咲き誇る野生の花と…。

 

―ホンスー 返事が 届く 気配がある 今日は 町へ 降りると しよう―

「ホントですか!?ヤッター!―