フー・ユェイン上校の出仕~時に平穏な戦士の平日~

 シンと、静まり返る広い空間。

 砂礫と粘土を混ぜ固めた土の地面を、鉄柵がぐるりと囲んだ円形闘技場。その外側には、いずれも剣や槍、手斧など、近接戦

闘用武器…近代的とは言えない白兵戦仕様で武装した軍人達が席につき、柵の内側を見つめている。

 天井まで40メートルほどもあるその地下空間に設けられた闘技場は、直径50メートルほど。そこを囲んだ柵の向こうから

見守る軍人は百人を軽く超え、少尉から大尉までの若手から中年が大半を占める。その中の半数が特殊将校の候補で、推薦する

上官に付き添われてここへ案内されていた。

 限られた軍人達だけが列席を許された、席が八卦の紋を描いて並ぶスペースと、鉄柵で区切られた円形のスペースは、よく見

ると陽炎のように揺らめく幕で区切られている。

 それは、この場を封鎖する結界。観覧席に戦闘の余波が及ばないように設けられた、儚げに見えながら強靭な壁である。

 空気も音も出入り自由だが、質量の在る物質と、熱や衝撃などの危険な物は通さないよう、取捨選択を任意設定したその結界

は、たったひとりの方士が支えている。

 鉄柵の一角、香炉を左右に置き、水を満たした八卦の盆を眼前に置き、両手を合わせて目を閉じているその施術者は、体も纏

う道服も黒く、対照的に豊かな顎髭も鬣も真っ白な、高齢の龍人。

 恰幅が良い…というよりは歳のせいで鍛えた体が緩んでしまった肥り肉だが、座して陣を組んだその身は彫像のように動かず、

背筋は真っすぐに伸びて姿勢が良く、張った結界はミリ単位の変動も見せずに維持されている。

 その結界で区切られた闘いの場の中心には、軍服姿のジャイアントパンダ。威厳を感じさせ堂々と佇む隻眼の巨漢は、その左

目の瞳にあたる位置に、ゆっくり回転する太極図を浮かべていた。

 翡翠を思わせる美しい刀身を備える夫婦の長剣を二振り携え、体の両脇でぶらりと無造作にぶら下げているのは、震将フー・

ユェイン。

 しかし闘技場に居るのは彼一人ではない。ユェインの視線の先には、地面から30センチほど離れて浮遊する、十代後半に見

える少年の姿。

 駆ける狩りを得意とする肉食獣のような、すらりとした体躯。筋肉のラインが見えながらもゴツくはない、しなやかに締まっ

た四肢。背中の半ばまで下がる黒い長髪。鋭い目は瞬きもせず、人形のように整った顔からジャイアントパンダに視線を固定し

ている。

 体にフィットした袖の無いシャツに、太腿の半分にも及ばない丈のホットパンツ。腰にはロングスカートのように長い薄布の

腰巻が着用され、脛の半ばの辺りで常に裾を翻らせ続けている。

 足元には直径30センチほどの炎の車輪が浮かんでおり、その少し上に少年の素足が浮いているが、これは「風火二輪」とい

う品。燃焼という現象と概念から創出された神仙の手による道具…宝貝。これを駆るその少年は、第八空挺団所属の中校。坤将

ルォチゥァ。

 かつて桃源郷から下界へ降り、人類に味方した神仙が創造した仙造人間。専用の宝貝で武装する生きた兵器、それが羅車。そ

の三号機にして現存する最後の一機がこの個体。

 ユェインを見下ろし浮遊するルォチゥァの手には、緋色に発光する2メートル超の棒が握られている。見た目としては白熱化

した鉄の棒だが、これも特殊な品。神仙が創造する道具は物質と現象の境目を曖昧にする物も多く、この棒も「物質化している

熱エネルギー」という現行科学では説明もつかない品である。

 宝貝、火尖鎗を構えるルォチゥァは、ユェインがスッと爪先を進めると、応じて右足を宙で引き半身になる。その引いた右手

とやや前に出た左手が軽く握った棒の先で、ボッ…とオレンジ色の火が燃えて、鋭い穂先を形成する。

 間合いが消えたのは刹那の間。風火二輪がその炎を爆発的に燃焼させ、まるで足裏からロケット噴射するように、前傾した少

年が突っ込んだ。

 水平に飛行するような体勢で飛翔し、迫る少年の、構えた炎の槍の穂先に対し、ジャイアントパンダは右剣をついっと上げ…。

 ギンッ。ガギギッ、カァンッ。

 金属同士を打ち交わす、しかも音質が異なる響きが、火花と同時に複数上がって、前進したユェインとルォチウァが位置を入

れ替える。が、その攻防の内容を悟った者は、見守る軍人達の中に殆ど居ない。

 ルォチゥァの初手は突き、ユェインはこれを擦り上げるように右剣で払い、火尖鎗の軌道を変えつつ左剣の横薙ぎで迎撃。し

かし穂先を反らされたルォチゥァは、その柄を胸元に寄せる格好で引きつけて防ぐと、ユェインの頭上を身を捩じりつつ防御姿

勢で通過し、離れ際に後頭部を石突きで狙った。

 が、まるで背中にも目がついているようにこれを察したユェインは、右剣を下側から背中に回し、背骨に沿うよう垂直に立て

て、頭を狙った打撃を弾いてのけていた。

 宙でふわりと方向転換したルォチゥァは、左手を後方に大きく引いている。その手首に嵌められた腕輪が一瞬で拡大し、投擲

用の打撃武器に変化した。

 宝貝、乾坤圏。思考誘導型推進式打撃輪とも言えるそれは、腕に装着された携帯型から、円形の輪…超重量の金属でできた投

擲武器へと変化する。

 この乾坤圏には、チョウも得意とする乾坤術の各種がプログラムされており、放たれた後でもルォチゥァの思考誘導で自在に

乾坤術を切り替え、思い通りの軌道で対象を追跡する。追尾ミサイルのように相手を攻撃し、帰還も継続攻撃も思いのまま。そ

れがこの宝貝の特長。

 輪の内側に指をかけて投擲したルォチゥァは、そのまま弧を描いてユェインを回り込む。狙いは乾坤圏との同時挟撃。

 踏み込んで交錯したユェインは、しかしその時既に身を翻し、相手の動きを視認していた。

 迫る乾坤圏。グッと身を屈めるジャイアントパンダ。回り込んで乾坤圏との挟撃を狙うルォチゥァは…。

「仙術起動検知。緊急回避」

 まるで見えない壁をローラースケートで走るように、横向きに態勢を変える。その頭上…、元の軌道では真っ向から当たる位

置に、ユェインが一瞬で移動して来る。

 縮地による奇襲を間一髪で避けたルォチゥァは、しかし完全には間合いを外せていない。刹那の七連撃が五月雨のように降り

かかり、頭上に担ぐようにした火尖鎗で背部への斬撃を防ぐ。

 狙った地点から消え失せられたせいで空振りした乾坤圏は、すぐさまルォチゥァの呼び戻しを受けて飛来、ユェインを背後か

ら襲ったが、これをジャイアントパンダは下から背中側へ、馬が背後を蹴るように跳ね上げた脚で蹴り弾く。

 宙でギュパッと高速反転するルォチゥァ、振り抜いた剣を引き戻し、柄同士を連結させるユェイン。直後、両者の間で無数の

火花が、鍛冶場で打たれる金床ように弾け、連続して金属音が鳴り響く。

 火尖鎗と、双翼刃形態にした宝剣が、両者の間で回転し、振るわれ、突かれ、合わされる。まるで息の合った演舞のように、

互いに有効打は入らず、ギリギリの所で防ぎ防がれ、一瞬の間に何十回も激突する。

 本気ではないとはいえユェインの高速剣もルォチゥァの槍捌きも、余人の目には軌跡が見えないほど。思考の瞬間加速を行な

えるふたりは互いの手を認識して打ち合えているが、そうでもなければ一合打ち交わすのも至難の高速戦闘である。

 その肥り肉の巨体を、まるで弾丸のような速度で前進させるユェイン。受けつつ反撃するルォチゥァは、宙を踏み締め駆ける

という非常識な体勢と運動を見せ、ひと同士の白兵戦のセオリーを完全に無視している。

 やがて…。

「む」

 ピタリと、ユェインの動きが止まる。双翼刃を突き出して半身に構えた、その張りのある腹の表面…軍服に触れるか否かの位

置に、スイングされた火尖鎗の穂先が止まっていた。

「模擬戦闘終了の条件に合致」

 同じく動きを止めたルォチウァの首横には、頭部をはねる軌道で据えられた莫邪の刃が、5ミリほどの隙間をあけて静止して

いる。乾坤圏は地面で、ユェインに踏みつけられて動きを止めていた。

 得物を引いたユェインは、双翼刃を分割して腕を交差させ、左右の鞘に戻す。

 ルォチゥァが手を開くと、火尖鎗は穂先の炎を消して、本体側は火の粉になって霧散。足元の風火二輪もボッと音を立てて散

り、少年は地にトンと降り立つ。

 ユェインが拾い上げた乾坤圏を差し出すと、少年はそれを受け取って元のサイズに戻しつつ腕にはめた。

 両者が一礼を交わすと、見守っていた大勢の軍人達がようやく緊張を緩める。

 八卦将の中でも戦闘能力が高い、特に白兵戦のスペシャリストである両者の模擬戦闘は、手加減してようやく教習材料になる

レベルだが、これを参考として活かせる者は極々少数。今日これを見せられた者達の内、ほんの一部だけが糧にして特殊将校の

仲間入りを果たせる。

 模擬戦の終了に伴い、鉄柵に巡らされていた結界が消えると、炎で熱された空気が会場に散り、ユェインは流れ込んだ新鮮な

空気を深く吸い込んだ。

「充分かの?」

 結界を解いた龍の老人が目を開け、儀式台の傍らに控えた数名の将校に声をかけると、いずれも大校から上校までの上級士官

達は、「は!有り難うございます巽将(そんしょう)!」と敬礼した。

「よっこい…せっと!」

 大儀そうに立ち上がり、腰の後ろをトントンと叩き、成人男性の鳩尾ほどの高さがある儀式台から降りようとした龍人は、

「老師、お手を」

 柵の外に出て歩み寄っていたユェインとルォチゥァに、短い階段の左右から手を差し伸べられた。

「ほうほうほう!手厚い事じゃわい、両手に花とはのぉ!」

 目を細めて笑った龍人は、ふたりの手を借りて台から降りると、そのままルォチゥァに脇を支えられ、ユェインと向き合う。

「また冴えが増したのう。この孫は爺さんに及べるか否かと、器を測っておった頃が懐かしいわい。今や大陸一の大剣豪じゃ」

「お褒めに預かり光栄です。…が、そろそろ男盛りも過ぎました。より優れた戦士に、活躍を譲る日もそう遠くはありません」

「ほうほうほう!ワシの前で歳を語ってくれるでないぞユェイン?ヌシが歳ならワシャ化石じゃ。ほうほう!」

 ユェインと親しげに話すこの老龍は、八卦将が一角、巽将を担う魏臣宮(ウェイ・チェンゴン)。

 方道連第八門総責任者であり、方士や道士…流派の違いはあれど仙術から発展した術士達をスカウトし、育て、軍に派遣する

部門を総括している最高責任者兼教導官。そして、政府と軍にとっては戦略規模の術戦闘における切り札でもある、現状この国

で最高峰の方士。

 チェンゴンはユェインの祖父とは古馴染みの古参の軍人で、当初は外部協力者という立場だった。かつては方術使いとは思え

ないほど筋骨隆々の偉丈夫だった…が、今ではこの通り、歳のせいでだいぶ緩んだ体になってしまって、どこもかしこもプニュ

プニュの脂身。ゆったりした道服を着て座っていると、まるで黒餅の三段重ねのようである。

 もっとも、若い頃と様変わりしたのは体型だけではない。かつては苛烈なやり口で知られた野良の方士だったが、分別を説く

指導者の立場になり、今ではすっかり道を弁えた好々爺。現在の八卦将では最年長で、御意見番かつ重鎮である。

 ただしチェンゴンは、ユェインの祖父と比べれば若い頃から自分の方が大人しかったし分別があったし常識的だったと言い、

ユェインの祖父は、それは嘘で完全に逆だった、と言うのだが…。

 確かなのは、かつては政府と政治家の利益確保干渉を免れなかった軍隊は、ふたりの辣腕があってこそ、当時の政府高官連中

から一定の裁量を勝ち取れたという事。言わば、軍などが現在それなりの自由度をもって、邪仙と危険な妖怪に対する軍事行動

を行なえているのは、彼らの働きかけのおかげである。でなければ今も、軍は政治家や上層部の利権を第一に、煮え切らない作

戦行動しか許されなかっただろう。

「ユェインや、此度はしばらく中央に留まれるのかのぉ?」

「いいえ。用向きは明日で全て片付きますので、二日後には隊へ戻ります」

「長く留守にするのが心配かの?」

「部下達は皆優秀なので不安はありません。現場に居ないと私が落ち着けない、というだけの事です」

「その辺りは本当に父親とそっくりじゃ。人当たりの良さは受け継がれなんだが…」

「返す言葉もございません」

「やはりお前さんにも、気の利いた嫁が要るかのぉ。…あ、そうそう。ワシんちの孫のリンチャイじゃが今年で十八じゃ。ピチ

ピチで気立ても良いぞ?」

 ジャイアントパンダは表情こそ変えなかったものの、耳はやり難そうに少し下がった。赤子の頃から自分を知っている老人に

は、流石の震将もタジタジである。

「では老師、別の要件を一つ済ませて参りますので、またいずれ…」

 兵達の視線を浴びながら逃げるように去るユェインを見送り、思案しながら長い顎髭をしごくチェンゴン。

「う~ん…。嫁が嫌なら婿でもいい、独り身はそろそろ卒業して良かろうと思うんじゃが…。どう思うナタ太子?」

 突然話を振られたルォチゥァは…。

「回答に苦慮。参考となる回答の提示は、本機には困難と判断」

 顔色一つ変えずにさらっと逃げた。

 

 コツコツと、磨かれた大理石のような硬質の石床を踏み、ジャイアントパンダは細い通路を進む。模擬戦の後で汗を流し去り、

身を清め、衣類も洗った物に改めてある。

 地下600メートル、特殊将校用の極秘訓練ベースのさらに下、軍中央基地で最も深い場所。一般の兵は勿論、上級将校も進

入許可をなかなか得られない、極秘の、「そのためだけに存在する」区画。

 八卦将といえどもここに無許可で立ち入る事は許されず、手続きには時間がかかる。ユェインも本当はもっと早くここに来た

かったのだが、許可が下りるまで時間もかかったし、久しぶりの中央で用事も多かったので、結局訪問は今日になった。

 ルォチゥァ相手の模擬戦は特殊将校候補生達への特別授業だが、他にもユェインは様々な頼まれ事をして、それを片付けるだ

けで丸二日を費やしている。ヂーに言わせれば、「どいつもこいつも、あまり第八連隊の基地を空けさせたくないが、呼びつけ

た時ぐらいは頼み事を纏めて済ませようっていう魂胆だろう。大変だな人気者は」となる。これはだいぶ皮肉が利いた「人気者」

で、ユェインへの見合いの申し込みなどを揶揄した物。

 戦術兵器となったユェインは子を成せない身になっているが、それでもチェンゴンが勧める孫達との結婚意外に、見合いの申

し込みは多々ある。単純にユェインを見初めた娘を嫁がせたいという将官も居れば、フー家の類縁になりたくて見合いをさせた

い政治家も居る。

 この辺りの話については、かつて上官から「自分を安売りするんじゃねぇぞ。オメェ、よ」と忠告されていたので軽く応じる

事もないし、ユェイン本人にも妻を迎える気が無いので、受け流すだけだが…。

 厳重なセキュリティ…守衛による本人確認、通行証のチェック、生体認証式ゲート、方術による許可認証門を抜け、エレベー

ターを降りた先では、細い通路が四方八方に伸び、個別の部屋に繋がっている。

 耳が痛くなるほどの静寂。僅かな空気の流れ。変化のない照明の灯り。まるで墓場のようだと、ここに入る者は皆思わずには

いられない。

 万が一の時にはその通路自体を埋め、侵入者を始末し、持ち出しを阻む。抹消という形式の最終安全装置で護られた先には、

国一つを容易に覆し得る様々な物が眠っている。

 五分ほど歩き、通路が突き当たった先で八卦の紋が描かれたドアの前に立つと、ユェインの爪先から頭までを赤い線が走査し、

ロックが外れる音が響いた。

 八卦の紋が八方に分割される形で、放射状にドアが開く。気密が解除された微かな音に耳を震わせ、ユェインはその空間に足

を踏み入れた。

 そこは広い、八角形の部屋。壁面から反対側まで40メートルほどもあるが、広さに対して置かれている物が無さすぎる部屋

だった。

 壁面の八角から内に10メートルほど入った所で八本の支柱が天井と床を繋ぎ、それぞれの柱を頂点にして部屋の中心まで八

卦が描かれている。柱と柱の間は20メートルほどなので、かなり広い八卦の陣である。これは、異常が検知されれば即座に結

界を張る、強固で精密な防衛陣。

 中心には直径2メートルほどの太極図が描かれており、その外周に沿って天井まで、水晶をくりぬいて磨いた筒が試験管のよ

うに聳えている。その透明な管の中…床から1.5メートルほどの高さには、うっすらと青白く光る球体が浮かんでいた。

 歩み寄ったユェインは、水晶のケースの中に浮かんでいるそれを、目を細めて見つめた。

 直径3センチほどのそれは、どの角度から見ても太極図の紋様に見える、奇妙な球体…太極炉心。

「訪問が遅くなりました事、お詫び致します。ヨン隊長」

 胸の前で拳を平手で包み、礼の姿勢で跪くユェイン。

 その炉心は、ユェインのかつての上官に宿っていた物である。

 ここは、保管庫にして霊廟。

 先代の震将…雍東風(ヨン・ドンフォン)が遺した太極炉心は、ここでずっと、適合者が現れるのを待ち続けていた。

 

 

 

 烏が鳴いて飛び帰る。

 夕暮れ時の乾いた土を、四つの脚が目まぐるしく入れ替わって踏み荒らし、砂塵を舞わせる。

 シュッと音を立てて拳が空を切り、軽いパンという音で流される。

 拳を繰り出したのはチベタンマスティフ。それを平手で流したのはジャイアントパンダ。どちらも逞しい巨漢である。

 サッと軸足を引いたジャイアントパンダは、拳を流したチベタンマスティフの腕を絡めるように取ると、肘関節を浅く極めて

投げる。

 対してチベタンマスティフは、極められた腕の関節が緩む方向に超低空前転宙返りで身を投げ出し、尻から地面に落ちてでん

ぐり返しすると、回転によって緩ませた関節技から腕を引き抜いて脱出し、、転げて距離を取りながら身を起こす。

 こう対処されては、腕を極めつつ地面に倒して抑え込む事は不可能。雑なようで理に適った、誰に習った訳でもない天性の反

応と対処に、ジャイアントパンダは興味で目を光らせる。

 半身に構えて腰を沈め、右腕を引き、距離を測るように左腕を前に出したジャイアントパンダ。その構えは研鑽と練磨で堂に

入った、隙のない物。間合いに入れば巨体に見合わぬ俊敏さと反応で、即時迎撃する。

 一方、転げて起き上がったチベタンマスティフは、まるで腕で組み合おうとするレスラーのように両腕を肩より上げた姿勢だ

が、いかなる流派の構えでもない。しかし隙があるようであまり無い。攻め込み易そうに見える所へ軽率に手を出しても、それ

で決められない限りは捕まって手痛い反撃を受ける。

 僅かな様子見から間合いを詰め、再度競り合いに入る両者も、周辺でへたりこみ、疲労困憊でその様子を眺める男達も、全員

が迷彩柄の戦闘服姿である。

 荒涼とした、乾いた大地の一角。風化に取り残された岩が所々で盛り上がる、赤茶けた風景。

 その岩の一つ…天辺が丸みを帯びて平らに近くなっている所で、饅頭のようにまん丸く肥え太った黒熊が、胡坐をかき、咥え

煙草で頬杖をついて、ジャイアントパンダとチベタンマスティフの模擬戦を見下ろしていた。

「まあ、何だ」

 呟いた黒熊を、その隣で伏せ、くつろぐ格好になっていた青虎が見遣る。

「悪かぁねぇな。上物だ。フー家の倅は当然だが、あっちも…」

 配属されたばかりの新兵の中に、飛び抜けているのが二頭混じっていた。

 片方は知っている。伏家の次男は祖父や父譲りの傑物と噂になっていたし、本人の父も自分より優秀だと言っていた。百聞は

一見に如かず、という所で、多少の驚きはあるが納得もする。

 問題はもう一方…チベタンマスティフの方である。

 経歴は、元「山羊飼い」。この特殊部隊の設立にあたり、軍務未経験者が抜擢される事は異常なのだが、見て納得した。

「少数民族の出。当局の給料泥棒共が見つけた一代限りの先祖返り…、まぁ古種というヤツだな」

 ヂーがドンフォンに告げる。

「名前は丁香(ディン・シャン)。チベット系だから本来は姓はないはずだが、本名のディンシャンが同化政策で漢字を当てら

れて、姓名に分けられたようだな。本人がいちいちフルネームで名乗るのはその名残だろう。…それと、こっちが求めてもいな

いのに勝手に来た「お付きの連中」も洗い出した。後でリストを共有してやるから恩に着ろ。そして褒めろ。敬ってへつらえ」

 青虎の言葉は途中から迷彩術でドンフォンにしか把握できないようにされ、黒熊は無言で頷く。ドンフォンもヂーも察知して

いた。ディンシャンと同時に配属になった新兵の数名は、当局が潜り込ませた監視役である事を。

 獣人の古種。先祖返り。それは世界的に見ても希少なケースだが、この国では意味合いが他国と異なる。

 この文化圏において獣人の源流は神仙とされる。つまり古種とは、神仙に通じる手掛かりを内包した存在という事になる。

際の所ディンシャンは能力者…しかも訓練も無しに感覚で気功術を使いこなせる上に、能力自体が特異な性質を持っている。そ

の監視と研究の為に、そして逃走防止の為に、軍上層部は彼の頭の中に発信機兼、情報抹消及び逃亡防止のため、小型爆弾を埋

め込んだ。

 ヘドが出る、とはヂーの感想。

 何せディンシャンは田舎育ちで、知識が足りないという意味でも純粋。ひとを疑う事を知らなかった。半ば強制徴用に等しい

形で軍に身柄を引き取られても、自分が何をされたのか、どう扱われているのかも理解しないまま、お国の役に立てるし家族に

仕送りできる素晴らしい仕事だと喜んでいた。

 そしていま彼は、表向きの名目はともかく、実質的には「新設された特殊部隊に監視付きで試験投入されている」状態にある。

本人のみならず、この部隊のトップであるドンフォンにも真実を伏せて。

「まあ、何だ…」

 ドンフォンが頭をボリボリ掻く。

「面白くはねぇわな。こりゃあ、よ」

「どっちがだ?」

 ヂーが口を開くが、会話の迷彩を解除した口調は軽薄な物に戻っており、周囲に様子を窺っている者が居たとしても内心を気

取られない。

「どっちもだ。何つぅか、よ…」

 ドンフォンは顔を顰めて岩の下…元々の部下や、この部隊に推薦されてきた経験豊富な精鋭達を見下ろす。

「もうちょっと頑張れ。おめぇら、よ」

『済みません…』

 声を揃えて詫びる面々は、全員が模擬戦でユェインかディンシャンに簡単にのされている。新米下級将校ふたりに、総当たり

戦で誰も勝てなかったどころか、元気いっぱいに訓練を続けられているのは大男ふたりだけ。ドンフォン個人としては面白い展

開だが、部隊の長としては面白くない。というか部下達の不甲斐なさが情けない。

 しかも、延長訓練をしているふたりは、周囲の先輩や同期がまともに立てない有様になっているにも関わらず、驚異的なタフ

さと神経の太さで模擬戦に努めている…というか楽しんでいた。

(まあ、何だ。単純にこの配備を喜んでいい物かどうか、だなぁ…)

 ドンフォンは組み手を延々と続けるふたりを眺めながら、ふと思いついた。

(あのふたりは侍従って事にして、手元に置いて過ごさせるか)

 司令官付きとなれば監視も常時は不可能。軍上層部への意趣返しだが、少しばかりディンシャンに同情もしている。何より…。

(フー家の倅も、同等の規格外と一緒に過ごさせた方が伸びるだろう。それと…)

 ドンフォンにはもうひとり、気になる新兵が居た。退屈そうにボリボリと布袋腹を掻きながら、それとなく視界の隅に対象を

捉える。狐の青年を。

 易励命(イー・リーミン)。伏家ほどではないが、広く知られる良家の長男。周囲の新兵達と同様に、くたびれた様子で座り

込んでいるが…。

(まだまだ余裕がある。程々で切り上げたってところだな)

 手を抜いている。余力を残してる。…などと非難するつもりはない。むしろ新兵のくせに大した肝っ玉だと、ドンフォンは評

価する。

「リーミンって言ったな。アイツ似た匂いがするぜ。ワシと、よ」

「んん?酸っぱ臭い蒸れた汗の悪臭なんかはしないが?」

「茶化すな。…ま、アレもちょいと面白れぇ奴だな」

「ろくでもない奴の間違いだろう?」

 そう応じながらも、ヂーも少し気になっていた。

 大したタマかもしれない。が、どちらに転ぶかは判らない。往々にして切れ者というのは、敵にすれば厄介な物だから、注意

はしておくかと頭の隅に留め置いた。

 

 

 

「よろしく頼むどフーさん!…いや、軍人だぁ、フー少尉って呼ばにゃならんもんだか?」

「ユェインで結構。こちらこそよろしく頼む、ディンシャン少尉」

 折り畳み式の椅子と机をテント内に並べた食堂で、チベタンマスティフとジャイアントパンダは並んで夕食を摂っていた。

 隊員の栄養管理、体調管理を考えて、炊き出し部隊には専門の人員が配されている。野外食とはいえ味も栄養も申し分なく、

特にチベタンマスティフは物珍しい洋食…トマトがふんだんに使われたビーフシチューの味に驚いていた。焦げの苦みのような

スモーキーな物が混じる食欲を誘う香りに、口の中で蕩けて解ける肉の柔らかさに、野菜の味が満遍なく溶けた奥深い濃厚な味、

いずれも故郷では口にしたことがなかった、と。

「こんなの毎日食えるだか!ならその分たくさん頑張るど!」

 声が大きい田舎者は食事時も騒々しい。ユェインの家柄を知る者は、物を知らない田舎者の馴れ馴れしさに、良家の息子が気

を悪くしないかと考えもしたが、結果的にはそれは問題なかった。

 純朴で、物を知らず、開けっ広げで、気取らないディンシャン。軍人らしくないと言えばそうなのだが、そんな彼を、元々の

度量の大きさもあってユェインは邪魔に感じなかった。むしろその個性は彼にとって新鮮で、周囲の者と同じように平等に接し

ながらも、ディンシャンとは特に親しい間柄になった。侍従として隊長に同伴して歩く、同じ立場だったという事も大きかった。

 そして、得体の知れない田舎者とディンシャンを見ていた他の隊員達も、親しくしているユェインの姿が潤滑剤になり、次第

に彼と馴染んで行った。

 それが、自分達を一緒に傍に置いたドンフォンの采配の賜物だとユェインが気付いたのは、親友が先進国政府連合軍に送られ、

連絡を取る事も許されなくなった後の事だったが…。

 

 

 

 ドンフォンの下で、指揮官とはどういう物かを学ばされた頃の事を思い出していたユェインは、あの頃は楽しかったなと追憶

する。

 ディンシャンは先進国政府連合軍の直轄として出向してゆき、それっきり国に帰っていない。

 ドンフォンも、サンミャオとの戦闘から生き延びた仲間達も、今はもう居ない。

 あの隊で、自分一人だけが残ってしまった。

 背後でドアが開く音を聞き、ユェインは振り返る。

 そこには十歳ほどに見える、コロコロと太った人間の男の子の姿があった。丸く張った頬肉に押されて目が細く、押し出され

た唇は口笛を吹くように前に出て、贅肉が厚過ぎて手首や肘などには赤ん坊のようにくびれがある。長い黒髪は背中の中心まで

三つ編みにして下げられていた。

「ナタ太子。先程はご苦労だった」

 ユェインが声をかけると、歩み寄った男の子は軽く頷く事で応じた。

 容姿はまるで違うが、この男の子はルォチゥァである。

 身長は縮んでいるが全体的に太くなっているため、先程はフィットしていた衣類はやや窮屈そうで、太腿とホットパンツには

隙間が無くてピッチリしており、袖の無い黒シャツは腹の下側が少々はみ出ている。見た目はいかにも垢抜けない田舎っ子とい

う印象だった。

 平時はこの幼い太った男の子の姿を取っているが、これはいわゆるルォチゥァの省エネモードであり、神仙が作り出した兵器

である事を隠す偽装でもある。まさかこんな子供が「仙人殺し」ユェインと同等の戦力であるなど、見た目からでは判ろうはず

もない。

 ヂーは「ルォちん」、チョウは「ルォ君」と愛称で呼ぶが、ユェインはルォチゥァを「ナタ太子」と呼ぶ。これはかつて彼の

上官だった熊に倣っての事で、昔からこの呼び方だった。

「盗聴の恐れ、現状なし」

 太極炉心を見つめながらルォチゥァが呟き、ユェインが「そうか」と顎を引く。

「僵尸兵計画、動きは無し。新規兵士生産、本日まで皆無。計画規模、継続縮小中」

「上奏した通りに事は進んだな。裏でまだ動いている、という事は?」

「離将及び八室が調査中。現状確認無し」

 例の暴走事件を機に、僵尸兵計画はユェインをはじめとする八卦将が六席の連名による上奏をおこない、計画の段階的凍結が

決まった。凍結…つまり再開可能な状態を維持して研究成果なども保存するという処置なので、完全な廃止には至らなかったが、

そう簡単に全規模再開ができる物でもない。

 ルォチゥァにしてみれば、自分達仙造人間の技術を流用して部分的に模した僵尸兵は、客観的分析によって「不可」。今の人

類には僵尸兵に完璧な制御系や自律系ロジックを組み込む事が困難なので、不安定さから兵器としての有用性は見込めず、危険

性が実益を上回ると判定していた。

 一方ユェインは、個人的な倫理観から僵尸兵計画を受け入れ難い心境だった。罪人とはいえ生きた誰かを本人の意思を無視し

て改造するという、非人道的な所業に賛同できないのが理由の一つ。そして、「戦う意志と意義が無ければ、戦う者足り得ない」

という理念から、機械的に状況へ反応して、対処するだけの僵尸兵は轡を並べる兵に至れないという、一戦士としての直感も理

由の一つ。

 何より、この行ないは神仙が人類に期待する物ではないと感じられた。神仙を裏切り続けて既に見切りをつけられた人類だが、

これ以上嫌われたくないと、ユェインはひととして思う。まして今や、甥が神仙と人類の橋渡しになり、交流が復活するかもし

れないという状況になっている。不興を被るような行ないは厳につつしむべき時が来ていた。

「現状は、非公開で計画を進められたりしないよう、気を配る以外に無いか」

「同意」

 頷いた男の子に、ユェインは「ところで」と声をひそめて話題を変える。

「離将から聞いた事と思うが、ホンスーは神仙の候補とでもいうべき存在になった」

「情報共有済み。現行人類において太極炉心の自力生成、第一例と判断。該当記録については秘匿記憶領域に隔離済み。「お口

チャック」を遂行」

「礼を言う。…それに関連してだが、君には個人的に頼みたい事があった」

「本機に可能な事案であれば、考慮」

 表情のない男の子と、無表情のジャイアントパンダは、太極炉心の鬼火のような光を見つめている。

「あの子は悠久の時を往く。私もチョウも、その長い生に最後まで寄り添う事はできない。…これは我が友リー・ヂーにも頼ん

だ事だが…」

 ユェインは目を閉じた。

 ホンスーは生物としての寿命が無い存在となった。事故で命を落としたり、殺されない限りはずっと生き続ける。自分達はこ

の先、長くてもせいぜい数十年しか付き合えない。それは彼に与えられた永劫の時の中で、ほんの短い間でしかない。

 師匠と一緒になり、神仙達に会い、同類とともに在れば孤独ではないだろうが、ホンスーはその生において、多くの者に先立

たれてゆく。

 だから…。

「なるべく長い時間、あの子の知り合いとして生き続けて欲しい。これは、我らより遥かに長寿な離将や、寿命の概念が無い君

にしか頼めない事だ」

「………」

 ルォチゥァは沈黙した。拒否しようと思ったのでも、承諾を悩んだ訳でもない。昔の事を思い出していた。

 かつて、機能休止状態だった自分が発掘され、記憶の大半を失って再起動した折に、解析したドンフォンが青虎に言った。

「コイツはひととは違う。ずっと在り続けるモンだ。俺らは無理だが、長く付き合ってやれ。オメェは、よ」

 ヂーに、彼はそう言ったのだ。独りにしてやるなよ、と…。

「要望承諾。可能な限り希望に沿うよう、本機は「頑張る」を約束」

 ルォチゥァは機械的だが、無機質なまま一切変化しないという訳ではない。ドンフォンが導き、ヂーが寄り添い、自分達と触

れあい、少しずつ変わってきた。人のように感情豊かではなくとも、思う事があり、想う事もできる。

 自分がして貰えた事、きっとためになった事、それを頼まれたのならば今度は自分が承諾しよう。そう、男の子は判断した。

 その返答で、「助かる」と、ユェインは微笑を浮かべた。

(これで、いつか私達が居なくなっても、ホンが寂しい思いを少しでもしなくて済むならば…)

 少々風変りではあるが、ルォチゥァは決して人類を裏切らない味方。きっとホンスーとも仲良くやってくれる…。ほんの少し

だが、気持ちが軽くなった気がした。

「震将、質問」

「む?」

 横から見上げて来たルォチゥァを見下ろしたユェインは…、

「ジァン上尉は」

 いつも影のように傍に在る副官の所在を尋ねられ、少し耳を倒して目を細めた。表情が無くて内心が窺い難いが、ルォチゥァ

はチョウに懐いている。

 そして、実動時間は通算で数百年でも、再起動から十数年、しかも見た目が子供のルォチゥァは、チョウから見れば子供認定

…つまり甘やかし対象。

 階級的にも年齢的にも向こうが上だが子供なので庇護対象に入るという、謎のロジックエラーにチョウ自身も時折首を傾げな

がら可愛がっている。

「チョウは離将に呼ばれて修行を受けに行っている。ふたりとも熱心な事だ。上官として、友人として、鼻が高い」

 チョウ自身もヂーから修行と言われていたそれが、自分達が思う物とだいぶ違う物である事など、ユェインも流石に想像して

いない。

「同意」

 頷いたルォチゥァに、ユェインは「それはそうと」とやや柔らかな口調に改まる。

「これから食事に出たいが、予定はあいているだろうか?」

 ユェインはチョウから、食生活が雑過ぎるので自分が一緒でない時と、隊の食事担当の飯が食えない時は、なるべく誰かと一

緒に食事を摂るように、と言われている。

 実際問題チョウが監視していないと、味への不満の無さや我慢強さが無頓着さと合体して悪い方向で発揮されてしまうユェイ

ンは、近場で入手できる肉まんやファーストフード店の品を、手間がかからないとか選ぶ労力が省けるという理由で何日でも食

べ続ける。バランスよく食事を摂れる基地内ではチョウも心配しなくて済むのだが…。

「本機に当面の予定なし。同行を承諾」

 頷いたルォチゥァだが、こちらもどっこいどっこい。

 仙造人間である彼は機体性能維持のエネルギー補給を、太極炉心の機能を部分的に模した宝貝…いわゆる心臓であり動力源の

「蓮核」で賄い、仙気を主動力としているので、食事は必須ではない。とはいえ、ひとと同じ食事は心の栄養。情報と刺激の摂

取にもなるため、おろそかにすべきではない。

 …のだが、この羅車三式、食生活がユェインと別方向で雑。太陽光反応で充分などと言い、日光浴で済ませようとする。ヂー

が口を酸っぱくして色々な物を口にして経験値を稼げと言うのだが、目を離すとすぐソーラー充電である。

 そんな食事のチョイスに問題ありのふたりが、きちんと食べる事を心掛けて一緒に出掛けようとした、まさにその頃、修行で

呼ばれているはずのチョウはあられもない格好で酷い目にあわされているのだが、それはまた別の話…。

 

 四十分後、賑わう繁華街の一角、席数も多いレストランで…。

「ここしばらく、チョウからもホンスーからも、日式拉麺を勧められていた。それも何度もだ」

 ボックス席を挟んで野菜モリモリの大盛り味噌ラーメンを啜りながらユェインが言うと、醤油チャーシューメンを食していた

ルォチゥァは一瞬箸を止めた。

 ラーメンの他、小籠包と麻婆豆腐、油淋鶏と白湯スープ、杏仁豆腐と芝麻球…揚げ胡麻団子が、それぞれ二人前ずつ卓に並ん

でいる。とりあえず種類を多くしてまともな食事を心がけたが、栄養バランスが取れているかどうかはまた別の問題である。

 一度動きを止めたルォチゥァが記憶領域から呼び出したのは、四ヶ月ほど前の記録だった。

 大柄で太っている狸の異邦人が、笑顔でこちらにどんぶりを差し出している瞬間の画像。

 その後ろでは頭にねじり鉢巻きを巻いた猪と、同じ格好をした狐の娘が、どんぶりを乗せたトレイを持って、配膳で忙しく駆

け回っている。

 視界の隅では、大柄な鯱の偉丈夫と太った老虎が並んで岩に腰かけ、満足顔でラーメンを啜っている。

 停止した列車からの脱出路、多くの民間人が固まって移動する、三日に及ぶ山中行軍。狸は炊き出しも手伝って、作ったラー

メンで多くの避難者を体の芯から温めた。

 あれは即席のラーメンで、人口調味料などを工夫して味付けした物。具材も無く、塩スープに白ごまを散らしただけの簡素な

間に合わせだったが、多くの人々が喜んでいた。

 タイソェイに群がる凶暴な妖怪の群れとの、民間人に悟らせないようデリケートな戦闘が続いて、自分と上尉が消耗を回復す

るには栄養価的にも充分ではなかったが…。

「美味」

「そうか」

 短いルォチゥァの感想に籠った物を、ユェインは知る由も無いが、この子が栄養価ではなく味に言及して評価するのは珍しい

事だと、目を細くして微笑んだ。

「質問。日式拉麺には、トンコツスープという物が存在するという情報あり。如何に?」

「トンコツか」

 ジャイアントパンダは真顔になると…。

「あれは」

「あれは?」

「美味い」

 大味過ぎる感想がとてもユェイン。

「了解。記憶野に保存」

 説明にもなっていない率直過ぎて雑な感想を、ルォチゥァはそのまま記録した。

「カナデ・コダマの写真について、報告」

「む?」

 男の子は頬肉で押し上げられて細い目を、隻眼のジャイアントパンダに真っすぐ向けた。

「ヨンのそれと、傾向に類似性あり」

「ああ…」

 ユェインは言われて気付いた。チョウに見せて貰った写真集に、初めて目を通したにも関わらず感じた、懐かしさの正体に。

「いい、写真だった」

「同意」

 軽く目を閉じて微笑むジャイアントパンダの顔を眺めながら、ルォチゥァは記録を参照する。

 今は彼方、もう戻る事も無い日の、ドンフォンが、ヂーが、ユェインが、あのチベタンマスティフが、他の兵達と大鍋を囲ん

で夕餉を取っていた、荒野での一夜の事を。

 ひとの記憶とは違う、どんなに時が経っても劣化しない記録はいつも鮮明で、ひとが抱く「懐かしい」という感情は、本当の

意味ではルォチゥァには理解できない。

 ただ、あの頃のような事を、あの頃の顔ぶれで、また再現したいと思うのは、ひとが言う「懐かしむ」という行為に近いよう

な気だけは、ずっとしていた。

「質問」

「む?」

 ルォチゥァはユェインに訊いた。

「震将が昔を懐かしむ頻度は?」

 それは、客観的に言えば即答し辛い質問だったが、ユェインは頬を緩ませて目を細める。ジャイアントパンダには即答できる

内容だったから…。

「未来を想うのと同じ程度だ。…つまり、かなり頻繁だな」

 仙人に民が食われない明日を想う。それと同じだけ、出会えた者達との思い出を振り返る。

「思うに私達は、ちょくちょく振り返るくらいが丁度いい。見入って長らく立ち止まるのは良くないが、あまり急いで行っては、

色々と見落としてしまう。過去を振り返る事は、きっと、歩んできた道を再認し、進むべき方向を見定めるために、必要な事だ」

「理解。回答に感謝」

 ルォチゥァはこの瞬間も記録野に保管し…。

「通信を感知」

「む?」

 指摘されたジャイアントパンダは太い腰を捻り、ポケットから私用の携帯電話を取り出す。第八連隊の基地やチョウからでは

ないが…。

『あ、ユェイン?ワシワシ。ナタ太子と出かけたそうじゃが、何ならその近くの孫に会って行かんかの?』

 巽将からの電話連絡を受け、表情を変えないまま耳をペタンと倒したユェインは、

「生憎と用事が立て込んでおりまして、またの機会にいずれ。では失礼」

 サックリと断った。

「…一体、誰が私の番号を教えたのだ…」

「報告。離将が漏洩」

 躊躇いなくチクるルォチゥァ。

「何故だ?」

「「面白そう」との発言を記録」

「そうか」

 そうか。ではないのだが、結局ダメなベクトルの寛容さで、それなら仕方がないなと考えてしまう辺り、ユェインは今日も実

にユェインであった。

 なおこの後日、(今現在拘束台に縛り付けられている)チョウの提案で、ユェインの携帯の番号は変更される事になる。