忘我一体の儀

 青々と葉が茂った、枝ぶりも立派な樹木に覆われた、緑の山々。

 断ち落とされたように急峻な崖が岩肌を覗かせ、小川が道を失って滝となり、大きな滝壺を経て川になり、山の隙間を縫うよ

うに流れてゆく。

 清流には川魚が泳ぎ、木立の間で小鳥が囀り、空には大きな翼を広げて鷲が舞い、獣達が豊かな土地を穏やかに闊歩する。

 全体的に見てなだらかな山が並んで見えるが、いずれも標高が高く、人里は遥か遠い。道は高空から見下ろして木々の隙間に

数本、いずれも細く見えるばかり。車が通れる道は少なく、殆どはひとが肩を触れ合わせずにすれ違える程度の幅しかない山道

である。

 しかし、よく見れば自然の景観の中に、石碑や小さな祠などが点在している事が判る。

 さらに目を凝らせば、木々の隙間にちらほらと、点在する人影も見つけられる。

 それらの人影はいずれもゆったりとした古めかしい衣装を纏っているが、見る者が見れば方士、あるいは道士と呼ばれる者達

の衣装である事が判る。

 この付近の山々は霊場であり、方士などの修行の場でもある。

 お伽噺の域を出ないが、この地で修行を積んで自然と一体になった幾人かが、神仙の仲間として迎えられたという伝承も残っ

ている、由緒正しく歴史ある土地。現在の巽将や軍属の方士道士は勿論、かつて震将だったユェインの上官にあたる熊も一時こ

こで修行を行なっていた。

 そんな土地を、軍から払い下げられた私用のジープが一台、舗装もされていない道をガタガタゴトゴトと駆け登ってゆく。

 片手でハンドルを握り、もう片腕を開けている運転席の窓にかけてアクセルをキープしているのは、大柄でごつい、太り肉の

猪だった。

(あと三十分程度か)

 山間を抜ける道から登りへ、崖を迂回するワインディングロードから急な下りへ、高低差もカーブもキツい道を、熟練ドライ

バーに駆られるジープは苦も無く踏破する。

 やがてチョウはゆるやかな直線の坂道にジープを乗り入れ、前方に見えた広場とそこに建つ建物…赤く派手で、縁が反り返っ

た屋根も立派なお堂に寄せると、
お堂の周辺を掃き掃除していた十代前後の少年少女が、「チョウ師兄!」「チョウ師兄!」と

口々に呼びながら、掃除道具を持ったままワラワラと近付いてジープを取り囲んだ。

「皆しばらく。お師様の言う事をきちんと守って修行しているか?おっと、新顔も居るな!」

 運転席から降りたチョウは、集まって来た子供らの頭をニコニコしながら順番に撫でてゆく。

 この山々には、修行の場を設けて管理している方士などが多数居るが、彼らは身寄りのない子供などを預かっている。第八連

隊などが関わったケースも多い。邪仙妖怪絡みの事件で集落などが壊滅して帰る場所がなくなった子、家族が喪われて独りだけ

生き残った子など、ここで一時保護され、行き場が見つからなかったらそのまま生活する。

 方士達も喜んで子供らを迎える。方士になれるかどうかに関係なく、引き取りを断る事はない。

 彼らの用いる五行に対応する術大系は、その素養によって習得の可否や難易度が異なるものの、学べる者は多い。そしてもし

方士の素養がなくとも、大掛かりな陣の敷設や祭壇の設置など、技術や労力が要る仕事は存在するので人手はあって困らない。

預けられた子供らは、そのまま方士か職人となり、ここの関係者として暮らすケースが多かった。

 ちなみに、チョウはかつてこの一帯を管理する方士の一人から乾坤術を学んだため、ここに居る子供らから見れば兄弟子とい

う位置付けである。

「お土産を持って来たから、皆で分けて食べるんだぞ」

 積んできた荷物の中から、手の上に乗るサイズの紙袋をいくつも取り出したチョウが一人一人に手渡してゆき、子供達から歓

声が上がる。朱色の刻印が鮮やかな紙袋の中身は、果糖を原料にした色とりどりの飴。修行中の子供達が食べても問題ない物。

 修行中の子供らはまだ自身の気脈が弱くて把握し辛いため、口にする物にも気を使う。

 動物の肉や穀物類、そして俗に精が付くと言われる物は、気を溜め込みやすく、気力体力を回復させるのに適している。しか

し自分の気脈を把握してコントロールする術を学んでいる段階では、それらを摂取する事で取り込んだ気が邪魔になり、自身の

気を把握し辛くなってしまう。果肉や蜜の加工品はこの食生活の邪魔にならないため、チョウの土産はいつも彼らに配慮された

上で、喜ばれる物がチョイスされていた。

 仙人になった者の伝承などにある食生活で、五穀を断つ、なまぐさをしない、などと伝わるのも、子供らの修行中の食生活と

一致する。なお、ルーウーは肉も魚も穀物類も食すが、これは好みだけではなく、自身に拘束術式をかけた上でも漏れてしまう

仙気を下界の気に紛れさせる効果もある、邪仙を追うのに適した食生活である。

「お師様は外出中かな?」

「ユェイン様がいらっしゃったので!」

「ご案内して…」

「湖上の六番廟に!」

「何と!ユェイン様はもうお着きなのか!?」

 道中で用があるとの事で別々にここへ向かっていたのだが、上官の方が先に着いたと聞いてチョウは驚いた。

「今朝早くにいらっしゃいました~!」

「こうしてはいられん。ではまた!」

 ジープから大きなザックを引っ張り出して背負い、クーラーボックスを二つ両手に吊るし、猪は子供らに見送られて山道を駆

け登り始めた。…普通走って登り切れるような距離ではないし、駆け登ろうなど考えもしないのだが、チョウなので。

 ここの山々の中のいくつかは、山頂に湖を湛えている。カルデラ湖…火山活動の噴火口に水が溜まった湖にも似た風景になっ

ているが、この辺りに火山は一つもない。それらは全て、儀式の為に造られた人工湖である。

 中には二千年以上も前から残る物もあるが、崩れて無くなった物もあれば、十数年前に造られた物もあり、いつの世も総数が

10を下回らない程度に維持されている。それら全ては直径300メートルにも及び、上から見れば完全な円形。遥か昔に造ら

れた物ですら完璧な真円になっていた。

(ユェイン様の姿はない…。もう渡っておられるか…)

 息を弾ませた大荷物の猪は、あっという間に登り切って湖の縁に建ち、岸辺を見渡してから湖の中心を見遣った。

 山頂の湖はいずれも中心に小さな島があり、一本の橋で岸辺と繋がっている。浮島ではなく、水深80メートル以上の湖の底

から柱状の土台を設けた上に土盛りされた、しっかりした作りである。これも完全な円形になっている直径20メートルの小島

は、その上に壁や柱を朱色、屋根などを黄色に彩った建築物を戴いていた。

 建物自体は見た目も色も道教の廟に近いが、額板や提灯などの装飾は無く、形状その物はシンプル。特徴的なのは上から見る

と八角形で、正面口がある橋側以外の七方向からは見た目がほぼ同一という点。

 大荷物を揺らして橋のたもとまで走ったチョウは、そこで急ブレーキをかけて立ち止まり、ペコリと一礼してから渡り始める。

 風もなく、波も立たず、鏡のように美しい湖面は、橋を渡る猪を上下対象に映し出す。低木樹が茂る岸辺を湖の中から望む絶

景は、ここへ立ち入る事を許された者だけの特権。しかしこれから行なう儀式の事を考えれば和んでばかりもいられない。チョ

ウは荷物を掴む手をキツく握り込み、やや緊張気味で表情が硬い。

 やがて島の土を踏み、廟の前に至った猪は、

「あら、御着きになったご様子ですよ」

 中から鈴を転がすような女性の声を聞き、背筋を伸ばした。

 チリン…と、小さな鈴の音が、足音のように一定のリズムで聞こえ、ほどなく入り口に姿を見せたのは、30代とも50代と

も見える妙齢の犬獣人女性。男物の漢服を纏っているが、ほっそりした肢体に反した豊満な胸が襟元を大きく広げている。黒々

と艶やかな被毛は宝石のように光を照り返し、たおやかな仕草はまるで貴人のそれ。腰帯から無数の鈴が細い糸で下がっている

が、どういう訳か音を立てているのは一つだけ。

「リン方士様、ご無沙汰しております!」

「お久しぶりですチョウ中尉殿…いえ失礼。上尉になられたのでしたね、つい癖で…。とにかく、お元気そうで安心しました」

 両手の荷物を下ろしたチョウは、踵を揃えて背筋を伸ばし軍式敬礼。優雅に微笑む女性方士は、軍人ではないがチョウに乾坤

術を教えた師。そしてユェインから見れば同門の姉弟子である。

 鈴雷命(リン・レイミン)。貴婦人の印象があるものの、乾坤術、刃術、雷術と、やたら実戦的なレパートリーの術を得意と

する武闘派であり、呪詛返しを中心にした各種大儀式の名手。賓客として軍の作戦に協力する事もある。チョウが師事したのは

一時の事だったが、生来の能力である電撃と五行の質である雷を結び付けた各種乾坤術を短期間で習得できたのは、本人の学習

能力のみならず、教える側の指導力による所も大きい。特に平時は放電現象をろくに使えないチョウが、極致状態下でのみ使用

できる各種仙術が仕上がったのは、彼女の指導あっての物。

「上尉、ご苦労」

 レイミンの後ろからのっそりと巨体を揺らして現れたのは隻眼のジャイアントパンダ。大兵肥満の巨漢はゆったりした漢服様

式の衣装を纏い、紺色に金の縁取りが施された帯を締めていた。仙衣ではなく、それを模した胴着である。

「は!ただ今到着致しました!お早いお着きでしたが…」

「大叔父上に見合いの話を持ち出されて、逃げて来た。今度打ち上げる衛星の話から不意打ちでされた…」

 表情こそ変えないものの、軽く耳を倒すユェイン。その説明で全てを察したチョウとレイミンは苦笑い。

「用事とは少将との会見でしたか…」

「少将殿は連隊長殿の御身を案じておいでなのですよ」

 クスクスとしばし笑っていたレイミンは、「チョウ上尉。支度は整えてありますので、どうぞ」と道を譲るように脇へ退いた。

「正午になりましたら隔離します。丸一昼夜は解けませんので、隊への連絡など、ご用向きがあればそれまでに」

「お気遣いに感謝します師姉。ではチョウ、中へ」

 促されたチョウはレイミンに深々とお辞儀すると、身を翻したユェインに従って廟に踏み入った。

 扉を潜って内部に足を踏み入れた途端、気圧が変化したように軽く鼓膜が鳴った。そこはもう結界の内、儀式の場である。

「扉はもう閉めてもよろしいですかな?」

「うむ。定刻まで少しあるが、もう構わないだろう」

 建物の内部には甘い香りが薄く立ち込めており、扉を閉めるチョウの鼻をくすぐった。ここへ来るのは約一年ぶりだと思い出

しながら、閂を下ろして施錠する。

 屋内は中央に当たる位置の八角形の大部屋を囲む形で、いくつかの部屋に分かれている。その中央の部屋に荷物を運び込んだ

チョウは、先に入ったユェインが見つめている物…大きな香炉に歩み寄った。

 部屋の中心にはひとの腰ほどの高さがある青銅の香炉。そしてそれを挟んだ出入口の反対側には、大きな寝台が一つ置かれて

いる。生木で作られた真新しい寝台に、新品のシーツと布団…、これから挑む儀式の為にまるごと一つ造られたそれの上には、

ユェインの物と同じデザインの衣装が畳んで置いてあった。

 ゴクリと唾を飲むチョウの尻で、自分を叱咤するようにヒュンッと尻尾が上下する。

「もう焚き始めますか?」

「そうだな、早い方が良い」

 持参したクーラーボックスの一つをあけて、猪は香炉に乾いた植物の葉、枝、根、種や実を乾燥させた物や、粉末状になって

いる薬剤をセットする。チョウが持参した荷物の内、ザックには着替えと戦闘用の武装が、クーラーの一つには儀式用の品が、

もう一つのクーラーには飲み物と食料が入っていた。

「では、火を入れよう」

「は」

 ユェインとチョウは手順に従い、拝み、手を合わせ、数度礼をし、祝詞を唱えて香炉に点火する。粉末についた火種は枝葉や

根にゆっくり回り、煙が薄く立ち昇る。

 チョウの猪っ鼻がスンッと嗅いだそれは、この部屋の匂いを濃くしたような甘い物。

「それでは、身を清めて参ります。飲み物と食事はこちらに…」

「うむ」

 頷いたユェインを残し、一礼して部屋を出たチョウは、外周を巡る八角形の廊下を時計回りに移動して浴室に入った。

 この区域には水道も電気もガスもない。修行する者達も昔ながらの生活をしている。浴槽に溜められた湯は火で沸かされた物

で、レイミンが到着を見越して支度してくれていた。

 脱衣場で衣類を脱ぎ、全裸になると、チョウは脇の姿見を見遣った。

 どっしりとしたどこもかしこも太い体。真横から写った姿では腹の出具合が気になるものの、胸も相応に厚くて逞しい。あま

りに厚い体なので身長が低く見える程である。

 一瞥した鏡から正面の浴槽に目を戻したチョウは、歩み寄るなり手桶で湯を掬い、右、左、と繰り返し肩から斜めに流して身

を清める。太り肉ながらも逞しく、重量感のある肉厚な体を伝って、湯が水音を立てながら滑り落ちてゆく。

 湯で体を流す工程は、普段の数倍丁寧で念入りである。剛毛を掻くようにガシガシと洗い、特に汗をかく首周りや、豊満な胸

と突き出た腹の境目、脇の下や内腿、腹の土手肉の下から股座などを入念に流す。

 そして、股間からぶら下がっている玉二つと太い陰茎は、特に丁寧に洗う。チョウの陰茎は本人とよく似ている。分厚い肉に

根元が埋もれ気味な上に、肉棒は太く亀頭は丸々としていて、ずんぐりとしたシルエット。その下に鶏の玉子が二つ入っている

ような陰嚢がついている。全体的に見ればズッシリとボリュームがある性器だった。

 次いで、割れ目が深い尻の間も洗う。特にピンク色の肛門は…。

「…ふぅ~…。すぅ~…。ふぅ~…!」

 深呼吸を繰り返す猪が手にしているのは、「備え付けの浣腸器」。それも、若竹の筒を動物の皮でできた袋に繋いだ、わざわ

ざ自然物で手間暇かけて拵えられた品。

 洗い場側から浴槽の縁を片手で掴んで、力士が蹲踞するような姿勢で屈み、浣腸器の先端を尻にあてがっている自分の格好を

客観的に想像し、羞恥心で顔をカッカさせながら、チョウは器具の先端を肛門に挿入し、少し冷ました湯を注入する。

 中国では(各時代の国により異なるが)古来より(良しとされない時代もあったが)肛門は性器として扱われる向きが(地域

差もあったが)あった。性技や作法を記した古い書にも、肛門の扱いやケアについて割と詳しく書いてある(本当に)。勿論、

そこに使用する器具についても、由緒正しい古い製法がある。これも儀式に必要な準備なので、古式ゆかしい道具を用いて浣腸

する必要がある。何故浣腸する必要があるのかは後述。

 やがて、尻の中まで含めて隅々まで清めたチョウは、広い湯船に体を伸ばした仰向けの状態で浸かった。浴槽に張られている

のは多数の植物から抽出されたエキスが溶かされた、一種の薬湯。ハッカのような香りがして、皮膚に浸透して毛細血管を広げ、

血行を良くして体温を上げる。

「ふぅ…」

 広い浴槽で手足を伸ばし、一息ついたチョウは、太い指で眉間をつまみ、軽く揉んだ。年に一度程度はこの儀式を行う必要が

ある。が、何度やっても慣れるという事はない。

 ユェインとチョウはこれから行なう儀式によって、仙術におけるいくつかの制約を緩和できる。

 例えばジャイアントパンダはこの儀式を共にした相手に対し、縮地の射程を伸ばし、本物の神仙のように障害物を無視した移

動も可能になる。これは性能の引き上げではなく、世界に対する欺瞞作用による裏をかいた性能強化。ジァン・チョウをフー・

ユェインであると世界に誤認させ、「チョウは自身の身体の一部あるいは延長である」「故にそこは10メートル以内である」

という強引な理屈で、ユェインは縮地の距離を伸ばす。

(そう。必要なのだ…。他に理由はない。必要だから…)

 最初は心の中で考えていた事を、やがてブツブツと呟き声で発し、ながながと湯に浸かっていたチョウは、だいぶ発汗してか

ら立ち上がった。

 水を桶に汲んで左右の肩から流し、火照った体を冷やしながら体を引き締めると、発汗はすぐに収まった。

「…よし!」

 顔を両手でピシャリと叩き、尻尾をヒュンッと自身に鞭を入れるように上下させ、猪は脱衣場に戻り…。

 

「お待たせしました」

 中央の部屋に戻ったチョウは、寝台に腰掛けたユェインの傍らにある小さな卓を見遣り、そこに赤と金の包装が施された酒瓶

と、容器の蓋のような極々小さなグラスが出ている事に気付く。ジャイアントパンダは風呂から出て来る気配を察したのだろう、

チョウが持ち込んだ酒を出していた。

「少し早いが」

 小さなグラスを軽く掲げたジャイアントパンダに、仙衣を模した衣装に着替えたチョウは静かに頷き、ゴクリと音を立てて唾

を飲みこんだ。

 用意した品は、杏子酒を砂糖黍エキスで割り、特殊な製法の秘薬を混ぜた酒…。儀式用に用意された物だが、成分的にはとも

かく味は杏露酒のサトウキビジュース割りである。

 チョウは 薬を飲むような、指先程の小さなグラス二つに酒をそっと注ぐと、片方をユェインに渡し、上からの献杯にならな

いよう跪いて酒杯を捧げ持ち、それぞれの目線の高さで翳し合う。

 クッと、同時に酒をあおる。一口分にも足りない少量だが、トロリとした豊潤で甘い液体は舌に染みて、口内から鼻に果実の

香りが抜けてゆく。

 グラスを卓に戻すと、ジャイアントパンダは自分の左手側でポンポンと寝台を軽く叩いた。

 チョウは頷くと、グラスを置いてその隣に、並ぶ格好で腰かける。

 しばしの沈黙。口を湿らせた酒がジンワリと浸透して体温を上げてゆく。香炉から昇る霧のような芳香は部屋に充満し、甘い

香りはいよいよ強まっていた。

(始まった…)

 チョウは視線を下げる。座った状態で持ち上がった太腿と、太鼓腹の間、窮屈なそこで疼きが強くなり始めた。

 窓から入る光は強まり、定刻が近付いている事を察せられる。

「チョウ」

 ユェインが呼び、今度は上官が注いだ酒を部下が受け取る。二杯目も同じく、一口で煽って飲み干して、グラスはまた卓に戻

される。

「…済まない」

「いえ」

 ユェインが何かを詫び、チョウが首を振る。

 それからしばらくふたりの間に会話はなくなった。チョウの顔には緊張が見られるが、気詰まりな雰囲気ではない。空気は緩

く、そして甘く、間の温度は一定に保たれている。

「そろそろ戸締りをします」

「うむ」

 立ち上がった猪は、八角形の壁の窓全てを締めてゆく。太陽光が遮られると、光源は八本の柱の燭台だけになり、微かにゆれ

るオレンジの光が部屋の中を暖色に染めた。多少なりとも循環していた空気は堰き止められ、香炉の甘い煙がより濃く充満する。

鼻孔の中に甘みが付着するかのように、濃く…。

「…もうじき正午になるな」

「は」

 ユェインの声に頷いたチョウは、振り返って視線を交わした。

「準備は良さそうだ」

 普段と変わらないジャイアントパンダの顔を、猪は上気した表情で見つめ返す。

「俺も、そろそろ回って来ました…」

 ユェインが立ち上がる。重量を受けていた寝台がそれだけで軋んだ。歩み寄ったチョウが正対し、ふたりは部屋の中央、香炉

の前で向き合う格好になる。

「では、よろしく頼む…」

「こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します…」

 半歩間を詰めながらふたりの腕が伸び、互いの体に回って、グッと、きつく抱擁し合う。

 これから行なわれる儀式は、仙人由来の物ではない。ひとが神仙に近付こうと、あがいて試行錯誤を繰り返して辿り着いた物。

気を蓄え精を留め、陰陽の交わりによる整調を謳う房中術を取り入れた物で、互いの精気を受け渡して一部を取り込み合う事で、

両者を同質の物と世界に誤認させる儀式。

 …と、もっともらしく説明されるので最初はユェインも、後から知ったチョウも、聞いただけでは具体的にどういう儀式か判

らなかったのだが、要するに、儀式の要点は性行為である。

 数十秒に渡りきつく抱き締め合うふたり。お互いに腹が出た体型なので、出っ張った腹部の文だけ腰が離れ、やや前傾した格

好になっている。

 薄い衣の上から、ユェインの広い手がチョウの背中を撫でる。脇腹から後ろに回っている猪の手も、ジャイアントパンダの尻

から肩までゆっくり、繰り返し撫で上げる。

 ふたりはやがて少しだけ身を離し、至近距離で見つめ合う。この時にはもうユェインもチョウも目がトロンとしていた。

 食道と胃を中心に体温が上がり、背中の中心から汗ばんでくる。鼻孔の奥から頭の中まで、ジンワリと酩酊感が浸透して来る。

 酒も、お香も、この儀式の為に秘薬が入れられている。具体的には催淫薬を。腹がつっかえているせいで離れているふたりの

股間では、それぞれの陰茎が抱擁の間にムクムクと頭をもたげていた。

「ユェイン様…。よろしいですか…?」

「うむ。よろしく頼む…」

 そっと、ふたりの顔が近付けられて、互いの口を加え込むように深い口付けが交わされる。チョウも大男だがユェインはそれ

以上の巨漢なので、ジャイアントパンダが少し上から被せる格好になった。

 結合した口の隙間から、互いの舌が絡み合って立てる湿った音が淫靡に響いた。

「んっ…!んん…!」

 きつく目を瞑るチョウ。口内を肉厚な舌で撫でまわされ、負けじと自分も必死に舌を伸ばす。肉厚な舌に触れるジャイアント

パンダの牙の、硬い感触すら心地良く感じられる。

 中国文化における口付けの歴史は(地域にもよるが驚くほど)古い。口付けを交わす土像が残っているほどで(本当に)、太

古から特別儀式めいた繋がりとも取られてきた。息には命が宿るという思想もあり、口付けは互いの命を交換し合う行為とも見

られる。

 口付けを交わしたまま、互いの体を衣服の上から撫でまわす。その力がと熱がこもった愛撫は、直に触れられないのがもどか

しいようにも、愛おしさを堪え切れないようにも見える。

「プハッ…!」

 口が外れ、息を漏らしたチョウは、ユェインの顔を間近から熱っぽい目で見上げた。

「帯を解いても、よろしいですか…?」

「うむ…」

 猪の太い指が、ジャイアントパンダの腰を締めている帯にかかり、結び目を解く。はらりと広がるように帯が床に落ち、衣が

はだけて体の前面が露出する。ふたりとも下着は身につけておらず、衣の下は裸体である。チョウの手が襟元に入り、肩の方へ

押し上げると、ユェインは袖から腕を抜く格好で衣を脱ぎ捨てる。

 蝋燭の光に照らされた巨躯は、一見すれば肥満体で、しかし太腿や二の腕などには筋肉の太い束が陰影を浮き上がらせている。

深い臍が陰影で中心にワンポイントを添えている突き出た腹も、腋の下までラインが繋がるほど豊満な胸も張りがあり、四十歳

を超えても衰えが見られない。なのに…。

(手触りは滑らかで…、被毛はきめ細かく、すべすべしている…)

 猪はジャイアントパンダの胸に手を当て、その感触に惚れ惚れした。

 懐かしいとも思う。体表の手触りは、幼い頃に触れたホンスーの父…ヤングァンのそれを思い出させる。あんな風流で聡明な

大人になりたいと、憧れたひととよく似ている。

 望みさえすれば、椅子に座って指示を出すような立場にもなれた。戦場から遠く、安全な場所で成果と損害を数字で眺めて過

ごす事もできた。なのに、現場に居る事を選択し、戦場に出続けている男…。幾多の視線を越えてなお、その被毛は褪せず、荒

れず、その手触りは高貴ですらある。

「君も裸に」

 胸に触れさせたまま、ユェインも手を伸ばしてチョウの腰帯を解いた。パラリと開いた衣の前から、ムチムチに張った肉体が

現れる。

 よく育ち、よく鍛えた、逞しい固太りの肉体。軍人の家系でも武家の出でもない、田舎育ちの青年は、憧れた空と翼を諦めて

剣を取った。その選択を立派な物と思う一方で、ユェインは残念にも感じる。きっとその選択を強いた事件によって、チョウは

昔のままの性格ではいられなくなり、振る舞いも別人のように変わった。軍人であろうと己を律し、空に憧れた頃の顔は見せな

くなった。

 何より、ひとのままでは居られなくなった。

 猪の胸を見る。被毛の表面に浮き出た太極図は、もはやひとではない証…。

 再び抱擁し合うと、ユェインはチョウの耳元で「寝台へ…」と囁いた。胸に鼻先を埋めながら顎を引いた猪は、ジャイアント

パンダと並んで寝台に腰掛け、横向きで再び深く、長く、口付けを交わす。

 チラリとチョウの目が向いた先は、ユェインの股。出っ張った腹が蝋燭に照らされ、濃く落とした影の下で陰茎が立って自己

主張していた。

 サイズでいえば標準的と言える。が、ユェインの巨体と比較すれば、ソレは小ぶりな部類に入る。果実のように丸い陰嚢の上

で、陰茎は豊満すぎる股の肉に根本側がだいぶ埋まっており、短くも見える。包皮が根元までめくれた亀頭の先端では、透明な

体液が真っ赤な鈴口を淫靡に濡らして光らせていた。

 濡れているのはチョウも同様。痛いほどパンパンに膨れた亀頭はすっかり充血し、陰茎は血管が濃く浮き上がっている。先端

どころか、滴った先走りで睾丸の間まで濡れそぼっていた。

「お先に俺が…」

 猪が寝台に寝転び、仰向けになって大きく左右に足を広げる。熱で潤んだ目と熟れたように熱い吐息、すっかり薬が回ってお

り、屹立した陰茎がヒクンヒクンと震えている。

「では…」

 ユェインはのっそりと、チョウの足側から寝台に膝を乗せた。中まで綺麗にした尻を晒し、羞恥を堪えて股を広げた猪の股間

を覗くが…。

(その無表情さに圧が…!)

 股座を覗かれているチョウの顔をダラダラと汗が伝う。自分と同じく薬が効いて「その気」になっているはずなのだが、ユェ

インの表情は平時と同じく表情が殆どない。そのせいで妙な圧を感じてしまう。

「指を入れるが、大丈夫か?」

「は!」

 口に含んで唾液で湿らせた指を、肛門にヒタリとあてがってゆっくりと潜り込ませるユェイン。既に薬が回って感度が上がっ

ているチョウは、侵入して来る指の感覚で太い陰茎をヒクヒクと震わせた。ユェインは指に吸い付くように締まる肛門を入念に

ほぐし…。

(ユ…、ユェイン様にそんな所を弄られるのは…、いつまで経っても慣れない…)

 恥ずかしい。申し訳ない。異物感はすぐに薄れて、内部をまさぐるように、しかし慎重にゆっくり動く指の感触が、チョウは

次第に心地良くなってくる。

 たっぷり時間をかけてほぐした後で、ジャイアントパンダは「そろそろ大丈夫か?」と確認した。淡々とした口調にも若干圧

を感じてしまうチョウ。

「は。充分です…!」

 チョウが応じるなりユェインは猪の膝に手をかけ、左右へ倒す格好で広げた。そうして広げた股に腰を乗り入れるようにして、

ジャイアントパンダは怒張した陰茎を猪の肛門に押し付けた。

「入れるぞ」

「はい…!」

 グッと尻の穴に圧迫感を覚え、押し広げられる。チョウの手は体の両脇でシーツを掴み、深い皺をつけた。

 ズ…ズニュッ…。

「ふ…!ふーっ、ふーっ…!」

 ズズ…ズ…ププッ…。

「んっ!」

 尻の穴が広がり、熱い物が侵入する感覚に耐えかねて、首を横に捻るチョウ。ユェインの陰茎が脈動する感触が、体の深い所

で感じられる。

「奥まで入った。慣れるまで少し待とう」

 根元まで入って繋がった状態で、ユェインは猪の下腹部を、ヘソを中心にして労わるように両手で撫でさする。

「よく鍛えられている…」

 分厚く弾力がある皮下脂肪の下に、確かな筋肉の手ごたえがある。腹や胸を軽く揉んで愛撫しながら褒めるユェインに、チョ

ウは恥じらって顔をカッカさせながら「ユェイン様には敵いません…」と、胸に置かれたジャイアントパンダの手に自分の手を

重ねた。

「ユェイン様、もう動いて下さって結構です…」

「そうか。では…」

 ユェインが少し腰を引くと、抜けてゆく陰茎で腸内が擦れたチョウは、息を飲み込んで喘ぎを殺した。

 再びゆっくりと陰茎が奥まで挿入される。締め付けてしまいそうになる尻から意識して力を抜くように努め、チョウは受け入

れる。

 最初の数度はゆっくりと腰を前後させ、潤滑は充分だと判断したユェインは、腰を揺すり始めた。腰を打ち付けられるたびに、

チョウの太鼓腹がゆさりゆさりと揺れ動き、押し出される息もあって逞しい胸が大きく弾む。

(あ…!あっ!そ、そこが…、効く…!)

 ユェインが腰を前後させるたびに、亀頭の先端がチョウの前立腺を丁度ミートする。角度的にも深く入り、ゴリゴリと擦られ

るように強く刺激された。

(き、気持ちい…い…!んあっ!腹の奥まで、ジンジン感じてっ!うっ!)

 ユェインの下っ腹と自らの土手肉の間で擦れるチョウの陰茎が、内側と外側から刺激されてダラダラとよだれを零す。ゴリッ、

ゴリッ、と前立腺を抉るような角度で擦られて、ヘソと陰茎の中間で下っ腹がジンジンする。

「おふっ…!んぅっ!」

 声が漏れてしまう口を両手で押さえるチョウだが、呻きは隙間から出て行ってしまう。

 次第にジャイアントパンダの腰の動きはスピードを増し、打ち付ける音が大きくなって…。

(は、激し…!内臓の位置が、変わってしまいそうだ…!)

 喘ぐチョウの口から、「あ…、あ…!」と声が漏れ始めた。シーツを掴んで握り込んだ手は、力が籠り過ぎて震え、引き千切

らんばかり。

 規則正しく弾んだ呼吸を、浅く開いた口から零しながら、ユェインは腰を揺すり続ける。体の内側が押されて上下するような

前後運動で、全身の肉を弾ませる猪が鼻の奥で唸る。

(そ、そこが…!あっ!そこが、気持ちいい…、あ、当たって…!あんっ!)

 絶え間なく与えられる刺激。豊満な体の曲面から染み出て、肉の谷間を伝い落ちた汗が、チョウの下でシーツをじっとりと濡

らしてゆく。巨漢ふたりに上でまぐわられるベッドは、聞きようによっては悲鳴のように軋み音を立て続ける。

 汗の匂いと体臭が、甘い媚薬の香煙とまじりあってふたりを包む。結合部が湿った音を立て、弾んだ熱い息が絡み合う。体温

と汗で寝台周辺の湿気と温度が上がるほど、ふたりは熱く繋がり続けた。やがて…。

「ゆ、ユェイン様っ…!済みませんっ…!」

 クフー、クフー、と息を吐きながらチョウが訴えた。頭の芯が痺れる快楽と、腹の奥が疼く刺激、押し寄せる快感は何故か切

なくもあり、感極まって泣きそうになり鼻が詰まっている。

「も、もう…!もう俺っ!限界で…!も、漏れっ…!漏れてしまいそうですっ…!」

 腰を揺すり続けながら深く頷いたユェインは、「ではまず一回目だ…」と唸るように呟くと、腰の運動をさらに加速させ…。

「あっ、あっ!ユ、ユェイン様ぁ!済みません!も、漏れ…!おっ…おふぅっ!」

 ズンッと、深々と、一層強く突き上げられたチョウの股間、両者の腹の間に挟まれた陰茎が、内側から押し出されるようにド

ブプッと体液を吐き出した。

 同時に、最も奥まで突き込んだ位置で、ユェインの男根が精液を吐き出す。

 ドプン…、ドプッ…、ドプッ…。繰り返し射精するユェインの精液は大量で、ガクガク痙攣するチョウの腹の中に放出されて

満たしてゆく。

 普段から女も男も抱く生活をしておらず、色に夢中になる事もなく、衝動に揺らぐことも無く、浮いた話一つもないユェイン

だが、精力は人一倍。性欲は自制し、定期的に抜いて処理しているが、しかしこの通り、もう子を成せないにも関わらず射精の

長さも量も飛び抜けている。

「くふーっ…!んくふーっ…!」

 脳天まで抜けるような刺激に翻弄され、目の前で星がチカチカ舞うチョウは、下っ腹に軽く膨満感を覚えた。その、たっぷり

精液を注ぎ込まれた腹を右手で軽く撫でながら、ユェインは左手で、投げ出されているチョウの太腿の内側をさする。
慈しみ労

わるその手つきは何処までも優しく、酩酊したように頭がボーッとするチョウには、こそばゆくも心地良く感じられた。

「ユェイン様…。済みません、少し…このままで…」

「うむ」

 頷いたユェインは寝台横に手を伸ばすと、酒瓶を取ってラッパ飲みで口に含み、コクンと半分飲み下すと、前のめりになりつ

つチョウの首の後ろに手をかけ、軽々と抱き起した。

「んあっ!」

 繋がったまま起こされたチョウは、胡坐をかいたユェインの脇腹側に両足を投げ出す格好で、挿入されたままの陰茎がより深

く食い込んだ。

 抱かれる格好で起こされたまま、口付けされたチョウの口内に、口移しで酒が注がれる。果実の香りがする口付けに喉を鳴ら

したチョウの背を、ユェインは優しく撫でて…。

 

 だが、儀式はこれで終わりではない。

 この儀式にはいくつか決まりがある。

 まず、各々が八度ずつ、相手の中に精を吐き出さなければならない。

 そして、表と裏、上と下というように、行った体位と逆になる体位も実践しなければならない。

 つまり、体位を変えながら受け攻めを交代し、合計十六回の性交を行なうのが決まりという、楽しいどころか厳つい儀式なの

である。

 好色な者などが話を聞いて興味本位で挑む事もあるが、内容自体は冗談のようでも過酷の一言に尽きる。特に酒とお香に混ぜ

られた薬は精力を増強する一方で体力を消耗させるので、半分もこなせず力尽きる事もザラ。完遂するには尋常ではない体力が

要求される。よって…。

 

「少し持ち上げるぞ」

「は!申し訳ございません!」

 直立で背筋を伸ばすチョウ。その前で屈んだユェインは、チョウの太鼓腹の下側に右手を添えて、押し上げながら股間に顔を

寄せ、熱い陰茎を口に咥えた。

(あああああ恐れ多い!ユェイン様が俺のモノを…お口で…!)

 ゾクゾクと背徳感にチョウが震える四度目の合体。

 

「チョウ。少し休憩を入れるか?」

「はっ!?な、何の…!まだ、行けま…ひぐっ!」

 ユェインに跨って自ら腰を振るチョウが、意識を飛ばして10秒ほど完全停止する七度目の合体。

 

「はっ…、はっ…、はっ…!」

「ユェイン様!お気をしっかり!」

「…問題ない。寝ていない」

 十度目の合体。チョウが後ろから挿入する格好。四つん這いのユェインは眠気で目がうつろ。

 

「こ、この体位は…、は、恥ずかしいというか…!今更だが、いささか…照れてしまう…!」

 横臥して右足を大きく上げる格好のユェインに、開かれた股へ横向きに挿入するチョウが、言動がいつものジャイアントパン

ダではなくなってきたと気付く十四度目の合体。

 

 このように、励まし合いながら交わり続け、途中で眠気を飛ばすために冷や水を浴び、持ち込んでいた精が付く食料を摂り、

下っ腹が痛くなるほど精を吐き出し、丸一昼夜に及ぶ儀式を経て…。

「んっ…!」

 ヌポンッと尻から陰茎を抜かれたユェインが軽く呻く。

 交代する形で最初の体位で行為に及び、十六度の性交を終えた途端に、精魂尽き果てたチョウが前のめりに倒れ込み、ユェイ

ンの腹の上でバインと弾んだ。

 殆ど気絶するように意識が飛んで、ピクリとも動かなくなったチョウの背中に、ユェインはそっと手を回す。

(年に一度だが、この荒行は何度やっても堪える…)

 窓を締め切っているので外の様子は窺えないが、もう日が出ている時刻である。高いびきをかき始めた猪の背中を撫でながら、

ジャイアントパンダは深く息をついた。

 儀式の最大の関門は完遂できた。あとは正午を待って儀式を締めるだけ。

「んん…」

 唸ったチョウの背中を軽くポンポンと叩いてやり、ユェインは思う。

 ユェインがこの儀式の相手に選んだのは、チョウが三人目。かつての自分の上官と、同僚に続いての三人目。

 チョウが軍人になると初めて聞いた当時は、航空部隊に行く予定だったので、こうなる事など予想もしなかった。今はもう、

無くてはならない片腕であり、己の半身として儀式を共にする相手になった。

(判らない物だ。先のことなど…)

 先日、ホンスーが軍人になると言い出した事を妹から聞いた。唐突にも感じたが、あまり意外とは感じなかった。チョウのよ

うに、故郷を想い、あの日を思い、道を見つめたのだろう。

 まだチョウにその事は言っていない。

 甥の判断を自分は誇らしく感じるが、おそらくまともな感性であれば勧めない道だろうとも思う。

(チョウはきっと、反対するのだろうな…)

 

 

 

 三時間後…。

「儀式はどうだった?落ち度は無かっただろうか?」

 卓に並んだ塩焼きの鶏肉を豪快に噛み千切りながら確認するユェイン。

「は。つつがなく済みました」

 ガツガツとチャーハンを掻き込みながら応じるチョウだが、顔がまだカッカしている。

 締めを残して儀式も進み、一息入れて身を清め、仮眠を取った起き抜けの食事。チョウが持ち込んだ食事を疲れ切った体に詰

め込んで、ふたりは体力を回復させる。

「済まない。毎回君の記憶を頼らなければならないのは歯痒い事だ」

「いいえ、仕方のない事ですので、どうかお気になさらず…」

 ユェインは昨夜のことを覚えていない。というよりも、仮眠から目覚める前の記憶がスッポリと抜け落ちている。

 普段は飲酒を控えるユェインだが、これは緊急の事態に備えて…というだけが理由ではない。酒自体は嫌いではなく苦手な訳

でもないし、甘い酒などは特に好む。休暇の時などはチョウとサシ飲みを楽しむなど、静かに飲むのはむしろ好き。

 ただ、普段の飲酒を何故避けるのかというと…、実はユェイン。酔うと記憶が飛ぶ。

 脳にアルコールが巡るまで…飲酒開始からだいたい二十分ほどまでは覚えているのだが、そこから先の記憶は寝て起きたら綺

麗サッパリなくなっている。傍から見れば飲酒中もシラフの時と変わりなく、思考能力もそのままで、受け答えもしっかりして

おり、酔っている印象を全く抱かせないのだが、アルコールと一緒に記憶まで抜けていってしまうのである。よって、飲酒を伴

う席で重要な話が出そうな時は、チョウの同伴は欠かせない。

 儀式の最中、チョウにユェインが「済まない」といったのはこの事について。儀式に必須の酒を飲む事で、ユェインは記憶が

持ち越せなくなり、憶えているのはチョウだけになる。それがジャイアントパンダには申し訳なく感じられてしまう。

「お疲れでしょう。マッサージなど如何ですか?」

 数少ない能力の活用方法とチョウが述べる、微弱な放電を交えたマッサージは、ユェインも好きな物。凝った筋肉がほぐれて

疲労物質が抜けてゆき、心地良いだけでなく実質的な疲労回復作用は連隊長のお墨付きである。が…。

「いや、今は良い。儀式の締めを終える前に眠ってしまいそうだ」

 気持ち良過ぎて深く寝入りそうだと、ユェインは辞退する。

「ではその後で」

「うむ、頼もう。…ところでチョウ?」

「は」

 ユェインは茶を注いでくれる部下に尋ねてみた。

「例えばの話だが、君と似たような境遇で、家族と故郷を失った子供が居るとする」

「はい…」

 猪の表情が沈んだ。

「その子が軍に入りたいと言ったら、どう思う?故郷を失った真相を知りたいと言ったら…」

「立派ですな。しかし勧めません」

 きっぱりとチョウは言った。せっかく生き延びる事ができたのだから、失われた分だけ恵まれて生きるべきだと、猪は述べる。

「もっとも、後悔が動機の俺が、誰かの選択をとやかく言う事などできませんが」

「そうか」

「はい」

 甥が軍人志望になった事を伝え辛くなったユェインは、湯飲みを取って茶を啜った。

「…人身御供は、増えない方が良いのだろうな…」

「そうですな」

「ところでチョウ?」

 ユェインは同じ言葉を繰り返して訊ねた。普段と同じ真顔で。

「昨夜、私は君に無茶をしなかっただろうか?」

「~~~~~~~~~~~~~!」

 頭から湯気を上げたチョウは、「とても紳士的…でしたので…、大丈夫です…」と蚊の鳴くような声で答えた。