路傍の少女と檻の幼女(四)

 ホテルの一室。黄昏時の薄暗い室内。

 シャチが太い指で摘んだ葉巻を回し、先端を火で炙る。ベッドの上にぐったりと脱力して横たわるカナデは、ライターの火

に目を引かれ、シャチの手元をぼんやり眺めた。やがて、葉巻の煙を含んで頬を膨らませたシャチは、味わってからゆっくり

と紫煙を吹く。

 疲労感と気だるさを味わいながら、仰向けのカナデは丸い頬から首筋にかけてを軽くさすった。顔の火照りを確かめながら。

(結局、三回もいかされたよ…)

 午後の用事は丸潰れになったが、まぁ良いかとも思う。久しぶりに発散できたし、乱暴なようでバイタリティ溢れるシャチ

相手の情事は刺激的だった。

「さて、一服したら出かけて来るぜェ。そろそろ晩飯の時間になるし、酒も無くなっちまったしなァ」

「僕はこのまま一休みするよ…。仕事はその後だナ…」

 葉巻をゆっくりふかし、しばし経ってから腰を上げ、衣類を身につけたシャチは…、

「良かったぜェ?今度また頼むかァ、グフフフフ!」

 含み笑い混じりにそう言い残して部屋を出た。

 残されたカナデはベッドの上で、「よかったか~…」と呟くと、そのまま寝息を立て始めた。

 日は暮れて、外は急速に暗くなってゆく。



 それから少し経ち、日が完全に沈んだ一時間後…。

「レヴィアタンから、カナデ・コダマの件でご連絡を頂いた」

 活動拠点に戻ったシャチは、ソファーにかけている狼の言葉を聞いてヒュウ、と口笛を吹いた。

「オメェのトコ、トップからの連絡早ェなァ…。で?」

 向き合って腰掛けたシャチに、ウルは「結論から言えば、彼は「シロ」だ」と告げる。

「ほォ?」

「彼の主だったパトロンは、日本にあるカラスマという有名な大財閥の総帥だという事が判明した。使い切れないほどの財を

成した老人の道楽による出資。資金の流れもクリーンで、本当に人道支援がメインとなっている。…とラタトスクから報告が

上がってきたとのお話だった。他の出資者も有名な作家や学校法人、クリーンな企業ばかり。家族親族も同様にシロとのお話

だった」

 ウルの主人である幹部は、彼が掛け持ちする任務の負担を減らそうと、先手を打って動いていたらしい。使える者に交渉し

てカナデの周辺事情を母国側から調べたそうだが…。

 心変わりしてカナデを始末しなかったのは正解だったと、個人的にも満足しながら考えたシャチだが、

(しかし、相変わらず動きが読めねェなァ、レヴィアタンは…)

 仕事が一つ片付いたにも関わらず、気分は晴れていない。彼はウルの主人である若い女性幹部が苦手だった。シャチ個人と

しては量り難い性格と思考のため、単純に読み合い探り合いの相性が悪い。何せ彼女はまるで…。

(善人みてぇな行動方針だからなァ…)

 世界を焼き払う事を望むラグナロクとしてそんな事はありえない、と軽くかぶりを振ったシャチは、気を取り直して名前が

上がったエージェントの事に言及する。

「ラタトスクの調査か…。なら間違いねェ。あいつ自身は信用ならねェが、仕事自体は信用できるからなァ。グフフ…!」

「同感だ」

 短く頷いたウルに、シャチがきょとんと、丸くした目を向ける。

「…何か質問があるのか?」

「いや、オメェが流さねェで同意するからビックリしてんだァ」

「意外か?」

「割り切ってるモンだと思ってたぜェ」

「無論割り切っているとも。仕事に反映する事は無いが、私見はある。彼の仕事振りは評価する。が、人柄は評価に値しない」

「マヨネーズの好きさ加減が狂ってる以外、ひとも死体も食い物も、平等に興味薄いモンだと思っていたがなァ」

「心外だ」

 軽く顔を顰めるウル。

「マヨネーズは世界を繋ぐ究極の調味料だぞ。エマルジョンを愚弄するな」

 軽くニヤつくシャチ。

「馬鹿にしてんのはマヨネーズの事じゃねェんだがなァ」

 この狼は感情の起伏に乏しく、ひと程の豊かな情動が無い。機能的に完成に近いエインフェリアほど思考が機械的になると

いう弊害に見舞われ易いのだが、ウルの人格にもこの傾向が強く現れている。例外的にひとらしい感情の揺れが見られるのが、

このマヨネーズへの拘りや、馬鹿にされると意地になって言い返すところなどである。

「しかしオメェのその味音痴加減は素体から引き摺ってんのかねェ?」

「ともあれ、良い機会だ。一言意見しておく」

「マヨネーズの講義なら間に合ってるぜェ?」

「グリスミルについてだが」

 溜めも無く、あまりにも無機質な唐突さでウルが部下の事に触れると、シャチはからかうのを止めて半眼になった。

「彼の君個人に対する忠誠心は皆無だ。害してその立ち位置に取って変わろうとまでは考えていないと見るが、その上昇志向

と権力欲を優先する個性は、ともすれば黄昏の害にも繋がりかねない」

「…つまり?」

「性能は非常に高い。個性を見極めて有効に活用する事…、それが難しければ解体する事を勧める」

 ウルはエインフェリアを「生き物」と考えない。故に「解体」という言い回しを用いたが、要するにこれは「殺して除く」

という意味である。

「なるほどなァ…。オメェも同意見となると、こりゃあいよいよ使い方のマニュアルでも用意しとくべきかァ」

「使い方、と。解体する気は無いと?」

「勿体無ェ。性能はいい、仕事熱心、俺様へはともかくとして、黄昏そのものへの忠誠心は問題ねェ。…ときたら、使えるだ

け使うのが有効ってモンだろォ?」

 甘い。とはウルも言わなかった。シャチがリスクとデメリットを織り込んだ上で有用性を計算しているのは、その顔つきを

見れば判る。

(案外、彼にとってシャチの下に居られるのは幸運なのかもしれない)

 ウルはそんな感想を抱いた。シャチが有用性を見い出し、上官としてその不足をフォローする限り、性能的には優れている

グリスミルはその実力をより良く発揮できるだろう。ただし、あくまでも「シャチの下に居る限り」という話だが…。

(あまり階級を上げさせるべきではないだろうな)

 ウルは前触れもなくスッと立ち上がると、テーブルを避けて出入り口へ向かう。

「出るのかァ?」

「ああ。虱潰しというのはどうにも効率が良くないものの、必要ならば仕方がない」

「必要な分だけ連れてって構わねェぜェ?」

 肩越しに振り向いて声をかけたシャチに、ドアノブを掴みながらウルは「不要」と応じた。

「スコルを呼んで活用できればスムーズに事が運ぶのだが、望めない以上仕方あるまい。わたし自身で確実に対処する。…あ

あ、そうだ」

 ドアを開けながらウルは振り返りもせずシャチへ告げた。

「カナデ・コダマの件、済まないが報告は君に任せる。実際に接触をもった君の方が報告し易く、加えてわたしは少々立て込

んでいる」

 軽く片瞼を上げたシャチを残して部屋を出たウルは…。

 

 十数分後、雨染みに変色した低いビルが並ぶ、治安の悪い区域へと赴いていた。

 入国してから今朝までの間に、既に二つ、小さな組織と接触を持った。

 本部へ乗り込み、所属を名乗り、調査のため質問があると述べると、片方は恭順と協力を申し出た。防衛戦力も紙切れ同様

…否、無人の野を闊歩するが如く抜けて組織のトップの前へ顔を出した狼に対し、その選択は正しいと言える。

 しかしもう一方は、欲によって滅んだ。

 黄昏のエージェントがたった独りで来訪した…、そのシチュエーションで、ウルを捕らえれば様々な収穫があると考えてし

まった。

 だから、ウルは微塵に刻んだ。比喩ではなく文字通りに。その組織の本部にその時居合わせた全ての構成員を、その武器と

能力によって解体した。その物理的解体処分を免れたのは、処分すべき対象と見なされなかった、組織の虜囚や搾取される奉

仕者のみ。

 掃除担当班を呼んで仕事をさせる事になったそこで、しかしウルは首尾よく、自分本来の仕事に関する手掛かりを見つけて

いる。

 それは、写真であった。

 売買契約が成立しなかった旨の書類に添付されていた、一枚の写真…。そこにウルが探していた幼女の姿が写っていた。

 売買を持ちかけた側の非合法組織の所在はだいたい判っている。ウルは雑踏を歩き抜け、そこを目指す。その組織は、売春

斡旋を行なっているいくつものグループを傘下におさめており、関係者や構成員の数で言えば先の二組織よりも上なのだが、

戦闘員は少ない。抵抗されたとしても大した障害にはならないはずだった。

 

 一方、ウルが現場に出たしばらく後には、カナデについての調査を「シロ」と結論付けて報告し終えたシャチも…。

(調査が要らなくなっただけで、仕事に集中できるってモンだァ)

 夜の街…コンクリートと影に溶け込むダークグレーとディープブルーのタイガーカモ迷彩装備に身を包み、空き室だらけの

雑居ビル屋上で、貯水タンクの上に立っていた。

 ウルが重要人物の身柄確保という命を受けているように、シャチにもカナデの調査という追加任務の他に本来の仕事がある。

 それは、この国の政府が成立させようとしている秘匿事項対策部門に関係する物。

 現政権では先進国連合に席を得る事を視野に、秘匿事項…すなわち古代遺物由来のオーパーツやオーバーテクノロジーの確

保を進める方針が固まった。それ自体は別に珍しい事でもないし、それだけならば放置していても問題ない。秘匿事項関連技

術と知識について、黄昏は先進国連合の先を行く。秘匿事項後進国が一つ動き始めた所で、普通は脅威になり得ない。

 だが、今回のケースには少々目障りな点があった。

 整備を急ぐ政府は、国内の非合法組織複数と水面下で接触、癒着している。それが進んで行けば、国家公認の非合法組織が

秘匿事項関係部門を司るという事態になり兼ねない。この場合、戦力うんぬん以前に「特権を与えられた組織の自由度」が黄

昏の活動の邪魔になる可能性がある。

 シャチ達に与えられた本来の任務は、政府と癒着している組織を炙り出し、必要であれば壊滅させ、可能であれば政府側か

らのパイプも断てという物だった。
そして、この任務は当然ウルの物とも部分的に重なっており…。

「………通信状況グリーンだァ」

 携帯電話にカモフラージュされた通信端末を取り出し、シャチは通話に応じる。相手方の表示を確認するまでもなく、通信

をよこしたのが誰なのかは知っていた。

『進捗は?』

「進行予定に遅れはねェ。もうちょいとだけお待ち頂けりゃあ、耳に良い報告を上げられるぜェお頭」

 しゃがれた老人の声は、シャチの返答を聞くと『結構』と応じて先を続ける。

『レヴィアタンのエージェントはどのような様子か?』

「順調なようで。目的のモンの当たりはついたらしいぜェ」

『では、可能であれば「協力」し、先に対象を確保せよ』

 余裕があれば手伝え。そして出し抜いて対象を確保しろ。結局黄昏の手に落ちるにせよ、現場で実際に確保したのが自分の

陣営となれば評価も違って来る。そんな主の命令に…。

「了解だァ。グフフ…」

 シャチは静かに笑いながら応じていた。

 とはいえ、今回は主命の通りにする気は無い。よほどの事が無い限りウルを出し抜くなど不可能。故に「可能であれば」と

主も言った。

 そして今回、カナデの調査を保留にした後で、ウルの主…ひいてはあの狼自身から裏付けの情報を無償で得て、排除の必要

無しという結論を出せた。しかも報告自体はシャチ側から行なわせる事で、実地調査を無意味な物にしないという配慮までさ

れた。これはシャチの基準で言えば「借り」となる。

(運良く情報を拾えたら、こっそり流してやるかァ。グフフ…!)



 同時刻…。

「アリス、ちょっと静かにしててね」

 何度も通路の気配を探り、誰も来ていない事を繰り返し確認したレインは、シャツの背中側に手を入れて、ある物を取り出

した。

 背中にテープでくっつけて持ち込んだそれは、金属切断用のこぎり。黄色いプラスチックのグリップに黒いラバーの滑り止

めがついた物で、取り立てて珍しい物ではない。

 幼女が売られる事を阻止するために自分ができそうな事を考えた末、レインはアリスを連れて逃げる事にした。とにかくこ

こから出して何処かに隠れさせ、その後の事はそれから考えよう、と。
カナデから受け取った金で鋸は買えた。あとは檻から

アリスを出して、どうにかして外へ連れ出せば…。

「んっく…!この…!」

 だが、レインの計画は初動の段階で躓いた。鋸は確かに格子の表面を削っているのだが、刃は鉄に全く食い込んで行かない。

自転車のフレームなどのパイプ材は簡単に切れても、中に空洞が無い頑丈な格子を切断するのは、少女の華奢な手では無理が

あった。

「もう!スパスパ切れんじゃなかったの!?」

 期待したほど簡単ではなくて、予定通りには全く行かなくて、苛立ったレインは鉄格子を踏む格好で脚をかけ、力任せにガ

リガリ削るが、それでも上手く刃が入らない。アリスが心配そうに見守る前で、力み過ぎたレインは引っ張った拍子に後ろに

転げて頭を打つ。

「いったぁっ!」

 思わず声を上げてしまったレインは、ハッと顔色を変えた。取り落としてしまった鋸の音と、自分の声。それが何を呼ぶの

か想像するまでもない。

 慌てて鋸を拾い、口元で人差し指を立てるジェスチャーでアリスに黙っているよう伝えて、少女は身を翻した。

 程なく男達が緊迫の面持ちで駆けつけ、ベッドの上にチョコンと座っているアリスを確認する。

「居るな…」

「まだ攻め込まれた訳じゃない、な?」

 言い交わす男達の顔には恐怖の色と焦慮の汗。

 実はこの時点で、男達が所属している組織はあちこちの傘下グループと連絡が取れなくなっていた。いずれもウルの介入に

よる物である。

「戻るぞ」

 アリスを気味悪がって、さっさと引き返そうとした男は、

「おい、ちょっと待て…」

 同僚に呼び止められ、その指差す先を見て顔を強張らせた。

 格子が削れている事に気付いたふたりは、それが何かがたまたま擦れたとは思えない執拗さで、故意に削られた物だと判断

した。
アリスに逃げられないよう、幼女の周りに置く品には気を配っている。食事を提供する際には、スプーンやフォークな

どの食器も金属製の品を避けるなど徹底して。つまり、牢の中から脱獄を試みた物とは考え難い。

 にわかにビル内が騒がしくなる中、檻から遠い位置まで離れたレインは、鋸を壁を這う配管が纏まっている箇所の裏側へ隠

し、何気ない顔で地下から出た。

(ダメだ!ダメだ!助けるどころかもっと悪くなった!)

 失敗を悔やみ、焦り、レインは必死になって思考を巡らせる。

 やがて思い浮かんだのは丸い狸の顔。助けてくれそうな相手は、外に思いつかなかった。



「ふあ…」

 ホテルの一室でカーテンを開け、朝の明るさに目を細めながら、カナデは欠伸した口を手で覆う。

 前日の午後が丸々潰れ、遅れを取り戻そうと夜更かししたため、少々寝不足だった。

(シャワーとコーヒーですっきりしようかナ…)

 今日の予定を頭の中で組み替えながら、空模様を確認したカナデは、眼下のホテル前ロータリーを見下ろして眉根を寄せる。

 植え込みに囲まれたロータリーの片隅に、少女がひとりポツンと立っていた。

(レインちゃんだよ?あれ?今日はお昼に約束していたはずだナ?)

 もう案内して貰う場所もあまり無いので、昼食を一緒にしたらブラブラと露店巡りをするつもりだった。そのはずが、レイ

ンは約束よりも三時間も早く来ている。

 ひょっとして予定を伝え間違えただろうかと、手早くシャツを替えて部屋を出たカナデは…。

 

(助けて欲しい…か…)

 数分後、泣き崩れるレインを部屋に入れて、事情を一通り聞いた。

 彼女の元締めが牢に閉じ込めている幼女。それを救い出してやりたいのだとレインはカナデに訴え、悔し涙に頬を濡らす。

 ベッドに座らせたレインと向き合う格好で椅子に座ったまま、カナデは腕を組んだ。

(「アリス」っていう名前がどこの国の物か…、気にしていた理由はこれかナ…)

 身請けにいくらかかるのか判らない。そもそも、そうやって自由にしたところでその後の面倒を見てやる事もできない。レ

インと同じ境遇に置かれるだけ…という末路も有り得る。

 だいたい、その娘ひとり救った所で何も変わらないだろう。似たような境遇の無数の被害者が居て、知る事ができるのも手

を伸ばす事ができるのもほんの一部に過ぎない。

 カナデは腕を解き、ため息を漏らす。

(偽善だよ…)

 判っている。

(偽善者だよ、僕は…)

 判った上で、

「案内してくれるかナ?そこの、責任者みたいなひとと話をしてみるよ」

 カナデはその幼女を、彼女を救いたいと言うレインを、見捨てる事ができなかった。

 おそらくそこには搾取される者達が他にも居る。自分はその中から、たまたま知り合ったレインが助けたいと望んだからと

いう理由で、ひとりだけ連れ出そうとしている。それを見た同じ境遇の者達に「自分も助けて欲しい」と懇願されても、皆を

救う力など無い自分は、応える声もあわせる顔も無い。

 何という勝手。何という傲慢。何という独善。何という不平等。

 だが、それでも…。

(マデ…。もしかしたら僕はまた、正しくない事をしようとしているかもしれないよ…。けれど…)

 「それでもいいんだ」「しないより良かった」。そんな答えが欲しくて、カナデは腹を決めていた。

 安堵して、嬉しくて、なおさら激しく泣き出してしまったレインが落ち着くのを待って、カナデがホテルを出た後…。

「うん?出かけたァ?…もう報告は良いぜェ、監視対象じゃねェからなァ」

 入れ替わりでホテルに入った後で、シャチは部下からの報告に顔を曇らせた。

 もし居たなら少し話でもして、あわよくば何発か発散して…、などと考えていた巨漢は、肩透かしを食らったような気分で、

押さえていた部屋のベッドへ身を横たえる。高度な改造を施されているシャチの肉体は、ウルと同様、くつろいだ姿勢を取ら

ずとも充分に休息できる。シャチが寝床を好むのは、単に気分と好みの問題に過ぎない。

(あァ、せっかくだから帰って来たら連絡寄越せって言っておけば良かったかァ…)

 監視を続行させてもよかったなと少し悔やんだシャチは、流石に考えてもいなかった。

 黄昏の監視から開放されたカナデが向かった先に、自分とウルの「目当て」が纏まっているなどとは…。



 見た目はただの雑居ビル。ただし地下通路で複数の建造物が繋げられている。

 そんなレインの説明を聞いた上で、カナデはそこを訪ねた。正面から堂々と、である。

「身請けは…、まぁ、構いませんが…」

 売春斡旋業者のオフィス隣室、「客」を迎えるためにそれなりの調度が揃えられた応接間で、ソファーに尻を沈めた大柄な

異邦人を、マネージャーは怪訝な顔で見つめた。

 マネージャーはカナデの横に目を向ける。そこには、揃えた足の上に拳を握った手を乗せ、俯きがちで硬くなっているレイ

ンの姿。

「断る理由もございませんしね。しかしミスター?」

 男は言う。他にも沢山居るので、見比べて選んで貰っても良いのだが、と。

 昨夜は組織子飼いのいくつかの班が物騒な襲撃に遭ったので、マネージャーも当初はカナデを警戒していた。

 しかし、名乗られたままネットで検索してみれば、本当に日本人のフリージャーナリストで、名前も顔も出て来る真っ当な

旅行者だった。

 今では、頭の中ではカナデが提示した金額から、何処までなら値上げできるか計算しており、このみすぼらしい小娘よりも、

もう少し見栄えのいい娘を選ばせて吹っかけてみようかなどと考えている。

「いいや、この娘が良いんだよ」

 カナデはデレデレに緩んだ顔で、傍らのレインの肩に腕を回した。

「すっかり気に入っちゃってネ。これっきりなんて勿体無い、国へ連れて帰りたいんだよ」

 見た目は完全に色ボケした旅行者を装っているカナデ。その態度に不自然な点は無く、「そういう外国人」を多数見てきた

マネージャーにとって、少女を金で買いたいという欲は見慣れた物。その演技の説得力は交渉に充分だった。

「それで、できればもうひとり身請けしたいんだよ。どうにもこの子、仲の良い友達が居るらしくてネ。一緒に行きたいって

泣き付かれちゃったんだよ。こっちとしてもふたりで交互に、飽きさせないで相手をして貰えるなら嬉しいしネ。ま、金額次

第だけどナ」

 おっとこれは予想外の上客かもしれないぞと、マネージャーは愛想笑いを深める。

「それじゃあレイン、このお兄さんにお友達の事もお願いしてみるよ。名前はネ…」

 少し身を乗り出したマネージャーは、カナデが口にした名前を聞き…。

 

「ここが待合室なんだよ?」

 通された殺風景な部屋で、カナデは能天気に訊ねる。内心では、ああ失敗したな、と零しながら。

「え?どういう事だよ?」

 振り向いたカナデの眼前には、光りを照り返さない漆黒の拳銃が二丁。

 マネージャーの前に立った屈強な男二名に銃を向けられ、カナデは両手を上げる。戸惑った表情を作って浮かべ、傍らで驚

きと恐怖に固まっているレインを横目で確認しながら、狸は悟った。

 どうやら自分達は、何かとんでもないミスをしたらしい、と。

「何故あの娘を求める?」

「え?え?何かまずいんだよ?」

「レイン、お前なにを知っている?」

「………!?」

 マネージャーの問いに、カナデは勿論レインも答えられない。ただ、自分達が思っていたよりもアリスが重要な誰かだった

という事は察した。

「…上に指示を仰ぐ。縛り上げて閉じ込めておけ」

 マネージャーの指示に従い、男達はカナデとレインを縄で縛り上げた。ボディチエッゥされてポケットの中身を全て奪われ、

腕を背中側に回され、足首も縛られた状態になり、ふたりは部屋に残される。

 ドアに鍵がかけられる音を聞きながら、無抵抗で大人しく縛られたカナデは、泣き出してしまったレインを見遣った。

「ゴメン!ゴメンなさいカナデ!何だか判らないの!でもわたしが悪いんだたぶん!」

「謝らなくていいよ。僕も何が何だかサッパリだからネ…」

 おそらく、レインも知らない複雑な事情が、アリスという幼女にはあった。ふたりとも知らずに地雷原へ突っ込んでしまっ

ただけで、誰が悪いだの言っても仕方ないのだと、カナデは縛られたまま首を縮める。そして、転がった状態から「よっこい

…しょっ!」と反動をつけ、起き上がり小法師のようにコミカルに身を起こして胡座をかく。

「もしかしたら、その娘は特別な理由があったのかもしれないネ」

 尻でずりずり移動し、膝を使ってレインの体をうつ伏せから起こさせてやりながら、カナデはいくつかの可能性を挙げた。

富豪の娘で、莫大な身代金をかけられていた…。あるいは要人の家族で、脅迫材料として囚われていた…。などなど。

「どっちにしろ知らなかったんだからレインのせいじゃないよ」

 そう慰めながら、カナデは意識していた。この会話もおそらく聞かれているはずだ、と。

 

「何なんだあの男は!?」

 盗聴した音声でやりとりを聞きながら、マネージャーは混乱する。

 タイミングも求めた物も怪しい事この上ないが、話している内容からすれば、本当にアリスの正体を知らないらしいと察せ

られた。
とはいえ、ここまで手荒に出てしまったら「勘違いでした」で済ませるのも難しい。性急過ぎたと悔やむも、時既に

遅しである。

(素人だという事は判った…。上の指示待ちだが、始末は簡単だ…)

 組織本部も今は昨夜の襲撃による被害状況の確認で忙しいが、アリスの件は無視できない。必ず様子を確認しに来るので、

その時に異邦人を引き渡してもいい。

(健康的とは言えない体型だが、ま、使える内臓はあるだろう)

 処分待ち。そう頭の中で分類したマネージャーは、カナデとレインの件を保留にし…。

 

(…そろそろ19時ってところだよ?)

 壁に背を預けてあぐらをかき、目を閉じていたカナデは、薄目を開けて窓の外を確認する。

「…レイン。黙って聞くんだよ?」

 口元を殆ど動かさず、カナデは自分に寄りかかっている少女にボソボソと話しかけた。

「これから逃げるよ」

 カナデの腕と胴から縄がスルリと落ちる。

「急がなきゃいけないから」

 驚いたレインが顔中疑問符だらけにしている前で、狸は自由になった手を足に向かわせ、

「友達の事は一度我慢して欲しいよ」

 縄を切断してレインの背中側をまさぐる。

 カナデの右手には金属の光があった。いつも尻尾の付け根に嵌めているリングである。

 男達の簡単なボディチェックでは気付かれなかったが、これは小型の多目的ツール。蝶番付きのリングには半円型の簡易な

鋸刃やカッター、ピッキングツールにもなる針金が収納されており、展開すればロープや紐を切断できる。流石にワイヤーな

どを切るのは難しいが、持ち運びし易く隠密性も高いので重宝する。

 自らの拘束を解いた上でレインを開放するまで僅か十秒足らず。実は、カナデはいつでも脱出できた。それでもここまで粘っ

たのは、逃げる手段が無いと相手に思い込ませて油断を誘い、巡って来た好機を確実にモノにするため。

 見張りのサイクルも把握し、窓明かりの変化から方角も時刻も確認してある。カナデはロープを集めて腰に巻き付け、レイ

ンの手を引いて素早くドアに寄ると、ドアに耳を当てて気配を窺いつつ、ノブの鍵穴にピッキングツールを差し込む。

「カナデ…」

 何か言いたそうなレインの顔と声で、カナデは少女の心残りを察する。だが、今はまず自分達の命が最優先だった。

「死なない以上の勝ちはないよ。…受け売りだけどネ」

 カナデはレインにそう告げてウインクする。「生きてる限りチャンスはあるよ」と。

 鍵はあっさり開き、ドアを押し開けたカナデはレインの手を引いて素早く廊下を見渡し、あるドアに目を止めた。

 把握した定時巡回までだいたい十分。このまま逃げても良いが、ここで一つ欲張りたい…つまり、荷物を取り戻したい。

 拘束された後、部屋を出た男達が近くで別のドアを開閉させた音と、合間に聞こえたロッカーの戸が乱暴に閉められる音を、

カナデはしっかり聞いていた。

 カナデは耳が良い。聴力そのものは平均的な狸獣人のそれと変わらないが、音を拾い分け、注意を凝らし、差を聞き分ける。

 カナデが有する潜入、隠密、そして警戒などの技能や心構えは、最大手パトロンから支援を得る交換条件として弟子入りさ

せられた、護身術の師から叩き込まれた物。シャチや部下達が「その筋のもの」と錯覚しそうになる身のこなしや歩調なども、

この師匠譲りの護身術の影響である。

(たぶんこの部屋だナ)

 ドアに耳を押し当てて向こう側の気配を探り、そっと引き開けて隙間から中を窺ったカナデは、無人である事を確認した上

で室内に踏み込み、灯りをつけずにロッカーを素早く検めてゆく。

 レインは驚いていた。いかにも鈍そうでのろまそうな肥った大男は、機敏に素早く、冷静に的確に行動している。

(あったよ!)

 取り上げられたカード入りの財布やパスポート、携帯やカメラを見つけて手早く回収したカナデは、ここの「錬度」の低さ

に感謝した。離れた場所に仕舞い込まれたらお手上げだった。監禁部屋からすぐの所に保管されていたのは有り難い。

 レインが没収されていた金銭も取り戻し、カナデは少女にそれを返そうとして…。

「しっ…!」

 口元で指を立て、ドアを閉めて息を殺し、廊下の気配を窺う。

(見回りのサイクルが崩れたよ。このタイミングかぁ…)

 何かあったのかと聞き耳を立てるカナデは、マネージャーの声と、それとは別の声を確認した。

「…随分高い階に監禁したんですね?まあ、五階なら飛び降りて逃げようとは思わないか」

「ええ。もっとも窓は鉄格子つきですが…。そうだったな?」

「それはもう!」

 同意するマネージャーの声の前に聞こえたふたりの男の声の内、片方…オーナーの声はカナデの記憶に無い物だったが…。

(もうひとりの声、何処かで…)

 狸は半眼になって記憶を探る。嫌な予感が背中の毛をサワサワと逆撫でしていた。

「ところでハンフリー先生、例の娘ですが、いつ移しますか?」

「明日には引き取ろう。昨夜は何やらきな臭い騒動があったようじゃないか、今夜は様子を見たいが、あまり後回しにもした

くないね」

(しまった!)

 カナデは目を剥いた。

(エルモア・ハンフリー議員…!演説の映像で聞いた声だよ!)

 カナデは第三の人物の声と会話内容から、その正体がこの国の政治家である事に気付いた。そして察する。これは政府絡み

か、国家レベルのスキャンダルに相当する地雷案件だったのだと。

(あっちゃ~…!今回のは師匠にどやされちゃう迂闊さだナ!)

 カナデはレインに声を出さないようジェスチャーで告げると、その手を引いて身を翻し…。

「…居ない!?」

 マネージャーが上げた声が廊下に響いた。

 ダッと駆け出した護衛の片方が窓を確認する。もう一方は取り上げた品を保管した部屋へ駆け寄り、銃を構えたままドアを

引きあけた。

 灯りのついていない部屋でカーテンが揺れている。駆け寄って引き開けると窓が開いていた。

「ここから!?」

 下を覗けば細い路地裏。向かいのビルとの隙間と言い替えてもいい程の、車も入れない道が夜闇に浸されている。念のため

にロッカーを確認すると、没収したカメラ等は全て無くなっていた。

「ええい!」

 駆け戻った護衛がオーナーとマネージャーに報告する。

「何をしているのだ!くそっ!先生、念のため詰め所でお待ちを…!お前達!護衛を増やせ!」

 オーナーのヒステリックな怒声が響き、足音が慌しく階下に駆け去って…。

(行ったみたいだネ…!)

 顔を上向きにして苦しげにフゥフゥ息をしながら、カナデは耳をピクピクさせていた。男が開けた二つ隣のロッカーの中で。

 体がギリギリ収まる狭いロッカー内、腹を限界まで引っ込めていてもなおミチミチに詰まっている。とても隠れられないだ

ろうと相手が思いそうな場所だからこそ、カナデはここに隠れてやり過ごすという賭けに出た。一応は護身用の品物…目聡く

くすねておいた発煙筒を手に握っていたが、そちらを使うのは下策。出番が無くてホッとしている。

 モソモソとロッカーから這い出して、一つ隣のロッカーに隠れたレインを引っ張り出し、カナデは「逃げるよ!」と少女の

手を引いて駆け出す。一階から普通に逃げるのはもはや不可能と踏んで、この階の端、監禁部屋とは逆側の通りに面した部屋

を目指した。

「確かこっち側って露店通りだったよネ!?」

「え!?た、たぶんそうだと思うけど…!」

 カナデはレインに確認し、無人の部屋…倉庫と思しきダンボールが山積みの部屋に飛び込む。が、運悪く窓は長方形の大型

荷物…梱包された長机数枚に覆われていた。

「もうちょっと片付いてた方が絶対に使いやすいよ!?」

 痛恨のタイムロス。文句を言いながらもせっせとダンボールを除けてスペースを作り、そこへ梱包された机を一つずつ引っ

張り倒し、窓を目指すカナデ。レインも手伝って必死にダンボール箱を引っ張り崩し…。

「カナデ!」

 少女の悲鳴が上がった次の瞬間、「動くな!」と男の声が響いた。

(あっちゃ~!)

 その場で背筋を伸ばし、両手を上げるカナデ。

「まだ隠れていたのか!危ないところだった…!」

 男はカナデに近付くと、肉付きの良い背中にグリッと銃口を突きつける。

「貴様、何者だ?どこの所属だ?」

「だから日本国籍のフリージャーナリストだよ。本当に…」

「嘘をつけ!」

 肩甲骨の間、皮下脂肪にギュッと銃口がめり込む。カナデを助けたいレインも、狸の背中に銃が突きつけられているので下

手に動けない。

「いや、普通に一般人なんだよ?その証拠にほら、ドアの所に置いた身分証明を見れば…」

 カナデの言葉で、男はあまり意識せず視線を動かす。銃を突きつけているという優位性から生じた油断だったが、その優位

性は錯覚に過ぎず…、そもそも銃を「突きつけた」のが間違いだった。

「あ!?」

 レインが声を上げる。カナデの丸っこい図体が素早く動き、突きつけられた拳銃を逆手に握って、一瞬の内に自分から銃口

を逸らしていた。

 カナデの右手にグリップごと掴まれて射線を逸らされた拳銃から乾いた銃声が響き、ダンボールに穴が空き、中の洗剤が飛

沫を散らす。

 背中に接触する形で突きつけられていたおかげで、カナデは目視できなくとも拳銃の位置が把握できた。相手に銃を接触さ

せる事で、背後から銃口を向けるメリットの大半が失われる事を、男は知らなかった。

 カナデは相手の「錬度」の低さにつくづく感謝する。自分に護身術を叩き込んだ師匠などが相手なら、銃でなく刃物でもこ

うは行かないな、と。

 直後、バックハンドで男の手ごと銃のグリップを握って制したカナデは、そのまま反転して左手で男の手首を掴み、捻り上

げながら持ち上げ、無理矢理背伸びさせられる格好になった男の腕を左肩に担ぎ…、

「ぃよいしょぉっ!」

 見事な背負い投げで荷物の山に叩き付けた。

 カナデが師から得た物は、技術や知識、心構えだけではない。

 度胸。白刃を眼前に突きつけられようと、崖から落下寸前の状態だろうと、生存のためにその状況で自分に可能な行動を落

ち着いて選択し、実行できる、肝の太さもまた住み込み修行で鍛えられている。

 刀で斬られようが銃で撃たれようがトラックに撥ねられようが、怪我をするのも死ぬのも同じ。歩道を歩きながら常に車道

の車に恐怖を抱いたりはしないように、警戒心と危機感は失わず、しかし過度に恐れず、その時に可能な対処方法を模索し、

実行する…。そんな極論が師の教えである。

「っぷう!玄人でなくて助かったよ…!」

 完全に伸びている男から自分の指紋がついてしまった拳銃を取り上げ、安全装置をかけた上でベルトに挟んだカナデは、レ

インに目を向けて手招きした。

「急ぐよ!今の音で応援が来ちゃうからネ!」

 急かされたレインは頷きながら、驚きの目で狸を見つめる。

(カナデって…、カナデって…!もしかしてすごいひと!?)