路傍の少女と檻の幼女(五)

 シャチ・ウェイブスナッチャーは兵器である。

 分類は「獣人型再生兵器」…エインフェリアと呼称されるタイプ。用途は「オールマイティ」…潜入工作から複数個大隊規

模相手の戦闘行為、都市レベルを対象とする殲滅及び破壊行為にまで幅広く対応する。性能評価ランクはトリプルS…八段階

の評定基準で最上位となっている。

 単独での戦闘力と殲滅力、そして街や国を殺せる能力を備えた戦略兵器…、それが兵器としての開発コンセプト。これは、

運良く手に入った最高の「素材」を元に、その持ち味を最大限に活かそうとすれば、当然の帰結と言える。

 かくして、ラグナロクが有する複数の研究設備の中でも最高レベルの人材と機材とノウハウを持つ、「特別製の兵器」をほ

ぼ専門に手掛ける研究所…グニパヘリルで、最高のスタッフが万全の設備を駆使し、総力をあげてシャチを造り上げた。

 シャチは期待通りの性能を有して起動した。人類の領域から逸脱した身体機能を備え、破格の能力を授かって。

 しかし、そんな彼にはたった一つだけ完成予想にそぐわない所があった。

 心が、壊れていたのである。

 起動直後、シャチはその場に居合わせたスタッフを数名、即座に殺した。能力と腕力で、事故に備えて強固に造られている

起動ルームが原形を留めぬほどの破壊を行なった。

 部屋を破壊して外へ出たところで、万が一のために起動に立ち合った幹部直属のエージェント…灰色の巨馬に取り押さえら

れ、緊急停止装置により脳に仕込まれたチップを焼かれ、機能停止したシャチは、それから二ヶ月の間、廃棄待ちの失敗作と

して厳重に保管された。

 そして、今は…。



 未成年の売春が横行し、無許可営業の露店が軒を連ねる界隈の一角。

 そこには、小さな事務所に偽装された非合法組織構成員の詰め所があった。

「来るぞ!応援はどうなっている!?」

「連絡がつかん!」

 スチールデスクを倒してドアに押しつけ、バリケードを作りながら三人男達が言い合う。戦闘訓練を受け、銃で武装してい

る男達が、脂汗まみれの顔を緊張で強張らせていた。地下の倉庫に立て篭もりながら。

「通信装置がやられたのか!?」

「違う!角の詰め所も、上の階も、応答しない!」

 ギィ…。

「何だと!?まさか…」

 …ィィィ…。

「…シッ…!何の音だ?」

 ィィィィィンッ。

 男達が音の出所に気付く。金属を裁断するときのような音は、ドアから聞こえていた。そして、ボッとドアとスチールデス

クを貫き、太い腕が姿をあらわす。

「!?」

 腕が引っ込むと、ロックをキーシリンダーごと抉られたドアが蹴り開けられ、その勢いで吹き飛んだスチールデスクが男の

ひとりに命中した。

 直後、ドアを蹴り開けた巨体が部屋に踊りこみ、スチールデスクに足を押し当て、そのまま部屋奥の壁まで突っ込み…。

 ブヂャッ…。

 スチールデスクと壁に挟まれた男は、プレス機に巻き込まれた鉄くずのように上半身を潰されて絶命する。断末魔すら無く。

「お、三人も居たかァ。グフフフ…」

 飛び散った鮮血が赤く染めた壁を背に、都市迷彩装備に身を包んだ鯱の巨漢が振り返る。しかし、武器は帯びていない。拳

銃も、警棒も、ナイフも、手榴弾も、一切身に着けていない。

 にも関わらず、ショットガンと拳銃で武装した男達を前に、シャチののんびりした口調と不穏な含み笑いは変わらない。

 シャチの腕の周囲には、キラキラと輝く何かが纏わり付いて、熱帯魚のようにゆっくりと回遊している。それは、圧縮され

て高質化した水…、冷却ではなく加圧によって生成された「氷」である。ドアを抉り抜いたのはコレ。鯱の背びれのような形

状に作られた氷が腕を中心に高速回転し、ドリルのように鉄板を穿っていた。

「死ねぇっ!」

 悲鳴が上がる。殺意ではなく脅えが引き金を引かせる。ショットガンの銃口から広がった散弾が、シャチの全身に…当たら

ない。

 棒立ちの巨漢の前には、いつの間にか透明度の高い水のスクリーンが展開されていた。それは鉛玉と接触した部分が衝撃に

反応するように硬化し、内側に包み込み、全ての銃弾をあっさり止める。

 無造作に、巨漢は腕を水平に薙ぐ。指揮するようなその挙動に反応したのは、壁際にあった配管。

「え"っ…」

 物が喉に詰まったような声を漏らす男。それもそのはず、実際に詰まっていた。配管を突き破って飛び出した透明で鋭利な

凶器…氷柱が。

 これが、シャチ・ウェイブスナッチャーの能力。

 能力の類型は「支配」。特定の条件を満たす現象や物質、形質などを支配する能力。

 そしてシャチの能力対象は「水」。条件を満たし支配下に置いた「水」を自在に使役できる。流体のまま操る事は勿論、圧

縮する事で分子配列の異なる様々な「氷」を作り出して使役する事も、水蒸気の状態で操る事も可能。

 その射程はほぼ「視認範囲」。肉眼ではっきりと目視できる距離…シャチの場合遮蔽物の無い直線900メートル程度であれ

ば、自分の手足と同様の精度で自在に操作できる。目視できない距離や遮蔽物の向こうでは自在に操る事は難しいが、その場

合でも感覚で大雑把に操作する事は可能。視覚を補助する装置などを用い、視線も確保し、ターゲットの位置が把握できてい

る状況を作っての実験では、
11,500メートル向こうのグラス内に波紋を生じさせている。

 ただし、彼の能力には「支配できるのは他者の支配下にない水」という制約がある。能力の基本原則の一つともされる説…

「個人の体内は固有支配領域である」という仮説通り、シャチは「個に内包された水分」に干渉する事ができない。例えそれ

が動物であろうと植物であろうと、内部にある水分は支配対象外となる。また、他の能力者が支配している水も、そのコント

ロール…占有権が失われない限り支配対象外となる。

 とはいえ、その制約を差し引いても汎用性、応用力、効果範囲、揃って破格であるこの能力の名は「アクアヴィタエ」。好

きな飲み物の語源を取って「生命の水」と名付ける皮肉に、この男の性分が見え隠れする。

 首を水平に貫通され、倒れる事も許されず、白目を剥いて血泡を吐きながらビクビクと痙攣している同僚の姿に「ひっ!」

と悲鳴を上げかけた男は…。

「ラストワンだァ」

 シャチの声をすぐ傍で聞き、同時に視界が塞がれる。

 男の顔面を鷲掴みにしたまま、シャチは無造作にグリッと手首を捻った。クパキッ…。そんな音を立てて首の骨が折れ、男

は絶命する。

 無造作な手つきで、しかし確実に絶命していることをしっかり確認した上で死体を足元に放り出し、シャチは通信機を取り

出した。

「俺様だァ。B6制圧完了、このままB7に向かうぜェ。どこまで進んだァ?そうか、じゃあそっちは任せるぜェ。張り切っ

て行きなァ、頼りにしてるぜェ、グリスミル。グフフフフ」

 部下に状況を告げ、進捗を問い、手短に通信を終えたシャチは、続けて掃除担当班に連絡を入れて後を任せると、ここから

最も近い組織の所有物件の制圧に移った。

(ストレンジャーめェ、結局帰って来なかったが、この辺りうろついてたりしねェだろうなァ?)



 売春斡旋業者のビル。最上階。

 シャチの予感とも言えない軽口レベルの思考は、本人も与り知らぬ事ではあったが、見事に的中していた。

「飛び降りるの!?ここから!?」

 窓から外を見下ろしたレインは、流石に無茶だと尻込みする。

 20メートル以上は下で、湯気やら煙やら路地に溜まった物でくすんだ空気越しに、滲んだ灯りが浮かんでいるのが見える。

地上五階、地上までの遠さを目にした途端に、眼球のズーム機能が一瞬狂って眩暈に襲われた。

「そうだよ!急がないとまた誰か来ちゃうからネ!」

 応じるカナデは窓枠にロープを結びつけていた。自分達を拘束していたロープを合わせて結び、窓の外へポイッと放り出す。

「じゃ、逃げよう!」

 ロープで降りるのか、と一度は安堵したレインだったが、しかし直後に声を上げた。

「長さ全然足りてないわ!」

 カナデが結んで一本にしたロープは合わせて一階半程度の長さしかないので、窓から垂らしても下端から地上まで相当な距

離が残っている。

「無いより随分マシだよ。行くよ!」

 レインの腰に腕を回して抱き上げたカナデは、そのまま宙に身を躍らせた。もう片方の手は、掌をロープに削り取られない

ように、ダンボールの切れ端をUの字型に折り曲げて保護材代わりに保持している。

 結び目をなるべく多く作ったロープを、ダンボールを簡易緩衝材にした右手で握り、加速を制限しながら滑り落ちるカナデ。

「きゃあぁあぁあぁあぁあっ!」とレインの悲鳴が弾んでいるのは、カナデの手が結び目に差し掛かる度に減速するせい。

 ロープを滑り落ちたカナデは、やがて下端を通過して空中に投げ出されると、レインを抱え込むように抱き締めつつビルの

壁を蹴った。

 耳元で唸る風の中、細めた目が見据えるのは、壁を蹴った反動でずれた落下先…、露店を覆う真っ赤な布製の屋根。

(南無三だよっ!)

 ボフゥッ、と風を孕んだ布の音。客と店主が上げる驚きの声。湯気を立てる肉まんが路地に散らばった。

 大質量の尻が天幕越しに蒸し籠を押し潰し、四方の支柱も引っ張られ、露店は内側に畳まれるように綺麗に倒壊する。

「無事だよ!?」

 目をグルグルさせているレインに声をかけたカナデは、潰れた露店から這い出してきた店主と客の怒声に、ペコリと頭を下

げて詫びた。

「お店ガッタガタにしちゃってごめんなさい!食べ物粗末にしてごめんなさい!あと、片付けできなくてごめんなさい!」

 立て続けに詫びの言葉を並べたカナデは、素早く財布を取り出して、詰め寄った店主に差し出した。札束全て…、この国で

は車が買える額である。

「迷惑料と肉まん全部の買い上げ料だよ!でもゆっくり食べてる暇は無いから…」

 足元に転がる蒸し籠の中に残っていた肉まんを一つ取ると、カナデは店主に会釈する。

「一つだけ頂くネ!無事なのは他のお客さんにご馳走してあげて欲しいよ!」

 言うが早いかパクリと一口齧り、「美味しいネ」と目を細めたカナデは、まだ目を回しているレインに肉まんを一つ持たせ

て抱き上げ、ドテドテと大急ぎで駆け出した。

「ご馳走さん!また来るよ!」

 数分後、ビルから駆け出して回りこんできた男達が、肥った大男と少女はどちらに行ったのかと、殺気立って高圧的に訊ね

たが…。

「あっちに行ったよ」

 店主も客も、デタラメな方向を指し示した。



「ふぅ!ふぅ!ふぅ!」

 肉まんの残りを頬張っって急いで食べ、レインをおぶる形に体勢を変えたカナデは、細い路地をジグザグに縫って逃走した。

 ロープを使った無茶な脱出で腕はガタガタ、露店への落下で足はガクガク、走り通して心臓はバクバクしている。

 体中あちこちから上がる悲鳴と警告信号をあえて無視し、走力が落ちながらも逃げ回るカナデは、しかし追いつかれない。

追っ手は確実に追跡しているのだが、土地勘が無いはずの異邦人を捕らえられない。

 それというのも、入国後にカナデが路地の繋がりと位置関係を頭に叩き込んでおいたせい。半ば習慣になっているが、迷子

防止と「こういう時」のために、カナデは行動範囲近辺の道は網羅して覚えておく。

 振り返る必要は無い。大声で連絡を取り合っている追っ手との距離は見なくとも把握できる。今は曲がり角などでチラチラ

と後姿を見られるだけに留まっているが…。

(逃げ切れるか追いつかれるか、微妙なところだよ…!)

 ひとりなら確実に逃げ切れるが、今はレインをおぶっている。なかなか厳しいところである。

(先に体力が尽きるかもナ!)

 殺気立って追ってくる男達は予想以上に執拗で諦めが悪い。これは撒くのを諦め、隠れてやり過ごす方向で行くべだろうと、

カナデは方針を変更し…。

(ん?あの建物…)

 路地の隙間からチラリと見えた、向こうの通りの事務所に、カナデは注意を向ける。

(灯りが消えてるよ?何の事務所だったかナ…)

 グルリと追っ手を振り回すように迂回して逃げたカナデは、ガラス張りの室内が真っ暗になっている事務所の、脇の外付け

階段へと駆け込んだ。

 もし気付かれて追って来られても、屋上から隣のビルにお邪魔してやり過ごすつもりである。

 すぐ隣から電光看板が光を投げかける屋上へと、息を切らせて駆け上ったカナデは…。



(ふ~ん…。装備から言って、ここは違う組織かァ?)

 屋上の一角、派手なネオンが湿度のせいで鋭い棘を四方に伸ばしたその陰で、シャチはぐったりしている男の首を掴んで宙

吊りにしながら、その装備品を確かめていた。
防弾ジャケットを身に着けているが、その胴体は穴だらけになっており、ボタ

ボタと落ちた血が床の赤い水溜りを広げている。

 こちらはやや構成員の対応が良かった。敵わないと察するまでが比較的早く、足止めしつつひとりを連絡のために逃がそう

とした判断も良い。もっとも、仕事時間はたいして変わらず、逃がされた男もこの通り仕留められ、先の詰め所と同様に屋内

の構成員も皆殺しにされているが。

(おっと、生き残りかァ?)

 男の死体を放り出し、シャチは外付けの階段を睨んだ。取りこぼしてはいなかったはずだが、もしそうだとしたら、自分の

感覚で捉えられない程の隠密技能を備えた相手という事になる。

(さァて、一体どんなやろ…ォ…?)

 屋上に上がって来た男の、看板の派手な光に照らされた大柄で丸い体躯を目にしたシャチは、

(……………ん???)

 一瞬、自分が認識機能に何らかの攻撃を受けているのかと疑った。

 カナデは逆光に目を細めながらも人影に気付き、「怪しい者じゃないよ!」と片手を上げる。両手を上げていないのは、背

中にレインをおぶっているからだった。

「…何してんだァ、ストレンジャー?」

「………え?」

 聞き覚えのある声で問われ、カナデの耳がピコンと立った。

「ジョン・ドウ?そっちこそ何して…じゃない!追われてるんだよ!説明は出来ないけどとにかく急いで隠れるよ!連中は拳

銃を持って…」

 カナデの表情が硬くなる。階段を駆け上がって来る足音が背中に届いて。

「ほォ。何しでかしたのかは知らねェが…。まァ任せときなァ」

 シャチはノシノシとカナデの横を通り過ぎる。その時、狸の鼻が反応した。

 錆び付き朽ち果てた古い手すりが雨に濡れた後に漂う異臭と、さばかれた魚から感じる生臭さ、そして僅かな腐臭…。

 鉄の匂いを強く感じるそれは、深い傷…それも消化器官系に届くような傷を負った者から漂う、「新鮮な深手」の臭い。

「………」

 カナデはじっと目を凝らした。逆光の向こうに横たわる、黒々としたひとの形に見える物を。その背後からタンタンタンッ

と銃声が響いて…、すぐ静かになった。

 屋上から一階下の階段の踊り場。追っ手が不用意に足音を立てながら、無用心に纏まって姿を見せたそこで、折り返す階段

の手すりから身を乗り出して待ち構えたシャチは、それぞれに一発ずつ鉛弾をくれてやった。

 左眼を狙い、眼底を打ち抜き、脳幹を破壊して、あっさりと死体に変える…。強化された視力と、「素材」由来の高い空間

認識能力、そして指先を動かしてもブレが全く生じない機械的な精密動作が可能な腕などがあるので、能力を用いずともシャ

チは自身の身体性能だけでこれだけの芸当ができる。

 手早く済ませて携帯端末を取り出した巨漢は、

「…予定変更だァ。俺様は急用ができたから抜けるぜェ、そっちは予定通りに進めなァ。上手くやれたらちゃんとお頭に報告

するからよォ」

 部下に通信で告げ、たったいま追っ手を殺した銃…先に仕留めた男の死体から失敬した拳銃をベルトに挿す。一応それらし

い殺し方をしなければカナデへの言い訳が難しくなるので、シャチ個人としては面倒な手段…能力を使わない殺害方法をあえ

て取った。

「片付いたぜェ」

 屋上に戻ったシャチは、レインを降ろして背後に庇うカナデを見遣り、軽く肩を竦めた。

(こりゃァ大したモンだァ)

 心底感心していた。この状況でまだ少女を庇う胆力。そして、出くわした自分を警戒しながらも、過度に脅えたりパニック

になったりもせず、冷静に見極めようとしている事に。

 シャチは気付いている。カナデの腰にある拳銃の存在に。それをこの状況で自分に向けて来ないのは、冷静さを保っている

何よりの証拠と思えた。

「ずらかるぜェ、信じられるなら付いて来なァ。少なくとも、オメェもその娘も俺様の仕事対象外だァ」

 シャチは踵を返して階段を降り始めながら通信機を取り出し、あえて狸の前で掃除班に連絡を入れた。

 頭が悪くなければ想像するはずだと、カナデに期待しながら。



「それはまあ、部屋はあるって言ったけどねぇ…」

 化粧の濃い女性はこめかみを押さえ、傍らに立つシャチを見上げた。かなり怒っている様子で、目尻が吊りあがっている。

「ウチが何なのか判ってるよねお客さん?どういうつもり?」

 シャチは「まァまァ」と悪びれた様子もなく女性を宥めた。

 部屋を貸してくれ、と街角でシャチが頼んだのは、先日「春」を「買った」相手…カナデも一度誘われた娼婦である。

 勿論、客が入るのは喜ばしい事。だが、OKした数分後にシャチが娼婦宿に連れて来たふたり…その一方を見て、娼婦は怒

り出していた。

「こんなトコに子供を連れて来るなんて!」

「お~…、そんなセリフは予想もしてなかったぜェ。娼婦ってのは意外と良識あるんだなァ?」

「喧嘩売ってんの!?」

 レインを庇うように立つカナデは、少なからずホッとしていた。

 少女をここへ連れて来た事に怒る…。そんな人物が居る店ならば、レインを買っていた斡旋業者とは別系列である事は間違

いない。それに、その事を怒れる娼婦個人も、ひととしてしっかりしていると感じた。

「ワケアリでなァ、ここしかアテがねェんだ。この娘を助けると思って頼むぜェ?部屋から出さねェからよォ」

「当たり前だってば!ああもう…!

 髪をグシャグシャと掻き乱した娼婦は、つっけんどんに空き部屋へ案内した。

「…しかしまァ、正解だったと言っとくぜェ?よく俺様を信用する気になったなァ?」

 派手な内装の客室で、悪趣味に光る椅子を引き、シャチは首を巡らせる。

「追ってる側もまっとうじゃなかったしネ。これ以上悪い相手には当たらないと思ったよ。何より…」

 シャチを警戒しているレインを後ろに庇いながら、カナデは言った。

「軍人だったんだネ?」

 シャチの期待した通りの言葉が、カナデの口から漏れた。

 部下に後処理を託す通話を聞けば、何らかの組織か機関に所属しているそれなりの身分の者だと、多少頭が良ければ推察す

るはず…。シャチはそう考えて、あえてカナデの前で「掃除」の命令を出していた。

「ノーコメントだァ。…が、一応マメ知識な?この国には今現在、他所のどこの国の軍も軍事力提供もしてねェし派兵だって

してねェ事になってる。表向きは。判ったなァ?」

「親切なノーコメントもあった物だネ」

 苦笑いを浮かべたカナデはシャチの素性を「どこかの軍人か軍関係者」と仮定した。実際にはどこの国の軍属でもないシャ

チは、しかし黄昏の軍に属する兵器ではあるので、正解とも不正解とも言い難い。

「忠告しとくぜェ?オメェはあの屋上で何も見てねェし、オメェを追ってきた連中なんてのも居なかった。…って事にしとき

なァ。オメェを追ってた連中もだが、この街…いや、国にはな、触れたらやべェ病巣が根っこを張り巡らせてんだァ。それに、

下手に動き回られちゃこっちの仕事の邪魔にもなる」

「それは…、活動家達が指摘してた、ここの政府の不透明な資産運用や、得体の知れない団体との繋がりとも関係が…。いや、

やっぱり訊かない事にするよ」

 一瞬興味を覗かせたカナデだったが、思い直して問いを引っ込めた。極秘任務中だったらしいシャチに今それを訊ねて困ら

せるのは礼を失する行為だし、例え聞き出したとしても、情報を公開した際に話の出所として名を出しては不利益を被らせる。

それはカナデの望むところではない。

「しかしまァ、オメェの状況だが…」

 シャチはカナデの話を聞こうとし、一度口を閉ざす。カナデがその様子を察して緊張を強めた数秒後、部屋がノックされた。

「隣の部屋片付いたよ!まったく!その娘だけでもそっちに移して!教育に悪過ぎるよ!」

 先ほどの娼婦がシャチへ怒りながら言って、レインには笑顔を向けた。

「お腹すいてないかい?まかないで悪いけどちょっとした物ならあるから、隣の部屋で食べないかい?ヨーグルトと、フルー

ツが入ったゼリーもあるよ」

「…カナデ?」

 レインが戸惑いながら顔を見上げると、狸はこくりと頷いた。

「ご馳走になった方がいいよ。お腹ペコペコだろうし…。僕も後で行くからネ。この後どうするかはそれから相談しよう」

 そうして娼婦にレインを一時預けたカナデは、シャチと向き合う格好でベッドに腰掛けた。

「ところで…、この内装、ムラムラ来ねェかァ?グフフフフフ…!」

「そんな事よりまずはお礼だよ。助かったよ、有り難う」

「そんな事より一発が良いがなァ。グフフフ…!」

「一応弁解するけどネ、やましい事をして追われてる訳じゃないよ?」

 シャチのこまめな誘いをスルーして、カナデは状況を説明した。

 レインと知り合った経緯から、彼女の境遇、助けを求められた事、そして売春斡旋業者の事務所を訪ねて、どうやら予想外

にもデリケートな部分に触れてしまったらしく一時拘束されていた事…。

 そこから逃げ出した後でシャチと会ったのだとカナデが話を締め括ると、葉巻を炙って火をつけていたシャチは、何気ない

様子で問う。

「その、助けたいって頼まれた、外国の娘の名前は何てんだァ?」

「「アリス」とレインは言っていたよ。僕は直接見ていないし、何処の国の娘なのかは判らないけれど、見た目は欧米系らし

いネ」

「アリスねェ。何処の国でもありそうな名前だぜェ」

 顔色一つ変えずに、シャチは胸中でシメシメとほくそ笑んだ。

 棚から牡丹餅。予想もしていない所で望んでもいなかった幸運に恵まれた。

(ウルの標的だァ、こいつはついてるぜェ。グフフ!)

 そんな内心を表には全く出さず、シャチはカナデに訊ねた。これからどうする?と。

「それで困ってるんだよネ…」

 逃げ込むにも大使館近辺はまずい。致命傷となる駆け込みを防ぐため、最終防衛線が敷かれるのが常である。ましてや相手

側にこの国の議員が居たのだから、身の潔白を訴えるのは難しい。

「僕の名前も顔も押さえられてるし、嘘とはいえ身請けの交渉であそこを訪ねてるし、どうした物かナぁ、と悩み中だよ」

 と言ってはいるが、どうにかするつもりなのだろう、カナデの顔にも声にも絶望感はない。

「オメェ慣れてんだなァこういうの…」

「慣れたくないんだけどネっ」

 肩を竦めたカナデに、シャチは問う。「何処かで軍事訓練…潜入潜伏の訓練でも受けたのかァ?」と。

「受けたのは護身術の指導とか、気構え、サバイバル技術の手解きぐらいだよ。訓練なんかは特に経験無いナ」

「で、その銃は?」

 カナデがシャツを出して隠している、腰に挟んだ拳銃の膨らみを見てシャチは訊ねた。「自前じゃねェのかァ?」と。

「逃げる途中でやむなく持って来ただけだよ。振り払うときに指紋つけちゃったし、持ち主を気絶させたしネ」

 拳銃を拝借したのは護身のためという理由も一応あるのだが、理由の大半以上は「痕跡を残さないため」である。面倒事の

証拠は残すな。そんな護身術の師の指導を実践した結果だった。

「処分してェなら預かるぜェ?こっちも証拠隠滅する物がタップリあるからなァ」

「それは助かるよ。…でも、迷惑かけたネ…。任務中なんだろうし…」

「お礼は一発で…」

「ちょっとレインの様子を見て来るよ」

 腰を上げるカナデ。口を尖らせるシャチ。

「すぐ戻るよ」

 ドアを開けながら愛想笑いを浮かべた狸は、「俺様もすぐ出るぜェ」と鯱に言われ、ドアを閉じかけていた手を止める。

「ついでだァ、周りの様子も見て来てやるぜェ」

「…それは…、助かるよ」

 耳を伏せたカナデは、

「一発考えておくよ」

 軽く手を振ってドアを閉めると、感謝しながら胸に手を当てる。一方…。

(一般人だァ?確かに普段はそうだろうが、この状況で落ち着いてられる精神性は、完全に異常だぜェ)

 シャチは葉巻をふかしながら、カナデの行動と態度について考えている。

 危機に直面して取り乱すどころか、むしろ冷静に考え、してはならない事や一見救いに見える致命的な落とし穴を見抜いて

いる。大使館へ逃げ込むという線を、相手の素性と経過時間で負けと捉えて諦め、罠に掛かりにゆく愚策を避ける感性などは

その最たる物。何より、異常な状況下で出くわした自分に対して、味方と断じないながらも「利害の関係上積極的に敵対する

理由は無い立場」と捉えて同行する勘と度胸は、流されるだけの者や状況を把握できていない愚か者でなければ、まともな一

般人の枠から逸脱している。

(そりゃァ疑いたくもなるのも頷けるぜェ。どんな指導を受けての護身術だァ?)



「すぐには、ちょっと難しいところだよ。お友達を助けるのは少しだけ待って貰えるかナ?」

 先の部屋とは違って派手な内装が無い、むしろ殺風景に見える板張りの部屋で、カナデはレインと向き合い、説明する。

 ここはどうやら先程の娼婦が急いで片付けた倉庫らしく、壁には小窓が一つだけ。客用ではないのだろうまともなデザイン

の椅子や机は折り畳んで端に寄せられ、簡易寝台に清潔なマットとベッド、洗濯された枕と布団が用意されている。おそらく

出された食事の残り香なのだろう、シチューの良い香りが部屋の中にふんわり漂っている。

 少女への気遣いを感じたカナデは心苦しさを味わっていた。自分が少女の目的を達してやれていれば、こんな状況にはなっ

ていないのに、と…。

「うん…」

 ベッドの上に座り、疲れた表情を見せているレインは素直に頷く。

 年齢通りの普通の少女達とは違う人生を送ってきたリンには、酷く悪い状況なのは把握できている。まさかアリスがこうま

で重要な存在として扱われているとは思っていなかったが、自分達が「ヤバい部分」に触れた事は理解している。

 カナデを責めるどころではない、自分がよく知らないまま、判らないまま、カナデをとんでもない事に巻き込んでしまった

のだと悔いている。

 以前、レイン同じように売春の斡旋を受けていた同僚の少女が、金庫から得意先の名が並んだ顧客名簿を盗んだ事があった。

本人としては、元締めを通さず顧客と直接やりとりして、取り分を汲み上げられずに金を得たいと考えただけだったらしい。

 だがそれは、虎の尾を踏む行為に他ならなかった。

 金持ちは勿論、政治家の名前まで入ったその名簿は、出る所に出たら危険な情報の塊。捕まった少女は、本人への罰と周囲

への見せしめのために、筆舌し難い苦痛を味わわされた。

 まず、手足の指の先から5ミリ程度に刻まれた。そのまま四肢を根元まで削り終わった後は丁寧に皮をはがされた。顔は特

に念入りで、標本のように筋肉組織が剥き出しの状態になるまで綺麗にはがされた。泣き叫んで赦しを求める声が、殺してく

れと懇願する声に変わる様を、レインは同僚達と一緒に最初から最後まで見届けさせられた。

(カナデをあんな目にあわせるのは、嫌だな…)

 自分はいい。正直なところ、幸せな人生も楽しい未来も思い描けない。いつ、どのようにのたれ死ぬか、時々ぼんやり想像

するだけの「自分の未来」…。だからレインは昔から、積極的に死を選ばないだけの諦観の中で生きている。

「今夜は休んでおくんだよ?明日までに何かできる事を考えておくからネ」

「うん…」

 カナデは隣の部屋で寝る事にして、レインを残してドアを開け…。

「あ…。カナデ」

「うん?」

 ドアを閉じ切る直前に、呼ばれてカナデが手を止める。

「あの…。有り難う…。こんな親切にして貰えたの…、初めてで…、嬉しかった…」

 狸の大男は目を細め、「どういたしまして、だよ」と応じる。

「それじゃあ、お休みだよ」

「うん。お休み」

 ドアが閉められる。心地良いほど静かに、労わるように優しく。

「…お休み…」

 繰り返すのは直前の言葉。

 それが、レインという名の少女と、小玉彼出というジャーナリストが、最後に交わした会話となった。

 眠ってしまわないようにベッドの上に座ったまま、レインはアリスが居る地下の間取りと、格子の鍵があるだろう事務所の

位置を頭に描く。

 もうカナデに迷惑はかけられない。危ない事に巻き込めない。

 だから、あとは自分独りでやる。

 レインは既にそう決めていた。



「お?まだ起きてたかァ」

 午前0時。外から戻ったシャチは、部屋の机に頬杖をついて携帯と睨めっこしている狸の姿を見た。

「何とかできる事を探してる最中だよ」

「ふゥん。で、思い浮かんだかァ?」

 何気なく聞き返したシャチがベッドに座り…。

「どうやらあの界隈の地下には埋設ガス管が通ってるらしいネ。開放バルブは4箇所…、「何かあったら」大騒ぎになるよ」

「………」

 カナデの顔を見遣る。シャチ自身もプランの一つに並べた、ガス爆発を装うテロが頭を過ぎった。が…。

「けれどダメだネ。露店の皆さんにも、外の住民にも、被害が出ちゃうよ」

 物騒な案を考え付きながら、巻き込まれる人々の事を考えてボツにする。過激なのか平和なのかよく判らない男だと、シャ

チは眉根を寄せた。

「もう一回潜り込むのがベターかナ?」

「そんな危ねェ真似しねェで、諦めりゃいいんじゃねェかァ?もうひとりの方は」

「そうしたいけど…、状況的にはどん底近くだからネ。毒を喰らわば皿までだよ」

 どうやら諦める気は無いようだと察し、シャチはガサガサと袋を漁った。取り出したのは硬いパンと安物のウイスキーの小

瓶。夜食代わりの差し入れである。

「まァ腹ごしらえしときなァ。俺様も一服するからよォ」

 そう言って葉巻を準備し、シャチはカナデに外の状況について説明した。

 追っ手と思しき連中はそこら中に居た。居場所が判らないので、娼婦まで動員して見つけたら連絡するよう命じてあるらし

い。加えて言うと、ここの娼館を含む界隈はあちらの組織と犬猿の仲らしく、例え協力を求められ、カナデが追われている事

を察したとしても突き出す事は無いだろう、との事。

「短時間でよく調べたネ…」

「背景については前々から調査して判明済みだった分だァ。俺様が今さっきまでやってたのは、今現在の街の状況確認だけで

なァ。グフフ…」

 パンを千切って齧り、咽るような悪酒で流し込み、一息ついた狸に、シャチは「なァ?」と問う。

「必死になって生きてねェ奴に、生きてく資格があるのかねェ?」

「…?何だよ藪から棒に?」

 葉巻をふかしながら、シャチはカーテンを眺めていた。そろそろ情報を渡してやったウルが下準備を終えている頃合い。ま

だカナデを外へ出す訳にはいかない。

「まァ半分独り言だァ。レインって言ったかァ?あの娘はなァ、死にたいとは思っちゃいねェが、「生きたい」とも思っちゃ

いねェぜェ?」

「そんな事…」

 反論しかけ、しかし口を噤むカナデ。最初に会った時にも感じた。少女の目に宿っている、歳不相応な「涸れ」、「疲れ」、

「諦観」を。一緒に歩いて案内して貰う内にその印象は薄れていたのだが、もしかしたらそれは思い込みに過ぎなかったのか

もしれないとも感じる。

 一方、カーテンを…否、まるでその先の「外」を、「世界」を、据わった目で眺めるシャチは、考え込むカナデの様子に気

付きながらも構わず言葉を続けた。

「死にたくねェ。生きていてェ。そんな風に毎日毎日足掻いてる連中や、生まれながらに生きる事を望まれてねェ連中が、必

死になって足掻いてもがいて生きてるこの世界には、間引かれもしねェで惰性で息してるだけの連中も多いわけだが…」

 おひとよしで、おせっかいで、厄介な事に首を突っ込んで、しかし結局は大きなうねりに抗えず、今はこんな状況に陥って

いる…。そんな状態にある事を理解してなお、知り合ったばかりの何処にでも居るような少女と、会った事もない幼女を、ま

だ助けようとしている…。カナデがそんな男だから、シャチは訊いてみたくなった。

「どうしてここまで偏ってんだろうなァ?どうしてここまで歪んでんだろうなァ?どうしてだかアンタには判るかい?ジャー

ナリストさんよォ」

 自分にはどうしようもなく歪に見えているこの世界が、カナデの目にはどう見ているのかを、その口から直接…。

「世界ってのは残酷だァ。俺様には、この世界が未来へ続いてく価値があるとは思えねェ」

 自分には、存続する価値が無く、破壊されて別の物になるべきだと思えているこの世界を、どう思っているのか…。

「………」

 カナデは即答しなかった。できないのではなく、あえてしなかった。

 シャチの言葉と口ぶりから奇妙な印象を受けた。酷く乱暴な持論と意見を述べながら、何処か達観しているような口ぶりで

もある。それでいてシャチの声音には…。

(これは…、「期待」…かナ?)

 非常に判り難いが、歪で無価値で残酷な世界と断ずる一方、どうしてそうなっているのかと問うているような、納得できる

答えを求めているような、乱暴な意見とは裏腹にまだ「こうだ」と決め付けてはいないような響きが、シャチの言葉にはある

ような気がした。

「世界は…。そうだよ、残酷だ」

 しばらく考えた後で、カナデは口を開いた。

「理不尽で不条理で不公平で、何もかも偏って何もかも歪だよ。平和な国がある一方でそうでない国があって、平和に見える

国の中でも貧富や身分や生まれの差があって、決してバランスなんか取れてないし、完璧な平和なんて何処にも無いよ」

 そうか。というようにシャチは軽く瞼を降ろした。が…。

「けれどネ」

 カナデもまた目を閉じて呟く。分厚い胸に分厚い手の平を置いて、そこにある自分の本心に触れながら。

「世界はきっと残酷で、それでも捨てた物じゃない」

 口にされたそれは、祈りに近い願いであり、カナデをこの生き方に呪縛する言葉であり…、「信念」でもあった。

「そうだと思いたくて…、そうであると信じたくて…、僕はたぶん記者を続けてるんだよ」

「………」

 シャチは開いた目を少し大きくして、カナデの顔を見つめていた。

 否定しなかった。世界が歪である事を認めたうえで、理不尽で不条理で不公平で残酷であると述べたうえで、カナデは「そ

れでも捨てた物ではない」と思いたいのだと述べた。

 何も知らない者が、何も見ていない者が、無菌室育ちの口で培養された平和論を語るのであれば論ずるにも値しない。

 だが、シャチは知っている。カナデがこれまで何を見て、何処を歩いて来たのか、その経歴を。

 それでなお、まだこの世界に期待を寄せている…。残酷であると見て知って把握して、それでもまだこの世界を…。

「グフフ…!」

 シャチの正体を知らないカナデは気付いていなかったが、この時彼は、シャチ・ウェイブスナッチャーに…、

「グフフフフフッ!」

 黄昏のエージェントに、小国一つを単身で崩せる戦略兵器に…、

「面白ェヤツだなァ、オメェ…!」

 損得抜きに、心の底から気に入られた。

 これが、罪深き聖者と気高き咎人の腐れ縁…、奇妙な縁で結ばれた歪な友情の始まりであった。