路傍の少女と檻の幼女(六)

 生きていたって別に良い事もない。楽しい事も。

 いつか死ぬまで苦労しながら生きていく。それが「人生」という物に対するレインの印象。

 便所に落ちていた。

 赤子だった自分を売春婦として育てたあの業者からは、そう聞いている。

 誰が産んだのかも判らない、糞小便と変わらぬ価値の棄て子…、それが自分。

 意味を知らないまま身を売り、未熟な身体に穢れた欲情を受け入れ、僅かな金銭を受け取って日々食い繋ぐ。ひもじいのは

辛いから稼ぎ、食い、呼吸をし、眠り、目覚める。その日々の繰り返しが「人生」。

 自分の命に価値はなく、自分の生に幸福はなく、自分が過ごす日々に意味はない。楽しい事も、満たされる事もなく、いつ

か死ぬために生きていただけ。

 そう。人生に価値など無い。

 だからなのか、落ち着いて、改めて、自分がこれからするべき事を考えたら、もう怖くなくなった。

 娼館の裏手、いわゆる御勝手口。

 夜の深みも底に達した時刻を見計らって、部屋を抜け出したレインは闇に紛れる。目指す場所はあの牢屋。鋸が役に立たな

かった以上、事務所に入り込んで牢屋の鍵を手に入れるか、どうにかして連中に鍵を開けさせるぐらいしか考え付かないが、

アイディアはある。

(皆、カナデを捕まえたいはず…)

 足早に夜道を進みながら、レインはキュッと口を引き結んだ。

(「情報」。カナデが教えてくれた事は正しい。「情報」は強い力にも、便利な道具にもなる…)

 算段はついている。カナデの居場所を教えると言い、中に入り込んで、隙を見て鍵を盗むか、言いくるめて鍵を開けさせる。

雑なようでもレイン本人には自信があり、加えて言うなら他に選べる手は無い。

 失敗したらアリスを逃がせなくなるが、恐れるのはその点だけ。自分の安全については気を配るつもりがなくなっている。

 レインは思う。可愛らしくて綺麗な服を着せられたアリスは、もしかしたら自分の理想像なのかもしれないと。こういう女

の子が望ましいというささやかで分不相応な憧れ…。アリスという幼女の姿が、きっと自分にそれまで思い浮かべもしなかっ

た素敵な理想像を見せてくれたのだと…。

 だから、許せないし認められない。綺麗なアリスが、理想の女の子像が、穢れきった男達に汚されるのが嫌だったから、今

もこうして諦めずに居る。

 しばらくして、レインが通い慣れた建物の近くまで移動した、丁度その頃…。



 売春斡旋業者の事務所から程近く。深夜になってひとも居なくなった、清掃業者の物資保管倉庫。

「各自、装備の最終点検」

 色濃い蒼黒と白の被毛を纏ったシベリアンハスキーが、両腰に中世の騎士が用いていたような直剣を帯び、コンバットスー

ツの襟元で顎下までジッパーを引き上げ、低く声を発した。

 そこで働いている者も知らぬまま、シャチの配下は集合し、襲撃準備を整えている。事が済んだ後は何の痕跡も残さず立ち

去るので、倉庫を勝手に利用された業者は気付きもしなければ不利益も被らない。彼らが何処から来て何処へ行ったのか、追

える者は限られている。

 グリスミルが率いるのは十九名の猫獣人。全員がアメリカンショートヘアーの青年で、顔立ちも背格好も模様も全く同じ。

全員が無表情だが、見た目で個体の区別がつかないほど似ているのはそのせいだけではない。彼ら全員が完全に同一の遺伝子

を持つからである。

 複製兵士…いわゆるクローン技術で生産された彼らは、同じ特徴と体質を持つ。どんな身体改造に適応するか、どんなウイ

ルスや薬剤に弱いか、「実物」で研究され尽くしているが故に、様々な身体改造のバリエーションを持つ。特に量産兵士とし

て実戦投入されるのは、彼らのような感情に乏しく瞬発力の強化手術を施された者達。

「点検を完了致しました」

 五秒ほどの間をあけて一名が報告すると、グリスミルは低く頷き、「抜かるなよ?」と一同の顔を見回した。

「前回の出撃では投入された時点で敵側が総崩れだった事もあり、戦果らしい戦果を上げられなかった。今回こそ、我々の働

きを認めて頂けるよう、各々最大限に努力せよ」

 ウルがシャチに指摘したとおり、グリスミルは上昇志向が強い。

 エインフェリアとしては特に手を入れられた個体ではなく、標準製造枠である上に、実戦投入から日が浅いため、組織内で

は比較的軽く扱われる立ち位置にある。製造段階で上級士官扱いの枠に入るよう設計及び計画されていたウルやシャチとは違

い、ロールアウトした時点では一兵士に過ぎなかった。

 何より、グリスミルは自分の「成り立ち」を知らない。「素材」を知らない。寄る辺となる物も後ろ盾となる何かも持たな

いが故に、自身の価値…「性能の証明と存在の評価」に執着する。

「働きの内容によっては我らの待遇もさらに向上するだろう。心してかかれ」

 かくして、掃討戦力は襲撃準備を終えた。

 レインがビルへ入った、少し後の事である。



(さァて、グリスミルめェ、上手くやりおおせろよォ?)

 掃討部隊一番手の指揮を部下に任せたシャチは、まだ娼館の一室に居た。

 指示は通信で達した。「武装はさほどでもない組織だが、逃げ出されるのは面倒なので地上部分から速やかに制圧、沈黙さ

せろ」と。

 あえて地下について優先するよう求めなかったのは、ウルの本命…標的の幼女がそこに居るというレインの話を、カナデ経

由で得たからである。

 上官から言われたように出し抜く事もできる状況にはなっていたのだが、カナデの素性の件ではウルの主人から情報を貰っ

たおかげで早期解決できた。合同で当たっていた任務なのでウル側では貸しを作ったつもりは無いが、シャチからすれば「返

すに値する借り一つ」である。

(何せ、予想外に面白ェ男だったしなァ…。グフフフ…!)

 即決で処分しなくて良かったと、シャチはデスクの狸を見遣る。

 一見するとメモ用紙を机に散らかしているように見えるが、カナデは今、状況を整理しつつ地理を図面に起こし、目にした

建物内の情報を思い出しながら侵入経路を複数定めていた。

(騒ぎでも起きないと厳しいナ…。待てよ?二階部分はどうなっているのか、レインに訊いてみた方が良いネ。もしかしたら

隣のビルとの隙間から這い登って…)

 カナデはまだ諦めていない。自分がおかれた状況がのっぴきならないと把握していながら、手を引くつもりは全く無い。師

匠が知ったら不機嫌になるなと、苦笑いが込み上げた。

「俺様はもう一回外を見てくるぜェ。仕事も定時連絡もあるんでなァ。グフフ」

 ややあって、虚実入り混じる言葉を述べたシャチがベッドから腰を浮かせた。

「どうせ今夜できる事はねェ。朝までゆっくり休んでなァ」

「そうするよ。いざ動くときにヘバってちゃ話にならないからネ」

 応じたカナデが首を巡らせて片手を軽く上げると、シャチは「おうおう、やる気あるじゃねェかァ。グフフフフ!帰ったら

お相手頼むぜェ!」と軽口を叩きつつ部屋を出てゆく。

(その体力が惜しいんだけどネ…)

 借りができたし、床の相手ぐらいならまた応じようかと口の端を緩めたカナデは、それからもしばらくメモと睨めっこし、

作戦を立てて…。

(…流石に一度休むべきかな…)

 時刻を確認し、椅子の背もたれから文句を言うような軋みを上げられながら、体重を預けて大きく背伸びする。

 明日、レインが起きたら作戦を選ぼう。そう決めた大狸は立ち上がると、隣の部屋へ様子を見にゆく。不安で眠れないよう

なら何か物語でも聞かせて落ち着かせてやろう。そんな事を考えながら、静かにドアを開けて部屋を覗いたカナデは、

(…良かった。ちゃんと眠れたみたいだネ)

 薄明かりの中、ベッドの上で膨らんだ布団を確認して目尻を下げる。しかし…。

「…………!?」

 二秒ほどで気付き、大股に近付いて見下ろした。枕をかけ布団の中に入れて膨らまされた、もぬけの空のベッドを。

「しまった!」

 布団をはがしてシーツに手を当てるも、そこに温もりは一切無い。ベッドサイドの椅子も冷たくなっており、今しがた出て

行った訳ではないと即座に察せられた。

(なんてマヌケだよ!)

 ひとりで出てゆくという線を考えなかった自分に腹を立てながら、身を翻したカナデの耳に、サイレンの音が不吉に届く。

 この時点で、既に何もかも終わっていた。



 時刻は少し遡る。

 レインは売春斡旋業者事務所の、応接セットに座らされていた。

「…あの狸が?」

 険しい顔のマネージャーが唸る。

 硬い表情のレインは、自分を取り囲む七名の男達と、オーナー、マネージャー、そして自分の真向かいに座っている政治家

…エルモアの様子を窺っていた。

「何処で嗅ぎつけたかは知りようもない…訳ではありませんね。内通者の洗い出しをしていただければ幸いです、オーナー」

「はい!それはもう!」

 エルモアに囁くような声で促されたオーナーは、顔を真っ赤にしていた。

 レインは、助けを求める風を装ってここへ駆け込んだ。

 自分を身請けしたいと相談に来たあの男は、本当は最初からアリスを探していた。ここから逃げたあの後で別の政治家のよ

うな男と会っていたが、その政治家のような男がアリスを欲しがっていたようだった。

 アリスを助けたいと言うからあの記者を手伝ったが、何だか嘘のように思えてきたし、怖くなったから逃げてきた。そう、

レインは自分の状況について説明している。

 要領を得ない、断片的なその話は、でっちあげではあっても男達の警戒心を煽り、興味を引くに充分だった。

「その政治家は、こんな顔だったかな?」

 エルモアは携帯をレインに見せ、政敵の顔写真を次から次にモニターへ出す。勿論存在しない政治家なので正解は無いのだ

が、少女は「このひとだった気もする…」と、顔を覚えていた軍関係者やベテラン政治家数名に反応してみせた。共通点は恰

幅の良さだけ。下手に口を動かせばボロが出ると本能的に察していたので、余計な事は言わずに曖昧な部分を努めて残す。

「…あまり良い状況ではありませんね。元々密かに国外の組織とパイプを持っていたとすれば、私の動きが不都合になる…。

ここ最近の騒ぎは、もしかすると…」

 考え込むエルモアは、レインが発した「あ」という声に反応した。

「そのひとが、肩に番号があるって言ってた。アリスの肩に番号が書いてあるの?」

「!?」

 エルモアが眉を上げる。以前彼女を所持していた組織が管理のために番号を刺青などで入れている可能性はあった。が、そ

うだとしたら、目立つ位置にそういった物があるのは好ましくない。

「彼女の肩にはそんな番号が?」

 エルモアに問われたオーナーは口ごもった。正直なところ気味が悪いので、あの幼女にはなるべく触れないようにしていた

ため、身体検査はろくにおこなっていない。

「確認しておくべきでしょうね。安全確認も含めて」

 エルモアはレインに目を向け、微笑んだ。

「お嬢さん…。私はあの子を幸せにしてあげたい」

 身を乗り出し、政治家は少女の目を真っ直ぐに見つめる。

「君はあの子と友達になっていたんだね?だったら安心して欲しい。あの子はちゃんと幸せになれる。彼女を守るためにここ

に隠して貰っていただけで、何処かへ売られる訳でも、酷い目に遭う訳でもないんだよ」

 ああ、この言葉を信じられたらどんなに良かっただろう?人気のある若手政治家の顔を見ながら、レインはそう考え、そし

て察知していた。

「彼女も一人きりでは寂しいだろうし、もし君が良ければ、彼女の居場所を移す時に一緒について来てくれてもいい」

 嘘だ。この男の表情も言葉も、全て嘘だと。その政治家の口からは、抱くだけ抱いて金を払わず姿をくらます外国人旅行客

と同じ匂いがしていた。

「そこで、友達の君にお願いしたい。少し手伝って貰えるかな?彼女も恥かしいだろうし、酷い刺青をされていないか見てあ

げて欲しいんだ」

 この時点で、男達もエルモアも、レインの策に嵌った事に気付いていなかった。

 子供と思って侮った。学校にも行かなかった学のない小娘と思い込んだ。だから要領の悪い話だと感じながらも内容を鵜呑

みにした。嘘をつく頭も無いだろう、と…。

「消せるの?その、いれずみ?」

 素朴な問いを発する少女に、エルモアは微笑みながら頷きかけた。


 数分後、地下の格子を挟んでレインはアリスの顔を見つめた。

「開けるから、中に入って肩を見せて貰ってくれないかな?」

 エルモアに促され、レインは鍵を開けられた牢屋の内側に入る。そして、状況が飲み込めていないアリスに、言葉が通じな

いと知りながらも話しかけた。

「大丈夫」

 頷きかける。

「大丈夫だから、アリス」

 男達からは見えないレインの表情と、その優しい声音に、幼女は戸惑いながらも…。

「………」

 アリスは深く頷いた。この異国で、囚われの身の上で、信じるに値するのは自分を気にしてくれるこの少女だけだったから。

 レインは覚悟を決める。鍵を盗む事はできなかったが、こうしてアリスと直に接触できたなら手はある。

 ポケットにはフォーク。娼館で出された食事についてきた物。

(アリスを人質にするふりをして、ここから出られれば…!)

 だが、ここに来てレインの望む通りに事は運ばなくなった。

 ズン…。

 そんな縦揺れの振動が、襲撃の始まりを告げた。

 地震…にしては妙だった。揺れは一瞬で、地鳴りは短く、それはどちらかと言えば何かがぶつかったり爆発したりした時の

衝撃の振動にも似ていて…。

「…何だ?」

 オーナーが振り返り、問われたマネージャーが事務室へ内線を入れる。

「おい。今の地鳴りは…」

 問う途中で、オーナーは顔を顰めた。応答した男が酷い声を発したので。

 ゲップとも嗚咽ともつかない、呻きとも唸りともつかない、鼓膜にへばりつくようなその声は…。

「ふん。遅い」

 腕を引きながら鼻を鳴らしたのはグリスミル。

 その視線は、電話を握ったまま首を水平に貫かれた男の、何が起きたか判っていない顔に据えられている。

 ハスキーが突き出した直剣は一突きで男を絶命させているが、事務所に居合わせた他の男達は事態を飲み込めず、呆然とそ

の乱入者と滴る血の滝を見つめている。

 短い振動に天井を見上げたその瞬間の出来事だった。正面口から風のように侵入したグリスミルは、真っ直ぐに事務所のド

アへ向かい、普通に開け、受話器を握っている男を瞬時に優先排除対象とみなし、これを殺害している。

 二秒遅れてアメリカンショートヘアーの部隊が突入する。銃声が続き、薬莢が跳ね、苦鳴を残して命が消えてゆく。

 作戦行動予定時間は15分。出入り口を悉く封鎖し、速やかな殺戮によって沈黙せしめる。銃声も悲鳴も怒号も構う事はな

い。警察やそれに類する機関が到着し、対処可能な準備が済む前に、嵐のように襲って去る。

 銃器を中心に武装するメンバーの中で、グリスミルだけはその両手に握った直剣が主武装となっている。

 彼に銃器は必要ない。なぜならば、その能力が遠間での攻撃を可能としているから。

 水平に剣を凪いだその先で、逃げようとしていた男の背中が割れた。服が裂け、肉が飛び散り、血と骨片が舞う。

 グリスミルの能力は「振動」。充分な耐久性を備えている武器であれば、その能力によって振動兵器に変わり、それを媒介

に振動を大気に伝播させれば対象への衝撃破砕攻撃が可能となる。

 元より、複製兵士達は武装した一般人を余裕で殲滅できる戦闘能力を有する。グリスミルの役目は彼らの指揮と、自分と同

じような能力者との戦闘。率先して対象を殺すのは片手間に過ぎず、その鋭い目は能力者の構成員が居ないか常に確認し続け

ている。

 残り十二分。グリスミルは殺戮の場となったビルを駆ける。シャチから指示された通り、地上階の殲滅を優先して…。


「て、敵襲です!他の所と同じ…!?」

 状況を察したマネージャーが悲鳴を上げた途端に、ビルがもう一度揺れた。裏口に続いて搬入口が爆破され、倒壊した振動

である。

「応戦しなさい」

 エルモアは硬い表情で男達に告げると、オーナーを見遣った。

「緊急脱出路は?」

「使えます!小娘を連れてそこから…」

 レインはポカンと口をあける。一瞬カナデの顔が思い浮かび、まさか、とすぐに打ち消した。

 男達はオーナーの指示に従い、気味悪がりながらも牢に入り、アリスとレインを促して外に出す。この瞬間、少女は願って

もないチャンスが来たのだと感じた。どさくさに紛れて逃げ出せれば…、と。だが…。

「いざとなれば、ここでアリスを使います」

 エルモアは冷たい目で幼女を見遣った。

「「爆弾」としては丁度良い使い所でしょう。「トリガー」は確か…」

 男達に周囲を固められ、地下通路を進み始めて間もなくの事だった。上階の銃声が反響してそこまで聞こえたのは。それは

つまり、地下への階段まで「敵」が来た事を意味している。

「…猶予はありませんね」

 エルモアは額に汗を滲ませて呟いた。平静を装ってはいるが、彼は既に追い詰められていた。余裕の態度を取り繕ってはい

ても、秘匿事項関連の知識は豊富でも、エルモア自身には死地を潜った経験が無い。

 だから、敵の姿を目にする前に先走ってしまった。

「ちょっと失礼、これを…」

 護衛の男のひとりに話しかけたエルモアは、胸元から取り出した小型拳銃を握らせる。そして…。

「…え?」

 レインは目を丸くした。エルモアに拳銃を握らされた男の手は、彼女に向いていた。

 タンッ。

 酷くあっさりした音が鳴る。乾いた煙が鼻先に香る。

 強くはたかれたような衝撃と痛みに、レインは手を腹に当て…。

「………え?」

 ぬめりを感じて上げた手には、ベッタリと、赤が付着していた。

 急速に力が抜けてゆく。腹の弾痕から熱が全身へ回ってゆくような、不快な暑さを感じる。立っていられなくなり、膝から

床に崩れ、そのまま体を支えきれず…、

「…………?……???」

 ベチャリと、少女は床に突っ伏した。何が起きたのか判らない、そんな疑問の表情のまま。

 直後、絹を裂くような悲鳴が通路に響き渡った。

 顔を両手で押さえ、幼女は叫びを上げていた。

 言葉も通じない。名前しか知らない。だがきっと、友達だったはずの少女…。目の前で銃撃され、倒れた彼女の周囲に血の

色の水溜りが広がる。

 蘇るのは家族を喪った日の記憶…。

 赤の中に倒れ伏した父母の姿…。

 また、目の前でひとが居なくなった。

「キャスパリーグ!」

 その悲鳴は何かの名。

 その悲鳴は何かの命。

 呼ばれた何かは姿を見せる。

 命じられ何かが姿を見せる。

「…?」

 オーナーは周囲を見回す。産毛が逆立ち、肌が粟立つ。異様な寒気と不快感、そして耳鳴りが突如襲ってきた。

「発動したようですね」

 エルモアは数歩離れて壁際に寄った。その顔は青褪めながらも期待の表情を浮かべている。

「…あ?」

 何がなんだか判らないままレインを撃たされた男が、最初に「ソレ」に気付いた。

 ギザギザの歯が宙に浮いていた。三日月を寝せたような形で。

 ニヤニヤと嗤うような口に、鋭い牙が噛み合わされて並んでいる…、それだけが空中に浮かんでいた。

 その、ニヤニヤ嗤っているような「口」がカパッと開いた次の瞬間…。

 ゾブリ。

 肉を噛み千切るような音に続き、ビチャビチャと水音が鳴った。

 男はポカンとした顔のまま、床に尻餅をついて、そのまま仰向けに倒れる。その左肩から左耳の下までが、綺麗な曲面を描

いて丸く抉り取られ、傍に肉隗となって転げている。

 ニヤニヤ笑う口元は、ゾックリと噛み取った男の傍を離れ、拳銃を構えた別の男にヒラリと向き直った。

 宙に浮かんだ口の周囲に、ジワリと濃い灰色が広がった。まるで無色透明な硝子細工に絵の具を塗ったように、色の広がり

はそこに立体の像を描き出す。

 それは、大柄な山猫獣人のようでいて、しかし絶対にそうではないと一目で判る異形であった。

 二本の脚が床を踏み締める。その四指から生える湾曲した鋭い爪は、いかなる曇天の夜より深い黒。

 両腕は極端に太く大きく、四指に備えた禍々しい黒鉤爪は、拳を握る事が出来ないだろうと思えるほど長く太い。

 前傾して丸めた背には優駿の如き黒い鬣が、上は頭頂、下は尾の先まで列を成す。

 大柄な獣人ふたり分はあろうかという巨体で、前傾した猫背の姿勢でありながら、頭の天辺は2メートルを越える位置まで

達していた。

 濃い灰色の体躯は黒い縞模様を薄っすらと帯びており、体の中で、眼球…瞳の周辺部と、ニヤニヤと嗤っている様なその口

元から覗く牙だけが白く、瞳孔は新鮮な血のように紅かった。

 異様な雰囲気の異形を前に、見据えられた男は竦んだように動けなくなっていた。

 その首が、ゴロリと床に転がった。頭部を失った首から噴水のように鮮血が吹き上がり、天井を斑に染める。

 首が落ちたその時には、魔猫は既に違う男に肉薄している。音も無く、気配も無く、ニヤニヤと嗤う顔が眼前に迫り、鋭い

四爪が一振りで下腹部から顔面までを抉り取る。

 悲鳴と絶叫が響き渡る通路で、カタカタと足を震わせながら、エルモアは引き攣った薄ら笑いを浮かべていた。

「素晴らしい…!素晴らしい…!こんな…、こんな「力」が…!」

 話に聞いてはいた。幼女は「何者か」を呼び出す力を持っている、と。

 原理までは知らず、推測するだけの知識もエルモアには無いが、アリスが引き起こす現象は「思念の力を媒介にして異形の

存在を具現化する」能力による物。

 彼女を守るために、あるいは敵対者を屠るために現れる「彼ら」は、実体にしか見えないが質量を持たない、一種の幻像と

言える。だが、「彼ら」から「攻撃された」と認識した者は、本当にその殺傷能力を身に受ける。

 「彼ら」を呼ぶ力はアリスの母方の家系…女性にのみ発現する異能であり、「彼ら」が何者なのかは厳密には不明なのだが、

彼女達一族はその存在を幼い頃から知覚し、友人のような物として認知している。

 相性の良し悪しなどもあるのか、「彼ら」の内でも誰を呼び出し易いのかは個人差があるらしいが、アリスに限って言えば、

最も相性が良いのはこの魔猫…。伝承に語られる大英帝国の魔獣、夢現の猫「キャスパリーグ」。

 やがて銃を持っていた男全てが無残な骸となり果て、害を取り除いたと判断したらしいキャスパリーグは、手に掛けなかっ

たエルモアを、オーナーを、マネージャーをニヤニヤと一瞥し、最後にアリスへ目を向けると、スゥッと、四肢の先から透明

になってゆく。

 端から徐々に消えて行った魔猫は、ニヤニヤ嗤う口元だけを一時宙に残し、最後にはそれすらも消して、完全に姿をくらま

した。

 幼女は気を失い、床に倒れ伏していた。鼻腔からはタラリと赤い筋が伝っている。キャスパリーグの呼び出しに伴い、幼女

の脳には多大な負荷がかかっていた。

 それでも、意識を失う寸前にそうしたのだろう、小さな手は血溜まりの中に倒れている少女の方へ伸ばされていた。

「反動…のような物か…?なるほど、「爆弾」というのはそういう事でしたか…」

 エルモアは恐る恐るアリスに近付くと、傍に屈み込み、鼻血を確認して呟く。

「迎え撃つのは無理ですね。連れて脱出しましょう」

 そんな政治家の言葉にオーナーは身震いする。この自滅を引き起こした失敗にも、凄惨な光景にも、全く罪悪感も後悔も抱

いていない事が、口ぶりと態度から判る。

 超然としている…とこれまでは思っていたが、違う。それは買い被りに過ぎなかったのだと、オーナーは感じた。この男は、

ただの人格破綻者なのだと。

「君、彼女をおぶって下さい」

 エルモアに呼びかけられたマネージャーはビクリと身を震わせ、首を横に振る。何が起きたのか理解できている訳ではない

が、先程の化け物はアリスが呼び出したのだという事だけは判っていた。

「お願いします。是非」

 少し苛立ったように顔を向けたエルモアは…。

「あ」

「あ」

「?」

 オーナーとマネージャーの間の抜けた声に続いて、首筋に冷たい物を感じた。

 屈んでいるエルモアの首へ、横から手を伸ばしているのは、素早く身を起こしたレイン。

 その手に握られているのは、硬質で鈍い、金属の輝き。

 それは、先日牢破りに失敗した時に、レインが配管の裏に隠しておいた物。カナデから受け取った正当な労働の対価で購入

した、あの時は役に立たなかった金属用鋸。

 エルモアの首筋に当てたそれを、少女は思い切り、引いた。

 ズリュッ…。

「!!!!!!!!!」

 声は出なかった。代わりに大量の血と息が喉仏の位置から噴き出した。

 牢の格子を破るという、望んだ用途は果たせなかった鋸だったが、政治家の首はあっさり斬れた。

 気管と動脈を切断されたエルモアは、悲鳴も断末魔も上げられず、喉を押さえて転げ回ったが、やがて動きが鈍り、うつ伏

せのまま痙攣し始めた。

 それを見届けると、レインは力尽きてベシャリと横倒しになる。

「……おい」

 ややあって、オーナーが声を発した。

「逃げるぞ…!」

 コクコク頷く蒼白のマネージャーが先に立って走り出し、オーナーはそれに続こうとして…、

「………」

 足を止め、一瞬だけ逡巡してから、アリスを抱え上げて駆け出した。

(組織はもうおしまいだ…!コイツを売り払って高飛びするしか…!)

 遠ざかる男達の足音をぼんやりと聞きながら、

(やった…)

 横倒しになったまま、瞳から光が失せたレインは、曖昧な意識の中でぼんやりと、満足感を覚えていた。

 アリスに酷い事をしようとする連中の親玉は殺した。これできっと、幼女は救われる。アリスが連れて行かれた事も判らな

い朦朧とした意識の中で、レインは誇り高い気持ちになった。

 ただ、申し訳ないとは思う。謝る機会が無いのが残念ではある。

 最後の最後で連中を騙すために、カナデの名前を出して嘘をついた。あれで面倒な事になったら済まないなと感じながら、

しかしその警告などもできないのが悔やまれる。

 自分はここで死ぬ。

 生きていても別に良い事は無かっただろうから、手放す人生に未練はない。振り返っても幸せな事など無かったし、最後に

アリスを助けられたのだから満足した。

(ああ、でも…)

 レインは最後の数日を思う。

 カナデと会って、正当な労働と彼が言う案内役をして、あちこち歩いて、美味しい物を食べて、色々な話を聞いて…。

(楽しかった…、なぁ…)

 悪い事ばかりの人生で、最後の数日は良い事があった。

 世界は残酷だったが、そう捨てた物ではなかったのかもしれない…。

 そう感じた瞬間、もう何も見えていない少女の瞳から涙が溢れた。


 コツンと足音が床を這う、血臭漂う地下通路。

 上階の制圧が終わろうかというタイミングで戦線に加わったシャチは、掃討を配下に任せたまま、目当ての地下へひとりで

侵入した。

 そして、もぬけの殻になっている牢屋を確認すると、そのまま血臭を辿り、死屍累々の惨状を目の当たりにする。

 酷い傷。真っ当な人同士の殺し合いではこうは成らないだろうと感じながら、最優先排除対象と目される政治家…エルモア

の死体と、傍に倒れている少女を確認したシャチは、

「あ~、残念だったなァ」

 ヒュウ…ヒュウ…と、か細い呼吸を繰り返す、今まさに死にゆこうとしている少女へ、同情している様子でもなく、社交辞

令のように声をかけた。

 そして、携帯端末を取り出してコールする。

「…俺様だァ。「目当て」は外に出たらしいぜェ、後は好きにしなァ。グフフ」

『了解した。後で協力の対価を支払おう』

「別に要らねェ。何かあったらその時頼むぜェ。グフフ!」

 律儀に礼を言ったウルとの通信を終えたシャチは、チラリと少女の傍に落ちている鋸を見遣り、返り血塗れの服を見遣り、

エルモアの首筋の傷を見遣り、状況を把握する。

「…議員殺したのは…。グフフ…!」

 呟き、含み笑いを漏らしたシャチは、

「……ん?」

 少女の呼吸に異音が混じった事に気付き、屈み込んで耳を澄ませる。

「………た…」

 少女の虚ろな目から、涙が零れていた。

「……き…た…」

 カナデを通して知った。楽しい事。嬉しい事。優しくされた事。

「……きた……い…」

 ひとらしい喜びを、少女はこの数日の間に、生まれて初めて知った。

「生き……た…い…」

 屈み込んで少女を見下ろしていたシャチは、

「そうかァ」

 呟いて、太い首を僅かに傾げた。難題について考え込むような難しい顔で。

「そうかァ…」

 正直、自分にとってはさほど重要ではない存在。死のうが生きようがどうでもいい、むしろ生きる気がないならさっさと死

ねば良いのにと個人的には感じる少女だった。

 だが、「生きたい」と言った。

 致命傷を負い、死に瀕し、かろうじて息をしているその口で、「生きたい」と言った。

「あ~…。そォ~…かァ~…。生きてェかァ~…」

 シャチは繰り返した。ポリッ…と、太い指で頬を掻きながら。