路傍の少女と檻の幼女(終)

 車が走ってゆく、建造物密集区の外。

 夜に空から見ればポッカリと穴が空いたように暗いそこを、ヘッドライトが切り裂いてゆく。

 マネージャーが助手席に乗り、オーナーがハンドルを握ったやや型の古いセダンは、後部座席に気を失っている幼女を寝か

せていた。

「逃げるったって、何処に行くんです?」

 不安げなマネージャーに、「これから何とかするんだよそこは!」とオーナーが怒鳴り返す。組織はもう終わりと見切りを

つけ、アリスを売り払って当面の金を手に入れる…、考えたのはそこまでで、具体的な算段はこれからつける所。

 少なくともエルモアが殺害された件についてはもはや保身をはかれないと直感した。売春婦の少女に殺された…などと本当

の事を言っても信用されない。子供と言える年頃の少女が議員を殺した上に本人も死んだなど、状況を見れば議員を殺して犯

人をでっち上げた質の悪い偽装工作にしか見えない。この国の政府から追われる立場となる事はどう足掻いても回避できない。

 国外逃亡が目下最有力の逃げ道だが、それも急がなければ閉ざされてしまう逃走経路。政府側がエルモアの死に勘付けばお

しまいだし、そうでなくとも組織を攻撃している連中も居るのだから、国内に長く留まっていればいるほど出国の際のリスク

も大きくなる。

 急ぐ車は、しかし結論から言えば目的を達せられなかった。

 夜闇を裂いて、細い、そして鋭い銀光が煌く。

 走行する車の右側面で、前後のタイヤがズパンと、帯状に分解して爆ぜ飛んだ。

 コントロールを失い、路面に擦った腹から火花を散らしながらスピンした車は、やがて耳障りでけたたましい音を小さくし

つつ止まる。

「パンクか!?」

 怒鳴りながらドアを開け、外に出たオーナーは、タイヤの破損状況を確認して唸り、そして気付いた。

 車から10メートルほど離れた位置に、男がひとり、立っている。

 僅かに金属のような光沢を帯びた白い被毛。暗灰色の都市迷彩が施された上下に、同じ仕様のコートを羽織る。艶を消され

た黒いブーツが、粉の様な土ぼこりが薄く積もる路面をコツリコツリと踏み進む。

 瞳の機能を調節し、車内の熱源を感知して位置と搭乗人数を確認した狼は、狼狽するオーナーに目を向けながら歩み寄り、

口を開いた。

「幼い女児がそこに居るな?渡して貰おう」

 反射的にオーナーの目が動き、後部座席を気にする。それで確保対象の所在を確認した狼は、もはやオーナーに目をくれる

こともなく車の後部ドアへ歩み寄ろうとし…。

「う、動くな!」

 運転席に手を突っ込み、オーナーは拳銃を狼へ向ける。セーフティは解除され、引き金一つで鉛玉を吐き出せるようになっ

た凶器は、しかしその役目を果たせない。

 ズリッと、オーナーの手に握られた拳銃が、そのノズルとスライド上部を輪切りにされて輪郭を崩す。ゴギンカキンと大小

様々な金属片が地面に零れ落ち、グリップだけが残った状態になり、オーナーは目を見開いて凍りついた。

 拳銃を分解したそれは、細い、細い、糸。ただし、脆弱性とは無縁な、鋼の強靭さを持つ凶器。

 先にタイヤも断裂させてのけたこの糸は、高周波振動を帯びてゴムも鉄も肉も骨も断つ、鋭く長大な刃となっている。そし

てその糸は、狼が嵌めたグローブと、履いたブーツから生じていた。

 それらこそが「黄昏の楽師」ウル・ガルムの武装。グローブ型の擬似レリックウェポン「ラプンツェル」と、同じくブーツ

型の「アリアドネ」。各々一対計四機の彼女達は、内部で生成した強靭な鋼糸を、着用者の意思を感知して射出、あるいは巻

き取る。

「こうは、思わないか?」

 歩みを止めず、何かした様子さえ見せず、車の後部ドアに手を伸ばしながらウルは傍らのオーナーへ述べた。

「確実な死と、手ぶらでの逃走では、生存を最優先目標とした場合、理に適っているのは後者ではないか?と」

 十二秒後、オーナーとマネージャーの姿は車の周辺から消えていた。

 追う理由も無く、殺す価値も無い。そう判断して見逃したウルだったが、実は主たる女性より一つ言付かっていたが故に、

普段行うような徹底した証拠隠滅を今回ばかりは避けている。

 主からの命令…否、「頼み」は、このような物だった。

 

―対象は幼子だそうだから、どうか、惨いものはできるだけ見せないようにしてあげて―

 

(お言葉のままに遂行して御座います。レヴィアタン…)

 令を達し、ウルは後部座席に寝かされていた幼女の顔を覗きこむ。鼻血の跡は目に付いたが、外傷は無い。ただし、ウルが

各種センサーで監察したところ、「無傷」とはとても言えなかった。

(随分と「傷んで」いる)

 幼女は疲弊し、そして損耗していた。おそらくは能力の負荷による物だろうと判断した狼は、冷静に、機械的に、この幼女

はそう長く生きられないだろうと分析する。

(何にせよ、「コレ」を回収すれば任務は完了だ)

 静かにドアを開けて、負担を与えないように抱き上げようとしたウルは…。
















 白い清潔な布に包まれた赤子が、母親の腕に抱かれていた。

 揺り椅子に深く腰掛けた女性は、産後の疲れがまだ薄く残る顔に、慈愛に満ちた笑みを浮かべている。

 薪が爆ぜる軽やかな音と、零れ出る柔らかな熱。暖炉の前で我が子を抱く女性の姿は、芸術家が描いた渾身の一枚絵にも見

えるほど、美しくて厳かだった。

「母親かよ…。あのクリスがなぁ…。へ~…、ふ~ん…、へ~…」

 母娘の顔を見比べているのは大兵肥満の逞しいセントバーナード。分厚い胸の前で太い腕を組み、しきりに首を捻っている

彼は、我らが古馴染みが結婚し、さらに子供まで授かった事をまだ不思議がっている様子だった。…無理もないが。

「クリス似…だよな?眉とか目のトコとか」

 巨漢が赤子の寝顔をまじまじと覗き込んで呟く。確かに、と思わないでもなかったが、態度に出して彼に同意しなかったの

は、父親…彼女の夫となった男性の事をまだ良く知らなかったからだ。まだ顔を知らないのだから、そちらに似ている可能性

も否定できない…つまりは、そういう事だ。

「抱いてみますか?」

 その問いには、首を横に振って応じる。触れてみたいと思う一方で、赤子が彼女に抱かれているこの完成された絵画のよう

な光景を、一時でも崩すのは忍びないと感じていた。

「お!じゃあ俺が抱いてみるか!」

 …もっとも、どうやら我が相棒にはそんな繊細な思考や感慨は無いようだ。いや、「どうやら」というのも正しくないな。

「やはり」と言うべきだろう。ああ、判っていた。

「ハークは何か怖いからヤです…」

「何で!?」

「心配…」

「だから何で!?」

 ふたりのやりとりを横目に、赤子の寝顔を見つめる。

 アリス。

 この幼子が、呪いに等しいあの異能を祖母から受け継いでいないよう、疫病神に等しい「彼ら」から好意を注がれていない

よう、祈らずにはいられない…。















「………」

 ぐったりした幼女を両腕で抱えたまま、ウルは一瞬呆然とし、次いで素早く周囲の気配を探る。

(何だ?今のは…)

 何らかの「攻撃」を受けている可能性を考慮し、周囲を警戒しつつ足早に車から離れ、ウルは自分が「見た」光景と五感で

捉えたリアルな感覚を反芻する。
今のヴィジョンは、この幼女が赤ん坊だった頃の光景としか思えなかったが…。

(………)

 ウルは幼女の寝顔を見下ろす。

 この幼女については、強力な思念波を放出するという情報があった。あるいはその影響で、この幼女に付着していた何者か

の残留思念…今の光景を見た者の記憶を浴びせられる格好になったのではないかと推測し、そして考える。

(今のは、誰の思念波だったのだろうか…)

 奇妙な感覚があった。胸の奥がシクシクと傷むような、寒くて落ち着かないような、初めて経験する感触が。

「!」

 狼の耳がピクリと動く。幼女の目が薄く、弱々しく開いた。

「………?」

 朦朧としている幼女は、ウルの顔を見て不思議そうな表情を浮かべると、ほんの少し、微かに、安堵したような笑みで口元

を綻ばせ、また意識を失って眠りに落ちる。

(………)

 幼女の顔をまじまじと見つめたウルは、そっと毛布で包み直し、揺らさないように気をつけながら、闇に歩み入って姿を消

す。先ほどから続く奇妙な、経験した事が無い感覚を、その胸へ幼女と共に抱えながら。

 この時のウルは予想もしていなかった。

 後に自分が、この幼女の事をきっかけとして組織を抜ける事になろうなどとは…。 



 歓楽街、中心部から僅かに逸れた区画。

 消防車が駆けつけ、放水が始まり、現場に近付くのも難しくなった時分。カナデは直接視認する事もできないあのビルの炎

上と崩落を、立ち昇る黒煙を見上げながら悟っていた。

(レイン!)

 人ごみで埋まり、通り抜ける事もできない路地を、それでも諦めきれずに回って、少しでも前へと道を探しながらも、カナ

デは直感していた。

(マデ…、僕は…!)

 自分にできる事は、もう無い。

(僕は…、また…!)

 手を打てるタイミングは、とうに過ぎた。

(拾えたはずの物を、零してしまったんだよ…!)

 夜が明ける。

 放水で湿気を帯びた空気は、不快に焦げ臭く、不安を煽るほど暑かった。





























 それから、四週間が過ぎた。

 ダイバーに人気の、海が美しい観光都市。

 ヨットハーバーを眺められるカフェのオープンテラスで、大柄な肥った狸はアイスティーを啜りながらハンバーガーを齧り、

ガイドブックを眺めていた。

 あの国を出国する際には、それなりにゴタゴタはしたが特に危険な事は無かった。ゴタついたのは出国者が大幅に増えたせ

いであって、検問のような物は無かった。政府にそんな余裕など無かったのである。

 エルモア・ハンフリー議員は事故死していた。死者72名行方不明者15名、重軽傷者をあわせて犠牲者数300名を越え

た歓楽街の大火災で。しかもその遺体が発見されたのが児童買春の斡旋業者だったため、現政権は糾弾の的になっている。

 加えて、前々から噂されていた不透明な資金の流れについて、匿名の内部告発により多額の政治献金が指摘され、そちらの

火消しでも忙しい。

 さらに、泣きっ面に蜂と言うべきか、軍管轄の基地で配電設備の故障が原因で火災が発生し、弾薬庫に火が回り、大規模な

爆発事故まで起きている。

 そんな訳で、混乱が広まり出国者が増える中、カナデは誰に見咎められる事も無く国を出る事ができた。

 レインの行方は判らなかった。

 火災の犠牲者は、住民登録制度がなおざりになっていた事と、身元が不確かな者が多く集まる界隈での悲劇だった事もあり、

行方不明者は勿論、身元不明の死体も多くて調べきれなかった。そもそも、カナデ自身も追われる身になっていたかもしれな

いあのタイミングで、長々と犠牲者を調べて回るのは危険を伴った。

 鯱の巨漢とは、レインと同じくあの娼館で話したのが最後となった。ただし、騒ぎが落ち着いてからホテルへ戻った際に、

フロントに預けられた伝言だけは聞いている。

 急用が出来たのでチェックアウトした。ホテルには戻らない。縁があったらまた会おう。…そんなメッセージを。

 仕事自体は終えたが、遣り残した事も心残りも多かった。レインとの再会は叶わなかった。あの騒ぎのその後も調べ切れな

かった。テントを潰してしまった屋台の肉まんを、改めて食べに行く事もできなかった。少女が救いたいと言った幼女の事も、

結局は判らずじまい…。

 引っ掛かりが多過ぎる滞在だったせいか、カナデはあれからずっと、静かになるたび、ひとりになるたび、あの国での数日

を思い出している。塞がりかけの傷跡を、無意識に撫でて荒れさせてしまうように。

 仕事柄、死体は見慣れている。災害で、紛争で、疫病で、商売で、政治で、宗教で、損得で、正義で、死体は何ででも何処

ででも作られる。だが、誰かの死に慣れる事だけは、いつまで経ってもない。

 気が付くと、中身が無くなったバーガーの包み紙をじっと見ていた。軽く頭を振って席を立ったカナデは、ゴミを片付けて

トレイを返却すると、観光客で賑わう店舗の敷地を出て、クルーザーやヨットが並ぶ船着場方面へと歩き出す。

 長閑な空気が心地よい、賑わいも程々の活気ある街。先に滞在した国とは違ってきな臭い事もなければ、政府も比較的穏健。

平和で落ち着いた国である。映画のロケ地となった事で、数年前から観光旅行先として注目され始め、元々潤沢だった観光資

源と盛んだったマリンスポーツとレジャーを目当てに旅人の出入りは活発。

 カナデの目当ては事前予約が要らない定時発着の遊覧船。仕事用ではなく個人的に、旅中の一枚に沖の風景を加えておきた

かった。時間を纏めて確保して海水浴に勤しむのも良いが、今日のところは波と風を感じて、気持ちの整理と考え事をしたい

気分である。

(出てる船が結構多いナ。波が荒れる予報も無かったはずだし…)

 そんな事を考えながら、何艘も停泊している中でも手すりの輝きが目立つ、真新しいクルーザーの前を通り過ぎようとした

カナデは…、

「よォ。どうやら縁があったなァ、ストレンジャー。グフフフフ!」

 足を止め、弾かれたように首を上げた。

 クルーザーの甲板上には、前をはだけてアロハシャツを羽織った、筋肉達磨のような鯱の巨漢。

「ジョンドウ!?」

 思わず声を上げたカナデに、シャチは含み笑いを漏らしながら「観光かァ?」と、屈んで訊ねた。

「半分観光かナ?一応、集客戦争真っ最中のホテル群レポートっていう仕事もあるけどネ」

「そうかそうかグフフフ!……………地味でつまんなそうな仕事だなァ…」

「今なんか聞こえたよ!?…それよりも…」

 声を潜め、周囲を見回し、話が聞こえる範囲にひとは居ないか、会話に注意を傾ける者が居ないか、確認してからカナデは

問う。

「…あの後、すぐ出国したんだよ?」

「別れた日にはなァ」

 シャチの返答を聞き、カナデは「そうなんだよ…」と僅かに耳を伏せた。それでも、ひょっとしたらと僅かな期待を込めて

訊ねる。

「あれから…、何処かでレインを見なかったかナ?」

「さァ、とんと知らねェなァ」

 首を縮めて肩を竦めたシャチは、目を伏せたカナデの様子に頓着する事もなく「そんな事よりも、だァ」と顎をしゃくって

首を反らす。上がっていけよ、と自宅に訪れた客を促すような仕草で。

「暇ならクルージングに付き合わねェかァ?買いたてホヤホヤ、ピカピカの新品だぜェ?グフフフフ!」

 手すりを撫でながらシャチは言う。カナデはどうした物かと少し考えた。話したい事もあるので、邪魔が入らない場所が提

供されるのは有り難い。

「俺様の方も今日はオフでなァ、せっかくの休暇も家族サービスで消費ってトコだァ。おい、挨拶しなァ」

 甲板の向こうを振り返り、シャチが手招きすると、カナデが見上げる縁のところに、ピョコンと子供が顔を出す。

「………」

 柔らかな逆光が、その顔に薄いヴェールをかけていた。

「………………」

 黙ったままカナデは自問した。

「………………………?」

 自分はいま、自分が見たいと望んだ幻を見ているのではないか?と。

「「はじめまして」、おじさん。…あ、「おじさん」はダメなんだった…」

 甲板上に少女が立っていた。手すりの向こうからカナデを見下ろすのは、見覚えのある女の子の顔で…。

「紹介するぜェ、俺様の「娘」だァ」

 シャチが分厚い手を頭の上に置いて、乱暴にグシャグシャッと撫でると、女の子は「パパ!髪滅茶苦茶にしないで!」と抗

議する。

「?…??…!?!?」

 上手く言葉が出て来ないカナデに、膨れっ面から気を取り直して笑顔になった少女が笑いかける。

「よろしくね!パパの友達さん!」

 パチパチと数度瞬きし、ゴシゴシと何度も目を擦るカナデ。何が何だかさっぱり判らないが、判らないだらけの中で聞き捨

てならなかったキーワードは…。

「パパ…!?娘…!?」

 カナデが視線を向けると、シャチはさらっと目を逸らして「良い天気じゃねェかグフフフフ!クルージング日和だぜェ!」

と質問や追及から逃げる構え。

 何がどうなっているのかとことん不透明だし、露骨に怪しい。が…。

「世界は…」

 「Deukalion-01」そんな船名が記されたクルーザーの、陽を浴びて光る甲板を見上げる狸の顔は、晴れやかに緩んだ。

「やっぱり、捨てた物じゃないよ…!」















 三週間前。

 何処か。病室と思しき部屋。

「意識は安定しています。状況が判らず混乱しているようですが」

「無理もねェから構わねェ」

 白衣を纏う医師らしき男の、マスク越しでくぐもった声に顎を引き、シャチはベッドを見下ろした。

 各種機器が取り付けられたベッドの上には少女。寝ぼけているような顔をしており、眼差しも望洋としているが、バイタル

サインは安定している。

 医師を外に出し、ベッドの脇で椅子に腰掛けたシャチは、レインの顔を覗きこむ。

「よォ。気分はどうだァ?…まァ、薬が効いてぼんやりしてんだろうが…、グフフフ」

 視線を動かした少女に、シャチは語る。

 生きたいと言ったから連れ帰って治療を受けさせた事。

 助かるかどうかは五分五分だったがどうにか生き永らえた事。

 少女を飼っていた業者の元締めを含むあの組織はほぼ壊滅している事。

「…アリスは…?」

 シャチの説明を一通り聞いた後で、レインはそう尋ねた。

「知らねェなァ」

 シャチはさらりと嘘を吐く。知ったところでどうしようもない、と。

「だが、あの娘は病気みてェなモンだったんだァ。あのまんまでも、そう長くなかっただろうなァ」

 その過去形の言葉で、レインは、あの幼女はもうこの世に居ないのだと考えた。

「で、これからのオメェの事だァ」

 鯱の巨漢は少女に顔を寄せ、反応を窺いながら口を開く。

「どうする気だァ?あの国に戻るかァ?アテがあるんだったら送ってやるぜェ?」

 少女は「別にいいよ」と気怠そうに答えた。

「ギインセンセー殺したから…ゲシュニンってヤツでしょ?戻ったら捕まるし、そんなの嫌だし、帰る所なんか無いし…」

「そうかそうか、グフフ」

 相槌を打ったシャチは質問を変える。

「なら、やりてェ事はねェかァ?」

 少女は天井を眺めたまま、「やりたいこと…」と鸚鵡返しに呟いた。

「生きてェ。そうオメェは言ったんだが、生きる以上は何かあるんだろう?」

 死に瀕した状態で、涙を零しながら生きたいと呟いた少女の胸には、きっと「何か」がある。

 惰性で生を貪る死人じみた連中の生き方とは違う「何か」。

 兵器たる身元不明死体に与えられた役目とは違う「何か」。

 自ら望んで危険な場所へ赴く異邦人が抱くような「何か」。

 その「何か」に「期待」している事に、シャチは自分でも気付いていない。ただ、気に入らない「死人共」とは違うのでは

ないかと感じているだけ。

 やがて、少女はポツリと呟いた。

「…辛いラーメン…」

「んん?」

「クレープ…」

「ん~?」

「雪山と、月…」

 眉根を寄せるシャチをよそに、少女は思いつくまま口にした。

 死ぬのなんか怖くない。直前までそう思っていた自分が、本当に死が目前に迫った時に感じたのは、ジャーナリストが垣間

見せてくれた世界の刺激と、語ってくれたまだ見ぬ世界への期待と憧れ。

 それを上手く言葉にできないまま、触れたいもの、知りたいもの、見たいものを口にする少女。その声に耳を傾け、シャチ

はこう解釈した。

 この娘はまだ、自分を取り巻く世界をどういった物なのか決めていない。だから知りたいのだろう、と。

 そして思う。

 このドン底娘は、世界を見た後でどう評するだろうか?

 期待したような物ではないと失望するだろうか?

 存続するに値しないと絶望するだろうか?

 こんな物だと諦観を抱くだろうか?

 それとも、もしかしたら、あの異邦人のように…。

「………………」

 捨てた物じゃない。

 世界を見て知った上でなお、あの男のように言えるだろうか?

 いつか自分に対して、満足できる「回答」を寄越すだろうか?

 しばし黙した後、シャチはグフフと含み笑いを漏らす。

「あァ、もういい。だいたい判ったぜェ。やりてェ事はたっぷりある。だろ?」

 椅子を軋ませて背中を伸ばし、腕を組んで少女を見下ろしたシャチは、今聞いた願いと自身の思惑を込みであれこれ考え、

十秒ほどで最適解と思われる結論を導き出す。

「こいつはまァ、俺様の気紛れだがなァ…」

 シャチは切り出した。経緯はどうあれこの娘は既に殺人者。議員殺しの真実を知る者が居るかも知れず、本人も言うように

祖国へ帰れば捕まる可能性もある。そうでなくとも各所がそれぞれ適当な落とし所を探っている真っ最中なのだから、法の手

の外で死に方を都合よく活用されてしまう確率は高い。ならば…。

「俺様の養子にならねェかァ?名前も変えて、なァ」

 シャチが出した結論は、名を変え、国籍も新たに偽造し、別人として生きる事。

 考えてもみれば自分達の任務において、大局的に見て最重要排除対象に該当する存在だったのだろうエルモア・ハンフリー

を、過程がどうあれ実際に始末したのはこの娘。結果として、多少程度ではあるが労力を使わずに済んだとも言える。

 仕事を手伝って貰ったという借りができた。面倒を見る理由はまぁ、それでいいかとシャチは考えている。

 いずれ自分達が焼き尽くすのだろうこの世界を、一通り見聞させて回った後で、少女に答えを聞こう。

 それでもまだ生きたいと言うのなら、一度火にくべられる世界の、その先の世界へ、この少女を送り届けよう。

 それが、身元不明死体を自称する鯱が、「生きている」と認識した少女に渡す贈り物。

「ようし…?」

 言われた言葉の意味が、少女は本当に判らなかった。養子とは何なのかという所からシャチが説明した後で…。

「ソレになったら、外国を見に行けるの?」

 かくして、少女はレインという名を捨て、生まれ直して人生を歩み始める。

 そして、シャチが持つ無数の偽名の内、海運業を手掛ける事業家として用いている、表の社会で使える姓と新しい名を貰い、

方舟に乗った最初の子供となった。















 波を掻き分け、ビーチを遠巻きに眺められる程度の沖をクルーザーが進む。

 速度を控えめにゆったりと航行する船の舵を握るのはシャチ。潮風に慣れた巧みな操船で低い波を選んで越えるため、揺れ

は少なく快適な乗り心地。

 ひとしきり景色を楽しんだ後で、かつてレインと名乗っていた少女は、当たり障りの無い範囲で、今の自分の事をカナデに

伝えた。建前としてシャチの娘として振舞いながら。

 カナダの都市に住む事。そうしたら学校に通う事。着る物にも食べる物にも寝る場所にも困っていない事…。

「それは良かったよ」

 甲板の手すりに並んで掴まり、カナデはホッとして笑みを見せる。

 もっとも、かつてレインと名乗っていた少女は、少しばかり決まりが悪かった。カナデに隠し事をしているせいで。

 シャチが非合法組織に属する構成員である事などは、核心に触れない程度にやんわりとだが説明を受けている。カナデの身

の安全を考えるなら絶対に言わないように、と釘を刺された上での事なので、彼に本当の事を説明する事は無い。

 もっとも、少女は黄昏の詳しい話はそもそも知らない。社会活動上で偽装に役立つので養子という形で飼う。…と、シャチ

も一応上司に報告しているが、実際には「仕事」で使う事など期待してはいない。よって、少女は名目上も立場上も黄昏の構

成員ではなく、あくまでもシャチ個人の「所有物」という扱いとなっている。そんな状況なので、うっかり口が滑ったとして

も、漏らせる情報自体にさほど危険性は無いのだが。

 恩人に隠し事をするという事がこうまで落ち着かない気分になる物なのだと、ほんの少し前までは想像もしていなかった少

女だが、その「恩人に申し訳ない」という気持ちは「まっとうな人」としてのそれに他ならない。生まれ育った環境がどうあ

れ…。これから生きてゆく環境がどうあれ…。

「あの国には、もう戻らないのかナ?」

「うん。戻る理由もないから。…もうアリスは居ないし…」

 カナデは操舵するシャチを目だけ動かして見遣る。少女は助かったものの、おそらく幼女の方は無理だったのだろう。「居

ない」と断言した少女の口ぶりもあって、狸はそう解釈した。

 友達はまたできる。カナデはそんな言葉を口にしようとして、結局やめた。

 誰にでも、「代わりになる者が居ない誰か」は存在する。その事をよく知っていたから。

 黄昏遠い海の上、眩い波の照り返しの中、カナデは思い出したように懐からカメラを取り出した。仕事用ではなく、私用の

品である。

「一枚いいかナ?「はじめまして」記念に」

 少女は養父であるシャチを見遣り、適当な相槌を貰うと、カナデに笑いかけて…。

 

 パシャリとシャッターが下り、永劫の中から一瞬が切り取られる。

 

 何時かの、何処かの海。クルーザーの甲板。

 輝く海を背にして笑う、アロハシャツを着て短パンを穿いたアジア系の少女。

 シャツの裾が潮風で捲れているが、左腹部に残った消えない銃創は、影に溶け込んで紛れ、見てもそうとは気付かれない。

 日付以外に何の情報もないその写真は、被写体となった少女の手元と、ストレンジャーの私的な記録にだけ残された。