漂泊の仙人と煙雲の少女(一)

 太陽を前面の窓で反射する、高く聳えた墓標にも見えるシーサイドの長方形。ヨットハーバーを見下ろす四十階建てのそこは、

ある企業の本社ビルである。

 そこには実際に会社の設備が揃い、重役が詰め、社員が通い、商売をしているが、ここの「本当の持ち主」にとっては別宅の

一つに過ぎなかった。少し前までは。

 この企業のオーナーと言える男は一切表舞台に出ないが、実はここで暮らしている事になっている。最上階から二階下、通常

のエレベーターが着く事のない、私的な特別フロアで。

 このフロアにはここの主人が認めた客と、身元が確かで信頼できる地元の家政婦程度しか入れない。そもそも直通のエレベー

ターの所在すら、会社の者にも判っていないのである。

 そんな、広大なフロアを丸々占有している一家の顔ぶれは、どんな物かと言うと…。

「パパ」

 黒髪の少女が口を開く。ソファーがあるのに、フローリングの上に敷かれたカーペットの上に直接座り、ローテーブルに頬杖

をついてテレビを眺めながら。

 白いキャミソールで未成熟な上半身を覆っている少女は、下半身にはパンティーしか履いていない。

「何だァ?」

 応じたのはソファーにかけている巨漢。手にしているグラスの中で、琥珀色の液体に浮かんでいる氷がカランと音を立てた。

 こちらが身に着けている物はボクサーブリーフ一枚だけ。少女以上にくつろぎまくった格好である。

 人気のコメディアンを司会者に据えた賞金付きスポーツトライアル番組は、会場がドッと笑い声を上げるタイミング。これを

ぼーっと眺めていたふたりは、「うふふふふ」「グフフフフ」と貰い笑い。

 何とも平和でのどかな光景だが、この片方は反社会的な組織の構成員であり、その気になれば大都市一つを一晩で文字通り壊

滅させる事が可能な戦略兵器でもある。

「晩御飯どうする?」

「そうだなぁ、バーガーでも取るかぁ?グフフ」

「ピザは?」

「一昨日までナポリで毎日食ってたから今は飽きてるぜェ」

「ラーメンとか食べたいなぁ…」

「ラーメンかァ…。食いてェなァ…」

 しばし黙ってから、鯱の巨漢は顎を引いた。

「よし、中華にするかァ。レストランに予約入れるぜェ」

「やったー!」

 巨漢の名はシャチ・ウェイブスナッチャー。非合法組織ラグナロクの構成員であり、最高幹部直属のエージェントという、そ

れなりに高い地位の男である。

 娘の名はリン・ウォーターフロント、シャチの養子。巨漢の偽装身分の一つであるウォーターフロント氏の娘という事になっ

ている。生年が定かではないので実際の年齢は少女本人も判らないが、だいたいの目星で十三歳という設定。

 任務と任務のちょっとした隙間、久しぶりに家に帰ってきたシャチは、養女を可愛がる…でもなくだらけていた。次の任務が

短いとも楽とも限らないので、数日の間に「だらけ貯金」をしておくのだと。

 マイペースにやっているようでも、幹部直属のエージェントであるシャチは、任務のため世界を股にかけて暗躍しており、基

本的に多忙である。
時にはデリケートな地域で内紛を煽り、時には単独でテロを起こし、時には武装勢力を排除し、時には戦略

的重要物を捜索し、時には暗殺も護衛もする…。
ここ二ヶ月の仕事を振り返っても、前回の任務は地中海で、その前はマレーシ

アで、その前は南米で、その前はロシアで、その前はオーストラリアで…。

 冷静に考えると相当ブラックな労働環境なのだが、まぁできてしまうし、代わりにやれる者が居ないのだから仕方がないと、

シャチは開き直っている。実際のところ、肉体をあまり休息させなくともエネルギーの補給さえ確保できていれば転戦が可能、

その逆もまた然りという、設計思想こそ旧式ながらも生物の範疇から逸脱しかかっている高性能兵器であるため、この生活サイ

クルもあまり苦になっていないのだが。

 そんなシャチにとっての現在の懸念事項は、引き取ったリンを放任養育せざるを得ないという点である。家政婦には危険が無

い常識的な一般人を手配しているので、飢えもしないし身の回りの世話も心配ない。学校にも通わせているので学習も問題ない。

 だが、「普段から親が不在」という点はシャチが思っていた以上に大きかった。具体的には、学校から三者面談の連絡が入っ

た時に少し困った。基本的に何らかの催しがある時は、どの生徒も家族が見に来るのだという事を、それまでは知らなかったの

である。これを周囲から育児放棄と考えられてしまったら色々と面倒なので、何とか対応せざるを得ない。

 正直なところ、別に子供が欲しくて養女にしたわけでもない。必要で手元に置いている訳でもない。愛情があるかと問われれ

ば、さてどうだろうかといった具合。それでもシャチは、引き取った事自体は悪くなかったと感じている。

 たまにしか帰らないセーフハウスの一つに戻った時、おかえりと出迎える疑似家族…。見ていて飽きない、子供という突飛な

事をする生き物…。それが日に日に成長して変化してゆく様には、眺めていて妙な感心を覚える。案外これは、ペットに癒され

る独り者のような感覚なのかもしれないとシャチは自己分析するが、それが正しいかどうかは自分でもよく判らない。

 しかし、そんなシャチの態度も家政婦の視点から見ると、家を長く空けながらも娘を気にしていて、帰ってくれば機嫌を取る、

何処にでもいるような一介のパパなのであった。

(家の事や世話は家政婦で何とかなる。が、リンの素性を知ってるモンじゃねェと、周りに上手く嘘の説明ができねェ…。難解

じゃねェかグフフ)

 などと、シャチはハウスキーパーか使用人の確保について考える。情報を詳しく教えても問題なく、こちらの事情を汲んで理

解でき、しかも組織とは無関係な個人が望ましい。が…。

(まァ、そんな都合の良いのなんか居ねェなァ…)

 物思いを中断したシャチと、テレビから目を離したリンは、インターホンに反応して壁のモニターを見遣った。

 ボタンで来訪を告げて、応答や反応を待たず、直通エレベーターに乗り込む客の姿を目にし、リンが「ドゥーヴァさんだ!」

と声を弾ませて腰を浮かせた。

「んん?一日早ェなァ…」

 監視カメラに映っている、年がら年中厚手のコートを羽織っている美女をモニター越しに見つめて、シャチは胡乱げに太い首

を捻った。来てくれと頼んだのは間違いないが、予定より早い訪問である。

 程なく、シャチの隠れ家の一つだった頃から何度か訪問している同僚は、フロアエントランスで出迎えた鯱の巨漢とアジア系

の少女に、大荷物を持った手を軽々上げて笑みを見せた。

「ごめんくださいませ。ただ今到着ですわ」

 ドゥーヴァ・オクタヴィア。シャチの同僚であり、普通の人間女性に見えるが、彼女もまた生物兵器である。

 彼女達はオクタヴィアシリーズと呼ばれる一種の強化人間で、死体を素に作られたシャチ達エインフェリアとは違い、細胞卵

の段階で人為的に手を加えられたタイプ。本来は何度も繰り返せない強化手術に、先天的に耐えられるよう調整された彼女達は、

外見上も通常の人間女性と同じで、潜入工作などには非常に向いている。もっとも、その技術も完璧とは言い難く、通常の人類

を大きく上回る身体機能を有しながら、精神面や情動に異常が見られる者も多い。具体的には、常に好戦的で自分の感情を優先

しがちな者や、常に訳も無く悲嘆に暮れている破滅主義者など、問題行動に及ぶ者もある。

 ドゥーヴァはそんなオクタヴィアシリーズの中で、欠落の無い健全な精神構造を備えている稀有な完成例。…なのだが、それ

でも完璧ではない。シリーズ共通の欠点である温度感覚の異常及び体温調節機能の欠陥を抱えているため、外気に触れる場所で

は常に特製のロングコートで体温を調整している。彼女は常に寒さを覚え、真夏でも肌寒い。その肌感覚の誤情報のせいで着衣

による調整などの加減まで上手く行かないため、体温を常にモニタリングして自動調整してくれるコートは手放せない。これが

徒手空拳でも武装した一個大隊に匹敵する戦闘能力の代償である。

「早ェじゃねェかァ?グフフ」

「頑張りの甲斐もあって、予定より二日早く切り上がりましたの」

「優秀なこって、グフフフフ…」

 そんな言葉を交わすふたりの下側から、まだ背が伸び切っていない少女が存在をアピールするように背伸びした。

「こんにちはドゥーヴァさん!」

「こんにちはリンちゃん。今日もお土産を持ってきましたわよ」

「やったー!ありがとう!」

 少し背をかがめて目線を近付けたドゥーヴァは、リンに微笑みかけながらも少し驚いていた。

 かつてレインという名だった少女。児童買春で搾取された、擦れて傷だらけで摩耗し切っていた少女。それが、今は年頃の女

の子と同じように喜び、笑い、むくれる。しかも、ちゃんと挨拶できる常識的な少女に成長している。

(う~ん…。バリバリの兵器かつ非常識人のシャチさんに面倒を見られても、まっとうに変わる物ですのね…。家政婦さんが人

格者なのでしょう…。確か娘さんが同い年で、遊び相手になってくれているそうですし…)

 リンの好ましい変化が家政婦家族との交流にある事を正確に見抜くドゥーヴァ。より正確に言えば、ハナからシャチに情操教

育は無理だと踏んでいるので、消去法で行けば学校と家政婦意外に変化をもたらす要素はない。

「学校は楽しめていますのリンちゃん?」

 一緒にリビングへ向かいつつ尋ねたドゥーヴァに、リンは溌溂とした笑顔で応じる。

「うん!パパの事話せないせいで、ミステリアスな子?とか?思われてるっぽいけど、上手くやってるわ!」

「………」

 物言いたげな視線を向けるドゥーヴァ。

「………」

 明後日の方向を向くシャチ。

「シャチさん。「設定」はきちんと練って、会話で困らないようにしてあげるべきですわ」

「グフフ…」

「含み笑いで誤魔化さないでくださいませ」

 ここで言う「設定」とは、彼女やシャチが様々な潜入工作などを行う際に使用する、「とある一般人」としての偽りの身分や

バックボーンの事である。シャチ自身は「ジョン・ドウ」をはじめとする複数の偽装経歴を設定しているが、リンについてはそ

の中の一つの娘という、ざっくりした事しか決めていない。

「考えとくぜェ。…で、土産ってのは何だ?」

 担ぎ上げるような大荷物を両手にそれぞれぶら下げていたドゥーヴァは、リビングの床にそれを下ろす。どれだけの筋力があ

るのか、明らかに自分より体積がある荷物を下げる際にも体の芯がまったくブレず、発泡スチロールでも下ろすような軽い動作

である。

「教育も必要ですが娯楽も必要ですわ。何と言っても子供のコミュニケーションは話題のエンタメや流行りのアイテム!」

 ドゥーヴァが荷物から取り出したのは、ゲーム機本体の箱。そして念のため用意した各種コード類の小箱。さらには置いてあ

るテレビ等に対応する端子が無かった場合の最後の手段として用意した高解像度モニター。対応するモニターがあればコード類

は一本で良かったのだが、そこはそれ、ドゥーヴァの気遣い。「モニターが二つ並んではスペースを取ってお困りになるでしょ

うから最終手段のモニターに至る前に解決するようコードは潤沢に用意しておきますわ!」というアレ。

「サンドゥボックス!ゲームは子供の嗜み!リンちゃんもお友達との会話で困る事がなくなるでしょう!」

 一推しのゲーム機を誇らしげに紹介するドゥーヴァ。まるでミニケーキでも翳すように、片手の掌に箱を乗せて高々とさし上

げている。

「グフフフフ!俺様も知ってるぜェ、アレだな?人気キャラのカートとかゴルフとかテニスとかパーティーとかのアレだろォ?」

「…グーでぶちますわよ?」

「グフ!?何で笑顔で怒ってんだオメェ!?」

 そんなふたりのやり取りを他所に、リンは目をキラキラさせていた。

「知ってる!戦闘機とか戦車のゲームとかできるやつでしょ!」

 顔を見合わせるシャチとドゥーヴァ。

「何故に物騒な教育をしてらっしゃいますの?」

「してねェ。コイツの素質とかじゃねェかァ?意外と見込みあんなァグフフフ。まァとにかくだ」

 シャチは床に座り込んで箱を開けているリンの後ろ姿を眺めつつ、ドゥーヴァに囁く。

「明後日からしばらく頼むぜェ?そこそこ長丁場になりそうな気がするんでなァ。グフフフ」

 シャチの不在中ずっとリンの面倒を見られる訳ではないが、ドゥーヴァは二週間の休暇を使って世話を引き受けている。任務

が入れば出なければいけなくなるので、また家政婦に任せきりになるのだが…。

「今度の任務は何処の国ですの?」

「中国のどっかだァ」

 ざっくりし過ぎているシャチの返答を聞き…。

「…行き先を聞いただけで長引きそうな気がしてきましたわ…」

「空振りなる可能性が高ェ案件だからなァ、案外トンボ返りしてくるかもだぜェ?グフフ!」

(空振りの可能性が高い?まさか…)

 ドゥーヴァは引っかかりを覚えた、が、リンが居る小の場ではあえて確認しない。

 空振りに終わる可能性が高い…つまり信憑性が薄い情報を元に、シャチ・ウェイブスナッチャーが派遣されるという事は、「

万が一当たりだった場合」に並の構成員では対処不可能だという事を意味している。

(行き先が中国…。不確かな情報にも関わらず、ボスはシャチさんの派遣を決めた…。と来れば、これは…)

 取り出されたゲーム機を、養女と一緒になってしげしげ見つめているシャチを見つめながら、ドゥーヴァは確信に至る。

(「仙人」絡み、と見て間違いありませんわね…)

 

 

 

「地震の跡をかね?」

 やや青味がかった、ロマンスグレーの髪が印象的な老人の隣で、大柄な狸が顎を引く。

 味噌タンメンが名物の、飲み屋街の端にあるラーメン屋。パトロンのひとりである老人と会食しつつ土産話を聞かせていたカ

ナデは、しめくくりにここへやってきた。

 が、店内は異様な景色である。

 時間を指定して貸し切りになった店内は、カウンターに座るふたりの他、老人のボディガードである黒いスーツ姿の男達で、

十五席しかない店内が埋め尽くされていた。大財閥の総帥を伴って入店するにはいささか不適切な場だが、前々からカナデが美

味いと言っていたラーメンを食してみたいと、総帥が強く希望したため、今夜はこんな事になってしまっている。

 緊張でやや顔が強張っている三十代の店主が、カウンターの向こうで冷や汗をかきつつ調理に勤しむ間、老人はカナデから次

の取材先について話を聞いていた。

「今度は被害現場の取材とも違うから、気が楽ですネ」

 国際ニュースではあまり騒ぎにならなかった、怪我人も殆ど出なかったそこそこの規模の地震。このせいで景観が変わった場

所が多いという情報を入手した大狸は、地震前後の比較風景を纏めたいと考えている。

「次に発行する写真集に加えるのかね?」

「その予定です。…まあ、酷いようなら見合わせますけどネ」

 地震による変化を経て、景色に面白味が残っているならそれでいい。しかし、無残な変化を遂げているなら、それをわざわざ

写真に切り取って公表するような事はしたくない。

 例えば、地震で見所が無くなったと自分の写真が周知したせいで、そこを訪れるひとが減るとする。この場合、カナデは観光

客の減少について責任など取れない。被害の状況であればいずれ公的機関などが纏めるのだから、あえて自分がいち早く傷口を

発信する事はない。その場合はかつての風景を記録として残すだけでいいとカナデは考える。

「なるほど、どんな所なのかね?」

「水墨画みたいな景色が何処までも続く、奥地の奥地です。行き来は大変ですけど、風景と魚はとにかく絶品で…」

 丸顔を笑み崩して、カナデは付け加える。

「住んでるひとも、良いひとばかりでした」

「そうかね。フウにもそこらの話を聞かせてやって欲しいが…」

「はい、明日の夜はそうします」

 出発は明後日。明日一日は総帥の私的な別荘に招かれて、豪勢な休暇を楽しむ事になっている。別荘の管理人である若い熊に

土産話をどう聞かせようか考えながら、楽しそうに微笑した大狸は…。

「来た来た!これだよこれ!」

 ドンと目の前に置かれた、分厚い大きなドンブリを前にして舌なめずり。

 カナデのイチオシメニュー、味噌タンメンスペシャルグレート。何処がスペシャルでグレートかと言うと、ノーマルとの違い

は全体のボリュームと半熟卵と背脂の有無。

 総帥の前には通常の味噌タンメンの半熟卵乗せが出てきたが、スペシャルグレートと並べて見れば、器のサイズ自体が半分と、

比べるまでもなく常識的な量。

「では、頂きます」

「頂きまーす!」

 手を合わせてから取り掛かる総帥とカナデ。

 消毒済みの箸は、重みがある縮れ太麺をしっかり掴めるよう、先端から5センチほどは小さな溝が水平に彫られている。内側

がすり鉢のようになっているどんぶりは、肉厚なのでスープの温度が変わり難い。

 食器にも気を使っている事を分析しつつ、モチモチした太い縮れ麺をしっかりスープに絡ませた総帥は、二口啜ってから「な

るほど」と経営者の顔で頷いた。

 赤味噌と挽肉と焦がしニンニクが全力で殴り合っている濃厚な味わいのスープは、しかし三者が纏めてKOし合ったが如く、

後味がスーッと引いてしつこく残らない。

 太過ぎる気がした縮れ麺に対して、このスープは絡みやすい挽肉も含めて最適化されていると感じた。改めて確認すれば、店

のメニューには味噌系しか無い。一本に絞って突き詰めたが故の、専門店の味わいの結晶と言える。

 同じ話を繰り返さないカナデが、何度か感想を口にする…つまりオススメであるとアピールする理由が、来店してよく判った。

 粗野な見た目に反し、揃えば精緻な仕上げになる味噌タンメン。半熟卵を混ぜ込めば味わいはマイルドな変化を遂げる。これ

は普通に面白いし、何より…。

「美味い。それだけでなく、良い」

 総帥の言葉から、味だけではなく感じた全ての事柄に対しての良さへの感嘆を感じて、カナデは嬉しそうに耳を寝せる。ゾル

ゾルと豪快に麺を啜りながら。

(出前が無いというのは惜しいな。店主独りで切り盛りするのでは難しいのも判らないではないが…)

 総帥は濃く感じてスッと引く味噌スープの味わいを楽しみながら、「マスター」と声をかけた。

「マスター…?」

 言われた事の無い呼びかけで面食らった店主に、

「この店舗の拡張工事や二号店などの出店含め、もし事業を拡大する予定があるなら、是非一枚噛ませて貰いたいのだが、如何

でしょう?」

 総帥は商売っ気を出してラブコールを送っていた。

 

 

 

 リ…、リ…、とか細く、切なく、虫の声が草擦れと風の音に混じる。

 夕刻過ぎて陽が山々の向こうに沈み、空が刻々とビロードの色に近付いてゆく中、重ねられた枯れ枝から上がる火がパチパチ

と音を立てながら、暗さに対して明るさを増してゆく。

 切り立った絶壁の根本、焚火の炎は岩壁に人影を二つ、揺れ躍らせながら映していた。

 倒れた太い枯れ木の幹に並んで腰掛け、火にあたっているのは、老人と、幼さがまだ濃く残っている少女の二人組である。

 老人の方は、デップリと肥えて丸みを帯び、緩んだ体つきの虎。ただし普通の虎ではなく、牙が長大な異形の虎である。もっ

とも、右の牙は根元から失われており、片牙になっているが。

 元々は鮮やかな黄色だった被毛は、歳を経て色素が薄くなり、体の外側の浅黄色が喉や腹、手足の内側のクリーム色へと、グ

ラデーションで変化している。しかし黒い縞模様は比較的褪色が無く、淡い黄色に対して濃く見えるほど。

 立ち上がればゆうに190センチはあるだろう大柄な体躯は、古い時代の文官が纏っていたような着物に覆われている。漢服

様式のゆったりした着物は白地で、襟はワスレナグサを思わせる淡い青色。

 太古に存在していた古種…剣牙虎の獣人である。ただし有史以前に姿を消しているため、現代の人々はもう知らない種。生き

た化石と呼べるような存在なのだが、サーベルタイガーの獣人という種自体が知られていないが故に、虎獣人の一種としか見ら

れず、その希少性に誰も気付かない。

 少女の方は狐の獣人。十代前半と見える、まだ子供と呼べる歳の頃。

 細くしなやかな肢体はフカフカした被毛に覆われており、夕映えの雲のように鮮やかな明るい茶と、墨のように濃い黒と対照

的な純白、美しく若々しい毛色。

 大きな鉄鍋を胸に抱くような格好で抱え持ち、老人にピッタリとくっついて寄り添い、枝で焚火をつつくその手元をじっと見

ている瞳は、炎の揺れで幻想的に煌めいていた。

 背中側には少女が体を丸めれば入れるほど大きな布袋が置いてあり、少し開いた口からは調理器具の一部…おたまの柄などが

覗いている。

 程なく片牙の虎が視線を向けると、「うん」と頷いた狐の娘は、立ち上がって鉄鍋を火にかけた。地面に刺した細い鉄棒五本

が脚になり、底を火であぶられる鍋に、革袋から水が注がれる。

 水が湯になり、そして沸騰するまでに、老人は数本の竹串に鳥肉を刺して軽く火で炙り、少女は大きな袋から取り出したまな

板を膝に乗せ、瑞々しいチンゲンサイを刻む。

 少女の手つきはかなり雑で、ダイナミックに切られたチンゲンサイはいずれも個性豊かな断片になっているが、鳥肉を焼き終

えて芋の皮を剥き始めた老人の手は対照的に淀みなく、綺麗にスルスルと皮を剥いでゆく。

 湯がグツグツと大きな泡を弾けさせる頃を見計らって、老人は具材を鍋にそっと入れ、右手では匙でゆっくりと回すように混

ぜ、左手では調味料の小瓶を代わる代わる器用に持ち替え、塩などを少しずつ振りかけて味を調える。

 ややあって、具の種類が少ない、慎ましくも良い香りの八宝菜ができあがると、老人はお椀によそって少女に渡す。

「いただきます!」

 元気よく言って、ハフハフ吹いて冷ましつつ、木の匙で食べ始める狐の少女。

「うん!美味しいわよ、流石お爺ちゃん!」

 笑顔で尻尾を振る少女に、目を細くして柔和な微笑を返した老人は、八宝菜をお椀に取り分けて鍋を一度空にすると、大袋か

ら山羊の乳が入った革袋と米の袋を取り出した。

 次いで鍋で作るのはミルク粥。火にかけてクツクツと煮込む間に、老人も八宝菜を黙々と食べ始めた。しかし、その量は少女

と同じ程度かやや少ないほど。体の大きさからすれば小食である。

 頭上にはもう星の瞬き。すっかり暗くなった周囲には、見渡す限り民家の灯りは無い。

 そこは、数日前に地震が起きて景観が変わった場所から、少し離れた山中。岩肌がむき出しになっている険しい絶壁と、斜面

に逞しく根を張った木々が、灰色と緑で鮮烈なコントラストを生み出す奇岩風景の真ん中。

 ひとが行き交う道から外れ、車などが走れる街道も遠い。そんな場所で野営するのがふたりにとっての日常。

 ふたりには家が無い。定住する事無く旅を続けており、少女は物心ついた時から旅の日々を過ごしている。

 明るい内は歩き続け、晴れた日は星々が瞬く天蓋を眺めて眠り、雨の日は崖や洞、巨木の下に軒を借りる。そうやってふたり

は十数年、旅を続けてきた。

「え?お粥そろそろいい?…あ、本当だ」

 老人は無言なのだが、少女は何か言われたように顔を上げ、鍋を覗いた。熱されたショウガの根と粉末にしたクルミが隠し味

の、さっぱりした甘さのミルク粥は少女の好物。よそわれるなり一所懸命に息を吹きかけて粥を冷ます少女の様子を、老人は穏

やかに微笑みながら見守っている。

 ゆっくりと食事を摂るふたりを、暗がりに潜むいくつもの目が見ていた。光と匂いに誘われた野犬の群れである。

 しかし、時には人も襲う野犬達も、手出ししようとは思っていない。興味を持っての観察で、多くはリラックスし、微睡んで

いる者まであった。

 そういった野犬の存在を把握していながら、老人は放っておく。危害を加えられる事は無いと知っているから。

 少女もまた、野生の監視を気にも留めない。この老人の傍に居る限り、襲われる事は無いと理解しているから。

 食べ終えて食器を片付けながら、少女は言う。奇妙な事に、小さな水の袋は大鍋を満たしても、食器を洗い流しても、空にな

らない。

「明日はもっとたくさん歩くから!早く「アイツ」を見つけられるように!…え?平気だよ、おんぶして貰うほど疲れてない!

足手まといなんかにならない!」

 焚火に小枝を追加しながら、老人は少女の返事で微笑み、思う。

 少女が小さい頃は旅路の殆どをおぶって歩んだが、毎年自力で歩ける距離が延び、ここ数年はだいたい自分の足で歩いている。

ひとの子が大きくなるのはあっという間だと、今日までの道程を思い返す度に感慨深くなった。

「それは大きくなるよ、当たり前じゃない。大きくなって、大人になって、そうしたらチーニュイはお爺ちゃんの奥さんになる

んだ!」

 狐の少女は大袋に荷物を詰めている老人に、後ろから抱き着いて首に腕を回す。おんぶするような格好で少女をぶら下げなが

ら、片牙の虎は食器類を詰め込んだばかりの袋から、ズルズルとボロ布とムシロを引っ張り出し、寝床の支度を始める。

 支度が済み、焚火を消して、重ねて敷いたムシロに少女を寝かせ、老人は寄り添って身を横たえた。

 薄い布を被り、向き合う格好で老人に抱えられ、少女はニコニコしながら老虎の脇腹に腕を乗せ、密着する。枕は老虎の腕で、

暖房器具は柔らかい腹。フカフカした毛とポヨポヨした肉に覆われている、老いた虎の緩んだ体の手触りが、少女は好きだった。

 柔らかく包み込むように抱かれて、安心してすぐ眠りに落ちた少女の頭を、老人はそっと撫でた。

 手がかからなくなってきた。一人立ちできるまで、あと数年といった所だろうと考える。

「金陸吾(ジン・ルーウー)」。それが老人の名。ただし姓は十数年前から名乗り始めた物で、下の名前も元々の物とは違う。

「金織姫(ジン・チーニュイ)」それが少女の名前。老人の孫という事になっているが、実際には血の繋がりはない。

 十数年前。老人はごうごうと燃える火に包まれた村で、生存者を探していた。そこで、事切れている若夫婦に抱えられ、煙に

まかれて死にかけの赤子を見つけた。

 火が回った村の唯一の生き残りであり、親戚も知り合いも居ない赤子。親から違う名前がつけられていたのかもしれないが、

知る術もなかったので、老人は身寄りのない赤子をチーニュイと名付けた。

 何処かに預けようと考えていた頃もあったが、ことごとく上手く行かず、結局諦めて連れたまま旅をしている。

 夜風が少し強くなり、老虎は少女の首までボロ布を引き上げる。見た目はただの古い布だが、保温性は高い。敷いたムシロも

薄く見えるものの、地面の硬さをしっかり和らげる。いずれも老人が故郷から持ち出した、見る者が見れば至上の宝である。

 大事な大事な孫を抱えて、ルーウーはその寝息を数える。

 為すべきことを成すための旅路だとて、決して二の次にはできない存在。ルーウーにとってのチーニュイは、今や最も大切な

命となっている。

 不意に、老虎は鼻を鳴らして空気を嗅ぐ。

「………」

 相変わらず無言のまま、老人は目を細くして思案した。

 音の気配。山々を跳ねて回る風鳴りとやまびこの匂い。

 嵐の気配。重たい雨を引き連れて訪れる、暴風の匂い。

 何処か、懐かしさを感じさせる何か。

 歪であり、しかし純粋でもある何か。

 遠く微かなその気配から、やがて老人は意識を遠ざける。

 意識する事は少なからず意味を持つ。交わるかどうかも判らない運命の糸を、意識してしまえばいちいち手繰り寄せる事にも

なりかねない。必然であれば近付く事もあるだろう。そうでなければ気に留める必要もない。

 そうして老人は再び孫の頭を撫で、眠りもせず、静かに夜明けを待つ。

 

 夜間も走り続ける列車のライトが、闇を押しのけて線路を浮き上がらせる。

 カプセルホテルのような空間割りになっている寝台車は、寝床が硬く、横揺れが酷く、揺れに耐えて力む事で体中が痛くなる

という評判だが、狭い空間にギュウギュウに詰まっている大柄な狸は熟睡していた。

 狭さも揺れも寝心地の悪さも苦にしないカナデは、すっかりリラックスして、鳩尾までシャツがめくれて露出している太鼓腹

を掻きつつ、スークースークーと規則正しい深い寝息を立てている。

 熱帯の密林でも、極寒の雪山でも、嵐の海上でも、煙い戦場でも、休むべき時に休めるよう、しかし異常があれば即座に目覚

められるよう、徹底的に訓練された成果である。

 休まねば動けず、食わねば動けず、動けねば死ぬだけ。乱暴なようで真理でもある師の教えは、カナデの旅路を支える屋台骨。

 列車が止まる早朝からも、交通手段を変えてかなり移動する。動かなくていい時に体力を貯蓄し、動くべき時に備えるという、

いつもの行動方針をとっているカナデは、しかし「完全に予定外の再会」によっていつも通りの取材旅行にならないという事に

は、流石に気付いていなかった。

 

 夜空の色に溶け込んで、ネービーブルーのヘリが飛ぶ。

 いかなる技術による物か、ローター音が地上まで届かず、近付いてようやく小さく聞こえる異様なヘリは、灯りもつけずに目

標地点へと近づいてゆく。

 その後部、大掛かりな機材なども積み込める、消防ヘリのように後ろ向きの扉を備えた格納庫で…。

「そろそろ目的地付近です」

 迷彩柄のジャケットとズボンに身を包んだシベリアンハスキーは、カツンと靴音を鳴らして上官の後ろに立った。周囲にも銃

で武装した兵士が揃っているが、小隊長のハスキーだけはいずれとも装備が異なり、銃を持たず腰に剣を帯びていた。

 広い床の中央に胡坐をかき、崩した姿勢で葉巻を咥えている鯱の巨漢は、肩越しに振り向いてニヤリと笑う。

「予定より三十二分早ェなァ。パイロット褒めとけェ、俺様が個人的にボーナス出すってよォ。グフフフ!」

「了解しました」

「軍の動向はどうだァ?」

「目立った変化はありません。「依然として捜索継続中」、「付近に広域展開したまま」です」

 ハスキーが言う通り、この近辺の地表…先に地震が発生した周辺区域では、政府が極秘で派遣した軍の部隊が、完全武装で広

く展開し、捜索に当たっている。対象を捕縛するため、あるいは殺してでも確保するために。

 にもかかわらず、シャチは腰を上げてレーションが少量入った小ぶりなザックを掴み、降下準備に入る。連帯規模の兵が展開

中の地域の真ん中で。

「オメェは部下を引き連れて周辺捜索だァ。同時進行で軍の動向を監視、何かあれば狼煙で報せろォ。特に「何か見つけた」っ

ぽいようならなァ。…作戦期日は三日間。所定の時刻までに俺様から回収の合図がなかったら、予定通り撤収しとけェ」

 みなまで言わないが、三日以内に合流できなければ撤収。自分は自力で帰るから放っておけ。というシャチの意を汲み、グリ

スミルは顎を引く。

(いっそ帰って来なければ、昇格のチャンスがあるんだがな…)

 エージェントに空席ができるとしても、この鯱が穴を空ける形にはならないだろう。ハスキーはそう苦々しく思う。シャチが

帰って来ない事などまず在り得ないという確信による苦々しさは、つまり彼の力への信用を証明する物でもあるのだが。

「じゃァ行くぜェ。そっちも上手くやれよォ?グフフフフ!」

 後部ハッチが開き、シャチは無造作な足取りで、空中へ踏み出す。風圧に激しく体が打たれる中、手足を大きく広げて落下に

入ったシャチの瞳は、定間隔を開け分隊単位で展開して休息している連隊の全容を、赤外線の視認によって把握した。

 パラシュートすらない自由落下、そのまま落下すれば粉々になるような高低差だが、シャチの周辺に大気中の水分が集まり、

手足の間に即席の膜を形成した。

(さァて、地震を発生させる程の能力者か…。それとも本当に「仙人の戦闘痕」が見つかるか…。開けてみてのお楽しみって訳

だァ。グフフ!)

 ムササビのように滑空し、展開した部隊の隙間へと降下してゆくシャチは、練ってきた行動計画を脳内で反芻する。…が、こ

の後「完全に予定外の再会」が待っている事は、流石にシミュレートしていなかった。