漂泊の仙人と煙雲の少女(二)
「絶景だよ…」
呟いた大男の眼前を、薄い霧のような雲が横切ってゆく。
苦労して這い上った30メートルの岩山…四方が断崖絶壁のそこから見渡す景色は、水墨画に描かれるような奇岩風景。
人の指のように細長く天を指し、大半が草木に覆われず肌をさらしている無数の岩山が、距離をあけて林立する圧巻の風景。
大小20~40メートルほどのその間には岩がゴロゴロと転がり、細い清流が網の目のように走っていた。周囲には濃い霧が流
れており、そこから頭を覗かせる岩々は白い衣を纏っているようにも見える。
質の違う岩が埋まった高地を永い時を経て水が侵食し、水の流れで削られなかった部分が岩山として残った。付近に転がる巨
大な岩塊は、風雨に折れて崩れた岩山の残骸。もとは激しく流れ模したのだろう水流も、今は道が増えて穏やかになり、細くも
絶え間なく流れている。その岩山群の間に水流の蒸発霧が溜まり易いため、この地は多くの場合煙雲に包まれている。
その成り立ちを資料で調べて知っている自分はともかく、地質学も発達していなかった時代には不思議で仕方なかっただろう
と、カナデは思いを馳せた。現地の民がずっと昔につけた、この地の名前を思い出しながら。
(「仙人指」とはよく言った物だよ。この神秘的な景色にぴったりの名前だナ)
岩に傷などを残さないよう、危険性度外視で登山器具を一切使わないクライミングで挑んだが、苦労の甲斐はあったとカナデ
は満足した。
スーッと深く空気を吸い込んで、大きな腹を一層大きく膨らませたカナデは、空気の旨さを実感する。立ち込める霧のせいで
湿度が高く、深呼吸すると元々濡れているはずの舌が結露するような錯覚を覚える。湿気に対して不快に感じないのは気温が高
くないせいだろう。
それに、この風景を作り上げた悠久の時が霧に溶け込んでいて、それを一緒に吸い込んでいるようにも感じられる。思い込み
に過ぎない物だとしても、カナデはそういった感想をなるべく大事にしていた。無味無臭の記録として必要とされる物でない限
り、感じた物は無駄ではない。写真にも数字にもできない、命ある者だからこそ感知できる物が、個々人の貴重な感想だとカナ
デは定義している。
(写真撮ったら忘れない内にササッとメモしておこうかナ。こういう時は宿の予約も滞在先も決めてないのは気楽でいいネ)
目的地はまだまだ先、寄り道ばかりはしていられないのだが、写真家としての感性が刺激されまくるので、ちょっとだけ…と
岩山登り。こういったちょっとした気ままが許されるのは、取材日程に融通が利くフリージャーナリストの特権である。
3平方メートルもない岩山のてっぺんから、腰を少し曲げて眼下を覗くように、手すりも無い絶壁上をまったく怖がらずにカ
メラを構えるカナデ。ファインダーを覗くなり数枚、そのまま視線を水平に変えてまた数枚、向きを変えて数枚、被写体を遠く
の崖や絶壁から生えた梅の木に変えながら数枚。楽しくなってきてレンズを交換し、またパシャリパシャリと撮ってゆき…。
「…際限なく撮っちゃうネ…」
時間をかけ過ぎた事に気付いてペロリと舌を出した狸は、名残を惜しむように最後の一枚を撮ろうとカメラを構え…。
「………」
一度覗いたファインダーから目を戻し、素早くその場に伏せて、ザックをひっくり返す。光を反射するベルトの金属部分を隠
す処置である。
伏せたカナデが見つめる先には、岩場だらけで霧が立ち込めた見通しの悪い景色の中、茂みや岩陰を確認しながら移動してゆ
く一団の姿。それだけならば何かを採りに来ている地元民と考えられない事もないのだが、カナデが警戒したのには理由がある。
確認できた五名全員が、アサルトライフルで武装していた。
(武装勢力…がうろつく場所じゃないはずだよ。軍の部隊かもしれないナ…)
やましい事はしていないが、トラブルは御免だし、確証が持てない以上は接触したくない。幸いな事に荷物は背負ったままで
来ており、確保用具やロープも用いず岩山に登ったので、痕跡も残していない。
(軍だったとしても、少なくとも地震の被害者救援に派遣されたわけじゃないナ。救助用の装備じゃないし救助犬も連れてない。
被害があった地域からも離れ過ぎてる。探し物は被害者や被害の形跡以外…。それも、危害を加えられる可能性や危険性がある
何かが対象だよ…)
何かを探しているらしい兵達は、カナデが身を潜めている切り立った岩山に向かって、ゆっくりと移動して来る。大狸は顔を
出さず、確認した情報から推測を巡らせているが、慌てもしなければ焦りもしない。
岩山の麓に兵達が迫ってもカナデは動かなかった。兵の内二人が頭上を見上げて天辺に目を凝らすが、下からは死角になって
狸の姿は見えない。赤外線カメラでも下から向ければ岩陰なので、感知される恐れはない。
兵達はカナデが居る岩山の真下に来たが、登ろうにも危険が伴う上に、簡単には行かない岩肌をぐるりと確認しただけで、怪
しむ様子は見せなかった。杭もロープも打ち込まれておらず、ピッケルで抉れた形跡も見当たらなかったので、山頂の確認は必
要ないと判断して立ち止まらずに移動してゆく。柱のように屹立する岩の一つ一つを入念に確認している余裕は無いのだろうと、
その確認の手順と進行速度から察せられた。
そのまましばらく、兵達が周辺の探索を終えて遠くに離れるまで、カナデは岩山の上で伏せたまま身動きせずにやり過ごし、
やがて十分に時間が経ってから荷物を背負って、岩山を這い降りる。見晴らしの良い高台から再確認される事も懸念し、兵達が
去った方向とは逆側からソロソロと。
(…人探しかナ?それとも猛獣かナ?殆ど声を掛け合ってなかったのは、隠れるような相手を対象にした捜索だから…とも思え
るけどネ。その点から見ても救助じゃないかもネ)
降りたすぐ傍の岩陰に身を隠し、周囲の気配を探りつつ休憩するカナデは、胡坐をかいて腕を組み、首を捻った。
兵達が探しているのは生き物だと確信した上で、目的を想像しようとしたが、情報が少ない。
まず、地震が起きた地域は特に立ち入り制限もかけられておらず、軍の監視下に置かれるような状況ではないはず。武装した
軍人がうろついている理由としては、危険な害獣の駆除というのが現実的な線だが、それにしては装備が気にかかる。あれでは
まるで…。
(猛獣対策としても過剰だナ。そもそも猛獣なんかの狩猟や駆除というより、戦闘を想定してるような装備だったよ…)
危険な紛争地帯も渡り歩き、各国の軍備も職業柄ある程度憶えているカナデは、遠めに見て装備を確認しただけでも、おおよ
そどういった行動を想定しているか見当がつく。
ついでに言えば、兵達の行動、仕草、あるいは雰囲気のような物に違和感を覚え、気味悪く感じてもいる。何処がどうおかし
いと指摘できないレベルの微細な違和感だったが、こういった感覚を気のせいだと流さないからこそ、彼は今日も息をしている。
(機密軍事行動だったら、出くわしただけでもスパイ容疑で収容されるよ。…何が起きてるんだろうナ?)
カナデは基本的に「本当の危機」を嗅ぎ分けられる男である。傍から見れば常々危ないところをうろついているが、それは自
力で何とかなるという確信があっての事。どうしようもない危険や、危険度がどの程度か把握できない場合は、察知した時点で
近付かないというのが基本方針。よって、この時点で出直しを決断した。
(とりあえず、見晴らしのいい場所は避けて歩くよ)
そして日暮れまでにここから距離を取り、適当な所で公共交通機関を見繕い、ここに居たという事を誰にも悟られずに帰る。
…つもりだったのだが…。
(なかなか働き者じゃねェかァ。グフフ)
背の高い木の、曲りくねった太い幹に胡坐をかいて、茂った葉に身を隠しているシャチは遥か彼方…地平線間際の人影の群れ
を観察する。
何かを捜索している部隊の仮設駐屯所。そこから出入りする分隊、あるいは小隊規模の兵。器具に頼らず自分の目で遠距離か
ら観察しているシャチは、別に彼らの働きぶりや真面目さを褒めている訳ではない。
(あの兵士、帰陣は十六時間ぶりかァ。で、あっちは歩哨に立って十二時間…、便所にも行ってねェ。飯はまぁ、携帯食を食っ
たがありゃ何だ?煉瓦みてェなのモソモソ食っただけじゃねェかァ?)
いくら訓練された軍人とはいえ、非戦闘時にここまで働き詰めになる必要は無い。切迫している状況ならばいざしらず、体力
に余裕を持たせてナンボというのが部隊の基本である。
シャチが部隊の観察を始めて丸一日になる。最初は、兵ひとりあたりの行動時間が長い気がする…という程度の軽い違和感に
過ぎなかったが、移動と調査を繰り返す間、動向に気を配っていて異常だと認識した。
(かといって、全員じゃねェ。普通のサイクルで休息する連中も居る。下っ端はともかく、中隊長レベルになると普通に休んで
んなァ。グフフフフ!ブラックだぜェ!それに比べて、年間三十日支給で未使用分の次年持ち越しアリの有給と、サマー休暇と
クリスマス休暇とイースター休暇とハロウィン休暇と特別休暇、月の残業に十時間の制限がある俺様の会社は我ながら優良企業
だなァ!)
などと面白みを見出しながら、しかしシャチは疑念を深めてゆく。
何らかの手段で兵士の活動時間を強制的に引き延ばす術を、この国の軍は見つけ出したのではないか?と。
(あの煉瓦みてェな携帯食料かァ?それとも、カンフル剤みてェなモンでも打ってんのかァ?活動時間の長さは人数に掛け算さ
れるからなァ。厄介だぜェ)
戦闘行為を避けるどころか、そもそも存在すら気取られたくないシャチにとって、広範囲を長時間探索する部隊は面倒な障害
だった。とはいえ、観察もこの辺りで切り上げなければいけない。何もないと確信できたら当初の予定に従って撤収するつもり
なので、確認を急ぐ必要がある。
(あっちも仙人探しと見て間違いねェ。つまりこれまでに軍が調べた場所には居ねェって事だ。俺様が探さなきゃならねェ範囲
は、あっちの頑張りの分だけ狭まるなァ)
傍の枝に引っかける形で吊るしていたザックを取ると、シャチは枝から飛び降り、15メートル下の岩に着地する。そして足
跡も残さないルート取りで、捜索が及んでいないだろうと目星をつけた範囲に向かって歩き出した。
(とりあえず、現地民に聞き込みと行くかァ。少し遠いが街道添いの町があったなァ)
ピタリと、岩を踏み締めたブーツが擦れ音も立てずに止まる。
岩場と木と草むらで見通しが悪いルートを選んで移動していた狸は、水音を耳にして支流がある事に気付き、顔を顰めた。
水際に寄る時は普段の五倍気をつけろという師の教えを思い出す。水の通り道は必然的に視界が開け、直線距離にすると相当
遠くまで視線が通る事もある。特に、それを頼りにして見張る者もあるため、要警戒ポイントと言える。
小川か沢と思われる水のルートを確認してから、避ける経路を考えようと、カナデは茂みの陰を利用しながら水音に近付いて
いった。
(…これは、まずいかもネ…)
そう感じたのは、水が跳ねる音を耳にしたからである。岩などに流れのまま当たって跳ねるのとは違う、不規則なリズムの、
誰かに使用されている水音…。
(確認だけはした方が良いかナ…)
距離がもう少しあったら迷わず離れたが、あまりにも近いので相手の状況と正体を確認すべきだと、カナデは決断した。向こ
うがこちらに気付いているかどうかも含めて、知っておかなければ安全かどうかの判断ができない。
気配を消して、そっと足を忍ばせ、茂みに隠れながら距離を詰める。近付く最中で気付いたが、水流は幅2メートル程度の沢
だった。ゴロゴロとした岩が転がる中をゆったり弧を描いて蛇行しているせいで、流れはゆるやかである。
(余裕があれば腰を据えて写真を撮りたい景色だけどネ…)
惜しいと思いつつ、いよいよバシャリと水が跳ねる音が大きく聞こえる距離になると、カナデは低木樹に茂った葉の隙間から
水際を覗いた。そして…。
「!」
慌てて視線を外し、顔を俯ける。
(やっちゃったよぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!)
ダラダラと脂汗を流すカナデ。薄霧漂うその向こうに彼が見たのは、沢で水浴びしている若い娘…十代前半の狐の裸体だった。
太腿まで水に浸かった狐はこちらに背中を向けており、気付かれていないし大事なところも見てはいないが、罪悪感が分厚い胸
を締め付ける。
(お詫びしたいけど、これは困ったよ…)
裸体の少女。カメラを持った男。覗きや隠し撮りを非難されても申し開きできない状況である。
思うに、見られたと気付かない方が幸せなのではないだろうか?少女の名誉のためにも黙ったまま去って、見られたという事
実を意識させない方が良いだろうか?これは別に保身のためではなくあくまでも相手の為で…。いやしかし悪気が無かったとは
いえ、しでかした事を伏せて去るのは不誠実なのでは?
などと、揉め事に発展させないためには選択の余地など無いにも関わらず、持ち前の道徳観に選択を阻まれたカナデが逡巡し
ていると…。
「あれ?お爺ちゃん、どこ行ったの?」
(御祖父様も御一緒なんだよ!?)
聞こえてきた少女の言葉で目を剥くカナデ。
保護者に見つかりでもしたら大変である。しかもその保護者の姿が見当たらなかった。何処にいるのか判らない。少女が判ら
ないのだから知り合いですらない自分に判るわけがない。ここに居たら出くわす可能性もある。そうなったら申し開きも難しい。
逃げの一手しかない。しかしそれはそれで卑怯なのでは?いや卑怯とか言っている場合ではないし可愛い孫娘の裸を覗いた不埒
者として鉈でも持った御爺様に襲い掛かられては困るので名乗り出るなどもってのほかなのだが気持ち的には何だかひととして
社会人として大切な物を放り捨ててゆくような忌避感もあり…。
反政府武装組織が徘徊する街で瓦礫の陰に身を隠して息を殺している時ですら冷静なカナデだが、故意ではなかったとはいえ
少女の未成熟な裸を覗き見てしまった今回は、後ろめたさもあってアワアワと慌てて…。
ヒチョッ…。
そんな、静かな水滴の音が背後から聞こえ、カナデは全身の毛を逆立て、丸い体を一層丸くする。
気配が察知できなかった。今も背後に誰かが居るという感覚は皆無。だが、ヒチョ、ヒチョ、と水滴が続けて岩場に落ちる音
が続いている。
すぐ後ろに居る、水滴がしたたり落ちるほど濡れた何かを、先刻見た兵士達とは思わなかった。状況的に少女が口にした祖父
なのだろうが…。
(近付かれるまで判らないとか、どんな達人だよ…!?)
何となく、中国、老人、何らかの拳法を習得している…と連想したカナデは、まずは謝ろうと、おずおず向き直り…。
(…?)
目にした男の姿で、何よりも最初に違和感混じりの奇妙な感覚に囚われた。
そこに居たのは、贅肉がたっぷりついて緩んだ体つきの、年老いた大柄な虎の獣人だった。
身長は190ほどだろうとカナデは目測する。
頬が大きく見え、肉に押し上げられたように細い目には、静謐に凪いで空を映した湖面を思わせる薄青い瞳。好々爺と呼べる
優しげで穏やかそうな顔つき。
脇の下方向に繋がるほど肉付きが良い胸に、土手肉の段差が大きく、脇腹まで左右に広がった布袋腹。
顎下にもタプタプと肉がついている上に、胸や肩も贅肉が厚いので、首は埋まって見えるほど短い。
腕も太腿も太いが、皮下脂肪が厚過ぎて全体的に丸みを帯びており、筋肉のラインが殆ど見えない。
腹の土手肉が出っ張り過ぎて濃い影を作っているその下には、バナナのように太い陰茎が、先端まですっぽり皮を被って下を
向き、さらにその下にはピンポン玉が二つぶら下がっているようなサイズの陰嚢。
そんな緩んだ体型と、だいぶ色褪せた体毛が目を引くが、もっと特徴的なのは他の箇所。
まずはその顔。閉じていても口から出るほど左の犬歯が伸び、先端が丸顎の下部より低い位置にまで達していた。
そして腹には、さらに目立つ特徴があった。
面積が広い腹の鳩尾から臍上にかけて、ある紋様が見られる。向かって右は頭を下にした黒い勾玉模様。向かって左は頭を上
にした白い勾玉模様。これらが組み合わされた、太極図や陰陽魚などと呼ばれる紋様である。
老虎の腹側はややクリーム色に寄った白なので、紋様の白い部分は溶け込んで見え辛くなっているが、漂白したように真っ白
なので地毛とは色が異なる。入れ墨した地肌が露出しているのではない。おそらく被毛をそう染めてあるのだろうとカナデは考
え、ふと思う。知識には無いが、この陰陽紋を身に描いているのは、道教などの宗教的な物だろうか、と。
一方でその老人は、カナデを見て怒るでも慌てるでも声を上げるでもなく、裸体から沢水を滴らせながら、半眼をしばたかせ
ていた。不審がるでも警戒するでも糾弾するでもなく、きょとんと、不思議がっているような面持ちである。
やがて老虎はずいっと腰を曲げて身を乗り出し、屈んだままのカナデに近付けた鼻をスンスンと鳴らした。
「え?もしかして臭ってるんだよ?…違う?はぁ…。いえ日本人です。弁解しますけど覗くために潜んでた訳じゃなく…。え?
信じてくれるんですネ?は~!助かります!どう説明すれば良いかわからなくて…」
気が付けば、カナデは老人と正対して立ち上がり、事情説明と弁明はすんなり受け入れられていた。
拍子抜けするほどあっさりと信用して貰えて、カナデはホッとすると同時に、微笑している老人の事が少し心配になる。
(ひとがよさそうに見える顔の通り、優しそうなひとで助かったけど、お爺ちゃん簡単に人を信用し過ぎだよ…。悪い人に騙さ
れないか心配になるナ…)
などと案じたたカナデだったが…。
人を見る目はあるつもり。そんな老人の自己評価には、苦笑いして頭を掻くしかない。「おかげで助かったんだから、あれこ
れ言えた立場じゃないネ」と。
「え?一緒に?…お孫さんには黙って、ですか…。まぁお爺ちゃんがそう言うなら有り難く従いますよ」
悪気が無かった事はよく判ったし、何せ孫本人も見られたとしても全く気にしないから、詫びる必要もない。言わぬが花、と
いう言葉もある。…などと老人が主張したので、カナデはその方針に従う事にする。
大狸は気付いていない。そして違和感すら覚えていない。
会ったばかりの老人のペースに自分が完全に乗っていて、その流れにすっかり身を委ねている事にも…。
ひととひとがやりとりする際に、普通ならば必須となる要素が、抜けている事にも…。
そしてカナデは、岩がゴロゴロ転がる中を、太って弛んだ体にも関わらず淀みなく、ゆるりゆるりと流れる霧のように進んで
ゆく老人についてゆき、水浴びを終えて服を着ていた少女と引き合わされた。
継ぎ接ぎだらけの人民服を着た狐の少女は、子供ながらもスタイルが良く、手足がスラリとしている。大狸を見て不思議そう
な顔をしたものの…。
「お爺ちゃん何処行ってたの?探しに行こうと思った所だ。…このひと誰?へぇ、偶然旅人さんと会ったんだ?チーニュイ達と
一緒だね!」
と、カナデに笑みを向けた。その間にも老虎は体をボロ切れで拭い、漢服様式のゆったりした着物を着用し始める。
「はじめまして。コダマ・カナデ…日本人だよ」
「はじめまして!ジン・チーニュイだ、よろしく!」
元気のいい狐の娘は明るい笑顔でカナデの挨拶に応じた。そして老虎も思い出したように目を少し大きくし、ジン・ルーウー
と、自分の名をカナデに伝える。
「カナデは何処に行くひと?」
そんな少女の問いで、狸は返答に詰まる。予定通りには行かないと感じて引き上げるつもりだったので、ここから先の日程も
計画も白紙になっていた。
「…え?近くの村に行くんですネ?」
豊満な腹部の肉を締めて上げるようにして、帯を整えている老人を振り返り、彼らが行く途中だった町の事を知ってカナデは
考える。西方向で、街道沿い、宿もある村…。移動のためにも好条件が揃っている。ここから歩いて日没直後にはつく距離とい
うのも魅力だった。
「移動の足を探してたところなんですよ。ご一緒しても良いですかネ?」
カナデの申し出に、老人は微笑みながら頷き、狐の子も喜んで賛成した。
「実家は菓子屋なんだよ。ジャーナリストになった僕は、むしろ変わり種だネ」
「菓子?ニッポンの菓子ってドラヤキとか?ドラヤキは一回食べた事ある!フカッとして、モチっとして、餡子じゃないところ
も甘くて!」
旅の道連れができたカナデは、道中は珍しがって質問攻めにする狐の相手を続けた。先頭に立って案内する老人は、縞々の尻
尾を歩調に合わせるように振っており、機嫌が良さそうに見える。
水源から離れるとすぐに大地は乾燥し、草木がまばらな岩場が多い山道は歩き抜けるだけで重労働になる。しかしデップリし
ている老人もまだまだ子供の狐も、旅慣れているのかキツそうには見えない。
ルーウーとチーニュイがふたりだけの家族だという事を、カナデは知った。チーニュイによれば、物心ついた頃からずっと祖
父と旅をしているという。
定住しない事や旅を続ける事情が気になったカナデではあったが、理由については尋ねない事にした。
この広大な国では、遊牧の民や、季節で居住場所を変える狩猟採取を生業とする民も居る。
そして、住む場所を追われる民もある。迫害される少数民族や、何らかの政策により強制的に立ち退かされる住民など…。
後者だったらあえて言わせる理由ではないと判断したカナデは、ふたりの素性を詮索せずに会話を続ける。
チーニュイはどうやら相当なお爺ちゃん大好きっ娘のようで、大人になったら結婚するのだとカナデも聞かされた。初対面の
自分にも言うのだから、普段から言っているのだろうなと思いつつ前を窺えば、老虎の尻尾は何とも言えない微妙なスローモー
ションになっている。
ゆっくりと日が傾いてゆく中、現地の民と会話しながら異郷を歩く…。カナデにとっては取材旅行の中断に対する補填のよう
な楽しい時間だった。一時間ちょっと歩いたら、その辺りの岩や倒木に腰掛けて休憩したり、水を飲んだりする。景色を楽しむ
それはウォークラリーにも似た面白みがあり、老人と孫との道中は楽しかった。
カナデが与えた携帯食料…バニラ味のクッキーバーを、チーニュイは喜んで食べた。両手でバーをきっちり持って、リスのよ
うにポリポリと一心不乱に食べる姿は、見ていて微笑ましい。
カナデはルーウーにも勧めたが、老虎は遠慮して、孫からほんの一欠…小指の先程の小さな破片を分けて貰い、目を細めて味
わった。
穏やかな祖父と明るく元気な孫娘。カナデはふたりの事がすっかり気に入ってしまった。元々誰とでもすぐ親しくなれるのが
カナデの長所でもあるのだが、今回はまた特別早く理解と信用を深めている。
しかしカナデは気付かない。
「それ」が無くとも当たり前にやり取りできているので全く不自由していないが、そもそもどういう訳か、「その事」に対す
る違和感を覚えることすらできなかった。
「もうじき見えるんですネ?まずは着いたら晩御飯かナ」
とっぷりと暗くなった空の下、平地に変わった道をゆきながら、カナデは「案内して貰ったお礼に、晩御飯御馳走しますネ」
と老虎の背中に話しかけた。
「それにしても、途中に丘でもあるのかナ?街灯りも見えないネ」
「そうだね?もうちょっと歩かなきゃかな」
そう、カナデとチーニュイが言葉を交わした直後、老虎は唐突に足を止めた。
「どうしたんですか?」
進む方向がずれていたのかと、老人に並んで前方に目を凝らしたカナデは…。
「…「鬼」が出たんじゃないよね?お爺ちゃん…」
祖父の横に進み出て、その顔を見上げた狐の言葉に「鬼?」と反応した。
「うん。鬼が出る事があるんだ、この辺り」
少女の言葉を、犯罪者や危険人物などを鬼に例えた物なのかもしれないと解釈したカナデは、真っすぐ前を見ている老人の横
顔に目を移す。
ルーウーは頬肉に押し上げられて細い目をさらに細くし、スン…、スン…、と風の匂いを嗅いでいた。
一時間足らずの後、舗装された道の上で、カナデは無言になった。
そこは小山を背負った小さな町で、物流の血管とも言える舗装された太い道が通っている。田舎にゆけば生活インフラも満足
に整っていない地区も多いが、この町はほどほどに潤って、発展してもいる。
だが、異常だった。ついてすぐに判るほど。
時刻が来ると自動でつく街路灯が、ぽつぽつと間隔をあけて舗装道路沿いに立っている。しかしそれ以外…店、宿、民家など
は、その全てが活動レベルでの点灯をしていない。窓という窓は暗く、外を出歩いている人影も皆無である。
「…お爺ちゃん…」
チーニュイが小さく呟く。ルーウーは黙ってゆっくりと首を巡らせ、視線を走らせたまま応えない。
「鬼が出たんじゃ…」
ここへ来る途中でも口にされていた狐の娘の言葉で、カナデはハッとした。
(鬼って、まさか…?)
カナデの脳裏をよぎったのは、昼間見かけた兵士達。
(この町もしかして、何かの理由で「公的に抹消」されたんだよ…!?)
その後、三人で街道沿いを回って確認してみたが、ひとっこ一人見つからなかった。
宿を見て来ると言う老人が孫を連れ、看板が出たまま人気のない建物の前で残念そうに肩を落とす様子を眺めたカナデは、入
り口が開いている飲食店を覗いてみた。
ありふれた狭い食事処で、店内には長年の油と煙でそれと判る、老舗食堂特有の匂いが染みついている。奇妙なのは、何かの
途中で忽然と消えてしまったように、飲みかけの茶や、火にかけられたヤカン、鉄鍋などがそのままだった事。
火事になってはいけないと、カナデは見かけた火を消しておいたが、ついでに少し調べて推測した。
(湯飲みはすっかり冷えてたし、ヤカンの湯は空だったよ。灯りがついてない事も考えると、居なくなったのは少なくとも五、
六時間は前だネ…)
争った形跡などは見られなかった。強制連行などであれば、逃げようとしたり抵抗しようとしたり、それを阻もうとしたりし
て、何らかの跡が残っていてもおかしくないのだが…。
(まるで、霞にでもなって消えちゃったみたいだよ…)
人どころか、飼い犬や野良猫、野鳥も含めて生き物が全く居ない。奇妙な事や危険な事に幾度も遭遇しているカナデでさえ、
薄気味悪いと感じる状況である。
店から出ると、ルーウーはチーニュイを連れて土産物屋の軒を覗いていた。そこにも誰の姿もないらしく、チーニュイが「誰
か居ないー?」と呼び掛ける声が雑音の無い通りに反響した。
(そこの建物も空いてるネ。酒屋…かナ?)
食堂の隣の店を覗き込み、店内に足を踏み入れたカナデは、
「!」
直感ですぐさま身を屈めた。
同時に、カウンターに並んだ酒の徳利の隙間から伸びた何者かの腕が空を切る。
喉を狙って伸びた五指は、空気を握り潰して引っ込んだ。棒立ちでいたら襟を深く取って捕まえていただろうその手は、動き
があまりに早かったのでカナデも視認し損ねる。
(兵隊だよ!?それとも…)
敵意が無い事を告げるべきか、それとも一目散に逃げるべきか、カナデの頭は高速回転したが…。
シャカン…。そんな、金属が擦れて当たり合う小さな音を聞いた瞬間に、横っ飛びに身を投げ出して転げ、商品が並んだ棚の
陰に隠れ、一回転して中腰になる。オートマチックの拳銃がスライドを後退させる音を聞き分け、即座に回避行動に移ったカナ
デは、選択肢にもう一つ、新たに項目を加えた。
無音無力化行為。…つまり、師匠直伝の護身術で、音を立てずに相手を気絶させるという選択を。
スルリとベルトを抜いて両端を握り、カウンターの方を窺う。そこにはもう居ないと察知し、店に入る際に暗がりに浮かんで
見えた光景…瓶などの反射から割り出した障害物の配置記憶を頼りに、自分の死角になる物を利用して移動可能なルートをいく
つか予想する。
その間にも、カナデは相手についての考察を中断しない。
(一つ。この町は軍に占拠されてる訳じゃないよ)
相手は単独で、静かに事を運ぼうとしている。銃を持っているようだが、それも消音装置つきだろうと予想する。もしも部隊
単位ならば、自分を確保するのに同僚と連携するはずである。老人と少女に気付かれないように単独で静かに済ませようとして
いるという線も考えられるが、それを優先する理由が考えつかないので、可能性は低く見積もっておく。
(二つ。殺害が主目的じゃないよ)
初手はこちらを捕えようとする物だった。拳銃のスライドを動かしてはいたが、問答無用で銃撃して来ない事からも、この可
能性は高い。負傷させはしても、少なくとも話せる状態で確保したいらしい。
(三つ。住民が居ない事とは、たぶん別件…)
空気の流れすら感じ損ねないよう、神経を張り詰め気配を窺ったカナデは、突然振り向いて腕を交差、ベルトで輪を作った。
突き出された左腕がカナデのベストの襟を掴む。と同時に、襟を掴んだ腕から逆算した位置へベルトの輪を潜らせる。
拳銃を握っている方の相手の右腕が、見事に手首の位置でベルトに絡め捕られた。手で掴み掛るよりも広範囲に網をかけられ
る、ベルトの輪の利点を最大限に利用したカナデは、いつの間にか右手をベルトから離しているが、ベルトはしっかりと相手の
手首を締め付ける格好のまま、左手だけで握って輪を固定していた。巧みなロープトラップの応用である。
カナデは相手がこちらの姿勢を把握している前提で、店内カウンター側に意識を集中しているように見せかけた。そうする事
で背後を取り易くし、襲撃方向を絞り込んで罠にかけたのである。
一見すれば無謀にも見えるが、実際には、できれば生かして動けなくしたいという相手の思惑を読み切った上での大胆な行動。
銃を握っているのは掴みかかるのとは逆の手になる。姿も満足に見えない暗中での格闘となれば、突きつけて撃たねば何処に
当たるか判った物ではない。カナデが可能性を絞った結果通り、銃を持った腕は殺してしまう確率が低い足元を狙っており、下
方に向いていた。
そして、大狸の右手は最も馴染んだ旅の相棒…今も首から吊るしているカメラに伸びる。
ひたすらに弄りまわした仕事仲間、触って確かめるまでもなく、鳩尾に下がった状態でどこに何があるかは把握できていた。
きつく目を閉じたカナデは、カメラのボタンに素早く触れる。
パッと、一瞬の閃光が店内を照らした。片手で襟を取り、もう片手はベルトで捕らえられている相手は、当然ながら顔が正面
向き。至近距離でまともにフラッシュを浴びせられた。目の奥に痛みを感じるほどの光度変化は、怯ませるには十分。
直後、カナデは自分の襟を取っている腕の方向から相手の胴体の位置を確信し、胸元に腕を送り込んで突き飛ばした。
頑丈な生地と繊維、そして筋肉に覆われた重い感触…。普通なら肺から空気が絞り出されるほど強烈な掌底打ちだったが、吐
息も聞こえず、襟を掴んでいる手も緩まなかった。
(次で、どうにかできる相手なら無力化する。手に負えない相手だと判断したら逃げの一手だよ!)
思考を絞って選択肢を単純化させ、迷いによる行動の鈍化を排除したカナデは、襟を掴んだ相手の腕に腕をかけ、ローキック
で足を払う。
突き崩すなどして腰を下げさせ、足を払って横へ捻り倒し、首を踏み折る。…というのが師から教わった投げ方。護身のため
には反撃されないよう息の根を止めるべき、という物騒な教えである。だが、無論カナデはそこまでしない。
しかし相手は、突かれても殆ど揺らがなかった上に、足を払われなかったどころか、襟を掴む握力を強めて反応、抵抗する。
(逃げの一手、の手合いだネ…!)
距離を取って逃げ出す事を考えながら、しかしカナデは妙な感覚に囚われた。
掴んでいる腕は体毛が無かった。筋肉の硬さが判る、太く逞しいひんやりした腕である。ただし体毛はなくとも人間の肌とは
質感が異なる。
(…ん?この感触…)
覚えがある。
微かな体臭。体の感触。ずっしり詰まった身の重量感…。
可能性は低いと感じながら、しかし無視できない「勘」。
それどほぼ同時に、襟を掴んでいる相手の手が、ぐっと力を入れて握り込んだそこから、思い直したように静止してそれ以上
動かなくなった。
シンと、静止した二頭の間で暗闇が張り詰める。
「…まさか…」
カナデが発した声に、闇を挟んだ至近距離から、「グフフフ」と含み笑いが返る。
「おいおい、何だこりゃァ?」
相手の声にも聞き覚えがあり、カナデは眉根を寄せた。
「ジョン・ドウだネ?」
「グフフ、ストレンジャーだなァ?」
相手の腕が下がり、銃をベルトへ雑に差したかと思えば、マグライトが天井に丸くスポットを当てる。
反射光が注ぐ中、狸の大男の瞳に映ったのは、ダークグリーンの迷彩柄コンバットスーツに身を包んだ鯱の巨漢だった。
「何してるんだよ?久しぶり」
「そっちこそ何やってんだァ?ご無沙汰」
妙な状況で妙な再会の仕方をしたふたりは、互いに訝しがりながらも構えを解いた。