愛しのストライプ(もう一杯っ!)
「シマネちゃぁ~ん!」
顎髭の人間先輩…カノウさんが、消耗品伝票を違う先輩に回してたぼくに声をかけてきたのは、お昼ちょっと前の事だった。
「千円貸してくんない?」
カノウさんはテヘッ!って舌を出す。
「いいですけど…」
お金貸して欲しいだなんて珍しい。どうしたんだろう?と不思議に思いながら鞄の財布をまさぐっていると…。
「カノウ、お前…!」
「シマネ君にタカリ!?」
「最低ですねカノウさん」
外の先輩達から集中砲火。口々に非難の声が飛んでくる中、カノウさんは「違うんだよ!」と振り向いた。
「財布忘れてきて昼飯代が無いんだよ!」
「それで後輩にタカリ?」
「うわ最低ですねカノウさん」
「他に借りろ他に。よりによってシマネちゃんはないだろお前…」
「だーってさぁーっ!」
カノウさんが目くじらを立てて口を尖らせた。
「お前ら法外な利子取るじゃん!」
「いや取るけどさー」
取るんだ…。
「だからってシマネちゃんにタカリ?」
「最低すぎますねカノウさん」
みんなカノウさんに厳しい…。いつもの事だけど…。
「タカるなら課長にタカれよ」
カノウさんと仲が良いスガワラさんが指差すと、名前を出された課長が席でモソッと動いた。
課長席でパソコンのモニター越しに首を伸ばしてこっちを見たのは、黄色に黒の縞模様がくっきりした虎。
寅行(とらあゆみ)課長。40歳、独身。
でっぷりどっしり貫禄がある、身長190センチ近い巨漢の中年虎で、我らが営業第三課のリーダー。飲み会の席ではエッ
チな話題や下品な話で女性陣から怒られるものの、豪快で面倒見がよくて仕事もバリバリこなす、信頼厚い敏腕課長だ。
課長でも積極的に現場周りしてる前線指揮官なんだけど、ここしばらくは珍しく課長席についたまま、大半の時間パソコン
と睨めっこしてる。
うちの会社は他の多くの企業と同じように、会計期間が1月から12月まで。12月は決算前の中間報告があるらしくて、
課長はここしばらくずっと資料纏め中。こんなに外回りに出ないのはぼくが就職してから初めての事。
「昼飯代ぐらい出してやらんでもない。私が貸すからシマネ君に借りるのは止めておけ。細かいのが無いから一万貸そう。給
料日が来たら返してくれ」
お腹が物理的にも太い課長は太っ腹な提案をした。
「とっつぁん…!」
涙ぐむカノウさん。
「利子はトイチでいい」
「とっつぁ~ん!?」
別の意味で涙ぐむカノウさん。
そんな騒がしい中でお昼の時報が鳴った。途端にみんなが仕事を中断して休憩準備に入る。
ぼくの昼食は朝にコンビニで買ってきたチキンカツサンドとサラダ、ゆで卵、そして最近好きになってきた缶コーヒー。
殆どのひとは社員食堂に行く中、ぼくは袋を手にして部屋を出る。それとなく視線を向けたら、課長はカノウさんに一万円
札を押し付けてた。
ぼくは嶋根純(しまねじゅん)。18歳、社会人一年生。
父親は鯖虎、母親は三毛、猫両親の間に生まれたぼくの体は、ふたりから色と柄を一部ずつ受け継いだ、茶と黒の縞模様が
特徴のキジ虎猫。ただし体の小ささは隔世遺伝…。
他の兄弟は普通だけどぼくだけが極端に低身長で線が細い。そこそこ好感を持たれる物らしいこの外見…、着る物によって
は後ろ姿で女の子と間違えられたりして屈辱も味わわされてきたけど、今じゃそんなに気にしてない。
だって、好きなひとが「モロに好み」と言ってくれたから…。
実はそのひと、トラ課長。
課長とぼくは男同士だけど、密かに交際してる。
昼時には開放されてる、来客対応用の面会個室。その一部屋に向かって廊下を歩いてたぼくは、前から大股に歩いてきた獅
子獣人に会釈しながら少し壁に寄る。
一課の課長さんだ。若い頃はラガーメンだったとかで、筋肉質で逞しくて威風堂々。トラ課長ほどじゃないけど背が高い大
きなひとで、スーツをビシッと着こなした姿がサマになってる。
ぼくは「お疲れ様です」って挨拶しながらすれ違おうとしたけど…。
「お疲れ様。トラさんはまだオフィスに?」
ライオン課長は歩調を緩めて、ぼくとすれ違う前に足を止めた。
「はい。もしかしたらすぐお昼で出るかもしれませんけど…」
こっちも立ち止まって、顔を見上げて答える。話すの初めてだけど、映画の吹き替えしてる役者みたいに良い声。落ち着い
て深みがあるっていうのかな?
「ありがとう。それなら急いで行こう」
颯爽と、堂々と、大股に廊下を歩き去るライオンの後姿を、ぼくは立ち止まったまま見送る。
営業一課の宍石(ししいし)課長。新人のぼくでも噂を聞いてる敏腕課長だ。仕事はできるし、礼儀正しい紳士だし、ぼく
みたいな新人にもあんな風に丁寧だなんて…、格好良いなぁ…!あんな大人になれたらすてきだなぁ…!
それにしても、トラ課長に用事?何だろう?もしかして課長級で集まる会議とか飲み会の話?…だったら社内メールで連絡
が回ってそうな気もするけど…。急に決まったとかだったら判らないか。
もしかしたら、今夜の課長との約束、延期になるのかも…。
少し歩いて階段を下って、空いてた個室に入る。畳二畳分よりちょっと広い程度の部屋は、四人掛けのテーブル席だけで空
間が占領されてる。中が見えるようにドアを少し開けたままにして、昼食を広げてしばらく待つと…。
「済まん済まん!客が来て出遅れた!腹が減っとっただろう?待たせて本当に済まん!」
のそっと部屋に入って来たトラ課長は、少し息を乱してた。大急ぎで来てくれたみたい。
「大丈夫ですよ、そんなに慌てなくても」
大事にされてるのが判る課長の気遣い様に、嬉しくて尻尾が立っちゃう。
トラ課長は内鍵をかけて、二人分の空間を占領してテーブルにつく。向き合って座るぼくからは見えないけど、背もたれが
見えなくなってる課長の幅から言えば、お尻は確実に椅子からはみ出てる。
別々に外回りをしていない時は昼食を一緒に摂る。それが課長とぼくの職場での日課。
「今日はコーンポタージュだ」
肩かけバッグから金属筒…スープジャーを取り出した課長は、ニコニコと顔を笑み崩してぼくにも分けてくれる。冷凍食品
とレトルト三昧の食生活だから、この手の物には詳しいんだって課長は言うけど、いつも保温容器に入れてきてくれるのは高
級レトルトシリーズ。レストランで出そうなコーンポタージュスープやフカヒレスープなど。課長もぼくもお昼はコンビニ食
か出前弁当だから、せめて温かい飲み物ぐらいは美味しい物を…って、毎回気を回してくれてるんだ。
「お昼は手作りのお弁当とか、憧れるがね」
「あ~、お料理得意だと、そういうのもできますよね」
そんな話題になってから、揃って黙り込んだ。
憧れるけど、お揃いのお弁当はいろいろまずい…。誰かに見られたら勘繰られちゃう…。それ以前に課長もぼくも料理がで
きないから、まずお弁当を作れないんだけど…。
「うん、まぁ、別に無理せんでいいな…。目が気になって食うどころではなくなるかもしれん」
「そ、そうですね…」
同じ結論になったけど、「しかし」と課長が眉をひそめた。
「外回りで一緒なら美味い外食という手もあるが、部屋から一緒に食いに出ては目立つしな…。カノウ辺りが奢りを期待して
くっついてきそうな気もする」
ああ、それはありそう…。
「一緒の飯ぐらいは美味い物を食いに連れていきたいところだが、う~む…」
課長は体型を見ると判るけど食べる事が大好き。何かというとぼくに美味しい物を食べさせたいって言ってくれる。でも…。
「課長と一緒に食べると、だいたい何でも美味しいですから」
パクパクモリモリ何でも美味しそうに食べるせいかな、課長と一緒だとひとりで食べるより美味しく感じられる。カップ麺
だってレベルアップするくらい。
ぼくがそう言ったら、課長は一度目を丸くしてから、ニィッて細めた。
「がっはっはっ!シマネ君は若いのに、ひとを喜ばせるツボを心得とるなぁ!」
「え?何か変わった事言いました?」
「う~ん、この天然タラシめ」
課長はおかしそうに笑ってる。よく判らないけど機嫌がよくなったらしい。
「そういえば、ここに来る前にシシイシ課長と会って、トラ課長が居るか訊かれたんですけど」
話題を変えたら課長が「ああ」と顎を引いた。
「お客さんってシシイシ課長だったんですか?」
「そうだ、私用を直接伝えに来てね。何を隠そう…」
課長はたっぷりした胸にくっついてるポケットからスマホを取り出してぼくに画面を向けた。…画面真っ暗。沈黙してる?
「さっき気付いたがバッテリーが上がっとった。がっはっはっはっ!いやぁ、うっかりだ。繋いだつもりが充電し損ねとった
らしい」
「外回りの日じゃなくて良かったですね!」
「いやまったくだ。不幸中の幸いだったが、こういう時に限って私用の連絡が入るとはなぁ」
「あ。モバイルバッテリー使いますか?鞄に入れてますから…」
「お!済まんね!貸して貰おう!職場にも充電器を置いておかんとなぁ…」
「シシイシ課長、課長の事「トラさん」って呼ぶんですね?」
「うん?まぁ、後輩だし昔の部下だからなぁ」
ん?昔の部下?ぼくの顔を見て、トラ課長は詳しく話を続けてくれた。
「シッシーは私から見ると後輩でね。アイツが入社した時に同じ課で、歳も少ししか違わん先輩後輩の関係だ。最初の三課も
そうだが、二課に移った時も一緒になったし、私が一課の副課長だった頃も一緒だった。そうそう、シッシーはスガワラとも
よく一緒になっとったな」
シッシー…。渾名で呼ぶぐらい親しいんだ!?
課長曰く、営業部内でも同じところに配属される事が続いてた腐れ縁の間柄だったそうな。今じゃシシイシ課長は一課の課
長になって、トラ課長と同格になってる訳だけど…、そもそも一課はエースで、三課は格下な訳で、同じ課長級でも社内的に
見ればシシイシ課長の方が出世してる感じ?
「アイツは昔から仕事ができたからなぁ。仕事に限らず色んな事を押し付けてきた。本当に、色んな事を…」
そう言う課長は、何だか少し悲しそうに眉の端を下げてた。けど、
「それはそうと」
表情の理由を聞く前に、揚げチクワをしっかり挟んだ箸を軽く左右に振って話題を変える。
「今夜は予定通りで大丈夫かね?」
「はい!お邪魔します!」
明日は休みだから、今日の夜は課長の部屋にお泊りに行く約束をしてた。夕食は社員寮の近くにできたばかりの、味噌ラー
メンが評判のお店に行く予定。ギョウザが持ち帰りできるから、課長のオツマミにも丁度いい。
「ニンニク味噌がオススメらしいんだが、臭いが残るとなぁ…」
と、課長は気にしたけど…。
「ギョウザもニンニク入ってますし、確か牛乳を飲んだら臭いが消えるとか聞いた事が…。あまり気にしなくても良いんじゃ
ないでしょうか?だいたいぼく、ニンニクを臭いって感じないんですけど…」
そもそもぼくはニンニクどころか、他に臭いがキツいって言われてるニラも長葱もそんなに嫌いじゃない。いや、どんな匂
いも平気な訳じゃなくて、シンナーとかラッカーとか薬品の匂いとか、生魚の匂いは苦手だけど…。
課長は「そうか。ならオススメを試してみるか!」と笑って頷いた後…。
「…牛乳か…」
ボソッと呟いてた。…結局気にしてる…。
ところが、その予定は夕方近くになって崩れた。
「課長、済みません」
ぼくとカノウさんが外回りから戻ると、人間の先輩…スガワラさんが課長席の前に立って肩を落としてた。
「ここのスナック5箱分、二重計算されてるのに気付かないまま代金貰ってしまいました」
納品控え伝票を受け取ってるトラ課長とスガワラさん。それを眺めてたぼくとカノウさんは、思わず顔を見合わせてた。
ミスしたみたいだけど、スガワラさんが失敗するなんて珍しい…。
課長は伝票から腕時計に目を動かして、すぐにマウスとキーボードを操作し、立ち上がった。
「すぐ出れば五時前に伺えるだろう。お詫びして過剰受け取り分をお返しする。悪いが、手が空きそうな誰か、集計システム
から修正伝票を…」
「はいはい、聞いてました!今できまーす!」
直前まで雑談混じりに談笑してたはずの女性社員コーナーからすぐに声が上がると、「流石!」と課長は笑みを見せた。
「課長、俺だけでお詫びに…」
スガワラさんのそんな言葉を遮って、課長はポンと、がっくり落ちていた肩を軽く叩いた。
「先方は私も昔担当しとった。社長には懇意にして貰っとるし、私が同行した方が話も早い。なに、しばらく顔を出していな
かったから良い機会だ。お詫びのついでに挨拶してこよう」
上着とコートを羽織って鞄を持った課長は、自分達は直帰するから定時になったら待たずに帰るようにと言い残して、スガ
ワラさんを連れて出て行った。
お気をつけて~、と皆と一緒に送り出したぼくは、ひょっとして課長の帰宅は遅くなるんじゃないかと心配になったけど…。
少ししたら、課長からラインが入った。
『先方の社長と茶飲み話になって少し遅れるかもしれん。部屋に上がっとって! 人( ̄ω ̄;) ゴメン』
急いでたはずなのに課長の連絡はちゃんと顔文字入りで、ちょっとかわいい。
すぐさま『判りました。お邪魔してます。お店にはぼくが寄って行きます。課長はお気をつけて!』と返信したぼくは、鞄
をまさぐって忘れてきてないか確認する。
…あった。課長から預かってるスペアキー…!
定時になって退社したぼくは、直接社員寮には向かわず、まずレンタルショップに向かう。社員寮まではバスだとすぐだけ
ど、途中で今夜観る映画のDVDを借りて行くから。
課長と話して決めてた、サメが竜巻のパニック物。想像もつかない天変地異だけど、災害とサメのパニックとか凄そう。こ
れまで隕石とか火山とか津波とか雪崩とかハリケーンとか災害物は一緒に観てきたけど、今度のはちょっと変化球だなぁ。
首尾よく目当ての映画をレンタルしてお店を出たら、とっぷり暗くなった夜道に冷たい風が吹き始めてた。
思わず首を縮めて、ラーメンが丁度良い寒さになってきたなぁ、なんて考えながら歩き出す。
ぼくはトラ課長と食事するのが好き。課長は何でも良く食べる。何でも美味しそうに食べる。食べてる時はいつも嬉しそう
で楽しそうで、ぼくまで気分が良くなってくる。
寒い夜のラーメンを、課長はどれだけ美味しそうに食べるだろうかって、想像するだけで心がウキウキする。自分でも不思
議なんだけど、好きなひとが嬉しかったり楽しかったりすると、こっちにもそれが伝染して来る物なのかもしれない。
バスに乗って社員寮に着いて、505号室を目指す。特に変わった所も目立つ場所もないのに階段も廊下も風景も好き。た
ぶん、通い慣れて親しみを感じるのが好感の正体。
けど、五階に上がって廊下を進み始めてすぐ、ぼくは気付いた。課長の部屋の前に立ってるひとに。お客さんが来てるのを
見るのは、だいぶ慣れてきた通い道で初めての出来事だった。
部屋の前にいるのは、フワッとした長毛の猫獣人。綺麗な白毛ラグドールの女性だった。手提げつきの紙袋を持ってるその
ひとは、まだ若いって言えるんじゃないかな?カノウさんよりは年上で課長よりは少し下に見える。
ラグドールの女性はチャイムを押してたけど、ぼくが歩いてく間に留守だって悟ったみたいで、こっちに体を向けた。
すれ違う時に会釈を交わして、少し歩いてから振り返ったら、階段に姿を消すところだった。
誰なんだろう?昔の社員さん?
首を傾げながら合鍵を取り出して、課長の部屋にお邪魔する。
スマホを確認したけどトラ課長からのメッセージは入ってない。もうしばらくかかるかな?
まずダイニングに入って暖房をつけて、温風ヒーターの灯油量を確認して、二割も残ってない重さだったから玄関口のポリ
タンクから補給しておいた。
それから布団が敷きっ放しの寝室に向かって、プラスチックチェストの一番下の引き出しを開けた。この引き出し一つを借
りて、お泊りに備えて私服を置かせて貰ってるんだ。トレーナーとジーンズに着替えて、ブレザーはハンガーを借りて吊るし
ておく。夜には課長のスーツと並ぶんだって考えたら、嬉しくなって来て尻尾が揺れた。
部屋を暖め始めながら、シンクをチェックして洗う食器が無いか確認する。寒い中帰って来るんだから、まず温かい物が欲
しくなるだろうし、電気ポットでお湯も沸かしておこう。お風呂は綺麗。蓋をして給湯するだけになってたけど、こっちはま
だ火を入れるには早いかも?
そうやって思いつく限りの準備を済ませたら、次は洗濯物を確認。ワイシャツもスーツもクリーニング屋に出す課長だけど、
下着や部屋着は洗濯機で洗う。洗濯機前の籠には下着類が山盛りで…。他はともかくここは一週間分溜まってた。
空っぽの洗濯機に下着類を入れてく。尻尾穴が大きめのドデカトランクスを広げてみたら、その大きさがおかしくてちょっ
と笑ってしまう。
ランニングシャツもそうだけど、課長の物は何でも大きい。太ってるだけだって課長は言うけど、肉付きを別に考えても背
が高くて大柄だもん。…そういえば、学生時代はそれなりに逞しかったって前に言ってた。どんな感じだったのか、写真とか
あるなら見てみたいなぁ…。
そういえば、体格の良さは遺伝みたいな事も前にちょっと言ってた。課長ってお父さん似なのかな?お母さん似なのかな?
それともぼくみたいに隔世遺伝?家族の話は聞いた事なかった。今度どういう家族なのか訊いてみようかな。
洗濯機を回し始めた少し後で、スマホがペポッと音を出した。確認してみると…。
『待たせて済まんね!あと十五分程度で帰り着くからもうちょっとだけ待っとって! 人(TωT;) スマン』
すぐに『全然平気ですから、慌てないで帰って来てくださいね!』と返信。それから思い直して、『お湯沸かしてコーヒー
の準備しておきますね!』と追伸。すぐさまありがとうって返信が来て、ぼくは立てた尻尾をプルプルさせた。
ゾルゾルゾルッと勢い良く麺を啜って、ハフハフする大きな虎。カウンター席に並んだぼくは、課長の美味しそうな食べっ
ぷりで嬉しくなる。
評判のニンニク味噌ラーメンは美味しかった。濃いスープがモチモチした太麺とシャキシャキモヤシによく絡んで、味の濃
さも程よく、食感もバッチリ。刻まれたタマネギとザク切りキャベツが後味に変化を加えるのが絶妙。しょっぱくなり過ぎな
いからスルスル進むのに、味つけには満足感がある。
課長は大盛りをオーダー。辛味噌を追加してチャーシューと千切り葱とモヤシとキャベツをどっさりトッピング。ラーメン
どんぶりから零れ落ちそうな山盛りになってたけど、モヤシ一本零さない、量を減らしつつスープもしっかり絡めるっていう
器用な食べ方を披露してくれた。…手馴れてる感ある…。
ぼくは課長の家に置いて貰ってる私服に着替えたけど、部屋に戻ってからコーヒーを飲んで、一息つくだけですぐ出てきた
課長は、上着を脱いだ以外は殆ど仕事中と変わらない格好。…なんだけど、印象はだいぶ違う。ワイシャツの上にクリーム色
のセーター、スラックス、茶色いロングコートの組み合わせは、上着が明るい色のセーターに変わっただけで凄く柔らかい印
象になってた。大人のオシャレテクニックっていうやつかな…。
店内だからコートは脱いでるけど、ラーメンが来るまでビール瓶を一本片付けてた課長は、熱い上に辛味噌入りのラーメン
を食べてるせいか、真冬なのに汗をかいてる。
「いやこれは美味いな癖になる一週間ぐらい毎食続けてもいい」
食べてる合間に課長はそんな感想を一息に言った。口に運ぶ手が止まる時間も惜しいのか、それとも早く口に入れたいのか、
忙しそうに言うなりそのまますぐに豪快な啜りこみを再開した。うーん、このひたむきに夢中に食べる感じが、何だか育ち盛
りの少年みたいで可愛い…。運動部のクラスメートとか思い出しちゃう。
飲み込むようにラーメンを食べ終えて、満足げな顔をしながらおしぼりで顔を拭く課長。ぼくも少し遅れて食べ終わって、
冷たい水を一杯。
席を占領したままなのは申し訳ないから、お水を飲んで一息ついたらすぐ店を出た。
「あ。雪…」
暖簾を潜った途端、ぼくの目の前をヒラヒラと舞い降りる雪。餃子の箱を抱え直しながら「お?」と顔を上げた課長の鼻に
も、フワッと雪が乗って、静かに溶けた。
丁度降り始めたところだったんだろう雪は、積もるほどじゃなく、地面に染みを残して消えてく。
「冬だなぁ」
「冬ですねぇ」
ヒラヒラと降りて来る雪を見上げて、ぼくと課長はちょっと笑った。
「冬は好きかね?鍋もいいしラーメンもいいし熱燗もいい、そんな理由で好きな私だ」
「寒いのが得意なわけじゃないんですけど、冬は好きです。コタツでミカンとか」
「うむ。それも風情がある」
「ありますかね?」
「コタツでビールよりは」
「日本酒なら風情ありますか?」
「20パーセントは風情値が増すかな」
「ワインは?」
「1割の減」
「洋風はダメですか」
「注、個人の感想です」
そんな事を話しながら、ぼくと課長は濡れるほどじゃない雪が降る夜道を歩いてく。熱いラーメンを食べたばかりだから、
体がポカポカして寒いのも苦にならない。それに…。
「そうそう。冬至には少し早いが、柚子を買ってみた」
課長は声を小さくしてぼくに囁いた。
そう、今日はお泊りする日。課長とお風呂に入るから冷えたって平気!
「いや懐かしい、柚子湯なんて久しぶりだな」
蓋を開けるなり漂った柚子の香りは、あっという間に浴室に充満した。深く吸い込みたくなる良い香り…。
「親戚の家ではやっとったが、もう十何年ぶりになるかな?見よう見真似だが、確かこれで良いはず…」
湯船には半分に切った柚子が二つプカプカ浮かんでる。お風呂を沸かしたまましばらく待った甲斐があって、立ち昇る湯気
にはしっかり香りがついてるし、お湯にもほんのり色がついてる。
「さて、ザーッと流したらさっさと入ろうか!本格的に体を洗うのは一回浸かってからでいいだろう」
そう言うなり、課長はシャワーヘッドを取ってザザッと体を流すと、早速浴槽の縁を跨いだ。ぼくも簡単に体を流すと、課
長は浴槽の中で手を広げ、ニンマリ笑ってみせる。
恥じらいながら縁を跨ぐぼくの手を取って、課長は軽く一回ハグしてくれた。ムニュッ!
「浸かる前に一つ注意点だ。脱走されんように気をつけてくれ」
「脱走?…あ!」
課長の言葉の意味はすぐに判った。これからお風呂が溢れるからですね!
トラ課長が屈んで湯に浸かり、ぼくを後ろ向きにさせて、背中側から抱く姿勢になる。課長がお風呂の底に座ってやや仰向
け気味になるから、抱えられたぼくは浮く格好。課長のポヨポヨお腹とお湯に支えられて、何とも言えない浮遊感がある。
お湯は縁から勢い良く溢れたけど、ぼくは言われたとおり、柚子が脱走しないように腕で囲ってガードする。プカプカ揺れ
る柚子達は何となく気持ち良さそうに見えた。
「う~ん、良い香りだ!」
課長は大きく息を吸って、膨らませたお腹でぼくを浮かせながら言った。本当に良い匂い…。湯気に柚子の匂いが混ざるだ
けで特別感がすごい!
「ま、これはまだ前哨戦だがね」
課長の声が笑いを含んで、ぼくは先の事を考えて嬉しくなった。
「柚子は前哨戦ですか」
「申し訳ないが、ちょっと格付け勝負は難しいな」
実は、今日のデートの次…来週の予定はもう決まってる。ずっと前から!
冷えてた指先や爪先からじんわり温かくなってきて、柚子湯の効能を噛み締めて、体がしっかり温まってからお互いの背中
を流し合って…。
で、湯上がり。
「シマネ君」
「はい?」
暖かくしたダイニングの床に、炬燵に下半身を入れてうつ伏せで寝転がった課長が「援軍要請。ちょっとこう援護とか守備
的な事が得意なキャラとかおらんかね?」と呟いた。座ってコタツに入ってるぼくは、スマートフォンの画面を必死になって
連続タップしてる課長の頭を斜め後ろから見る格好になってるんだけど、何となく、顔を顰めてるんだろうなぁって倒れた耳
の角度で察した。
「防御強化系だと「真珠色の熊」と被るから…、回避率サポートの出してみますか?」
「それで!」
声と同時に課長の耳がピコンと立った。
ぼくと課長がプレイしてるのは、エフェクトデリバリーっていうソーシャルゲーム。原作は小説で、作者さんが亡くなって
結構経ってるんだけど、映画になってアニメになってゲームになって、今もメディア展開中。ぼくらの世代はアニメの印象が
強いかも。
漫画の話題だけでも話す事には困らないんだけど、課長は一緒にできる物は無いかって、ぼくがプレイしてるソシャゲにつ
いて訊いてきた。それで一緒のを遊ぶようになったんだけど…。
課長は意外にサブカル系に理解がある。昔は昔で昔の漫画やアニメがあったし、その年頃には夢中にもなったって言われれ
ばナルホドとも思うけど。エフェクトデリバリーの事も知ってたらしい。小説版しか知らないそうだけど、マルチメディア展
開してる全部が基本的に原作から外れないから、たぶん拒絶反応とかは無いだろうと考えて勧めてみた。
それが、予想以上に喜んで貰えた。
課長から見ればずっと前に触れた小説の原作に、絵がついて音楽がついて声がついて、知ってるキャラクターを操作して動
かすっていうのは、「新鮮なのに懐かしい」そうな…。
少なくともイメージが崩壊する事はなかったらしい。監修しっかりしてるらしいから。
詳しくはないけど、原作者の死去後はエフェクトデリバリーに限らず、知人友人、あるいは当時ファンだった小説家さん達
が有志で集まって委員会を立ち上げてて、多数の作品と膨大な数のキャラクターを分担して担当し、世に出る前にチェックを
入れるらしい。だから、原作とどの派生作品を見比べてもキャラクターの言動に齟齬がなくて、誰でも「○○らしい」って思
える仕上がりになるとか…。
メインから脇役に至るまで個人個人の個性が魅力の作品群だったから、有志も率先して行動したし、大勢がそこまでしてで
も保存を望んだとか聞いた事がある。権利関係がどうなってるのかは判らないけど、展開の仕方を見てると結構オープンな感
じなのかも。
そんな事を考えてたら…。
「また失敗した!」
課長がブシューッって鼻息を荒くする。
実は、現在開催中のクリスマス特別イベントは超高難度。やれるモンならやってみろと言わんばかりの、運営が本気で投げ
つけてくる剛速球。しかもビーンボール気味。攻略サイトのコメント欄は運営のバランス設定ミスって断言する書き込みで溢
れ返ってる。一年以上プレイしてるぼくもチョクチョク失敗して、少なくない量の行動力を無駄にするくらいだから、始めて
二ヶ月くらいの課長が手を出すには厳し過ぎる。
「援軍要請!援軍要請!守りに入ってもらちがあかんなぁこれ!シマネ君、こうガツンと一発派手に吹き飛ばせるキャラおら
んかね!?」
「火力なら、今出してるアタッカー枠一番目の「鉄色の虎」が手持ちで最高火力なんですけど」
「だいたい3手ぐらいで全滅するから3手以内に勝てるような…」
「それはちょっと無理です…。範囲攻撃が連射できる高火力キャラが必要みたいですから。「鋼色の熊」か「黒雷の獅子」が
居て最終段階まで育て終わってるひとなら、強化モリモリで最短決着いけるみたいなんですが…」
ぶっちゃけ、オーバースペック級キャラの排出率ってピックアップ中でも0.7パーセントだから、イベント期間限定ガチャで
しか出ないキャラはぼくも殆ど所持してない。今の所限定枠は「心壊の鯱」と「支配の巨獣」の2人だけ…。でも、課長の最
上級レア取得速度は…。
「課長の手持ちだと「真珠色の熊」で全体をサポートしながら「檸檬色の獅子」で安定して削る耐久作戦がベターなんでしょ
うけど、育ってないとそれも…」
「進化二段階目は育っとるって言えるかね?」
「やや育ってる寄りの育ってないですね…」
そう。課長は凄まじい強運で、スタートダッシュボーナスのガチャで羨ましい超激レアキャラをふたりも引き当てた。目を
疑うガチャ運だった。ビギナーズラックって都市伝説じゃなかったんだ。けど…。
「素材無くて進化止まっとるんだが…」
そう。まだ始めて間もないから深刻な素材不足で、レアキャラが活きるところまで育ってない…。
「メインストーリーが進まないと、三段階目より先の進化アイテムが落ちるクエスト出てきませんから…」
「…背伸びはやめとくかね…。ストーリーを進めてこまめに配達と駆除を頑張るか…。話の追体験も楽しい物だし、下積みは
大事だ。…行動力尽きたがね…」
そう言って、課長は前に手を伸ばしてベタンと潰れる。それからすぐにぼくもミッション失敗して、最後の行動力を使い果
たした。
「ところでシマネ君。フレンドが出しとるこの子なんだがね」
「はい?」
ぼくは一度コタツを出て、課長が指差すスマホの画面を見に行く。太い指が示してるのは、フワフワの白い猫幼女…。
「あ~…!「運命の断片」ですね!」
「うむ。やっぱり限定キャラかね?」
「です。しかも「大いなる敵対者」と同時のダブルピックアップで、阿鼻叫喚の地獄でした…。あ、ぼくはどっちも来ません
でした…」
「そうか…。いや、どっちかとセットで並べたいなぁと…」
わかる。ぼくも「鉄色の虎」と「檸檬色の獅子」セットで並べたいもん…。
「それはそうと」
課長の腕が唐突に上がって、ぼくの首の後ろにかかって引き寄せる。
「冬の醍醐味、コタツでゴロゴロしながら映画を眺めんかね?などと添い寝に誘う私だ。…あ、リモコンでテレビの電源入れ
てくれるかね?」
「そのまま寝ちゃいそうですけど」
「構うもんかね。どうせ明日は休みだ」
笑いながらコタツの上のリモコンを取って電源を入れると、四つん這いに身を起こした課長はレンタルショップの袋に入っ
たDVDを取りに向かう。大きいお尻と重さで下がったお腹がユーモラス。…職場でのどっしり具合からは想像もつかないけ
ど、部屋で見せてくれるだらけ具合にギャップ萌えする…。
DVDがセットされて、本編前の予告が流れ始めると、再び寝そべった課長はコタツの布団を少し捲ってぼくを誘う。太い
腕に誘われるまま横に寝そべったぼくは…、
「課長、白い猫が好きなんですか?」
訊いてみてから、自分で質問の意味を考えた。何気なく口から出たけど、さっきソシャゲのキャラを指差された所からの質
問かなって、何となく思う。
「いや、縞々の方が好きかな?無地も嫌いじゃないがね」
課長はそう言って、並んで寝そべるぼくの肩に腕を回してくれた。心地良い重みがかかって、庇護されてるような安心感も
あって、この格好好き…。
待機してたDVDが再生されて、竜巻と鮫の映画が始まる。ごろ寝で鑑賞しながら、時々ぼくはコーヒーを、課長はビール
を、それぞれのんびり楽しむ。まったりした幸せ…。
「そうそう、来週の話だが…」
「はい!」
都市に降り注ぐ鮫という凄い画面そっちのけで顔を巡らせたぼくに、課長はニンマリ笑いかけてくれた。
「出発時刻、忘れとらんだろうね?」
そう。来週は約束の日。それと比べたら今夜のお泊りも柚子湯も前哨戦…。
来週24日、交際して最初のクリスマスイブは…、課長と旅行!
課長と一緒の旅行は二回目だけど、一回目は課内旅行だったし近場だったし、何より交際を始める前のこと。ホテルの部屋
はカノウさんと一緒だった。
けど、今度はトラ課長とふたりきり!しかも温泉地に旅行だ!
霧みたいな薄い雲が流れてく空は、全体的に白っぽい。
針葉樹が茂った山々には残り雪があって、どことなく縞模様に見える景色だった。吸い込む空気は冷たくて、鼻の先がジン
ワリ冷えてくけど…。
「風情があるなぁ。しかも、道路は乾いて運転し易いが、見渡せば雪景色と良いトコ取り!まるで接待されとるようじゃない
か、がっはっはっ!」
セーター越しにも丸さが判る大きなお腹を揺らして、トラ課長は機嫌よく笑った。課長の今日の格好は若々しくて、グレー
のトレーナーにクリーム色のセーター、上にはダウンジャケット。下はサイズがいくつか判断がつかない特大ジーンズ。
道中、二回のトイレ休憩と昼食休憩を挟んで課長の運転で来たのは、山中にある温泉郷。川を挟んで並ぶ旅館街に入る少し
手前、下りに入る直前にあった見晴らしのいい展望広場で、課長とぼくは絶景を眺める。
「ああ、そうだそうだ。せっかく他にひともおらんからな、こういう時は…」
トラ課長は思い出したようにポケットに手を入れると、ぼくを手招きした。
「ジドリだったなジドリ。うん。インスタに投稿できんのが残念だ。などと、インスタが何だかよく判っとらんしやっとらん
のにのたまう私だ。確かインスタバエと言うんだったな?インスタで?人気が出るような?そんな写真は?別の言葉だと…、
そう、サイコジェニック」
「フォトジェニックです課長」
「フォトジェニック」
課長が復唱する。真顔で。
「どうもサイコジェニーに引っ張られる癖がついとるな…」
ちなみに、課長がジェネリックやジェニックとくっつけて間違えるそれの事を、ぼくは調べるまで知らなかった。ジェニー
レーションギャップ…。
なにはともあれ、課長が構えたスマホで、身を寄せ合って撮影…。
「まずは、思い出作り一枚目だ」
「じゃあ、ぼくも一枚目を…」
取り出したスマホをかざしてちょっと背伸び…。課長は首を縮めてぼくの撮影範囲におさまった。
…う~ん…。トラ課長がちょっと窮屈そうに見える一枚になっちゃった…。あ、せっかくだから課長の愛車も…。
綺麗な景色を背景に、ここまで頑張って運んできてくれたスポーツタイプのインプレッサもパシャリ。グレーメタリックの
ボディとピカピカのフロントガラスに、白っぽい空が眩しく映り込んでた。
もうちょっとで着くらしいけど、残りの道もよろしくお願いします!
その温泉街は山間にあった。谷底みたいに窪んだ所を流れる幅10メートルくらいの川を、両岸から挟んで旅館やお店が並
ぶ。細長い温泉郷は釣りで大人気だそうで、川魚の姿焼きが名物なんだって。
カーブが大きい…というより螺旋状に降下してく坂道を安全運転で下りながら、「晩飯には岩魚の塩焼きが出る予定だ」と、
課長が説明してくれる。
「山菜に川魚に地元産のブランド牛…。う~ん、腹が減ってきた」
「お昼から二時間経ってませんけど…」
「若いかな」
「若いですね」
胃は。
いつものやり取りを交わしながら、ぼくは課長の様子が少しおかしい事に気付いた。
しきりに窓の外を確認するトラ課長。最初はカーブがきつい坂だから安全確認のためかとも思ったけど、どうも頻度も見る
角度もおかしいような…。
「どうかしたんですか?」
もう目の前だし、ヨウコソ看板もたくさん出てるし、道に迷ったとかはないと思うけど…。
「いや…、かなり様変わりしとるな、と…」
「様変わり?」
「実は…」
課長はなんとも複雑そうな顔で言った。
「親戚家族に連れられて、一度ここに来た事があったんだが…。20年以上前だったからなぁ、すっかり変わっとる。得意げ
に案内できると思っとったのに当てが外れた私だ。道理で検索しても前に泊まった旅館が出て来んわけだ…。あった場所が駐
車場になっとる」
「20年以上前ですか…」
「あの頃は若かったなぁ」
そうでしょうとも。
泊まるお宿は築250年の老舗だとかで、外から見ると三階建ての箱型だった。全体的に黒ずんだ木造なんだけど、悪い意
味で古くなったり傷んだりといった印象はなくて、情緒があるって言うのかな?建物に溜まった年月にちょっと感動した。
道もそうだけど、駐車場は端っこに雪が寄せられて凍ってる。課長の話だと、ああして掃かれて寄せられた所は春までずっ
と残ってるんだって。
「プチ永久凍土ですか?」
「春までの期間限定でね。春先になって溶けた後からは落し物なんかが見つかるそうだ」
「発掘ですか」
「浪漫がある」
「お財布とか」
「生々しいな」
お宿の暖簾を潜ると、そこは土間の玄関。その先の廊下はピカピカに磨かれた古い木の床だった。
旅館の人に丁寧に迎え入れられて、歴史を感じる帳場で課長がチェックインの手続きをしてくれてる間、ぼくはキョロキョ
ロと周囲を見回した。
左右にも奥にも廊下が伸びてるけど、先には障子が閉められた部屋がいくつも見えた。課長から先に聞いてたけど、夕食は
グループごとの個室になるんだって。あの障子戸の向こうは全部別々の食事の間。
玄関脇にはお土産が並べられた和室。自家製調味料とか、おつまみとか、お酒とか、石鹸とか…。温泉の素と、艶々キュー
ティクルって手書きの札がついてるボディーソープがちょっと気になった。
案内された部屋は二階にあって、スマホの画面で見て想像してたよりもずっと広かった。
長方形の部屋で、半分は畳敷きの居間になってる。真ん中に掘り炬燵があって素敵。
奥側の半分は寝室用で、一段高くなったところに布団が二つ敷いてある。
居間と寝室の仕切りみたいに配置された箪笥には、食器とかポットとかお茶類が収まってて、上には炬燵から眺めるのに丁
度いい大画面テレビが乗ってる。
窓はお宿の背面側にあって、そこから温泉街の真ん中を流れる川が見下ろせた。温泉が混じった川だから、埋もれるほど雪
が積もっても周辺だけはすぐ溶けるんだって、お茶を用意してくれた従業員さんが教えてくれた。
川を挟んで旅館が並ぶ光景は面白い。お宿ごとに川の方に大窓を開けた大浴場とか、柵で囲んだ露天風呂とか、河沿いに降
りられるテラススペースとか…、宿ごとに個性が違ってて見分け易い。
そして…、一番気になったのは奥の部屋。就寝スペースの奥には一枚だけの襖戸があって、従業員さんは「そちらがお風呂
になります」とだけ言ったけど…。
従業員さんが「ごゆっくりお寛ぎ下さい」って出て行って、ぼくは課長と向き合って炬燵に入り、湯気立つお茶を啜る。
「気になるかね?」
課長は面白がってるように、ぼくの目線を辿って部屋の奥の方を見る。
「はい、まあ、どういうのかなぁって…」
「それはそうだろうなぁ。よし、早速覗いてみよう」
課長はノソッと腰を上げてぼくを促すと、先に立たせて背中を押して、部屋の奥の襖を開けさせた。
そこには畳六畳分くらいの部屋があった。右手には洗面台。左手には川が覗ける窓。タオル類が入った籠や、背もたれがな
い丸椅子、簡易物干しとかが置いてある。
そして正面には、端にあるトイレのドアと並んで、曇りガラスが嵌め込まれた横に広い木の引き戸があって…。
「どうしたシマネ君?ほれ、開けてみんのかね?」
立てた耳で水音を聞いてたら、ぼくの両肩に手を置いた課長が笑いながら、ボヨンとお腹で背中を押して促した。
悪戯っ子みたいな急かし方だなぁ…。って言うか、課長も気になって早く見たいんじゃないですか?背中に感じるお腹の圧力
からすると…。
トラ課長の楽しそうな声とお腹に押されながら、戸に手をかけて、ゆっくり開けて…。
途端に、湯気がムワッて吹き出てきた。格子が嵌められた窓から斜めに差し込む太陽の光…、それが湯気に立体的な格子模
様を刻んでる。
奥の壁から斜めに下がって突き出た四角い木組みの給湯口が、湯船にお湯を注ぎ続けてるのが水音の正体だった。
波紋が揺らして乱す水面からは、絶え間なく湯煙が昇ってて、換気扇側の壁に向かって流れてく…。
そこはお風呂場。けど、ただのお風呂場じゃない。湯船にシャワーに洗い場と、間取りは普通にお風呂場なんだけど、凄く
広いし、浴槽は檜で、温泉掛け流し!
洗い場にはシャワーも鏡も椅子も二つあって、手桶も椅子も木製で、窓も広くて、湯気も温泉と檜の匂いで…特別感が凄い!
「凄いですねこれ!これが共用とかじゃないなんて…」
「うむ!想像しとったより広いな!がっはっはっ!これはいい、たっぷり温泉を楽しめそうだ!」
課長が機嫌良く笑う。
実はこのお宿の特長がこれ。何年か前の鉄砲水で川側の一階部分をめちゃくちゃにされて、それまであった大浴場が壊れた。
その後、大浴場を直す代わりに部屋を二つずつくっつけて、その片側に温泉を引いて、客室毎の浴室と脱衣場にしたそうな。
全部屋お風呂付きにするリノベーション?部屋数が半分に減る魔改造?改築の原因は判ったけど、どうしてそういう発想に
なったのかが正直よく判らない…。まぁ凄い贅沢なお部屋にはなってるんだけど…!
「客室数8部屋か…。これなら、最高だが競争率は高いというクチコミにも納得せざるを得ん私だ。今回予約できたのは運が
良かったな!がっはっはっはっはっ!」
上機嫌な課長が言うとおり、このお宿はバスか自家用車でしか来れないにも関わらず競争率が高いらしい。一ヶ月前にクリ
スマス時期の予約できたのは、たぶんたまたま空きが出たタイミングとかだったからで、かなりの幸運だったって…!
「課内旅行でどこかの温泉に行く事もあったんですか?」
「団体受け入れが出来る、宴会場がある宿に限られるがね。さて、早速温まりたいのは山々だが…、先に風呂に浸かって酒を
飲んだら出歩きたくなくなるからな」
「はい!まずは…」
「そう!「温泉街そぞろ歩き」だ!」
温泉街そぞろ歩き。
それは、今回の旅行先が温泉に決まった時から課長が言ってたイベント。要するに、浴衣に着替えて丹前を羽織って、街を
ブラブラする散歩。ぼくは初体験!
街並みを眺めながら端に雪が残った道をゆっくり歩いて、お土産屋さんを覗いたり、足湯に浸かったり、特に目的もなく歩
く事それ自体を楽しむらしい。
歩いてて感じる、空気の匂いが普段とちょっと違うのは、きっと温泉の匂いが混じってるせい。古めかしい街並みの非日常
感もあって、雰囲気だけでテンション上がってくる…。
「足元に気をつけるように。積もっとらんし凍ってもおらんがね、不慣れだと浴衣の裾が引っかかったりもするモンだ」
「はい!早くも脚が絡みました!」
「正直でよろしい!」
先導してくれる課長の浴衣姿は、こう、何て言うか…様になってるって言うの?凄く似合ってて素敵だった。どっしりした
体型だし背も高いから、和服姿になると貫禄が増す。…備え付けの浴衣が入らなくて交換して貰ったけど…。
クリスマスムードは全体的に控え目。所々で電飾がつけられたミニツリーとかは置いてあるけど、温泉街の情緒が前面に出
されてる。
張り出した軒や家紋入りのガラス戸が印象的な古い旅館に、お蕎麦とかうどんの旗が出た軽食屋さん。お土産屋さんは、ど
こも地元の物が並んでて見た目から賑やか。覗いてみると、漬物とかがパック売りされてたり、木製の漆塗り食器なんかの地
産工芸品や、地元生産のお酒、デザイン手拭いとかシャツも売ってる。木彫りの置き物や手芸品の小物類もたくさん並んでて、
こういう所に来る機会が乏しいぼくには物珍しい光景…。
「シマネ君、ちょっとあの店覗いてみんかね?」
課長が指差したお店の前では、串に刺した魚とか牛肉とかを炭火焼きしてて、いい匂いが漂ってる。夕食まで時間もあるし、
ちょっと間食する事にして、課長とぼくは店先のベンチに座って、脚湯とお茶を楽しむ。
風が吹くと肌寒い、山奥の温泉地。でもそれだけに、散歩の途中の足湯はとても気持ちよくてホッとした。
「どうだね?なかなか良いモンだろう?」
「はい!」
課長と笑みを交わして頷く。…初体験だけど、そぞろ歩き楽しいかも。
トラ課長は昔来た時の記憶を頼りに色々案内してくれた。年月が経ってるし記憶が薄れてる所もあって、ここにも店があっ
たはずだとか、道が無くなってるだとか、時々首を傾げてた。急ぐ用事もないから焦る必要もなくて、道に迷って、遠回りし
て、のんびりと歩き回った。
それから、川を見下ろせる高い位置に行こうと坂を登って、途中でバスの待合室みたいな喫煙ブースを見つけて、課長が煙
草休憩してる間にぼくは風景を写真に撮る。
まだ坂の三分の二くらいだけど、ここからでも見晴らしはよくて、川を挟んだ街並みが一望できた。川沿いに並んだお宿か
ら上がる湯煙が、川下に向かう風に乗ってゆったり流れてく…。
登ってくる途中で気付いたけど、道の脇に並ぶ木の下には紅葉の葉っぱがかなり溜まってた。きっと、紅葉の季節は凄い景
色になるんだろうなぁ…。雪が降っても綺麗で、夏は緑が濃くて、秋は目に鮮やかで…、たぶん春には桜も…。眺める傍には
課長が居てくれて…。
「お待たせ。良い景色じゃないか、うん」
スマホをカメラモードで構えたままぼんやりしてると、一服が終わったトラ課長が、すぐ後ろに歩み寄って口を開いた。
「はい。素敵なところですね…」
「そう言って貰えると選んだ甲斐もある!」
湯煙が流れる、不思議な山の空気…。なんだか夢みたいだ。課長に恋をして、課長と交際して、こうして課長と一緒に遠く
まで旅行に来てるなんて、春頃のぼくには想像もできなかった状況が、今は現実になってる…。
「さて、あと少し登り切ってしまおうか。坂もなだらかなモンだから登りも辛くない」
「帰りも楽そうですか?」
「そう思うが、転がり落ちる事だけは気をつけんといかん私だ。ともかく、散歩はいい。晩飯の時間までにだいぶ腹も減りそ
うだからな」
そう言った課長は笑ってお腹を叩くと、再び坂道を歩き出す。すぐ傍に寄って歩きながら、ぼくは角度が変わって見え方が
変化する温泉街をちょくちょく見下ろした。
三分ちょっと歩いたら、ゆるい坂の頂上にある広場に到着。
広場には、景色と並べて山の名前が判る案内板や、柵の方を向いて景色を見ながら休めるベンチ、そして自動販売機とゴミ
箱が設置されてる。湯煙とか温められた空気が吹き付けられて昇ってくるからなのか、広場から見下ろす川までの崖は他より
残り雪が薄かった。
ぼくら以外にも数組居て、みんな浴衣姿の旅行客。思い思いに写真撮ってる…。
「ふむ…。あそこなんかが良さそうだ」
しばらく辺りを見回してた課長は、熟年夫婦が手すりに手をついて温泉街を見下ろしてる方に歩き出した。そして…。
「良ければ撮りましょうか?」
紀州犬男性と景色の写真を撮ろうと、カメラを構えた白猫奥さんに、そう声をかけた。
「あら、ありがとうございます!」
白猫奥さんは朗らかに笑って、持ってたデジカメをトラ課長に手渡す。
…白猫…。あれ?う~ん…、何だっけ…?何か思い出しそうに…。
「撮りますよー、ハイ、チーズ!」
預かったデジカメで三枚撮って、課長は奥さんにお礼を言われて…。
「それじゃあ、どうぞそこに。今度はわたしが撮りますから」
「済みませんね、お願いします」
あ!なるほど!不慣れだから今判ったけど、これ気配りの贈り合いだったんだ!
課長は婦人にカメラを預けて、ぼくを手招きして柵をバックに並ぶ。ちょっと乱れた襟元を整えた課長と、緊張しながら立
ち位置を決めたぼくは、一枚の写真におさまって…。
「親子旅行ですか?いいですねぇ」
「うちの子達は家を出たきりなかなか帰ってこなくて…」
三枚撮ってからカメラを課長に返した奥さんが、旦那さんと一緒に笑って言った。
曖昧に笑って誤魔化した課長は、お礼を言った夫婦が離れると、「親子かぁ…」ってポツリと漏らした。
「度々言われるが、傍目にはそう見えるかぁ。いや実際にそういう年齢差だが。…俺が父親に見える、ねぇ…」
納得いかないようで、でも何だかちょっと愉快そうで、課長の表情は複雑だ。
お父さん、か…。
課長は少し前に言った。父親の記憶はあやふやだって。幼かった頃に蒸発してしまったから…。弟さんなんかお父さんの顔
も声も記憶にないんだって…。
急に居なくなって、それっきり。ただ、とても子煩悩で夫婦仲は良かったっていう印象だけは強く残っているらしい。自分
達を捨てて何処かに行ったとは思えないから、事故にでも巻き込まれて帰って来れなくなったんだろうって課長は言った。
課長は最近少しずつ家族の話や昔の話をしてくれるようになった。気軽に、一気に、まとめて話してくれない理由に、ぼく
は気付き始めてる。
重いんだ。話が。
トラ課長は何て言うか…、平坦な人生を送ってきてない。離婚してた件もそうだけど重たい話が多いんだと思う。だから、
雰囲気が重苦しくならないように、ちょっとずつ話すようにしてるんだと思う。ぼくを気遣って…。
「さて、ここまで来たらもう一息。一晩ご厄介になるんだから、温泉神社にお参りして行こう」
課長は普通の事みたいに言ったけど、…「温泉神社」?また聞き慣れない言葉が出てきた…。
温泉街を見下ろす高台の一角に、石垣と石の柵に囲まれた神社は鎮座してた。
周囲が笹薮で囲まれてて、短い石段は左右に雪が固められてる。普通の大きさの神社なんだけど、風にはためく幟が整然と
立てられてて、境内の中には客が多いから、とても賑やかな印象があった。
石段を登る手前で鳥居を見上げたところで、課長とぼくは足を止めた。左右に雪が寄せられた階段の真ん中を、降りて来る
人影があったから。
それは、黒い着流し姿で、黒くて艶々した毛の、がっしりした体つきのひと。大人だけどまだ若い。たぶんカノウさん達よ
りは上かな?
プロレスラーみたいな逞しい体だって、着物の上からでも判る。背も高いし、格好いい。でも、厳かっていうのかな?怖い
とかそういう印象より、立派で見とれちゃう感じがする。
「どうぞ、足元にお気をつけを」
犬のひとが石段の下から上を振り返る。そこで背中が見えたけど、着流しの背中には白い紋があった。丸の中に何かの字の
マークに見えるけど、角度が悪いから潰れて読めない。
「んむ、ありがとうよぅ。お前さんもきちんと足元を見て歩きなさい。転んだりしちゃあ事だからねぇ」
そう答えたのは、続いて降りて来る猪のおじさん。…おじさんかな?お爺さんかな?初老っていうか何て言うか、若くはな
いけどそんなにお年寄りって感じない。恰幅がいいひとで、…えぇと、何だろう?いい匂いがする。…お線香みたいな、そん
な香りかな?
柔和そう…な気がする。…印象がなんだか、はっきりしないって言うか…。着物のインパクトが大きいせいかな?漫画とか
で見る神主さんみたいな真っ白い格好で、頭に黒くて長い帽子を被ってる。
逞しい黒犬が手を差し伸べて、猪のひとはそこに手を重ねて石段を降りる。そして、振り返った先…鳥居の下に居た人影に
会釈した。
そっちは猿のひと。若い…感じがする?そっちも神主さんみたいな白い格好をしてて、黒い帽子で…。何だか柔らかくて暖
かくて…。えぇと、あれ?何が暖かいの?
「じゃあ、いずれ」
「はい、また」
猪さんと猿さんが笑って手を上げあった。…ような気がする。そして黒犬さんはぼくらの前を会釈しながら通り過ぎて、猪
さんもその後に続いて…。
「さて、行こうか」
課長の声を聞いて、ぼくは顔を前に戻した。うん。降りて来るひとはもう居ない。
「変わった格好の人達でしたね?」
「うん?変わった格好?」
課長は不思議そうな顔。あれ?もしかして温泉じゃ普通?あ、いや、神社じゃ普通なの?
「…と思ったけど、普通なのかもです。ここだと」
「私達も浴衣に丹前だしな」
「そうでした」
本当に、つくづく非日常だなぁ…。そう感心してると、課長は石段に脚をかけて振り向いた。
「シマネ君、気をつけて端っこを登ろう。真ん中の方が滑らんが、中央はカミサマ達の通り道だ。空けておかんとな」
「へぇ~!そういう決まりもあるんですね!」
面白いなぁと感じながら、さっきのひと達は真ん中を降りてたなって思い出す。ぼくもだけど、知らないひと多いのかも。
残り雪が溶け出して凍った階段を、気をつけて一歩ずつ昇る。ツルツルはしてない。階段の素材の石がザラッとしてて滑り
難いみたいで、雪の残りも氷も怖くない。
「湯治場だから、この温泉神社には健康のカミサマが祀られとる」
石段を登りながら課長がそう説明してくれた。
「なるほど、健康の…。え?何か神社の名前に「厄」って入ってませんか!?」
「そういう所も結構ある。「忌」とか、普段ならあまりいい印象を持たん漢字も、大昔は違う意味合いで使われとったりして、
その名残というケースもあるらしい。ここのカミサマは「厄師様」と言うらしいが…、大丈夫。健康に御利益がある神社だと
も。何せここの神社のひとから教えて貰ったからな。…20年以上前だからややあやふやだが」
「ややあやふやですか」
「しっかり覚えとるとは断言できん。そんな自信の無さを隠さん私だ」
「正直でいいです!」
短い石段を登りきって、鮮やかな朱色の鳥居の前で立ち止まった課長は、丁寧に頭を下げる。そういう作法だって思い出し
て、ぼくも丁寧に頭を下げた。…お邪魔します…。
顔を上げてふと横を見たら、さっき見かけた神主さんみたいな格好の猿さんが、鳥居の脇に立ってニコニコしながらこっち
を見てた。目が合ったから会釈したら、頷くように会釈を返された。
…何だろう?あの笑顔と表情…、嬉しそうな顔?…あ、お客さんが来れば神社のひとは嬉しいの当たり前かも。
「まだ成人もしとらんどころか、高校生だったが…、前に来た時、ブラブラ散歩がてらこの神社に来た時は、丁度ひとも掃け
とってね。神社のひとが丁寧にここの謂れを教えてくれた。温泉の風情や情緒の楽しみ方も知らん私に、長々と付き合って時
間を割いてくれてね、本当に親切で紳士的で、物腰の柔らかいひとだったが…」
お賽銭箱までの列に並びながら、課長は周りを見回した。誰かを探すように。
「今日はおらんか…。いや、昔の話だ。例え話しかけても困らせるだろう。一度会っただけの参拝客のひとりなんぞ覚えとら
んだろうしね」
課長は目を細くして付け加える。
「だが、変わらなくてホッとする。ここはあの日に見たままの景色だ」
「前も冬だったんですか?」
「ああ、大雪が降った翌週で、それはもう見事な雪壁があちこちにできとったよ。この神社も四方が雪壁に囲まれとった。そ
こに四角く穴が掘られとってね?中に蝋燭が飾られて、ぼんやり光って幻想的だった。雪に火の光は何とも映えるモンでね…」
「へぇ~!それ見たかったかも!」
「今からでも雪がドカッと降ったら飾られるかもしれんが…」
「カミサマにお願いしたら降りますかね!?」
―…健康運は専門だが、天候の方はだいぶ苦手で…。などと申し訳なく思う私だ―
「え?」
「うん?」
聞き返したら、課長は不思議そうな顔をする。
「今、天気が苦手とか言いませんでしたか?」
「いや、言っとらんが?」
「あれ?ううん…、空耳だったのかも…」
課長の声じゃなかったような気もする。前の家族連れの話が聞こえてきたのかな?
「でも、大雪が降ったら帰り道が心配ですよね…」
「そうだな。大人しく挨拶と健康祈願に留めておこう」
「はい、そうします」
「何せこの体型だ。今はまだセーフだが、高血圧やら何やら成人病が将来不安な私だ」
健康祈願大切!課長の分までお願いしよう!
順番が来て、お賽銭箱に小銭を入れて、課長と交代で鈴を鳴らして、一緒に拝む…。
…一晩お邪魔します…。素敵な景色と体験と経験、ありがとうございます…。それと…、課長が末永く健康で元気に過ごせ
ますように…。
そんな風に拝み終わって目を開けて、
―そちらは問題ない。と、責任持って保証する私だ―
…?
ぼくは左右を見回す。課長はいま拝み終わって顔を上げたところだった。…また空耳?
「さあ戻ろうか」
課長が笑いかける。その向こうに、微笑んでる猿のひとが見えた。
「帰りに酒のツマミを買って行こう。実はさっきの店で美味そうな肴を見つけとってね…」
「はい!ぼくもさっき甘酒見つけて、帰りに買って行こうかなって思ってました」
「お、いいね!ノンアルとはいえ酒は酒、ひとつ乾杯と行こうか!」
そして石段に足をかけた瞬間…。
ズリュリ。
「はっ!?」
階段の端、寄せられた雪が溶け出てた箇所に足を滑らせて、ぼくは前に大きく右足を蹴り出した格好になった。
開脚状態で階段から落ちる!と、背筋が凍る思いをした次の瞬間…。
「おっと」
ぼくの首の後ろ、背中寄りの位置で丹前が掴まれて、体重の移動が止まった。
「危ない危ない、滑るから気をつけんとなぁ」
ぼくを捕まえてくれた課長は、そのまま軽々と片手で引き戻した。
「す、済みません!」
「うんうん、気をつけて帰ろう。何せ慣れん浴衣だからな」
怒るでもなくのんびり言って課長は笑った。
神社を後にして、温泉街へ戻る。せっかくの旅行で怪我なんかしないように。
来る時より慎重に、ぼくと課長は坂道を下っていった。
そうして宿に戻ったら、いよいよお部屋のお風呂!
広過ぎる脱衣場で浴衣を脱いで、ぼくと課長はいそいそと、湯煙が充満してる浴室に。空気自体がもうあったかい!
「こうして、まずは掛け湯だ」
課長は浴槽の脇で屈むと、手桶でお湯を汲んで掛け湯を実演してみせてくれた。冷えた体でいきなりザボンと浸かるのはや
めた方がいいらしい。
「湯が跳ねんように屈んで…、掛け湯設備が高くて屈めん時でも、なるべく腰を落としてだな、こうやって手足などから…つ
まり心臓から離れた所から湯を掛けて行くわけだ。負担がかからんようにという訳だね。同時に、浸かる前に体の汚れを流す
ためでもある」
実演する課長の説明を覚えながら、「課長はこういう温泉とか慣れてるんです?」と、ぼくには掛け湯とかの習慣がなかっ
たから訊いてみた。すると…。
「温泉とは違うが近くのスパには結構よく通っとったからね。シマネ君と付き合う前は風呂掃除もろくにしとらんかったし…」
納得!説得力凄い!課長は仕事とプライベートでシッカリ具合がだいぶ違うし…。
課長を真似して掛け湯してみたら、外の風に当たり続けて冷えてた手足には、かなり熱いと感じられた。けどそれも初めだ
けで、肩とか脚の付け根とかまでかける頃には気持ち良い温度になってた。
「そうそう、そんな具合だ。それと…」
って、お湯を掛けた体から湯気を上げてる課長は、最初は軽く体を流すだけにして、長湯しない方が良いって、加えて説明
してくれた。
「それはどうしてなんですか?」
課長が物知りだから、ついつい答えを期待して理由を訊いちゃう。少し自分でも考えてみた方が良いんだろうけど…。
「その温泉の泉質が体に合うか合わんかという問題もあるが、最初は効果がどの程度か判らんというのもあるからなぁ」
効果?温泉の効能っていう物の事かな。そんなにすぐ出る物なんだ?
温泉凄いなぁ、なんて思てると…。
「それじゃあ、「せーの」で行こう」
「はい?せーの?」
「そう、「せーの」」
意味が判らないぼくの手を取って、課長は片足を上げて見せる。促されるまま浴槽の縁を跨いで、湯船に脚を入れて…。
「せーの!」
課長はぼくの手を取ったままゆっくり腰を屈めた。ぼくも引っ張られて一緒に屈んで…。大き目の湯船の縁を越えて、お湯
がザボァーッ!って凄い勢いで溢れた。
一瞬の事だった。浴室が湯気で真っ白く染まった。零れ出たお湯が排水溝に殺到する音と、立ち昇る湯気と温泉の香り…。
「がっはっはっはっはっ!贅沢贅沢!いや堪らんなこれは!」
けたたましい水音と湯気にビックリしてるぼく。課長が楽しそうに笑う声が浴室に反響する。掛け流しの温泉が大量に流れ
出て行っちゃった…!確かに贅沢!家だったら水道代とか考えちゃう!
「ま、常に供給されて流れとるんだ。このぐらいの贅沢には目を瞑って貰おうか。どのみち常に湯船から溢れ出とるモンなん
だから」
課長は悪戯っ子みたいな笑顔。何だかこっちまで楽しくなって来ちゃう!
長方形の湯船は大きくて、ぼくと課長が端と端に背中を当てて座れば向き合えるぐらい。深さにも余裕があるから、課長は
肩の高さの縁に腕を乗せて、悠々とした格好でくつろげる。ぼくにはちょっと深いぐらいで、正座で丁度いい感じ。
でも…、脚を広げて伸ばした課長の格好は…、セクシー過ぎです…!波打つお湯の向こうに触り心地最高の胸とお腹が…!
と、それはともかく…!温泉のお湯は少しヌルッとしてた。ここのはこういう泉質なんだって課長が教えてくれた。「美肌
の湯」なんだって。ぼくら獣人も皮膚から被毛から汚れが分解されて落ちてくらしい。詳しい説明とか他の効能は温泉の説明
書きにあるそうだけど、課長は本当に物知りだ。ぼくも大人になったらトラ課長みたいに物知りになれるのかな?
それから五分くらい体を温めたら、課長は「そろそろ出ようか」と腰を上げた。正直、え?もう?って思ったけど…。
「顔までポカポカします…!」
最初は長湯しない方が良いっていう課長の説明の意味が、すぐに判った。お風呂から上がって体を拭く時点で。
きっとこれも温泉の効能で泉質の特徴っていうヤツなんだ!保温効果が高くて、体が凄くポカポカする!
外から帰ってきた後は肌が冷えてたから、お湯をちょっと熱く感じて、注意がそっちにばかりいってたけど、浸かってる間
もこの効果が出てたとしたら…。
「勿論、普通のお湯のつもりで長く浸かり過ぎて、体が疲れる場合もある。俗に言う湯当たりというヤツだな」
やっぱりー!
広い脱衣場で体を乾かしながら、課長は追加で説明してくれた。入浴自体が想像以上に体力を使う行為なんだけど、温泉の
場合はそれに加えて、泉質による作用とか、体質的に合うかどうかもある。だから最初は短い時間だけ浸かって調子を確認す
るのが良い。特に初めて浸かる温泉の場合は。
「一応、泉質の説明には禁忌症状も纏められとるがね。体質なんて個人で違うから注意するに越した事は無い」
とりあえず、ぼくはこの温泉では不調を感じないタチらしい。調子に乗った長湯はダメだけど、まずは一安心!
それからぼくと課長は、夕飯までの時間をのんびりと、体を休めて過ごす。
『乾杯!』
堀炬燵に入って、日本酒と甘酒で乾杯!記念すべき初めてのお酒での乾杯!甘酒だって名前は一応お酒!
温泉効果で体はまだポカポカで、この後は夕食が待ってて、目の前にはトラ課長が居る!楽しい旅行はまだまだこれから!
「いや~、来た甲斐があったと早くも満足しとる私だが、シマネ君はどうかね?」
「はい!楽しいですし、それに…、えぇと…」
ぼくは課長に説明した。新鮮な事。驚きが多い事。楽しい、嬉しい、そんな気持ちを表すだけじゃ全然足りない、密度があ
る旅行だって。
上手く纏められないぼくの説明を、課長は耳を寝せて目を細くして、頷きながら聞いてくれた。「うんうん。可愛いなぁシ
マネ君は!」って…。
「え?何でそこで可愛いなんですか?」
「いや、感想とか一生懸命表現しようとする、ひたむきさなどが」
えええええ…。感想とか表現とか、しっかり言えるようにならないとダメだコレ…。
待ちに待った夕食は、料理が順番に出て来るタイプだった。
そのまま客間にできるんじゃないかっていう床の間と押入れ付きの立派な和室は、たぶん十畳くらいの広さ。もしかしたら
お風呂付き部屋への改築と同じで、元々は客間だったのかも?宿泊する部屋に二部屋分、食事に一部屋分、贅沢なスペースの
使い方だ…。宴会の時とも趣が違っててちょっと緊張する…。
そんな立派な和室に、白猫の従業員さんが綺麗な器に乗った料理を一品ずつ持って来てくれる。
…白猫…。白猫…?う~ん…。
小さな器にちょっとずつ盛り付けられた珍味から、まずはお刺身、そして野菜と角切り牛肉の煮物が続く。運んできてくれ
た旅館のひとが一つ一つ説明してくれるから、凄く高級感ある…!
見たままその格好の岩魚の塩焼きは、課長に教えて貰って、鰭を引っ張って付け根の骨を抜いて食べた。ホクホクした身と
塩がまぶされた皮が、口の中で程よいバランスの味になって、噛んでる内に香りが鼻まで溢れてくる。見た目はしょっぱそう
なほど塩がかかってるけど、丁度よくてビックリだった。
卓上の小鍋は地元ブランド牛のスキヤキ。お皿に盛られた牛肉や野菜を、固形燃料で温められた鍋に投入して作る。これも
課長に教えられながら頑張って、なんとか具を綺麗に並べられた。なお、頑張って並べてる途中を課長に撮影された。はずか
しい…。
脂が綺麗に入った牛肉はやや厚めで、割り下と玉子を絡めたそれは、口の中でジュワ~って味を広げる。キノコと白菜も一
緒になると、何とも言えない味のハーモニー!正直、ブランドとか品種とか、舌が肥えてないぼくが食べたって違いなんか判
らないだろうと思ってたんだけど、凄い…!これはぼくにも違いが判る…!これが、本物っていうヤツ…!?
続いて出てきたのは分厚いステーキ。一口サイズの七切れを目の前の陶板で焼きながら、お好みでタレや塩、ワサビで食べ
る方式。これも課長に説明して貰って、引っくり返すタイミングを見計らいながら食べる。
噛めば肉汁が溢れ出る、厚いのに柔らかいお肉は圧巻!何をつけても美味しいし、付け合せの野菜まで美味しい!パプリカ
見直した!焼いたパプリカ凄い!お肉のベストパートナーなんじゃないパプリカ!?
次々出て来る料理は全部美味しいんだけど、どれがメインディッシュだか判らなくて、脳みそがちょっとバグる…。
なお、お献立を見た時点で明らかに食べきれない量だって判断できたから、生物を中心に課長にちょっとずつ手伝って貰っ
てる。ぼくの三割増しくらい食べてる課長は、加えて機嫌よくお酒も飲んでるけど、まだまだ余裕があるみたい。
なお、課長が注文したお酒は魚の形の器に入った熱燗で、岩魚の骨酒って言うらしい。器の中を見せてもらったけど、岩魚
の干物が沈んでた。熱燗で蒸らされて岩魚のエキスが染み出て、お酒に味と香りをつけるらしい。
「シマネ君が飲める歳になったら、一緒に飲もうか」
って、課長は目を細くして笑いかけてくれた。はい!楽しみにしておきます!
ご飯は、地鶏とキノコと山菜の五目オコワ…!これも香りが凄く良い!モチモチした食感と絶妙な醤油加減!漬け物となめ
このお味噌汁もついてるこのセットがこの会席の締め。あとはデザートが出るらしいけど…、課長に手伝って貰ったおかげで、
何とかお腹に収まりそう。
デザートはフォンダンオショコラに、クリームのメッセージデコレーションつきだった。メリークリスマスって!
「がはははは!こういうのは嬉しくなるなぁ!」
「はい!」
シットリモッチリショコラをブレンドティーで頂いて、手を合わせてごちそうさま…。
「いやぁ、満足満腹!…っぷふぅ!」
課長は笑ってお腹をポンポン叩き、上がって来たゲップを噛み殺す。
ぼくも満足…!ひとりじゃ食べきれない量だったもん。はぁ~…!幸せ!
たっぷり食べて部屋に戻ると、課長はまず布団にゴロンと大の字になった。
「ふぅ~…!ちょいと食休みだ。…とはいえ寝てしまっては困るからな。体を伸ばすだけにしよう…」
確かに、このまま寝ちゃいたい気持ちもあるけど、布団に入ったらぐっすりだ…!
「気持ちよく熟睡して絶対に朝まで起きない自信があります!」
「同じく。何せ掛け布団の上に居るだけですぐ入眠しそうな私だ。…どっこいしょ!」
体を起こした課長は、座った姿勢で首を左右に傾けて肩を揉んだ。…あ!
「ちょっと失礼しますね」
後ろに回るぼくを「うん?」と振り返る課長。本当は温泉に着いてすぐ考えたんだけど、驚きの連続だったしやる事いっぱ
いだったしで、タイミングが合わなかったんだ。
「運転お疲れ様でした!」
課長の厚い肩に手を添えて、ギュッギュッと揉む。今日の運転もだけど、最近パソコンと睨めっこしてる事が多かったから、
肩凝ってるかなぁって気になってたんだ。
「がはははは!こりゃ有り難い!」
笑う振動が肩を揉む手にまで伝わってきた。浴衣の布地一枚越しだから、肉厚な肩の間食がはっきり判る。トラ課長は猫科
だからきめ細かい被毛、その下に柔らかい皮下脂肪、さらにその下にはミッチリと筋肉…。
「課長、昔どんな運動してたんですか?」
「高校の後半はボクシングをやっとった」
ボクシング!
聞いた途端にピンと来た。納得したっていうか、ああそういえば、ってパズルが嵌る感じ。
トラ課長は時々物凄く機敏に動く。凄い反射神経だって感心してた。あれってつまり、昔取った杵柄っていうヤツ?
「興味があったとか、やりたかったとか、そんな動機じゃなかったがね。恩師に勧められてなぁ。競技で上を目指すというよ
りは、有り余っとる力を健全に発散するように始めた」
「ボクシングというと…、減量とかもやったんですか?」
「年月が無慈悲な現実を突きつけて来るがね」
課長は真ん丸お腹の肉をムニュッと掴んでみせる。
「あの頃は若かったなぁ」
そうでしょうとも。
「あの頃はムキムキだったなぁ」
そうで…え?
ぼくの疑問を察したらしいトラ課長は、右腕を上げてムキッと力瘤を作ると、ポンポン叩いて見せる。
「あの頃はムキムキだったなぁ」
リアクションが無かった事が不服だったらしい。繰り返されちゃったからとりあえず頷く。
…でも、課長がボクシングか…。今はポヨポヨに太ってるけど、体格はいいし背は高いし、きっと迫力があるボクサーだっ
たんだろうな。
「その頃の写真とか無いんですか?」
「え?私疑われとる?」
「いえそうじゃなくて」
「あるにはあるが、見られるのはちょっとなぁ…」
「どうしてですか?」
「引かれるから」
「え?」
「あの頃は丸くなかったからなぁ…、物理的な意味でなく。写真写りが相当なレベルで悪い」
…つまり相当なレベルで人相が悪かったって事かな?
「顔はまぁ肥ったら多少柔和になったがね。体型が一気に変わったのは…就職した後だな。つまり運動をしなくなってから。
一種のリバウンドと運動不足がダブルパンチで私を襲ったわけだ」
「一気になんですか?少しずつじゃなく…」
「一気だったね。それはもう、どの服も二年着れんレベルで変化した。それでもまぁ二十代前半はマシだったかもしれんが…。
三十代に入った頃はもうこの体型で、その後は変わらんがね」
三十代の課長はもうこの体型だったんだ?そこから変わらないって事は体質的に?それとも食習慣的に?太った体型で落ち
着いちゃったって事なのかな。
「あ、そこそこ…!そこが効く…!」
下向きにした親指が押した位置、肩甲骨のちょっと内側が気持ちいいらしくて、課長の反応を頼りに揉んでみる。肩揉みも
実家のお爺ちゃんにしたぐらいしか経験ないから、ほぼ手探りだけど、気持ちいいなら嬉しい…。
「出張マッサージなんか頼もうかと何回か考えたんだが、部屋に来て貰うのも気が引けてね。何せ片付けがイマイチな私だ」
最近はちゃんと片付いてるけど、確かに前はお客さんが来ても上げ難かったかも…。
…あれ?お客さん?
あ!思ってる途中でピンと来た!何だか白猫に引っかかる理由!
「済みません!言うの忘れてました!この前、ぼくが課長の部屋にお邪魔した日…、柚子湯した日に、白い猫の女の人が部屋
の前に居たんです!」
肩を揉む手を止めて、かなり遅くなった報告をしたら…。
「うん?白い猫の…」
呟いた課長はすぐに「もしかしてラグドールの?色白な婦人かね?」と確認してきた。心当たりがあったらしい。
「あ、そうです。フワフワした、上品な感じの…」
「あちゃ~…。会うんだったら先に紹介しておくんだったな…」
軽く顔を顰めたトラ課長は、「そのひとは」と頭を掻きながら言った。
「私の、妻だったひとでね…」
………え!?
布団の上から場所を変えて、課長とぼくは炬燵を挟んで向き合った。
間には淹れたばかりのお茶。湯気立つその向こうで、課長は瞼を半分降ろしてる。昔を思い出すように。
「いつか話そうと思っとったし、会ったならいい機会だ。多希恵(たきえ)さんの事を話しておこう」
課長はそう切り出して、結婚してた時の事を話してくれた。バツイチっていう話は聞いてたけど、課長の口から奥さんだっ
たひとの話を聞くのはこれが初めて。直接訊くのも気が引けたし…。
本人はだいぶ謙遜して話したけど、課長が若かった頃、仕事ぶりを見込まれて社長から直々に見合いの話があったそうな。
重要な取引先…銀行の偉いひとの娘さんとの縁談だった。そのひとがタキエさん。あの日ぼくが見たラグドール婦人。
「まぁ、私も若かった」
お茶を啜って課長は言った。いつもと違う、重たい「若かった」が気になった。
要するに、政略結婚とかそういう感じだったらしい。会社と地銀の結び付きを強くするための。敏腕だった課長の事は取引
先の地銀にも知られてたし、見合い話は銀行側から打診されたそうな。
どうした物かと、課長は迷った。身を固める事なんか考えてもなかったところに、降って湧いた見合い話だったから。しか
も課長は女性が苦手。…あの、割と自業自得な学生時代の思い出のせいで…。けど、会いもしないで断るのも先方の顔に泥を
塗る事になるから、会ってから断られようって考えた。
「何せ、当時はもう肥えとったからね。女性に好かれるタイプとは真逆だった」
断られる自信はあった。こんな男とのお見合いをセッティングされた相手に同情もした。何事もなく見合い一回で終わると
思った。課長はそう言ったものの…。
「思った通りにはならんかった。…何をどう間違ったか、気に入られてしまってな…」
納得が行かないというか、心当たりがないというか、どうして気に入られたのかはサッパリだったと、課長は首を捻る。と
にかく、タキエさんに気に入られた課長は無下に振る事もできなくなった。
「いいひとなんだよ。本当に…」
お淑やかで、気立てはよくて、上品で、一緒に居ると気分が良い。そんなひとなんだって、課長はまた頭を掻く。
「それで勘違いしてしまった。若かったから、な…」
課長はタキエさんとちょくちょく会いながら、「思ってしまった」んだって言った。辛そうな声で…。
「こんないいひとと一緒になれば、自分は「治る」んじゃないか…。そう、俺は思ってしまった…」
同性愛。同性を好む嗜好。同性を好きになる心。それらは「普通じゃない」って課長は思ってた。そして、その「普通じゃ
ない」が、タキエさんと夫婦になれば「治る」んじゃないかって考えた…。
「上手く行くと思っとった。夫婦生活も「治療」も。何せタキエさんは、自分は同性愛者なのだと私が告白しても、嫌な顔一
つしなかった…。理解ある彼女と夫婦になって、一緒に生活しとれば、「治る」。…と、思っとった。当時の浅はかな俺は…」
済まない事をした。そう、課長は小さく呟いた。
「治る治らないの話しじゃあなく、消えない個性…。普通じゃないと思えるそれが、自分の普通…。それも含めて自分自身だ
という事に、当時の俺は気付いとらんかった。治る。治す。そう言って、タキエさんを結婚生活に付き合わせた」
ひととして好きだった。だが女性を好きになる事は結局なかった。結局の所、愛はあっても友愛のような物で、夫婦愛には
ならなかった。妻として、伴侶として、彼女を見てやれなかった。それでも彼女は尽くしてくれたし付き合ってくれた。普通
の夫婦になれるという自分の言葉を信じて…。そんな課長の声には、悔やむような響きが篭る。
「結局の所、俺は物事をしっかり認識できとらんかった上に、夫婦の基本もなっとらん夫だった。籍は入れて形の上では夫婦
になっても、釣り合うパートナーではなかった、という事だ」
…言葉を聞いてるぼくまで辛くなってきた…。どんな気持ちだったんだろう?奥さんに申し訳なかった?焦りもあった?で
もその頃に課長が気にしたのは、相手の事だった。
「離婚歴というモンはね、年若い女性にはなかなか辛いモンだ。特に良い所のお嬢さんは…。結局俺は気付くのが遅れたが、
タキエさんを長く束縛するのは彼女の為にならないと、離婚を決意した。遅過ぎたんだがね…」
少なくとも、自分にとっては幸せな、家族が居る生活だった。…そう、課長は言った…。
離婚の理由ははっきり言えなかったから、タキエさんのお父さん…課長の義理の父になったひとはカンカンだったそうだ。
大手の機嫌を損ねては今後の業務にも差し支えるからという理由で、課長は自分から社長に直談判して、一課の課長補佐を
辞して、出世コースから外して貰った。自分がそういう処分を受ける事で…、会社としてそういう判断をしたという事で…、
相手側の気を晴らそうと…。つまり課長は、自ら進んで見せしめになった…。
「それでまぁ、今に至る。今も友人付き合いを続けてくれとるタキエさんには、頭が上がらんよ…」
鼻の頭をコリコリ掻いて、課長は遠い目をした。
不思議な気分だった。もしも課長が結婚したままだったら、こうして交際する事はできなかったのに、課長が離婚した話が
悲しかった。
「さて、湿っぽい話はともかくとして、その内に紹介しよう。この間はお歳暮にコーヒーセットを持って来てくれとったんだ
が、あんな具合にタキエさんは時々来るし、シマネ君もまた部屋の前で出くわしたりもするかもしれん」
「はい。次はぼくもきちんと挨拶をして…」
言葉を切ったぼくの顔を、課長は訝しげに見つめた。
「何だね?難しい顔をして」
「タキエさんから見ると、ぼくは…後妻?どうご挨拶すれば…」
「後妻はちょっと違…ん?後妻…。後妻…に…なるのか…?」
関係性が難しい。えぇと、挨拶するのはいいとして、立場的にどう思われるんだろう?
「失礼がないようにご挨拶しないと…。先輩に当たるわけですし…」
「先輩はちょっとち…ん?先輩…。先輩後輩…か…?むむ?」
トラ課長は首を捻ってたけど、
「まぁ、当人達が決める関係か…」
って、肩を竦めた。
「ところでシマネ君は悩んだりせんかったのかね?自分が同性愛者だという事とか、まぁそれに関連した諸々について」
「え?…特には…悩まなかったかも、です…」
ちょっと返事にまごついたのは、同性愛者である自分について悩んだりっていう事で、深刻になったりはあんまりなかった
から。切なくなったり辛くなったりは、課長が好きなのに結ばれる事はないっていう点について…、つまり、叶わない片思い
だって考えてた辛さだけだった。
説明が難しかったけど、要点をかいつまんで説明したぼくは、ふと思った。
「あれ?ぼく、大当たりだったんじゃないでしょうか?」
「うん?」
眉根を寄せるトラ課長。
「だって、好きになったひとは男だったけど、そのひともたまたま同性愛者って…、大当たりなんじゃ…?」
「………!」
眉を上げるトラ課長。
「シマネ君は本当に頭が柔らかいなぁ…。いや確かに言われてみると、確率で言えば大当たりだろうなぁ」
「0.7パーセントのレアぐらいは行きますかね?」
「いっとるかもしれん。世界は可能性に満ちとる!がっはっはっはっ!」
課長は機嫌よく笑った。
うん!ガチャ運はイマイチかもだけど、ぼくはきっと、かなり運が良い!
ガラガラと戸が鳴る。内側から溢れるのは湯気。
「寝る前は当然!明日の朝も堪能!当然、出発前にも!これも温泉旅行の醍醐味だな!」
テレビを見ながらしばらく休んで、お腹も落ち着いてお酒も少し抜けてから、課長はぼくをお風呂に誘った。
背中を押されて浴室に入ると、オレンジの電灯で染まった室内は昼間とだいぶ印象が違った。
湯気は至近距離の光でぼんやりと、それ自体が発光するように明るく目立つ。
窓の格子の隙間から見る川には、対岸の旅館の灯りが反射して、キラキラ光ってる。
一度は溢れたけどまた満杯になってるお風呂…。ずっと出てる温泉を専用で使えるなんて、贅沢だなぁ…。
また掛け湯してから、ザブンと湯に浸かる。溢れる温泉、立ち込める湯煙、浴室の空気が全部薄いオレンジに染まる…。
と、体に染みて来る熱をしばらく感じてると、課長は手桶でお湯を汲み出し始めた。湯船の外壁にお湯を流して、何してる
んだろう?
「これは必要な準備だ」
「準備ですか?」
何の準備だろう?と思ってたら、作業が終わったらしい課長は、排水口がお湯で立てる音に負けない声で言った。
「湯船に浸かったまま抱き合っとると、湯当たりしてしまうからな」
!?
驚くぼくに課長はウインクする。「せっかくの温泉旅行、イチャイチャするだろう?」と…。
ザバッと身を起こしてお湯を波打たせた課長は、流されたお湯で温まった床にあぐらをかいて、湯船の外側…さっきお湯を
かけてたところに寄りかかる。
「さ、こっちおいでシマネ君」
肩越しに振り返って手招きする課長。準備って、こういう事…!
浴室の空気自体は、湯気と熱が篭ってたから暖かい。裸でも平気なくらいに。でも床と壁はそうでもないから、課長はお湯
をかけて温めてたんだ。
「ウチの風呂場と違って冷えんからな。ここなら裸のままたっぷりくっつける。おまけに汗をかいてもすぐ流せる。がっはっ
はっはっ!」
確かに、蒸気と熱で汗ばみそうな暖かさだった。
湯船から出たぼくの手を取って、課長はぼくを脚の上に座らせた。いつもと違って正面向きで…。膝を曲げた足を左右に広
げて、正面から抱き締めあった。お互いの肩に顎を乗せあって…。
ドッシリしてモチッとした課長の感触…。体の前面で密着した課長は、重量感があって安定してて、柔らかくて温かくて…。
太い腕がぼくを抱えて背中を撫でる。課長がぼくの肩肉にかぶりついて、甘噛みして、ついついか細く声を漏らしちゃう。
背中が浴槽に寄りかかってるから、ぼくは課長の首を抱える格好で腕を回す。
くっついてるぼくと課長の間で、体温と心音が重なってる…。もっとくっつきたいって思う。もうくっついてるのに、もっ
と、って…。
しばらく肩を甘噛みした後で、課長は耳元で囁いた。
メリークリスマス。って…。
…そうだった。メリークリスマス…。今日はクリスマスイブ…。
特別な日に特別な思い出。好きなひとと一緒に過ごす、夢みたいに幸せな夜…。
それからトラ課長は少し首を引いて、ぼくと間近で顔を見合わせて…。
チュッ…。口先が触れるキスの感触。けど今回は唇を割って、温かくて厚みがある何かがぼくの口の中に入り込んできた。
それは、ぼくが経験する初めてのディープキスだった。
温泉の匂いがする中での、ガトーショコラの味がほんのりするキス。トラ課長の舌がぼくの舌に絡んだり、歯茎や口蓋をま
さぐる。背中がゾワゾワして首筋がこそばゆい。寒気にも似たくすぐったさと、頭の中が軽く痺れるような刺激…。
何分そうしてたのか判らないけど、深い口付けからゆっくり顔が離れた後で、ぼくはトラ課長の顔を見つめた。
「課長?」
嬉しいけど、ほんのり困惑もした。珍しく正面向きで抱き合わせてくれた上に、ディープキスだったから…。クリスマスだ
から特別?
「まぁ、そろそろ良いかなと思った俺だ」
耳を倒して苦笑いする課長。少年みたいな照れ笑いにキュンときちゃった…。
「何せ今日は…、もうこのザマだ」
課長の視線を追って、ぼくは少し身を離しながら下を向く。
…太いのがギンギンだった…。ぼくのもすっかり反り返ってた…。
そっと、課長のソレに向かって手を降ろす。いつもは腰を逃がして触らせない課長が、今日は身じろぎもしなかった。
太いソレを、手で包んだ。
熱かった。脈打ってた。課長のが、ぼくの手の中に…。
「あ~…、先に断っておくが」
課長の声がぼくのおでこに当たる。
「俺は早い。うん。いつまでも隠し通せるモンでもないからもう白状するが、早い」
「え?早い?」
「うむ。びっくりするほど早い。いわゆる早漏な俺だ…」
耳を伏せる課長。…だからこれまであんまり触らせてくれなかったんだ…。いやでもそれにしたっていくら何でも避け方が
極端だったような!?
「しかし回復も早い俺だ。だからある意味安心して貰っていい」
アピールするように、課長のソレはぼくの手の中でヒクンッとした。
「い、良いんですか?弄っても…」
「うむ。そろそろ焦らし過ぎだとも思っとったしなぁ…」
ぼくは課長の脚から降りて、床に正座した。課長は受け入れるように脚を左右に広げる。
投げ出された太い脚の真ん中には、太くて立派なチンチン…。ポヨンと丸みがついたお腹の下の段に、反り返ったソレが赤
い亀頭を触れさせてる。
ちょっと失礼して…。
「んっ…」
少し緊張しながら改めて握り直したら、課長が喉の奥を小さく鳴らした。
上手くやれる自信はないけど、向きは違っても刺激する方法は同じ…。ゆっくりと、課長のソレをしごき始める。
太くて立派だから自分のとは握り心地が違ってるけど、太さと…質量?重量?のせいでしっかりしてる感じ。太くて固くて
熱い…。脈打つソレを愛撫しながら、ぼくは課長の顔を上目遣いに窺った。口を少し開けて半開きにした課長は、気持ち良さ
そうにトロンと緩んだ顔つき…。少なくとも不快じゃなさそう。
少し自信がついて、ぼくはしごく手を少し早くする。弄り方とか色々あるんだろうけど、ぼくはこれしか知らないから。
手を上下させる振動が伝わって、課長の丸いお腹やたっぷりした胸が揺れる。ユーモラスでコミカルで、抱きつきたくなる
くらい魅惑的…。でも今はそっちよりこっち!
「んんっ…!」
課長が唸る。感じてくれてる?気持ち良くなってくれてる?たぶん悪く感じてはないと思うけど…。
「課長、痛かったりとかしませんか?」
ちょっと不安だから聞いてみたら、
「ん、んんっ!ぎもぢぃ…!」
何だか凄く喉が震えてる野太い声がくぐもりながら返って来た。
もしかして何か我慢してるっていうか、辛い感じ!?
表情を確認すると、課長は歯を食い縛ってフゥフゥ言ってた。…この表情は…、えぇと、少なくとも、痛いとか苦しいとか
ではないはず…。
「あ、やっぱりちょっと待っ…んぉっ!」
指先でトトトンッて触られたような感触が、鳩尾にあった。
…え?
目を下に向けると、ぼくのお腹に白い液体がついて、ドロ~ッて伝い落ちてた。課長の逸物を握るぼくの手にも、溢れた白
濁液が垂れてて…。
天上を見上げて「はふぅ~…」って深く息を吹いてる課長の股間から、点々と、直線で、白い水滴が飛んでて…。
ええー!?ちょっと目を離した隙にー!?…早いって宣言はされてたけど…!
「し、しばらく抜いとらんかったから…!び、敏感に、なっとって…!」
見下ろしながら頭を掻く課長は、目尻と口の端を下げて、情けなさそうにぺったりと耳を伏せてた。…でも、そんな表情も
可愛いって感じる。
「済まんね。だがまぁ、次は大丈夫だ」
課長が手桶で湯を汲んで、ぼくのお腹にかけて流してくれた。
何て言うか、こう、感じる物とかあるべき「初めて」なのに…、ビックリ意外の何も噛み締められない急転直下…。
と、とにかく…!瞬間は見逃したけど、ぼくの手で課長は射精してくれた!手を取って湯で流してくれる課長と目を合わせ
て、ちょっと恥かしがりながら笑いあって…。
「課長も流さないと」
「うん?ああ、そうだな」
手桶を借りて課長の下腹部から脚に湯をかける。ついでに手でお腹の表面も撫でて、くすぐったがった課長が笑って…。
…あれ?
笑いで震えた課長のお腹の下…、引っ込んでいったはずのナニが、手前に迫り出してるような…。目の錯覚かと思ったけど、
違う!全然経ってないのに、一回縮んだ課長のソレは、またムクッと頭をもたげてきた!
驚きながら見つめてると、課長も下を向いて確認して…。
「若いかな?」
若い…ですね…!
お風呂場でたっぷりイチャイチャして、温泉も堪能して、ポカポカになって戻った後で…、
「さて、クリスマスと言えばだ!」
まだ熱いからパンツ一丁の課長は、ゴソゴソと鞄を漁ると、取り出した四角い包みを炬燵の上に置いた。
「メリークリスマス!という事で錆びセンスをフル動員して選んでおいた私だ!ペア物だがね」
「え!?ペア物…って…」
課長がウインクして促す。ドキドキしながら包みのリボンを解き、包装を外すと、中身は白い木箱だった。開けてみると、
梱包用の細かい紙がぎっしり詰まった中に、プチプチビニールに包まれた何かが見えた。
「これは…」
梱包材の中に埋まってたのは、二つの陶磁器…タンブラーだった。しかも模様がついてる。両方白地に黒い帯が三本入った
デザインだけど、片方はフチのラインが黄色くて、もう片方はフチがグレーのラインになってる。どっちも表面に氷の結晶み
たいな模様が、いくつも薄く光ってて…。
「その雪の華のような模様は亜鉛結晶というモンらしい。何でも、一つ一つ違って同じ柄にはならんそうだ。こういったタン
ブラーなら、コーヒーでもビールでも楽しめる。…どうかな?」
「ペ…ペアタンブラー、なんですね…!」
思わず尻尾がビンッて立った!詳しくないけど見ただけで何となく判る!これ一つ千円しないようなカップとか湯飲みとは
違う!絶対高いヤツ!
ど、どうしよう!ぼくここまでの物は準備してない!
「あ、ありがとうございます!あ、あの!え、ええと!ええとですね!ぼくも、その、用意したんですけど…!」
高くないしペアでもないそれを、ぼくは慌てて鞄から引っ張り出した。
「…俺に?」
虚を突かれたような顔になった課長は、ぼくが両手で差し出した小さな箱をマジマジと見つめる。
ラッピングされた箱は、課長の大きな手に乗るとさらに縮んで見えた。今のぼくみたいに…。
「あ、あ、あ…、開けても良いかな…!?」
課長はソワソワと体を揺すって、左手の上に乗せた箱を右手の人差し指でチョンチョンと撫でるようにつつく。
「どうぞ!あんまり期待しないで欲しいんですけど…!」
トラ課長はいそいそとラッピングを解いて、出てきた茶色い布張りの箱を開ける。
ぼくからのプレゼントは、小さな虎目石がワンポイントであしらわれたネクタイピン。タイピンとかカフスは大人のオシャ
レみたいだし、課長になら似合うかもって思ったんだけど…。
「…ふ~む…」
課長はタイピンを摘んで唸った。目の前に上げて寄り目で見つめながら。
「シマネ君…。もしかしてプレゼント慣れとかしとるのかね?」
「はい?」
「いや、こう言っては何だがね、センスに驚かされた!」
ニンマリ笑った課長は、浴衣の胸元…スーツの時にはネクタイが下がってる位置にタイピンを当てて見せる。
「派手過ぎず、地味過ぎず、これなら普段から身に着けられる。いいアクセサリーじゃないかね!有り難う、出勤する時に早
速着けさせて貰おう!」
…どうやら、予想以上に気に入って貰えたみたい…!ほっとした…!
それから課長とぼくは、早速ペアタンブラーでお茶を頂いた。
体の中から温まりながら窓の外を見てみたら、粉雪がチラチラ、少しだけ降ってた。
「日の出の頃に早起きして、温泉に浸かろうか」
そんな課長の声を、後ろから軽く抱かれたぼくは頭の上で聞いて、大きく頷いた。
今夜はやっぱり特別みたいで、課長は寝る時に掛け布団を捲って、ポンポンって脇を叩いて促して、一緒の布団に入れてく
れた。
くっついて眠る、ムッチリフカフカ、温かいクリスマス…。
好きなひとと一緒に眠る、最高にステキなクリスマス…。
…幸せ…。
早起きして、日の出を見て、朝風呂して、朝御飯食べて、散歩して、お土産買って、もう一回お風呂して…。
やる事がたくさんあったから、あっという間に出発の時間がやってきた。
名残惜しい気持ちが一杯だけど、課長とぼくは荷物を纏めて準備する。
「シマネ君がよかったら、だ」
乱れた布団を畳み直しながら課長がこっちを向く。
「またここに来たいな。同じ宿でなくとも、この温泉に」
「そうですね!まだ見て回れてない場所もあるみたいですし!」
対岸側は眺めるだけだったから、温泉街はまだ半分くらいしか見て回ってない。それに、近くには風穴とか、川沿いの遊歩
道、ちょっと歩くと珍しい植物の群生地もあるらしい。冬は無理でも違う季節には楽しめるスポットはたくさんあって…。
窓から川を見る。きっとこれは冬の顔。違う季節は違う顔。ぼくらが衣替えするように景色は変わる。
どんな顔になるのか想像してみるぼくを、歩み寄った課長が後ろからハグしてくれた。
「良い思い出を、たくさん作ろうなぁ!」
「はい!」
耳元の声に、ぼくは大きく頷いた。
宿のひとたちに見送られて、最後まで丁寧に接して貰った課長とぼくは、居心地が良い旅の宿を後にする。
課長の車に荷物とお土産を積んで…、ふと思った。
「そういえば、タキエさんにお土産とかいいんですか?」
ぼくの問いに、後部座席にお土産の袋を積んでる課長は、「いや、もう買ったとも」と応じた。
「何にしたんですか?」
元奥さんへのお土産、特別だったりするのかなぁって少し気になったけど…。
「温泉の素と檜のチップ、入浴セットだ」
運転席に「どっこいしょ」って乗り込みながら、トラ課長は言った。そういえばさっき、「シッシーはこういうの喜びそう
だな」って、温泉の素と檜チップ買ってたっけ…。
「シシイシ課長に買ったのと同じなんですね!やっぱり温泉のお土産っていうと、そういうのが人気なんですか?何処の家で
も喜ばれるとか?」
「シッシーと同じというか、特に別々にはせんよ」
助手席でシートベルトを締めながら、「え?」って聞き返す。あれ?何かズレを感じる…?
「ん?」
シートベルトをパチンと嵌めた課長は妙な顔になる。
「むむ?言っとらんかった…かな?…あ!あの時は当時の説明だけで、そこまでは話しとらんかったか!?」
「え?何をですか?」
「タキエさんは今、シッシーの奥さんでね」
「………………へ?」
タキエさんがシシイシ課長の?え?え?再婚してたの?
そしてぼくは気付く。課長が言った、「色んな事を押し付けてきた」の意味に…。
「できた後輩だよ。アイツ以上に信頼して託せる相手は、他に居なかったからな」
ぼくもいつか判るようになるのかもしれないけど、大人の話はまだ難しい。
トラ課長はどんな気持ちでシシイシ課長に託したんだろう。
タキエさんはどんな気持ちでシシイシ課長と再婚したんだろう。
シシイシ課長はどんな気持ちでタキエさんと一緒になったんだろう。
自分から出世コースを外れた課長と、今でも先輩と慕うシシイシ課長、そして、離婚しても友人として接し続けてるタキエ
さん…。
大人になると判るのかな?
不意に思い出す。
「釣り合うパートナー」、課長が口にした言葉。タキエさんに釣り合うパートナーにはなれなかったって…。
ぼくは課長と釣り合えるようになるのかな?
そうなるまで、どのぐらいかかるのかな?
「課長」
「うん?」
「ぼく、課長と釣り合う男になります」
そんなぼくの決意表明に、トラ課長は…、
「…いや」
あからさまに顔を顰めて応じた。何で!?
「できればシマネ君には太らんで欲しいな…」
重量の話じゃないんだけどなぁ…。