夕立 SideA
何の前触れも無く、にわかに不機嫌になった空が急に泣き出した。
ライオンが唸るような音に続いて、叩き付けるように降り出した夕立に見舞われた僕は慌てて走る。
夏の夕暮れ時。最近の空は上機嫌だったかと思えば急にグズり出す。まるで子供みたいに。
せっかくの休日、良い気分でCDショップ巡りを楽しんでいたのに、ついてないよ…。
夕立なんて大っ嫌いだぁっ!
雨宿りできそうな所も見つからなくて、僕は石畳の歩道を全力で走る。
ああもぅ!この辺りにコンビニとか無かったっけ!?ビショビショに濡れながら勢い良く十字路に侵入した僕は、角を曲がっ
た途端に前が見えなくなった。
…なんで曲がり角の直後に壁?なんていう考えが頭を過ぎった次の瞬間には、僕はブニッとした柔らかい壁に顔から突っ込
んでいた。
顔が柔らかい何かに深く埋まって密着したかと思えば、すぐにボヨンッと跳ね返される。
後ろにひっくり返って尻餅をついた先は、…運悪く水溜り…。
水溜りにお尻と手をついたまま、シッポをプルルッと振って水を弾きつつ、気持ち悪い感触に顔を顰める。それから視線を
上げた僕は、何にぶつかったのか確認できた。
僕が突っ込んだのは壁じゃなかった。見下ろしているのは見覚えがある顔。丸太ん棒みたいに太い手足。ドラム缶みたいに
太い胴体。灰色のムクムクした毛に覆われた、2メートル近くある肥満体型の巨漢。
基本色は灰色だけど、顎から喉が白い毛に覆われていて、まるで白い前掛けをつけたみたいになっている。襟巻きみたいに
首回りだけ、一層毛がたっぷりとしているから、まるで首が無いみたいにも見えた。体中のどこもかしこも太くて大きくて、
僕と同じ高校二年生には見えない。
黄色の半袖ティーシャツに膝上までのハーフパンツ、足にはサンダルをつっかけている。いつもはモサモサと立っている毛
も、今は濡れて寝ているし、学ラン姿を見慣れているせいか、なんとなく普段着と塗れた姿には違和感を覚えた。
この灰色熊は灰島岳(かいじまがく)君。僕のクラスメートで、応援団員だ。
ボクが突っ込んだのは、ボーリングの玉でも丸呑みしたように丸くせり出している、彼のお腹だった。
雨で濡れたシャツは、彼の丸みを帯びた体にピッタリひっついて、丸く出た垂れ気味の胸や、お腹のライン、おヘソの窪み
まではっきり透けて見えている。
僕と同じで全身ずぶ濡れのカイジマ君は、ちょっとビックリしているように目を丸くしながら、僕に歩み寄って腰を屈めた。
「悪い。大丈夫だったか?」
怒られるかもと思ったけれど…、意外だった。差し延べられた大きな手をちょっと戸惑いながら見つめた後、僕はおずおず
とその手を握る。
「う、うん。平気…」
ゴツい感触をイメージしていたのに、カイジマ君の手は、思いのほか柔らかくて、あったかかった。
「目を拭いながら歩いてて気付けなかった…。悪かった」
「う、ううん!僕こそ確認しないで飛び出してごめんね?…わっ!」
彼は腕一本で僕を軽々と引き起こしてのけた。さすがというか何と言うか、体に見合ったかなりの腕力…。
「思いっきりぶつかっちゃったけど、お腹平気?」
ちょっと心配になって、丸いお腹を見ながら尋ねたら、カイジマ君は「問題ない」と応じて、お腹をポンっと叩いて見せた。
叩いた拍子に、真ん丸く突き出たお腹がたぷんと揺れる。…彼にはちょっと怖いイメージを持っていたんだけれど、こういう
仕草は何だかユーモラス…。
「…って…!?びしょ濡れじゃないか!ご、ごめん!」
彼は、水溜りに尻餅をついてビショビショになった僕の姿を眺め回し、ガバッと頭を下げた。
「え?いやその、転ぶ前からもう濡れて…、へ…、へくしっ!」
勢いを弱め始めた雨が、それでもしつこく降りしきる中、僕は盛大にクシャミをした。
彼は驚いたように僕を見つめ、それから慌てた様子で口を開く。
「俺の家すぐそこだから、一緒に来いよ。雨宿りできるし、服も乾かさないと…」
「え?い、いいよ!大した事ないし…」
「いいから。風邪でもひいたら大変だろ?」
カイジマ君は僕の手を掴んだまま、さっさと歩き出す。
大きくて、柔らかくて、あったかい手…。
手を繋いで歩くなんて子供の時以来かも?手を引かれて歩く僕は、彼の広い背中を見ながら、なんとなく、顔が熱くなって
いるのを感じていた。
…申し遅れました。僕、小木明仁(こぎあきひと)。
犬獣人で、犬種はウェルシュコーギーカーディガン。ちなみに純血。
本来なら柔らかくて手触りが良い自慢の毛並みは、茶色と白の暖色。…今はすっかり水を吸ってビシャビシャになっちゃっ
ているけれど…。
両手足の肘と膝から先、それから頭頂部から両目の間の細いラインと、口と顎、それから喉を通ってお腹側が真っ白。ピン
と立った、体付きと比べて大きめの耳、フサフサの尻尾も僕の犬種の特徴。
吹奏楽部所属で、担当はトランペット。…もっとも、演奏中に熱中症で倒れて以来、暑い日の屋外演奏では外され気味なん
だけれど…。
童顔と小柄さ(ただし手足がちょっと短めでずんぐりしている)がチャームポイント。
…って言われるんだけれど、本心ではもうちょっと大きくなりたいと思っている高校二年生…。
カイジマ君の家で借りたバスタオルで全身を拭う。お言葉に甘えてドライヤーも借りて、水を吸った被毛を丹念に乾かす。
広めの洗面所兼脱衣場には、彼があてがってくれた着替えが置いてある。…気を遣わせちゃった…。
着替えを身につけてさっき一度通された居間に向かうと、灰色熊はタオルで頭をゴシゴシやっていた。体の方は拭い終わっ
たのか、もう着替えが済んでいる。
「ありがとう。スッキリした~!」
「ん」
頷いたカイジマ君は、顔にかかっていたタオルを退け、僕を見て、
「………」
口をポカンと開けて、目を丸くした。
…いや、何を思っているかは判るよ…。
カイジマ君があてがってくれた着替えは、たぶん彼の物なんだろうけれど…、…その…、サイズが全くあわない…。ティー
シャツの裾は膝上まで届いているし、ハーフパンツは脛の半ばまでを隠している。おまけにウェストはガバガバで、ベルトで
ギュッと絞めなきゃなかったから、妙な具合にくびれている。詳しい説明は避けるけど、ズボン内のトランクスもかなりアレ
な状況。服を借りると、体格差が実感できるなぁ…。
「…かわいいな…」
「誉め言葉じゃないよそれ…」
ぼそっと言ったカイジマ君に、僕は頬を膨らませて応じる。
「い、いや悪い!なかなか、その…!ああ、アレだ!サマになってるな!」
灰色熊は慌てたように首をぶんぶんと横に振って、取り繕うように言った。いや!ブカブカなのにサマになっているなんて
ないでしょ!カイジマ君もこんな風におかしな事を言うんだなぁ!
「ぷっ!そんな慌ててフォローしなくても良いよ」
可笑しくなって小さく吹き出したら、彼も困り顔で笑みを浮かべた。へぇ、こういう風な顔もするんだ?
「洗濯機で洗ってるコギの服、もうしばらくかかる。濡れたまんまで持って帰る事になるけど勘弁な」
「え?ご、ごめんね?面倒かけちゃって…」
「気にするな、俺のせいだから…。あ。ちょっとそこに座って待っててくれ」
恐縮している僕を残して、カイジマ君は腰を上げて、廊下に出て行った。それから程無く戻ってきた灰色熊は…、
「オレンジジュースしか無かったが、これでも良いか?」
と、手にしたトレイに視線を落としながら尋ねてくる。
「あ、ほんと気を遣わないで!」
座卓脇でギチッと正座していた僕は、飲み物を用意して戻って来たカイジマ君に慌ててそう応じた。朴訥で無愛想でちょっ
と怖そう、っていう印象を抱いていたんだけれど、意外とマメな気遣い…。イメージとはだいぶ違っていて、とても親切なひ
となんだって感じた。
「ありがとう。迷惑かけちゃって、ごねんね?」
「元はといえば、俺が不注意でコギを転ばしちまったのが悪いんだ」
ビールでも入れるような大ジョッキに、オレンジジュースをなみなみと注いで座卓に置くと、カイジマ君は僕と座卓を挟ん
で向き合う格好で、ドスンと腰をおろした。
いつも遠目に見ていたから気付かなかったけど、思っていた以上に太っている。学ラン姿だとボディラインが判り難かった
かも。座った拍子に、シャツを押し上げている丸いお腹がタプンと柔らかそうに揺れていた。
カイジマ君はジョッキを手に取ると、グイッと煽って一気に半分近くまで減らして、ゴトッと座卓に戻す。…仕草がビール
を飲むオジサンみたいだ…。
「待たせて悪いが、もうしばらく辛抱な?」
「ん、ありがとう…」
僕らがそう言葉を交わしたきり、部屋は静かになる。
二年に進級して、同じクラスになってから三ヶ月。クラスメートだけれど、僕らはこれまで殆ど言葉を交わした事が無かっ
た。だから、何を話せば良いか判らない。…ちょっと…、気まずいかも…。
彼も同じなのか、なんだか居心地悪そうに、何度もモソモソとお尻をずらし、座り直している。
静かだ…。雨上がりに元気になった雀達の鳴き声だけが、外からチュンチュン聞こえてくる…。
しばらくして、沈黙に耐えかねた僕はおずおずと口を開いた。
「えっと…、カイジマ君、趣味とかは?」
ちょっと唐突過ぎたかな?灰色熊はなんだかちょっとビックリしているような顔で僕を見た。
「趣味って…。何だか合コンかお見合いの席みたいな切り出し方だな?」
…言われてみればそうかも…。
「い、いやその、ほら!僕あまりカイジマ君と話した事無かったから、どういう事を話したらいいのか、分からなくて!」
「ん~…。まぁ、俺はクラスの連中ともあんまり話をしないからなぁ…」
急に恥かしくなって、あたふたしながら弁解した僕の様子が可笑しかったのか、カイジマ君は笑っている。
「それで、趣味とかは?」
繰り返し尋ねると、可笑しそうに笑っていたカイジマ君は、ハッとしたように表情を消し、難しい顔になった。
「…コギの、趣味は?」
「え?えっと、音楽鑑賞と、読書…かなぁ?」
なんだか僕の質問は流されたっぽい。でも、とりあえず素直に答えると、
「へぇ、どんなの読むんだ?」
と、カイジマ君は興味を持ったように、少し身を乗り出した。
「えっと、櫻和居成(おうにぎいなり)の小説とか…」
「お?俺もいくつか読んでる」
僕がお気に入りの作家の名前を挙げたら、カイジマ君は少し嬉しそうに顔を綻ばせた。
「え?ほんと!?」
「ああ。先生から薦められて…」
「あぁ!先生、オウニギ先生の作品に詳しいんだよね!僕が去年、何かの話をしていた時に好きな作家だって言ったら、なん
だかちょっと喜んでいたよ!」
少し驚いた。だってカイジマ君、本を読むタイプには見えなかったから。…って、これは偏見か…。
それから僕達は、その作家の作品の話で会話を弾ませた。
ゲンキンなものだと思うけれど、共通の話題が見つかったら、さっきまでの居心地の悪さが嘘だったように盛り上がれた。
カイジマ君は、学校ではいつもむっつり黙り込んでいるし、体も大きいから、ちょっと怖いイメージがあったけれど、こう
して話すとすごく普通だ。怖いと思っていた低めの声も、聞き慣れたら落ち着きがある物に聞こえて来るし、厳つく見える顔
立ちだって、笑えば結構愛嬌のある顔になる。
どうやら僕が…、いや、クラス皆が思っていたほどコワいひとじゃないらしい。
「…そろそろ、洗濯機止まるな…」
話が一区切りついた所で、カイジマ君がポツリと言った。窓から外を見ると、夕焼け空が暗く染まり始めている。
「寮の夕飯、時間決まってるんだよな?そろそろ帰らなきゃいけないだろ?長々と引き止めて悪かった」
「そんな事無いよ!凄く楽しかった!僕の方こそ居座っちゃってごめんね?」
「良いんだよ、暇だったから。その…ちょっと楽しかったし…。それに、悪いのは俺の方だし…」
「でも、お詫び以上に親切にして貰っちゃった!本当にありがとう!」
僕がペコっと頭を下げると、カイジマ君は困ったように眉尻を下げ、頭をガリガリ掻く。それからちょっと照れているよう
にそっぽを向いて…、
「…応援団員たる者、紳士たれ…」
そう、ボソッと呟いた。視線で問い掛けると、カイジマ君は微苦笑して付け足す。
「…いや…、前の団長の受け売りなんだけどな…。そういう事だ…」
前の団長さん…か…。
団長さんの事は、よく覚えている。
岩のような、固太りの、焦げ茶色の熊さん。
去年の定期戦で、熱中症で倒れた僕を、医務室に運んでくれた恩人。
…そして…。いや、やめとこう…。
「へぇ…。なんだか、カッコイイね?」
「そ、そうか?」
感心している僕の視線から逃れるように、相変わらずそっぽを向いたまま、カイジマ君はまたガリガリ頭を掻いた。
こうやって頭をガリガリ掻くのは、もしかして、照れている時なんかの癖なのかな?
洗い立てで水気が残っている服をビニールに詰めて持った僕は、わざわざ玄関を出て外まで見送りに来てくれた灰色熊に、
ペコッと頭を下げる。
「お邪魔しました。あと、ごちそうさまでした。それと、服どうもね?洗って返すから」
「いや、そのままでも良い。…むしろ洗わないでくれ…」
「え?」
「…いや、何でもない…。とにかく、洗ったりしなくて良いからな?」
最後のほうが聞き取れなくて首を傾げると、カイジマ君は微妙な半笑いを浮かべる。
その初めて見る表情を眺めていた僕は、さっき流された質問の事を思い出し、尋ねてみる事にした。
「あのさ。カイジマ君の趣味って、何なの?」
「え?」
カイジマ君は戸惑ったような顔をした後、
「誰にも、言うなよ?」
と前置きして、声を潜めた。
「りょ…、料理…」
「へ?」
照れ臭そうに耳を伏せてそっぽを向いた、大きな灰色熊を前に、僕はそのあまりにも意外な趣味に絶句した。
「お、おかしい…よな…?やっぱり…」
「い、いや、ちょっと意外だけど、おかしくはないと思うよ?うん」
僕の頭には、エプロン姿の灰色熊が、フライパンを振るってオムレツを作っている様子が思い浮かんでいた。
…ちょっと、可愛いかも…。
カイジマ君はゴホン!と咳払いすると、改めて僕を見下ろした
「じゃあ、な。あんまり遅くなると晩飯食い逃しちまうだろ?」
「あ、そうだった!」
辺りはすっかり暗くなっている。急いで帰らないと…。
「じゃあ、また明日ね!」
「ん。また」
僕達は軽く手を上げて挨拶を交わし、みるみる暗くなっていく空の下で別れた。
…応援団員たる者、紳士たれ。…か…。
だからだったのかな?団長さんが、僕のお礼を受け取ってくれなかったのは。
助けるのが当然だから、お礼の必要は無いって、そういう事だったのかな…。
その夜。僕は寮の部屋で、いつまでも眠れずに、悶々としながら天井を見上げていた。
…カイジマ君は、これまで僕らがイメージしていたような、ちょっと怖いひとなんかじゃなかった。
むしろ、話してみると穏やかで…、とっても優しい、あったかい感じがして…。
僕は寝返りを打って、壁を見つめる。
…ちょっと大き過ぎる気もするけど…、好みのタイプ…かも…。
目を閉じると、薄いティーシャツを押し上げている、ムッチリした胸と、タップリしたお腹が目に浮かんだ。土砂降りの中
で突っ込んだ、あのムニッと柔らかい感触が、顔に甦る…。
…僕、ちょっと変わっています…。
女の人には全く興味が湧かないのに…、男…、それも、大きくて太った人が好きです…。
結局そのままでは寝付けそうに無かった僕は、ネット通販で手に入れた秘蔵の「本」を引っ張り出した。
一人部屋って、こういう時は気楽だ…。
久し振りに夢を見た。
好きになっちゃったあの先輩に、定期戦でお世話になった、お礼を持って行った時の…。
屋上に続く階段の踊り場で、学ランをビシッと着こなした焦げ茶色の熊さんは、僕が差し出している菓子の箱を、目を細め
て見つめている。
「受け取るわけにはいかん」
重低音の声でそう言った先代団長さんに、僕は慌てて言う。
「で、でも!僕は本当に助かりましたし、ぜひお礼を…!」
「悪いが、覚えが無い。…済まないがそろそろ練習の時間だ。失礼するよ」
焦げ茶色の大熊はそう言って踵を返すと、のっしのっしと階段を登って、屋上へ出て行ってしまう。
入れ違いになるように応援団の人達が階段を登ってきたから、僕は菓子箱を抱え込むようにして、こそこそと階段を降りた。
前の団長さん…。僕が初めて恋をしたひと…。
結局言い出せなくて、告白は諦めて、団長さんはそのまま卒業しちゃったけど…。
「おはよう!カイジマ君っ!」
「あ。おはようコギ」
朝一番、ホームルームが始まる前に、一番後ろの列のカイジマ君の所へ行って、僕は朝の挨拶をした。
「これ、ありがとう!」
「ん?ああ、昨日のか…」
僕が差し出した、綺麗に畳んだ服を受け取り、カイジマ君は微笑む。
「一応、寮の洗濯機で洗って、綺麗にしたから」
「え!?」
驚いたような声とともに、カイジマ君の微笑みは消えた。何故か、耳が悲しげにペタッと伏せている。
…あ、あれ?僕、何かいけない事した?
「え、えぇと、あの…。あとこれ、お礼代わりっていうか…。まだ読んでいないって言っていたよね?」
僕は鞄から一冊の本を取り出して、なんだか悲しそうなカイジマ君に差し出した。
それは、昨日僕らが話題にしていた作家の本。僕が持っている中に、カイジマ君が読んでいないっていう本があったから、
こうしてお礼に持って来たわけ。
「あ…。良いのか?借りても?」
窺うように見つめて来るカイジマ君に、僕は「もちろん!」と頷く。
言葉を交わす僕とカイジマ君を、クラスメート達はそれぞれ会話をしながらも、ちらちらと気にしていた。
気持ちは判るよ。だってカイジマ君は、大きな体と怖そうな外見のせいで近寄り難いっていうか…、話しかけ辛いっていう
か…。とにかく、コンタクトを取るのが躊躇われる、ちょっと浮いているクラスメートだから。
お昼休み。灰色の巨体を探してうろうろと校内を徘徊していた僕は、二階廊下の窓から校舎裏を見下ろして、目当ての姿を
見つけた。
先生方の車が停められている職員駐車場の片隅で、彼は一人、学食のパンを食べていた。
「カイジマく~ん!」
大急ぎで校舎裏に回り、手を振りながら駆け寄ると、
「…コギ…?」
日陰のタイヤ止めに腰を下ろして、モソモソと焼きそばパンを食べていたカイジマ君は、駆け寄る僕を見て、驚いたように
目を丸くした。
「どうしたんだ?こんな所まで」
「どうしたって事でもないんだけれど、いつもお昼は居なくなるでしょ?どこでお昼食べているのかなぁって、ちょっと気に
なって…。学食で食べないの?」
「混むだろうあそこ?俺みたいなのはスペースを取るから邪魔だ」
冗談めかして笑ったカイジマ君に、僕は笑みを返す。
「僕から見ると羨ましいけれどなぁ。大きくて!」
「大きいってか、デブってるだけだ。高二でこの腹はヤバいだろ?」
カイジマ君は「たはは~っ」と、歯を見せて笑いながら、ワイシャツ越しにタップリした脇腹の肉を摘んでみせた。
…「そのお腹ちょっと触らせて!」と頼みたい衝動を、僕は必死になって堪えた…。
それにしても、今でもちょっと意外。こういう風に笑うと結構可愛い顔になるんだなぁカイジマ君…。普通の、同い年の、
クラスメートなんだって実感する。
勝手に動く尻尾を、心の中で叱りつけながら、僕はちょっとぽ~っとしていた。
災難だったはずの夕立がきっかけで親しくなった僕らは、それからよく話をするようになった。
クラスメートである事以外にも、僕とカイジマ君には接点がある。
それは、応援団と吹奏楽部という繋がり。
運動部が大会に出場する時や、他校との定期戦なんかで学校を上げて応援する機会には、応援団と吹奏楽部は、一丸になっ
て選手達を応援する。
一年の時はクラスが違っていたけれど、そういう事情があって、僕とカイジマ君は前々からお互いの顔を知っていた。たぶ
ん、そういった事も手伝ってだと思うけれど、これまで全く話をしなかった僕らは、あっという間に打ち解けた。
それともう一つ…。
僕が、ガラでもなく積極的にカイジマ君にアプローチした事も、仲良くなれた要因の一つだと思う。
…僕、カイジマ君の事、ちょっと良いなって思い始めている…。
でも、相手は厳しい規律と硬派さで知られる応援団の一員、それも中堅どころ。男の僕なんかが言い寄った所で、両想いに
なれるはずも無いんだけれど…。
「コギさぁ、最近カイジマとよく話とかしてるよね?何で急に仲良くなったん?」
部活の休憩中に、人間の男子がそう話しかけてきた。トロンボーン奏者の彼は去年同じクラスで、気軽に話せる間柄。
「うん。まぁちょっとした縁で」
「ふ~ん?」
彼はちょっと意外そうに眉を上げてから、
「…あぁ、そういえばそうか。縁あったよね」
納得したようにそう言って頷いた。
あれ?もしかして、この間の夕立の時に、家に連れて行って貰ったところを見られていた?
訊こうと思って口を開きかけたその時…、
「休憩終わり!じゃあ、最初から通して合わせるぞ~!気を引き締めて!」
牡鹿の部長が号令をかけたから、僕は質問を飲み込んだ。
そして、練習に熱中する内に、その質問自体を忘れてしまった。
その、人生を変えるような重大な事を知ったのは、あの夕立の日から、二週間経った後の事だった。
その日、部活を終えた帰りで、僕はまた夕立に降られて…。
もう!ほんと夕立なんて大っ嫌い!
幸いにも商店街に居た僕は、近くにあった、あまり入った事がない本屋に飛び込んだ。
少しくたびれた感じがする狭苦しい本屋の自動ドアを潜って、ほとんど濡れずに済んだ事にほっとしつつ、店内を見回す。
雨が止むまで、少年誌でも見ていようっと…。
ちょっと濡れた服を入り口で軽く払って、雑誌のコーナーに向かった僕は、高い棚の上に出ている灰色の耳を目にした。…
この辺りにいるこんな身長の獣人っていうと…。
そっと棚を回り込んで奥を覗いてみると、やっぱりカイジマ君だ。一度家に帰ったのか、この間と似たような私服姿だった。
声をかけようとした僕は、ちょっと躊躇って、上げかけた手を下ろす。
彼が大きな体を縮めて、顔を伏せながら、なんだか真剣な顔で雑誌を見ていたから。
何を見ているんだろう?いやに前屈みの姿勢で、食い入るようにカイジマ君が見ている雑誌に、じっと目を凝らす。
幸いにも僕が居るのは彼の右手側、つまり雑誌の表紙が見える側だ。
…何だろう?距離があってはっきり見えないけれど、なんとなく見覚えがあるような…?
もう少し近付こう。っていうかもう声をかけちゃおう。足を踏み出したら、湿っていた靴が床と擦れてキュッと鳴った。
カイジマ君が、弾かれたように顔を上げて、首を巡らせる。
「やぁ!何を見ているのカイジマ君?」
笑顔で話しかける僕を見たカイジマ君の目が、大きく見開かれた。
「…あ…!」
カイジマ君はうろたえたように、閉じた雑誌と僕の間で、視線を往復させる。僕は何となく見覚えがあるようなその雑誌に
視線を向けて…。
あ。この表紙は…。…あ、あれ…?
「あ…、お、俺…」
カイジマ君は僕の視線が雑誌に向いている事に気付くと、慌てた様子で、重ねてある別の雑誌を数冊持ち上げた下に、それ
を押し込んで隠した。
「え…と…。今の…それ…」
「ち、ちがっ…!俺っ、俺は…!」
灰色熊は怯えているような表情を浮かべて、じりっと後ずさりした。
そして、いきなり身を翻すと、出口へ走って行く。
「あ!ま、待って!」
悪いタイミングで顔をあわせちゃった…!
降り続く夕立の中に飛び出して行ったカイジマ君を、僕は濡れるのも構わずに追いかけた。
「待って!待ってよカイジマ君!」
僕の声は聞こえているはずなのに、ずぶ濡れの灰色熊は、振り返りもしないで走って行く。
言わなくちゃ!きっとショックを受けている!僕だって逆の立場だったら必死になって逃げるもん!
けれど、必死に追走する僕は、どんどん引き離されて行く。
歩幅が違う!体力が違う!
管楽器やっているから肺活量と持久力にはちょっと自信があるけれど、僕は走るっていう行為そのものが苦手だ!一応犬獣
人なのにっ!
「待ってってばカイジマ君!待って…!待ってよぉ!」
このままじゃ振り切られる!どうしよう!?
足がもつれ始めたその時だった。僕を追い抜いていくトラックが、盛大に水しぶきを跳ねてよこしたのは。
「うわっぷ!?」
まともに泥水を被って、前が見えなくなりながらつんのめる。
ああ!この大事な時に!
ヘッドスライディングするような格好で前のめりに転んだ僕は…、
「いぎゃんっ!?」
したたかに鼻と右膝を打って悲鳴を上げた。
目に雨水が入って何も見えない中、鼻の奥がジーンと痺れて温かいものが溢れてくる。打ち付けた右膝に、熱さと鋭い痛み
を覚える。
手探りで身を起こして、腕で目を擦り、鼻に触れてみると、…やっぱり鼻血出てた…。
鼻は痛いし、カイジマ君には勘違いさせちゃうし、へたり込んだまま泣きたい気分になっていると…、
「だ、大丈夫かコギ!?」
頭の上から、声がした。
鼻を押さえながら顔を上げると、カイジマ君が僕を見下ろしている。…もしかして、僕が転んだから戻って来てくれた…?
「コギ!血が!何処を怪我した!?大丈夫か!?」
屈み込んだカイジマ君は、鼻を押さえた両手と、口元から顎の辺りまでを鼻血で汚している僕の姿を見て、かなり慌ててい
る様子だった。
「あぁ…!ごめん…!追いかけて来てるの知ってたのに、俺が逃げたりなんかしたから…!」
悔しそうに、悲しそうに顔を歪ませながら、おっかなびっくり僕の肩や腕に触れて、怪我の箇所を確かめようとする灰色熊。
鼻はまだジンジン痛んだし、転んだ拍子にしこたま打った膝も痛かったけれど、心配して貰えた事がちょっと嬉しかった…。
僕は肩に触れている大きな手にそっと触れて、彼の顔を見つめた。
「カイジマ君…、あのね…?逃げないで?」
ちょっと驚いている様子の灰色熊に、僕は続ける。正直に。
「あのね…、僕も、同じ…。同じような本を読んでいたから…」
カイジマ君の目が丸くなった。
いくらか弱まり始めた雨の中、僕の口元を染めていた鼻血は、薄められて流れ落ちて行く。
鉄の味を感じながら、これまでは恐くて、誰にも言ったことのなかったその言葉を、僕は初めて口にした。
「僕、ホモなんだ…」
カイジマ君は目を大きくして、口をポカンと開けて、呆然とした表情で固まった。
雨に叩かれながら、僕は彼の目をじっと見る。
正直なところ、逃げ出したかった。
言っちゃってからで何だけれど、急に不安になった。僕の勘違いだったらどうしよう?って…。
もしかして、カイジマ君はその気がなくて、たまたま目に付いたあの雑誌を試しに見ていて、勘違いされたくなくて慌てて
いただけで、完全に僕の思い違いだったとしたら?
だとしたら、カイジマ君は僕を…、同性愛者の僕を、どう…思うんだろう…?
ドキドキと胸が鳴って、背中から首がカーっと熱くなる。
「…冗談…だよな…?」
しばらく固まっていたカイジマ君がボソッと呟いた。ああ、やっぱりもしかして…!
「ほ…んと…」
顔から火が出そうだったけれど、僕はなんとか頷いて見せる。
降りしきる雨の音と、車が走っていく音。
沈黙に耐え切れなくなって顔を伏せた僕の耳に、
「…そう…だったのか…」
カイジマ君の少し掠れた声が届いて、僕の肩から彼の手が離れる。
…勘違い…だった…!?
ひどく不安になって、怖くなって、僕の体は小刻みに震え始めた。
カイジマ君は立ち上がり、僕に背中を向けた。
そして…。
「ウチ、寄ってってくれよ。ここからなら寮より近いし、おぶってくから…」
「え?」
カイジマ君は僕の前で、背中を向けたまま屈み込んだ。
「膝とか、痛むだろ?」
「で、でも…」
躊躇している僕を、彼は首を巡らせて、半面だけ振り返って見た。
「頼む…。こんなとこじゃ、ゆっくり詫びも入れられない…」
申し訳なさそうに耳を伏せている彼に、僕は遠慮して口を開いた。
「でも、自分で歩…」
「頼むよ…」
ボクの言葉を遮り、まるで懇願するように繰り返したカイジマ君に、僕は結局、首を縦に振った。
ちょっと緊張しながら、後ろから覆いかぶさると、カイジマ君は僕を背負い、すっくと立ち上がる。
そして、だいぶ弱くなっていた雨から逃れるように、足早に歩き出した。
なかなか途切れない、でも勢いを弱めた夕立に濡れながら、カイジマ君の背中にしがみついた僕は目を細める。
少しお肉がついている背中は、大きくて、広くて、あったかくて、柔らかくて、いい気持ちだった…。
…あれ…?この感じ、どこかで…?
なんだか、前にもこんな事があったような…?デジャヴ?
「俺も…、ホモ…なんだ…」
お風呂場で、擦り剥いた膝をぬるま湯で洗い流してくれながら、カイジマ君はボソッと言った。
そして、言ったきり黙り込んでしまった。
僕は椅子に座って、膝を擦り剥いた右足を伸ばしている。カイジマ君はそれを横から見る形で屈んでいる。
まくり上げたズボンの下からは、見事に擦り剥けた僕の膝が顔を覗かせていた。…痛いわけだよ…。
ちなみに、鼻血は止まったっぽいけど、僕はまだティッシュを鼻に詰めたまま。…ちょっと情けない顔になっている…。
土や泥を洗い流した後、「ちょっと染みるぞ?」と断ってから、カイジマ君は僕の膝に消毒液をスプレーした。
痛みに顔を顰め、涙目になりながら、歯を食い縛って漏れそうになる声を堪える。ジンジン染みる消毒液に耐える僕の前で、
カイジマ君は濡れているタイルの上に、お尻が濡れるのも構うことなくドスッと腰を下ろした。
「…俺は…、去年気付いた…。自分が「そうらしい」って事…」
あぐらを掻いた足に視線を落として、灰色熊はぼそぼそと話し始めた。
「前々から、雑誌で女の水着姿とか見ても、皆が話をしてるほど興奮しない事には気付いてた…。だが、それは単に自分がま
だガキだって事なんだろうって…、そう思ってた…」
顔を伏せたまま話し続けるカイジマ君に、僕は小さく相槌を打つ。
判る…。僕も、最初はそう思っていたから…。
「でも、違ってた…。俺、男に…惚れて…さ…」
…え…?
「初めてだったし、戸惑ったけど、すぐ判った…。俺、…ソイツを好きになったんだって…」
カイジマ君から話を打ち明けられながら、僕は少なからずショックを受けていた。
彼は僕と同類だった。その事には確かに驚いたけれど、正直なところ、嬉しさと、ちょっとした期待もあった。
…でも…。…好きなひと、居たんだ…。
「…体は小さいのに、無茶苦茶根性あって…。去年の定期戦でも、ぶっ倒れるまで応援してて…」
…応援…。そっか…、相手は応援団のひとなんだ…。
この軽い喪失感は、きっとカイジマ君への親しみが、淡い恋心になりかかっていた証拠なんだろう…。
ぼそぼそと話していたカイジマ君は、少しだけ顔を上げた。
「そん時から…、俺…!コギの事が、好きになっちまったんだ…!」
上目遣いに僕を見つめるカイジマ君の顔を、僕は少し切ない気分で見つめ返…、
「へゆ?」
妙な声が、僕の喉から勝手に漏れた。
頭の中がグルグルして、たっぷり一分近くも黙った後、僕は恐る恐る口を開いた。
「ぼ…、僕…?」
自分の顔を指さして尋ねると、カイジマ君はコクッと頷いて、そのまままた顔を伏せる。
聞き間違いじゃ無かった!?え?待って、え?え?ちょっと頭の整理が…!
混乱気味になっている僕の前で、カイジマ君は俯いたまま話し出した。
「俺は…、自分から応援団に入った訳じゃない。昔馴染みの先輩に誘われて、強引に入れられたんだが…、最初は、嫌で嫌で
仕方なかった…」
…知らなかった…。だって、生徒達の最前列に立って、選手達にエールを贈っているカイジマ君の姿は、団員達の中でも飛
び切り生き生きと、輝いて見えていたから…。だからてっきり僕、カイジマ君は望んで応援団に入って、最初から充実してい
て楽しくやっているんだろうと…。
「俺、体ばっかでかくて、度胸も根性も無かったんだよ…。応援団は思ってた通りに堅苦しくて、先輩方はおっかないし、練
習は厳しいし、何回も辞めたいと思った…。でも…」
カイジマ君は少しだけ顔を上げて、上目遣いにちらっと僕を見る。
「去年の定期戦…。とんでもなく暑くなったあの日…。覚えてるか?」
「うん…」
もちろん覚えてる。だってその日、僕は熱中症で倒れたんだもん。
「野球部の応援だった。炎天下で学ラン着て、鉢巻き締めて、手袋なんかして、汗だくになって、「何で自分達ばっかり」っ
て泣き事を言いたくなった…。もう嫌だ…。応援団なんて俺には無理だ…。腹の底からそう思った…」
カイジマ君は一度言葉を切ると、恥ずかしそうに視線を逸らした。
「そんな暑い中で、早く終われってだけ思ってた時、吹奏楽部の方で騒ぎが起こった…」
「…あ…。それ、もしかして…?」
思わず口を挟むと、灰色熊は顎を引いて小さく頷く。
「吹奏楽部の一年生が、熱中症で倒れてた…。朦朧としてて、呼びかけられてもまともに返事もできない状態で…、それでも、
熱くなったトランペットを握り締めて放そうとしなかった…」
…それは…、たぶん、単に具合悪くて、不安で、握り締めていただけだと思う…。
「小さい体でぶっ倒れるまで頑張ったコギを見たら、俺…、逃げ出したくなってた自分が恥ずかしくなった…。コイツはこん
なになるまで応援に熱中してたのかって…。苦しいとか辛いとか忘れるほど集中してたのかって…。ベッドに寝かされてもま
だ、まるで楽器に息を吹き込んでるように、せわしなく息をしてるコギの顔を見たら…。俺…、まだまだ頑張んなきゃいけな
いって…。だから俺は、今も団に居る…。立派な男になりたくて…」
僕は小さく首を捻る。カイジマ君の話の中に、気になる点があった。
ベッドに寝かされている僕…?カイジマ君は、何でそんな状況の僕を知っているの?
疑問に思ってから、頭に中で何かが繋がった。
あの日、倒れた僕を医務室に運んでくれたのは、応援団員だったって聞いた。
目が覚めた時にはもう居なくて、校医の先生に応援団の熊さんが運んで来てくれたんだって聞いた。
部の仲間も、応援団の熊だって言っていた。
助けられた時の事を覚えていない僕は、皆からの話で、団長さんだって知った。
でも違う。「知った」んじゃない。僕が「勝手にそう思った」だけだったんだ。
今になって考えてみれば、試合が続いているのに、団長さんがスタンドを離れるとは思えない。それに、運んでくれたのが
本当に団長さんだったなら、校医の先生も、部の皆も、「応援団の熊」じゃなく、「応援団長」って言うはずなんじゃ…?
「あれは…、カイジマ君だった…!?」
さっき背負われた時のデジャヴの正体が判った。何のことはない。僕は前にも、彼におぶって貰っていたんだ…!
団長さんが「覚えがない」って言っていたのは、お礼を断ろうと誤魔化していたんじゃなくて、本当に、そのままの意味で、
助けたのが自分じゃなかったからだったんだ…!
つまり、僕は一年以上もずっと、恩人は前の団長さんだって勝手に思い込んで、一人で勘違いして…。
愕然としている僕には気付かず、カイジマ君は気まずそうに、視線を横に泳がせていた。
「…あの時…。俺、コギに惚れちまったんだ…。それからずっと、コギの事、こっそり見てて…。こないだ、夕立の時に跳ね
飛ばしちまって、悪い事しちまったと思ったけど、話しかけるチャンスだとも思って…。もしかしたらダチになれるかもって
思って…。それで、家まで強引に引っ張ってきて…」
肩を落として項垂れて、カイジマ君は「ふぅ~…」と長くため息をつく。
「…気持ち悪いよな…?こそこそ見てたなんて…。…迷惑だよな…、…ごめん…」
それっきり黙ってしまったカイジマ君を見ながら、僕は、申し訳なくて、恥かしくて、堪らない気分になった。
「ねぇ、カイジマ君…」
ボクが口を開くと、カイジマ君は恐る恐るといった感じで顔を上げた。
大きな灰色熊が、まるで叱られるのを覚悟している子供みたいに、体を縮めて、おどおどと…。
「あのね…?僕、謝らなくちゃ…」
泣きそうになるのを堪えて、僕はカイジマ君に頭を下げた。
胸が苦しい。あの時助けてくれたのは、団長さんじゃなかった…。本当はカイジマ君が助けてくれたのに、僕はそれを知ら
ずに、勘違いで団長さんに恋をして…。
しかも、本当の恩人だったカイジマ君は、それからもずっと僕を見ていてくれたのに、僕はそれに気付かなくて…、気付け
なくて…!
お礼の一言もないまま…、一年間も…、ずっと…!
「ごめん…ねぇ…!?僕、僕っ…、カイジマ君が助けてくれたって…!気付けな、かっ…!」
言葉が、途切れた。
申し訳なくて、悔しくて、涙が溢れた…。
勝手に喉から嗚咽が漏れ出して、止まらなくなって、ただただしゃくりあげる事しかできない僕を、カイジマ君はビックリ
したように目を丸くして見つめる。
「な、何でコギが謝るんだよ…?泣くなよ?俺、そんなつもりじゃ…!」
腰を上げて、僕に触れようかどうか迷っているように両手を宙に彷徨わせて、カイジマ君はおろおろする。
「ごめ…ごめんっ、ねぇ…!?えっ!僕ぅ…、えぐっ!お礼を、言わなきゃいけなっ、かったのにぃっ…!かい…ひっく!じ
ま、君にぃ…!」
涙が止まらなくなった僕の肩を、宙で彷徨っていたカイジマ君の大きな手が、がっしり掴んだ。
「あ、謝るなよ…。俺、コギを泣かせたくて、こんな話をしたわけじゃ…」
「わかっ…てるぅ…!でも、でもぉ…!僕、すんごく、酷いヤツだよぉ…!あふっ、ふ、ふえぇぇええええん!」
結局、僕は我慢できなくなって、声を上げて泣き出してしまった。
目を擦りながら泣きじゃくる僕を、カイジマ君はおろおろしながら見つめて、それからキュッと、軽く抱き締めてくれた。
薄いシャツ越しに触れたカイジマ君の体は、あったかくて、柔らかくて、抱き締められるとなんだか安心できた…。
たっぷり肉がついて柔らかい、カイジマ君の大きな体に、半ば埋まるようにして抱き締められながら、僕はそれからもしば
らく、泣き止む事ができなかった…。
「落ち着いたか?」
「うん…。ごめん…」
「俺の方こそ…、どさくさ紛れに動揺させるような事まで言っちまって…、ごめんな…?」
浴室で抱き合ったまま僕らは謝りあった。
不思議…。ドキドキして…、でも、とても落ち着いた気分で…、
「あのね…。僕、今更なんだけど…」
「ん…?」
僕は大きく深呼吸してから、声に出す前にもう一度、自分の気持ちを確認する。
…うん…。やっぱりそうみたい…。
「僕…、カイジマ君の事…、好きになっちゃっていたのかも…」
包み込むように僕を抱き締めていてくれたカイジマ君の体が、ピクンっと震えた。
「え…?」
「…ごめん…。ずっと気付けないでいて、本当に今更なんだけど…」
カイジマ君は、そーっと体を離して、まじまじと僕を見た。
「…無理しなくて、良いんだぞ?俺が勝手に惚れただけだし…、定期戦の件も、言う度胸無くて黙ってただけだし…。それに、
俺みたいなデブいヤツ、好きじゃないだろ…?」
…いや、まさにソコが良いんだけれど…。
と言う代わりに、僕はそっと両手を伸ばして、カイジマ君の大きなお腹に、両側からポンッと軽く叩くように触れた。
「…えへっ!思ったとおり、柔らかくて気持ち良い!」
ぽよぽよのお腹を横から軽く挟んで揺すり、僕はカイジマ君に笑みを浮かべて見せた。
カイジマ君はタプンと揺れた自分のお腹を見下ろし、それから顔を上げ、恥かしげにガリガリと頭を掻く。
「…ねぇ。もっと触っていたい。…良い?」
「…コギが…、そのフサフサの体…、抱きしめさせてくれるなら…」
僕の要望を、カイジマ君は願ったり叶ったりの条件をつけて、オーケーしてくれた。
「お疲れ様!ガク!」
下駄箱の前で待っていた僕に気付くと、太った大きな灰色熊は、目を細めて笑みを浮かべた。
「待っててくれたのかアキ?悪いな」
「ちょびっとだけ。こっちも今さっき終わったとこだから」
歩み寄ったガクは、回りに誰も居ない事を確認してから、素早く身を屈めて、僕の湿った鼻にキスをしてくれた。
「今日、親は遅くなるから、家に夕飯食いに来いよ?アキが好きなの作るから」
「本当!?」
ガクが作ってくれる絶品のオムレツの味を思い出し、僕は顔を輝かせる。口の中によだれを溢れさせながら…。
「ならオムレツ!良い!?」
「良いけど。本当にオムレツ好きだよな?遠慮しないで、もうちょっと手のかかるヤツでも良いんだぞ?」
「良いの!オムレツ大好きだから!」
拍子抜けしたように言ったガクに、笑顔で答えた僕は、
「ガクの事はもっと好きだけれどね?」
悪戯っぽい表情を浮かべて、そう付け加えた。
案の定、ガクは困ったような照れたような、それでいて少し嬉しそうな表情を浮かべて、頭をガリガリと掻いた。この顔見
たさで、ついつい今みたいに露骨につついちゃう!
お互いにカミングアウトしたあの日から、僕達は友達からちょっと進んだ関係での交際を始めた。
最初はちょっとぎこちなかったけど、僕らは意識してお互いに下の名前で呼び合うようになった。
遠回りしちゃったし、人違いもしたし、長く勘違いしっ放しだったけれど、僕は、あの日助けてくれた本当の相手を知って、
「好きです」って言えた。偶然の巡り会わせと、アクシデントがきっかけになって…。
あれだけ嫌いだった夕立に、今は感謝している。ガクと仲良くなれるきっかけをくれてありがとう、って…!
「ねぇガク?」
「ん?」
「お腹触らせて?」
「ああ。…抱っこさせてくれるなら…」