聖夜の送り者
「お前、サンタクロース信じてるか?」
頭の両側の大きな丸い黒ブチで綺麗なハチワレ模様になっているスーツ姿の猫は、そう問われて、「はい?」と目を丸くした。
年末近付く12月23日。午後九時。某大手玩具メーカーの企画部。
広い部屋はコストカットを心掛けて天井の照明が半分ほど落とされており、向き合って二列並ぶ18の社員デスクの一部と、
コピー機周りと、部長席周辺、そして応接セット近辺だけが明るい。
部屋に残っているのは、翌日午前中の会議に備え、提示資料の最終チェックをしていた部長補佐の虎と、担当者であるブチ猫
のふたりだけ。応接セットのテーブルの上には付箋だらけになった30ページの資料。表紙の右下にはサンタの衣装を纏う羆が
デフォルメされて描かれており、煙突の上で手を振っている。
資料の確認も終わり、コピー機が自動ソートで指定された部数を準備する待ち時間。ふたりは部長席脇の応接セットで、テー
ブルを挟み、ソファーにかけて向き合っていた。
ブチ猫は二十代後半。バレーで鍛えた体は引き締まり、程よく筋肉がついており、スラリと足が長い上に腿などは適度に太く
てスタイルが良い。
付き合いも良く人当たりも良く、程々に仕事熱心でそこそこに真面目。マスクは甘く、なかなかの美形で、既婚者だと知った
女性社員が溜息を吐くほど。
一方、部長補佐の虎は三十代前半。虎獣人としては中背の部類に入り、175センチちょっとの背丈。丸々太って恰幅があり、
体積は身長が近いブチ猫の倍以上。
虎種特有の縞模様がある厳つい顔に、何を考えているのか判り難い据わった目のせいで、若干近寄り難さが漂う外見。つけて
いるコロンのせいか、オレンジジュースのような匂いがする。
部長補佐が手ずから淹れてくれたコーヒーのカップを両手で包むブチ猫は、上司の質問に軽く困惑した。
玩具メーカーの社員として、子供に「サンタさんって本当に居るの?」と聞かれたら、迷う事無く「居るよ」と答えるだろう。
しかし、この部長補佐に訊かれると少し考える。社内で最も若い部長補佐級管理職、敏腕で知られるこの虎の問いには、何か深
い意味があるのではないかと勘繰って…。
淹れたてのコーヒーが香るマグカップを片手に、部長補佐の肥った虎は、部下に丸顔を真っ直ぐ向けたまま続けた。
「俺は、今も信じてる」
シーズンの到来と共に飾り付けが進んだ街並みが、いよいよその一色に染まる。
煌びやかなツリーがあちこちに立ち、ショーウィンドウは電飾で輝き、流れるBGMもシーズン特有の物に代わる。
そんな景色の中に、壁面全体が飾り付けられ、ひときわキラキラ輝いているビルがある。
某玩具メーカー本社ビル。十五階建てでやたらと面積が広く、見るからに立派なそこは、かなり遠くからでも壁面に施された
ツリーを象る電飾アートが見て取れる。
そこを目指し、十二月末の寒さに首を縮め、足早に歩くブチ猫が居る。
心なしか足取りが軽く見える人波を通り抜けて出勤し、警備員が立つ関係者用通用口に入り、社員が行き交うビル内の廊下を
抜け、指先が冷えた手を擦り合わせながら職場に入ったブチ猫は、「おはようございます」と、馴染みの顔ぶれに挨拶した。
既に半数ほど出社していた同僚達から口々に挨拶が返って来る中、ブチ猫は自分の席に向かう。
ここは会社の企画部。企画一課と二課が入っている部屋。
広い室内は壁周りに書類棚や事務用機器が並び、最も奥は一面がガラス張り。デスクが向き合う塊が二つあって、四つ並んで
向き合った八席の上座に、少し大きいデスク…課長席がある。
この二つの島のさらに上座…大窓を背にしているのは部長席。そしてその隣に少し離れている両袖のスチールデスクは部長補
佐席。一課9名、二課9名、部長及び補佐。全20席総勢20名が企画部の面子だった。
ブチ猫は二課デスクの一番手前の席で、脱いだジャンバーを椅子の背もたれにかけると、ハンドバッグを二段目の引き出しに
しまう。そして、鞄からそっと可愛らしい封筒を引っ張り出し、その端っこを眺め、ため息をついて戻す。
クリスマスイブ前日。黒丸忠芳(くろまるただよし)は仕事と私事の両方で頭を悩ませていた。
一つは、明日に迫った会議の資料準備。社内の課長以上が集められる、年明けの初売り商戦と、その後に控えた新商品発表会
に関する最終詰め…、クロマルはそこで一部のプレゼンを担当する。入社三年目にして最大の大舞台と言えた。
資料はだいたい出来上がっており、仕上げて決裁を貰ったら必要な部数だけコピーし、製本すれば準備完了。プレゼンの練習
については、懇意にしてくれている上司が午後から付き合ってくれる約束になっている。あとは心の準備だけである。
もう一つ…私事の方は、娘へのクリスマスプレゼントの事。
去年までは、お気に入りのテレビ番組に登場するマスコットのぬいぐるみなどで喜んでいた娘だったが、今年は少し違った。
幼稚園に入り、他の子供たちの話題に乗り、流行に目覚めてしまったのである。おまけに、サンタさんへプレゼント希望の手
紙を出す事まで覚えてきた。
そこまではいい。友達と同じものに憧れて、同じような物を欲しがる…、子供として当たり前、健全な欲求である。
しかし、希望された品物が問題だった。
テレビのキャラクターが使っているアイテム…光って回って声が出て主題歌と処刑BGMも流れる魔法の変身ステッキ。それ
が娘の要望だったが、これがとんでもなく人気の商品。
商品棚からは在庫が消え、通販含めてどこも売り切れ。入荷予約待ちが当たり前の状況だと気付いたのは、クリスマスが一週
間前まで迫った頃だった。最後の望みをかけて逐一スマートフォンで在庫確認を続けていたが、その甲斐も無く今に至る。
(ダメダメ、まずは資料に集中だ…!)
クロマルはデスクトップパソコンの電源を入れて、始業前にコーヒーを淹れておこうと席を立ち、入り口近くの壁のへこみに
向かう。
ドアも無く別室にはなっていない、2メートル四方のそこは湯沸かし室。電気ポットと冷蔵庫、電子レンジなどが置いてあり、
IHヒーターもある。
お茶係などは決まっていないので、基本的に各員が飲みたい時にセルフで淹れるスタイル。茶を淹れていた女性社員が出るの
を待って、自分のカップに粉のインスタントコーヒーを溶いて、湯沸かし室を出たクロマルは…。
「あ、おはようございます」
ドアを開けてのっそりと入室した男に、いち早く気付いて挨拶した。
「おお。おはよう」
応じたのは、背広がよく似合う恰幅が良い三十代の男。企画部長補佐の虎である。
皆と挨拶を交わしながら補佐席へ向かうこの虎は、黄之嶋文彦(きのしまふみひこ)。三十三歳で社内最年少部長補佐の座を
任された敏腕社員。
少年期から元々ふっくらした体型だったが、やや早めの中年肥りがキツく出始めており、今ではどこもかしこもムチムチして
いて、腹などワイシャツがパツパツ。通り過ぎると、使っているコロンのオレンジジュースのような香りが薄く漂う。
席につくなりデスクに置かれたメモや付箋…企画部メンバーからの伝言や電話連絡の知らせを確認した虎は、その内の一枚を
手に取ってじっと見た後、スケジュール表と見比べ、席に戻っているクロマルの方を見て…。
「クロマル。約束の件、午後一でいいか?」
広い室内の端まで通る声に、都合の良い時間を問うメモを昨日の帰りに残しておいたクロマルは、「はい!よろしくお願いし
ます!」と応じる。
補佐のキノシマは他の部署との会議や部内打ち合わせで席を空ける事が多い。午後三時からも会議があるので、纏まった時間
が取れるのはそこだけだった。
(よし、プレゼンの練習はオーケー。午前中に資料を…)
さっそく資料のデータを呼び出したクロマルは、仕上げに取り掛かる。
やがて部長が入室し、メンバーも揃い、今日の業務が始まって…。
「良いんじゃない?うん。判り易いよ」
机の上に広げられた資料…付箋だらけの原稿を前に、薄茶色のポメラニアンは頷いた。その隣には、一緒に資料を覗き込む格
好の虎。少し前屈みになっただけで腹が窮屈そうに見える。
まん丸くカットされた被毛から耳が僅かに飛び出している部長のポメラニアンは、部の最高責任者であると同時にマスコット
でもある。広く大きい部長席からすると不釣り合いに小さく、正面から見ると毛玉に円らな瞳がついているような具合。五十代
半ばのはずだが、声は高めで動作は小さく小刻みで、何処か子供のようにも見える年齢不詳の生き物である。
なお、部長のポメラニアンよりも部長補佐の虎の方がよほど貫禄があるし責任者らしい…というのは、企画部メンバー全員の
共通認識。
課長と並んで部長のデスクの前に立ち、少し緊張していたクロマルは、決裁が下りてホッとした。各所に細かな修正はあるが
内容自体はオーケー。スムーズに行ったのは、決裁順番が回った虎が自ら手に持って部長に提示し、説明不足の箇所に注釈を入
れて事前に説明しておいてくれたおかげ。仔細を確認されていた今も部長の脇に立って資料を指さし、あらかじめ聞いていた点
を念頭に入れて補足もしてくれた。
「ありがとうございました」
課長と共に頭を下げ、原稿を持って席に戻ったクロマルは、補佐席に戻ったキノシマに視線を向け、目が合って会釈する。
時刻は午前11時10分。余裕をもって資料を揃えられる。しかしその前に…。
(ちゃんとお礼しなきゃな…)
まずは午後に備え、昼食の事を考えておいた。
昼のチャイムが鳴ると、皆がそれぞれ席を立ったり弁当を取り出したりして、オフィスは急に賑やかになった。
「フミちゃん?今日はお昼一緒にどう…」
「済みません、今日は先約があります。また今度」
部長のポメラニアンの誘いを断った虎が、残念そうな視線を受けながら席を立ち、部屋を出てゆく。それを見たクロマルもハ
ンドバッグを引き出しから取り、ジャンバーを羽織って足早に部屋を出た。
一階に降り、ロビーで待つ事二分。クロマルとは違い、外套をきちんとロッカールームにかけている虎は、コートを羽織って
エレベーターから出て来る。
「待たせた」
「いえ!」
一緒に関係者用の通用口を潜りながら、クロマルは口を開いた。
「決裁ありがとうございました。お陰様でスムーズに抜けました」
「おお」
礼を言うブチ猫に、虎はそっけなく思える返事。しかし不機嫌な訳でもどうでもいいと思っている訳でもない。キノシマは素
で言動が朴訥…、有体に言えば顔や声に感情を出して表現するのがド下手糞な手合いなのである。心から楽しい時も面白い時も
笑みがなかなか出ないほどなので、当然ながら愛想笑いなど無理。なので敏腕だが営業だけは向かない。
白い息を吐いてビル前のロータリーを迂回し、すぐ目の前の本通りに出ると、クロマルは「今日はパスタラビスタ行きましょ
う」と先導して歩き出した。
「またあそこか…?」
「あれ?嫌いでしたっけ?ラザニア美味しそうに食べてたから、好きなのかと…」
顔を顰める虎。傍から見れば怒っているようにすら見える不満顔だが…。
「嫌いじゃない。むしろ好きだ。が、美味いから食い過ぎるのが問題だ」
「今日は僕の奢りですから、心配しないで下さい!」
胸を張るブチ猫。問題なのはそこではないのだと言いたげに、据わった横目を向ける虎。
平社員のクロマルから見れば、課長補佐のキノシマはかなり立場が上である。が、歳も四つしか違わないしな、と虎の方は近
所の馴染みか学校の後輩にでも接するような態度。
あまり表情も変えないし物言いも朴訥なので、最初の内は付き合い辛そうな人だなぁとクロマルも感じていたのだが、接して
いる内に案外そうでもないと判った。
キノシマは仕事ができるだけでなく、愛想こそ振り撒きはしないが面倒見は良いのである。本人曰く、きょうだいが多いから、
であるらしい。
それに、クロマル個人にとっては…。
(全然恩返しできてないけど、恩人なんだよなぁ…!)
クロマルは三年前に中途入社したのだが、その入社の際にもこの虎が骨を折ってくれた。
大学卒業後に広告代理店に入社したクロマルは、職場結婚し、子供も生まれた。さあこれから…というそのタイミングでの事
だった。会社が不渡りを出して倒産したのは。
子供はまだ赤ん坊で、妻は妊娠を機に退職し、自分は職が無い。勤め先もなかなか見つからず、日に日に気分が落ち込んで思
考が悪い方向に向き始めていたその時、粉ミルクを買いに行った薬局で、見覚えのある虎…妙にずんぐりしたインパクト抜群の
男と遭遇した。
以前たった一度だけ、企業ブースの出展会で現場のデザインや設営を手伝って、名刺を交換していた玩具メーカーの現場責任
者。そう思い出したクロマルに、キノシマの方も気付いた。曰く、憶え易い見た目だったから…との事だが、特段珍しい柄でも
ないブチ猫には不思議な話だった。
それから少し話をして、会社が倒産した事も知っていたキノシマは、まだ仕事が見つかっていないとクロマルから聞くと、こ
う提案した。
自分の所の第二課は、来月社員が一人寿退社するので空席ができてしまう。その気があるのなら、人事に話を通して面接の席
を設けるがどうだ?広告代理店で培った企画力は、きっとこちらでも活かせるだろう。…と。
あの口利きが無かったら路頭に迷っていたかもしれない。そうクロマルだけでなく、妻も感じている。
だから、時には家に呼んで食事などを振舞ったりもした。実家から送られてきた地元の名産品をおすそ分けしたりもした。今
では娘も虎のおじちゃんと呼んで懐いており、仕事の枠を超えて公私ともに良好な関係になっている。
「こんちはー!予約してましたクロマルですー!」
決裁がスムーズに済むサポートをしてくれた礼と、午後一番でプレゼンの練習に付き合ってくれる礼を兼ね、昼食を御馳走す
る約束をしていたクロマルは、先月も訪れたイタリアンレストランのドアを潜った。
すぐに顔馴染みの店員がボックス席に案内し、ふたりは向き合って腰を下ろす。小ぢんまりした店なので座席はやや狭く、ソ
ファーは二人掛けギリギリ。それどころか背もたれからテーブルの間も広くないため、窮屈そうに体を捻じ込んだキノシマは、
出っ張った腹がテーブルの縁に軽くめり込んでいる。
メニュー表を開いて選び、注文が終わると、ふたりは雑談しながら料理を待った。
「補佐は明日予定とかあるんですか?」
「明日?今日は忘年会で、明日は会議だな」
「いやそうじゃなくて、明日はイブじゃないですか?クリスマスイブ」
「ああ。仕事じゃなくクリスマスの予定か。そうだな、夜は外せない予定がある」
「お」
ブチ猫が目と口を真ん丸にした。これはもしや、と。
「ん?別に驚くような事でも、「その手の」話題にできる話でもないぞ。仕事のような用事だ」
浮いた話ではないと否定されて、思わず「そうですか…」と残念そうに零すクロマル。
何せ敏腕な虎の事、取引先や社内などでも見合い話がそれなりにあると同僚達から聞いている。悉く断っているらしいが。
(今は仕事一筋、恋愛も家庭も要らないって事なのかな)
仕事もできて出世も早く上司からの信頼も厚い。朴訥で愛想がないのを帳消しにして誠実で面倒見が良い。自炊慣れのレベル
を通り越して料理が上手い。
部内の皆も、きっとハートを射止めた相手は幸せになれると、キノシマの身の振り方に興味津々。クロマルもこの恩人には幸
せになって欲しいので、良い相手が見つかればいいなぁと常々思っている。
「お前はどうなんだ?会議だけじゃなく、クリスマスの準備もしなきゃならないだろ?」
「え?あ~…。そう…なんですけどね…」
クロマルが声のトーンを落とすと、真冬にも関わらず店内が暑いのか、御冷やをガバガバ飲んでいたキノシマが眉根を寄せた。
「何かあったのか?」
「むしろ無くて困ってると言うか…」
「無くて?…プレゼントか?」
「そうです。どこも品切れで…」
虎は少し考える。まず思い浮かんだのは品薄が続いている最新型の家庭用高性能ゲーム機。クロマル夫妻はアプリゲーム派な
ので家にゲーム機は無かった。だが、あのゲーム機のプレゼントは五歳児には少々早い気もする。
「ノワちゃんは何が欲しいんだ?」
結局思いつかなかったので尋ねた虎は、ブチ猫から娘が欲しがっている品が何であるのかを聞くと…。
「…他社製品じゃないか」
「言われると思いましたけどね!?」
「ペポップ社のじゃないか」
「そうですけども!」
「ところで、前々から思ってたんだがちょっと言い辛くないか?ペポップ社って」
「僕に言われてもっ!」
「あの商品も夏に出た第二弾も、二月の再販目指して工場フル稼働で生産中だぞ?だいたい、この年末商戦にシリーズ第三弾の
ステッキと連動グッズのブレスレットが発売されたから、揃えたい子供達や大きいお友達には第一弾は垂涎の品だ」
市場と他社の動向を把握している虎は、ブチ猫よりも入手難度の高さがよく判っている。クロマルが求める初代ステッキの再
販はまだまだ先で、明日までの購入は絶望的な状況。一応ネット上では見つからなくもないのだが、どれも反吐が出そうな金額
になっている。
「ブレスレットだけ先に…とか、ダメですかね?」
クロマルは自分が口にしたブレスレットという単語から連想し、虎の左手首をチラリと見遣る。
就職祝いに祖父がくれたと虎が言う、愛用の腕時計。革ベルトが太いこの品と一緒につけてあるので目立ち難いが、キノシマ
は細いリストバンドを片時も外さない。塩ビかゴムかは判らないが、黒くて艶が無い地味なデザインである。ミサンガ等とも違
うし、歩数や消費カロリーを記録する健康サポートグッズでもないらしい。
「どうだろうな?あれは連動してナンボの商品だぞ」
「ですよねぇ…」
落ち込むクロマルだったが、
「とりあえず、オーダーしておいたケーキは予定通りに発送すると、店から連絡があった。たぶんノワちゃんも喜んでくれると
思うが…」
キノシマが一家へプレゼントするクリスマスケーキについて口にすると、「す、済みません!去年に続いて…」と、申し訳な
さそうながらも笑みを見せる。キノシマが知り合いの店でオーダーしてくれるバースデーやクリスマスのケーキは、娘も妻も大
好きだった。
丁度そこで料理が運ばれて来たので、ふたりは雑談を一時中断する。
カルボナーラはブチ猫の前へ。ボンゴレビアンコとピッツァマルゲリータとラザニアは虎の前へ。クロマルは奢ると言ってい
るが、そもそも奢らせるつもりが無いのでキノシマは遠慮がない。仕事の労いに会計は自分が持つつもりである。
具がたっぷり乗ったマルゲリータに豪快にかぶり付き、程よくパリパリした生地の感触とチーズとソースの味わいを堪能し、
フォークに大量に巻き付けたボンゴレをパクリと口に入れ、合間にちょくちょく大好物のラザニアを味わう…。健啖家ぶりを見
せつけるキノシマは、ほんの一時だけ眠そうな猫を思わせる笑みを見せる。食べ過ぎを心配していた少し前の自分の事など、も
はや意識にない。
悩みが吹っ飛びそうな爽快な食べっぷりを眺めながら、クロマルもカルボナーラを食べ始める。
準備は粗方済んだが、午後はプレゼンの予行演習と資料のコピー、製本が待っている。良く噛んで味わって元気をつけるべく、
ムグムグとひたむきに食べているブチ猫の様子を…。
「………」
手を休めずに飯を掻き込みながら、虎は少し目を細めて眺めていた。何かを懐かしんでいるように。
どっちが奢るかで少しモメて、結局キノシマが支払いをし、ふたりは店を出た。
暖かい部屋で温かい物を食べた後の帰り道は、なおさら風が冷たく感じられる。首を縮めて背を丸めるクロマルだったが、キ
ノシマは格好が逆。寒そうな様子も見せず、歩行に合わせて弾むように揺れる、コートの上からでも判るほど丸く突き出た腹を、
両手で軽くさすっていた。本人は気付いていないようだが、これは食事に満足した後にやる癖。強面の上司が見せるユーモラス
な仕草にブチ猫はほっこりする。
そうして二人が会社のビルに戻ると…。
「お疲れ様でありますフミ先輩!」
関係者用の通用口に立つ、ボディビルダーのように筋肉ムキムキのアラスカンマラミュート警備員が、キノシマ達の姿を認め
て挨拶した。昼食に出る時まで居た警備員とは別人である。
マラミュートはクロマルより頭半分ほど背が高く、キノシマと比べても少し身長がある。広い肩幅に胸の厚み、腰から下で左
右にシルエットを膨らませる太腿なども相まって、制服姿が頼もしい大男だった。
しかし、警備員のユニフォームをピシッと纏い、直立不動の姿勢をシャキッと取り、ビシッと敬礼するその尻では、姿勢とキ
リリとした表情とは裏腹に、尾が激しく左右に振られている。
「おお。お疲れ。今日は午後番か」
「は!夜までお任せを!」
キノシマから声をかけられると、デレッと顔を緩ませて舌を出すマラミュート。しかし…。
「ご苦労様ですアオサキさん」
「………」
クロマルの挨拶には無反応。顔も向けないし視線も向けない。一時見せた笑顔も消えている。
この会社では、二十年ほど前に顧客資料や商品開発情報などを狙った泥棒が入った事をきっかけに、三交代で二十四時間警備
員が常駐する体制になった。現在その担当をしている警備員のひとりが、この蒼崎仁弥(あおさきじんや)。
アオサキはキノシマの高校時代の後輩で、二つ下の三十一歳。クロマルは虎から元自衛官だという経歴を聞いており、頼もし
く思っているのだが、向こうから嫌われている事はそのあからさまな態度で判る。嫌われる理由に心当たりは全くないのだが。
「昼食は何をお摂りになられたのでしょうか!先輩は働き盛りの管理職であります!お腹いっぱい食べ、たっぷり栄養を摂る事
が肝心であります!」
「食い過ぎるとまた太るんだよ」
「それもまた良しでありましょう!」
「良くないだろ」
やたらと勢いのあるアオサキにゲンナリした顔で応じるキノシマ。
「ところでフミ先輩…」
マラミュートは急に声のトーンを落とし、口元に平手を当て、虎に耳打ちする。クロマルをチラチラと、これ見よがしに意識
しながら、普通に聞こえる声の大きさで。
「明日の夜はよろしくお願い申し上げるであります」
「こっちこそよろしく」
「あ。さっき補佐が言ってた、明日の外せない予定って、アオサキさんとの用事だったんですか」
クロマルが気付いて口を挟むと、マラミュートは鼻先を少し上げて横目で見下ろし、フフンと得意顔になった。が…。
「ああ。だから言ったろう?仕事のような用事だってな」
「フミ先輩ーっ!?」
ショックを受けているような顔で不服そうな声を上げるアオサキ。
「さて午後も気張るか。頑張れよアオサキ」
軽く上げた手をヒラヒラ振って歩き出す虎。ブチ猫もそれに従い、残されたマラミュートは広い肩をガックリと落とす。
しょぼくれている警備員の前を、昼食を外で済ませて戻ってきた社員達が次々と通り抜け…。
「たった今気が付いたでありますが、あの男、またフミ先輩と昼食を一緒にしたでありますか…。オノレ…!」
地の底から響くような低い声で、マラミュートは唸り始めた。
それから十数分後。借り切った小会議室で、クロマルは明日の会議に向けた練習を始めた。
通したい企画を熱弁するプレゼン、聞き役は付箋だらけの資料原稿を捲るキノシマ一人だけ。
想定質問には答えを用意してあるが、何が起こるか判らないのが会議である。虎は予想される問いは勿論の事、流れを遮る形
で突っ込んだ事まで質問して、クロマルに柔軟性をつけさせる。
「ここは図解してあっても複雑だからな、引っかかりを覚える部長も居るはずだ。ほぼ確実に質問が来ると思っとけ」
「この円グラフだが、たぶん営業部長がその他の内訳を気にする。主題に移る直前のタイミングだからな、話すペースが崩れな
いように気をつけろ」
「この辺りは身振りなんかも交えた方がいい。レーザーポインターよりも注意を引くのは手の動きだ。スクリーンに全員の目を
向けさせるつもりで、少し大げさに頑張れ」
キノシマは会議に慣れている。荒れる議題の時に進行役をこなした事も二度や三度ではない。ためになるアドバイス込みで練
習ができて、クロマルが満足しながらも疲れてきた頃…。
「…よし、こんなもんで充分だろう」
キノシマは愛用の腕時計を見てオーケーを出した。時刻はもうじき二時半になるところ。西からの陽光は角度を変えて、射し
込む面積が広がっている。
「ありがとうございましたー!」
安堵と疲労、そして少し自信がついた満足感。立ちっぱなしだったクロマルがへたり込むように椅子に腰を下ろすと、キノシ
マは「コーヒーでも飲んで一服したら戻るか」と、僅かに目を細めた。
「あとは清書を印刷して、必要部数コピーするだけだろう?」
「そうですね、そう考えたら気持ちに少し余裕ができました…」
席を立ったキノシマは、会議室の壁に空いたへこみに向かう。各会議室にも企画部のオフィスと同じように、2メートル四方
のそこが湯沸かし室になっている。
「あ、僕が…」
「良い。休んでろ」
キノシマは立ち上がったクロマルを制すと、大きな体を揺らして湯沸かし室に入り、コーヒーの支度を始める。
虎がプレゼン練習開始前に電気ポットのスイッチを入れていたようで、紙コップをホルダーにセットする音や、一袋ずつ個別
梱包されている備え付けのドリップコーヒーの封を破る音に続き、すぐに熱湯が吐き出される音が聞こえてきた。
(悪い気がするけど、補佐が淹れてくれた方がコーヒーは美味しいからな…)
据わった目にさめた表情、頬肉が厚い幅のある顔に、虎特有の厳つい骨格。貫禄のある体格に、ややぶっきらぼうな口調と態
度。…と、コワモテの部類に入るキノシマなのだが、見た目に寄らず手先は器用で気配りも割と細やかである。
残業などを頑張っている後輩や、気疲れしている部下に、「自分のを淹れたついでだ」と、手ずから茶やコーヒーを淹れてや
る光景は頻繁に見られ、しかもこれが好評。淹れ方、蒸らし方、注ぎ方などにコツがあるのか、キノシマは紅茶からコーヒーま
で、何を淹れても美味くする。これは味だけでなく、飲み易さまで含めての美味さである。
寒い日には焼けるように熱いダージリンティーを、香りを楽しみながら啜らせる…。外から戻って来て体が冷え切っている部
下には、腹から温まれるよう飲み易い温度でドリップコーヒーを勧める…。そんな細やかさについて、以前クロマルが褒めた時、
キノシマは普段通りの顔と口調のまま、しかし少しくすぐったがっているように太い縞々の尾を揺らしてこう言った。
「爺さんは舌が肥えてたし、他のきょうだいは雑なのが多くて色々と手がかかった。それで鍛えられたかもな」
そんな時、キノシマは何処か懐かしがっているようにも感じられるな目でクロマルを見るのだが、ブチ猫本人はその理由が判
らない。
やがて、会議室の長テーブルにはカップが二つ並べられた。ミルクが少量、角砂糖が一つ入ったドリップコーヒーはクロマル
用で、ブラックはキノシマの物である。
「自信はついたか?」
オレンジ色の鼻をひくつかせ、丁寧に淹れたコーヒーの香りを楽しんでいるキノシマの問いに、
「お陰様で少し」
クロマルが照れくさそうに耳を倒して応じる。
「少しか」
「いきなり自信満々にはなれませんって」
「まぁそうかもな」
キノシマが出なければならない会議まで、あと三十分もある。
コーヒー一杯分の休憩を、ふたりは雑談しながらのんびり楽しんで…。
「…あれ?」
順調に準備が進んで、いざ仕上げという時だった。クロマルが異常に気付いたのは。
指摘された箇所などを修正した最終版資料。いよいよこれを印刷しようとしたのだが…。
(…ない!?)
目を皿のようにしてモニターに顔を近付ける。しかしフォルダーの上から下まで視線を何往復させても、資料のデータが見つ
からない。
保存する際に名前を変えてしまったのか?あるいは違うフォルダーに保存したのか?更新の日付などを元に探しても見つから
ず、開いたファイルの履歴から検索するも、パソコンは無情にファイルが見つかりませんと繰り返すばかり。
(ま、間違って削除した…!?いや、でもそれだったらここに残ってるはずなのに…)
念のために確認してみたがゴミ箱にも残っていない。
サーッと顔から血が引いて、冷や汗が噴き出てきたクロマルが、思考まで停止して固まっていると…。
「どうした?」
会議から戻って来たばかりで、コーヒーを淹れて席に戻る途中だったキノシマが、様子がおかしいと感じて声をかけた。
「ほ、補佐…」
ギギギッと首を巡らせたブチ猫は、何と説明して良いか判らず虎の顔を見上げ…。
「…何か問題だな?言ってみろ」
促されたクロマルが、戸惑いながら事情を説明すると、キノシマは「ちょっと良いか?」と断りを入れて横からデスクの上に
身を乗り出す。マウスを掴んで手早く操作し、本当にファイルが無い事を確かめると、「どうした物か…」と腕を組んで唸った。
決裁に回した資料はある。内容その物は整っている。だが、流石に赤ペンでの修正だらけな上に部外秘事項までメモしてある
物をコピーする訳には行かない。
「打ち直します…。今からやれば、朝までには何とか…」
しょんぼりして呟くクロマル。明日の会議は今年最後なので、次に回す事はできない。
「徹夜して明日のプレゼンが普通にできるなら良いがな。ちょっと待ってろ」
虎はすこし横揺れする独特な大股で部長席へ向かうと、ポメラニアンに小声で事態を報告した。そして…。
「残って手伝います。二人分、残業の許可を」
キノシマの顔を見上げるポメラニアンは、動揺してフルフルッと震えた。
「間に合うのフミちゃん?」
「間に合わせます」
「わ、私も手伝う?っていうか皆でやる?」
「今夜の忘年会、部長まで外れる訳にはいかないでしょう。誰かにヘルプを頼まなくても、二人で大丈夫ですから、」
結局キノシマに部長が押し切られる格好になり、残業許可が下りて…。
「手分けしてやろう」
「え?で、でも補佐…」
付箋だらけの原稿からクリップが外され、半分に分けて渡されたブチ猫は…、
「お前は頭のページから打ち直せ。俺はケツからやる。部内共有フォルダを使うぞ、お前はファイル名を「資料1黒丸」にしろ、
俺は「資料2黄之嶋」だ。それと、グラフと図形のデータも共有フォルダに入れろ。移動じゃなく、念のためコピーだ」
何か言う前に資料の半分を押し付けられ、手早く指示を出した虎が自分のデスクに戻って行ってしまったので、言葉をかけ損
ねてしまった。
(…済みません。ありがとうございます、補佐…)
落ち込んでばかりもいられない。早速やる気を奮い立たせ、挑みかかるように画面に向き直るクロマル。
一方、キノシマはズズッとコーヒーを啜り、気合いを入れるように両手で自分の頬をパンパンと軽く叩くと、ワイシャツの袖
を肘まで捲り上げて作業に取り掛かる。
資料の前と後ろから、手元の案をもとに手打ちで再現する大急ぎの作業。
窓の外が真っ暗になって、就業ベルが鳴って、皆が帰り始めて、徐々に人数が減って…。
ふたりだけになったオフィスに、キーボードを叩く音が響く。
作業も進むが、壁時計の針も静かに進む。
遅くなるからと、クロマルが妻へ電話した事を除けば、皆が帰った後は一言も声がない。
そして、時刻が八時を過ぎた頃…。
「お疲れ様でありますフミ先輩!」
オフィスに現れたのは、私服に着替えたアラスカンマラミュート。いきなり上がった大声にびっくりして、クロマルは椅子ご
とひっくり返りそうになった。
「アオサキ、どうした?」
デスクトップパソコンから視線を外したキノシマに、アオサキは「は!」と敬礼。
「あのポメ部長が帰る際に残業と聞きました!自分もお力になるべく参上したのであります!」
「そうか。丁度良かった」
「丁度良かったでありますか!頼って頂けて嬉しいであります!」
尻尾を振って喜ぶアオサキは、キノシマに手招きされてデスクに近付き…。
「丁度晩飯をどうするか考えてた所だ。むすべぇ行って飯買って来てくれ。クロマル、アオサキに買い出しに行って貰うから、
食いたいもの言え。俺はゴージャス天むすセットな」
「丁度良かったとは飯のお使いでありますかーっ!?」
仕事で頼られる事を期待していたマラミュートは不服そうな声を上げたが…、
「お前も何か食いたい物買ってこい」
と、キノシマが札入れから五千円を取り出して預けると、途端に敬礼して「は!ゴチであります!」と背筋を伸ばした。
マラミュートが不服そうにブチ猫の希望も聞き、オフィスを飛び出してゆくと、キノシマは椅子の背もたれを軋ませて背伸び
をつつクロマルに呼び掛ける。
「進捗どうだ?」
「はい、もう少しで半分です」
「そうか。こっちはもうすぐ終わるから、残ってる内の半分よこせ」
「はい。…はい!?」
一度頷いた後で、自分の倍速で進んでいた虎の作業速度に驚くブチ猫。敏腕と聞いているしそう思ってもいたが、こんな状況
になるとどれだけ優秀なのかがよく判るし、頼もしい。
「飯が届いたら休憩、その後はラストスパートだ」
「ひ、日付けが変わる前どころか、もっと早く終わりそうですね…」
「あのなぁ…」
申し訳なさすら忘れて素直に驚いているクロマルだったが、キノシマは渋い顔。何を言っているんだこいつは?という呆れ混
じりの表情である。
「部下に日付け変わるまで残業させるぐらいなら、二人か三人に頭下げて手伝って貰ってる。十時前には帰るぞ。ちゃんと終電
前に駅に行かせてやる」
「す、済みません…。本当に…。昼に続いて晩飯まで奢って貰っちゃって、そっちも済みませんし…」
「気にするな。管理責任者っていうのは、仕事を管理して部下の責任を取るために居る。伊達に特別手当が出てる訳じゃない。
それに、これでも高給取りだぞ?おまけに独り身だ。財布に余裕ぐらいある」
そうは言うが、キノシマが祖父に仕送りしている事をクロマルは知っている。確かに給料は多く貰っているだろうが、生活に
余裕はあっても贅沢三昧はしない。
「補佐…、怒らないんですね…」
申し訳なさからクロマルが思わず漏らした言葉で、キノシマは軽く眉を上げた。「何で怒らなきゃならない?」と。
「だって、僕のせいで…」
「お前のせいかどうかなんて判らないだろ。パソコンの不具合、不幸なデータ消失、そんな事だったら怒った所で仕方ない。完
璧にお前の落ち度で発生したミスで、それが注意して避けられる物だったなら、叱るか助言するかだが」
「でも、僕がミスしなかったら、補佐は今頃忘年会に…」
何から何まで気を回して計算されて、有り難い以上に申し訳ない気持ちのクロマル。本当ならキノシマは今頃、各部の部長や
補佐達と忘年会に行っていた。ホテルの料亭で豪勢な夕食が楽しめたはずが、職場で飯を食う事になってしまったと負い目に感
じる。
「ああ、忘年会な…」
キーボードを叩きながらキノシマは応じた。その顔は微苦笑を浮かべ、珍しく声にも笑うような振れ幅があった。それに気付
いたクロマルが顔を上げると、部下の視線に気付いた虎は、「内緒な?」と、モニターの上に鼻から上だけを覗かせて言う。
「実は、社内の飲み会はあんまり好きじゃないんだよ。特に大勢のは」
「え?」
クロマルの記憶では、キノシマは時々誰かと飲みに出ているし、何より日本酒やワインなど酒が好きなので、飲み会が苦手そ
うには見えなかった。そう告げると…。
「サシや数人ならまぁ、一緒に飲む。酒が入ると仕事の突っ込んだ話もできるようになる人も居るからな。だが、他の部署の上
役連中や、よく知らない相手まで混じるような飲み会はな…。仕事でも私生活でも接点が薄くて、人柄も判らない相手だと、ま
ず話題に困らないか?友人や身内、気心知れた連中なんかで大勢集まって、ワイワイやるのは好きなんだが」
ブチ猫は数度瞬きした。意外に感じたのは確かだが、そういえば、と気付く事もあった。
確かにキノシマはちょくちょく誰かと飲みに出かける。だが、それは進めている仕事の関係者とだったり、仲のいい企画部の
同僚だったり、他の部署の同期とだったり、部長のポメラニアンとだったりする。それもだいたいはサシ飲みか三人程度の少人
数で…。
「実は…、僕もそんな感じです」
共感し、親近感を覚え、苦笑いしながらクロマルが応じると、「だと思ってた」とキノシマは肉厚な肩を竦めた。
それからはまたしばらく会話が無くなり、キーを叩く音だけが沈黙を埋めて…。
「ただいま戻りました!ミッションコンプリートであります!」
買い出し要員になったアラスカンマラミュートが、ガサガサと袋の音を立てながら騒々しく帰還した。
「こちらは先輩の天むすゴーであります。…そして職場の同僚は海鮮三種。自分は先輩とお揃いにしたであります!」
応接セットのテーブルに、近場にある豪華なおにぎり専門店で買ってきた弁当を置いてゆくアラスカンマラミュート。天むす
を二つ並べ、クロマルの分を反対側の席に置き、ソファーに腰掛けるが…。
「助かった」
キノシマは弁当の袋と温かい茶のボトルと釣銭を回収してデスクに戻る。並んで食べる気満々だったアオサキはアングリと口
を開けてそれを見送った。
虎はそんな後輩の様子に目もくれず、大きな海老が目を引く大きな天むすに、ガブリ、ガブリ、と喰いつきながら茶を啜る。
そして自分の肉厚拳骨と同サイズのおにぎり三つをあっという間に胃袋におさめると、気合いを入れ直すように両頬をパンパン
と軽く叩き、キーボードを叩き始めた。
クロマルもアオサキに買い出しの礼を言いつつ、急いでおにぎりを食べ始める。思惑が外れたマラミュートは、ブチ猫と向き
合って不服そうにモソモソと天むすを齧っている。
そうして作業は再開され、帰って良いと言われてもアオサキは居座り続け、しばらくして…。
「できました!」
「ご苦労」
クロマルが声を上げたと同時に、キノシマが席を立つ。
「まず三部印刷しろ。元原稿貸せ。コピーして三人分用意したら、六つの目で見比べる」
若くして管理職に就いたキノシマは、部下の尻拭いで締め切りギリギリの戦争を何度も経験してきた。この程度のアクシデン
トは軽傷の部類だと、涼しい顔でのたまう。冷静な上にテキパキしていて、クロマルには非常に頼もしい。
アオサキもやっと手伝いに混ぜて貰えると、ソファーから立ち上がって尻尾を振る。
三人がそれぞれ見比べ作業をして、四か所ほどミスタイプや改行ミスを見つけ、そこを修正したら…。
「で…、できた…!」
ブチ猫が印刷された最終稿を、ホッとしながら見つめる。
「まだ気を緩めるなよ。ページの並びを確認したら両面コピー。ソートも忘れるなよ?ここでしくじったらしまらないからな」
「はい!」
クロマルに声がけして引き締めつつも、キノシマも安堵はしたようで、丸い腹をワイシャツの上からさする。
「小腹が空いたな…」
おむすび弁当一つでは足りなかったのだろう、キノシマが丸みが目立つ胃の辺りを上下にさすると、「では自分が再び買い出
しに!スイートなスイーツでも!」とアオサキが挙手した。
「じゃあ頼むか。寒い中悪いな」
「いえ!フミ先輩のお腹が目減りしては悲しいので!」
「悲しくないだろそれ…」
金を預けてマラミュートを送り出したキノシマは、ウ~ン、と背伸びしてからクロマルに目を向けた。
「さあ、コピーが終わるまで休憩だ。コーヒー淹れるから少し休め」
それからは、アオサキの帰りを待ち、ふたりは応接セットのソファーにかけて熱いコーヒーを楽しむ。
「これで明日のプレゼンが無事に終われば…」
「自信を持て。一度に話す相手が多いだけで、お前が前の会社で俺達に説明してくれた時と同じだ。判り易く説明するのは、お
前が上手くやれる事の一つだと、俺は思ってる」
「そう…ですかね?」
面と向かって褒められて面映ゆいが、正直嬉しいクロマルの尾が、ソファーの背もたれに擦れながら揺れた。
「ああ、でも…」
「うん?」
別の心配事を思い出したクロマルが項垂れ、キノシマが「ああ」と思い出す。
「ノワちゃんのクリスマスプレゼントか」
「そうです…。家族サービスがまだ万全じゃない…!」
入手困難になっているプレミア品。
二号魔法少女のステッキならば数点見かけたのだが、娘が欲しがる一号のステッキは、メーカー側もここまでのヒットになる
と思っていなかった事もあり、生産体制の再編が遅れていた。
二号のステッキ発売と同時に再販されたのだが、それもあっという間に品切れ。オプションアイテムも発売したのだが、むし
ろ売れ行きがいま一つとなったそちらの生産が、人気アイテムの生産ラインを圧迫してしまったのも、この品薄の状況を後押し
してしまっている。
(ウチの製品なら、サンプル品か製品説明用の在庫を譲って貰う事もできたかもしれないけど…)
そう考えるクロマルだったが、実際にはそういった事ができるツテもない。
「はぁ…。サンタクロースに手紙を書くようになったかと思えば、一回目でこれじゃガッカリさせるな…」
「ん?ノワちゃん、手紙書けるようになったのか?」
虎が少し驚いたように眉を上げた。
「ええ。幼稚園で友達に教えられたみたいで。しかも可愛い封筒に入れてよこしたんですよ。持ってきてますけど、見ますか?」
「見たいな」
キノシマが即答したので、クロマルは照れ笑いしながら一度デスクに戻り、娘が書いた手紙を上司に差し出す。
封筒から淡い黄色の手紙を取り出し、目を細くしてひらがなとカタカナで書かれたそれを読むキノシマは、口元を少し綻ばせ、
優しい微笑を浮かべていた。
この虎は子供が好きである。本人は言わないが、そうだという事をクロマルは態度や発言から知っている。
全ての子供が幸せになれる訳ではない。だが、幸せになっていけない子供などこの世に居ない。その、ちょっとした手伝いが
したい。
確か二年前。会社の近くに焼鳥屋が開店した、夏休み商戦直前の季節。大きな企画が通った後…。開店記念割引期間中で丁度
いいと仲間内で繰り出した打ち上げの時だったと、クロマルは記憶を手繰る。あの日は、ちゃっかりしている若手に財布役で当
てにされ、キノシマも参加していた。
焼き鳥を食っていたら刺身を食いたくなったと、関係性がよく判らない事を言うキノシマに、若手三人で付き合った居酒屋で
の二次会…。だいぶ酒が進んだ頃、玩具メーカーに就職したきっかけなどの話になった際に、話を振られたキノシマは、ボソボ
ソとそう言っていた。
じっくり手紙を読んだ後、「かわいい字だな。お願いも丁寧だ」と、キノシマは手紙を戻した封筒をクロマルに返した。
「でしょう!?…だからまぁ、叶えてあげたかったんですけどね…。甘かったな…」
娘の手紙を褒められて喜んだのも一瞬の事、すぐに肩を落としてしまったクロマルに、
「お前、サンタクロース信じてるか?」
キノシマは唐突にそう尋ねた。
「はい?」
目を丸くして聞き返すクロマル。
やや困惑していた。娘が信じているのかという問いではなく、クロマルがどうなのかという問いである。この虎が問うのだか
ら深い意味がある質問なのではないかと、考え込んで返事ができないブチ猫は…。
「俺は、今も信じてる」
真っすぐ目を向けてくる虎の顔から、視線を外せなくなった。
断言したキノシマを前に、クロマルは返答に詰まる。何かの引っかけで深い意味がある?あるいは、この業界に携わる者とし
ての気構えのような物を諭しているのだろうか?それともジョーク?
そう、しばしブチ猫が悩んでいると…、
「…って言ったら、どう思う?」
虎はニヤリと笑ってそう言った。つられて苦笑したブチ猫は、「僕らには必要なんでしょうね?そういうスタンス」と耳を寝
せる。
「ところで、補佐はサンタの正体が両親だって、いつ気付いたんですか?」
「ウチの場合は正体は両親じゃなかった。そもそも俺は両親居ないからな」
少し間があいた。あまりにも何でもない事のように言われたので、クロマルはキノシマの言葉の意味をすぐには理解できなく
て、やや遅れて「あ…。済みません…」と耳を伏せる。
「ん?何が?」
キノシマは謝られた理由が判らなかったようで、クロマルは気まずくなりながら、「補佐の両親の話、知らなくて…」と小さ
く呟く。
「爺さんが居たし、きょうだい多かったからな」
そうして育ったからそれが当たり前なのか、キノシマは気にしていない様子だった。
(そういえば、補佐の話にお爺さんは出て来るけど、両親の事は言わないよな…。正月もお盆も、実家に帰るとか、お爺さんの
家に行くとか、そういう風に言ってたかも…。補佐の家じゃ、サンタクロース役はお爺さんだったのか…)
もしかしたら、事故か何かで両親をふたりとも失って祖父に育てられたのかなとクロマルは考えたが、突っ込んで訊くのも失
礼な気がして、やめておいた。
何となく気詰まりになって、しかし黙り込むのも不自然に思えて、ブチ猫は「あ、そういえば…」と口を開く。
「補佐のお爺さんって、どんな方なんですか?」
この問いに、虎は…。
「………………………………………………………………………………………………」
長く黙った。深く悩む顔で。
「え?説明難しいひとなんです?」
「いや、まぁ、説明し易いとは言えないんだが…。考えてみたらウチの爺さん情報量多いな…」
(情報量多いって何だ!?)
「そうだな…。何となくこう…、仙人みたいなひと?かな…?別に世捨て人って訳でもないんだが…」
「は?」
雲に乗って空に浮かんでいる老人を想像するブチ猫。
「あとデカい」
「…デカい…ですか」
頷いて「デカい」と繰り返すキノシマ。この170キロあるらしい虎が大きいと言うのはどんな老人なのかと、考え込むクロ
マルの頭の上にモヤモヤボワンと浮かんだのは、お釈迦様の如く掌にキノシマを乗せている仙人。ひとが乗り込む18メートル
級の人型メカと同等のサイズである。
「あの…、想像しにくいんですけど、写真とかあったら見せて貰えませんかね…?」
「ん?あ~…」
キノシマは少し困ったような顔になった。
「悪い。スマホには入ってないな…」
「あ、いえ。ちょっと気になっただけなんで!」
困らせる気はなかったので、慌てて首を振ったクロマルに、
「まぁ…、良いひとだよ。うん」
虎は懐かしむように目を細め、口の端を緩めて笑った。
それから一時間半後。何とか製本が終わり、駅前で上司と警備員と別れ、電車に揺られ、自宅に帰り、クローゼットの前で着
替えを終えたクロマルは、
「…あれ?」
ハンドバックを開け、確認しようとした娘の手紙が無い事に気付いた。
「あれ?あれ?え?」
上着のポケットなども探したが、何処にもなかった。キノシマに見せた後はハンドバッグに仕舞ったと思うのだが…。
(えええ!?や、やばい!帰って来る途中で何処かに落としたのか!?…いや、バッグに入れたつもりで、机の引き出しの中に
残してきたのかも…)
その頃。駅前のガード下…かつては屋台が出ていたような場所を、そのまま店にしているラーメン屋のカウンターで…。
「ノワちゃんがもう手紙を書く歳になったか…」
体が温まる味噌ラーメンを平らげた虎は、可愛い封筒を右手で摘み、しみじみと呟いていた。
その隣では、熱い物を食べるのが下手糞なアラスカンマラミュートが、真剣なあまり変顔になりながら味噌ラーメンと格闘中
だった。
「それは、先程言っていたアイツの娘の手紙でありますか?取り上げたのでありますか?いつの間に…」
「アイツがコピー機の用紙を補充してた隙に、ちょっとな」
「流石フミ先輩!遣り手の置引きのようでありますね!」
「人聞きの悪い…。もっと他に褒め方は無いのか?」
キノシマは文句を言いながら軽く目を閉じる。
「…望まれたなら、行かなきゃな…」
そして、12月24日、午後6時52分…。
「メリークリスマース!」
バースデーケーキと同じように、白猫の幼女が蝋燭を吹き消す。拍手するブチ猫と白猫の若夫婦に、娘は輝くような笑顔を向
ける。
家族三人で食べるのに丁度いいサイズの洒落たホールケーキは、サンタとトナカイ、煙突などの砂糖菓子が乗ったクリスマス
仕様。これは、有名ではないが美味いと評判の、小さなケーキショップから届いた物で、箱に貼られた伝票の送り主名は黄之嶋
文彦となっている。
「はやくたべよう!」
「食べるけど、今度会ったらちゃんと、虎のおじちゃんに「ケーキありがとうございました」って言うんだぞ?」
「うん!」
「じゃあ、ケーキ切って来るからちょっと待っててね」
妻がキッチンへ向かう様子を見送って、クロマルはテレビのリモコンを取る。
「もうちょっとで始まるね。おトイレ大丈夫かいノワ?」
「うん!トクベツヘン!トクベツヘン!」
お気に入りのアニメのクリスマス特別編が始まるので、娘は大喜び。笑顔を向けながら、しかしクロマルの頭の中にあるのは、
クローゼットの奥に隠してあるプレゼントの事。
ラッピングされた箱。そこにお願いされたステッキは入っていない。その代わり、連動して遊べるブレスレットが入れてある。
それと、「少し遅くなるけれど届けますから良い子に待っていて下さい」…という内容を平仮名で記した手紙が…。
朝起きたらガッカリするだろうなと、はしゃぐ娘に笑顔を向けながら、クロマルは内心落ち込んでいた。
同時刻。そのマンションから片側二車線の主要道を挟んだ向かい側。国道沿いに建つホテルの屋上には、ずんぐりした影が手
すりの傍に佇んでいた。
赤い帽子に赤い服。黒革ベルトに厚いブーツ。防止の天辺や服の裾などには雪のような白い飾り…。人影は、サンタクロース
の衣装を纏った男である。
軍事行動にもお勧めの、頑丈でタフな倍率調整機能付き双眼鏡を手にし、マンションの一室…窓のカーテン越しに窺える人影
の動きを仔細に観察しているその男は、サンタ衣装がよく似合う、恰幅の良い虎獣人。
「先輩。担当区域外でありますよ…」
そう後方から声がかかると、サンタ衣装を纏った虎は双眼鏡を覗いたまま「判ってる」と振り向きもせずに応じた。
「何故この配達を先輩が行なうのでありますか?区域担当者に任せれば良かったのであります!」
背中に投げかけられるアオサキの声に、キノシマは静かに淡々と答える。
「本部に無理言ってどうにか確保して貰って、ギリギリ間に合った品だからな。正規手順で配達担当に預けてたら、出発時間を
遅らせて貰う事になりかねなかった。俺が直接預かるのが一番手っ取り早かったんだよ」
「だとしても、でありますよ!出発後に担当者に預ける手も!」
「あっちは二年目の新人だ。もうルートもペースも計画してあるだろう。そこにアドリブまで突っ込むのは野暮ってもんだ」
「ぐぬぬぬ…!」
反論に詰まったアオサキの声が不満を滲ませた。
「あのなぁ」
キノシマは声の主を振り返る。しかしそこに居たのはアラスカンマラミュートではなかった。
「はい!何でありましょう!」
応じたのは、犬のお座りのような姿勢で待機しているトナカイ…それも、獣人ではなく動物の。さらに、その後ろには飾り付
けられたソリが一台。
「お前がクロマルを気に入らないのは知ってるが、それとノワちゃんへのプレゼントはゴッチャにするな」
「別にあの男の事が気に入らない訳ではないのであります!」
トナカイが反論する。姿は全く違うのだが、その表情変化はアオサキにそっくりで、声もアオサキそのものである。なのでこ
のトナカイを以後アオサキと呼称する。
「職場の同僚とはいえ、先輩に馴れ馴れしく接するのが気に入らないのであります!」
「結局気に入らないんじゃないか、それ…」
「それとでありますよ!プレゼント希望の手紙は受諾期限が過ぎていたであります!なのにどうして本部にかけあってまで…」
「今更説明が必要か?バディ」
キノシマの声は静かだった。責める調子でも叱っているのでもなかったが、トナカイはハッとして口を閉じる。
虎は振り返り、マンションの一室…クロマルの家のカーテンを改めて見つめた。
「サンタ協会集配規則第四条二項で設けられた手紙の受諾期限は、あくまでも、各サンタの行動開始時刻を設定するにあたり、
見切りをつけるために一定のラインとして用意された規則だ。あれは期限内に届いた手紙のみ有効とする旨を定めた条文じゃな
い。同条三項にも「ただし前項は期限を過ぎて到着した手紙の有効性を否定する物ではない」と定められてる。受領した手紙に
可能な限り応じる事は、何もおかしな事じゃない。それに、何より…」
一度言葉を切った虎サンタは、星が降りそうな空を見上げた。昔の事を思い出すように目を細くして。
「サンタクロースは行くんだよ。望んだ子供の所に」
言葉を紡ぎながらキノシマが思い浮かべるのは、子供の頃に出会った本物のサンタクロースの事。自分が暮らした屋敷の事。
一緒に過ごした血の繋がらないきょうだい達の事。実の孫のように育ててくれた祖父の事…。
「…そう。サンタクロースは来たんだ…。親が居なかった子供の所にも…。親に捨てられた子供の所にも…。親に望まれなかっ
た子供の所にも…。親に化け物と言われた子供の所にも…。親に…」
売られた子供の所にも。
「俺はそれを覚えてる。俺の所で止めるのは勿体ないほどの素晴らしい思い出を覚えてる。だから俺は、俺の所であの喜びを止
めたくない。その先に送りたい」
それは独り言に過ぎない。自分の意思を確認し、自分の内側を見つめて、キノシマは呟く。
その目が見つめているカーテンに重ねる光景は、祖父と、きょうだいと、子供の頃の自分がクリスマスケーキを囲んだ、ずっ
と昔のクリスマス…。
「今の子供達の、その先の、そのまた先の、ずっとずっと先にまで、俺達が感じたあの喜びが、新しい世代に送り届けられてい
くように…。それが、俺にできる恩送りだ」
キノシマはトナカイに向き直り、真っ直ぐに目を向けて言う。
「俺はサンタクロースだ。そしてお前はそのバディだ。そうだな?」
「イエス・サー!」
立ち上がって威勢良く応じたアオサキは、気を取り直したように大きく上下に首を振ると、「それで、目下の接触経路であり
ますが」と、数歩進んでキノシマの隣から向かいのマンションを眺める。
十階建てのマンションで、目標であるクロマルの部屋は八階。しかしその二つ上にあたる十階のベランダでは、チェアセット
を出した住人がクリスマスバーベキューをしている。
さらに、クロマルの部屋の三階下は、電飾でライトアップされている中央分離帯の街路樹を眺めるために、カーテンが開け放
たれている。向かい側のホテルの窓からはツリーのおかげで対面が見え難く、視線も引き付けられているが…。
「直接飛び込んだら物音で気付かれる怖れアリ。屋上からの懸垂下降は不可能。下から浮上するのも無理であります。水平方向
もカーテンを開けている部屋があったり、ベランダにホタル族が居たりで、駆け抜けようにもどのルートも良くないであります」
「そうだな。だが懸垂下降なら、やってやれなくもない」
「…んん…?何処からでありましょうか?」
ロープを使って降下できるラインを探すトナカイに、虎サンタは「上の階の部屋がフリーだ」と応じた。顎をしゃくった先…
クロマルの部屋の上に当たる部屋は、灯りがついていなかった。
「外食に出たのか、留守だ。あのベランダから降下する」
「いえいえ、その直上でパリピがバーベキューしているでありますよ?」
「そこはお前の腕の見せ所だ。水平方向は無理だが、斜めに降下する格好で走行、クロマルの部屋の上を通り抜けろ。俺はそっ
ちに飛び移ってからロープで降下、お前はそのまま進路方向へ一時離脱。その後、上空で旋回して同じコースで戻って来い。俺
が飛び移ってそのまま離脱だ」
「これは難度A級でありますよ…」
「先生だったらこの程度は笑い飛ばす」
キノシマの返答を聞いたアオサキの脳裏を過ぎったのは、ホッホッホゥ!と声高に笑う丸々とした老人のシルエット。その手
にはガラス切り。
「あの会長は手段を選ばないと申しますか状況によっては乱暴な手も厭わない方でありますからして…。ところで、ベランダの
手すりの強度は…」
トナカイが横目で虎サンタを窺った。モコモコの衣装を着てもなお、その腹の出っ張りや胸の厚さがはっきり判る体型である。
「確認済みだ。心配ない」
体重を心配するアオサキに、キノシマは淡々と応じた。
「何回もクロマルに呼ばれてお邪魔したからな、下見は一通り済んでる。間取りは中から確認してあるし、外の音がどれだけ聞
こえるかもチェックした。流石に直接飛び移るのは音も立ってリスクがデカいが、上から静かに侵入すれば気付かれずにやれる」
「流石フミ先輩!手練れの空巣のようでありますね!」
「人聞きの悪い…。もっと他に褒め方は無いのか?…番組が始まった。ノワちゃんも奥さんもアイツもしばらくリビングから動
かないだろう」
キノシマは腕時計で丁度七時になったのを確認すると、トナカイが曳いているソリの座席へ向かった。
そして、袋をまさぐってラッピングされた箱を取り出すと、ソリの座席下から大きなトランクを引っ張り出し、蓋を開ける。
その中に、緩衝材のスポンジにピタッと形を合わせて収められていたのは、様々な潜入方法をサポートするアイテムの数々。
ガラス切りや、チェーンも切断できる金属用鋏が並ぶ中、キノシマが取り出したのはフックつきのロープ。フックは金属をゴム
でコーティングしてある物で、ロープは針金が仕込まれており、強度を高めながらも痕を残し難い品である。
ソリに乗り込んだキノシマは、プレゼントを専用ネットで腰のベルトに固定し、腹の下に吊るすと、右手にフック付きロープ
を、左手に手綱を握る。
「ミッション・スタート」
「イエス・サー!」
トンと、トナカイは屋上の床を蹴ると、そのままソリを引いて、見えない坂道を登るように夜空へ駆け上がる。
「高度確認!侵入経路視界確保!滑走、いつでも行けるであります!」
マンションの屋上を20メートルほど下に見る高さまで上がると、アオサキはキノシマの指示を窺う。
「よし。滑走後、目標点通過時に30キロまで減速、その後再加速で離脱。良いな?」
「イエス・サー!」
「では…、滑走開始!」
「滑走開始!」
復唱したアオサキが、滑らかな弧を描いて旋回して進入角度を合わせるなり、まるで透明な坂道を下るような角度で降下を開
始した。
マンション前を通過するソリは、侵入速度時速70キロにも達する。マンション屋上向かって右端の角を掠めるような軌道で、
十階、九階、八階の高さに高度を下げ、住民に気付かれる可能性がある部屋を避け、まるで波打った雪面を走るように上下しな
がら駆け抜ける。
その振り落とされそうな上下動の中、虎サンタはソリ後部…座席の後ろの荷台に移動しており、縁を左手でしっかり掴んで、
進行方向と逆を向いて半身に構えている。その右手は、ロープを長めに持った鉤縄をヒュンヒュンと頭上で振り回していた。
「減速開始!目標まで5!4!3!」
速度を落としながら到達点までの時間を告げるアオサキ。顎を引いたキノシマは、「よし、行ってくる」と告げるなり、クロ
マル宅上階のベランダ前で、ソリ後部から後ろ向きに跳躍した。
要望通りに時速30キロまで減速したソリから虎サンタは後ろ向きに跳んでいるものの、その程度で相対速度は打ち消せない。
丸い体は駆け抜けるソリから置き去りにされたように空中に残りつつ、ベランダ前を通過してゆく。
その時だった。虎サンタがスイングしていた鉤縄を投擲したのは。
空を切って飛んだ鉤縄が、胸の高さまであるベランダの柵…目隠しアクリル板と鉄柱から成るそれの上端に引っかかった。
空中でスイングされる虎サンタは、あわやベランダ下の壁面に激突するかというその瞬間、姿勢を制御して靴裏を壁に合わせ、
太い脚を丁寧に折り曲げて衝撃緩和、見事飛び移りを成功させる。その股間の前では、ベルトから吊るしたプレゼントが太い両
脚に守られる格好で揺れている。
両手が塞がる状況を想定し、ベルトにプレゼントを吊り下げる場合、虎サンタは必ず前に吊るす。それは、万が一の時には抱
えて、プレゼントだけでも死守するため。
一度縁を乗り越えて上階のベランダに侵入したキノシマは、飛び去るトナカイとソリを確認し、フック付きロープをベランダ
の柵の根元に引っかけて降下準備を手早く済ませ、下階への侵入に取り掛かった。
丸々と肥え太った体つきだが、キノシマのシングルロープテクニックは卓越している。サンタクロースは侵入や潜伏技能の取
得のため、レンジャーのような訓練を受けさせられるのだが、この虎は特にロープを使った侵入技術に秀でており、「サンタ登
攀免許皆伝」の認定を受けているほどの腕前。なお、貰った賞状はおいそれと飾れないのでクローゼットにしまってある。
ロープを伝ってスルスルと階下に垂直降下し、音を立てないようクロマル宅のベランダに入り込んだ虎サンタは、灯りが消え
ている寝室側の窓の近くにそっとプレゼントを置く。
「メリークリスマス…」
小さく囁き、部屋の中の小さな女の子を祝福すると、虎サンタはベランダの柵から身を乗り出してロープに手を伸ばし…。
「!!!」
その厚い手が空を掴んだ。突然の強風がマンションの壁面を撫で、ロープが大きく揺れて遠ざかり、戻って来てベランダの柵
に当たる。
トォン…。
激しくはない音だったが、柵の支柱が中空なのも手伝い、その音はベランダに響いた。
素早く柵から身を躍らせる虎サンタ。揺れるロープを何とか捕まえ、大慌てでぶら下がったが、しかしそこへ再び強風が吹き、
振り子のように揺られてしまった。地上まで25メートル以上。下は歩道の硬い石畳。もしも落下したら床に落ちて皿がひっく
り返ったラザニアのようになってしまうが、この状況でも虎サンタは竦む事も怯む事もない。
振り落とされずに何とか揺れを堪え切ったキノシマは、大急ぎでよじ登る最中に、視界の下の端で確認した。ベランダの明る
さが増した事に。
物音に気付いてカーテンを開けたブチ猫が暗がりに目を凝らす。キノシマはその一瞬前に背中を丸めて下半身を引っ張り上げ、
足裏でロープを挟み、尻尾をピタッと体に寄せる形で上げ、ベランダ天井側の縁から死角になる位置に何とか隠れる事ができた。
背中に脂汗をかきながら息を潜める虎サンタは、下の方でカチャリと鍵が開く音を聞いた。
「タダ君、何かあった?」
「う~ん、何もないけど…。あれ?この匂い…わ!風つよっ!」
マンションに吹き付ける三度目の突風。寒さに溜まらず声を上げたクロマルは、「風で何か飛んできたのかも」と室内の妻を
振り返った。
(よしよし、その通りだ。何もないぞ…)
手すりまで出て来て見上げられたらアウト。さっと引き上げてくれる事を願うキノシマだったが…。
「パパ~、さむいよ~」
室内から舌足らずな女の子の声が聞こえ、ベランダのスリッパに片足を入れていたブチ猫が、「ああゴメンゴメン!」と急い
で引き返す。
窓が締まる音、鍵がかかる音に続き、ロープを掴んで揺れているキノシマが見下ろしたベランダは、カーテンが閉められて明
るさが一段落ちた。
(あ…、ありがとうノワちゃん…!助かった…!)
運が良かったとホッとしながら、上階のベランダによじ登った虎サンタは、上空で大きな弧を描いてから再降下してきたソリ
へと飛び移る。
「お疲れ様でありました!先輩!」
ソリを大きく揺らして乗り込んだキノシマへ、アオサキが上気した様子で声をかける。
「ミッションコンプリート…!やれやれ、肝を冷やした…」
「しかし見物でありました!」
「何処が…」
マンションの前を抜け、上空へ離脱してゆくソリの上で、座席に身を預けて溜息をついた虎サンタは…、
「先輩の焦る顔も余裕がない顔も追い詰められた顔も好きでありますから!こう、ゾクゾクするのであります!」
「お前のそういう所は本当にどうにかならないのか…」
トナカイのセリフを聞いてげんなりした。が、気を取り直すように手綱を握り、背筋をまっすぐにして座席に座り直す。
「もうじき降雪開始予定だ。まぶす程度の粉雪にするそうだが、視界は悪くなるぞ。急いで担当区域に戻る。常々言ってる自慢
の足を見せてみろ」
「はっ!しかしながら先輩、自分の足自慢は速さではないのであります!短距離ならばそこそこ自信があるので褒めて下さって
結構でありますが、むしろ褒めて欲しいのでありますが、長距離はそうでもないのであります!自分の自慢は脚力ではなく脚線
美であります!勘違いなさっておいででありましたか?」
「…確かに勘違いしていたが、割とがっくり来る真実だな…」
それから、ソリはサンタを乗せて聖夜の夜空へ駆け上がり、消えて行った。
午後十一時半。
そこから遠く離れた、雪深い栃樹の山間にある町。
長い石段を折り返し登った先に建つ、古くも立派で広い屋敷。
瓦が綿帽子を被ったその下を、ゴツ…、ゴツ…、と家主の足音がゆっくりと移動してゆく。
子供達も寝静まったせいでシンと静かで、キンと冷えた冬夜の空気が染み入る、長い廊下を歩むのは、紺色の作務衣に鶯色の
ドテラを羽織った、2メートル20センチはあろうかという巨躯の熊。でっぷりとした肥り肉で、加齢による緩みが見られる体。
色が褪せ、白い物もだいぶ混じり、蜂蜜色になった被毛。だいぶ歳を経た老熊である。
右脚は膝のすぐ下から失われており、一本の太い棒を義足にしているせいで、二歩に一歩だけ足音は硬くて大きな物になる。
そろそろだろうかと、白い息を吐きながら濡れ縁に出た老熊は、その顔を柔和な笑みで染めた。
老熊が用意した物ではないが、リボンとシールでデコレーションされた袋が三つ、縁側に並べて置かれていた。
老熊は庭を見遣る。
チラチラと、まばらに粉雪が舞い降りて星明りに煌めいていた。
雪が積もった上には足跡も無く、濃紺の空は澄んで星が降るよう。
何処かから鈴の音が、シャン、シャン、と微かに聞こえた気がする。
プレゼントを纏めて胸に抱え上げ、明日の朝喜ぶ子供達の顔を思い浮かべ、笑みを深くした老熊は、寒空を駆ける働き者達の
事を考えた。
今宵今頃あの孫も、どこぞの空を往くのだろう、と…。
聖夜が訪れる。
サンタクロースがやって来る。
あちこちの家へ、あちこちの子供へ、夜空を駆け回って聖夜の軌跡を届けて回る。
「先輩!家人が起き出した模様!ハリーハリー!ハリアップ!ああでも肉厚な腹が祟って鉄柵に詰まる先輩の何とも情けない表
情も焦り顔ももがく姿もゾクゾクするのであります!」
「判ってるから小声で話せ。あと手を貸せ。それとお前時々ナチュラルに邪悪だよな…」
届けるべき物を望まれた所へ、聖夜の魔法が切れる前に送り届けるために…。
街の中心部から少し外れるが、住宅地が近く店も多い、県道を挟んで賑わいがある区画…。その主要道たる県道沿いに、十五
階建てで三十世帯が入居する高層マンションがある。
柱のように細く見えるが、1フロアに二世帯、それぞれの床面積が広く取られたそのマンションのエレベーターから、最上階
で降りたのは太い虎。ダウンジャケットにトレーナー、綿パンというカジュアルな恰好のキノシマ。後ろに続くのは…、
「おー寒い寒い!廊下はいくらかマシでありますが!」
意図的に似せたダウンジャケットに、色は似ているがロゴが違うパーカー、同じ色の綿パンで、一方的なペアルック再現を頑
張ったアオサキである。
時刻はもうじき午前六時。外はまだ暗く、まだ住民も起き出していない時刻。虎はドアの鍵を開け、憩いの我が家に帰着する。
「フミ先輩ストーブストーブ!暖を取るでありますよ!」
くっついてきたアオサキに「判ってる」と言いながら、キノシマは玄関ホールの右手、曲がり角の方を見遣る。
「風呂も先に沸かしとくか…」
キノシマの住処であるこのマンションは、空間が広く取られて快適である。
玄関を入ると右側へL字に曲がった短いホールになっており、正面にはメインの居住空間であるリビングダイニングキッチン
がセットになった広間のドア。ホールを右手側に折れると、トイレと脱衣所と収納用の納戸のドアが並んでおり、リビング側に
はキッチンに直接入れるドアが設けられている。
三十畳ある長方形の広間は、入って右側四分の一ほどがカウンターで区切られ、ホームバーのような洒落たキッチンが特長。
ドアを潜ってすぐの位置は、壁に設置されたテレビを眺める形でソファーとローテーブルが設置されており、キッチンとの間
には食事もできる広いテーブルとチェアのセット。六人掛けのサイズで、椅子も人数分ある。
他の部屋も広間を中心に構成された間取りになっており、長い辺にはドアが三つある。
右奥がベッドルームで、真ん中はキノシマにとっては無いと落ち着かない憩いの部屋…ゴロゴロして過ごす畳敷きの和室。左
奥は寝室と同じ間取りの洋室になっているが、ここは来客を泊めたりするためのゲストルームで、普段は使っていない。これら
三部屋はそれぞれ十畳間で、押し入れかクローゼットがついている。
納戸の収納力は高く、脱衣場も広く、風呂場の洗い場も広く、湯船も広い。
天井も高いので解放感があるこのマンションは、祖父が家族を連れて訪ねてきた時にも不自由させない事を条件に探し回った
物件。ラッキーナンバーに拘って購入したこの最上階の部屋は、値は張ったがお気に入りの住居である。
なお、アオサキが極々自然に上がり込んでいるが、別に同棲している訳ではなく、キノシマは一人暮らしである。今日も勝手
についてきただけ。
壁の空調パネルを操作し、ダイニングの石油ファンヒーターをつけ、急いで部屋を暖めるキノシマは、キッチンのカウンター
に移動して電気ポットのスイッチを入れると…。
「おいやめろ。もうコロンの匂いも薄くなってるし、汗もかいた」
マラミュートに後ろからのしっと密着されて顔を顰めた。後ろから抱き着いたアオサキは、キノシマの首に鼻先を寄せてスン
スン匂いを嗅いでいる。
「それが良いのであります!フレッシュに香しい汗の匂いは御馳走であります!」
後ろから引っ付いているアオサキだが、それだけではない。その両手はキノシマの脇の下から膨れた脇腹を横切って前に回り、
トレーナーの裾の中に潜り込み、肌着の内側に侵入している。そして…。
「は~…!かじかんでいた手が温まるであります!」
マラミュートの手は虎の腹…その段差がついた下に潜り込んで、タプタプの土手肉を下から掴んでいる。
「俺は冷たい。寒いならファンヒーターにでも当たれ」
当たり前に渋い顔をしているキノシマの腹を、ユスッユスッと持ち上げるように揺さぶって弾ませるアオサキ。しかし邪魔な
スキンシップにも慣れた物で、虎は面倒くさそうな顔をしながらも、カップを二つ用意して、一杯分ずつ小分けにされているド
リップコーヒーを引き出しから取り出すなど、コーヒーの支度を滞りなく進めてゆく。
湯が沸くのを待つ間、キノシマはカウンター前に立ったまま、しかしアオサキを追い払わない。それを良い事に、マラミュー
トは虎の丸く突き出ている腹の曲面を、後ろから抱え込むようにしてサスサスと撫でていた。やがて、その手はそのまま上にス
ライドしてゆき…。
「こら…」
コーヒーの支度の邪魔をされていた時よりも渋い顔になる虎。アオサキの手は腹を上まで撫でると、たっぷりした胸を軽く掴
んで揉み始めている。かじかんでいると述べる割には変幻自在に嫌らしい。
「はぁ~…!あったまるであります!」
「それは良かったな。俺は腹が冷える。やめろ」
胸元でモコモコ動く衣服の下の手が邪魔で仕方ない上に、胸の所まで肌着とトレーナーが捲れて丸出しの腹が寒いキノシマは、
湯が沸くと…。
「そのまま続けると、これから手元が狂って熱湯をかける事になる。いいか?」
警告されたマラミュートの手がササッと胸から離れた。が、胸を揉むのを止めただけで、最初のポジション…下っ腹に添える
位置に戻っただけである。
「う~ん…。いい香りであります!」
ドリップコーヒーに湯をゆっくり、少量ずつ注いで、二杯分用意するキノシマの肩に顎を乗せたまま、アオサキは立ち昇って
来る香りを嗅ぐ。嗅ぎながらも虎の下っ腹を揉む指の動きはそのままだが。
程無く、蒸らし方に気をつけながらコーヒーを淹れ終えたキノシマは、片方のカップにスティックシュガーを三本入れ、もう
片方はそのままで手に取ると、「ほら行くぞ」と促してリビングのソファーへ。アオサキも「イエス・サー!」と威勢よく応じ
つつ、二人羽織のような状態でくっついてゆく。
テレビをつけ、ソファーに腰掛け、コーヒーを吹いて冷まし、ズズッと啜った虎は、ようやく人心地ついて深く息を吐いた。
その横で、べったりくっついたままのマラミュートも、耳を倒して尻尾をブンブン振りながら甘いコーヒーを啜る。
「年に一度の大仕事も終了でありますね!」
「そうだな」
「ここからは自分達へのご褒美であります!」
ウキウキしながらキノシマにしなだれかかるアオサキ。
「そうだな、のんびり楽しめ」
他人事のような虎。マラミュートは「朝食は何が良いでありますかね!?」とご機嫌なまま尋ねたが…。
「そうだな。疲れがとれるような物を食べるといい。俺は途中でコンビニ弁当でも買って行く」
「………」
怪訝な顔をするアオサキ。
「…はい?」
深く首を傾げるアオサキ。
「何ででありますかぁああああっ!?」
立って絶叫するアオサキ。
「何でって…、仕事だからだろ」
キノシマは何を言っているんだという顔。
「クリスマス休暇は!?」
詰め寄るアオサキに、
「俺は玩具屋だ。そんな物は無い」
当然だと応じるキノシマ。
「社畜でありますかフミ先輩は!?」
「好きで仕事してんだ。ほっとけ」
「聖夜は駄目でもクリスマスは休暇を取って一緒に過ごすと約束したでありましょう!?」
していない。
「してないだろ」
していなかった。
「してないでありますが勢いでイケるかとちょっと思ったのであります!やはり駄目でありましたかチクショウっ!」
正直過ぎる駄犬である。
「しかしでありますよ!?クリスマスの家族サービスは不文律の掟でありましょう!?」
「家族サービスならお前は対象外だろ?」
「無情なカスタマー回答ーっ!」
「とりあえず、俺はシャワー浴びたら仮眠取るからな。お前はコーヒー飲んだら帰るか、少し寝てから帰るか、好きにしろ」
「どっちにしろ帰れとおっしゃるー!」
頭を抱えて仰け反ったマラミュートは、「もうっ!いいでありますよーだっ!」とムクれた。
「自分は休暇をとっているでありますから、ここでフミ先輩の帰りを待つであります!そして夕食こそは一緒に摂るのでありま
す!フミ先輩が大好きなラザニアなど食べに出掛けるでありますよ!勿論その後は…」
「ああ、今夜は遅くなるから無理だ」
「何故でありますかー!?」
「商品開発部との打ち合わせが五時からだが、新商品の紹介とリリース案も含まれてて、確実に長引く内容だからな。その後は
帰りに灰口(はいぐち)とラーメン食って来る。美味い店教えて貰う約束してたしな」
「むぎー!またあの垂れ耳兎はーっ!」
地団駄するアオサキは、「じゃあ風呂行ってくる」と、コーヒーを飲み終えて腰を上げたキノシマを無言で見送り…。
「………今なら、なし崩しにイケるであります!」
裸になって浴室に入った頃を見計らって、そろっと腰を上げた。そして…。
「あっ!こら、お前!今朝は駄目って…、おい!」
浴室から、キノシマの籠った声が聞こえてきた。
…結局この後、虎は仮眠もできないまま出社する事になり…。
「ふあ…」
目を瞑り、大口を開け、猫のような顔で大あくびした部長補佐を見て、茶を淹れに来たブチ猫は「おや」と尻尾を立てた。
「お疲れですか?」
企画部の湯沸かし室。クロマルが見たのはコーヒーを淹れているキノシマの迫力満点なあくび。この隙が無い上司にしては珍
しいせいか、無防備さが何処か可愛いと感じられた。
「まぁ、な…」
心無しか瞼が重そうな虎は、壁に背中をつけて場所を譲りつつ、思い出したように部下を見遣る。
「で、クリスマスパーティーはどうだったんだ?ノワちゃんケーキ喜んでくれたか?」
「あ」
クロマルが小さく声を漏らす。
今朝、妻がベランダに出た時に見つけた、クリスマスプレゼントの事を思い浮かべて。
中身は娘が望んだ魔法のステッキだった。手紙の内容からすれば「サンタクロースからのプレゼント」という事らしい。
「あの、補佐…?」
「ん?」
眠そうな目を向けて来る虎に、ブチ猫は、あれは貴方が用意してくれたのかと訊こうとした。娘が欲しがっている物が何なの
か、キノシマには話していたから。しかし…。
「何だクロマル?」
「いえ、その…。喜んでました、すごく!美味しかったです!ご馳走様でした!」
ブチ猫は微苦笑して、結局は質問ではなく、虎からの問いへの返事を口にした。
(補佐からはノワへのプレゼントにケーキ貰ってるし…、そもそも補佐なら僕に直接渡すだろうしね…)
「そうか…。良かったな…」
目を細めて微笑んで、キノシマは「ふあ…」とまた欠伸を漏らした。
「大丈夫ですか補佐?昨夜何してたんです?」
「ふぇ」
欠伸を飲み下す途中だったせいで妙な声を発した虎は、「ああ、あれ…。ちょっと体を動かしにな…」と曖昧に返す。
「体を…。ジムとかで運動ですか?」
少し体重を気にしていたらしい上司だが、いよいよ減量に着手したのかと、ブチ猫は出っ張った虎の腹を見遣る。今日もワイ
シャツの生地が窮屈そうに張っていた。
「まあそんな所だ」
「ああ!それでアオサキさんと一緒の約束だったんですね?鍛えてるでしょうしね、アオサキさん」
「そうだな」
「僕も体力作りに少し運動した方が良いかな…。今度一緒させて貰っても良いですか?」
コーヒーにゆっくり湯を注ぎながら、キノシマは「…機会があったらな…」と微妙な返事。アラスカンマラミュートが毛嫌い
する一方で、あれだけ露骨に刺々しくされても、ブチ猫は彼を避けようとしない。
「さて、仕事仕事…。営業部にも顔出しに行かなきゃな」
酷使したせいであちこち痛む、普段にも増して重たい体を引き摺るように、キノシマはコーヒー片手にデスクへ戻る。
ブチ猫は「お疲れ様です」と見送って、虎が残したコロンの残り香に鼻を少しひくつかせ、何か引っかかったような気がして
首を捻る。
(何だっけ?今何か思い出しかけたような…)
しかし結局、クロマルは思い出せなかった。
昨夜、物音が気になって出たベランダで、風が吹き付けてくる前。一瞬だったが、オレンジジュースのような匂いを嗅いだ気
がした事は…。
…なお、クロマルが見失った会議用資料のデータは、何かの拍子に課内PCの違うドライブにドラッグ&ドロップしてしまっ
ていたようで、二ヶ月ほど後になって二課の課長が発見する事となる。
この時は流石のキノシマも呆れると同時に脱力し、埋め合わせに昼食を奢らせた。