聖夜の忘れ者
「君は、サンタクロースがどんな物か判ってるか?」
尖った耳が印象的なスーツ姿の日本スピッツは、そう問われて、「はい?」と目を丸くした。
年末迫る12月24日、午後五時。某大手玩具メーカーの企画部。
今日は残業する者なども他になく、資料纏めのために部長補佐が独りで残っていた所へ、真っ白なスピッツが来ているだけ。
広い部屋は天井の照明が大部分落とされており、部長席周辺と、二つの人影が向き合う応接セット近辺だけが明るい。空調の
音と、稼動している機器類の放熱フィンの小さな音が、束の間訪れた沈黙を埋める。
「えーと…。どんなものかって言われると…。願い事聞き届けてくれるふくよかで優しいお爺さんですかね!?」
白いスピッツはモコモコの毛並みのおかげでボリューミーに見えるが、中身はだいぶ小柄で華奢。クリクリした黒目が愛らし
い童顔の若者で、今年大学を出たばかりのフレッシュマンである。
スピッツの分と自分の分、二杯分のコーヒーを手ずから入れて持て成している相手は、三十代半ばの虎。企画部で部長補佐を
務めるこの男は、虎獣人としては中背で175センチちょっと。ただし丸々肥えていて体積で言えばスピッツの二倍半はある。
厳つい顔に何を考えているのか判り難い据わった目をしている虎は、オレンジジュースのようなコロンの香りを漂わせる手を
カップに伸ばし、軽くため息をついた。スピッツの回答に若干呆れた様子である。
「良い子にプレゼントを配って回るサンタクロース…。その性質上、近代じゃ「望んだ富を与える」だの「夢を叶える」だの曲
解されがちだがな…、いいか?違うぞそれは。サンタクロースを拝んでも、必勝祈願にはならない。むしろそれは別の聖人の受
け持ちだろう」
「えっ!?嘘!?」
スピッツは驚いて耳を立てる。
部長補佐の肥った虎は、他所の部署の新人に丸顔を真っ直ぐ向けたまま続けた。
「…その反応で俺の方がビックリだ…」
薄く初雪が積もった12月半ば。世間はクリスマスムード一色に染まり、街角には常にクリスマスソングが流れている。
そんな景色の中、壁面全体が飾り付けられ、ひときわキラキラ輝いている十五階建てのビルがある。
やたらと壁面積が広某玩具メーカー本社ビルは、かなり遠くからでも壁面に施されたツリーを象る電飾アートが目立つので、
このドレスアップは夜になると遠景で撮影する者も多い冬の風物詩になっていた。
そのビルへ、セカセカと足早に向かうのはひとりの若者。去年は就職戦線で奮闘していてクリスマスの雰囲気も味わえなかっ
たなと、スピッツは思う。
この大手玩具メーカーという一流企業の一員になれたのは、本当に運が良かったと、ビルの威容を見上げながら何度も考える。
ここには企業そのものの魅力だけではなく、個人的にもっと重要な事もあった。
(商品が並ぶお店の棚を見ると、凄い所に就職したんだなって、改めて感じる…。それに、ここだからこそ一緒に仕事が…)
若者の名は白木春日(しろきはるひ)。大学を出てまだ一年経っていない、この大企業で働くフレッシュマン。
背丈がやや低く、フカフカの毛のせいでボリュームがあるフォルムなので、成人しているにも関わらず子供のように可愛らし
い、パッと見ると高校生辺りに見えてしまう童顔青年である。
「どうしたシロキ君?ボーっと突っ立って」
出勤する社員達に追い抜かれながら無意識に立ち止まっていたスピッツは、後ろからかけられた声で振り向く。
「あ、キノシマ補佐!おはようございます!」
少し後ろから歩いてきたのは、恰幅が良い虎の男。三十代にして既に重役の貫禄がある企画部長補佐である。据わった目と強
面、朴訥な物言いと低い声のせいで、所見では話しかけ辛い印象があるものの、シロキはもうすっかり慣れていた。
「おはよう。何か悩み事か?」
「いえ!凄い所に入社したんだなって、ビル見上げて改めて思ってました!頑張らなきゃです!ふんす!」
グッと口を引き結び、両拳を胸の前でギュッと握り締めるスピッツを見下ろす虎の目が、ほんの少しだけ細められた。
虎の名は黄之嶋文彦(きのしまふみひこ)。三十四歳独身、社内最年少で企画部長補佐のポストに就けられた敏腕管理職。商
品開発部のシロキとは部署が違うのだが、新人研修の際には講師になったり、商品開発部の先輩を訪ねて来たりしているので、
それなりに知った仲になっていた。
「ああ。ここは俺達の戦場で、子供達の夢工場。見上げて気合いを入れ直すのは良い事だ」
虎が「その意気だ」と付け加えながら歩き出し、スピッツも並んで歩みを再開する。
「もうじき春の新年度商戦用の商品発表だな。君も案を出したんだろう?」
「はい!」
「自信はどうだ。通りそうか?」
「解りませんけど、今思いつく中で一番の案です!」
勢いがあるスピッツの返答に虎の目が再び細まって、微かな笑みを目尻に刻んだ。少々うっかり者だが、ハキハキしていて前
向きなシロキと話していると、元気が取柄だった「弟」の狐を思い出す。
「部内ミーティングを突破して候補に残っても、口頭説明で部長達を納得させられなきゃ保留…悪くすればお蔵入りだ。プレッ
シャーをかけたい訳じゃないが、打てる手は全部打って説明会に備えておくんだぞ」
「はい!頑張ります!」
そんなやり取りをしながら二人がビルの社員用出入り口に近付くと…。
「おはようございますフミ先輩!」
社員通用口に立ったボディビルダーのようなムキムキアラスカンマラミュート警備員が、キノシマに「だけ」挨拶した。
マラミュートはキノシマと比べても少し背が高く、肩幅があり胸も分厚い大男。マッチョな体形は制服の上からでもはっきり
判る。しかしピシッとした敬礼ポーズとは裏腹に、尻では尾が激しくブンブン振られている。
「ああ、おはよう」
「アオサキさんおはようございます!」
キノシマに続いてシロキが元気に挨拶をしたが…、
「ツーン」
マラミュート…蒼崎仁弥(あおさきじんや)は判り易く無視して、キノシマに話しかける。
「今夜は定時で上がれそうでありますか!?」
「いや、忙しい」
そっけない返事と共に、大学時代からの後輩の脇をさっさと抜ける虎。耳と尾をヘナッと下げてガッカリするマラミュート。
ふたりを不思議そうに見比べながらキノシマの後に続いて中に入るスピッツ。
「夜に遊ぶ約束とかしたかったんでしょうか?」
「…さぁ、どうだろうな」
遊ぶ約束、という表現にやや深読みを働かせかけたキノシマだったが、今どきの若者はそんな迂遠な言い回しはしないだろう
と思い直して返答する。
「そんな事より、今日も一日頑張るぞ」
「はい!」
性格はどこまでも素直で根が単純なので、シロキという若者はキノシマにとって非常に扱い易い相手である。はぐらかすよう
に話の方向を変えられた事にも気付かず、スピッツはふんすふんすと社内へ進んで行った。
「ええ、はい。はい。ご心配なく、対応は任せて下さい」
数分後、企画部の部長補佐席に座ったキノシマは、電話交換手から回された電話を受けながら、空席になっている部長デスク
を見遣った。
「看病大丈夫ですか?奥さんからも頼まれていますから、独りで難しい事があるなら…、はぁ、判りました。何かあれば遠慮な
く。はい。では、お大事に…」
キノシマのデスク周りには、数名の同僚が困り顔で寄って来ていた。「インフルエンザ」というキノシマが発した言葉に反応
して事情を察したらしい。
「察しは付いたようだが…、そうだな。周知しよう」
キノシマはガリガリと後頭部を掻きながら立ち上がると、自分に全員の視線が向いている事を確認して口を開いた。
「部長がインフルエンザにかかった」
『えー!?』
室内がざわめき始める。年末のこの時期、クリスマス商戦の動向監視や、お年玉狙いで年始に売り出す商品の広告調整、新年
度一番の春商戦に向けた打ち合わせや準備諸々など、社内各所の調整役も兼ねる企画部は大忙し。企画部のトップであるポメラ
ニアン部長が抜けるのは、単純な人手の減に留まらない戦力的大ダメージである。
「本人も言っていたが見舞いは不要だ。むしろうつる事を心配していた。…現時点で体調不良を感じているメンバーは居るかな?
遠慮せず挙手」
しばし待って、誰も手を上げない事を確認すると、キノシマは頷いた。
「今は大丈夫か…。だが潜伏期間もある、もう貰っている可能性はゼロではない。少しでも調子が悪いと思ったらすぐに言って
くれ。人手の減は避けたいし、何よりインフルエンザは舐めてかかると…死ぬ。死亡率の話以外にも、年末正月大連休が死ぬ。
家族や恋人サービスのためにも早めに手を打つ必要がある。みんな、注意を怠らないように」
『はい!』
返事が一斉に返って来ると、「一課二課、それぞれ課長と各班長、少し打ち合わせをしたいのでこっちに」と、キノシマはソ
ファーセットに移動した。部長の補佐役である虎は、不在時の代行役も務める。予定を再確認し、自分の物に加えて部長の仕事
も同時進行で対応しなければならない。
「午後の会議は代理で出る事になるので、今日中に部内決裁が必要な物は午前中までに…」
「明日の打ち合わせが被っているな…。他部との協議を優先するので、小池課長、申し訳ないが営業二課とのスケジュール詰め
には一人で出席して貰いますが…」
「営業部長との工場慰問は外せないな…。企画部として毎年年末の挨拶に伺ってきたし、何より向こうも差し入れを楽しみにし
てくれている…」
結局のところ、カットできる予定は殆ど無い。減員できる部分はその方向で調整するが、キノシマが一番ハードスケジュール
になる。午前中は調整の打ち合わせと代理決裁であっと言う間にすぎてゆく。
が、相当なトラブルであるこの事態でも、企画部の空気はさほど乱れていなかった。
「田林君。企画説明の資料13ページ、グラフのAとBが入れ替わっているようだ。提出までに修正しておいてくれ」
「狸小路(たぬきこうじ)営業部長から確認?わかった、こっちで対応するからそのまま電話を回して」
テキパキとこなすキノシマは、まるでそれがいつも通りであるかのように滞りなく案件を捌いてゆく。最年少で部長補佐に抜
擢された、評価に違わぬ敏腕ぶりをいかんなく発揮している虎は…。
「補佐。コーヒータイムじゃないですか?」
「ん?」
回って来た書類を仔細に、しかしハイスピードで確認していた目を上げ、デスク前に立ったブチ猫を見遣る。
頭の両側の大きな丸い黒ブチが特徴のハチワレ猫の手には、湯気立つコーヒーが入ったカップ。
「お茶ついでの思い出しで申し訳ないですが…」
「ああ。有り難う、いただく」
黒丸忠芳(くろまるただよし)。頭部のブチが左右均等で綺麗なハチワレ模様になっているスーツ姿の猫は、集中していたキ
ノシマを気遣って「手伝える事、回してくださいね」と声がけした。
「会議の代理とかはともかく、机仕事やデータ整理、書類作りは指示して貰えれば…」
「助かる。頼める所は甘えさせて貰おう」
「必要でしたら残業も付き合いますから」
「それは要らない。必要なのはお前の家族サービスだ。…ん、美味いな」
熱いコーヒーを一口啜り、香りを楽しんだキノシマに褒められると、クロマルは目を細めて「どうも」と笑う。この虎にコー
ヒーを淹れて褒められるのはなかなかに嬉しい。
「おっと、忘れる所だった。休憩がてら灰口に連絡を…」
不意に思い出したキノシマが社内電話の受話器を取り、「商品開発部ですか?打ち合わせか何かの件で…」と軽い気持ちで訊
いたキノシマは…。
「いや、ランチの約束をしていたが、予定返上と…」
「いやいやいや!行ってくださいね昼ごはんは!?」
短縮ダイヤルをプッシュしようとするキノシマを慌てて制止するクロマル。
「昼食時間分の仕事短縮なら手伝いますから!それに、灰口さんは補佐に誘われでもしないとカップ麺で済ますでしょう!?一
緒してあげて下さい!そうでなくとも…」
「なくとも?」
「補佐はたくさん食べるんですから、昼を抜いたら会議中に腹の虫が鳴いたりする恐れが…」
「心配の方向性がかなりアレだぞ」
と応じはしたものの、軽く苦笑いした虎は「判った。昼食は予定通り摂って来る」とクロマルに約束した。
そして、昼時…。
「で、昼休憩に出さしてもろたんか。できた部下おるんやな」
「単純に優秀というよりも、良い奴だ」
昼食時で込み合う人気のラーメン店のカウンターで、大きな体を窮屈そうに前屈みにし、椅子から広い尻をはみ出させて座っ
ている虎が軽く目を閉じる。
「キノシマの人徳やろな」
「どうかな。この通りの性格だぞ」
「その性格でも、気は回せるし付き合えるやろ。部下はそこについて来るんやで」
キノシマの隣に座っているのはフレンチロップイヤー、垂れ耳の兎である。暗い色調の濃い灰色…いわゆるジャーマングレー
やらファントムグレーやら呼ばれるような毛色の男だが、最も特徴的なのはその図体…兎らしからぬ体型体格である。
デップリ肥えたボリュームのある肥満体。それだけならば大型縫いぐるみのような愛らしさも見いだせよう物だが、何せ顔つ
きが可愛くない。上の瞼が水平に真っ直ぐの半眼で、呆れているようにも眠気と戦っているようにも見える、キノシマとはまた
別の意味合いで愛想の無い顔と言えた。声質も低くて重く、口調と相まって電話番には向かない。
仕事中なのが判るスーツ姿のキノシマに対し、兎の方はモスグリーンの迷彩柄トレーナーと、あちこちに薄く汚れが見られる
ベージュ色のチノパンという格好。衣類の汚れはカップメンの汁跳ねや揚げ菓子の油が付着した物である。
ロップイヤーの名は灰口年一(かいぐちとしかず)。商品開発部の部門リーダー…つまり係長の一人。キノシマとは同い年で
同年採用の長い付き合い。同期の出世頭である虎とは肩書きで差がついてしまっているが、お互いに役職や立場で物を語る性格
ではないので、入社以来ずっとため口で飾らない付き合いが続いている。
そもそもカイグチは、商品開発の最前線で陣頭指揮を取り、自らも新商品を発案する今の立場を気に入っているので、変に出
世して現場から離れたくないという本音もある。人事の方でもその気持ちと実際の成果を汲んで、ポジションを長年維持させて
いるのが実情だった。
もっとも、人事担当者達も言いたい事はある。根っからの職人気質で開発に熱を上げるカイグチは、仕事に夢中になるとビル
から一歩も出ず何日も籠り、着の身着のまま会社に寝泊まりする事も多い。部外者と接する事も無いので中では私服で過ごして
おり、忙しい時にはまるで会社のロッカールームに住んでいるような生活を送る。「寝とるし食うとるし過労死はせえへんで」
と本人は言うが、インスタント食品と揚げ菓子で大量にカロリー摂取を続ける食生活があまりにも不健康過ぎるので、コレステ
ロールや血圧を筆頭に数値とか色々心配されている。
この件に関しては、ひとの事をとやかく言えないワーカーホリックのキノシマが、どんな苦言を口にした所で説得力は皆無。
忠告が通った試しは無い。
カイグチお気に入りのこのラーメン屋は地元で評判の人気店なので、昼食時は客の雑談の声で店内は相当賑やかである。カウ
ンターの端で隣り合う大男二人の声は、声質は低いし大きくもないのだが、距離が近いので会話は苦にならない。
「できた部下といえば、お前の所にはシロキ君が居るじゃないか。お前を随分慕っているだろう?」
そう、キノシマが今朝も会った元気なスピッツの顔を思い浮かべながら指摘すると、
「アレは…どうやろな」
カイグチは軽く顔を顰めた。無表情ですら不愛想なふくれっ面を思わせる顔立ちなので、少し顔を顰めただけで非常に不機嫌
そうに見えてしまう。
「違うのか?」
「優秀なんは否定せんわ。否定せんけど…」
やがて、千切りネギ山盛りの上におろしニンニクが雪のように積もった味噌バターチャーシューがカイグチの前に、昔ながら
の淡白な醤油ラーメンのモヤシとチャーシュー大盛りのスペシャルトッピングがキノシマの前に出されると、ふたりは会話を中
断し、どんぶりから昇る湯気に顔を突っ込むようにしてズゾズゾと音を立て、それぞれの大盛りラーメンを堪能する。
「…仕事ぶりには問題無いが、別の所で問題がある、と?」
ある程箸が進んだ所で、暑くなって来たキノシマが水を口に運びながらそう言うと、
「…アイツは、いっぺん痛い目みとくべきや」
カイグチはぶっきらぼうに、ラーメンを啜る合間に小声で吐き捨てた。
これを聞いたキノシマは軽く眉を上げたが、それ以上何も言わずにレンゲを取り、スープを啜った。
そして、ふたりが警備員のマラミュートから文句を言われながらビルに戻り、キノシマが嵐のようなスケジュールをこなして
いる午後、商品開発部では…。
「じゃ、ウチの係からはワイの案と…」
商品開発案を出し合った部下六名の顔を見回し、カイグチはスピッツに目を止める。
「シロキの案を会議に上げる。ええか?」
『はい』
係のメンバーが同意を示すと、スピッツはテーブルの下でグッと拳を握った。
(やった!)
今回の商品案提出は、三つある係が新商品のアイディアを出し合い、社内会議にかける。四月からの年度切り替わりに合わせ
て広告を打つ、新年度初頭で一番大きな動きとなるので、案が通れば大金星。入社初年度の新人が、このタイミングで通る企画
を出せた試しは殆どない。そもそも係内の打ち合わせで選考に残るのも珍しい。
(もし、これで企画が通ったら…!)
シロキは係長の様子を窺う。カイグチは書類を再確認して、今回は係内選考から漏れてしまったメンバーのアイディアについ
て、具体的な修正案を口頭で伝えている。
流石だなぁと、スピッツは感嘆した。
カイグチ本人の開発案も流石なら、企画が通らなかった案への改善策をすぐさま具体的に提示できるのも流石。シロキには「
ちょっとパンチ弱いかも」とか、「インパクトはあるけど今一つ華が無い」とか、印象レベルでしか良し悪しを論じられない物
に対し、明確にスポットを当てて判り易く問題を提示し、ではどうすれば良くなるかという方向性もアドバイスしている。
(ちょっとは追いつけるかな…!認めて貰えるかな…!)
尻尾を振るシロキ。目標は高く、大きく、まだまだ遠く、しかし一緒に企画が通れば、少しは近付いているのではないかとも
思えて…。
「…あれ?係長、帰らないんですか?」
その夜、定時を過ぎて人も減った開発部のオフィスで、まだピカピカのハンドバッグを持って帰り支度を終えたシロキは、帰
る気配が見られないロップイヤーに訊ねた。
カイグチはお湯を注いだカップ麺を手にして自分のデスクに向かう途中である。一応仕事は区切りがつき、あとは会議にかけ
るだけのはずなので、残ってするような仕事があるのだろうかと、シロキは疑問に思う。
「まぁな」
ぶっきらぼうに応じ、椅子を軋ませ腰を下ろしたウサギに、スピッツは「あの!」と歩み寄った。
「残業なら、もし手伝える事とかあれば…」
「いや、ええ」
ニンジンが秒針になっているキッチンタイマーをセットしながら短く応じたカイグチは、シロキが三歩離れた位置に留まって
いるのに気付くと、トレーナーの裾の下から手を突っ込んで出っ腹をボリボリ掻きながら「残業やない。アンタは帰ってええで」
と顔を顰めながら応じた。
「え?残業じゃないなら何で…」
キョトンとしているシロキに、カイグチは面倒くさそうにため息をついた。
「疲れたから帰るの億劫なんや。今日はここで寝とくわ」
「え?それじゃあお風呂は…」
「二日三日入らんでも死んだりせんわ」
大多数の者が距離を取りそうな発言を堂々とするカイグチ。時折胸やら腹やら掻いているのは、体を洗っていないが故の痒み
による物なのだが、本人は全く気にしていない。
「ワイの事はええから、アンタは帰って休んどき」
追い払うようにシッシッと手を払ったロップイヤーに…、
「ダメですよ!」
スピッツがずいっと距離を詰めた。
「疲れた時はお風呂!面倒でもお風呂と御飯は体力の貯金になるから、疲れてる時ほど抜かしちゃダメ!…って、前に付き合っ
てた子が言ってました!」
「…お、おう。さよか…」
顔が近い部下に、やや面食らった様子で応じたカイグチは、
「じゃあ、カップラーメン食べたら帰りましょう!そうだ!途中でスパに寄って帰れば、お風呂沸かさなくても良いですし、疲
れもきっと取れます!」
「…別にええて、そこまでは…」
「ダメです!会議近いんですから今体調崩したら大変です!」
食いついて離れない、意外と押しが強いスピッツ。最初は適当にあしらおうとしていたロップイヤーだったが、あまりにしつ
こく食い下がられて…。
「ここです!大学の時から友達とかと来てるスパ!」
スピッツがハキハキと、高いビルを指さしながらロップイヤーを振り返る。
「…さよか…」
結局折れたカイグチが、ジャンバーのポケットに手を突っ込んだまま、ブスッとした顔で応じる。
「泡がボコボコ出るお風呂とか!ジェットでボーッて出るお風呂とか!サウナとか!色々あるんです!久しぶりだなー!えーと、
前に来たのいつだったっけ?たぶん二週間ぶりぐらいだー!」
「…さよか…」
尻尾をブンブン振っているスピッツは、その童顔もあいまって、はしゃいでいる中学生か高校生くらいに見える。対してカイ
グチは…。
(アカンて…。こないなシャレた銭湯、場違いも甚だしいわ…)
若人向けの小奇麗でお洒落なスパの案内板を前に、もう帰りたくなっている。
だが、タオルがないと言えば売っていると返され、あまり金をかけたくないと言えば入浴料もタオルも安いと返され、さらに
渋れば奢りますと言われる始末。もはや退却の言い訳は尽きてしまった。
さっさと入ってゆき、立ち止まりながら振り返って、ついて来ているか確認するシロキの笑顔が目に痛い。
溜息をついて渋々ついてゆき、エレベーターに乗り込む。途中で乗り合わせた親子連れは、ロップイヤーの体臭が気になった
のか、怪訝な顔で空気を嗅いでいた。
「入浴ふたりでお願いします!」
手慣れた様子のシロキが受付カウンターで手続きをする間に、カイグチはフロアを見回した。
20階建ての商業ビル。スーパーや食事処、専門店などのテナントが入り、若者や家族連れに人気のスポット。その最上階が
リラクゼーションスパになっていた。玩具売り場の視察を除けば会社と自宅の往復だけで生活しているカイグチにはこれまで縁
が無かった施設である。
フロア内はエリア分けされており、大浴場やサウナ、趣向を凝らしたアトラクションのような風呂がひしめく主役エリアの他、
マッサージを受けられるリラクゼーションコーナー、飲食物が提供される軽食コーナー、テレビつきのベッドチェアで休めて宿
泊もできる休憩スペース、さらに漫画本が詰め込まれた娯楽スペースまである。
「係長!はいこれタオルです!」
「おおきに…」
受付を終えたシロキに、カイグチは千円札を二枚突き出した。
「あ、僕が出しますよ!誘ったの僕だし…」
「部下に奢らすほど甲斐性なしやないで?ワイの顔立てると思うて、大人しく取っとき」
そう言って押し付けるように代金を渡したロップイヤーは、「洒落たトコやな」と呟く。
「でしょう!僕も気に入っているんです!キラキラしてて、ここに来ると自分もオシャレになれた気がして!サッパリして気持
ち良くなれますし、気分も一新できますから!」
「…さよか」
当たり障りのない感想を口にしただけのロップイヤーに、嬉しそうに返事をするスピッツ。
「ロッカールームはあっちです!」
案内されるカイグチは、勝手が判らないのでシロキに任せてついてゆく。
ロッカーに荷物類を入れる間に、シロキは何となしにカイグチを見遣った。荷物が少ないウサギは、ジャンバーもトレーナー
もズボンも、脱いだ傍から雑にロッカーへ詰め込んでゆく。
仕事はできるが無頓着過ぎる、と課長達がカイグチについて話していたのを、シロキは思い出した。
(でも、そういうのも係長らしいって気がする!)
「なんや?脱がへんのか?」
手が止まっていたスピッツは、裸になったロップイヤーに言われて我に返り、急いで支度を整える。
(おっきいなぁ、係長の体!)
やや小さめのシロキからすると、カイグチはかなりの大男に見える。身長はやや高い程度だが、肉がたっぷりついているので
体躯その物のボリュームは満点。胸は肉の重さで垂れ気味で、腋の下まで段差が続く。腹はデプンとせり出し、ヘソの窪みが深
くて暗い。太腿もムチムチしていて、内股が擦れるほど。
だらしない体つきと言えばそうなのだろうが、シロキには特に嫌悪感はない。むしろ…。
(係長、お腹側は色が薄いんだ…。新発見!)
初めて見たが、カイグチの濃い灰毛は、腹側では薄くて淡いライトグレーに変化していた。顔もマズルの所でツートーンになっ
ていたが、それが喉を通って胸や腹に広がる格好である。
「お待たせしました!」
リストバンドキーを手首に装着するシロキ。キーを手に持っていたカイグチも、そう着けるのかと見て理解し、手首に回して
ベルトを調整する。
「それじゃあ最初は大きくて広い所から!洗い場もありますから!」
先導し始めたシロキは、
「ええやん。ソレ」
自前のタオル…白地に青く冠雪した富士山が描かれた品を褒められ、「そうですか!?」と嬉しそうに尻尾を振った。
「前に付き合ってた子のお土産なんです!富士五湖旅行で買ってきてくれて…」
特に聞かれてもいないのに詳細に説明するシロキが擦りガラスの自動ドアを抜け、途端に二人纏めて濃い湯気に包まれた。
夕食時にも関わらず人影はそこそこ、蒸気の中に見える客達は、広い大浴場の湯に浸かったり、洗い場で頭を泡立てたりして
いる。
スピッツは壁際の鏡付き洗い場にカイグチを案内し、自らも体を洗い始める。
三日も風呂に入っていなかったロップイヤーは、しばらくは脂でギトついた体毛が湯を弾いて難儀していたが、やがてボディ
シャンプーに脂質を溶かされ、ようやくしっとりして泡立ち始める。
(係長、チンチンもおっきいなぁ…。今まで付き合った子の誰よりもおっきい!)
カイグチほど手間がかからなかったシロキは、体を流すロップイヤーの体をしげしげと眺めながら感じた。肉付きが良い両脚
と、腹肉の段の下の狭いスペースに、窮屈そうな影がモロンッと見えている。ズングリムックリした全体のバランスが本人と似
通っている陰茎は、太さが目立っているし亀頭が剥き出しの完全露茎。半被りの自分とは見た目がかなり違うなぁと、スピッツ
は興味津々。
「…なんや?」
顔を洗い流す合間に、自分に注がれている視線に気付いたカイグチが口を開くと…。
「いえ!係長のチンチン、おっきくて立派だなぁって!」
「…さよか…」
ロップイヤーの垂れ耳が微かに震えた。
(コイツ…。距離の詰め方やら受け答えやら、おかしないか?)
疑問に感じるカイグチだが、若い相手には親しい友人が居ないので、今の世代はこんな感じなのかもしれないとひとまず納得
しておいた。
そしてそれからは…。
「係長泡のお風呂とか好きですか!?」
「あそこはフルーツ風呂!蜜柑とか柚子とか、日替わりで違う果物が浮いてるんです!」
「ジェットバスは右端が最大火力で、左側に行くほど弱いノズルです!一番強い所は筋肉痛になるぐらい痛いからちょっと注意
です!」
「ヒノキ風呂の匂いにはリラックス効果あるそうですよ!あの網に入ってるヒノキチップは売店でも売ってます!」
風呂が好きなのだろうスピッツにあちこち引っ張り回され、詳細で熱の入った説明を聞きながら、ロップイヤーは、この犬の
被毛がいつでも真っ白で清潔な理由を理解した。
一方その頃…。
「フミ先輩!今シーズンもいよいよ本格的に冷える時期でありますからして、しっぽり温泉にでも浸かって全身温まるのも悪く
ないと思うのでありますよ!」
居酒屋の端の席で、マラミュートはビール片手に焼き鳥を楽しむ虎に、ずいっと身を乗り出しながら提案していた。
「そうだな。お前は警備で立ちっぱなし、風に吹かれっぱなしの毎日だった」
「であります!」
期待するように笑顔で尻尾を振ったアオサキだったが…。
「社員が立ち話していたが、若い連中の間で駅前のビルの大型スパ施設が流行ってるらしいな。行ってきたらどうだ?」
「こぉの朴念仁っ!」
凄い勢いで仰け反るアオサキ。
「フミ先輩と一緒に温泉とか行きたいのでありますようっ!」
「行って来ればいいだろう?…済みません、砂肝とナンコツ、ネギマ塩、二本ずつ追加でお願いします」
要求をナチュラルにスルーして、キノシマは考える。
(そうだ。爺さんからしばらく旅行に行った話を聞いてないな…。たまには実家孝行で温泉にでも案内するか…)
「…今、実家の事を考えていたでありますね?温泉に連れて行こうとか…」
「何で判った?正解だが」
「いっっっっっつもそうでありますからぁっ!アオーン!」
再び、スパ施設。
「ふ~…。ちょい休憩や…。あちこち入って、逆に体しんどくなってくるわ」
歩くとヒタヒタ鳴る濡れた床の上で、ロップイヤーがタオルで顔を拭いながら喘いだ。デップリした体は各風呂の湯だけでな
く、かいた汗でもしとどに濡れている。
落ち着く暇もなく出たり入ったりを繰り返し、七ヵ所引っ張り回されたカイグチが音を上げると、シロキは「あ!それなら寝
湯で休むのがいいんじゃないですか!」と提案した。
寝湯は温度がそれほど高くない。枕が置いてあるので休むには向いていると、シロキに案内されたカイグチは、果たして木の
枕で休めるだろうかと半信半疑だったが…。
「…スカー…」
一分で入眠。疲労が溜まった頭と体は正直である。
(係長ホントに疲れてたんだ…。そうだよね。自分の分の商品のアイディア出しだけじゃなく、僕達の方にもアドバイスしたり、
書類を纏めたり、毎日仕事いっぱいあったんだもん…)
ひたひたと波が押し寄せる、水面から出ているロップイヤーの腹が寝息で上下する様子を見ながら、シロキは誘ってよかった
と少し満足した。
(わー!凄いお腹!島みたい!お湯が溜まるくらいおへそ深ーい!丸い所サワサワしたーい!オッパイも柔らかそう!今まで付
き合った子の誰より胸がある!どんな感触かなー!…でも触ったら起きちゃいそう。起こしたらかわいそう。休ませてあげなく
ちゃ。うん!)
だいぶ強引に、それこそ無理矢理誘うような格好になってしまったし、結局支払いまでもって貰う事になったのは申し訳ない
が、これで疲れが少しは抜けると良いな、とスピッツは目を細くして微笑む。
(ホントに、凄いひとなんだなぁ…)
この九ヶ月一緒に仕事をし、間近でロップイヤーの発想力、デザイン力、根気を見てきたスピッツは、改めてそう感じた。
カイグチは気付いていないが、シロキは前々から彼の事を知っていた。
かつてカイグチが在籍した大学のデザイン学科、実はシロキはそこの出身で、歳は離れているが後輩に当たる。
シロキの在学中には丁度カイグチと同学年だったOBが母校の講師になっており、シロキは何かとカイグチの話を聞かされた。
在学中の逸話だけではない。手がけた玩具でグッドデザイン賞を数回取っている、大手玩具メーカーの敏腕開発者だと、講師
が褒めちぎるのを聞きながら、シロキはデザインを学んだ。
そして、憧れた。
自分もそんな風に、ひとに評価される物を世に出してみたい。先生が最上級の評価をしているその人物のように、いつか…。
それが、シロキがこの仕事と会社を選んだ一番の理由。憧れの大先輩と同じ係、直属の部下というポジションに配置されたの
は偶然だったが、シロキにとってはこれ以上ない僥倖である。
(体を休めてから頑張って下さいね。僕、係長の仕事をもっともっと、たくさん見たいんです…)
そんな部下の気持ちを知る由もなく、連日の疲れが溜まっていたカイグチは、深い寝息を立て続けていた。
その数日後。
「係長、クリスマスって予定入ってますか?」
商品企画を審査される会議の前日、オフィスチェアの背もたれを思い切り下がらせる格好で体重を預け、デスクのモニターを
半眼で眺めていたカイグチは、いつの間にか傍らに立っていたシロキに顔を向ける。
「ワイにそれ訊くんか?余りモンの独り身やさかい、何もないで」
「遊ばないんですか?クリスマスなのに…」
「クリスマスらしい言うたら、余りモン仲間の鳥買うて帰るぐらいやな。あとは、おもちゃ売り場覗いて売れ筋確認する程度や」
「なるほど!戦場視察ですね!」
ふんす、と鼻息を漏らすシロキは、「まぁそうやな」と頷いた上司に、
「一緒に行っても良いですか!?」
「なんで」
脳が疑問を覚えるより先に、口が反射で疑問を発するカイグチ。
「勉強です!」
「さよか。友達とかと遊びに行かへんのか?」
「僕いまフリーですし、高校大学の仲良い友達、だいたいみんな恋人できちゃったから暇そうなひと居ないんです!」
「普通ならヘコむ事を溌溂とぬかしよるなぁ…」
「なので!係長も暇なら!」
「暇、暇、て連呼すな」
出っ張った腹を大きく上下させ、盛大にため息をついたロップイヤーは…。
「家族とでも楽しめばええのに、けったいなやっちゃで…。まぁ、好きにしたらええわ」
数時間後。定時になって退社するシロキは、スキップでもしたい気分で廊下を歩んでいた。
(最近の係長、肩や腰の調子が良さそうだったし、スパに誘った甲斐があったかも!)
心なしか動作がスムーズで体が軽そうに見えた今日のカイグチの事を思い出しながら、シロキは目尻と口角を緩める。
新商品が篩にかけられる会議は明日だが、逆に言えば大変だった時期は過ぎた。係内で話し合って研ぎ出し、煮詰まり、やれ
る事はやり尽くした準備万端の体勢で臨むだけ。カイグチもどうやらここ数日は会社で寝泊まりしていないようで、毎日それな
りにサッパリした衣類になっている。毛艶の脂ぎり方を見ると風呂に入っているかどうかは怪しいが。
(係長が疲れてそうな時、また誘ってみよう!次の準備はもうできて…あれ?)
前を行く社員達のグループがエレベーター方面に消えた後で、シロキは立ち止まってドアを見た。
誰かが足に引っかけたのか、ストッパーが挟まる形でドアが少し空いていた。見上げれば、ドアの上には企画部のプレート。
そこへ、隙間から低い声が漏れ出て、スピッツの尖った耳をくすぐった。
(キノシマ補佐の声?…あ、そうだ!企画部長がインフルになったから、キノシマ補佐は忙しいって…!)
声をかける用事も無いのだが、お疲れ様の一言ぐらいは言っておくべきかなと、誰にでも懐っこい新人はドアに指をかけよう
とし…、
「明日の会議だが、シロキ君の案は通りそうな物なのか?」
寸前でその手を止めた。
(あれ?僕の話してる?誰と?)
ドアの隙間は狭く、角度的に奥まで覗けないので、壁しか見えない。耳を隙間に寄せる格好で聞き耳を立てたシロキは…。
「どうやろな」
耳慣れた関西弁でハッとした。
(係長だ!今日は定時で帰ったと思ってたのに…)
どうやら灰色ウサギは帰宅したのではなくキノシマに会いに来ていたようで、部屋の中からはカイグチの声が聞こえて来る。
「アイツの案は、八割…」
(八割!?)
通る可能性が高いと評価されていたのだと、尻尾を振ったシロキは…。
「通らへんな」
(えぇっ!?あれでもダメ!?)
続いた上司の発言で、すぐさまガックリと尻尾を垂らした。確実に通るとは思っていなかったが、自信はそれなりにあったの
で。しかし、カイグチの言葉はそれで終わりではなかった。
「けど、丁度ええかもしれんで。アイツはいっぺん痛い目みとくべきや」
シロキは瞬きした。聞いた言葉が脳に届いても、理解が遅れた。
「ああ、前にもそう言っていたな」
虎の声がそれに続き、スピッツは後ずさりしてから、静かに、しかし急いでその場を離れた。
(係長…。もしかして、強引にスパに誘ったりした事、怒ってた…?ホントは嫌だった…?)
尻尾を元気なく下げて、トボトボと引き上げながら、シロキは項垂れて足元を見る。
(ホントは、嫌われてた?良く思われてなかった…?)
そして、新商品の案が会議にかけられる日がやってきた。
商品開発部の各係が、ターゲットや年齢層別に案を提示し、それを各部のトップが合議で可否判定を行なう。
いかに優れていてもターゲット層と価格帯が噛み合わなければ売れ行きは楽観視できない。他社と競合する分野であれば勝ち
目の有無も重要になる。全く新しいタイプであれば、それこそ期待できるかどうか、売り出しスタイルをどうするか、吟味に吟
味を重ねる事になる。
疑似の場となる大会議室近く、小会議室で順番待ちしている間、シロキは項垂れて帰って来る他の係のメンバーを何人も見た。
スピッツには良さそうに見えたアイディアがいくつもあったのに、何なら全部通るのではないかと思っていたのに、大半の者は
結果が出揃う前に落とされると確信してしまっている。
(もしかして、僕のも…)
スピッツは資料に目を落とす。商品案の説明自体は係長であるカイグチがこなすのだが、自分達発案者も同席する格好で脇に
立つ。
自分の案は受け入れられるだろうかと、上役達が並ぶ会議室の様子を思い浮かべながら、シロキは身を固くした。
ちらりとカイグチを伺うと、珍しくスーツ姿になっているロップイヤーは、いつも通りの表情だった。自信があるともないと
も見えない、そんな事を何も気にしていない自然体である。
カイグチが提示した商品案は、人気シリーズ番組とのタイアップ商品。番組側からの要望もあった肝いり企画である。
電子機器入りのなりきりグッズで、それ単体でも遊べるが、二号三号と、バージョン違いをすぐに出せるよう内部機器を盛り
込むのがカイグチの商品案。このシリーズだけで完結した遊び方ができるのは勿論、番組交代時には次作のグッズにも同規格の
ICチップを搭載し、遊びのクロスオーバーが可能という案になっている。
先を見越した商品展開は、単品で見た出来は半端になっている品も多いが、カイグチの場合は違う。微に入り細に入り外見に
も内部にも取り回しにも注意を払い、生産性と両立できながら飽きの来ないデザインを突き詰め、そこに遊びの幅を搭載した仕
様。シロキが見ても確実な商品化が間違いない。
(僕は…。僕の案は…)
「シロキ、そろそろ行くで」
カイグチが立ち上がる。二つ前の組が帰ってきて、いよいよ廊下前での待機に移行。出番はもうすぐだった。
圧倒されそうな光景だった。
上役重役が長方形の席につき、壁面のスクリーンに映される説明画像と、手元の資料を見比べる。
コスト計算なども済み、あとはゴーサインを勝ち取るだけ。開発側からすれば長い前哨戦の大詰めなのだが、商品案を解説す
るロップイヤーは完全にいつも通りのペースで、昂りも焦りも緊張も見られない。元々の動じない性格もあるが、踏んだ場数が
若手とは桁違いなのである。
助手としてスクリーンの操作を行いながら、シロキは逆に緊張のピーク。何度も唾を飲み込もうとして乾いた喉を鳴らす。
提示された商品案のそれぞれが誰の発案かという事は、まだ会議の参加者にも判らない。純粋に出来を審査するため、発案者
の特定はしない。その状態でも、カイグチが出した案は重役達を唸らせている。鉄板の商品展開が見込めながら、手堅さに傾倒
する事無く遊びの幅を持たせた提案は、重役達にも魅力的に見えた。
「当商品案の説明は以上です。どないでしょ?」
説明が終わり、会議室を見渡すカイグチ。説明が仔細で判り易かったため、質問は一つも上がらなかった。
しかしその事を喜ぶでもなく、ロップイヤーはすぐさま「では次の件に移らして貰いますわ」と、スクリーン表示変えの指示
をシロキに出す。
(来た…!)
緊張しながら切り替え操作を行なったシロキは…。
(…甘かった…)
十数分後、打ちのめされたような顔で項垂れていた。
会場の反応が明らかに悪い。資料とスクリーンを見比べる重役達は、先程とは明らかに表情が違う。
商品開発部の部長も審査側で参加しているが、事前に内容を知っていた彼も、周囲の雰囲気で旗色の悪さを感じている。
今回シロキが出した案は、単体で見れば悪くない。が、商品化するにあたって、同時期に他の案と並べた時、難点が目に付く。
部内会議を抜けはしたが、同僚達の案とアイディアが被った部分もちらほらあって、重役達には物珍しさが足りないと視られて
しまった。
案の定、説明が一通り終わった後の反応は芳しくなかった。
質疑応答が繰り返され、疑問点ばかり積み上げられてゆく。とても商品化が通りそうな気配ではない。自信があっただけに、
質問を繰り返し受けるカイグチを見つめるシロキには、相当堪えた。
「アイツはいっぺん痛い目みとくべきや」
カイグチの声が耳元で蘇り、これはダメっぽい、と本人も諦めかけたその時…。
「企画部、どぞ」
挙手を受けてロップイヤーが発言を振ったのは、企画部長の代理役も兼務で出席している、部長補佐の虎。
「該当案の疑問点、改善点についての対応方法などにつきましては、先の説明でよく判りました。素晴らしい案だと思います」
立ち上がり、係からマイクを受け取ったキノシマは、吟味した資料を手元に伏せてカイグチを見つめる。
「しかしそれを踏まえてなお、他の案に優先して新年度の商戦に送り出すには、やや押しが弱い面があると見えます」
敏腕部長補佐の目は確かである。私情を挟まず客観的に判断すれば、他の部課長達と同じ結論になる。シロキはいよいよ顔を
上げていられなくなるが…。
「そこで、企画部から一つ提案があります」
キノシマはカイグチから視線を外し、他部のトップ達を見回す。
「面白い、手ごたえが期待できる…、煮詰め方によっては大化けする商品案であると、説明と質疑応答を介して感じました。あ
と一押し、弱みをを埋めて売り出せばヒットが見込めると、個人的には確信に近い物を抱いています。このままお蔵入りにする
のは勿体ないというのが端的な意見です」
よく通るキノシマの声に、難しい顔で腕組みしていた狸の営業部長も顎を引いて同意し、他の面々も一考する様子を見せた。
「カイグチ係長。この案ですが、時期を改めて夏の商戦…、お盆前後をターゲットに売り出すスケジュールで再調整する事は、
可能でしょうか?」
ハッと顔を上げるシロキ。キノシマの提案は、このまま今回の調整で篩にかけて落とすのではなく、売り出す時期を見直すと
いう物だった。案が通る確率が低い今回より、時期を待って練り直し、完成度を上げた物を審議にかけられるようにと。
「それやったら、デザイン少し変えてブラッシュアップするにも期間は充分。必ず良くすると請け負いますわ。何やったらバー
ジョン違いの準備もできまっせ」
カイグチの返答は早い上に明確だった。というのも、練り上げ不足な点と、商品展開の拡張が見込める点については最初から
目を付けており、時間さえあれば、そして発案する機会さえもう一度あれば、より完成度の高い商品案を上げられると脳内でシ
ミュレートしていたのだから当然である。
何せ、シロキのアイディアは粗削りで穴が多いが、根本的な面白さがある。今回はキノシマから助け舟が出たが、もしそれが
無くとも、駄目になったらなったで次回以降改良した案を再度審議に上げるのがカイグチの中では確定路線だった。
カイグチが部長達と簡単に意見交換し、今回は一度取り下げて再提出する事で話が纏まる間、シロキは呆然としていた。
(え…。え…!?)
「アイツはいっぺん痛い目みとくべきや」
カイグチはそう言っていたはず、なのに今回は自分の案を庇う手を最初から吟味していたようで…。
(どういう…事…?)
頭がグルグルしている間に会議は終わり、定時になり、翌日には新年度に向けた商品開発の路線が決まった。
今日は12月23日。クリスマス商戦の戦況を見守るべく、社員がネットを確認したり売り場に出向いたりと、慌ただしく時
間が過ぎてゆく。
そんな中、部長代わりも兼ねて忙しく定時まで過ごした虎は…。
「キノシマ補佐、残業…ですか?」
かけられた声にキーボードを叩く手を止め、顔を上げる。ドアを少し開けて顔だけ覗き込むように突っ込んでいるのは、白い
スピッツの若者だった。
応じるキノシマは、「少しだけな」と腰を上げた。
忙しい盛りはほぼ過ぎて、企画部の部屋はがらんとしている。短時間の作業なので手伝いも要らないと、キノシマは先に皆を
帰していた。
「社内の調整事が色々立て込んでいてな。とはいえ、二時間もかからない資料纏めだ。気楽な物だよ」
室内の湯沸かしコーナーに移動しながら、キノシマが手招きしてスピッツを部屋に入れ、自身の休憩がてらコーヒーを入れる。
シロキの好みはクリームたっぷりでシュガー一本。把握している虎が好みに合わせて振舞うと、少し元気が無さそうだったス
ピッツは口の端を緩めて喜んだ。
「昨日の会議の事かな?」
何か話があって来たのだろうと、応接セットに向き合って着きながらキノシマが問うと、シロキはカバーしてくれた礼を改め
て伝え…。
「…あの、実は…」
と、言い難そうに口ごもってから、先日カイグチとのやり取りを立ち聞きしていた事を正直に話して詫びた。
「そうか。…アイツ、姿勢が悪いし足を引き摺るような歩き方をするから、ドアストッパーを引っかけたんだろう。粗忽者め…」
呆れ顔で唸ったキノシマに、「それで、判らなくなったんです…」とシロキが呟く。
「僕、先日係長をちょっと強引にスパに誘って…、あれで怒らせて、嫌われたのかなって思ったんですけど…。僕、時々距離詰
め過ぎて失礼しちゃったりするから…」
「怒りはしないだろう。…内心、君の気遣いがくすぐったかっただろうがね」
目を細め、厳つい顔に優しい微笑を浮かべたキノシマは、仏頂面のロップイヤーについて「誤解され易い奴だからな、カイグ
チは」と評した。
「人付き合いが得意じゃないから、慕ってくれる相手になかなか恵まれない。君のように接してくれる後輩は今まで居なかった
はずだ。憎からず思っているし、期待もしている。…期待しているからこその「あの発言」だ」
そしてキノシマは「秘密だぞ?」と前置きしてから、カイグチが語っていた事をシロキに伝えた。
数日前。昼食時。
「…アイツは、いっぺん痛い目みとくべきや」
ラーメンを啜る合間に、ロップイヤーはそう吐き捨てた。
「何も、失敗した方がええて話やない。失敗を経験して、耐性をつけとった方がええて話や。ワイが庇ってやれる範囲でな」
「ほう」
虎は水を口に含みつつ、沈黙をもって先を促す。
「アイツはセンスがええ。積極的で冒険心もある。奇抜なようでもひとの心を掴む案、ありきたりなようで興味をそそる仕掛け、
平凡に見えてジワジワ好奇心を誘う打ち出し方…、どれも教えられてすぐ身につくようなモンやない。もう十分センスはあるし、
磨いても行ける。普通のヤツより開発部門に向いとる、天然の一級品や。せやから仕事に文句はない」
だが、一転して「せやけどな」と、ロップイヤーは難しい顔になった。
「アイツは別に天才やない。何作ってもヒットする、全く失敗せん天才共とは違うんや。ワイと同じ、積み重ねて磨いたセンス
を握って、コツコツとアイディアを削り出して形にしてくタイプやさかい…。彫り込んで形にしながら、ええモンか悪いモンか、
見ながら作ってくタイプや。せやからな、期限までに彫り上げたモンが場にそぐわへん事もある。いつかは出した案がボツにな
る事も、散々な評価を貰う事もあるやろ。そうなった時、昇ってく感覚しか味わってへんかったモンは、存外脆いで。…アイツ
は元気やけど、特に打たれ強い性格やあらへん。初めて痛い目見た時、気持ちが折れん保証はない。せやから、手痛い経験はワ
イが見てやれとる内に済ました方がええ」
カイグチがこうして面倒くさがらず本音を話す相手は少ない。相手がキノシマだからこそ包み隠さず内心を吐露する。こうい
う性格だからこそ、話に言葉が足りず、態度に本心が出ず、誤解される事が多い。
「ワイが尻拭いできるような軽く済む所で失敗して、「そういう事もある」て学習する。そんで失敗に委縮して手足が縮こまっ
てまうようなら、ワイがケツ引っ叩いたる。ワイが面倒を見てやれるんはワイの下に居る間だけや。アイツはきっと出世も早い、
すぐに係長になって別の班を率いるやろ。そうなったらワイも、互いの部下の手前、同格相手にデカい口は叩けんし、先輩面で
説教もできんようになる」
軽く済む所で失敗しておけば、重大な失敗をした時でも気持ちの準備はし易い。経験した事があるか無いかで違うのは何にで
も共通している。期待を寄せる後輩を大事にするが故のカイグチの意見は、キノシマにもよく理解できる物だった。
「え…?そ、それじゃあ、会議で僕の案が落とされた方が、係長は良かったんじゃ…」
「そうかもしれないが、アイツは職人気質だからな」
自分がフォローできる内に失敗を経験して欲しいというのは、カイグチの「上司としての」気持ち。
しかし、手の加えようで化ける良案がお蔵入りになるのは我慢できないというのが、カイグチの「職人としての」気持ち。
「誇って良いんだぞ?君が今回頑張って捻り出した案は、ボツにされるのを偏屈な大職人が惜しむほどの物だったんだ」
スピッツはそれを聞き、じんわりと目を潤ませる。
嫌われていなかったという安堵と、自分がそこまで期待されていた嬉しさが、ダブルパンチで心を揺すった。
(良かった…。良かった…!嫌われてるなら、クリスマスの約束取り下げようかって思ってたけど、今は…!)
感謝の気持ちを込めて、約束通りにしようとシロキは心を決めた。
そして翌日、12月24日。
「あれ?キノシマ補佐、今日もひとりだけで残業ですか?」
帰り際、もしかしたらと薄暗い企画部の部屋を覗いたシロキは、デスクに居る虎に声をかけた。
「今日は本当に軽くだがね。君は、この後の予定は?」
「待ち合わせしてます!」
明るい笑顔のスピッツに、「それは羨ましい」と虎が微笑する。
キノシマは昨日と同じくコーヒーを入れてやり、シロキと向き合ってソファーに座る。と、普段は見ない大きめの肩掛け鞄を
持っているスピッツが少し緊張気味な様子に気付き、「また何か心配事でもあるのか?」と訊ねた。
「心配…、はい。ドキドキはしてます。でも、必勝祈願!しましたから!」
「…む?そうか。必勝祈願…」
何の勝負を何処に祈ったのかと、眉根を寄せた虎は…。
「サンタクロースに!」
スピッツの続く言葉でコーヒーを吹きそうになった。
マジマジとシロキを見つめるキノシマ。何か変な事言っちゃったのかな?と首をかしげるスピッツ。しばしの沈黙を挟み、虎
は口を開く。
「君は、サンタクロースがどんな物か判ってるか?」
問われたシロキは「はい?」と目を丸くした。
「えーと…。どんなものかって言われると…。願い事聞き届けてくれるふくよかで優しいお爺さんですかね!?」
これを聞いたキノシマは、しばし黙った後でコーヒーカップに手を伸ばし、呆れた様子で軽くため息をついた。
「良い子にプレゼントを配って回るサンタクロース…。その性質上、近代じゃ「望んだ富を与える」だの「夢を叶える」だの曲
解されがちだがな…、いいか?違うぞそれは。サンタクロースを拝んでも、必勝祈願にはならない。むしろそれは別の聖人の受
け持ちだろう」
「えっ!?嘘!?」
スピッツは驚いて耳を立て、虎は新人の驚き顔を見つめながら続けた。
「…その反応で俺の方がビックリだ…」
「じゃあ必勝祈願は無駄!?」
「自力で頑張るのが一番だ。神頼みはあまり期待するべきではないし…」
「そっかー…。そうですよね…。よし!頑張ります!」
切り替えが早いスピッツ。虎は目尻を少し下げ、「そうだな」と頷いた。
数分後。シロキも帰って一人になったキノシマは、「そろそろ限界だな…」と時計を確認した。ギリギリまで粘って仕事を片
付けていたが、今日は年に一度の大切な用事がある。
戸締りを確認し、デスクのモニターを落とし、いざ部屋を出ようとしたところで、虎は応接セットの所に落ちている何かに気
付く。
肥えた体を屈めて拾い上げると、その赤と緑のクリスマス包装に包まれた物は、妙に軽かった。
(軽い…。布?マフラーか?)
持ち上げたそれをしげしげと見つめてから…。
「…「必勝祈願」!そうか!」
何かに気付いたキノシマは、すぐさま携帯でシロキをコールした。が…。
ブイイッ、ブイィッ、ブイィッ…。
無情にも、傍らのソファーの上で鳴るスピッツスマホ。どこまでもうっかり者である。
「ああもうっ!」
ソファーに落ちていたシロキのスマホを引っ掴んだキノシマは、珍しく、慌てた様子でドスドスと部屋から駆け出て行った。
玩具メーカー本社ビルの敷地内。午後六時、寒さもあって空気が澄み、快晴の夜空には星々が瞬いている。
その寒空の下、四角く大きな変電設備ユニットの陰では…、
「あ!来た来た!遅いでありますよフミ先輩!」
警備員のハスキー…アオサキの声で喋るトナカイが一頭、大きな袋を積んだソリとセットで虎の到着を待っていた。
「遅れついでに用事が一つできた」
大股にドスドスとソリに駆け寄った虎は、真っ白な袋に手を突っ込み、内側から真っ赤な衣装を引っ張り出す。
「用事って何でありますか!?本部から現地起動用にパッケージングして奇跡を持ち出すのだって不安定でオススメできないと
皆も言っているでありますのに!あの会長ですらたった一度しかやった事が無いし、安定しなくて配達し辛かったから二度とや
らないっておっしゃってた裏技でありますよ!?そこまでして片付けたかった仕事での遅れに加えて、今になって増える用事っ
て何でありますか!?」
「仕方ないだろう…!」
サンタクロースの衣装を広げ、トナカイに反論しながらキノシマが唸る。
「「必勝祈願」、されてしまったんだからな。今から他に祈願し直している暇もないだろうし」
「むむむ?何の話であります?」
五十秒後、変電設備の陰から聖夜の晴れた空へ、トナカイが引いたソリが舞い上がった。手綱を取るのは赤と白の衣装が良く
似合う虎。シャンシャンシャンと、鈴を鳴らして駆け抜けるソリは、あっと言う間に小さくなって、誰にも気付かれないまま見
えなくなり…。
「無茶でありましょう!?」
ソリの縁から身を乗り出し、双眼鏡を手に地上を覗いている虎に、トナカイは宙を走りながら言う。
地上500メートルの高空を滑走するソリから、キノシマは人でごった返す駅前大通りを観察し、白いスピッツを見つけ出し
ていた。が、ターゲットは人ごみの中、こっそり届けるのは無理である。
「ただでさえ押してるプレゼント配達の時間が、関係ない相手に忘れ物を届けている内に無くなってしまうであります!」
「大事なプレゼントなんだ。気付いてしまった以上、無下にはできない。それにこれは、シロキ君が運命をかけた勝負で使う品
だ。届けない訳にはいかない」
「はぁあああああああああっ!?そもそも先輩はサンタクロース、キューピッドではないのでありますよ!?それに運命をかけ
た勝負とか大袈裟な…。はっ!」
ピキュロリロンッ、と何かに気付いたトナカイの顔を、左右に稲妻が突き抜けた。
「運命の、勝負、プレゼント…。そうでありますか!なるほど完全に理解したでありますよ!つまり!大勝利!」
「何がどうなってそういう結論になったのかはあえて訊かないからな」
アオサキは思ったのである。キノシマにやたら馴れ馴れしくて目障りなスピッツが、勝負に勝って運命を手にすれば、邪魔者
が減る、と…。これはアオサキ的に大勝利なのである。
「…よし、ポイントはあそこだ。ビル陰からこっそり接近してバッグに押し込む。携帯はコートのポケットに、気付かれないよ
うに忍ばせるとして…。この格好をシロキ君に見られると言い訳が面倒だからな。顔を合わせず接触する」
接近ルートを割り出したキノシマの指示で降下しながら、アオサキが尋ねる。
「人目につかない降下ルートを確保できるビルに、接舷するだけなら余裕でありますが…。どうやって気付かれずに近付くので
ありますか?」
「そこは問題ない。木を隠すなら森の中、サンタクロースが隠れるなら…」
「…なるほど!大胆でありますね!」
アオサキは意図を理解して笑い、虎をビルの屋上に降ろす。キノシマは迷わず非常階段の柵を飛び越え、地上の雑踏を目指す。
一階まで駆け下り、ビル裏手のゴミ捨て場に降り立ったキノシマは、すぐさま塀を越えて路地に出ると、何食わぬ顔でポケッ
トに手を突っ込み、明らかに、そこに入る体積ではない量のポケットティッシュを取り出した。
(今回は奇跡をあまり無駄遣いできないが…、俺は元々物理で何とかする派だ。どうという事はない。ティッシュ配りのサンタ
コスチュームは大勢居る、今夜なら人ごみに赤い服が何人紛れていようと別段珍しくもない。このまま接近する)
賑やかな通りに出て、人の流れに紛れ込むと、キノシマはスピッツの後方から接近する。「メリークリスマス!」と、老人に
似せた嗄れ声を作ってティッシュを配布しながら。
一方、シロキはというと…。
(喜んでくれるといいなぁ…!あ、そろそろ待ち合わせの場所だ。着く前に電話って約束だし…)
スピッツの手がコートのポケットに入るその寸前、虎の手が素早く静かに、忘れ物のスマートフォンを滑り込ませた。
「ん?」
一瞬ポケットが重くなったような感覚があり、疑問の声を発したシロキだったが、ポケットの中から忘れた事も自覚していな
かったスマートフォンを取り出すと、微かな違和感として意識の外へ逃がしてしまう。
シロキが通話のための操作を始めるその隙に、虎は開いていた肩掛け鞄の口からプレゼントを忍び込ませ、存在を気取らせな
いまま速やかに離脱する。
「流石フミ先輩!本業のスリ師真っ青の手並み!あれなら要人暗殺も可能であります!」
一部始終を見守っていたトナカイがビルの上で褒めるが、実際の所、彼が口にした事を現実にやれてしまうだけのスキルを、
キノシマは習得している。
ビル壁面に僅かな凹凸さえあれば手足をかけて数十メートル水平移動できるし、指三本引っかかればその肥満体を引っ張り上
げられる。無呼吸全力運動は最長1分にも及び、足音や気配を消すのはお手の物で、対象の動向を身振りなどから予測できる。
サンタクロースは、そこまでやれてようやく役目を果たせる一人前。隠密行動スキルも潜入工作スキルも様々な特殊器具の扱
いも、サンタクロースを拝命するまでの長く厳しい訓練で叩き込まれた物である。
先程下って来た非常階段まで戻り、柵をひらりと飛び越えて、肥えた胸と腹をバインバイン弾ませながら大急ぎで屋上まで駆
け戻った虎サンタは、上がった息を白く盛大に吐きながらソリに飛び乗り、手綱を握る。
「首尾はどうだったのでありますか?」
キノシマが腰を落ち着けるのも待たずに屋上を蹴り、離陸したアオサキは、夜空へ舞い上がりながら訊ねた。
「ふー…、ふー…!つつがなく届けた…!俺にできるのはここまで、あとはシロキ君次第だな。…停車中のタイムロスは?」
「5分8秒!ここまでの移動とここからの移動も通算すれば、29分41秒であります!」
トナカイが応じると、「上等だ」と気合を入れ直したキノシマが鼻を鳴らす。
「遅れは前半で取り返す。巻きで行くぞ」
「了解であります!」
雑踏をスピッツが足早に抜けてゆく。
幸せそうな人々。楽しそうな人々。笑顔の人々。明るい感情と高揚が、人ごみから立ち昇って寒さすら何処かへ押し流してゆ
きそうな熱気の中を、白い犬は縫うように進む。
揺れる肩掛け鞄には、クリスマスカラーにラッピングされた紙包み。
握るスマートフォンは先ほど通話を終えたまま消し忘れ、相手先が表示されている。
クリスマスは愛を告げるのに最適な日。
同時に、感謝や労い、普段は言い難い事も伝えやすい日。
もう少し。もう少し。壁面に電飾ツリーが輝くビルへ、スピッツは耳を揺らして急ぐ。
今夜は特別に歩行者天国。信号が消えている二車線道路を渡り、人の流れの隙間を渡り、縁石を跨ぎ越して歩道に上がる。
人ごみの切れ目から先が見えた。
ずんぐりしたロップイヤーが、デパート前の植え込み脇でベンチに座っている。
肥え太って元々丸い体が、厚いダウンジャケットでなお丸く見え、デパートに出入りする客を眺める半眼は、遠い世界を望む
ように茫洋としている。
腕は確かだと、誰も彼も口を揃えて言う。
生き方が不器用な男だと、上司達は言う。
誤解され易い男だと、同期の補佐は言う。
そんな彼に憧れた。会ってさらに憧れた。この数日でますます憧れた。
息が弾む。小走りになったせいだけではない。気分が高揚しているのもその原因。
駆け寄る足を緩め、相手の前で止まる。
見上げて来たロップイヤーが腰を上げる間に、肩掛けバッグの中のプレゼントを掴む。
両手で持って差し出した包みは、距離が近過ぎてロップイヤーの出っ腹すれすれ。
二重顎を引いてそれを見下ろし、二度瞬きし、一瞬遅れて自分への物だと気付き、真ん丸にした目でまじまじと顔を覗き込ん
できたロップイヤーに、スピッツは元気よくこう言った。
「メリークリスマス!です!」
ライトアップされた樅ノ木の飾りが、キラキラと降るように輝く下で、肥えたロップイヤーはおずおずと手を差し出し、戸惑
いがちに包みを受け取った。
…なお、キノシマがマフラーだと思っていた包みの中身は、温泉マークが赤くビビッドに染め上げられた入浴用タオルだった。
翌、25日。
街の中心部から少し外れているが、住宅地が近く店も多い、生活し易いと人気の区画。その主要道沿いに建つ、十五階建て高
層マンション。
柱のように細く見えるが、1フロアに二世帯しか入居できない、床面積が広く取られたマンションの最上階で…。
「良かったじゃないか」
桜色のフリースにクリーム色の綿パンというカジュアルな恰好で、フリーハンド通話のスマートフォンをキッチンカウンター
に置き、太った虎はフライパンをリズミカルにゆすっていた。
仮眠を取った後でもまだ眠気が残り、しかし一仕事終えた充実感と共に体の芯に染み付いた気怠ささえ心地良い、貴重な休日
の午前十一時。キノシマはトースターを熱しながらポトフを煮込み、野菜炒めを作っていた。シンプルな料理もこの虎が作れば、
絶妙な塩加減で味にメリハリがついた絶品になる。
ベーコンと野菜を手慣れた様子で炒めるその後ろからは、ついさっきまでベッドに無断で潜り込んで添い寝していたアオサキ
がくっついて、フリース越しに虎の腹をモニュモニュと揉みしだいている。
『良かった…んか…?まぁそれは置いといてや…。ワイもお返しした方がええと思うんやけどな。最近の若い連中が好みそうな
プレゼント、何がええと思う?』
子供が喜ぶ物ならいくらでも考えて来たが、部下の喜ぶ品となれば話は別。電波越しのカイグチの声が珍しく悩んでいる様子
なので、キノシマは笑いの息が漏れそうになるのを必死に堪えた。
「そうだな、世代が離れているから喜ばれる品がどういう物かは、俺もよく知らない。ただ、シロキ君が喜びそうな事には心当
たりがある」
『何や?どないな事でもええから、教えてくれへんか』
「前にシロキ君に連れられて行ったというスパに誘ってやるといい。貰ったタオルを持って」
そんな事で良いのか?と、あまり納得していない様子のカイグチとの通話を終えたキノシマは、仏頂面で不愛想、手先は器用
なのに生き方が不器用な同期の事を思う。
「サンタクロースの事、どう思う?」
出会ってからあまり日が経っていない頃、いつかの研修帰りに焼鳥屋でカウンターに並び、キノシマはビール片手にそう訊ね
た事があった。これに対し、カイグチの答えは…。
「ワイらの同類、やな」
予想していなかった回答が興味深く、先を促した虎に、不愛想な兎はこう言った。
「サンタはな、年に一度の晴れ舞台に、煙突潜って灰だらけや。ワイも、そうでええ」
思えばあの日からだった。同期の中でも浮いている、人付き合いが下手糞なロップイヤーと、よく話すようになったのは。
「スパと言っていたでありますが…」
アオサキが口を開く。相変わらずキノシマの腹を揉みながら。
「自分らもスパるでありますよ!いや、ここはゴージャスに温泉へ…。高給取りなのでありますから!実家サービス以外に自分
とも温泉旅行するでありますよ!」
以前の話を蒸し返すマラミュート。簡単に諦める性格でないのは重々承知なので、キノシマは根気強く断る。
「年始は実家に帰るし、年内は部長の体調が落ち着き次第、鍋でも作ってやりに行く。亡くなった奥さんからも、困っているよ
うな時はよろしくと、頼まれたからな。だいたい、例え時間があってもお前は温泉自体が駄目だ。連れて行ってもいろいろやら
かしそうだから駄目だ。俺が心身ともに休まらないから駄目だ」
「何とぉ!?いやしかし、嫌よ嫌よも好きの内、駄目よ駄目よはオッケーの内であります!すわっ!「ココ」と交渉であります!
人質作戦決行!」
「駄目ったら駄目…、って、あ!おい!何処に手を突っ込んでる!」
虎の声が1オクターブ高くなり、野菜炒めがフライパンから零れ、マラミュートはこっぴどく叱られた。