「そういや、バンダイさんと兄貴の馴れ初めって、どんなだったんで?」

 沢庵をおかずに山盛りの飯をモリモリ食べながら、頭の天辺を赤く染めた、人相の悪い固太りのミックス和犬が尋ねる。

 向かいに座っている縦にも横にも広い大兵肥満の猪は、味噌汁を啜りつつ、厳めしい顔からギロリと眼光を投げかけるが…、

(え?また唐突に訊いて来るなぁ…。っていうか「馴れ初め」なんてタカノリ君最近ちょっと語彙増えてきてない?これもア

イロンのおかげ?)

 内心では普通に虚を突かれて若干驚き若干困って若干感心していた。

 夕食時で混み合う学生寮の食堂。白菜と油揚げの味噌汁が香る憩いの一時。混み合っている他とは違ってだいぶ席が空いて

いるテーブルに、巨漢の猪と固太りの和犬と、小柄で愛らしいレッサーパンダが座っている。

「あんまり珍しくもない、ちょっとありがちな馴れ初めだよ?」

 そう、ブリの照り焼きの身を丁寧にほぐして口に運んでいたレッサーパンダが、可愛らしく小首を傾けながら固太りの和犬

に応じる。

「でも気になるっすよ!どんな風に知り合ったのかってのは」

 身を乗り出した和犬の、興味で輝く目を見返しながら、「簡単で良いなら…」とレッサーパンダが顎を引く。

「中学の時にね、同じ学校のちょっと乱暴な生徒達とトラブルになったんだ」

 和犬が「へぇ!」とさらに身を乗り出す。興味津々といった面持ちである。

「ちょっと乱暴な…、つまり!イキがいい不良って事っすね!?」

「不良…かな?そこまでじゃないかもしれないけど…。あの日は彼らの虫の居所も悪かったんだと思う。小さくて弱くてトロ

いレッサーパンダは、丁度良い標的だったんだろうね」

 レッサーパンダは遠い目をした。まるでその時を振り返っているようだが…、実際には別に感慨深く追憶している訳でもな

く、和犬の期待に応える雰囲気作りのポーズに過ぎないのだという事は、猪にだけは判っている。が、余計な事は言わずレッ

サーパンダの創作混じり思い出話を聞きながら食事を続行。

「ボクはひとり、相手は大勢、取り囲まれて逃げ場も無くて、絶体絶命のピンチ。…ちなみに六人」

「へっ!雁首だけは揃えて来やがったな!ザコほど群れやがる!」

 バシンと左の平手に右の拳を叩きつけて不敵に笑った和犬は、今から助太刀にでも行く気分になっているのか、「唯我独尊」

とプリントされているトレーナーの両袖を捲り上げた。が…。

「…ん?」

 何かに引っかかった様子で眉根を寄せた。レッサーパンダが絡まれる。不良に?普通の生徒が。不良に?話の中身を整理す

る和犬の赤い毛髪が、徐々に逆立ち始めた。

「そこへイノウエ君が助けに入ってくれたんだよ」

「は!?ちょっと待って下さいよバンダイさん!?」

 和犬は、鼻の上へ獰猛に皺を寄せて牙を剥き出した、剣呑な顔になっていた。

「なんすかそりゃあ?群れるだけじゃなく、バンダイさんに絡んだって?カタギの生徒に?しゃば過ぎんだろ、何処のモヤシ

だその不良モドキ共は!?」

 今からシメて来ます、と言わんばかりに腰を浮かせた和犬だったが、猪から「座ってろ」と言われてしぶしぶ腰を下ろす。

(いや、怒ってくれるのはちょっと嬉しいけど、普通の生徒に絶対手を出さない系不良とか激レア種だからねホントは?そう

いう不良ってタカノリ君とお友達の皆しか見た事ないからねオレ?っていうか「カタギの生徒」って何?)

 そんな内心を外には全く出さずに仏頂面を決め込んでいる猪の横で、「勘弁してあげてよ」とレッサーパンダが微笑む。

「その時に、イノウエ君にしこたま折檻されてたから」

「そうすか…。で、やっぱそん時の兄貴もイカしてたっすか!?」

 目をキラキラさせて武勇伝に期待する和犬に、「勿論!」と笑顔で頷くレッサーパンダ。

(まぁ、完全な嘘じゃあないけど、事実全てでも無いんだよなぁ。ナルの話の例に漏れず…)

 レッサーパンダを横目でチラリと見遣る猪。本当はその時に初めて出会った訳ではなかったし、そもそもその時だって実際

は全然格好良い物では無かったと思い出す。ふたりが初めて出会ったのは、今レッサーパンダが後輩に教えているエピソード

の時期よりもずっと前の事だった。

 これは、ふたりしか知らない昔の話。

 汚泥の中で咲いた、一輪の花の話。

 泥の中から月を見上げ、独り佇む何かが、初めて「ひと」になろうと思った話…。












                  泥中之蓮(前)












 幼稚園に通っている年頃だろう、子供達のはしゃぎ声が響く公園で、キィコキィコとブランコが揺れる。

 上に滑り台がついたドーム型の遊具に集まって、子供達が笑い声を上げて遊ぶ様子を、その子供だけはポツンと独り、離れ

たところのブランコを揺すりながら眺めている。

 鮮やかと言える毛色とは裏腹に、曇った瞳。疲れたような目と無表情が、幼さも愛らしさも損ねさせている…、そんな子供

だった。

 日は傾いてゆく。親が迎えに来て、子供達の数が減ってゆく。

 キィコ…、キィコ…、ブランコが小さく揺れる心寂しい音は、子供達の声が減るほど耳につくようになってゆく。

 だいぶ子供が減った頃、何処を見るとも、誰を見るともなく、望洋とした視線を前にだけ向けていた子供は、視線を少し横

に動かした。

 そこに男の子がひとり立っていた。肥った猪の子供で、サイズがあっていないティーシャツから下っ腹が出ている。ブラン

コに座ったまま顔を見上げて、さっきまで滑り台の辺りに居た猪だと確認する。

「…ひとりぼっち?」

 動き回っていた名残で息が上がっていた猪の子は、気を遣う事もなく子供らしい率直さで訊ねた。

「うん。そうだね」

 客観的に見ても確実にそうだと認めた男の子に、猪の子は「そうなんだぁ」と頷いて、隣のブランコに腰を下ろした。太り

過ぎているので、ブランコのチェーンが窮屈そうな座り格好で。

「まってるの?むかえにくるの?」

 猪の子が顔だけ横を向けて問いかけ、これに男の子が頷いて応じる。

「おれも。とうちゃんくるんだ」

 そんな言葉を興味も無く聞きながら、男の子は訊ねてみた。皆と遊ばないのか?と。

「あそんでたよ?あっちで、すべりだいとか…」

 どうして遊びに行かないのか、どうしてこっちに来たのか、質問に込められたそんな意図を理解し損ねて、さっきまで遊ん

でいた遊具がどれとどれであると説明する猪の子の横で、男の子は「ふぅん」と気の無い返事をする。

「ウチどこらへん?ひっこしてきた?はじめましてだよね?」

 男の子は、猪の子の質問の大半を曖昧に流す。一緒に遊ぶ気になれない以上、半端に興味を引いて留まらせてしまっても結

局退屈させてしまうだけなので、懐っこい態度はあえて見せない。

「きみ、タヌキ?ちがうか、アライグマ?う~ん、みたことないな。なんなの?」

「レッサーパンダ」

 少しばかり抗議したくて短く答えたら、猪の子は目を丸くした。

「なにそれ?きいたことないけどかっこいいコトバだ」

 レッサーパンダの子は小さくため息をついて、「つまらないでしょ。あそんできたら」と、猪を追っ払おうとした。邪魔だ

から、ではない。ここに居てもつまらないだろうから、他の子供と楽しく遊んだ方が良いという、さりげない思い遣りによる

提案である。しかし…。

「だって」

 猪が口を尖らせる。

「つまんなそうだったんだもん」

 何だろう、ソレは?とレッサーパンダの子が眉根を寄せる。

「さびしくない?なんか、かなしそうで、なきそうだった」

 何だろう、その理由は?とレッサーパンダの子は揃えた自分の足に視線を向ける。

「ひとりぼっち、さびしいもんな」

 判る判る。そういうようにウンウン頷く猪の子に、レッサーパンダの子は「どうして?」と訊いていた。

「さびしそうだとか、なきそうだとか、つまらなそうだとか、だれかのそういうの、じぶんとかんけいないっておもわない?」

「え?」

 猪の子は困ったような顔になった。

「むずかしい!」

「………」

 レッサーパンダの子が押し黙る。猪の子は、言っている事が難しくて判り辛い、と抗議する。

「…つまり」

「「つまり」!」

 大人っぽい言い方だ、と耳を立てた猪の反応を無視して、レッサーパンダの子は言った。

「ぼくがさびしくてもつまらなくてもないていても、きみはそれでこまらない。でしょ?」

「え?あー、うん。たぶん?うん」

 それはそうだなと頷いてから、猪の子は「あれ?でもちがうか?」と首を傾げた。

「「せいぎのみかた」は、こまってるひとをみすてない!」

 レッサーパンダの子は顔を上げる。きょとんとして。

 「せいぎのみかた」。何とも子供っぽい、そして子供が口にするには不自然さが無い言葉。

「…なりたいの?「せいぎのみかた」に」

「なりたいにきまってるよ!かっこいいだろ?「せいぎのみかた」って!しょーらいのユメは「せいぎのみかた」!」

 胸を張って得意げに言う猪の子を、レッサーパンダの子はまじまじと見つめた。

 イメージする「せいぎのみかた」とは似ても似つかない、格好良くも強そうにも見えない、ちんちくりんな肥った子供…。

「そうなんだ?」

 けれど、レッサーパンダの子は嗤わなかった。クスリと小さく笑いはしたが、その無邪気で幼く、悪意も挫折も知らない、

幼稚で純粋な夢を、嗤う気にはならなかった。

 追っ払おうという気はもう無くなっていた。他の子と遊んできたらいいよと、促すのもやめた。きっと、とても優しい子な

のだろうと理解した。自分が楽しむ事より、他人が楽しくない事の方が気になってしまうほど優しい子だから、自分を置いて

行ってはくれないだろうなぁ、と…。

「それじゃあ、ひっさつわざとかかんがえなくちゃ」

「え?…あ!そうかそれヒツヨーなんだ!?そうだ!ひっさつわざ!だいたいもってるもんな、ヒーローは!」

 レッサーパンダが話を合わせると、猪の子は嬉しそうに頷いた。

 大人達が迎えに来る。

 子供達が減ってゆく。

 暮れなずんだ公園に最後まで残っていたのは、ブランコの傍に屈んで、膝がくっつくほど傍に寄って並んだふたりの子供。

 ニコニコしている猪の子と、微笑んでいるレッサーパンダの子は、落ちていたアイスの棒で地面にガリガリ絵を描いて、必

殺技とヒーローの格好を、こうだろうか、それともこうだろうか、と意見を出し合って話し合う。

 やがて…。

「おーい!タイキー!」

 公園の入り口で、大柄な猪の中年が大きく手を振った。

「あ!とうちゃんだ!」

 勢いよく立ち上がって、猪の子はレッサーパンダの子に笑いかける。

「じゃあ、またね!」

 手を振る猪の子。レッサーパンダの子は微笑んで手を振り返し、駆けてゆく猪の子の背中を見送って、

「………」

 笑みを消した。父親に駆け寄る猪の子を、じっと見つめるその虚ろな目に、微かに浮かんだのは羨望の細波。

 羨ましかった。当たり前の幸せが。普通の親子が。

 猪の子が去り、自分以外に誰も居なくなった公園で、レッサーパンダの子は待ち続ける。

 キィコとブランコが鳴る。古くなった防犯灯が瞬いて点く。

 とっぷり暮れた空の下、出来上がった灯りの輪の中に、ジャリッと土を踏んで革靴が入る。

「行くぞ、ナル」

 レッサーパンダの子を迎えに来たのは、険のある顔つきのアライグマ。

「はい。おとうさん」

 ブランコから腰を浮かせ、半ズボンの尻を叩いて土埃を落としたレッサーパンダの子は、踵を返すなり歩き出したアライグ

マを、短い脚を懸命に動かして追いかける。

「おとうさん。「せいぎのみかた」って、どういうものですか?」

 こんな年頃の子供が口にする物としては珍しくない言葉を耳にして、アライグマは不快げに鼻息を漏らした。

「下らんテレビ番組を見ている暇があったら勉強に充てろ。無駄な時間を過ごさせるためにお前を引き取った訳ではない」

 父親の物とは思えないほど冷たく、取り付く島もない言葉。しかしそれを聞いてなお、レッサーパンダの子は表情一つ変え

ない。

 理解していた。父親がこういう男だという事は。

 理解していた。自分がどんな環境で暮らすのかは。

 この日、磐梯鳴(ばんだいなる)の両親の離婚が正式に決まった。

 弟は母に、長男のナルは父に、それぞれ引き取られた。

 父についてゆくと言ったのはナル自身だった。父が子供に求めているのは、優秀な後継ぎとしての役割だけだと判っていた

ので、気の優しい弟では耐えられないと判断した。

 根は優しいが、物静かで、照れ屋で、優しさを表に出そうとしないナルは、これは自己犠牲の意識による物ではないと、自

分では思っている。ただ、適材適所という、まだ言葉としては知らない考えを理由にして、自分と母を納得させた。

 レッサーパンダは、父に雇われている運転手がハンドルを握る高級車に乗り込みながら、後部座席で並んだ父親の存在を、

目を向けないまま意識する。

 父は弁護士。だがきっと、法の番人でもせいぎのみかたでもない。幼いながらも賢いので、その事は理解していた。でなけ

れば、離婚調停を経て母があんなにボロボロになるはずがない。

 車が動き出す。住宅街を抜け、父が焼香してきた誰かえらいひとの家の前を通り、国道に出る。

 信号で止まった車の中から歩道を眺めていたナルは、僅かに目を動かし、ある物を追った。

 それは、猪の親子連れ。

 中年夫婦に挟まれて、両側から手を握られ、早くも瓜模様が消えつつある大柄な猪の子が、嬉しそうな笑顔で交互に両親を

見上げていた。

 あの家族は横断歩道を渡って、あの看板が明るく光っているファミレスに行くのかもしれない。そこで美味しいご飯を楽し

く皆で食べるのかもしれない。

 涙で目が潤んでいる事にも気付かないまま、親子の姿を見つめるナルは、僅かに胸の疼きを感じた。

 自分達は、あんな家族になれなかった。

 あの子は、きっと幸せな家庭で育ってゆくのだろう。

 これからナルは、与えられる物を学んで育つだけの、乾ききった日々を送る事になる。それでも自分は、きっと何でもなく

適応するのだろうと考えている。始まる地獄を恐れはしない。そういう物だと既に受け入れた。

 他の家族を羨ましいとは思わない。羨んだ所で仕方がない。無い物ねだりは生産的でない。

 ただ、猪の子を見送りながら微かに感じたのは、「おもしろいかもしれない」という物。

 あの、子供らしい子供っぽさが印象的な、ヒーロー像とはかけ離れた猪の子が、幸せな家庭で立派に育って、本当にせいぎ

のみかたになったなら面白いかもしれない。

 言われるまで必殺技の事など考えてもいなかったせいぎのみかた。

 「困っているひとを見捨てない」というヒーロー像を掲げたせいぎのみかた。

 自分はきっと、父と同じでせいぎのみかたにはならないし、なれないけれど、あの子はいつかせいぎのみかたになれるのだ

ろうか?

(ほんとうになったら、おもしろいな…)

 目を車内に戻したナルの瞳は、再び虚ろになっていた。






~九年半後~






 給食で腹も膨れた昼休み。陽射しも暖かい二年生の教室の窓際では、制服姿の中学生達が、昨日のテレビ番組のネタで話に

花を咲かせている。

 それを遠目に眺めながら、最後尾の席で頬杖をつく猪はため息をついた。

 身長が高くて大柄だが、大きく見えるのは肥っているからでもある。椅子から尻がはみ出るほど幅があるその体は、座ると

達磨のようなフォルムになった。体積で言うなら相当な存在感があるはずなのだが、まるで空気のように誰にも見向きされて

いない。

 井上大希(いのうえたいき)は共通の話題で盛り上がるクラスメートを羨ましそうに眺めながら、再び小さく溜息をつく。

 この中学には三つの小学校区から生徒達が進学してくるのだが、タイキの小学校からは学区編成の都合で進学者がやや少な

かった。新しい友人関係を構築しなければいけなかったのだが、タイキはこれに成功したとは言い難い。同じクラスになった

同校出身者はあまり親しくなかった顔ぶればかりで、親しかった友人達は別のクラスで新しいコミュニティに加わってしまっ

ていた。何度かそちらに混ざろうと試みはしたものの、クラスが違うというのは存外大きな隔たりであり、馴染みきれずに余

されてしまい、結局いたたまれなくなってそちらからも離れた。結局そのまま親しい友人もできず、自己主張する事もなく、

タイキは余り物のようにポツンと過ごしている。

 暇。つまらない。羨ましい。時間を持て余す昼休みを、タイキはいつしか嫌いになっていた。

 もっとも、昼休みが嫌いな理由はそれだけでなく…。

「イノウエ」

 廊下から聞こえた声に、タイキは耳をピンと立てて振り向いた。首を巡らせながらも尻は椅子から浮いている。

 教室後ろ側のドアの外で、男子生徒が顎をしゃくっていた。

 急いで廊下に出たタイキは、生徒に促されるまま従い、二つ隣のクラスへと、鞄を抱えてついてゆく。

 待っていたのは、少々ガラが悪い、そしてその振る舞いと見た目を意図的に活用する事が少しばかり得意な少年達。

「持って来たか?」

「う、うん…」

 ゴソゴソとカバンを漁ったタイキは、今日が発売日の漫画雑誌を取り出して少年達に渡した。

 顔を寄せ合って雑誌を読み、笑い声を上げる少年達の横で、猪は所在無く立ち尽くす。

 新たな交友関係を築けないどころか、タイキはこの少年達のパシリにされていた。

「マジかよ、圧勝じゃん!」

 少年のひとりがペラペラとページを捲ってボクシング漫画を読んでいると、屈み込んで覗き込んでいた別のひとりが、興奮

気味に唾を飛ばした。

「ま、こういう展開になるとは思ってたけど!」

 腰を浮かせた少年は、見たばかりの漫画のシーンに影響されてパンチを繰り出す。

「ワンツー!」

 ボフッ、ボフッ、ボッ…。そんな音を立ててタイキの胸に拳骨が当たる。腰も肩も入っていない手だけのパンチだが、全く

痛くない訳ではない。顔を顰めながら、タイキはパンチ受けするトレーナーのように手を上げて、少年のワンツーパンチを平

手で受け始めた。

 身体は大きくとも、小心で気が優しいタイキは遣り返して来ない。それを知っているから少年達は頻繁に小突くし、タイキ

が我慢するから平気そうに見えて、力の入れ具合も自然と強くなる。

 やる側にいじめという意識は無いし、タイキもいじめられている意識は無いが、楽しい訳では勿論ない。パンチを受ける手

は痛いし、いつでも早く終わる事を望んでいる。

 楽しくもないのにタイキがここに居るのは、この交流とも呼べない付き合いを終わらせる話を切り出せないから。そんなの

は怖いし、何よりそうする事で、何処にも属さない自分が完全にひとりぼっちになってしまう気がして…。

(来年になったら…)

 進級したら、クラス替えで親しい友達ができるかもしれない。タイキはそう期待していた。



(あ~、楽しくない学校生活~…。早く来い来い冬休み~…)

 ため息をついてトボトボと、タイキは下校路を独り歩く。

 吐く息の白さに寒さを強調され、手袋を擦り合わせ、マフラーを押さえて首の隙間を埋める。

 回し読みされる漫画雑誌は結局自分の所へは返って来ないので、帰り道のコンビニでもう一冊同じ物を買い、ポテトチップ

スを確保する。

 住宅街の中の、周りと似た没個性な民家。自分が生まれる少し前に建てられた我が家の玄関を潜り、「ただいま~」と声を

上げれば、「おかえり~」と返って来る母の声。

 猪っ鼻をヒクヒクさせて、「お…!」と呻いたタイキは靴を脱ぐなり台所へ直行した。

「母ちゃん、カレー!?」

「今日はカツカレーよ」

 尋ねた息子に答えるのは、息子と同じく身幅がある猪。猪一家は家族揃って皆似た体型である。もっとも、母親はさほど背

が高くないので、既に身長では息子に抜かれているが。

「やったー!芋はゴロゴロでね!」

「はいはい」

 大げさなほど喜んだタイキは、鼻歌混じりに階段を昇って自室へ向かう。父が帰って来るのを待って皆で一緒に夕食を摂る

ので、それまでは自由時間である。

 タイキの父は製鉄所に勤務しており、資材を運搬する専門の運転手。タイキの母は朝八時から午後三時までスーパーで働く

パートタイマー。裕福という程ではないが生活に余裕がある、何処にでも居る平凡な三人家族…、それが井上家である。

 二階にある日当たりのいい南向きの部屋がタイキの私室。子煩悩な親が家を建てる段階で最優先にしたので、スペースも広

く取られている。30㎡のフローリングに大きなベッド。本棚には漫画本が並び、大型テレビの脇では最新のゲーム機が二種

類、待機状態でランプを灯している。テレビと向き合う格好で置かれたコタツの上には、ゲーム機のコントローラーとテレビ

のリモコンが乗っている。

 エアコンとコタツのスイッチを入れ、制服を脱いでスウェットの上下に着替え、チップスの袋を開いたら、コタツに入って

ゴロリと寝そべり、買って来た雑誌を読みながらパリパリ齧る。

 せいぎのみかたになりたいと思えていたのは、小学校一年生までだった。

 現実は容易く理想を殺す。

 結局のところ子供達の間で注目され、人気者になれるのは、だいたいスポーツができる子供。体格が良く力は強くとも、タ

イキは運動があまり好きではなかったため、俊敏性は備わらず運動神経自体もあまり良くない。

 いつしか自分がそうなる事は諦めて、テレビや漫画の中のヒーローを眺める事に専念するようになり、外で遊ぶ時間はどん

どん減り、そのおかげでさらに運動が苦手になった。

 無邪気であるが故に持ち合わせていた積極性は、自分を価値付けして形作る過程で失われ、幼い頃のように自己主張する機

会は減って行った。よって親しい友人はもう居ない。

 タイキはもう、せいぎのみかたになろうとも、なりたいとも思わない。だが、漫画の中で、アニメの中で、誰かが善を為す

時、誰かがひとを救う時、今でも熱いものが込み上げる。自分はこうはなれない。そんな諦観がささくれのように混じる、苦

くて熱いものが。

 追っている漫画だけ読んで雑誌を放り出したら、指についた油をティッシュで拭い、テレビをつけてゲーム機を起動する。

 二週間前に始めた世界を救う旅は、冬休みに入る前に何とか終わりそうだった。タイキにとっては期末テストよりもそちら

が大事。できればなるべく早く世界中の人々を魔王の脅威から開放してあげたいし、魔物に脅える必要がなくなった世界をの

んびり見て回りたい。

 戦闘を繰り返す。レベルアップする。装備を整える費用が貯まる。ひとによっては退屈でつまらない作業になるのだが、タ

イキは嫌いではない。成果が数値化されて目に見えるのは現実よりもよほど判り易いし、やった事が無駄にならないのが良い。

 軽快なBGMを延々と聞きながら、装備品を買い替えて、あとどの程度の資金が必要か計算し…。

「あ」

 時計を確認しようと猪首を巡らせたタイキは、レースのカーテン越しに見える窓の外に視線を固定する。

 慌しく立ち上がって窓に寄り、サッとカーテンを開ければ、フワフワと舞う白い雪。

(寒かったわけだなぁ!)

 暖かい部屋の中から舞い降りる綿雪を眺め、タイキは先端に房がついた尻尾を振る。

 雪が降る。冬気分でワクワクする。積もらずに、屋根に触れるなりすぅっと融け消える雪を眺めていたタイキは…。

「…んがぁっ!?」

 突然声を上げ、頭を抱えて仰け反った。

「ヤバい今日だった!何で思い出さなかったんだよ!」

 予約していたゲームソフトの発売日だった事を思い出した猪は、財布からゲームショップの予約票の控えを取り出して確認

すると、ジャンバーを引っ張り出して羽織り、マフラーを巻いて部屋を飛び出した。



 黒塗りの高級車が、中学校の正門近くで停車する。丁度門を出てきた少年を拾う、絶妙なタイミングで。

 ふっくらした縫い包みのように愛らしいレッサーパンダの少年は、後部ドアを開け、振り返った初老の紀州犬運転手とにこ

やかな笑みを交わす。

「お帰りなさい坊ちゃん」

「お待たせしました、綾川(あやかわ)さん」

 微笑みを返したレッサーパンダは、ブレザーの襟元を少し緩めた。

「真っ直ぐ向かって良いですか?」

「いえ、済みません。寄って欲しいところがあるんですが…。ラ・シェール時計店です。お願いしていた商品が入荷したって、

連絡があって…」

 少年は携帯の画面に時計店からの通知メールを表示させながら、ドライバーに問う。

「10分ほどかかるかもしれません。今から寄って貰っても間に合うでしょうか?」

 この後も習い事がある少年は、寄り道しても間に合うかどうか運転手に尋ねる。

「ええ、そのくらいなら大丈夫です。ちゃんと時間通りにお送りしますよ」

 運転手は車を走らせながら、バックミラー越しに少年のホッとした表情を確認する。

「…クリスマスプレゼントですか?旦那様への」

「はい。…あっ、今年も父には内緒にしておいて下さいね?」

「勿論です。品物は坊ちゃんの部屋にお届けしておきましょうか?」

「はい!お願いします!机の引き出し、いつもの所に!」

 父へのクリスマスプレゼントは毎年の事。馴染みの運転手は少年の要望を先回りして察し、雇い主に知られないように少年

の部屋へ隠す約束をする。

(あれからもう九年以上…。坊ちゃんのプレゼントも十回目か…)

 運転手はしんみりと昔を思い返す。

 両親が離婚し、父に引き取られたレッサーパンダは、愛らしい笑顔が印象的な礼儀正しい少年に成長した。

 厳しい教育を受けながら育ったナルが、父思いの優しい少年になった事を、アヤカワは誇らしく思う。片親が居ない環境下

でも真っ直ぐ立派に育ってくれた、と…。利発で聡明で上品。穏やかで優しく思い遣りがある。こんな非の打ち所もない少年

に育ってくれるとは、主の離婚直後には思いもしなかった。

「父はどんな様子でしたか?」

 ナルの問いに、ドライバーはしかし即答しかねた。

 機嫌が悪かった。いや、良い日などあまり無いのだが、今度の弁護対象との折り合いが悪くて事務員に当たっていた。

 人格者とは言えない。どうしてあんな男が優秀なのかと、理不尽に思う事も多々ある。

 だから運転手は願う。あんな酷い男を慕うこの可愛い長子が、このまま歪む事なく、皆に好かれる善人のままで、あの男よ

り優秀な弁護士になれるように、と。

「…今日も熱心に依頼人の方と打合せをしてらっしゃったようです」

 棘の無い言い方ではあったが、返答までの僅かな間から、それが事実全てでは無いと、ナルは確信する。だが、わざわざ問

うような真似はしない。

「おっと、寒いと思ったら雪が降って来ましたね」

 運転手が話題を変えた。チラチラ、フワフワ、街に雪が下りる。

「本当だ…。綺麗ですね」

 フロントガラスに触れるなり溶けて水滴になった雪を、ワイパーが掃く様を子細に確認しながら、ナルは「心にも無い事」

を口にした。

 汚いとは思わないが、綺麗とも思わない。路面を覆えば事故率を上げる。肌に触れれば体温を奪う。凍結した水分の結晶。

おそらく積もるほど降らず、すぐに止む。危険は無い。雪を確認した瞬間にナルが考えたのは、おおよそそんな事。

 ドライバーは勿論、父親も知らなかった。

 愛くるしい少年の姿に育ったソレの中身が、見た目や仕草、言動からは想像もつかないほど…、

(とりあえず、ノルマは今年も達成できた。プレゼントを渡すタイミングだけよく見極めよう)

 「ひとから掛け離れたモノ」になっている事に。

 現実は容易く道徳を殺す。

 ナルは、厳しい父親の下で、その酷薄さと悪辣さを学び取った。習うのではなく、その聡明な頭脳で自ら学習した。

 バンダイ弁護士と言えば業界で知らない者が居ない、辣腕の弁護士である。だが、その性は悪にして酷。地位、名誉、金、

それらを得て増やし守るため、「どんな事でもする」のがナルの父親だった。

 その跡継ぎを育てる英才教育の中で、理不尽を、悪辣を、不正を為す父の下で、ナルの心は次第に壊れていった。

 その思考は、およそひとの物から善性を取り払った物に成り果てた。

 賢くて思い遣りに満ちていた優しい子供はもう居ない。相手の気持ちや心境について細かに分析しながら、しかしナルは、

理解も共感も全くできなくなった。ひとの感情を把握し、それを計測、計算、活用しながら、しかしその多くを無機質に、打

算的に処理するようになった。そうして、自分に有利な状況へ物事が傾くよう、巧みに利用して振舞う事が心身に焼き付いた。

 ただ、父の姿と心を見て学びながら、ナルと父親には決定的な違いがある。

 欲。それが人並みに及ばない。生命活動に必要な欲求以外には欲望が生じない。

 抵抗や摩擦の少ない生活を送るために皆が望む理想の善い子を演じる事にもストレスはない。そういった物は欲と同様に、

心が壊れてゆく過程で欠けてしまった。

 愛着が無い。拘りが無い。善悪、美醜、正誤、優劣、貧富、何もかもが平等にどうでも良く、自分が快適に存在してゆくた

めにどう振る舞い何をすべきかを考えて実行する。

 夢も無ければやりたい事も無い。父の跡継ぎになるのが自分の役割であり目的。それ以外に肉体的にも精神的にもリソース

を割く必要は感じない。

 人のふりをする機械のようなモノ。ナルは自分をそう認識し、そして自分は「そういうモノ」だと受け入れている。母の顔

も弟の声も、既に思い出さなくなって久しかった。



(うわぁ…。積もらないけどビチャビチャだ…)

 水溜りを避け、積もらない雪に濡れた歩道を歩くタイキ。大きな体を寒さに丸め、小さな水溜りすらも小まめに迂回して歩

く姿はどことなくユーモラスである。

 目当てのゲームは手に入れて、今は懐にしまってある。クリスマスに合わせての事なのだろう、限定版パッケージは雪が降

りしきるイラストになっていた。ただし、ゲームの内容その物はクリスマスと全く関係ない、むさい武将や色っぽい小姓やイ

ケメン侍や美人のクノイチが活躍する戦国シミュレーションゲームなのだが。

(でも世界を救うまで我慢…!)

 ゲーム内の世界平和を憂うタイキが、クリアするまでこちらには手をつけないと心に誓ったその瞬間、ベチャアッと、ズボ

ン右半分が水を被った。

「何で!?」

 たまらず声を上げたタイキの目前には、水溜りに座り込み、プルプル震える小さな男の子。同行していたらしい友達ふたり

は、あ~あ、という顔で途方に暮れている。

 水溜りを飛び越す。そんな他愛の無い競い合いで、無茶をしたのが運の尽き。母親から確実に怒られると理解し、へたりこ

んでいる男の子は泣き出してしまった。

(あ~、あ~、参ったぞ…)

 ズボンに染み入る冷たい水もそっちのけで、タイキは困った顔になる。

 どうやって泣き止ませようかと、男の子の前に屈み込みながら。



 送って貰った時計店で、ナルは頼んでおいたカフスチェーンを受け取った。

 あらゆる物事に執着が無いので、与えられる潤沢な小遣いは、ひとのように振舞うために必要な小道具類を購入する以外に

使い道が無く、大部分は貯金したまま腐らせている。それを使って年に二度…誕生日とクリスマスに父へプレゼントを買う。

「お待たせしました」

 駐車場で待機していたドライバーに「お待たせしました」と笑顔を向けたナルは、習い事へ向かい動き出した車の中から、

ひとが行き交う歩道を眺める。

 無数の人影。それぞれに喜怒哀楽と生活と家族がある事を事実として理解しながら、しかし共感はできない。ナルはそれら

を「物」としか認識できない。

 だが、その中で…。

(…?)

 レッサーパンダは目を凝らす。落ちるなり水滴に変わる雪、その名残に濡れた窓ガラス、湿ったその向こうに広がる、平等

にどうでもいい物と者が溢れた街並みに、屈み込む丸い影。

 ちょうど、顔がこちらを向いていた。

 立派な牙を備えた、厳めしい猪の顔が、泣いている子をあやしてひょうきんに緩んでいる。

 その姿を、顔を、見た瞬間にナルは思い出していた。

 色彩が薄れた、古い景色。

 暮れなずむ公園で、揺らしたブランコ。

 子供達の声は遠く、自分には向かず、そして届かず。

 だがその中で、声を届けに傍まで来た物好きが、ひとりだけ居た。

 あの日、アイスの棒で描いた、へたくそなヒーローの絵…。

 あの日、隣で笑っていた、ボールのようにまん丸い猪の子…。

「せいぎの…、みかた…」

 我知らず口の中で呟いた声は、エンジン音に、濡れた路面をタイヤが踏む音に、ワイパーが擦れる音に掻き消され、ナル以

外には届かない。

 一目で判った。その猪が、あの子が成長した姿だと。

 あれから九年半。母の声を忘れ、弟の顔を忘れ、覚えなければいけない大量の情報に埋もれて潰れて消えたはずの、遠い遠

い記憶は、しかし完全には消えていなかった。

 母と弟と最後に過ごした午後。父に連れられて行く夜。その狭間に出会い、唯一言葉を交わした存在…。地獄のような日々

が始まる前に、「せいぎ」を唱えた子供の事は、自分でも意外なほど印象深かったらしい。

 ナルは冷静に、自分の心の動向に注意を払った。

 懐かしさ。自分が感じている、しかしこれまでに殆ど覚えが無い感情を、そう分析する。

(彼は今でも…)

 虚ろな瞳に微かな光がチラついた。

(せいぎのみかたを、目標にしているのかな…)



「ただいまー!」

 予定よりだいぶ遅くなって帰宅したタイキは、

「遅いぞー!父ちゃんのお腹と背中がくっつくぞー!」

 父親の声を聞いて耳を倒しながら苦笑いした。

「父ちゃんおかえりー!」

 カレーの香りが濃厚に漂うキッチンにドタドタと駆け込んだタイキは、帰宅して着替え終えていた父に笑いかける。

 肥り肉の、逞しい猪である。仕事柄体力も使うので、特に鍛えていないにも関わらず肩は盛り上がり腕は太い。背も高いの

でボリュームが相当ある体格なのだが、粗暴そうに見える厳つい顔には人好きのする笑みが浮かんでいた。

「さっさと着替えてらっしゃい」

「はーい!」

 皿に盛ったライスとトンカツにルーをたっぷりかけている母に促され、急いで部屋に戻り、脱ぎ散らかしてルームウェアに

着替え、足音高く階段を駆け下りたタイキは自分の席に着いた。

『頂きます』

 声を揃えて手を合わせ、アツアツのカレーにスプーンが入れられる。芋が大好きな家族なので、カレーの具もジャガイモが

多めでゴロゴロと大振りカット。

 ガツガツと爽快な勢いでカレーを食べる息子の前で、父猪は水代わりの発泡酒で喉を潤し、思い出したように口を開いた。

「そういえば…、もうそろそろ期末テストかタイキ?」

 父の発言でギクリとしたタイキのスプーンが止まると、ここぞとばかりに「そうよ」と母が相槌を打つ。

「なのにタイキったら、今日も帰ってきてしばらくしたらすぐ、新しいゲーム買いに行くって出て行って…」

「勉強はちゃんとするよ!赤点でなければ良いだろ!?」

 そんな息子の言葉で、父猪はカラカラ笑った。

「赤点でなければ良い。でもな、50点ならもっと良い!」

「お父さん!またハードルが甘い!」

 妻の抗議を「まぁまぁ…」といなして、父猪は言う。

「若い内しかできない事もあるし、今しか夢中になれない物もある。勉強は必要だが、楽しく遊ぶゲームも、見て満足するテ

レビも、読んで楽しい漫画も、要らない物って訳じゃない」

「またそれ!?お父さんちょっとタイキを甘やかし過ぎよ!中学生なんですからね!?」

「いやでも、オレは中学の頃タイキより勉強できてなかったぞ?」

「でも中学も高校もずっと4番キャッチャーだったじゃないですか!タイキは運動もしないし、勉強も…!」

 父と母の言い合いを前に、えへへと苦笑いしながらタイキは思う。こんな風に言われるから、がっかりさせないぐらいには

勉強頑張らなくちゃな、と。

 実際のところ、タイキの成績は上位ではないものの、平均よりは少し上のラインで落ち着いている。得意かどうかの科目差

はあるが、酷い成績になった事は一度もない。基本的に楽な方が好きなタイキだが、好きな事をさせながらも頑張る所は頑張

れとやんわり背を押す父の存在に、勉強を促す母との相乗効果で支えられている。



「何を馬鹿な事を言っている?」

 低く抑えられた怒声が、ドアの隙間から五階の廊下へ漏れ出ていた。

「良いか?理解も納得もさせる必要はない。お前の仕事はあの頭が足りない依頼者に、私が指示した通りの証言と芝居が出来

るよう仕込む事だ」

「しかし、証言の内容は事実と異な…」

 やや震えた声で応じるのは若い女性の声。

「キザキ。お前はここに来て何年目だ?いつまでも遣り方を覚えられないのは困りものだな」

 冷たく低い、怒気を孕んだ威圧的な声は、沈黙する相手へ続けて言葉を浴びせかける。

「証拠は「探せば」いくらでも、「後からでも」出て来るものだ。証人も証言者もな」

「…!!!」

 そんな、息が詰まるようなやりとりを廊下で聞いていた少年は…。

(父はまだご機嫌斜めか。帰宅の挨拶は後に改めよう)

 気配を悟られる事なく、静かにその場を離れた。

 話の中身はだいたい理解できている。父は、今度弁護する相手が、自分が描いたシナリオ通りに動かない事に苛立っている

のだろう、と。そして、有利に進めるために証拠等を捏造する事を、言わなければ察せられない若手にも苛ついている。

 習い事を終えて帰宅したナルは、父の機嫌を察して挨拶は後回しにし、用意されていた食事を片付け、四階にある自分の部

屋に入る。

 ナルの父が所有する五階建ての法律事務所兼自宅。そこがナルの住まい。

 事務所はオフィス街が傍に見える立地で、窓からは夜遅くまで灯りが消えない無数のビルが望める。一階は駐車場と車庫と

倉庫、二階と三階が法律事務所のメインスペース。四階は所員達の休憩室や身内だけで話をする為の会議室。五階には父の寝

室と書斎、重要な物を仕舞い込んだ金庫室などがある。

 ナルの父親の城たるこの法律事務所は、複数名の委託弁護士を飼い、十数名の法律事務員と運転手や清掃員などを使役して

いる。自宅が一緒になっているとはいえ、ちょっとした官公庁の出先機関とも遜色ない事務所の規模は、一目で大手と判る佇

まい。

 ここから独立して行った「優秀な」弁護士も多いのだが、アライグマは跡継ぎとしてナルを選んだ。余計な物がまだ内側に

巣食っていない、自分の思うとおりに育てられる子供を。

 壁についた幅広く展開する戸を開け、制服を脱いでクローゼット内に掛け、シャツとパンツだけの姿になりながら、しかし

ナルは寒そうな素振りを見せない。部屋の主が居ない間も空調は働き続けており、常に過ごし易い温度が保たれている。にも

関わらずそこは、普通の少年であれば居心地の悪さを感じるだろう部屋だった。

 外界を望める窓は、小柄なナルの上半身ほどしかない。部屋の右手側はウォークインクローゼットになっているが、他の三

面の壁は窓とドアを除いて、法律関係の書籍類が詰め込まれた本棚で天井まで埋まっている。部屋の中央付近にはデスクがあ

り、その横にベッド。気晴らしになる品も雑貨の類も無いその部屋は、寝起きし、学ぶ、ただそのためだけの物。

 デスクの引き出しを開け、ドライバーに頼んでおいた父へのプレゼントが納められている事を確認したナルは、窓際に寄っ

て夜景を見つめる。

 今日猪を見かけた場所と、昔会った場所を、夜景を透かして視界に重ねてみる。イメージ内での作業でありながら、それは

驚くほど精密で、正確だった。

(あの辺りに住んでいる。あるいはあの辺りが行動範囲に入っている…)

 不思議な感覚だと、ナルは再び自分の内面を監察する。興味。そう呼べる物を抱いた事は、とりあえず間違いない。

(名前は、あの公園で聞いた)

 父親と思しき猪から呼ばれていた名前は、確か…。

(「タイキ」…だったはず)

 今日まで一度も思い出す事が無かった、遠い日の記憶。

 しばらく窓辺から外を眺めた後で、ナルはクローゼットに引き返してガウンを羽織ると、入浴の支度をして部屋を出た。

 自分と父しか使わない広い浴室で、ナルは全裸で鏡に向かう。

 皆には見せない、感情を窺わせない無表情。灯りを映して煌く瑞々しい瞳は、しかし視線が虚ろ。底抜けの深遠を抱えなが

ら、光を反射する静謐な水面…。正視していたら吸い込まれてしまいそうな、空恐ろしい静けさと虚無がそこにある。

 唐突に、鏡の中のレッサーパンダが笑った。次いで困り顔になり、さらに恥かしげな顔を見せ、最後に悲しそうな表情を浮

かべ、また無表情に戻る。

 日課にしている表情表現のチェックを済ませてから、ナルはシャワーヘッドを手に取った。

 フワフワした柔らかな毛並み。ふっくらした小太りの体型で、柔らかな皮下脂肪の下には柔軟で弾力に富む筋肉が必要なだ

け付いている。

 機械のような正確さで、毎日同じ動作で、ナルは身を清める。少年にとって、入浴も食事も基本的に作業でしかない。身体

を快適に保ち、活動するためのメンテナンスと補給という位置付けである。自宅であてがわれる食事は栄養バランスも考慮さ

れ、美味なのだが、ナルはそれらと学校の給食やビタミンサプリを区別しない。美味い不味いを含め、どんな味も平等に「ど

うでもいい」。

 およそひとの範疇に収まらないほど物事への執着が希薄で、欲を抱かないナルは、父の跡継ぎになるという目的のために生

きているが…。

(せいぎのみかた…)

 猪の事を考えていたナルの手が、機械的にピタリと動作を止めた。

 せいぎのみかたになる。それがあの日の幼い猪が語った事。しかしそれは果たして、自分の「目的」と同じだろうか?

 夢…つまり将来の夢や憧れという物を、概念として知ってはいても理解しなくなったナルにとって、せいぎのみかたになり

たいという心境は、よくよく考えてみれば奇妙な物と思えた。具体的には、例えば警察官だろうか?救う、助ける、という観

点で言えば医者や消防士なども該当するだろう。

(彼は、どんなせいぎのみかたに?)

 自分でも意外なほど、ナルはあの猪の事が気になり始めていた。



「クリスマスプレゼント、何がいい?」

「ん~…」

 洗面台の前に立つ父猪と、少し離れて立つ息子は、歯ブラシをシャカシャカ動かしている。

 父と場所を代わり、うがいして白い泡だらけの水を吐き出したタイキは…。

「ジャンバー良いかな!?ヌクヌクのダウンジャケットとか!今のヤツ肩とかちょっとキツくなってたんだよ。あんまり厚く

ないし…」

 同じく口を漱いだ父猪が「育ち盛りだもんなぁ。少しデカいサイズにするか」と笑う。

 井上家のクリスマスは、息子の要望を聞いて両親が買い与える格好。昔はサンタへ手紙を書いていたのだが、小学校高学年

辺りから今のスタイルになっている。

 昔は勝手にプレゼントが届いたんだがなぁ。と時々父親が口にする言葉を、タイキは「うっそだ~!」と全く信じずに笑う

のだが…。

「…なんなら何処か旅行でもいいぞ?」

 不意に思い出した様子で父猪が言う。息子が中学に入ってから約二年、一度も家族旅行をしていない。

「景色が良いところで、美味い飯!広い風呂!どうだ?眺めが良い峠道のドライブインに高い展望台があるんだよ。森葉(し

んよう)町の辺りだからちょっとしたドライブだな」

「そういうのはさ、結婚記念日とかにとっといたら?」

「そうかぁ。それも良いなぁ。うん、…母ちゃんにはまだナイショな?」

「…オッケー」

 ヒソヒソと言い交わす夫と息子の会話を、洗濯物を抱えた母猪は、ドアが開いたままの洗面所のすぐ外で聞いていた。嬉し

そうにクスクス笑った母猪が、そっと忍び足で引き返した事には気付きもせず、タイキは「考えてみたら二人っきりの方が良

いんじゃないの?」と父に持ちかける。

「母ちゃんが留守にしたらタイキが飢え死にするだろ?」

「そこは出前取る小遣いとか置いてってよー!」

 家族の仲は良好。タイキは何処にでもある普通の家庭で伸び伸びと暮らしている。

 学校はあまり楽しくないが、重大なトラブルを抱える事も無く過ごせている。交友関係の少なさについては、自分でももう

少し積極性をどうにかしなくてはと考えているものの、問題となるような孤立の仕方はしておらず、友人作りが困難な環境で

はない。

 目下、個人的に最大の問題と言えば、家族にも言い難い事が一つだけ…。



(まぁねぇ…。クリスマスとかホラ、恋人と一緒とかそういうのは、二次元はともかく現実の中二にはまだ早いわけで…)

 首まで湯船に浸って、浴槽の縁に両腕を上げ、足を伸ばして天井を仰ぎ見るリラックスした格好で、タイキは湯気の中に溜

息を混ぜ込んだ。

 友達が居ない。勿論それ以上に親しい恋人も居ない。シングルベルに焦る歳では無いが、ゲームやアニメで充実したお似合

いのカップルを見ていると、憧れは普通に抱く。

 しばらく湯に浸かって体を温めた後で、タイキは浴槽を出て洗い場の鏡と向き合った。

 そこには、体の成長がやや早めで、早くも立派になってきた猪少年の姿。瓜縞模様が消えるのも早かったタイキは、身長の

伸びも牙の伸びも早かった。父に似て大柄で力も強いが、運動などはろくにしていないので、それなりの筋肉の上に分厚く皮

下脂肪がついてしまっている。

 体格は立派ながら肥り過ぎの体を眺め、ハァ…、としょげながらため息をつく。

 手足が短く見えるほど、全体的に太い体。筋肉で膨れているならともかく脂肪が主なので、力強いというよりはコミカルな

フォルム。乳は垂れ気味で深い溝が腋の下まで続き、デンと突き出た腹は真ん丸くて臍が深く、どこもかしこも括れが浅い。

 格好良くない。これではモテない。つまり恋人などできそうもない。若い頃の父は今の自分と似た顔でもモテたそうだが、

それは大活躍の実績があるスポーツマンであり、皆から頼られる性格があっての事だろうと思う。そもそも…。

(男の子の恋人とか、どうやったらできるんだよ…)

 タイキはゲイであった。

 昔から、可愛い女の子キャラよりも、少年キャラの方が好きだった。時々苦しい気持ちになるのは恋心による物だと自覚し

た時に、タイキは自分の本質を理解した。

 丸っこい、縫い包みのような、愛らしい小太りの少年キャラ。それがタイキにとって最もストライクな造形。スラリとした

イケメンや、頼り甲斐のある渋い中年、陰のある薄幸の青年キャラなど、王道デザインも勿論好きなのだが、最も萌えるのは

いつも、チンチクリンのムードメーカーやマスコット的な立ち位置に置かれるキャラである。

 勿論、これは家族も含めて誰にも言えない。自分だけの秘密だった。

(そもそも、やっぱり格好良くないと無理だよな…)

 湯気で曇った鏡を掌で拭ったタイキは、自分の姿を再確認して項垂れる。

 太った体型が好みだが、自分の姿には流石に興奮しない。それどころか太っていたらモテないだろうと思う。なのに細くな

る努力はあまりしたくない…というか殆どできない。呼吸するように芋菓子を求め、断ポテトが全然続かず、欲求に負けてダ

イエットを打ち切るのが常である。

(体の成長ばっかり早くてもなぁ…)

 ボヨンと出ている腹の土手肉を下から支える格好で掴み、持ち上げるようにして覗き込めば、そこには年齢平均以上に立派

な逸物。ボロンと下がった肉棒は厚皮を被りながらも相当な太さで、皮下脂肪に根元が埋もれている事を考えれば長さもそれ

なり。おまけにその後ろには大玉が二つ、たっぷりした陰嚢は正面から見ても存在感抜群である。牙もそうだが、タイキの体

は色々と成長が早かった。

(このまんまのオレと付き合ってくれる、ポッチャリして可愛い男の子、どっかに居ないかなぁ…。クリスマスプレゼントな

らその方が…。いや、無理か)

 例え本物のサンタクロースが居たとしても、このプレゼントは用意できないだろう。自分の他愛ない想像をそう自嘲して、

タイキは椅子に座って頭を洗い始めた。






 期末テスト中でも、来るクリスマスにウキウキしながらタイキが過ごしている、冬休み目前のある日。乾燥した空気に街路

灯が輝く、指先からジンジン冷える日没後、ナルは井上家の前に立っていた。

 庭の駐車場には白いワンボックスカー。父親は既に帰って来ている。

 リビングの灯りがカーテン越しに庭へ投げ落としている柔らかな光で、ナルは虚ろな瞳を滑らかに輝かせていた。

 数日の内にナルはタイキの家を調べ上げた。方法は簡単、見かけた場所から住所の見当をつけ、学区から登下校路を推測し、

実際に張り込んで目視で確認、尾行して突き止めている。いつも送り迎えを担当している運転手には、父には内緒で、送迎して

いる様子を装いながら外して貰っていた。

 だが、ナルはタイキの姿を確認しながらも遠くから見ていただけで、声はかけていない。様子を観察するに留めている。

 それでも、いくらかの事は判った。

 登下校の様子から、友人が居ないらしい事は察せたし、学校へ向かう時と出たばかりの時は背中も丸めてションボリし、家

が近ければ背筋が伸びて歩調が早まる事から、学校生活が楽しく感じられていない事も読み取れた。

 せいぎのみかたには、少なくともなっていないと思われた。一度下校途中に学校の知人と思しき少年達と一緒になっていた

が、ボクシングの真似事でパンチされたりしていて、客観的に見ればライトないじめに晒されている様子。どうも気が弱いよ

うでされるがまま、やり返す素振りもなかった。

 それらを確認してどうなる物ではないと、ナルの常の思考は言う。だが、自分でも理由が判らないまま、タイキの現況を確

認しなければ気が済まなくなっていた。

 ピクリと、ナルの耳が動く。

 無人だと思っていたワンボックスカーのドアが開き、のっそりと大柄な猪が姿を見せた。

 身を隠す真似はしなかった。視界に入ってしまっていたので、急激な動作はより注意を引いて不審がらせる結果に繋がると、

瞬時に判断している。

 車を車庫に入れた後から、携帯で会社と長電話していた父猪は、門扉前に佇むレッサーパンダに気付く。

 ん?と眉根を寄せた父猪は、「タイキの友達かい?」と尋ねながら歩み寄った。

「いいえ。友達という程では…、クラスも違いますし、たぶんイノウエ君はボクの名前も知りません」

 スラスラと出る説明は勿論嘘だが、この程度は誤差に過ぎないとナルは思っている。私服姿なので学校の違いを指摘される

心配も無い。

「たまたま見かけて、意外と近くに住んでいたんだなと…、それだけです。失礼しました」

 ペコンとお辞儀する愛らしくて礼儀正しい少年に、父猪はニマッと笑いかけた。

「寒いだろう?何なら上がって行ったらどうだい?友達になるのは今日からでも良い訳だ」

 ナルはニッコリ笑って「有り難うございます」と応じる。

「でも塾の時間になってしまうので、また今度に」

「そうかい?遅くまで習い事とは大変だね」

 にこやかな笑みと丁寧な態度で父猪に別れを告げて、ナルは夜道を歩き出す。習い事があるのは本当なので、あまり時間を

割いていられない。



「え~?どんなヤツだったの?」

 ボウルサイズの器でマッシュポテトをモリモリ食べながら、タイキは父に尋ねる。

 夕食の席、さっき家の前に居たと言う生徒の話に、タイキは当然興味を示した。

「…う~ん…」

 父猪は少年の顔を思い出し、しばし唸りながら考え、

「狸か何かかな?背が低くてコロッとした、可愛い顔で上品そうな子だった」

 レッサーパンダという種名を知らなかったので、そう説明した。

「狸だったら何人か居るな…。隣のクラスにも」

 同学年に狸っぽいのは3名。誰なのか気にはなったが、わざわざ声を掛けてみて違うと言われたら恥かしいので、確認する

のは諦める。

「テスト期間中でも塾は休まないのね」

 言外に「勉強しろ」と臭わせる母猪の視線から逃れるように、器を顔の前まで上げてポテトを掻き込むタイキ。

(誰だったか判ったらなぁ…。オレを気にするヤツなんて、そんな居ないし…)

 友達を作るチャンスかもしれないと思いながらも、一歩踏み出すそのアクションを起こせないタイキであった。



 その夜…。

「転校か…」

 ソファーにふんぞり返ったアライグマの前で、背筋を伸ばしたレッサーパンダが「はい」と顎を引く。

「塾の友人が通っている学校です。数学教諭の教え方が大変ためになると、何度か聞かされました。授業内容その物は変わり

ないと思いますが、思考訓練として興味があります。とても独特で学びが多い授業という話でしたから」

 アライグマはしばし黙した後で、「どうすれば転校できるかは、判っているか?」と息子に問う。

「はい。住民票上の住居をあちらの学校の学区に移します。通うのに問題は無い距離なので、ボクが実際に引っ越す必要はあ

りません」

「そうだ。居住実態は何とでもなる」

 ナルの答えに一応の満足を示して相槌を打ったアライグマは、「だがそれに必要な物もあるが、判るか?」と再び確認した。

「転居が名目上の物でも、転居手続きの際には、住居として実際に利用できる物件が必要…、でしょうか?」

「そこまで判っているなら良い。適当なアパートを見繕って一室借り、そこにお前の住民票を移す。転校のタイミングは三学

期からで良いな?」

「ありがとうございます」

 頭を下げるナルにとって、父親の了承は予想通りの物。

 アライグマはもともと、ナルが受ける学校での授業にさほど期待を寄せてはいない。教師達が手放しに褒めるナルの成績に

も、そう育てたのだから当然だと、眉一つ動かさない。自発的に学習を求めるナルが興味を持ったならば、今の中学より多少

は有意義だろうと判断したからこそ、アライグマは息子の要望をあっさり受け入れた。

 ナルが考えていた通り、学校に無関心であるが故に、デマカセの話の裏を取ろうともせず。

(念のために口裏合わせする「友人」を用意していたけれど、使わなくて済んだな)

 退室したナルは、自室に戻りながら考える。

 これで、より近くからタイキを監察できる。彼がどんな少年になったのか詳しく知る事ができる。三学期が楽しみ…なのか

どうかは判らない。だが、自分が珍しく抱いた欲求が満たされる事に、悪い感触は無かった。



 テスト期間が終わり、タイキは急いで家に帰る。

 変に開放感が高まっている連中に捕まってしまうと、テレビ番組が見られなくなってしまうので。

 同じくテストが終わったナルは、いつものようにドライバーに送られて習い事に向かう。

 二学期の終業式でお別れする学校に、もはや関心は少しも無い。

 それぞれが、ある意味でいつも通りの生活を送る二学期末。

 街はいよいよ、クリスマスのデコレーションで輝きを増していた。



 そして、イブの日…。

「受注伝票のミス!?」

 父猪は最後となるはずだった運搬を終え、車庫に車を戻した後で、若い虎の事務員から青い顔で相談された。

「60セットだったんです!字が、50に見えて…!」

 事務所のカウンターで見せられた複写式伝票の青い文字は、確かに5と読めない事も無い。しかし数量はともかく、金額か

ら考えてすぐに気付けそうなミスであった。発注側のミスではあるが、受注側でも確認すべき事項。全く責任が無いと突っぱ

ねれば、取引先との折り合いが悪くなるだろう。

「今年の現場は27日まで、28は片付けだけで、作業はしないって話だったからなぁ」

「コレ先方は急ぎますよね。ぜってぇに…」

 猪が相談されている間に戻って来た牛の専務や、熊の集配受付まで加わり、ざわつき始めると、中年猪は逞しい首を捻る。

「在庫は?今上がってる分いくらある?」

「7セット分は上がってるっすけど…」

 丁度工場へ行ってきたばかりだった集配受付が答えると、

「よし、場長に話通しててくれ。とりあえず上がってる分だけ持ってくわ。専務、あちらさんに連絡よろしく」

 猪は脱いで小脇に抱えていたジャケットを再び羽織る。

 悪いな、と顔を顰める専務にパタパタ手を振って、何でも無い事だと笑みで返した猪は、車庫へ戻ると、先程休ませたばか

りの相棒を積載用クレーンの元へと移動させる。

(ちょいと遅くなるが…、勘弁して貰おう)

 息子の事を考えて微苦笑する。プレゼントは既に妻へ預けておいた。置き場所はいつも同じなので、おそらくもうタイキが

包みを見つけているだろう。

 喜ぶ顔を思い浮かべながら、猪は積荷で重くなった車を回す。

 トラックの積荷は補強用の鉄材。県道の峠で行なわれている落石防止の工事で使う代物である。車を停めておく場所が充分

に無い場所なので、工事請負業者も大型車両をあまり回さず、本社ではなく現場へ直接納入させる事で対処している。

(雪だ…。ホワイトクリスマスか…)

 チラチラと、白い物が舞い始めた。フロントガラスに落ちた雪がすぐに溶け、ワイパーを動かしてトラックは走る。

(そう言えば、クリスマスイブは「特異日」なんだっけ?…誰が言ったんだったかな…)

 ハンドルを握る手に注意力を注ぐ。タイヤの挙動を確認する。滑りは無い。今のところは。

(…ああそうだ!ミョウジンって言ったっけ、去年取引したホテル業大手の…)

 紋付袴の仰々しい和装が、不思議と自然体で良く似合う和牛の大男。数度見ただけの彼が、丁度一年前にそんな事を言って

いたのだと、猪は思い出す。

 確か昨年のイブの日中に、「特異日には「色々と緩む」物だから、普段以上に注意した方が良い」というような事を社長と

話していた。

(そうだな。気の緩みには要注意っと…)

 日没から間もないクリスマスイブ。県道沿いは混み始めていた。ただちにチェーンを巻くほどではないが、峠へ登る前に装

着すべきだろうと考え、車間距離を普段より広く取り、慎重に走らせる。

 賑わう街の輝く灯り。ショーウィンドウ前で煌く雪を歓迎する人々。無骨なトラックは安全運転でその前を通り過ぎ、山道

へ向かってゆく。

 少しずつ人通りが減り、車も減り、街路灯も減る。片側二車線の県道から灯りが減って、暗がりが増えてゆく中、雪は少し

ずつ濃さを増していた。

 ワイパーが掻いていた水滴は、いつしか氷粒が多く混じるようになり、ヘッドライトを斜めに横切る雪の白い影が目に残る。

 掻かれた雪がフロントウインドウの端へ、縦長の筋を描くシャーベット状に残り、振動で折れてはまた新たに溜まる。そう

なった頃には、歩道を行く人影は殆ど見られなくなっていた。

(こりゃ現場の人達も大変だな…。荷受担当の人も早く帰りたいだろう…。っ!?)

 不意に、猪の眉が上がる。広めに車間距離を開けていたトラックの前に、左折専用レーンから割り込みがあった。

 買い物帰りなのか、コンビニの駐車場から滑り込んで、追い抜きながら前へ入ったのはシャコタンのスポーツカー。リアウ

インドウの内側にはクリスマスらしく白い綿を敷いたデコレーション。

 猪はそれらを瞬時に視認し、失われた車間距離を把握し、前方の赤信号を見る。

 積載している荷の安全と、制動距離の長さから、トラックは車間距離を大きく取る。それを丁度良く割り込めるスペースと

捉えたスポーツカーは、トラックを転がす猪の焦りなどお構い無しだったが…。

(この路面でそのスピードは危ないって!)

 危険を感じた猪の予想通り、赤いスポーツカーの尻が滑った。テールランプの黄色い曳光がトラックの鼻先を横切り、遅れ

てブレーキランプが強く光る。

「!!!」

 スリップも覚悟で咄嗟に急ブレーキをかけた猪の背後で、ゴドンと、重々しい音が響いた。

 積まれた鉄骨の、出発時に大急ぎで施された拘束が、想定されていない急制動で外れた。鉄骨の上部が滑り、荷台を突き破

り、フロントガラスを貫通して前へ飛び出す。

 けたたましいスリップ音に、トラックのタイヤが上げる悲鳴が重なる。

 その手前で、振った尻を危うい所で戻して走り去るスポーツカーの姿を、中年猪が見る事はなかった。



「父ちゃん遅いなぁ…」

 頬杖をついて待つタイキは、料理が平らげられたテーブルの上に出てきたケーキを見つめる。

 少し遅くなるから先に食べてくれ、と父から電話が入ってから、もう二時間半が経っていた。

 寂しいのとは違う理由で落ち着かない。不安というか、嫌な予感というか、居心地の悪さが消えない。

「そうねぇ…。あ、電話」

 母猪が手を拭きながら廊下に出て、タイキはチラリと、隣の椅子に乗せられた大きな包みを見る。

(父ちゃんかな?もしかして、まだ遅くなるとか…?)

 せめてプレゼントを開けるのは父が帰ってからにしたくて、中身を確認しないでずっと待っている。

「父ちゃんだったら、ケーキも食べちゃうぞ~って言って~!」

 廊下で電話中の母に、気持ちを切り替えてそう声をかけたタイキは、数秒後、転ぶような音を聞いて立ち上がった。

「母ちゃん!?どうしたの大丈夫!?」

 廊下に出たタイキが目にしたのは、魂が抜けたように崩れ落ち、座り込んでいる母と、床に落ちた電話の子機だった。



 一晩明けて、夕刻になった。

 ホワイトクリスマス。ただし、時々みぞれ混じりの雪に変わる、落ち着かない天気の。

 畳の上に座りこんだタイキは、望洋とした目で盛り上がった布団を見ている。

 真っ白な布団に寝かされているのが父だと、なかなか受け入れられなかった。

 父方母方両方の祖父母が駆けつけても、枕経を上げられている最中も、家まで出向いてきた葬儀社の係が母に説明をしてい

る間も、父の会社の上司と話している間も、一晩経ってなお父の死が信じられなかった。

 父の顔は派手にむくんでいた。荷台を突き破った鉄骨が直撃して、後頭部が大きく陥没しており、頭の形自体が変わってい

た。だから、枕に異常なほど頭が埋まっているように見えた。それでも、遺体の引渡し前に随分綺麗にして貰えた方なのだが。

 あまりにも急過ぎて理解が追い付かなかった。喪失感はまだまだ遠くにあって、実感し辛かった。悲しいという感情よりも、

「怖い」という感覚の方が強かった。形が変わってしまった父の顔が、押し出されるように薄赤い体液が漏れる閉じた目が、

怖かった。無念の表情と、悔し涙のように思えて…。

 通夜や葬儀などの日取りが決まって、タイキは母に促されて自室に戻る。

 コタツの上には、昨夜開け損なったクリスマスプレゼント。

 力無い手つきでリボンを解き、包装紙を破ると、出てきたのは黒いモコモコのダウンジャケット。

 希望した通りの暖かい外套は、しかし…。

「デカ過ぎだよ…、父ちゃん…。自分用の買って来たみたいじゃんか…」

 望んだクリスマスプレゼント。暖かいダウンジャケット。

 育ち盛りだから。そんな事を気にしていた父が用意したジャンバーは、タイキにはまだ大き過ぎた。

 膝から崩れ落ちた。真新しいジャケットを抱えて、声も無く泣いた。まだ光沢がある表面が涙と鼻水で濡れた。

 父はもう、これを着て見せても何も言ってくれない。



 終業式は忌引きで出席しなかった。

 本来なら浮かれているはずの冬休み頭、タイキは葬儀屋のホールで父の棺を見守り、通夜の後も一晩徹して線香を絶やさず

上げ続けた。

 父と良く似ている大柄な祖父は、偉いと褒めてタイキを抱き締め号泣したが、褒められるような事は何も無いと感じた。ど

うしていいか判らなくてこうしている自分の、何処が偉いのだろう?と…。

 泣き腫らした目は真っ赤に充血していたが、目は痛んでも眠くならなかった。ゲームや読書で徹夜する時とは全く違う。神

経が過敏になって眠気が来なかった。

 なるべく父の事を思い出さないようにした。思い出が涙腺を刺激して、次から次に涙が零れるから。鼻がつまったのか、そ

れとも匂いに慣れたのか、いつからか線香の匂いを感じなくなった。

 午前の内に出棺され、火葬が済み、父は少なくなった。一抱えの箱へ収まるほどに。ウソみたいだと、ぼんやり思った。

 午後になり、葬儀に参列してくれる人々が訪れた。

 近縁遠縁の親戚達。父の会社の人。母の職場の仲間。父母の友人知人関係者。代表で来たタイキのクラスの学級委員と担任、

学年主任と校長。

 タイキは「お別れの言葉」を読み上げる事になっている。文章は、自分でもよく覚えていないがいつの間にか書けていた。

思い出が痛くて辛いから、思い出して書きながらも心を硬く縮めていたのだろう。

 大丈夫かと祖父に問われ、ウン、と顎を引く。大丈夫かどうかなど判らないというのが本音だったが。

 最後のプレゼントになったダウンジャケットも持って来た。最後だから着て見せてあげようと、母に言われたから。

 そうか。墓穴の中に入ってしまったら見えなくなるよなぁ。

 そんな事を考えて納得した。

 従兄弟と久しぶりに顔をあわせて、ぼんやりしたまま受け答えして…。

 金切り声が聞こえた。

 ざわつきの中、悲鳴のような、甲高い女性の声で、タイキは首を巡らせる。

「同じ目に遭いなさいよ!何であなたには子供が居るのよ!」

 髪を振り乱して泣き叫ぶ人間の女性が、タイキの母に掴み掛かっていた。

 周囲の皆が慌てて引き剥がすも、女性はなおも、人殺し、返して、そう叫び続けていた。

「…何?」

 困惑するタイキを、祖父が捕まえて親族控え室まで引っ張ってゆく。

 皆があえて教えなかったのでタイキだけ知らなかったが、父のトラックは事故の際に、横断歩道を渡っていた親子連れを轢

いていた。

 前を歩いていた父と子は即死。後ろを歩いていた母親の前で、ふたりは無残な骸に変わっていた。タイキには教えられてい

なかったが、今も警察が事故の事を調べている最中である。

 結局、タイキはこの後ずっと放心状態で、お別れの言葉は読めなかった。それどころか、翌日の朝までの記憶がスッポリ無

くて、葬儀の間も納骨の時も自分がどうしていたのか、後々になっても思い出せなかった。



 翌日から、家では頻繁に電話が鳴るようになった。実際には葬儀のために家を離れていた間もかかってきていたのだが、タ

イキが把握できたのはこの日から。

 悔やみや確認…ではない。大半が、「過積載のトラックを暴走させて幼い子供と若い父親を轢き殺した男」への非難である。

こんな悲劇に黙ってなどいられない、落ち度を責める事が正義である、と感じた赤の他人達の非難は、地面の飴玉に群がる蟻

のように、止めどなく押し寄せた。

 実際には過積載ではなかった。だが、警察が未だに調べている最中にも関わらず、事故後のトラックの状況から素人目にそ

う断じられ、憶測で語られた事がさも真実であるかのように流布されてしまったせいで、ネット上ではそれが通説になってし

まった。

 電話が鳴った。呼び鈴が鳴った。窓ガラスが鳴った。タイキは、布団を頭まで被って丸まった。

 浮気が発覚したタレントへ、不正が発覚した競技者へ、ミスが発覚した政治家へ、顔を見せずに群がった人々が誹謗中傷を

繰り返すように、タイキとその母にも人々の正義が牙を剥いた。

 現実は容易く心を殺す。

 悪を叩く正当な権利を得たと、自分の中で思っている。そんな人々が振り翳す無数の正義が、少年の心をズタズタにしてゆ

く。
「悪を捌く」という免罪符を得て、己の正義に酔い痴れる人々。それを感情の捌け口にするが故に、振り下ろす正義は徐

々に大きく重くなって、さらには他者へ伝染する。
拡大する正義が平凡な家庭の粗を探し、ある事ない事繰り返し、そして叩

き易い適度な形へ家族像を構築し直して発信する。

 正義の味方達に、容赦はなかった。

 壁に落書きされた。脅迫文が届いた。責める電話が相次いだ。窓ガラスが割られて室内にゴミが投げ込まれた。

 タイキの父と会社は訴えられた。事故で子と夫を亡くした失意の婦人から。

 その事を薄々察しながら、しかし疲れきった様子の母に話の内容を確認する事もできず、冬休み中自室に閉じこもり続けた

タイキは、やがて新学期を向かえた。






 教室は、静かだった。

 黙って席に着いたタイキの耳に、ヒソヒソと囁き交わす声が届く。

 興味深そうに交わされる噂話は、ネット上で飛び交う井上家の噂についての物。

 視線が痛い。囁き声が痛い。ここに居たくない。

 脂汗を流し、込み上げる吐き気を堪えて、タイキは始業式を終えた。



 ノロノロと足が進む。

 俯いた視線は所々で水溜りが凍った歩道にだけ向けられる。

 トラックを見たくない。信号を見たくない。横断歩道を見たくない。親子連れを見たくない。

 必要最小限の、狭い範囲だけ見て歩むタイキは、気付いていない。

 自分の後方、かなり距離を開けて歩いている、真新しい制服を纏ったレッサーパンダの存在に。

(登校はしてきたね)

 転校初日となったナルは、ずっと向こうに見える大きな背中を眺めている。

 自身も転校生ということで目立っていたし、タイキに周囲の目が向き過ぎていて、今日は監察するどころではなかった。

 タイキの父…ずっと昔、あの公園へ我が子を迎えに来た猪が死んだ事は知っている。ネット上の誹謗中傷も、事故の内容も、

詳しく知っている。

 だが、それでタイキに同情しているかというと、それは全く無い。この状況で彼がどう生活するか、そこにだけ興味がある。

(ほとぼりが冷めるまで、しばらくお預けかな)

 タイキが家の方へ道を曲がってゆくのを見送って、ナルは太い道路へと進路を変えた。



 やがて、タイキは孤立した。

 大きな音は聞こえ易い、大きな声は聞こえ易い、皆が言う事は聞こえ易い。

 過失で他人の家庭を滅茶苦茶にした男の子供。学校中の子供がタイキをそう見るようになった。

 元々親しい友人も居なくて、独り余っていたタイキだったが、今では積極的に避けられている。

 唯一の、例外を除いて…。



「ええ~?ここで終わりかよ!」

 人気の連載マンガが良いところで次週へ続いてしまい、少年は不満の声を上げる。

 体育館裏で広げられた、主人公が家族の仇を追い詰めた迫力ある見開きページ。スカッとする暴力と甘美な復讐を期待した

少年達は、欲求不満の唸りを漏らす。

「来週は最初から思いっきりボコボコにすんじゃね?」

「だな。なんたって家族の仇だもんな」

「そういえば…」

 少年のひとりが、所在無く立っているタイキに目を向ける。

「お前もさ、復讐に来られるかもって、ビクビクしたりしてんだろ?」

「…!」

 タイキの目が泳ぐ。

 復讐。おそらくそれは執行途中だろうと思う。夫と子を亡くした婦人の、償いと罰を求める気持ちは、きっと変わらない。

悪意のあるなしに関わらず、父がハンドルを握っていたトラックが命を奪ったという事実は確かなのだから。

 ただ、それとは別の「復讐」なら、今もされている。

 復讐の権利があるのかどうなのか、そんな疑問を抱く事は無いのだろう。正義の人々の誹謗中傷は止まない。

 母が相談した甲斐もあり、警察官が同情して親身に様子を見に来てくれるようになったおかげで、ガラスが割られたり郵便

受けや玄関に悪戯されたりなどの自宅への直接的な被害は無くなったが、どんな噂が世間で流れているのかは知っている。

 気の毒がって慰めてくれる近所の人々も、親切にしてくれる警察も、しかしタイキは正視できない。もしかしたらこの人達

も…。そんな恐怖が頭に居座っている。

「大変だよな、人殺しの息子って」

 軽口、だったのだろう。しかしその茶化すような一言が、自分では上手い事を言ったつもりの一言が、心無い少年の一言が、

タイキの胸にグサリと突き刺さった。

「と…、父ちゃんは…」

 体の脇で握り締めた拳が震えた。

「父ちゃんは…、人殺しなんかじゃ…!」

 精一杯の反論は、声が震えていた。

「は?人殺しじゃねぇか実際」

 言い返された。それだけでカチンと来た少年が立ち上がる。身長では上回るタイキの俯いた顔を、首を捻って下から覗き込

み、睨み付ける。

「なぁ?人殺しだろ?親子殺し」

 黙りこんでいるタイキの胸が大きく上下した。

 昂る感情が心の中で暴れ狂う。呼吸が乱れ、脈が乱れ、目の前がチカチカして、眩暈がした。

 言い返して来ないタイキの胸倉を、少年が掴む。

「何とか言えよ、なぁ!?」

 凄まれて、大声に身が竦む。否定したいのに、強く出るだけの勇気が無い。押さえが利かない震えがカタカタと歯を鳴らさ

せる。

「違うのか?違わねぇだろ?認めろよ、「自分は人殺しの子供です」って!」

「…ちが…う…!」

 ポロポロと涙が零れた。フゥフゥと鼻息が噴き出した。

「父ちゃんは…、違う…!人殺しじゃない…!」

 認める事の出来ないたった一点。勇気を振り絞って否定し、胸倉を掴む手を振り払い…。

 ゴン。

 頬骨で硬い音が鳴った。

 気が付けばタイキは尻餅をついて、座りこんでいた。

「調子にのんなよ?豚!」

 殴られたのだとやっと理解したタイキの腹に、手を振り払われた少年の靴が飛び込んだ。

 つま先が深々とめり込んで、胃が圧迫されて、喉がグッと鳴った。

「えぶぅっ!」

 胃液と唾が混じった飛沫と共に、苦鳴を漏らすタイキ。その苦しむ様子が少年達の嗜虐心に火をつける。

 コイツは叩いていいヤツだ。

 少年達はタイキをそう分類した。

 だから、叩かれていいヤツが反論するのはおかしいと思った。

 黙って叩かれ続けるべきであって、何をされても我慢しなければいけないのに、コイツは判っていない、と。

 顔を蹴られた。横倒しになった。踏みつけられた。踏み躙られた。叩かれた。殴られた。踏まれた。踏まれた。踏まれた。

踏まれた。蹴られた。

 顔が地面に擦れた。牙に土がついた。体中砂埃に塗れた。袖が千切れた。仰向けになった。うつ伏せになった。何処もかし

こも痛かった。

「痛い!痛っ…!や、やめて!許…げう!いだっ!ひっ!痛い!ゆるし…!」

 許しを請う。泣きながら、転げながら、這いつくばりながら、土塗れになりながら。その様子が、抵抗の無さが、少年達を

かえって焚き付ける。

 制服が袖から千切れ、ボタンが跳び、ズボンは裂けた。四対一だとか、そんな数の差の問題では無い。体格にこそ恵まれて

いるが、気が弱いタイキは喧嘩をした事もなく、暴力の防ぎ方も、暴力の振るい方も知らない。殴り返し方も知らないだけで

なく、抵抗する術も意思も持たない。

 だから、結局、少年達が疲れて飽きるまで、タイキは泣きながら転げ周り、許しを請うしかなかった。



 すっかり暗くなった下校路を、ズルズルと、引き摺るような音を立てて猪が歩む。

 片袖が肩から千切れた制服と、膝に穴が空いて側面が裂けたズボン。酷い格好で顔はボコボコに腫れていた。

 そんな有様だったから、道行く人々は気付くたびに避けて距離を取る。

「……だ…。………やだ…。…もう………だ…」

 ゴモゴモと、口元からくぐもった声が零れ続ける。

「もう嫌だ…。もう嫌だ…。もう嫌だ…。もう嫌だ…。もう嫌だ…。もう嫌だ…。もう嫌だ…」

 喋っている自覚も無く繰り返すタイキ。

 虐められるのも、視線を向けられるのも、避けられるのも嫌。

 だが、一番嫌だったのは、父を詰られてもやり返せない自分…。

「…もう嫌だ…もう嫌だ…もう嫌だ…もう嫌だもう嫌だもう嫌だもう嫌…………」

 疲れきった顔には、虚ろになって光が消えた目には、もはや絶望しか無い。何もかもが怖くて、何もかもが嫌だ、と…。

 門を抜ける。玄関を潜る。自宅に入る。

 この日から、タイキは学校でも直接的な暴力に晒される事になった。

 そして、三学期残り二週間から、ついに耐えかねて学校へ行かなくなった。






(転校した甲斐は無かったかな)

 夜更けの窓を見遣り、そろそろ就寝時間だと時計を確認した折に、ナルは姿を見せなくなったタイキの事を思い出す。

 観察してみたが、特に面白い事はなかった。

 虐めについても把握していたが、傍観した。介入する事で観察結果に変化が生じては困るので、時々現場を見にも行ったが、

止めもしなかったし声もかけなかった。

 転校後のナル自身の学校生活は、客観的に言えば充実している。成績は優秀、友人も順調に増え、すっかり溶け込んでクラ

スの一員になっている。

 直接観察する時間が充分に取れて満足したのか、タイキへの興味が薄れている事を、ナルは自覚した。

 せいぎのみかたには、なれていなかった。結局幼い子供の他愛ない夢想だったのだとナルは結論を出す。こうなって来ると、

そもそも自分がどうして彼に拘ったのかが疑問だった。無駄な行動だったとも思う。あるいは、これが気の迷いという物か、

とも。だとすれば、まだひとらしい部分が残っていたのだろう。自分にとっては邪魔にならない限りどうでもいい物だが。

(まあいいか。もう充分観察したから、彼が学校に出てこなくても困る事は別に無いし)

 タイキへの興味を失ったナルはそう割り切って、ノートを閉じる。

 これまで通り、面白おかしい…と周囲からは見えるような学校生活を送るだけ。他に何も変わる事はない。

 …はずだった。






(井上大希…)

 三年生に進級した、一学期始業式の日。ナルは貼り出されたクラス名簿を見ていた。

「イノウエ同じクラス?」

「退学とかしてないんだ?」

「登校拒否してても進級はすんのかよ?」

 同じクラスになった生徒が数名、そんな事を囁いていた。

(まあ、今更どうでも良いんだけれど…)

 もはや彼に興味はない。ナルは普通に始業式を終え、普通に新しい教室へ移動し、普通に担任の話を聞き、普通に自己紹介

をし…。

「それじゃあ、学級委員はバンダイ君で良い?」

 女性の担任は、多数の指名を受けたレッサーパンダに確認する。

「ボクでよければ…、頑張ります…!」

 少し緊張気味に笑ってみせる愛らしいレッサーパンダを、賛成の拍手が包み込む。

 バンダイなら大丈夫。人当たりもいいし成績もいいし真面目で働き者だし…。教師を含めて全員が誤解して、たった一学期

しか知らない生徒を判った気になって信頼し、音頭取りを託す。ソレがどういうモノなのか気付きもせずに…。国や団体など

もこうやって滅ぶのだろうなと、ナルは歴史の授業の内容を思い出しながら考えた。

 学級委員の仕事について、ナルは別にどうでもいいと感じていた。さほど労力を割く物でもないから、と。周囲を欺く優等

生を演じるために、役立つバッヂの一つにはなる。その程度の価値は認めているが…。

(ああ、そうだ。どうせなら…)

 ナルは前の方で空いている席に目を向ける。



 塀を見る。スプレーの落書きは消されているが、よく見れば凹凸の中に染み込んだ色素は残っており、薄い斑模様になって

いた。

 担任から預かった保護者への挨拶とクラスの名簿が入った封筒を小脇に、ナルは井上家の門前に立つ。

 頼まれた訳ではない。ナルが自分から届けて来ると申し出て、この状況を作った。担任には勿論反対する理由などなく、も

しかしたらと期待を込めてナルにプリントを預けている。

 駐車場には軽自動車が一台だけ。母親は在宅。確認した上で玄関へ歩を進め、ナルはチャイムを鳴らした。



 チャイムの音に反応し、布団を被った影がビクリと震える。

 カーテンを締め切り、真っ暗にした部屋で、胎児のように丸くなっていたタイキは、きつく目を閉じて耳を塞ぐ。

 まただ。また誰かが責めに来た。「正しい誰か」が、「間違っている悪」を責めに…。

 嫌で、怖くて、吐き気がする。もう何も見たくないし聞きたくない。

 タイキは学校へ行かなくなっただけでなく、ろくに部屋から出なくなった、外界を拒み続けていた。

 怖いからテレビも見ない。気も紛れないからゲームもしない。誰かが正義を謳うからマンガも読まない。そもそも屋外に出

たくない。

 部屋から出るのもトイレに行く程度。いつしか食事のためにキッチンへ降りる事もしなくなり、今は母が置いて行く物を部

屋で食べている。風呂も一週間か十日に一回、体が痒くなってきた時だけ。

 控えめにドアがノックされ、タイキは息を止める。

「タイキ。起きてる?お友達が来てくれてるけど…」

「………」

 母の声をドア越しに聞いて考えた。友達って、誰だ?と。

 心当たりは無い。実際に友達と呼べるほど親しい相手にも、今の自分を訪ねて来る相手にも。

 布団の中で身じろぎしたが、出て行く勇気は無かった。結局返事をしないでいたら、母の足音が遠ざかって行った。

 母親も、最初こそタイキを部屋から出そうと、学校へ行かせようと努力したのだが、結局やめた。苦労して部屋から引っ張

り出してもタイキは、ずっと泣いていた。

 体格では既に母親を越しているし、力も強くなっているタイキだが、決して力ずくで抵抗しようとはしなかった。暴れもせ

ず、騒ぎもせず、シクシク、シクシクと、いつまでも泣いていた。怒りも不満も見せず、ただただ哀しみ脅えて泣き続ける息

子の姿が、母猪に傷の深さを思い知らせた。

(良いんだ…。どうせひやかしに来ただけ…。様子見て、学校で「こんなだった」って言いふらすだけ…)

 会いたい相手など居ない。誰と会っても話す事などない。布団に包まったタイキはベッドの上で寝返りを打ち、ドアに背を

向ける。が…。

「…?」

 しばらく経ってから、目の前の壁に線が入った。

 白く上下に伸びた線は、徐々に幅を広げて帯になる。闇に慣れていたタイキの目が、眩さに細められて…、

「!?」

 急激に見開かれた。壁に浮かんだ長方形の中に、黒く耳のある影が浮かんでいる。

 タイキの部屋のドアは鍵がかけられていない。単に外へ行きたくないだけで、母を拒絶する意思などないから。だから、訪

問者は母猪の許可を得て、普通に階段を昇り、普通にドアを開けていた。

 弾かれたように起き上がり、振り向いたタイキの肩から、モソリと厚い布団と毛布が落ちる。

 逆光の中に立っている、輝く影。輪郭だけだったソレが、瞳孔の順応で次第に姿をはっきりさせてゆく。

「こんにちは」

 鈴を転がしたような、軽やかで可愛らしい声を、人影は発した。

 誰だか判らない。タイキが浮かべた驚きと怯えの表情からそんな思いを察し、

「二年四組だった磐梯鳴。今は三年四組。君と同じクラスで、学級委員だよ」

 ナルはそう自己紹介して微笑む。誰からも好かれる善良で可愛い優等生の笑み。同情も共感も理解も無いそれが、理不尽の

底へ転げ落ちた少年に向けられた。

「お互いに顔は知っているけれど、こうして話すのは初めてだから「はじめまして」だね?イノウエ君」

 はじめまして。

 そんな邂逅の挨拶すらも嘘だった。

 窓から射し込む光が床に反射し、廊下に立つレッサーパンダは下からも照らされていて、輝いて見えた。

 まるで、水面に浮かぶ花弁のように。

 カーテンが締め切られた暗がりの中、ずり落ちた布団の中に座り込んでいる猪は、白い牙だけが目立った。

 まるで、闇に浮かぶ三日月のように。

 そこは、汚泥が溜まった闇の底。だから僅かな光すら眩く、目映く、輝いて見えた。