「第一印象とかどうだったんすか?」

 固太りの和犬の問いに、レッサーパンダは「そうだね…」と記憶を手繰るように目を細める…演技をする。猪の子供の笑顔

はいちいち思い出すまでもない。おそらく生涯忘れはしないだろう。

「やっぱり、格好良かったよ」

 思い浮かべている物とは完全に違う嘘の回答をしながら、「やっぱそうすか!」と尻尾を振った和犬ミックスに微笑み返す

レッサーパンダ。

(いや絶対に格好良いって思ってなかったでしょ…)

 厳めしい顔の大猪は、しかしそんな内心を口にも表情にも出さず、解した魚と白米を掻き込む。とはいえ、レッサーパンダ

が口にした格好良いという第一印象こそ嘘ではあるものの、その出会いがあって特別視に繋がった事は確か。

 レッサーパンダは考える。あの日あの場所で猪と出会っていなかったなら、自分は一体どうしていただろう?と。

 これまで幾度となく重ねた自問。詳細にシミュレートしてみた事も十回や二十回に留まらない。

 シミュレートの結果としてはいつでも、猪と出会う事が無かった場合、自分はここに居らず、父の元に居たのだろうという

結論に行き着く。多少異なる状況や物事を設定しても、だいたいはそうだった。そもそも、自分はそういう将来を目標に設定

されて、そこへ行き着くために日々を生きていたのだから。

 その道行きを変えたのが猪だった。とはいえ、猪がどうこうしてレッサーパンダを変えたという訳ではなく、レッサーパン

ダ自身が変える選択をした原因という意味である。

 それは、ティーンエイジャーにありがちな心変わりと大差は無く、しかし重大な意味を持ってもいたのだが、当時の本人達

にとってはそんな重要性など全く判っていなくて…。

「そういや、兄貴もバンダイさんも何でこのガッコに来たんすか?俺は兄貴の舎弟にして貰うためだったから一択だったっす

けど…」

 進学してきてしばらく経ってから知った事だが、ふたりの地元とこの学校は結構離れている。考えてみればここを選んだ理

由は知らなかったなぁと、和犬が訊ねると…。

(う…!)

 猪は内心かなり動揺した。理由は単純なのだが、非常に説明し辛いので。

「イノウエ君、地元では周りからかなりおっかながられてるから…。ビクビクしちゃう周りに気を遣うのも疲れるし、いっそ

知られていない所の方が気楽かなって。だったよね?」

 レッサーパンダは様々な質問を想定してあらかじめ回答を用意している。同意を求められた猪は顎を引いて肯定した。

(…そういえば…。ナルって元々は何処か良い高校に進む予定だったんだよな?少なくとも進学先の候補はたぶん、無茶苦茶

ハイレベルな所ばっかりだったろうし…)

 猪は考える。自分に合わせてくれたと思えば、嬉しいのが半分で申し訳ないのが半分。まぁこの学校での生活も本人なりに

楽しんでいるようにも見えるし、これで良かったのだとも感じるのだが…。

(オレに合わせなかったら、ナルは今頃どうしてたのかな…?)

 これは、ふたりしか知らない昔の話。

 汚泥の中で咲いた、一輪の花の話。

 泥の中から月を見上げ、独り佇む何かが、初めて「ひと」になろうと思った話…。












                  泥中之蓮(中)












 猪は瞬きした。

 四角く開いた外への窓。眩しい逆光の四角形。その中に立つ丸みを帯びた背が低いシルエット。照り返す光を浴びる愛らし

い微笑み。

(「はじめまして」…?)

 では勘違いだろうか?とタイキは瞬きする。

 一瞬、微かにだが、何処かで会った事があるような気がした。同じ学校ならば見覚えがあって当然とも思えるのだが、説明

し難い違和感…「ズレ」のような物を感じる。

(とりあえず、即座に追い出される事はないな)

 虚を突いてノック抜きに部屋へ入ったナルは、相手の反応が想定内に収まった事を、特段感慨も無く受け止めた。予想通り、

想定通りはいつもの事。

 嘘と偽りと謀りと騙し、非道と悪徳がまかり通る、腐敗臭すら漂う汚泥の中で育った少年は、その愛くるしい顔に人懐っこ

い笑みを浮かべたままタイキを観察する。

 体は大きいが迫力はない。危険は皆無、脅威には成り得ない、脅えて竦みあがり身を縮めている気の弱い動物…。ナルの目

に、タイキはそう映った。

 一方タイキは、突然の訪問に驚き、面食らっていた。脅えはある。誰かと会うのは怖い。だがそれ以上に困惑している。学

校の生徒が自分を訊ねて来るなど、想像もしていなかった。

 怖がっているように見えるがパニックにはなっていないとナルは看破し、一歩踏み出した。

「これ、新しいクラスの座席表」

 引き篭もる少年の間合いに滑り込む足運びは、相手を刺激しない自然な足取り。目線を手にしたプリントに吸い寄せる巧み

な仕草。白い用紙に気を取られたタイキは、気付けば眼前まで接近されている。

「はい」

 へたりこんだような格好でベッド上に居る猪の前で、レッサーパンダは少し前屈みになってプリントを差し出した。

 おずおずと出たタイキの手だったが、受け取りたくてそうした訳ではなく、半ば反射的な動作に過ぎない。きちんとこちら

向きにされたプリントに目を落とすが、暗くて名簿はよく見えなかった。

「座席表で名簿。左前列から五十音順の席だから、イノウエ君はここ」

 窓際にあたる左の列、前の方にあるタイキの席をナルが指差す。

「ボクはここ」

 次いでナルが指差したのは、全部で六列ある座席の右から三列目、後ろ側にある席。

 指を目で追うタイキは無言。意図して黙っているのではなく、呆気に取られて言葉が出て来ない。

 自然だった。あまりにも。レッサーパンダは不登校の自分に対して嫌々接している様子も無く、プリントをきちんと手渡し

て話しかけてきた。きっと、学級委員だから先生に頼まれて来たのだろう、役割だから訪問したのだろう、そう頭では思うの

だが…。

「具合、どう?」

 レッサーパンダが視線を上げて顔を見てきた。逆光で影になってよく見えないが、その表情と声音は心配そうに感じられた。

「………」

 何か答えたい。なのに声が出ない。他人との話し方を忘れてしまったように。

 そんなタイキの無言という反応を受けて、ナルは顎を引く。

「うん。それじゃ、お大事に」

 スッと身を引いたレッサーパンダは、入って来た時と同じように廊下まで引き返す。そして…。

「じゃ、またね」

 ドアに手をかけ、閉じながら、隙間から手を振った。

 タイキは手を振り返す事も、返事をする事もなく、閉められたドアの内側で、暗闇に戻った室内で、ただただ呆然とする。

 まるで、夢の中の出来事のようだった。自分を誰かが訪ねてきたという事が信じられなかった。

 しばらくしてハッと我に返ったタイキは、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ。制服に振られたスプレーか、それともシャンプーなど

の残り香か、部屋や自分の物とは違う清涼感のある香りが微かに感じられる。

「あっ!?ううっ…!」

 思わず呻くタイキ。被毛は寝癖だらけでボサボサ。シャワーを浴びたのは八日ほど前なので、皮脂で随分汚れているし、体

だけでなくパジャマまで臭う。ひとと会う事など考えてもいなかったタイキは、今になって自分の身なりと部屋の有様が酷く

気になった。





 翌日。プリントをタイキ本人に届けてきたというナルの話を聞いて、担任は少し身を乗り出した。そこまでしてくれるとは

思っていなかったので。

 あまり元気そうではなかった、何も喋らなかった、というナルの感想を受けて、復帰はまだ無理かと顔を曇らせる。

「北風と太陽、みたいにできれば良いんだけれど…」

 担任は言った。「外界」が嫌になったタイキを無理矢理引っ張り出しても解決にはならない。それでは心の傷はそのまま、

いつか無理が破綻を齎す可能性もある。自発的に登校できるようにならなければ解決とは言えない…と。

「イノウエ君が、自分から学校に来たいと思えるようになれば良いんですね?」

「そうね。学校が楽しい所だとか、ポジティブな印象で「外」を見られるようになれば良いけど…」

 傷は深いだろうし簡単には行かないだろうなぁと、担任はため息をつく。

(なるほど。引き篭もりからの社会復帰、か…)

 受け持つことになった生徒を案ずる担任とは逆に、ナルは少しばかり興味をそそられた。

 あまり触れることの無いケースである。虐められて不登校になるまでの過程は観察したが、引き篭もった後の心境などは接

してみなければ観察できない。人心コントロールの実験の一環として、引き篭もっている心境はどういった物なのか、どうし

たら復帰する気になるのか、今後のために学習してみようかと…。



「アヤカワさんのお孫さん達は、どういうお菓子が好きでしょう?」

 放課後、習い事へ向かう送迎の車の中で、ナルは紀州犬のドライバーに尋ねた。

「お菓子ですか?それは…、だいたいコンビニで買える物ばかり食べているような…」

 鉄板と言えるスナック菓子や、少し高級なコンビニスイーツ。自分が子供だった頃と特に代わり映えしないポテトチップス

の類は今の子供達にも好まれているようだと、初老の運転手は語る。

「坊ちゃんは、あまりスナック菓子は食べませんよねぇ?」

 バックミラー越しに視線を投げてきたドライバーに、「はい」とレッサーパンダが頷く。

「食べるものは家にたくさんありますから」

 ナルは間食として、主に高級なブランド菓子や果物類を与えられている。買い食いする習慣も無いので、同級生達が常食し

たり好んだりするような菓子類については、話題に出た品名をいくつか記憶している程度。詳しいとは言い難い。

「それに、あまりお菓子を食べたら今以上に太っちゃいます…!」

 ぷっくりした頬を左右から人差し指でつつくナルを見て、運転手はハハハと笑った。

「坊ちゃんはそのくらいが可愛らしくて良いです」

「そうでしょうか?」

 取り繕った良い子の会話をしながら、ナルは既に、井上家を次回訪問する際の手土産について考えていた。





 ピンポンと、チャイムが鳴った。

 いつものように身を竦ませたタイキは、布団の中で背中を丸める。

 胎児のように丸くなって息を潜めた猪は、ややあって聞こえたノックで耳を立てた。

「タイキ?この前の、クラスの子が来てくれたけど…」

「!?」

 返事は出なかった。時間の経過が判り難くなっているタイキには、あれから数日経った事しか把握できていない。何故また

来たのかと訝るタイキは、返事もできないままモゾモゾと身を起こす。

(何で…?)

 困惑。混乱。戸惑い。タイキは覚えていなかった…というよりも聞いていなかったが、ナルは前回の帰り際に言っていた。

「またね」と。

 母のノックから数分後、ゆっくりとドアが開いた。

 首を巡らせた猪の目が眩しさに細められる。逆光の中から、「こんにちは」と影が口をきく。

「これ差し入れ。よかったら食べて」

 部屋に入って来たレッサーパンダがコンビニの袋を差し出す。パリパリカサカサと袋が音を立て、面食らったタイキは口を

パクパクさせた。

 親しくもない、面識も殆どない、前回プリントを届けに来ただけだったはずのレッサーパンダが、二度目の訪問では差し入

れを持って来たのだから…、

「…何で?」

 思わずそんな疑問が口をついて出たのも無理のない事だった。

「あ。喋ってくれたね?」

 レッサーパンダが笑顔を見せる。猪はハッと顔を強張らせる。

「差し入れのお菓子。あと、授業のノートのコピー。ここに置くね?」

 コタツの上にコンビニの袋と、鞄から出したクリアケース入りのコピーを置いて、ナルはタイキに目を向けた。

「じゃ、またね」

 本当に、それだけだった。たったそれだけの用事を済ませて、レッサーパンダは帰って行った。

(オレ、喋ってなかったんだ…)

 閉ざされたドアを眺めながら、タイキは気付いた。そしてコタツの上を見遣り、しばしぼんやりと佇んでいた。

 何故来てくれるのか?口から出掛かった疑問の答えは、お預けになった。





 ピンポンと、チャイムが鳴った。

 昨日の今日で?とタイキは訝ったが、起き上がってドアを見る。

 まさか、と思う。自分にそこまで構う必要など無いだろう、と。だが、ほんの少しだけあった胸の奥の期待通りに、ノック

した母はクラスメートの三度目の来訪を告げた。

「こんにちは」

 光の中でレッサーパンダが微笑む。そして、コタツの上に置きっぱなしの、手をつけられていないコンビニ袋を見遣った。

「あ。もしかして…」

 ナルの小さくなった声を聞き、タイキはギクリとした。差し入れに手をつけていない、好意を無視する行いを責められるの

ではないかと。しかし…。

「ゴメン、これ嫌いだった?」

 レッサーパンダは不機嫌になるどころか、済まなそうに耳を伏せた。触れてもいないクリアケース入りのノートのコピーに

ついても何も言わずに。

「き、嫌いじゃないょ!?た、たでゃちょっと取っとごうとしででっ!?」

 慌てて口を開いたタイキだったが、まともに喋るのが久しぶりだったのもあり、ちょこちょこ噛んでしまった。

「そう?なら良かった」

 目尻を下げたレッサーパンダは、「同じの持ってきちゃったから」とコンビニの袋を持ち上げる。

「…同じの?」

「うん。ポテトチップとバームクーヘン。あと今日のノートのコピー」

 ナルはコタツの上に袋を置き、クリアケースを重ねる。

「…あ…、ありがと…」

 口ごもりながら礼を言ったタイキに、ナルは微笑をもって応じた。

「じゃ、またね」

 そうして昨日までと同じように、レッサーパンダは帰って行った。

 ドアが閉められて暗くなった部屋で、タイキはノソッとベッドから降りる。

 袋の中身はナルが言ったとおり、バーベキュー味のポテトチップと、少し高いコンビニブランドのバームクーヘン。

「………」

 無言のまま、バームクーヘンを取る。

 無言のまま、何で来てくれるのだろうかと考える。

 無言のまま、封を開けたバームクーヘンを口元に持ってゆく。

 芳醇な、バターの香り。

 一口齧って咀嚼して、口の中に甘さが広がると、ジワリと涙が出てきた。

 グシグシと袖で目を擦り、泣きながら食べて、タイキは思い出す。

 またね。

 今日も彼はそう言っていた。

 奈落の底で冷たい泥に塗れていたから、優しくされると身に染みた。





「あれ?」

 ドアを開けたナルは、昨日までとは異なる室内を見て目を丸くした。

 四度目の訪問で、初めて部屋が暗くなかった。カーテンは閉め切られたままだったが、灯りがついて明るくなっている。

 コタツの上からはコンビニの袋が消えていて、封が開いていないポテトチップスの袋が一つだけ残っている。クリアケース

は中身が無い状態で隣に置いてあった。

「あ、あの…。美味かったよ…。お菓子…」

 ベッドに腰掛けている猪が、恥らうように目線を床に逃がしながら口を開く。「ありがと…」と。

「良かった。でも、今日は違う味のにしたんだ」

 ナルはコタツに寄らず、真っ直ぐにタイキの前まで近付き、コンビニの袋を渡した。

「うす塩味。あとバナナクレープ」

「…これも好き…」

 受け取った袋を覗きこんだタイキが呟くと、

「そう?良かった!」

 ナルは顔を輝かせた。

「あとこれ、ノートのコピー。置いておくね」

 鞄から出したクリアケースをコタツの上に置き、空っぽのクリアケースを回収したナルは、目線を上げてテレビ周辺やコタ

ツ付近を確認した。

 ゲーム機やソフト、漫画本、年頃の少年に似つかわしい物が置いてある。

「ゲームとか好きなの?」

「え?まぁ、うん…」

 ゲーム機やコントローラー、リモコンが薄く埃を被っている事を確認したナルは、口ごもるタイキの反応もあって、しばら

く触れていない事を見抜いている。

「ボクの家には無いんだ。こういうの面白い?」

 そんなナルの問いに、タイキは「まぁまぁ、かな…」と曖昧な返事。

 昨日までに置いていかれたノートのコピーは確認してある。二年生三学期末から登校していないため、少し理解し難い内容

もあったが、それを抜きにしてもタイキにも理解できた。効率良く纏められた、理解し易い綺麗なノートの取り方は、「勉強

がデキるヤツ」のソレだと。

 きっとこのクラスメートは優等生なのだろう。こういった物は下らないと感じるだろう。そう思ったのだが…。

「ゲームか…。いい気晴らしになるかな?」

 レッサーパンダはゲーム機類をしげしげと見てからタイキを振り返り、小首を傾げて微笑んだ。

「………!」

 ドキリと、タイキの心臓が強く脈打った。

 きっと馬鹿にされるだろう。下らないと言われるだろう。度重なる不幸から悲観的になり、何でも悪い方向に考えがちだっ

たタイキはそう決めつけていたが、レッサーパンダはそんな被害妄想とは真逆の反応を示した。

「あ、あの…さ…」

 おずおずと、タイキは口を開く。上目遣いにナルを窺って。

「貰ってばっかりで…、アレだし…。一緒に食べない?」

 だが、そんな誘いにレッサーパンダは首を振った。

「ゴメンね、今日はこれから習い事があるんだ」

 ああ、そうだよなぁ。タイキはそう胸中でため息をついた。

 学級委員だから様子を見に来るだけ。好きこのんで訪問してくれている訳ではない。長居などしたいはずもなかった。と。

しかし…。

「明日は大丈夫だけれど、どうかな?」

 ナルはそう訊ね、タイキは目を丸くしてからコクコク頷いた。

「じゃあ、また明日」

「う、うん!また明日!」

 また明日。

 きっとそれは多くの少年にとって珍しくもない、有り触れた別れの挨拶。しかしそれすらもタイキにとっては幼少期を思い

出す懐かしい言葉。

(「また明日」…)

 閉じたドアを見ながら、少年は胸の内で繰り返した。

 一方ナルは、運転手が待つ車に戻ると、携帯を取り出して父にメールを入れた。

 帰ってから詳しく説明するが、明日は放課後に学校の用事があって残らなければいけないため、習い事を休みたい、と。

 基本的にサボる事をしないナルの意思は、学びに必要な物と自己判断した結果として父からも尊重される。少しして届いた

返答は、判った、という短い物だった。

「アヤカワさん。明日の帰りはお迎え要りません。数学の塾は休む事にしました」

「判りました。ではそのように…」

 答えた初老のドライバーはバックミラー越しにナルを覗く。

「例の、不登校のクラスメートの事で?」

「はい。…父にはナイショでお願いしますね?」

「ええ、勿論」

 タイキの様子を見に行っている事は、「下らない」「構うな」などと言われるのが目に見えているので父には話していない。

だが、ドライバーには口裏合わせして貰うために事情を話している。

 優しい坊ちゃん、と好意的に見ているドライバーに、しかしナルは「単に観察してみたいだけの実験に過ぎない」などとい

う本当の動機など話さない。初老のドライバーが望む通りに、優しい御曹司を演じる。

 しかし、時々こう思う事もある。

 もしも自分の本心…ひとの感情や心など知りもしない、共感能力を欠いた異常者の精神性に気付いたならば、周囲の人々は

どんな顔をするだろうか?

 ほんの少しだけ興味がある。だがその暴露が、生活する上でのメリットを齎すとは到底思えないので、これまでと変わらず

秘しておく。





 五度目となる訪問では、母親がドアをノックしなくなった。

「タイキー!バンダイ君が来てくれたわよー!」

 階下から投げかけられた声に反応して飛び上がったタイキは、ソワソワと部屋の中を無意味に往復した。

 掃除機をかけた。布団は畳んだ。体も洗った。着替えた。やるべき事はやった。はず…。ただ、永く部屋に篭っていたせい

で季節感が狂っていたのは否めない。もうすっかり暖かくなったのに、コタツがそのままというのは気になった。もはや後の

祭りだが。

 落ち着かずにウロウロしていると…。

「こんにちは」

 開いたドアの向こうでにこやかに笑うレッサーパンダ。

「あ!うん!こんにちは!」

 硬い表情の猪は声がやや震えている。

 タイキが不登校になる以前から、家族や親戚以外が部屋に入る事など殆どなかった。小学校時代に数度、何人かの友人を上

げただけ。だいぶ緊張しているタイキはコタツ脇のクッションを勧める。

「失礼します」

 行儀良く正座したナルの前には蜜柑の缶ジュース。コタツの上にはタイキが母に頼んで用意して貰った菓子類と飲み物。お

もてなしの準備はできている。

「どうしよう?持って来た分…」

 傍らに置いたコンビニの袋を見遣り、少し困ったような微笑を浮かべるレッサーパンダ。

「えぇと…、好きな物だけ食べる、とか?」

 向き合って座るタイキは、大きな体を縮めて正座し、視線を卓上の缶ジュースに固定している。

「何が好き?」

 袋を開けて、中身をコタツの上に出すレッサーパンダ。

「えぇと…。だいたい好き?かな?」

 菓子類を見て率直な意見を述べた猪は、それじゃ決められないなと耳を倒す。

 しかしその返答で、どれでもいいかと考えたナルは、ポテトチップの袋に手を伸ばす。

「あの…」

 袋を破るナルに、タイキは訊ねてみた。おずおずと控えめに。

「何で、来てくれるの?」

「うん」

 頷いたナルは、想定していた通りの質問に対して、意図的に少し間をあけて答える。

「寂しいかなって、思って」

 その言葉に嘘は無い。寂しいだろうと考えたのは確かである。ただ、ナル自身は寂しさと言う物を理解しておらず、タイキ

が抱いているだろうと想定するそれに対して共感もしていない。

「あと、暇かも?って思ったから」

「………」

 タイキは黙ってナルの視線を追う。ゲーム機は薄く埃を被っていた。

「最近はあまりやってないの?」

「…うん…。まぁ…」

 言葉を濁したタイキだったが、

「ボクこういうので遊んだ事がないから、興味あったんだけれど」

 ナルの言葉で「え?」と眉根を寄せた。



「合戦かぁ。へぇー。戦国時代を体験するんだね?」

 コントローラーを握るタイキの隣にチョコンと座り、モニターを見ながらナルがうんうん頷く。

 どうしてこんな事をしているのか、タイキも訳が判らない。

(学校も行ってないのにクラスメートが家に来てゲームしてるのを横で見てて…。何だこの状況?)

 促されるままに久しぶりに立ち上げたゲームは、時間が経っていたので進み具合を思い出すまで少しかかった。それでもす

ぐに途中だった戦略を思い出し、資金の捻出と部隊の編成を進め、隣国に攻め入る。その手際の良さをナルは褒めた。凄いね。

勝ったね。そんな素人そのものの感想で、タイキは嬉しくなってしまう。

 ゲーム類は家に無い。とナルは先日言っていたが、それどころか触れた事もなかったらしく、物珍しそうな様子である。興

味を持ってくれたのが嬉しくなったタイキは、三十分も経った頃には、訊かれてもいないのにゲームの内容や進め方を自分か

ら話していた。

「右上に時々出るマークは何なの?横に数字がある、三行くらいの…」

「ああ、これ?」

 コントローラーを操作してナルが言った物を表示させたタイキは、領土内の住民の好感度や体力だと説明する。低くなると

一揆が起きたり疫病が流行ったりするので、これに注意しながら政策を行なわなければならないのだ、と。

「凄いね。細かいね。こういう所も考えなくちゃいけないんだ…。勉強より頭使うんじゃない?」

「いや結局遊びだしねコレ…」

 応じながら、タイキはドギマギしていた。

 画面をよく見ようとするたびに、ナルは隣から少し身を乗り出し気味にした。胡坐をかいたタイキの膝に正座したナルの脚

が触れるほど近い位置なので、その都度体が近付いて、薄っすらと何かの香りが鼻をくすぐる。制服スプレーか、それともボ

ディソープの香りなのか、ナルからは柑橘系の爽やかな匂いがした。

 ドキドキする。体が火照る。それは緊張とか、部屋に誰かを招き入れている不慣れな状況による落ち着かなさだけが原因で

はなくて…。





 ナルはそれからもちょくちょくタイキを訪ねた。そうしてタイキがプレイするゲームを横で見たり、部屋にあったマンガ本

を読ませて貰ったり、録画してあったアニメを観たりした。

 話題はそういったサブカルチャーが中心になった。タイキは少しして知ったが、ナルはテレビもマンガもゲームも、有名に

なった物は名前を知っているという程度で、自分から触れた事は無かった。あれは何?これは何?そう事あるごとに訊いてく

れるのが、興味を持ってくれるのが嬉しかった。

 引き篭もる以前に、そもそも友達付き合いという物に不慣れだったのもあって、最初はギクシャクしていたタイキだったが、

次第に態度も軟化して、サブカルチャー中心の他愛ない話題ならば詰まってしまう事も間がもたなくなる事もなくなった。

 タイキがナルの来訪を心待ちにするようになるまで、それほど時間は要らなかった。

 ナルが学校の事を話題に出す事はなかった。プリントを預かって来た時などに、最低限触れるだけである。

 ナルは一度も、学校に行くようにとも、授業を受けるようにとも言わなかった。学校で誰とどんな事を話しただとか、タイ

キに判らない話題も避けた。学校に出て来いと無理強いはせず、しかしノートのコピーだけは届け続けた。

 そんなある日のこと、井上家を訪ねたナルは階段の途中で足を止め、耳をすませた。

 タイキの部屋から歌声が聞こえる。流れる曲に鼻歌が乗っている。どこかで聞いた事がある声だと、記憶を手繰ったナルは

すぐに思い出した。テレビのCMなどで時折耳にする歌声だ、と。

「え?シェリル・ウォーカーだけど」

 ヘタクソな鼻歌を聞かれただろうかと恥かしそうなタイキは、ナルに歌姫の名を教えてくれた。聞いてみれば、ああなるほ

ど、と自分の中で容易に繋がった。話題に出る歌姫の名と、耳にする歌声が。

「…いい歌だね」

 ゲーム機に挿入されたディスクが、テレビを通して流す英語の歌に耳を傾け、その意味を理解しながら、ナルはそう感想を

述べた。

 正直な言葉だった。声も、歌詞も、素直に感心した。歌手というものがトレーニングで声を出す事は理解している。こうま

で心地良く響く声を得るため、この歌手がどれだけの代償…時間や労力を費やしたのか、少し興味が湧いた。

「聴いてみる?他にもいろいろあるけど…。あ、気に入ったのあったら貸すよ?」

 また一つ、ナルが興味を示した事が嬉しくて、タイキは返事も待たずにアルバムを引っ張り出し始めた。



 その夜、午前二時を回った頃、ナルは本を閉じた。

 ノートパソコンにセットされたCDが、歌姫の声を流し続ける。耳を傾けながら背もたれに体重を預け、ナルは目を閉じて

その声に聞き入った。

 タイキの家で時間を使うようになって以降、ナルはそれまでと同じ学びのクオリティを保つため、睡眠時間を削っている。

 だが、こんな生活もそう長くは続けないと、ナルは既に決めていた。

 タイキの好感は随分と得られた。既にだいぶ信用されている事は間違いない。

 ナルはタイキの観察をもう充分だと判断し、ある目的のために次の段階に入ろうとしていた。

 即ち、自分がタイキの心をどれだけ掌握し、意のままにできるか、という実験に。

 人心掌握は父の得意とする物。恐怖を、欲を、巧みに利用して父は他者を支配する。跡継ぎである自分もその手法を得てお

かなければならない。

 ただ、父と全く同じ手法ではなく、異なるアプローチでそれが可能かどうかというのがナルの関心事。

 好意を抱かせ、行動をコントロールする。具体的には、自分の言う事を聞き、タイキが学校へ行くかどうか…。それがナル

の実験が目指すところ。

「誰しも思うままに生きているつもりで、誰もがだいたい縛られて生きる…」

 英語の歌詞に和訳を添えて口ずさみ、ナルは思う。

 まったくその通りだ、と。

 腰を上げ、シャワーの支度をして部屋を出る。

 父はまだ仕事をしているのだろう。深夜にも関わらず、階段に差し掛かった所で上の階から声が聞こえた。

(いや、深夜でないといけないのか)

 今受けている仕事の関係で、白昼堂々とは会えない人物と面会しているのだと、ナルは把握している。

 顔色の悪い、落ち着きのない、キョロキョロと神経質に周囲を見回す客の男の顔を思い浮かべる。

 金色に染めていた髪も最近黒くして、真っ赤で派手なシャコタンのスポーツカーも手放し、地味に印象を変えているが、元

々はああではなかったのだろうとナルは推測する。

 何かしでかして、それを父に握られた者は、だいたいそうなるから。





「あ…。もうそんな季節か…」

 部屋を訪れたワイシャツ姿のナルを見て、タイキは目を大きくした。

 今日から衣替え。ナルは半袖のワイシャツ姿になり、上着を着ていない。

「でも、今年は涼しくていいよね」

 タイキは、ナルのそんな言葉に曖昧に頷いた。外に出ないので気温の変化も、例年と比べてどうなのかも、よく判らない。

「そっかー…。寝苦しい日が多いと思ったら…」

「え?大丈夫?体調悪い?」

「いやそんな事ないっ!」

 ナルの問いでタイキは慌てた。気を使ったナルに帰ると言い出されたくはなかったので。

「だいたい、ずっと部屋に篭りっきりだから風邪とかも貰わないしね、オレ」

「そう?でも、体を動かしていないから体力が落ちて…っていう事もあるし…」

「う…!そ、それはまぁ…!でも、昔から運動とか嫌いなんだよなぁ…」

 だからこんな体、と言うようにタイキが太鼓腹を円を描くように撫でると、ナルは「あ~…」と苦笑いを見せる。

「立派なお腹だもんね」

「立派って…。普通にだらしないって言われるのと同じぐらい引っかかる表現だなぁ…」

「そう?じゃあ何て言えばいいのかな…」

「!?」

 タイキの被毛が逆立った。ナルは思案するような顔で、何気なく手を伸ばして腹に触れ、撫でていた。

 ゾクゾクした。触れられる事に。膝が触れ合うのとは違う、自分から触れに来る行為に。

 少し前からタイキは自覚していた。自分がナルに惹かれている事を。

 見た目の可愛らしさもある。体型も好みだった。可愛らしい仕草や表情にドキドキした。しかも自分を気にかけてくれる。

そして優しくしてくれる。何よりナルには自分が否定されない。

 社交性があって優しい。引っ込み思案で弱い自分とは大違いだと感じながら、タイキはナルに好意と…、

「ちょ、くすぐったいって!」

 いつしか性的な欲求を抱いていた。反応しそうになった股間を、大げさなみぶりでくすぐったがっているように見せかけな

がら隠す。

「でも、少しは体を動かした方が良いかもね?体力が落ちて抵抗力とか無くなっちゃうし。あ、そうだ」

 ナルはふと思いついて言った。

「散歩しながら、ボクの部屋に来てみる?家とは違うけど」

「…え?」

 猪は眉根を寄せた。提案が唐突だった上に、ナルが言う「家と違うボクの部屋」の意味が判らなかった。



「…大丈夫?」

 門の所に立ったナルが振り返る。

 久しぶりに外出用の私服に着替えたタイキは、口を引き結んで小刻みに息をしていた。

 変な汗が出た。別に学校へ行く訳でもないのに、玄関から一歩出ただけで緊張して体が強張った。

 気分が悪い。目がクラクラする。しばらく同じ景色しか見ていなかった上に、屋内という狭い空間に視覚が慣れてしまった

ため、自然光を浴びながらのピント調節で眩暈が生じた。

「…う、うん…。大丈夫…!」

 唾を飲み込み足を踏み出す。その一歩が重くて、たった二歩で脚が震えて、三歩目で気分が悪くなった。

 身も心も外界の環境を拒んでいた。これはやはり無理かもしれないと、気弱になったタイキは…、

「!」

 そっと伸びて、自分の手を取ったレッサーパンダの手に、視線を釘付けにする。

「本当に平気?」

 答えられない。息を整えるだけで精一杯だった。

「無理しなくてもいいよ?」

 添えられた手とかけられる声が、不確かで恐ろしい外界の中での命綱。

「辛いよね?怖いよね?大変だよね?」

 優しい声が耳をくすぐる。

「本当に無理なら、やめていいんだよ?」

 だから、もう一歩だけ、と思った。

 期待に応えたかった提案に乗りたかったがっかりさせたくなかった失望させたくなかった嫌われたくなかった。

 その一歩は、しかし、それまでと違って感触がはっきりしていた。

 目のピントが合い初めて、震える膝が落ち着いてきて、繋いだ手に焦点が合う。

「ゆっくりで、ね。ゆっくりで良いんだよ?」

 震える手を取るナルが心配そうに顔を見上げてくる。

 だから、もう一歩だけ、と思った。

 その一歩は、先よりもさらに少し、軽くなっていた。



「平気?」

 階段を昇りきったところでナルに訊かれて、タイキは乱れた息の間から「う、うん…!」と返事をする。

「階段…!ふぅ、ふー…!上がって…来たから、疲れただけ…!」

 強がりではない。アパートの入り口を潜ってからは、室内という認識になるせいか、緊張も和らいでいた。

 ナルが部屋を借りている四階建てのアパート。歩いて十数分という距離だったが、久しぶりに外界に触れるタイキにとって

は相当な遠出に感じられた。

「この部屋だよ」

 ナルが案内したのは階段から近いドア。表札も出ていない、部屋番号だけが表記されたドアを解錠して、レッサーパンダは

猪を招き入れる。

「お、お邪魔します…」

 靴も並んでいない玄関の叩き。生活臭が無い部屋の空気。手続き上の転居のためだけに用意された部屋なので、タイキが抱

いた第一印象、「ひとが住んでいない感じ」という感覚は正しい。

 戸惑いながらも促されて上がったタイキは、ここは登下校中に何かあった時のために用意してある臨時の部屋なのだと、ナ

ルから聞かされた。

「だから、本当に物が無いんだけどね?」

 替えられた後ろくに踏まれていない畳の匂い。押入れには使った事も無い布団。湯を張った事もない風呂桶。封も切ってい

ない洗面所の歯ブラシ。冷蔵庫には保存水。戸棚にはカップラーメン。

 非常時用の隠れ家みたいだ。などという感想を抱いたタイキは、「眺めは良いんだよ」というナルの後について、一番広い

居間の隣にある、おそらく寝室用の部屋に入った。

 西を向いた窓の外はベランダで、開けられると川を渡る電車の音が聞こえた。その先の踏み切りからカンカンカンと、リズ

ム良く響いて空気が震える。夕暮れまで少し時間がある空は落ち着いた明るさになっていた。

 広い景色に眩暈を覚えて視線を足元に向けたタイキは、ベランダの足場に視線を固定した。長方形のパネルが五本並べられ

た床は、手すりが細い事もあって少し怖い。

「なんかここ、ベランダ怖いね…。この床パネル?」

「イノウエ君もそう思う?見た目からして頼りないでしょ。でもここを使う事はないから。洗濯物とか全部実家でやるしね」

 使っていない卓袱台の横に座布団を出し、台所の電気ポットで湯を沸かし、パックの緑茶を淹れながら、ナルはタイキを振

り返った。

「少し休んでから帰ろう?」

「うん…」

 帰りも気分が悪くなるだろうなと、げんなりしながら座ったタイキだったが…。

「頑張ったね、イノウエ君。立派だよ」

 湯飲みを二つ、トレイに乗せて居間に入ったナルを、ビクンと体を震わせて見上げる。

「立派だよ。本当に」

 トレイを卓に降ろして隣に座りながら、ナルは囁く。

 次の瞬間、タイキの目から涙が溢れた。

 外を歩く。皆がやっている当たり前の事。できない方がおかしい事。そう思うのに今の自分にはしんどい事。

 それを、ナルは褒めてくれた。

 無言のまま俯いて、歯を食いしばって、足にポタポタと涙を落とすタイキに背中を、ナルは優しく撫でる。

 そして思う。とりあえず、外出実験は成功した、と…。





「最近機嫌が良さそうですね坊ちゃん」

「え?」

 習い事からの帰り道、迎えの車の中で初老のドライバーが口にした言葉に、ナルは意外さを隠せなかった。そういった芝居

をしているつもりはないのだが、初老の紀州犬の目にはそう見えていたらしい。

「張り合いがあるから、でしょうか…」

「お友達の件で、ですか?」

「はい」

 ナルは不登校のクラスメートを励まし、復帰のために頑張っている。…と認識している紀州犬は「それは良うございました」

と目を細くする。

「坊ちゃんの真心は、きっとお友達に通じていますよ」

「そうだと良いんですけれど…」

 照れ笑いの顔を作りながら、ナルは思う。

 それはありえない。「真心」…ひとの心を持たない自分から、ソレが通じる事などありえない。そもそも、ひとは表面だけ

取り繕っている自分の、このハリボテの心を見抜けないまま接しているのだから、心の真贋など本当は重要では無いのだと。

 ただ、口にしてから感じたが、「張り合いがある」というのは本当だった。

 計画が計算どおりに進むからか、それともタイキが手の内で容易く転げるからか、未来の為の投資とも言えるこの実験に遣

り甲斐を感じ始めているのは間違いない。

(けれど、それが機嫌が良さそうに見える形で表に出ているのか…)

 その点だけはナルにも不可解だった。





 数日後…。

「…何これ?」

 井上家の玄関で、タイキはダンボールの山を前に呟いた。

「誕生日プレゼント」

 応じるナルは、日時指定で送りつけた大荷物を前に、可愛らしくウインクする。

「え?いや、まだ先だよ誕生日?」

「うん。でも早めのプレゼントっていう事で、どうぞ!」

 タイキは複雑な表情である。正直プレゼントは嬉しい。と言うよりも、誕生日を祝って貰える事自体が嬉しい。のだが、複

数の大型ダンボールを前に少し引いている。

 ナルに言われるまま、手分けして自室に運び込んで箱を開けてみると…。

「…何これ?」

 出てきた品々を前に、タイキは再び呟いた。

「トレーニング用具だよ。パンチの」

「へ?」

 床に立たせるサンドバック型のパンチングスタンド。天上から吊るすパンチングボール。そしてパンチ力を鍛えるトレーニ

ングチューブ。さらにボクシングエクササイズのビデオ…。

「…バンダイ君、ボクシング好きなの?」

「え?そうでもないよ?詳しくもないし」

「じゃあ何で…」

「ストレス解消と運動のため。これなら部屋で体力つけられるかなって」

 値段を訊くのが怖いプレゼントの山を眺めるタイキは、

「…あんまり嬉しくなかった…かな…」

 しょんぼりするふりをしたナルに、慌てて「いや!使うよ凄く使う!ありがとう!」と礼を言った。

 そして、ナルが帰った後…。

(どうしよう…。使い方とか以前に、パンチってどうするんだ?)

 せっせと器具を設置しながら大いに悩んだ。





 ナルの部屋への散歩と、室内でのトレーニング。動かないでいると気が滅入る物なので、ナルはこの二つをタイキに課して、

褒めながら継続させた。

 運動は嫌いなタイキだったが、ナルは一計を案じ、パンチトレーニングにゲーム感覚を取り入れた。ボクシングのナンバー

システムを参考に、ボールやスタンドに数字を書いた紙を貼り付け、短時間で声掛けどおりに撃ち、時間を計って記録をつけ

るというゲームである。

 これはナルの思惑通りにタイキのモチベーションを維持する助けになった。単調なレベル上げだろうが資金稼ぎだろうが苦

にせず、成果が見えるゲーム内パラメーターでテンションを上げるタイキは、少しずつ上手くなるナンバー声掛けパンチの成

果も同じように捉えた。

 最初こそへっぴり腰で、力み過ぎた大振りなパンチでバランスを崩して尻餅をついたりしていたものの、ビデオでの学習と、

ナルに見て貰いながらのフォームの矯正で、一週間も経った頃には形だけは何とか物になった。

 そこからはひたすら、正しいフォームで素早く、正確にナンバーを狙う練習。そして言われたナンバーを即座に狙う反射神

経の研磨。
より強く速くナンバーを打ち抜くために試行錯誤している内に、踏ん張る足と捻る腰も鍛えられた。チューブを使っ

たパンチ力トレーニングも功を奏し、ボールとバッグを捉える拳の音は日に日に鋭くなって行った。

 何せ学校にも行かず時間を余らせている引き篭もりである。普通の生徒が授業を受けている時間中、繰り返し繰り返しナン

バーを打ち抜く練習を重ねるタイキは、客観的に見れば驚くほどのスピードでこの運動に順応し、磨きをかけて行った。

 父親譲りで元々筋肉がつき易い身体は、脂肪の下にしっかりとトレーニングの成果を蓄えて、引き篭もる前とは肩幅も背中

の広さも明らかに違って…。





 表面が艶々していた新品のスタンドから光沢が消えるまで、そうかからなかった。

 訪問して飲み物を貰い、一息入れたナルは、部屋の端に立っているパンチング用のスタンドを見遣る。根が生真面目なのだ

ろう。タイキは一日も休まずパンチトレーニングを繰り返していた。

「あ、今日はもうやる?」

 察したタイキは腰を上げて、右、左、と順に腕を回して肩をほぐし始めた。指を組んだ掌を前へ向けながら両腕を伸ばし、

そのまま上体を左右にグッグッと捻り、手早く柔軟する動作からは慣れが窺える。

 ナルが来た時、トレーニングの成果を数値化するために簡単なテストを行なうのが恒例になっていた。

「じゃあ計るね?」

 ナルも立ち上がり、スマートフォンのストップウォッチを呼び出して、パンチングスタンドと向き合ったタイキを横から眺

める位置に移動する。

「んっ…、んっ…」

 ストレッチの仕上げに、ユーモラスに太鼓腹を揺らしながら腰を大きく捻ってほぐしたタイキは、両拳を軽く握って顎の高

さまで上げ、ファイティングポーズを取った。

 足を肩幅に開いて足首と膝を柔らかくしたそのフォームは、なかなか堂に入っている。肥満体型ではあるが、元々骨太で肩

幅も広く胸も厚い立派な体格。筋肉もつき易い体質なので、今や拳を握ったその両腕は、不登校になる前とは見違えるほど逞

しく力強い。

「よし。オッケー!」

「じゃあ、3…、2…、1…」

 カウントダウンするナル。リズミカルに軽く体を揺するタイキ。

「1、2!」

 ナルの声から間を置かず、パパンッと鋭く打撃音が響く。左ジャブ、これを引きつけつつ放つ右ストレートがスタンドを立

て続けに捉えた。

「5、8!」

 続く声を打撃音が追いかける。今度は左腕がボディめがけてコンパクトなフック。右腕が打ち下ろしで正中を狙う。

「3、6!」

 キュッと踏み込み左のショートアッパー。さらに右のボディブローを繰り出す。

 立て続けに指示された番号に対応する位置を、タイキは正確に素早く叩く。番号を聞くなりすぐさま狙い易い、打ち易いポ

ジションに足を移動させ、基本的にはホームポジションである顎の前から、時にはブローのフォローモーションから流れるよ

うにパンチを繰り出す。

 ナルが読み上げる数字は全部で8種類。これを50発打ち終えるまでにかかる時間を計測する。ただし、きちんとヒットし

ていなかったり違う位置を打ってしまった場合は、ナルが「ミス」とコールし、タイキはもう一度そこを打ち直す。

 最初の頃はナンバーの位置の表示が不可欠で、しかも打ち間違えてばかりだったが、今では滅多に打ち漏らさない。今日も

全て正確に叩いていた。

 運動は嫌いだったはずのタイキだが、このゲーム感覚で行なうパンチトライアルには自分でも意外なほど身が入った。地道

に繰り返すトレーニングと工夫で、タイムという成果が目に見えて向上してゆくのが少し楽しくて。

「ラスト、7!」

 フィニッシュブローが、指定された位置を打ち抜きながら殴り下ろし、50発のトライアルが終了した。

「ぶはっ!っぷふー!ぷふー!」

 無酸素運動から開放されたタイキが、ファイティングポーズを解いて前屈みになり、膝に両手を当てて激しく息をする。毎

日体を動かし始めたとはいえ、持久力がつくような運動はしていないので、短時間の全力運動ですぐに疲れ果ててしまう。

「あ。すごいよ、0.13秒記録更新!」

 正確に計測したナルがスマートフォンのデジタル表示を見せると、タイキは肩で息をしながらも嬉しそうに耳を倒して顔を

綻ばせ、尻尾を振った。

 地味な積み上げも、成果が見えれば楽しい。タイキの性格上、ナルが提案したこの運動は性に合っていた。





「そのポロシャツ、きつくない?」

 ナルの部屋までの通い慣れた道を歩きながら、問われたタイキは「実は肩周りとかちょっと…」と顔を顰めた。

 飽きもせずパンチトレーニングを繰り返している成果で、タイキの腕は一回り太くなっており、肩も盛り上がって元々の猪

首に拍車がかかっている。

「去年は少し緩いくらいだったのに…」

「運動の成果だよ、きっと」

 偉い、と褒められて耳を寝せるタイキ。

 外出はもう平気になった。ナルの部屋は勿論コンビニにも寄れるようになった。そろそろ次のステップに移っても良さそう

だと、ナルは考える。

 途中で買ったジュースを手に、ナルの部屋に入って休憩する。日は長くなり、夕暮れまでの時間が延びている。灯りをつけ

なくとも部屋は充分に明るかった。
テレビも無い居間は、しかしタイキにとって居心地の良い空間になっていた。邪魔が入ら

ずナルとふたりきりで居られるから。

 少しだけ、済まないなと思う事もある。自分に関わってくれるナルは、きっとその分だけ他の付き合いを減らしている。自

分に気を使って話題に出さないが、社交性がある可愛い少年だから、交友関係が狭いはずは無いと理解している。

 他愛ない雑談を交わしながら、友達ができるなんて小学校進学前以来ではないか?などと考えて少しヘコむタイキ。

「ちょっとトイレ…」

 席を立ったタイキは、借りたトイレの中で殺風景な壁を見遣った。家のトイレにはカレンダーなどがかかっているのだが、

この部屋はトイレどころか台所にもそういった物が無い。ここで生活しない以上特に必要でも無いのだろうが…。

 居間に戻ってきたタイキは、ただいま、と言いかけた口を閉じる。

 ナルは卓袱台に頬杖をついて目を閉じていた。縞々の尻尾が畳に降りて伸び、呼吸で頭が少し揺れている。

 起こさないように足音を忍ばせながら、そっと近付いたタイキは、ゴクリと喉を鳴らした。

 ボタンを外して大きく開けた襟元から、柔らかそうな毛が覗いている。触れてみたいという欲求が湧き上がる。

 優しい友人。自分を気にかけてくれる良い奴。そんなナルへの意識が、個人的過ぎる欲求で塗り潰されて、「好みの可愛い

子」に変わってゆく事に不快感と罪悪感を覚える。

(そうだよ、バンダイ君は…、大事な「友達」で…)

 なのに…。

(なのに…)

 どうして…。

(こんなの…)

 自分の手は…。

(まずいよ…。まずいって…)

 大切な友達の太腿へ伸びているのだろうか。

 よせ。やめろ。そう理性が言うのに、ぽってりと太い脚に伸びる手が止まらない。隣に座ったタイキから、ソロリソロリと、

ゆっくり、静かに伸びた手が、ナルの太腿に触れた。

 起きてしまう。もう止せ。早く。

 そう思うのに、鼻先をナルの横顔に寄せて匂いを嗅いでしまう。

(バンダイ君の匂い…)

 ほんのりと柑橘系の香りが混じる体臭。清涼感があり、ほのかに甘い匂い。

 ナルは目を開けない。だからといってこれ以上はまずい。触れたいと、嗅ぎたいと、本能的な欲求が切々と訴える。その声

に抗って、タイキは堪える。

 ナルはこんな自分に手を差し伸べて、外に出られるようにしてくれた。抱き締めたい。くっつきたい。自分が抱いている深

い感謝と好意を、この少年に行動と態度で示したい…。だが、そんな愛情表現は迷惑にしかならないと、自分の好意は相手に

とって好まれる物ではないと、理性が止める。その欲求は結局のところ個人的な物。それを感謝などとごちゃ混ぜにして言い

訳するな、と…。

 手の重み自体も乗せないような、そっと置いて触れるだけの掌にナルの体温を感じる。愛おしいその温もりから、断腸の思いで手を引き、畳についたその瞬間…、

「!?」

 ナルの目が薄く開いた。目があってギクリとしたタイキはすぐさま後悔した。どうして顔を寄せたままで、起こすような動

作を取ってしまったのか。何故先に身を離してから手を引っ込めなかったのか。冷や汗をかきながら悔いた。が…。

「!」

 声も出ないタイキの喉がヒュッと、吸気の音を立てる。

 畳の上に置いた手に、そっと温かい物が重なった。

 ナルの手。軽く乗った重み。何が起きているのか理解できず、混乱するタイキに、まどろむような半眼を向けたままナルは

口を開く。

「…いいよ…」

 甘く蕩けるようなその声が、タイキの耳に入り込む。

「いいよ…、我慢しなくて…」

 言われている意味がすぐには判らなくて、次いで聞いた通りの意味と受け取って良いのかどうか戸惑って、最後に「…え?」

と掠れた声を確認するように漏らしたタイキの手を、ナルは重ねた手でキュッと握り、導くように引いた。

「イノウエ君のしたい事、していいんだよ…」

 ナルはタイキの手を、そっと自分の胸元に当てさせる。戸惑い、困惑しながらも、猪の目に浮かぶのは、期待したい、信じ

たい、これが夢では無いと思いたい、という仄かな希望。

「いいんだよ…。もう我慢しなくて…」

 タイキの手を胸に当てさせたまま、ナルは片腕を猪首に回し、頭を抱き寄せ、その顎を自分の肩に乗せさせる。

 喉が鳴った。吸いたいのか、吐きたいのか、タイキ自身も判らない息が喉に詰まった。

 次の瞬間、声が出た。

「うう、うううあう…!うふうううっ!」

 嗚咽が。苦しみの声が。タイキの喉から漏れ出した。

 嬉し過ぎて苦しい。喜びが強過ぎて涙が出る。こんな事もあるのだとタイキは知らなかった。

「あうううう!ううっふ、うううううっ!えふううう!」

 子供がぐずるように、獣が唸るように、病人が咽るように、耳障りな唸り声を漏らし続ける猪を、レッサーパンダは回した

手で、その背中を撫でてあやす。

「うん…。我慢していたんだよね…。体格も違うし、力ずくで言う事をきかせられるのに、イノウエ君はそうしようとはしな

かったんだよね…。ボクの気持ちを無視しようとは思わなかったんだよね…。偉いね…」

 いつしかタイキはナルを抱き締め、声を上げて泣いていた。

 いいんだよ、と。拒絶されなかった事が、今でも信じ難いが嬉しかった。絶対に理解されないと、受け入れてくれる相手が

見つかるはずもないと、そう思い続けて来たのに、唯一外との接点になっている少年が自分を受け入れてくれた。その奇跡に

胸が苦しくなる。

 泣き過ぎて、背を丸めてむせ返り始めたタイキの頭を、ナルは胸に抱いてやって、背中を優しく撫で擦った。

 ナルは知っていた。

 タイキの仕草の隅々まで観察していたから、前々から知っていた。彼が自分に対して好意を持っているだけでなく、自分を

見て性的な興奮も抱いているという事を。

 引き篭もって外界を怖がり、しかし日向から伸ばされる手を無視できず、優しさと温もりに触れればこれを求めずにいられ

ない。絶望の泥中に在るからこそ、目の前に放り出された物は何であれ眩しい。そんなタイキは、欺きの手錬であれば吊り上

げ易い獲物である。

 程度や深度の差はあっても、他者を篭絡するのはナルが得意とする所。ずっとそうして生きて来た、芝居が日常の少年にとっ

てタイキを傾かせるのは容易い事だった。

 一切の共感無くその好意を肯定してやりながら、ナルは考える。

 そろそろ、またステップを進めても良いだろう、と。





 シェリル・ウォーカーの声が部屋を満たす。窓を叩く雨音と重なって。

 梅雨の盛り。晴れ間を拝める日が極端に少なかった週の最終日、ベッドに腰掛けているタイキはチラリと隣を見遣った。

 テレビの方を見ながらスピーカーの音に耳を澄ませているナルが、視線に気付いて首を巡らせたら、タイキは照れている様

子で視線を逃がした。

 ふたりの間で手が重ねられている。ナルの小さな手はタイキの手が被さると殆ど見えなくなる。

 日差しが強いので、窓にはレースのカーテンが引いてある。部屋は心地良く冷房が効いていて、外の暑さを全く感じない。

「いいよ」

 そっと顔を近付けてナルが囁くと、タイキは向き直って覆い被さる。押し潰さない程度に体重を預け、ベッドへ仰向けに倒

して、猪っ鼻をナルの襟元に押し付けて体臭を胸いっぱいに吸い込む。 タイキの豊満な腹部を預けられて太腿から下が圧迫

されるが、ナルは嫌なそぶりも見せずに頭をそっと抱えて優しく撫でる。

 タイキが存分に甘えた後で、ナルはその手を猪の下に入れた。丸みを帯びた肉付きのいい胴を撫でる。脇腹から背中までゆっ

くりと、繰り返し。

 心地良さそうに息を熱くするタイキ。体を優しく撫でられると喜ぶ事を把握しているナルは、手に余るほど体格が違う猪を

丹念に撫でてやり、脱力させる。

 やがて、力が抜けて体重をまともにかけはじめたタイキは、のそのそとナルの横へ体をずらした。左側を下にして寝そべっ

たタイキと向き合う格好で横になったナルは、右手で脇腹を撫でてやりながら、左手をタイキの頬の下に入れる。

 心地良さそうにリラックスしたのを見計らって、ナルはタイキの脇腹から胸元へと手を移動させ、首周りから改めて撫で始

めた。もっさりした喉を、膨らみのある胸を、カーブを描く腹を、丹念に撫でた後で、ナルはタイキの股間に手を這わせる。

 ピクンと腰が震えたタイキの股には、ハーフパンツを押し上げる硬い膨らみがあった。既に屹立している陰茎を布越しに撫

でられて、猪が鼻の奥を「んっ」と鳴らす。

 焦らすようにしばらくズボン越しの愛撫を行なった後で、ナルが「そろそろ弄る?」と囁くと、タイキはモソモソと体を動

かして腰を浮かせ、ズボンとパンツを脱ぎにかかった。

 やがて下半身だけ裸になったタイキは、仰向けになって股を開く。対して起き上がったナルはベッドから降りて、タイキが

ベッドの縁から投げ出した脚の間に入った。

 仰向けのタイキを股の間にしゃがんで見る格好になったナルの視界では、緩やかな丘陵のように丸みを帯びた腹の手前で、

膨れて太くなった陰茎が目立つ。

 包皮が厚い逸物も、たっぷりした陰嚢も、年齢以上に立派で存在感がある。体も大きいが性的にも成熟が早いようで、タイ

キの性器は成人とすっかり変わらない機能を備えていた。それだけに、この年頃特有の性的欲求も大きい。

 熱く熟れた太い肉棒をそっと両手で包まれると、ひんやり心地良くなったタイキは「あ…!」と鼻にかかった声を上げた。

きつくしない程度に陰茎を包んだ手をナルが上下させ始める。性急な動かし方はせずに、ゆっくりと時間をかけて刺激するの

がナルのやり方。そうした方がタイキの満足する度合いが大きいと、経験則で学んでいる。

 学ぶ事の例に漏れず、この手の事に関してもナルの類稀な学習能力は発揮された。タイキの反応…目立つ体の反射やしぐさ

だけでなく、呼吸のペースや陰茎の脈動などまで観察し、どうすれば心地良く感じるのかが手に取るように判る。

 次第にピストン運動は激しくなり、タイキは体の脇でシーツを握り、深い皺をつける。肉布団のような腹が振動で揺れて波

打ち、足の裏と尻が接地している両腿も小刻みに揺れる。

「うっ、ううう出そう…!もう出そう…!」

 押し殺した声を漏らしたタイキに「いいよ」とナルはいつもと同じ答えを返す。傍らに置いていたボックスからティッシュ

を数枚抜き、飛び散らないように陰茎に被せるや否や、タイキの肉棒が勢い良く精液を吐き出した。

 ビュクッ、ビュクッ、ドプッ、ビュッ…。

 息を殺すタイキの射精は量が多く、噴射と言える勢いである。重ねたティッシュの内側にバタバタと当たった精液がシーツ

を汚さないように、ナルは素早く追加のティッシュを陰嚢の辺りにあてがって、零れて来る分を受け止めた。

「はっ!ぶはひっ!ぶふぅ!ぶひゅっ!」

 荒い息で激しく上下する腹の上にも、飛び散った精液が達していた。それを丁寧に拭い取ってやったナルは、余韻に浸るの

を待ってから「気持ちよかった?」と訊ねる。

「う、うん…!あ、ありが、と…」

 恥かしそうに目を逸らしたタイキの股間周りを、ナルはテキパキと綺麗にしてゆく。

 少し休んで落ち着いてから、「じゃあ、今度はオレがやるね?」とタイキは身を起こした。

 恥らう素振りを演じながら、ナルは「うん…」と入れ替わりでベッドに寝そべる。先程と位置を交換する格好になって、ナ

ルが開いた足の間に顔を寄せたタイキは、その蕾のような陰茎を太い指でそっとつまんだ。

 ナルのソレは小柄な体格相応のサイズだが、平均よりだいぶ太い自分の物を見慣れているタイキには小さく感じられる。指

の腹で挟み、コリコリと捏ねるようにして包皮越しに亀頭を刺激すると、レッサーパンダは小さく喘ぎ声を漏らした。

 だがこれまで、タイキがいくらしごいてやっても、ナルが射精に至った事は一度も無い。刺激に反応して快楽を覚えている

ように振舞うものの、気持ちよいとは感じていない。タイキ自身の手つきが拙い事もあるが、そもそもナルはタイキに対して

好意も性的な欲求も抱いていない。

 ナルは欲求が薄い。共感の欠如も含めて、こういった部分がある自分はヒトとしては欠陥品なのだろうとも思っている。

 だが、それはそれで別に問題無いと考える。いちいち様々な欲求に耐えなければならないようでは、日々煩わしい思いをす

るだろうから、と。

 かなり経って、もういいよと身を起こしたナルに、タイキは済まなそうに耳を倒して詫びる。

「ゴメンね?オレいつまで経っても上手くできないな…」

「気にしないで。ボクが鈍感なだけだと思うから。それに、もしかしたらイノウエ君みたいに出来上がってないのかもしれな

いし」

「出来上がってない?」

「うん。オチンチンがまだ、大人になっていないのかも」

「…そっかぁ…」

 それなら仕方ないかもしれない。その内に射精できるようになるだろう。そんな事を考えるタイキに、ナルは言わない。本

当は既に精通しており、射精ができる事など。そして、自分はそんな事をして貰いたいと、全く感じていない事など…。





 ナルにタイキが溺れるまで、そうかからなかった。

 逢瀬で時間が出来る度に、ナルはタイキを甘えさせて身も心も絡め取った。

 もうそろそろ頃合いだと思う。体力は最低限ついた。それなりに前向きになった。心は掌握した。提案したら登校の決意ぐ

らいはさせられるかもしれない…。

 車窓から街路灯を眺めながらナルは思う。そういえばタイキの父が事故に遭ったのはこの道のはずだった、と。

 その日も、ナルは初老の紀州犬に習い事の送迎をされていた。

「週末もお友達のところへ?」

「はい。その予定です」

 すっかり遅くなった夜十時。車の交通量も目に見えて減っている。

「どんな具合ですか?」

「だいぶ元気になってくれました。今学期中に登校できると良いんですけど…」

 ナルが話題に出すのは勿論当たり障りの無い所まで。ただし、少し調べれば誰でも知る事ができるような情報は隠していな

いので、初老のドライバーもタイキが不登校になった理由や、父親の事故死についてはナルから聞いている。

「大変でしょうけど、頑張って欲しいですね」

 しんみりとドライバーが言う。一番上の孫が来春に小学校を卒業するので、ナル達の年頃の子供には親近感を抱く。

「若い内はね、何でもやり直しが効くし、どうとでもできる物です。だいたいは。…ただ、その為に助けが必要な事もありま

す。そのお友達こそがそういう状況でしょう。坊ちゃんの心遣いは、きっとお友達を助けてあげられると私は信じていますよ」

「そうなるように、頑張ります」

 応じながら、ナルは思う。

 そう。だいたいの事は修正が効く。自分のように欠陥品として形が定まってしまった者は例外だが、と。

 そして思うのは、立ち直ったタイキが学校へ行けたとして、それからどうなるか、という事。

 交友関係を築くのが苦手なようだから、簡単には友達ができないだろう。何といっても父親の件もある。順風満帆とは言え

ないだろうが…。

(学校に行かせるまでが実験だ。その後はどうなっても…)

 ふと思い出したのは、「せいぎのみかた」というキーワード。

(少なくとも、せいぎのみかたにはなれないだろうな)


 ナルを送り届けて車を車庫に入れた初老の紀州犬は、先に入れられていた事務所の車ではない軽自動車を見遣る。

 また深夜の客だろう、と考えてシャッターは開けたままにし、車のキーを戻すために屋内階段へ向かい、中に入った。

 今日はナルの習い事が長引いて普段よりだいぶ遅くなったので、事務所の所員も皆帰っており、フロアの明かりは落とされ

ていた。だが、電灯をつけるまでもなく非常灯で足元が見える。節約精神が染み付いている初老の運転手は、壁のスイッチに

触れず廊下を進み、ふと気がついた。

 相談用の個室。その一つから細く明かりの筋が床に伸びている。

(旦那様、今夜はこちらで対応しているのか…)

 深夜の客の訪問は、おそらく今夜は予定していたものではなかったのだろう。最上階のフロアで迎える準備ができていなかっ

たので仕方なくこちらで対応した…という流れは想像がついた。

 足音を忍ばせて通り過ぎようとした初老の紀州犬は、

「…道……号線沿いに…………てい…カメラ…全て…」

 漏れ聞こえた、雇い主の小さな声に反応して足を止めた。

 耳に届いたのが、たまたま先程も通った県道の名前だったからなのだが、

「繰り返しますが問題はありません。あのトラックにもドラレコは搭載されていなかった。買い上げたあのカメラ映像の他に、

割り込みの瞬間を録画していた物は存在しません」

「???」

 足を止めたまま、紀州犬はその話を聞いてしまった。いつも通る道だから興味があったのと、ナルと話したばかりの少年の

父が事故を起こしたその道路だった事など、些細な要因がいくつか重なって、長い務めの中で初めて雇い主の仕事の話を盗み

聞いた。

 数分後、紀州犬は蒼白になってその場を離れた。

(本当なら…。それが本当なら…)

 足音を忍ばせ、事務室に入り、鍵を戻す。

(坊ちゃんのお友達のお父さんは…!)

 手が震えて鍵が落ち、床に当たってチャリリッと音を立てた。

 悲鳴を上げそうになった口を両手で覆い、慌ててドアを振り返りつつ、鍵を拾って所定の位置に引っ掛け、急いで廊下に戻

る。密会は続いているようで、個室からは誰も出て来ていない。

(警察に知らせるべきか?いや、しかし…)

 そのままあの部屋の前を通る気にはなれなかった紀州犬は、ナルの顔が思い浮かんで階上に向かった。が、帰ってすぐにシャ

ワーを浴びに行ったのか、それとも食事の為に食堂へ向かったのか、少年の部屋は空っぽだった。

(いや、落ち着け、冷静になれ、坊ちゃんにこんな事を伝えるのは酷だろう!?)

 額の冷や汗を拭い、階下に戻ろうとした紀州犬は、

「アヤカワ。丁度良かった」

 先のフロアの廊下から現れた男を見て足を止める。

 中年のアライグマがそこに立っていた。その手には、先程紀州犬が戻してきたはずの車のキー。

「少し出かける事になった。車を出せ」

 放られたキーは、受け止め損ねた紀州犬の胸に当たり、床に落ちる。

「どうした?アヤカワ」

 蒼白の紀州犬は、じっと自分を観察するような雇い主の視線を感じながら、のろのろと屈んでキーを拾う。

 ポタリと、鼻先から落ちた汗がキーの脇に染みを作った。


(ん?アヤカワさん、また車を出している?)

 軽食を手に自室に帰ってきたナルは、たまたま見下ろした窓の外、道に出て行った事務所の車を見つけて軽く眉根を寄せた。

 雨の名残で水滴がついている窓に、鋭く光を散らしながら、黒い高級車は深夜の闇へ去ってゆく。

 

 この十時間ほど後。初老の紀州犬の水死体が、自宅近くの用水路で発見された。





「バンダイ君、何かあった?」

 顔をあわせるなりタイキがそう言ったのは、ナルが初老の紀州犬の通夜に出た翌日の事だった。

「え?どうして?」

「何だか、元気がなさそうだなって思って…」

 猪は曖昧に表現したが、ナルから普段と違う物を感じ取っているのは確かなようで、「学校とかで何かあった?」と重ねて

訊ねた。

「学校では、特に…」

 はぐらかそうとしたナルが鞄を床に下ろすと、

「じゃあ学校以外?」

 と、タイキは確信を込めて身を乗り出した。

「何があったの?グチとかならいくらでも聞くよ?オレでも手伝える事ある?」

 心配そうに、そして落ち着かない様子で、肩を掴んで顔を覗きこんでくるタイキに、

(…「せいぎのみかた」…)

 ナルは一瞬、遠いあの日、あの公園で会った、お節介な子供の姿を重ねた。

「…小さい頃からお世話になっていた、運転手のひとがね…」

 はぐらかすのが面倒だったのだろうか?口を開いた後で、ナルはそう自問した。

 

 ズズッと、鼻を啜る音が部屋に響いた。

 ナルと並んでベッドに腰掛けたタイキが、ティッシュを取って盛大に鼻をかむ。

「それは…、悲しいよね…」

 涙ぐむタイキにしおらしい顔で「うん」と頷きながら、ナルは違和感を覚えた。

 会った事もないのに、話した事もないのに、哀しいのか、と。

 タイキのそれは「共感」とは言えない。何故なら、自分は何も感じていないのだから。

 聞いた話で、相手が哀しいと思い込んで、その気持ちを誤解して涙を流す…。

 滑稽な勘違いだと感じたが、どうしてか、ナルはそれを愚かな事と思えなかった。

「バンダイ君は偉いね…。泣かないで我慢できるんだ…」

「偉いのかな…」

 応じながら、しかしそれは違うとナルは思う。

 喜怒哀楽、様々な感情表現をほぼ完璧に演じるナルだが、一つだけできない事がある。

 ナルは泣く事ができない。

 涙は眼球を乾燥から守る為に分泌されるだけで、感情の昂りなどで溢れる事はない。初老の紀州犬の通夜でも、泣き崩れる

小さな孫達の姿を見る視界が曇る事はついぞなかった。

 幼い頃はそうではなかったと思う。だが、今では涙が枯れたのか、それとも涙腺が泣き方を忘れてしまったのか、そのティ

アーズラインを涙が濡らす事はない。できないからしないだけで、もしも泣けたなら、今も、そして通夜の席でも、泣く芝居

を打っただろう。

 なのにタイキは、そんな事を知らないまま偉いと言う…。

 滑稽な勘違いだと感じたが、どうしてか、ナルはそれを愚かな事と思えなかった。

 慰めようというのだろう。タイキはナルを抱き締めた。いつもの甘えて来る時とは違い、包み込むように抱いて頭を胸に抱

えた。別に必要ないとは感じたが、ナルはそれを拒まなかった。

「大事なひとだったんだよね…。元気なくなって当たり前だよね…」

 そんな事はないと、ナルは思う。大事なひとだった訳ではない。別に必要だった訳ではない。世の中の殆どの事と同様にど

うでもよかった。

(そう。どうでもよかった。どうでも、よかった…。ああ、そうだ。「不要」な訳じゃなかったな…)

 ナルにとって、世の中の殆どの事はどうでもいい。

 だが、どうでもよくはあっても、必要ではなくとも、それがそのまま「不要」とは限らない事に、そもそも自分がそれらを

「不要」とはみなしていない事に、ナルは初めて気がついた。そんな事を、気付かせた当人は全く判っていないのだが。

 どうでもいいひとだった。必要でもないが不要でも勿論なくて、どちらかといえば居て貰っていい存在だった。

(そうか…。ボクにはもう、車の中でイノウエ君の話をする相手が居ないのか…)

 欲が無かったはずの少年は、初めて自覚した喪失感を咀嚼する。失うのを忌避する気持ちはつまり、欲の階(きざはし)で

もあった。

 そしてナルは、タイキの胸に顔を埋める。

 悲しいという気持ちは、寂しいという気持ちは、やはり判らない。ただ、喪失感という物は不快で、何だか胸の中が…。

「寒い…」

 ナルがポツリと呟くと、タイキは慌ててエアコンのリモコンに手を伸ばす。設定温度はそれほど下げていなかったのだが…。

「………」

 ナルはタイキにギュッとしがみ付く。温度が欲しかった。温もりを得たかった。それは、生存欲求とは別の「欲」だった。

 梅雨明けは、もう目前に迫っていた。





 下校路を、レッサーパンダはテクテク歩く。

 期末テストが迫った時期、蝉の唱和は日に日に大きくなり、陽射しも強くなっていた。

 暑い。我慢するも何も以前はあまり意識していなかった気温や湿度の高さを、今のナルは不快な物と知覚する。同時に涼し

くて快適な空気を求める欲求も知覚している。

 人並みとは行かないまでも、自分の中にはっきりとした欲求を認めたナルは、それを注意深く観察して拡張した。皮肉にも

喪失への忌避から対照する形で把握できるようになった欲求の類を、ナルは「面白い」と受け止めている。

 思いの外たくさんの、生存とは無関係な欲求があった。

 シェリル・ウォーカーの歌を好むのもそう。ポテトチップを食べるのもそう。生存に必要だったり将来に有用だったりする

訳ではない物を、求めて、得て、満足する…。欲求を満たされる感覚が面白い。

 こういった感覚や心の動きを把握しながら、ナルは最近になって、欲求が希薄になる原因となった心当たりに思い至った。

 母が恋しい。弟と会いたい。そんな、叶わない願いで磨耗する心を護る為に、幼かったナルは防衛措置として欲求を封じた。

求めなければ叶わなくとも傷つかない、と…。つまり欲求の希薄さは、かつて自らが望んでそうした結果だった。

 そしておそらく、情動の異常にもあの頃の事が関係している。感情豊かではあの父親の下で生活するのが苦しかったから、

徐々に心を平坦に均して、感情の起伏を失わせていったのだ。

 今更真面目にこんな事を探求する辺り、自分はやはり欠陥品なのだろうと思う。だが、こうして欲求という物を探って行け

ば、それなりに質が良い模造品にはなれそうな気がした。

 熱くなったアスファルトの端を歩いて、たどり着いたのは井上家。通い慣れた玄関を潜り、階段を上がり、ドアを開ければ、

求めていた涼しい空気と…。

「おかえりバンダイ君!」

 待ち構えていた猪がレッサーパンダを迎えた。

 最近はナルが訪問できる曜日が決まっている。父が評するには後任のドライバーは物覚えが悪いそうで、ナルの送迎に割け

る回数が減った。いずれ増やして元に戻すらしいが、今は習い事の送迎だけに絞ってある。口裏を合わせてくれるドライバー

も居なくなった今、父に言わず井上家訪問を続けるためには、どうしても無理が出ない範囲で回数を制限する必要があった。

「今日も暑かったよね?ジュース冷えてるよ。お茶も。あ、そうだ、アイスもあるよ?」

 挨拶もそこそこにナルの手を引いて、エアコンの涼しい風が当たる所に座らせるタイキ。会える頻度が減った事による寂し

さの反動か、ますますナルにべったりになっていた。

「麦茶貰ってもいい?」

「うん。欲しい方をどうぞ!」

 テーブル上の飲み物は、訪問を見計らって冷蔵庫から出されたばかりなのでよく冷えている。心地良い冷たさを喉で味わい、

欲求が満たされるのを感じながら、ナルは横目でタイキを見遣る。

 今日は調子が良いらしく、自信がある様子でパンチングスタンドに向かったタイキは軽いストレッチを始めていた。

「6、3、54!」

 ナンバーの指示どおり正確に繰り出されるブロー。素早く、力強く、拳が唸りを上げて目標を打ち抜く。打つ事しか考えな

いのでフットワークは機動性を伴わず、回避運動や反応もできず、スタミナも全然無いので実際にボクシングができる訳では

ないが、パンチ練習の格好だけ見れば様になっている。

「あ、前回より速いね!」

「はぁ、はぁ、へへへ!調子良い気がしてたんだ!」

 50発のトライアルの結果、タイムは前回より0.02秒縮んでいた。タイキが上達するにつれて記録更新は簡単ではなくなっ

てきたが、それでも猪は長期的な数字の変化を見て、点ではなく線で成果を見い出してる。

「もしも誰かと喧嘩になっても、今のイノウエ君なら勝てると思うよ?」

「そ、それはやっぱりちょっと無理かな…」

 おだてられて尻尾を振りながら、しかしタイキは肯定しかねる。いくらパンチが上手くなっても、例え物凄く体力がついた

としても、自分は喧嘩では誰にも勝てないだろうと確信していた。間違いなく、そんな状況になったら怖くて逃げるか謝るだ

ろうから、と…。

「………」

 大きな体が軽く震えた。

 不登校になる前、同級生から袋叩きにされた時の、痛みと恐怖を思い出して。

(やっぱり無理だ…)

 勝てるとか勝てないとかではなく、あんな怖さには耐えられないとタイキは思う。例え腕力や体格で圧倒できるような相手

とでも、自分は喧嘩をしないだろう、勝てないだろう、と…。

「勉強、どう?」

 息が落ち着いて来たのを見計らって、ナルは訊ねた。ノートの写しはずっと届け続けているし、タイキが判らないと言った

所はきちんと教えている。このおかげで、一学期中一度も登校していないにも関わらず、タイキの学力はほんの少しの遅れで

済んでいた。

「うん、まぁまぁ…」

 タイキは目を泳がす。

 ナルの問いの意味は判っている。彼がノートの写しを届けてくれるのは、彼が勉強を見てくれるのは、期末テストの範囲を

教えてくれるのは、自分が学校に復帰する時のため…。

 登校しろと、ナルがはっきりと言った事は一度もない。タイキはその意図を読めないほど愚鈍でもなければ、気付かない振

りができるほど不誠実でもないのだが、しかし自ら進んで学校へ行くと言えるほど強くもない。だから、話がそちらに向かい

そうな時は曖昧な反応で濁してしまう。卑怯者、臆病者、と自分に失望しながら。

 そんなタイキの気持ちをナルは見抜いている。ベッドに腰を下ろした猪の隣に、何も言わずに寄り添った。

 期末試験。これはナルの計画における目標。タイキの復帰タイミングとして決めていた物。

 復帰させる自信はある。タイキは言う事に従う。そうなるようにずっと振舞ってきたし、タイキ自身もいつまでも現状のま

までは居られないと自覚し、何処かで踏ん切りをつけなければいけないと思っている。

「イノウエ君」

 俯いた猪の視界に入るよう、太腿の上に手を置いてレッサーパンダは語りかけた。

「一緒に行けたら、嬉しいな…」

 ナルは「何処へ」とは言わなかった。それでも言いたい事はタイキに伝わっている。

 期末テストはすぐ。次に来た時は話をしよう。

 そう決めているナルは、その前段階としてこの場ではここまでで話を終わらせた。





 そして、数日が過ぎた。

 期末テストが始まる週の月曜、ナルはタイキの部屋を訪れた。

「イノウエ君」

 潜ったドアを閉めたレッサーパンダは、腰も下ろさず猪と向き合い、その顔を見上げた。

「学校に行こうよ」

 初めて面と向かって発されたその促しを受けて、タイキはゴクリと唾を飲み込んだ。

 考えた。考え続けた。ナルと一緒に学校へ行けば楽しいだろう。孤立もしないだろう。充実するだろう。これまでになかっ

た学校生活が自分を待っている。

「考えたんだけど…」

 おずおずと、タイキはナルに答えた。

「オレ、学校行けなくてもいいや…」

「…そう…」

 まだ駄目だったか、とナルは素直に計画の失敗を認める。だが、完全な失敗ではない。予定した期間での達成ができなかっ

たというだけだと、目を伏せたまま考え…。

(…?)

 疑問を感じた。成功するにせよ失敗するにせよ、この実験は決めた期間で終わりにする予定だった。なのに自分の中ではい

つのまにか予定が書き変わっていて、すっかりその気になっていた。

 本当に必要な期間延長なのか?そもそも延長する意義は?続行する理由は?そんな質疑を自分の中で行なうナルに、タイキ

は照れ臭そうに笑って言った。

「バンダイ君が来てくれるなら寂しくないし…、他の友達とかも欲しくないし…」

 恥かしがりながら、タイキは少し背を曲げてナルの手を取った。

「バンダイ君だけ居ればいい…。オレには…、その…、それだけで充分で…」

 それは、タイキなりに勇気を振り絞って口にした本音だったのだろう。素直に、純粋に、ナルが居てくれるならそれで充分

だと。だが…。

(ボクは失敗した)

 ナルはタイキに握られた手を見下ろしながら、そう感じていた。

 好意が募った結果、「ナルだけ居ればいい」という依存性が生じてしまっていた。

「ねえ、イノウエ君」

 レッサーパンダは静かに口を開く。

「それでいいの?」

「うん…。オレは、今のままで…」

「「今のままでいい」。「ずっとこのままでいい」。そう思っているの?」

 ナルが顔を上げた瞬間、タイキの笑顔はきょとんとした表情に変わり、次いで強張った。

 そこに、「孔」があった。

 レッサーパンダの双眸、その瞳が、何処までも落ちて行くような深い奈落、覗き込んでも底が見えない深淵に見えた。

「おばさんはどうなるの?イノウエ君には何も言っていないの?お父さんの事で訴えられて大変なまま、働きに出ているおば

さんは?」

 疑問が、ナルの胸に湧く。気が付けば言う予定ではなかった事まで口走っていた。

「そ、それは…」

 たじろぐタイキに、進み出たナルが詰め寄った。

「君はずっとこの部屋に居るの?ずっと何処にも出ないで何もしないの?」

 ナルの疑問が深まる。予定した芝居に無い行動だった。自分は何故こんな事を?

 たじろいだタイキが手を離して後ずさる。後ずさった分だけナルが前に出る。

「おばさんはこれからもずっと、君を独りで養って行くの?そうして一生引き篭もるの?」

 ナルの口は閉じない。体は止まらない。

 それはもう芝居ではなかった。自分でも理解できない衝動に従っていた。

 抱くのは失望。そして、これまで存在しなかった感情。計算も計画も無く、ナルは脅えるタイキに詰め寄り続け、タイキは

ベッドの縁に足をぶつけて尻餅をつく。

「そうやって、君はずっと変わらないの?未来永劫、死ぬまでずっと?」

「ひ…!」

 タイキの喉が掠れた音を立てた。

 冷や汗が止まらない。

 震えが止まらない。

 怖くて堪らない。

「その孤独に、ボクにも付き合えって言うんだね」

 ナルの手が伸び、ベッドに尻餅をついて目線が近付いたタイキの顔を挟んだ。

 目を逸らすことも許されず、脅えて声が出ないまま、タイキは深淵を覗く。

「ねえ。本当に、ボクに居て欲しい?傍に居て欲しい?ずっと?」

 初めてその本性を他者に覗かせて、ナルは訊いた。

「イノウエ君。ボクがどう見える?」

 タイキは答えられなかった。恐怖のあまり、金縛りにあったように動けなかった。

「本当の事を言うとね。ボクには「心」が無いんだ」

 そう。恐ろしかった。目の前のレッサーパンダが、ひとではない、「知らない生き物」に見えた。

「感情がない。欲求がない。だから共感できない。そうだね、機械みたいに」

 本能的な恐怖が心の奥底から湧き上がり、体を縛り付ける。

「優しくしているように見えたのも。気遣っているように見えたのも。全部、他人を見て模倣した振る舞い。全部、そう見え

るように、感じられるように努めたお芝居」

 底が無いような闇を湛えた二つの目から、視線を外せない。

「正直に言うよ。ボクは君に同情もして居ないし好意も持っていない。「どうでもいい」と思っているんだ」

 顔を挟む両手から、ひやひやと冷気が体内に送り込まれて来るような肌寒さ。

「これまでの事は実験だったんだ。ボクに好意をもった不登校の生徒が、言う事を聞いて登校できるようになるかどうかの。

つまり、君でなくても良かったんだ。実験材料は、条件を満たしていれば誰でも良かった」

 完全に表情が消えた顔で、奈落のような目をしたレッサーパンダが、心へ直接送り込むように告げる。

「実験は失敗したみたいだね。それじゃあ、さようなら」

 返事も、反応も、タイキはできなかった。

 自分は何も知らないまま、「こんな恐ろしいモノ」に、「好きだ」と言ったのか?

 目の前に居る、理解の外にある「何か」は、猛獣よりも恐ろしかった。



 数分後。部屋にはタイキだけが残された。

 ベッドに座ったまま、魂が抜けたように。

 寒気がする。凍りついたように体が動かない。

 しばらく経って、思い出したように再び体が震え始めた。ガタガタとベッドが鳴り、ガチガチと歯が鳴る。

 知った気でいた。

 理解したつもりでいた。

 分かり合えていると思っていた。

 それが全て錯覚だったのだと、あの「目」を見て思い知らされた。

 理知的な光と穏やかな笑みで巧妙に隠されていた、深い孔のような目…。

 理屈抜きに理解できた。彼が言った事は、全て本当なのだと。



 孤影を連れて、レッサーパンダは道を行く。

(ただ離れるだけでよかったのに、どうしてあんな事まで洗いざらい喋ってしまったんだろう?話す意味も無いし、伝えるメ

リットだって無いのに)

 どうしてあんな事を言ったのだろうかと自問するが、明確な答えは出ない。

 計画は失敗した。だが、例えばその結果に不満があったからといって、タイキにそれをぶつける意味は無い。テストの結果

が悪かったからと言って、テストの答案に当たっても仕方がない。実にナンセンスだと思う。しかし自分は実際に…。

(「ぶつける」?イノウエ君に?ボクはぶつけた?何を?)

 脈拍が落ち着いていない。いつもフラットだった内面が、今は生きている患者に繋がっている心電図のように乱れている。

 その乱れの事を「苛立ち」と呼ぶのだと、ナルはかなり自問してから判断した。

 機械のようだったナルの内面に、いつしか綻びが生じていた。「執着」という名のバイアスと、「期待」という名の不確か

な要素が。「どうでもいい」と達観していたはずの、この世界の何もかもの中で、ナルは無自覚に例外を作ってしまっていた。