「お。ナナだ!」

 赤毛の和犬ミックスが何かに気付いて首を伸ばす。

 食事時なので寮生で混み合っている食堂の一角、配膳の列を抜けて少し離れた所を、身長が低い柴犬のミックスがうろうろ

していた。

 クリーム色の地毛に茶色のブチ模様があるポワポワした少年は、どうやら座れる席を探しているようで、背伸びしながらせ

わしなくキョロキョロしている。

「いいですか兄貴、バンダイさん?」

 和犬ミックスは大猪とレッサーパンダに訊ねて、一方から無言の頷きを、一方から「うん」という快い返事を貰うと、立ち

上がって手を振った。

「ナナ!空いてるからこっち来い!」

 呼ばれた柴犬ミックスはすぐ赤毛に気付き、チョコチョコと壁際を回ってやって来ると、椅子を引いた和犬ミックスと、合

席の大猪、レッサーパンダにペコンとお辞儀する。

「済みません。お邪魔します」

 レッサーパンダに「出遅れたの?」と訊かれると、柴犬ミックスは腰を下ろしながら「先輩の所に行ってて…」と耳を倒し

て笑顔を見せる。柴犬ベースミックスの少年は毛が立っているので丸く見えるものの小柄で、骨太で固太りな赤毛の和犬と並

ぶと、そうと言われなければ同級生には見えない。

「よく飽きねぇな、あんなヤツのトコ遊びに行ってよぉ」

 不満げな顔の和犬ミックスが口を尖らせる。どうにも初対面の時から相手の心証があまりよくないままであるらしく、辛辣

な言動と態度は直らない。

「偉そうでイラつくんだよな、あの太モヤシ…!」

 太いのかモヤシなのかイメージが難しいぞ、などと猪が内心首を傾げていると、柴ミックスが「でも、優しいところも格好

いいところも可愛いところもあるよ?」と、顔をヘニャヘニャ緩ませながら反論する。

「勉強頑張ると褒めてくれるし、ゲーム上手いし、お腹とかモシャモシャしてあげると喜ぶし…」

「何だよ腹モシャモシャって…」

 赤頭の犬は口を尖らせかけて黙り込み、思い直した様子で身を乗り出し、小声で柴犬ミックスに訊ねる。

「…もしかして、猫系ってそういうので喜ぶのか…?」

 そんな後輩達の他愛ない会話に、微笑しながら耳を傾けているレッサーパンダを、大猪はチラリと横目で窺った。このチビ

柴とその先輩…実際には留年して同級生のクラスメートになっている元先輩の交流に絡んだ「事件」の事は記憶に新しい。

(絶対に、思うところがあって肩入れしたんだと思うけど…)

 彼の状況は少し似ていた。もっとも、巻き添えが出るのを嫌がって引き篭もった彼と、単に怖くて嫌で引き篭もった自分で

は違いが大き過ぎるのだがと、猪は思う。

 ただ、それでも、レッサーパンダが彼らを見て、あの頃の自分達を重ねなかった訳では無いだろうと、確信している。でな

ければ、自分が矢面に出て体を張ったりはしないはずだと。

(ま、言っても絶対認めないし、訊いてもはぐらかすんだけどさ)

 ゲームの進行を手伝って欲しいと言うレッサーパンダと、快諾する柴犬ミックスの会話を聞きながら、猪は思い出す。

 レッサーパンダが自ら危険な目に遭った数少ないケースの一つ、自分が知る限りでは最初の一回目の事を。

 これは、ふたりしか知らない昔の話。

 汚泥の中で咲いた、一輪の花の話。

 泥の中から月を見上げ、独り佇む何かが、初めて「ひと」になろうと思った話…。












                  泥中之蓮(後)












 夜が明けた。明けた事に気付くと同時に、一睡もせず夜を明かした事にも気がついた。

 晩御飯は食べたのだったか、風呂には入ったのだったか、母とは何か会話をしたのだったか、一日も経っていないのに思い

出せない。

 タイキはドアに視線を注ぎ、ずっとベッドに座ったまま。

 目が乾き、時々瞬きする以外に動きは無い。

 涙が乾いた痕跡が目の周辺の毛に見られる。

 考えているのは、思い出しているのは、昨日のナルとの会話。

 ナルは「またね」と言わなかった。初めての事だった。

 きっと、本当に嫌になってしまったのだろう。

(でも…)

 怖々と思い出すと疑問が湧く。

 黙って来なくなる事もできた。適当な返事をして、それっきりにする事もできた。

 なのに、どうしてナルは最後の最後にあんな事を言ったのだろうか。

(それは…。怒っていたから…)

 腹を立てていたから言わずにいられなかったのかもしれない。しかしそう考えると、どうしても「その答え」に行き着く。

(それは…、「怒るほど気にかけてくれていた」っていう事に…)

 心が無いのだと言ったナルの言葉は、きっと嘘ではないのだと思う。少なくとも、自分自身はそう思っているのだろう。

 しかし、本当にどうでもよかったなら、あんな事は言わなかったのではないだろうか?黙って見捨てれば良かったのではな

いだろうか?

(…最低だ…)

 自覚した。

 自分は、自らに心が無いと言い切るほどのナルを、怒らせるだけの事をしてしまったのだと。

 思い返してみると、自分はたいへん酷い事を言ってしまったのだと感じた。

 ナルが本当に、同情や共感などないまま、実験として学校へ行けるよう誘導しようとしていたとしても、彼が実際に行動を

起こし、少なくない労力を自分に傾けてくれていたことは事実。

 あの時は、自分なりに正直な気持ちと好意を伝えたつもりだったが、それは客観的に見て、相手の努力を無下にしながら吐

いた独りよがりの言葉だったと気がついた。

(…バンダイ君に、謝りに行こう…)

 きっとナルはもうここへ来ない。

 だから自分から謝りに行こう。

 ナルが借りている部屋…は余り使っていないらしい。自宅…は位置がよく判らない。

(じゃあ…)

 他に会える場所は何処だろうと考えて、タイキはハッとする。

(が…)

 体が小刻みに震え始めた。

(学…校…!?)



 期末テスト前、範囲を絞り終えた教科もあるので、自習の授業が多かった。

 諦めて腹を括った生徒達が騒がしい教室の中、ナルは真面目に自習する…ふりをしている。

 勉強は済んでいる。今から追い込む必要もない。だから、自習するふりをしながら考えていた。

 今日、放課後に行なう事について。

 携帯がポケットに入っている事を確認する。これが無ければ始まらないのだから。

 

 鐘が鳴って少し経った頃、タイキは正門側からコソコソと脇道に回った。

 ナルと会いたいが、下校してくる他の生徒達と顔をあわせたくなかったので、出て来る生徒を遠巻きに見ながら隠れておく。

 幸いにも正門前の長い道路からはフェンスとバックネット越しに昇降口が見えるので、ナルが出てくればすぐに判る。

(あ…!)

 力んで肩が震えた。

 可愛らしいそのフォルムを目にした途端、得たばかりの視覚情報が、そのまま昨日の記憶を引っ張り出す。

 暗い、孔のような、目…。

 瞬時に脈拍が上昇し、冷や汗が噴き出して全身が震えだす。生々しい恐怖のフラッシュバックに、気付けば膝から崩れ落ち

てへたり込んでいた。

 ガタガタと震えながら電信柱にすがり付く。

 決心が鈍るどころか、自分が此処へ何をしに来たのかも忘れそうだった。

 それでも、ドロリと流れた恐怖が表層を覆った心に、一つだけ残った物がある。

(謝らなくちゃ…!)

 一言でも良い。短くても良い。だが、このままにしておく事だけはきっと許されない。

 顔を上げたタイキは、再び昇降口に視線を飛ばし…、

「…え?」

 間が抜けた声を漏らした。

 ナルは、タイキが知っている少年達と一緒に、正門とは逆の方向に向かっていて…。

「…うっ!」

 口元を押さえて呻く。また気分が悪くなり、悪寒が走って吐き気を催した。

 

「で、何?相談って」

 声をかけられて体育館裏に集まった少年達は、これまで接点が無かったレッサーパンダに訊ねる。学級委員をしている、成

績が良い、去年転校してきた、その程度の事しか知らない相手なので、相談があるんだと持ちかけられても、どんな事なのか

想像もつかなかった。

「うん。確かこの位置だと思うんだけどね」

 ナルは周囲を見回して位置関係を確認すると、携帯を取り出して画面を少年達に向ける。動画の再生が始まり、そのプック

リした指がスマートフォン側面のボタンを押し、音量を上げると…。

『調子にのんなよ?豚!』

 罵声が響いた。

 再生されたのは、少年達の内のひとりが、かつてここで発した声。

「…それ…」

 少年達の顔色が変わった。再生されている動画は、以前この場で少年達がタイキに働いた暴力行為。

 昨年度、タイキが不登校になる前に体育館裏で行なわれた彼への暴力の事を、ナルは把握していた。

 知っていた、聞いていた、というレベルではない。タイキにも言っていないが、ナルはその現場を自らの目で実際に見て、

一部始終を録画までしていた。

 興味があった。この動画を突きつけたら、タイキを小突き回していた連中は、どんな反応をするだろうか?と…。

「こういう動画があると困るよね?」

 ナルは困った顔をする。心配しているような表情を見せながら、やっている事は…、

「受験生だから、出回ったりしたら大変だよね?」

 これ以上なく露骨な脅しである。

「てめぇ!」

 声を上げた生徒の横で、怒りの形相を見せながらも比較的冷静な少年が口を開く。

「ソレよこせよ。でないとお前も困るだろ?明日から学校来れなくなったら…。イノウエみたいに」

 ナルは軽く首を振って、左手をポケットに入れ、中身を取り出して見せた。小型のボイスレコーダーを。

「今の発言も、録音しちゃった」

 サッと、少年達の顔が朱色に染まった。

「ざけんなよチビ!」

 少年に掴みかかられながら、しかしナルは冷静だった。彼らが短絡的な行動に出るのは予想していた事で、この光景すらも、

先の休み時間中にフェンスの土台と雑草に隠れるようセットしておいた、予備のスマートフォンで撮影している。

 スマートフォンを取り上げられた。頬が鳴った。突き倒されて仰向けに転げた。すぐに少年達が囲んできた。手放したボイ

スレコーダーも拾われた。

 起き上がろうとして蹴られて転がった。胸倉を掴まれて殴られた。また転げて、立ち上がろうとして引き起こされた。

 罵声と怒声と暴力の中で、それでもナルは、その状況を他人事のように解析しながら思考を巡らせていた。

 あるいは、この連中が居なければタイキは登校できるのだろうか?

 この行動の動機となったのは、そんな思いつきだった。

 ナルは心底思う。馬鹿馬鹿しい、と。こんな事をしても、連中が一時居なくなっても、タイキは登校しないだろう。

 実験は失敗したのだ。元々個人的な人心掌握能力の試験であり、誰かに批評される物でもなければ、失敗で悪影響を被る訳

でもない。奇麗さっぱり終わりにして構わない物で、挽回する意味もなければ、挽回した所でメリットも特にないのに、何故

こんな馬鹿げた事をしているのだろうか?

(本当に、馬鹿馬鹿しい…)

 殴り倒され、地面に伏せる。起き上がろうと手をついて、身を起こし…、

「!」

 ナルは目を見開いた。

 動きを止めたナルの視線を追って、少年達も気付いた。

 若草色のフェンス越しに、半袖短パンの少年が居た。

 この平日、この時間、この年頃、そんな格好で学校の周囲に居るのは異常だが、この人物ならば「ああなるほど」と、事情

を知っている者は納得する。

「う、う、う…!」

 喉に何か詰まったような音を発し、フェンスに手をかけてこちらを覗いているのは、大きな猪の少年。ナルも少年達もよく

知る相手。

「ううううううっ!」

 呻きながら、タイキはナルの前に立った。フェンスを乗り越えたのも飛び降りたのも意識に無く、無我夢中で、とにかく間

に割って入った。

「イノウエ…?」

 少年のひとりが僅かに眉根を寄せる。知っている猪だと思った。なのに、しばらく見なかったせいか、その体は一回り大き

く見えて…。

「どけよっ!」

 別の少年が、よく知った弱い相手と認識して凄む。

「邪魔だって言ってんだよ、イノウエ!」

 襟首を掴もうと手を伸ばした、その瞬間…。

 パンッ…。

 小気味良い音が響き、少年の頭が震え、首が伸びる。そして…。

 ゴンッ!

 間髪入れず響いた重々しい激突音とともに、少年の体は仰向けに引っくり返り、地面を滑る。

「………」

 少年達は呆然としていた。綺麗なワンツーパンチだった。それこそ、自分達が読んでいる漫画で描かれるような。

 左ジャブで正面から鼻を捉え、打って止めて距離を計るその一発を間髪入れず追ったのは、上半身を折り曲げて重みと筋力

を存分に乗せた打ち下ろしの右拳。ブローを放ったタイキはジャブから引いた左腕を抱えるように背を丸め、拳をしっかり振

り抜いている。

 倒れた少年は何が起きたか理解できておらず、体育館裏の狭い空を見上げてぼんやりしていたが、やがて首を起こした。

 そして見たのは、両腕をファイティングポーズに構えた大柄な猪。

 鼻がムズムズし、口の周りが生暖かくなり、新鮮な、錆びた鉄のような匂いで咽そうになって、ようやく把握した。

「ひ…」

 鼻を強く打った時の痛み。それを何倍にもしたような圧迫感が、鼓動に合わせるようにジンジンと、顔面の中心から頭の中

まで浸透して行く。

 頬、それも頬骨の中に詰め物でもされたような異物感がたちまち強まり、骨から脳髄まで響くような痛みが、ズキズキと絶

え間なく顔面を襲う。

 鼻血が、口髭のように顔の下半分を染めていた。

「ひぎいいい!いでぇっ!いで、いでえええ!」

 誰かから本気で殴られた経験など無い少年は、キツい初体験を堪え兼ね、悲鳴を上げて転げ回る。

「ううううううっ!」

 歯を食い縛り、唸り声を漏らすタイキ。

 怖かった。逃げたかった。嫌だった。だが、ナルが虐められるのはもっと嫌だった。

「イノウエ、お前ぇっ!」

 叫んだのは少年のひとり。

 頭に来た。自分達の言いなりになっていなければならないおちこぼれ。反撃や反論など許されない犯罪者の息子。それが自

分達に向かって牙を剥いたという事実が。

 不幸な事に、この時の少年達は冷静さを欠いていた。だから判断を誤った。

 殴りかかる少年の動きに反応し、タイキは素早くスタンスを変え、迎撃の角度に上体を安定させ、ほぼ同時に拳を繰り出す。

 ゴヅン。

 先に命中したのはタイキのストレート。体が大きい分だけ腕も長く、同時に繰り出した少年のパンチは顔を打たれて仰け反っ

た状態の物となり、体が泳ぎながらタイキの頬を擦るように打った拳は威力も重さも半減している。

 パンチトレーニングはした。パンチ力もついたし、打ち方も様になった。が、結局それだけの事である。実戦的なスパーリ

ングなどの経験も無く、ただ目標を叩くだけの運動を繰り返しただけのタイキは、ガードも知らず避ける事もできない。フッ

トワークは打つ為のポジショニングテクニックに過ぎず、攻撃を避けるなどという芸当はできず、パンチを見定める事も不可

能。事実、横合いから殴りかかられた途端に、反応もできずにまともにストレートパンチを食らって…。

(!?)

 殴った側の少年が目を剥いた。

 まともに入った。頬肉に拳がめり込んで、硬い感触がずっしり返って来た。なのに、タイキは怯むどころか、殴られて気付

いたように自分の方へ目を向けて…。

 上体を向き直らせながら、タイキの左拳がボディフックとなって飛ぶ。薙ぎ倒されるように転倒した少年は、脇腹を押さえ

てゲェゲェうめきながらのたうち回る。

 効いていない…訳ではない。

(怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛い怖い痛くて怖いし怖くて痛い!)

 タイキは痛がっていたし怖がっていた。それでもなお必死に踏み止まっているが、ギリギリの状態だった。

 しかし、少年達の目には、ガチガチと鳴りそうになる歯を噛み締め、脅えて総毛立っているタイキが、怒りで歯を食いしば

り、毛を逆立てているように見えた。

 三人があっという間にのされて、あっけなく怖気づいた少年達は我先に逃げ出す。ファイティングポーズを取ったタイキを

残して。

「………」

 構えを取ったままの猪の、広い背中を、ナルはポカンと見ていた。

 そう、「ポカンと」、他者に見せた事が無い顔をして…。

(「せいぎのみかた」…)

 懐かしい言葉が脳裏に浮かんだ。

 だがその直後…。

「けっ、ケンカだー!」

 ナルがハッと見上げたその時、体育館裏の窓…半一階の高さから顔を出した生徒がビックリして叫んでいた。

(体操部。…失敗した。もうこの時間か…)

 マットを取るために体操部が倉庫に入り空気の入れ替えの為に一時窓を開ける事も、本来のシナリオには織り込み済みだっ

た。
しかし、計算外が続いた先で、タイミングは最悪の物となった。その生徒はタイキが相手を殴り倒した所から、皆がほう

ほうの体で逃げ去るところまでを目撃している。

 声に反応したタイキが振り仰ぐ。歯を食い縛り、強張った顔で、フシュー、フシュー、と緊張の呼吸を繰り返すその姿は…、

(誰!?いきり立ってる!殺される!)

 その生徒には、「昂った気がおさまらず次の獲物を探す猛獣」と見えた。

「う、うううっ!」

 歯を食い縛ったまま顎が固まったように開かないタイキが唸り、生徒が慌てて窓の中に引っ込んだその時には、ナルは仕掛

けておいた予備のスマートフォンを回収し、少年達が放り出したボイスレコーダーと携帯も拾っている。

「行くよ」

「う?」

 手を掴まれたタイキが疑問の声を発したが、ナルは構わず「早く」と強引に引っ張る。

 そうして裏門からまろび出て、さんざん走り、学校から遠く離れ、例えあの少年達が気を取り直して戻って来て探し回った

としても見つかりはしないだろう距離の公園に辿り着くと、ナルはようやく手を離した。

「ぜひゅっ!ぜひゅっ!ぜひゅっ!げふっ!うぇっ!」

 疲労の限界で地面に膝から崩れて四つん這いになり、咳き込みながら喘ぐタイキをよそに、ナルは念のため周囲を見回した。

こちらは軽く息が上がっているものの、それだけである。

「バ、バンダイく…、うっぷ!」

 喘ぎながら顔を上げたタイキは、大丈夫かと訊ねようとして口元を押さえ、雑草が生い茂った花壇の草むらに這いずって顔

を寄せる。

「エレエレエレエレゲロロロロ…」

 極度の緊張と恐怖とストレスに加え、不恰好なフォームでの長距離全力疾走が堪えたようで、胃がビックリして、四つん這

いのまま草むらにタパタパ嘔吐するタイキ。

「うん。平気だよ」

 その様子を見下ろしながら冷静に答えるナル。

 ナルの習い事の中には護身の為の合気道も含まれる。勉学同様にしっかり学んだおかげで、殴られ蹴られ押し倒されても、

打点をずらしたり自ら倒れ込んだりしていたため、怪我らしい怪我などしていない。体を起こした状態でさえあれば素人から

の暴力を受け流すのは難しくなかった。加えてスタミナもつけてあるので走った疲労もさほどではなく、怪我の面で言うなら

タイキの方がよほど重傷で、疲労の度合いもタイキの方がずっと上である。

 背中をさすってやるでもなく、大丈夫かと声をかけるでもなく、タイキの嘔吐が落ち着くのを待ちながら、ナルは公園を見

回して自問した。

(どうして此処に来たんだろう)

 少し遊具が多めの、極々普通な公園。

 何処にでもありそうな、何の変哲も無い公園。

 目指す場所なら他の何処でも良かったはずなのに、何故ここに来てしまったのかと、疑問を覚える。

 タイキの家から部屋に行くまでの間も、無意識にここを避けていた事を、ナルは初めて自覚した。

 ここは、初めの場所にして始めの場所。

 ナルがタイキと初めて出会った場所であり、今に至るナルの人生が始まった場所。

 疑問の答えが出ないまま、静かになったので視線を下げたナルは、顔を上げたタイキと目を合わせる。

 すぐにタイキは視線を逸らした。奈落のような目を見る事への怯えを悟られないように「な、何であんな事になってたの?」

と、掠れた声でナルに問う。どうやらまだ立てないらしく、へたり込んだままで。

 ナルは無言のままスマートフォンを取り出すと、動画を再生して音声を聞かせた。

 録音された声が自分で感じる物とは違って思えるせいで、最初は何だか判らなかった様子のタイキだったが、やがて気付い

てギョッと顔を強張らせる。

「君が不登校になる前、連中が君に暴力をふるった時に動画を撮っておいたんだ」

 つまり、見ていながら助けもせず教師達に告げたりもせず今まで黙っていたという事なのだが、いっぺんに色々な事が起き

て軽く混乱しているタイキは突っ込めない。

「これを見せて脅したんだよ。こんな動画が出回ったら困るよね?って」

「な、何でそんな事…したの…!?」

「さぁ…、どうしてかな?」

 タイキの問いをはぐらかしてナルはため息をつく。その様子は大いに呆れているように見えた。そして、昨日までのやりと

りの中でタイキに見せたどんな仕草よりも自然だった。

「君は、何度もボクの計算を狂わせるね」

「え?」

 責めるような口調でドキリとしたタイキに、ナルは予備のスマートフォンを取り出し、録画を確認してから画面を向け、再

生して見せた。

 タイキが見たのは、自分が少年達を殴り飛ばすワンシーンを後方から撮っている動画。

「彼らが力ずくでボクをどうこうしようとする様子を隠し撮りして、より強固に罪状を固めたかったんだけれど、イノウエ君

が乱入したおかげで御破算になったよ。目撃者も、キミが連中を殴って追い払うところを見ていた訳で…」

 再びため息をつくナル。

「え?ご、ごめん…!」

 理解が完全に追いついた訳ではないが、とりあえず謝るタイキ。

「どうして来たの?」

 ナルに問われたタイキは、「そ、それは…」と一度口ごもってから、ガバッと頭を下げ、土下座した。

「ゴメン!オ、オレ昨日は、バンダイ君に色々世話して貰ったのに、それを全部無駄にするような事を言ってた!」

 何だソレは?とレッサーパンダが眉根を寄せる。

 同情でも共感でもないただの実験だった。そう告げたのに、何を謝るのだろうか?と。

「オレのためにして貰った苦労とかそういうの考えないで、自分勝手に甘えて…!それを謝りたくて…!」

 何だソレは?とレッサーパンダは下げられた頭を見つめる。

 そんな理由で、自分が失敗したはずの「学校に来させる」という状況が達成されたのか?と。

「…でも、余計な事しちゃったのか…、オレ…」

 勇気を振り絞って、無我夢中でやった結果、結局ナルには迷惑になったらしい。そう察して落ち込むタイキを、

「そうだね。余計だったよ」

 グサリと、ナルの冷たい言葉が抉る。

「来た理由は判ったよ。けれど、どうして割って入ったりしたの?そもそも、他人がどんな気持ちだろうと、どんな目に遭お

うと、自分には関係ないって思わない?」

「それは…、えぇと…、その…」

 そうは思わない。と言いたいのだが、気弱なタイキがはっきり反論できないでいると、

「どうして、関係ないって考える事ができないの?」

 その気持ちを見透かしたようにナルは問いを重ねた。

「どうしてって、理由は、はっきりしないって言うか…」

 歯切れ悪くモゴモゴと応じるタイキは、

「「せいぎのみかたは、こまってるひとをみすてない」…から?」

(…………ん?)

 タイキは伏せていた顔を上げる。 

「さっきの君は…」

 レッサーパンダが思い直したように口調を変え、猪は恐る恐る見上げて、

「「せいぎのみかた」…みたいだったよ」

 そこに、見た。

 洞のように暗かった目が、公園に注ぐ陽光を反射して光っていた。

 いつかどこかで見たような、「仕方ない子だなぁ」というような呆れの目、「まぁいいよ」というような微苦笑が、そこに

あった。

(あれ…?)

 ナルが最初に部屋を訪ねて来た時の、説明し難い違和感…「ズレ」のような物を再び感じた。

 キィコ…キィコ…。音を立てるブランコが風に揺れている。鎖の音が聞こえるようになった途端、古い記憶がおぼろげに、

当時の風景を伴って蘇った。

「…もしかして…?」

 おずおずと声を漏らしたタイキに、ナルは微笑んだまま応えない。

 思い出した。あの頃は知らなかった種名、「レッサーパンダ」。狸か何かだと思った自分にその種名を教えてくれたのは、

他でもない当人で…。

「前に…、ここで、会ってた…?あの、ブランコの所で…、一回だけ…」

「うん。思い出すとは思ってなかったし、教えるつもりもなかったんだけれどね。でも…」

 目尻を下げてナルは笑う。いつ以来だろうか、愉快で笑顔になるのは。そもそも、愉快と感じる人並みの感性がまだ自分に

も残っていた事に驚かされた。

 追っ払おうという気はもう無くなっていた。あの頃と変わらず、とても優しい子なのだと理解した。優しいから、例え遠ざ

けようとしても、離れて行ってはくれないだろうなぁ、と…。

「な、何でこんなこと黙ってたの?」

「口、そこで漱いできたら?」

 質問には答えず、水飲み場で口を洗って来いと促したナルは、もしかして息がゲロ臭かっただろうか?と慌ててドタドタ駆

けて行くタイキを見送りつつ、冷たい思考を呼び戻して考えた。

 目撃者の存在により、タイキの乱入は暴力事件と受け止められるだろう。

(うん。実際に良いパンチだった。言い逃れできないほど綺麗に入っていたね)

 だが、他の生徒にとっては確実にマイナスになるこの事件も、上手く扱えば有利に立ち回る為の足場にできると、ナルは考

える。

(手ぶらは強い。どん底で、失う物もろくにないんだから、悪評だって武器に出来る)

 考え込むナルの傍へ、口を漱いで戻ったタイキは…。

「相談したい事があるから、これから一緒に部屋に来て」

 出し抜けにそう言ったナルの顔を、困惑しながら見返す。

 「元」が何だったのか判ったからなのか、もうナルの目はあまり怖くなかった。

 

「つまり、幼馴染だったって事で、合ってる…?」

 おずおずと、しかし少し嬉しそうに尋ねるタイキ。

 房のついた尻尾で畳をハタハタ叩いている猪と向き合うナルは、

「最初に会った時期を考えれば古い知り合いだけれど、幼馴染というのも違うね」

 と、腫れてきた頬に湿布を貼ってやりながら答えた。

「じゃあ、間を取って古馴染み…!?」

「古くから馴染んでいた訳でもないけれど、別にそれでも良いかな」

 現金と言うか能天気と言うか、あれだけ恐怖したにも関わらずナルとの関係にロマンスを感じて興奮するタイキに対し、関

係性の呼び方は別に何でもいいレッサーパンダはドライな反応。

「イノウエ君」

「うん、何!?」

 身を乗り出したタイキに、ナルは訊ねる。

「君を虐めてたさっきの連中…、彼らが居なければ良いって思う?」

「え?…えぇと…」

 予期していない話だったのでタイキは口ごもり、「それはまぁ、関わり合いになりたくないけど…」とボソボソ言い、少し

間をあけて続ける。

「でも、居なければって事でも無いかも…。それは可哀相って言うか…」

「可哀相?」

「うん…」

 聞き返したナルに頷いたタイキは、テーブルの下で握り拳をさすった。殴った拳がジンジン痛い。まともに入っていなかっ

たパンチでも頬が痛い。自分に思いきり殴られた方はもっと痛いだろう、と考えながら。

「い、痛い目にも遭わせちゃったわけで…、できれば、なるべく早く痛みが引けば良いかなぁ、なんて…。痛い目に遭った上

に進学に影響とかは、ちょっと可哀相かなって…」

「甘いね」

 ナルはピシャリと手厳しい。

「…かも」

「まぁ、それでもいいよ」

 甘いとばっさり切って捨てながら、しかしナルは口で言うほどドライな受け止め方はしていない。

 まともな神経なら憎んで当然の相手の事も、可哀相だと気遣う。この少年は自分とは真逆の意味で真っ当ではないのではな

いかと疑いたくなるほどのお人好し。

 不思議な事に、あの子はこういう人物になったのだと、タイキの変わらない面を把握したら、不合理極まりないにも関わら

ずその部分はそのままで良いと考えられた。

「それじゃあ、向こうからちょっかいをかけられなければ、それでいい?」

「それはまぁ、そうなんだけど…」

「なるほど…。ところで、学校に行く気は今も無い?」

「………」

 タイキは沈黙する。行くよと言うべきだと判っているのに、即答できなかった。

「オレ…。怖いよ…。今から学校行っても、皆の目が気になるだろうし、どう思われるか気になるし…」

「うん。そう」

「いまさらどうやって周りと接すればいいのかも判らないし、あの連中もたぶんオレのこと赦してくれないだろうし…」

「うん。そう」

 俯くタイキの顔を、そっと、横に移動していたナルの腕が包む。

 情が感染(うつ)った。

 ナルはそんな印象を持つ。情など持ち合わせていなかった自分が、それでも感じるというならば、それはタイキから感染し

た物だろう、と。

 とうに真っ当なひとでは無くなっていたはずの自分に、あの公園から変わらずに残っていた物があるのだと、タイキが教え

てくれた。平凡で、優れてもいなくて、ありふれていて、特別な才能の持ち主でもない。世界に溢れるどうでもいい中の一つ

に過ぎない彼が、自分にとっては「例外」なのだとナルは認識した。

「怖い…。本当の事いうと、怖いし嫌だ…!」

「うん。そうだよね。怖いよね。辛いよね。嫌だよね。「判るよ」…」

 罅割れて、壊れてしまいそうな心を、偽りの共感で包み込む。

 何一つ理解できていない。何一つ汲み取っていない。偽りの言葉でコーティングする。

 相手の心境が如何なる物なのか、ナルには解っていない。ただ、どうするのが効果的かは判っている。

 共感しようがしまいが、受け取る側が辿り着く結果が同じであるならば、そのために吐く嘘は問題にならない程度の誤差に

過ぎない。大切なのは、自分がタイキの気持ちを我が事のように感じ取る事ではなく、タイキが立ち直れるか否かという事。

 必要であれば騙すし嘘も吐く。その事に罪悪感は無いし、共感できない自分を寂しいとも哀しいとも思わない。同じ気持ち

を分かち合う、そんな報酬は望まない。

 それは一種の愛とも呼べる物だった。

 哀しいほどに共有性が無く、恐ろしいほどに裏表が無く、著しく歪んではいたが、それでも、それこそが、ナルという存在

が得られる、唯一の愛情のカタチだった。

「でも…!」

 タイキが喉を震わせる。怖くて泣きながら声を絞り出す。

「オレ…、学校に行く…!いつまでも今のままは、やっぱり嫌だ…!」

「うん」

 タイキの頭を胸に抱いて、ナルは囁いた。

「君がそう望むなら、ボクが必ず叶えてあげる」



 翌日。タイキの母に学校の教頭から電話があった。

 暴力行為の目撃情報について、息子の動向に心当たりは無いか、と。

 目撃した生徒の話を伝え聞いて、特徴が一致するとあってなお、教頭も半信半疑。タイキの母も困惑するばかりで、話はと

りあえず様子を見ながら確認しようという事になった。

 まずは暴力をふるわれたと思われる生徒の特定に当たると、教頭が電話を切ったその時…。

「ねぇ、イノウエ君」

 タイキの私室で、学校帰りに寄ったナルが微笑んだ。

「うん!何!?」

 身を乗り出した猪に、レッサーパンダは問う。

「イノウエ君は、どういうひとが怖いと思う?」

「え?えぇと…、顔が怖いひと…とか?」

「そうだね。顔が怖かったら怖いよね。怖い顔なんだから。他には?」

「あと…、乱暴だったり、とか…?」

「そうだね。乱暴なのも怖いよね」

 なるほど、と相槌を打ちながらナルは考える。前者はまぁまぁクリア。後者は全く合致しない、と。

「あと、ひとって言うか何て言うか、意思疎通できなそうなのは…、物凄く怖いかな…」

 ナルの「怖い目」を覗き込んだ時の事を思い出し、軽く身震いするタイキ。

「なるほど、意思疎通ができない相手、それは怖いだろうね」

 そしてナルは考えた。

 意思疎通できない。つまり会話不能。すなわち何を言っても聞かないように見えれば怖い。さらに顔が怖く、乱暴であれば

なお良い。

 その条件を満たす物をイメージしたナルが、タイキをじっと見つめる。

「何とかできるね」

「え?いやそもそも何の話?怖いひとがどうとか何の話題?」

 顔は厳めしい。表情を作れば何とでもなる。

 問題は乱暴さだが、昨日の暴力行為が知れ渡れば追い風になる。あとは演技力次第。

 意思疎通うんぬんは、「装い」でどうにかできる。

「ねぇ、イノウエ君」

 ナルが微笑んだ。タイキが全身の毛を逆立てた。

「せいぎのみかたに、なってみない?」

 あの暗い孔のような目で、しかし少し楽しそうに、レッサーパンダは笑っていた。



 数日後、期末テストの最中の一日、ある教室は朝からシンと静まり返った。

 始業開始間際になってのっそりと教室に入って来たのは、今年度初めて登校してきた生徒。

 無言で空いている席の椅子をガラガラと引き、ドスンと腰掛けたのは、周囲の生徒より一回りは大柄な猪だった。

 雑なブラッシングで逆立った剛毛。ワイシャツの替わりに身に着けている真っ赤なシャツには「弱肉強食」の四文字。

 机を鳴らして肘をついた猪は、視線を向けて来たクラスメートをギロリと見返し、目を逸らさせる。

 誰もが思った。タイキは、不登校の間に不良になっていたのだ、と…。

 空気が重くなった教室で、足音が控えめに静寂を破った。

「イノウエ君」

 声をかけたのは、学級委員のレッサーパンダ。

 熱心なのはいいけど今はよせ!

 おいバカ刺激すんな!

 話が通じない感じの頭が悪そうなシャツ着てるだろ!

 逃げてー!

 そんなクラスメートの心の声をよそに、ジロリと睨んだ猪の席の横で、レッサーパンダはペコリと頭を下げた。

「この前は、助けてくれてありがとう」

 全員の頭の上に疑問符が浮く。事情がさっぱり判らない。

「気にすんな。席戻れ」

 猪が太い声を発して顎をしゃくると、レッサーパンダはもう一度頭を下げ、席に戻った。

 

「バンダイ、あれ、どうなってんの?何がどうなってんの?」

「イノウエ…だよな?何か別人みたくなってない?あんま知らないヤツだったけど…」

「メッチャ不良じゃん?先生泣きそうな顔してたじゃん?休んでる間にグレたの!?」

 テストが始まる前の短い休み時間、タイキが席を立つなりクラスメートはナルに詰めかけた。

 レッサーパンダは困っているような顔を作りながら、皆にこう話した。

 体育館裏で乱暴された自分を、彼が助けてくれたのだ、と。

 結局、この説明でも半信半疑だった生徒達含め、翌日にはナルの話を全員が信じた。

 タイキと、例の少年達が、校内暴力について注意を受けたという話が別口から広まった上に、のされた少年達がタイキの事

をすっかり勘違いして、脅えて避けるようになったので。

 

 実はこの前日まで、タイキはナルから「演技指導」を受けていた。

「背中が曲がり過ぎだね」

 ポンポンと肩甲骨の下を叩かれ、「え?ま、まだ?」と仰け反る。

 まず姿勢からという事で、タイキはナル指導の下「番長フォーム」なる基本姿勢の開発に打ち込まされた。

「脚はもう少し広げた方がドッシリして見えるだろうね。安定感は大事だ」

「このぐらい?」

「もう2センチ。あと右脚が寄り気味。均等に体重をかけてみて」

「こう?」

「うん。良くなった」

 だらしなくては威厳が無い、しかし姿勢が良過ぎてもよろしくない。意識して気張っているように見えてはいけないし、リ

ラックスしていてもいけない。何その「平屋の二階建て」みたいな姿勢?とタイキは困惑しながら指導を受け…。

「うん。こんな感じかな…」

 両脚へ均等に体重をかけ、腰が引けているように見えない程度に背をやや丸める。肩はいからせ気味に上げて猪首を強調。

姿勢はそれらしく見えるようになってきたが、もう少し何かが欲しいと、ナルが正面からタイキの立ち姿を見ていると…。

「あ。それ良いね」

「え?「それ」って?」

「ポケットに手を入れるの」

「…これ?」

 じっくり見られる気恥ずかしさと落ち着かなさから、タイキはポケットに両手を突っ込んでいた。

 肩を上げ気味にしながら体の両脇に垂らしていた腕がどうにもしっくり来なかったのだが、ポケットに手を入れると安定し

て見える。ティーシャツにズボン姿でもどっしりして見えるので、上着を羽織る季節になればより厳めしい装いになるだろう

とナルはイメージする。

「うん、バッチリ。その番長らしいフォームを忘れないようにしてね」

 「番長フォーム」、完成の瞬間であった。

 そこからタイキは、歩き格好から曲がり方、着席と起立、何気ない首の巡らせ方など、細かく演技指導を施された。

 手足の先まで及んだ指導の中で、タイキが最も苦労したのは目つき…つまり「睨み」だった。ひとを睨んだり誰かに怒った

りといった事を殆どして来ない人生だったので、睨み付ける目つきというのは、この猪にとってはなかなかに難しかった。こ

れについてはナルも手を焼いたが、顔と表情、とりわけ目つきという物はインパクトが大きいポイント。手を抜くわけにも行

かないので、鏡を見せながら百面相させて…。

「頬の筋肉が痛い…!」

 何とかオーケーが出る表情を作れるようになった頃には、タイキは顔中の筋肉と、ついでにずっと力んでいた首周りにまで

痛みと疲労を覚えた。

「それを持続させてね。ひとが居る所ではずっとその顔にするんだから、できれば部屋の中でもその顔を作るトレーニングを

ずっとやっておいた方がいいな」

「そんな…!外でずっと顔を作っておくなんて無理だよ!」

「できるよ?ボクはやっているから」

 目の前の「実例」から言われると流石に反論できず、タイキは黙り込む。

 こうして、ハリボテの「正義の番長」が急ピッチで仕上げられてゆき…。



「何でバレないのオレ?」

 テストも終わり、終業式を翌日に控えた日曜日。部屋を訪れたナルにタイキは疑問をぶつけた。休んでいる間に不良になっ

ていたという設定で演技をさせられているが、皆がそれを疑いもせず信じている事がタイキ本人は腑に落ちない。

「だってイノウエ君、結構様になってるもん」

 アイスカフェオレをチルチル啜りながら応じて、あ、これ好きだな、と新しいライクを発見するナル。

「様になってる?嘘ぉ~?」

「本当だよ?格好良いと思えるぐらいの「正義の番長」ぶり」

「え?か、格好良い!?」

 単純なおだてで単純に喜ぶ単純なタイキ。

 壁に吊るされている「弱肉強食」と記されたティーシャツはナルの発案。タイキのシャツを店に持ち込み、プリント加工し

て用意した急拵えのデザインティーシャツである。時間が無いので今回はこれで間に合わせたが、ゆくゆくはティーシャツ、

トレーナーと、オーダープリントで量産するつもりだった。ただし、それを着る事になるタイキ本人はまだその計画を一言も

聞かされていない。清々しいほど本人の意思を確認も尊重もしないナルの独断で事は進んでゆく。

「評判も良いみたい。予想以上にすんなり噂が広まったのは、テスト勉強浸けで皆が娯楽や話題に餓えていたからかもしれな

いね。一つ勉強になったよ」

 なお、タイキが途中参加した期末テストについては、既に終わっていた分を土曜日に纏めて受けさせられた。結果はまだ判

らないが手応えはかなりあったと感じている。届けられ続けたノートの写しをはじめとするナルの援護射撃は効果的だった。

「夏休みが終わるまでに、演技の精度を上げて行こうね」

「え?ずっと続けるのこれ?」

「そうだよ?」

 露骨に顔を顰めるタイキだったが…、

「格好良いよ?」

 反応を示したキーワードを即座に武器利用するナル。そして渋々ながら頷かされるタイキ。

 タイキの前でだけは芝居を辞めて、素の乾いた面や冷たい部分も交え、これまでとは違った顔を晒しながら、ナルは開放感

を覚えていた。

 無機質に情報を処理し、結果を予測し、父が望む将来の自分に必要となる思考能力と経験を高めるだけの毎日から一転して、

タイキの未来を思い描きながら行動するのは楽しい。

 ようやく「楽しい」を、「好き」を、どういう物なのか理解しつつあるナルにとって、タイキを「例外」と認識してからの

日々は充実している。

「そ、それで、話は変わるけど…」

 モジモジと身をゆすったタイキは、

「うん。性的な欲求?」

「ち、違うよ!?して欲しいけど、いや!今は違うよ!?っていうか言い方が何か凄くない!?」

 正直にリビドーを認めながらも首をブンブン振った。

「し、知り合って結構経ったし…、前々から知った仲って事なんだし…、その…、オレ達そろそろ下の名前で呼び合ってもよ

くない?なんて…」

「その方が良いならそうしても良いけれど」

 拘りが無いのでサラリと応じるナルのドライさで鼻白んだタイキだったが、

「…じゃあ…、な…、な、ななな…、……ナル…」

「はい」

 何の感慨も見せないレッサーパンダに、ひょっとして嫌だったのではないかと心配になった。

「これからはボクも「タイキ」って呼ぶね」

「う、うん!そうして!」

「でも皆の前では「イノウエ君」って呼ぶから」

 そこは変わらないんだ?と少々残念がったものの、それでも下の名前で呼び合える事が嬉しくなって、タイキは房付きの尻

尾を振る。

「ところで、夏休みは勉強の遅れを取り戻すために活用するとして…」

 え。と変な声が出掛かったタイキに、ナルは続ける。

「何処か行ってみたい所はある?皆の目がある近場は無理だからそれ以外で。2、3回は良いかな」

「???」

 意図を読めないタイキに、ナルは至極あっさりと言う。

「ああ、「デート」って言えば判り易い?」

 ボッと、真っ赤になったタイキの顔から湯気が上がった。



 夏休みはナルの宣言通りに、タイキの学力アップに費やされた。進学する高校については未定だが、とにかく遅れを取り戻

さなくては、と。

 飴と鞭が巧みなナルだが、タイキに本性を晒してからは鞭の度合いが強まった。

 一方タイキは、事あるごとに泣きそうになりながらもナルに従う。あれだけ怖がって、今も怖いのに、それでもタイキはナ

ルに惚れていた。

 暑くて、勉強三昧で、それでも充実した休みとタイキが感じるのは、独りではなくなったおかげ。全てはナルが来てくれる

ようになったからだと、タイキの母も息子の友人に感謝し、気を許している。

 そんな夏休み中のある日、ナルは玄関先で、丁度パートに出るところだった母親と話をした。

「良いわよ?友達と電車で小旅行とか、タイキも経験が無いはずだから、たぶんバンダイ君に頼っちゃうけど…」

「ありがとうございます。暗くなる前に帰ってきますから」

 許可を貰ってニッコリするレッサーパンダ。「正義の番長」に仕立て上げられた息子の学校や周囲での評判も知らない母猪

は、タイキの謎ティーシャツ着用などについても「漫画かアニメの影響で、年頃ならある事」と解釈している。タイキの能天

気な部分はこの母親に似たのだろうとナルは思っているが、勿論口に出したりはしない。

「それじゃあおばさん仕事に行ってくるから、またねバンダイ君。あ、冷蔵庫にシュークリームあるから食べて行ってね」

「ありがとうございますおばさん」

 見送る背中に疲労を見い出しながら、ナルは胸の内で呟く。

(もうじき全部けりがつきます。タイキの事も含めて、もう心配要りませんから)

 自分の背中に向けられる、暗い、孔のような目に、道を急ぐタイキの母は気付かなかった。

 

 それから数日後、ナルはタイキを伴って電車に揺られ、地元を離れて中規模な自治体を訪れた。

 山を背負った自然が多く残る町で、主な産業は農業と林業。茸の栽培が盛んである事、量はさほどでもないしエリアも狭い

が温泉が湧いている事を除くと、これといって特徴も無い場所。しかし、山の尾根伝いに走り下界を見下ろす道や、雨季には

山に挟まれた盆地に綿のような霧が溜まる景色など、風光明媚な自然の景色については評価が高い。

 駅からバスに乗り、移動を先導するナルがタイキを伴ってやって来たのは、山の上を抜けてゆく人気のドライブコース沿い

に建つ建物。

 アイスクリームを象った看板が飾られており、はためく幟にはカツカレーや山菜蕎麦など、提供するメニューが記してある

が、天然温泉と極彩色で描かれたカラフルな旗はそれら以上に存在感があった。もうじき午前11時だが、バスやダンプも含

めて50台は停まれる大型駐車場は、もう半分以上が埋まっている。

 食事所と土産物屋が一緒になり、日帰り入浴施設まで併設され、団体客の受け入れも可能な大型ドライブイン。タイキから

話を聞いたナルは、調べた末にここを見つけ出した。

「たぶん展望台は建物の裏側に…、ああ、あっちみたいだね」

 夏とはいえ山の上なので空気は涼しい。しかも地元ではないので今回は番長芝居は不要。久々の気を張らない外出に、猪は

ウキウキしている。立てた尻尾を風に揺らすレッサーパンダを追いかけて、タイキはドライブインの駐車場から裏手に回った。

 そこに、まさに想像していたような景色が広がっていた。

 森葉町の一部、盆地となった区域を、崖の上から見下ろす絶景。ドライブイン二階の食堂や、民家の一階よりやや高い程度

の展望台から見下ろせば、手前に生えた木々を越してより見渡せるようになる。

 時間が来れば盆地の向こうの山に夕日が沈む山間の絶景…。ここが、タイキの父が言っていた場所。家族旅行にどうだろう

かと、候補に上げた町。

 ナルに導かれて、他に客が居ない展望台に上がり、手すりに寄って見下ろした町は、夏なのに空気が澄んでいて、ミニチュ

ア模型を覗くようにクッキリ見えた。

「バカだなぁ父ちゃん…」

 鼻を啜って泣き笑いの顔になり、タイキは呟く。

「連れて来られたってさ、子供には良さが判んないようなトコじゃないか…。夫婦旅行用だよ…」

 ナルはその傍らで、水も豊富な山裾沿いかつ長距離輸送道沿いという立地のおかげで、目立って栄えもしなかったが昔から

安定していて、贅沢さえ言わなければ不便無く暮らせる町の構造を機械的に分析する。

 あえて何も言わず、話しかけようとしないのは、タイキの気持ちを真には理解できないながらも、思うままに任せて感傷に

浸らせようという考えから。同情も共感もできなくても、気を使う事はできる。

 ややあって、タイキは両手で顔をゴシゴシ擦ると、ナルに向き直った。

「ありがとうナル。これでちょっと、スッキリできた」

 体ばかり大きな少年の、ほんの少し背伸びした強がりに、レッサーパンダは余計な事を言わずに目を細めて頷いた。

「それじゃお昼ご飯にしよう。人気なのはカツ系なんだって。衣がサクサクで肉も厚いとか…」

「いいねソレ!そういえばカツカレーって旗が立ってたな、メインなのか…」

「それにする?」

「う~ん…。いや、やめとく。寒い時期ならいいけど、今日は汗が止まらなくなりそうだし…」

「カツ丼、カツ定食、カツサンドもあるみたいだね」

「定食にしようかな…」

「ボクはカツサンドにしよう」

「う~ん、それもアリかなぁ…。あ」

 振り向きもせずに踵を返したタイキは、ギュッと、何かを踏んだ。

 硬いものではない、生物の柔らかさと弾力があるソレを踏んだ瞬間、咄嗟に体重をかけないようにしたせいでバランスを崩

し、「わわっ!」と声を上げてよろけた。が、ドムンと重くも柔らかな感触に続き、しっかりと抱き止められて事なきを得る。

「す、済みません!」

 慌てて謝ったタイキは、この時点で、振り向こうとした際に後ろに来た人物の足を踏んだ事、よろけてぶつかった事、そし

て支えて貰った事に気付き、顔を真っ赤にした。

「いやいや、こっちこそビックリさせて済まなかったなぁ」

 タイキを抱き止めて支えた人物がのんびりとした太い声を発した。

 それは、体格がいいタイキと比べてもなお大きく見える、どこもかしこも丸々とした恰幅の良い虎の中年だった。太い鼻梁

に縞模様と、顔立ちそのものはどちらかといえば厳めしい部類に入るのだが、眼鏡の向こうの眠たそうな半眼と柔和に緩んだ

表情は何とも優しげである。

「大丈夫ですか?その、足…」

「うん?ああ、平気だとも」

 離したタイキから心配されると、大虎は「肉は人一倍厚いからなぁ」とさらに目を細めて顔を緩ませた。が、

「…うん?」

 レッサーパンダの視線に気付き、虎は軽く眉根を寄せた。

「どうかしたかね?」

「いいえ。本当に大丈夫かなって、思って…」

 ナルはタイキに踏まれた虎の足を心配するふりをしながら、しかし違う事を考えている。

(今のは、どこかおかしかったような…)

 力学は数式である。今のタイキのよろけ方からすれば、こんなに簡単に抱き止められるはずは無いように、ナルの目には見

えた。少なくとも、ビタリと微動だにせず抱き止められる勢いではなかったはずだが…。

「武道の先生ですか?」

 計算する材料が欲しくて訊ねたナルに、大虎は少し驚いたように眉を上げてから、「教師は教師だが、武道は門外漢だ」と

微笑んで応じる。

「どうして私を教師だと思ったんだい?」

「何となく、です。雰囲気って言うか、学校の先生と似ているなって思って」

 でまかせを言うナル。一方タイキが「え?本当に学校の先生なんですか?」と、レッサーパンダの勘が良いと誤解しながら

驚くと、大虎はたっぷり肉がついた顎を深く引いた。

「君達は…」

 虎が視線を向けると、問いたい内容を先読みしたナルが「今年高校受験なんです」と社交用の笑顔を見せる。疑問を抱いた

事について変に勘繰られたくないので、話題を変えたかった。

「なるほど。それじゃあ大変だなぁ。息抜きも必要だ」

 勉強しなくて良いのか?と言われるのではないかと思ったタイキは、拍子抜けして目をパチクリする。

「しっかり羽を伸ばして、しっかり勉強しなさい」

 分厚い手を目の上で庇にして景色を眺めながら、大きな虎の教師は穏やかに告げる。

「張りっぱなしじゃあ、伸びて弛んでしまったり、切れてしまったりもする物だ。意地も緊張も集中力もなぁ」

 話が分かる先生だとタイキが少しホッとしていると、太った虎は踵を返して、「ごゆっくり」と、分厚い手を肩越しにヒラ

ヒラ振って展望台を降りてゆく。

 ナルとタイキは、ポロシャツに汗染みが浮いたその背中を見送って…。

「………」

 レッサーパンダは無言で振り向き、眼下の景色を一瞥してから、展望台の降り口に向かった。「混む前にお昼にしようか?」

と、タイキを促しながら。

 

 持参したタオルを手に、ロッカーのキーを手首に巻き、二匹はドライブインと隣接する日帰り温泉の脱衣場から、広々とし

た浴場へ足を踏み入れた。

 二方向がガラス張りの大窓で、掛け流しの湯に浸かりながら見事な景観を楽しめる絶景スポット。併設してある張り出した

展望デッキにはより眺めの良い露天風呂まである。その他にもサウナ、水風呂、ジャグジー風呂があり、入浴料500円の価

値は充分にある。

「クチコミ通りの絶景だね」

 感動するには至らなくとも、景色の良さは心の触れ幅が小さいナルにも判る。学生にとっては夏休みでも社会人には平日な

ので、それなりに客は入っているが混み合う程ではない。快適な利用状況だった。

「ナル。ルール書きがあるよ」

 タオルを湯船に浸けない、湯船の中で体を洗わないなどの注意書きを確認したタイキは、「え」と声を漏らす。

「つまり、その、あの…」

 大きな体を縮めるように前屈みになっているタイキは、股間をタオルでしっかりガード中。

「湯の中に入ったら、前隠しちゃダメって事…!?」

 隠す事に拘るタイキの気持ちが全く理解できないナルは、「そうだろうね」と応じつつ手順に従ってかけ湯を始める。

「大丈夫タイキ?もう汗が出てるけれど」

「な、夏だからね!」

 股間を晒す事に忌避感があって焦るタイキだったが、湯に浸かってしまえばどうせ見えないと腹を括る。むしろ堂々として

いないと目立ってしまう気もしたので、ここは番長スタイルで堂々と振舞うべきだと…。

「そう。その調子」

 ナルが小声で囁き、タイキは納得した。遊びに来たのは確かだが、これも演技指導の一環なのだと。

 洗い場で体を流し、かいた汗をしっかり落としてから、並んで大きな湯船に浸かると、ナルは「上手く言えないけれど」と

小さく言った。

「広さと、湯の質のせいかな。新鮮で、気持ちが良いって感じる」

「ナルは温泉旅行とかするの?家族で」

「家族旅行の経験は無いよ」

 そうなんだ?と顎を引いた猪の横で、レッサーパンダは続ける。

「小学校の修学旅行は旅館のお風呂が温泉だった。あれが初めてで、それ以来だね」

 それから少し黙り、ナルはポツリと漏らす。

「露天風呂を直に見るのは、生まれて初めてだ」

「あ、オレも初めて!この季節は涼しそうでいいけど、真冬とかどうなるんだろ?」

 そんな事を言いつつ、どちらからともなく腰を上げた二匹は、温泉の成分で滑り易い床を気をつけながら回りこみ、露天風

呂がある展望デッキへ向かう。湯気で曇ったガラス越しでも、滲んで見える木々の緑や空の青が景観への期待を高め…。

「うわぁ…!」

 タイキは思わず笑顔になっていた。

 そこから張り出していたのは、正八角形を二分したような展望台。木製の手すりがぐるりと囲む以外に遮蔽物がない180

度のスカイパノラマ。空の高さが、山の深さが、把握し損ねる視覚情報量となって押し寄せる。

 吹き付けるのは涼しい空気。遮られる事なく山々を渡る風。教室ほどの面積もあろうかという広いデッキの先には、一辺に

隣接する形で設えられた木造の大きな露天風呂。

「き、来て良かった…!」

 ロケーションだけで感動し、身が震えてしまったタイキの横で、ナルも目を細めていた。

 心地良い。見える景色が。感じる風が。珍しく、ここに居たいという欲求を自覚した。

 五人の先客が居たものの、広い湯船にはまだまだ余裕がある。スペースがある方に浸かりながら景色を眺めようと、ナルが

先に立って移動すると…。

「あ」

 タイキが目を丸くした。ナルも気付いた。湯船の縁に腰掛けて景色を眺めているのは、恰幅の良い虎…先程展望台で会った

教師である。昼食を摂る時も食事どころの席で姿を見かけたが…。

「おや」

 タイキの声に反応して首を巡らせた大虎も、先に言葉を交わした少年達だと気付く。

「ど、どうも…」

 目が合ってしまったので無言も気が引ける。愛想笑いを浮かべるタイキと、微笑みながら会釈したナルは、虎の傍で湯船に

足を入れた。

 真ん丸く肥えている虎は耳をやや倒していて、頭の上に畳んだタオルを乗せている。タイキとナルもそれを真似て頭の上に

乗せてみたが、湿ったタオルは滑らないので、思った以上に安定していて具合が良かった。

「ここも景色が素晴らしいですね」

 世間話の体で話しかけるナルに、虎は「そうだなぁ。ここからだとまた違う角度で町が見える」と応じた。縁に座っている

虎は、肉が過剰について丸々とした裸体がよく確認できる。だが、贅肉過多ではあるがただの肥満体ではないと、ナルは骨太

な体型や二の腕の膨らみ、太腿と脹脛の曲線から推測した。恐らく、加齢などで体が緩んだものの、ムチムチした脂肪の下に

は筋肉が未だにたっぷりとついたままなのだろう、と。

 先の疑問に少しばかり納得が行く材料を見つけたナルは、「展望台からは山の木の陰になっていたところが眺められますね」

と話を合わせた。

「うん。私の古巣も良く見える」

「え?学校が、ですか?」

 肩まで湯に浸かっていたタイキが、腰を浮かせて膝立ちに切り替え、何処だ何処だと手すり越しの景色を覗くと、大虎はバ

ナナの房のような手を翳して、太い指で下に広がる景色の一角を指差した。

「うん。森葉学園という高校でね、去年まであそこで教鞭をとっていたんだ」

 ああ、あの校舎かと、タイキは指差された方を確認する。遠目なので細部は判らないが、様々なチェーン店の店舗が見られ

る主要道路からも近く、賑わいがある一画に建っているように思えた。

「君達の進学希望は?」

「実はまだ絞っていなくて…」

 虎に応じるナルの言葉を聞いて、タイキは軽く慌てる。こんな時期にそんな事を正直に言っては、学校の先生なのだから注

意されてしまうぞ、と。しかし…。

「うん。進学先は「これだ」と思えるまで考えるのが良い。後悔しないようにしっかり悩んだ方が…。もっとも」

 太った虎の教師は目を細くして、頷きながらそう言った。そして柔和な笑みを浮かべながら、一言一言、区切るようにはっ

きりとふたりに告げる。

「迷って、選んで、望んで、頑張って入れたなら、例えそこが、思っていたとおりの環境ではなかったとしても、きっと好き

になれる物だ」

 キョトンとした顔でその言葉を聞きながら、タイキは不思議な感情を覚えた。

「大丈夫。何処に進んでも、君達学生がそうと望んで、そのために行動すれば、楽しめる生活が待っている」

 楽しいだけじゃない。友達ができないかもしれないし、虐められる可能性だってある。自分の経験からそれが判っているの

に、反感は覚えなかった。

 モメるのが嫌で反論しないのではない。むしろ、その通りだと感じ、ポンと胸に入ってくる。

(望んだ…、友達が欲しいって望んだけど…。オレ、「そのために行動」なんてしなかった…)

 ナルは行動した。行動して自分を友達にした。友達が欲しかったなら、楽しい学校生活がしたかったら、自分はもっと積極

的に動かなければいけなかったのかもしれない。

 大虎の教師は頭のタオルを取って顔の汗を拭うと、一度ザッポリ肩まで浸かってから立ち上がる。

「さて、のぼせない内に失礼しようかなぁ。よっこらしょ…」

 大儀そうに湯船から上がり、戻ってゆく大虎の後姿を見送ってから、タイキは再び遠くに見える校舎に目をやった。

 来年春には進学する。学び舎が変わる。環境が変わる。まだピンと来ないが…。

 ナルが湯船の縁に座り、それに倣ってタイキも並ぶ。ふたりの視線は小さく見える知らない高校に向けられていて…。

「実は、ボクの高校は御父様がもう決めていたんだ」

 出し抜けにナルがポツリと言い、タイキはギョッとする。

「…そ、そう…なんだ…?」

 声が不安定に揺れた。何処に行くかは決めていなくとも、ナルと同じ所がいいなと思ってはいたから。しかし…。

「でも、ボクはそこに行かない事にする」

「え?」

 タイキの顔を見ず、遠く眺めた森葉学園を瞳に映しながら、ナルは考えていた。

 地元から程々に遠く、見たところ環境も良い。成績のボーダーがどのレベルかにもよるが、あの学校はタイキの「新天地」

にするには相応しい好条件が多い、と…。

「タイキと一緒の学校にしようと思うんだ」

 視線を戻したナルが何を考えているかなど判るはずもなく、タイキは目を大きく見開いてから、ウンウンと、繰り返し大き

く頷いた。言葉も出ないまま。



 数日後、森葉学園の事を調べたナルは、タイキに進学候補として提案した。

 学力はそれなりの高校だが、入試はタイキならばおそらく問題なくクリアできる。猪は真面目に勉強をするので、合格でき

るだけの学力は今からでもつくと踏んだ。何より、地元から離れている点は都合が良い。

「ボクも行くよ」

 とナルは言った。父が言った学校へは行かない、と。

「え?でも、怒られたりしない?って言うか、許して貰える?」

 卓袱台を挟んで勉強を見て貰いながら、猪は顔を上げてレッサーパンダを見る。

「そこは心配しなくても大丈夫だよ」

 微笑みながら応じるナルのきっぱりした言葉を聞いて信用したタイキは、すぐノートに視線を落としたので気付かなかった。

 一瞬後に、ナルの瞳が暗い孔になっていた事に。

 その日の内にタイキは母親に相談して、進学希望の学校について伝えた。ナルがパンフレットも持って来ていたので、それ

を元にして、自分も初めて知る事だらけの資料で説明をすると、当然母猪は困惑の表情を見せた。

 距離的に自宅からの通学は厳しいので、寮生活になる点を心配した母猪だったが、「ナルも一緒に行く」と聞いて、それな

ら安心だと首を縦に振った。実の息子よりナルの方がよほど信用がある、とは不満げな実子の弁。

 

 そうして夏休みが終わり、二学期が始まり、ナルの父が死んだ。

 

(出ない…)

 電話の子機を手に、自室で背中を丸めるタイキは、止まらないコール音を聞いている。初七日が過ぎて、ナルが登校する月

曜を翌日に控えた夜。迷惑になってはいけないとそれまで連絡を控えていたタイキは、思い切って電話をかけていた。

(まだ忙しいかな…)

 コールが8回目になり、子機を耳から離した途端、『はい』と声が聞こえ、慌てて戻す。

「あ、ナル!?ゴメン忙しい?」

『少しは大丈夫。どうしたの?』

 どうしたのって、心配だったからじゃないか。とは思ったが、タイキは少しホッとした。電波越しの声はいつもとあまり変

わらなかったから。

「あの…。大丈夫?ナル…」

『うん。大丈夫』

 そうは言うが、ショックでないはずが無いと、タイキは耳を伏せる。だが、何と言って慰めれば良いか判らない。自分がそ

うだったように、ナルもきっと筆舌に尽くしがたい辛さを味わっているのだろうと、タイキは心を痛めた

 タイキが父親の話題をあまり出したがらなかったからか、ナルも父の事を話に出す事が殆ど無く、タイキはナルの親が何を

しているのか知らなかった。この時になって弁護士らしいという話は伝え聞いたが、それ以上の事は知らないままである。

 想像するしかないので、親子仲は自分と父親のような関係だったのかもしれないと思い浮かべながら、タイキはナルを励ま

そうとした。

 落ち着いたら何処かへ遊びに行こう。時間ができたら漫画を読みながらゴロゴロしよう。シェリルの歌を聞こう。ゲームを

しよう。それから…。それから…。

 並べ立てて、これでは単に自分の要求を言っているだけのようだと、途中で気付いたタイキは…。

「あ、ゴメン…」

 トーンダウンして項垂れ、謝った猪の耳に、『タイキ』と、鈴を転がすような声が届く。

『ありがとう』

「…!う、うん!」

『それじゃあね』

「うん!明日ね!」

 子機の電源を切り、タイキはぼんやりとドアを眺める。

(ナルは自分に心が無いって言うけれど、きっと平気だって言うんだろうけど、態度はいつも通りだろうけど、辛くないはず

ないよ…)

 ナルに恩返しをしよう。元気が出るように励まそう。頑張って「正義の番長」を演じよう。頑張って学力をつけよう。ナル

の望みに沿えるように…。



 父は死んだが、ナルは母の所に身を寄せなかった。

 父親の法律事務所に居た法律家に後見人になって貰い、財産管理などを任せた上で、法律事務所は年度末をもって廃業とい

う形にした。

 事務所そのものはそれ以降ナルの居宅という形になるが、事務所として作られている階までは貸し物件として入居者を募集

する事までがトントンと決まった。

 ナルが借りている住民票を置くためだけの部屋も、卒業をもって解約する。事故死とはいえ死人が出た部屋なので、家主は

頭が痛いだろうが。

 タイキの二学期は忙しかった。

 受験に失敗しないように勉強しながら、不良っぽく見えるように無意味に徘徊した。ナルが「噂」を振り撒く中で。

 時々、ナルが困っているひとや事件を見つけてきて、タイキに解決させるためにお膳立てした。いざこざを起こした生徒双

方を強面の一睨みで諸共に黙らせたり、登下校路で民家に悪戯をする生徒を捕まえたりと、判り易い善行を目立つものから地

味なものまで、本人はびくびくしながら番長らしい振る舞いでこなした。その中でタイキが安心して取り組めるのはゴミ拾い

程度である。

 怖がられるようにはなったが、少なくとも虐められる事はもうなかった。ついでに言うと恐れられてはいても嫌われてはい

なかった。ナルが作った「正義の番長」というファンタジーは、驚くほど彼の計算通りに周囲から認知された。

 一方、タイキは怖いので調べようとしないし、母にも訊かないが、実はこの頃、父親の事故について再捜査が始まっていた。

 匿名で県警に送りつけられたメモリーカードに、事故に関する新たな映像が入っていたのがその発端だった。映像には赤い

スポーツカーが危険な割り込みをする一部始終が映っており、ナンバーから所有者が割り出された。

 少し前に火災で死亡した県議会議員、その息子の所有になっていたが、車その物は既に廃車されており、その辺りの事情も

含めて捜査は進む。

 そして、二学期も後半の冬にさしかかると…。



「…何これ?」

 箱から取り出した真っ赤なトレーナーを広げ、タイキは困惑した。

「何って、トレードマークでしょ?そろそろ寒くなるから」

 ナルはタイキに、「弱肉強食」仕様のトレーナーを作っていた。さらにセーターも作る予定だと言う。

 寒くなったらティーシャツを晒さなくて済むと思っていたタイキは、無情なるオールシーズン対応に落胆した。寒かろうと

思っての気遣いらしいが、ナルにはこういう優しくない優しさが散見される。そういうトコだぞ?と思うが怖いので何も言わ

ないでおく。

 言われるがままに袖を通すと、少し余裕をもって作られたらしく、袖も裾もやや余ったが、この程度ならじきに丁度良くな

るだろうと思えた。

「うん。似合ってるよ」

「そ…、そう…」

 感情が全くこもらないまま、それでも褒めようとしてナルがチョイスした言葉は、言われる側からするとあまり嬉しくない。

「これで期末テストにも気合が入るね」

 気合と無縁の少年から気持ちを込めずに励まされ、タイキは嘆息する。そもそもこの頭が悪そうなトレーナーを貰っても勉

強に対する気合など雀の涙ほども入らないというのが正直な気持ち。勿論言わない。

「…受験勉強でいっぱいいっぱいなのに、何で期末テストとか普通にあるんだろ…。三年生は免除でよくない?」

「前哨戦扱いなんじゃないかな」

 余裕がある…というよりも歯牙にもかけていないナルの落ち着き振りがタイキにはとても羨ましい。

「さあ、頑張ろう。受験生にはクリスマスも正月も無い。未来の為にいま頑張ろう」

 芝居をしていないときのナルが励ますために口にする言葉は、仰々しくもどこか白々しく響く。何せ表情が謎の微笑である。

「判ってるけどさぁ…」

 クリスマスは父の命日だし、ちょっと気持ちの整理がついていないから別にいい。しかし初詣とかはせめて一緒に…と思っ

ていたタイキは軽く落胆する。この口ぶりだと、その辺りはたぶん認めてくれないだろうなぁ、と。

「結果が出たら自由だからね。それまで頑張ろう」

 ガンバレガンバレと励まされながら、タイキは毎日受験生と番長を頑張り…。



(大丈夫大丈夫大丈夫…!)

 母に買って貰った、真新しいピカピカの携帯の画面を指でなぞり、タイキは森葉学園のホームページを覗く。

 二月。合格発表がなされる日。

 誰が見ている訳でもなく、家にひとりにも関わらず、タイキはトイレに隠れて合格者の受験番号が掲示されるページを探る。

(深呼吸…!深呼吸…!ひっひっふー…、ひっひっふー…)

 緊張を和らげようと、何故かラマーズ出産法の息遣いをしながら、震える指が合格者発表ページのタグに触れようとした正

にその時…。

(ブギャフアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?)

 突然のバイブレーションとテュルルルルッという呼び出し音に驚き、心の中で絶叫するタイキ。よくしつけられた番長なの

で誰も見ていないところでも悲鳴は声に出さない。

 着信相手はナルだった。

「も、もしもしっ!?」

『合格おめでとう』

「え」

 魂が抜けたような顔になる猪。

 今見る所だったのに。合格してたのオレ?耐えていた今の緊張は一体…。そんな、色々な物が篭った「え」だった。

「いま見るところだった…」

『ボクの方が早かったんだね』

 そこで出る台詞は普通そうじゃない。そういうトコだぞ?とは思ったが、何も言い返さずに疲れた表情でため息をつく。

『これで気は楽になったかな?進学の準備はあるけれど、しばらくはノンビリできるね』

「そ、そうだった!」

 言われて気を取り直したタイキは、『何かしたい事はある?』と問われると、

「じゃ、じゃあ!えぇと…、えぇとね!ちょ、ちょっと待って!ちょっとだけ!すぐだから!」

 色々やりたい事があったはずなのに、まず何にするか迷った挙句…。

「えぇと…!とりあえず会わない!?」

『うん。明日の帰りに寄るよ』

 こうなんだよなぁ…、と耳を倒すタイキ。

「そ、それでも良いけれど…」

 自分が求めているほど、ナルの方からは求められていない気がして、若干ヘコむ。

(うん、でもまぁ、明日会えるなら良いか…)

 下校後に会う約束を交わして、篭る必要が無くなったトイレから出て、タイキは自室へ戻り、思い出したように机から受験

番号のカードを取り出して、念のために自分の目でも確かめてみた。

 きちんと、番号があった。自分の番号も、メモしておいたナルの番号も、両方。

「ふ…、うふ…!んふんふうふふうふぅ…!」

 零れた笑い声は、自分でもどうかと思うほど気色悪かった。



 翌日、下校後。タイキは先に帰宅して、ナルが寄るのをソワソワと待った。

 冷蔵庫を何度も覗き、廊下に出て玄関を見遣り、ウロウロと落ち着き無く待つ事5分と少々。

「いらっしゃい!」

「おじゃまします」

 玄関へ駆け出たタイキは、ペコリとお辞儀したナルを、まずはキッチンへ案内した。

「今日は台所?どうしたの?」

「渡すものがね!ちょっと!…はい!まずこれ母ちゃんから!」

 冷蔵庫から引っ張り出した物を押し付けられて、ナルは瞬きする。

「おばさんから?気を使ってくれたんだね、バレンタインチョコか…」

 綺麗にラッピングされた袋の中身は、小さなチョコレートの詰め合わせ。タイキが貰った物と同じ品である。

「そう!バレンタインだよ今日は!だから…」

 再び冷蔵庫に向き直ったタイキは、そこから箱におさまった一本物のチョコロールケーキを取り出した。地味に評判のケー

キ屋で買った品である。

「オレからも!」

 ずいっと差し出すタイキはやや早口だった。対してナルは…。

「?」

 小首を傾げたまま、タイキの手に乗った箱を見つめている。無言で。

(…あれ?何この反応?反応っていうかノーリアクション…)

「ねぇ、タイキ」

「う、うんっ?」

「どうしてタイキがボクにバレンタインのプレゼントを?」

「え!?い、いや!だって!」

 猪は慌てた。脳内シミュレーションとはだいぶ違う反応だったので。想定していたのは、「ありがとう!」「どういたしま

して!」という流れからのやり取りだったのだが…。

「タイキは男性で、バレンタインっていうイベントは一般的に…」

「わ、判ってるよ!?判ってるけどさ!でもほらオレ達付き合ってるわけで!どっちがどのタイミングでっていうのは判んな

いけどせっかくだからバレンタインに渡したいかななんて思って」

 早口でまくし立てるタイキの前で、

「………」

 ナルは首を傾げたままひとしきり話を聞き…。

「付き合っていたんだボク達?」

「え!?」

 流石にこれは相当ショックな発言だった。

「だ、だって、デートとかしてるし!?その、ほら、は、「はだかのつきあい」とかもほら!」

 ただの友達でやる事ではない。と、思うのだが、身振り手振りを交えて話しながらも、タイキは自信が無くなって来る。し

かし…。

「そうか…。なるほど…。これはもう付き合っているって言っても良い段階だったんだ…」

(ん?)

 ナルの様子が少しおかしかった。言われてみれば、という様子で顎を引き、見落としに気付いてひとりで納得しているよう

に、繰り返し頷いていた。

「ボク達は付き合っていたんだね。うん。理解した。バレンタインプレゼントありがとう。うれしいよ」

(ええええええええ…)

 そっと手の上からチョコロールケーキを取るナル。凍りつくタイキ。

 無表情での「ありがとう」「うれしいよ」は相当な破壊力。否定されなかった事は喜ばしいが、真顔で照れもなく機械的な

冷静さをもって認められるのはちょっとだいぶ大概アレで、率直に言うと気持ちに効いた。ボディブローのように。

 それでも、タイキはこう感じる。

 ナルは随分「ひとらしく」なったのではないだろうか?と。

 考えてみれば、部屋に来てくれるようになった最初の頃は、いつもニコニコしていて、気遣ってくれて、優しかった。ただ

し、冷静に考えれば「クラスメートの無償の気遣い」という範疇から逸脱する程に。あの頃と比べれば、ナルは時に辛辣で怖

い顔も見せるものの、笑顔の質が変わって来ているように感じられる。

 そう。作り笑いばかりではなくなって、本当に笑っている時もある。

「ボクには多いから、一緒に食べよう」

 今浮かんだものがまさに、その微笑みだった。

「うん!」

 大きく頷きながらタイキはつくづく思う。

 自分は、ナルにすっかり惚れているのだと。



 ロールケーキを切り分けて、ふたりはタイキの部屋で食べた。

 たっぷり入ったチョコがトロリと流れ出てくる、ひとによってはクドく感じられる程の味だが、食したナルは…。

「これ好きかも」

 タイキも予想していなかった、素直な感想を口にした。笑顔は無く真顔だったが。

「良かった!オレは好きだけど母ちゃんはちょっとで良いって言うしさ、オレは好きだけど!濃厚なチョコが好み分かれる所

みたいなんだよねオレは好きだけど!ナルが気に入るかどうかドキドキしたんだけど…」

「うん。ボクもそんなには要らないかな」

 身を乗り出して熱弁をふるいかけたタイキだったが、微妙にドライなナルの発言に遮られ、「…そ、そう…」と勢いを失う。

味は好みだがそこまでは必要ないらしい。結局ナルは輪切りにした一つだけを食べ、残りの九割はタイキが食べる事になった。

 バックされた分は夕食後に食べる事にして、台所の冷蔵庫に戻してきた後で、タイキはゲーム機を弄ってシェリル・ウォー

カーのCDを再生しているナルに、後ろからそっと膝立ちで抱きつく。

「何?甘えたい気分?」

「うん…。まぁ…」

 モゴモゴと応じるタイキ。

「それとも、して欲しい気分?」

「ムード台無し…!いやして欲しいけど!けども!今はそうじゃなくて…」

「じゃあ、何?」

「その…」

 ナルを後ろから抱えながら、タイキはポソポソと、自信の無さそうな小声で囁く。

「付き合ってるって、事で…、良いのかな…。本当に良いのかなって、今更…」

「うん?」

「だってナルは…」

 可愛い。勉強も出来る。スポーツも。社交的…と言って良いだろう、他者と交流する事に困らない。つまり自分とは全然違っ

ていて、望むならもっと…それこそこんなデブで冴えない臆病者のぐうたら猪よりも相応しい、美人な女の子とも付き合える

だろう。

 なのに、本当に自分は、付き合っていると言って良いのだろうか?ナルは自分と交際して構わないのだろうか?

「身の程知らずかなって、その…思えてきちゃって…」

「ねぇ、タイキ」

 自分で言いながら落ち込んできてしまった猪に、レッサーパンダは訊ねる。

「「天上天下唯我独尊」って、知ってる?」

 暴走族の特攻服などに書いてあるアレか、と漫画の知識を参照したタイキが、「この世で自分だけが尊いとか、ヨロシクと

か、そういう意味だっけ?」と答えると、

「…ヨロシクって何だろう…」

 真顔で考え込むナル。

「えぇと…。ゴメン、詳しくは知らない感じで、オレのは結構適当な知識…。本当はどういう意味なの?」

「天の上にも天の下にも、自分はひとりしか居ない。当然、他の誰かだってひとりしか居ない」

 レッサーパンダの手が上がり、肩越しに猪の頬に触れる。

「ボクらは一人一人みんな違っていて、できる事も、するべき事も違う。誰かにとって尊いひとも、誰かにとっては大事でな

かったりする。けれど、本当に無価値なひとなんて、そうそう見つからない」

 優しく頬を撫でながら、ナルは言う。

「ボクにとっては、この世の中の事のどんな物もどんな事も、だいたい「どうでもいい」。けれどその中で、本当に無価値な

物や無意味な事は、殆ど無いんだ」

 諭すように、励ますように、君はボクにとって立派に価値がある存在だと、ナルはタイキに触れた掌で伝える。

「ボク達全員唯我独尊。天の上にも天の下にも、ナルはボクひとりしか居ないし、タイキは君ひとりしか居ないんだよ」

 あの日、せいぎのみかたについて語った者は、タイキ以外の誰でもない。あるいは、巡り合せによっては他の誰かが「例外」

になる可能性もあったのかもしれないが、今こうしてここに存在する自分にとって、「いとしいひと」はタイキただひとり。

 歪んでいようと、穢れていようと、ハリボテであろうと、ナルにとって自分なりの愛。それを向ける相手は天の上にも天の

下にもタイキ唯独り。

 夢見心地のまま火照った顔を撫でられるタイキは、「納得いった?」と問われてコクンと頷く。

 バレンタインのプレゼントをしたら、ホワイトデーまで待つ事無く、これ以上ない嬉しいお返しを貰えた。

「…ナル…」

 キュッと、後ろからレッサーパンダを抱いて、タイキは顔を真っ赤にしながら囁く。

「大好き…」

「うん。ボクのこの気持ちも、きっとそう」

 首を巡らせるナルと、顔を寄せたタイキの、唇が軽く触れ合った。

 新天地へ移る前の月。最も時間に余裕があった月。中学最後の三学期を、ふたりはできるだけ共有した。

 そして、二年以上の時が流れて今に至り…。











「さて…、ナナ君がログインするまでにお風呂を済ませて来ようかな」

 食事を終えて部屋に戻ると、レッサーパンダは手早く入浴の支度をする。その背後を、猪がノソノソウロウロ落ち着きなく

歩き回っているが…。

「…ね、ねぇナル?しばらく一緒にお風呂入ってないよねぇ?」

 何かを期待するような猪のヘラヘラした笑みを一瞥し、「そうだね、でも今日はダメ」とキッパリ応じるレッサーパンダ。

「番長のストッパー」というポジションを崩さないので、誰かの目がある所では芝居を崩さない。

「何?甘えたい気分?」

「うん…」

 猪が背中を丸めてモジモジと上目遣いで見つめてくると、レッサーパンダは少し考え…。

「じゃあ、お風呂は後にしようかな」

「え!?」

「一緒に入る訳じゃないよ」

「え…?」

「お風呂を済ませてから汗をかくのは非効率的だから」

「………え?」

 猪は少し考え、少し目を大きくし…、

「ゲームの後でね」

「う、うん!」

 レッサーパンダに言われるなり、すぐさま弱肉強食トレーナーに手をかけて捲り上げる。

 ボヨンとせり出した太鼓腹や、いそいそ脱いだパンツの下から現れる尻などを一瞥した後で、レッサーパンダはゲームを立

ち上げた。

 そして猪は、相方の遊戯が終わるまで、全裸で、正座で、ベッドの上で、目をキラキラさせながら尻尾を振って、行儀良く

待っていた。