森葉町の一角。夜も更けた学生寮の窓からは大半の灯りが消えているが、階段の踊り場や廊下の夜間灯に混じり、カーテン

越しの滲んだ光も残っている。

 その中の一室では、床一面に所狭しと、正方形に畳まれた薄いビニールシートが置いてあった。

 皺を伸ばすために空いているスペースにも広げてあるので、やたらと狭くなっている床の残りに、ふたりの少年が作業用に

空けた最低限のスペース…1メートルほどの距離を挟んで向き合い、座っている。

 片方は大柄な猪。寝支度を整え終えており、地味な紺色のトランクスに丸首のランニングシャツ姿。薄手の下着越しに豊満

な胸や腹のラインがはっきり判るほどの肥り肉、腕も脚も太く、文字通りの猪首なので、座った後姿は妙にずんぐり真ん丸い。

 口の両脇で反り返る牙も太く立派で、厳めしいと言える顔形をしてはいるが、目をショボショボさせて元気が無く、生あく

びを繰り返す様子からは覇気が全く窺えない。房付きの尻尾は元気なくクタンと床に垂れている。

 もう一方はポテッと丸くてムクムクしているレッサーパンダ。半袖半ズボン、サラッとした肌触りの薄手のパジャマ姿で、

薄い空色が清潔感と清涼感を印象付ける。

 テキパキと動かす手は素早く、背を丸め気味の猪と比べて姿勢も良く、見た目は愛らしい。だが、何を考えているか全く判

らない無表情と、光の反射が無い虚ろな目を見れば、受け取る印象はガラリと変わり、どこか得体の知れない雰囲気がある。

 カサカサ、ビーッ、ペタッ、カサカサ…。

 作業の音だけが長時間続き、広げられていたビニールがだいぶ片付いた後で、

「ねぇナルぅ…」

 カサカサと音を立てる薄いビニールを丸めながら、タイキはげんなりした様子でため息をつく。真面目に丁寧に作業を続け

てはいるが、どうやら飽きてきたようで、「あと何本作るのぉ?…ふあ…」と、質問にあくびが続いた。

 幅1メートル弱、長さ十数メートルにもなるサラサラツルツルの極薄ビニールを、皺を伸ばして二枚ピッタリ重ね、長辺の

端を数箇所テープで止めながら丸めて筒にしてゆく作業は、折り目がついた素材がなかなか言う事を聞かないので面倒臭い。

おまけに、ナルからも説明が無かったので、いまだに何のためにこんな事をしているのかも判らない謎作業。達成感も充実感

もないのが飽きの原因かもしれない。

「あと二本だよ。頑張ろう」

 対照的にテキパキとビニールを丸めながら、レッサーパンダが応じた。

「何処から持って来たのコレ?何なの?そろそろ教えてよ…ふあ…」

 タイキは一応問う。問うが、「何に使うの?」とは問わない。訊くのが怖い。ナルに言われて学校帰りに寮へ運んだのだが、

「加工」を手伝わされながら嫌な予感がしてきた。

「日曜日、うちの学校の体育館が、教育講演会の会場になったんだよね」

「あ~…、そんな話聞いてたかも…?」

 聞いたかもしれないが、そもそも生徒には関係ない教員参加の講演会。それがどんな内容なのかも判らないし興味も無いの

で、タイキは気にも止めていなかった。

「で、その講演会とこのビニールシートに何の関係があるの?」

「講演会の為に、体育館にパイプ椅子が並べられたんだ。その時に敷いてたのがこのビニール。床に擦り傷なんかが付き難い

ようにね」

「ああ、これって床の保護材だったんだ?」

「そういう事。薄くても丈夫だから、打って付けだね」

 何に打って付けなのだろうか?と疑問に思ったが、タイキは何だか怖かったので訊かなかった。

 それからまたしばらく経って、ようやく最後のシートが筒になり…。

「終わったぁ~!」

 タイキはゴロンと背中から床に転がった。ビニールが無くなって床が広い。手足が伸ばせる。作業から開放された。それだ

けの事で幸せを感じ表情が緩む。

 出来上がった筒の数を確認し、頭の中で面積を計算したナルは、位置の関係上、シャツが捲れてヘソが出ている山になった

腹越しに、タイキの口の先に視線を向けて「お疲れ様」と声をかける。

 時刻は午前0時を回った。まだ週初めなのにと、壁にかけた丸い時計を眺めてため息をついたタイキは、背中を丸め、頭側

に体重をかける形で体全体を揺すって尻を浮かせると、勢いを付けて起き上がり小法師のように胡座の姿勢に戻って来る。そ

うして目線が交わった瞬間…、

「ねぇタイキ」

 ナルのその一声で嫌な予感がした。より正確には謎ビニール丸めをしている最中も良い予感など全くしていなかったのだが

その段階で確信に変わった。「うん?」と頷きつつビニールを丸めた筒を一本取り、出来栄えを見聞するように眺めて現実逃

避するタイキ。

「たとえば、君が夜に買い物に行ったとする。チップスターとバームクーヘン、それからコーラと、あの甘ぁいカフェオレ。

夜食用に肉うどんも。そう、最近の君のマイブーム、レンジで温めるだけで食べられるアレだね」

「う、うん…」

 この手の「たとえば」「何々だとする」を含んだナルの確認の後は、だいたいろくな事にならないと経験則で判っているの

だが、タイキは怖いから遮らない。何せ顔が怖い。孔のような目になりながら楽しそうな微笑も浮いているのでとても怖い。

「翌日は休みだから、帰ったら、お菓子を食べながら夜更かしして、アニメや映画を観賞する予定なんだ。どんな気分かな?」

「え、えぇとぉ…。楽しみで、ウキウキして、スキップしたい気分だと思うよ。番長はひとに見られる所じゃやらないけどさ、

スキップ」

「うん感心感心。そう…。スキップしたいほど良い気分だね。そこで…」

 ナルは少し身を乗り出す。怖い微笑には一切変化が無く、タイキは気持ち仰け反って首を引く。

「美味しい物がたくさん入ったコンビニの袋を、後ろからひったくられて盗み去られたら、どう感じる?」

「うんと…。それはもちろん怖いし、びっくりするし、がっかりするし、悲しいね…」

「そう…。驚くね。落ち込むね。悲しいね。それでタイキはどう…」

「すぐ買い直しに行かなきゃ」

「そう…来たか」

 とてもとても低い声が、微笑はそのままのレッサーパンダの口から静かに漏れた。

「え!?お、怒ったの!?何がまずかったの今の!?怒る要素とかあった!?」

「いや、怒ったわけじゃないよ。君はそういうひとだったって、改めて認識し直しただけ。それで…、しかし、だよタイキ。

残念な事だけど買い直しには行けないんだ。お財布も一緒にひったくられたからね」

「酷い!それは困るよ!絶望する!取り返せないの!?」

「うん。酷いね。困るね。絶望しそうになるよね。取り返したい?当然だよね。それじゃあ、意見の一致をみたところで作戦

を説明しようか」

 巻き込まれるのが確定した状況での問答が終わり、タイキは仕方なく顎を引く。

 番長の仕事…つまり様々なトラブル解決。お膳立てして持ち込むナルは、時々面白半分で探してきたのではないかと思う事

件や、自分のささやかな欲を満たすためにおあつらえ向きな事件を持ってくる。

 方針から方法まで、だいたい結論が出て準備も終わった後で、実際に行動に移る前にナルは今のような問答を行なう。タイ

キは、自分に腹を括らせるための準備運動、兼思考誘導、兼言質取りだと思っているが、実際にはそれだけではない。ナルに

とって決行するか否かの最終判断を行なう指針が、この問答だった。

 ナルは感情が希薄で、倫理観や道徳観にも部分的に欠落がある。ひとと遜色ないように振る舞っており、実際に何も知らな

ければ違和感などもなく「生徒会書記の優しくて真面目で可愛らしい優等生」と見えるのだが、それはその優れた頭脳をもっ

て機械的に行なう脳内シミュレートと、高過ぎる演技力の賜物。ナル曰く「はりぼての感情表現」である。

 ある程度の欲ができて、面白い、楽しい、といった自分の精神の揺れも自覚できるようになったが、結局はそれだけ。物事

について良し悪しの判断をするには、共感もできず合理性も見出せなかった道徳の授業の記憶頼みでは心許ない。ナル自身、

善悪正邪を正しく判断できる自信などない。

 だから、最終的に実行の是非はタイキとの問答を経て決める。自分の判断がひととして根本的に間違っていないか否か、そ

の基準がこの問答。これによってタイキの反応から「本当にアウト」と判断した物だけは実行しない。

「チャリンコ窃盗団…、知ってるよね?」

「えぇと…、ゴールデンウィーク辺りから出始めた、自転車で後ろから追い抜き様にひったくって行く連中の事?」

 噂は聞いていたが、最近ついにローカルニュースでも報道されたので、タイキもよく知る事になった。「知っているなら説

明は要らないね」とナルは顎を引く。

「今回は彼らを捕まえるんだ」

「あのねナル」

 思わず口を挟んだタイキは、しかし怖いから止めよう、というのではない。万が一過信されていたら困るので先に言ってお

こうと口を開いている。

「オレ、走るの苦手だし無茶苦茶遅いし自転車を追いかけるのとか絶対無理だよ?」

「うん。それは承知してるつもりだよ。ボクだって走って勝負しようとか考えていないし、自転車を調達してレース勝負とか

も考えていないから、安心して」

「それなら…」

 期待されている事が不可能な部類でないならば、と渋々顎を引いたタイキは、

「タイキの役割は、指定した地点で準備して立っていて貰う事」

「うん。そして?」

「だいたいそれだけ」

「え?それだけ?」

「それだけだよ?」

「それだけでいいの!?」

「うん。やって貰いたかった仕事の大半は、実はもう済んでるしね」

 ナルはビニールの筒を見る。丸めて圧縮したのでずっしりと重たいが、力持ちのタイキであれば苦も無く運搬できる。

「二週間もかかったけれど、ルートの割り出しも終わった。あとは捕まえるだけだよ」

 腰を上げたナルは、「ティータイムにしようか」と冷蔵庫に向かった。取り出した大きなジョッキにパックのカフェオレを

並々と注いで、自分の小さなカップにはミネラルウォーターを注ぐ。その作業の間にもナルの説明は続き、タイキは自分がす

る事を理解した。

「…でもそれって…」

 全て聞き終えた後、カフェオレが注がれたジョッキを受け取ったタイキは、心配そうな顔でナルを見上げる。異議があるの

は自分の分担についてではなく、ナルの役割についてだった。

「他の方法にはできない?例えば、コマザワ君にお願いするとか…」

「コマザワ君は反射的に追いかけちゃうでしょ?」

「あ…。そうかも…」

「もしかしたら彼の事だから、走って追いついてひとりは捕まえられるかもしれない。でも四人全員一度に捕まえなきゃダメ

だからね、今回は」

「何で?ひとり捕まったら、その証言とかで他の仲間の事も判るんじゃ…」

「逃げた残りの数人が、証言されて辿られる前にせめて証拠隠滅しよう、なんて考えたら、戻る物も戻らなくなるよ」

「あ、ああ~…!それはまずいかも…」

 しかし、それでも、タイキは珍しく食い下がった。正確には、ナルの作戦に繰り返し異議を唱えたのはこれが二度目。先に

寮生仲間であるナナと、彼が案じているスバルのために行動を起こした時も、猪は異論を唱えた。作戦の都合上ナルが矢面に

立つから、である。

「でも、やっぱりそのぉ…、他の方法無いの?」

「無い訳じゃないだろうけれど、実行できる中で一番確実だからね」

 シュンと耳を倒すタイキ。見つめられるナルは表情一つ変えずに、「大丈夫だよ」と、猪が伏せた耳の間に手を置いた。

「上手くやるから」

「…うん…」



 翌日夜八時。ナルは薄暗い道をテクテクと歩いていた。

 車道側の左手にはコンビニの袋と小さなポーチ。指にかけて持つ軽い保持の仕方。

 頭に浮かべた地図と現在位置を照合しながら、ナルは立てた尻尾を歩調に合わせて軽く振り続ける。いかにも機嫌良さそう

に、いかにも無防備な様子で。

 時間、位置、移動方向、防犯カメラが無い道、条件はピッタリ。開始から約一時間、リテイク三度目で、獲物は釣り針に食

いついた。

 歩道の壁に跳ね返る微かな走行音。車輪が滑る軽い音を察知しながら、しかしナルは耳を動かす事もなく、気付いていない

ふりを装う。

(距離、約4、3、2…)

 接近する微かな音。恐らく念入りに潤滑油をさしているのだろう、ペダルを漕ぐ音すら殆どしない。それでもナルの脳裏に

は、左後方に迫る自転車の位置が正確なヴィジョンとして浮かんでいる。

(1、0…)

 カウントダウンぴったりのタイミングで、ナルの手から荷物が掻っ攫われた。

 ナルが推測した通り右利きだった犯人は、車道側にぶら下がる荷物をすれ違い様にひったくるなり、ペダルを踏み込んで加

速する。さらに…。

「あ!?え!?ど、ドロボー!」

 驚愕、困惑、焦りの声を巧みに使い分けて感情表現するナルの叫びに、自転車の走行音が重なった。後続3台がナルの傍を、

接触スレスレで通過する。被害者が走って追おうとしても、危なっかしくて身が竦み、初動が遅れる。よくできたフォーメー

ションだと、驚き脅えて飛び退く芝居をしながら、ナルは一定の評価をした。

 四名は人間獣人半々。いずれも若く、ナルは自分と同年代と見る。しかし、容姿はやはり記憶に無い。生徒全員の顔を記憶

しているので、確実に森葉の生徒ではないと確認できた。

 自転車が遠ざかる。悲鳴を上げて追いかけるナルに気付き、近くに居たブレザー姿の若い社会人が、驚いた顔をしながらも

一緒になって走って追いかけるが、距離は開いて行くばかり。

 あっという間に角を曲がった自転車4台は…、

「今日もう終わりにするかー?」

「ああー、帰るかー」

 声をかけ合い、現場から離れながら帰路につく。

 釈然としない。警戒され始めたのか、今日はろくに標的が居なかった。仕方なくレッサーパンダを襲ったが、ゲームとして

もいま一つ楽しくないし、収穫も期待できない。

 このひったくりを「狩り」と称する彼らは、「狩場」を変える事を考えながら自転車を走らせ、その道を曲がった。いつも

通る、例え車に追われても逃げ切れる、歩行者用道路に向かって。

 そしてこの段階で、ナルの作戦は成功となった。

 標準的な体型の人間男性が三人並べる程度の道。直線10メートルの短い歩行者道路。両端にしか街路灯が無い裏道。日中

は小学生が車が来ない安全な通学路として利用しているそこを、窃盗集団は移動経路として活用していたのだが…。

(ん?)

 最初に気付いたのは先頭のひとり。ナルから奪った荷物を籠に入れた自転車。

 通路の出口側が、今日はほぼ塞がっていた。

 丸太のような脚を肩幅に開き、道の真ん中に立っているのは、幅が常人の倍はあろうかという大柄な影。真上から降り注ぐ

街路灯の光が、巨体のあちこちに深い影を黒々と浮かばせている。

 前をはだけた学ランの間から覗く「弱肉強食」の四文字は、腹が出っ張っているせいで影にならず、夜でもくっきり目立っ

ていた。

 四名全員が目を剥いた。見た瞬間に気がついた。それが誰なのか理解した。

 番長。

 時代錯誤も甚だしい二文字が、全員の脳を駆け抜ける。

 曰く、話を聞かない。

 曰く、シマを荒されるのを好まない。

 曰く、数十人が病院送りに、数人が行方不明に、数人が不定形にされた。

 ナルが流した原型の噂には、既に尾鰭が奇形生物よろしく生えまくっているので、タイキは恐怖の象徴かつ理解不能で交渉

不能で和解不能な暴力の権化のように他所で言われている。

 ギロリと、高い位置にある眼球が無灯火の自転車四つを睨んだ。

 ポケットに入れられていた手が抜かれ、野球グローブのようなそれが胸の前で組み合わされ、ポキポキと関節を鳴らす。

 ブシュウ…と、猪っ鼻から機関車の蒸気の如く鼻息が噴出したその瞬間、先頭の一台が右折した。通路の途中、他の生活路

と合流して丁字路になっている位置から。

 続けて三台がその通路に走りこむが、出口側で待ち構えていたタイキは慌てることもなく、急いで追いかける素振りもない。

 何故か痛そうに顔を顰め、ゆっくりと大股に歩いて自転車が消えた通路へ向かった。

「何であそこにイノバン居んだよ!」

「アイツのシマってこの辺りもか!?」

「知るかよ!とにかく…」

 二番目の自転車から上がった声は、途中で途切れた。

「あ!?」

 先頭の自転車がスリップしていた。パリッ、ガサガサッと音がしたが、それを気に留める余裕も無い。転倒した先頭車両を

避けようとした二台目も、前輪が滑り、そしてすぐさま何かが絡んで転倒する。

 三台目、四台目は、前の二台が気付けなかったソレを、先行する車輪が巻き上げた事で視認できた。

(ビニール!?)

 それは、薄くてペラペラでサラサラしているビニールシート。そんな物が二枚重ねで、道の途中から路面にびっしりと、端

から端まで貼り付けられていた。

 二枚重ねのスベスベビニールは、タイヤが乗った瞬間に滑って、申し訳程度にテープで止めていた部分から剥離し、タイヤ

に絡みつつ転倒させる。しかも転んだ先にはまだ一枚目が残っているので、転倒したまま滑走する羽目になる。転んだ先頭へ

次々と勢い良く激突した自転車群がけたたましい音を立て、それが静かになると呻き声が夜の底を這い始める。

 ただの転倒とは訳が違った。転倒した際の減速がビニールのせいで少なくなり、手酷い玉突き衝突事故の様相を呈している。

発案者の他者への共感が欠落しているが故に、このトラップは非情かつ極めて悪辣。一網打尽にする効率と与えるダメージだ

けを優先してある。

 ビニールにタイヤどころか自転車本体も体も絡め取られて、手痛い転倒から立ち上がれず、転がったまま呻く四人の前で、

のしっと、大きな脚が地面を踏み締める。

 散々とはこの事だろう。あちこち強打して激痛に呻く中には、つんのめった際に股間を打った者も居る。抵抗するどころの

騒ぎではない大ダメージを被り、戦意も湧きようがないところへ、巨体の猪が見下ろしてくるのだから。

 睥睨する猪。一番近い男から見れば、山になった腹を越して顔を見上げる格好。ただしナルが目にする寝転がったアングル

とは大違いで、冷厳な視線が圧を伴って投げ下ろされている。遠い灯りを浴びて三日月のように浮き上がる牙の白さが、酷く

冷たく目を射る。

 逃げることもできず、意味も無いアウアウという呻きを上げるだけの四人は、

「あ!イノウエ君!?」

 猪の後方から響く、弾んだ息でやや発音が乱れている上ずった声を聞いた。

 猪の傍らに駆け寄るレッサーパンダ。一緒に走って来た社会人の男性は、転んで呻いている四人と大猪を見てギョッとした

様子だったが…。

「ひったくり、捕まえてくれたの!?」

 ナルの問いに、しかしタイキは何も答えず、言われていた通りに「連れて来られた証人」…つまり一緒に追いかけてきた男

性に目を向ける。

「携帯とかで警察呼んで貰えねぇっすか?」

 ぶっきらぼうな太い声。しかしその内心では「本当に済みません巻き込んじゃって!御迷惑おかけしますけどどうかお願い

します!」と拝み倒す勢いで謝りながらお願いしている、いつも通りのタイキである。

「悪ぃっすけど、オレはバックレますんで、後はよろしく」

 困惑する社会人をよそに、タイキは踵を返して立ち去る。

 ナルは「あ、イノウエ君!ありがとう!」と背中へ声をかけ、予定通り、社会人の携帯から通報して貰う。本人は関わった

事を知られたくないようだから…、などと巧みに誘導して。

「イノウエ君番長だし、警察とは顔をあわせ辛いのかもしれません…」

 事情がありそうだと気遣う内容のレッサーパンダ発言で、社会人は同情と正義感から、「ひったくりを追いかけたらビニー

ルに絡まって転んでいた」という内容で通報した。



 数日後…。

「おかえりナル。何処か寄って来たの?」

 夕食の時刻が迫ってきた頃、部屋に戻ってきたレッサーパンダの顔を見て、テレビの前に陣取って干し芋を齧っていた猪が

訊ねる。

「うん。警察」

「警察?」

 何でそんな所に、と眉根を寄せたタイキに、ナルは鞄から小さなポーチを取り出した。

「ひったくられた荷物が返却されたんだ」

「え?あの時取り返せてなかったの!?」

 思い出し、胃の辺りを押さえるタイキ。突っ走ってきた自転車隊が自分の前で曲がって行ったあの時の恐怖と、その後に見

た転倒して呻く一団の痛々しさを思うと胃痛がする。

「あの夜とは別の物だよ?」

 応じたナルが指差した机の上を見れば、そこには全く同じポーチが置いてある。手に馴染む品を複数用意するのはナルの常

なので、それ自体はおかしな事ではないのだが…。

「…え!?じゃあ、一回被害に遭ってたの!?」

「そうだよ?ボクがボランティア精神で行動しない事は知ってるでしょ」

 それならそうと先に言えばいいのに、と軽く顔を顰めるタイキ。

「無事に戻ってよかったよ。あれ?どうしたの?」

 タイキのむくれ顔に気付くナル。

 ナルが荷物を取り返したくて計画した事なら、頼まれなくても協力する。断ったりしないので最初から言って欲しかった。

そもそも、被害に遭った時にまず教えて欲しかった。そんなタイキの不満に…、

「ああ。お礼は勿論するよ」

 共感が欠落しているが故に、ナルはタイキが若干傷つくような読み違いと返答をしてしまう。

「…それは…、いいけど…」

 少し落ち込んだ、とタイキの反応を見て察知したナルは、しかし落ち込む理由が判らなくて数度瞬きした。そして、その後

の経緯の説明がまだだったなと考え、荷物を置いて制服を脱ぎながら、事の顛末を説明した。

 窃盗団は捕まり、身元も判明した。全員森葉の生徒ではなかった。

 盗品については、金は使われてしまい、売り払われてしまった品も多かったが、中古品としてディスカウントショップに持

ち込む前の段階だった、メンバーの部屋に保管されているストック品については、警察の方で持ち主が特定できた物から順次

返却された。奪われたナルのポーチには保険証などが入っていたので、特に返却は早かった。

 通報に協力してくれた社会人…証人は、実は森葉のOBで、元生徒会役員だった。ナルはあの時間帯の通行人についても調

査して、使えそうな人材を選び、作戦を実行していた。

 毎回タイキは感心する。何とも手際よく、都合が良い人物や条件を見つけて、さらに利用する算段を完璧に整えられる物だ

と。しかも全てナルの狙い通りに行くのだから、計算と予測の精度に薄ら寒くなる。

 ナル曰く、「水が高いところから低いところに流れるような物」との事で、本人の弁によれば、その流れが留まる窪みのよ

うな物や、曲がる点となる勾配のような所などに気をつければ行き先は判るのだと言う。

 そういった物は、念入りに探せば誰でも見つけられるし、誰にでも実行できる事なのだとナルは述べるのだが、これにはタ

イキも半信半疑である。

(それはまぁ、超能力とか未来予知とかじゃないのは判ってるけどさぁ…)

 ナルは理論と思考に基く物だと言うが、傍から見ているタイキには種も仕掛けもない魔法のように見えてしまう。

 荷物を仕舞い終えて、着替えも済ませたナルは、タイキの前に回って胡座をかいているその脚に座った。タイキを座椅子の

ようにしてテレビを眺めるのは習慣のような物で、最初は単にタイキが良いポジションを確保しつつ自分も見易い位置、とい

う合理性から始まった物だが、座り心地は気に入っている。

 タイキが見ていた番組から、丁度始まったニュースに切り替え、各局のヘッドラインニュースを見比べてゆく。目が回りそ

うなチャンネルの高速切り替えを、タイキは文句も言わずに干し芋を齧りながら眺めて、終わるのを待つ。

 邪魔せずに黙っている。それはいつも通りなのだが…。

「ねえ、タイキ」

「ん?」

 一通り報道をチェックした後でナルが口を開く。夕食だったら「食堂に行こう」と言うので、何か違う話だと察しはついた。

「さっきから、何に落ち込んでいるのか教えてくれる?事情の説明をしてもスッキリした様子がないし、考えてみたけれど結

局判らなかった」

「あ~…」

 タイキは少し困った顔になる。ナルは他者に共感できないが、感情の変化そのものは細やかに察知する。実感も共感も難し

いからこそ、場に適切な演技をするためにも、他者の心境の変化などには特に敏感でなければならなかった。

「今のは、流してくれても良かったんだけど…」

「うん」

「ナル自身が困ってた事なんだから、最初から話して欲しかったなぁっていうのが、ちょっとあって…」

「ひったくられた時に、だね?」

「うん…。それはまぁ、その時点ではオレに頼める状態が整ってなかったとか、まだ相談してもどうにもならないとか、ナル

が考えてそうしたんだろうっていうのは判るんだけど…。気持ち的にはさ、頼りにならないし力にならない状況でも、教えて

おいて欲しかったかなぁって…。えぇと、合理性がないって言われるとそうなんだけどさ…」

「うん。続けて」

 モゴモゴと口ごもり始めたタイキに先を促すナル。頭の上から降りて来る声は、考えながら喋っているのでテンポが悪く、

相変わらず自信無さげで、元気も無い。

「そういうの、ナルは話して楽になるっていうタイプじゃないのは判ってるんだけど、オレの方ではさ、教えて貰えてたら良

かったなぁって…。いや、うん、意味無い行動になるのかもだけど…。前々から話してたらオレが怖気付くとか、ストレスに

なるとか、そういう理由で黙ってる「いつもの」はそれで良いと思ってるよ。でも…、ナル自身の事だけは、困った事があっ

たその時点で話して欲しいなぁって…」

「なるほど」

 話が一区切りついた所で頷いたナルは、数秒黙って考えると、

「説明ありがとう。判ったような気がする」

 右手を上げ、タイキの頬に触れて軽く撫でた。

「今回は悪かったね。なるべく無いように願うけど、ボク個人の困った事だったら、これからは起きた時点で話す事にするよ」

「うん…。えぇと、何かゴメンね?ギリギリまで言うなとか先に教えろとか、勝手で、曖昧で…」

「ボクの方こそゴメン。やっぱり、察するのはなかなか難しいね」

 表面上の付き合いなら、浅い交流なら、ナルの芝居は完璧でボロなど出ない。だが、唯一タイキについては例外である。深

い関係性を構築し、理解を深めようとすればするほど、自分とタイキの違いを実感する。

 一見すると社交的でも、所詮はりぼての社交性。欠陥品である自分は根本的にはコミュ障なのだろうという自覚がナルには

ある。それも、あの和犬の後輩の友人のような性格的コミュ障ではなく、システム的なコミュ障。

 付き合い始めて約三年。ふたりはその間、一度もケンカをした事がない。それは気弱なタイキが常にナルの方針に従ってき

たからというのもあるが、意見や認識の大きな齟齬を察知した際には、ナルの方が有耶無耶で終わらせず、話し合って折り合

いをつけるようにしているからだった。

 だが、三年経ってナルに起きた変化は、タイキをサンプルにひとの心理をより細かく分析できるようになった事と、芝居の

精度がさらに向上した事程度。他者に共感する事は今もなかなかできない。

 ナルはそれを悲しいとは思わない。自分はそうなっているのだろうと、悲嘆も絶望もせず受け入れている。タイキの気持ち

を実感として捉える事ができないのは、時々少しだけ残念に思うが。

「食堂に行こうか?」

「うん…!」

 キュッと、軽く抱き締めたタイキが腕を開き、ナルが立ち上がる。

「…そうだ。今回のお礼、何がいい?」

「え?」

 出し抜けに問われて一瞬言葉に詰まったタイキは、

(やっぱりアレがいいなぁ…)

 と思い浮かべ、すぐさま打ち消す。

(いやいやいや!今の話の流れですぐそういう事言うのはかなりダメな感じだ!決まってない事にして後で切り出そう…)

「うん、判った。今夜しようか?」

 体毛を逆立てて白目になるタイキ。

「ええええええええ何が何で何だと思ったのぉっ!?」

「表情から、「たぶんそうだな」って」

 しれっと答えるレッサーパンダ。顔から頭から湯気を上げる猪。

(ナルゥ…。ひとの気持ちが判らないってホントなのぉ…?オレ全部見透かされてるとしか思えないんだけど…)



「あ~、食べた食べたぁ~!」

 ドアの前までは厳めしい顔で無口に振舞い、部屋に戻るなり表情を緩めて機嫌よく太鼓腹をさする猪。寮の夕食はタイキに

とって楽しみの一つ。和食中心に栄養バランスが考えられた献立は、しかしメニューが豊富で飽きが来ない。親元を離れて間

もない自己管理が崩れがちな寮生の事も考えられている。

「大根とジャガイモの味噌汁よかったよね!」

 話を振られたレッサーパンダは、部屋を出る時に切っておいたエアコンのスイッチを入れながら、のそのそと冷蔵庫に歩い

てゆくタイキの揺れる尻尾を見遣った。デザートタイムもタイキにとって楽しみの一つ。割と毎日楽しみが多い。

 座卓に置かれたのは、冷えたほうじ茶と抹茶クリーム入りのロールケーキ。ナルと二人分である。

「明日の献立にも、牛肉とジャガイモの煮っ転がしって書いてあったよ」

「え!?ジャガリレーだヤッター!あ、そうだデザート食べようデザート!」

 ドスッと座布団に腰を下ろし、太い指でロールケーキの袋をビリビリ開ける猪。向き合って座り、袋の端を奇麗に破るレッ

サーパンダ。テレビのリモコンが取られて置かれ、バラエティ番組の笑いと拍手がスピーカーから零れ出る。

「………」

 二口でロールケーキを平らげたタイキは、チラリと上目遣いに様子を窺う。ナルはテレビには目もくれず、プラスチックの

フォークを器用に動かして、自分のロールケーキを奇麗に切り分けていた。サッパリした物はそうでもないのだが、食後の甘

いデザートは少し余分なので、ケーキ類はこうしてタイキに分けるのがナルの常。

「はい」

「ありがとう!」

 正確に四分の一を切り分けてフォークに刺し、差し出したナルから、空になった皿を出して受け取ると、それもパクリと一

口で片付ける。食べ方だけは芝居ではなく素で豪快なタイキだが、今夜はそもそも「もうそれどころではない」心境。晩飯を

がっつくように片付けたのも、「この後の事」で頭がいっぱいだったからである。

「お風呂」

 ロールケーキを上品に切って少しずつ食べながら、座ってじっと待っているタイキを見遣って、ナルは口を開いた。

「先に入ってきたら?」

「う、うん!そうする!」

 どうやらその言葉を待っていたようで、パァっと顔を輝かせ、慌ただしく立ち上がり、湯浴みセットを引っ張り出してドス

ドスと部屋を出てゆくタイキを見送ると、ナルはテレビのチャンネルを変えながら残りのロールケーキをチマチマと片付け始

めた。そして…。

「ただいま!」

 どれだけ心待ちにして、どれだけ気が急いているのか、猪の入浴は早かった。生乾きホカホカの巨体からは、洗い残ったの

か石鹸臭が漂っている。

「じゃあ行ってくるね」

「うん!待ってる!」

 入浴グッズを籠に纏めて小脇に抱え、軽く片手を上げたナルを、選手宣誓でもするように高々と手を上げて送り出したタイ

キは、まだ湿気が残る頭をタオルで雑にゴシゴシ擦り、ついでに気になる箇所も拭って水気を取り、さらにベッドのシーツを

ピシッと整え、せわしなく落ち着きなくソワソワとナルを待つ。整えたベッドの上にパンツ一枚で正座して、時計を確認する

事15回。ドアノブが立てた音で耳と尻尾をピクンと立て…、

「ただいま」

「おかえり!」

 満面の笑みでナルを迎える。

 頭にタオルを被ったまま、荷物を置いてクシクシと擦り、残る水分を吸わせるレッサーパンダ。その間、正座を崩さずキラ

キラした目で行儀良く待つ猪。やがて、下着まで全てさっさと脱いで身支度を終えたレッサーパンダが向き直ると…。

「お待たせ」

「うん!」

 タイキは勢い込んでバッと両腕を広げ、迎え入れる姿勢を作る。そこへ飛び込…みはせずにトコトコと歩み寄るナル。自分

のアクションの大きさが若干気まずくなるような対応をされ、気まずくなって微妙に目を泳がせたタイキだったが…。

 チュッ…。

 額に軽くキスをされると、「え、えへへへへ…!」と顔をユルユルにした。

 腕を閉じて軽く抱擁する。ナルの体は毛並みが良く、フカフカしている。猪の被毛と比べると柔らかさも滑らかさも弾力も

かなり違っており、掌で触れている感触だけでも癖になる。

 背中を撫でても判る、小太りな体についた脂肪。ただし緩い肉ではなく、柔軟な筋肉の上に程良い厚みでついており、被毛

の感触とあわせて手触りは抜群に良い。

 ベッドサイドに立ったままのナルを正座の姿勢で抱きこみ、抱えるように密着する。仄かに香るボディソープの残り香と、

ナル自身の体臭。未成熟な果実から漂うような、微かに甘くて瑞々しい香り。

 しばらく感触と香りを堪能していたタイキは、「そろそろいい?」と問われて、慌てて顔を上げた。

「あ、う、うん!オッケー!」

 ナルが一度ベッドから降りて元の位置に戻ると、タイキも一度ベッドから降りて、パンツを脱ぎにかかる。

 急いで脱ごうとして少しバランスを崩し、ケンケンしながら片足を抜き、ようやく脱げて全裸になったタイキは、ナルと正

面で向き合った。

 全体的に丸い体型だが、ナルの言いつけを守り、今でも欠かしていない維持トレーニングの成果でボリューミーな凹凸があ

る。皮下脂肪が厚い肥り肉ではあるが、その下には骨格と体型に見合うだけの筋肉がずっしりつき、腕や脚では筋肉が盛り上

がって、曲げていなくとも瘤が浮いている。胸部も単なる肥満による出方ではなく、胸筋の発達でせり出しており、首や肩と

繋がった背筋は肩甲骨を覆って大きく曲面を描いていた。

 本当は運動が好きではないし、ぐうたらする方が好きで、楽な方が良い。だが、報酬があれば頑張れる。欲を満たす物があ

れば頑張れる。それはナルに褒められる事であったり、ご褒美だったりする。酷く単純なタイキだが、今のナルはその単純さ

を好ましくも感じる。実にひとらしい、と。

 標準よりやや太いタイキの陰茎は、既に反り返って脈打っている。亀頭はピチピチに張って包皮が剥け、鈴口では透明な体

液が玉になっていた。

 ゴクリと唾を飲み込んでから、タイキは遠慮がちにナルを抱き締めた。腰が大きく引けているのは、敏感過ぎるソコがうっ

かり刺激されてあっけなく暴発しては困るからである。

 腰を引いているせいで少し前屈みになっているタイキに、互いの肩に顎を乗せる格好から、ナルが頬ずりする。それだけで

タイキの尻尾はビュンビュンと宙でのたくりまわった。

 互いの体温を交換するような長い抱擁から、ナルは囁く。

「きょうは「中」も洗ってきたから」

「…えっ」

 一拍置いてタイキの口から漏れた声は、完全に裏返っていた。



 ベッドの横から縁に腰掛け、そのままゴロリと仰向けになったタイキは、ナルを見上げて恥かしそうに口元を震わせた。

 すぐ本番はちょっと…。そんなタイキ考えを読んで頷いたナルは、まず愛撫から入る。他の生徒の胴回りほどもある太い脚

に手を添えると、その重量と力強さとは裏腹に、猪の両脚はか細く震えた。

 ナルはほんの少し口の端を上げ、頬を緩める。作り笑いではない微笑がそこにある。瞳の黒は孔のようではなく、黒色に煌

きを纏う。ブラックスターサファイアのように。

 愛おしい。そう表現すべき感情が、おそらくこれなのだろう。

 性的な刺激への欲求が殆ど無くても、エネルギーと時間の浪費だと考えはしても、行為自体を不快だとは感じない。快楽に

酔う様に共感はできなくとも、敏感に身を震わせる反応を見て、鼻にかかった甘える声を聞いて、悦んでいると判断して一握

の喜びを感じる。

 仰向けに寝そべる猪の、広げた股に身を乗り入れて、丸くて広い太鼓腹を両手で軽く撫でさすると、それだけで大きな体が

喜びに震えた。

 肉付きが良すぎて窪みが深い臍に舌を入れる。自分の手には余るほどボリュームがある豊満な胸に手を伸ばし、軽く揉みな

がら、体の震えと息遣いを感じ取る。。

「んぁっ…!」

 臍の中を舌でまさぐられるこそばゆさと、乳房をマッサージされる快感で、鼻にかかった声を漏らす猪。きつく瞑った目尻

には小さく涙の玉が浮かぶ。

 いつもそうだった。嬉しい、気持ち良い、後でそう述べる猪はしかし、刺激されている最中は苦しんでいるようにも見える

顔で、涙すら零す。刺激に酔っているとすれば泣き上戸の一種なのだろうとナルは言うが、タイキが酒を飲んだ事は無いそう

なので、お互いに本当のところは判らない。

 タイキはよく涙を見せる。悲しい時は勿論、寂しい時、嬉しい時、喜んだ時、感動した時、気持ちが良い時まで涙を零す。

それがナルには不思議で、物珍しくもあった。

 ナルは涙が流せない。他のどんな表情も作れるのに、他のどんな演技もこなせるのに、泣く事だけはできないし、泣く気持

ちが判らない。だから、涙脆いタイキの表情変化は見ていて飽きない。

「あ、あ、ナル…、そこぉ、気持ち…いい…!」

 立った乳首を親指で擦ると、猪は身悶えしながら喜んだ。刺激に弱いどころか、何処を弄られても違う反応で悦ぶタイキを、

ナルは丹念に愛撫する。タイキは体中敏感で、肩を掴んでも腹を撫でても手の甲に頬ずりしても気持ち良さそうに喘ぐほど堪

え性がなくて、陰茎を弄ればすぐにいってしまうから、雄のシンボルを刺激するのは最後の最後だけ。なるべく長く、長く、

満足できるように、物足りなくならないように、時間をかけて全身余す所無く触れてゆく。

 毛皮の下にたっぷりついた脂肪。しかしその下には言いつけを守って鍛えられ、維持された筋肉が押し込まれている。厳め

しく、逞しく、それらしく見える重厚な体は、本人の精神性からすればはりぼてではあるが、性能は本物。タイキ自身がその

気になれば、喧嘩になってもそこらの不良に負ける事などない。

 筋肉と脂肪で肉厚な体は揉み応えがあり、揉み心地も良い。性的な欲求とは別に、純粋に単純にその感触を良い物と感じる。

揉むに限らず、身を預けた感触も良い。どっしりと重々しく、柔らかく、適度な弾力を持つタイキの体は、ナルにとってどん

なクッションよりもソファーよりも座椅子よりも塩梅がいい。

 首が埋まっているように見えるほど盛り上がった肩から、腕の外側を撫でる。肘関節付近が窪むほど肉付きが良いのは、パ

ンチトレーニングを熱心に繰り返した成果。ひとを殴るのは嫌いでも、争いを未然に防ぐだけの説得力を見た目だけで備えた

逞しい腕。普段触れられない胴体だけでなく、こんな所を撫でられるだけでタイキは喜ぶ。モゾモゾと身じろぎし、触れて貰

えるただその事までも喜ぶ。

 陰茎を直接弄るのは避ける代わりに、その周辺には丹念に触れて準備をする。まずは下腹部。土手肉に手をかけて押し上げ

るようにし、三角形に膨れた肉を、陰茎の根元に沿って指で押し込み、マッサージする。

「んっ…!」

 タイキが口を真一文字に引き結ぶ。太い肉棒の周辺はムッチリと肉に覆われ、埋没している部分は自慰でも弄らないので敏

感、勃起した陰茎の根元を、肉にめり込んだナルの指先が軽く掻くように刺激すると、鈴口からおびただしい量の先走りがし

たたり始める。

 次いで睾丸。たっぷりした大玉の陰嚢も、他の箇所同様にナルの小さな手には余るサイズ。軽く揉みしだくと、急所に触れ

られる本能的な軽い恐怖と緊張、そして少し苦しくも平時は経験できない程良い圧迫感に、タイキは喉の奥を擦れさせるよう

な息を吐く。シャワーで清めて乾かした体は、はやくも汗でじとつき始めた。

 苦しそうで辛そうで、しかし堪らなく嬉しくもあると、熱さで語るその吐息がナルは好きだった。閉じてしまいそうになる

脚を必死に我慢する震えが、上気して浅くなる呼吸が、辛いという意味だけではない「堪らない」を伝えてくる。推測でも計

測でもなく、共感できないはずのナルにも、「タイキの体が言いたい事」が感じ取れる。肉体的な快楽よりも、ナルにはその

事の方が…。

(「嬉しい」…)

 そそり立った陰茎の裏筋部分を、指先で軽くピンと弾いてやると、声も無く鼻息を荒くしたタイキの下腹部が激しく上下し、

男根がビクビクと上下に震えた。時代劇風に言えば「峰打ち」なのだが、それだけでこの有様である。

 今日もあまり弄ってはいられないなと判断したナルは、「入れる?」と訊く。ストレートかつ恥じらいも欠片もない問いか

けに、猪は顔を両手で隠した。ナルは別段気にしていないのだが、問われたタイキの方が恥かしい有様である。

 ナルが「入れていいの?」と明瞭な答えを求めるも、タイキは恥かしさのあまり顔を隠したままコクリと頷く有様である。

 毎回の事だが、嬉しそうに待つ割には事が始まってしまうとこの有様である。

 だいたい生娘のような有様である。

 それに対してナルは落ち着き払っており、場慣れしている貫禄すら感じさせる。もっとも、週に二、三度は愛撫してやるし、

その内一度程度の頻度で本番もするので、学習能力が非常に高いナルとしては、実際のところ経験蓄積は既に充分な量に達し

ているのだが。

 ベッドに上がったナルは、両手で顔を覆っているタイキの腰を跨ぎ、尻尾を上げ、下を確認しながら尻を下ろしてゆく。

 初めて入れたのは、タイキの言葉で「自分達は既に交際していたのか」と認識した少し後、ホワイトデーの時の事だった。

 バレンタインのプレゼントを貰ったらお返しをするべき。お返しは何だったらタイキが喜ぶか。菓子類ならいつもあげてい

るので新鮮味がない気がする。そういえばタイキの家の漫画に「プレゼントは、ワ・タ・シ!」というシーンがあった。しか

し自分もそこそこあげているので新鮮味がない気がする。何かアップグレードした物はないか。

 そんな思考からナルが検索し、導き出したのが、「合体」であった。

 初めてのホワイトデーのお返しに、予想だにしない常識外れのサプライズを真顔で無表情のナルに用意されたタイキは、当

然、驚くやら喜ぶやら困惑するやら混乱するやら途方に暮れるやらで大変だったが…。

「んうっ!」

 タイキが声を漏らす。位置を確認しながら屈んだナルに、硬くなった陰茎を掴まれて。

 事前にほぐしておいたナルは、その尻に太い肉棒を受け入れる。

 顔を覆ったまま身を硬くするタイキ。陰茎先端に生じる圧迫感。グッと頭を押さえられる感覚に次いで、亀頭がヌプッと音

を立てて入り口を通過する。柔らかくも絡みつくように締めて来る、ナルの内部。肉棒に宿る熱が逃げ場を失い、たちまち熱

くなり、脈動も強まる。

 やがて、ゆっくりと腰を沈めたナルの尻は、タイキの陰茎を完全に飲み込んだ。タイキが必死になって落ち着けようとする

のはいつもの事だが、ここから五分保った事はない。

「動くね?」

 声をかけるが、返事は無い。そもそも期待していない。タイキはこの時点でいっぱいいっぱいになるので、答えられなくな

るのが常だった。

 上になったナルが腰を振り始める。その陰茎は自らの腹とタイキの土手肉の間で圧迫され、擦れる。気持ち良いと感じ、屹

立し始めもするが、それよりも…。

「あっ、うっ!う、ううんっ…!んっ…!」

 まるで自分の方が犯されているかのように、泣きそうな顔で喘ぎ、悦ぶタイキの反応の方が心地良い。

 きつく瞑った目の端から涙を零し、時々顔を覆う指の隙間から薄く目を開けて、恥じらうように背ける。見ないで、と言う

ように首を左右に振る。

 あられもなく喘いで泣く痴態を見られる恥じらいと、ナルも気持ち良さそうにしているか確認したい欲求の板挟み。

 ナルは、タイキの「この涙」だけは好きだった。

 哀しくて流す涙でも、辛くて流す涙でもないから良い。多感過ぎて、刺激と快楽でどうにかなってしまいそうで、気持ち良

くて堪らなくて流す涙だから愛おしい。

 腹の中が熱い。咥え込んだタイキのソレが強く脈打っている。悦んでいるのが判る。腰を動かす。タイキの体が弾む。背中

が反って浮き上がる。

「な、ナルっ…!ひ、ひぐっ…!ほえ…、もぉ…!ひっぢゃふ…!」

 泣いている上に鼻も詰まって呂律も怪しくなっているタイキが限界を訴えると、ナルは追い込むように、より激しく腰を振

り立てた。

 奥まで受け入れたソレを自分の中を使って擦り上げ、強く刺激する。

 タイキの手が顔を離れた。涙をいっぱいにためた目をきつく瞑り、耐えかねたように体の左右でシーツを掴む。力任せに握

られて、深く皺が刻まれるベッドの揺れは、しかし激し過ぎるタイキの息遣いに紛れてさほど聞こえない。

「ぶふー!んぶふー!んっっっっ…!」

 突然、鼻でも詰まらせたようにタイキの息が止まる。それと同時にナルは、自分の中に弾けるソレで、タイキが絶頂に達し

た事を悟った。

 しばし力んで硬直していたタイキの、息を貯めて丸く張った腹と胸が、息が吐き出されるとともにしぼむ。

「…はっ!はぁ!はふ!ふぅっ!ふぅっ!ふぅっ!」

 酸素を求めて激しく喘ぐタイキの上で、ナルは視線を下に向けた。

 タイキの腹と、自分の腹。その間で圧迫されて擦れて刺激されたナルの陰茎からも、白濁した液が零れ出ていた。

 濃い色の猪の毛に、白く落とされた体液が、タイキのくぼみが深い臍に流れ込んで溜まっていた。

「…はぁ…」

 疲労感と軽い虚脱感。漏らしたため息に快感の余韻は薄いが、満足だけは本当の物。

 息を乱しているタイキの、目を閉じて余韻に浸る顔を見下ろして、ナルは確かに満足している。

(気持ち良かった?なんて、訊くまでもなさそうだね)

 行為その物による満足感は、ナルにとっては薄い。だが、タイキが喜んだ事による満足感は、間違いなく大きい。疲れて休

憩する猪の上にそっと倒れ込み、精液で体が汚れるのも構わず折り重なる。上下する胸が、息が、鼓動が、体温が、心地良く

感じられる。

「…休憩したら、もう一回する?時間早いし、今夜はまだいいよ」

 どちらかと言えば早漏なタイキだが、復活はそこそこ早い。一時間ほど休憩して二回戦目を行なってもいい。平日はあまり

許さないのだが、今回だけは特別…。

 そんなナルの提案に、

「ふぁい…」

 名残涙を目の端に溜めながらも、タイキは嬉しそうに顔を綻ばせて返事をした。呂律がおかしかったが。


 ベッドの上で寝息を立てるタイキを一瞥し、ナルはベッドを降りてエアコンのリモコンを取りに向かった。

 情事の後で汗ばんだ体が風で冷える。風量を弱めて設定温度も上げ、汗が引くに任せておく。

 所々に様々な機器の電源ランプなどが光る、明かりを落とした部屋の中、一度首を巡らせたナルは、シルエットになってい

るタイキの厚い体が呼吸で上下している事を確認すると、デスクに歩み寄り、ダイヤル式のスイッチ兼調節器に触れ、光量を

弱めてデスクライトをつける。

 暗い部屋の中、浮かび上がるように明かりを当てられた自分のデスクの上で、ナルは取り戻せたポーチを開いた。

 黒い手が中から掴み出したのは御守り。「交通安全」と書かれたそれは、よく擦れる縁の部分から褪色している。

「………」

 無言のまま、ナルは御守りを鼻先に近付け、匂いを嗅ぐ。

 だが、やはり何も匂わない。

 今は無臭になっているその御守りは、しかしかつては線香を焚いたような香りが微かにしていた。十年以上前、小学生になっ

た時に持たされた時には、確かに。

 何故今もこれを持ち続けているのか判らない。必要とは思っていないので他の御守りを求めたりもしない。そして、ひった

くりから取り戻すだけの労力に見合う価値があるとも思えない。自分でも理由は判らないまま、捨てようとも思わず、ずっと

持っている。

 あるいは、多少なりとも執着があるのかもしれないが、ナルはそれを実感できず、客観的に「そうかもしれない」と考える

だけ。

 これも欲の一種。所持欲求なのだろうと考えながら、ナルは思い出す。

 自分にこれを持たせた人物は、もうこの世に居ない。

 タイキを偶然見かけたあの日から今まで、周りでは様々な変化があった。失ったり手に入れたり、本当に色々と変わった。

性能を向上させる事はできても本質は変わらないと思っていた自分ですら、多少は変わった。

 シェリルの歌を聴くようになった。CDを買ったりもするようになった。菓子も食べるし漫画も読むようになった。アニメ

も観るしゲームもするようになった。

 そして、誰かを愛するという事を知った。

 これは、独りだけが知る昔の話。

 泥土の中に咲いた一輪の花の話。

 汚泥に落ちた月影に、寄り添って咲く人生を選んだ、泥中の蓮の話。












                  泥中之蓮(裏)












 中学三年の夏休み。

 ナルは時間が許す限り井上家を訪ね、長らく不登校だったタイキの学力回復を手伝っていた。

 そんな中のある日、ナルは玄関先でタイキの母と話をした。休み中に二人で遠出をしたいと思っている。電車で移動するし、

迷うような所でもなく、夕暮れには帰って来れるところなのだが、良いだろうか?と。

「良いわよ?友達と電車で小旅行とか、タイキも経験が無いはずだから、たぶんバンダイ君に頼っちゃうけど…」

「ありがとうございます。暗くなる前に帰ってきますから」

 猪婦人は和やかに笑って許可した。今の息子にとって唯一の友人と呼べる存在であり、礼儀正しく真面目で頭も良いので、

ナルと出かけるのなら何も問題ないと考えている。

「それじゃあおばさん仕事に行ってくるから、またねバンダイ君。あ、冷蔵庫にシュークリームあるから食べて行ってね」

「ありがとうございますおばさん」

 婦人を見送るナルは、その背中に疲労を見ていた。

 タイキの父が起こした事故で、同じく家族を失った女性から、タイキの父が勤めていた会社は訴えられている。それでも、

見舞金と退職金を出そうとした社長に、タイキの母は一時保留を申し出た。「これから会社の方だってどうなるか判らないか

ら」。そんな主張をして、タイキの母は支給手続きに入っていた見舞金と退職金の受け取りを一時断り、今に至る。

 全くもって不合理だとナルは思う。気遣いや遠慮、あるいは意地、そんな物より金銭の方が利用価値があるのに、と。だが、

婦人について理解できる事もある。

 生活を守る。息子を守る。そのために頑張る婦人の気持ちが、今のナルには少しだけ理解できるようになった。

 大切な物を守りたい。それはきっと普通の事。当たり前の事。

 自分が得た僅かばかりの「普通で当たり前」を、ナルは胸に抱く。

 タイキを守る。彼の未来を守る。

 そのためならば何でもすると決めて、既に行動を起こしている。

(もうじき全部けりがつきます。タイキの事も含めて、もう心配要りませんから)

 パートに遅れないよう急ぐ猪婦人の背を、暗い、孔のような目になって見送りながら、ナルは胸中で呟く。

 タイキの未来の為に何が「必要」で何が「不用」か、そのために自分はどうすれば良いのか、ナルはもう答えを出していた。



 タイキと一緒に森葉高台のドライブインへ行った日の夜。ナルは自室のデスクについて、分厚い本を開いていた。

 学習行為に身が入らない。タイキに本性を見せたあの日まで、こんな事は無かったのだが。

 おそらくは、タイキの父親が生前に見せたいと言っていた景色。ナルが調べて連れて行った先で、タイキが見せた表情は印

象深かった。

 泣き笑いの顔だった。悲しそうで、嬉しそうで、満足げで、複雑だった。

 その気持ちを正確に察する事はできなかったが、喪失の痛みだけは、何となく判った。

(喪失、か…)

 暗い、暗い、奈落に繋がる穴のような目で、ナルは引き出しを開けて、奥から御守りを取り出す。

 それは、ずっと昔に初老のドライバーから貰った、ランドセルにつける交通安全のお守り。

 ランドセルを使わなくなった時に外して、しかし処分はしないまま今に至る。何故捨てなかったのか、今も捨てる気になら

ないのか、自分でも判らない。

 取り上げて鼻先に近付けてみた。香の守りというらしく、昔は線香のような匂いがしていたのだが、小学校を卒業した辺り

から殆ど匂わなくなり、今では鼻に近付けてようやく微かに香るだけになった。

 願いが成就したら香りが消えるというような事を、初老のドライバーは言っていた。それが本当ならば、小学校の登下校を

終えた時点で願いは叶ったという事になる。だとすれば、初老のドライバーは自分が交通事故に遭わないようにと願い、この

お守りを用意したのだろう。

 肉親よりも、よほど肉親らしい。

 血縁者でない自分でもそう感じるのだから、ひとの心が無い自分でもそう思うのだから、初老のドライバーは、きっと「い

いひと」だったのだろう。

(けれど、御父様にとっては邪魔になった)

 ナルは確信していた。

 かつてのドライバー、初老の紀州犬は事故で死んだのではなく、父が殺したのだと。

 あの日の夜、事務所の車が出るのを部屋の窓から見た後で、父の客が乗っているのだろう車が続けて出て行くのもナルは見

ていた。そして、しばらく後でその車は戻って来て、またすぐに出て行った。

 翌日、初老のドライバーは水死体になっていた。

 初老のドライバーはあの時、父に言われて車を出した。

 そして、客の車が少し間をあけてそれを追い、「作業」を終えた父を乗せて事務所に戻り、降ろしてから帰った。

 おそらく初老の紀州犬は、父と客の、聞いてはいけない会話を聞いてしまった。そして父は客を共犯者とし、初老の紀州犬

を始末した…。

 荒唐無稽な想像などではない。何故ならナルは、父とその客が取り交わしている約束を、何をしているのかを、全て知って

いる。事の重大さからすれば、自分の父なら不都合な真実を知ってしまった邪魔者は始末すると確信できた。

 ナルは思う。自分の事を何一つ理解していなかった、欠陥品である事に勘付いていなかった、表向き円滑な関係を築いてい

た初老のドライバーの事を。

 どうでもいい人物のひとりだった。自分の人生に必要な人物ではなかった。実際に、居なくなってもどうとでもなった。

 だが。

 だからといって。

(「不用」な人物では、断じてなかった)

 そして華は咲く。

 汚泥の中に冷たく輝き、月影を照らす氷の蓮が。



 三日後、ナルは自室のデスクでパソコンのモニターを見つめていた。映し出されているのは、森葉の卒業生が記した当時の

ブログ記事で、寮内の風景が数か所アップされている。

 タイキとの小旅行から数日かけて、森葉学園の事を調べた。

 タイキに提供する未来の一つには、辛かった中学生活と切り離せる、新たな高校生活が良いと考えていた。森葉はナルから

見て、その候補としての条件が整っていたのである。

 教師だという肥った虎の言葉を思い出しながら、学校の情報は勿論、街の事、行事、立地条件なども調べ上げた。何か一つ

でもタイキにとって好ましくない点があれば除外するつもりだったが、これまでに調べた他の候補と比較しても好条件と言え

たので、勧めてみるつもりになった。

 学生寮についても在校生や卒業生のSNSから様々な情報が得られた。寮その物の設備はしっかりしている。一人部屋でな

い事だけはマイナス点だとも思えたが、二人部屋での生活を想像してみて、むしろ好都合ではないかと思い直した。一人部屋

を頻繁に行き来してアドバイスするより、同室の方が行動を訝しく見られないはずだと。

 いくつかの室内写真から、ナルは想像する。タイキと同室で過ごす新たな学校生活を。

 きっと色々不自由だろう。それでも、もしかしたら、楽しいのかもしれない。

 タイキはどうだろうか?いや、「どうでもいい」。自分が傍に居る。決して悪いようにはならない。そんな事にはならない

よう、必ず傍で見守る。

(新天地…。新しい学校…。新しい生活…)

 目と手を休め、背もたれに体重を預けて天井を仰ぎ見る。

 欲が薄かった少年が、初めて人並に欲しい物を見つけた。

 タイキの未来。それがナルにとって最も欲しい、最も大切な物。彼に幸福な未来を与えたいというのが唯一つの望み。

 未来といえば、父が言うとおりに漠然と生きて、その内に老いて、いつか死ぬ未来だけを想像していたナルには、幸福とい

う物がどういう物なのかはピンと来ないが、少なくとも不幸な状況ではなくしてやりたい。

 そのためならば、今の自分はどんな事でもする。

 ナルはそんな欲と生きる目的を手に入れたその日から、密かに行動を起こしていた。

 タイキの現在に影を落とし、未来に暗雲をもたらしている物の正体については、既に知っていた。知っていてなお放置する

つもりだったのだが、タイキを「例外」と認識し、おそらく自分は彼を愛おしいと感じていると考え始めた今では、優先的に

解決すべき問題だと認識した。

 ナルは自分の父についてタイキに話をした事が殆ど無かった。タイキの方でも父親の事をあまり話題に出したがらなかった

ので、素性も名前も訊かなかった。

 だからタイキは知らない。自分の父親の会社を訴えている女性に、父の葬儀に怒鳴り込んできたあの女性に、ついている法

律家がナルの父親だという事を。

 そして、あの事件には伏せられている事があり、公になっていないその点がタイキの父を、そして彼が居た会社を不利な立

場にしている。

 初老の運転手とナルが最後に言葉を交わしたあの日…、来ていた客は、その件の関係者だった。



 窓の外とは対照的に明るい廊下を歩きながら、タイキの顔を思い出す。

 この日、ナルはタイキに進学先の候補として森葉を勧めた。

 自分も父が指示した学校ではなく、一緒に森葉へ行くと言ったら、喜びも一瞬、猪はすぐに心配した。

 タイキは「え?でも、怒られたりしない?って言うか、許して貰える?」と訊いてきたが、ナルはきっぱり答えた。「そこ

は心配しなくても大丈夫だよ」と。

 そう。もう答えは出している。進学先が森葉であろうとなかろうと、自分がしておくべき事は決めている。その結果として、

父が指示した学校へ行く必要もなくなる。

 元々ナルの父は息子を自分の母校…著名な私立校へ行かせるつもりだった。多額の寄付もしており、理事にも顔が利くので、

色々と都合が良かったから。タイキの学力では到底入学できない、首都にあるその学院は、大学までエスカレーター方式だっ

た。レールを敷きたがる父らしいと思う。

 ドアに手をかけ、室内に入る。

 立派な部屋。しかしナルにとってはその立派さがどうでもいい部屋。用事があるのは金庫だけ。父が他の誰にも開けさせな

い金庫だけ。

 父の私的な書斎に侵入したナルは、部屋の監視カメラの存在を知りながら、全く注意しない。

 監視システムは廊下の分も含めて手を加える。父がリアルタイムで覗けるスマートフォンからの監視映像には、向こう15

分ほど、異常が無い夜の映像に時間表示だけ挿げ替えた物を送信するよう、発信側を弄った。

 父は早くても20分は戻ってこない。大事な、そして彼曰く煩い顧客との重要な話し合いのため、先方に出向いている。車

のGPSデータから顧客の邸宅に到着した事は確認してあり、例え何か忘れ物があってすぐに引き返してきたとしても、戻る

前にこちらの仕事は終わる。

 薄くてピッタリと手にフィットする手袋を着用し、ナルは金庫のダイヤルに手をかけ、迷うことなく回し、止め、回し、止

め、回し、スムーズに開錠した。

 父から教えられてはいないが、金庫の開け方は、毎日のように繰り返し目を盗んで部屋に入り込み、実際に開くまで試行す

るという原始的かつ確実な手段で、数十万通りにも及ぶ中から解錠ダイヤルを見つけ出しておいた。

 現金入りのアタッシュケースや、重要そうな書類には目もくれず、ナルは手提げ金庫に目を止め、持ち込んだ定規で囲むよ

うにして金庫の位置を押さえた上で、これを掴み出す。こちらのダイヤルも既に把握しており、簡単に開けられた。

 そしてナルは、その中から封筒を取り出す。糊付けした封に印を押して閉じた封筒は、開けた事が一目で判るのだが、ナル

は躊躇いなく破って中身を確認した。

 USBメモリー。以前取り出して触れた時に予想した通りの品だった。

 封筒とメモリーだけを持ち、一度金庫を締め、自室に引き返し、USBメモリーの中身をコピーして、予め用意しておいた

別の封筒…父の印が短時間放置された隙に無断拝借して用意しておいた物に手早く入れ直し、封をした。

 書斎に戻り、金庫を再び開けて、定規で押さえていた元の位置に手提げ金庫を戻し、全てを元通りにして立ち去ると、監視

システムも正常な状態に戻す。この時、監視モニターには喫煙禁止の場所でこっそりタバコを吸う所員の姿が映っていたが、

少し考えて映像を別の時間の物で上書きしておいた。

 妻帯者で、子供が一人居る。ナルが気に留めたのはその情報だけ。だから、考えたのは「父親がクビになったら子供が困る

だろう」という事だった。

 もののついでとはいえ、余計な事をしていると自分でも思った。思ったが、それを無駄とは感じなかった。

 自室を最初に出てから15分足らず、心拍も体温も呼吸も平常のまま、ナルは全てを終えて自室に戻った。

 この日、ナルはタイキの未来のために必要だった残りの物を、本人の森葉合格という成果以外、全て揃えた。

 父が保管していたUSBから盗み出したデータからは、薄々把握していた事態の真相について確認が取れた。

 ナルが手に入れたのは、ある防犯カメラの映像だった。

 日付は去年のクリスマスイブ。タイキの父が事故で死んだ夜。

 映像は、民家の庭に設置されたカメラの物と見られる視点で、猛スピードでトラックを追い抜き、割り込む、スポーツカー

の危険な運転を捉えていた。

「………」

 無言で、ナルは映像を見つめ続ける。

 事故の一部がそこには記録されていた。証拠として十分な一部が。

 追い越されて割り込まれたトラックの後部で、ブレーキランプが発光しながら画面外へ消える。この時にタイキの父は死ん

だのだと、ナルは理解した。

 映像を戻し、スポーツカーがトラックを追い越しにかかる所を再確認する。

 この車の危険な運転が無ければ、タイキは父を喪わずに済んだのだと、ナルは考える。

 また映像を見つめ、反射で見えないトラックの運転席の中を覗く。

 ここに、タイキの父親が乗っていたのだとナルは想像する。

 幼いあの日、タイキを公園に迎えに来た若い父猪は、タイキと似た容姿だった。あるいはタイキも大人になったらあんな外

見になるのかもしれないと感じた。声は覚えていないが、きっとタイキと似た声なのだろう。タイキの口からは語られた事は

無いが、仲が良い父子だったと、夫人は言っていた。

 無言で映像の再生を止める。

 あり得ない未来を想像した。そもそもタイキがあの状態にならなければ、直接声を掛けはしなかっただろう。だから、あり

得ない事なのは判っている。

 それでも、想像した。

 三人揃っている猪親子の家を友人として訪ね、屈託なく笑うタイキの顔を見る自分を。

「………………」

 全ては意味のない夢想。有り得ざる可能性。それなのに、その中のタイキは、自分が想像する未来のタイキよりも幸せそう

に笑っていた。

 思考が冷たく切り替わる。

 カメラ映像に残るスポーツカーの外観とナンバーは、ナルが記憶しているものと同一だった。以前事務所にも来たが、オー

ナーである顧客は、今は違う車に乗り換えている。

 相手方の事は知っている。スポーツカーの運転手は連続六期当選中の、地元でも有名な有力県議会議員の息子だった。ナル

の父は、タイキの父とその会社を訴えた未亡人から依頼を受けたその一方で、県議からの依頼も受け、あの事故を起こした原

因が息子の危険な運転であるという事実を隠蔽する手助けをした。

 カメラの映像を手に入れながら、しかし処分せず手元に残しておいたのは、何かの折に強請るためだと予想がついた。その

悪徳さが、強欲さが、父自身の首を絞める事になった。

 映像の提供元については、撮影したカメラの位置から民家を特定できる。下調べはもう少し進めなければならない。この映

像を然るべき場所へ提供する時に、情報を添えるためにも。



 夏休みも終わり際、数週間ぶりに夕食の時間が一緒になったので、ナルは父親と一緒に食堂に入った。父子の会話は主に現

状確認。ナルは注意を受けるような成績ではなく、表向き品行方正、特段苦言されるような事は無いのだが…。

「程度の低い連中と付き合う必要はない。学校の友人などという無価値な物については、表面上の付き合いだけで十分だ。お

前に必要なのは、有用な知り合いと有能な知り合いだ。判っているな?」

「はい。御父様」

 念を押すように繰り返されるいつもの会話。ナルは父から常々言われ続けて来た。利用価値のある関係を構築しろ、不要な

関係に時間を割くな、と。

 そうして成功してきた父の言葉には、確かに一定の重さがある。合理的だとも思う。そもそも疑いもせず、「自分はそうす

るべき」と考え続けて来た。

 だが、今は違う。

 タイキは自分にとって、世間一般の基準で言う利益を齎してはくれない。父が言う利用価値のある相手ではない。

 全てが等しく「どうでもいい物」と見える少年だからこそ、その「例外」の価値は余人に測れる物ではない。この世に見つ

けたただ一つの「例外」を護るためならば、他の全てを捨てられるし、世界全てを敵に回す事もできる。どんな物を除く事も

厭わないし、どんな事でもしてみせる。

 元より自分の人生にすら価値を見い出さず、父親から「そうしろ」と命じられた事に従う以外には何も無かったから、性能

を高め、命じられたように目的を果たし、いつか死ぬまで生きようというのがナルの生死観だった。

 だから、捨てられる。自分の人生すら他と同様にどうでもいい物と見ていたからこそ、躊躇い無く捨てられる。

 食事中も、表面上はナルに変化は無かった。だからアライグマは全く気付かなかった。

 もはや息子が、自分の言いつけを守る従順で合理的な、後継ぎとして作ってきた通りの存在ではなくなっている事に。

(…おいしくない)

 赤身肉のソテーを付け合わせと一緒に口へ運びながら、ナルは味覚情報を確認する。

 栄養豊富だろう。高級だろう。美味な味付けなのだろう。なのに、美味しいとは全く思わない。

 昼間の事を思い出す。井上家でタイキと一緒に食べた素麺の事を。

 おろし生姜と刻んだ葱、そしてチューブのワサビが薬味の、シンプルな素麺。

 麺つゆも特に変わった物ではなく、麺自体も普通の市販品。

 茹で立てでもない。タイキの母がパートに出る前に準備し、冷蔵庫に入れていった物。

 なのに、いま父と食べている夕食とは、比較にならない。

 ズルズルと音を立てて勢いよく麺を啜る猪は、決して上品ではなかった。麺も薬味もつゆも普通で特別などではなかった。

 それなのに美味しかった。

 麺つゆに卵の黄身を割り入れて混ぜ、味代わりで楽しむ事をタイキから教えて貰えたのは、新鮮な体験だった。

 とても美味しかった。

 今日に限っての事ではない。井上家で時々食べる食事も、タイキと一緒に口にする菓子も、家でひとりで食べるより、父と

一緒に食べるより、ずっと美味しかった。

 タイキの存在は体験に新鮮さをくれる。感覚に鮮やかさをくれる。どんな高尚な料理も、どんな高級な菓子も、彼と一緒に

口にする物には勝てない。

 ここに居ると、父と居ると、五感が鈍ってゆく気がする。空気から色が、香りが、薄れてゆくような気がする。

 自分に色を与えてくれたのは、あの泣き虫なせいぎのみかた。

 自分に香りを教えてくれたのは、あの弱虫なせいぎのみかた。

(ここは、色も、匂いも、味も、遠い。生きている気がしない)

 ふと、口の端が歪んだ。

 生きている気がしない、とは…。考えただけで可笑しかった。

 そうだった。自分は生きていなかった。正しく息をして、規則正しく寝起きして、そして生きていなかった。

 この息苦しさの中で、生き苦しさの中で、健やかに育ちながら死に続けていた。

 生きているひとを知った。例外を知った。きっとあれが「生きている」という事だ。弱くて脆くて愚かで泣いて嘆いて落ち

込んで笑って、彼は生きている。

 自分も、父も、彼とは違う。

(ねえ、タイキ)

 心の中で問う。答えなど求めずに。

(君の目にボクは、生きているように見えるのかな?)



 ダイヤルを回し、ハンドルを下げる。

 一日に一度、必ずしている金庫の確認を、この日、ナルの父親は午後八時過ぎに行なった。

 自分以外はナンバーを知らない、何処にもメモなどを残していない金庫。重たい扉を引き開けて、中に印鑑入りのボックス

を入れようとし…。

「!?」

 手が止まった。

 手提げ金庫が無い。それどころか、入れた覚えの無い紙が一枚入っていた。

 携帯電話の番号が、A4のコピー用紙に太いマジックで殴り書きされている。

 見覚えの無い筆跡だったが、番号には覚えがあった。ナルに持たせている携帯の番号である。

 アライグマは数秒黙した後、記されている側ではない、予備として与えているスマートフォンをコールした。が、止まらな

い呼び出し音はやがて留守番電話に切り替わる。

 続けて記されていた方の番号を呼び出すと、

「………誰だ?」

 通話が繋がった先へ誰何する。

『大事な物と息子は預かった』

 聞き覚えの無い声。それもそのはず、ボイスチェンジャーなどで変えられた声だった。

 それでも、アライグマは相手を探る。

「それは何だ?」

『余計な話をする気はねえ。これから指定する場所にクレジットカードとあるだけの現金を持って独りで来い』

 どうやって侵入し、金庫を開けたのかは判らないが、頭の悪い相手だとアライグマは考える。ボイスチェンジャーで声を変

えようと、見破る自信はある。口調、ブレス、その癖は声の質が変わっても残るもの、後で素の声で話されても判別できる。

(カードとはな…)

 鼻で笑いそうになるのを堪えた。足がつく事は考えないのか、と。

『場所は息子が出入りしているアパートだ。必ず独りで来い。ついたら電話をよこせ。…警察には絶対に連絡するなよ?』

 思い出したように付け加え、通話は切られた。

 舌打ちをして金庫を閉じる。

 元から警察に連絡する気などない。一度は従順に従うと見せかけ、弱みを握られたふりをすれば、接触を繰り返す危険を理

解できないまま何度も強請ってくるような、マヌケな手合いと判断した。適当にあしらい、後日対処する。

 そのつもりで部屋を出たアライグマは、事務所に残っていた所員達にも何も言わず、車も使わず、徒歩で指定された場所へ

向かった。


 階段を昇り、目的の階につくと、通路を確認してから部屋へ向かう。

 チャイムは鳴らさなかった。ノックしたが、返事はない。手袋を嵌めてから試しにノブを掴むと、あっさり回った。

 施錠されていない。中に入れという事だろうと理解し、灯りもついていない玄関に入る。

 冷蔵庫が稼動する低いモーター音と、何故か換気扇が回っている音。ガスなどは充満していない。ひとの気配も無い。何も

見逃すまいと感覚を研ぎ澄ませながら電話をかける。

『着いたか?』

「ああ。たった今」

『居間に進んで灯りをつけろ』

「何処に居る?話し合おうじゃないか。こちらとしても可能な限り穏便に済ませたい、要求はできるだけ飲もう」

 部屋に灯りをつけさせたのは、外側から監視しているから。おそらく本当に独りかどうかを確かめたいのだろうとアライグ

マは推測する。

 電灯をつけると、『窓際に立ってカーテンを開けろ』と指示があった。言われた通りに従うと、今度は『戸を開けて玄関側

が見えるようにしろ』と指示が追加された。

(無用心な…)

 窓側から見て居間の奥にある戸、そこを開けて玄関を確認できる位置に陣取っている。いまの指示からは位置情報が筒抜け

だと、内心嘲笑うと同時に、相手の評価も少し落とす。予想した以上に馬鹿だった、と。

『…台所もあけて灯りをつけろ』

 自信が無くなったような、迷っているような、微妙な間と新たな指示。呆れて苦笑いが浮きそうだったが、アライグマは大

人しく従う。

「…そろそろ交渉しよう。私は独りで来ている。誓って独りだ」

『………』

「大事なモノを握られているんだ。下手な真似はできない。品は何処にある?」

『………』

 通話越しの息遣い、その乱れに相手の焦りを感じる。

『通話は録音していないな?』

「当然だ。そんな恐ろしい事はできない」

 盗られた品の事に言及されれば後々不利な証拠になり兼ねないので、録音はしていない。しかしそれを事前に禁じもせず、

今の段階で思い出して言及するのだから救い難い馬鹿だと、胸の内でせせら笑う。

『…判った。信用しよう。念のためにベランダに出て背中も見せろ』

「用心深いな…」

 口ではそう言いながら、出るついでに潜伏している位置を絞り込もうと考え、窓のロックを外す。

 空けたら夜風が吹き込んで、カーテンが揺れた。

 ベランダに出ようと敷居を踏んで、夜景に目を凝らす。何処にいる?何処に…。

『あの日、アヤカワさんも自分がどうなるか知らないまま、外に出たんでしょうか?』

 ギョッと、目を見開く。

 通話中の携帯から流れ出た、聞き覚えのある声が耳朶をくすぐった。

 だが、その音声は聞き覚えがあるにもかかわらず、機械的で、無感情で、知っているはずなのに「知らなかった」。自分が

何を育てて来たのか、自分が何と暮らして来たのか、今まで知らなかったのと同じく。

 そう、それは知らなかった声。初めて聞いた、欠陥品と自己を称する、息子の素の声。

「…ナル…か!?」

 今の今まで忘れていた。大事な品だけではない。息子も一緒だったのだと。

 視線が動く。眼下の駐車場、街灯が照らす一角に、スマートフォンを手にしたレッサーパンダが立っていた。

「独りか?さっきの男はどうした!?何を吹き込まれたか知らんが…」

『「息子さんのアシはつきません。ご安心下さい。責任もって証拠は消しましょう」』

「!?」

 聞こえてきた声で息を飲む。録音されたもの、しかも電波越しなので一瞬違和感があったが、それは紛れもなく自分の声。

表情までは見えない遠くのナルは、通話中のスマートフォンに予備を近づけていた。

 父親は看破できなかったが、最初からナル独りだった。

 ボイスチェンジャーを使用した上で、意図してブレスのタイミングも話すイントネーションも変えていた。携帯の番号を記

したのもナル自身、三種類身につけた筆跡の一つ。

 父親が誰にも見られないよう、知られないよう、行動するのは判っていた。他の誰よりもじっくり観察してきた父親は、タ

イキと違ってナルの想像を超えられない。

 彼が後継ぎとして育てた息子は、演技力においても、悪辣さにおいても、一枚上手だった。

「ナル!お前は何を…!」

『こうやって、タイキのお父さんは証拠を隠されて、タイキは悪し様に言われ続けた…』

 冷たい声が耳朶に忍び込む。氷の手で心臓を鷲掴みにされたように、強烈な悪寒が全身に広がる。

「誰だ?誰の事を言っている!?」

『貴方にとっては「どうでもいい」、ボクにとっては「例外」の事です』

 ナルは告げる。タイキとは違う「例外」に向かって。

 「平等にどうでもいい」世界の中から、ナルはあの日、タイキとは別の意味の例外…「真逆の例外」を選び出していた。そ

の選んだ対象を処理するために、今日までコツコツと、入念に、準備を進めてきた。

 だいたいの物はどうでも良いが、自分にとって有用性がない物でも、他の何かには必要だったりもする。

 世界はどうでもいい物で溢れていて、しかし本当に無価値で不要なものは殆どない。何かが欠ければ大体の場合、他の何か

にも影響がある。

 逆に、少数ではあるが、「本当に不要なもの」も確かに存在する。

 世界の敵にもなり得る俯瞰で、ナルはその真理にたどり着いた。

『彼を守るために、御父様が隠していたカメラの映像が役に立ちます。これを拡散すれば皆が本当の事を知る…』

 遠い人影が予備の携帯を掲げる。

「やめろ!ナル、自分が何をやっているのか判って…」

 激昂し、怒鳴りながら踏み出したその瞬間。足元でカコンと、頼りない音がした。

 

―なんかここ、ベランダ怖いね…。この床パネル?―

 

 かつて、ある少年がここを覗いて漏らした感想を、アライグマは知る由もない。

 長方形のパネルが五本並ぶベランダの床。そしてそれを囲む細い柵のような手すり。それらは、ナルの手で接続を緩められ、

床パネルに成人男性程度の体重がかかったら分解するように仕組んであった。

 直前に工作したら、ベランダに付着した砂埃などに痕が残るし、それらを含めて全て綺麗にしてしまっても不自然になる。

だから、作業して痕跡を消してから、土埃などの汚れが充分につく夏の三週間を挟んで実行するよう、計画を調整しておいた。

 舐めていた。

 侮っていた。

 信じていた。

 息子が自分に逆らうはずがないと。

 悲鳴を上げる暇も無く、自ら蹴り出すような格好で分解した足場と共に、アライグマは空中へ投げ出された。

 風が唸る耳元へ、無機質な声が、聞き慣れているはずの声が、ひとの物とは思えぬ声が語りかける。

 

 建物から剥離するように手すりが枠ごと外れて、分解してバラける長方形の足場と共に空中に出て、アライグマが落下し始

める。その様を眺めながら、

「貴方はボクらの世界に必要ない」

 ナルは携帯を手にしたまま、静かに、無感情に囁いた。

 自分達の世界には不要につき、排除する。

 そこに憎悪はない。

 そこに憤怒はない。

 そこに正義はない。

 ただ、「やさしいおもい」がそこにある。

 父の思う通りに事が運ぶ限り、タイキには良くない事ばかりが起こる。それに、一度あった事が二度ないとは限らない。も

しかしたらタイキにいつかまた酷い事が起きるかもしれない。もしかしたらあの初老の運転手のように殺されるかもしれない。

父が生きている限り、その可能性は拭い切れない。

 タイキに害を与える可能性を、タイキの未来への有用性を、入念に確認した上でナルは決めた。

 それは、ひどく優しい殺意。

 そして、とても酷薄な殺意。

 害を取り除くという意図しか無い、恨みも憎しみも怒りも存在しない、ある種の生産性すら持つ排除計画。

 アライグマが浮かべる恐怖に歪んだ表情。およぐように、もがくように、あがくように、バタつく四肢。「死にたくない」。

そんな心の絶叫が聞こえてきそうな夜空の父に、

「さようなら御父様。貴方は…」

 孔のような目で眺めながら、ナルは電話越しに別れを告げる。

「連れて来る子供も、育て方も、間違えた」

 感情の一片も籠らない、致命的な誤りの指摘。それが、ナルの父がこの世で最後に聞いた言葉となった。

 嫌な音が夜気に染み入る。頭から落ち、頭蓋が砕け、中身が迸る重たい音が。ナルの手元のスマートフォンには、父と一緒

に落下した携帯が最後に届けた激突音が届いていた。

 通話を切って踵を返したナルは、遠くサイレンの音を聞いた。消防車が出ているらしい。

 急ぐでもなく、しかしのんびりするでもなく、普通に見える歩調と態度で、ナルは人気のない道を辿りながら現場を離れる。

「誰しも思うままに生きているつもりで、誰もがだいたい縛られて生きる…」

 シェリル・ウォーカーの歌。英語の歌詞を和訳し、囁くように小さく口ずさむ。

 がんじがらめに縛られていた猪から、これで一つは縛りを外せた。解放感は無いが、罪悪感もまた無い。するべき事を済ま

せたという意識と、次にするべき事を改めて並べる思考しかない。

 タイキは気付いていないし、きっとこれからもずっと判らないだろう。

 ナルは芝居が上手でも、本心を表面に出すのはとても下手だったから。

 惚れていた。心の底から彼の事を愛している。

 だから何でもする。遣り方が正しいかどうかなどは問題ではない。例えバレて捕まるとしても後悔はない。彼に未来が与え

られるなら、自分の身など惜しくはない。父を除く事すらも何でもない。もう後戻りできないとしてもどうという事はない。

 完全犯罪を計画したのは、そもそも保身のためですらなかった。ようやく落ち着いて来たタイキの周りで騒ぎになり、心が

乱れるのは好ましくないから。そうでなければ自分が犯罪者として捕えられる事も厭わず、もっと直接的な手段で速やかに父

を排除していた。

 角を曲がる。不審に思われないように、平然と。

 心は静かだった。父を死なせても、その死に様を確認しても、何一つ乱れはしなかった。

 だから、誰に見られても問題ないはずだった。

 行く手から歩いてくるその人影を見ても、ナルは歩調を変えなかった。

 黒々とした、聳えるような影。肩幅は広く、身は分厚く、どっしりと重量感があるシルエット。

(和装…)

 羽織袴。結婚式か成人式でもなければそうそう見ない正装に身を包んでいるのは、大柄で立派な体格の、一頭の和牛。黒に

寄った茶の被毛に、立派な角が印象的だった。

 行く手から歩いて来る牛と、不自然でない程度に進路を変え、少し壁際に寄りながらすれ違う。

 その瞬間、牛が立ち止まったのが判った。

 自分の背中に、牛の視線が注がれているのが判った。

 振り返らなかった。見られている事に気付いていると、悟られてはいけないと感じた。誰なのかは知らない。理由も判らな

い。だが、無害なふりをしなければいけないという感覚だけはあった。

 あるいは、それは本能の警告による物だったのかもしれない。

 結局、牛は何も言わず、追ってくる事もなく、ナルは予定したルートを辿って家に帰った。



 父の部屋の金庫を開けて携帯番号を記した紙を取り、隠していた手提げ金庫から封筒入りのメモリーだけ取り除いて所定の

位置に戻す。

 携帯に通話履歴は残ったが、言い訳は用意してある。終始向こうから電話をさせる格好にしていたのはこのためだった。

 帰りが遅い自分へ、父は電話を寄越した。禁止されているのにゲームセンターで遊んでいた事がバレるのが怖くて、アパー

トで勉強しているとウソをついた。父は見破ったようで、アパートへ行って確認し、電話をかけてきた。叱られたが、電話は

途中で切れた。…というのが用意した筋書き。

 特に欲しくなかったが、ジャージ姿のレッサーパンダ縫い包み…クレーンゲームの景品も、追及された際に発言を裏付ける

ために取って来てある。

 あとは、それらしい態度で父を失った少年の演技をするだけ。

 椅子に座り、見るともなく壁に視線を向け、自分の内面を探る。

 哀しさも、寂しさも、苦しさも、罪の意識もない。やはり自分は欠陥品なのだと、改めて感じる。

 目を閉じる。じきに、アパートの住民が通報して運ばれた父親の死亡が確認される。そして身元が判明し、連絡が来る。も

うすぐ忙しくなるだろうから、少しだけ頭を休めようと…。



 ナルにとって計算外の事が一つ起きた。その事を知ったのは、「事故による転落死」を遂げ、変わり果てた父と「対面」し

た翌朝だった。

 昨夜、父の仕事相手でもあった県議の家で火災があり、県議会議員本人が焼死体となって発見された。必ず向こうからアク

ションがあると考えて備えていたのだが、拍子抜けしてしまった。詳しく調べている暇はなかったし、そもそも警察も事件性

が無いかどうかというレベルで一応の捜査をしているので、今の段階で詳細を知るために動くのは避けた。

 突然死の可能性について全く考えていなかった訳ではないが、自分と無関係な所で都合よく物事が転がる事を計算に含めて

計画を立てるのは、無意味どころか危険なので、可能性については無視していた。

 証言の裏付け用に準備したジャージ姿のレッサーパンダ縫い包みは、用が済んだので火葬の際に父の棺桶に入れた。

 自分に似た物を父に持たせたかったのだろう。あるいは、間接的に父の死因に絡んだ品だから手元に残しておくのは辛かっ

たのだろう。または、父への贖罪として棺桶に入れたのだろう。…人々は様々な感想を持ったが、それもまたナルの思惑通り。

その中に正解など無い。人々にそう思わせながら不要な品を処分するのがナルの目的だった。

 警察の捜査の方は、最初から事件性無しという方向で動いていたが、そのまま落ち着きそうな気配だった。

 ナルがずっと続けてきた芝居は役に立った。事務所の所員達は、ナルが父親に従順で真面目な、それでいて父親とは似ても

似つかぬ優しい子供であると認識している。親子の不和も無く、動機も無い。事故に不審な所があったとしても、ナルの思惑

による物と気付ける者は居ない。親子の関係についての証言は全て同じだった。

 アパートのベランダについては、警察が聞き込みした他の住民からも、構造の脆弱性を不安視する声や、利用する際の怖さ

について証言があり、実際に床板プレートが浮き上がっている物もいくつかあった。ただし、共用スペースを含めた部屋の維

持管理については借用規約でも入居者の責任となっていたので、事故の発生で青ざめた大家が、床パネル等のゆるみについて

過失責任を取らなければいけない流れにはならなかった。

 突然の不幸な事故。

 それで、全てが片付けられてゆき、初七日があっという間に過ぎて…。



 開かずの金庫を前に、ナルは何をするでもなく立っていた。

 父の金庫に用がある訳ではない。父以外に開け方が判らない金庫は、様々な整理や手続きに追われる所員達の手には負えず、

遺族であるナルの同意をもって、後日業者を呼んで開ける事になっている。そんな有様なので、不都合な物は唯一開け方を知

るナルがこっそり取り出して処分を終えた。

 用事が無いのに毎晩ここへ来ているのは、父を喪った傷心の少年を演じるため。父の偲んで部屋を訪れているというポーズ

のため。それと、金庫の中にはもう存在しない物について少し考えるため。

 気になるのは、父が金庫に隠していた様々な不正の事。

 父親は、思っていた以上に悪辣で、実行力があった。全て明るみに出たら、国内屈指の犯罪者と新聞に書き立てられるどこ

ろの騒ぎではないだろう。

 ある意味では平等なひとだったのだなと、ナルは思う。善悪貧富老若問わず、脅し、奪い、搾取し、利用して、それが明る

みに出ないよう立ち回っていた。慈悲はなく、欲はあった。味方はおらず、共犯者を作ることで有利になるようなケースでな

ければ、自分ひとりで何でもやった。だからこそナルが付け入る隙があったのだが。

 死んだ事でほっとしている者も多いだろう。そして、大手を振って歩ける未来に顔が綻ぶ者も居るのだろう。ナルにとって

は、やはりどうでもいい事なのだが。

 父「個人」の事はもうあまり考えていない。状況の中に残る痕跡…遺産だとか相続だとか残された仕事だとか相手方だとか、

そういった物に対処する際に現れる記号のような物としては考えるのだが、その人生や人格、父との思い出については全くと

言っていいほど思考に乗せていない。どうでもいいし、もう考える意味もない。

 主に考えているのはこれからの事。タイキの未来についての事。

 ナルの手元には、タイキの未来を変えられる物がある。彼の父親の事故が、第三者の過失によって起きた事だと証明できる

映像記録がある。

 この防犯カメラの映像を手に入れるために、父がカメラを取り付けていた民家にどれだけの金を払ったのかは、その家が高

台の新規分譲宅地へ引っ越して行った事実を見れば調べるまでもない。この映像が明るみに出た際、これを売って口を噤んで

いた住人は警察から追及されるだろうが、知らずに売ったと答えるのか、それとも正直に証言するのか、ナルには興味もない

しどうでもいい。どのみち映像を買い上げたアライグマはもうこの世に居ない。被疑者死亡、全て都合がいいところへ収束し

てゆく。

 折を見て、このデータを警察に送る。県議に揉み消される事を考えて他県の複数の警察署へ送るつもりだったが、火葬の前

に下焼きされた者からの妨害を心配する必要は無いので、最寄りの警察署へ匿名で送ろうと考えている。

(もうすぐだよタイキ。もう後ろめたい思いはしなくていい。もうビクビクしなくていい。もう顔色を窺いながらお父さんの

話を引っ込めなくていい。君もおばさんも、何も悪くないのに死んでしまったお父さんを、大っぴらに悲しんでいいんだ)

 ふと、思う。

 自分の父の話を誰かにしたいと思ったことは一度もないが、タイキはそうではないだろうな、と。共感できず、気持ちも判

らないが、本当は父親の事が大好きだったらしいし、思い出などを誰かに話したかったりするのだろうか、と。あの高台の景

色を眺めながら父を思い出していたタイキは、泣いていたが少し嬉しそうだった。ただ悲しかったのとは違うように見えた。

 タイキが辛くて泣くのは「良い」と感じないが、嬉しくて泣くのはいいし、喜んで泣くのもいい。きっと、懐かしがって泣

くのもいいだろう。

 だから、涙交じりでも父親との思い出を話せばいい。それを話せるのは、もしかしたら母親以外には自分しか居ないかもし

れないし、少しばかり聞いてみたいと感じるのも事実。

(もしかしたらボクは、少しひとの振りが上手くなってきたんだろうか?ひとの気持ちに近付けているんだろうか?)

 ナルは考える。タイキと再会してから変わってきた自分の事を。去年の自分であれば、非合理的だと、無意味だと、見向き

もしないし切り捨てていそうな事にも今は執着する。何より、無駄な事だと判断して行わなかっただろう事を今は実行する。

 最初は、単なる気紛れでの接触だったと言えるのかもしれないが、思えばその時点で自分は既にタイキの影響を受けていた

のかもしれない。

 機械は、気紛れなど起こさないのだから。

(…そろそろ休もうかな…)

 明日からは学校に出る。特に疲れているという感覚は無いのだが、父が死んでから生活サイクルが通常と異なっていたので、

自覚できていないだけでリズムの乱れはあるかもしれない。調整の意味も含めて早めに休んだ方が良いかもしれないと考えた

ナルは…、

「!」

 体の向きを変えたところで、初めてソレに気が付いた。

 ひとが居た。

 ドアの前に、大柄な人物が立っていた。

 気配も、物音もなく、いつからか、いつの間にか、そこに黒い人影が佇んでいた。

 立派な角。黒に寄った茶の被毛。身は分厚く、片幅は広く、重々しく屈強な体躯の人影は、和牛の獣人。上背2メートルほ

どはあろうかという、石壁の如き見上げるような巨躯の牛。身に着けている、夜の底闇に溶け込むような黒に近い紺色の衣服

は、作務衣という衣服にも似ている。

 夜中の侵入者を前に、声は出なかった。出しても無駄だとも思った。

 静謐な双眸がそこにある。冷厳な眼差しが向いている。それは、ナルの眼差しとは似て非なる冷たさをもっていた。

 氷の冷たさではない。凍てつく冷たさではない。言うなればそれは鋼鉄の、首を落とす刃の冷たさ。

 何故だかは判らない。だが、自分は死ぬのだと感じた。

 男は素手で、凶器も手にしておらず、殺すと発言した訳でもない。なのに、「自分は死ぬ」という具体的な結末が脳裏をよ

ぎっていた。

 静かに、牛はその口を開いた。

「一週間もかかってしまった」

 厳かに太い声が、シンと静かな、主を喪った部屋に染み入る。

「律美ダム建設予定地住民の、集団失踪事件」

 昨年一度騒ぎになり、その後不自然なほど報道からもひとの口からも遠退いた事件の名を口にした牛は、ナルの反応をじっ

と窺っていた。

「矢吹県議の関与が確定的となったと同時に、捜査線上に浮上したのが君の父上だった」

 そうか、とナルは納得する。父が何をしてきたのかは、完全には把握できていない。どんな悪どい事をしていても不思議で

はなかったが、逆にどれほど悪事を重ねていようとどうでもよかった。タイキの害になるか否か、その点だけがナルの関心事

だったから。

「会う事は叶わなかった。県議の始末がついた後、監視中の者から独りで外出したと聞き、追った先で、彼は偶然、丁度、亡

くなっていた」

 だから知らなかった。父が県議会議員繋がりで関わった中に、発覚してしまったら一個人の不祥事では済まないレベルの事

件が、一つや二つの騒ぎでなく混じっていた事は。

「手間は省けた。が…、小生はそこで偶然にも「別件」と逢った」

 父が働いた悪行。その結末が「本来は」これだった。

「証拠はない。だが確信している」

 ナルが手を下さなくとも、外法の裁きは、彼の父の前に立つはずだった。

「恐るべきは、異能ではない。その特殊な才覚でもない」

 牛は静かに続けるが、それは会話ではない。話を聞いているナルの反応を子細に観察している。おかしな様子が少しでもあ

れば、会話どころか何もかもが終わる。

「君はおそらく、「ソレ」を体系化も技術化も理論化もできるのだろう。あるいは、古き時代の作家が手掛けた著作が、時を

越えて手を加えられながら広まり浸透するように、「ソレ」は伝播し、進化し、いつまでも残ってゆける物になるのだろう」

 当たっていた。ナルが父親を転落死させるまでにしてきた事は、観察と準備と練習と計算を重ねる事で、ナル以外にも実行

可能だった。そしてこれを成功させた時、被害者から実行犯を辿る事は極めて困難になる。法で裁くには、牛自身が口にした

ように証拠がない。そしてこれは、ナルがその気になれば「ツール」として他者への配布もレクチャーもできる。そして、も

しも当人が実行できなくとも、ナル自身がマネージングしたならば…。

「誰にでも履修、体得できる可能性を孕み、かつ君自身が示唆、教導する事で他者でも実行可能な「ソレ」は、万人へ容易に、

他者の排除を成し遂げる手段を与え得る」

 牛の目が細められた。鋭く、冷たく、視線が注がれる。弁解もなく全てを肯定し、動揺の欠片もなく、機械的にそこに佇ん

でいる、およそひとには見えない少年に。

「君は、ひとの世の脅威だ」

 裁定を告げるように厳かな声を、ナルは黙って聞いていた。

「それも、小生がこれまでにまみえた中で、最大級の規模になり得るひとの世の脅威だ」

 牛が足を踏み出す。

 ナルは身じろぎもせず待つ。

 やるべき事はだいたいやりおおせたが、一つだけ心残りがある。

 裁判になっても、タイキの父の会社を訴えている女性につくのは父ではない。いくらでもひっくり返る可能性はあるのだが、

決定的な証拠であるあの防犯カメラ映像を自分の手で送れなかったのは痛い。自分の部屋が整理される時に、父の印で封がさ

れたあの封筒が見つかれば、中のUSBメモリーを確認した誰かが届け出てくれる可能性もあるが、確実とは言えない。

(ああ、もう一つ、心残りがあったな…)

 牛が二歩進んだ所で、ナルは気が付いた。

(タイキに、お別れの挨拶はしておきたかった)

 見守っていけないのは残念だった。見届けられないのは残念だった。独りで森葉に行く事になるのだろうか?心配だが、上

手くやっていけるように願う。

 三歩目で、牛の足が止まった。

 2メートル足らずの距離を挟んで向き合うナルのポケットで、携帯が振動している。

 どちらも動かない。

 バイブレーションは続いている。

 ナルは思った。もしかしてタイキだろうか?と。

 しばし動かなかった牛は、やがてナルのポケットの辺りにチラリと目を遣る。出ないのか?とでもいうように。

「………」

 電話に出させるなどどうかしているとも思ったナルだったが、もしも通話中に変な真似をすれば即座に殺すつもりなのだろ

うと、牛の行動に理由をつける。そして、その手は携帯を取り…。

『あ、ナル!?ゴメン忙しい?』

 電話の主は、やはりタイキだった。

「少しは大丈夫。どうしたの?」

 牛の行動に注意を払いながら、ナルは応じた。これが最後なら、自分は何を言うべきなのかと考える。

『あの…。大丈夫?ナル…』

「うん。大丈夫」

 気遣っている。心配している。そんなタイキに「どうしたの?」「うん。大丈夫」と返す自分が滑稽に思えた。自分ではも

う少し頭がいいと思っていたのだが、案外そうでもなかったのだな、と。

 タイキは精一杯、ナルを励まそうとした。

 落ち着いたら何処かへ遊びに行こう。時間ができたら漫画を読みながらゴロゴロしよう。シェリルの歌を聞こう。ゲームを

しよう。

 今までもそうしてきた、新しいことなど一つもない、提案の羅列。

 自分を元気付けようとしたタイキが並べる提案を聞いて、感じた。

 タイキにとって、これまでに自分としてきた事は、どうやら楽しかったらしい、と。

『あ、ゴメン…』

 自分だけ喋っていた事に気付いたタイキが、声のトーンを落とした。

 そこは謝るところではない。君が詫びる必要はない。ふっと、ナルの口元に笑みが浮かぶ。

「タイキ」

 言うべき言葉は、相応しい言葉は、今見つけた。

「ありがとう」

 自分は、生きた。息苦しい、生き苦しい、色も香りもない生活から、タイキと過ごす「生きた時間」を知った。

 その事にお礼を言いたい。自分と出会ってくれてありがとう。自分を生きさせてくれてありがとう。

『…!う、うん!』

 少しは元気が出たと思ったのか、タイキの声が少し弾んだ。

 結局最後も共感はできなかったが、それでもいいとナルは思う。励まして元気が出たと、タイキがそう感じて満足できたな

ら、自分も満足だ。

「それじゃあね」

『うん!明日ね!』

 通話は、ナルの方から切った。

 「また」とは、言わなかった。

 「明日」とも、言わなかった。

 彼の言葉には、応えなかった。

 約束したら破ってしまうから。

 視線を上げて、ずっと黙っていた牛を見る。

「ただのクラスメートです」

 あまり関係は深くない、何人もいる知り合いの中のひとり。そんなニュアンスの言葉に、

「…問うに落ちず、語るに落ちる、か…」

 牛は静かに呟いた。

「?」

 僅かに眉根を寄せたナルは、

「追及の間、一言も発さなかった君が、何故今の通話相手の事には言及したのかね?」

「!」

 その指摘で失策に気付いた。正解は「沈黙」だったのだと。

 長電話から近しい相手と想像されたくなくて、それとなく無関係をアピールした行為その物が、本当に隠したい事を炙り出

していた。

 携帯が軋むほど強く握り込んだナルを…、

「………」

 牛は十秒ほどじっと見つめた後で、小さく息を吐きだした。

「おそらくは、そうだ。君は、ひとの世の脅威。間違いなく。…しかし…」

 牛はナルの目を覗き込む。孔のような瞳、奈落に繋がるような双眸を。

「一つ問いたい。友を想い、庇う、そんな真似をする君は…、まだ「ひと」かね?」

 奇妙な問いだった。人類かという意味であれば、間違いなくそうだった。だが…。

「…ああ…」

 か細い声がナルの喉から漏れた。

 見過ごしていた簡単な事に気が付いて、何でこんな事が判らなかったのだ?と、驚き、そして呆れているような、そんな声

だった。

「ボクは、「ひと」だったのか…」

 既に涙は涸れ果てて、ティアーズラインを濡らす事は無いが、もしもそうでなければ…。

「どうやらそのようだ」

 頷いた牛には、少年が泣いているように見えた。



 約一時間ほど後、法律事務所兼磐梯邸から徒歩で五分ほど離れた夜道を、和装に身を包んだ牛は独りで行く。

「…証拠はないのだ。や。これは仕方ない事だな!うむ!」

 小さいながらも無駄に力強く呟かれた言葉は、どこか自分に言い訳しているようにも聞こえる。

(道徳倫理感情に縛られぬその手管と実行力は、ひとの世の脅威にもなり得るが、法の外の番人の資質にも通じるわけで…。

つまりは、小生らとあんまり違わない。うむ、あんまり。そういう事だ。そういう事…)

 着替えた衣類を風呂敷包みに収め、左手に吊るして歩む牛の口元から、やがて微かなため息が漏れた。

(…や…。小生も、ミギワ君の事をとやかくは言えぬな…。万が一にもスイゲツにバレよう物なら小言では済まぬ…)

 保留という判断を下した事が正解とは思えなかった。かといって、いま裁定を下すのは早過ぎるとも感じた。

 罪は犯した。法では裁けない、証拠の無い罪を。逆に言えば、法の外を守る自分達こそが裁くべき罪を。

(や。しかし、毒も転じて何とやら…。まして少年の身。あるいはそう、あるいは、だな…)

「棟梁」

 呼ばれて思索を打ち切り、足を止めて振り向けば、後方から足早に近付いてくる人影。立ち止まって待つ牛の前に寄って恭

しく頭を下げたのは、勤め人のようなスーツ姿の、真っ白な狐の青年だった。

 狐の青年はチラリと牛の左手を見る。「仕事着」が収められた風呂敷包みを。

「気になるとおっしゃった件は、お済みになりましたか?」

 この問いで牛は苦笑いし、角の付け根を人差し指でコリコリと掻いた。

「確証に至らず、「遠目に様子だけ覗って」引き上げたよ。おかしなところも無かったのでね。や。小生も勘が鈍ったか、そ

れとも神経質になっていたかな?」

「しばらく纏まったお休みを取られておられませんから、ご不調も仕方がない事かと」

 牛がついた嘘には全く気付かず、何事も無かったのならそれが一番だと、白い狐は目尻に柔和な皺を寄せる。そして…、

「…それで、で、ございますが…」

 とても言い難そうに、微笑を崩して耳と尾を伏せながら続けた。

「…オガミの若大将より…伝言をお預かりしております…」

「もう「次」かね?や。本当に休めぬなぁ…」

 これには牛も、思わず苦笑で顔を歪ませた。

「実は夕餉がまだなのだ。良ければ君も付き合いたまえ。スイゲツからの伝言は道すがら聞かせて貰おう」

「は。何でも、昨年見つかった電子ドラッグの、発展形と思われる新型が見つかったそうで…」

 降魔刻は過ぎ、外法の雄牛は去る。

 まだひとであるならばと、少年に猶予を与えて…。



 自室の窓から庭を見る。

 あの雄牛を裏口から送り出して、五分は経っただろうか。ナルは別れ際に言われた言葉を思い出す。

 

―もしも君が、いつかひとではなくなって、本当にひとの世の脅威になってしまったなら、小生は今夜の仕事の続きをしよう。

…永久に保留して良い案件ならば、手間が掛からなくて助かるのだがね―

 

 一種の観察処分という事なのだろう。いくつか約束をさせられたが、今すぐどうこうするという事は無いらしい。

 あの雄牛は警察官でも調停者でもないらしい。強いて言うならば、法の及ばないもの、あるいは法の適用を待っていては手

遅れになるようなものを、極秘で処分する「特殊な部署」のような所から来たらしいが、その辺りは適当にぼかされた。

(あんなのが居るなんて…)

 世の中は思っていたより不思議だと、ナルはつくづく感じる。

「「正義の味方」…」

 まさか本当に居るとは思わなかった。

 椅子にかけて、ふと気付く。閉め忘れたのか、引き出しが少し開いていた。

 何となしに思い立って、引き開けた奥からお守りを取り出す。

「………あれ?」

 鼻先に近付けたが匂いがしない。

 いつの間にか、お守りからは完全に香りが消えていた。





















「………」

 タイキの寝息が聞こえる中、ナルはしばらく見つめていたお守りを、引き出しの奥に入れて閉める。

 すると、丁度眠りが浅くなっていたのか、微かな物音に反応した猪が、「う、うん…」と唸って薄目を開けた。

「ナルゥ…どうしたのぉ…?寝ないのぉ…?」

 寝ぼけ眼の寝ぼけ声。デスクの小さな明かりを眩しがり、細く絞った目を向けてくるタイキに、ライトのスイッチへ手を伸

ばしながら「いま寝るところ」と答える。

 戻ってくるナルを迎え入れるように、タイキは両手を広げてニヘラッと笑った。

 ベッドの縁に腰かけたナルは、両腕が開いたその間に上体を入れて、被せるように顔を近付ける。

 チュッ…。

 額に軽く口付けすると、キスを落とされたタイキが喜んで腕を閉じ、ナルを抱きしめた。

 肉厚な猪に抱え込まれ、上に重なる格好で俯せになったナルは、すぐさま寝息を立て始めたタイキの胸に顔をうずめながら

目を閉じる。

 タイキはきっと、自分がそれほど愛されているとは思っていないだろう。だからほんの少し嬉しい事をされただけで大げさ

に喜ぶ。

 演技は上手なつもりだったが、社交的に必要な様々な物と違って、愛情を表現する練習はしていなかったから、本心からの

気持ちを判り易く表情に出したり態度に出したりはできていないと思う。機械的で平坦な態度や表情から、きっとタイキは仕

方なく応じている物だと感じているのだろうが…、タイキは基本的に甘えん坊で、要望全てに応じていたらどうしようもない

甘ったれになってしまうだろうから、そのぐらいに思われていて丁度良い気もする。

 だが、そんな関係性の調節や本音を含めて、知って欲しいとは特に思わない。共感されなくても別にいい。他者との相互理

解など、欠陥品の自分には望むべくもなかった。なのにタイキは自分とここまで近しい間柄になれた。自分の中身を知って、

恐れ怖がりビクつきながら、それでも好きだと言ってくれるし、自分もタイキを愛している。

 お互いの感情はお互いに理解し辛いし、本当の共感にはまず至れないが、判らない事ばかりで勘違いしてばかりで誤解して

ばかりのまま、自分達はそれでもお互いを信じている。タイキはきっと信じられている実感が無いのだろうが、それが伝わら

ない事もナルは別に嘆いたりはしない。

 むしろ、もしかしたらこれについては共感できない方が都合がいいのかもしれないとも思う。

 華はいつか散る物。根が腐っているならなお早い。

 自分はきっとろくな死に方をしない、長生きはしない、そんな確信に近い予感が常々ある。だから、いつか彼が独りになっ

ても大丈夫なように、彼が逞しく生きてゆけるように、今しかない時を寄り添って生きる。この世に一つの「例外」に、幸せ

に生きて欲しいから。

 もっとも、自分から進んで早死にするつもりは無いし、できる限り長生きはしようと思っている。この猪を独りで放り出す

には、不安要素がまだまだ山ほどあるのだから。

 無警戒に弛緩しきった寝息を聞きながら、タイキは「せいぎのみかた」だとナルは思う。お世辞でも方便でもなく。

 タイキが居るからこそ、自分は世界の敵にならないのだから。タイキが居るからこそ、自分と彼とその友人が居る世界を維

持しようとするのだから。魔王に本格的な悪を為させないという意味で、タイキの存在は多くの物と多くの者を守っている。

 彼に繋ぎ止められている限り、自分はひとで居続ける。

 だから、本人がどう思おうと、本人が何と言おうと、ナルにとってのタイキは「せいぎのみかた」。魔王すらも味方につけ

て、世界の敵に回らせなかった「せいぎのみかた」。

 これもきっと共感されない事だろうが、それでも別にいい。

 タイキの規則正しい呼吸と胸の上下を数えて、まどろみ始めながらナルはぼんやり考えた。

 説明し辛いこの穏やかな気持ちと充足感が、もしも「幸福」という物なのだとしたら、きっと自分は大いに幸せであるのだ

ろう。と、相変わらず他人事のように…。

 それは、独りだけが知る昔の話。

 世界の敵になり損ねた魔王の話。

 汚泥に映った月影に、散る日まで寄り添うと決めた、泥中の蓮の話。