これは、その一連の「事件」の後、梅雨明けが近いある夜、ある部屋で、ある二頭が交わした会話である。

 

「ねぇナル?あのふたり、どうして上手く行かなかったのかなぁ?」

 アニメが映るテレビを眺めながら、ポテトチップを口元に運ぶ手を止めて、大猪がポツリと言った。

 縦にも横にも大きく厚みも尋常ではない、黒褐色の剛毛を纏う肥満体の巨漢である。比喩するまでもないそのままの猪首で、

後ろから見れば丸みを帯びた背中と頭が一つながりになっている。立派な牙を備えた厳めしい顔つきなのだが、テレビ画面を

観ながら話すその表情は何処かあどけなく、瞳にはいかにも人の好さそうな光を湛えていた。

「まさかあんな大事になるなんて…。同じ物を好きになって、打ち込んで、それでも…、どうしてダメだったのかなぁ?」

 胡坐をかいている猪は視線を下げた。

 組んだ足の上には茶と黒と白の被毛が複雑な彩りを見せる、ずんぐり丸っこい毛玉。こちらは背が低くて小太りなレッサー

パンダである。愛らしい顔立ちと縫い包みのような見た目に反して、観ているようで見ていない、思慮に耽りテレビ画面を通

り越して遠くを眺めるその双眸は、理知的で冷たく、奈落のように深い。

 レッサーパンダは胡坐をかいている猪の足に座り、その分厚い胴に背中を預け、座椅子で落ち着くようにくつろいでいる。

 風のない、静かな夜だった。雲までも耳をそばだてているように。

「原因は「嫉妬」だろうね。これははっきりしてるよ」

 耳に心地良い、キーが高い澄んだ声でレッサーパンダは言う。

「最初は好意もあったかもしれない。友情を感じていた頃もあったかもしれない。でも、それが絶対に引っくり返らないなん

て事はない。物事は簡単に裏返って真逆になる。波の上に浮かんだサーフボードが、横波一つで裏返しになるようにね。その

サーフボードの上に積み上げた物が高ければ高いほど、引っ繰り返った時は深くなるよ」

「それ、オレ達もそう…なの?」

 違うよね?そういう兆しもないし…。と疑いと不安混じりに確認する大猪に、レッサーパンダは「ボクらは逆に難しいよ」

と首を縮めた。

「ボクらは何から何まで違い過ぎて、好みに被っている部分がある程度。持ち味も特技も競い合うようなかぶり方をしていな

いから、そもそもお互いに嫉妬できないんだよね。でも、彼らの場合は…」

 レッサーパンダは言葉を切って、傍に置いてあったお汁粉の缶を取る。

「…そうだ。嫉妬までは行かないけど、ボクもタイキに思う所があった」

「え!?」

 焦ったような、そして怯えたような顔をした猪に、レッサーパンダはお汁粉の缶を口元に持って行きながら言う。

「正直に言って身長は羨ましいよ。タイキぐらいとは言わないけど、170センチ以上あったらボクの世界はきっと大きく変

わってたんだろうな。見える景色も違うだろうし、背伸びしなくても人混みの向こうが見えるのは凄く気分良いだろうね」

 猪は少し黙って何事か考えて…。

「今からでも判んないよ?身長の伸びなんて」

「ふふっ…。ありがとう…!」

 レッサーパンダが真上にある猪の顔を見上げて微笑むと、逆さまの笑顔を見せられた大猪は、不意を突かれたような驚きの

顔で黙り込む。

 時々、このレッサーパンダは本当に良い顔で笑う。作り笑いと社交用の笑みと普段から顔を覆う微笑で本音と本心を隠し、

決して他人に腹の底を見せないレッサーパンダが心からの笑顔を見せる事は、最も親しい猪に対してすら極々稀だった。

 そんな顔が見られて嬉しいはずなのに、大猪はこういう時、自分などがおいそれと見る事は許されない貴い何かのように感

じて、すぐに目を逸らし、話題を変えてしまう。

「そ、それはそうとさぁ!本当に嫉妬とかが原因だって思う?だってすごく仲が良かったろ?オオシロ君と………」





                  諸行無常





「え?お手紙を?ぼくがですか?」

 放課後の職員室で受け取った封筒と、パソコンの画面をプリントした地図を両手で持って、先生の顔を見返す。

 正直言って何でこんなこと頼まれるのかよく判んなかったけど、ちょっと考えたら、そういえばぼく先週から学級委員になっ

てたんだっけ、って思い出した。

「ああ。帰り道の途中だし、届けてやってくれないか。中身は学期初めの学力テストのお知らせ」

 先生は何だかいかにも面倒くさそうで忙しそう。口うるさい先生だから、いつもなら「その学力テストも近いんだからしっ

かり勉強しろ」とか言いそうなんだけど…。

「先生も忙しくてな。郵便で出すよりも直接届けてやった方が早いし、時間もないからその方がいい」

「はあ…」

 頷いたら先生は「頼むぞ」って言って、斜めからは見えないようになってる机のパソコンに向き直った。もしかしたらテス

ト問題作りなのかも。

「失礼します」

 お辞儀して、回れ右して、それから…、

「…ま、どうせ来てくれないんだろうが…」

 先生の小さな独り言を、耳の裏で聞いた。

 

 教室に戻って荷物を取って、階段を下りる途中、踊り場の姿見と向き合ったぼくは足を止める。

 1メートル四方の鏡が二枚、上下に繋がっているそこに映ったのは、中学校低学年ぐらいに見える背が低い和犬ミックス。

 クリーム色の毛は腰が強くて立ち気味で、輪郭は丸っこく見える。左目と耳を囲んで茶色い大きなブチがある。服で見えな

いけど背中とか肩とか体中に全部で七個、牛さんみたいにブチ模様。

 それがぼく、小渕七星(おぶちななほし)。渾名はナナ。…あと30センチぐらい背が伸びて170センチ越えの顔も声も

渋いナイスガイになれる日を夢見る童顔低身長高校二年生…。

 鏡に背中を向けて、階段を降りながらため息。牛乳たくさん飲んでるのに背はぜんぜん伸びてくれない。高校生になったら

ズンって伸びると思ってたのに…。

 部活してる生徒の声がグラウンドから聞こえて、吹奏楽部が練習する色んな楽器の音色が通り抜ける廊下。トコトコ歩いて

下駄箱に手を入れて、靴を出しながら考える。

 …オオシロ先輩はたぶん、170センチ以上あったと思う…。

 先輩は、真っ白な毛並みが綺麗な猫の獣人。

 頭が良くて、スポーツマンで、ハンサムで、背が高くて、肩幅もある格好良いナイスガイ。

 出会ったのは去年の春、ちょうど一年前で…。



 年度の始め、入学したてでまだ学校に慣れてなかったぼくは、家庭科実習室がどこだか判らなくてうろうろしてた。

 お昼休みは長いからって安心してたんだけど、ごはん食べに行って、教室に戻ってきたらみんなもう居なくて、ひとりで探

さなきゃいけなくなったんだ。

 最初に、たしかあっちの方…、って歩き出したのがまずかったんだ。全然違う方向で、階まで間違えちゃった。

 休み時間が終わりそうになって、小走りで探し回って、泣きそうになっても見つからなくて、焦りに焦って「そうだ。二階

行こう」って思い付いて階段に駆け込んだら…、ドンって、ぶつかったんだ。ドンって結構強めに…。

 後ろにひっくり返って荷物をばらまいたぼくは、鼻を押さえて見上げて…。

「…あ…」

 尻餅をついたぼくを見下ろしていたのは、真っ白な、綺麗な毛並みの、猫の獣人だった。

 学ランの襟には二年生の襟章。ぼくよりずっと背が高くて、肩幅があって、テレビで見る外国のバスケットの選手みたいに

逞しい。

 ぶつかってもちょっとしかよろけなかったその先輩は、ビックリしてるぼくを見下ろしながら舌打ちしてた。

「廊下走んな。気を付けろ」

「ご、ごめんなさい!」

 慌てて起き上がりながら謝ったぼくの目の前で、先輩は教科書を拾って「家庭科?」って、眉間に皺を寄せながら言った。

「おい、もうすぐ授業始まるだろ?家庭科実習室は一階の…」

 教科書を押し付けられたぼくは、先輩から家庭科実習室の場所を聞いて口を大きく開けた。ガパンって。

 階も違うし、位置も校舎のだいたい反対側で、渡り廊下の先…?見当違い。ぼくは全然違うトコをウロウロしてた。

「ったく…。ほら、立て!」

 先輩は顔を顰めて残りの荷物をかき集めて、ぼくに押し付けて、それからぼくの手を掴んで引っ張って起こして、「来い!

ほら早くっ!」って、ズンズン歩き出した。

 左手で荷物を胸に抱えて、右手を先輩に引っ張られて、上級生の教室が並んだ廊下を突っ切ってく。

「何やってんだオオシロ?こんなトコに一年なんか連れて来て」

 同級生かクラスメートなのかな、ぼくを引っ張る先輩を見て、茶色い猫の先輩がニヤニヤ笑って声をかけて来た。

「何の用があっておれが連れて来んだよ?迷い込んでただけだ」

 先輩は面倒くさそうにそう言って、そのままぼくを引っ張ってく。そうして渡り廊下を過ぎてすぐの階段で、

「一階まで降りたら、奥に向かって三部屋目だ。札が出てっから迷わねぇだろ」

 って、ぼくの手を離して言った。

「あ、あの!ありがとうご…」

「ほら急ぐっ!」

 お礼を言おうとしたぼくの背中をバチンって叩いて、先輩はくるっと向きを変えた。

 急ぎ足で帰ってく先輩の背中を見送って、ぼーっとしてたぼくは、我に返って転がるように階段を降りて…。

 

 オオシロ先輩。その時は耳で覚えただけの先輩の名前。

 先輩のフルネームが大白素晴(おおしろすばる)なんだって知ったのは、次に学力テストの成績上位者名簿が掲示された時

だった。

 二年生男子の上から九番目に先輩の名前があって、それで毎回トップ10入りしてるひとなんだって知った。

 後から、テニス部に所属してて、二年生だけどダブルスのメインレギュラーだって知った。

 すごい人なんだなぁって思った。頭が良くて、格好も良くて、スポーツもできて、完璧過ぎ。しかも親切で…。

 それからぼくは、ちょくちょく先輩の姿を探すようになった。体育の授業をしてる二年生の中に、廊下を歩いてる上級生の

中に、全校集会で集まった先輩達の列の中に…。

 でも、一学期が終わる頃に、先輩の姿を見付けられなくなった。何でかな?どうしてだろう?そんな風に不思議がってる内

に夏休みになって…。

 オオシロ先輩が不登校になったって噂で聞いたのは、二学期が始まって、少ししてからだった。

 

 それから年度がかわって、ぼくは二年生に進級した。

 貼り出されたクラス分け名簿で、ぼくは先輩の名前を見つけた。

 先輩が留年したことを、ぼくはその名簿を見てはじめて知った。

 名前順に並ぶ教室の席で、ぼくの前はずっと空席のままだった。



 寮に向かういつもの帰り道からちょっとずれて、先生から貰った地図を確認しながら住宅地を歩く。

 この町に来て一年ちょっと経つけど、こっち側に来るのは初めて。寮から近い場所なんだけど、普段来ない所だからちょっ

と戸惑う…。

 えぇと?運送会社さんでしょ?そこの角から左に入って、二軒並んだ次が公園で、その隣の隣のとな…、あ、あそこかな?

 正面まで行って、門柱のトコで足を止めて確認したら、表札に「大白」って書いてある。…ここだ!

 鉄格子とアーチのお洒落な門から、芝生に敷かれた石畳が玄関に向かう、洋風の綺麗なお庭。二階建ての外壁はうっすらク

リーム色に寄った白で、屋根とかは赤茶色。何個かの窓は出窓だ。お洒落。車の駐車場が二台分あるけど、今は空っぽ。お父

さんお母さんは出かけてるのかもしれない。

 ちょっと緊張して来て、ギクシャク玄関に近付いて、チャイムのボタンに手を伸ばそうとしたら…、

「わ!?」

 丁度ドアがガチャンって開いて、ぼくはビックリして声を出しちゃった。

 すぐ目の前に立って顔を合わせた白い猫は、ビックリしてる様子でぼくを見てた。たぶん、中学生くらい?ぼくよりちょっ

とだけ背が高い。

 一目で判った。顔がちょっと似てるし毛並みもそっくりだから、先輩の弟だって。

 弟君は不審そうな顔になってぼくの格好を見回したけど、

「ああ、兄貴?」

 って、制服の襟章を確認してフッて笑った。…何だろ?変な物を見るような顔…。

「居るよ。おれ出かけるから、用事あるなら勝手に入って会ってって。二階上がって突き当りの部屋に居るから」

 白猫君はそう言い残して、ぼくの脇を抜けて通りに出て行った。

 え?勝手に入っていいの…?

 開けっ放しの玄関を覗いて、「こんにちは~…」って声をかけてみたけど、返事はない。

 どうしよう?お手紙渡さなきゃだし、弟君に渡せばよかったのかも…。下駄箱の上にハガキとか乗ってるから、ここに置い

てこうか?

 …とか考えてたら、音楽が聞こえてる事に気付いた。…何だろ?遠いけど聞き覚えがあるような…。

 あ!これ、ゲームのBGMだ!ぼくもやってたから判る!

 …ゲームしてるのは、先輩?

 ちょっと迷った。弟君はああ言ってたけど、上がるのは何だか躊躇しちゃう…。

 でもお手紙届けなきゃだし、先輩が今どうしてるのか…、知りたいってもちょっと思うし…。

「…お邪魔します…」

 小声で挨拶して、靴を揃えて脱いで、そっと玄関から上がったぼくは階段の上に顔を向けた。BGMはあっちから…。さっ

き弟君も先輩は二階の部屋って言ってたっけ?

 そろそろと階段を上がって行ったら短い廊下に出た。右側は窓で、左に二つ、奥の行き止まりに一つ、合計三つのドアがあ

る。奥のドアはちょっとだけ開いてて、そこから音量大きめのBGMが流れ出てた。

 そっと近づいて、控えめにノックしたけど…、返事はない。

「…あの…」

 思い切ってドアの隙間に声をかけたけど…、返事はない。

 音量が大きくて聞こえてないのかも?どうしよう?う~ん…。

 しばらく迷った後、ぼくはドアノブを握った。

 そっと引き開けて覗いた部屋の中は、カーテンが閉め切られてて真っ暗だった。

 部屋の空気が澱んでる?開けたドアの中から変な熱をもった風が流れて来て、ムワッと顔を撫でた。色んな物が混じった匂

いの中で、すえたような、ちょっと酸っぱい匂いが鼻を突く…。

 部屋の中の様子は暗くてよく判らないけど、何だか色々な物が転がってるみたいで、床がデコボコしてる。

 その部屋の真ん中で大画面テレビの前に胡坐をかいて、背中を丸めて座ってるのは、真っ白でモサモサと毛が長い、長毛種

の猫獣人。部屋が暗くてテレビは逆光で、背中を向けてるから顔は見えない。

 シマシマのトランクスとランニングシャツ。太ってるから、後姿は何だか鏡餅みたい。 

 …白くて毛が長い猫種のひとだけど…、先輩のお兄さんか誰か、別の人の部屋に入っちゃった…?

 大画面では大きなモンスターを相手にして、剣を二本持った狩人が戦ってた。

 機敏に動くキャラクターはモンスターの攻撃をギリギリで避けながら、双剣で接近戦を仕掛けてる。相手の動きを把握して、

どんな攻撃が来るのか完璧に想定してるみたい。モンスターには着実にダメージを与えてるのに、相手の攻撃はちっとも当た

らない。

 ぼくもこのシリーズのゲームで遊んだことあるから判ったけど、凄く上手なプレイだ…。

 モンスターが大声を上げて転倒する。勝負に出たらしい双剣使いは、構えを取ってエフェクトに包まれると、スッスッて滑

るように素早く移動して、モンスターの顔めがけて目にも止まらないラッシュを仕掛けた。

 切り替わる画面。伸びあがって叫ぶモンスター。転倒する地響き。

 狩猟が完了してBGMが変わったところで、見とれてたぼくは…。

「閉めろよ」

 初めて話しかけられて、ハッとした。

 慌ててドアを閉めようとして、でも閉めたら真っ暗になるんじゃないかって思って、それでどうしようかちょっと悩んだぼ

くは…。

「何の用だよ茶端(ちゃばた)」

 ドアノブに手をかけたまま振り返った。鏡餅みたいな人影はリザルト画面をポンポン飛ばしてる。

 …今の声って、…え…?先輩…?

 声を出せないぼく。鏡餅みたいな人影は、画面が拠点まで戻ってから振り返った。

「さっさと閉めろって…」

 言葉を途切れさせたのは、真っ白い被毛の猫獣人。

 輪郭が違う。でも、目とか、声とか、そういうのは全部、記憶にある先輩と同じで…。

「誰だお前?」

 不審者を見るような目になった先輩に、ぼくは、すぐには返事ができなかった…。

 

「…学力テスト…」

 封筒を破いて中身を確認した先輩は、小さな声で呟いた。下らない物を見るような、どうでもいいって顔をしてる…。

 先輩が手紙を読んでる間、ぼくは正座して待ってた。

 明かりがつけられた部屋はものすごく散らかってた。漫画雑誌とかゲームのパッケージ、それにカップ麺の空とかお菓子の

袋とか、丸められたティッシュとかペットボトルなんかのゴミ類まで…。

 ベッドの上は掛け布団が捲れて丸まってて、そこにも雑誌類が積んであって、使ってないみたいに物が溢れてる。

 先輩が座ってる下にはペッタンコに潰れて染みだらけになったクッションや座布団。それが横長に並んでたから、そこで寝

てるのかもしれないって思った。

 伏せがちにしてる視線で、ちょっと先輩の姿を覗う…。

 先輩は、すっかり変わってた。一年前の面影は殆ど無くて、お肉がついてムチムチに肥って、まだそんな季節じゃないのに

暑いのか下着だけの格好…。

 カレーの汁みたいな茶色い染みが跳ねてるランニングシャツ越しに、垂れた胸とでっぷり出てるお腹のラインがはっきり判

る…。
綺麗でフサフサだった毛並みはあちこちでツンツン跳ねて、汚れて、ほつれて…。ほっぺが張って、顔の輪郭も変わっ

てる…。
去年見た、シュッと格好良かった先輩の姿を重ねてみるけど、もうあの時の学ランが入りそうになかった…。

 諸行無常って言うのかな?こういうの…。声と目だけは前と変わらないのに…。

 居心地が悪くて、話しかけ難くて、なんだかちょっとショックで、ぼくは黙ってた…。

 俯いて少し待ってたら、先輩は読み終わった手紙と封筒をクシャッと丸めてゴミ箱に放り投げた。もうゴミがいっぱいで、

丸めた手紙は跳ね返って床に落っこちた。

「…で、お前何なの?…名前なんだっけ?」

「あ、あの、オブチです…」

「その「オブチクン」は何でこんな物を家まで届けに来たんだ?担任がやる事だろフツー」

「え、えぇと…。先生は忙しくて…、テストまで時間もなくて…、それでぼく、学級委員になってて…、それで…」

「ははぁん…。押し付けられたってわけか」

 先輩はニヤリと笑った。

「お前、いいように使われただけだぜ?担任だって忙しいから、見込みのねぇ生徒にいちいち会いになんか来てられねぇ。で

も、来ねぇって判ってても教師って立場上連絡しねぇわけにもいかねぇ。それでお前って訳だ。結構しつこかったけど、あの

担任もやっと諦めたか。テストまで時間がねぇってのも、まぁ言い訳だろ。学校にも行ってねぇおれに、一日二日テスト通知

が届くの遅れたからって何も変わるもんか。切手と封筒が節約できんだから、生徒にお使いさせた方が経済的って訳だ。担任

もどうせ来ねぇって思ってるさ」

「あ!凄い!先生も「どうせ来てくれないか」みたいに言ってました!」

 大当たり、って思わず声に出しちゃったら、先輩にジロッと睨まれた。…よ、余計な事を言っちゃった…!

「…ふん…。お使いはこれで終わりだろ?帰れよ」

 機嫌を損ねちゃった…。先輩はのそっとテレビに向き直って、リモコンを掴んだ。

 落とされてたBGMが音量を戻して、先輩の手はコントローラーを握って、もう話しかけるなって、出てけって、そんな雰

囲気が丸い背中からしてて…。

「お邪魔しました…」

 ぼくは背中を丸めて立ち上がり、そっとドアを閉めた。

 喋ったのは一回だけだったから、それで当たり前なんだけど…。先輩はぼくのこと、覚えてなかった…。



 てくてくと歩いて寮に戻る。見慣れた寮の正面口が、何だか今日はよそよそしい。

 ドアを押し開いて潜ったぼくは、

「ようナナ。お帰り」

 先に帰って来てた同い年の寮生とばったり顔を合わせた。

「ただいま。あっ、ありがとう!」

 道を譲って、ドアを押さえて開けててくれる寮仲間に挨拶したぼくは、彼の顔を見てお礼を言う。背が低いから、こうして

傍から顔を見るときはだいたい少し見上げ気味になる。

「珍しいじゃねぇか、今日は直帰しねぇで寄り道してたのか?買い物か何かか?」

「ううん。先生に頼まれ物をして…」

「ああ、そういやぁ学級委員にされちまったんだっけ?」

「うん。気が付いたら」

 その寮仲間は焦げ茶色の和犬で、ちょっとお腹が出てるガッシリした体型…えぇと、堅肥りって言うのかな?幅と厚みと高

さのバランスがゴッツイプロレスラーみたいな感じ。身長はそんなに高くなくて、普通ぐらいだけど…。

 目立つのは頭。頭の天辺から後頭部に向かって、被毛が鮮やか過ぎる赤で染めてある。おまけに目つきも鋭いし顔も厳めし

いから、全体的にかなりおっかない見た目…。

 名前は狛沢孝徳(こまざわたかのり)君っていう。ぼくの元ルームメイト。元っていうのは、寮に入って同じ部屋になって、

ほんの何日かで部屋が別になったから。

 原因は…、ぼく…。

 ぼくがあんまり怖がっていちいちビクビクするから、コマザワ君は落ち着かなくて嫌になったみたいで、別々の部屋にして

くれって先生に申し立てしたんだ。…怖がり過ぎて悪いとも思うけど、だってコマザワ君、本当に怖かったんだもん…。あの

鋭い目でじっと睨んでくるし…。

 でも、一年経った今ではもう慣れて、すっかり平気になった。コマザワ君は別に睨みつけてるんじゃなくて元々そういう目

つきなだけ。不良は不良かもだけど、誰彼構わず襲いかかるような凶暴な不良じゃなかった。…ただし、喧嘩はする。すごく

する。毎日誰かと殴り合ってるんじゃないかってぐらい喧嘩の話を聞く。

 でも、コマザワ君は普通の生徒には手を出さない。昔の漫画に出てくるような、「筋が通った不良」が彼の理想像らしい。

だから、この学校に君臨する「正義の番長」に憧れて、そのシャテーになりたくて、勉強を頑張って入学したらしい。この私

立深葉学園に。

 うちは「シンヨー第一シンヨーガクエン」ってキャッチコピーにあるんだけど、希望大学への進学を約束する進学校として

有名なくらいで、知名度も学力も倍率も結構高い。

 コマザワ君は赤点ばっかりだった所から頑張って、番長の子分になるために気合と根性で這い上がりった。…っていうのは

コマザワ君の地元から時々遊びに来る友人達の弁。

 そんなコマザワ君が拳骨を振るう相手は自分と同じ不良かワルイヤツだけ。本人は言いふらさないしあんまり知られてない

けど人助けみたいな事もしてる。ぼくが知ってるだけでも、他の学校の不良に目をつけられてた生徒が難を逃れたり、カツア

ゲされた生徒の手元にお財布とゲーム機が戻って来たり、絡まれそうになった所を助けて貰った生徒が居たり…。

 コマザワ君と、その兄貴分の番長さんのおかげで、頭でっかちの学校って馬鹿にされてカモにされて色々されてたうちの学

校は、数年前とは治安の面で大違いになってるそうな。

 だから彼は、僕らの学校ではこっそりこう呼ばれてる。「番長犬」で「番犬」って。

 そして彼を怖がる他所の不良たちはこう呼んでる。「番長の犬」で「番犬」って。

「ところでよ、ナナはコナガイってヤツ知ってるか?タメのキジトラ猫」

「うん。去年同じクラスだったよ」

 すれ違いながら答えたら、コマザワ君は「マジか!?」って、凄い勢いで首をグリンって回して振り返った。

「仲いいのか?どんな奴だった?」

「そんなに仲が良かった訳じゃないし、あんまり話した事もないけど…」

「ちょっと待った。そろそろ時間だな…。う~…!」

 コマザワ君は興味深そうだったけど、「飯の時にでもちょっと頼む!な!?」って言い残して、そのまま玄関から出て行っ

た。…たぶん日課の学区内パトロールだ。

 ぼくはそのままトコトコ歩いて、すれ違った寮生と挨拶したりして、自分の部屋に戻る。

 この寮は基本的に、同じ学年のふたりが一部屋でペアにされる。でも、ぼくとコマザワ君だけは二人用の部屋に独り住まい。

ぼくらの学年は丁度偶数で半端が無かったから、コマザワ君と別室になったぼくは余ってた別の部屋に入ることになった。

 時々、持て余し気味の広さを部屋に感じて、それと一緒に孤独を感じたりもして、ちょっと後悔したりもする。コマザワ君

はそんな悪いひとでも無かったのに、ぼくはひとを見る目が無くて無駄に怯えて、部屋が別々になっちゃって…。

 コマザワ君と同じ部屋のままだったら、この寂しい気持ちも無かったんだろうな…。

 バッグを置いて制服を脱いで、ルームウェアのジャージに着替えて、晩御飯まで時間があるからテレビとゲーム機のスイッ

チを入れて…。

「………」

 画面にロゴが表示されるのを見て、ぼくはふと思い出した。

 そういえば、先輩が遊んでたあのシリーズ…、あんなに夢中になってやってたのに、受験勉強でゲーム断ちしてからは手を

付けてなかった。浦島太郎だけど、新しいバージョンのヤツやってみようか…。

 仕送りの残りと今月の出費を簡単に計算して、興味があった月末発売予定の新作RPGとどっちにしようか少し迷った後…、

結局ぼくはお財布を手にしてゲーム屋さんに向かった。

 

「なるほど」

 メンチカツをモグモグゴクンして、コマザワ君は大きく頷いた。

「つまりコナガイは「孤高の男」って訳か」

「え?う、う~ん、そうも言うのかな…」

 あんまり詳しくないぼくの説明を聞いたコマザワ君は、「やっぱりな」と納得顔。

 食事時。寮の食堂はワイワイガヤガヤ賑やか。コマザワ君とぼくは部屋の端っこ、長いテーブルの隅で向き合って座って、

食事しながら話をしてる。

「俺の目に狂いはなかったぜ。そこらのモヤシとは一味違うって訳だな…!」

「あの…、コナガイ君と何かあったの?「事件」とか?」

「ん?ちげーよ?変わった事は何もねぇぜ」

 逆に興味をひかれて訊いてみたぼくに、コマザワ君は即答。

「っつぅか、同じクラスになったばっかだぜ?何でそう思った?」

「え?うん、「だから」かな?」

「「だから」?」

「会ってそんなに時間も経ってないのに、なんでそんな風に気にするのかなぁって。コマザワ君って番長さんとかバンダイさ

んとかの事を別にすると、「事件」で関わる相手の事ぐらいでしょ?気にするっていうか、興味持つっていうか、そういう相

手は…」

「ん?んん~…」

 コマザワ君は何だか難しい顔になって、しばらく考えて…。

「判んねぇよ俺も…」

 と、ぶっきらぼうな口調で言う。本当に考えても判んない時の態度だ…。

「とりあえず厄介事絡みで関わってる訳じゃねぇんだ。コナガイに会っても余計な事とか言うなよ?」

「言わないよ。話しかけたりする仲じゃないし、何かの「事件」って訳でもないなら心配する事もないし…」

 …あ。事件って言えば…。

「そうだ。コマザワ君は、一つ上の「大白素晴」先輩って知ってる?」

「あん?ん~?えーと誰だっけ?名前に何か聞き覚えが…」

 コマザワ君はちょっと心当たりがありそうだったから、不登校で留年して同じ学年になった先輩だって事と、登校してた頃

の容姿とかを続けて伝えてみた。すると…。

「ああ、そりゃアレだ、バンダイさんが持ってきたナシに噛んでた先輩だな。確か…、去年の一学期の終わりごろか?あん時

は兄貴もチャリンコ窃盗団の件であちこち足運んでて大忙しだったからな、俺が兄貴の代打ちでバンダイさんの手伝い頼まれ

たんだぜ!」

 コマザワ君はちょっと誇らしげにムフーッと鼻息を漏らす。生徒会のバンダイさんは可愛いレッサーパンダの先輩。番長さ

んとルームメイトで付き合いが深くて、よく相談相手になって貰ってるらしい。コマザワ君は番長さんの弟分だから、番長さ

んが忙しい時はその代理で、バンダイさんのお願いを聞いてあげる事が結構あるらしい。

「その時の事には詳しい?」

 ちょっと身を乗り出したぼくに、コマザワ君は「そんなに詳しくもねぇなぁ…」と少し顔を顰めた。

「一応駆り出されたけど、出てってすぐに終わっちまったんだ。その後の調べとか事後処理とかはバンダイさんら生徒会と先

公共がやったし…」

 そんな風に前置きしてから、コマザワ君は話してくれた。

 先輩が酷い虐めにあってた事。犯人が判らないままそれがエスカレートしていった事。いよいよ怪我をするような悪質な悪

戯が仕掛けられるようになってきて、見過ごせなくなった生徒会執行部が総動員体制で動いたけど、犯行に及んだ生徒はひと

りも特定できなかった事…。

「とにかく人手が足りなかったんだろうよ。俺も詳しい説明なしで兄貴から手伝えって言われてな、バンダイさんと一緒に張

り込んだり歩き回ったりだ。その…オオシロだっけか?先輩。その先輩の友達なんかも怒ってて、生徒会に協力してくれてた

んだと。それでも犯人判んねぇまま…」

 先輩は、不登校になった…。

「兄貴から用事預けられるようになったばっかで、張り切ってたんだけどよ、結局あの時の俺ぁ役に立てなかった。後味悪ぃ

事件だったぜ…」

 顔を顰めるコマザワ君に、ぼくは気になってた事を訊いてみる。

「原因って何だったの?嫌がらせされるような原因って…」

「さあ?」

 逞しい肩を竦めるコマザワ君。

「言ったろ?詳しい説明なかったって。一応落ち着いた頃にバンダイさんに訊いちゃあみたんだが、あの可愛い笑い方ではぐ

らかされた。あのひとが言わねぇって事は、俺に教えるべきじゃねぇ事だったんだろうよ。例えばプライバシーに絡むアレと

かそういうデリカシーのヤツにはスジ通すひとだからな」

 協力したのに事情を全然教えられてない。そんなコマザワ君はバンダイさんへの文句ひとつもボヤかない。

「本当に信頼してるんだね、バンダイさんの事」

「あったぼうよ!何せ兄貴の相棒だからな!」

 またちょっと誇らしげな顔になるコマザワ君。

 ぼくは思わず笑ってしまう。バンダイさんは生徒会執行部。番長さんは一応不良。立場が全然違うけど、言われてみたら確

かに「相棒」って感じがして。

 

 食事が終わって部屋に戻って、付けっぱなしだったテレビを見る。

 拠点に居るキャラクターは、今日ゲームディスクを買って来た直後に作ったばかり。

 背恰好はぼくに似せた。名前は本名をもじった渾名をそのままつけて「ナナ」。昔から主人公の名前はコレにしてる。

 久しぶりに触るから新しい操作や機能に戸惑った。便利な機能も増えてるけどイマイチ使いこなせない。

 テレビ画面の前に座って、昔みたいにがっちりゲームに集中してたら、ちょっと懐かしい気分になった。

 スタートしたばかりだからソロでひたすら装備堅めに勤しんで、気が付いたら数時間経ってて…。

 …先輩も、ずっとソロでやってたのかな…。




 次の日ぼくは先生に、ちゃんとお手紙を渡して来た事を報告した。先輩は読んだ後捨てちゃったけど、って…。そうしたら

先生は凄くビックリした顔になって、「会えたのか!?本人に!?」ってぼくの肩を掴んでガックガック揺さぶった。

 先生の話だと、先生も去年の担任の先生も、何回会いに行ってたんだけど、先輩が部屋のドアを開けてくれた事はなかった

んだって。

「オブチ、お前オオシロに気に入られたのかもしれないなぁ…」

 先生はしみじみした口調でそう言って、「これはいいぞ」と口の端っこをちょっと上げた。

 そしてぼくは先生から「密命」を受けた。

 先輩は学校に来る気が無くて、先生は説得するどころか会っても貰えない。そこで、ぼくが先輩と仲良くなって、学校に来

るように説得できたら…。そんな密命。

「アイツは出来た生徒だった。その気で打ち込めばスポーツでも勉学でもトップ集団走れる、しかも尻を叩かれなくても自分

でキッチリやれるしっかり者でな。あのままで居るのは勿体無い…」

 本当は、自信がなかった。

 先輩はぼくだから部屋に入れて会ってくれたって訳じゃなく、たまたまドアが開いてて、先輩もぼくを誰かと勘違いしてて

入るのを許して、それで話ができたってだけで…。

 でも、先生は喜んで名案だ名案だって言ってて、ぼくは無理ですとか言えなくて…。

 それに、変わってしまった先輩の事が、気になって、心配で…。

 

 そして、放課後…。

「…で?お前担任のお使い役にされてるわけ?」

 膨れっ面の白猫に睨まれて、正座したまま小さくなるぼく…。

「部活とかも、やってませんから…。暇で丁度いいって思われたのかも…」

「ふぅん…」

 先輩が着てるランニングシャツは、昨日と同じ位置にカレーか何かの染みがついたままだった。

 この部屋のすえたような臭いは、中がゴミだらけで、掃除とかしてなくて、カーテンも閉め切って、先輩も肌着をあんまり

変えてないからなんだろうなぁって、何となく思った。

 今日も弟君が家に上げてくれた。先輩が部屋に入れてくれるかどうか心配だったんだけど、たまたまトイレしに部屋から出

て来てて、直接顔を合わせたら「何だよまたか?」って、面倒くさそうに言って…。渋々っていう感じだったけど、結局部屋

には入れて貰えた。

 先輩は先生からの手紙を斜め読みして、くしゃっと丸めてゴミ箱に捨てた。ちなみに今日のお手紙はテスト範囲について。

って言っても、テスト範囲は一年生で習った事全般だから、お手紙の意味があまりない。…先生もぼくを訪問させる口実を思

いつかなかったみたいだけど、何か用事を作らなきゃっていう必死さが感じられる…。

「…用事は終わったろ。帰れ」

 先輩はのそっとテレビに向き直ってコントローラーを握った。

 鏡餅風の後姿は、関わり合いを拒絶するような雰囲気があって…。声は掛けにくくて…。学校行きましょうなんて言えるわ

けもなくて…。

「あ、あのっ!」

 でも話題にできる事があった。こうなる事を考えてた訳じゃないけど、昨日ぼくは…。

「昨日も見ましたけど、先輩、上手いですよね!」

「は?」

 首だけ振り返った先輩は、ぼくが指さしてるテレビに顔を戻して、それからもう一回ぼくの方を見て…。

「何?お前もやってんの?」

「はい!」

 勢いよく頷いたら、先輩は「ふぅん」って言って、体ごと向き直ってぼくの足から頭まで改めて眺めた。気のせいでなかっ

たらだけど、今までと違ってちょっと興味が出たような様子…。

「お前、どんくらいやってんの?」

「は、はい!へっぽこですけど、中学時代は受験勉強の追い込みに入るまでずっと…!だいたい二年半ぐらいやってました!」

 先輩はもう一回「ふぅん」って言って、「今はやってねぇの?」って訊いてきた。

「実は、昨日ここで見て、久しぶりにやってみようかなって思って、それからソフト買いに行って、復帰したてなんです…!」

 正直に言ったら、先輩はちょっと目を大きくしてぼくを見つめた。

「…昨日、ここで見て?」

「はい」

「で、買いに行ったのか?」

「はい…」

「レビューとか見ねぇで?どう変更されてんのか判らねぇまんま?」

「え?あ、そそ、そういえば確認しないですぐ…」

 先輩はちょっと黙って…、

「お前、あんまり考えねぇで動くタイプ?」

 半分瞼を下ろして、口をへの字にして、呆れてるようなムクれてるような顔になって、シャツの下から手を突っ込んで、お

腹をボリボリ掻いた。

 その仕草と表情が何だか物凄くオジサンっぽく見えて、ぼくは思わず「プッ!」って吹き出して、手で口を押えて…。

「何笑ってんだよ?」

 先輩は自分の仕草でぼくが笑った事に気付いてないみたいで、眉を八の字にして「変なヤツ」って言った。

「…ま、いいや、どうでも…」

 先輩はまたのそっとテレビの方に体を向けて座り直した。けど、上半身だけちょっと横にずれてた。そのおかげでぼくにも

画面がよく見えた。

「これ、俺の」

 二本の剣を背中で交差させて背負う軽装の甲冑姿。…この装備、どれも高難度でないと素材が出ない、しかもレア物たくさ

ん材料にするヤツだ…!

 先輩のキャラは「昴」って名前だった。…スバル…。本名の読みのままで字だけ変えたのかな?容姿は何となく先輩に似て

る。…去年の。

「あ、あの!ちょっと装備見せて貰っていいですか!?」

「別にいいけど…」

 そう言って先輩はステータス画面を開いてくれた。

「うわぁ…!」

 ヨダレが出そうな強力スキル構成。新スキルもある!こんな組み合わせがあるんだ…!

 ただただ感心するぼくは、ついついゲームから離れてた間にあった仕様変更についてアレコレ訊いちゃって、先輩は面倒く

さそうな顔してたけど何だかんだで色々答えてくれて…。

 

 ご飯食べて部屋に戻って、すぐにゲームを立ち上げる。

「鍵かけて気ままにやってっから」

 先輩はそう言って、キャラクターIDと部屋のパスワードを教えてくれた。ぶっきらぼうな口調だったけど、教えてくれた

んだから遊びに行ってもいいって事だよね?

 このゲームは複数人で同時プレイが出来る。自分でルームを作って遊ぶこともできるし、誰かが作ったルームにお邪魔する

こともできる。誰も入れないようにして独りで遊んでもいいし、ルームに鍵をかけないで…つまりパスワードを設定しないで

見知らぬ誰かを迎えて遊んでもいい。先輩は鍵かけてひとりで遊んでるみたいだけど…。

 IDで検索したら、先輩はオンラインで、やっぱり鍵つきの部屋に居た。

 先輩がかけてる鍵はあってないような物で、パスワードは単純な同じ数字が四つ並ぶ物。教えて貰ったそれを入力して入室

したら、先輩は丁度拠点に戻ってきてて、NPCに話しかけてた。

 え、えっと…、緊張するな…。とりあえず挨拶を、挨拶を…、挨拶を…って何言えばいいかな?自己紹介かなやっぱり…。

―こんばんはオブチです―

 …っと、念のために先輩ですか、って訊いたほうがいいかな?とか思ってたら…。

―女性キャラ?―

 先輩のキャラが発言。…え?何で?あ、ああ!名前の事!?

―ぼく「七星」っていう名前だから渾名が「ナナ」なんです―

 って言ったら、先輩はガッ!って何故かガッツポーズした。…納得した、って事なのかな…?

―おれも名前のもじり―

―やっぱり!―

―何か適当に受けて。付き合ってやるから―

―えぇと…、じゃあお言葉に甘えて…―

 ドキドキしながらクエストを受注して、参加募集して…。

 

 クエストが終わるなり、ぼくはため息をついた。

 緊張して動きがイマイチだったかも…。先輩は様子見しながらの参加だった。装備がもうぼくが居るランクとかけ離れてて、

本気でやったらぼくの出番がなくなっちゃうから。それでも要所要所ではサポートしてくれて、適度にダメージを入れて相手

をひきつけてくれてた。

―ありがとうございました―

 ってお礼を言って、上手いですねって褒めようとしたら、先輩が先に発言した。

―お前、回避ランサーか?―

 先輩が言っているのは、ぼくのプレイスタイルの事。ランス…突撃槍と盾のセットを装備して、ガードで受け止めるんじゃ

なく回避中心に立ち回ってモンスターにひっついて戦うスタイル。

―はい。ちょっと勘が鈍っちゃってますけど…―

―何処まで進んでる?―

―昨日復帰したばっかりで、まだぜんぜん…―

―回避装備作んの?―

―はい。そのつもりです―

―素材、何欲しい?―

―え?手伝ってくれるんですか?でも邪魔しちゃうんじゃ…―

―どうせ暇だ。引きこもり舐めんなよ?―

 自虐ネタを振りながら、先輩のキャラはくるっと背中を向けて親指で自分を指す、アピールポーズ。…いやこれ笑っちゃダ

メなジョークだよね?

 その後、先輩はあり合わせの装備に着替えて、ぼくが居る難易度に合わせてくれた。緊張感も大事だろ?って言って。

 それから数時間、復帰したてのぼくは、プレイを始めたばかりの頃に戻ったように夢中になって、先輩と一緒に密林を、砂

漠を、湿原を駆け回って…。




「ふあ…」

 次の日の放課後。ぼくはあくびしながら校門を出た。

 夜更かしし過ぎて眠い…。でも、昨日は楽しかったなぁ…。

 昨日も先輩に会えた事を先生に報告したら、また喜んでた。付き合いができれば登校する気になるかもしれない、仲良くし

てやれよ?って。

 帰り道の途中でコンビニに寄って、にが~いコーヒーを一気飲みして眠気覚まし。買ったお菓子を持って向かうのは寮じゃ

なく、オオシロ先輩の家。

 また弟君が出かけるところで、笑いながらぼくを迎えてくれた。そして、臭いにもちょっと馴れてきた先輩の部屋にお邪魔

して…。

「またかよお前?今日は何だ?」

 先輩はあの呆れてるような顔をぼくに向けた。

「昨日いっぱい手伝って貰ったお礼に…」

 差し出したコンビニの袋の中には、ゴミ箱とかにたくさん空箱が入ってるチョコクッキー。たぶん嫌いじゃないだろうと思っ

て選んだソレを、先輩は覗き込んで確認して、「ふん」って小さく鼻を鳴らした。

「そんなに深く付き合ってもねぇのに、どうしてそんな風におれのこと気にすんだよ?わざわざまた来るなんて…」

 先輩がブスッとしながら言った言葉が、コマザワ君と話をしてた時の事をぼくに思い出させた。

 気にする…理由…?

 ちょっと判んない。そういえば何でだろう?先生に頼まれたお手紙も理由だけど、学級委員やってるのも理由?あと、同じ

ゲームできるのも理由だし、前に親切にして貰ったし…。

「えっと…、どうしてもラグとかありますし、先輩のプレイを生で見たいなぁって思ったのもあって…」

 とりあえずこれも理由だよね。…って、画面を見たら…、あれ?あれれ?先輩のキャラ、装備が変わってる?これ、ぼくが

居る難易度に合わせた双剣装備なんじゃ…?

「別にいいけど」

 先輩はそう言って、本気装備に戻して、チョコクッキーを齧りながらクエストを受けて…、任務を完了させた。…早過ぎる

…。

「で、参考になんのかよ?」

「む、難しいです…!」

「だろうな」

 それから先輩はぼくに、ここまでで苦手だって感じたモンスターの攻略のコツとか、行動パターンの目安とか、役立つ事を

色々教えてくれた。

 口調は面倒くさそうでつっけんどんだったけど、教えてくれる内容はとっても丁寧だった。

 

 そうして、毎晩先輩と狩りに出るのがぼくの日課になった。

 勘が戻ってきたらサクサク進めるようになって、先輩は時々「やるじゃん」って褒めてくれた。

 先輩のおかげで装備も整って、どんどん新しいクエストに挑戦できるようになった。

 ぼくは週に二回ぐらい先輩の家にお邪魔するようになった。プレイ中はチャットで会話するのが難しいから、こういう時は

こうしよう、とか前もって打ち合わせてた方がスムーズに行く。出発前に打ち合わせしてもいいけど、音声会話ほど手早くは

行かないし、顔を見ながら話したほうが手っ取り早いから。

 でも結局、難易度が上がるとシビアになって、ぼくは音声チャット用にマイクを買ってセットした。先輩はぼくに合わせて、

埃を被ってたヘッドセットを引っ張り出してきてくれた。

 部活もしてなくて、友達の殆どは寮仲間だったぼくにとって、先輩のところに行くのは新鮮で…。何より、時々感じてた孤

独感を、寂しさを、先輩と遊んでいたらあんまり感じなくなってきた。

 先輩はぼくと違ってずっと部屋に独り。学校で友達と話す事も無いし寮仲間と一緒にごはんを食べたりもしない。ぼくより

もずっと孤独感があったはずなのに、平気で一年も不登校を貫いてたんだよね。…精神のタフさとかが違うのかもしれない…。

 ぼくは先輩とやりとりする毎日が楽しくて、あっという間に最初の訪問から一ヶ月近く経って…。




「バカじゃねぇの?」

 学校の帰りにお邪魔したぼくに、先輩は心底呆れた顔でそう言った。テストの結果について…。

 年度初めの学力テストの結果が出たんだけど、正直イマイチだった。…それはまぁ、夜はゲームばっかりしてたし…。

「中間テストまでに取り戻せ。今日からゲームは一時間」

 先輩はしかめっ面で言いながら、シャツの下から手を入れてお腹をモソモソ掻く。そしてベロンとお臍を出したままため息

をついた。

「…ま、おれにも責任あるか…。勉強大丈夫かって訊いとけば良かったな。お前、今回何処が酷かった?」

「ぜ、全体的に…」

「バカじゃねぇの!?」

 先輩が大きな声で繰り返して、恥かしいぼくは小さくなる…。

「仕方ねぇなぁ…。とりあえず明日までにまずそうなトコをリストアップして持って来い」

「え?リスト?」

「勉強教えてやるよ」

 先輩はそう言って、ぼくの顔をじっと見て、「…なんだその顔?」って、ブスッとする。

「お前、不登校のおれに勉強教えられるわけねぇとか思ってんだろ?」

「え!?いいいいえそんな事は!」

「ウソつけ、顔に書いてあんだよ」

 先輩は不満そうな顔のまま続けた。

「ダブり舐めんなよ?こちとらお前らがやってる事は一年前に済ませてんだ」




 それからしばらく、ぼくは帰りに先輩の家で勉強を教えて貰って、ゲームは一日一時間に制限された。先輩から合格が言い

渡されるまで我慢…。

 ゲーム中に時間計ってる先輩が警告するから、本当に一日一時間きっかり…。クエストが長引いたりしてオーバーすると、

翌日の持ち時間から引かれるっていう徹底ぶり…。

 そんなゲームと勉強両方で先輩に指導されてたぼくは、ある日の帰り、先輩の家を出たところで別の先輩と会った。

「よ」

 何となく顔に見覚えがある茶色い猫の先輩は、三年生の襟章をつけてた。

 スマートで少し背が高い、格好いい先輩だった。昔のオオシロ先輩みたいなスタイル…。

「オオシロどんな様子?」

「え?」

 急に話し掛けられて訊かれて戸惑って、言葉に詰まっちゃったぼくに、茶色猫先輩は親指で自分の顔を指しながら言った。

「オレ茶端(ちゃばた)、オオシロのダチ。君、結構アイツに会いに来てんだって?」

 笑顔がステキな、何となく話しかけ易い感じがする先輩だった。

 

 先輩の家からすぐ近く、住宅街にある公園で、ぼくはチャバタ先輩にあれこれ訊かれた。

 オオシロは元気にしてるか?どんな様子だ?って。

 チャバタ先輩はオオシロ先輩の古馴染みで、テニス部で同学年ライバル。ダブルスのペアを組んでたそうだ。…去年まで…。

 チャバタ先輩は時々オオシロ先輩に会いに来てたけど、機嫌がいい時でないと会ってくれないらしい。そうして空振りも覚

悟して会いに行き続けてたチャバタ先輩は、ちょくちょくこの近くでぼくの姿を見るようになって、お宅訪問してる事に気付

いたんだって。

「アイツさ、気難しいだろ?」

 チャバタ先輩が言った言葉に、思わず「はい、ちょっと…」って返事をしちゃったら、だろ?って笑い出した。

 先輩はとっても話し易いひとだった。表情豊かで、ニヤリって笑うのがちょっと格好いい。

 一緒にゲームしてる事とか、勉強教えて貰ってる事とか話したら、チャバタ先輩はうんうん頷いてこう言った。

「仲良くしてやってくれよ。アイツ、あんな事になってから前々からの知り合いとも会おうとしないからさ」

 …「あんな事」…。

 ぼくは気が付いた。チャバタ先輩ならオオシロ先輩が不登校になった原因…、嫌がらせに遭った原因も知ってるんじゃ…?

「あ、あの…。先輩は知ってらっしゃるんです?オオシロ先輩が学校に行かなくなった原因の…、その…」

 チャバタ先輩は「え?」って、ぼくの顔をマジマジ見た。

「知らなかったの?」

「は、はい…。だって、先輩本人に訊けるような事でもないし…」

 先輩は考え込むような顔になって、少し黙って、それから「ナイショな?」とぼくに耳打ちした。 

「アイツ、去年の一学期の中間テストでカンニングしたんだよ」

「!?」

 ぼくは、予想外で、完全に…。一瞬、ビックリが大き過ぎて混乱して、ちょっと理解が遅れた。

「…カンニング…」

「そ」

 離した顔を顰めるチャバタ先輩。潜めた小声で話が続く。

「それが先生にバレて呼び出し食らって、そっから、嫌がらせって言うか虐めって言うか、始まったんだよな。下駄箱に悪戯

されたり、机の中にゴミ入れられたり…。アイツはそれからもしばらく意地になって学校来てたけど、結局観念したのか…カ

ンニングだけにカンネン!…なんてね!ははは、は、は…」

 声が遠い。

 ぼくはぼーっとしたまま、何だか足がふわふわして落ち着かないまま、いつの間にかチャバタ先輩と別れて寮に帰ってて…。



「どうしたの?ナナ君」

 夕食後、部屋をノックしたぼくを中に入れてくれて、可愛いレッサーパンダの先輩が微笑んだ。

 三年生の磐梯鳴(ばんだいなる)先輩。生徒会役員。番長さんと相部屋で仲もよくて、皆が一目置いて頼りにしてる。その

せいか、「バンダイ先輩」じゃなく「バンダイさん」って、尊敬と親しみ混じりに呼ばれる事が多い。ぼくもそう呼んでる。

 番長さんはお風呂に行ってるのか、部屋に居なかった。

 ローテーブルとクッションを勧めてくれた先輩は、オシャレなカップにココアを淹れてくれた。相談に来る生徒が多いって

聞いてたけど、これ来客用なのかな…?

「あの、バンダイさんは知ってるかなと、思って…」

「うん。なに?」

 向き合ってチョコンと座ったバンダイさんは、小首を傾げて先を促した。ぼくが緊張してるのが判ってるんだろう、微笑ん

で雰囲気を和らげてくれてる。

「あの…。オオシロスバル先輩、知ってます…?」

「うん」

 バンダイさんはすぐ頷いた。不登校になってる生徒の名前が出ても、顔色一つ変えなかった。

「あの…。その…。せ、先輩が学校に来なくなった理由って…、か…、か…!」

 言葉に詰まったぼくを、バンダイさんは急かさないで、じっと、黙って、優しく微笑んで見つめてる。

「か、カンニングがバレて、それで苛められたから…、なんですか…?」

 声を絞り出したぼくは、違うって、言って欲しかった。

 コマザワ君が言ってた「事件」の内容を、バンダイさんは知ってるはずだった。

 だから、知ってるひとから、今日会ったばっかりじゃないひとから、違うって、言って欲しかった。でも…。

「そうだね」

 バンダイさんは、小さく頷いてた…。

「そんな…」

 肩を落としたぼくは…、

「けれど、事実全てじゃないよ?ソレは」

 バンダイさんが続けた言葉で顔を上げた。

「…え?」

「ナナ君はオオシロ君と会ったんだね?確か留年した彼が編成されたのはキミのクラス…。学級委員だし、先生から何か用事

を言い付かった?」

 バンダイさんはすらすらと先回りして、ぼくは頷いて、それから先輩との事を話して…。

 いっぱい、いっぱい、喋った。オオシロ先輩は無愛想だけど優しくて、学校行かないけど真面目で、ぼくがだらしない事に

なったら叱ってくれて…。

 先輩と話すようになって全然時間も経ってないけど、ほんの二ヶ月足らずだけど、先輩は何ていうかキッチリしてて、カン

ニングとかズルをするひととは思えなくて、だから…、だから…!

「カンニングしてたって皆に思われてる先輩が、何か…、何か…!」

「なるほどね…」

 鼻声になったぼくに、バンダイさんが合の手を入れた。

「口ぶりからすると、ナナ君は彼がカンニングしてないって確信してるんだね?」

「…え?」

 ぼくはきょとんとした。バンダイさんは小さく頷いて微笑む。

「彼がカンニングをしてたと思ってショックだったんじゃないんだね?「カンニングしたと思われてる」事にショックを受け

てたんだ?」

「え、えぇと…」

 言われてみれば、そう…。

「さっきね、「事実全てじゃない」ってボクは言ったけど…」

 バンダイさんはカップを取って、軽く揺すって波紋を立てる。

「彼が酷い嫌がらせに遭って不登校になったのは確かだよ。でもね、カンニングについては限りなくシロに近いグレーなんだ」

「…え?ぐれ?」

「「カンニングが発覚して彼が罰せられた」っていう事実は無いから、そういう意味では前科ゼロ。そもそも先生方も彼が不

正をしたなんて思ってなかったんだよ」

「?????」

 目をパチパチさせるぼくに、バンダイさんは説明してくれた。

 一年前の中間テストで、先輩が居た机の足元に、パソコンで印字されたカンニングペーパーが落ちてた。

 先輩は否定した。成績でもトップランカーだった先輩は、だいたいそんな物に頼る必要もないって。カンニングペーパー自

体も、何て言うか結構的外れな感じで穴だらけ。そもそもペーパーに答えが書いてあった問題を、先輩は間違えてたらしい。

 先生も先輩を呼んで確認したけど、先輩がカンニングなんかするだろうか?って最初から疑ってたし、先輩の弁明やテスト

の結果で、やっぱり違うなぁって納得したそうな。

 …でも、カンニング疑惑そのものが先輩を追い詰めた。それを口実に嫌がらせが始まったんだ…。

「本当かどうかなんてどうでも良かったんだと思うよ。オオシロ君は顔も良いし頭も良いし運動神経もいい。…おまけに背が

高い…」

 一瞬目を横に逃がしたバンダイさんの声がとてもとても低くなったような気がした。

「そんな出来のいい生徒を突っつく口実ができたから、むしろ「本当だった事にしちゃえ」ぐらいの勢いで犯人が嫌がらせに

勤しんでたんじゃないかっていうのが、調査後に出た生徒会の見解。ただ、結局犯人は判らずじまい。オオシロ君本人も学校

側と接触を拒むようになっちゃって、今に至る…っていうわけ」

 バンダイさんはそこで言葉を切って、「先生方も頑張ったんだよ」って付け加えた。

「ボクが言ったら弁解になるけど生徒会執行部もね。でも結局オオシロ君は学校に来なくなって、嫌がらせは止まって犯人は

闇の中…」

「そ、そんな…!」

「そう。犯人に腹が立つよね」

「それじゃあ先輩は、不登校になる必要なんか無かったんじゃないですか!?」

 流石に腹が立つよ!先輩は何も悪い事してないんじゃないか!

「………」

「…あれ?どうしました?あ、声が大き過ぎでした!すみません…!」

 黙り込んだバンダイさんは少し目を大きくして、ぼくをまじまじと見つめて…。

「…なるほど。ナナ君はこういう生き物か…」

「え?」

 何か呟いたけど、ボソボソ小さくて聞き取れなかった。

「…うん。そうだね…。キミがオオシロ君に会いに行くのは良い事だよきっと」

 バンダイさんはかわいくウインクした。ぼくは頭を掻きながら…。

「そ、そうですか?ウザがられなきゃいいんですけど…」

 まぁ、先輩の態度だけみると、ぼくをウザがってるっぽくも感じられるんだけど…。




 これは、その対話から五分後に、ある部屋で、ある二頭が交わした会話である。

 

「ねぇタイキ。質問があるんだけど…」

「いきなり何っ!?」

 風呂上りに首にかけてきたタオルを舞い上がらせ、硬い表情で素早く身構えた黒褐色の大猪に、小柄なレッサーパンダはパ

タパタと手を振った。

「ああ、これはただの確認だからね?」

「…驚かせないでよぉ…」

「驚きすぎだよ。それでタイキ」

「うん?」

 冷蔵庫に歩み寄り、コーラのボトルを取り出した大猪は、

「ボクと出会うまで、キミは毎日どんな気分で暮らしてたのかな?」

「………」

 レッサーパンダの問いに耳を反応させ、ピタリと動きを止めた。

「…最低な気分だったよ…」

「なるほど」

 呻くような低い声に、レッサーパンダが相槌を打つ。

 かなり長い沈黙があった。

 どちらも動かず、声を出さず、ただ、ただ、重苦しい沈黙が家電のノイズを強調する。

 やがて沈黙を破り、レッサーパンダは続けた。

「それじゃあ、ここからは「いつもの質問」に入りたいけれど、いい?」

「ナルがオレにいいかどうか訊くのも珍しいね。いつもは選択権なんかくれないのに…」

 大猪は猪首を縮めてから聞き返す。

「…ナル。それは前の質問と無関係じゃないんだね…?」

 背を向けたままの大猪へ、レッサーパンダは見えないだろうにも関わらず頷いた。

「一年前に取り零した物を、拾える機会が来たかもしれないんだ」

「…一年前の取り零し…………。あの「事件」か…」

 低く唸ってかぶりを振り、意を決して向き直った猪は、自分に向けられているレッサーパンダの双眸を見返した。理知的で

冷たくて深くて暗い、自分以外には見せない色に変わったその双眸を…。

「例えば、濡れ衣を着せられて一方的に嫌がらせを受け、不登校になった生徒が居たとする…」

 そうして、ずんぐり短いレッサーパンダの人差し指が立てられた。




 それからしばらくして、無事に中間テストも終わって…。

「やりました中間テスト!」

「「やらかした」んじゃねぇだろうな?」

 疑わしげな先輩は、採点された答案をバッと広げて見せたら、目を丸くして少し黙って…、

「はは…」

 気が抜けたような笑いを漏らした。

「本当に「やった」んだなお前…」

「どうですか!?」

「大したもんだ!あはははは!」

 先輩は腕を伸ばしてぼくの肩を掴むと、いきなり引っ張った。

「うわっぷ!」

 引っ張り込まれて転んで、流れるようにヘッドロックされたぼくは、首を捕まえられたまま頭をパシパシ叩かれた。

 目の前にハラハラと、平均80点越えの答案用紙が落ちてくる。

「あはははは!平均60超えれば許してやろうって思ってたのに!やれば出来る子じゃねぇかお前!」

 先輩の笑い声が、タプタプした脇腹のお肉越しに直接頭に伝わってくる。ちょっと酸っぱい汗の臭いが鼻をくすぐる。ずい

ぶん暖かくなってきたからか、先輩は少し汗ばんでるみたいで肌着が湿ってて…。

 でも、気持ち悪くは思わなかった。先輩は凄く喜んでくれた。こんな風に声を上げて笑うのなんて初めて見た。

「あ、有り難うございました!」

 恥かしくてドキドキして、お礼を言うぼくは、先輩の太い腰に背中側からギュって腕を回した。ふくよかで柔らかい。昔は

くびれてたから、いま出っ張ってるのは全部贅肉なのかも…。

「せ、先輩のおかげです…!ホントに、何てお礼を言ったら…!」

「ん?おれのおかげ?ああ、まぁそうか?いや、手伝った甲斐があったなおれも!あはははははは!」

 先輩は相変わらずぼくの頭をパシパシ叩いてた。強くない、痛くない、くすぐったくてムズムズする、優しい叩き方で…。

先輩の体は毛が豊かだから、下のお肉と合わさってフカフカでモチモチで気持ちよくて…。

「よし!じゃあそこに直れ!」

 先輩はぼくを解放して、向き合う格好で座らせると、コホンと咳払いした。

「テストの結果も出た。及第点だから、今日からゲームは…」

「!!!」

 …あれ?先輩のぷっくりした指は、右手で一、左手で五…?

「え!?六時間!?」

「バカかお前?これは1.5…、つまり一時間半だ」

「ああ、ビックリしたぁ!なぁんだ一時間は………。え?一時間半!?一時間半だけですか!?」

「そうだ。こういうのは油断するとガッタガタ落ちてくからな。だいたいお前は狩りでも気を抜いた途端に1乙、慌てて2乙、

焦って3乙でハットトリックって流れだろ?」

 うっ!?ひ、否定できない…!

「だから一日一時間半。予習復習を欠かすな。あと、勉強飽きたら寮の仲間と遊んどけ。…ただし!」

 先輩はちょっと顎を上げ、ぼくを見下ろし気味になって…、

「休前日だけは無制限だ。寝落ちするまで付き合ってやる。それで我慢しろ」

 そう言ってパチンってウインクした。

「…わは…!」

 ぼくは、先輩が提案してくれたのが嬉しくて…。

「やったー!」

「ほぶぉっ!?」

 思わず先輩に飛びついてた。

「こら!危ねぇだろ!」

 モチモチしたお腹に抱きついて、喜びで尻尾をブンブン振るぼくの頭を、先輩がポカンと軽く拳骨した。

「ったく!子供かお前は…!」

 ぼくは後ろ襟を掴まれて引き剥がされて…。…あれ?

 ちょっと乱れた先輩のランニングシャツの襟元。そこからちょっと覗けたおっぱいの間…、男の人なのにある谷間にちょっ

と赤らんだ部分が見えた。

 先輩、真っ白じゃなかったんだ?もしかしてぼくみたいにブチ模様とかがあるのかな?

「…まぁとにかくだ。今回良かったからって気は抜くなよ?今言った条件も、テストが近付いたらナシ。ゲームは控え目にし

て全力で勉強に打ち込め」

「はぁい…」

「返事はしっかり返せ」

「はい…!」

「まぁよし…」

 腕組みして頷いた先輩は、不意に、少し寂しそうな顔になった。

「…ま、引きこもりが説教したところで、説得力ゼロだけどな…」

「………」

 ぼくは、目を伏せてる先輩の顔をじっと見る。

「先輩?あの…」

「ん?」

 ゴクッと唾を飲んで、ぼくは切り出した。

「一緒に学校行きま…」

「イヤだ」

「………」

「………」

「…え?え!?即答!?」

「ゼッテーに行かねぇよ」

 ふんって、先輩は鼻を上げる。…棒にも箸にもかからない即答って…。

「あの…。でもその、家族も、弟君だって、先輩の事心配してるじゃないですか?ぼくが来るといつもゆっくりしてってって

言ってくれるし、先輩はどんな様子だって訊いてくるし…」

「心配とか、アイツの場合はそんなんじゃねえよ」

 先輩は苦々しい顔になった。

 先輩が言うには、弟君はずっと先輩と比べられながら育ったんだって。「自慢じゃねぇけどおれは出来がそこそこ良かった

からな」って、先輩は不機嫌な顔になった。

「親がおれとアイツをいちいち比較してたんだ。おかげでアイツはおれを目の敵にするようになったよ。兄弟で競わせるとか

考えてたなら、親の目論見はハズレもいいトコだ。おれが引き篭もったおかげで、アイツは怠けててもおれより上に居られる

ようになったんだからな。で、親の方は親の方で、おれがダメになったから今度は弟の御機嫌取りで大変だ」

 ちょっと疲れたようなため息が、先輩の口から零れた。

「そんなわけで、アイツはおれの事いい気味だって思ってんだ。おれが誰とも会いたくねぇって知ってるから、嫌がらせでホ

イホイ家に上げるんだよ」

「誰にも会いたくない…」

 鸚鵡返しのぼくに、先輩は「ああ」って頷いた。

「………」

 それはぼくもですか?

 そんな質問は、怖くてできなかった…。

「………」

 先輩も急に黙った。

 もしかしたら、ぼくが考えた事が判ったのかも…。

「…ま、お前が来ると、暇潰しにはなるな…」

「………」

 ぼくは思わず顔を見たけど、先輩はそっぽを向いてて、目をあわせようとしなかった。




 週末の深夜。今日も先輩はキレのある動きでモンスターを狩る。

 前ほど迷惑をかけなくなってきてるとは思うけど、やっぱりぼくはまだまだ力不足で、ピンチになっては先輩に回復用具を

消費させてる。

 ぼくのチャット発言は「ごめんなさい」が多い。先輩のチャットはショートカットに登録された「ドンマイ」が多かったけ

ど、マイクを使うようになった今もやっぱり「ドンマイ」が多い…。

『その調子』

 先輩が言ってくれる。サクッとクリアできた、危なげなく済ませられた、息が合った、あるいは強敵を倒せた、そんなクエ

ストの後には。

 お茶を飲むのも忘れて集中して、気が付いたら喉がヒリつくぐらい乾いてて、咳き込みそうになってから思い出してボトル

に手を伸ばす。

『ちょい便所』

「了解です!」

『あと少し休憩。腹減ってきた。お前も何か食うなり飲むなりしたら?』

「お腹は平気です。お茶飲んでますから」

『さっすが。健康的…』

 先輩がトイレ休憩に行ったら、画面の中のキャラクターは動かなくなる。

 ゲームの中の先輩は、一年前の姿に似てる。見た目は別人みたいに変わっちゃったけど、確かに最初はビックリしたけど、

正直ショックだったけど…、今は、すっかり太っちょになって鏡餅みたいに座ってる先輩が、ぼくにとっての「先輩の姿」。

 並んで立ってる、ぼくそっくりな分身と、一年前の先輩そっくりな分身…。ぼくらが一緒に過ごせるのは、この画面越しで

間接的に会う時と、先輩の部屋で直接会う時だけ…。先輩は外に出ないから、他の場所へは一緒に行けない…。

 画面にそっと指で触れる。モニターの向こうの先輩には触れない。

 抱きついた時の感触を思い出す。柔らかくて、ちょっと酸っぱい匂いがする先輩…。

 胸がトクトク鳴る。ほんわかあったかくなる。でも、何故だかちょっと苦しい…。

 ぼくは先輩が大好き。どんなに仲が良くなった友達でも、こんなに好きって思った事はなかった。お父さんやお母さん、弟

や妹に感じる好きとも違う「好き」。

 お臍の下の方が疼く。先輩にギュってしたい。先輩の匂いを胸いっぱい吸い込みたい。

 ぼくは、先輩が好き…。大好き…。先輩の為なら、何だって我慢するし何にだって頑張ってみせるのに…。

「先輩…」

 呟いたぼくは…。

『おお。戻ったぜ』

 帰って来た先輩にマイク越しの呟きが届いてて、予期してなかった返事にビクッてなって、慌てて「ぼくもおトイレ行って

来ます!」って宣言して…。




 それから少しして、梅雨入り宣言が出た。

 天気が悪くても、ぼくは変わらず先輩に会いに行った。

 先輩の部屋と体は時々臭いがキツくなるようになってきて、反射的に鼻を鳴らしちゃったりするんだけど、何だか先輩、そ

れを気にし始めたみたいで…。

 ただ、何て言うか…、それ以外でも先輩の態度とかがちょっと変わってきた気がする。

 勉強はそこそこ順調。勘もだいぶ戻って今の仕様にも慣れて、ゲームも順調。どっちもあまり迷惑かけないようになってき

たと思う。

 …なのに、先輩は時々つまらなそうに見えた…。上手くできた時も、あまり褒めてくれなくなった…。

 そんな梅雨の中の、ある日…。

「…あれ?お風呂上がりですか?」

 その日、部屋に入ったぼくの前で「ノックぐらいしろバカ!」って先輩が怒鳴った。女のひとみたいにバスタオルを胸のと

ころで押さえて体の前側を隠してるけど…、何かかわいい。

 先輩は着替える寸前だったみたいで、スッポンポンだった。ぼくは一回廊下に出て、先輩の着替えが終わるのを待って、声

を掛けられてから改めて部屋に入る。

「どうしたんですか?部屋…」

 ゴミとか床に直置きの物とかで溢れ返ってた部屋は、すっかり片付いて綺麗になってた。…先輩の部屋、こんなに広かった

んだ…。

 今までジュースやお茶のボトルをベタ置きしてた所に脚を畳める小さな座卓が用意されてて、物置き台になってたベッドも

綺麗にされてて、ペッタンコだったクッションと座布団もふっくらしてて、スプレーとかでシュシュってやったのか、部屋中

からお花みたいないい匂いがする。

 デスクの上なんか初めて見た。ワイヤレスランに繋がったちょっと古いノートパソコンが置いてある。今までは色んなもの

に埋まってて机も椅子も輪郭が判んないほどになってたから、存在にすら気付いてなかったよ。

 何より、先輩が…。

「…何だよ…」

 ブスッとしてる白くて肥ってる猫は、見違えるように綺麗になってた。

 毛のもつれはすっかり無くなって、きめ細かい毛は全身フワフワ。ランニングシャツもトランクスも染み一つない。この匂

いは…シャンプー?かなり強く香ってるけど、もしかして濯ぎ残してるんじゃないかな…?

「どうしたんですか?先輩…」

「何が」

「えっとその…。何でちゃんと綺麗にしてるのかなぁって…」

「………別に。ただの気分転換だよ。ジメジメムシムシしてんだろ最近」

「あ、ああ…。そうですね…」

「ああ、そうだろ」

「………」

「…何だよジロジロと…」

「あ、あの、先輩…」

「ん?」

「毛、触ってみていいですか?」

「は?」

 先輩は眉を上げた。

「だ、だって凄くフカフカしてそうで!」

「…別にいいけど…」

 先輩は眉間に皺を寄せて、ズイッてぼくに腕を突き出した。

 そっと両手で先輩の手を包んでみたら、フカフカしてて、プニプニしてて、凄く良い手触りだった。

 何故だか、胸が凄くドキドキしてた…。



 その日から、先輩の体も部屋もいい匂いがするようになった。

 相変わらずカーテンは閉めっぱなしだけど、部屋が片付いたせいで雰囲気も明るくなった。

 梅雨空だったけど、ぼくは気分がよくてうきうきした。

 先輩が変わり始めた気がした。

 ううん、もしかしたら元に戻り始めたのかも?

 ぼくがあまり知らない、去年ぼくに親切にしてくれた頃の、学校にちゃんと行ってた頃の先輩に…!

 …でも…。



「…え?」

 生徒指導室に呼び出されたぼくは、困り顔の先生の言葉で凍りついた。

「…もうあまり余裕がない…。夏休みを補習に当てて単位を取り返すにも限界がある。そろそろ授業に出てこないと、オオシ

ロは最悪また留年に…」

 ギリギリまで待つけど、もうそんなに猶予は残ってない。先生はため息混じりにそう言った。

「何から何までお前に負担をかけて、済まないと思ってる。でもな、先生も親も拒絶するオオシロに、外から何かできるのは

お前だけなんだオブチ…」

 そしてぼくは、先生からタイムリミットを告げられた。

 それは、全然余裕なんかない、あっと言う間に来てしまいそうに近い日付で…。



「ふぅん」

 先輩はコントローラーを握ったまま気のない返事をした。

 先生に言われてるって事は黙って、そろそろ学校に行かないと単位取り返すの大変になるんじゃないですか?って言ってみ

たんだけど…。

「「ふぅん」って…。先輩、いつまでも学校行かない訳にいかないでしょう?また留年したら…」

「別にいいけど」

 先輩はつまらなそうに言う。「おれは学校辞めてぇぐらいだし」って…。え!?

「が、学校辞めるって…!」

「親がしつこく在籍させてるだけ。おれは二度と学校行く気ねぇよ」

「そ、そんなぁっ!?」

 思わず声を大きくしちゃったら、先輩は「あ」とぼくの顔を見た。

「そっか…。そういやお前、担任から色々お使い頼まれてるな」

 ギクッとした。先輩、ぼくが先生から言われてる事とかに気付いてるのかも…?

 違うんです先輩!いや違わないけど、半分違うんです!確かに先生には頼まれてるけど、先輩に学校に来て欲しいのはぼく

自身もそう思ってるからで、それで…!

「もしかして、何か言われんのか?「おれと会ってるなら首に縄つけてでも引っ張って来い」とか?」

 ぼくのドキドキをよそに、先輩はそんな事を言ってからお肉満載のお腹をペチンって叩いた。

「だったら言っとけよ。「ブクブク肥ってて引っ張ってくの無理です」とか。あはははは!」

 自虐ネタで笑う先輩に、ぼくは…。

「あ、あはは、は、は…!」

 ちゃんと、笑い返せた自信は無かった…。



 それからまた、数日が経った。

 先輩の家を出て、ぼくはとぼとぼ歩く。

 あれからずっと学校に行きましょうって、単位の事言ったり、一緒に授業受けたいなぁって言ってみたり、修学旅行同じ班

だったらいいのにって呟いてみたり…、あの手この手で誘ってるんだけど、先輩は頷いてくれない。

 猶予はどんどん無くなってく。それに、最近先輩はつまらなそうな顔してる事が多くなってきたけど、この数日は特に機嫌

が悪い日が多くて…。

「よ」

 先輩の家を出て少しも歩かない内に、ぼくは呼び止められて立ち止まった。

 住宅街の公園の前に、茶色い猫の先輩が立ってた。…見えてたはずなのに、ぼくはすぐ近くから声をかけられるまで気が付

かなかった…。

「何?しょげてるっぽいね?」

 チャバタ先輩はにっこり笑った。元気付けるような笑顔に、ぼくは何とか笑い返す。

「元気無さそうだけど、アイツに何か言われた?相談なら乗るよ?」

 チャバタ先輩のお誘いに、ぼくは…。



「単位ねぇ…。で、アイツは学校に行く気が無いって…。辞めてもいいってか…。う~ん、こりゃあ重症だな…」

 チャバタ先輩は肩を竦めた。

「ぼくは、先輩に学校に来て欲しいです…。一緒に学校行きたいです…。でも、先輩は嫌だって…。どうしても…」

 ベンチに並んで腰かけて、ぼくは項垂れながらチャバタ先輩に事情を説明した。チャバタ先輩なら、オオシロ先輩を説得す

るの手伝ってくれるかもって、期待したのもあって…。

「難しいなぁ。アイツ物凄く頑固だから、こうと決めたらテコでも動かないトコあってさ」

「やっぱり、難しいですか…」

 ため息が漏れちゃった…。ぼく、辛い…。先輩には学校に通って欲しいけど、先輩と仲良くしたいのもある…。学校に行き

ましょうって言って先輩が機嫌を悪くするなら、いっそ学校の事なんてそのまま…。

 いや!ダメ!ダメダメ!そんなのダメ!

 先輩の為にならない!ぼくの自己満足じゃないかそんなの!

「ぼく…、やっぱり諦めないでお話してみます…。先輩に嫌われたって、学校に通って貰える方が良いし…」

「嫌われる?」

 チャバタ先輩が首を傾げて顔を覗き込んできた。ぼくは、先輩の態度がちょっと変わって来てた事とか、いい方向に変わっ

てるように思えたけど、ぼくと居る時にはつまらなそうな様子になる事とか、そういうのを話して…。

「それは…。オオシロのヤツ、もしかしたら君に嫉妬してんじゃないのかな?」

「え?」

 顔を上げて、チャバタ先輩の顔を見る。先輩は何だか考え込んでるような顔をしてた。

「え?先輩が、ぼくに?し、嫉妬?」

 パチパチ何度も瞬きするぼく。信じられない…っていうか実感がない。

 だって先輩はテニスしてて頭が良くて勉強できてゲームも上手くて…痩せれば美男子。ぼくみたいなブチ模様でチビで何の

取柄もないチンチクリンに嫉妬だなんて…。

 その事を言ったら、チャバタ先輩は「いや、アイツからしたら羨ましいんだよ」って断言した。

「オブチ君はちゃんと学校に来て授業を受けて勉強もしてるだろう?結果的に逃げ出したアイツからしたら、真っ当に生活し

てる君の事はちょっと羨ましいさ」

「…そう、なんでしょうか…?」

「そうとも!ま、君が悪い事は一つもないんだけどさ」

「………」

 自分の靴を見下ろして、ぼくは先輩とのやり取りを思い出す。

 先輩、本当にそうなのかな…?だとしたら、ぼくは…、ぼくは…、知らない内に先輩をイライラさせてたのかな…?本当は

ぼくの事、ずっと嫌いだったのかな?お邪魔するの、迷惑だったのかな…?

 先輩は、誰にも会いたくないって言ってた…。答えをはぐらかしてたけど、本当はぼくもその中に入ってたのかも…。

 でも先輩は大人だから、イライラとか嫌いだとかそういうのを全部我慢して、頼りないぼくに勉強を教えてくれて…、褒め

てくれて…、一緒に遊んでくれて…。

「…あの…」

 ぼくはチャバタ先輩に訊いてみる事にした。確認し忘れてた事があった。バンダイさんにも訊いてなかった。

「オオシロ先輩、嫌がらせにあってもしばらく学校に行ってたんですよね?」

「ん?ああそうだよ、アイツもメンタル結構強いんだ。テニスプレーヤーだしね、俺達」

 チャバタ先輩は頷いて、それがどうかしたのか?って顔になった。

「それで先輩は、最後はどうだったんですか?」

「最後?」

「はい!嫌がらせも我慢してた先輩が、学校に来なくなったきっかけ…。「最後に登校してた日」、どんな嫌がらせがあった

か判りますか!?」

 そう。ぼくはそれを知らなかった。

 先輩はカンニングしたって疑惑をかけられても、嫌がらせされても、学校に行ってたんだ。嫌がらせが止まらなくてうんざ

りしたっていう可能性もあるけど、何だかそれは先輩に「似合わない」気がする。

 だって先輩は、なげやりな態度で、どうでもいいっていつも言ってて、面倒くさがる素振りばかりで…、でもそれは口と態

度だけ!

 先輩はキッチリしててシッカリしてて、ぼくに勉強を教えてくれた時もそうだったけど、細々とゲームのプレイ時間までチ

ェックして、丁寧に教えながらちゃんと面倒を見てくれて、最後まで投げ出さなかった!

 だから、先輩の事をちょっと知った今は思う。

 先輩は、「学校から逃げた」んじゃないんじゃないのかって。「学校に行かない事を決意」して、それをずっと貫いてるん

じゃないかって…。

 何か…、そう、先輩がそれだけの決断をする何かが、最後の日に起きたんじゃ?

「あ~…」

 チャバタ先輩は顔を顰めて、頭をガリガリ掻いた。

「心当たりあるなぁ、最後のきっついのっていうと…」

「あるんですか!?」

 身を乗り出したぼくに、チャバタ先輩は言った。

「一学期の終わり頃…、期末テスト前にさ、トドメさされたんだ。最悪の一発で」

「最悪の…?」

 ちょっと聞くのが怖くなったぼくは、唾を飲み込んで胸に手を当てる。

「カッター仕込まれたんだよ。下駄箱から飛び出すようにさ」

 チャバタ先輩の潜められた声が、ぼくの耳に忍び込む。

 何だか、引っ掛かりがあった。

 カッター?指先を切る痛さを味わったのは、小学校の時の図工の授業が最後だった。

 でも、何だっけ?何だっけ?何か、何かが引っ掛かって…。最近何か…。

「下駄箱にさ、竹ひごと割り箸でボウガンみたいに仕込んであったんだよ。下駄箱開けると飛ぶように。アイツはそれで怪我

をした。流石に身の危険を感じたのか、どれだけ嫌われてるか実感したのか、アイツは次の日から学校に来れなくなった…」

 チャバタ先輩は「はぁ…」ってため息をついた。

「酷い事する奴も居るもんだよ。流石のアイツも堪えたんだよなぁ、すっかり捻くれちまった。生徒の誰が犯人かも分からな

いんじゃあ、いつまたそんな真似されるか判らない。傍に来る誰もが信用できないだろう?そりゃあ学校に行くの怖くもなる

よな…。誰が狙ってるか判らないんだしさ…」

 チャバタ先輩は黙った。そして、ちょっと体が震えてるぼくの顔を「大丈夫?」と心配そうに覗き込んだ。

 でも、ぼくは、とても返事をするどころじゃなかった。

 判った。カッター…。切り傷…。

「あ、有り難うございました!」

 ぼくは立ち上がって、先輩に頭を下げた。

「ちょっとオオシロ先輩に謝って来ます!」

「え?謝る?…あ、ちょっと?オブチ君ちょっと!?」

 チャバタ先輩の声を背中で聞きながら、ぼくは先輩の家に駆け戻った。

 教えて貰わなかったら判らなかった!

 先輩が癖みたいにシャツの中に手を入れてお腹を掻くのは…!

 裸だった時、バスタオルで女のひとみたいに胸の辺りを隠してたのは…!

 ちょっとだけ見えた、胸の間の辺りにあった色が違う箇所は…!



「何だ?忘れ物でもしたのか?」

 太った白猫は、戻ってきたぼくを肩越しに振り返った。

 キャラクターは拠点に居る。まだ狩りの準備中。

「先輩…」

「ん?」

 ぼくが上がった息を整えてると、先輩は部屋の中を見回しながら向き直る。「忘れ物ねぇよな?」って呟きながら。

 ぼくは先輩の前で正座して、唾を飲み込んで、先輩を真っ直ぐに見て…。

「お腹、見せてください!」

 たちまち、先輩の顔が険しくなった。

 少しの間、沈黙があった。先輩はじっと、鋭くした目でぼくを見つめた。怖かったけど、怒鳴られるかもって思ったけど、

ぼくはじっと我慢して目を逃がさなかった。

「…お前、誰に何を吹き込まれた?」

 先輩の声が低くて怖くなった。でも、ぼくは引き下がらない。

「学校に行けない理由、「そこ」にあるんですか!?」

「…何言ってんだよ。関係ねぇ。単に学校も飽きたし、独りで居るのも気楽だから、行くの辞めただけだ」

「嘘!」

 すぐに言い返したぼくを、先輩は少し驚いているように耳を立てて見つめた。

「先輩は、本当は、独りで居たい訳じゃないでしょ!?」

「独りで居たいんだよ」

 なげやりな口調で言って、先輩はチッて舌打ちした。

「嘘言わないで!だって…!だったら…!何で多人数プレイができるあのゲームをずっとやってるんですか!?鍵だって、何

で適当に入れても合っちゃうような簡単な物なんですか!?何でそんなに親しくなってなかった頃に、ぼくにサラッとパスと

ID教えてくれたんですか!?」

「好きでやってるゲームだからだろ?パスワードは…、面倒くさいから数字重ねてんだよ!」

「だったら何で…!」

「何でもヘチマもねぇ!いい加減に…!」

「何で一回も「もう来るな」って言わなかったんですか!?」

「!」

 怒りかけてた先輩の顔が、動揺で固まった。

 ぼくはそのまま先輩に突っかかった。

 不意を突かれた先輩は後ろに引っくり返って、ランニングシャツの裾が捲れておへそが出て、ぼくはその裾を掴んで…。

「あ!」

 それは、ぼくの声だったのか。それとも、先輩の声だったのか。

 ぼくは、白の中のそれを凝視した。

 真っ白な、綿毛みたいにふわふわの、白い毛。

 お肉がたっぷりついて、出っ張った両胸。

 そこから、斜めに走る赤い道があった。

 胸の谷間から鳩尾にかけて、細く被毛が無くなって晒された肌。

 そこには、人差し指ぐらいの太さと長さの傷跡があった。

 たぶん怪我した後に化膿したんだろう、蚯蚓腫れみたいな10センチくらいの切り傷は赤紫で、周りの毛が生えてない部分

も薄いピンク色になってて…。

 目に浮かんだ。

 先輩は一学期の終わり頃だから、もう制服は着てない。

 下駄箱はたぶん低い位置にあって、手を掛ける先輩は前屈み。

 扉は右側に開くから、右手で引っ張った先輩は少し体が斜め。

 そこにカッターの刃が飛んで、ワイシャツも肌着も切り裂いて、先輩の胸の間から鳩尾に、斜めに走る傷を…。

「…先輩…」

 ぼくは、知らず知らずに手を出して、刻み込まれた悪意の跡に触れた。

 変に、温かかった。

 無性に、哀しくなった。

 ぼくは…。

 ぼくは…。

 先輩がこんな目にあった事も知らないで、学校に行こうって…。

 こんな酷い事されたって知らないで、学校に行かなきゃって…。

 ぼくは、先輩にずっと、そんな酷い事を言い続けて…。

 申し訳なくて、泣けて来て、目が潤んで、視界が滲んで、

「せんぱ…!ごめ…」

 謝ろうとしたら、喉がゲギュって鳴った。

 直後に、頭の後ろが苦しくなった。

 目の前でチカチカ、光が瞬いた。

 頭がグワングワン揺れて、景色もグルグル回って、何が起きたのか判らなくなって、それからぼくは、ドアに寄りかかって

るらしい事に気付いた。

 胸が勝手に動いて咳をしてた。喉が痛くて苦しくて吐きそうになった。それから、先輩の平手が喉に飛んで来て、喉輪みた

いになって、ぼくを突き飛ばしたんだって理解した。

 立ち上がった先輩が、目の前に居た。

 ぼくを見降ろしてた。

 動けないぼくを見下ろして、今まで見た事が無いような顔をしてた。

 目が、吊り上がってた。

 牙が、剥き出しになってた。

 皺が、鼻の上にびっしり寄ってた。

 耳鳴りがしてて音はあまり聞こえないけど、呼吸は荒そうだった。

 先輩は、怒ってた。

 でも、怒ってる先輩の、怖い顔の先輩の、目じりが吊り上がった両目には、いっぱい、涙が溜まってた。

 ごめんなさいって、言おうとした。

 けど、声が出てこなかった。

 痺れたみたいになって、手も足も動かなかった。

「何が判るんだよ…」

 先輩の声は震えてた。

「お前に何が判るんだよ…!」

 怒りに震えて、低くなってた。

「ほら、どうだ?見たかったんだろ?ええ?」

 先輩は投げ出してあるぼくの足を跨いで、お腹を顔に近付けた。痛々しい切り傷の跡が、すぐ目の前にきた。

「どうだよ?無様か?気色悪いか?満足したか?」

 頭の上で、毛が掴まれた。そのままぼくは、乱暴に頭を引っ張られて先輩のお腹に顔を埋めた。

「満足かって訊いてんだよ!」

 先輩の声が、お腹から直接聞こえた。

 鼻先には、傷跡の熱い感触。頭には、掴まれた毛がブチブチ抜ける感触。

 動けないぼくを、先輩は頭の毛を掴んだまま横に引き倒した。

「何なんだよ、お前…!」

 横倒しになったぼくの上に、先輩が覆いかぶさってきた。

「キャンキャン喚いて懐いて来やがって…!挙句に調子こいて説教か!?何も知らねぇくせに…!何も…!」

 襟元に、先輩の指がかかった。そのまま乱暴に引っ張り起こされそうになったけど、ぼくのワイシャツはボタンが跳んで、

先輩の指が外れて、頭がゴンって床に落ちた。

 ワイシャツの前がはだけて、スースーする。

 先輩は止まって、ぼくをじっと見下ろして、「お前は…」って、口元を震わせた。

「お前は…!何で、お前は…!おれの気持ちも知らねぇで…!」

 歯を食いしばった先輩は、ボタンが半分跳んだぼくのワイシャツに手をかけて、一気に下げた。

 パチパチって、ボタンがいくつも跳んだ。

 ベルトのバックルがカチャカチャ鳴った。

 チャックを下ろされて、ズボンも引っ張り下ろされた。

 パンツが脱がされて、股が涼しくなった。

 ぼくは、ずっと先輩の顔を見てた。

 怒って泣いてる、先輩の顔を。

 頭の芯が、ジンジン痺れてる。

 顔を下ろした先輩の息が、胸にかかって熱くさせた。

「お前が悪いんだ…!全部…お前が…!おれは、平気だったのにっ…!ずっと…!ずっと平気だったのに…!」

 先輩はぼくの両脚を広げさせて、太腿を捕まえた。

 お尻に何か当てられたと思ったら、次の瞬間激痛が走った。

 太い何かが無理矢理お尻の穴を広げて、お腹の中に入ってきて、熱くて痛くて苦しい。

 でも、それよりも、胸が、心が、痛かった。

 ぼく…、大好きだったのに…。

 先輩が、大好きだったのに…。

 先輩に酷い事し続けてきて、先輩を、泣かせちゃった…。

 最低だ…。ぼく…。





 これは、それから三時間後に、ある部屋で、ある二頭が交わした会話から始まったことである。

 

「キモは「誰が得をしたか」、だよ」

 レッサーパンダは特有の長い縞々尻尾をくねらせながら、人差し指を真っ直ぐ立てた。

 その指の爪を見ながら、黒褐色の大猪が口を開く。

「得をした?…誰も得してないんじゃないかな?」

「そうだね。一見するとそうも思えるのが、今回の事件の厄介な所だよ。せいぜいオオシロ君を嫌っていた犯人が満足した程

度だけど…」

 話しているレッサーパンダは小柄で、ふっくらしたシルエット。愛らしい顔立ちとは裏腹に、思慮にくれる瞳は冷たいほど

理知的で、瞳孔は夜よりもなお深い闇を湛えている。

 レッサーパンダはあぐらをかいた猪の足に座り、分厚い体躯を背もたれにしていた。

 そうして小柄なレッサーパンダを座椅子代わりになって支え、テレビアニメを眺めているのは、縦にも横にも大きくて身も

分厚い、巨漢で肥満体の大猪。体躯の大きさと牙の立派さとは裏腹に、アニメを見て和んでいるその顔は何ともひとがよさそ

うに見える。

「一連の出来事と、彼がいま置かれている状況には、とても判り易い因果関係があるね」

「まぁ、そうだねぇ。ナルがいつも言う「原因」「過程」「結果」?ちゃんと繋がってるもんね」

 一時、考え込むように視線を上に向けた猪は、「ナルは何が引っ掛かってるの?」とルームメイトを見下ろした。

「いま言ったとおりだよ。判り易い因果関係に、納得してしまいそうな原因と過程と結果に、流れるように落ち着いたその後

の環境に、どうにも違和感があるんだよね」

「…どういう事?」

 首を捻る猪に、レッサーパンダは傍らのポテトチップスの袋に手を入れながら応じる。

「似ているんだ。少し」

「似てる?何に?…むぐ…」

 ポテトチップを数枚口に入れられた猪が、幸せそうに顔を緩ませて黙ると、レッサーパンダは小首をかしげて顎に拳を当て、

熟考して目を細めた。

(そう、似てるんだ。「そうしよう」と誰かがプランを立てたみたいな、とても判り易くて皆が納得したくなる原因と過程と

結果…。そして渦中の人物が取り除かれて安定した環境…。これはまるで…)

 レッサーパンダは呟く。

「…まるで、ボクが介入した事件の結末みたいに都合が良くて…」

 言葉を切ったレッサーパンダが立ち上がり、鳴り始めた内線電話を取りにゆく。

「はい、303バンダイです。…うん?どうしたの?」

 壁にかけられた内線電話を取ったレッサーパンダは、電話相手としばらく話し、「うん。うん。判った。お願いね」と受話

器を置く。

「コマザワ君から。ナナ君がまだ部屋に帰ってないみたいだよ」

 レッサーパンダはテレビを眺めている大猪を振り返った。

「え?珍しいね?門限まで一時間無いのに…」

「食堂で見かけなかったから少し気になってて、部屋を訪ねてみたようなんだけれど…。携帯も電源が落ちてるのか圏外に居

るのか不通で、連絡が取れないって。コマザワ君が、玄関で待って、いよいよ門限が過ぎそうなら探しに出る、ってさ」

 件の生徒は部活もしていない。帰りに先輩宅へ寄る事もあるが、夕食時には戻っているのが普通。大猪は嫌な予感を覚えて

眉を潜め、立ち上がって足早に窓辺へ歩み寄り、シャッとカーテンを開ける。

 テレビの音量が大きかったので気にならなかったが、いつしか降り出していた激しい雨が、窓を洗っていた。

「…凄い雨だ…」

「雨宿りしている可能性もあるけれど…」

 思案するレッサーパンダは、しかし何か起きたのではないかと疑っている。件の生徒は、いま正に自分がしていた話…非常

にデリケートな問題に関わっていて…。

「あっ!」

 外を見ていた大猪は突然声を上げ、身を翻して駆け出した。

「タイキ?」

 目の前を駆け抜けて乱暴にドアを開け、飛び出していった大猪を、レッサーパンダが足早に追いかける。

 地鳴りのような音を立てて廊下と階段を駆け抜けた大猪は、「あ。兄貴?」と顔を向けてきた頭の天辺が赤いガッシリした

和犬にも返事をせず、玄関を潜って雨中へ飛び出す。

 そして、寮の敷地を囲む塀の入り口、鉄柵でできている門扉めがけて駆けながら、そこに寄りかかってよろよろと、項垂れ

たまま敷地へ入ろうとしているブチ柄の小柄な犬に呼びかけた。

「ナナく…じゃない、オブチ!」

 猪の大声は雨音に消され、届かない。

 服も荷物も携帯までも、雨に濡れそぼって水浸しになった小柄な犬は、ガシッと肩を掴まれて顔を上げた。

「オブチ!どうした!?」

 呼びかける大猪は、手の中の小柄な後輩の異常には既に気付いている。

 ワイシャツはボタンが飛んで、前がはだけられていた。何処か痛むのか、歩き格好もおかしかった。何より、その顔は…。

「ばんちょ……さん…」

 喉を傷めたように擦れて弱々しい声。疲れ果てて表情がない顔。光が失せて望洋とした双眸。

(なん、で…?)

 目の前の後輩の顔に、かつて鏡越しに見た顔を重ね、大猪は巨躯を震わせる。

(なんでナナ君が、こんな…!?)

 大猪は知っていた。それは、「絶望の虜囚」の貌だと。

「眠い…」

 小さく呟いた子犬の声は、雨をすり抜けて大猪に届く。虚ろなその目は大猪を通り越し、何も、何処も、見ていない。

 体は、冷たくなっていた。

 心も、冷たくなっていた。

「来い!」

 腕を掴んで引っ張ってゆこうとした大猪は、ぐにゃりと脱力した後輩を慌てて支える。

「おい!玄関まで歩け!」

 雨に負けないよう声を張り上げる大猪の前で、へたりこんだブチ犬は首を小さく、静かに、左右へ振る。

(やめろ…!)

 小さく弱々しい拒絶の仕草。しかしそこからはっきりと判った。彼が、「もう何もかもどうでもいい」と感じている事が。

(やめろよ、そんな首の振り方は…!)

 大猪は小柄なブチ犬の腋の下へ手を入れ、素早く抱き上げて厚い肩へ米袋のように担ぎ、レッサーパンダと和犬が姿を見せ

た寮の玄関へ、雨飛沫を跳ね飛ばしながら駆け込んで行った。

 

to Be continued to「栄枯盛衰」