できたて恋人の成人式

丹前をひっかけて部屋の前に出た俺は、アパートの二階通路から景色を眺めつつ、咥えたタバコに火をつけた。

寒さのせいで白い息と、吐き出したタバコの煙が混じって、弱い夜風に吹かれて流れる。

まず薄くなって、それからゆっくり散るのは、先に白い息が溶けて見えなくなるせいだろう。

柵状の手すりは風除けにならないから、ここに吹いてくる風は結構当たりがキツい。寒い夜はなおさらだ。が、個人的に室

内禁煙を実施している俺は、タバコを吸うときはこうして外に出る。ホタル族ってヤツだな、うん。

しかし我ながら続くもんだ。まぁ、まだ始めて半月にもなってないんだけど…。

タバコを吸いつつ携帯を取り出した俺は、手すりの上に乗せた灰皿に灰を落としつつ、画面を確認した。表示は相変わらず

見慣れた待ち受け画面のまま。着信のマークもメールが入った表示も出ていない。

…遅いなぁ…。どうしたんだろう?普段なら連絡の一本も寄越してくれるのに…。

しばらくタバコをふかした後、灰皿に押し付けて消した俺は、軽く身震いして踵を返す。

そして、ふと気が付いて振り返った。

近くに灯りが少ないせいで黒い空に、白いちらつきが踊る…。

雪か。どうりで冷えると思ったら…。



ヤカンをガスコンロにかけ、火を調節し、また携帯を取り出して画面を確認する。

…もうすぐ午後11時か…。珍しいな、こんなに遅くなるなんて…。

八時過ぎに「少し遅くなるかもしれません」というメールは届いた。

彼にしては珍しく短くて味気ない文面だったが、そいつに返信して以降、音沙汰がない。

…まぁ、ギリギリ二十歳前とはいえ、もう数年間社会人として過ごしてる訳だし…、ずっと独り暮らしして来てた訳だし…、

11時近くになった程度で心配する俺が神経質なのかもしれないけどさ…。

…俺がこういう気の回し方をするせいなのかな?年末から付き合い始めたばかりの恋人との仲は、決して悪くは無いものの、

お互いにまだちょっとよそよそしかったりもする…。

げんきんなもので、こう気になってはいても腹は減る。普段なら彼が何か作ってくれる所だが、既に腹ぺこだ。

ヤカンの湯が沸騰したのを見計らって、インスタントラーメンを半分に割り、中に投入。

これぞヤカンラーメン。

火が均等に通るおかげで、鍋で茹でるのとはまた違う食感になる。是非お試しあれ。

ただし、生麺タイプでこれをやっちゃあいけない。中でくっついて大変な事になるから。

あと粉末スープ類を一緒に煮込むタイプもアウト。ヤカンに匂いが染みつくからな。

なお、口が細いヤカンだと詰まって出て来なかったりするから、必ず太口のヤカンで試して貰いたい。

グキュゥウウウルルルルッ…。

…う…!落ち着け俺の腹…!もうちょっとの辛抱だから…!

たぶん今日も夜食を作って貰う事になるんだろうと思っていたから、六時頃にカップヤキソバを食って以降、固形物は何も

口に入れていない。

いや普通はそれで平気なのかもしれないが、燃費が悪い俺の身体は夕飯の後に晩飯か夜食を要求する。

で、いよいよ我慢できなくなって、こうしてヤカンラーメンを作り始めた訳だが…。

煮込む三分をやけに長く感じながらコンロの前で佇んでいた俺は、チャイムの音で耳をピクンと立てた。

…来た?来たのか!?

殆ど無意識に火を止めつつ、普段は見せない機敏さで身を翻した俺は、ドドドドッと居間を横切って玄関へ駆け付ける。短

い尻尾がピコピコ勝手に動くのを、意志の力で無理矢理抑え込んで。

「どうぞ!開いてるよ!」

俺の返事を待っていたようにゆっくりと開いた扉の向こうには、少し背が低めの華奢な犬獣人。

深い茶色の被毛の上に白いハーフコートを纏った若い犬は、可愛い顔を少し曇らせて頭を下げた。

「こんばんは。…ごめんなさいヤマトさん…。こんなに遅くなるなんて思わなかったもので…」

「いやいやいや!全然オッケー!寒かったろ?さぁ上がった上がった!」

開けたドアから温まった空気が逃げて行き、入れ替わりに寒気が吹き込んで来る。

青年の向こうを見遣れば、雪はさっきより大粒になっていた。外はさらに冷え込んできたらしい。

俺はサンダルをつっかけて身を乗り出し、若い犬の肩に手を掛けて中へ引き入れつつ、ドアを閉めて施錠した。

この子は中井雪之丞(なかいゆきのじょう)君。誕生日を目前に控えた十九歳。

何を隠そう、俺の恋人だったりする。

タバコを室内で吸わないようにしてるのも、非喫煙者の彼に気を遣っての事…。

生まれて初めて出来た恋人を、どんな些細な事ででも失いたくなんてないからな。用心に越した事はないだろう。

整った顔にやや幼さを残し、振る舞いやら顔立ちやらどことなく品の良さを漂わせるナカイ君は、それもそのはず、実は由

緒正しい茶道の家元の生まれだ。

…けれど、訳あって家に居られなくなり、今は故郷を離れて独り暮らししている。

よっぽど寒かったんだろうな、「済みません…」と繰り返すナカイ君は、明るい肌色の鼻を少し赤くしていた。

おっと申し遅れた。

俺は大和直毅(やまとなおき)。薄茶色の毛を纏う羆の獣人。ピッチピチの二十五歳だ。

年末からこっち、半月程度で体重が6キロ増えた事が目下の悩みといえば悩み。…215キロかぁ…。いよいよヤバイよなぁ

これ…。

原因は…、まぁ、判ってる…。

…美味いんだよ、ナカイ君の手料理…。



「コタツ暖まってるから座ってて、今熱いもんでも…」

「あ、お茶なら私が…」

台所に向かう俺の後ろを、ナカイ君はコートを脱ぎながら追いかけて来る。

「いやいや良いよ、たまには俺が…あっ!」

ガスコンロ前に立った俺は、ヤカンラーメンを途中で放置していた事に気付く。

「…ごめん…」

「どうかしましたか?」

再びヤカンを温めながら詫びた俺に、ナカイ君は小さく首を傾げて見せた。

「その…ラーメン作ってる途中だったんで…、茶じゃなくてラーメンとかどう?」

何なんだよ一体?寒い中来てくれた恋人にお茶じゃなくてラーメン勧めるっていうこの妙なシチュエーションは?これ、絶

対恋人査定にマイナスつくよなぁ…。

「ラーメンって…え?ええっ?」

ナカイ君は不思議そうな顔になり、火に掛けられたヤカンを眺める。

「このヤカンで…ですか?え?どうして?どうやって?この中にラーメンが入っているんですか?」

…物凄く不思議がられてるし…。

やっぱあんまりスタンダードじゃないのかこれ?俺は昔からこうなんだけど…。

まじまじとヤカンを見つめているナカイ君に、ヤカンでラーメンを作る利点について説明した俺は、

「試しに食ってみなよ?もうそろそろ食べ頃だし」

と、それとなく勧める。…茶の代わりにラーメン勧めた事を呆れられずに済んで、実はちょっとホッとしていたり…。

「でも、ヤマトさんのお夜食なんでしょう?」

「良いって良いって、すぐできるモンだから。もう一個茹で…」

グゴギュゥルルルルルゥゥゥィイッ!

空気を読めない腹の虫が、俺の言葉を遮って無遠慮に催促した。あたかも他人にやらずにこっちによこせと訴えるように…。

「……………」

「……………」

音が凄かった事もあり、ビックリした顔になったナカイ君は、前をはだけて羽織った丹前から突き出ている俺の腹を、まじ

まじと見つめる。…恥ずい…。

気恥ずかしくなって首後ろをモソモソと掻く俺は、視線を上げたナカイ君と無言で顔を見合わせた。

「ぷふっ…!」

堪えきれなくなって吹き出したナカイ君は、口元を両手で覆ってクスクスと笑い出す。

重ねて恥ずいっ…!こんな事で恥ずかしいと感じられる繊細さが自分にもまだ残ってたって事も驚きだが、顔が熱くなる…!

「ヤマトさんが食べて下さい」

「や、今のはホラちょっとしたアレでそんな腹減ってないし食べて良いよいやいやマジで」

恥ずかしさを誤魔化して早口で言った俺に、ナカイ君は笑いの名残を目尻と口元に残したまま、小首を傾げて見せた。

「じゃあ、はんぶんこしましょう。ね?」

…はんぶんこ…。く…!くう〜…!可愛い…!

可愛らしい仕草で可愛くて嬉しい事を言ってくれるナカイ君に感激し、俺は無言でコクコク頷いていた。



「コツはね、こう…、前後に揺する感じでヤカンを動かして…、すると…、ほら出た」

「わぁ…!出ましたね、ニョロ〜って!」

ヤカンの口から丼にラーメンを移す作業を実演すると、ナカイ君は感心した様子で注ぎ口を凝視した。

「ヤマトさんは物知りですね!」

「こんな事で感心されるの、初めてだよ…」

この子時々変な事に過剰反応するよなぁ…。

大人びた礼儀正しい言動とは裏腹に、ナカイ君は時々ちょっと世間知らずな面を覗かせる。ホストって皆そんな人達なのか?

いや、それとも茶道の血のせい?もしくはこの子がこうってだけ?

「私、あまりインスタントラーメン食べた事が無いんですが、この調理方法は一般的なんですか?」

妙な事を知らなかったりするナカイ君も、流石に今回は怪しんだらしい。問い掛けつつ向けて来た目は物珍しげだ。

「いや、あんまりスタンダードじゃないかもなぁ…。俺やダチは昔からやってるけど」

高校時代、寮にいた頃は流行らせようともしたが、イマイチ広まらなかった。

それ以降も流行らせようとしたものの、結局俺の周りでこの食い方をするようになったのは、強面の虎と相方の猪、悪食の

スコティッシュフォールドと、こっちに来てから知り合ったボッテリ狐ぐらいのもんだな…。

殆どのヤツにはヤカンの口からニュルッと出て来る麺の様子が気色悪いって、概ね不評だった。

大丼に出したラーメンに液体スープと粉末スープを混ぜてから、もう一つ出した丼に半分移し、ナカイ君と一緒にこたつに

入る。

よほど寒かったんだろう。ハフハフ言いながら美味そうに食べているナカイ君は、しきりにこのインスタントラーメンと作

り方を誉めてくれた。

「一人暮らしなのに、インスタント食品とかあんまり食わないの?」

ちょっとばかり不思議に思って訊ねた俺に、ナカイ君はチュルチュル麺を啜りながら頷く。曰く、安い食材で作った手料理

をメインにして暮らしていたから、インスタント食品にはあまり頼らなかったそうだ。

「偉いなぁ。俺なんて面倒臭いからインスタント食品浸けの毎日だよ?だからホラ、こんな具合に太った訳で…」

「え?それじゃあ、一人暮らしじゃなかった頃はほっそりしていたんですか?」

意外そうに言ったナカイ君に、俺は胸を張って「そりゃあもう」と頷く。

「少なくとも体重は200キロくらいだった!」

「…200キロ…」

ナカイ君はそう呟いて、不思議そうに俺の体をまじまじと見る。

少し間を置いてから「まぁ、今と比べて10パーセント弱は細かった訳」と肩を竦めて見せたら、可笑しそうにクスクスと

笑った。

「あ、それはそうと…」

はんぶんこしたラーメンを食い終わるなりふと思い出した俺は、話題を変える。

「今日随分遅かったね?忙しかった?」

そう訊ねた途端、ナカイ君の表情が曇った。

…あ、あれ?俺もしかして何かまずい事言った?

「済みません…」

「い、いや!忙しかったなら仕方無いって!責めてる訳じゃ無いんだ!ただこう…、あんまり忙しくて遅くまでかかりそうな

日は、無理して来てくれなくても良いんだから!ねっ?都合つく時だけで良いんだし!仕事で疲れてるのに毎回飯作って貰っ

て悪いしさ!」

我ながら慌て過ぎだと思うほどオロオロしながら、俺はナカイ君にそう告げた。

はっきり言ってこの子にゾッコンな訳で…、哀しそうな顔とか寂しそうな顔とか辛そうな顔をされると、かなりキくんだこ

れが…。

「と、ところで!今度の連休何か予定あるかな?俺一日休み取れるから、暇なら…」

取り繕うように話題を繋いだその時だった。俺の携帯がこたつの上でブーブー震えたのは。

携帯を手に取った俺は、背面モニターを滑っていく表示を眺めながら、思わず呟いた。

「お?トベさんからだ。珍しい」

ナカイ君の半保護者の中年土佐犬(ポン引きのスペシャリスト)とは、携帯の番号は交換しているものの、向こうからかかっ

て来る事は珍しい。ナカイ君がトベさんからコーヒーとか貰って来てくれた時にお礼の電話を入れてた程度しかやりとりして

ないし。

「もしもし、ヤマトです」

電話に出た俺の前で、何故かナカイ君はあたふたして、胸の前で腕を交差してバツの字を作る。

…何だ一体?ってか可愛いな畜生っ!

『おう兄ちゃん!そっちにユキ顔出してるか!?』

トベさんは単刀直入に用件を切り出す。

ユキ…つまりナカイ君は、居る事は居るんだが…、今も俺の目の前に…。

「え?あー…。今日は忙しいとかで、来れないみたいですよ?」

一瞬口ごもった俺は、ナカイ君が拝むように手を合わせて来たので、咄嗟に嘘をついた。

『…そうか、くそっ。一体何処ほっつき歩いてやがんだあのちびっ子…』

トベさんは受話器の向こうでブツブツ言うが、そのまた向こうから『店長〜!』と呼ばれ、大声で苛立たしげに返事をした。

何だろう?何か必死な様子だぞ?電話の向こうのトベさんも、懇願するような目で俺を見てくるナカイ君も…。

『兄ちゃん、もしユキから連絡行ったら、すぐこっちにかけてよこせって伝えてくれや』

「は?え、ええ…。携帯に電話かければ良いんじゃないですか?」

目の前にナカイ君が居るのが何とも妙な具合だが、俺はそう言ってみる。

『アイツめ、電源切ってやがんだ。ここ数時間繋がらねえ。…とにかく、もし連絡行ったら言伝頼むぞ!大急ぎなんだ!』

トベさんは苛立っているような口調で、事情の説明もなく一方的に電話を切った。

首を傾げて携帯をコタツに置いた俺に、ナカイ君が小声で「済みません…」と謝って来る。

「何かあったのかい?トベさんを避けるなんて…」

意外だった。

そう付き合いが深い訳じゃないが、ナカイ君とトベさんの仲は承知しているつもりだ。トベさんはナカイ君にとって、住む

所や仕事を紹介してくれた恩人であり、保護者のようなひと。

そしてナカイ君はトベさんにとって、離婚に関係して会えなくなった息子を思い出させる存在。

そんな風にお互いを大切にしてる関係のはずが…、何だろう今日の態度は?

「トベさんと喧嘩でもした?」

「い、いいえ!そういう訳じゃないんです…」

ふむぅ?ナカイ君は言い辛そうに押し黙ってしまう。

トベさんを避ける理由も、トベさんがナカイ君にどんな用事があるのかも、俺には皆目見当もつかない。

気詰まりな沈黙が間に居座り、居心地の悪さを感じ始めた頃、

「…トベさん…、地元に戻れとおっしゃるんです…」

ナカイ君がぼそぼそっとそう言って、俺は「はい!?」と裏返った声を上げた。

…あ、あああアレか!?この間様子見に来たけど、実は俺トベさんのお眼鏡にかなってなかった!?なもんだからナカイ君

が幸せになれないとか思って、それで地元に帰れって!?

嫌な汗をダラダラかき始めた俺の前で、ナカイ君は話を続ける。

「今度の日曜日、地元で成人式があるんです…。案内は来ていないんですけれど、節目なんだから出るべきだってトベさんが

言い出して…」

「あ…、ああーっ!なんだそういう事か!」

ほっとして思わず声を大きくしたら、ナカイ君は首を傾げて「え?どうかしたんですか?」と不思議そうに見つめて来た。

「いやいやこっちの話…。それで、トベさんに勧められるのが嫌で避けてる訳かい?」

「ええ…。どうしても帰らせたいみたいで、私の話は聞いてくれないんです…」

う〜ん、まぁ確かに強引そうなひとではあるけどさ…。

ナカイ君の場合は故郷を出た理由も理由だからなぁ…。成人式とはいえ、地元には戻りたくないんだろう。

「好きにしたらいいよ。というよりも…、口ぶりからすると成人式には行きたくないんだろう?無理に出なくてもいいさ」

俺が軽くそう言ったら、ナカイ君はほっとしたように「で、ですよね…!」と笑みを浮かべた。

「ナカイ君の気持ちは判るよ。帰りたくないって気持ちは…」

そこまで言ってから、俺は軽く咳払いして話題を変えにかかった。

狙ってた訳じゃないけどチャンスかもだぞ?これ…。今度の連休の真ん中…、つまり日曜日は…。

「ところで…、その成人式がある日曜日さ、実は俺休みなんだ。三連休の中日だけど、上手い事ローテーション回ってさぁ。

もしお店休むんなら、せっかくだからその…」

どっか遊びに行かない?その一言が何故か言えず、俺は口ごもった。

よ、予想以上に照れくさいなこれ!デートに誘うのってこんなにも難しいのか!?

「えぇと日曜日は空いてます。だから成人式に行くようにって、トベさんに言われていたんですけれど…」

ナカイ君はちょっと考えてから、そう請け負ってくれた。

「よし!それじゃあさ、行きたいトコとかないかな?せっかくだから遊びに行こう!成人式祝いって事で!」

流れに乗ってそう言った俺は、知らず知らずに身を乗り出していたことに気付き、苦笑しながら体を戻す。

「えぇと、すぐにはちょっと思い浮かびません」

ナカイ君は考え込みながらそう言って、俺はうんうん頷く。

「こう急じゃ仕方ないさ。じっくり考えて決めていいから、何か考えといて!」

よっしゃ初デート!人生初のデート!本当に春が来たんだなぁ俺にも!

うきうきしながら腰を浮かせ、俺はとっておきの日本酒を引っ張り出してきた。こんな時にこそ祝杯あげなくていつあげるっ

てんだ!

ナカイ君は冷蔵庫の中身を使って、ベーコンで長ネギを捲き、塩コショウで味付けしながら焼いたつまみを用意してくれた。

いつもながら感心させられる。ささっと手早くて、しかも美味い。

程無く日付は変わって、普段より少し短い歓談はお開きになり、ナカイ君は帰って行った。

再び表に出てホタル族になってタバコをふかしながら、俺はにやけまくった。

…デートかぁ…。ナカイ君は大人びてるから、遊園地とかはなさそうか?だと買い物とか映画とかになるかなぁ…。

その後、ほろ酔い気分で布団に潜り込んだ俺は、来るデートへの不安と期待、そして幸せを噛み締めながら眠りについた。



『遊園地とか、ダメでしょうか?』

「はい?」

翌日の昼休み。電話を受けて店の裏口から出た俺は、後ろ手に扉を閉めながらすっとんきょうな声を上げていた。

『だ、ダメですかね…?』

ちょっと恥ずかしそうなナカイ君の声に、俺は「いやいやいや!」と慌てて応じる。

正直な事を言えば、遊園地だったら面白いだろうなぁ、とは考えていた。

お化け屋敷なんかでこう…、びっくりして抱きついて来るとか、そういう嬉しいドッキリハプニングに期待して…。なにせ

素でハグとかするのは難しいし…。

ヘタレと言うなかれ!

恋人とは言っても、付き合い始めて日が浅い事もあって、あんまりベタベタするのも躊躇われる。と言うよりも、交際が初

めての俺は、どの程度まで距離を詰めて良いかが判らない。

だからこう…、ハグとかしてみたい気持ちは山々なものの、ストレートにいちゃつくのはちょっとアレで…、気持ち悪がら

れたりしたら困るしっ!

「ダメなんて事はないさ!うん!で、何所行きたい!?」

ナカイ君はちょっと恥ずかしがっている風にボソボソ声で、聞き馴染んだ名前を口にした。

彼が希望したのは遊園地と動物園とプールなんかが隣接した総合レジャー施設。この辺りからなら割と近場で行き易い所だ。

「勿論オッケー!楽しみにしてる!」

『はい!私も楽しみです!』

ナカイ君の弾んだ声で、俺の顔はでれっでれに緩んだ。

うっわぁ!やばい、もうドキドキして来た!今夜ちゃんと寝られるかな俺!?ってか仕事になるかな午後!?

…だがしかし、浮かれ気分で休憩室に引き返したこの時の俺は、予想もしていなかった。

ナカイ君との遊園地でのデートが、結局お流れになる事なんて…。



仕事を終えて帰路についた俺は、途中でタバコやらつまみやらを買いにコンビニに入ったところで、携帯に着信を受けてす

ぐさま外に出た。

「…ん?トベさん?」

昨日に引き続いてかかってきた中年土佐犬からの電話に出た俺は、

『兄ちゃん!今そこにユキが居ねぇか!?』

唐突に響いた大声で、顔を顰めながら携帯を耳から離す。

「い、いや、今仕事終わって帰る途中なもんで、一人ですけど…」

『そ、そうか…。くそっ…!』

トベさんは悪態をつく。その焦り声が俺を不安にさせた。

ナカイ君は成人式に合わせて帰郷しろと言われるのが嫌でトベさんの電話を避けているらしいが…、この慌てぶり、ただ事

じゃ無いぞ?ひょっとして他にも何かあるんじゃ…?

「ナカイ君がどうかしたんですか?」

『む?ぐ…、うー…!』

トベさんは獰猛にすら聞こえる迫力満点の低い唸り声を発していたが、やがてため息をついてから切り出した。

『今年、ユキは成人式なんだ。気付いてたか兄ちゃん?』

「え?ええまぁ…。それが?」

『地元に帰って式に出るように言ったんだが…、ユキめ、曖昧に答えたまま、電話に出なくなりやがった』

「は、はぁ。でも、ナカイ君が帰郷を嫌がるのは、事情が事情だけに判る気もするんですが…。結構強めに言ったんですか?」

そう訊ねると、トベさんはなおも一度口ごもった後、「えぇい!」と苛立ち紛れの声を上げる。

『兄ちゃん。これから時間あるか?』

俺は少し考えた後、大丈夫だと答えた。

もうこの時点では察していた。トベさんが、直接会って話をする気になった事を。

予想通り、トベさんは俺の部屋に来ると言う。

事情を説明するついでに、電話を避けられているから待ち伏せして直接会うつもりなんだ。

確かに可能だろう。仕事を終えたナカイ君が準備を終えて家に来るまで、まだ時間がある。

ナカイ君の味方をしてあげたい気持ちは確かにあるが、トベさんからの電話を避けているのはちょっと頂けない。

トベさんとナカイ君は、友達とか知り合いとか、そういう物を通り越した、もっともっと深い関係のはずなんだ。いくら帰

郷の話題が嫌だからって、対話を拒否してちゃいけないと思う。

「でも、お店は?仕事はこれからでしょうに…」

『俺が居なくとも店は回るし世界は回る!そんな事よりまずユキだ!』

良いんだろうか?店長がそんな事言っても…。まぁちょっとかっこよく思えるが。

ナカイ君には言わないでおく事にして、トベさんを部屋に上げておく話を纏めると、俺は電話を切って、コンビニには寄ら

ずに大急ぎでアパートに向かった。



「ナカイ君が地元に帰りたくない気持ちは、俺にも判ります。トベさんも気持ちは理解してるでしょうに、何で帰郷を勧める

んです?」

コタツに入って向き合った土佐犬に、俺はまずそう訊ねていた。

強面のトベさんはその顔をなお厳めしくして、俺が出した熱い茶を啜る。

「ユキが帰りたがらん気持ちな…。勿論理解できる」

「だったら、なんで避けられるようになるまで強く勧めたんですか?」

「気持ちが理解できるからこそ、だ」

トベさんは憤懣やるかたないといった様子で鼻を鳴らした。

「理解ねえ親に見捨てられて、出ざるをえなかった故郷だ。そりゃあ帰りたくねえだろうさ。けどな兄ちゃん。こいつはチャ

ンスでもあるんだぜ?」

「チャンス?どういう事です?」

首を傾げた俺に、トベさんは「いいか兄ちゃん?」と声を低めつつ、身を乗り出して来た。

「格好の口実なんだよ。成人式ってのは、帰郷の立派な口実だ」

「…はい?」

さらに深く首を傾げた俺に、トベさんは続けた。

「理由でも無けりゃ帰る機会なんかねぇだろうよ、ユキは。帰りたくねぇって気持ちは相当なもんだろう。でもな、アイツの

故郷は嫌でも彼処だけだ。これを期に一回でも帰郷して、同い歳の顔なじみ共と会ってみりゃ、少しでも故郷のイメージが良

くなるはずだ。…ユキにとっての故郷は、もう何年間もトラウマの元のまんまだからな…」

…なるほど…。

確かにナカイ君は、何か理由でもなければ帰郷する気にはなれないだろう。

そしてこのままだと、帰郷しないまま、故郷はいつまで経っても辛い過去と悪いイメージの象徴であり続ける…。

思い出す故郷がそんなんじゃ可哀相だから、トベさんはナカイ君のトラウマを、荒療治で軽減してやりたかったんだな…。

「話を聞いて納得できました。…そういう事なら、俺も帰郷に賛成です」

ナカイ君は嫌がるだろうけれど、帰ってさえみれば友達なんかと久々に会えたりして、いくらかでも嫌な思い出は払拭され

るかもしれない。

それどころか、一度帰郷してみたらあっさりと気持ちが切り替わって、帰る事に抵抗がなくなるかも…。

まぁ、そこまで考えるのはちょっと期待し過ぎかもしれないが、効果はありそうに思える。

昨日は無理して帰らなくても良いって言ったものの、帰郷を促す方向で話をしてみようか…。

そんな風に俺の気持ちが180度変わり、説得のしかたについて考え始めたその時だった。チャイムが軽やかに鳴ったのは。

「ユキか?」

「え?いやでもちょっと早いような…」

首を捻って腰を上げた俺に続き、トベさんも玄関に向かう。

「どうぞ、開いてますよー」

俺がそう声を上げるや否や、ドアが引き開けられた。

そこに立っていたのはナカイ君ではなかった。身なりの良い、そして恰幅の良い、白いたっぷりした髭を蓄えた老人…。

「爺さん!?」

「黒須会長!?」

俺とトベさんの口から同時に声が上がった。

顔を見合わせた俺達は、全く同時に『え?』と声を漏らす。

「兄ちゃん。クロス会長の事知ってんのか?」

「ええまぁ、ちょっとした縁で知り合って…。ナカイ君と親しくなったのもまぁ、この爺さんのおかげと言えなくもないかもっ

てトコで…。トベさんこそ前から知り合いで?」

「会長が現役だった頃にな、当時寂れてたウチらのシマぁ黒須のグループに色々面倒見て貰って、賑わい取り戻してんだよ。

ウチらだけじゃねえ、シャッター通りだった商店街なんかもだ。ユキだって世話んなってるし…」

本人そっちのけで言葉を交わす俺とトベさんを交互に見て、いつものように黒服二名を従えたサンタは、「おほん!」とわ

ざとらしい咳払いをする。

「話はとうちょ…聞かせて貰ったぞい!ナカイ君の里帰り…、実に結構な事じゃ」

「ちょっと待て。今何て言いかけた?」

目つきを鋭くした俺を無視し、「結構結構!」と鷹揚に頷くクソジジィ。

「ワシも説得にあたろう!ナカイ君がわだかまり無く帰郷できるようになれば、まっこと喜ばしい!」

サンタの言葉に、黒服達も無言で頷く。

…まぁこのじいさん、サンタクロースとしてのパートナーでもあるナカイ君の事は、それなりに大事に思ってるっぽいから

な。悪いようにはしないだろう…。

こうして、ナカイ君説得チームは一気に人数を増やした。



「お邪魔します」

ドアを開けて招き入れた俺にぺこっとお辞儀したナカイ君は、部屋に上がるなり居間に陣取る面々を目の当たりにしてちょっ

と仰け反った。

こたつの上座につくサンタと、その両脇を固める直立不動の黒服二名。

その右側には、電話を避けられ続けた事で不機嫌なんだろう、険しい表情の土佐犬。

急に狭くなったように感じる部屋の入り口で、ナカイ君は立ち竦みながら俺の顔を見上げ、目で説明を求めて来た。

「あー、まー、そのぉ〜…。ま、とにかくコタツ入んなよ。体も冷えたろ?」

背中に手を添えて、軽く押して促すと、ちょっと抵抗するような重みを感じたものの、ナカイ君は結局何も言わずに、サン

タと向き合う格好でこたつに入った。

…気分悪くしたかな?トベさんの事避けてるって知ってた俺が、こうして部屋に上げて一緒に待ってたんだから、裏切られ

たような気持ちになったかも…。

…いや、これもナカイ君の為なんだ。後で謝るにしても、まずこの場は話を聞いて貰おう。

俺がこたつの空いている一角に着くと、仏頂面のトベさんは口を開かず、代わりにサンタが話を切り出した。

「さてさてナカイ君や。この度お前さんは、成人式を迎えるほど大人になったのぉ」

その言葉だけで事情を察したらしく、ナカイ君は一瞬身を固くして、「はぁ…」と曖昧な返事をする。

「そこでじゃ。お前さんが帰省したがらん理由については重々承知しとるワシらじゃが…、今回は一度、帰る事を勧めたい」

サンタの話は長く続いた。

細かくて、丁寧で、言って聞かせるような優しい語り口調で、高圧的な所は一切無かった。

ナカイ君自身の判断に委ねる。あくまでもそういう話しぶりだったが…、けれど実際は、ナカイ君に断り難い流れに持って

行っていた。

さすがは大企業のトップに立っていた爺さんだ。この手の説得や説明は慣れっこなのか、上手いもんだとすっかり感心しち

まったよ…。

サンタが話を締めくくると、代わってトベさんが口を開いた。

「俺も会長と同意見だ。とにかく一回帰れ」

やっぱりまだ不機嫌なのか、短く告げた土佐犬の表情も口調も、変わらず厳しいままだ。

ナカイ君はしばらくの間伏し目がちになって黙り込んでいたが、やがて俺の方をちらっと見た。

その、加勢を求めるような、あるいは救いを求めるような目と表情に、思わず「いやいや無理しなくていいんだよ!?」と

か言いたくなるが…、ここはグッと堪える。

「ナカイ君の気持ちは良く判る。けど爺さんやトベさんの言う事は間違ってないと思う。成人式は、帰って出てみた方が良い、

きっとさ…」

俺がそう言った瞬間、ナカイ君の目から期待の光が失せて、暗く濁った。

明らかにがっかりしている小柄な犬の姿に胸の奥がズキズキ痛んだけれど、ころっと態度を変えたくなるのを何とか我慢す

る…。

長い、長い沈黙の後、ナカイ君は顔を伏せたまま、「判りました…」と、か細い声で返事をした。



そして、数日経った日曜日…。

「…と言うわけで…、暇になったんだよ、今日」

鏡を見なくともムスッとしているのを実感しながら、俺は居間のコタツに顎を乗せて突っ伏しながら、客に愚痴った。

いやまぁ、俺も帰省についてはプッシュしたんだし、それで不満を言うのは間違ってるって頭じゃ判ってるよ。判ってるけ

ど…、気持ちはどうしようもないもんだ。そうだろ?初デートがダメになったんだし…。

「はぁ…。それは、残念でしたね。初デートならずで」

そう、言葉を選ぶように言ったのは、向き合ってコタツに入ったままポテチをパリポリ食べている若者。

一見するとそう見えない…っていうか初対面でそう気付くヤツが殆ど居ないが、この丸々太った獣人は、何を隠そう狐だ。

俺が言うのもなんだけど、どこもかしこもまん丸い。ほっぺたなんかプクプクに張っていて顔立ちのシャープさが完全に失

せているから狐だと判り辛い。おまけに背が低いもんだから、手足が短くぽてっとした印象になる。

名前は山岸望(やまぎしのぞむ)。こっちで知り合った友人で、二こ下の23歳。

被毛の鮮やかなきつね色と、長手袋に長靴下を着用したような黒いカラーリングが特徴。

色素が薄い瞳は綺麗な薄茶色で、光の当たり方によっては琥珀色に光る。

以前はそうでもなかったらしいが、数年前に目に傷害を負い、色を識別できなくなった頃から、徐々に虹彩の色が薄れてき

たらしい。

実際、初めて会った頃と比べて、ヤマギシの瞳の色は薄くなっているような気がする。

なお、世界をモノトーンで見ている彼は、光に対して敏感で、強い光を見ると目が痛んだりするらしい。だから屋外…特に

日中はサングラスやゴーグルを着用している。

「僕も残念です。やっと件の恋人さんに会えるかと思ったのに」

微笑するヤマギシに、俺は照れ隠しに鼻を鳴らしてみせた。

実はコイツ、知ってるんだよ。俺がショタコンホモだって事…。

この丸い狐が無害である事は保証できる。割と頻繁に遊びに来るヤツだし、いずれはナカイ君に紹介しようとも思っていた

んだが…。

「それにしても、ビックリしました。「寂しくて死にそうだから遊びに来い!」だなんて…。こんなメール受け取るの初めて

ですよ?」

「んん…。それが他人の手によるものだったら、以後そいつとは関わるなって忠告してるトコだ」

我ながら痛いメール打ったもんだよなぁ…。でも一人で居ると立ち消えになったデートの事が頭から離れなくて、気分がズ

ンズン落ち込んでくんだよ…。

やがて、ポテチを一袋さらっと空にしたヤマギシは、指についた油をティッシュで拭き取り、熱い緑茶をズズッと啜ってか

ら、持参したリュックに手を突っ込んでまさぐり始めた。

ぽってり肉厚の手が取り出したのは、国産の携帯ゲーム機。俺も高校時代から愛用している機種だ。もっとも一回壊れて新

型に買い換えてるけど…。

コタツの上に置いていた自分のゲーム機を掴んだ俺は、電源を入れて通信機能をオンにする。

「ヤマギシはさ、成人式って地元に帰ったんだよな?」

パールシルバーのゲーム機を操作しながら、俺はおもむろに訊ねた。

太った狐は鮮やかなマゼンダのゲーム機の画面を見つめながら「はい」と応じ、ちょっと視線を上げて俺の顔を窺う。

「どんな具合だった?」

「え?どんなって…、何がです?」

「その…、久々に地元に帰って、昔の知り合いとかにも会ったろ?どんな気分かなぁって…」

「それはまぁ…、懐かしかったですし、久々に会えて嬉しい友達も居ましたし…」

何故そんな事を訊くのだろう?ヤマギシの顔にはそんな疑問が浮かんでいる。

「…だよな…。懐かしいし、嬉しいよな」

ナカイ君ほどあからさまに拒絶された訳じゃないようだが、ヤマギシも親からは半ば放り出されていたらしい。だから、も

しかしたらナカイ君の物に近い帰省忌避感もあったのかなぁ、なんて思ったんだが、どうやらすっかり割り切れてるらしい。

おっとりしてるけど、結構芯が強いんだよなぁコイツ…。

ゲームに興じながら、合間に飛び出す話題は他愛のない物に変わり、世間話になり、やがて色恋沙汰に関する物になった。

「そっちは変わりなく、仲良くやれてんの?」

「ええ、まぁ…」

ヤマギシは口ごもるが、少し恥ずかしそうに耳を倒したその表情は、幸せそうな照れ笑いだ。それだけで恋人と上手く行っ

てる事は判る。

「ヤマトさんの方は、どこまで進んだんですか?」

「ん〜…。これといって何も…。ぶっちゃけると、今はまだ一緒に飯食ってダベるだけの関係…」

「付き合い始めたばかりだと、そうかもですよねぇ」

「そう言えばさ、ヤマギシ達はどういう風に知り合ったんだ?」

「え?ん〜…、複雑です。凄く。…ヤマトさんの方は?」

「んんっ?う〜ん…、こっちも複雑だなぁ。かなり。…お!玉来た玉っ!」

「え〜?毛ばっかりですよこっちは」

そんな具合に和気あいあいとゲームに興じ、気分も良くなって来た頃の事だった。

「あ、悪い電話だ」

丁度切りの良い所で携帯が震えて、断りを入れた俺は画面を確認する。

「…爺さん?」

惨太の二文字を確認した俺は、急に嫌な予感を覚えた。

今日という日、爺さんからの電話で連想する物はただ一つ…。ナカイ君の事だ。

午前十時半。ナカイ君は成人式の最中のはずだ。きちんと出席していれば…。

時計を確認しながら「もしもし?」と声をかけた俺の耳に、サンタの深刻そうな声が忍び込んで来た。

『ヤマト君。まさかとは思うが…、そっちにナカイ君は行っとらんかね?』

「いや?今日は会ってない。朝早くに電車に乗って行ったはずだろ?」

『そうじゃ。電車に乗った。それは間違いないわい。こっちで車を出して駅まで送らせたからのう。…じゃが…』

「…何だよ?どうしたんだよ?」

不安が膨れ上がり、我知らず声が大きくなる。

何事か?とヤマギシが窺うような、そして心配そうな視線を向けて来るが、そっちに何か言うだけの余裕は無かった。

『ナカイ君が迷わないか心配だったもんでのう、念のため乗り換えポイント毎に黒服を待機させておいたんじゃが…、ナカイ

君、どこのホームにも現れとらん』

「は…?何だって?どういう事だそれ?」

混乱しかけている俺の耳に、サンタの言葉が続いて飛び込んだ。

『最寄りの駅から正しい電車に乗ったのは間違い無い。が、途中下車したか違うラインに乗り込んだのか…、とにかくおらん

のじゃよ。彼の地元の成人式会場にも最寄りの支社詰めを一人向かわせたんじゃが、会場にも姿を見せとらんようじゃ』

目の前の景色が揺れた。

何がどうなってどんな状況になってるのか把握しきれなかったが、はっきり判ったのは、ナカイ君が消えたっていう事…。

例によって携帯は繋がらないらしい。トベさんにも、ナカイ君の勤め先のお店にも確認してみたが、何処にも居ないそうだ。

サンタからの連絡を受け、ナカイ君が自宅に居ない事を確認したトベさんは、心当たりがある所をしらみつぶしに当たる事

にして、ナカイ君の知り合い達にも声をかけているらしい。

自分達はこのまま引き続き探すと言って、サンタは電話を切った。

通話が切れるなり、俺は慌ただしく携帯を操作し、ナカイ君の番号をコールする。

が、接続後に漏れ出て来たのは、電源が入っていないか電波が届かない場所に居るという、無機質な女性の声のアナウンス。

…一体どうしたんだよ…?何処に行ったんだよナカイ君…!

何かトラブルに巻き込まれたのか?それともやっぱり…、帰省したくなくて、姿をくらませちまったのか…?

ええい!こうしちゃいられない!俺も探しに行かないと!

「…悪いヤマギシ…。呼んでおいて何だけど、実は今、急な用事ができて…」

申し訳なくて項垂れながら詫びた俺に、ヤマギシはゲーム機を仕舞いながら頷いた。

「大丈夫ですよ。それより、出かけるんですかヤマトさん?送りますよ?」

会話の内容はともかく、俺がどうしたいのかはおおよそ察したらしく、頭の回転が良い丸い狐は気を利かせてそう言ってく

れる。

「悪いっ!有り難う!駅まで頼む!」

手を合わせてヤマギシを拝んだ俺は、トレーナーの上に羽織っていた丹前を脱ぎ捨てて、壁際にかけていたジャンバーを手

に取る。

その間にヤマギシは荷物を纏め、手早く出発準備を整えて先に外に出て行った。

財布と携帯をジャンバーのポケットに押し込み、素早く首を巡らせて他に持っていくべき物が無いか確認しつつ、暖房器具

の電源を全て落とす。

急いで靴をつっかけ、玄関から飛び出して慌ただしく施錠した俺は、そこで初めて気が付いた。

綿毛にも似た雪が、ふわふわ舞っている事に。

けれど景色は白くならない。落ちるなり跡形もなく溶けて消える雪は、まるで地面に吸い込まれているようだった。

アパートの階段を駆け下りると、そのすぐ真ん前に、エンジン音を響かせて赤いポルテが滑り込んで来た。

自動で開いた助手席のドアから乗り込んだ俺は、ハンドルを握るヤマギシに礼を言う。

運転用の黒いグラスを鼻梁の上に乗せているヤマギシは、アクセルを踏みながら口を開いた。

「駅で良いんですよね?」

「ああ。頼む!」

「電車に乗るんですか?」

道に出ながら重ねられた問いに、俺は少し考えてから頷く。

乗ったのは間違いない…。そして家にも戻っていない…。

途中下車してそのままなんだろうから、電車に乗って同じルートを辿りながら探してみよう。

何処で降りたかは判らないし、これといってあても無いんだが…、それでも今は動きたい。じっとしていたら気が変になっ

ちまいそうだ…!

俺はいつの間にか、自分でも気付かない内に手を口元に持っていって、親指の爪を噛んでいた。

…ナカイ君…。そんなに嫌だったのか?

もしかして俺は、よかれと思ってああ言ったものの、結局はあの子を追いつめただけだったんじゃないのか?

「電車でどっち方面に向かいますか?」

ヤマギシは雪で湿った道を飛ばしながら問いを重ねる。

「えぇと、とりあえずは…」

少し考えた俺は、ナカイ君が乗ったはずの電車が行く先を思い出しながら、彼が入った駅と電車について説明した。すると

ヤマギシは…、

「それなら…、その駅にはあと十五分くらいで各駅停車が入るはずですから、それに乗れば良いと思います。時間的に見てそ

のひとが乗ったのも鈍行でしょうから、止まる駅も全部同じですし」

と、電車の時間と種類を教えてくれた。詳しいなぁ。

「車持ってるのに電車派なのかヤマギシ?」

「そういう訳じゃないんですけど…、仕事柄使える事もあるから、県内のバスや電車の時間は全部押さえてるんです」

真面目だなぁ…。ってかあれ?ヤマギシって警備会社勤務だったよな?何でバスや電車の時間なんて…。ああ、駅とかバス

停なんかも時々警備したりするのか?学生の登下校とか…。

少し思考が逸れて行ったが、すぐに心配なナカイ君の事に戻る。

車外では積もらずに消える雪が舞い、フロントガラスを濡らしてはワイパーに拭き取られて行く。

この雪と寒さの中…、ナカイ君は今、どこでどうしているんだろう?

何故か、所在なく歩道橋の上に立って、舞い降りる雪に濡れながら、足の下を行き交う車を見下ろしているナカイ君の姿が

思い浮かんだ。

ただの想像なのに、その姿はあまりにも寂しそうで、辛そうで、哀しそうで…、胸が締め付けられ、痛んで、疼いて、苦し

くて、落ち着かなくなる。

やがて駅の前で車を止めたヤマギシは、タクシーなんかで混み合っているロータリーに入るよりは早いと言って、駅正面か

ら両袖に伸びる歩道に車を寄せた。

そして、礼もそこそこに大急ぎで出ようとした俺を呼び止め、オレンジ中心の派手な色彩が目を引く傘を押しつけて来る。

「お気を付けて」

「サンキュー!今度必ず紹介するからな!」

気遣いを有り難く受け取って、濡れた歩道をどたどた走り出す。

ビチャビチャに湿った地面から飛沫が跳ねて靴やズボンの裾を濡らすが、気にしている余裕は無い。

ヤマギシから借りた傘を早速広げて翳した俺は、その柄に苦笑いした。

とにかく派手な赤と黄とオレンジのカラーリング…。ファイアパターンの傘って、センスが良いんだか悪いんだか。

入り口までは距離にして30メートル程度。路肩に止まった誰かを迎えに来た車やタクシーを横に見ながら駆け抜ける。

でかくて幅もある俺が派手な傘を翳して走るもんだから、辺りの人達から奇異の視線と驚きの眼差しが向けられる。頓着し

ている余裕は当然ないから無視。

駅の構内に駆け込んで、終点までの切符を発券機で購入すると、まるで俺の支度が整うのを待っていたように、タイミング

良く列車がホームに滑り込んだ。

大急ぎで改札口を抜け、ホームを走って列車に乗り込んだ時には、常日頃から運動不足な俺はすっかり息が上がっていた。

乗客は結構多い。半数がつり革に掴まっている。

運悪く席は空いていない。でなくても二人分占領する俺は、混んだ電車じゃ存在そのものが迷惑だ。席が空いていたとして

も、他に誰かが立っていれば座るのは躊躇われる。

…もっとも、この図体は突っ立ってるだけで邪魔くさいだろうけどな…。

成人式帰りなんだろうか?着物姿の若い女性の集団が、息を切らせて喘いでいる俺の方を見て、クスクス笑いながら何か囁

き交わしていた。

程なく走り出した電車の中で、前へ前へと移動し、先頭車両に移った。

そう都合良くナカイ君が駅に居るとも思えないが、先頭車両なら減速しながら入ったホームを最初に見回せる。過度に期待

してはいないものの、できる事は何でもしておきたい。

カタンカタン、カタンカタン、と規則正しく耳と体に響く振動と音。

運転室との境に当たる壁に背を預け、列車の揺れに身を委ねながら、恋人の事に想いを馳せる。

逃げ出したくなるほど…、姿をくらましたくなるほど…、ナカイ君は帰省したくなかったんだ…。

一度は、好きにして良いんじゃないか?と俺は言った。

あの時ナカイ君は、凄くほっとしたんじゃないだろうか?

けれど俺は結局トベさんの主張に賛同して、意見を翻した…。

ナカイ君は、裏切られたような気持ちになったんじゃないだろうか?

意見が正しいとか、正しくないとかに関わらず、俺の態度でがっかりした部分もあるんじゃないだろうか?

謝らなきゃいけない。

今回は俺…、最初に甘い事を言って、それから突き放したような格好になっていた。

最初から帰郷を促していたならともかく、甘い顔した翌日にころっと意見を変えていた事で、余計にショックを与えたんじゃ

ないだろうか?

…そもそも俺は、ナカイ君の気持ちを本当に判ってやれていたのか?

気持ちは判る。…そう言うのは簡単だ。

でも本当なのか?本当に判ってたのか俺は?

俺はナカイ君じゃない。ここまで歩んできた道も土地も人生も違う。なのにその気持ちが判るなんてどうして言える?

出会ってからまだ間もなくて、手すら繋いだ事もなくて、まだお互いの事なんか話した分だけしか知らなくて…、それで本

当に気持ちが判るのか?

…たぶん違う。判ってなんかいない。「きっとこうだ」って、ナカイ君の気持ちを想像して、判った気になっていただけだ。

そもそも俺とナカイ君じゃあ、帰りたくないのは同じでも、根っこにある理由が、その重みが、深刻さが、全く違う。

俺は単に、実家や田舎を飛び出したいっていう身勝手な理由で出て来た挙げ句、定職にも就けないでグダグダ過ごしていた

手前、地元に帰り辛くなってるだけ…。ナカイ君のケースと比べれば、情けないほど理由が矮小だ…。

ナカイ君の帰りたくないって気持ちは、俺なんかの比じゃないほど強かったんだよ…。

本気で思いやって提案したトベさんだって、乗ってきた爺さんだって、ナカイ君がどれだけ嫌だったか、本当に理解できて

はいなかったんだろう。

心を鬼にして…っていうけれど、俺達がナカイ君に帰省を勧めた事は、実はかなり残酷な事だったんじゃないだろうか?

全部捨てたくて、忘れたくて、あてどなく彷徨って辿り着いたこの街で、運良く出会えた自分の味方…。けど今回ナカイ君

の目には、そんな頼れるはずの人達が、揃って自分を追い返そうとしたように映ったんじゃないだろうか?

壁を殴りつけたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。

本当にぶん殴りたいのは壁じゃなく自分だ。「気持ちは判る」なんて軽々しく口にして、結局何も判っちゃいなかった。だ

からこうなる事も予想できなかった。

爺さんやトベさんの言う事はもっともだし、きっと正しいと思う。

けれど…、それでも…、俺だけはナカイ君の味方をしてやるべきだったんじゃないのか?言葉を、意見を、態度を、翻すべ

きじゃなかったんじゃないのか?甘やかしでも、誤魔化しでも、間違ってても、ナカイ君の側に立ってやるべきじゃなかった

のか?

誰も味方が居ないのは心細い。ましてやナカイ君にはこの街の皆しか味方が居ないのに…。

心の中で自分を責め、ナカイ君に詫び、悶々としながら通り過ぎる駅をいくつか眺め、その都度彼の姿が無いか見回し、眼

を凝らし、ため息をつく。

気ばかり焦りながら電車に揺られる俺は、やがて電車がある駅に滑り込んだ瞬間、「あ!」と声を上げていた。

周りの乗客の視線が集まる中、大急ぎでドアに寄る。

向こうは俺に気付いていないが、ホームの端でベンチに座り、肩を落として項垂れているあの姿は…!

減速した車両がやがて止まり、ドアが開くのを待ちながら、俺は後方に流れていった彼の姿を、窓に顔を押しつけるように

して窺う。

目を離した隙に消えてしまいそうな気がして、一時も視線を外したくなかった。

程なくドアが開くなり、俺はホームに飛び出してそちらに体を向ける。

…が、直前まではあれだけ駆け寄って声をかけたかったのに、その気持ちは急激に萎んだ。

雨避けの屋根しかついていないホームで、舞い込む綿雪でコートをじっとりと濡らし、きちっと揃えた脚の上に握った手を

置き、肩を落として項垂れ、雪に濡れた足下をじっと見つめるその姿は…、あまりにも寂しそうで、あまりにも哀しそうで、

あまりにもひとりぼっちで…。

…ナカイ君…。

俺は知らず知らずにゆっくりと足を進め、かなりの距離を静かに歩き、気がつけば彼のすぐ傍まで寄っていた。

走り去った電車の足音が遠く消えて、しんしんと降っては溶けて足下を濡らす雪の中、俺は言葉もかけられずに、借り物の

傘を開いた。

ポン、と音を立てた傘に反応し、間近に寄っても気付いていなかったナカイ君が顔を上げる。

俺を見て一度は驚いたその顔が、一瞬で気まずそうな物に変わる。

俺は傘をナカイ君の上に翳し、目を逸らした彼に声をかけた。

「…そんなにも、帰りたくなかったんだ…?」

ナカイ君は押し黙ったまま、頷きもしない。

「…気持ちは判る…。なんて言ったけど、俺、ナカイ君がそんなに嫌だとは思っていなかった…。きっと為になると思って…。

…いや、言い訳だよな、こりゃ…」

ため息をついて、俺は突っ立ったまま続けた。

「…ごめん…。一度は好きなようにすれば良いって言ったのに、俺は周りの意見であっさり言葉を翻した…。情けないよな、

一度は味方したくせにさ…」

ナカイ君は相変わらず喋らない。俯いたまま、俺の顔を見ようともしない。

「ナカイ君…。約束する。もうこれっきり言葉は翻さない。今回はナカイ君の好きにしていい。トベさんにも爺さんにも、俺

から説明する。だから…」

一度言葉を切った俺は、本当はあの時、皆の前で言うべきだった言葉を口にした。

「俺は君の味方だから!俺が君を守るから!だから…、だから、もう泣かないでくれよ…」

揃えた脚の上でぎゅっと握り混まれたナカイ君の手…、その甲が、ポタッポタッと、雪以外に落ちた物で濡れて行く…。

「…く…、です…」

ナカイ君が肩を震わせて、か細い声を漏らした。

「帰りたく…、ないです…!怖いです…!嫌です…!戻りたくなんか…、ないです…!」

目をグシグシと拭い、鼻をすすり上げるナカイ君…。

俺は…、本当のナカイ君をどれだけ知っているんだろう?

しっかり者で、大人びてて、礼儀正しい青年…。そんなイメージでばかり見ていたけれど、本当はどうなんだ?

この子供みたいなナカイ君が、本当の彼なんじゃないのか?

幼い頃から厳しく躾けられて、自由のない思春期を過ごして、あげく大事な時期に親から見放されて…、情緒不安定になら

ない方がおかしい。

いくらかは躾けられた習慣だったとしても…、あのきちきちした振る舞いも、大人びているように感じられる言動も、自分

を守り、不安を漏らさないようにと着込んだ鎧だったんじゃないのか?

帰郷したくないっていうのは、端から見ればただの我が儘で、意気地無しの泣き言にしか見えないのかもしれない。

けれど、そう非難して卑下するヤツの内、一体何人が真に気持ちを理解してやれるだろう?

俺はナカイ君じゃない。トベさんだってサンタだってナカイ君じゃない。

どんなに親しくなっても、結局ナカイ君の気持ちはナカイ君だけの物で、周りの俺達は想像するしか無い。

涙をポタポタ落としながら訴えるナカイ君の姿で、俺は胸が苦しくなった。

気持ちは判る。…時に、これほど相手の気持ちを無視してしまう言葉が他にあるだろうか?

「ならもう帰れなんて言わない。サンタが、トベさんが、他の誰が何て言ったって、無理矢理帰らせたりなんかしない!」

言い放って歯を噛みしめた俺は、堪らなくなって彼の前に回り、その手を取って立ち上がらせた。

「…悪かったよ…。ごめんな?ナカイ君…」

苦しくて、辛くて、申し訳なくて…、俺はナカイ君をギュッと抱きしめる。

握っていた事すら忘れて手放したファイアパターンの傘が、カツッと音を立ててホームに転がる。

小柄な青年の体は、コートが水気を吸って重たくなり、冷たくなっていた…。

堪らない気持ちになった俺の太い胴に、のろのろと上がったナカイ君の腕が回り、頼りなく弱々しいながらも、軽く力を込

めて縋り付いて来る。

周囲の客から視線が注がれている事は何となく判ったが、俺はナカイ君を抱き締め続けた。

こんな俺でも、少しでもこの子を安心させてやれるなら、いつまでだって抱いていてやりたかった。

「ごめんな、ナカイ君…。ごめんな…。ごめんなぁ…」

胸に顔を埋めて震えている彼に、どれだけ謝っても、どれだけ頭を下げても、まだ足りないような気がした。

俺の態度でナカイ君がどれだけ傷ついたか…、想像すると腹が立って、悔しくて、仕方がなかった…。



やがて、戻る電車に乗って、俺はナカイ君と一緒に帰路についた。

当たり前だが、ナカイ君は口数が少なかった。

終始俯き加減で、背中を丸めてお腹の辺りを押さえていた。

言葉少なく語ってくれたところによれば、帰省するように言われてからというもの、ずっと胃の辺りが痛かったらしい。吐

き気すらして、電車に乗っていられなくなったんだとか…。

体が不調を訴えるほどのトラウマを、俺達は今回、よかれと思ってほじくり返してしまったんだ…。

電車の外では、舞い落ちる綿雪がどんどん量を増やして、所々で溶けきらずに積もり始めている。

朝から長時間座り続けていたナカイ君のコートは、すっかり雪の水気を吸っていて、じっとりと濡れて重くなっていた。

コートだけじゃない。ズボンも手袋もマフラーも、しこたま水を吸ってる。

元の駅に着くなり、俺は自分のアパートよりも近い、ナカイ君の部屋に彼と一緒に向かった。

場所は教えられていたけれど、訊ねるのは今回が初めて…。多少ドキドキしないでもないが、気分は浮つかない。むしろ少々

落ち込んでる…。

降りしきる雪が回りを白く埋めていく中、重い足取りで歩くナカイ君を守るように、俺は傘をさして寄り添う。

ヤマギシから借りた傘は俺には少し小さいが、ナカイ君の体を雪から守るには丁度良かった。

ナカイ君の上に翳しているせいで、傘から外れた俺は湿り雪で濡れるけれど、あまり気にならない。ナカイ君はもっともっ

とびしょ濡れなんだから…。

歩くこと15分程。やがて辿り着いたそのマンションは、真っ白くて四角くて、上の方がやや斜めにカットされていて、上

の角を鋭角に掬い取った豆腐のようだった。その色もあって今日は空を覆う雪雲に溶け込むようで、俺の目には輪郭が曖昧に

映る。

ナカイ君の部屋はその豆腐の最上階にあった。

重量制限で引っかかるかも?と心配になるほど狭いエレベーターで上り、緊張しながら玄関から入った俺は、さっぱりして

いて綺麗なその部屋をまじまじと眺め回した。

ナカイ君の話では、屋根が斜めにカットされたせいで生まれたやや狭い部屋は、他の部屋より随分と安いそうだ。

六畳のダイニングと、カウンターで区切られた狭いキッチン。中二階に当たるロフトの上にはベッドがあって、そこが寝室

らしいと察しがつく。

ユニットバスが設置された浴室と、洗濯機なんかが置いてある狭い脱衣場、そしてトイレを除けば、仕切りの壁が全くない

一繋がりの空間だった。

床面積はとことん狭いが、部屋はきちんと整理整頓されていて、むしろ俺の部屋より広く見える。

コタツに入れば正面に見えるだろう小さなテレビには、旧式の据え置き式ゲーム機が繋いであった。他の家具は小さな洋服

箪笥と本が収まったカラーボックス程度しか見あたらなくて、俺と比べて荷物が極端に少ない。

暖房を入れて、石油ファンヒーターに火を入れたナカイ君は、

「…あ、爺さん?」

携帯を取り出した俺が発した声に、ビクッと身を震わせた。

「ナカイ君を見つけた。今一緒に居る。…けど、帰郷は今回無しにしてくれ。…頼むよ…」

爺さんは当然あれこれ質問して来た。けれど俺は今度こそ意見を翻さずに、帰郷の取りやめを訴える。

後日改めてじっくり話をして何があったかも全部説明するからと告げたら、サンタは不承不承といった感じだったが、一応

承諾してくれた。

…さて次は…。

携帯を操作する俺に、ナカイ君が緊張の視線を向けて来る。

おどけて右の眉を上げて笑みを作ってみせ、俺はトベさんに繋がった携帯に、まず一言謝った。

『待てよ兄ちゃん!そんなんじゃユキはいつまで経っても帰れねぇだろうが!?』

ナカイ君は無事に見つけて一緒にいる事、加えて簡単に現状を説明すると、トベさんは一度はホッとしたように声の緊張を

緩めたものの、すぐさま厳しい口調に戻る。

「そんなの判りませんよ。…それに、無理強いして帰らせても根本的な解決になると思えません」

電話の向こうでトベさんが『あぁん!?』と、不機嫌かつドスの利いた迫力のある声を上げて軽くブルッた。…が、俺は勇

気を振り絞る。

「俺、今日ナカイ君を捜しながら色々考えました。ナカイ君が自分から「帰ってみても良い」って言い出すまで、好きにさせ

てやるべきだと思ったんです」

『そんな甘っちょろい事言ってちゃあ、いつまでも…』

「甘くて良いんですたぶん!少なくとも俺は、ナカイ君に対して甘い顔してやるつもりです!」

思わず声を大きくしてしまった俺は、勢いに任せて訴えた。

ナカイ君の気持ちを判ってやった気になって、結局本当の辛さは理解してやれていなかった事…。

ナカイ君は体の調子がおかしくなるほど、そして今日逃げ出してしまうほど、帰郷が嫌だった事…。

そして、今回の帰郷の勧めは、良かれと思っての事だったとはいえ、ナカイ君を追いつめるだけだったのだという事を…。

「そりゃあ、俺の主張が完全に正しいとは思ってません。間違いだらけだろうとも思いますよ。本人の為にならないって言わ

れても仕方ない。それに…」

一度言葉を切った俺は、電話口に手を添えて声を潜めた。

「…せっかくできた恋人…ナカイ君に嫌われたくなくて甘い顔をするってのも、心情的にはたぶんあります…」

電波越しに、トベさんが『ふん!』と鼻を鳴らしたのが判る。正直に言ったけど、呆れられてんだろうなぁ…。

「けど、それをさっ引いても思うんです。ナカイ君の場合、無理強いして帰郷させるのは何か違う…。正しいとは言い切れな

いって」

ナカイ君が故郷を離れているのは、俺みたいな生温い理由じゃないんだ。…彼は、居たくても居られなくなったんだから…。

言いたい事はほぼ言い終えた。これでもまだ反対されて、家まで押しかけられるようなら、もっとしっかり説得の方法を考

えなきゃいけない。

緊張する俺には、トベさんのしばらくの沈黙は居心地が悪い物だった。

『…心底納得…とは行かんし、言いてえ事もあるにはあるが…、兄ちゃんには口じゃ敵わんからな』

やがてトベさんはそんな事を言い、深々とため息をついてから続けた。

『判った。今日はもういい。…それと…、後で直に言うつもりだがな、…ユキにその…、伝えてくれや…。…「悪かった」っ

てよ…』

言い辛そうにボソボソとそう言うと、トベさんは急に、わざとらしく『あー!』と声を出した。

『ユキ探して部屋覗いた時にな、冷蔵庫に突っ込んだもんがある。早めに食えって言っておいてくれ』

「え?冷蔵庫?」

俺が声を漏らした途端、電話は突然、一方的に切れた。

「あの…、トベさんとクロスさんは、何と…?」

会話の中身は大まかに判っただろうが、どういう話に落ち着いたのかはっきりさせたいらしいナカイ君は、おずおずと尋ね

て来た。

かなり緊張していたんだろう。ナカイ君はヒーターをつけた直後から、硬い表情を浮かべて突っ立ったままだ。

「帰郷しなくて良いってさ。…二人とも完全に納得した訳じゃなさそうだけど、ナカイ君の気持ちを優先してくれるって。そ

れと…、トベさんがさ、後で直に伝えるつもりらしいけど、「悪かった」って…」

携帯をポケットに突っ込んだ俺は、ジトッとした抵抗に顔を顰める。

…予想以上に水吸ってるなジャンバー…。部屋が暖まって来たから温度差で気付いたけど、トレーナーとシャツまでかなり

染みてるぞ?

ハッと気付いて下を見れば、ズボンじわっと変色して腿に張り付いてる…。

「ふぁ…、ふぁ…!ふぁぶっしょい!」

急にぞくぞくっと来て、盛大にくしゃみする俺。

「だ、大丈夫ですかヤマトさ…、あ…、あふっ…、ふしゅっ!」

つられたように可愛いくしゃみをするナカイ君。

つい顔を見合わせたら、微苦笑だったけれど、ナカイ君はやっと笑ってくれた。

「あの…、上着、乾かしますから…」

おずおずと言って手を伸ばすナカイ君は、いつの間にかファンヒーターの前に室内用簡易物干し台を出していた。

腰までの高さがある折り畳み式のソレに、俺のジャンバーと自分のコートを並べて干すと、ナカイ君は向き直って深々と頭

を下げた。

「済みませんでした、ヤマトさん…。それと、有り難うございます…」

「いや、済まなかったのはこっちの方だよ。…あと、何でお礼を言われるのか判らないんだけど?」

じっとり湿った頭を掻きながら顔を顰めると、顔を上げたナカイ君は、真っ直ぐに俺の目を見つめ、それからふいっと、恥

ずかしげに逸らした。

「…ヤマトさんが探しに来てくれなかったら…、迎えに来てくれなかったら…、私はいつまでも、どうして良いか判らなくて

あそこに座っていました…。子供みたいに、逃げ出したまま…」

きっと、面と向かって反論せずに、何も言わずに逃げ出す事を選んだ自分を恥じているんだろう。

確かに、最終的に取った行動自体は子供っぽいと言えない事もないが…、トベさんやサンタの言う事も一理あって、自分の

気持ちは言葉にし辛かったから、言い返せなかったんだよな…。

「あの後どうしようか、考えていなかったんです…。だから、ヤマトさんが来てくれた時、申し訳なく思ったし、叱られるん

じゃないかとも考えましたけれど…、嬉しかったんです…」

申し訳なさそうに、そして気恥ずかしそうに小声で言ったナカイ君は、「ふしゅんっ!」とまたくしゃみをする。

「着替えた方が良いよナカイ君!風邪引いちま…、う…、う…!うべっしょい!」

品のないくしゃみをかまして鼻をすすり上げた俺に、小柄な青年は心配そうな目を向けて来た。

「大丈夫ですか?…ご、ごめんなさい…!私のせいでびしょ濡れに…」

「いや、こっちは勝手に好きでやった事だから…」

「お風呂湧かしますから、体を温めて下さい」

「ああ、それがいいよ。一回シャワーでも浴びて着替えた方がいいよナカイ君。びしょびしょだもんなぁ」

「いえ、私よりヤマトさんが…」

ナカイ君は脱衣場の方に行くと、壁についたパネルをピッピッと軽やかな電子音を鳴らして操作する。

部屋は俺のアパートより狭いが、清潔だし設備は近代的だ…。

「いやいや大丈夫、俺は平気だからね?何せホラもっさりしてるし脂肪分厚いし北国育ちだし…、べふっしょぉい!」

「ほら!全然大丈夫なんかじゃないです!ヤマトさんこそ風邪を引いちゃいま…、ま…、まっぷし!」

譲り合いながらも、鼻水が出てムズムズしてくしゃみが止まらない俺とナカイ君。

ズボンまで濡れているせいで座ることもできず、ファンヒーターの前で突っ立ったまま、いやいや、どうぞどうぞ、いえい

え、の譲り合いをしばらく繰り返した後、

「そ、それじゃあ…、一緒に入りませんか?」

ナカイ君がそんな事を言い出した。

え?と思った。

そりゃあ思うだろ当然。

そしてその言葉の意味が、中身が、じわっと脳に染み込んで理解されると…、血の巡りが一気に加速し、顔が熱くなり、鼻

水がつつっと垂れた。

「な、ななな何っ!?」

わなわなと口元を震わせて言葉にならない声を漏らした俺に、ナカイ君はそっと目を伏せて恥じらいながら続けた。

「わ、私が勝手をしたのに…、ご迷惑をおかけして濡れ鼠にしてしまったヤマトさんより先に温まるなんて…、自分で許せま

せん…」

迷惑だなんて思っちゃいないが、俺だってナカイ君より先に風呂に入るのなんて御免だ。どう見たってナカイ君は華奢で丈

夫そうには見えず、すぐにも温まらないと本当に風邪を引いちまいそうだし…。

断るべきだと頭の何処かで声はするものの、しかし格好の口実だと張り切る欲目も間違いなく胸の中に居座っている。

何と返事をするべきか迷いに迷った俺の手、その人差し指と中指を、ナカイ君のほっそりした指が遠慮がちに握って来た。

「…嫌ですか?」

嫌じゃない。嫌なんかじゃない。そういうんじゃない。

それなのに俺の中では臆病さと遠慮が大きくて、欲望に任せて頷いてしまう事ができなかった。

…良いのかな?本当に良いのかな?お、俺…、確かにナカイ君と付き合ってる事にはなってるけど、まだ日も浅いし、図々

し過ぎやしないだろうか?

交際経験がない俺には、二人で一緒に風呂に入るのが早いのか遅いのか良く判らない。いやたぶんこの進展は早いだろう。

でもこれは確かに、一気に親密になる絶好の機会ではあって…。何より向こうから誘ってくれているんだから、ナカイ君は

嫌ではないはずであって…。

そんな、心底嫌がっている訳ではない俺の本心を見透かしたように、ナカイ君はそっと手を引く。

決して強くはないその手の導きで、俺の抵抗心が急に薄まった。

心臓がドコドコ言って胸を内側から激しく叩く。

血液が全身をぐんぐん巡って体が火照る。

手を引かれるまま狭い脱衣場に入った俺の顔を、ナカイ君は円らな瞳で見上げて来た。

きっと、俺が本当は嫌がっているのかと、改めて確認しているんだろう…。

「は…、入ろうか…」

冷たくなった服を着たまま、彼の体は小刻みに震えていた。

ずっとそのままで居たらナカイ君が冷え切ってしまいそうな気がして、俺は率先して服に手をかけた…。



「何だかもう色々と済みません本当にごめんなさい何て言ってお詫びすればいいのか私ったらもう自分でも呆れるほど浅はか

で考え無しでうっかり者で…」

項垂れながらぼそぼそと呟くナカイ君は、気の毒なほど縮こまっていた。

小さな湯船の中で正座しているナカイ君に、俺はシャワーを浴びながら笑って見せる。

「いやほら、むしろこれは俺が悪い訳で…。そう、悪いのは俺がデカくてデブな事」

ユニットバスは小さかった。

たぶん普通に見ても小さいだろうその湯船は、太い俺にはあまりにも小さすぎて、入れないのは一目で判った。

いや無理すればある程度は入れるだろうけど、絶対に湯がなくなる。…と言うよりも、無理に入ったら填って身動きが取れ

なくなる事請け合いだ。

「冷静に考えれば気付けたのに…、こんな…!」

「いや気にしないで良いって本当に。シャワーで十分暖まれるから」

自分だけ湯船に入るのが申し訳なかったのか、ナカイ君は落ち込んでいる。

俺的にはもう全く問題無し。温かいシャワーを浴びたら、被毛に染みて冷えてきていた水気の不快さはなくなった。濡れた

部分から霜を纏うようになる醒山の冬に比べれば、遥かにマシだしな。

ナカイ君は時折ちらちらと俺の様子を窺って来る。本当は怒っているんじゃないかと不安そうに。

けれど俺は、もっと気になる事があった。

ナカイ君の裸体は勿論、彼が最初に見せた表情だ。

素っ裸になった俺を見たナカイ君は、小さくため息らしい物を漏らした後、ちらっと下の方に目を遣ってから、そっと視線

を逸らしていた。

たぶんあれは俺の股間を確認していたんだろう。

ぼよんと突き出ただらしない俺の腹の下には、股間にまでこんもり盛った土手肉と被毛に半ば埋没した、まあまあ太いもの

の図体に比べて短く小振りなナニ…、それはもう気を付けした状態だと腹が邪魔になって見えない程短いという問題多き愚息

が居る。

そこへ視線を向けた直後に目を逸らされた事がどうにも気になる。哀れまれたんだろうか?それとも引かれたんだろうか?

一方で、線の細い華奢な体付きのナカイ君は、あそこは標準サイズだった。つまり長さじゃ間違いなく負けてる。

ほっそりしたナカイ君の体は、湯に濡れて毛が寝るとボディラインが際立って見えた。

やせぎすって程じゃないんだが、適度にほっそりしていてモロに俺のツボ。

腹部がなまめかしくくびれて、尻尾の下には理想的な肉付きのヒップライン…。胸板は薄くて、当然ながら首や肩、腕や脚

は、衣類を着ている時以上に華奢…。

強く抱きついたら壊れそうなその体の感触を、この手でじっくりと確かめたい衝動を、俺はぐっと堪える…。

努力の甲斐無く股間で愚息が半勃ちになってるんだが…、まさか気付かれてないよな?

考えている内にカッカと体が熱くなって来て、俺は表情を読まれないように顔を伏せて、頭からシャワーをかぶる。

太めが好みとは言ってくれているが、この度を超してだらしなく肥えた体を、ナカイ君はどう見ているだろう?そこが気に

なった。

…気になるといえば、裸で居る事で体臭も気になった。

弛んで垂れた胸を、窪みがない脇の下を、そして臍を、最も重要な股間を、匂いが発散されないように手早く、入念に流す。

胸がドキドキして気もそぞろ。おかげで手付きも少々ぎこちないが、それでも一通りシャワーを浴び終えた俺は、ナカイ君

に送り出されて先に脱衣場で体を乾かす。

が、この時初めてその事に気がついた。

…俺、着替えねぇじゃんか!

仕方なくバスタオルを借りて腰に巻き、ナカイ君に「もういいよ〜」と声をかけ、リビングへ移動…。

シャツもトレーナーもズボンもアウト。着たらまた体が冷える。

褌だけは腰横だけちょっと湿っているだけで、かろうじて無事だった。これをファンヒーターの風に当てて乾かして、そそ

くさと身に付ける。

…で、褌を締めた上にバスタオルを巻いた俺を、着替えて現れたナカイ君は、「あ!?」と声を上げ、目をまん丸にして見

つめた。

「き…、着替えっ…!」

彼もその事に気付いたらしく、頭を拭っていたタオルを落として絶句している。

「わ、私のをお貸ししま…!あ…」

言いかけた言葉をみなまで言い終えず、ナカイ君は口をつぐんだ。どう贔屓目に見ても君の服は着られないよ、俺には…。

「…す、済みません気がつかないで!」

「俺が気付かなかったのが一番の問題だよ。気にしない気にしない」

…とは言ったものの…、水気が抜けきってないせいでちょっと寒いか?

俺の様子を見かねて、ナカイ君は脱衣場から乾いたバスタオルを数枚運んでくると、腰に巻いた湿った物と交換するように

促して来た。

有り難くお借りして一枚腰に巻き、残りを首に巻いたり肩からかけたりした俺は、次いでナカイ君が何処からか持ってきて

くれた毛布を羽織る。

…あ…、ナカイ君の匂い…。これ、ナカイ君の寝具じゃないか!?

思わず大きく息を吸い込み、その匂いを胸一杯に吸い込んだ俺は、慌てているナカイ君に勧められてコタツにつく。

小さな乾燥機に俺の衣類を押し込み、慌ただしくキッチンに行って電子ポットからお湯を注ぎ、熱いインスタントコーヒー

を淹れてくれたナカイ君は、向かい合わせでコタツについて平謝りする。

いいよいいよと応じる俺が、逆に申し訳なくなるほどの謝りっぷりだった。

「あの…。本当に済みません…。何から何まで上手く行かなくて…、ご迷惑をおかけして…」

「だーかーらー!迷惑じゃないから!…あ、そうそう!忘れるとこだった!さっきトベさんがさ、冷蔵庫に何か入れたって言っ

てたよ。そういえば「早く食べろよ」みたいな事も…」

「はい?冷蔵庫?」

首を捻りながら立ち上がったナカイ君は、キッチンに足を運ぶと、「あ…」と、小さく驚きの声を上げた。

やがて戻って来た彼の手には、有名菓子店のデザインが確認できる小箱…。

「「成人式祝い」…だそうです」

箱の上に乗っていたメッセージカードを見つめ、ナカイ君は今にも泣き出しそうな顔をする。

「…トベさん…。ごめんなさい…。ありがとうございます…」

堪えきれなかった涙が、ナカイ君の目の端からポロッと零れる。

心から祝ってくれている事が、本心から想ってくれている事が、ナカイ君には伝わったらしい。

そうだよ。トベさんはいつだって真剣にナカイ君の事を考えている。俺なんて最初に品定めされたしな。…ナカイ君の為に、

良かれと思っていたんだよ、今回の事だって…。

「きちんと…、謝らないと…」

「そうだなぁ。…トベさんも謝りたいみたいだし」

頷いた俺は、しかし直後に顔を顰めた。

空気を読まない腹の虫が、ぐきゅぅ〜っ!と、ケーキを催促したせいで…。そういえば昼飯抜きだった…。

ちょっとビックリしていたナカイ君は、しかしすぐさまクスクスと笑う。

「早速頂きましょうか?ヤマトさんのお腹も可哀相な声で鳴いてますし…」

言葉でちくっとつつくナカイ君。俺は気まずさ混じりの苦笑いを浮かべ、ただただ頭を掻いて恥ずかしさを紛らわせた。

早速ナイフを持って来たナカイ君が箱を開けて、ホールケーキがお披露目される。

トベさんのチョイスは何となくあのひとらしいって感じられる、飾り気の無いチョコケーキだった。

「あのさ、説教ってんじゃないんだけど…」

ホールケーキを切り分けてくれるナカイ君に、俺は静かに語りかける。

「付き合いが浅い俺が言うのもなんだけどさ…、トベさんも、爺さんも、ナカイ君をそりゃあ本当に…、本当に大切にしてる

んだと思う…。それだけは判ってやってくれないか?」

判ってる。ナカイ君はきっとトベさんや爺さんの事を悪く思ったり、恨んだりなんてしていない。

けど、俺だけ甘い顔して味方面するのは、やっぱりちょっと違うと思うんだ。ちゃんと弁護しておかないと、あっちだけ悪

者になっちまうよ…。

ナカイ君はナイフを動かす手を止めて、少し黙った後にこくりと頷き、小さく「はい…」と言った。

「判っているんです。私も…。いつかは何かあって、どうしても帰らなくちゃいけない時が来るかもしれないって…。でも…、

気持ちが重くなって…、足が竦んで…、お腹が痛くなって…、どうしても…、電車に乗っていられなくなって…」

ナカイ君は顔を上げて、痛々しい作り笑いを俺に向けた。

「情け無いですよね?子供みたいで…」

その無理矢理作った笑顔を目にした俺は、何て言って良いか判らなくて黙り込む。

そして、良く考えもせずにこう言っていた。

「俺さ、ナカイ君に黙ってた事がある」

一度ケーキに視線を落としたナカイ君は、俺の声で再び顔を上げる。

「俺も、成人式に出なかった。だから本当はこの間も、皆と一緒になって偉そうな事が言える立場じゃなかったんだよなぁ実

は…」

ナカイ君は少し目を大きくし、きょとんと俺を見つめた後、肩を震わせてクスクス笑い出した。

「ズルいですよ!ヤマトさん」

「だははぁ!だよね!」



トベさんがナカイ君の成人式祝いにと用意してくれたケーキは、美味かった。

悪い気がしたけど、ナカイ君が食べきれないって言うから、結局俺が半分以上ご馳走になった。

水気をたっぷり吸っていた俺の服は、無駄にでかい事と、ナカイ君の家の乾燥機が旧式で小さい事もあって、なかなか乾か

ない。

その内肩から冷えて来て、俺は「ぶしっ!」と、またくしゃみをする。

「あ、寒いですよね?ヤマトさんはその格好だし、特に…。暖房も弱いでしょうか?」

ナカイ君は気を使って立ち上がり、壁の操作パネルで暖房を強くしてくれたけれど、なかなか暖まらない。

おかしいなぁ?もしかして俺…、田舎を出て何年も経つし、こっちの気候にすっかり体が馴染んでるのか?

こっちは道北に比べて気温は高いし、この間のクリスマスを襲った寒波を除けば、そんなに堪える寒さになる事なんてあん

まり無かった。だからキツい寒さを感じる事なんてそうそう無かったのに…。

首を捻っていると、暖房を操作してから窓際に寄ったナカイ君が、カーテンを開けて外を見るなり、「わぁっ!」と声を上

げた。

「何?どうかした?」

首を伸ばして窓を見遣った俺は、我が目を疑った。

窓ガラスにびっしり雪がついて、景色が白い。

もしかしてと思って立ち上がると、驚いた事に景色はすっかり雪化粧していた。

…俺、こっちに来て初めてだ…。こんなに雪が降ったのを見るのは…。

俺達が部屋に入る頃にはかなり強まっていた雪は、どうやらその後も勢いを増していたらしい。今は見渡す限りの屋根が完

全に白く覆われている。

「凄いですね…!こんなに降るなんて、この街でそうそう無い事なんじゃ…」

「ああ。少なくとも、もう30センチ以上行ってるぞ?凄い勢いだなぁ…、まだまだ降りそうだ」

「どうりで冷える訳ですよね…」

「うん」

後ろに寄った俺が頷くと、ナカイ君は言葉を切った。そしてぴくっと体を震わせる。…ん?

「あ!ご、ごめん!こんなやばい格好で…」

寄りすぎて腹を背中に押し付けていた俺は、ナカイ君からパッと離れた。

半裸の大デブが真後ろからくっついたんじゃ、びっくりもさせるだろうなぁ…。

ところがナカイ君は、

「い、いいえ…。そういう格好も…、セクシーですよ、ヤマトさん…」

と、振り向かないまま呟く。

…セクシー…?え?今セクシーって言ったか?

我が耳を疑っていると、部屋の電気がぷつっと消えて、暖房の音が止む。

「ん…?停電か?」

一時揃って天井の灯りを見上げていた俺達は、やがて顔を見合わせる。

「ちょっとブレーカーを見てきますね」

ナカイ君はそう言い残して脱衣場に入り、しばらくしてから首を捻って戻って来た。

「ブレーカーじゃないみたいです。停電…なのかも?」

窓の外を見れば、止む気配がないどころか一層激しい降りになっている雪。しかも窓に張り付いた状態を見るにぼた雪だ。

重みで電線が切れたのか?

「確認して来ます」

ナカイ君は管理者に訊いてみると言い、部屋着のままで出て行った。

電力供給が途切れたこたつに入って待つことしばし、戻って来た彼は、弱ったように眉を八の字にしている。

「送電線でトラブルだそうです。切れたらしいって…。この付近の狭い範囲で、軒並み停電と聞きました」

「うわマジで!?」

停電は普段でも困るが、今俺は電力を頼りに濡れた服を乾かしていた。これじゃあまだまだ時間がかかるなぁ…。

「この辺りだけじゃなく、あちこちで同じような状況だそうです。電車もストップしているし、高速道路なども全面通行止め

とか…。それにしても困りましたね…」

顎に手を当てて唸ったナカイ君は、ハッと、何かに気付いたように俺を見る。

「や、ヤマトさん?寒くないですか?」

「え?いや、まだこたつは暖かいから…。あ」

俺も遅れて気付く。復旧が早く済めば問題ないが、もしも遅れたら…!?

他の場所…、例えば俺の部屋に移動しようにも、服は湿ったままで乾燥機の中…、外を出歩けない!

「コタツに潜っていれば平気でしょうか?」

「だね。ちょっと行儀悪いけどそうさせて貰…」

言葉を切り、俺はコタツを見る。

…小さい…。そして低い…。

これ、俺が潜れるスペース無いぞ…?体の厚みでコタツが浮くって。手足だって納まり切らないって。亀みたいになるって。

やや遅れて気がついたらしいナカイ君は、慌てて室内を見回す。

窓から入る雪で白くなった光は、日中という事もあって灯りが必要ないほどの光量をもたらしてくれる。屋外からの白い光

が照らす綺麗に片付いた室内には…、暖を取れそうなものが無い。

「弱りました…。電子ポットだし電磁調理器だし、石油ヒーターも電気が来ていないと動かないし…」

ぶつぶつ言いながら部屋の中をうろついていたナカイ君は、「へぶっちぃ!」と、俺がくしゃみをした途端、弾かれたよう

に振り向いた。

「お、お布団に入っていた方が良いかもしれません!」

「ん…。けどナカイ君はさ、寒くない?」

服は着ているものの、暖房器具が無いのは一緒だ。今は良くてもじきに厳しくなるだろう。

ナカイ君もそれは考えていたらしいが、いざとなれば重ね着するつもりだと言う。

「だからヤマトさん、私の寝床で申し訳ないですが…」

ロフトを見遣ったナカイ君の口が動きを止めた。

ここでも俺の体格がネックになった。ロフトに上がる木目調の梯子はおしゃれだが、いかんせん細くて頑丈そうには見えな

い。200キロを超える俺の体重を支えてくれるかどうかは甚だ疑問だ。

…そこ笑わないように。梯子やら脚立には多いんだよ!重量制限100キロ以下とか、そういう根性無しが!結構気を遣う

んだよ俺みたいなのは!

しばし黙り込んでいたナカイ君は、やがて大きく一つ頷くと、梯子を上ってロフトに入り、掛け布団と敷き布団をボスッ、

ボスッ、と次々投げ落とした。

何をする気なのか最初なのか判らなかった俺だったが、ナカイ君が枕を投げ落としたその時、やっと気付いた。

ナカイ君、下に布団を敷き直すつもりなんだ…。

「小さいかもしれないですけれど、こたつと併せればきちんと全身を隠せると思います」

てきぱきとこたつを移動させてスペースを確保し、布団を敷いて連結させたナカイ君は、床を整え終えると、正座して「ど

うぞ」と手で示す。

まるで仲居さんのような所作を見せたナカイ君に、俺は苦笑いを浮かべ、向き合って正座しつつ…、…大いに戸惑った…。

どうぞって…、いや、なんかこれ入り難いぞ?

「どうぞって言われてもさ…。流石に「こりゃどうも」とは入り辛いって」

「でも、ヤマトさん寒いでしょう?風邪を引いてしまったら困ります。…さ、遠慮なく横になって下さい」

早くも風邪を引いたような扱いになっているのは気のせいかいナカイ君?

しかしアレだ。寒くなってきたとはいえ、一人だけ布団に入ってぬくぬくするのも…。

「なんならホラ、あれだ!一緒に布団に入ってれば、もっと暖かいんじゃないか?」

誤魔化しの為に冗談めかして言った俺は、ナカイ君の表情がじわりと変化した事に気付き、へらへら笑みを消す。

ナカイ君の表情が硬い。…まずい、調子にのって機嫌損ねるような事言ったか…?

部屋の中を気詰まりな沈黙と、緊張を帯びた空気が漂う。

わ、話題…!何か話題を探して話を逸らさないとっ…!

「そうですね…。くっついていた方が…温かいですよね…」

「は…、はははははいぃっ!?」

ぼそっと出たナカイ君の声に、ビクつきながら過剰反応する俺。

「添い寝しても…、良いですか…?」

声を潜めたナカイ君は、顔を少し俯け、窺うような上目遣いで俺を見つめて来る。

それが、出張ホストとして培われたものなのか、それとも生来の仕草なのかは判らない。

だが、その戸惑うような、遠慮するような、そして慎重に何かを見極めようとするような表情は…、とても可愛くて、グッ

と来た…。見ているだけでこう、ムラムラ来るような…、誘いと媚びすら含んでいるように感じられた…。

熱を帯びた眼差しを受けながら、俺はゴクリと唾を飲み込む。

…い、良いのか?良いのかこんな展開?俺ひょっとして狐にでも化かされてんじゃ!?

そう言えばヤマギシと会った。デブデブなせいでちょっと狐に見えないが狐だアイツも。

アイツ俺にこっそり催眠術でもかけたんじゃないだろな?借りた傘とか実は木の葉だったりしないだろうな?

緊張で喉が渇く。期待とか欲望とかそういうのもあって…、俺は次第にナカイ君の目に吸い寄せられるように、視線を外せ

なくなって行った。

「…寒い…ですよね…」

「うん…。寒いよね…」

まるで言い訳するように、口実を確認するようにそう言い合って、俺とナカイ君は布団に寄り、そっと捲り上げた…。



…熱い…!

ナカイ君とぴったりくっついて呼吸を浅く、早くさせながら、俺は目をギンギンにしている。

横向きに寝転がって布団を被っている俺は、ああ何という事か!この腕にナカイ君を抱いているっ!

仰向けに二人寝たんじゃ狭い。俺にはナカイ君の布団はちょっと小さいんだ。その上二人一緒じゃ明らかに面積が足りない。

だからこうして向き合って抱き合う格好で布団に潜り込んでいるんだが…。

ナカイ君の吐息が胸元と首を撫でて無茶苦茶興奮する!

やばいやばいやばいよこれやばすぎる!緊張と興奮で体が火照って熱を持つ!

布団の中に体温が籠もるだけじゃなく、シャワーを浴びた後なのに、体臭まで籠もりそうで心配になった。…だって油汗滲

んで来てるし…。

身を寄せ合ったナカイ君の体は、思った通り毛がフワフワで、筋肉と脂肪が薄い華奢で柔らかな感触で、とにかく温かい…。

不思議な事に、初めて味わうはずのその感触は、何処かで経験した事があるような気もした。

細い…。柔らかい…。温かい…。良い匂い…。

胸一杯にナカイ君のほのかな体臭を吸い込み、深い部分で味わう。

…これ、夢なんじゃ?俺、夢とか見てるんじゃ?もしかしたらクリスマス辺りから全部夢なんじゃ?本当は現実の俺ってイ

ブの夜に一人寂しくこたつで寝てるんじゃ?

だってデブで不細工でモテる要素が全くちっともさっぱりない俺がこんな可愛い子と付き合えるとかどう考えても恵まれ過

ぎてるもん欲望とか願望とか色んなもんが混じった都合の良い夢見てるだけだったりしても不思議は無いしさっき考えたよう

に丸い狐に化かされてる可能性も…。

ネガティブな思考から生じた疑惑に翻弄されかけていた俺は、突然それを打ち切って現実に引き戻される。

腕枕していた俺の右腕の上で、ナカイ君の頭がちょっと動いたせいで。

背中に回りきらずに俺の脇の下に上がっていたナカイ君の右手が、そっと移動して弛んだ脇腹を撫でた。

「…ヤマトさん…。もしかして、寝苦しくないですか…?まだ冷えます?」

「えひ!?い、いやいやいやいや大丈夫!大丈夫だからうん!大丈夫大丈夫!」

ちっとも大丈夫じゃない俺は何が大丈夫なのか判っていないまま大丈夫を連呼する。

が、ナカイ君は顔を伏せる形で俺の胸に押し付け、密着度を高めて来た。

カチンと硬直した俺の腹を撫でながら移動し、ナカイ君の手は臍の付近へ、そして下っ腹へ、そして股間へと…。

カチコチに固まった愚息へ褌越しにソフトタッチされた俺は、ビクンと全身を震わせた。

ああ…!もしかして俺、今日このままナカイ君と性的な行為に移るんだろうか?

ホモの後輩や先輩なんかとはスキンシップとしてチンポ弄りあったりした事もあったが…、本番の経験は当然無い。

それに、ナカイ君みたいな本当にタイプな子とそんな事をした経験は皆無。どこまで落ち着いていられるか判らない。

だが、何よりも俺を緊張させ、萎縮させているのは、実はもっと別の事だ。

…こんなにも可愛い、年下のナカイ君は…、こう見えてその道の熟練者だ。何せ裏職業としてデリヘルしてたんだから!

年上でありながら童貞の俺は、一応こう…あるか無しかの面目を保つためにも、事前準備というか心の準備というか予習復

習というか…、とにかく十分に下拵えを済ませてから失敗や失礼がないように事に臨みたかった訳で…。

しばらくは股間に当たったまま動かなかったナカイ君の手が、さわさわと動いてそこをくすぐり出す。

も、もうここまで来たら俺自身の欲求を抑えるのも難しい!

覚悟を決めて欲情に身を任せ、失敗しようが上手くできなかろうがとにかく行為に及んでしまおうかと考え始めたその時…。

「…あ…」

ナカイ君の口から漏れた声と同時に、俺は天井を見遣っていた。

灯りが、戻った。

どうやら停電が復旧したらしく、部屋が明るくなったと同時にコタツの中に入っている足先が暖かみを覚える。

「い、いやぁ良かった!思ったより早く直って!は、はは…!」

コレ幸いとばかりに身を起こした俺は、取り繕うような笑顔を作って天井を見つめ、ナカイ君の顔を見ないようにした。

まともには見れなかったんだ。ナカイ君の失望の表情が、目の隅で確認できたから…。

「これで服乾くなぁ!じめっとしたまま着て帰らなくて済みそうだ!はは…、はははは!」

乾いた作り笑いに、ナカイ君は少し抑えた声で「そうですね…」と呟いた。

が、気を取り直したように身を起こすと、

「あの…、今日、お夕飯は食べて行けますか?あまり良い材料が無いですけれど、チャーハンとかなら作れますから…」

「え?あ、う、うん!ご、ごちそうになって行こうかな!」

慌てて頷いた俺に微笑みかけ、ナカイ君は立ち上がる。

…正直に言う。俺はビビってた。

決して欲望が無いわけじゃない。単に、上手くできなくてナカイ君に呆れられたり、嫌われたりしたらどうしようかと…、

そういう怯えの方が強かったんだ。

今の今、行為に及ばなくてホッとしてた事は、ナカイ君にはバレバレだったはずだ…。

それについて彼が不満も言わなければ非難もして来なかった事に、またホッとしてる…。

我ながら情けなくなるほどの小心さだ…。でかいのは図体ばかりでノミの心臓だよ…。

暖房や乾燥機のスイッチを入れ直し、飯の支度をしてくれながら、俺とナカイ君はとりとめもない話をした。

ナカイ君の声が軽やかで明るかったのが、胸に痛かった…。

…俺の臆病者…。



記録的な大雪に見舞われ、交通機関が麻痺したの、怪我人が出たのと、連日地元のニュースが雪のことで賑わい、一週間が

過ぎた。

もっとも、ナカイ君にとっては深い雪よりも、騒がせた皆への挨拶回りなんかでごたついた一週間だったようだが…。

彼は相変わらずほぼ毎日訪ねて来てくれるが、一緒の布団に潜り込んだあの日の事は、一度もお互いの口に上っていない。

あの時ナカイ君が俺を求めてくれたのは、まるで夢だったように…。

そして今夜も、あの日の事は話題に上がらないまま、夕飯がこたつの上に並べられた。

ボリューム満点、ネギたっぷりの牛丼は、真ん中に生卵が乗っている。

「さあ、熱いうちに召し上がれ」

向き合って座ったナカイ君が、眩しい笑顔を向けて来る。

食欲をそそる香りに生唾が湧いてくるが…、一旦我慢して、俺はこたつに手を突っ込んだ。そして…、

「じゃじゃーん!ちょっと早いけど、バースデープレゼント!二十歳おめでとう!」

うちの店で包装された箱を、愛しの恋人に差し出した。

「…え?」

不意を突かれたナカイ君は、ビックリした顔を次第に綻ばせ、済まなそうに耳を伏せる。

「え?わ、私に!?…あ、あの…。済みません…。有り難うございます…」

はにかんだような笑みを浮かべ、上目遣いに見つめて来るナカイ君は…、無茶苦茶可愛いかった…!

「ささ!遠慮しないで開けてみなよ!な!」

おずおずとプレゼントを受け取ったナカイ君は、包装を丁寧に開け、小さく息を吸った。

「こ、これ…!高いんじゃないですか!?」

ナカイ君が戸惑いながら見下ろしているのは、二つのパッケージ。携帯ゲーム機とその人気ソフトだ。

俺も学生だった頃からやってる大人気ハンティングアクションシリーズの最新バージョンで、今もちょくちょく遊んでる。

特に寮生活だった高校の頃は、仲間達と散々やったっけ…。

ナカイ君はトベさんからのお下がりで旧式の据え置きゲーム機をたくさん持っているものの、携帯型ゲーム機は一つも所持

していない。何が良いか迷った末のチョイスだが、悪くないだろ?

「これなら一緒に遊べるし、良いかなぁって…。どう?」

反応を窺った俺は、ナカイ君から返事は無かったものの、しかし満足して貰えた事だけは悟った。

だって、目が子供っぽくキラキラしてんだもん!

「飯食ったらさ、早速やろうか?自慢じゃないけど俺、結構やりこんでるから、コツとか教えてやれるよ。手取り足取り!」

得意分野でリードできる事が嬉しくて、俺の声は少し上ずった。

抱えていたプレゼントをじっと見つめていたナカイ君は、顔を上げて花が咲いたような笑顔を俺に向けてくれた。

「ヤマトさん…。凄く嬉しいです。有り難うございます!」

ナカイ君の顔を見て笑みを返しながら、つくづく思う。

恋人としての触れ合いの方は、相変わらず待たせて申し訳ないが…、やっぱり失敗とかしてこの顔を曇らせたくない。

…きちんと勉強して、早いとこテクニックとか覚えないとなぁ…。