兄君捜索人の突発来訪

 雪が薄く積もった歩道を踏み締め、駅前のゲームショップに向かう。

 そこは中古品も扱っている店で、俺もずっと前からちょくちょく売ったり買ったりしている。

 …仕方ねぇんだってば。新品ばっかり買ってられねぇんだってば。俺年末までずっとフリーターだったんだってば。仕送り

まで受けていた身分だからそんなに贅沢できねぇんだってば。

 北国育ちの俺でも肌寒い今日は、自動ドアが開いて暖房がきいた店内の温度を感じると、それだけで歓迎されている気分に

なる。

 店員さんも顔なじみばかりの慣れた店内を闊歩しつつ、目当ての品を探して棚の間へ…。

 申し遅れた。俺は大和直毅(やまとなおき)。毛並みが薄茶色の羆種獣人で、ピッチピチの若人。見た目よりずっと若い。

本当だ。

 やたらでかくてどこもかしこも丸い肥満体。横にしても縦にしても幅を取るばかりであんまり役に立たない家電製品みたい

に言われる事もしばしばだが、この図体と肉付きを気に入ってくれている恋人が…、恋人が…!恋人ができて恋人居ない歴も

二十四年でストップ!

 何を隠そう今日ゲームショップに来たのも、その恋人…ナカイ君のためだ。

 小柄で細身で可愛らしいナカイ君は、複雑な事情があって多数の大人に半ば保護されているような生活環境だったんだが、

そんな中で貰い物のゲーム…、特に結構レトロなゲームなんかで暇つぶしをしていたそうだ。その間に若干古めの物がツボに

なる性質になったらしくて、やや古い落ち物ゲームなんかが好きだとの事。

 そこで、携帯ゲーム機用にリメイクされた物…と言っても数年前のなんだが…、とにかくそれをプレゼントしようと思った

訳だ。

 いやまぁ、二人で居る時は一緒に狩るけどさ…。ソロプレイがあんまり進んでいないっていうか…、実際一人で遊ぶのはナ

カイ君には難易度高いっぽいんだよな、あのゲーム…。それでまぁひとりの時にな、こう、ナカイ君が暇で暇で困ってたら可

哀想だし…。

 …ナカイ君、喜んでくれるかなぁ…!

 そんなこんな考えてほんわかしている内に買い物は完了。今夜はナカイ君が遊びに来る予定だし、早いトコ帰って部屋の掃

除をっ…!気にならないって常々言ってくれてはいるものの、綺麗にしておくに越した事は無い!

 パリパリした袋に入ったソフトを仕舞ったショルダーバッグを小脇に抱え、ナカイ君の笑顔を思い浮かべ、足取りも軽く駅

前のバス乗り場へ向か…、ん?

 俺の足が止まったのは、今まさに思い浮かべている姿と重なる物が、少し前を歩いていた事に気付いたせい。

 駅の方に向かうロングコートを着た犬獣人の後頭部と背中を見ているだけで、俺の短い尻尾はピコピコ勝手に動き出す…!

 ナカイ君も駅前まで買い物に来たのかな?あれ?今日は店番の日じゃなかったっけ?まぁいいや!早速プレゼント渡しちゃ

うか!?それとも家で落ち着いてからにするか!?

 ウキウキしながら歩調を早めて近付いた俺は、「ナカイ君!」と声を掛けて呼び止める。…が…、あれ?

 立ち止まって振り向いた犬獣人の顔を見て、俺も足を止める。

 たぶんまだ成人していない。薄茶色…というか、色が明るすぎて黄色っぽくも見える被毛に覆われたその子は、ナカイ君と

はあんまり…いや、ちっとも似ていない。

 生地が分厚い綿入りロングコートのせいで、後ろからだとボディラインが今一つが判らなかったが、幅がある小太り体型で、

ポコッと腹が出ていた。

 被毛がもわっと立っているおかげで顔の輪郭がやけに丸い。子犬的な丸顔だな…。でも吊り目気味なせいか、気が強そうに

も見える。

 何となく満月みたいな子だな。色も形も…。

 …何で見間違えたんだ俺?全然似てなんかいないってのに…。

「…すいません。どっかで会ったっけ?」

 満月の黄色にも似た毛色の犬は、訝るように眉間に皺を寄せた。

「ご、ごめんごめん!人違いだった!たはは…!」

 気まずさを苦笑いで誤魔化しつつ頭を掻いた俺は、さっさと退散しようと脇を抜け…、

「待って」

 抜けられなかった。黄色い少年が手首をガシッと掴んだせいで。

「何処かで会ってないですか?オレと…」

 何やら考え込んでいる様子で眉間に寄せた皺を深くする黄色い少年ワンコ。

「いや、気のせいじゃないか?知り合いと間違えて声かけちゃったけどさ。…自慢じゃないけど俺、一回見たら忘れられない

面相って良く言われるんだ。思い出せないならやっぱり初対面だよ」

 俺の言葉で納得したのか、黄色い少年は手を離す。

「そう…か…?…そうかも…。すいませんでした」

 ペコッと頭を下げ、黄色い少年は少し恥ずかしげに耳を倒す。「いやいやこっちこそ」と返した俺は、そそくさと歩き去る

彼の後姿がすぐそこの角を曲がって消えるまで何となく見送ってから歩き出し…、ふとある事に気付いた。

 ナカイ君の鼻は結構珍しい、色抜けしたような肌色だ。先天的に色素が薄めだからそういう色なんだって、前に聞いた事が

ある。

 さっきの子も鼻が肌色だった。珍しいな…。

 強く吹いた寒風に体をなぶられ、ぶるるっと身震いした俺は、首を縮めて帰路についた。



 そして、時刻は夜の九時半になり…。

「寒かったろ?さぁ上がって!」

 寒い中遊びに来てくれた恋人を、俺は急かすようにして部屋に招き入れた。…鏡を見るまでもなく自分の顔がだらしなく緩

んでいるのが判る…。

 戸口に立っているのは、ロングコートとブーツの防寒スタイルで身を固めた、すらっとスレンダーな体型と整った可愛らし

い顔をした犬青年。

 中井雪之丞(なかいゆきのじょう)君、二十歳っ!生まれて初めてできた俺の恋人っ!

 コートの肩に水滴がついているのを見るに、外では雪がちらついているのかもしれない。

「お邪魔します」

 上品に微笑んだナカイ君は、ブーツを脱ぐために玄関に腰かけると、毛糸の手袋を外し、かじかんだんだろう手を擦り合わ

せて「はぁ〜…」と息を吐きかけた。…寒いもんなぁ今日は…。あ!

 ブーツを脱ぎにかかったナカイ君の背中を見下ろしながら、俺は恐る恐る距離を詰めた。

 …お、俺達はほら、一応つ…付き合っているわけだし…!恋人なんだし…!「俺の体であっためてあげるね…」なんて、う、

後ろから抱きしめてキュッとやるくらいはオッケーだよな…!?…いやちょっとキザか?いやいやオッケーだよな!?なっ!?

 心臓をバクバク言わせながら、俺は両腕をそっと伸ばして…。

 …あ、やばい。結構汗かいたけど風呂まだだった。もしかして汗臭くなってる?た、体臭どうなってる!?

 慌ててトレーナーの襟を摘んで、胸元で匂いチェック…。大丈夫だ。たぶん。鼻が慣れて体臭が気にならない可能性も無き

にしも非ずだが…、大丈夫だ!自信を持て!

 …いや待てよ?突然後ろから抱き付いたらビックリするんじゃ…?一言断るべきか?

 …って待て待て待て!こういうのは何気なくさらっとやってこそだろ!?そもそも断り入れるのがまず無理!絶対言えやし

ないからそんな事っ!事前告知無し、抜き打ちでやるべきだろこういうのは!

 …でも、よくよく考えてみると、こんなトコで後ろから抱き付いてあっためてうんぬん言うより、さっさと炬燵に案内して

ヒーターに当たらせてあげるべきじゃ…。

 違う!迷うな!こういうのは効率じゃないんだよ俺の馬鹿っ!雰囲気が大事!雰囲気がっ!

 やっと意を決した俺は、改めてナカイ君の体を囲うように腕を伸ばしかけ…。

 …あ。

 ブーツを脱ぎ終えたナカイ君が振り返る寸前に、俺は出しかけていた手を引っ込めた。

「あ…。寒いんですから、待っていてくれなくとも…」

 少し恥ずかしげに、でも嬉しそうに言って尻尾を揺らすナカイ君。

「あ、う、うん。でもほら折角だからっていうかなんて言うかひとりだけ先に炬燵行っちゃうのも…」

 曖昧な半笑いを浮かべて応じる俺。

 …俺の臆病者ぉっ!



「間違えたんですか?私と?」

 プレゼントを渡して、買い物後に起きた一件を話して聞かせたら、ナカイ君は耳を倒して笑った。

「いやー、顔から火が出そうに恥ずかしかった!」

 苦笑いする俺と、「そんなに似たひとだったんですか?」と微笑むナカイ君の間には、彼の半保護者的な存在…土佐犬のト

ベさんに持たされたっていうスパークリングワインと、一緒に貰ったデパ地下のローストビーフ。

 顔は怖いがナカイ君にはとことん優しくて親身なトベさんは、こうして頻繁に酒や肴を持たせてくれる。

 成人して間が無いナカイ君は、ついこの間飲酒し始めたばかり。まだ自分でも酒の好みが判らないらしくて、トベさんは色

んな種類の酒を持たせる。今日のスパークリングワインは甘口でアルコール度数が低い物だ。

 …俺が思うに、トベさんも本当はナカイ君と一緒に飲みながら、好み探しを手伝ってやりたいはずだ。トベさんは離婚して、

子供と離れ離れになっている。息子さんと年の頃が近いナカイ君には特別な感情を抱いているんだから…。

 けど、たぶん気を遣ってくれているんだよなぁ。交際を認めてくれたから、俺とナカイ君が一緒に過ごすべきだって考えて

いるんだろう。

 お誘いして一緒に…っていうのも手だけど、俺、あのひとと一緒だとちょっと緊張するんだよな…。

 …トベさんおっかねぇんだよ…。顔とか口調とか…。

 そういえば高校時代のいっこ下にも顔と口調が怖いヤツが居た。けどアイツはそんなにおっかなくも感じなかったんだよな。

周りからは怖がられていたものの、俺には気を遣ってくれたし、態度はぶっきらぼうだが慕ってくれていたし…。

「ヤマトさん?」

 ナカイ君の声で、俺はハッと我に返り、「あ、ごめん!」と耳を寝かせる。

「いやそれが、何で間違えたのか俺もさっぱりなんだよ。全然似ていなくてさ…」

「え?似ていなかったのに…?間違えた…?んですか…?」

 物凄く不思議そうなナカイ君。小首を傾げて視線を上向きにしているのは、どうして間違えたのか理由を考えているからな

んだろうが…、か、可愛いなぁこういうあどけない仕草も…!

「俺もソコが不思議なんだよ。ポッチャリ系でムクムクで、顔の輪郭も丸いし、顔付きも体付きも全然似ていなかったんだけ

ど、ロングコート着込んでて後ろ姿じゃパッと見体型が判らなくってさぁ。…おっと御免!」

 ボトルを持って、慣れた手付きで空になったグラスにワインを注いでくれたナカイ君は、「ああ、なるほど」と相槌を打っ

た。お返しに半分まで減っていたグラスに注ぎ返してあげながら、俺は「それでもやっぱり不思議なんだよなぁ…」と、少年

の顔を思い出す。

「歩き恰好なんかが似ていたのかもなぁ…。でも毛色も違うから、冷静に考えたら判りそうな物なんだよ」

「え?私、そんなに変わった歩き方をしているんですか?」

「いや別に変わってるわけじゃないよ。ただ俺がいつもナカイ君をガン見してるからってだけで…」

 ………。

 俺とナカイ君の間に、妙な沈黙が降りた。

 妙な事を口走った事に気付いて俯く俺と、何だかちょっと照れているようなナカイ君…。は、恥ずかしい…!

「あ、に、似てるトコ一か所だけあったな!うん!」

 苦し紛れの誤魔化しにかかった俺に、「は、はい?どんな所でしょう?」と乗っかってくれるナカイ君。

「鼻。ナカイ君と同じでさ、肌色だったんだよその子」

 珍しいだろ?と続けようとした俺は、結局言わずに口を閉じた。

 ナカイ君の目が、驚いたように丸くなっている…。

「鼻が肌色…?」

「そう。ナカイ君とそこだけ似て…」

「毛色は?毛色は何色でした?」

 ナカイ君がぐっと身を乗り出し、俺はきょとんとした。

「えぇと…、物凄く薄い茶色って言うか…、黄色っぽかったかな…」

 俺の言葉を聞くなり、ナカイ君は体を戻した。…何だか…、呆然としているっぽい…?

「月乃助…!」

 小さな小さなナカイ君の呟きは、微かに震えていた。まるで動揺しているように…。



 これは、しばらく動揺していたナカイ君が、落ち着いてから話してくれた事だ。

 ナカイ君には弟が居る。

 中井月乃助(なかいつきのすけ)。ナカイ君が勘当された今、跡取りとして家を継ぐ事になるはずの次男…。今年高校を卒

業する十八歳だそうな…。

 むくっとした黄色い被毛。ぽっちゃりした体格。背丈は並だがやや骨太。気が強そうな吊りあがり気味の目…。

 ナカイ君が口にした特徴は、俺が出会ったあの子のそれと一致している。

 なお、似ていないのは見た目だけじゃなく、性格もそうらしい。

 ナカイ君とは違って、行動的で頑固、奔放でやんちゃな所があるとか…。これは、当初は家を継がされる予定じゃなかった

から、それほど厳しく束縛された生活を送って来なかったからじゃないかとナカイ君は言う。自分と違って普通の少年期を過

ごして来たから、と。…途中までは、だけど…。


「私が家を出た後は、跡取りとして教育されているはずです。…あの子は手習い程度にしか茶道を学んでいなかったから、生

半可な指導じゃ追いつけない…。きっと父は、相当厳しく接しているはずです…。だから…」

 ナカイ君は目を伏せて、小さな声で語る。

「もしかしたら、耐えられなくなって逃げて来たのかも…」

 う…わぁ…。

 何と言っていいか判らなくて、俺は口を開きかけては閉じ、開きかけては閉じ、何も言えないままパクパクさせる…。

 そうしている内にちょっと気になる事ができて、ようやく声を出した。

「弟君は、ナカイ君がこの街に居るって事は知らないの?」

「え?えぇ、知らないはずです。家にはずっと連絡を入れていませんから…」

「ああ、だから「会いに来た」って発想が無い訳か…」

「え?」

「いやほら、こんな所で偶然…とか考えるよりさ、こういう時は会いに来たって考えるもんじゃないかなぁと思って…。そう

か。それだったら逃げて来たって考えるのも無理はないよな」

 ナカイ君が黙り込む。俺も同じく、引っ掛かりを覚えて黙り込む。

 しばらく経ってから、ナカイ君は考えながら口を開いた。

「私、家を出された時は、とにかく遠ざかりたい一心でしたから、この街に来たのは偶然です…」

「うん…」

「縁があったとか、知っていたとか、そういう事は全くありません…」

「うん…」

「だから、ツキノスケは私の居場所を知らないはずです…」

「うん…」

「逃げてきたとすれば、この街に来るのは偶然のはずですけれど…」

「うん…」

「…有り得るんでしょうか?終点でもない、乗り継ぎが無いわけでもない、大都会という訳でも田舎というわけでもないこの

街に、私も弟も偶然やって来るなんて…」

「有り得ないとは言い切れないけど…」

 俺は口を閉ざし、ナカイ君も黙り込む。

 可能性は、そんなに高くない…。

 駅の中に居たんじゃない、弟君らしき少年は駅の外に出ていた。ただ通りすがったんじゃなく、この街で降りた訳で…。

「…探しに…来た…とか…?」

 俺が口にしたその言葉に、同じ事を考えていたらしいナカイ君が頷く。

「でなければ…、両方かな…?家出して、ナカイ君を頼ろうと…?」

「でも、どうして私がこの街に居るって…」

 ナカイ君はもっともな疑問を口にする。だがそこは判らないんだよな…。可能性としては目撃情報を伝え聞いたとか、ちらっ

と何かに写真で載ったとか、テレビに映ったとか…。どれも無いとは言い切れないが、情報が少な過ぎて何とも…。

「駅前…ですか…」

「う、うん。駅前だった…」

 それきり、俺とナカイ君は黙り込んだ。

 ナカイ君は、弟君を探しに行く気かもしれない。いや、会い辛いだろうけれど、家出して頼って来たんだとしたら放ってお

けないだろうし、当たり前だよな…。

 でも俺は、胸の奥が重苦しくなっている。

 ナカイ君には言わなかったが、口にした他にも、弟君がこの街に来た理由が思い浮かんでいる…。

 でもそれは、俺にとってはあまり有り難くない事で…。

 不安を押し隠すようにグラスをグイッと煽って、甘いワインを飲み下す。…酔いたいのに、アルコールが薄い…。

 ナカイ君はいつものように、グラスが空くなりすぐさま瓶を手にして注いでくれた。

 何か喋らなきゃ、と思うのに…、話題が出てこない…。

「あ…、明日、さ…、ちょっと探しに行ってみようか?」

「え?」

 俺の提案に、一度は驚いたような顔をしたナカイ君だったが、すぐさま小さく二回頷いた。自分の気持ちを確かめるように

して…。

「…人違いかもだけど…」

 気付けば俺は、小声で言い訳するように付け加えていた。

 自分の小心さと汚さを実感して、胃の辺りがグルグルして気分が悪くなる…。

「明日の朝、店に行く前にさ、今日会った所まで行ってみるよ」

「あ。それなら私も一緒に行きます」

 ナカイ君は少し身を乗り出す。

「朝だけで見つからなかったとしても、場所がどの辺りか判ればひとりで探せますから!」

「う…、うん。そうだね」

 頷いた俺は、胸の中に重たい物を感じたまま、「じゃあ明日、何時にしよう?」と時間の確認をする。早い方がいいだろう

し、遅れて出勤する訳にも行かないし…。

「八時くらいから駅前を探せば、もしかしたら…。いや、七時の方が良いか?探しに来たんだったら、早くから動いてる可能

性も…」

「それじゃあ、七時でも良いですか?」

 ナカイ君はどうやら乗り気な様子。…当たり前か。気になるよな、弟の事だから…。

「じゃあ、ちょっと早いけど七時に駅前で…」

 そう言いながら俺は時計を見遣り、黙り込む。

 もうじき午前零時…。何なら泊まってけば?なんて言える度胸があれば良いのに…。

「あの…」

 ナカイ君はモジモジしながら口を開いた。

「御迷惑でなければ、ですけど…。今夜泊まらせて頂いても良いですか?朝に一緒に出発できるように…」

 ドキンと胸が高鳴った。

「あ、う、お、そ、それは勿論っ!とと泊まってって!うん!一緒に行く方が良いしねっ!」

 心臓がバクバク言う。俺が酔い潰れて寝たりして結果的に朝帰りになる事はあっても、ナカイ君が泊まると言い出したのは

これが初めて!何より、朝に一緒に起きるのは明日が初めて!こ、これはもしや憧れの朝チュン…!

 と、舞い上がったのも束の間。ナカイ君に黙っている事がある俺は、後ろめたさからだろう、気分がピークのままじゃいら

れなかった…。

「そ、それなら早めに休まないとね!あ、風呂は湧いているから、先にどうぞ?」

「いえ、ヤマトさんがお先に…」

「いやほら、俺デブだから、入ると湯が減って…、ははは…!湯船も浴室も狭いからさ!だからナカイ君が最初に…!」

 …本当は、前に一回そうしたみたいにナカイ君と一緒に入れれば良いんだが…。ちょっと気分が乗らない…。罪悪感があっ

て…。申し訳なくて…。

 結局ナカイ君を先に風呂に入れた俺は、その間に体臭が染みていない予備の冬用シーツとタオルケットを敷布団に被せて、

ナカイ君の寝床を用意した。俺の分は夏用の薄い敷布団を引っ張り出して、普段のシーツとセットにして完成…。

 本当はドキドキの楽しい夜になるはずが、初めて布団を並べたこの夜、俺はただ寝付けないだけの重苦しい時間を明け方ま

で味わった…。



「冷えますね…」

 はぁっと白い息を吐いたナカイ君は、当たりを見回している俺の顔を見上げた。

 朝七時の駅前は、電車を足にする為の人通りがあって、そこそこの混み合い様。

 夕べ少し降った雪のせいで、壁際なんかには白く吹き溜まって、歩道はそこかしこで薄化粧していた。

 俺とナカイ君は邪魔にならないように道の端に寄って、並んで歩道を眺め、人波の中に黄色い犬の姿を探している。

「この辺りだったんですか?」

「うん。確か…」

 念の為にゲームショップと駅の位置関係を考え、景色を重ねてみたが、記憶違いは無い。この道で会ったはずだ。

「俺があっち側から歩いてきて…、それで、彼はこの辺りから…あっちに行って…、それからあの角を曲がったんだ」

 状況を説明した俺だが、曲がった通路が手掛かりにならない事は確認済み。何せ駅方向へL字に折れているだけで、通りに

ホテルがある訳でもない。宿泊しているとすれば駅前のカプセルホテルやビジネスホテルの線が濃いから、駅から伸びるこの

通路こそ警戒が必要なポイントだろう。

 だって、すぐそこには牛丼屋があるし、ラーメンのチェーン店もコンビニもある。駅の中のコンビニは小さいし混むから、

使うならこっち側だろうし…。

「ナカイ君はここ張ってて。俺は駅前のロータリーが見える歩道橋で張り込んでみるから」

 俺は仕事があるから引き上げ時は決まっている。合流する時間を決めて一旦別れ、二カ所で張り込む事にしたが…。

「…はぁ…」

 ナカイ君と十分に離れてから、俺はため息をついた。

 足が重い…。気が重い…。

 ナカイ君には悪いけど…、実は俺、弟君と会えなければいいと思っている…。

 それは…、不安だからだ…。

 弟君は、ひょっとしてナカイ君を連れ戻しに来たんじゃないだろうか?

 例えば、お父さんの許しが出たとか…。でなければ弟君自身が、跡を継ぐのを嫌がって、ナカイ君を元通り跡取りに据えようとしているとか…。

 …もし。もしもそれで、ナカイ君が帰ってしまったら…?

 許しを貰って、家に帰れる事になったら…?

 ナカイ君にはその方が幸せかもしれない。もし親と和解できるならこんなに嬉しい事はないだろう。

 …でも…、そうなったら俺は…。

 気付けば、いつの間にか俺の足は止まっていた。

 …俺は…、また独りだ…。ナカイ君が帰っちゃったら、俺はまた…。

 胃の辺りが重くて、気分が悪い…。胃もたれしているように…。

 俺は汚い…。汚くて情けない…。

 ナカイ君の為を思うなら、帰れる事は喜ばなきゃいけないのに…。俺は今、ナカイ君の幸せよりも、自分が独りに戻らない

事を望んでいる…。

 駅前の太い道路にかかる歩道橋に登り、広く見渡してまたため息をつく。

 さて、駅前と、それからビジネスホテルが並んでいる通りに、ナカイ君が居る通りに曲がる角もここからなら見える。この

配置なら見落とすポイントは無いはず…。

 足の下を通る車の音を連れながら、冷たい風が歩道橋に強く吹き付けた。手すりを抜ける物悲しい風音を聞いたらなおさら

肌寒く感じた俺は、ブルッと大きく身震いする。

 …すっかりこっちの気候に慣れたせいか、昔と比べて寒さに弱くなったような気がする…。

 首を縮めて視線を動かし、頭の隅で見つからなければ良いと考え、ナカイ君に悪いと感じて罪悪感を覚え、昨日見た黄色い

顔を思い浮かべ…。



「…居ないな…」

 二時間以上経ってから漏らした十数度目の呟きには、若干の安堵が混じった。

 弟君、昨日あれから電車に乗って、他の駅に移動したんじゃないだろうか?もうこの街には居ないんじゃないだろうか?

 ここ以外じゃ探しようもないし、見つからなかったら今回は縁が無かったって事で、ナカイ君も諦められるかな…?

 うぅ…!それはそうと、寒風で冷やされ続けてキンタマも膀胱も縮こまってる…!いよいよ小便がつまってトイレに行きた

くなってきた…!

 俺の方はそろそろタイムリミット…。ナカイ君と合流する時間だ。やっと降りられる…!

 太腿の辺りの感覚がおかしい。ずっと立っていたせいで体重を支え続けた足はすっかり硬くなっている。かじかんだ指もむ

ず痒くなってきた…!

 早々と歩道橋を降りにかかった俺は、ナカイ君が居るはずの通りに視線を向けて…、

「おっちゃん!」

 誰かが誰かを呼ぶ声に耳をピクつかせながら階段に足をかけて…、

「おっちゃん!待って!」

 早く返事してやんなってばおっちゃん。焦ってるっぽい声じゃな…、ん?あれ?この声…?

 階段を降りかけた所で振り向いた俺は、黄色い犬の丸顔を認めて「あ」と声を漏らした。

 おっちゃんって俺の事…いやいや!弟君!?

 弟君は挑みかかるような目で俺を見つめながら、真っ直ぐ歩いてきた。俺はと言うと、怒っているような弟君の剣幕に圧さ

れて、最初の声を発するタイミングを失っていた。

「絶対に会ってないはずなのに、どっかで会った気がした訳が判りました」

 弟君は歩み寄りながら言う。

「おっちゃんアンタ…、昨日俺の事「ナカイ」って呼んでましたね?何でオレの名字知ってるんですか?」

 鋭い眼で俺を見ながら…。

「誰と人違いしたんですか?」

 逃がさないぞと目で語りながら…。

「ひょっとして、オレと似てない犬とですか?」

 本当の事を話せと、表情で語りながら…。

「ナカイって犬獣人と間違えたんじゃないんですか?」

 俺の前で足を止めた弟君は、顔を睨み上げて来る。まるで、俺がナカイ君を隠していると言わんばかりの態度と表情だ…。

「いや、あの…」

 その通り。君のお兄さんと間違えたんだ。それでナカイ君も気になっているから、一緒に君を探していたんだ…。

 と、話がこじれない内に言ってしまえば良いのに、俺は口ごもって、その態度を不審に思ったらしい弟君の表情がさらに険

しくなって…。

「何を隠してるんですか?もしかしてアンタ…?アンタが兄ちゃんをたぶらかしたのか!?」

 え?

 えええええ!?何の話っ!?

「アンタが兄ちゃんに変な事吹き込んで、男好きにさせたんだな!?」

 え!?ちょ!?な、何がどうなってそんなっ…!?

「アンタがオレから兄ちゃんを奪ったんだな!?」

 唇をめくり上げて凄む弟君は、丸顔なのに愛嬌が全くない獰猛な顔付き…。デブの真顔って結構怖いっ!俺もデブだけど!

「おい!黙ってないで何とか言えよ!兄ちゃんを出せ!」

 喉の奥で低く唸りながら弟君が伸ばした手が、俺の胸倉を掴んでトレーナーを捻じり上げる!せ、背は低いのに結構腕力が

あるっ!ってかこの子本当にナカイ君の弟!?性格荒過ぎないか!?

「ちょ、ちょっと落ち着こう…!ね…!?落ち着いて話を…」

「兄ちゃんをどこにやった!?会わせろ!」

 えええええええええええっ!?会話がちっとも成立しねぇんだけどこの子ぉおおおおおっ!?

 何かもう誘拐犯とか人攫いとかそういうのを見る目で俺を見てるよこの子ぉおおおおおっ!?

 胸倉を掴んだままゆっさゆっさ俺を揺する弟君!

「ままま待てよちょっ!?落ちるっ!落ちるってば後ろ階段っ!」

 慌てて弟君の手首を掴んだ俺は、火事場の馬鹿力で引っぺがす。トレーナーの胸元がダルーンってなったけど構っちゃいら

れない!

「お、落ち着いて話を…」

「放せっ!今度はオレを誘拐する気かっ!?」

 俺に手首を掴まれたまま無茶苦茶に暴れる弟君。本当にこの子ナカイ君の弟なの…、

「べうっ!?」

 目を見開いた俺は、そのまま前のめりになって背を丸めた。

 腹の底まで突き抜ける苦痛。一瞬遅れて何かが当たったのが股間だと悟る。そして…、耐え…難い…!あの…痛み…!

「お…、おおおふ…!おおおおぉっ…!」

 歩道橋の上で、右手で股間を押さえ、左手をついて崩れる俺。

 な、何て災難っ…!

「吐け!兄ちゃんの居場所を!」

 俺の前で屈んだ弟君が…容赦ねぇっ!

 涙が滲んで視界が揺れて、呼吸もままならない俺の耳に…、

「ツキノス…ヤマトさんっ!?」

 天使の声が届いた。いや救い主かも。…この格好は見られたくない情けなさだけどな…。

「あ…」

 俺の後ろから階段を駆け昇って来るナカイ君を見て、弟君が表情を和らげて声を漏らした。

「見つけた!兄ちゃ…!」

 顔を輝かせ、崩れ落ちている俺を迂回して兄君に駆け寄ろうとした弟君は、

「何をしているんですかツキノスケ!?」

 予想外に鋭く大きなナカイ君の声でビクンと震え、動きを止める。

 そして俺の後ろに回ったナカイ君は、腰の後ろを軽くトントントントンと叩き始めた。

「だ、だって兄ちゃん…!兄ちゃんをたぶらかしたのコイツなんだろ!?コイツのせいで兄ちゃんはホモになって家を出たん

だろ!?悪党じゃないかこのおっちゃん!」

 おっちゃんじゃねぇんだよ弟君…。よく間違われるけど俺まだ二十五なんだよ…。

「お黙りなさい!人聞きの悪い…!ヤマトさん…この方とは、年末に出会ったばかりです!私が家を出たのは家長の意向!私

がホモなのは私自身が原因です!」

 …あの、ナカイ君…?兄弟揃ってそんな大声で歩道橋の上からホモうんぬんの話はちょっと…。

「で、でもアレだろ!?今はコイツが兄ちゃんを縛り付けてるんだろ!?」

「ヤマトさんはそんな事していません!父親のように見守ってくれて世話を焼いてはくれますが…、ますが…」

 …ち、父親のように、か…。何か言いたそうに口ごもるナカイ君。何だかちょっと悔しそうだ…。

「けど、大きな声で言えないような目に遭わせたりしてるんだろ!?夜な夜なっ!」

「ば、馬鹿っ!大きな声でいう事じゃないでしょう!?それにヤマトさんは奥手な方で、そこまで積極的じゃありませんっ!」

 大きな声で何言ってんの君達っ!?ってかナカイ君の言葉が時々突き刺さるっ!

「騙されてるんだよ兄ちゃんは!みろよコイツ!不細工だし物凄いデブだしやたらデカいし、どう考えてもモテないタイプだ

ろ!?兄ちゃん、何か都合の良い事とか吹き込まれて騙されてるんだよ!」

「ヤマトさんは誰かを騙すようなひとではありませんが、あえて言いますよツキノスケ!ヤマトさんが私を選んだんじゃあり

ません!私が望んでヤマトさんと交際させて頂いたんです!それでどうやって騙すと言うんですか!?」

「それでも何かあるんだよ!このスケベ親父は何か企んでるんだよ!」

「お黙りなさい!この分からず屋っ!」

 …なお、この再会直後からエキサイトしている兄弟の言い合いは、キンタマを押さえてブルブルしてる俺を挟んで、ナカイ

君が腰の後ろをトントン叩いてくれながら続いてる。…絶対シュールだこの光景…。

「ヤマトさん。大丈夫ですか?立てますか?」

 ナカイ君がそう言って脇に回り、肩を貸してくれたのは、数分経って舌戦が落ち着いてからだった。…というよりも、ナカ

イ君が言い合いを切り上げたというべきか…。

「ツキノスケ!ヤマトさんに謝りなさい!」

「何で謝んなきゃいけないんだ兄ちゃん!」

「言いがかりをつけた上に暴力まで振るったじゃありませんか!謝りなさい!」

「はいはいどーも済みませんでしたー!」

「何ですかその謝り方は!?」

 怒って睨み合う二人…。な、仲悪いのかこの兄弟?いや、最初はそんな感じじゃなかったはず…。

「あ、あのさ…。俺はそんなに堪えてないから…」

 背筋真っ直ぐにしては歩けそうにないけどな…。しばらく前屈みだけどな…。

「そう熱くならないで、ちょっと落ち着いて話をしてみた方が良いんじゃないかな…?弟君がどうして来たのかとか、まだ何

も聞いてないし…」

「兄ちゃん探しに来たに決まってんだろ!このデーブ!」

 間を取り持とうとした俺に敵意満面で即座に言い放つ弟君。子供かっ!?

「ツキノスケだって太っているじゃありませんか!自分の事を棚に上げて太っている事を悪口にする物じゃありません!」

 なかなか微妙なフォローを入れるナカイ君…。いやまぁデブじゃないって言われたら確実に嘘なんだけどさ…。

「物には限度があるだろ!ソレ大デブじゃないか!オレ小デブだもん!」

「お黙りなさい!貴方は中デブです!さば読まないで現実を見なさい!」

「あのぉ…。繰り返すけどさ、落ち着こうか?な?話が進まないから…」

 おずおずと口を挟んだら、ナカイ君は我に返った様子で耳を倒し、気を取り直すように、そして恥ずかしいのを誤魔化すよ

うに咳払いした。

「…それで、私を探しに来たと言いましたねツキノスケ?何故です?」

 ナカイ君は静かに問いかける。それでもまだ怒っているらしく、会いに来た弟に「何故」と問う口調はちょっと刺々しい…。

 一方弟君も気を鎮めたのか、ムスッとしながらも幾分声のトーンを落として応じた。

「跡取りは、やっぱり兄ちゃんじゃなきゃダメなんだよ…」

 弟君は、少し悔しげな顔をしていた…。



 時計の針が十二時二十分を示した。

 勤め先のおもちゃ屋のスタッフルームで過ごす昼休み。ナカイ君が作ってくれたツナとタマゴとハムレタス、そして昨日の

残りのローストビーフを具にしたサンドイッチを齧りながら、俺は携帯をちらちら見ている。

 荷物整理中で気付かなかったが、十一時頃にナカイ君からメールが入っていた。

 内容は、弟君との話し合いの中身をかいつまんだ物…。

 俺はあの後、出勤時間も迫っていたから、ナカイ君達と別れて職場に来た。ナカイ君の方は、弟君を連れて自分の部屋に戻っ

て行った。詳しい話を聞くために…。

 またエキサイトして口喧嘩しているんじゃないかとハラハラしながら過ごしてた俺は、とりあえずメールの中身から会話は

成立しているらしい事を察してホッとしたが…、やっぱり、事情はそんなに簡単じゃなかった。

 ナカイ君がメールで教えてくれた内容と、これまでに聞いていた実家の事を組み合わせて考えてみたら、大体の事情が俺に

も飲み込めた…。



 ナカイ君が勘当されて家を出た後、弟君は茶道家元の跡取りとして、作法の勉強を始めさせられた。

 …けど、弟君はそれまで、跡取りとして期待されて来なかったんだ。

 ナカイ君と違って堪え性がなく、落ち着きがなく、何よりもナカイ君が期待された最大の素質…、嗅覚のずば抜けた鋭さを

持ち合わせていなかったそうで…。

 そんなだから弟君は、ナカイ君とは違って厳しく束縛される事もなく、自由奔放に過ごしてきて、茶道に関しては全くと言っ

て良いほど学ばなかったらしい。

 それが、ナカイ君が居なくなった途端、急に厳しく躾けられるようになった。

 それまでの自由な生活は失われ、ろくに遊べず好きな事もできない生活が始まった。奔放に育った少年には耐え難い日々が…。

 そして弟君は、高校卒業が間近に迫った今、ついに我慢ができなくなった。

 家出同然に実家を飛び出した彼の目的は、跡取りに相応しい兄…つまりナカイ君を連れ戻して、両親と和解させる事…。

 弟君は親の意思とは無関係に、独断でナカイ君を連れて帰ろうと考えていた…。



 …で、ナカイ君は押し問答の最中で弟君がトイレに立った隙に、メールをくれたようなんだが…。

 ナカイ君は、どう思っているんだろうか?

 確かに成人式の時は帰りたくなかったろう。怖かったろう。

 …でも、今回は家族が迎えに来てくれている訳で…、帰るとしても独りじゃなくて…、家に戻る口添えをしてくれる味方が

居る訳で…。

 再会はあんな風になったが、本当はナカイ君だって弟君と会いたかったんだし、里帰りのきっかけとしては…。

「何か元気ないっスねヤマトさん?」

 不意にかけられた声に応じ、俺はバイト君を見遣る。

「ん?そうか?」

「ため息ばっかついてるっス」

 …そ、そうだったのか…。

 ムックリ小太りな鈍色のロップイヤーは、垂れ耳の印象や風貌、口調もあって、高校時代の後輩のひとりを何処となく思い

出させる。愛想が良くて接客向きだから、店長も何かと重宝がってる。

「もしかして、彼女とモメてるとか?」

 ニヤニヤしながら言った兎に「違うって!」と苦笑いで応じつつ、…当たらずとも遠からずで内心ドキドキな俺…。

「サクッと電話して話をしちゃうのが一番っすよ?変にこじれる前に」

「お?それ経験談?居るんだな恋人?」

 俺の反撃でロップイヤーはペロッと舌を出した。

「年齢イコール彼女居ない歴でス…。ホントは紹介して欲しいぐらいで…」

「残念ながら、紹介できるほど恵まれちゃあいないんだよなぁ。けどまぁ、諦めなきゃパートナーは見つかるさ!」

「お?それ経験談っス?」

「一応の例だから、俺。遅咲きの例だけど」

 軽口で応じつつ、電話かけてみようかなぁ…って気になって腰を浮かせた俺は、そそくさと通路に出て、倉庫側に移動する。

 そうだ。ナカイ君に電話をかけるべきだ。

 どんな具合?とか…、どんな話をしたの?とか…、話すべき事は山ほどある。メールじゃいまいち判らないナカイ君の気持

ちも、声を聞けばいくらか判るはず…。

 …けど、携帯を見つめたまま、俺はいつまでもダイヤルできない。小心な俺の指は、ナカイ君の名前が表示されたそこから、

発信ボタンを押せない…。

 怖いんだ。

 もしもナカイ君が帰りたいって、実家に戻りたいって、そう言ったらどうしようって考えると…。家を継ぐ事にするって言

われたらどうしようって考えると…。

 だって…、だってそうなったら俺は…、もうナカイ君と…。

「…えぇい…!」

 呻いた俺は画面をスクロールさせて、別の名前を呼び出してコールした。

 …だが、アイツは電話に出ない。…まぁ、仕事中だろうし仕方ないよな…。

 諦めて発信を中断し、ため息をついてポケットに戻そうとした時、マナーモードの携帯がブルルッと鳴った。

 画面には…、「オジマ」の三文字。

「もしもし?」

『済みません。電話を貰ったようで』

 電波越しに届く低く太い後輩の声で、俺の耳がピクつく。

 コイツの声を聞くと、色々あったけど楽しかった高校時代の寮生活が思い出されるんだよな…。

「悪い。取り込み中だったらまた後にするぞ?」

『いいえ。便所で気張っていただけです』

「そ、そうか…。何なら手を洗ってからで…」

 言葉を切った俺の耳に、電波越しの水音が…。

「やっぱ掛け直すか?」

『済みましたので』

 しれっと言ったオジマの声に、ドアが閉じる音が重なった。

『困り事ですか?』

 スパッと切り込んで来る後輩。

「な、何でそう思った?」

 訊きながらも、声で困っている事がバレバレだなぁと実感した俺に、『恋人の事ですな?』と、オジマがズバリ。

「な、何でそう思った!?」

 繰り返した俺に、『先輩は滅多な事で俺を頼りません。例外が色恋沙汰です』と応じるオジマ。厳めしい虎面が、電話の向

こうでちょっとだけ笑ったような気がした。

「…そこまで察してるなら話も早ぇけど…、何だかなぁ…」

 本当に何だかなぁ、だよ…。

 時間にもあまり猶予は無い。俺はオジマにかいつまんで事情を話し、弟君がナカイ君に何を望んでいるのか説明した。

『実家へ連れ戻しに…ですか』

「そうだ。ナカイ君は、何だかんだ言っても跡取りとしては期待されてた訳で…、弟君もナカイ君の方が相応しいって思って

るし…」

『それだけではないでしょう?』

「ん?」

『自分が辛いからナカイ君を連れ戻したい…。そんな弟側の明け透けな逃げが見えるような気もしますな』

「…はっきり言うなぁ…」

『気付いているでしょうに』

「まぁ、そういうのも濃いかなぁとは思ってるけど…」

 …それでも、弟君の動機はどうあれ、ナカイ君が帰りたいなら…、帰れるなら…。

 …けどそうなったら、俺はまた…。

 黙り込んだ俺の耳に、しばし間を空けたオジマの声が入り込む。

『俺は、先輩には幸せで居て欲しいと思っています。いつでも』

 朴訥に語る後輩の声が、俺の中の、汚くて情けない部分を肯定したい気持ちを後押しする。

 いいじゃないか?って…、いいじゃないかたまには?って…、そう思いたくなる…。

 ずっと我慢して来た。なかなか前に出られなかった。遠慮してばかりだった。そんな俺の懐に転がり込んできた、一生に一

回あるかどうかの幸運…。このたった一つの幸せくらい…、やっと抱き締められた恋人くらい…、我儘言って捕まえていても

良いじゃないか?

『しかし』

 後輩の低い声が、自分の迷いを正当化しかけた俺の耳を震わせる。

『損得抜きに、他者の為にあえて貧乏くじを引く。自分である事を貫いているとも言える先輩の生き様が、俺は大好きです』

 …!

『辛くない道を選んでください。後悔しないように』

 辛くない道…。後悔しないように…。

 …本当に辛いのは、後から悔いる事…。

 だから俺は、後々痛みが少ない方を選んできた…。

 一時自分が辛くても、誰かが笑ってる方が好きだから…。

 一時自分が良い目を見ても、誰かが泣くのは嫌だから…。

 …俺は…。そうだ俺は…。

「…有り難うな、オジマ」

 後輩のお陰で腹が決まった。俺がやる事は、選ぶ道は、今も昔も変わり無い!

 ナカイ君が笑える選択をする。ただそれだけだ!

『俺は何もしていません』

「いいやして貰った!今度一杯奢る!」

『一杯だけですか』

「なら十杯!」

『五杯で結構です。もう半分はマサに』

 からから笑って礼を言い、約束して電話を切った俺は、

「決まってたんだよな、最初から…。俺がどうするかなんて…!」

 一緒に迷いも吹っ切れて、頷きながら呟いた。



 早めシフトの勤務時間も終わって、六時で引けた俺は、大急ぎでタクシーを捕まえてナカイ君の家に向かった。

 さっきから電話をかけているんだけど…、まだ弟君とモメてるのか、出てくれないんだよな…。

 帰宅ラッシュの時間帯、気持ちは焦ってもタクシーが速くならない。俺の気持ちを知らず、運転手の猪おっさんはここ数日

のニュースを話題にして、気さくに話しかけて来る。

 気の無い相槌を打ちながら、俺はナカイ君と弟君が顔を突き合わせて喧嘩している場面を想像していた。

 …いや、まさか取っ組み合いの喧嘩にはならないだろ?あのナカイ君だし…。

 いやでも、弟君相手には普段見せない顔で、普段出さないような鋭い声を出していた…。

 …お、弟君は結構気性が荒いみたいだし…、何より兄弟だから…、喧嘩もあり得る…?

 も、もしそうなったら…、体格から言ってナカイ君に勝ち目は…!

 俺の脳裏に、馬乗りになった弟君からポコポコとマウントパンチされているナカイ君の図が浮かび上がる。

 やばい!思い浮かべたら俄然不安が増した!

「す、済みません運転手さん!ちょっとでも早く着く裏道とかないですか!?」

 雑談を遮って身を乗り出した俺を、猪のおっさんはバックミラー越しに見つめた。

「え?お急ぎですか?」

「なるべく急ぎでお願いします!」

 俺の表情から真剣な事を察してくれたらしく、猪のおっさんは一転して真顔になった。

「どうやらマジなようですね?」

「大真面目です!」

「なら裏道使って急ぎます。しかし一つ問題が…」

 猪のおっさんはすぅっと目を細めて言う。

「走行距離が伸びてちょっと料金が上がります」

「問題無しです!」

「よっしゃ引き受けましたぁっ!」

 威勢の良い声と共にハンドルを切った猪運転手は、すぐ脇にあったコンビニの駐車場にタクシーを乗り入れると、角を曲がっ

た別の出口から車道に出た。そしてそのまま細い道に突入し、一方通行や見通しの悪いカーブが続く裏道を、まるでレース場

でかっ飛ばすように疾走し始める。

 ぶっちゃけおっかねぇ!ジェットコースターか!?…いや俺もう大概の絶叫マシーンでバーが降りなくて利用お断りされる

から何年も乗ってないけどさ…。

 ドア上にあるグリップを必死になって掴む俺は、ちらりとミラー越しに運転手の顔を見遣る…。

 形相が一変してるぞ!?血走った目が吊り上って鬼のよう!大魔神か!?

 スピードと運転手の猪おじさんにすっかりブルっちまいながらも、

「…あ!?」

 俺は御守りのように握り締めていた携帯電話の震動に気が付いた。

 手にかいた汗で湿って温まった携帯には…、ナカイ君からの着信を知らせる表示!

「もしもしながいぎゅんっ!?」

 焦りのあまり噛み噛みになっている俺の耳に、『ヤマトさん!』と愛しの恋人の声が届いた。

「だだだ大丈夫!?無事!?怪我は無い!?今助けに行くからもうちょっと待ってて!」

 …って、いや落ち着けよ俺。想像通りにやばい状況になっているとは限らな…、

『え!?た、助けに来てくれているんですか!?でもどうして私が危ないって判っ…』

「ぎゃああああああああっ!?やっぱりやばいのかぁあああああああああっ!?」

 思わず叫び声を上げた俺を、猪さんが「どうしなすった!?」と振り返…前を向いて運転して下さい前をぉおおおっ!

「な、何があったの!?喧嘩した!?取っ組み合い!?鼻血大丈夫!?擦り傷は!?」

『いえ、怪我はしていません。…でも、ツキノスケが無理矢理にでも家に連れて帰るって言い出して…!』

 かなり切羽詰っている口調だ。おまけにドンドンうるさく雑音が響いている上に、人ごみの中にでも居るのか、声が混じっ

て聞き取り辛い!

 ナカイ君が言うには、弟君との話し合いは、やっぱり家に戻るかどうかという事に終始したそうな。

 弟君はナカイ君を連れ帰って両親と話し合わせ、許しをもらって元通り跡取りに据えたい。だがナカイ君本人は帰りたくな

いそうで…、結局話はしばらく平行線を辿ったらしい。

 けど最後には弟君が折れてくれて和解した。

 …ように見えた。

 一晩くらい泊まって行けば良いと誘ったナカイ君に対し、弟君は未練になるし、心変わりするかもしれないからと辞退した。

 それで、すぐ実家に帰ると言い出した弟君を送りながら、せめて駅近くのファーストフード店で一緒に夕食を摂ろうと促し、

一緒に向かったそうだが…。

『早速、心変わりしちゃったみたいなんです…!』

「早速過ぎるよ弟君!女心か!?」

 バーガーショップの前まで行ったそこで、弟君が「やっぱり一緒に帰ろう!」と…、しかも今度は実力行使で!「引き摺っ

てでも連れて帰る!」と始まったんだと!

 俺が想像していたのとはまるで状況が違うものの、ピンチなのだけは当たっていた!

 体格と体力で負けているナカイ君は、弟君が力ずくで来たら敵わない。咄嗟に手を振り払って走り、近くの公園のトイレへ

逃げ込んだそうだが…。

 …ん?

「あの、今…」

『はい!トイレに立て篭もっている最中です!』

 立て篭もりなう!今ここ!

 このドンドンうるさいのってドアを叩く音か!?ナカイ君の声に混じって聞き取り難くしているのって…弟君の声っ!?

『あ!』

「ど、どうした何があった大丈夫!?」

 焦りのあまりやたら早口になる!

『う、上…』

「うえ?」

 タクシーの天井を見上げた俺の耳に届いたのは…、

『上からツキノスケが…!』

 ピンチの実況生中継!想像するとホラーめいた画像が思い浮かぶぞ!?

『あ…』

「逃げられない!?逃げ場無い!?それでも逃げてナカイ君!」

 もう余裕がないから、我ながら無茶を言ってるな…。

『ツキノスケが…』

「入って来た!?来ちゃった!?」

『いえ…、あの…、挟まりました…』

「…は?」

 予想外の言葉で目が点になった。

『トイレの上、天井との間にあんまり隙間が無くて…。お腹がつっかえて…、宙ぶらりんです…』

 思い浮かべていた光景が、ホラーからコントに変わった。

『実況すんなよ兄ちゃん!くっ…!きつっ…!負けるかっ!』

 …あ…。弟君だ…。

『無理しない方が良いですよツキノスケ?あ、ほらトレーナー捲れてお腹が出ていますよ!擦れてるじゃないですか…』

 …いや、弟だから心配するのは判るけど…、挟まってるソレ、君を拉致しようとしたんだよね?

『あ、ちょっと待って下さい…』

 そうナカイ君が言うなり声が途切れて、代わりに耳に届くカシャンという異音…。何だ今の音!?鍵が開いちまったのか!?

「ナカイ君大丈夫!?今の何の音!?」

『いえ…、何だかちょっと可愛かったので写真を…』

 結構余裕が…じゃねぇ!危機感が足りてねぇよこの子っ!

『と、撮るなぁああああっ!』

 弟君叫んでるぞ…。まぁ判らなくもない。流石に経験は無いが、間違いなく屈辱的な気分になる状況だろうから…。

『ああっ!暴れたらだめですよツキノスケ!お腹が擦り剥けても知りませんよ!?』

『余計なお世話だよ!』

『…もう!世話が焼けますね!』

 …あれ?今何かゴトンって…?

「ナカイ君?ちょっと?何してんの?」

『ほら、押してあげますから…!よいしょ…!む…!ううん…!』

 ん?声が遠くなった?

 …いや待て。「押してあげます」って言った!?…まさか…、降ろしてあげようとしているのか!?

「ナカイ君!すぐ行くから待ってて!ソレ解き放っちゃダメだって!」

 あ。「ソレ」って言っちまった…。

『ギッチリですね…。ムッチリで…』

『言うなよっ!』

『あ、そうだ!ドアを開ければ…』

「ナカイ君待って!ダメだってば!」

 さっきのゴトンは携帯を何処かに置いた音!?俺の声はナカイ君に届いてないのか!?

『あっ!ツキノスケ…』

 ナカイ君の声が弾けるように大きくなって、それから遠のいた。

「ナカイ君!?ナカイ君っ!?もしもし!?」

 呼びかけてみたが、ナカイ君の返事は無い。それどころか、電話からはもうノイズしか聞こえて来なくて…。

 俺の頭の中に、無人のトイレの棚にナカイ君の携帯だけが残された光景が出し抜けに浮かんだ。

 …ま、まずい…!弟君の宣言通りに引き摺って連れて行かれたんだ…!

 携帯が無ければ連絡の取りようもない。移動されちまったらもう探しようが…!い、急いで駅前に向かわないと!

「運転手さん!済みませんけど駅…」

「あいよ!駅前に向かってますぜお客さん!」

 俺が皆まで言い終えない内に、猪さんが威勢良く応じる。外を見れば、タクシーはいつの間にか細い裏路地から出て、駅前

に向かう二車線道路を走っていた。

「え?え?何…」

「どうやらのっぴきならねぇ状況らしいねぇ…。安心しておくんなさい!全速力で駅までふっとばしますから!」

 電話でのやり取りを聞いていた猪さんは、機転を利かせて、既に目的地を駅に変更してくれていたらしい。

「あ、有り難うございます!助かります!」

「何の何の!しかし一つ問題が…」

 バックミラー越しに鋭い視線を向けてくる猪さん。

「走行距離が伸びてちょっと料金が上がります」

「全く問題無しです!」

 俺の返事でニヤリと笑った猪おじさまは、猛スピードでタクシーを走らせながら無線を手に取った。

「七号車から本社及び全車へ!訳アリで駅前まで飛ばしてんだ!一分一秒を争う!確認できる限りの空いてる道教えろ!現在

地は…」

 何という事だろう?猪おじさまは無線で仲間と会社に連絡を取って、駅前までの道の混み具合をリアルタイムで確認してく

れた!さらに…、

「手が空いてる駅前の車両!悪いが細身のワンちゃんが見当たらねぇか確認してくれ!…お客さん。格好はどんなでしょね?」

「え?えーと、いつもはロングコートで…、今朝と同じだったら白いロングコートです!」

「白いロングコートを着てるかもしれねぇ!毛色は茶!鼻が肌色だ!」

 仲間にナカイ君の特徴を告げて、捜索に協力してくれた!

「駅付近は良いとして、どんな具合に移動するか判りませんかね?」

「移動…」

 記憶を手繰って、あの近辺の地理を思い浮かべる。

 考えろ!考えろ!ナカイ君は公園のトイレって言っていたぞ?何処の公園だ!?

 他に何か情報…!小さな物でも良いから絞り込める情報!

 ナカイ君は弟君を送る為に部屋から駅に向かって…。いやその前に、夕食を摂るためにファーストフード…、あ!バーガー

ショップ!

「駅近くのバーガーショップ傍で、トイレがある公園って判りますか!?」

「バーガー…?なら一か所だ!」

 流石タクシードライバー!すぐに当たりを付けたらしい猪おじさまの指が、ナビ画面に触れて地図を拡大する。

「その公園から駅に向かっているはずなんです!たぶん徒歩!」

「合点です!それならルートが被る!」

 ナカイ君は抵抗するだろうから目立っているはず!移動ルートが判れば…!

 運転手がこのひとでなかったら、きっとこうは行かなかったろう…。ラッキーセブンの七号車だ。

 俺、基本的についてない男だけど、年末からこっち結構運が良くないか?…いや、ナカイ君が絡んだ事が全部、上手く転がっ

ていくような…。

 でも、ナカイ君だってラッキーボーイって訳じゃない。幸運とは言えない境遇だ。周りのひとに恵まれて、何とかこの街で

生きて来られたけど…。

 まぁ俺だって知人や友人、出会うひとにだけは恵まれているけどさ…。

「もうちょっとで着きますよヤマトさん!」

「有り難うございます!」

 もうちょっと!今行くぞナカイ君!

 ん?何だこの違和感?今ちょっと引っかかったぞ?

 …あ。

「…あの…」

「はいな!」

「何で俺の名ま…」

「あ!ヤマトさん上!」

 質問を遮られた俺は、タクシーの天井を見上げ…。

「歩道橋の上にナカイちゃんが!」

「ほどっ!?」

 身を乗り出してフロントガラス越しに前を注視すると、行く手には今朝俺が弟君と遭遇した歩道橋。その上では…。

「ナカイ君!と弟君!」

 腕を掴まれたナカイ君が弟君に引っ張られて行く!ナカイ君は腰を引いて踏ん張っているものの、宣言通り、引き摺ってで

も連れて行こうとしている弟君に抗いきれていない!

「あの傍で停めて下さい!」

「合点です!」

 張りのある声で応じた猪おじさまは、前の車との車間距離をギリギリまで詰め、歩道橋に近付いてからウインカーを上げ、

歩道に寄せて急停止!すぐさまドアを開けてくれた!

「精算は後で!行ってやっておくんなさい!」

「御免なさい有り難う!すぐ戻りますから!」

 礼もそこそこに後部座席からまろび出た俺は、歩道橋目指して駆け出す。気は急くんだが…、ぐぅっ!ドッスンドッスン地

面を揺らす重い体と自分の鈍足が恨めしい!

 激しく言い合う兄弟の声が頭上から降って来る真下を抜け、歩道橋に辿り着いた俺は、「ナカイ君!」と叫びながら階段を

駆け昇った。

 折り返す踊り場は溜まっていた雪のせいで薄く凍っていて、一瞬足を取られ掛けたが…、

「ナカイ君!」

「ヤマトさん!」

 見上げたそこにはナカイ君と、彼を引っ張る弟君の姿!

「くっ!」

 しまったと言わんばかりに顔を歪める弟君。駅側に降りる階段を駆け上った俺は、彼の進路を塞ぐ形になっている。

 ナカイ君が嫌がっている以上…!

「絶対行かせねぇっ!」

 両手を広げ、階段半ばで仁王立ち。

 喧嘩する度胸も無いし、痛いのは嫌だし、腕っ節だってからっきしの俺だけど、この分厚い脂肪に守られた、居るだけで邪

魔になる図体がある!

 追っかける必要も、やっつける必要もねぇ!殴られようが蹴られようが退かねぇだけで良い!通せんぼならお手のもんだ!

 一歩も退いてなるものかと睨み上げる俺を、弟君は歯を剥いて睨み下ろす。

「退かないと蹴飛ばすぞデブ!」

「それで退くほど軽くねぇぞ!」

 だが、その睨み合いはそう長く続かず、あっけなく終わった。

「止めなさいツキノスケ!暴力なんて…」

 何とか止めようとナカイ君が身を捻る。逃がすもんかと袖を引っ張る弟君。

 その拍子に、ナカイ君のロングコートが肩口で悲鳴を上げた。

 乱暴に引っ張られ続けて傷んだのか、良く見れば腋の下が縫い目の所で裂けていたコートの袖が、パーツ分解するようにベ

リッと離れた。

 一瞬、ナカイ君の腕が伸びたように見えた。

 肩から裂けたコートの袖は綿を晒しながら柔らかな裏生地を伸ばし、それが千切れた下からは、トレーナーの生地に覆われ

たナカイ君の腕が現れる。

 スポンと腕から抜ける格好になった、千切れたコートの袖を掴んだまま、抵抗を失った弟君がたたらを踏んで、凍っていた

んだろう雪の吹き溜まりで足を滑らせて…、

「ツキノスケェッ!」

 鼓膜を突き破るようなナカイ君の甲高い悲鳴が、弟君の口から漏れた驚きの呻きを掻き消した。

 つんのめった弟君が、階段外側の手すりにぶつかり、そのまま端を転げ落ちる。

 危機的な光景で心臓が痛いほど跳ねた俺は…。

 弟君。進路。ナカイ君の悲鳴。怖い。

 痛いのは嫌だ…。

 階段。端っこ。怖い。手すり。

 でも…。

 角。怖い。後ろは下り。危ない。

 もっと嫌なのは…。

 怖い。怖い。怖い。…怖くねぇっ!

「絶対行かせねぇっ!」

 元からそのつもりだった通せんぼ!落ちて来る弟君を止めるのは、そんなに難しくは…、

「ないっ!おどぅふっ!」

 両手が空を切り、キャッチし損ねた俺のどてっ腹に、ダイブする格好で階段上を滑空して来た弟君の、全体重をかけたフラ

イングヘッドバッドがめり込んだ。

 文科系…いや小中高とぶっ通しで帰宅部で、大学でも勿論運動が必要なサークルになんて入らなかった俺は、自他共に認め

るインドア派。元々運動神経なんて皆無。

 正直甘く見ていた。マンキャッチングは、予想以上に難易度が高かった…。

 弟君にダイビングぶちかましを貰った俺は、彼を抱え込むような形でくの字に体を折り曲げ、そのまま尻が、腰が、上体が、

ゆっくり後ろに傾いて…。

「ヤマトさんっ!?」

 再び響いたナカイ君の悲鳴を聞きながら、俺は背中からドゴッと階段の上に倒れた。

 勢いはそれで止まる事なく、俺はそのまま後ろにでんぐり返しする格好で転げ落ちる。

 受け身を取るとか体勢を整えるとか、そんな芸当ができるはずもない。弟君を捕まえておくだけで精一杯だ。

 尻が、腰が、背中が、肩が、頭が、順番に階段の角にぶつかって痛みを訴える。それでもなす術なく階段を転げ落ちるしか

ない俺を待ち構えるのは、踊り場と、その向こうの手すり。

 …踊り場で止まりたいけど、これ絶対にそんな都合よく行かないよな…。そんな事を頭の隅で考えながら一回転して、再び

尻を打った後…、背中と後頭部にガンと来た。

 手すりに背を預ける格好で激突して止まった俺の目の前で、キラキラと星がちらついた。

 そしてどういう訳か、ナカイ君と初めて会った、クリスマスイブの夜を唐突に思い出した。

 ああ、そうか。あの日も空気はピンと張りつめたように冷えていて、星が綺麗だったっけ…。

 歩道橋の上で夜空を背にしたナカイ君が、泣きそうな顔で階段を駆け下りて来る。

 走ったら危ないってば!凍っているんだから所々!

 それに…、頼むから泣かないでくれよな?俺、ナカイ君の泣き顔を見るのは痛いのよりも嫌だからさ…。

 ん?あれ?何かおかしいぞ?

 頭とか背中とかしこたまぶつけた割には、あんまり、痛く…、な……………























 あ…。ナカイ君が笑ってる…。























「いっっっっっっ!!!………でぇえええええええええええええっ!!!」

 その声が自分の声だと気付くまで、しばらくかかった。

 激痛のあまり一瞬意識が飛んだらしい俺は、感覚が舞い戻った途端に涙目になる。

「ぎゃぁああああああああああああ!いだぁあああああ!いだだっ!いだぁっ!」

 腰腰腰尻腰肩尻肩頭尻首尻尻腰頭首肩尻肘背中腰頭肘尻頭ぁっ!いだぁあああああああっ!

「ヤマトさん!?ヤマトさん何処が痛いですか!?腕!?背中!?頭は!?怪我は!?」

 傍らに跪いて俺の右手をギュッと両手で握っているナカイ君が、おろおろ慌てながら声をかけて来る。

 大丈夫!

 …と言える状態じゃない。言葉が出ない。ってかたぶん声が出たとしても強がる余裕なんかない。痛みが尋常じゃない。泣

きそう。いやもう泣いてるかも。ちびってないよな俺?

 ひぃひぃ喘ぐ俺の、大きく広げて投げ出した太い両脚の間には、ペタンと座り込んでいる弟君の姿。

 弟君は魂が抜けたような顔をして、ぽけーっと俺を見つめている。…どっか打ったんだろうか?

「落ちましたか!?大丈夫ですか!?」

 不意に下から響いたその声に続き、ドンドンドンと階段を踏み鳴らして駆け昇って来たのは、運転手の猪おじさま。

「あっ…!」

 目を丸くするナカイ君。

「大丈夫だったかいナカイちゃん!」

 ナカイ君に声をかける猪おじさま。

 体のあちこちが泣きたいほどズッキンズッキン痛いが、とりあえず大丈夫ですたぶん…。とか答えておこうと口を開いた途

端、俺は「むぶっ!?」と呻いて反射的に口元を押さえた。

「うぇぼろぉっ!」

 込み上げた胃の内容物が、手とマズルの間からドバっと零れて胸元から腹を汚した。

「うお!?大丈夫ですかい!?」

「ヤマトさん!?頭を打ったせい!?」

「頭!?そりゃ大変だ!救急車を!」

 いや違うんです。これ、胃が頭突き貰った上にビックリしたせい…。と言いたいものの、胃がもう暴れ回ってポンプみたい

に中身を圧し出して来るもんだから、俺は言葉も出せずにゲェゲェ吐き続けるだけ…。

 結局、四つん這いになってナカイ君に背中をさすられながら落ち着くまで戻した俺は、猪おじさまが携帯で救急車を呼ぶの

を止められなかった。

 やがて、ふぅふぅと息を吐きながら顔を起こし、ずきずき痛い背中を手すりに預けて座り込んだ俺は、ナカイ君と、弟君を

見張るように立っている猪おじさまを交互に見遣った。

「…知り合い…?」

 息を整えてゲロ臭い息を吐きつつ訊ねた俺に、「え?は、はい…」とナカイ君が頷き、猪おじさまはちょっと決まり悪そう

に苦笑いする。

「お客さんです。…その…。お店の…」

 ナカイ君の言葉の後半は、消え入りそうに小さくなっていた。

 納得した。このタクシーに乗り込んだ偶然の巡り合わせに驚きながら…。

 違和感の、引っ掛かりの、疑問の答えがここにあった。

 猪おじさまは、名乗ってないはずなのに俺の名前を口にした。

 考えてみればナカイ君の特徴だって、俺は訊かれた通りに格好…着ているだろう服の事を口にしただけだった。なのに毛色

とか、鼻の色まで…。

 答えは簡単。おじさまはナカイ君を知っていたんだ。

 そして…、おそらくだけど、俺の事も聞いていたんだろうな。俺は特徴的で目立つから、実際に会った事が無くても、一目

見れば判りそうだし…。

 初対面の俺に気さくに話しかけてくれたのも、やたら親切にしてくれたのも、ナカイ君の知り合いだからっていう部分が大

きいだろう。

 本当、巡り合いや周囲の人達に恵まれているよな、俺達…。

 …あれ?お店って…、お店のお客さんって…、ナカイ君が店員やってる大人のおもちゃ屋の!?って事はこのおじさま…!

 そんな俺の驚きを他所に、来てしまった救急車のサイレンが歩道橋に届き始めた。

 弟君は何も言わず、相変らず呆然としたまま俺を見ていた…。



「不幸中の幸いでしたなぁ」

 猪おじさまはそんな事を言いながら、ベッドの横にミネラルウォーターのボトルを置いてくれた。

「大事にならなくて良かったです。本当に…」

 ホッとしたのか、ナカイ君はずっと目を潤ませている。

 俺は今、救急センターのベッドに寝かされている。救急車で搬送されて、すぐさま検査を受けさせられたが、幸い脳に異常

は無かったらしい。

 念のために内臓も検査されたが、…俺の体は検査機に入らなかったから、触診とエコー検査になった…。脇腹の毛をちょっ

と剃られた上に、肉が厚くてエコーがなかなか通らず、思いっきり時間かけてグリグリやられたのが軽くショック…。

 負傷と言えば、後頭部に瘤ができたのと、あちこちに打ち身を拵えただけ。転げ落ちる最中は手足を縮めていたおかげで捻

挫も無かった。臆病さが幸いしたな…。

 ただし、今目立っていないだけで、体内のどこかに出血があるかもしれないから、念には念を入れて今夜は病院にお泊り。

明日もう一度頭部スキャンをかけられる事になった。

 なお、弟君は元気こそないもののほぼ無傷。膝をちょっと打っただけだったらしい。体張った甲斐はあったかもな。

「重ね重ね済みませんでした。病院にまで付き添って貰っちゃって…」

「はっはっはっ!何の何の、乗りかかった船ってヤツですよ!」

 申し訳なく思って頭を掻いた俺に、猪おじさまは気持ち良く応じ、体を揺すって笑う。

 ナカイ君が取り乱し気味だったし、弟君は気と腰が抜けちゃってたしで、救急車の対応やら病院での手続きから、猪おじさ

まが全部サポートしてくれた。仕事を抜けて…。

「ん?誰かの携帯鳴ってませんかい?」

 猪おじさまがそう言って自分のポケットに手を突っ込み、「あ。病院前で電源切った」と苦笑い。

 同じくポケットに手を入れたナカイ君は、何かに気付いた様子で「あ…」と小さく声を漏らした。…あ。そういえばトイレ

に置き去りだよな…。

「もしかして俺の?」

 羽音のような震動は、壁にかけた俺のジャンバーの方から…?ポケットをまさぐって出してくれたナカイ君から携帯を受け

取ると、

「着信…、ナカイ君だぞ…?」

「え?」

 再び両手をポケットに突っ込むナカイ君。何だか薄気味悪いけど…。

「もしもし?」

 恐る恐る出た俺の耳に、

『ヤマト君かな?』

 …ん?どっかで聞いた声だな…?

「そうですけど…。あ!」

『ヨコジマです』

 やっぱりそうだ!アパートの隣人、単身赴任サラリーマンの虎猫…ヨコジマさんだ。

『こんばんは。やはりヤマト君だったか』

 酒が入ると無茶苦茶おっかねぇ虎になるヨコジマさんは、素面の状態だと物静かな紳士。電話の向こうからは落ち着いた声

が流れて来る。

「え?やっぱり俺?って…、え?あの、ヨコジマさんその携帯…?」

『今、駅近くの公衆トイレなんだがね。誰かが忘れて行ったらしい携帯を見つけたのだよ。失礼してちょっと履歴を拝見させ

て貰ったら、最新に「大和さん」とあったので掛けてみたんだが、やっぱり知り合いの携帯かね?』

「そうです!ナカイ君…、あ、友達の携帯で!」

『ああ、もしかして時々見る若い犬獣人の?』

「そうそう!いやー拾って貰えて良かった!」

 偶然にも知り合いが携帯を確保!ついてるなぁ!

 俺はキョトンとしているナカイ君に簡単に話し、電話を代わって直接喋らせた。

「物のついでって事もある。車を回しましょう」

 猪おじさまがそう申し出てくれて、ナカイ君はペコペコ頭を下げながら、ヨコジマさんと待ち合わせて携帯を回収する事に

決めた。

「では、すぐに戻って来ます。あ、保険証も持って来なくちゃいけなかったんですよね?」

 気を回してくれたナカイ君は、部屋から保険証を持って来てくれると言う。明日でも良いんだけど、猪おじさまの稼ぎにも

なるから、ぐるっと回らせて欲しいそうだ。

「では、行きますよツキノスケ?」

 相変わらず無言で項垂れている弟君。置いて行くつもりは無いようで、促して連れて行こうとしたナカイ君だが…。

「連れて行かなくても良いんじゃないかな?用事もない事だし…」

 俺はナカイ君にそう提案した。

「え?でも…」

「一応怪我人なんだ。戻って来るまで休ませてあげよう。な?」

 たぶん二人にする事が心配なんだろう。ナカイ君は難色を示した。

 だが、俺が目で訴えている事に気付くと、「判りました」と小さく頷く。ちょっと心配そうに。

「判っていますねツキノスケ!ヤマトさんにこれ以上迷惑をおかけしたら許しませんからね!」

 ナカイ君はそう釘を刺してから、猪おじさまと一緒に出て行った。

 そうして二人きりになった部屋の中、俺はベッド上で身を起こして、壁際に立って項垂れたままの弟君に声をかける。

「こっち来て座りなよ」

 ベッドを叩いて隣に座るよう促したが、弟君は動かない。

「膝、休ませないと痛いだろ?」

 再び誘ったら今度は動いた。のろのろとベッド脇に来た弟君は、俺に背中を向けて腰を下ろす。

 この雰囲気なら急に爆発する事は無いだろうと思いつつも、内心ちょっとビビリ気味な俺…。今日はもう痛ぇの勘弁して欲

しいよ…。

 俺が緊張するくらいに長い沈黙の後、

「…ごめん…」

 弟君はぽつりとそう言った。気が強い子らしいから、謝るのもなかなか難しいんだろう。やっと一言だけ言えた弟君は、そ

のまままた黙り込む。

「うん」

 頷いた俺は、「膝大丈夫?」と声を掛けたが、

「…んで…」

 弟君はそれに応じず、ゴモゴモと言い難そうに口を動かし始めた。

「なんで…」

「ん?」

「なんでオレを助けたんだよ…」

「そりゃあ…」

 答えようとして、言葉に詰まった。

 危なかったから。たまたま受け止められる位置に居たから。ナカイ君の弟だから。

 理由が色々あって、上手く言えないんだよ…。

「おっさん…、オレに腹立ててないのかよ…?憎くないのかよ…?何で助けたんだよ…?」

「君が怪我したら、ナカイ君が泣くだろ?」

 これぞ、という答えじゃなかったが、それでも理由として小さくない物を挙げたら、

「おっさんが怪我して泣いてたじゃないか…、兄ちゃん…」

 う!?そ、それを言われると…!

 突っ込まれると言い返せない部分だったが、幸いにも弟君はそれ以上その点に拘らなかった。

 また言葉が途切れ、しばらくしたら、

「痛かったか?」

 弟君は唐突にポツリと言った。

「え?あ、まぁ、そこそこ?」

「そうなるの判ってたろ?」

「ん…、判ってはいたかもな…」

「おっさん、馬鹿だろ?」

「たはは…!」

 苦笑いしたら腹の辺りが鈍く痛んだ。頭突き貰った腹もしっかり打ち身だもんなぁ…。

 いくらか喋り易い雰囲気になった事で、俺は唾を飲み込んだ。

「あのさ…、俺、ちょっと話しておきたい事があるんだ」

 責められるとでも思ったのか、弟君は少し息を吸って「良いよ」と、気持ちで身構えたように応じる。

「ナカイ君の事なんだけど…」

「…兄ちゃんの?」

 少し意外そうに漏らした弟君は、そこで初めて振り返り、俺の顔を見た。

「部外者の俺が言うのも何だし、何を言ってもナカイ君の肩を持つ形になっちまうんだけどさ…。ちょっと聞いてくれるか?」

 迷いながらも頷いて先を促した弟君に、俺は語り始めた。

「実は俺もさ、弟が居るんだ。で、家に帰らないでずっとこっちに居る」

 最初に話したのは、俺の事。

 ナカイ君とは境遇が違うし、俺の方がずっとだらしない理由だけど、ずっと家を離れて暮らしている事。弟の方がしっかり

している事。やりたい事を見つけたくて故郷を飛び出した事。

 けどそれは結局言い訳で、自由に暮らしたくて、家を継ぎたくなくて、逃げ出して、ついこの間までやりたい事も見つから

ないままずるずる過ごしていた事…。

「…何でそんな事話すんだよ…」

「え?いや、俺の事も喋っとかないとフェアじゃないだろ?」

 俺は咳払いして、

「とにかく、これから偉そうな事を言うヤツは、そういうだらしないヤツなんだって事を知って貰った上で、話を聞いて欲し

かったんだ」

 と、長い前置きを終わらせ、本題に入る。

「ナカイ君は立派だよ。俺とは違って自分から逃げ出した訳じゃない。大違いだ。そりゃあ自由にも憧れたって言っていたけ

どさ、家を追い出されてからのナカイ君は、自由ではあったかもしれないけれど、好き勝手気楽に暮らせるような状況じゃな

かった」

 ナカイ君が仕事の事をどれだけ話したか判らないから、あの子の苦労についてはとりあえずぼかして語っておく。

「君は家を継ぎたくないんだろ?ナカイ君の方が相応しいと思ってる」

 弟君は黙って頷いた。

「でも、「自分がやりたくない」っていうのもあるんじゃないかな?俺と同じで」

 弟君は黙って目を伏せた。

「ナカイ君はさ、生まれてからずっと、今の君と同じ束縛を受けて来たんだよな。一年とか二年とかじゃない。君が味わった

時間よりずっとずっと長く…」

「…だから、俺も我慢しろって…?」

 弟君のそんな言葉に、俺は「半分はそうだ」と頷く。

「もう半分は?」

「その生活の辛さが判っている君にだから言う。ナカイ君が嫌だって言うなら、また無理にそこへ閉じ込めるのは止めた方が

いい」

「………」

 俺は小さく息を吐く。

「俺もさ、ナカイ君が実家と和解できるならそれが一番だとは思う。でも…、ナカイ君は今、家に帰ろうとしても途中で足が

止まるんだよ…。帰るのが怖くて、嫌で、動けなくなっちまうんだ…」

 ナカイ君が里帰りできなかった成人式の際に、どんな状態になったか…。あんまり心配させても可哀想だと思ったが、これ

だけは伝えるべきだと思って、俺は仔細に説明した。

 弟君はショックを受けていた。足の上の手をきつく握って、身を堅くして、ピンと立てた耳で俺の言葉に聞き入っていた。

 きっと、そこまでとは思っていなかったんだろうな…。ナカイ君の故郷への恐れは、実際問題心的外傷に近い…。簡単には

癒されないだろう…。

「ナカイ君の気持ちが整理できてない今、無理に連れて行っても良い事は一つもないと思う」

 とりあえず言うべき事は全部話して、口を閉ざす。

 …と…、ここで話を締めくくるのも綺麗で良いんだろうが…。

「もう一個、これはナカイ君じゃなく俺の事なんだが…」

 俺は耳を倒し、ボソボソと続けた。

「勝手だけど俺もナカイ君には帰って欲しくないんだよな。ここまでに喋った事も全部、根っこにはこの個人的な思いがある」

 弟君はしばらく黙った後、

「おっさん、馬鹿だろ?」

 そう、さっきと同じ言葉を口にした。

「余計な事しゃべんなかったら、オトナのリッパなオコトバだったのにさ…」

「俺は立派な大人じゃないからな」

 苦笑いして鼻を掻いた俺の耳に、グシュッと鼻を啜る音が届いた。

「おっさん、ズルいぞ…!」

「へ?」

 不意を突く言葉に、思わず間の抜けた声を漏らすと、

「大人は大人らしくしろよ…!大人は勝手で、嘘つきで、すぐ体面とか名誉とか、そういうのばっか大事にするもんだろ…!」

 弟君は声を震わせてそう言った。

「親だってそうだった…!ずっとほっぽってた癖に、兄ちゃんが居なくなったら次はオレ…!手の平返してお前が跡取りだ、

お前が家を継ぐんだ、って…!勝手ばっかり…!」

 そうか。そうだよなぁ…。ナカイ君だけじゃない、この子だって家柄に振り回されているんだ…。

 …いや、家柄に振り回されているのは、きっとこの子達の両親も同じで…。

「アンタがちゃんとした大人なら、憎めたのに…!嫌えたのに…!何で助けたんだよ…!何で怒鳴り付けないんだよ…!何で

怒らないんだよ…!」

「見てくれはこうだけど、たぶん俺は、大人になり切れていないんだろうなぁ…」

 そしてきっと、一生「大人」にはなれないんだろう。

 優柔不断で、面倒臭がりで、小心で、だらしなくて、根性なしで、うだつが上がらなくて、「立派な大人の誰か」にはなれ

ないまま…、きっと死ぬまで今の大和直毅だ。

「…いい…」

 弟君が急にそう言って、俺は首を傾げる。

「もう、いい…!」

 繰り返した弟君の言葉の隙間に、しゃっくりが入った。

「アンタだから、もういいっ…!兄ちゃんは…置いてく…!」

「え?」

 予想外にすんなり納得されて驚いた俺に、弟君は立ち上がって、勢いよく向き直った。

「でも、ちゃんと文句は言ってくからな!」

 そう言うなり、丸っこい犬は俺に掴みかかって来た。

「ぬわっ!?」

 襟首を掴まれ、体重をかけられ、後ろ手をついて体を支えた俺の胸に、のしかかるような格好の弟君が、ドンと拳を叩きつ

けた。

「ひとりで寂しく暮らさせてんなよ!」

 そう叫んだ弟君は、また拳を上げて、胸をドスンと叩く。

「ちゃんと傍に居てやれよ!兄ちゃん泣かしたら承知しないかんな!すっ飛んできてぶん殴るからな!」

 言葉を吐く度に打ち付けられる、遠慮の無い握り拳…。

「勘違いすんなよ!完全に認めた訳じゃないからな!たまに様子見に来るからな!もしも兄ちゃんが幸せそうじゃなかったら、

次は…!次は絶対に!無理矢理にでも連れてくから覚悟しとけよ!」

 震える言葉は、震える握り拳は、体中の打ち身と心に響いて、痛くて、重かった…。

「オレの大事な兄ちゃんなんだから!オレのっ…!」

 グヒュッと、弟君の喉と鼻が鳴った。

「兄ちゃん…なんだから…!オレの…、うっ…!にぃっ…!」

 弟君は俺の胸元を掴んだまま、グイッと引っ張るようにして胸に額をぶつけて来た。

「にぃっ…ぢゃん…なんっ………!オレのっ…!ひどりだげっ…!のっ、大事…!…大ずぎっなっ…!にいぢゃっ…!」

 …俺は、弟君の事を少し勘違いしていたかもしれない…。

「なんっで…!がえっでぎで…ぐんなぃ…!なんっ…で!オレじゃなぐ…!アンダなんっ…ぐひゅっ!やだよぉ!なんでがえっ

でぎでぐんあいんだよぉ!オレも…、にいぢゃんど…いっしょがいいのっ…にぃ!」

 堪えていた涙と一緒に吹き出した、子供らしい本音…。

 跡取りになるのが嫌だっていうのは、確かにあっただろう。

 …でも、本当は…、ナカイ君を連れ戻したい一番の理由は…。

 ナカイ君が、大好きだから…。一緒に居たいから…。

「…御免な…」

 ブルブル震える肉付きの良い背中に腕を回す。

 …何て言ったら良いか判らない俺は、謝って、気休めに抱きしめてやる事しかできなかった…。

「あやまんっ…なよぉ…!」

「うん…」

「優しぐっ、す、すんなぁっ…!」

「うん…」

「ぢぐじょぉ…!ぢぐ…じょ…!」

 常々感じていた、弟君が俺に向ける敵愾心めいた感情は、無理もない物だったのかもな…。

 だって弟君にとっての俺は、大好きな兄貴を奪った憎い相手な訳で…。

 弟君は俺の胸に顔を押し付けたまま、エックエックとしゃくりあげて、いつまでも泣き続けた…。





 正午の日差しが暖かく射し込む駅のホームで、並んだ俺とナカイ君は、荷物一つ持った太い犬を見つめる。

「ちゃんと迷わないで帰れますね?」

「子供扱いすんなよぉ…」

 ナカイ君に心配されると、弟君は恥ずかし半分にムクれた。

「乗り換え判らなくなったら電話くれよ。俺で良ければ調べてナビするから」

「ヤマトさんまで…!大丈夫だっての!」

 念のために言った俺に声を大きくして応じたものの、弟君の顔からはもうすっかり険しさが抜けている。

 平日の昼って事もあって、ホームは空いていて快適。やたらスペースを取る俺も迷惑をかけずに済む。

弟君が乗る帰りの電車はもうじき来るはずだ。

 あの後、荷物を持って来てくれたナカイ君は、付添い用の仮眠室で急患センターに一泊した。弟君も一緒に。

 一晩ゆっくり語り合って、今度こそちゃんと和解できたらしい。すっかり仲の良い兄弟になっている。

 一方で、俺も一応弟君内での格が上がったらしく…、呼び方が「おっさん」から「ヤマトさん」になった。

 なお、再検査があった俺は店に電話して事情を伝えて、一日休みを貰っている。…申し訳なくなるくらい店長が心配してた

よ…。あ、検査結果は頭も内蔵も骨も異状なしだった。「お肉と頭蓋骨厚いですねぇ…」って感心されちまったよ。とほほ…。

 そうそう、病院からここまで送ってくれたのはあの猪ナイスミドルが運転するタクシー。今も俺とナカイ君の帰り足の為に

駅前で待機してくれている。

「…あ。今の今まですっかり忘れてた…」

 俺は弟君の顔を見下ろして訊ねてみた。

「ナカイ君がこの街に居るって知っていて来たのか?それとも偶然?」

「いや知ってたよ?」

 事もなく応じた弟君を前に、俺とナカイ君は顔を見合わせた。

「どうして知っていたんです?」

「え?写真が出てたから…」

「写真?」

「出てた?」

 弟君が寄越した答えで、俺とナカイ君が揃って眉を上げる。

「ファッション誌に出てた。先月見たけど「街で見かけたハンサムボーイ」ってコーナーに、読者投稿で兄ちゃんの写真が…、

あれ?」

 弟君が首を傾げる。目で問いかける俺。ふるふる首を振るナカイ君。

「知りませんよ私?そんな本に投稿する写真なんて頼まれた事ありません。頼まれても断りますけれど…」

「って事は…、隠し撮り?」

「無断投稿か!?」

 カッときたのか、目を吊り上げる弟君。

「落ち着いて。怒った所でどうにもならないでしょう?」

「や、やっぱりこんなおっかないトコに兄ちゃんを置いとく訳には…!一緒にこの街出よう兄ちゃん!」

 嘘!?ここに来て心変わり!?

「こら!いい加減にしなさい!」

「ヤマトさんも一緒に出よう!」

「…それなら…良いですかね…」

「ちょっとちょっと!流されてるぞナカイ君!」

 慌てて口を挟んで落ち着けた俺は、ホームに響いたアナウンスで耳をピクッと震わせた。

 いよいよお別れの時だ。弟君は寂しげに顔を曇らせたけど、ぐっと口元を引き結び、俺の顔を見上げる。

「兄ちゃんの事…!頼むからなヤマトさん!」

「…ああ。任せてくれ」

 大きく頷いた俺は、「もし君が…」と先を続ける。

「本当に辛くなって、逃げ出したくなったら、こっちに来ちゃえよ」

 弟君が、ナカイ君が、何を言ってるんだと言わんばかりの表情になって俺を見る。

「家出大歓迎だ!嫌な事スパッと忘れて遊びに来ればいい!そうして家を飛び出して、両親を思いっきり心配させてやれ!そ

して思い知らせてやるんだ。自分も一個人だって事と、息子がどんなに大事な物かって事を!」

 家出を煽っているような俺の言葉をキョトンとして聞いていた弟君は、

「…は…、ははは…!」

 次第に顔を綻ばせ、やがて腹を抱えて笑い出した。

「ははははは!そりゃいいや!じゃあ嫌な事あったら遊びに来る!」

「そうしなよ。大歓迎だ!」

 笑いあう俺と弟君を交互に見て、ナカイ君は笑みを浮かべた。どこかホッとしたような、柔らかい笑みを…。

 ブザーが鳴り、電車がホームに入り、弟君はバッグを担ぎ直す。

「兄ちゃんあんまり丈夫くないんだから、無茶すんなよ!」

「無茶なんかしません。ツキノスケほど無鉄砲じゃありませんよ?私は」

「ヤマトさんも、危ない事しちゃだめだからな?」

「いや、普段の俺は物凄く安全運転な男なんだよ…」

 こりごりだ、と頭を掻くと、弟君は二カッと歯を見せて明るく笑った。

「じゃあ、またな!」

「ええ、また」

「うん。また!」

 かくして電車は走り去る。全然似てないナカイ君の弟を乗せて…。

 大変なのはこれからも変わりないだろうし、帰ったらまず家族とひと悶着あるだろうけど、心配させない為だろう、弟君は

窓が滑って行って姿が見えなくなるまで、ずっと笑顔だった…。

「行っちゃったね…」

「ええ…」

 電車が去ったホームに佇んだまま、俺とナカイ君は遠くまで続く線路を眺める。

「ツキノスケに言われました」

「ん?」

 …もしかして、付き合うならもっと良い男を探せ…とか…!?

「独り暮らしは色々物騒だから、同居しちゃえ。…って…」

「…そ、そうなんだ…?」

 そういえば夕べ言ってたな。独りで居させるなって…。

「同居…かぁ…」

「ええ…」

 妙な沈黙が、俺達の間に居座った。

「ま、マセてるね?弟君!」

「え?…そ、そうですね!何言ってるんでしょうねまったく…!」

「は、ははは…!」

 ちょっと乾き気味の笑い声を漏らしながら、胸の内で自分を詰る俺…。

 い、言えば良かったのに!俺の臆病者ぉっ!

 タイミングを外してしまった俺は、「行こうか」とナカイ君を促して、改札口を抜ける。

 駅を出て、猪おじさまのタクシーに向かって歩いて、待ってましたと開いたドアへ先にナカイ君を入れて…。

「あ、着信」

 乗り込もうとしたタイミングで携帯が震えて、猪おじさんとナカイ君に断りを入れてから取り出す。

 着信は…、ん?サンタからだ。

『ほっほっほっ!メリークリスマス!』

「いつまでクリスマス気分だよ爺さん…。クリスマスじゃないだろもう」

 あんたの頭は年中クリスマスか?呆れた俺の耳に、

『いいやクリスマスじゃとも』

 と、面白がっているようなサンタの声が届く。

「は?何で?」

『忘れたかの?つれないのぉ。まだクリスマスプレゼントを渡しとらんのじゃが…』

 そう言われて思い出した。

 ナカイ君がプレゼントとして来たんじゃなく、両者合意の上で交際を始めたって形になったから、プレゼント配りを手伝っ

た俺へのお礼がまだ成立してないとかどうとか言われてたんだっけ…。

 ぶっちゃけると、もうナカイ君と出会えた事がクリスマスプレゼントで良いって気分になってるし、満足してるから、特に

欲しいプレゼントが無いって言うか遠慮を感じるって言うか…。

「いいって別に。欲しい物無いから…」

『それではプレゼントをすると約束したワシの立場がないじゃろう!サンタクロースの顔を潰す気か!』

「怒んなよ!何で怒られんだよ俺が!」

『サンタクロースを冒涜するからじゃ!』

「冒涜してねぇよ!何でそういう話になるんだよ!」

『とにもかくにも、プレゼントは用意したぞい!』

「は!?ちょ…、要らないってのに!」

『黙らっしゃい!くっくっくっ!もう手遅れじゃぞい…!既にアパートへ届けさせたわ!』

 何で悪人笑い!?

『絶対に受け取って貰うぞい!でないとワシの面目丸潰れじゃ!』

「何だよ!?何か妙な物じゃないだろな!?」

『百聞は一見にしかず!窓を開けてよぉ〜っく見てみるがよい!』

 …窓?

「爺さん。俺、外出中なんだが」

『ほっ!?』

 例え病院にかかってなくても、平日の昼は部屋に居ないだろ。これでも勤め人だぞ俺?

 しばしの沈黙。やがてサンタはわざとらしく咳払いして…。

『メリークリスマス!』

「誤魔化すな!とにかく居ないからな俺!」

『あい判った!そこまで言うなら仕方がないわい!』

 そこまでもどこまでも言ってねぇよ…。普通の事言ってるだけだよ…。

『帰って来るまで二人を待機させておこう。急いで戻るように!』

「へ?二人って…」

 黒服二名の顔を思い浮かべたとたん、サンタの電話が切れた。…か、勝手な…!大人は勝手だ!

「どうしたんですかヤマトさん?クロスさんは何て…」

 後部座席の中からナカイ君が問いかけて来るが…、

「…いや、それが俺にも良く判んない…」

 当然、曖昧にしか返事ができなかった。



 アパート前で猪おじさまに別れを告げ、敷地に入った俺とナカイ君を待ち受けていたのは、例の黒服二人組。

 アパートの階段前に陣取っていた二人は、つかつかと俺達に歩み寄った。

『メリークリスマス』

「メリークリスマス」

「へ?あ、ああ、メリーですはい…」

 声を揃える二人と、慣れた様子で応じるナカイ君。そして戸惑いながら応じる俺…。何?このひと達の間じゃ挨拶になって

んのかこれ?

 そして二人の一方が進み出て、クリスマスプレゼント風の包装紙にくるまれた小箱を俺に手渡す。うやうやしい動作で…。

「え?これ…、何ですか?」

 そう訊ねた俺に…、

「駐車場に停めておりますので」

「それでは良き旅を」

 ろくに応じないまま、二人はさっさと脇を抜けて行く。

「え?あ、ちょっと!?」

 止める声も耳に入れず、黒塗りの車に乗り込んで走り去る黒服達。

 …口元が緩んでいるのが見えた…。あの二人、サンタに振り回されているように見えて結構楽しんでるよな…?

「何だよコレ…」

 首を捻りながら箱を開けてみると、中には車のキーのセットが収められていた。それとクリスマスカラーの赤と白のメモ用

紙…。

「…って、車の…キー!?」

 慌ててアパートを回り込み、駐車場を覗いてみれば、やたら目立っているディープパープルの見慣れないデカい車…。

「…ジープ?って言うのか?何だあのデカいの…?」

「ランドクルーザーっていう車じゃないでしょうか?」

 まさかと思いながら「誰のだろう…?」と呟いてみたら、ナカイ君が「あれがプレゼントですよ、きっと!」と笑みを浮か

べた。…やっぱりそう思う…?

 試しにキーのリモートロックを弄ってみたら…、ランプ点灯しやがんの…。

「何考えてやがんだあのヂヂィ!貰える訳ねぇだろこんな高そうなの!おいくら万円するんだよあの車!?」

 高額品を前に動揺しまくる小心な俺は、キーが入った箱の中に収められたメモの存在を思い出し、早速引っ張り出してみた。

 内容は…、爺さんからの手紙だな。



 ほっほっほっ!メリークリスマス!勝手にプレゼントを選ばせて貰ったぞい!

 この車なら縦にも横にもデカいお前さんでもさして窮屈じゃなかろう?

 それとのぉ、ナカイ君は「どらいぶ」大好きっ子じゃから、乗せてあげたらきっと喜ぶと思うがのぉ?

 ついでに、確か「ふるふらっと」とか言うたかのぉ?座席を倒せば寝転がれるようになっとるヤツじゃ。

「でぇと」の時も役立つぞい!ギシギシアンアンじゃ!「かぁせっくす」じゃ!

 では、れっつメリークリスマス!



「おぶはっ!?」

 思わず吹き出した俺は、「何が書いてあったんですか?」と覗き込んだナカイ君からメモを隠そうとして…、

「うおわっ!?」

 突然火を上げたメモを手放す。…ま、またサンタマジック的なアレか!?いやでもナカイ君に見られずに済んで助かった!

 メモが完全に消滅し、小箱と鍵だけが手元に残る。

 …俺、ペーパードライバーなんだけど…。それにこういう車、維持費とか結構かかるんじゃ…?アパートの駐車場も契約し

なきゃならないし、税金もガソリン代も…。

 どうしたもんかと途方に暮れる俺の横で、

「この車なら、もし引っ越しをしても、荷物運びがスイスイいきますね…」

 俺の様子を窺いながら、ナカイ君が小さな声で呟いた。

「もしも…家賃折半できたりして、負担が減れば…、車の維持費ぐらい何とかなるかな…」

 俺もナカイ君の表情を窺いつつ、言い訳するように呟いてみる。

 ピカピカのランクルを前にして、沈黙する二人…。

「…ナカイ君の部屋って、け、結構新しいよね。か、家具類とかもさ…」

「あそこ、実は結構家賃高いんです。それにお風呂も狭いし…」

「…家具は備え付けじゃないよね?」

「殆どは別です。備え付けは衣装箪笥くらいで…」

 たった一言が口にできなくて、俺は遠回りに会話を進める。

 ナカイ君も言ってくれなくて、話は大切な事を欠いたまま。

 交際しているとはいっても、出会ってからそんなに時間も経ってない。

 手だってろくに握っていないし、飯を一緒に食うぐらいで、デートだって…。

 小心な俺は、慎重になって、遠慮して、なかなか言えなかったが…。

「あ、あの…。ナカイ君…?」

 思い出した弟君の言葉を後押しにして、勇気を振り絞る。

「はい?」

 見上げて来たナカイ君に体ごと向き直り、唾を飲み込んで、緊張で乾いた喉を湿らせて…。

「い、一緒に暮らそうっ!」

 顔をカーッと熱くさせながらようやく振り絞った言葉。

 ナカイ君は黙ったまま、目を少し大きくした。

「あ、あの…、迷惑でなければっていうかそんなに付き合いも長くないのにこんな事言うのちょっと図々しいとは思うんだけ

どその何て言うか夜に行き来するのも考えてみると危ないような気がするし一緒にいる時間も長く取れ…」

 沈黙に耐え兼ねて慌てて言い繕い始めた俺に、

「嬉しいです。ヤマトさん…!」

 ナカイ君は瞑っているように見えるくらい目を細めて、千切れそうなほど激しく尻尾を振りながら、「不束者ですが、宜し

くお願い致します」と深く頭を下げた。

 …どうやらこの車…、早速活躍させる事になりそうだ…!