臨時レスキューのサマーバカンス

行く手の右側、道路脇の防風林が切れた先、町並みを越した遠くに、青々と輝く海が見えた。

アイスクリームのような入道雲が、水平線の向こうにぽっかりと浮かんでいる。

目に染みるような青い空と、それより少し色が濃い海…、今日は最高の天気だ!

「あ。見えてきましたよ!うっわ~!すご~い!青~い!」

ハンドルを握る俺の横、ランドクルーザーの助手席で、若い犬獣人が興奮したように歓声を上げる。

目をキラキラさせているその横顔を、ちらりと横目にした俺は、思わずニマ~っと口元を緩めた。

っくぅ~!可愛いったらねぇなぁもぉっ!

幼さが抜け切っていない、それでも整った顔立ちに、深い黒色の大きくつぶらな目。

明るい肌色の鼻と、すっと通った鼻梁。ピンと立って尖る三角耳。

声変わり前の少年のような、綺麗に響く、澄んだ高い声。

そのホッソリとした体を覆うのは、密度が高く、外側は硬めで下毛が柔らかい、独特のブワッとした手触りの茶色い被毛。

身長は160ちょっとで、2メーターを越える俺とは40センチ以上も差がある。

モサモサしてる上に太ってて、おっさん顔の俺とは対照的な若々しいこの犬獣人は、中井雪之丞(なかいゆきのじょう)。

去年のクリスマスに出会った自慢の恋人だ。ちなみに二十歳。

俺は大和直毅(やまとなおき)。気持ち太め、ホント、ほんのちょっとだけ太めの、茶色の被毛の羆だ。なお、ピッチピチ

の二十六歳。

「窓を開けてみても良いですか?」

「おう。潮風?」

冷房を止めながら尋ねると、ユキは輝くような笑顔で頷いた。

「はい!好きなんです、磯の匂い!」

言葉遣いは丁寧だし、礼儀正しいし、料理洗濯など家事全般が得意で、ホントしっかりしてるユキだが、時々こうして子供っ

ぽい面を見せてくれる。…そこがまた堪んなくかわいいんだなぁ…!

ユキがウィンドウを下ろすと、快調に飛ばすランクルに、ほんのり磯の匂いが混じる真夏の風が吹き込んで来た。

「あ~!良い匂~い!」

鼻を鳴らして目を細め、喜んでいるユキの横顔をチラ見しつつ、俺も運転席側のウィンドウを少し開ける。

細く開けたウィンドウの隙間から入って頭を撫でる風には、微かに香る潮の匂い…。ユキほどはっきりとは感じられないが、

俺のデカッ鼻にも香りは届いた。

ちなみに、ユキは異常に鼻が良い。茶道の家元の生まれだからなんだろうか?

いくら人間よりも聴覚や嗅覚が優れている獣人といっても、本物の動物ほどには感覚は鋭くないんだが、ユキは別格。

体臭がこもった物を移動させたルートや、コロンなんかの残り香をピタリと嗅ぎ当てる。それも十数時間前のもの…、時に

は数日前の残り香までだ。

汗っかきの俺なんかと一緒に居れば、さぞ匂いがキツいんじゃないかと思うんだが…、

「ヤマトさんの匂い、好きですから」

と、微笑みながら言ってくれるんだなぁ…。たはぁ~っ!

吹き込む風に茶色い被毛をなぶらせるユキは、本当に嬉しそうだった。

こんなに喜んでくれるとはなぁ…。いやぁ、ホンットこの旅行を企画して良かった!



事の起こりは、梅雨明けの時期まで遡る。

長年住み慣れた安アパートの部屋に、今年の四月からやって来た同居人は、ハワイの特集番組を眺めながら、

「…海ですかぁ…」

と呟いた。…どうでも良いが、白黒の牛柄パジャマは可愛過ぎて反則だと思う。

夕食後のデザートにあてがわれた、ユキの手作りババロアを謹んで食していた俺は、テレビ画面に映り込む、眩しいほどに

青い海と砂浜を見遣った。ちなみに俺の方は、愛用しているグレーの浴衣姿。

「私、海で泳いだ経験は一度しか無いんです」

「へ?そうなの?」

そう言えば、ユキの実家は飛騨山脈の麓の辺りだったらしい。内陸生まれの内陸育ちだったっけ。

俺の前にあてがったものより小さく作ったババロアを、スプーンで掬って口元に運びながら、

「傍まで行った事も少ないんですけど、海は好きなんです。あの潮の香りとか、音とか…」

仕事とはいえ、いささかわざとらしくはしゃいでいるリポーターの様子を、こころなしか羨ましそうな目で眺めながら、ユ

キはそう呟いた。

俺はテレビのナレーションに耳を傾けつつ、妄想モードを開始、コンマ数秒で終了する。

「よし!海に行こう!」

一瞬頭に浮かんだ、水着姿で砂浜を走る可愛いユキの姿を反芻しつつ、俺は大きく頷いた。

「さすがにハワイは厳しいけど、せっかくだから、ドライブがてら遠くの海に行って、一泊旅行とかどうだろ?」

ユキは突然の提案に驚いていたが、

「今からだったら予約を取れるトコも多いし、休みを合わせるのも難しくないだろう?平日を狙ってさ、のんびり海で過ごす

のも良いんじゃないかな?」

俺がそう熱を入れて説得すると、ユキはパタタッとフサフサの尻尾を振りながら、笑顔で頷いた。

「はい!行ってみたいです!」

…俺…、この笑顔の為なら何でもできるっ…!

予算は限られているものの、もちろんユキが喜ぶような所を見つけたい。それはもう必死になって宿泊施設を探した。

ネットで口コミ検索した俺は、深夜まで及んだ検索の末、首尾良く、安くて料理が美味くて景観も良いと評判の民宿を見つ

ける事ができた。

…名前だけがなんかちょっと気になるが…。



「たぶん、あと一時間ぐらいかな。昼前には着くと思う」

「まだ結構あるんですね。それじゃあ…」

俺の言葉に頷くと、ユキはクーラーボックスから冷えた麦茶のボトルを取り出し、キャップを外して手渡してくれた。

「はい。あ、疲れたら言って下さいね?運転代わりますから」

「ありがとよ。でもまだまだヘーキヘーキ!」

気遣うように言ったユキに、俺は笑いながらそう応じた。

さて、着くまで少しかかるし、俺達の近況でも説明しておこうか…。

まず、最も大きな変化と言えば…、ユキを、こうして「ユキ」って呼ぶようになった事…か?でもユキはいまだに俺の事を

「ヤマトさん」と呼ぶ。ナオキって呼び捨てにしてくれて良いって言ったんだが、ヤマトって苗字の響きが好きらしい。

それと、他人行儀に思えるこの「さん」付けは、ユキなりの親愛の表現で、フランクな方らしい。どうやらユキの場合は本

当の他人行儀だと「様」付けになるみたいだし…。

それから、ペーパードライバーだった俺が、ドライブに備えて、練習がてら日常的に車を出すようになった事も変わったと

ころか?その甲斐あって、こうして遠距離運転ができる自信もついたって訳だ。

他に変わった事と言えば、俺達双方の胸のつかえが取れた事だろうか?お互いの実家からも今の生活を暗に認めて貰えて…。

チラリと横を見ると、ユキは相変わらず楽しげな様子で、外の景色を眺めていた。

俺達を乗せたランクルは、すいている平日の道を快適に飛ばして、半島を先へ先へと進んで行った。





民宿の前、砂利が敷かれた駐車場に車を停めて外に出たとたん、むわっとした夏の熱気が俺達を包んだ。

グリーンの半袖ティーシャツに、白のカーゴパンツ姿のユキは、「暑いですねぇ」と口では言いながら、実際はさほどでも

無さそうな…。

が、俺は違う。北国で生まれ育った俺は、自慢じゃないが暑さへの耐性が低い。おまけに根性なしだから暑いのが超苦手。

三列目のシートを畳んでトランクにしていたスペースから、それほど多くもない荷物を出している内に…、

「うひぃ~!あっつぅ~…!」

丸みを帯びた胸と腹ではち切れそうになっている、青い袖無しメッシュシャツの背中や脇の下、胸元には、汗の染みができ

始める…!

「私も持ちます。それじゃあこれを…」

「ああ、ソレ重いから俺に任せて。そっちのバッグ持ってくれるか?」

軽い荷物だけユキに預けて、残りを自分で担いだ俺は、民宿の玄関に向かって歩き出す。

客用玄関の前には、陽に焼かれて褪色した朱色に白い文字が書かれた、四角い看板が掲げられていた。

ついでに言うと、民宿そのものの朱色のトタン屋根も、褪色してくすんでいる。外観はなんていうかこう…、一見、ちょっ

と大きめの普通の民家…。

「…うみごき?」

看板を見つめて首を捻ったユキは、すぐさま俺を振り向いた。

「どういう意味の名前なんでしょう?」

「あ~…、その…、フナムシの事らしいな…」

「ああ、なるほど!フナムシの地元名ですか!実はまだフナムシの本物を見たこと無いんですよ!どういう風に動くんでしょ

うね、あの格好で!」

不快がるんじゃないかと思っていたんだが、ユキは意外にも、面白がっているように目を大きくして看板を眺める。…これ、

絶対気付いてないよな?「海のゴキブリ」の略だって事は黙っておこう…。

それはともかく、ユキが嫌そうな顔を全く見せなかったから、「安いんだ」とか、「料理が美味いんだ」とか、色々と言い

訳を用意していた俺は、安心すると同時に若干拍子抜けした。

でもまぁ、考えてみればユキはいつもこんな感じだ。文句や不満を言ってるトコなんてまず見られない。我慢強いっていう

よりは、贅沢のハードルが低いというべきなのか…、そういう所もちょっと可愛いよなぁ…!



俺の体重を受けて床板がギシギシ言う廊下を歩き、階段を登り、宿泊する部屋に足を踏み入れた途端、

「うわぁ~!」

ユキは荷物を下ろし、小走りに部屋を横切って、網戸になっている窓から外を覗いた。

ジャイアントパンダとレッサーパンダの顔をした風鈴が、窓のところに二つ並んでぶら下がり、リリン…、リリン…、と涼

しい声で歌っている。…どっかで見た事があるようなないような風鈴だな…。

俺達が今夜泊まる事になるのは、二階の一番奥の部屋、十四畳の和室だ。

ユキが興奮した声を上げるのも無理はない。入り口から入って正面に見える、かなり大きな窓からは、陽光を受けて煌めく

太平洋が見える。

ここ「うみごき」は、外見こそアレな感じの民宿だったが内装は綺麗で立派だ。

ゴテゴテしていない、実に過ごしやすそうなオーソドックスな和室。その中央には立派な黒塗りのテーブル。

床の間には松を描いた墨絵の掛け軸と、青銅の虎の置物が飾られている。おまけに窓の傍には、背もたれつきの座椅子と小

さなテーブルのセットまであった。

俺自身、実はちょっとビックリしている。

ネットで調べた口コミじゃあ、隠れた良宿って事だったけど、大当たりなんじゃないのかコレって…?

荷物を壁際にかためた俺は、ユキの隣に並んで、窓から外を眺めた。

開け放たれた窓から網戸越しに耳を澄ませば、海水浴客の楽しげな歓声と潮騒が聞こえて来る。砂利敷きの駐車場の向こう

の、細い道路と狭い防風林と堤防を越えれば、そこから先がもう砂浜だ。こいつはいいなぁ!

ふと横を見れば、笑顔で海を見つめたまま、ユキは尻尾をバタバタと激しく振っていた。

あぁ…!ユキってばこんなにも喜んでくれてるっ…!

「ヤマトさん…」

景色から視線を剥がして俺の顔を見上げたユキは、耳をペタッと伏せて笑顔を見せてくれた。

「ありがとうございます…!こんなステキな所に一緒に来られて、すごく嬉しいです!」

「そ、そんな大げさなぁ…」

そう言ったユキは、俺の胴に手を回して抱きつくと、幸せそうな顔で、鳩尾の辺りにスリスリっと頬ずりして来た。

うっあ~…!かわいいっ!…ほ、ホンット来て良かったっ…!!!

俺は顔をだらしなく緩めながらユキの背中に手を回して、キュッと抱き締め返した。…なんて幸せなんだろう…!



民宿に荷物を置いた俺達は、ひとまず軽く泳ぎに出る事にした。

さんさんと降り注ぐ太陽。照り返しが眩しい砂浜。青々と涼しげな色の海。潮の香りに波の音。

平日とはいっても、学校なんかはもう夏休みに入っているから、海水浴客はそれなりに多い。

海水浴場独特の騒がしさと雰囲気に当てられたのか、不慣れなユキはすでに軽い興奮状態になっているっぽい。あっちこっ

ち見回しながら、しきりに尻尾をパタパタさせてる。…か、かわいいっ…!

「あっちの方が割とすいているみたいだな…。海の家も近いし、あの辺にしよう」

「はいっ!」

パラソルを担ぎ、クーラーボックスをベルトで肩から下げた俺は、黄色地のサイドに白いストライプが入った短パンに、サ

ンダルを突っかけただけの格好だ。

丸めたシートを小脇に抱え、後ろをトテトテついて来るユキも、同じデザインの短パンにサンダル履き。…むふふ!何を隠

そう、この旅行のために通販で頼んだペアルックだ!ちなみにデザインのチョイスはユキ。

海に向かって砂浜を歩くと、周囲の視線が俺とユキにチラチラと注がれた。でかくてデブで不細工な俺と、スタイルが良く

て顔立ちも整っているユキは、一緒に歩けば当然目立つ。周囲から俺達がどんな関係に見えているのかは、ちょっと気になる

かな…。

俺達は適当な場所を選んで、パラソルを立ててシートを敷き、四隅をサンダルとクーラーボックスで押さえた。

嬉しそうに笑うユキが片手を上げて、俺もつられてニンマリ笑いつつハイタッチ。

準備を終えるだけでこの喜びよう…。よっぽど来たかったんだなぁ、海…。

「さぁて!さっそく一泳ぎ…」

そう言いかけた俺の言葉を遮って、グゥウウウゥッ…と、音が鳴った。

ユキはちょっと驚いたように音の出所…、つまり俺のモサっとした出っ腹を見て、次いで、気まずくて耳を伏せた俺の顔を

見上げる。

「…ふふっ!先に、何か食べましょうね」

可笑しそうに笑いながら言ったユキに、俺は「たははぁ~…、悪い…」と、頬を掻いて笑い返しながら頷いた。

幸いにもすぐ傍には海の家。ヤキソバやら焼きイカやらを買い込んだ俺達は、シートの上で昼食を始めた。

ユキはクーラーボックスに仕込んでおいた、良い塩梅に冷えている缶ビールを引っ張り出し、紙コップに注いでくれた。

いつもは日本酒派…ただし大概は安価なもの…な俺だけど、こういう時はビールも悪くないかなぁと思う。

手早く腹ごしらえして、網の上で焼かれたばかりのミソサザエをつまみに軽く食後のビールを楽しむ俺の傍らには、寄り添

うように足を横に崩して座る恋人…。

去年まで憧れて止まなかった、夢のようなシチュエーション…。…俺、幸せモンだ…。

お酌をしてくれていたユキは、二本目のビールが空になった事に気付き、クーラーボックスに手を突っ込んだが、俺は笑い

ながらそれを制した。

「泳ぎたいだろ?腰据えて飲むのは夜で良いって」

いつもながら甲斐甲斐しく世話をやこうとしてくれるユキは、「でも…」と、少し躊躇っているように俺を見た。

「ヤマトさんは運転で疲れているでしょうし、一杯やりながらのんびり休んだ方が…」

「良いんだって。どっこらしょっと…、さ、一泳ぎ行くか!」

俺が腰を上げると、ユキは躊躇うような顔を見せたものの、結局は尻尾をパタタっと振ってから頷いて、立ち上がった。

喜ばせたくて海に連れて来たのに、俺に気を遣わせてちゃ本末転倒だもんな。

波打ち際まで進んだ所で、ユキは一度足を止めた。

足先を波に洗わせながら、表情を緩めて、くすぐったそうに笑っている。

あ~、なるほど…。引いていく波が、足の下から砂をさらっていく感触を楽しんでいるんだろうな。

「前に海で泳いだのって、いつごろだった?」

「えぇと。中学の臨海学校の時だから…、七年前ですね」

それを聞いた俺は、ユキが見せる珍しいまでのはしゃぎように、やっと納得した。

多感な中学時代、クラスメート達と一緒に遊んだ、楽しい海の記憶…。まだ家を追い出される前の、おそらくは恋心に戸惑

いながらも初恋の友達を眺めて過ごしていた頃の…。

その想い出がユキの心には強く焼き付いていたんだろう。内陸育ちだから、海その物のインパクトもあって…。

満足したのか、ジャブジャブと海水を蹴って進みながら、ユキは俺を振り向いた。輝くような眩しい笑顔で…。

「そうだ。ヤマトさんは、泳ぎは得意なんですか?」

「ん?う~ん、たぶん人並み?でもまぁホラ、俺浮きやすいから。天然の浮き袋って言うか…、脂肪のおかげで」

ぼよんと突き出た弛んだ腹を、ポンと叩いて揺らして見せたら、ユキは可笑しそうに笑った。

少し深いところに移動して、ユキの首の下までが海水に浸る辺りで、俺達はのんびりと波を楽しんだ。

ゆるやかに押し寄せる波に体を押し上げられ、揺すられて、ユキは楽しげな笑みを浮かべて見せる。

俺も膝を折って身を屈めて、肩まで海水に浸かり、同じように波の動きに体を預けてみる。

去年はオジマイイノペアと一緒に一回、それからヤマギシと一回、二回だけ海に来たっけな…。一年ぶりの海の感触は、記

憶にあるよりも気持ちいいような気がする…。

「もうちょっと深いところまで行ってみましょう?」

「おう。…念のために聞くけど、ちゃんと泳げる?ユキ」

「ふふっ!大丈夫ですよっ!」

ユキは楽しそうな笑顔でそう応じて、手でパシャパシャと水をかきながら、ゆっくりと沖へ進んで行く。

少し進んだ所で、もう足が底に着かなくなったのか、試しに一度完全に沈んで水深を確かめ、それから「ぷはっ!」と顔を

出した。

「あはは!しょっぱいです!海だなぁ~!」

口回りを舐めて、楽しげに笑うユキ。

海水に濡れた長めの毛がペショッと寝て、いつもとはちょっと違う顔になっている。

あぁ…!なんてかわいいんだユキっ!

まだ肩から上が海面から出ている俺は、水をかきながら歩いてユキに近付き、そっと手を伸ばした。

俺の片腕に捕まって体重を預けたユキは、軽く水を蹴ってバランスを取りながら、海面から出した首をこっちに向けて微笑

んだ。

愛くるしいその微笑みに、俺は笑顔で応じた。たぶんデレンデレンに緩みまくった笑みで…。



体から力を抜いて仰向けに海面に浮かび、波に揺られながら、日の傾きが大きくなった空を眺める。

夕飯も民宿にお願いしているし、そろそろ上がらないとな…。上がったり入ったりを繰り返して、十分に泳いだし。

体が沈み込まないよう、少しだけ首を上げつつ視線を動かすと、すぐ傍でちゃぷちゃぷと犬かきしながら、俺と同じように

空を見上げているユキの横顔が目に入った。

視線に気付いたのか、こっちに顔を向け、静かに泳ぎ寄って来たユキは、ボートにでもしがみつくように、脇腹側から胸に

腕を上げて来た。

重みを受けて軽く傾いたものの、無駄に豊富な脂肪のおかげで浮力が強い俺の体は、安定して浮いたままだ。…まぁ、ユキ

は重さにして俺の三分の一もないからな。

ニンマリ笑って腕を掴んだ俺は、軽いユキを体の上に引っ張り上げた。

こうすればさすがに少し沈むものの、それでもまだ大丈夫。十分な浮力が得られている。

腹に跨る体勢のユキを乗せたまま、俺は水を蹴ってゆっくりと移動した。

「ふふっ!なんだかボートみたいですね。…と言うより、イルカなんかに乗ったら、こういう感じなんでしょうか?」

「どうかなぁ?ま、乗る機会があったとして、俺みたいなのを乗せるのはイルカも嫌だろうけど」

「そんな事は…、う~ん、有りますかねぇ…?」

「おぉ~い!否定してよぉ!」

口を尖らせた俺の上で朗らかに笑ったユキは、周囲を見回すと、

「隙ありですっ…!」

素早く前屈みになって口付けして来た。

上から覆い被せられる形でキスされた俺は…、

「え?わ、わわぁーっ!?」

ビックリして声を上げたユキを乗せたまま転覆した。ユキの二倍ぐらいビックリしてバランスを崩して…。

あぁ…。幸せだなぁ、俺…!



海から戻った俺達は、体に付いた塩やら砂やらを流すため、民宿の広い浴室を借りた。海水浴場にもシャワーブースがあっ

たものの、混んでたし、ゆっくり体を洗えるこっちの方が良いかなぁって。

浴槽は結構広い。銭湯とまではいかないが、タイル張りの浴槽は旅館なんかにあるクラスと殆ど同じで、大人が十人ぐらい

足を伸ばして入っても余裕がある広さだ。

図体もでかい上に太ってる俺には、アパートのあんまり大きくない浴槽は、馴染んではいるものの少々窮屈…。なもんで、

小さくならずに入れるどころか、手足を伸ばしてざっぽり浸かれる広い湯船は実に嬉しい。

だから温泉とか銭湯とかも好きだ。好きどころか大好きだ。いやむしろ愛してる。

…べ、別に目の保養として好きだからとか、そういう訳じゃないからなっ!?誰だ?今「やらしぃ目で周りの客を観察して

るんだろ?」とか思ったのはっ!?見張ってたのか!?

「ユキ、首の後ろに砂がたっぷり付いてるぞ?」

「え?」

椅子を引こうとしていたユキは、立ったまま首の後ろに手を当て、鏡に映して見ている。

その横で、こっそりシャワーのヘッドを手に取った俺は、そろ~っと温度調節し、気付いていないユキの頭の上に手を上げ、

不意打ちでお湯をかけた。

「わっぷ!ちょ、ヤマトさんっ!?」

「むはは~っ!さっきの不意打ちチューのお返しぃっ!」

ビックリして頭を押さえたユキの首筋にシャワーを近付け、砂を洗い流してやりながら笑う。

「ほらほら、じっとして。綺麗にするから…」

頭に手を当てて押さえながら言った俺は、脇腹に妙な感触を覚え、ビクっと体を強張らせた。

「あひっ!ちょ、ちょっとユキ!くすぐっ…!だひゃはひはふはひっ!」

「ふふふ…!こっちもお返しです!」

両手で横から脇腹を掴まれ、細くてしなやかな指でムニムニと揉まれた俺は、大声で笑いながら悶える。

「あはは!プニプニ~!」

ユキの手が左右から挟み込むようにして動くと、分厚い皮下脂肪で丸く突き出た俺の腹は、たゆんたゆんと波打って弾む。

…ちょっと屈辱…!

元出張ホストのユキはテクニシャンだ。その繊細な指使いで人体の敏感な部分…特に快楽のツボや脱力のツボ、あと笑いの

ツボとかを刺激する手際は、まさにプロの技っ!

「あひゃひゃひゃひゃ!や、やめっ!やめろってユキ!やめないと…、こうだっ!」

「うわっぷ!わ、わわっ!?」

俺はシャワーの口をユキの頭の天辺に押し付けた。頭にそって流れ落ちる湯が、ヴェールのようになってユキの顔を伝い落

ちる。なんだか活きの悪いミニ噴水っぽい。

堪らず俺の脇腹から両手を離すユキ。

「ふっ!俺の勝ちぃ!」

…と、他愛の無いじゃれあいで勝ち誇ったのも束の間…、

「ひぁっ!?」

今度は股間に刺激を受け、俺はシャワーを手放した。

落下するシャワーを、器用に左手でパシっとキャッチしたユキは、空いている右手を俺の股間に伸ばしている。短く太い俺

のナニは、袋ごと、ユキの手にしっかりと握り込まれていた。

「ちょ、ちょっと待っ…!ユキ!そこは反則…あふっ!」

に~っと、満面の笑みを浮かべたユキは、俺の真ん丸い鈴口を親指でキュッキュと擦り始めた。

「あ!こ、こらっ!ここじゃまず…、んぅっ!」

馴れた手付きで刺激された俺の愚息が、ムクムクと大きくなる…!

「降参ですかぁ?」

いたずらっ子の笑みを浮かべ、見上げてきながら言ったユキに、一も二も無くガックガク頷く俺…!

「ふふ!私の勝ちですね?」

ユキはやっと手を止めて笑みを深くすると、すっと視線を下に向け、俺の股間を覗き込んだ。

つられて視線を向けると、出っ張って弛んだ腹の下で、短いながらも丸々と太い俺のセガレが、ビンビンになっていた…。

「…せっかくですから…、綺麗にしましょうね?」

「え?あっ!」

言うが早いか、 ユキは出しっぱなしにしていたシャワーを、鈴口に押し付けてきた!

右手でしっかり捕縛された息子に、左手で注ぎかけられる勢いの強い湯…!
 至近距離で浴びせられるシャワーの湯に叩かれ、亀頭から下っ腹、そして腿の方へ、苦しさにも似た刺激が走るっ!

「あ、あひゃ…、あ、ああ、あああああっ!」

人質(?)を取られ、腰から力が抜けそうになり、気の抜けた声を漏らしながら、俺はユキの両肩に手を置く。

も、もぉだめっ!笑ってた膝がついに折れて、ベタンと座り込んだ俺の前に、シャワーを止めて悪戯っぽく笑うユキが屈み

込んだ。

「せっかくついでに、一回…」

「んくっ…!」

ユキの手が伸びて、俺のチンポをそっと掴む。

亀頭に優しく触れられただけなのに、ギンギンになったチンポには強い刺激が走った。

「ここまで来たら、収まりが悪いでしょう?」

ユキは優しく微笑むと、床に膝をつき、俺のむちっとした胸に手を当てた。

逆らう気力も意思も、もうどっかにふっ飛んでしまった俺は、促されるままに大人しく後ろに体を倒し、股を広げ、背中側

に手を付いた姿勢になる。

広げた股の間に体を乗り入れ、のしかかるようにして胸を合わせてきたユキは、そっと口付けをくれた。

「それじゃあ、かる~く…」

微笑んだユキは体を離すと、俺のまたぐらに顔を埋める。そしてカポっと、丸々とした太く短いチンポを咥えてきた。

「はっ!あ…!んぅっ!」

チュプチュプと、音を立てて口で愛撫してくれるユキが、上目遣いに俺の顔を見つめた。

皮下脂肪で山と盛り上がった腹の上で、俺とユキの視線が交わる。

俺はどんな顔をしていたんだろう?ユキの目が笑みの形に細められた。

「ふぇ…!」

絶妙な舌使いで亀頭を嘗め回していたユキが、急にヂュウっと強く吸い、俺は快感でフルフルと震えながら声を漏らした。

どうにかなっちまうんじゃないか?そんな心細くなる程の強い快感で身を震わせながら喘ぐ…いや、喘がせられる…!

絶え間なく送り込まれる刺激が、玉袋の下や、下っ腹にまで伝わって来る。絶頂に向かって急激に登り詰めた俺は、ほんの

僅かの抵抗もできずに…、

「んっ…!んうぅううううううっ!」

弛んだ体をブルブルと震わせて、精液を放った。…っていうか吸い出された…。

俺自身を咥え込んだまま射精まで導いたユキは、ゴキュっと喉を鳴らしてソレを飲み下す。

「んあっ!あ、あうぅっ…っく…!」

なおも強く吸って来るユキの舌が、頬の粘膜が、イった直後で敏感な亀頭を刺激する。

フルフルと体を震わせながら我慢する事ほんの僅か、全部綺麗にし終わったユキは、ようやく俺のチンポから口を離した。

同時に、力尽きた俺はゆっくりと背中を床につけ、仰向けに寝転がってぐったりする…。

「うっわぁ…!今日のは濃~い…!」

少し顔を顰め、可笑しそうに笑ったユキは、仰向けになった俺の体にしなだれかかり、まだ荒い呼吸で上下している出っ腹

に手を伸ばした。

だらしなく弛んだ腹を、ユキの右手がそっと、優しく、円を描くように撫でる。

ヘソに親指を入れ、挟み込むようにして肉を掴んで、人差し指から小指にかけてウェーブをするように、優しく揉んでくる。

楽しそうに尻尾をフッサフッサと振っているユキは、つまりはデブ専だ。ユキの言葉を借りるなら…、

「おっきくて、太っているひとが好きなんです。頼もしい感じがして…。…ヤマトさんみたいなっ!」

…との事。面と向かってそんな風に言われると、さすがにちょっと照れるっ…!

いたわるような優しい指使いで腹を揉まれるのは、こそばゆいが少し気分が良い。ユキが喜んでいるのが判るから…。

「…あんまり遅くなると、夕食の時間になっちゃいますね…」

名残惜しそうに呟き、身を離そうとしたユキの腕を、俺はがしっと掴んだ。

「どうしたんですか?ヤマトさん…」

不思議そうに俺の顔を見下ろしたユキに、にぃ~っと笑みを返す。

「ユキも、ここまで来たら収まりが悪いだろう?」

笑いかけられたユキの股間で、体と同じく平均よりやや小振りな…、といっても長さは俺のの愚息よりもあるモノが、ヒクっ

と小さく動いた。

もちろん、ギンギンに勃起して反り返ってる逸物が…!

「むっふっふっふっ…!こっからは俺のターンっ!イくまでずっと俺のターンっ!」

「ちょ、ちょっとヤマトさ…、わぁっ!?」

羆にガバっと抱きつかれ、捕獲されたワンコには、感謝と愛情タップリのディープキスを…。

そして、やわっこい贅肉に埋もれる感触を存分に味わって頂きつつ、アソコを心行くまでチュクチュクさせて貰った。

ま、本番は夜に、こっそりじっくり…、なっ!




「うっわ…!」

「すごい…」

部屋にあてがわれた夕食を前にして、俺達は口々に感嘆の声を漏らした。

地元産の魚介類を活かした刺身と天ぷら、鍋をメインにした夕食は、なるほど確かに、口コミに上がっていた通りの豪勢な

ものだった。

舟盛りにはカンパチに鯛、鮭とタコ、甘えび、ホタテの貝柱と紐の刺身。さらには伊勢海老が一匹、アワビが一つ丸々乗っ

てる!

しゃぶしゃぶは金目鯛とハモ!天ぷらはエビとタラ、獅子唐に筍、南瓜と薩摩芋!

漁師と民宿を兼業している、五十代程に見える人間の旦那さんは、俺達のリアクションを見て楽しげに笑った。だいたい皆

驚くだろうけど、自分の仕事の成果で驚いてもらえるのは気分良いだろうなぁ。

「鮮度がウリだからねぇ!ささっ!さっそく召し上がっておくんなさい!」

日焼けした厳つい髭面は、笑顔になると思いのほか人好きのする顔になる。

ガタイが良い…と言っても、俺なんかとは違う、がっしりと筋肉がついた体付き。海の男って感じがするなぁ。

旦那さんが出て行った後、俺達はテーブルについて、さっそく豪勢な食事を頂く事にした。

俺もユキも民宿に用意されていたそれぞれのサイズの浴衣姿。俺は自宅でもいつもマイ浴衣だから我ながら目新しさは無い

が、スタイルの良いユキの浴衣姿は実に艶やか…!マラソンランナーみたいな細身の少年のような色っぽさが…イイッ…!今

度ユキ用の浴衣も買おう!甚平なんかも可愛いかもっ!

…それにしても、もしかしてここは獣人御用達の民宿なんだろうか?俺が着られるサイズがあった事もビックリだが、各種

サイズには尾穴の大中小とナシ、各バージョンが揃えられていた。まぁ嬉しいビックリなんだが…。

冷房が効いた部屋で、遊び疲れた体をのんびりと休めながら、豪華な食事が楽しめる贅沢…。

しかも、目の前に居る最愛の恋人、ユキが酌をしてくれる…。

今年の一月に二十歳になったユキは、まだ酒には不慣れらしいものの、それでも俺に付き合って、甘口の地酒をチビチビ舐

めていた。

あまり聞いた事が無い地元メーカーの、刺身とよく合うやや辛口な酒と、どれを口に入れてもことごとく外れが無い絶品料

理に舌鼓を打ち、お猪口を傾けながらユキと談笑する幸せな一時は、あっという間に過ぎ去って行く…。

やがて、デザートにサイコロ状に切ったスイカと巨峰、パイナップルのフルーツ盛りを持ってきてくれた民宿の女将さんが、

空になったお膳を下げつつ布団を敷いて行ってくれた。

ユキがテレビのニュースと天気予報をチェックしている間に、俺は敷かれた布団の上に大の字に身を横たえる。

目を瞑り、伸びをして、深呼吸する。酒で火照った体に、ひんやりした布団が気持ちいい…。

「ヤマトさん」

「…ふが?」

一瞬飛びかけた意識が引き戻されて、目を開けた俺に、いつの間にかテレビの前を離れてこっちに来ていたユキが、微笑み

かけた。

「眠くなったら、私に構わず寝てくれて良いんですよ?」

「ははは!ありがとよ。でもまだ大丈夫、ちょっと酔いを覚ましてただけだから…」

飯を食っている間に、日は完全に没して、窓の外はすっかり暗くなっていた。

「そろそろ風も涼しくなったろうし、一回冷房を止めて窓開けてみる?波音、昼間とは違った感じに聞こえるかも」

頷いたユキは、リモコンを操作してエアコンを止め、窓際に寄って鍵を外す。

窓が横にスライドした途端に、吹き込んだ夜風がパンダの顔をしたペア風鈴を鳴らした。

「わぁ…!」

ユキは驚いたように声を漏らすと、テレビも消して、耳をピクピク動かし始めた。

海水浴客の嬌声が消えた砂浜からやってくる、控え目で穏やかな潮騒と、夜風が防風林で遊ぶ音、そして風鈴の涼やかな歌

声が、静かで穏やかな音楽を奏でる。

「夜の海って、なんだかロマンチックですね…」

お…?俺は仰向けに転がったまま目を動かし、ユキの横顔を見つめた。

ユキはうっとりとした表情を浮かべ、細めた目で外を眺めている。

…せっかくだし、夜の海をもっと近くで見せたいかも…。

「散歩でも行こうか?酔い覚ましにも丁度良いし」

よっこらしょっと身を起こしながらそう声をかけると、ユキは嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。



浴衣にサンダルでうみごきを出て、堤防を越えて砂浜に降りる。

満ち潮で昼間よりも高い位置に来ている波打ち際を左手に眺めながら、少し湿った砂の上をふたりでぶらつく。

細い、痩せた月が、控えめな光で照らす夜の浜辺。

弱い月明かりが海面にすーっと光の線を…、薄い薄い、ムーンリバーを描いていた。

ゆるやかに吹き付ける涼しい海風に、控え目な潮騒…。そのどっちもが、まるで気を遣っているように穏やかだった。

波で濡れた砂の感触を楽しむように、一歩一歩踏み締め、ゆっくりと歩いているユキの横顔には、薄明かりの中でもはっき

り解るほど楽しげな笑みが浮かんでいる。

浴衣の尻から出ている尻尾は、激しくは無いものの、絶え間ない動きで左右に振られている。

砂を踏み締めるその足下を見つめていたユキは、不意に顔を上げた。

そして、酔い覚ましにペットボトル入りの麦茶を飲みながら、その様子を傍で眺めていた俺に笑みを向ける。

「ヤマトさん。私、恐いぐらいに幸せです。こんなに嬉しくて、楽しい旅行ができるなんて、考えてみた事もありませんでし

た…。本当に、ありがとうございます」

「ははは!礼を言わなきゃならないのは俺もだよ。恋人とふたりでこういう風に旅行するの、実はず~っと前からの夢だった

んだ…!ありがとうな?ユキ…」

ユキはか細い光の中で穏やかな笑みを浮かべると、トトトッと駆け寄ってきて、俺の懐に飛び込んできた。

腕が回り切らない俺の胴に抱き付いて、スリスリしてくる恋人の背に、俺は空いている手を回して軽くさすってやった。

あぁ…。幸せだなぁ、俺…!





翌朝、俺はいやに早く目を醒ました。

朝日が水平線から顔を出したばかりの早朝だ。こんなに早く目が醒める事なんてそうそうない。

昨夜はかなり激しくアレしたんだけどなぁ…、予想外にあまり疲れてない。少しばかり腰にダルさが残っているものの、問

題ないだろう。

ユキはまだぐっすりだ。大の字になっていた俺の脇腹に、ペタッと背中をくっつけて、右脇を下にして眠っている。

まだ早いし、起こすのも可哀相だな…。

ユキを起こさないようにそっと身を起こした俺は、汚れても良いように、ハーフパンツとティーシャツに着替える。

準備を終えた俺は、あどけない顔で眠っているユキに微笑みかけてから、静かに部屋を出た。

朝の空気を吸いながら、海でも眺めてみよう。そう考えた俺は、階段を降りて玄関に向かった。

サンダルをつっかけて外に出ると、裏手の方から歩いて来た髭面の旦那さんと、ばったり顔をあわせた。

「おや、早いですなぁ!」

「おはようございます」

ポリタンクを両手に提げた旦那さんは、厳めしい顔に人なつっこい笑みを浮かべ、俺は笑顔で会釈する。

さすが漁師さん。早起きなんだなぁ。

「なんなら早めに朝食にしますかい?」

「あぁ、いや。連れはまだ眠っていますんで。…朝ごはん七時でしたよね?昨日言われたあの時間で大丈夫ですよ。俺の方は

たまたま早くに目が醒めたもんで…」

苦笑いして頭を掻きながら、俺は付け加える。

「しっかし…、ゆっくり寝ていて良い時に限って、常に無いぐらい早く目が醒めるんだもんなぁ…」

「ははは!解りますよ、案外そういう物ですなぁ。楽しい事が待ってる時に限って、体がソワソワして、勝手に目が醒めてし

まう物かもしれませんや」

「遠足の前の日に寝付けない…、ああいうのの一種ですかね?」

「あぁ、ははは!上手い事言いますねぇお客さん!ソレかもしれませんや!ところで、今日も泳ぎに出ますかね?」

「はい。朝飯をご馳走になったら、昼頃まで出てみようかと…」

「ふ~む…。ま、そのくらいなら大丈夫でしょう」

ん?大丈夫?何が?

首を捻った俺に、旦那さんは片手を上げた。

「じゃあ、支度がありますんでこれで」

おっと…。そう言えば旦那さん、何かしてる途中だったんだよな?邪魔しちゃ悪い。

「引き留めて済みませんでした。それじゃあ、また後で」

旦那さんと笑みを交わして別れた俺は、そのまま道路を横断する。そして、堤防越しに朝日で煌めく海を見遣った。

普通の人の肩よりも高さがある堤防だが、俺にすれば鳩尾の下辺りまでしかない。肘を乗せて寄り掛かるには良い具合だ。

尻ポケットに突っ込んできた携帯灰皿とタバコを取り出し、朝日を浴びてキラキラ輝く海を眺めながら一服つける。

ホストだったユキは、タバコの臭いには慣れているから平気だとは言っていたが、鼻が良いから煙そのものは苦手だろう。

なので、俺がタバコを吸うのはユキが傍に居ない場合だけ…。アパートの部屋の中では吸わなくなった。

いっその事止めようかなぁとは思うものの、なかなか踏ん切りがつかない…。

意思弱いんだよ俺…。だからダイエットも続いたためしがないし…。

のんびりとタバコをふかしていた俺は、堤防の上をこちらに向かって歩いてくる人影に気付き、首を巡らせた。

「…あっ!?」

「ほほっ?やっぱりお前さんじゃったか」

思わず声を上げた俺に、釣り竿とクーラーボックスを手にして堤防の上を歩いて来た、恰幅の良い老人が笑いかけてくる。

「朝の磯釣りを楽しんだ帰りだったんじゃが、ふと見れば見覚えのあるようなむっくりしたモンがおるからのぉ、もしやと思っ

たんじゃが…、いやいや奇遇じゃのぉナオキ君」

「ああ、こっちもビックリしたよ…」

白いラインが入った真っ赤な救命胴衣を着た、丸々とした体型。真っ白なたっぷりした髭が特徴的なこのじいさんは、本物

のサンタクロースにして、国内有数の玩具メーカーの先代代表取締役、黒須惨太(くろすさんた)だ。

「ユキとふたりで…、ホラ、そこの民宿に厄介になってるんだ。一泊二日の旅行でな。じいさんは何でこっちに?」

「今日なんじゃが、近くの港町でウチの社が主催する「えべ~んと」があってのぉ。子供連れの家族を「湾岸くるぅじんぐ」

に招待しとるんじゃが、持て成し役としてそれに同乗する予定なんじゃ」

「またあの黒服のお兄ちゃん達も巻き添えにしてか?」

笑いながらからかってやったら、サンタは心外な、と言わんばかりに顔を顰めた。

「巻き添えとは失敬な!ふたりとも、ああ見えて結構乗り気なんじゃぞ?」

俺はあの無表情な双子のSPの顔を思い出しながら頷く。…かもな…。前も嫌そうな顔はしていなかったし…。

「で、あのネコとウサギの着ぐるみで?」

「いや、今回はカッパとタヌキじゃ」

「…なんかのCMで見たような組み合わせだな…」

「それはそうと、じゃ」

サンタは咳払いし、何のCMだったか思い出せず、首を捻りながらタバコを消していた俺に尋ねて来た。

「ナカイ君とは、どこまで進んだんじゃ?んん?」

堤防の上で屈み、ニヤニヤしながら声を潜めるサンタ…。

「とりあえず、順調だよ…」

「ほっほっほぅ!そりゃ結構!」

目を逸らし、そっけなく応じた俺に、サンタはそれ以上突っ込んで尋ねて来る事もなく、楽しげに笑って頷いた。

「では、ワシはそろそろ行くぞい。楽しい旅行になる事を祈っとるよ」

「ああ。俺も、イベント上手く行くように祈っとく」

笑みを交わし、堤防からひらりと飛び降りたサンタは、背中越しに片手を上げながら歩いて行く。

その行く手で、まるでタイミングを計ったように走ってきた黒塗りのベンツが停まった。

素早く降りた黒服二名が、深々と頭を下げてサンタを迎え、次いで俺にも会釈した。

ペコッと頭を下げ返した俺の視線の先で、黒服の片方が後部座席のドアを開けてサンタを乗せ、もう片方が受け取った荷物

をトランクにしまい、最後にふたり揃って再び俺に一礼してから車に乗り込む。…大変だなぁ、お付きのお仕事って…。

走り出したベンツを軽く手を上げて見送った俺は、携帯灰皿をポケットに突っ込んで、民宿へ引き返した。

 

飯を食いながら、朝にサンタに会った話をしたら、ユキは顔を綻ばせた。

「私もお会いしたかったです。クロスさん、ご多忙ですから、なかなかお会いできないんですよね」

…考えてみればそうだよな?隠居の身っていっても、玩具業界じゃあ生きた伝説みたいな人物だ。色々と忙しいはずだが、

どういう訳か俺とは偶然顔をあわせる事もある。

しかも、高級レストランとか、大企業のビルとかそういうトコじゃなく、すっげぇ普通な場所で…。大金持ちのくせに割と

庶民派なのか?あのじいさん…。

朝食を終えてのんびりくつろいだ後、俺とユキは今日も浜辺に出た。

時刻はまだ午前九時、さほど混んでいない砂浜で、波打ち際で小波と戯れ、サンダルを濡らしながら歩くユキの後ろを、俺

はのんびりとついて歩く。

遠く煌めく沖には大きな貨物船や、漁船らしい中型の船、旅客船なんかがプカプカ浮いている。

なんとものどかで穏やかな朝…。良いなぁ、騒がしい街中を離れて、こういうところでゆったり過ごすのも…。

「ヤマトさんは、お友達と一緒に旅行したりとか、しないんですか?」

しばらく波を踏んで遊んでいたユキは、首を巡らせ、思い出したように唐突に尋ねて来た。

「ん~?大学在学中はたまに行ってたけど、最近じゃあもう無くなったなぁ」

だって、今じゃあ友人連中殆どが彼女持ちだし。結婚したヤツらまで居るし。

男友達でつるむ機会が多かった頃はともかく、周りが皆ノンケだから、彼女ができてくっつき始めると、ホモの俺はどうに

も浮くんだよなぁ…。

でもまぁ、こうして一緒に過ごしてくれる恋人ができたんだ。これからはふたりで色んな所に行ってみよう。

…温泉とか良いかもしれないな…。ぬふふふふふっ!

「なぁユキ。また休みを合わせて、次は温せ…」

「あっ!?」

だらしなく緩んだ顔で、次回の旅行予定について話そうとした俺の言葉を遮り、ユキは両手で口元を覆い、声を上げた。

大きく見開かれたその目は、沖の方へ向けられている。…ん?何にビックリしてるんだ?

ユキの視線を追って沖に視線を向けた俺は、やけに近い位置にいるように見える、二隻の船に気付いた。

旅客船と、貨物船だな。重なって見えるくらいに接近してるが…。あ、警笛が聞こえた。

目の上にひさしを作り、眼を細くして沖を見つめてみるものの、状況は良く解らない。

眼鏡こそ要らないが、俺はあまり目が良い訳じゃない。…念のために言っておくけどな、高校時代から暗い部屋でひとには

言えないようなパソゲーをしていた事は関係ないぞ?小さい頃からあまり良くなかったんだからな?

「あの貨物船ともう一隻の方…!ぶつかりました!」

ユキは顔色を無くして沖を見つめた後、俺を振り向いて怯えたような表情でそう言った。

「へぇ、ぶつか…うぇっ!?船が!?」

驚いて聴き直した俺に、ユキはコクコクと頷く。

「ど、どどどどうしましょう!?」

「落ち着けユキ。見間違いかもしれないだろう?」

動揺しているユキの両肩に手を置き、俺は辺りを見回す。

ユキ同様、沖を見つめてポカンとしているのが数人。

そいつらに話しかけた連中が、一様に驚きの表情を浮かべ、沖を見つめた。

…どうやら、見間違いって訳じゃあないらしい…。

俺は両手を目の傍に当て、指の腹で瞼越しに眼球を押し、眼圧を高めてちょっとでも鮮明に見えるように努力した。

効果はあった。少し鮮明さが増した視界の中で…、発煙筒の物だろうか?それとも…、旅客船から煙が薄く上がり始めてい

るのが見えた。海面からの照り返しに紛れて気付きにくいが、間違いない…!

まずった。ユキとふたりだから、持ち去られそうな貴重品の類は持ってきていない。携帯も宿の部屋に置いて来ている…!

「誰か携帯持ってませんか!?船がぶつかったっぽい!警察でも消防でも何処でも良いから、とにかく電話を!」

俺が声を張り上げると、何人かがわたわたと動き出した。

慌てて水着のズボンをまさぐり、舌打ちする男や、荷物を置いたシートに駆け戻って行く女の子…。

とにかく、この分なら誰かがすぐに通報してくれるだろう。

「ユキ、宿に戻ろう」

「え?」

訝しげな声を上げたユキの腕を掴み、俺は足早に波打ち際を離れた。

「ここのすぐ近くに漁港があるのを、来る途中に見ただろう?たぶんあそこが拠点になるから、この辺は手伝いで忙しくなる

はずだ」

手を引いて早足で歩き、シートに戻って荷物を纏めながら、困惑顔のユキに説明する。

「民宿の旦那さんも、船を持ってるから救助活動に協力するんだろうし、俺達にも手伝える事があるかもしれない」

クーラーボックスを肩から下げ、畳んだパラソルを担ぎ上げた俺の傍で、残りの荷物を持ったユキが頷いた。

「なるほど!でも、詳しいんですね?ヤマトさん」

「俺、生まれは浜の方だったって話した事があったろう?」

ドスドスと駆け足で砂浜を引き返しながら、並んで軽快に走っているユキに応じる。

「俺が六つの頃、地元の漁船が貨物船とぶつかって転覆した事があったんだ。漁師だった叔父さんも仲間も自分らの船で救助

に出たし、手が空いてるヤツは炊き出し…、もう浜中大騒ぎでなぁ、小さかったけど良く覚えてる。…そのぐらいおっかない

んだよ、逃げ場がない海の上の事故っていうのは…」

俺の横を軽快な足取りで駆けながら、ユキは納得したように頷いた。

「小さかった頃のヤマトさん…、可愛かったんでしょうね?」

「わははぁ~っ!自慢じゃないけど、縫いぐるみっぽくて可愛いって、当時は好評だったよ!」

重苦しくなりそうな雰囲気を空元気で吹き飛ばして、俺達は宿へ急いだ。



俺達が宿につくと、髭面の旦那さんが慌ただしく動き回って、軽トラの荷台にライフジャケットやら何やら…救命用の道具

類を積み込んでいた。

「旦那さん!沖で船が衝突してます!」

俺が声をかけると、事情はすでに察しているらしい旦那さんは、片腕を上げて応じた。

「聞いてます。かなりゴンギリぶつかったらしい。旅客船の方は浸水がひでぇって話です。…今日はやべぇってのになぁ…」

「船を出して救助の手伝いに行くんでしょう?だったら、俺も手伝います」

俺の申し出を聞いた旦那さんは、一瞬目を丸くした後、顔を顰めて首を横に振った。

「いやいや、お客さんにそんな危険な真似はさせられませんや」

「大丈夫です。俺、祖父と叔父が漁師でしたから。救助には少しでも人手が要るでしょう?親父さんもひとりで舵取りしなが

ら救助じゃ大変だ」

旦那さんはちょっと驚いたような顔をした後、しげしげと俺を眺めて、

「じゃあ、ちょこっとだけ手伝ってくれますかね?」

と、首を縦に振ってくれた。

実際には船の事になんて詳しくないんだが、別にウソはついちゃいない。力仕事なら俺でも役に立てるからな。こんな非常

事態なら、働けるヤツは働かないと…!

「ヤマトさん…」

ユキが不安げな顔をして俺を見上げた。

俺の事を心配してくれているんだろうが、何もしないで見過ごすのは心苦しい状況だ…。

「ユキはこっちに残ってくれ。で、女将さんに手伝える事が無いか聞いて、やれる事があったら協力してやってくれ。な?俺

の方は大丈夫。危ない事はしないからさ…」

ユキは俺の目をじっと見る。その瞳からは、まだ不安げな光は消えていなかったものの、判ってくれたのか、短く二度、頷

いた。

…ごめんな?ユキ…。

まだ濡れていない海パンはそのままに、上にはティーシャツを被って支度を整えた俺は、救命胴衣を身に付けようとして、

ふと気が付いた。

オレンジ色のベスト型救命胴衣はノーマルサイズ。俺には背面の広さが足りない。片方に腕を通すと、もう片方には全然届

かない。あるある。…いやあるあるじゃねぇし今は!

右腕を通したまま、もういっそ着ないで行こうかと考え初めていると、左側に立ったユキが、もう一着の救命胴衣を広げて

見せた。

促されるままにそっちの胴衣に腕を通すと、ユキは俺の背中側に回り、救命胴衣の胴紐同士を結びつけた。

二枚を組み合わせた即席救命胴衣をあつらえてくれたユキは、俺の手をキュッと、両手で包むようにして握った。

「気を付けて下さいね?ヤマトさん…」

「おう!」

少しでも安心させてやれるよう、力強く頷いて見せた俺の手から、ユキの手がするりと離れた。

もう一度、大きく頷いて笑みを浮かべて見せた俺は、旦那さんがハンドルを握った軽トラの助手席に体を押し込んだ。

「くそっ!もう来やがった…!」

クラッチとギアを操作しながら苛立たしげに唸った旦那さんの視線は、沖に向けられていた。

快晴だったはずの青空、その水平線に、薄暗い雲がかかり始めている。

「天気予報じゃあ、確か晴れって…!」

呟いた俺は、今朝旦那さんが口にした言葉を思い出した。

昼頃まで海に泳ぎに出るつもりだと言った俺に、そのくらいなら大丈夫と言っていた…。

「浜風は気まぐれでね。局地的なもんになると、予報があてにならない事もあるんですよ。もっとも、見立てじゃあ昼過ぎま

では保つと思ったんですが…。まったく、今日に限ってせっかちなこって…!」

アクセルを踏み込んで急発進させながら、旦那さんはそう言った。漁師の勘ってヤツだろうか?そこに根付いたひとならで

はの嗅覚で予測していたのか…。

「荒れるなぁ、こりゃ…」

旦那さんがぼそりと呟いた途端に、遥か沖から雷の唸りが響いて来た…。



旦那さんの操る漁船が衝突海域に着いた頃には、真っ白な旅客船はかなり傾いていた。

空には暗雲が立ち込めて、さっきまで海を煌めかせていた太陽の光も、この周辺にだけ届いていない。

斜め上から吹き付けるような風は強く、少し離れた所で鳴る、コロコロと、弱いが止まない雷鳴が不安を煽る。音はだんだ

ん近づいて、大きくなっていた。

遠く眺めると、離れた場所では雲の切れ間から注いだ陽光が海面を明るく照らしている。

旦那さんの言うとおり、本当に狭い範囲だけ荒れているらしい。

「予想よりずっと崩れが早い…。お客さん!やばいと思ったら声かけますんで、そん時は大人しく引っ込んで下さいよぉ!」

「は、はい!」

天候は、旦那さんの予想を超えて急変していたらしい。警告を発した海に生きる男の顔と声には、色濃い緊張が滲んでいた。

小心者の俺にとっては、正直に言わせて貰うなら、謝って逃げ出したいぐらいおっかない状況だ…。

客船の船体には傾斜が十五度近くもついて、傍の波間には衝突で破損した船の一部らしい白い板きれや、甲板から投げ出さ

れたんだろう客の荷物らしい物がポツポツと浮かんでいる。

乗組員の手で消火作業が行われたのか、もう煙は出ていない。

避難誘導もしっかりされたようで、そこらに救命ボートがたくさん浮いている。

ぶつけないよう、そして波を立てないよう、波間に漂うボートへ巧みに船を寄せる旦那さん。

頼もしい海の男の指示を受けて、俺はロープを繋いだ浮き輪を投げ、救命ボートがどこかに流されていったり、沈む旅客船

に巻き込まれたりしないように、船の横腹に引き寄せてロープを固定するなど救助活動を手伝う。船の横腹に当たって砕ける

波の飛沫で顔はすぐにビシャビシャになって、潮水が目に染みた。

旦那さんのお仲間だろう、他の漁船もぞくぞく駆け付けてくれたものの、元々が少人数で繰る小さな漁船だ。旅客船の客全

てを押さえるには、人手も船数も明らかに足りない。

漁船同士の間で、喧嘩腰で怒鳴るような声が飛び交う。どうやらそれが普通の意思疎通になっているらしく、漁船の一団は

見事な連携と巧みな動きで救助に当たっている。

もっとも、旦那さんが怒鳴り声を上げるすぐ横で、小心者の俺はちょっとばかりビビり気味なんだが…。

一方で貨物船の方はというと、さほど壊れてはいないものの、やっぱり航行不能になる程度の損傷は受けているらしい。

上で慌ただしく動き、救命ボートの準備をしている船員達の様子から、救助活動に加わるどころか、そっちも救助を必要と

している状況な事が察せられる。

「くそっ!時化始めやがった!」

旦那さんの舌打ちを耳にして、波飛沫で濡れそぼった顔を上げた俺は、いつの間にか波が高くなっている事に気付いた。

下ばかり見て作業に没頭していたせいで、今の今まで判らなかったが、海面が生き物のような上下運動を見せ始めている。

ついさっきまでは船体自体がゆっくりと上下していただけだったのに、今では横へ角度をつける揺れまでが加わっていた。

漁船はともかく、頼りない救命ボートは木の葉のように揺さぶられている。いずれも定員ギリギリのボートは、ちょっと波

を受けただけで不安定になるのに…。大きな横波でも貰ったら、乗ってる人達は放り出されるんじゃないか!?

「旦那さん!何人かこっちに乗り移らせる事はできませんか!?」

風に負けないように声を張り上げた俺に、ボートと繋いだロープを手すりに結び付けていた旦那さんは、驚いたような顔を

向けた。

「どのボートもいっぱいいっぱいで不安定だ!でも、数人ずつで良いから、船に上げて遊びを作れば、いくらかはマシになる

んじゃ…!?」

旦那さんは短い間考え込み、それから頷いた。

「磯に寄せて降りるときに使う縄梯子がある!立派なモンじゃあねぇが無いよりマシだ!そいつを使って何人かずつ上に上げ

ましょうか!」

これ以上波と風が強くなったら、煽られて危なくなるから乗り移らせるのは不可能だ。

余裕の無い短時間勝負に出てみる事にして、旦那さんが他の船に声をかけ始めたその時、ようやく数隻の警備艇が駆けつけ

てくれた。

ひとまず後回しにしていた貨物船までは手が回せずにいたが、あっちの方もこれで大丈夫だろう。

旦那さんと俺は縄梯子を降ろして、各ボートから数人ずつ、漁船の上に引っ張り上げる。

子供やお年寄りを上げたいのはやまやまなんだが、風が出ていて梯子も揺れる。体力のある、しっかり縄を掴めるひとでな

いと登らせられない。

順調に事を進めた俺達は、最後のボートからの引き上げにかかった時、思わず息を飲み込んだ。

「おばあちゃんが!おばあちゃんが、胸が苦しいって!」

髪を薄い茶色に染めた、いかにもちゃらちゃたした風体のお姉ちゃんが、波しぶきで化粧が滲んだ凄い顔で叫んでいた。

胸を押さえた白髪のお婆さんを、自分の胸によりかからせているお姉ちゃんの体を、揺れないようにと、周りの人達が支え

ている。

「心臓が悪いんですか!?」

「解らないわ!知り合いじゃないの!」

声を投げかけた旦那さんに、お姉ちゃんは泣きそうな顔で叫び返す。

「事故のショックか?それとも、元々胸の薬でも飲んでる婆ちゃんなのか?…どっちにしろ、ボートの上で揺られている状態

はまずいか…」

「船に上げればいくらかマシですよね!?」

問いかけた俺に、旦那さんは難しい顔で頷く。解ってる。おばあちゃん一人で登らせるのは無理だ。

「浮輪投げて、ロープをおばあちゃんに結んで貰いましょう。登れないなら、こっちでそ~っと引き上げます!」

「それしかないでしょうな…」

旦那さんは、顎を引いて俺の提案に頷いた。

さっそくロープを結んだ浮輪を投げ落とし、ボートの人達に、おばあちゃんの体をしっかり固定して貰う。

俺と旦那さんとでソロリ、ソロリと引き上げるおばあちゃんは、軽い体が幸いして、作業そのものは楽に進んだ。

波はいよいよ荒れて来た。早い所済ませて、この黒雲の真下から少しでも遠ざからないと…。

手を伸ばせば届きそうなほどのすぐそこまで、時間はかかったが何とか引っ張り上げる事に成功し、俺と旦那さんがほっと

表情を緩めたその時だった。

浮輪の中で、おばあちゃんの体がずるっと滑ったのは。

おばあちゃんの体に負担をかけないように気遣って、あまりきつく固定していなかったのかもしれない。それが裏目に出た!

浮輪の中から下へ抜けて行く、おばあちゃんの体…。

ロープを手放し、反射的に伸ばした俺の両手が空を切る。

が、幸いにも、おばあちゃんの救命胴衣の左肩の中に、右手の人差し指と中指が入り込んだ。

勢い良く入った太い指は、しっかりと救命胴衣を引っ掛けている。

ご老人とはいえ、指二本で支えるのはもちろん厳しい。指が千切れそうな衝撃!が、ここで放しちゃアウトだっ!

慌てて左手を添えた俺は、何とかおばあちゃんの救命胴衣の両肩を掴む事に成功した。

ほっとしたのも束の間。手すりに腰を引っ掛ける形で身を乗り出していた俺の体が、ぐらっとつんのめる。

腰を支える手すりの金棒を支点に、俺の体は前に落ち込む。

真下のボート、俺達を見上げていた人々の口から、悲鳴が上がった。

このままじゃ、俺が落ちるだけじゃなく、おばあちゃん諸共、真下のボートに墜落する!

おばあちゃんにはそれだけで致命的な負担になる上に、200キロを超える俺がこの高さから落ちたら、ボートだってただ

じゃ済まない!

が、両手が塞がったこの状態じゃあ、手すりを掴んで体を支える事すら…!

まずい!と思った瞬間、海パンが誰かに引っ張られ、危うい所でバランスが保たれた。

「無茶しますねぇホント…!お客さんは大馬鹿野郎だ!」

ほとんど真下を向いている俺の尻の辺りで、旦那さんの苦笑交じりの声が聞こえた。…た、助かった…!

嫌な汗がどっと吹き出る。助けるつもりが、危うくボート一隻沈没させる所だった…!

にしても、固く結んだ海パンの紐が、下っ腹にギリギリ食い込んで痛ぇっ!しかも情けない事に半ケツ状態だ!

旦那さんが引っ張って支えてくれている間に、俺はじりじりと足を移動させて、手すりにからませる事に成功した。

「旦那さん!おばあちゃん引っ張り上げるから、受け取って!」

いくらかマシな状態になった俺は、おばあちゃんを慎重に引っ張り上げる。

もう大丈夫と判断し、横手に回った旦那さんが伸ばした手が、おばあちゃんのライフジャケットを捕まえた。

一安心してほっと息を吐いたその瞬間、一陣の突風が吹き抜け、船が大きく傾いた。

旦那さんも俺も、手すりに腰を預けた姿勢で前のめりになる。

危ない所でギリギリ耐え凌いだ俺達の足元で、船が姿勢を戻す。…どっと汗が吹き出た…!

体を戻そうとした俺は…。

「…え?」

その瞬間、手すりに絡ませていた足が滑って、俺は間抜けな声を漏らしていた。

風に遅れてやってきた高波で、戻りつつあった船体が、再び大きく傾いている。

波飛沫で濡れたゴム長靴がギュリっと音を立てて鉄の柱から外れ、俺は頭を下に、足を上に、完全な逆さまの状態になる。

宙に放り出された俺の右手が、頭で考える前に、反射的に手すりを掴んでいた。

体が反転して足が下になり、手すりを掴んだ右手に全体重が勢い良く乗る。

肩と肘が捻られて、メリッと、中で軋むような音がした。

「おごっ!?」

背中を船体の横に打ち付けて、背中を圧迫されて息を吐き出した俺は、せっかく掴んだ手すりを、思わず放してしまった。

「お客さん!?」

旦那さんが叫ぶ。

船体に当たって弾かれたような格好になった俺は、そのまま宙に投げ出された。

下には、波に漂うボート…!皆が見上げ、旦那さんが見下ろす中、俺はゆっくりと前転しながら落ちて行く。

せめて、ボートへの激突だけは避けないと!

バタバタと宙でもがいた俺は、頭を真下に、足を真上に上げた、高飛び込みの選手のような姿勢に体を持っていった。

なんとかボートの向こう側の海面に落ちられる!

そう安心しながら着水した次の瞬間、俺の顔面、鼻の付け根、両目の間に、何か固い物がぶつかった。

盛大に水柱を上げながら海中に没した俺は、上も下も解らない状態で波に揉まれる。

閉じた瞼の裏でチラチラと黄色や白の星が跳び回る。

最初は痺れとして感じたその衝撃は、すぐさま痛みに変わった。

俺の顔面を痛打したのは、救命ボートのオールだった。

鼻の奥で、錆びた鉄のような、それでいて生臭い独特な匂いを感じたが、次の瞬間には、鼻腔に流れ込んできた海水で匂い

を感じているどころじゃなくなる。

「ガボッ!ゴボボッ!」

海中でむせ返り、残り僅かな息を吐き出してしまいながら、俺は波に揉まれてグルグルと回転する。

染みる海水の中で開けた目には、目まぐるしく入れ替わる灰色と黒のグラデーションが飛び込んで来た…。つまり海面と海

中の光と闇だ。

水を掻こうにも、捻った右腕は肘と肩が痛み、まともに動かない!

頭じゃダメだって解っているのに、喉が酸素を求めて勝手に動いて、海水を口の中に導き入れて、再び噎せ返る。

空気を吐き出し、塩辛い海水を飲み込み、波に翻弄される。

パニックになりかけた俺は、しかしギリギリの所で自分を保つ事ができた。

どっちが海面でどっちが下かも解らない状態だったが、ユキが着せてくれた救命胴衣と、体に溜め込んだ脂肪が、俺の体に

浮力を与え、海面へ導こうとしている。

何とか上下の方向を掴んだ俺は、海中でガボガボと噎せ返りながらも、無理に波に逆らおうとせずに、じっと我慢した。

苦しさに耐え、回転が収まるのを待ってから、動く左手と両足で水を掻く。

空気を吐き切ってしまったからか、目の前が異様に暗く、チラチラとした星は相変わらず瞬いたままだ。

何とか海面から顔を出した俺は、空気大きく吸い込み、そして噎せ返る。

…だ…、だずがっだぁ…!

潮の香りと鼻血の臭いが入り混じった空気を、吸っては噎せてを繰り返しつつ、旦那さんの船を目で探すと…、

「無茶しなさんなお客さん!すぐ引き上げますから!」

漁船の甲板の上で、おばあちゃんを無事に引き上げ終えたらしい旦那さんが、俺を見つけて大声を上げたのが見えた。

船に上げられた皆や、牽引されている救命ボートの皆が、ほっとしたように歓声を上げる。

俺が居る位置から旦那さんの船までは、距離にして30メートル以上。

船に当たった返し波にでも巻き込まれたのか、ほんの短い時間で、これだけ離されたのか…。

旦那さんが怒鳴り声で、比較的俺に近い位置の船に指示を出す。

やっと呼吸が落ち着いてきた俺は、皆が上げている声が、悲鳴に変わった事に気付いた。

皆の視線の先、後ろを振り向いた俺の目に、海面が盛り上がったような波に乗り、斜め上からやって来るソレが映った。

顔を庇う暇も無く、波に乗ってやって来た旅客船の破片…、厚さ5センチ、一辺1メートルはある、剥がれて割れた扉の残

骸が、俺の顔面を痛打した。

押し込まれるような形で海中に沈められ、再び波に揉まれながら、俺は思った。

これ以上顔が悪くなったらどうしよう?と。

いやいやいや!今はそんな事を考えている場合じゃないだろ!?

同じ箇所に二発目。激痛と衝撃で堪らずに息を吐き出した俺は、再び海中で波に翻弄される。

ヤバい…!酸欠なのか、波に弄ばれて平衡感覚がおかしくなったのか、それとも、顔面を二回も強打して脳震盪でも起こし

たのか、頭がフラフラしてる…!

浮力は得られているものの、波と流れの中で泳げる程には体の自由が利かない…!

浮き上がり始めながらも、息苦しくなって海面に手を伸ばすが、視界が薄暗くなって行く。

意識が、遠のきかけてる…!?…や、やばい!今気を失ったら確実に溺れるっ!なんとか一回空気を吸わないと!

もがきながら噎せ返り、ごばっと息を吐き出した俺の視界に、ユキの姿が浮かんだ。

迎えるように両手を広げたユキに向かって、俺は海水をガブ飲みしながらも、力を振り絞って必死に手を伸ばす。

帰りたい。ユキの所に帰らなくちゃならない。その一心で伸ばした俺の手が、水面を突き抜けて何かに絡んだ。

太く、しっかりとした手応えのあるそれを、俺は必死になって引っ張る。

手がかりを得て、何とか海面から顔を出し、むせ返った俺は、滲む視界に自分を救った物を捉えた。

俺の手に絡んだのは、太い綱だった。

しかも、その先には赤と白のカラーリングが施された大きな浮輪。

無我夢中でロープを手繰って、大きくて頑丈な浮輪にしがみ付き、げほげほと噎せ返りつつ、ロープが伸びた先へ視線を向

ける。

そこには、俺を救った浮輪と同色、赤と白の鮮やかなカラーリングに彩られた、大型クルーザーが浮かんでいた。

「ほっほっほぅ!「ぐっどたいみんぐ」じゃ!どうやら生きとるようじゃなぁ、ナオキ君!」

クルーザーのへさきに近い甲板に、真っ赤なライフジャケットを身につけた恰幅の良い老人が立っていた。

その両脇には、浮輪に繋がるロープをしっかりと握ったカッパとタヌキ…、の着ぐるみ…。たぶんあの黒服達だ。

俺が救出された事を確認し、辺りのボートや船から歓声が上がった。

ほっと一安心したら、急に泣きたい気分になった。

顔も右腕も痛むし、かなりしんどい目に遭ったものの、…ご、ごんどごぞ…、だずがっだぁ…!



波で傾ぐ甲板で、四つん這いになった俺はげほげほと噎せる。

咳き込んだ途端に、頭に血が昇ったせいか、一度はおさまりかけていた鼻血が、再びダラダラと流れ出した。

「ぬぉ!?大流血っ、引くのぉ…!」

「引くのは後にして、とりあえずティッシュか何か、詰めるモンくれよぉ…!」

「この期に及んで助平ぇな事でも考えとったんか?んん?」

「泣くぞじじぃ!あと殴って泣かすぞじじぃっ!」

鼻を押さえながら言った俺に、カッパがポケットティッシュを差し出してくれた。

礼を言って受け取り、丸めて鼻に押し込んだ俺は、甲板にへたり込んだまま辺りを見回した。

クルーザーの甲板から見渡すと、波が一層高くなった海面には、救助活動を終えた漁船と警備艇、そして牽引されている貨

物船の姿が見えた。

そして、全ての船が遠巻きにする中で、旅客船が傾きを大きくして行く。

警備艇に牽引されて貨物船が十分に離れると、それまで頑張っていた旅客船は、舳先を上にして、力尽きたように静かに海

中に没して行った。

沈んだ旅客船が生み出した渦と波が海面を乱す中、俺はぶるるっと身震いする。

もしも引き上げられるのが遅かったら、俺は沈んでゆく旅客船の波に巻き込まれて、海底まで引き摺り込まれていたかもし

れない…。

「はふぅ…。何はともあれ助かった…。恩に着るよじいさん。本当に有り難う…」

「ほっほっほぅ!お安い御用じゃ!」

「…にしても、何でここに?イベントじゃ無かったのか?」

鼻の付け根を指で押さえて、上を向きながら問いかけた俺に、じいさんは「おお!」と声を上げ、何かを思い出したように

ポンと手を打った。

「確かにそうだったんじゃが、ナカイ君から電話を貰ってのぉ…」

サンタがかいつまんで話してくれた内容は、こうだった。

俺が頼んだ通り、旅館の女将さんや漁協の人達と炊き出しの準備をしていたユキは、救助に出た漁船の一隻から入った無線

の内容を耳にした。

船数が足りず、全員を救助するのは難しい。

その上、波も高くなって来ているから、一隻当たりが安全を確保できるボート数は少ない。

どこかからもっと応援は呼べないのか?と…。

だが、付近の漁船はもう全て救助に向かっている。かなり離れた位置の漁船にも連絡をとったが、すぐには来られない。

漁協の人の狼狽した返答を耳にしたユキは、何かできる事は無いかと思案した末、今朝俺が話した事…、つまり、サンタが

この近くの港に来ている事を思い出した。

携帯に連絡を受けたサンタは、ユキの口から事情を聞いた。

船舶事故が起きていて、救助に向かった船も手が足りない状態。何とかできないだろうかと訴えられたそうだ。

「ナオキ君も手伝いに出とるのだと言ってなぁ。随分と心配そうな声じゃったよ」

「…そうか…」

俺は甲板に座り込んだまま項垂れた。口元には自然に笑みが浮かぶ。

俺、ユキに三回も助けられたな…。

ライフジャケットを着るのを諦めていたら、きっと溺れていただろう。

ユキがこうして着せてくれたから、あの波の中で、右腕を痛め、上下が判らない状態でも、なんとか浮き上がれた。

意識が遠のいたあの時も、ユキの姿が眼前にちらついたから、腕を伸ばして、結果的に綱を掴む事ができた。

そして、サンタを呼んでくれたおかげで、俺はこうして船の上に引き上げて貰えた。

帰ったら、ちゃんとお礼を言わなくちゃな…。

「さて、救助も終わったようじゃ。引き上げるぞい」

「ああ…。…うぶっ…?」

サンタに頷き、腰を上げた俺は、口元を押さえて手すりにもたれ掛かった。

動いたら、腹の中でタポンっと音がした。

すっかり忘れてたけど…、波に揉まれてる間に、海水をガブ飲みするハメになったんだった…!

たらふく飲んだ海水で、ただでさえ出てる腹、特に胃の辺りが真ん丸く膨れて出っ張ってる。

…は、腹がタポタポいうくらい張ってる上に、飲んだ海水で喉の辺りまで口が塩辛くて…、き、気持ち悪っ…!うぷっ…!

歩くたびにタポンタポン鳴る腹を抱えた俺は、歩き出したサンタの後をヨタヨタと追う。

「ちょ、ちょっとトイレ貸して…!うっぷ!気持ち悪っ…!吐きそう…!」

「ん?そこらから海にぶちまければよかろう?」

そこらって…、漁船や警備艇や救助されたボートやらから丸見えじゃないか!

「見てるじゃねぇか人がっ!…おっぷ…!」

声を上げた途端に海水が喉元まで上がってきて、俺は慌てて両手で口を押さえた。

「と、とにかく便所貸して…!もぉ限界っ…!戻しそう…!」

サンタ達に先導されて、俺が甲板から船内に入ると、きわどいタイミングで叩き付けるような雨が降り出した。

ふぅ…、やれやれ…、命拾いした…!

 

ひとり残らず救助して、船団が一時引き上げていく最中に、いよいよ海は大荒れになった。

スコールのような大粒の雨が海面を叩き、暗くなった頭上で稲光が踊る。

黒くなった海は大きくうねって、突風で白波が立った。

本当に危ないタイミングだったんだな…。

だが、荒れていたのもほんの短い間で、通り雨のような短い豪雨が上がったら、雲が散り散りになり、お日様が強い日差し

を海に投げ落とす。

波と風はしばらく強かったものの、海はまた、眩しい輝きを取り戻した。

怪我人はともかく、行方不明者なんかは居ないらしい。…ま、俺も怪我人って事になるのかな?

近くの漁港で船を下りた俺は、駆けて来る人影に視線を向けた。

手伝っていたそのままの格好で駆け付けたんだろう、長靴と手袋を身に付けたユキは、声も無く俺の胸に飛び込んできた。

ユキの体は、どっちが溺れかけたんだか判らない程に震えていた…。

抱き付かれた際に、さっき捻った右肩と肘が鈍く痛んだが、そんな事よりも、ユキが細かく震えている事の方が効いた…。

俺がトイレでゲェゲェやっている間に、サンタから連絡を受けていたユキは、ポロポロと涙を零して泣いている。

「バカ…!バカ、バカっ…!ヤマトさんのバカっ!危ない事はしないって言ったじゃないですかっ!心配したんですから!凄

く心配したんですからっ…!」

ビショビショになっているシャツを強く握って、しがみ付きながら泣きじゃくるユキの背中に、左腕を回して優しく抱きし

める。

「心配かけて、悪かったよ…。ごめんな?ユキ…」

不謹慎だとは思ったが、こうやってユキに叱られたのが、何故だか無性に嬉しかった。

本気で、俺の事を心配してくれていたんだっていうのが伝わってきて、申し訳ないけれど嬉しかった…。

「ごめんな、ユキ…」

もう一度謝って、俺はユキの体を包み込むようにして抱きしめた。

びしょ濡れになった俺の体に触れる、ユキの体が温かい…。

今更だけど、自分は生きているんだって、実感できた…。生きているから、叱って貰える…。





「大変な目に遭わせてしまって、済みませんねぇ…」

「いやぁ、俺が勝手にでしゃばっただけですから」

見送りに出てくれた旦那さんに、助手席に座った俺は、左手で頭を掻きながら苦笑いして見せた。病院で検査してもらった

ところ、肩の怪我は軽傷、捻挫程度で済んだらしい。一安心だ…。

「しかし、大したもんですねぇ!あの時化の中でも落ち着いてふるまってられるんですから!」

…旦那さんにはそう見えてたのか?実はかなりビクビクもんだったんだけどなぁ…。

時刻はもう午後五時、だいぶ傾いた太陽は、オレンジ色に染まりかけた光で、周囲を染め初めている。

あの後病院で見て貰ったが、捻った右肩と肘は軽い捻挫だった。

ちなみに、しこたま打って張り薬を当てた鼻の上は、若干腫れているものの、骨にも異常はないそうだ。

利き腕をやられて、満足にハンドルを繰れる状態じゃないから、帰りはユキが運転する事になったけど…。

「こんな事になってなんですが…、また来てくれれば有り難いです」

「もちろん!今度は最初から最後まで、トラブル抜きでのんびり楽しみに来ますよ」

心からの笑顔で応じると、髭面の海の男は嬉しそうに破顔した。

「お世話になりました。旦那さん」

運転席から会釈して微笑んだユキに、旦那さんはニヤリと笑った。

「ナカイさん。手放しちゃあダメですよ?こんな良い恋人、そうそう居ないでしょう?」

…ん?

俺は弾かれたように振り返り、ユキの顔を見た。俺達がカップルだって事、なんでまた旦那さんに話したんだ?

が、ユキもまた、ビックリしたように目を見開いている。…あれ?ユキが話したんじゃないのか?

「いやぁ、毎年ウチに来てくれるお客さんに、そういうカップルが居ましてねぇ。どうにも雰囲気が似通ってたもんで、もし

かしてそうなのかもと…。外れですか?」

「い、いえ…。おっしゃる通りです…」

ユキはまだ驚きが冷め遣らぬ様子で、旦那さんに頷いた。

「そ、そんなバレバレでしたか?」

首を傾げた俺に、旦那さんは声を上げて豪快に笑って見せた。

「海と空の機嫌を窺うのに比べれば、ヒトの顔色なんて判り易いもんですよ!」

…そういうもんなのか…?

苦笑いした俺達に、旦那さんは笑顔で片手を上げた。

「おっと、また引き止めるトコでした。それじゃあ、おふたりとも気をつけて」

「はい。お世話になりました、旦那さん!」

「じゃあ、いずれまた。女将さんにもよろしく!」

笑顔で別れの挨拶を済ませ、ランクルは名残惜しんでゆっくり動きだす。

駐車場から出ようとしたユキは、一度そこで車を止めた。

見れば、右手側からふたり乗りの大型スクーターが走って来る。

ユキは先に通過させようとしたらしいが、スクーターはウィンカーを上げて駐車場に入って来た。…なんだ、ここの客だっ

たのか。

ハンドルを握る丸々と太ったパンダが、口元に笑みを浮かべ、道を譲ろうとした俺達に軽く手を上げる。

後ろの座席に跨ったフサフサの被毛が印象的なコリーも、微笑みながら会釈した。

俺達も会釈を返して、ランクルはまたゆっくりと動きだす。

ゴーグルとハーフメットで顔までは良く見えないが、ふたりとも中年か、それより少し年齢がいってるぐらいだろうか?

体をねじって振り返ると、ビッグスクーターに跨ってやって来たふたりの獣人を、旦那さんが相好を崩して迎えているのが

見えた。

…ビッグスクーターも良いなぁ。フォルムがずんぐりしているせいか、乗っているのが太めのライダーでも結構かっこいい。

俺が乗っても良く見えるかもしれない。後ろにユキを乗っけて走れば、それなりにサマになるかも?…まぁ、大型二輪とか

の免許は一切持ってないけどな…。

「家に着くのはだいぶ遅くなっちゃいますね…。夕食、何処で摂りましょうか?まだお腹空いてないですか?」

ユキがそう尋ねて来たので、俺は顔を前に向ける。

「そうだなぁ…。何が良いか…」

大した事は無いけど、右手はあんまり使うなって言われたし…。

「ハンバーガーとかホットドッグとか…、ファーストフードなど、片手で食べられる物が良いでしょうか?」

お?相変わらず細かいところに気が付くなぁ!

「そうしたいかも…。良いかなユキ?」

「はい!…それとも、普通の食事にして、「あ~ん」ってしますか?」

…それも良いかも…。

照れ笑いした俺の横で、ハンドルを握るユキはクスリと笑った。

「途中で軽く食べて行って、部屋についたら、お夜食にはそうしましょうか」

耳を寝せ、無言で頷いた俺の隣で、

「あ。今日はお風呂も一緒の方が良いですよね。利き手が使えないんですから…」

ユキはいたずらっ子のように目を輝かせた。

「隅々まで、綺麗にしてあげますからね?」

「…お願いします…」

俯き加減でモゴモゴと応じた俺の横で、ハンドルを握るユキは、微笑みながら頷いた。

散々…ともいえないバカンスだったな。

事情を知ったオーナーが経営する宿になら、ユキと一緒に何回でも遊びに来れる…!

夏の息が長い太陽が斜めに照って、俺達を乗せて走るランクルの影を、国道にくっきり焼き付けていた。