ユキ
台所をお借りして、この部屋の主に断って冷蔵庫の中を確認した私は、そのあまりにも綺麗な内側を見て途方に暮れました。
…と言うのも、冷蔵庫の中は非常に良く片付いていて…、つまり、ほぼ空っぽだったんです…。
「あっちゃ〜…。わ、悪いねぇ…。いつも店屋物で済ますから、酒のツマミと調味料以外は殆ど残ってなかったよ…。インス
タントラーメンも切らしてたし…」
私の後ろから覗き込み、申し訳無さそうにおずおずした口調でそう言ったのは、この部屋の主人、大和直毅(やまとなおき)
さん。
二十五歳で独身。ご職業はフリーター。薄茶色のフサフサした被毛に全身を覆われた、とっても大きな羆の獣人です。
大柄なひとが多い熊族ですが、ヤマトさんはその平均よりもかなり大きいです。
身長はおそらく2メートルを超えている上に、恰幅が非常に良いので、重機を連想させる圧倒的ボリュームがあります。
顔立ちはちょっと厳つい方かもしれませんが、表情豊かな顔と、くるくると感情の色が変わる目が、人の良さを物語ってい
ます。
「何か買って来よう。ちょっと歩けばコンビニあるし…」
「いいえっ、大丈夫です!」
振り返って微笑みかけた私は、頭の中で素早く献立を考えました。
先程お腹の虫が盛大に鳴いていた以上、ヤマトさんが空腹なのは間違いありません。
…失敗です…。自家製プリンの作成には気合を入れましたけど…、食事の材料は持って来ませんでした…。
最初のご奉仕で躓いてしまう訳にはいきません。ここはどうにかして乗り切らなくちゃ…!
「すぐに用意できますから、ヤマトさんはお部屋でくつろいでて下さいね?」
私はそう言って、部屋主には居間の方へ行っておいて頂く事にし、腕まくりをして気持ちを入れ替えます。
メニューは考えつきました。どれだけヤマトさんを満足させられるか…、新米恋人としては絶好の見せ場です。
さぁっ!ガンバですよユキっ!
…失礼…。若干舞い上がってたみたいで、申し遅れちゃいました…。
私の名前は中井雪之丞(なかいゆきのじょう)。
深みのある茶色い被毛と、明るい肌色の鼻をした犬獣人です。
背は少々低く、体付きは華奢。
顔立ちがやや幼いせいか、実年齢よりも若く見られがちですが、成人を目前に控えた十九歳です。
大きな声では言えませんが、世界規模で暗躍(?)する秘密結社、サンタクロース協会に所属する三等運送員として、クリ
スマスイブには夜空を駆け回るトナカイとなります。
昨夜もまた、自らも最高位の配達員であり、出資者の一人でもある黒須惨太(くろすさんた)さんとコンビを組み、プレゼ
ントを配り歩きました。
とある縁で知りあった、サンタクロースそのままの白い髭と恰幅の良い体型が印象的な御老人…クロスさんは、私の境遇を
知って色々と世話を焼いてくれた上に、この名誉ある仕事を紹介してくれた恩人でもあります。
そして、その縁でサンタクロース協会に所属したからこそ、私は昨夜、ヤマトさんとお知り合いになる事ができたんです…。
献立については、冷蔵庫内の材料が材料でしたので、一品思いついたら後はもう迷う事もありませんでした。
メインとなるのは、冷凍ご飯と魚肉ソーセージ、タマネギを利用した、簡単な炒めご飯。マーガリンと醤油での味付けがポ
イントです。
後は、軽く焼いたチクワを短く切り、細く切ったチーズカマボコとキュウリを穴に通したおかずを一品。
さらに、長ネギをぶつ切りにして塩コショウで味付けし、グリルで焼いたネギ串をおかずの二品目に。
汁物には、他に使えそうな具はお豆腐と長ネギしか残っていなかったので、シンプルなネギとお豆腐のお味噌汁を用意しま
した。
…豪勢とはとても言えませんが、何とか形にはなりました…。
他にパックの生ハムもありましたが、こちらは生ハム巻きにできるような生野菜も残っていなかったので使い道に困り、結
局は手を付けない事に…。
お酒のおつまみとしても食べるでしょうし、全部使うのもまずいですからね…。これで良かったんでしょう。
手早く、しかし細心の注意を払って食事を用意し終えた私は、炒めご飯とおかずをお盆に乗せて居間に入ります。
「あ…、で、できたの?」
何やらそわそわとしていたヤマトさんは、私の姿を見るなり、慌てた様子で腰を浮かせました。
「はいっ!お待たせしました!…お口に合うと良いんですけど…」
「う、うん…!あっ!お、俺も運ぶね?」
「あ、大丈夫ですよ?あと二品ですから、ヤマトさんは座っていて下さい」
「そ、そう?悪いね何だか…」
ヤマトさんは私の言葉を聞くと、のろのろと元の姿勢に戻り、コタツにつきます。
んん?何となくですが、落ち着かなげな雰囲気ですよ?どうしたんでしょう?
それに、どういう訳か、昨夜とは心なしか口調が変わっているような…?
何となくですが少年のような…、初々しさが残る学生さんのような口調です。
食卓に並んだ品を見回したヤマトさんは、感心した様子で「ウチの冷蔵庫の中身でここまで…」と呟くと、ふと思い出した
ように私を見ます。
「ナカイ君の分は?」
「私はお昼が遅めだったので、まだあまりお腹が空いてませんから…」
そう応じた私に、ヤマトさんは「とりあえず飲み物だけでも…」と、コーラを勧めてくれました。
台所をお借りした際に目にしましたが、1.5リットルボトルが段ボールで二箱も確保してあるのが気になります。
あと、シンクの下の大きな棚に詰め込まれた日本酒の一升瓶とかも…。
きっと、コーラやお酒がとてもお好きなんでしょうね。
お酒はどうしましょうかと訊ねると、ヤマトさんは「時間も早いし…」と、遠慮する素振りを見せました。
確かに、まだ午後四時にもなっていません。夕食としても少し早いですが…。
お出かけする予定がないのでしたら…、と私が勧めると、ヤマトさんは頭を掻きながら腰を浮かせかけます。
「じゃあちょこっとだけ…」
「あ、ヤマトさんはそのままで。立ってるんですから私が持ってきますよ。銘柄を教えて貰えれば…」
遠慮するヤマトさんから、それでもお酒の名前を聞き出した私は、さっそくシンクの下の戸を開けてラベルを確認します。
えぇと…、熊潰し…、熊潰し…、っと、これですね?
まだお酒は飲めない私ですが、仕事柄、日本酒にワイン、ウィスキーまで、お酒の銘柄はそこそこ知識があります。
が、このお酒は私も聞いた事の無い銘柄なんですけど…。
一体何処のお酒なんでしょう?…えぇと…、河祖下酒造?…かそした?何処これ?
首を捻った私は、あとで調べてみる事にして、一升瓶を抱えてヤマトさんの所へ戻ります。
ああ…、一升瓶はイメージ的にとてもよく似合いますね、ヤマトさんには…。
向き合ってコタツに座り、重い一升瓶を支えて、お猪口へお酒を注ごうとする私に、
「いやいいよ、そんなに気を遣わないで。手酌でやるから…」
と、一度は遠慮するそぶりを見せたヤマトさんは、しかし私がお願いすると、結局酌をする事を許してくれました。
照れているような、そして申し訳なさそうな微苦笑を浮かべ、耳をぺったりと寝せてお猪口を差し出すヤマトさんは、とて
も可愛らしい顔をしてました…。
「あぁ〜、美味かったぁ!料理上手いなぁ?菓子まで作れるんだ?しかも、そこらの店で売ってるのよりも美味いし!」
食後、私が持参したプリンを食べたヤマトさんは、上機嫌でそんな事を言いました。
お酒が回って来ているのか、先程までの少し硬かった態度も、いくらか和らいでいます。
…硬くなるのは無理もありませんよね…。「プレゼントです」と自宅に上がり込まれたら、普通はドッキリか何かと思っちゃ
うでしょうし…。
「いや、そ、そこまでは上手じゃないかと…。でも、有り難うございます…!私、その…、洋菓子作りが趣味でして…」
そう。男らしくない趣味かもしれませんが、実は私、スイーツ作りが好きです。
料理の方は独り暮らしという生活の都合上、必要に迫られて覚えたのですが、お菓子の方は純然たる趣味です。
きっかけとなったのは、独り暮らしを始めたばかりの頃、料理のレシピ集を買い求める際に目についた、初心者用のスイー
ツレシピ集でした。
誰でもできる簡単で美味しいデザートの作り方と銘打たれたそれを、何の気紛れかついでに買って帰った私は、自分でも驚
くほどに菓子作りにのめり込んでしまったんです。
クッキーの焼き方から始まったメニューを、簡単そうな順に半分ほど試し終えた頃には、すっかり虜になってしまって…。
特にお菓子好きという訳でもなく、元々スイーツ作りに興味があった訳でもなかったのに…不思議ですよねぇ…。
もしかしたら笑われるかもしれないと思いましたが、ヤマトさんは感心している様子で、しきりに褒めてくれました。
昨夜お伺いした際、お一人にも関わらずコタツの上にケーキがあったので予想はしていましたが、甘い物は嫌いじゃないみ
たいです。
…考えてみれば…、ヤマトさん、昨夜は一人きりでイブを過ごす予定だったんですね…。なのにケーキとシャンパンまで用
意して…。
ヤマトさん…、とてもいい人なのに、聖夜は一人だなんて…。
…いえ、いえいえ笑いませんとも…。というより笑えません…。
かく言う私も、イブの夜は一人ではないと言っても、お務め上クロスさんと一緒というだけですから…。
そんな事を考えている私に、ヤマトさんはおずおずと、菓子作り以外の趣味や休日の過ごし方などについて訊ねて来ました。
自室での時間潰しは、主にゲームです。菓子作り以外の趣味というとこれぐらいしかありません。
子供っぽいと思われるかも…。と考えつつ私が伝えると、ヤマトさんは興味を持ったように少し身を乗り出しました。
「どんなのやるんだい?俺も結構ゲームやるんだけどさ…」
そう言って最近プレイしたゲームを何本か口にするヤマトさん。
驚いたのは、ヤマトさんが挙げたその全てが、私もプレイしたか、あるいは記事やCMを見て興味を持っていた物でした。
不思議な事に、共通の話題さえ見つかれば、一気に打ち解けられるのがひとという生き物です。
私とヤマトさんは何本もゲームのタイトルを挙げ、これまでにプレイした同じゲームの多さ…、その好みの似通り方に驚き
ました。
あれはどうだった。これは話題ほどではなかった。あっちは前評判よりずっと良かった。
自分はこうプレイしたとか、こういう所が気に入ったとか、そんな事を話題に私達は盛り上がりました。
「いやぁ…、何て言うかこう、ナカイ君すんごく真面目そうで、ゲームとかやらないタイプに見えたから、正直意外だったよ」
大きな羆は相好を崩して楽しそうに笑い、私も尻尾をこっそり振りながら頷きます。
「私もちょっと意外でした。ヤマトさん大人だから、私が遊ぶようなゲームはしないと思っていましたから…。それに…、嬉
しいです」
「ん?嬉しい?」
問い返してきたヤマトさんに、私は再び頷きます。
「私、誰かとこんな風にゲームの話をするのは初めてでして…」
そう。私にはこれまでありませんでした。誰かとゲームの話をする事なんて…。
「学校なんかでは?しなかったの?」
ヤマトさんの問いに、私はちょっと口ごもりながら頷きます。
「ゲームをやり始めたのは、社会に出てからなんです」
仕事でもプライベートでも色々とお世話になっている戸部さんから、「独り暮らしの慰めに」と、中古のゲーム機を譲って
貰って…、それがゲームをするようになったそもそものきっかけだったんです。
なので、学生時代はゲームなんてした事もなく、流行りのテレビゲームの話題で盛り上がっている級友達を遠目に見るばか
りで、その輪にも入って行けませんでした。
「…当時はゲームに興味も持ってなかったから仕方がないんですけど…、今考えるとちょっぴり勿体ない気分です」
かいつまんで事情を説明すると、ヤマトさんは「なるほどぉ…」と大きく頷きました。
「学生時代からやってるってヤツは多いけど、社会人デビューっての、珍しいんじゃないかな?少なくとも俺の周りには少し
しか居ないよ」
「そうなんですか?どうしてなんでしょう?」
「社会人デビューって言うより、社会人になるまでゲームをしていなかったってのが、そもそも相当レアだと思う。最近じゃ
あ学生時代に全く経験してないってのも珍しいし」
ヤマトさんは太い腕を組んで、考え込むような顔つきになります。
「若い時代に手を出さなかった事で「子供の遊び」っていう固定観念が芽生えてる場合は、手を出し難いどころか興味自体が向かなくなるだろうけどなぁ」
なんだか私は評論でも聞いているような気分になって、ヤマトさんの言葉を聞いていました。
「もっとも、俺の世代だとゲーム機って、ほぼ必須アイテムになってたからな。そんな世代がもう成人して社会に出てるから、
今じゃあまるっきり子供の玩具って認識は、一昔前の物になってるけど…」
ヤマトさんは唐突に言葉を切ると、私の顔を見て苦笑いしました。
「…っと、危ない危ない…、退屈な話をだらだらするトコだった…」
「いえ、退屈なんかじゃないですよ?」
ちょっとビックリしていた私は、慌てて首を横に振ります。
ヤマトさんは凄く頭が良いのか、それともやっぱり大人だから説明する事に慣れているのか、複雑そうな事を淀みなくさら
さらと解説してくれました。
高校も中退し、偏った学しか修めていない私は、博識な方に憧れを抱く傾向があります。
感心と憧憬の混じった視線を送る私から、ヤマトさんは困ったように視線を逸らして、お猪口を手に取りました。
すぐさま一升瓶を手に取ってお酒を注いだ私に、ヤマトさんは「そういえばさ」と、気を取り直すように言います。
「クリスマスの配達が仕事なら、普段は何してるの?」
「ああ、サンタクロースの活動は、担当にもよりますけれど、十二月に入ってからクリスマス本番までなので、皆それぞれ、
普段は別の仕事をしているんですよ」
「へ?そうなんだ?」
「ええ。私も普段は、お店で普通に店員をしたりとか…、まぁ、していますから…」
喋り過ぎたと気付いた私は、遅まきながら言葉尻を濁します。
が、ヤマトさんは興味を持ってしまったらしく、「へぇ〜…。店員って、何屋さんの?」と、さらに訊ねて来ました。
「え?え、えぇと…。…オモチャ屋なんですけど…」
「ははは!もしかしてって思ったけど、やっぱり普段もオモチャ関連の仕事だったりするんだ?」
有り難い事に、ヤマトさんは私にとって非常に都合の良い方向へ解釈してくれました。
「え、えぇまぁ…。ふふふ…!」
やや硬い半笑いで応じた私は、内心かなりひやひやしています…。
おもちゃ屋という表現は完全な嘘ではないものの、事実全てではありません。
おまけに、副業の事など口が裂けても言えませんし…。
黙っているのは申し訳ないですが、これらの事は打ち明ける事などできません。
…知られてしまったら、確実に拒絶されるでしょうから…。
…ヤマトさんの恋人になるんですから、いろいろと精算しなければいけませんよね…。
食後の歓談は長々と続きました。
しかし私の体感では、時間はあっと言う間に過ぎていったようです。
テレビはつけていますが、二人とも見ていません。そうして完全なBGM役に徹して貰い、私とヤマトさんはコタツについ
たまま、午後九時過ぎまでただただずっと話をしていたのです。
驚きました。こんなに話すのも、話がこんなに楽しいのも、私には初めての経験でした…。
ヤマトさんは話し上手なだけでなく聞き上手で、知識も話題も豊富です。
お客さんと話をするのとはまた違う、心休まる楽しい時間…。
立候補したのは正解でした。私はきっと、このひとの事を心から好きになれる…。
ヤマトさんも終始機嫌が良さそうでした。
生ハムをおつまみにして、お酒もだいぶはかどっていましたから。
結局、途中でコンビニへお夜食を買いに行くほど長くなった雑談の後、ヤマトさんとコタツを挟んで向き合う私は、上着か
ら取り出した一枚の紙をコタツの上に乗せました。
「これは受領書といいまして、プレゼントを受け取って頂く方に書いて頂く決まりになっているんです」
私はヤマトさんに、規則にある受領書記載についての説明を始めます。
特殊なケースのプレゼントについてのみ適用されるこの受領書は、正式には受領「満足」確認書という名前で、プレゼント
を満足して受け取って頂いた証明書類です。
白地にピンク色の罫線が入った特殊な用紙で、プレゼントの中身の記載欄には、今回は私の名前を記入しておきました。
赤い三角帽子を被ったサンタクロースの顔を意匠化したマーク…つまりサンタクロース協会のエンブレムが右上に入ってお
り、右下には受領承諾のサイン欄があります。
「それで、この受領書にサインをして頂いて…」
「うん」
「…で、期限内に私に戻して頂き…」
「うんうん」
「…以上の手順で契約成立となります」
「なるほど」
私が手順の説明を終えると、ヤマトさんはさっそく受領書を手に取り、しげしげと見つめました。
結構複雑な話だったのですが、一度の説明で納得してくれたのでしょうか?ヤマトさんからの質問はありませんでした。と
ても飲み込みが早いです。
お猪口をクイッとあおってお酒を飲み干したヤマトさんにお酌をした私は、席を立っておトイレをお借りします。
だいぶお酒も減りましたが、ヤマトさんは酔っぱらっている様子もありません。
まだお酒が飲めない私には、どれほどなのかあまり良く判りませんが、かなりお酒に強いんでしょうね。
トイレから戻ってきた私は、ごろりと仰向けになっているヤマトさんの姿を目にして、口元を緩めました。
お疲れだったんでしょう。この短時間でうたた寝してしまったようです。
目を閉じているヤマトさんは、少し開けた口と鼻から、微かな、規則正しい寝息を漏らしていました。
こんもり山になった大きなお腹が、呼吸にあわせて緩やかに上下している様子が、何とも微笑ましいです。
それにしても…、とにかく分厚い、立派なお体ですね…。
今日はご挨拶と受領書の説明に上がっただけなのに、気付けば長々とお邪魔してしまいました。
楽しくてついつい居座ってしまいましたが、そろそろおいとましましょう…。
私はヤマトさんのすぐ脇に正座して、聞こえなくとも構わないつもりで、小さく声をかけました。
「ヤマトさん。私、そろそろ帰りますね?今日はとても楽しかったです。ふつつか者ですが、これからもどうぞよろしくお願
いします…」
そう、おいとまの挨拶をした私が、頭を下げたその時、ヤマトさんが動きました。
鼻の奥、あるいは喉の奥のどちらかを「くかっ…」と鳴らすと、急に寝返りを打ったのです。
顔を上げたタイミングで被さるように投げ出された太い腕が、私の肩にかかりました。
「あわわっ?」
丁度大きな手の平が肩と首の間にぴったりとかかり、私は正座の姿勢のまま横向きに崩れました。
左腕一本がこちらへ投げ出されただけなんですが、体格差もあって、半ば押し倒されるに等しい恰好です。
寝返りに巻き込まれる恰好になった私は、ヤマトさんに左腕で抱かれる体勢で、顔などは鼻がくっつかんばかりの近距離に
あります。
…何て幸せそうな寝顔…。
それに、この感触…。
昨夜、足を捻った私を抱き上げてくれた時にも感じた、頼もしくて安心できる感触が…、また今夜も…。
太い腕が横になっている私の肩に被さり、背中に回っています。
力は全くこもっていなくて、きつく抱き締めるでもない。
ふわっと緩く抱え込まれたこの感触は、抱かれたというより、包み込まれたとでも言うべきでしょうか?
「あ…、あの…。ヤマトさん…?」
三倍以上はある大きな羆にふわりと抱えられた私は、おずおずと声をかけました。
が、ヤマトさんはくーくーと規則正しい寝息を漏らすばかりで、返事もしなければ目も開けません。
…気持ち良さそうですから、起こさないようにそっと身を離しましょう…。
私がそう考えた直後の事でした。ヤマトさんがモゾモゾと身じろぎし始めたのは。
起きたのかと思いきや、単に暑かっただけのようで、ヤマトさんは私の体の上から腕を動かし、体にかかっているコタツの
布団を退けました。
体を離しやすくなったと思った私は、さっそく身を起こそうとして、…結局は起きられないまま硬直しました。
…ああ、何と説明すれば良いのか…。
私も何が何だか良く判らなかったのですが、布団をはいだヤマトさんは、それでもまだ暑かったのか、「ん〜…」と唸りな
がらトレーナーを脱ぎ始めたのです…。
モゾモゾと体を動かしたヤマトさんは、あれよあれよという間にトレーナーとシャツを脱いで放り捨て、さらにはズボンに
手を掛けて…。
完全に硬直している私の前で、今やヤマトさんは下着のみ…なんと褌一丁の恰好で、両足をコタツに突っ込んで寝ています。
脱ぎ終えてから再び戻ってきた手は、今度は私をしっかりと抱き寄せ、体が密着してしまっています。
直に触れる毛足の長い被毛は、密度が高くてフサフサでした。
ボリューム満点の体はムニムニで柔らかく、それでいてどっしりと重量感があります。
私にはまだ備わっていない成熟した雄の体臭が、敏感な嗅覚を心地良く刺激します。
息に混じってお酒の香りも漂って来ますが、不快になる程きつい物ではありません。
服を着たまま裸の相手に抱かれる事はそうそうありませんが、仕事上、裸で抱き合うのすらいつもの事ですし、こうして誰
かと添い寝する事も、私にとっては珍しくも何ともありません。
…なのに、私は今…、このひとに軽く抱きかかえられた今だけは…、奇妙な安堵と胸の高鳴り、そして下腹部の疼きを覚え
ています…。
興奮。そう、仕事の時とは比べものにならない程の興奮が、私の深いところから湧き出して…。
理性は止めなさいと言うのに、私は自分の手を止める事ができませんでした…。
そっと下へ伸ばした手が、タプンとしたお腹の下へ滑り込み、褌の生地越しにソコへ触れます。
「…んっ…」
敏感な箇所に触れられた途端、小さく声を漏らすヤマトさん。
しかしこの時の私は、もうヤマトさんが起きてしまっても構わないと…、そんな気にさえなっていました。
しかし幸か不幸か、お酒が回っているヤマトさんは、そこをサスサスと軽く撫でさすっても、心持ち呼吸を速めただけで、
目を醒ましません。
柔らかくて温かいそこは、ヤマトさんの巨体からすれば意外なサイズでした。
…体格、体型、アソコ…。優しくて頼もしい所…。傍に居ると幸せな気分になれる和やかさ…。
このひとの全てが、私の好みに合致します。
今朝方、恋人をプレゼントすべく、ヤマトさんの事を改めて調べたクロスさんは、愉快そうに笑いながら私に教えてくれま
した。
天下の大財閥、黒須の驚異的な情報網によれば、ヤマトさんは私と同じく男性に恋する性癖の持ち主であるらしい、と…。
助けて貰った事もあり、ほのかな想いを抱いていた私は、この天の巡り合わせとでもいうべき偶然と幸運に感謝しました。
恋人に立候補する事に、勿論迷いなどありませんでした。
そして今日、ドキドキしながら挨拶に来た私は、ヤマトさんの事がいっぺんに好きになってしまったのです…。
分厚くてたっぷりとした垂れ胸。たぷたぷの柔らかいお腹。脂肪が十分過ぎる程に乗った極太の腰回り…。
どこもかしこも愛おしい…。性格だけでなく、体型やアソコまで理想通りなんて…。
恥も外聞も無く暴露すると、この時の私はもう、ヤマトさんに心底惚れ込んでしまっていました。
これ以上無いほど理想通りな男性に…。
「んぅ…」
ヤマトさんが切なげに喉を鳴らし、少し腰を引きました。
少しずつ硬さを増してゆく愛おしいソレをこれ以上じらすのは可哀相で、私はそっと手を離します。
横向きに寝そべっているヤマトさんの、片頬が潰れた愛らしい寝顔…。
次いで私はヤマトさんの左腰、上向きになっている側に手を回します。
そしてたっぷりとした腰回りのお肉に食い込むようになっていた褌に指を這わせ、そっとそのラインを指先でなぞりました。
どっしりとしてる太い腰…。感心すらしながら腰のラインを撫でていたら、不意にヤマトさんが大きくモゾッと動きました。
…って、あっ!
動いた拍子に私の指は、褌の紐の下へ入ってしまいました。
そして、慌てて手を引っ込めようとしたら、何がどうなったのか、褌がシュルッて…!
わざとなんかじゃ…、誓ってわざとなんかじゃないんです…。
何故か、どういう訳か、簡単にするりと褌が解けてました…。
ど、どどどどうしましょう!?私、脱ぐところは何度か見ていますが、褌の付け方なんて知らなっ…!
全身の毛を逆立て、この危機にどう対処すればいいのか必死に考える私は、
「ふ…、んふふぅ〜…」
楽しい夢を見ているのでしょうか?弛んだ笑みを浮べたヤマトさんに、きゅっと、軽く抱き寄せられました。
…密着する体…。最後の一枚すら脱げかかったヤマトさんに抱かれていると考えたら、服を着たままなのに興奮しました…。
どうしたんでしょう?私…。
裸で抱き合う事なんて、珍しくもないのに…。
午前四時。
私は柔らかなヤマトさんに抱かれたまま、携帯の小窓でその時刻を確認しました。
結局ヤマトさんは、一度も目を醒ましませんでした。
やっぱり、かなりお酒が回ったんでしょうね…。
依然として眠ったままのヤマトさんに軽く抱き付きながら、私はその柔らかな感触を噛み締めています。
私は何度かうつらうつらしましたが、結局眠りませんでした。
興奮していたのか、それとも衝動と理性の戦いが激し過ぎたせいか、起きたまま、飽きずにこのお腹を、胸を、首元を、肩
を、撫でさすり、軽く押したり揉んだりしていました。
自制するのは大変でしたが、幸せな気分です…。
眠ったままのヤマトさんは何が起きているのか理解していないでしょうが、私は相手の反応が殆ど無いこの状態でも、とて
も幸せな気分でした…。
…けれど、あまり浮かれない方がいいですよ、ユキ…。
ひょっとしたら、サインをして貰えない事だって…。
そんな事をふと考えた私は、小さくかぶりを振って、その考えを頭から追い出します。
どうにも、嬉しい事や良い事があると、思考がネガティブな方へ向かってしまう悪い癖が…。
かつて味わったある出来事がきっかけになって、私は過度な期待を抱きそうになると、逆に悪い事を想像してしまうように
なりました。
期待し過ぎるとろくな目に遭わない…。そう、気持ちにブレーキをかけてしまうのです…。
幸せそうな顔で眠っているヤマトさんからそっと身を離した私は、起こさないよう静かに出発の準備を始めました。
仕事が無ければ朝まで居たかったのですが…、そろそろ帰ってシャワーを浴びて、出勤の準備をしないと…。
…しかし困りました…。
褌の解き方は何となく判ったんですが、締め方はやっぱり判りません…。
いえ、そもそも判っていたとして、おそらくは二百キロを超えていると思われるヤマトさんのお尻を上げさせるだけの腕力
など、私は持ち合わせていません。
褌をこっそりクンカクンカしながらしばし考えた後、私はその白い下着を、脱いだ衣類と一緒に纏めました。
一度は畳もうかとも思いましたが、それは止めておきます。
目が醒めて全裸だったヤマトさんが、下着を畳まれているのを見たら、どんな気分になるでしょう?
ちょっとずるいですが、ここはとりあえず「酔っぱらって自分で脱ぎ捨てた」的な解釈ができるようにデコレーションして
おくのが吉かと…。
という訳で、ズボンと一緒に脱げた光景が目に浮かぶ、ズボンの中に解けた褌が半分残っているレイアウトにしておきましょ
う。…ナイショですよ?
眠っているヤマトさんを残して鍵をかけずに帰る不用心さが気がかりでしたが、こちらはすぐに解決しました。
幸いにも玄関脇の下駄箱の上に、様々な鍵が収まった小さな木箱がありましたので、玄関の鍵を拝借して外からロックし、
郵便受けに落とし込んで返しておきました。
名残惜しい気持ちでアパートから離れ、通りから見える部屋のドアを振り返った私は、ふと思いついて携帯を取り出します。
…「お邪魔しました」も言えずに出てきてしまいましたし、お礼の一言を送っておきましょう…。
まずは、お疲れのところへ長々とお邪魔してしまったお詫び。
そして、昨夜はとても楽しかったというお礼と、良ければ今夜も夕食を作りにお邪魔しても構わないでしょうかという伺い。
それから、鍵をかけるのにお借りした玄関キーは、郵便受けに入っている事。
…よし、送信完了です。…ふふっ!教えて貰ったばかりのメールアドレスに、さっそく送っちゃいました…!
もしも今夜もお邪魔できるなら、何を作りましょうか?
ああ…、もっと詳しく好みを聞いておけば良かったのに、舞い上がってそこまで気が回りませんでした…。
携帯をポケットに仕舞い込んだ私は、白い息を吐きながら、寒い朝方の空気を苦にも感じず、軽い足取りで自宅へ向かいま
した。
しかし、この朝私の頭を過ぎった予想は、結局当たってしまいました。
お渡しした受領書にヤマトさんのサインが入る事も、私の手元に戻される事もついに無く、プレゼント契約は成立しなかっ
たのです…。