ユキ・ 2
チャイムを鳴らすと、内側からドスドスドスっと、やけに重たい足音が接近してきて、程なくアパートのドアが開きました。
「お疲れさんナカイ君!寒かったろ?ささ、上がった上がった!」
小山を思わせる大きな大きな羆獣人は、厳つい顔に満面の笑みを浮かべて私を出迎えてくれました。
この方は大和直毅(やまとなおき)さん。二十五歳。
つい一週間ほど前、元日から正式にお付き合いを始めたばかりの…、私の…恋人です…!
「遅くなりました。ヤマトさん?実は今日、紹介したい方をお連れして…」
ペコっとお辞儀した私は、顔を上げ、ヤマトさんの顔を見ます。
…思った通り、私の後ろに立つ人物を目にして、表情が凍り付いていました…。
「兄ちゃんが「ヤマトサン」か…?」
私の斜め後ろに立ち、ドスの利いた地を這うような低い声でそう訊ねつつ、値踏みするような遠慮のない視線でヤマトさん
をジロジロと見ているのは、大柄な土佐犬の獣人です。
黒いスーツに身を包んだこの方は戸部啓輔(とべけいすけ)さん。
事情があり、家に居られなくなってこの街へ流れ着いた私に、職と住む所を紹介してくれた恩人です。
とても良い方なんですが、トベさんはいかんせんかなりの強面です。
ホストクラブを経営し、ご自身も呼び込みをしてらっしゃるんですけど…、このガタイと顔で「なぁ…、ちょっと寄ってけ
よ兄ちゃん…」なんて、低い声で囁かれるとなかなかに断り辛いらしく、ご案内率はすこぶる高いとか…。
学生時代はボクシングに打ち込み、インターハイに出場した事もある猛者だと、お店のひとから聞いています。
その頃の名残なのか、四十代も半ばに差し掛かったトベさんの体は、やや弛んでお腹が出て来ているとはいえ、肩幅は広く、
盛り上がった胸は厚く、背中側は筋肉で丸みを帯びています。
二の腕が逞しいだけでなく、太ももなどは常人の倍以上も太い程で、黒いスーツに身を包んだその恰好は、呼び込みと言う
より屈強なボディーガードに見えてしまいます。
極めて大きいヤマトさんと向き合えばいくらか普通に見えますが、180センチを軽く上回る、大柄で逞しい体付きです。
しかし大きさで上回るヤマトさんは…、
「………」
無言です。明らかに引いてます。
ヤマトさんは笑みが消えた顔を心なしか強ばらせ、トベさんがらギギギッと視線を外し、問い掛けるような助けを求めるよ
うな眼差しを私に向けました。
「あの…、ご紹介しますね?この方はトベさんとおっしゃって、私にあのお店とお仕事を紹介してくれた方なんです」
「あ、あぁ…。そうなんだ…?」
ヤマトさんはか細い声でそう漏らしながら頷くと、改めてトベさんに視線を向けました。
「大和直毅です…。ど、どうも初めまして…」
挨拶するヤマトさんの顔は、トベさんから注がれる眼光がやたらと鋭いせいか、幾分引き攣った物になっていました。
申し遅れました。私は中井雪之丞(なかいゆきのじょう)。
フサフサした茶色い被毛と、やや赤みのある肌色の鼻が特徴の犬獣人。
背は低くて体付きは細く、顔つきが少々幼いせいか、実年齢よりも若く見られる事が多い十九歳です。
「…と、そういう事情でして…、是非ヤマトさんに会ってみたいと…」
コタツにつき、トベさんをお連れした経緯を話した私に、ヤマトさんは、「そ、そう…」と、硬い表情のまま頷きました。
ヤマトさんと向き合う恰好で正面にトベさんが座り、私はヤマトさんから見て右手側、トベさんから見て左手側の横につい
ています。
私が話をしている間、トベさんはずっと無言で、ヤマトさんの顔を無遠慮にジロジロと見つめていました。
…あれ?あれれ?ど、どうしてこんな雰囲気に…?
…トベさん、一体どうしたんでしょう?
お付き合いする方ができたと報告した私の話を興味深そうに聞いて、是非会ってみたいと、機嫌良さそうに笑いながらおっ
しゃったのに…。
今のトベさんは不機嫌そうに口数が少なく、常にも増して厳しい顔つきで、横一文字に引かれた口元には、笑みの破片も浮
かびません。
ヤマトさんはキチッと正座して身を固くしていますし、トベさんはトベさんでヤマトさんを凝視しているばかり…。二人の
間には会話が皆無です…。
…もしかしてトベさん…、ヤマトさんの事を気に入らなかったんでしょうか?外見的な特徴や気の良いところなどは、前もっ
て簡単に話していたんですけど…。
…私が話し終わったら、部屋が凄く静かになっちゃいました…。
ヒーターから出る温風の音と、時々外から聞こえて来る車のエンジン音が、やけに大きく聞こえます…。
ここは私が何か話した方が良いでしょうね…。何か話題は…?
私が話す事を考え始めたその時、トベさんがおもむろに「おい、兄ちゃん」と、ヤマトさんに声をかけました。
「は、はいっ!?」
緊張しているんでしょうか?巨体をビクッと震わせ、背筋を伸ばして裏返った声で返事をしたヤマトさんに、トベさんは低
い声で続けます。
「酒、かなり飲(や)るんだってな?」
「え?その…、好きって言えば好きなようで好きかもですが…」
顔が強ばっているヤマトさんが、しどろもどろに答えます。
「ポンシュも好きか?」
「け、決して嫌いじゃあないような好きなような…」
判り辛いようでとりあえず内容だけは解るヤマトさんの返答を聞くと、トベさんは持参した紙袋…、有名デパートのロゴが
入った手提げ袋を引き寄せ、手を入れました。
そこから取り出され、卓上にドンと置かれたのは、縦長の紙箱。
中にはトベさんが「手ぶらもアレだから手土産に…」と用意して来た一升瓶が収められています。
ヤマトさんは箱に書かれたお酒の銘柄を確認すると、目をまん丸にし、ついでゴクリと喉を鳴らしました。
「た…、玉返し…!?」
呟いたヤマトさんの視線は、トベさんと箱を行ったり来たりしていました。
私はまだお酒が飲めないので味は知りませんが、名前だけは知ってます。何でもお酒好きには堪らない一品だそうですが…。
どうやらヤマトさんも知っているようで、目に宿る警戒の色の中にも、物欲しげな光がチラチラと…。
「飲れや」
「うぇ!?い、いいいいいやこんな高いもん貰えませんって!何万するんですかコレ!」
短く言って顎をしゃくったトベさんの前で、ヤマトさんは首をブンブン横に振りました。
「…オレの酒が飲めねぇってのか?」
遠慮するヤマトさんをギロリと睨んだトベさんは、すっかり出来上がった酔客のようなセリフを、とても低いドスの利いた
声で言います。
「いやいやいやそういう訳じゃ決して…!」
「オレにこいつを持って帰れってのか?おう?」
…もはや、挨拶にお土産を渡す光景にはとても見えません…。
端からでは、「受け取らないならどうなるか判っているな?」とでも恫喝しているように見えます…。
トベさんの迫力に押され、ビクビクオドオド渋々受け取る事にしたヤマトさんは、しかしコタツの真ん中から自分の方へ寄
せた箱を見ると、ちょっとだけ顔が緩みました。
トベさんはそんなヤマトさんを見つめた後、湯飲みを取ってぐいっとお茶を飲み干します。
「あ、お代わり用意します」
そう言った私の腰は、皆まで言い終わらない内に、反射的にすっと浮いていました。…我ながら染みついてますね…。
緊張からやたらと喉が渇いていたのか、見ればヤマトさんの湯飲みも空でした。
急須と湯飲みを除けばお茶用のセットが無いので、ヤカンから淹れるしかありません。
今度私の部屋から小さいポットぐらいは持って来て、こちらに置かせて貰いましょうか…。
湯飲みをお盆に乗せた私は、台所に入ってお代わりの準備を始めようとしました。
ところが、私の手はお茶の準備に取りかかる前に止まってしまいます。
閉ざした戸を一枚隔てた居間から、トベさんのボソボソと低い声が漏れ聞こえて来たせいで…。
「…兄ちゃん…。ユキの事、本気で好きなんだな?」
「え?そ、それは…勿論…」
ヤマトさんの戸惑うような声が、トベさんに応じます。
「何処がどういう風に好きだ?」
「え?ど、何処って…」
二度目の質問で、ヤマトさんは返事に窮しました。
しばらくの沈黙の後、トベさんが口を開きます。
「…答えられねぇってのか?ユキの何処が良いのか…」
トベさんの声のトーンが一際落ち、険を帯びました。
…もしかしてトベさん、やっぱりヤマトさんの事が気に入らなくて不機嫌だったんでしょうか…?
ハラハラしながら聞き耳を立て、部屋に戻って取りなすべきか、それともしばらく様子を窺うべきか迷っていると、
「…何処とか…、選べません…」
そう、ヤマトさんが困っているような声を漏らしました。
「…あん…?」
「俺、まだナカイ君と会ったばかりで…、身の上話は聞かせて貰えたけど、どれだけ知ってるかって言われても困るぐらいに、
まだ全然ナカイ君の事が判ってません…。この数日間、ずっと努力はして、ナカイ君を良く見て来たつもりだけど、まだまだ
です…」
ボソボソとそう言ったヤマトさんは、そこで少しだけ声のボリュームを上げました。
「それでも俺、ナカイ君の事が好きです。これ以上無いってぐらいに好みです。何処がって聞かれても絞り切れないぐらい、
何処もかしこも全部好きです」
…ヤマトさん…!
私は引き戸に身を寄せたまま、口元を両手で覆って身を震わせました。
…嬉しい…!
ヤマトさんは私にこれまで、どういう所が好きだとか、好みだとか、あまり話してくれませんでした。
きっと、面と向かって言うのが恥ずかしかったんでしょう…。
けれど私は今、ヤマトさんが自分を好いてくれているという言葉を、自分に直接向けられた訳でなくとも、この耳で聞いた
んです。
何処もかしこも好きだなんて…、嬉しい…、そして有り難い…!
私が感動に身を震わせ、尻尾を小刻みに揺らしていると、短い沈黙を破ってトベさんが口を開きました。
「全部好き…か…。ユキの事…、全部好きか…」
そう呟いたトベさんは、声のトーンを少し落とし、私は耳をそばだてます。
「兄ちゃん…。ユキがデリヘルやってたって事も、もう聞いてんだよな?」
「は、はぁ…」
ヤマトさんの返事から少し間をあけ、トベさんは続けます。
「相当な人気者だったらしい。リピーターが増える一方だって元締めの方から聞いた。自分が面倒見てる出張ホストん中じゃ、
熟練者と肩を並べて三本指に入るって、自慢げに話してやがった」
自分の副業…、つまりデリバリーヘルスの事に話題が及び、私は少し体を硬くしました。
「…けどあいつぁ…周りの連中に殆ど言わねぇで、あの副業をやってた。俺には始める前に一度相談に来たが…」
「…は、はい…」
「正直な事を言やぁ、俺は反対だった…。けど、ユキのあの容姿と、男色って好みの事を考えると、そいつも手かもしれねぇっ
て考えてな、「俺は止めねぇ」とだけ言ってやった…」
…そう。あの頃相談に行った私に、トベさんはやりたいならやってみればいいとおっしゃいました…。
「例え上手く行かなくたって構わなかったんだよ、稼ぎ云々は二の次で、やってみりゃ良いと思った。…生活に困ってんなら
援助してやるってお節介は、ユキの周りにゃゴマンと居る。アイツ自身がそう望まなくてもな…」
「それは…、皆さんがナカイ君の事、可愛がってくれていたからですよね?けど…、だったら何で体を売るような真似を黙認
して…」
堪らずといった感じでヤマトさんが訊ねます。その口調は、非難するというより困惑しているような物でした。
「そうやってアイツの世話を焼いてやってんのは、オレを含めて殆どが夜の街の住人…、叩けば埃が出るどころじゃねぇ、脛
に傷があるどころじゃねぇ、お天道様に顔向けできねぇ事やらかして来たような日陰者ばっかりよ」
ヤマトさんは黙ってトベさんの話を聞き始めたようで、聞こえるのはトベさんの声だけになりました。
「デリヘル頼むような客は、経済的余裕もまぁそれなりだろう?それに、野郎のデリヘル頼む以上はユキと同じ性癖ってこっ
た。気に入ってくれる相手見つけてたらし込めりゃあ、生活だってだいぶ楽にならぁ。もしかしたら、ユキがパートナーを見
つけられるかもしれねぇ…」
「あ!」
しばらく沈黙していたヤマトさんの声が、居間で跳ねました。
「まさか…!ナカイ君が出向いた先で、恋人を見つけられるかもしれないから!?だから、金銭的援助をするつもりがあった
のに、あえて出張ホストなんてさせた!?」
トベさんが「おおまかにはそんなトコだ」と応じ、低い声で続けます。
「アイツはな…、甘えようとしねぇんだよ…。言葉遣いも態度も丁寧で、腰が低くて礼儀正しいし、おまけに顔も良い…。誰
にだって好かれるヤツなのに、親に見限られた事が負い目にでもなってんのか、決定的な所で遠慮しちまう…!だからいつま
でもひとりぼっちだ…!辛ぇはずなのに…、苦しいはずなのに…、寂しいはずなのによぉ…!」
トベさんの言葉尻が、微かに震えました。
「判るか?懐の狭ぇ、理解ねぇ親に勘当されて故郷を飛び出して、あげくこの街に流れ着いたあの時、アイツはまだ18にな
る前だった。昔は15で元服って言ったもんだが、今日びのガキ共はやれ短大だの大学だの、親の保護受けながら二十歳過ぎ
まで暮らしてるのが大半だ。そんなご時世に生まれ育ったユキが、昔のガキ共みてぇに、雑草並みにしぶとく逞しく生きる事
ができると思うか!?一人で生きてく事が、簡単にできると思うか!?」
顔が怖いトベさんですが、実は涙もろくて情に厚いです。
トベさんの声は大きくなって、私に同情してくれているらしく、震え始めていました…。
「それは…、難しいと思います…。俺だってこの歳まで定職に就いてなかった上に、実家から仕送りまで貰ってたし…」
ヤマトさんはボソボソと応じると、少し口調を改めました。
「ちょっと失礼な事訊きます。トベさん、お子さんは?」
「…別れた女房が連れて行った…」
「そのお子さん、ひょっとしてナカイ君と同じぐらいなんじゃないですか?」
私はハッと息を飲みました。
離婚した奥さんとの間にお子さんが居るとは窺っていましたが、トベさんの年齢を考えれば、確かにお子さんは私と同じく
らいかも?
「…オレのガキの歳が、どうかしたのか?」
少し動揺したように乱れたトベさんの声に、ヤマトさんのはっきりとした声が続きました。
「ナカイ君からこの街に落ち着くまでの話を聞かせて貰った時…、最近じゃ珍しい人情話だって感心したけど、いっこだけ違
和感があった。それはトベさん、ナカイ君をスカウトしようとしたポン引き…、つまりあなたの、その後の行動にです」
先程までのオドオドとした口調が嘘のように、ヤマトさんは少し興奮すらしているような声をしています。
「興味を覚えたにしろ、開店直前の余裕がない時間帯に店に上げて、身の上話を聞き出した…。ナカイ君の身の上話は打ち明
け辛い事だ。会ったばかりの何処の誰とも知らない相手にならなおさら言い辛いはず…。聞き出すのはきっと相当骨が折れた
だろうに、あなたはその手間をかけてまでナカイ君から事情を聞き出した!」
ヤマトさんは一度言葉を切ると、「やっと全部納得できた!」と、声を高くしました。
「あなたが俺に向けてたキツめの視線に、ナカイ君と出会った後の行動…。全部納得できた…!」
「納得?」
訝しむようなトベさんの声に、ヤマトさんが答えます。
「トベさんはお子さんの姿をナカイ君に重ねたんじゃないですか?だから世話を焼いてやりたくなった。俺に向けてたあのキ
ツめの視線は、適当な相手かどうか見定める為に値踏みしていた、子供の恋人を観察する親の目だったんだ」
しばしの沈黙の後、トベさんは「フン!」と鼻を鳴らしました。
「図体はでけぇくせにビクビクしてるばかりの頼りねぇデブ…。そんな風に見たんだが、どうやら違ったらしいな…」
トベさんの声は、先程と比べていくらか穏やかになっています。
「見るトコはきちんと見てんじゃねぇか?おまけに、見た目に反してそれなりに頭も切れるらしい。話をする時は打って変わっ
てしゃっきりするしよ、面白ぇ野郎だな、兄ちゃん」
「…褒められてんのかな…?まぁ、図体ばかりデカい小心者のデブってトコは、俺も認めてるとこです…」
戸惑うようなヤマトさんの言葉に、トベさんの自嘲するような声が続きました。
「ガキの面影を重ねる…か…。実際にはユキとちっとも似てねぇ、オレに似た不細工なガキだが…、親父らしい事をちっとも
してやれなかった…。いわばユキはオレにとって、子育ての失敗をいくらかでも埋め合わせしたつもりにさせてくれる…、罪
滅ぼしをした気にさせてくれる…、そんな象徴な訳よ…。オレだけじゃねぇ、周りにゃ家族と切れちまった独りもんはいくら
でも居る…。そんなヤツらは皆、ユキの世話焼いてやる事がいくらかでも救いになってたんだよ…」
…トベさん…!
私は両手で覆ったままの口から、か細い声を漏らしました。
…知らなかった…!トベさんが…、皆さんが…、そんな気持ちでいたなんて…、私をそういう風に見ていてくれたなんて…、
考えもしなかった…!
私は何て罪深いんでしょう?単純な好意とだけ受け取って、自分に向けられる視線に宿っていたはずの物にも、寄せられる
思い遣りに潜む複雑な心情にも、気付く事ができなかった…!
申し訳なくて、そして有り難くて、私は背を丸めて嗚咽を堪えました。
こんなに申し訳ない気分なのに、どうしてでしょう?
私は今、嬉しくて嬉しくて仕方がありません…!
私の事をこんなにも思っていてくれたひと達が居る…!
実の両親にすら見放された私を、同情という一言では言い表せない複雑な情を抱きながら、温かく見守ってくれていたひと
達が居る…!
「良いか兄ちゃん…。ユキを泣かせたりしたら承知しねぇからな…」
トベさんの少し震えた涙声が、僅かに開いたドアの向こうから漏れ出て来ました。
「親に見捨てられて…、故郷にも居られねぇようになって…、これまで若い身で人一倍苦労して、寂しい想いして来てんだ…。
ちっとぐれぇ良い目見たってバチは当たんねぇだろが…?」
ズビッと鼻を啜る音を挟んで、トベさんの声は続きます。
「大事にしてやってくれよぉ…!甘えさしてやってくれよぉ…!ユキはなぁ…!あんな境遇なのにそりゃあ心が綺麗な…、ホ
ントに良い子なんだからよぉ…!」
…トベさん…!
膝を折って屈み込み、必死に嗚咽を噛み殺している私に、
「大事にします。絶対…!」
もらい泣きしたのか、少し鼻声になったヤマトさんの、それでも力強い言葉が追い打ちをかけました。
「…ふっ…、…ふぇ…!グスッ…!えふっ…!」
居間と台所の引き戸の傍で屈み込み、交差させた腕に顔を埋めた私は、声を殺して泣きました。
気持ちに気付かず見守って貰っていたトベさんに、皆さんに申し訳なくて…。
はっきりした力強いヤマトさんの言葉が有り難くて…。
そして何より、嬉しくて…、嬉しくて…!
…私は…幸せ者です…!
「お待たせしました」
笑顔で戻った私に、少し目が赤いトベさんが訝るような視線を向けて来ました。
「随分かかったな?」
「あ、いえ…、淹れ方をミスしてちょっと温くて…、淹れ直していました」
「茶の玄人も湯加減失敗するんだな?」
うっ!?す、鋭いですねぇ…。…涙が止まるまで、少しかかっちゃったんです…。
トベさんの詮索で軽く動揺した物の、微苦笑で誤魔化してお茶をあてがい、私は元の席に戻ります。
私が帰ってきたら、とたんにトベさんはだんまりに戻りました。
けれど、さっきまでのようにヤマトさんを観察している訳ではありません。
物思いに耽るように、赤くなった目に瞼を半分下ろし、両手で包んだ湯飲みに視線を落としています。
熱いお茶をズズッと啜ったヤマトさんは、私に視線を向けて来ました。
見返すと、大きな羆は少し照れているような微笑を浮かべ、視線を湯飲みに逃がします。
…また静かになりましたけど、さっきのような空気が張り詰めていた沈黙とは違います。
穏やかで居心地の良い、ゆったりした空気が漂う静けさ…。
きっと、トベさんがヤマトさんを認めてくれて、ヤマトさんもトベさんへの警戒を緩めたせいですね。
しばらくそうして静かにお茶を飲んだ後、トベさんがおもむろに「オレぁそろそろこの辺で…」と、口を開きました。
「あ、もう行くんですか?」
「元々挨拶だけのつもりで来たからな、本当は長居するつもりも無かった。いつまでも店を任せっきりにしてられねぇしな」
ヤマトさんにそう応じると、トベさんは「よっこらせっ」と呟いて腰を浮かせ、
「…それに…、邪魔をする程野暮じゃねぇよ」
そんな事を言ってニヤリと笑い、私とヤマトさんを困らせました…。
歩いて行くトベさんの後ろ姿…黒いスーツを纏った大きな背中が、夜道に蟠る冷えた暗闇に溶け込むように消え、見えなく
なると、
「顔は怖いけど、いいひとだなトベさん」
横に立つヤマトさんが、そう口を開きました。
見送りに出たアパートの前、あまり交通量のない道路は、時間も時間なので人通りがありません。
ポツリポツリと間隔を開けて立つ街路灯が、冷えて乾燥した空気の中で、普段より明るく輝いています。
「…いやまぁ…、俺もひとの顔の事なんて言えないけどさ…」
視線を向けた私に頭を掻きながら苦笑いしてみせると、ヤマトさんは「さ、冷えるから中入ろうか」と促しました。
「連れて来るなら、先にそう言ってくれれば茶菓子とか買って用意しといたのに…」
「私も今日急に言われたんですよ。お店を出たらトベさんが居て…」
勤務時間が終わるのを待っていたらしいトベさんが、一度ヤマトさんに会わせて欲しいと持ちかけてきた経緯を説明しなが
ら、私は思い出しました。
「「先に連絡を入れるな」って言われたんですけど…、あれってもしかして…?」
「うん。それってたぶん、抜き打ちで会って俺の反応を見たかったからだろうなぁ…」
私の疑問に、ヤマトさんはそう答えてくれました。
…やっぱりそうだったんだ…。トベさんは、準備をしていない状態の素のヤマトさんと会って、どんなひとか確認するつも
りだったんですね…。
引き返して階段を登り切り、二階部分の通路に上がると、
「実は…、ゲーム機くれたってひとって聞いてたから、「ポン引きのトベさん」って、もっと若いひと想像してたんだけど…」
ヤマトさんがガリガリと頭を掻きながらそう言います。
「トベさんのお店では、店員の皆さんがお客さんとの話題を確保する為に、色々な事をやっているんです。トベさんもそれで
ゲームをしたり、話題の映画を見に行ったりと、研究なさっているとか…」
「はぁ〜、なるほどなぁ。業務の為にも勉強しなきゃいけないって訳か…」
そう説明すると、玄関ドアを開け、先に私を室内に入れてくれながら、ヤマトさんは納得顔で頷きました。
ドアを閉めて、踵がぺたんこに潰れたつっかけスニーカーを脱ぐ大きな羆を振り返り、私は笑いかけます。
「ヤマトさんも、ゲームやオモチャ、テレビアニメに詳しくならないといけませんね?」
「はっはっはっ!それもそうかも!ゲームの点だけはクリアできてるけど、アニメなんかは確かに勉強しなくちゃなぁ。一応
正式に店員になったんだから、商品に関係してくる知識は必要…」
唐突に言葉を切ったヤマトさんは、突然目を大きくして、私の顔をまじまじと見つめました。
「ナカイ君もやっぱり商品の勉強をし…」
途中で言葉を切ったヤマトさんは、「い、いや何でもない!」と、慌てた様子で左右に首を、胸の前で両手を、それぞれ振
ります。
…なるほど。私もお店で扱っている品について勉強しているのか…という事ですね?
「勿論商品知識はありますよ?」
「え!?…や…、やっぱそうなの…?」
私がさらりと答えると、ヤマトさんは動揺したような声を上げます。
「知識だけじゃなく、副業のおかげで扱いそのものにもそれなりに熟練していると自負してます」
たたみかけた私の前で、大きな大きな羆は言葉を失い、まじまじと顔を見て来ました。
「あ、扱…い…?」
「ええ。プレイの好みはお客さんによって様々でしたから、道具の使用を好む方とかにも対応できるよう勉強しました。一通
りこなせますけど…実演しましょうか?」
開き直りとでも言うんでしょうか?全部打ち明けてすっきりした私には、もうヤマトさんに対して過去の事を伏せる気なん
て少しもありません。
「じ、実演は…、い、今は別にいいかな…」
ちょっとしたからかいすら混じった私の暴露で、ヤマトさんは目をまん丸にしたまま完全に硬直してしまいました。
ふふっ…!ヤマトさんったら純情なんだから…!
…まぁ、そのおかげで、最初の夜にトナカイ姿で抱き上げられて以降、ヤマトさんからの肉体的な接触は殆どなくて、いま
だに手を繋いだりすらしていないんですけど…。
「それじゃあ、今日はイチゴムースを作って来ましたから、改めて夜のお茶にしましょうね?」
話題を変えてそう提案した私は、ふと思い直して訊ねてみます。
「せっかくお酒を頂いたんですし、おつまみも用意して晩酌にしますか?」
「え?うぅ〜ん…」
ヤマトさんは眉間に皺を寄せて少し悩んだ後、
「冷蔵庫に貰い物のボンレスハムあったし…、少し飲もうかな…」
と、何故か私の反応を気にするような素振りを見せながら呟きました。
「…ヤマトさん…?」
こそっと声をかけましたが、両手を左右に投げ出して寝転がっているヤマトさんは、クーカー気持ち良さそうな寝息を立て
るばかりで、返事をしてくれません。
…お皿洗って戻ってくるまでの数分で、熟睡モードに…。
コタツの上の一升瓶は、残り少しになっています。
トベさんの選んできたお酒がよほど美味しかったのか、ヤマトさんはスライスしたハムをつまみにパカパカ飲んで、あっと
いう間にこの量に…。
お酒が回って気持ち良く眠っているヤマトさんの右脇に、私はチョコンと正座しました。
…この位置関係で居た時に、寝返りを打ったのに巻き込まれたんですよね、最初の夜は…。
私はヤマトさんの幸せそうな寝顔から目を離し、深い寝息にあわせてゆるやかに上下しているお腹に視線を向けます。
トレーナーをぽっこりと押し上げる大きなお腹は、立った状態だと大きくせり出していますが、仰向けに寝たこの状態だと
少し潰れたような具合になっています。
…はぁ…。この眺め、和みますねぇ…。
そっと手を伸ばし、こんもりと山になっているお腹、胃の辺りにそっと触れ、円を描くように撫で回してみます。
心なしかヤマトさんの表情がさらに緩んで、こそばゆかったのか小さく身じろぎしました。
これまでの数回で学習しましたが、こうなったヤマトさんは明け方まで起きません。
私はそっと横になって、大きな羆に寄り添いました。
数度目なのでもう慣れたものです。
太い腕の下、腋の下に頭がすっぽり収まるように位置を調節して、仰向けになっているヤマトさんに横から軽く抱き付く恰
好になります。
私の腕では回り切らないほど太い、ボリュームのある胴回り…。
たっぷりと脂肪が付いて柔らかな胸脇に頭を寄せて、ピッタリ密着した私は、ヤマトさんのお腹の上に右手を乗せ、軽く撫
でさすりながらその時を待ちます。
やがて、期待していた通りにヤマトさんが動き出しました。
モゾモゾと身じろぎして、トレーナーをずりずりと脱ぎ始めたのです。
北国で生まれ育ったヤマトさんは相当な暑がりらしく、私が密着すると体が熱くなるのか、眠りながらも衣類を脱ぐという
冷却行動に入ります。
時々抜けてますけど、ユキってばこういう所だけは観察してるんですよ?ちゃんと。
ヤマトさんのモゾモゾ脱衣が終わるまでの間、私は邪魔にならないよう少し身を離しておきます。
…まぁ、すんなり脱げないところはちょっとだけ手を貸してあげたりもしてるんですけど…。
待つことしばし、脱いだトレーナーを放り出して、蹴るように脱いだズボンをコタツ内に押し込み、褌一丁の恰好になった
ヤマトさんに、私は再び密着しました。
フカフカ…。タプタプ…。ムニムニ…。温かくて柔らかい…。
ヤマトさんの胸や脇腹やお腹側を覆う被毛は、色が少し薄くなっていて、とても柔らかでフカフカです。
手足の内側もそうですが、喉元や顎下などは特に柔らか。最高の触り心地…。
主に体の外側…、手足の外側や背中側などは長い毛が少し固めで、フカフカというよりはフサフサです。
栄養状態が良いせいか、こちらの手触りもすこぶる良好です。
…全身余すところ無くたっぷりと脂肪を付けていらっしゃるので、どこを撫でてもさすっても、ムチムチプリンフッサフサ
な魔性の手触りが楽しめます…。
これ以上良い感触を持つ物なんて、高級布団とか枕なんかにも無いんじゃないでしょうか…?
しばらくそうして感触を噛み締めていると、ヤマトさんはおもむろに寝返りを打ちました。…私の方へ。
熟睡していても「くっついている何か」の感触は判るのでしょう、こうしているとヤマトさんは私を抱く恰好に寝返りを打っ
てくれます。
抱き枕でもかかえている気分なのでしょうか?太い腕を私に被せて、顎を頭の上に押し付ける恰好になったヤマトさんは、
満足げに大きく息をつきました。
私はというと、タプタプフカフカなヤマトさんの胸に頬を寄せ、抱かれるままに心地よさを貪ります。
安心感。快楽を求める積極的な行為には及ばない、眠ったヤマトさんにくっついているだけのこの状態は、どういう訳か私
に安堵をもたらしてくれます…。
ほっとするんです。この大きなひとが…、優しいひとが…、私を好いていてくれるひとが…、こうして自分を抱いていてく
れているという事で…。
仕事で抱かれる事は何度もありました。金額さえきちんと収めて頂ければ、本番までこなすのが私達でしたから。
支払って頂いたお金に応じて派遣される、ひと時だけのレンタルラバー…。
時に仮想の恋人として、時に仮想の弟として、時に仮想の息子として…、私は何度もお客さんと体を重ねて来ました。
けれど、それで安心感を覚えた事なんて一度も無かったんです…。
こんな風に不実で節操が無く、汚れている私ですから、サンタクロース協会の仕事そのものは楽しかったし頑張っても来た
ものの、自分がステキな仕事の手伝いをしている事は、時折どうしようもなく不似合いに感じました。
そんな私の過去を打ち明けてもなお、ヤマトさんは言ってくれました。
『俺とナカイ君が付き合うのに、そんな些細な事は問題無い!』
そう、はっきりとした口調で…。
嫌われたくなかったから、隠し通そうと思って大事な事を黙っていた私を、ヤマトさんは非難しませんでした。
隠していても問題無かったとまで言って、怒る素振りすら見せませんでした。
その体格同様に大きな心に触れて…、私はもう、ヤマトさんに首っ丈になってしまったんです…。
このひとの事なら心から愛せる…。ヤマトさんが私を必要としてくれる限り、私はこのひとの傍に居て良いんだ…。
ヤマトさんの傍…、それは、初めて実感出来た自分の居場所…。
部屋や職場とは違う、物理的ではなく精神的な居場所…。
この居心地の良いポジションで、理想の恋人であるヤマトさんに笑顔を向けて貰える事は、私にとって無上の喜びです…。
幸せを噛みしめていた私は、不意にキュッと抱き締められ、息を止めました。
鼻の奥で「んぐ〜…」と唸ったヤマトさんが、モゾモゾっと動いて私をしっかりと抱き寄せたのです。
完全に密着する形になった私のぺたんこな胸は、ヤマトさんのふくよかで柔らかいお腹にぴったんこで…、首後ろに腕を回
されて引き寄せられた私の顔は、胸にモニュッと埋もれる形になって…。
私の意識から切り離された尻尾が、喜びのあまりせわしなくハタハタと動き、床を打ちました。
ヤマトさんは、起きている間はあまり私にベタベタしません。
ちょっと肩に触れたり、促す時に背を軽く押すぐらいで、キスはおろか手を握りあう事すらありません。
好きだと言ってくれますし、勿論好意を感じますが、どうやらまだ遠慮してるみたいなんです…。
これまで誰かと付き合った事が無いせいで、恋人としての距離の詰め方が判らないとかなんとかで…。
私もこれまで独り身だったのは同じですが、仕事上、恋人らしい振る舞い方…つまりお客さんを喜ばせる為のお芝居は、あ
る程度教え込まれています。
なのでこの本物の恋人に尽くすという振る舞いも、そこそこ自然にできていると自分では思ってるんですけど…。
そういえば、ヤマトさんは「昔からモテなかった」と言っていましたが、どうしてモテなかったんでしょう?
心底惚れ込んでしまっているせいか、ヤマトさんがモテない理由が私には全く解りません…。優しいし頼り甲斐あるのに…。
…ヤマトさんには悪いんですが、これまでフリーで居てくれたこの奇跡には、こっそり感謝してるんですけどね…。
そんな事を考えつつ、分厚くてムニムニの胸に顔を埋め、スンスンと鼻を鳴らして、汗の混じったヤマトさんの体臭を存分
に堪能していた私は、ふと、その感触に気付きました。
ヤマトさんの太い脚の間に軽く挟み込まれた、私の右脚…。
少し曲げている脚の太ももの上側が、ヤマトさんの股に少し触れているんですが…、そこに、普段とちょっと違う感触が…。
…褌越しに感じられるヤマトさんのソコの感触は…。…ちょっと硬い…?
口の中に湧いてきた唾を飲み込むと、ゴキュッと、思った以上に大きな音がして、軽く動揺しました。
これまでは朝が来るまで起きた事はありませんが、唾を飲み込んだ音でヤマトさんが起きちゃうんじゃないかと心配になり
ます…。
…私…、ちょっと興奮してるみたいです…。もう廃業しましたけど、出張ホストとしては完全に失格です…。
仕事で行ったお客さんの部屋で全裸の姿を見ても、実際に触れても、興奮なんてそうそうしなかったのに…。
この程度の接触でかなり動揺してしまった私は、トクントクンと高鳴っている自分の胸の音が気になり始めました。
そんな私の頭の上で、ヤマトさんの鼻がスンスンと鳴り、匂いを嗅いでいます。
やがてすぅ〜っと、大きく息を吸い込み、吐き出したヤマトさんの口が、
「…でへへぇ…ナカイくん…」
と、小さな、そして満足げな声を漏らしました。
…正直に言います…。
私、たった今ノックアウトされました。
もう無理。我慢なんて無理。絶対無理。
ヤマトさん、堪え性のないユキを許して下さい。
今日こそ下を軽くでも愛撫させて貰おう。
あわよくば眠ったままでもイって貰おう。
途中で起こしちゃっても仕方ない、その時はその時でイけるトコまでイこう。
寝言でまで名前を呼んで貰えたという、最高に嬉しい不意打ち…。
その嬉しさからタガが緩みまくって、そんな心理状態になった私は、まずはヤマトさんの顔を一度良く見て、唇を奪おうと
考えました。
少し体をずらして、ヤマトさんの胸から顔を離して顎の下から頭を抜き、その寝顔を改めて見た私は…、
「…フェアじゃない…」
不意に胸に浮かんできたその事を、ぽつりと漏らしていました。
それは、ヤマトさんが言った言葉です。
プレゼントとしてやって来た私と、権利で付き合うのはフェアじゃない…。
ヤマトさんはそう言って、プレゼント契約抜きでの交際を、改めて私に申し込んでくれました。
付き合うも付き合わないも自分達の意志…。他の要因に左右されない、私自身の意志に委ねたかったから…。
…そうです…。私の意志を尊重してくれたヤマトさんの唇を、その意志に関係なく眠っている内に奪うのは、きっとフェア
じゃない…。
私はそろそろと元の体勢に戻り、我慢する事に決めました。
…キスはダメだけれど、このくらいは良いですよね?起きている間は抱き付かせてなんかくれないんですから…。
でもヤマトさん、なるべく早く過度な気遣いや遠慮を消しちゃってくださいね?
仕事柄焦らしプレイはそこそこ得意ですけど、焦らされるのには慣れてないんですからね?ユキは…。