第十話 「県大会に向けて」

ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年、柔道部主将。そして第二男子寮の寮監を務めている人間男子。

先週の大会で敗退したものの、後輩のアブクマが県大会進出を成し遂げた今、ぼくは代表者兼裏方的な立場で柔道部に居残っ

ている…んだけれども…。

「…アブクマ…、何となく元気が無いような気がしないか?」

柔道着をのろのろと脱いでいる大きな熊の背中を眺めながら、ぼくは傍らのイヌイに小声で話しかけた。

「…えぇ…、ちょっと元気ないかもです…。どうしたのかな?お昼まではそんな事無かったのに…」

彼の幼馴染でありルームメイトでもあるクリーム色の小柄な猫も、原因が判らないらしく、首を傾げている。

休日の午後、あちらの稽古が午前中のみだったネコヤマも加えて、道場で汗を流したんだが…、いったいどうしたんだろう?

朝はそんな事無かったんだけれど…。

稽古に集中できていないとか、そこまで判り易い物じゃない。ただ、何となくだけれどブルーな雰囲気がある…。

首を傾げるぼくとイヌイの視線の先で、アブクマは「ふぅ…」とため息をついた。

さすがに気になったのか、既に着替え終えて冷たいお茶をグビグビ飲んでいた黒い山猫が、ボトルにキャップをはめながら

首を巡らせる。

「アブクマ。どうかしたのかい?」

「ん?」

首を巡らせたアブクマは、キョトンとした顔をぼくらに向ける。

注目を浴びている事に気付いてぼくらの顔を見回すと、首を傾げて不思議そうに口を開いた。

「どうしたんすか?皆してじっと見て…。あ、背中に何かついてんすか?」

体を捻って、窮屈そうな姿勢で肩越しに後ろを見るアブクマには、芝居している様子も、誤魔化そうとしている雰囲気も感

じられない。

…はて?何となく元気がないのは確かなんだが…、本人も気付いていない?

「サツキ君。気のせいかもなんだけど…、何となく、元気ないんじゃ…?」

「へ?」

顔を前に向けたアブクマは、イヌイの顔を不思議そうに見た後、

「あ…、あぁ〜…。もしかして俺、そんな風に見えてんのか?」

意外そうながらも、何か心当たりがあるような様子で口を開いた。

「元気がねぇっつうか…、まぁ、ちっとばっか残念な事があってよ…。もしかしたらそれのせいかな…?」

少し困ったような顔で鼻の頭を掻くアブクマに、ぼくは気になって訊いてみた。

「ぼくで助けになれるような事かい?それなら遠慮なく…」

「ああいや!そういう事じゃねぇんすよ!俺が困ってるとか、何かしちまったとかじゃなく…」

アブクマは苦笑いしながらぼくの言葉を遮ると、少し寂しそうに眉尻を下げた。

「中学で一緒に柔道やってたヤツ…、今日地区予選だったんスけど…。負けちまったって、メールがあって…」

…そういえば稽古前、着替えている最中にアブクマの携帯が鳴っていたっけ…。あれがそのメールだったんだろうか?

会った事はないものの、アブクマの友人が負けた事は残念に感じる。

けれど同時に、アブクマが中学時代に一緒に稽古していた選手に興味を覚えた。

「よければ、少し話を聞かせてくれないか?アブクマの中学時代の仲間、ちょっと気になるなぁ」

話す事で気が紛れるかもしれないし、何よりぼく自身かなり興味がある。

「え?けど、獣人だし、俺と同じ一年っすよ?情報になんてなんねぇと思うけど…」

「選手としての情報が欲しい訳じゃないんだ。まぁ、力量に全く興味が無い訳じゃないけれど…、それよりもどんな子なのか

なって気になるんだよ。イヌイやアブクマといい、シンジョウさんといい、そっちの地元は個性派揃いだし」

「個性派っすか?」

「個性派でしょうか?」

揃って首を傾げるアブクマとイヌイ。…自覚無いんだね君達…。

…って、あぁ、いけないいけない…。

「ネコヤマ?稽古付き合ってくれて有り難う。今日はもう上がりにするよ。お疲れ様」

軽く頭を下げたぼくに、タンクトップにジャージのズボンという格好で壁に寄りかかっていたネコヤマは、

「つまり、オレだけ蚊帳の外という事かな?」

と、ぼくを真っ直ぐに見つめながら口を開いた。

「え!?い、いやっ!決してそういう意味じゃないんだ!稽古も終わったのに、内輪の話に付き合わせちゃうのも悪いと思っ

ただけで…!」

大慌てで弁解したぼくに、ネコヤマは相変わらず無表情のまま、相変わらず真っ直ぐこっちを見たまま、相変わらず考えが

読めない目をしたまま、その口を開いた。

「冗談だよ。そんなに慌てないで欲しい」

………。

ぼくは勿論、アブクマとイヌイもキョトンとしてネコヤマを見つめた。

「…ネコヤマ…。悪いけれど…、君の冗談、判り辛いよ…」

「うん。良く言われる」

良く言われるなよそんな事っ!

心の中でつっこんだぼくに、ネコヤマは小さく肩を竦めて見せた。

「笑いを取るというのは、試合で一本取るよりよほど難しいよね」

「いや…、同意を求められても何とも…」

…前言撤回。アブクマ達の地元に限らず、個性的なのはここにも居るよ…。



場所を移して、商店街のファーストフード店。

店内最奥のテーブルについたぼくらは、早めの夕食としてハンバーガーやポテトを食べながら、アブクマから友人の話を聞

いた。

窓側を背にしてアブクマとイヌイが並び、ネコヤマとぼくが壁を背にしてそれに向かい合って座る形だ。

なお、イヌイの許可がおりて食事制限が緩和されたアブクマと、寡黙な黒い山猫の前には、ハンバーガーが山積みになって

いる。

一緒に食事をするのは初めてだが、ネコヤマも体格からの印象通りに大食漢だ。

…しっかし…、ホント良く食べるなぁ二人とも…。

「そいつ、同じ学校の先輩に負けちまったんすよ…。一回戦で…」

『初戦!?』

ぼくとイヌイの声が重なった。つまり公式戦デビュー初戦から先輩との潰しあいになったのか?何て運の無い…。

「あいつ、昔から無茶苦茶クジ運悪ぃんだ…。中学ん時だって何回も、同階級の先輩と早ぇ段階でぶつかったりしてたけど…、

今回は一回戦でいきなりぶちあたったらしくて…」

アブクマは顔を顰めながら「ふぅ…」と息を吐いた。

なるほど、そういう事情が…。残念がっている気持ちも良く判るよ…。何ていうかこう、色々と残念だねそれは…。

「しかも…、当たった相手も俺と同郷…、同じ中学で柔道やってた先輩で…」

「えっ!?」

イヌイが驚いたように声を上げ、口元を押さえた。

よっぽどビックリしているのか、尻尾がピンと立って太くなっている。

「オジマ先輩と!?」

「おう…。気まずかったろうなぁ二人とも…」

オジマ?あれ?何処かで聞いたような…。

首を捻って思い出そうとしていると、半分になったバーガーを口に放り込んで、噛むのもそこそこに飲み込んだアブクマが、

話の先を続ける。

「そっちは俺のいっこ上の虎獣人なんすけどね…。二人して道北の同じトコ、醒山って学校に行ってんだ」

あ、思い出した!アブクマが中学時代にしごかれたっていう虎だな?

「前に話してくれたっけ。お世話になった先輩だとか…。どんな選手なんだい?」

「高校柔道の雄、私立醒山学園柔道部所属「道北の若虎」尾嶋勇哉(おじまゆうや)。昨年の総体で一年生ながら全国大会出

場、16強入りを果たした今年も注目の選手だね。中学時代から全国常連の実力者だそうだ」

横からスラスラと解説が流れてきて、ぼくらは揃って首を巡らせる。

それまで黙ってモソモソとハンバーガーを口に詰め込んでいたネコヤマは、突然の発言に驚いているぼくらの視線に気付く

と、首を傾げた。

「なんだい?」

「いや、知り合いなのか?ネコヤマ」

「いいや、面識は無い。でも、同じ階級の有力な選手だから、一応頭に入れている」

…あぁ、その選手も140キロ級なのか。やっぱり虎だし、かなり大柄なんだろうなぁ…。

ぼくも有力な選手については注目するけれど、アブクマの先輩にあたるオジマという選手については全く知らなかった。

こっちの県大会辺りまでは詳細なデータも集めるけれど、道北の選手までは調べていない。

全国でもベストエイトまではチェックするが、ベスト16は情報収集の範囲におさめていなかった。

「まぁそんな訳で…。どうしようもねぇ事なんだけど、やっぱ残念でさ…」

アブクマはそう言うと、気を取り直すようにチキンフィレサンドを豪快に囓る。

「オジマ先輩はバカみてぇに強ぇし、もしかしたらアイツ、来年も同じような事になるんじゃねぇかと…」

「獣人王国北街道において、一年生でありながらトップに登り詰めるという前代未聞の快挙を成し遂げた選手と、同じ学校で

同階級…。稽古は充実した物になるだろうけれど、大会での当たり方を考えれば、確かに…」

柔道の話だからか、少し饒舌になっているネコヤマの発言に、

「獣人王国?」

と、アブクマは眉根を寄せながら首を捻った。

「聞いた事ない?北街道は獣人が多いから、そう呼ばれたりするんだけれど…」

イヌイが横から小声で言うと、アブクマは「へぇ…」と、興味深そうに声を漏らす。

「知らなかったぜ。何であっちは獣人が多いんだ?」

自他共に認める勉強嫌いのアブクマが、こういった話題に興味を覚えるとは思えないけれど、これには一応ぼくが答える。

「戦前の話になるけれど、屯田兵兼開拓団として北街道に入植した獣人は多いんだ。体力にも恵まれていて、種によっては寒

さに極端に強い。労働力で言ったらぼくら人間なんか相手にならないからね」

「ああ、屯田兵なぁ…。何となく判った」

「知ってるの?屯田兵」

少し意外そうに尋ねるイヌイに、アブクマは腕組みをして何かを思い出すようにしながら頷いた。

「俺のひぃ…ひぃひぃ…?詳しくは思い出せねぇけど、とにかく五、六代ぐれぇ前の爺さん辺りで、親戚連中が何人かあっち

に移ったって聞いてる。まぁ、ウチのルーツは元々あっちの方らしいしな。ある意味故郷に帰った訳だ」

今度はぼくらが驚いた。アブクマは当事者の血縁にあたるのか…。

それに、ルーツは元々北街道の方?そういえばアブクマは、あっちの方に多いらしい羆系だよな…。

「おじさんから聞いたの?」

「おう。時代が時代だから、移住はそのまま今生の別れになったんだと、酔っぱらって涙目になりながら言ってたぜ」

「僕も今度詳しく聞いてみたい!」

「夏休みに帰ったら頼んでみろよ?喜んで話してくれるぜ、きっとよ!」

イヌイとアブクマが笑みを交わして話している間に、ぼくはある事を思い出してネコヤマに尋ねてみた。

「そう言えば…、ネコヤマの家は置縄の方から移住して来たんだっけ?」

バニラシェイクをジュゴ〜っと啜っていたネコヤマは、ストローから口を離して頷く。

「うん。と言っても、父がこちらに移り住んで、元々こちらで暮らしていた母と結婚してオレが生まれたから、オレ自身の故

郷というならここがそうなるね。ちなみに父方の祖父は元米国軍人。祖母に一目惚れしたものの、当時の状況が状況で祖母の

親戚連中からは結婚について大反対されてね。大恋愛の末に駆け落ちして結婚、帰化したそうだ」

…北から南まで…、没個性なぼくの周りは、どういう訳か個性派揃いな上に何だか凄い…。

「我が家の男は、代々熱烈な恋愛の末に結婚しているらしいね」

「へ、へぇ…」

クールなネコヤマを見ていると、情熱的なお父さんやお祖父さんはイメージし辛いなぁ…。彼は母親似なんだろうか?

丁度会話が切れたその時、丁度響いた「いらっしゃいませ〜」との店員さんの声に、ぼくは何となく首を巡らせた。

自動ドアを潜って店内に入った大柄な牛は、カウンターには目もくれずにこっちを向…、って、あれは…。

「お?やはりアブクマとイヌイか。イワクニも一緒とは」

「シン…ウシオ?」

「お?お疲れっす!」

「お疲れ様です、団長」

ぼくのルームメイトはニコニコしながらこちらに歩み寄って来る。

「外からアブクマの後ろ姿がちらりと見えてな。もしやと思って覗いてみたのだ」

「それでわざわざ店内まで確認に来たんですか?」

「うむ。小腹も減っとったしな。ついでに何か軽く…」

イヌイの問いに応じたシンイチは、そこで言葉を切ると、ぼくの隣の山猫に視線を向け、目を丸くした。

「ネコヤマ?」

顔を確認するなり素っ頓狂な声を上げた大牛に、ネコヤマは「やあ」と、軽く片手を上げる。

「あれ?知り合いだったのか?」

意外に感じながら尋ねたぼくに、シンイチは「ま、まあな…」と、何故か少し決まり悪そうに応じ、ネコヤマは無言で頷く。

二人の口から知り合いだと聞いた事はない。

かく言うぼくもまぁ、ネコヤマの出稽古は大っぴらにできないからシンイチにも言っていなかったし、ネコヤマにはルーム

メイトの事まで話すような必要も無かったから、それぞれに話をした事は無かったけれど…。

「腹減ったんなら、団長も一緒にどうすか?ちょっと早ぇすけど、俺ら夕飯中なんだ。皆知り合いなら丁度いいしよ」

アブクマが横の椅子を引いて声をかけると、シンイチはネコヤマの顔をちらっと窺ってから、オーダーをしにカウンターへ

向かった。

何だろう?びっくりしているような、ちょっと気まずそうな…、シンイチにしては珍しい態度だ。

「どういう関係なんだい?ウシオ君とは」

大牛の後ろ姿を眺めやっていたぼくに、横からネコヤマが尋ねて来る。

「寮のルームメイトなんだ。言ってなかったと思うけれど、ぼくは寮監で、あっちは副寮監」

「なるほど…」

ネコヤマは納得したように頷くと、カウンターで注文をしているシンイチを見遣った後、テリヤキバーガーを口元に運ぶ。

「ネコヤマ先輩は、ウシオ団長と何処で知り合ったんだ?」

ぼくが尋ねようとしていた事は、アブクマが代わりに訊いてくれた。

「最初は確か…川のあちら、アブクマ君とばったり会った辺りでね、一年生の頃に…」

「あ〜!そうそう、ワシが道に迷ってだなぁ!いや、大いに助けられた!」

ネコヤマの言葉を遮り、先に渡されたコーラと番号札を手にして戻ってきたシンイチが声を上げる。

耳を倒して少し引き攣った笑みを浮かべたシンイチは、椅子にどすんと腰を下ろした。

…何だろうこの困り顔…?

「ウシオ?」

訝しく思って声をかけたぼくに、シンイチは声を潜めて耳打ちした。

「…例の件で…、ちょっとな…」

ぼそっと囁かれたその言葉で、ぼくの頭の中でキーワードが繋がった。

…一年生の頃…、川向こう…、例の件…。

なるほど。あの件に関係して来るのか…。それじゃあアブクマとイヌイの前では話したく無いだろう。

それに、同じく柔道をやっている知り合いが居たのに、これまでぼくに教えてくれなかった事にも頷ける。

「ところで、そっちは柔道繋がりの知り合いなのか?」

シンイチの問いに頷き、それからぼくは気が付いた。…一応口止めしておかないと…。

それからぼくらは、ネコヤマが出稽古に来ている事について説明し、他言しないようシンイチに頼み込んだ。

シンイチはもちろん快諾してくれたが、何故ネコヤマの出稽古について大っぴらにできないのかという事をなかなか理解し

て貰えず、そっちの説明には非常に手間取った…。



「オレはここから真っ直ぐ帰るよ」

食事を終えて店を出た後、ネコヤマはぼくらにそう告げた。

「お疲れ様っした!」

「お気を付けて、先輩」

「今日も有り難うネコヤマ」

アブクマとイヌイとぼくが口々に別れを告げると、ネコヤマはシンイチの顔を見て、それからぼくの顔を見て、またシンイ

チに視線を戻した。

「…やっと納得が行ったよ。イワクニ君が「教えてくれた人」だったんだね?」

口元を僅かに綻ばせて呟いたネコヤマに、シンイチは何故か照れ臭そうに頭を掻きながら頷いた。

「何の話?」

尋ねたぼくに、シンイチは恥ずかしがっているような微苦笑を浮かべて見せた。

「今に輪をかけてアホウだったあの頃のワシに、強いという事がどういう事か教えてくれたヤツが居るのだと、そんな話をし

た事があったのだ」

「へ?」

間の抜けた声を漏らしたぼくの横で、アブクマが腹を揺すって笑った。

「ぬははははっ!ちげぇねぇや!主将と居りゃあ強ぇってのがどういう事か、よぉ〜っく判る!」

「どういう事だい?」

「意味が良く判らないんだけど…」

ぼくとイヌイが首を傾げると、アブクマはニンマリ笑ってこう言った。

「「強ぇ」ってのが、腕っ節や腕前の事だけ言う訳じゃねぇって、傍に居るだけで教われるって事っすよ」

アブクマがそう言うと、シンイチはニヤリと笑って、ネコヤマは微かな笑みを浮かべて、それぞれ頷いた。

「良く判らないぞ…?」

「僕もです…」

ぼくとイヌイは、やっぱり揃って首を傾げるばかりだった。



それからも、ぼくらの稽古の日々は続いた。

ぼくよりも体格が近いネコヤマとの乱取りは、アブクマにとって実に有効だったらしい。

ただでさえとんでもなく強かったアブクマの動きは、日に日にキレが増して行った。

ネコヤマは、体格的に言えばだいぶ太っているんだけれど、スピードと柔軟性が尋常じゃない。

アブクマは乱取りを繰り返す内に、彼の技のキレに、身ごなしに対処できるようになって来た。

以前と比べて、スタイル自体が少し変わって来ているような気もする。

…でも…。変わったのはスタイルだけだろうか?

何だろう?アブクマは今までどおり、特におかしな様子は見えないのに…、時々何となく不安を覚える…。

気のせい…かな?ネコヤマも何も感じていないようだし…。

県大会が迫って、緊張して来ているのかな?ぼくは…。



そして、瞬く間に三週間が過ぎた。

ぼくは今、うるさい位に音楽が鳴り響く店内で、透明なプラスチックのケース越しに、積み重ねられた縫いぐるみ達を眺め

ている。

ケースの向こうではロボットの手のようなアームが動いている。折り重なった人形達の頭上を、横へゆっくりと。

ぼくがボタンを押したタイミングで止まって揺れたアームの下には、焦げ茶色の牛獣人縫いぐるみ。

身長十センチ程、頭の天辺に輪になった紐がついている三頭身の縫いぐるみは、ご丁寧にも学ランを着せられていて、誰か

さんにそっくりだ。

「よし!良いぞサトル!そこで降下だ!恐れず掴み取れ!」

ケースを横側から覗き込んでいた焦げ茶色の大牛が鼻息を荒くする。

「…いや、止めたら後は自動だから…」

クレーンゲームに挑んでいるだけなのに、シンイチの励ましは無駄に力強い。

さすがは応援団長と言うかなんと言うか…、誰かが何かにトライしているのを見ていると血が騒ぐらしい。

降下を始めたアームは、三本の指を大きく広げる。

そして、ぼくとシンイチが見ている前で、縫いぐるみの頭の上の輪っかに指を通した。

おお!?もしかして今度こそ取れる!?

引き上げられるアーム。引っ張り上げられる縫いぐるみ。景品はメカメカしい手によって穴に落とされ、取り出し口に到達

する。

見事にゲット!…ただし、牛の隣に居た熊をだけれどね…。

これまた誰かさんそっくりな、柔道着を着た濃い茶色の熊を取り上げて顔の前で揺らしながら、ぼくはシンイチに苦笑いを

向ける。

「見た目によらず、なかなか難しいんだなぁ、クレーンゲームって」

「どれ、今度はワシが…」

シンイチはティーシャツの袖を掴むとグイっと肩までまくり上げ、財布から500円玉を取り出した。

二人合わせて既に2000円…。たった今シンイチが入れた硬貨を含めれば2500円もつぎ込んでいる。

初めて挑戦したけれど、これが予想以上に面白くて、ついつい夢中になってしまった。

…まぁ、ぼくもシンイチも素人だ。実はこれだけやって、今の熊が唯一の戦利品だったりする…。

目当ての人形はまだ手に入っていないものの、このままずるずる続けてもたぶんダメだろうし…、そろそろ切り上げ時かな?

ぼくとシンイチは今、一緒に商店街へ足を運び、外食がてらゲームセンターに来ている。

県大会が明後日に迫った今日、自分が挑むわけでも無いのに緊張してしまっているぼくを、シンイチが外へ連れ出したんだ。

 …シンイチにしては珍しいこの気遣いは、実はちょっと嬉しかったり…。

まぁ…、これも一応デートになるのかな…?たぶん…。

ぼくもシンイチも、これまで誰かと付き合った経験はない。

だからデートなる物についても、ドラマで見たり、漫画で読んだ程度の乏しい知識しか持ち合わせていない。

今まではゲームセンターなんて興味も無かったけれど、手軽に一緒に遊びに来られるスポットとして、今回は試しに来てみ

たんだ。

…まさか、初トライのクレーンゲームにここまでハマるとは思わなかったけれど…。



それからしばらく後。

「また今度にしよう…」

ゲーム機の前で項垂れているシンイチの肩をポンと叩き、ぼくは帰宅を促した。

どうやら熱くなったらしいシンイチだったが、ついに500円硬貨が尽きてしまった。

大牛は少し残念そうな顔をしながらも、しぶしぶ頷く。が、ふと思い出したように財布をあけると、百円硬貨を一枚取り出

した。

「…使える硬貨はこれが最後だ。最後の一回、狙ってみるか…」

よほど悔しいんだろう、シンイチは百円玉に念でも込めるようにしてグッと握り込むと、最後の一回に挑戦した。

一応ぼくは一つ取れたけれど、シンイチはゼロだもんなぁ…。

このゲーム、基本は100円1トライだけれど、500円だと6回トライする事ができてちょっとお得になる。

そう簡単には取れない事に気付いて、途中からは500円6回コースで挑戦していたんだけれど…、いやぁ、お金減る減る。

ゲームセンターで遊んだ事なんか無かったからこれも初経験なんだけど、ビックリしたよホント、あはははは…。

「根性だ…!根性で取る…!」

ブツブツ呟きながら、シンイチはかなり力を込めて二つのボタンを操作した。

…気合が入っているところ申し訳ないが、根性発揮しようがないと思うよ、このゲームじゃ…。

少し揺れながらアームが下がる。…ただし、目当ての牛縫いぐるみからちょっと外れた所めがけて…。

どうやら力み過ぎて早めにボタンを押してしまったらしいシンイチは、結果を見届けるまでも無くがっくりと項垂れた。

機械仕掛けの指は、牛の顔を擦って通り過ぎる。…って…、あ…。

「シンイチ!隣のを掴んでる!」

ぼくの上げた声に反応して、大牛はケース内を覗き込んだ。

目当ての人形の隣、バスケットボールを小脇に抱え、オレンジのユニフォームを身につけている灰色の狼の頭部を、ロボッ

トアームがしっかりと掴んで引き上げる!

目的とは違うものだけれど、戦利品第二号だ!

戸惑いながらも振り返ったシンイチが、ぼくに曖昧に笑いかける。

笑みを返したぼくは、ケースから目を離したシンイチの後ろで上がって行く狼の足元に、何かがくっついているのを見て目

を丸くした。

それは、狼の頭を掴んだアームに紐を引っ掛けられ、ぶら下がっている学ラン姿の牛…。

ぼくの表情を訝しく思ったのか、振り返ったシンイチはその光景を見て、一瞬固まり、次いで大げさにビクッと仰け反った。

「信じられない…。ダブルでゲットだ…」

ぼくが呟いた直後、狼と牛は仲良く取り出し口に落ちてきた…。



「雨だなぁ…」

「うむ」

大柄な牛と並んだぼくは、ゲームセンターの軒下から泣き出した空を見上げる。

零した墨汁を拭き取った雑巾のような色の雲が、夜空全体を覆って低く垂れ篭め、絞られたように雨粒を投げ落としていた。

遠くで響く雷の音…。ポツポツと音を立てて路面を叩く大粒の雨…。

ここから寮までは距離もあるし、これは走って帰ってもびしょ濡れだろうな…。

さてどうしようかと考えたぼくの横で、最後のワンチャンスを物にして上機嫌のシンイチは、少し得意げに「ふふん…」と

鼻を鳴らした。

「こんな事もあろうかと、実は傘を用意しておいた!降りそうな気がしたのでな」

シンイチが黒革の四角い手提げ鞄から取り出したのは、緑色の折り畳み傘。

「お〜…!シンイチにしては珍しい気の回し方」

褒めようとしたぼくは、シンイチが取り出した傘が一つだけである事に気付いて眉根を寄せた。

「…一本だけ?」

「うむ」

当然のように頷く大牛。…いやまぁ、これでもシンイチにしては気を回した方か…。

「降りそうだと思ったなら、ぼくにも一言いってくれれば良かったじゃないか?そうすればぼくも持ってきたのに」

「それではそれぞれ別の傘で帰れるでは…」

言葉を切ったシンイチは右手で口元を覆った。

「別の傘って、普通はそ…」

ぼくも言葉を切り、ある事に気付いてシンイチの顔を見つめる。

ぼくが疑わしいと感じている事を察したのか、シンイチは慌てた様子で首をブンブン横に振る。

「ち、違うぞ!?もしも降った場合に相合い傘で帰るために一本しか持ってこなかった訳では決してないし、自前の傘を持た

れても困るから伝えなかった訳では断じてないぞ!?」

…語るに落ちるというやつか…。問い質される前から自主的に口を滑らせる、ある意味とても素直な大牛…。

「いい、それで帰ろう…。寮に着いて丁度点呼開始の時間ぐらいだ。止むまで待つ訳にも行かないし…」

ため息混じりに呟くと、シンイチはそそくさと傘を広げた。

そうしてぼくらは、落ちて来る雨を一つの傘でしのぎながら歩き出した。

大きなシンイチは頭が裏地に当たる程に傘を低くして、ぼくは戦利品が入った鞄が濡れないように両手で抱えて、足並み揃

え、艶やかに濡れた石畳を踏み締める。

傘は折り畳みだから小さいし、大柄なシンイチと一緒だから窮屈で、ぼくの右肩とシンイチの左肩は、傘の端からはみ出て

濡れた。

けれど、絶え間なく尻尾を振るシンイチがあまりにも嬉しそうだったから、苛立つ事すら忘れてしまった。

…相合い傘ぐらいでこんなに喜ぶなら、肩が濡れる程度は我慢しよう…。



ゲームセンターには、予定よりもだいぶ長居してしまった…。

帰るなり大急ぎで濡れた服を着替えたぼく達は、今日も異常無く点呼を終えて自室に戻って来た。

座卓の上に並べた戦利品、学ラン牛と、柔道着熊と、バスケ狼を眺めていたぼくとシンイチは、顔を見合わせて苦笑いした。

「出費はちょっと過ぎた感じもあるけれど、初めてにしては上出来じゃないかな?」

「うむ。…それにしても、予想以上に夢中になってしまった…」

ぼくもシンイチもゲームには疎い。話に聞くぐらいで、自分で遊んだ事はなかった。

縫いぐるみの捕獲に夢中になったせいで、今日のところは他のゲームはろくに見もしなかったけれど、気分転換にちょっと

出かけるなら、ゲームセンターは良いかもしれない。

…まぁ、出費にはホント要注意だけれど、たまになら良いかな?今日みたいに二人でちょっと遊びに行く場所としては…。

「一応、デートっぽくなっていたかな?」

「どうだろうな?…周りの誰かに訊く訳にもいかんし、そう見られていたら見られていたで困った事になるが…」

そう。男同士でありながら恋人同士という、一風変わったぼくらの関係は、周りに知られてはいけない秘密の事だ。

…周りの人達に、デートしているように見えてもまずいんだったな…。

「まぁ、ワシらがデートだと思えば…、デートなのでは…?」

「そ、そうか…。そうだな…!うん!」

ぼくらは曖昧な笑みを浮かべて頷きあう。

楽しかったんだから、それで良いじゃないか。

一緒に出かけて楽しくなれれば、それがデートだ。ぼくらにとってはそれで良いのさ、きっと。

「それにしても…、これ、シンイチそっくりだよな?」

ぼくが学ラン牛を手にとって呟くと、シンイチは狼を手に取る。

「こっちは何となくシゲに似とるぞ?」

それぞれ手に取った縫いぐるみをしげしげと眺めた後、ぼくとシンイチは揃って座卓の上…、残った一体の人形に視線を向

ける。

「…アブクマ…、だよな…」

「うむ…、アブクマだな…」

柔道着姿の熊もまた、見れば見るほどぼくらの後輩に似ていた…。