第十一話 「イヌイ、絶不調!」(前編)
ぼくがシンイチに誘われてゲームセンターに出かけ、揃って散財しながらもそれなりに満足な成果を上げた、その翌日…。
「しゅんっ…!」
乱取りを終え、向き合ったアブクマと礼を交わしていたぼくは、小さな音を耳にして振り返った。
壁際で正座し、ストップウォッチを握り締めて稽古を見ていた猫が、口元を押さえてもう一度「きしゅんっ!」と言う。
どうやらクシャミらしい。
…それにしても、本人同様可愛いクシャミだなぁ…。イヌイには悪いけど、勝手に口元が弛む…。
「大丈夫かい?イヌイ」
「い、いえ!何でもありません!ちょっと埃が…」
弛んだ顔を引き締めて訊ねると、イヌイは首を横に振りながら、少し慌てたようにそう答えた。
「昨日ビショ濡れんなって帰って来たけどよ…、風邪とかじゃねぇだろな?」
ぼくと乱取りしていたむっくり大きな熊が、心配そうに眉根を寄せてルームメイトを気遣った。
あぁ…、イヌイもぼくらと同じ、昨日出かけて降られたクチか…。
「無理はすんなよキイチ?」
「やだなぁ。大丈夫、本当に何でもないったら」
微笑するイヌイの顔を見ながら、ぼくは少し心配になった。
思い返してみれば、今日のイヌイは稽古が始まってから、なんとなくだが少しボーっとしていたような…?
いつもはキビキビ動いて、真剣に稽古の様子を見ているのに…。
「さて。明後日はいよいよ県大会、無理は禁物だ。今日はこのぐらいにしておこう」
「え?俺まだまだいけるっすよ?」
物足りなそうに言ったアブクマに、ぼくは思わず苦笑を返す。
「稽古熱心なのはとても良い事だが、体調管理も考えないとな。本番目前なんだ、オーバーワークは常にも増して厳禁!もう
上がりにしよう」
ぼくが諭すと、アブクマは不承不承ながらも頷いてくれた。
実は予定していたより早めの切り上げなんだが、アブクマのコンディションが心配なだけじゃない。
最近随分と頑張っていたから、イヌイの体調も気になるし…。疲れが出てきているのかもしれないから、じっくり休んで貰
おう。
クシャミで思い至る辺り、ダメだなぁぼくは…。
さて、自己紹介だ。
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生で、第二男子寮の寮監を務めている。
後輩のためにと言いながらも、まだ柔道を続けていられる喜びを噛み締めている柔道部主将だ。
「仕上がりはどうだ?」
「順調さ。稽古相手がぼくじゃなければ、もっと順調だろうけど」
点呼用のボードを手にしてドアの前に立ったぼくが、笑いながらそう応じると、ルームメイトの大柄な牛は軽く顔を顰めた。
ぼくがこう言うと、シンイチはいつだって良い顔をしない。
曰く、「もっと自信を持て、胸を張れ」だそうで…。
ここは寮の自室。ぼくとシンイチの部屋。ぼくらは今、日課でもある点呼に出る準備をしている。
「サトル…。お前は準々決勝まで勝ち進んだだろう?アブクマの力にもなっているはずだ。自信を持て」
「ははは!今のは以前のぼやきなんかとは違うよ。単に、アブクマとはレベルもウェイトも違い過ぎて、稽古相手として適任
じゃないってだけさ」
いつものように言うシンイチに笑いながら応じつつ、ぼくは思う。
今じゃもう本当に悔いが無い。今年は必死になって、満足できる程頑張ったっていう実感があるからだろうか?
自分の実力を全部出し切れた。積み上げて来た物を全て吐き出せた。
その上後輩は、柔道部の長年の悲願でもあった県大会出場を果たしてくれた…。
これできっと来年には入部希望者も増えてくれる。…柔道部は、きっともう大丈夫だ…。
そしてぼく自身は、残りの時間を勝ち残っている後輩を支えてやる為に使う事ができる…。
悔いは無い。むしろ、恵まれていると思う。
柔道ができさえすれば満足で、強くなる事は諦めていたぼく…。
そんなぼくを変えてくれた後輩がさらに与えてくれた、その幸運と恵みに感謝しながら、胸に手を当てて、不思議なほど穏
やかで満ち足りた気持ちを噛み締める。
しばらく黙っていたシンイチが、不意に口を開いた。
「サトル…。前にも増して、良い顔をするようになったな」
「…ん?何だい急に…」
尋ねたぼくに、シンイチはニカっと歯を剥いて笑って見せた。
「良く言えば、あまりにも結果に拘らな過ぎる、どこか達観していたような去年までの顔とは違う」
そう言って歩み寄ると、ぼくの肩にどしっと、大きな手を置いた。
「やる事をやれるだけやってすっきりした…。そんな良い顔だ」
「…妙な事を言うなぁ…」
誉めてくれているのだと判ったが、少しばかり照れ臭くて、ぼくは意味が判らないふりをする…。
顔が熱くなったぼくは、視線を逸らしながらシンイチを促して、照れ隠しでいつもより少し足早になりながら廊下に出た。
ルルルルルッ…ルルルルルッ…
その夜、珍しく真夜中に内線電話の呼び出し音が鳴って、ぼくは寝ぼけた頭を振りながら、ベッドの上で身を起こした。
二段ベッドの下の段で寝ていたホルスタイン柄パジャマ姿のシンイチが、のそっとベッドから出て、壁についている受話器
を取る。
「ウシオだ。どうぞ。…ん?オシタリか。こんな夜中にどうした?どうぞ」
どうやら、内線はオシタリからの物のようだ。
「何?判った、すぐに行く。どうぞ」
トランシーバーか何かで会話しているような、妙な口調の通話を終えたシンイチに、ぼくはベッドを降りながら声をかける。
「どうかしたのかい?」
シンイチは少し困っているような顔で振り返った。
「イヌイが体調不良だそうだ。詳しくは判らんが、オシタリが見た様子ではかなり辛そうだと…」
「イヌイが!?」
思わず大声を上げたぼくは、足早にシンイチに近付いて、パジャマの胸をギュッと掴んで揺さぶった。
「ほ、本当に!?どんな様子なんだ!?」
「落ち着かんかサトル。詳しくは判らんと言っただろう?」
慌てるぼくの肩に、シンイチは宥めるように両手を置いた。
「とにかく行ってみよう。警備さんにも声をかけたらしい、場合によっては急患センターに運ぶ事になるかもしれんからな」
心配そうな顔をしてはいるものの、シンイチは冷静だった。
いつものようにでんと落ち着いて構えたその様子が、乱れかけたぼくの気持ちを鎮めてくれる…。
「…そうだな。急ごう」
ぼくは深く息をして表情を改めつつ、後輩達の元へ向かうべく寝室を出た。
親御さんの元を離れている寮生達…。指導するだけじゃなく、その面倒を見てこその寮監だ。
ぼくらが駆け付けた時には、警備員さんも部屋の前に到着していた。
他の部屋の一年生達も目を覚まして、廊下にはこんな夜更けにもかかわらずひとが溢れている。
タオルケットをかけられたイヌイは、恐らく寝起きなんだろう下着一枚のアブクマに抱えられて、ぐったりとしていた。
アブクマは今にも泣き出しそうに歪めた顔をぼくに向ける。
…こんな不安げで心配そうなアブクマの顔…、初めて見た…。
ぼくの横ではオシタリが、シンイチにかいつまんで状況を伝えていた。
聞こえたところによれば、今は治まっているけれど、さっきまでひどく咳き込んでいたらしい。おまけに熱も凄いと…。
床に跪いて顔を覗き込んだぼくに、イヌイは焦点の合わないぼんやりとした目を向ける。
…何て事だ…!
ぼくは腿に置いた手に力を込め、ズボンの生地を握り込んだ。
道場でしていたくしゃみ…、イヌイが何でもないと言ったあれは、体調不良の兆候だったんじゃないか!
イヌイが体調を崩しかけているサインはあったのに、主将のぼくがそれに気付けなかった…!
「車に乗せて救急病院へ。付き添いは…」
悔しさと申し訳なさから歯を噛み締めていたぼくは、警備員さんの言葉で我に返る。
「あ、ぼくが…」
「いや、ワシが行きます」
立ち上がって手を上げかけたぼくの言葉を、シンイチが遮った。
アブクマが保険証の所持を尋ねられている間に、シンイチはそっと耳打ちして来た。
「妙な巡り合わせだが、今度はワシの番…という事なんだろう。付き添って来る。氷枕か何か、助けになりそうな物を用意し
ておいてやってくれ」
そう言ってくれたシンイチに、ぼくは頭を下げてイヌイを頼む事にした。
視線を戻すと、警備員さんに保険証を取ってくるよう言われたアブクマは、何故かイヌイを抱いたまま動こうとしていない。
まるで、イヌイから離れる事を躊躇っているように…。
「イヌイはワシが預かる。保険証を取って来い」
屈み込んだシンイチがそう言いながら手を伸ばすと、アブクマはビクッと身じろぎして少し身を引く。
その様子と怯えたような表情は、何だか、イヌイを誰かに渡す事を嫌がっているようにも見えた。
シンイチは怪訝そうに目を細めて動きを止めたが、やがて再び手を伸ばして、アブクマの腕からイヌイを抱き取る。
「ほらアブクマ。さっさと取って来んか」
保険証を取ってくるよう再び声をかけられたアブクマは、大慌てで部屋の中に入って行く。
シンイチに抱きかかえられたイヌイに、ぼくは申し訳ない気持ちでいっぱいになりながら歩み寄った。
「イヌイ…」
何と声をかければいいか判らず、名を呼んだきり言葉が続けられなくなったぼくは、イヌイの額にそっと触れた。
汗で湿ったイヌイの頭は、異様なほど熱い…。
何て事だ…!本当は昼間も熱があったんじゃないのか!?なのにぼくは気付けもせずにっ…!
手の平に感じる熱を少しでも散らして逃がすように、ぼくはイヌイの頭を静かに撫でた。
辛そうな顔のイヌイは、眼を細めてぼくを見る。力なく耳を寝せて、申し訳なさそうな目で…。
体調不良なんて誰にでもある。仕方がない事なのに…。
そんな顔しないでくれイヌイ…。くそっ!ぼくが稽古開始前に気付いてやれていれば…!
県大会に挑むアブクマの方に注意が向いていた。いや、いつだってぼくはアブクマばかり見ていた。
マネージャーとはいえ部員である事には変わりない。たった三人だけの柔道部なのに、ぼくがイヌイに向ける注意は散漫な
物だった…!
何が主将だ!何が大勢新入生が入れば良いな、だ!こうして後輩の面倒すら見きれないくせに、笑わせるなサトル!
情けなくて歯噛みしていると、やがてアブクマが保険証を片手にドタドタと戻って来た。
彼から保険証を受け取った警備員さんは、イヌイを抱きかかえているシンイチに頷きかける。
「すぐに行こう。車を回すから、しっかり厚着をさせて、寮の表口で待っていなさい」
きびきびと言った警備員さんが早い歩調で階下へ降りて行くと、アブクマはシンイチの前で屈み込んで、イヌイの顔を覗き
込んだ。
そして、イヌイを再び抱き上げるつもりなのか、アブクマは腕を伸ばす。
まるで、引き離される事を嫌がる子供のような、心細くも哀しげな顔で…。
「団長!お、俺が…!」
弱々しく震える声…。いつものアブクマじゃない。冷静さを完全に失ってる。
「アブクマ、部屋に戻っとれ」
シンイチも彼が平静でない事を感じ取っているらしい。イヌイを渡さず、落ち着かせようと静かにアブクマへ告げた。
が、アブクマは激しく首を横に振り、シンイチに抱かれているイヌイの肩に手をかけた。
「お、俺、俺は…!俺はきっちゃんの傍に居なきゃ…!」
完全に取り乱しているアブクマは、イヌイを取り戻そうと必死になっている。
「おい。静かにせんかアブクマ…」
「きっちゃん…!大丈夫!?大丈夫だよね!?」
今にも泣き出しそうな顔のアブクマは、シンイチの腕から強引にイヌイを抱き上げようとする。が、その時、
「えぇい…、うっざくらしぃわ、こんだらぁっ!!!」
シンイチの怒鳴り声が、廊下に響き渡った。
肌がビリビリ震えて、腹の底まで響く怒声に、耳がきーんとする。
ざわめきはおさまり、ぼくやアブクマを含め、その場にいた全員が凍り付いたように動きを止めた。
…シンイチがキレた!?物凄い久し振りに、しかもこんな状況で!?
ぼくがゾクリと鳥肌を立てると、シンイチは「む…」と声を漏らして顔を顰め、小さく「コホン…」と咳払いした。
…大丈夫。どうやらついうっかり怒鳴りつけてしまっただけで、キレた訳じゃあないらしい…。
「…オタオタするな。お前がその調子では、イヌイが落ち着けんだろうが」
静まりかえった廊下に、シンイチのいつも通りの声が染み入る。
凍り付いていた皆が、まるでその声で呪縛を解かれたように緊張を緩めた。
荒れていた頃のシンイチの事は、ぼくら三年生以外はまず知らない。
地元の下級生ならともかく、寮暮らしの一年生ならなおさらだ。
それでもシンイチの怒声は、皆を震え上がらせるに十分過ぎるほどド迫力だが…。
「す、すんません団長…。つい、取り乱しちまった…」
気まずそうな、ボソボソと呟かれた声の出所に視線を向けると、アブクマが俯き加減になって頭を掻いていた。
さっきまでのオロオロした様子が無い。一喝されて動揺を吹き飛ばされたのか、そこに居たのはいつもの大熊だった。
アブクマの顔を見たシンイチは、彼が落ち着いた事を確認したのか、一つ頷いて「ついてくると言うなら、好きにしろ」と、
アブクマに告げる。
そして、開いたままになっている部屋のドアに向かって顎をしゃくり、歯を剥いて笑った。
「それと、ついて来たいならまずは服を着て来んか。その格好ではさすがにまずいぞ」
言われたアブクマは、キョトンとした顔で視線を下に向けて、自分の体を見下ろすと、
「んがぁ!?」
下着一枚の半裸である事にようやく気付いたのか、慌てた様子でドタドタと部屋に駆け込んで行った。
アブクマの下着は何故かブリーフだった。…いつも着替えの時に見ていたのはトランクスだったのに、何で…?
やがて、騒ぎに気付かず寝ていたらしい寮生達もシンイチの大声でさすがに目を覚ましたのか、閉まっていたドアが次々開
いて、寝ぼけ顔がひょこひょこ覗く。
「では、ワシは先に行っておく。アブクマが出てきたら、急ぐように言っておいてくれんか」
シンイチの言葉に頷いたぼくは、イヌイの頭をそっと撫でた。
「皆にはぼくから説明して落ち着かせておく。そっちは頼んだぞ、…ウシオ」
「うむ。任された」
頼もしく頷き返してくれたシンイチは、イヌイの顔を見下ろすと、目を細くして優しげに笑いかけた。
「あと少しの辛抱だ、イヌイ」
さっきの怒鳴り声が嘘のように、低くて優しい穏やかな声は、イヌイに向けられているにもかかわらず、ぼくまで安心させ
てくれた…。
三人は、一時間半程で戻ってきた。
アブクマとイヌイの部屋で氷嚢を用意して待っていたぼくは、いくらか楽になったのか、息の乱れも治まっているイヌイの
姿を見て、ほっと胸を撫で下ろした。
アブクマがイヌイをベッドの下の段に横たえ、布団を整えて氷嚢を当ててやっている間に、シンイチはぼくをリビングに連
れ出し、ある事を耳打ちして来た。
それは、シンイチが二人に抱いた、ある疑問であり、憶測だった。
息を飲んで固まったぼくの肩を軽く叩き、「まぁ、あくまでも憶測だ」と、シンイチは小声で言った。
…とても…、衝撃的な内容だった…。
でも、もしもそうだと仮定すれば、思い当たる節は確かにいくつか…。
シンイチと視線を交わし、小さく頷きあったぼくは、動揺を押し殺しながら寝室に戻る。
今はまず、イヌイの事が最優先だ。後でゆっくり考えよう…。
「とりあえず、アブクマはぼくらの部屋で寝るんだ」
「うむ。それが良いだろうな」
ぼくがアブクマに告げると、シンイチも頷いた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ主将!キイチは…」
首をブンブン振りながら慌てて口を開いたアブクマに、ぼくはなるべく柔らかい表情になるよう心掛けて笑いかけた。少し
でも安心させられるようにと…。
「安心してくれ。何もイヌイを一人にしようなんて言わない。ぼくがついておこう」
隣で「うむ」と頷いたシンイチは、一拍置いて「む?」と首を傾げ、それから少し大きな声を上げた。
「いや!ダメだサトル!ワシがつく!」
空気よめぇぇえええええ!このアホウシぃぃいいいいいっ!そこで慌てるのはまずいってば!!!
焦ったぼくのすぐ傍で、病人から掠れ声が上がった。
「だいじょぶ、です…。僕、一人で寝れますから…」
ああもう!やっぱりイヌイが気にしてる!…本当は、今もかなり苦しくて辛いくせに…。
シンイチの慌て方で気付いたのか、それとも頭の回転が良い子だから察していたのか、風邪をうつさないよう気を遣ったん
だろうイヌイは、弱々しい声で気丈にもそう言った。
本当に良い子だな、イヌイは…。けれど、こんな時ぐらい目一杯ワガママを言って、頼って甘えて構わないんだ。
ぼくは、その為の先輩だよ?その為の主将だよ?その為の寮監なんだよ?なぁ、イヌイ…。
さすがに失敗に気付いたのか、シンイチは耳を倒してしょぼくれる。
…今回はフォローなんてしてやらないからな?ちょっと反省するようにっ!
シンイチの発言もあった事だし、ここまで来たら気遣いはかえって変か…。
風邪がうつる心配に触れないよう、遠まわしに話をする必要は無くなったな…。
「イヌイは何も心配しなくていいんだ。でも、念のために誰かがついておかないと」
「その通りだ。が、ここはワシが…」
名誉挽回のチャンスとばかりに、耳をピンと立てて口を開くシンイチ。
「それこそダメだ。万が一にもウシオにまで風邪を引かれたら、この時期の応援団は大変な事になる。幸い、ぼくはもう出番
がないからな。県大会を控えてるアブクマの方が大事だ」
「ワシは風邪なんぞ引か…」
「俺の事なんかどうでも…」
首を横に振ったぼくに、シンイチとアブクマが同時に反論して来たが、ぼくは手を上げて二人の言葉を遮る。
「頼む。このわがまま、聞いてくれ…」
ぼくの気持ちを察してくれたんだろう。二人はそれ以上言い募る事無く口を閉じた。
県大会はぼくが…、そして、代々星陵柔道部が夢見てきた念願の大舞台なんだ…。
見事に勝ち上がってくれたアブクマが、風邪でもひいて活躍できなくなったんじゃ困る。
県大会でも、万全の状態で思い切り暴れてほしい。
短い静寂を破ったのは、イヌイの小さな声だった。
「…主将…、お願いします…」
ぼくの意を汲んでくれたんだろう。イヌイは申し訳なさそうな顔をしながらも、小さくぼくに頷きかけた。
「で、でもキイチ…」
「…大丈夫だから…、ね、お願い…」
まだ迷っているらしいアブクマに、イヌイは半眼にした眠たげな目を向けて言う。
アブクマはイヌイの顔をじっと見つめた後、彼に小さく頷きかけ、ぼくに向き直って頭を下げた。
「…主将、すんません…」
「うん。任せてくれ…」
安心させてあげられるように、大きな後輩に笑みで応じたぼくは、隣のシンイチに向かってパタパタと手を振った。
「さぁ、出てった出てった!そろそろイヌイを休ませてやれ」
「…うむ…」
「うす…」
ぼくの追い出すそぶりに、シンイチはしぶしぶ、アブクマはまだ少し不安そうにしながらも、揃って寝室を出て行く。
が、ドアは閉じ切る前に止まり、あいた隙間からこっちの様子をそろっと窺って来る四つの目…。
シンイチが上、アブクマが下、顔を重ねてドアの隙間からこっちを見ている…。
「そんな捨てられた子犬みたいな顔をしてもダメだ。二人とも、部屋に行ってさっさと寝る!」
ぼくが声を大きくすると、二人は揃って耳を伏せて、名残惜しそうにドアを閉めた。…子供じゃないんだから…。
ベッドに歩み寄ったぼくは、屈み込んでイヌイに声をかける。
「さ、もう寝るんだイヌイ。幸い明日は休みだ。しっかり休んで、日曜は一緒に、アブクマを応援しような…」
「はい…」
氷嚢の位置を直すついでに、ひんやり冷えた額をそっと撫でてあげると、
「済みません…。有り難うございます、主将…」
イヌイは恥ずかしげに、申し訳なさそうに、そしてちょっとだけ嬉しそうに、小さな小さな声で言った。
「うん…。あ。それと、これ…」
ぼくは用意しておいた物の事を思い出し、看病用具を詰めてきたスポーツバッグに手を入れた。
…あれ?そんなに奥にしまった覚えは…、っと、これこれ…。
「あったあった…」
ぼくはバッグから掴み上げた縫いぐるみを顔の前に翳し、イヌイの顔の横、枕の脇にそっと置いた。
それは、柔道着を着込んだ熊の縫いぐるみだ。
「昨日ゲームセンターで取れたんだ。アブクマに似てると思わないかい?」
熊の鼻を指先で軽く押しながら、ぼくはイヌイに笑いかけた。
「御守り代わりっていう訳じゃあないが、あげるから持っておいて」
「あ…、有り難うございます…」
ぼくに微笑を返すと、イヌイは首を捻って熊の縫いぐるみを見遣る。
そして、微笑みながらしばらく見つめた後に、静かに目を閉じた。
程なく、ぼくの小さな後輩は規則正しい寝息を漏らし始める。
病院に行く前と比べて、随分楽になったように見えるクリーム色の猫の顔を眺めながら、ぼくは思った。
起きている時以上に幼く見えるイヌイが、あのアブクマと…。
シンイチが憶測だと言っていたあの事は、今ではぼくにも、本当かもしれないと思え始めていた…。
…なぁ、お前はどう思う?
イヌイの枕元に寝そべるアブクマ似の縫いぐるみに心の中で問いかけたけれど、勿論答えは返って来なかった…。