第十二話「イヌイ、絶不調!」(後編)

イヌイが救急病院で診察を受けてきた、その翌朝。

さすがに熟睡できず、うつらうつらと過ごしていたぼくは、イヌイが大きく身じろぎした音で目を覚まし、ベッドの下の段

を覗き込んだ。

逆さまになって見遣る下の段には、上半身を起こしたイヌイが額を押さえている姿が…。

「どうしたイヌイ?頭が痛いのか?」

ぼくが焦って声をかけると、イヌイは寝ぼけているようなトロンとした目をぼくに向けて、…向けて…、…向け…て…?

…止まってる。…ぼーっとした顔で止まってる…。

こっちに向けた目は、しかし焦点が合ってない。ぼくを突き抜けてずっと遠くを見ているような目だ…。

「イヌイ?あの…、どうしたんだ?大丈夫か?」

ハシゴを下りて、間近で顔を覗き込みながら問いかけたぼくに、イヌイはなおもしばらくぼーっとした視線を注ぎ続けた後、

「あ…」と、小さな声を漏らした。

「しゅしょ…ぉ…?おはようございます…」

…何か…、身を起こして少し経つのに、今やっと起きたような感じだ…。

もしかして寝ぼけていたんだろうか?

「具合はどうかな?何処か痛まないか?昨夜はかなり咳き込んでいたし、胸や頭なんかは…」

「ちょっと頭がぼーっとしてますけど、昨夜ほどは…。でも、何だか嫌に喉が渇いて…」

「判った。水を持ってくる。とりあえず横になっておくんだ。いいね?」

ぼくはイヌイの肩に手を当てて、布団の上に寝かせ、体温計を咥えさせた。

高校に入って、ウシオと同室になってから学んだ事だけれど、全身を体毛が覆っている獣人達は、脇の下で測ってもあまり

正確な数字は出ないらしい。

だから、彼らは体温計を口に咥えるのが普通だそうだ。

触れたパジャマは汗でかなり湿っていた。乾いた物に着替えさせないと…。

寝室を出たぼくは、リビングを横切ってキッチンに向かいながら時計を確認する。もうじき朝の六時。普段の起床時間より

かなり早い。

キッチンに入って冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのボトルを手に取ったぼくは、少し考えてからコップに半分だけ入れ、

水道水を半分足す。

昨夜の熱に加えてあの発汗だ。冷え過ぎたものを急にお腹に入れるのはまずいだろう。

水を用意して寝室に戻り、デジタル体温計が音を鳴らすまで待つ。

ピピッと音が鳴った後、イヌイの口から体温計を取って、背中に手を入れて身を起こすのを手伝ってあげた後、デジタル表

示を確認した。

37.3…。まだ熱はあるけれど、昨夜と比べればかなり下がっている。

一安心したぼくは、イヌイがコクコクと水を飲むのを眺めながら、ほっと息を吐き出した。

水を飲み干して一息ついたイヌイを再び寝かせ、氷嚢の中身を取り替えて額に乗せる。

「そうだ、替えのパジャマも用意しないと。だいぶ汗もかいたようだし…」

「主将…?あの…」

「うん?」

氷嚢をタオルで額に固定し、位置を調整するぼくに、イヌイはおずおずと話しかけてきた。

「ごめんなさい…。こんな時期に…、こんな事になっちゃって…」

済まなそうに耳を伏せて、消え入りそうな声で詫びる小さな後輩…。

「それは気にしないでいい。…むしろ、昨日の内に体調不良を察してあげられなかったぼくにも責任があるし…。悪かったね

イヌイ…」

具合が悪かったのを見抜けなかった事に罪悪感を覚えながら、ぼくはイヌイにそう応じた。

「いいえ。僕が自分で体調管理をしっかりしなくちゃいけなかったんですから…」

ぼくが謝っても、イヌイは首を竦めてますます小さくなる…。

「サツキ君も…、きっと気にしてます…。自分が悪くなくたって…、いつも気にしちゃうから…」

アブクマの名前が出た途端、ぼくは数時間前にシンイチから聞いた事を思い出した。

そして、まじまじとイヌイの顔を見ながら考える。

幼馴染みの同級生で、クラスメイトでルームメイト…。二人の仲の良さは、知っている。

けれど、本当にそれだけなんだろうか?シンイチが言うように、もしかして…。

「…イヌイ。こんな時になんだけれど、ちょっと聞いて貰いたい話があるんだ」

イヌイは「はい?」と小さく返事をして、ぼくの目を見返して来た。

少し考えた後、遠回りな切り出し方が思いつけなかったぼくは、はらを決めて、イヌイの反応に注意しながら口を開いた。

「…同性愛って、どう思う?」



座卓についたぼくは、冷えたお茶を飲みながらリビングの時計を見上げる。

…午前七時…。そろそろ皆起き出す頃だろう。

ぼくとの長い話を終えたイヌイは、寝室で休んでいる。

シンイチの予想は、的中していた…。

イヌイは目を皿のようにして、瞬きすらほとんどせずにぼくの告白を聞いた後、相当に驚いている様子ではあったけれど、

「主将…。あの、実は…」と、おずおず切り出し、自分とアブクマの事を話してくれた。

あまり興奮させてもまずいし、じっくり考える時間も必要だろう。ぼくだってそうだ。

だからぼくはイヌイに着替えをあてがった後、こうしてリビングに移動した。

あれから十数分…。たぶんベッドに戻っているはずだけれど、眠れてはいないだろうな…。

ぼんやりと時計を見上げていたぼくは、ノックの音を聞いてビクッと体を強ばらせた。

…いけない…。冷静なつもりでも、やっぱり動揺しているみたいだ…。

「どうぞ」

ぼくの声を待ち、ドアがゆっくりと開いた。

そこに立っていたのは、焦げ茶色の大きな熊だった。

そしてその背後に立つのは、何故か少し口元を緩めているシンイチ。

部屋に入ってぼくに向き直るなり、アブクマは腰を折って、深々と頭を下げた。

「申し訳ねぇっす…。色々迷惑かけちまって…」

「困った時はお互い様だよ、アブクマ。それに、謝るような事じゃない」

寮監としての当然の勤めを果たしただけなのに、丁寧に頭を下げられてこそばゆくなる…。

「そうだ。こういう時は詫びではなく、まず礼だろう」

アブクマと一緒に入ってきたシンイチが、ウンウン頷きながら、無神経にも大熊にそう声をかけた。

「ウシオ!そういう事を言ってるんじゃなくてだな…!」

「いや、団長の言うとおりっす。ありがとうございます。主将」

シンイチをたしなめるぼくに、アブクマはまた深々と頭を下げて見せる。

「いやいや、良いんだアブクマ!そんなにかしこまらないで良いんだから!…ウシオ!余計な事は言わない!」

慌てて応じたぼくは、シンイチを軽く睨む。

「む?ワシ、また何か間違ったのか…?」

だから、色々あって動転していた上に、頭まで下げてるアブクマに、これ以上言わなくて良いことまで…、あぁもう…!

「まぁ良い…。何だか疲れた…」

ため息をついたぼくと、困ったように首を捻っているシンイチを、アブクマはじっと見つめた。

何て言うか…、少し嬉しそうな、安心しているような…、そんな表情だった。

「それはそうと、イヌイももう起きている。顔を見せてやるかい?」

向き直ってそう尋ねると、アブクマは目を丸くした。

「あ…。い、行っても大丈夫なんすか?」

きっと、イヌイの体調が心配なんだろう。

自分が会っても良い物かどうか考え、戸惑っている様子のアブクマに、ぼくは笑いかけた。

「ああ。気分も良いみたいだから、話をするぐらいは良いだろう。でも、あまり長くはダメだぞ?イヌイが疲れない程度にな。

それと、風邪をうつされたら困るし、イヌイも哀しむ」

ぼくが寝室のドアに目を遣りながら促すと、

「うっす!」

と返事をしたアブクマは、心がはやったのかモゾッと身じろぎしてから、イヌイが寝ている寝室に入って行った。

本当に、大切にしているんだな…、イヌイの事を…。

ドアが閉まってアブクマが姿を消し、二人きりになると、シンイチは声を潜めてぼくに囁きかけてきた。

「…アブクマと、話をしてみた」

それだけで何の事か理解できたぼくは、横に立つ恋人の顔を、首を捻って見上げた。

「ぼくも、さっきイヌイと話をした」

シンイチもそれで察してくれたらしい。口の端をグッと吊り上げ、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。

「ならば、もう?」

「うん。もう」

短く言葉を交わしたぼくらは、何だか可笑しくなって、くっくっと声を押し殺して笑った。

「驚いたな」

「ああ、驚いたよ」

申し合わせていた訳でもないのに、それぞれ後輩に同じ事を話していた自分達の行動を思い、ぼくは浮かべた笑みを苦笑に

変える。

「かなり驚いたけれど、嬉しいな」

「うむ」

「それにしても不思議だ」

「何がだ?」

ぼくは悪戯っぽく笑いながら、片眉を上げながら冗談めかして口を開いた。

「今回の、アブクマとイヌイの事さ、鈍感なシンイチにしては、やけに敏感に嗅ぎ取れた。それが不思議だよ」

「うむ。言われてみれば確かに不思議だな」

ぼくはからかったつもりだったのに、それなりに自覚しているらしいシンイチは、同感だとばかりに大きく頷くと、寝室の

ドアを見遣った。

「まぁ、ワシとアブクマが似たもの同士だったという事も手伝って、気付けたんだろうなぁ…」

「うん?」

首を傾げたぼくに、シンイチはニカッと笑って見せる。

「相手に首っ丈で頭が上がらんという点で、そっくりだろう?」

…首っ丈…か…。

シンイチのストレートな、そして本心だとはっきり判る物言いに思わず顔を赤らめ、ぼくは熱くなった頬をポリポリ掻いた。

そしてぼくらは、お互いに後輩と話した内容を伝え合う。

寝室で同じように話をしているはずの、ぼくらと同類だった後輩達の事に、思いを馳せながら…。



それからしばらくして、寝室から出てきたアブクマは、ドアを静かに閉めてからぼくを見て、それから何か探すように部屋

の中を見回した。

「ウシオは部屋に戻ったよ」

納得したように頷いたアブクマは、ぼくが身振りで促すと、座卓を挟んだ向かい側に腰を下ろした。

いましがた冷えた麦茶を入れたばかりなのに、二つのガラスのコップは、すでに少し汗をかいていた。

「…残念だけど、イヌイは休ませるべきだろう。出発まであと数時間だ。無理させても良い事は無い…」

「そっすね…。俺も、それが良いと思う…」

もしかしたら反対されるかもしれないと思っていたが、アブクマはすんなり同意してくれた。…イヌイの体を第一に考えれ

ば当然の事か…。

提案がすんなり受け入れられたせいで、話が途切れてしまった。

気詰まりな沈黙が満ちるリビングで、ぼくはお茶を啜るでもなく、手にしたグラスを揺すりながら考える。

アブクマももうぼくらの事は知っているんだけれど…、なんて言って話し始めれば良いんだろう…?

俯き加減のアブクマもぼく同様居心地が悪いらしく、大きな体を小さく縮めて、時折モゾッと身じろぎしたり、頭を掻いた

りしている…。

ぼくは務めて平静を装い、いつもと同じ調子で口を開くことにした。

「ウシオから、簡単に聞いたよ」

顔を上げたアブクマは、ビックリしたように目をまん丸にしていた。

「あいつから聞いただろう?ぼくらの事も」

「え?あ、うん…。聞いたっすけど…」

ぼくが先を続けると、アブクマはモゴモゴと答えた。

グラスを持ち上げて冷たい麦茶を啜るぼくは、不思議な事に落ち着いていた。

一度切り出してしまったら、意外なほど気が楽になって…。

「驚いただろう?まさか寮監と副寮監が、恋人同士…、それも男のカップルだったなんて」

苦笑いしながら言うと、アブクマは恥ずかしげに首を縮め、丸い耳をピクピクさせた。

「主将こそ、びっくりしたんじゃねぇっすか?こんなナリしてる俺が、ホモだったなんて知って…」

窺うように上目遣いでぼくを見ながら、大きな熊が微苦笑を浮かべた。

「びっくりはしたけれど、そう有り得ない事でもないだろう?本人の見た目と好みは無関係だ。それに、ぼくにはウシオって

いう例が身近に居るからな」

笑いながらそう返すと、アブクマはホッとしたように表情を緩めて、肩の力を抜いた。

「こっちも、イヌイから色々聞けた」

イヌイとの会話を思い出して、ぼくは苦笑いした。

ぼくがシンイチと付き合っている事を打ち明けたら、イヌイは自分達のことをたくさん話したんだ。とても一生懸命に。

今になって思えば…、あれは、同類だと判ってホッとしたからなんだろうな…。

「無理に喋るなって言っても、なかなか聞かなくてね…。こんな時に切り出すべきじゃなかったと、心底後悔したよ…」

一度言葉を切り、ぼくは視線を手元のグラスに向けた。

「やっと、胸のつかえが取れた気分だ。本当は隠しておこうと思っていたんだけれど、ウシオの意見を聞いて、きみら二人も

もしかしたら…、と思ったら、言わなくちゃいけないような気がして…」

「俺も、ほっとしたっす…。キイチも安心してたし…」

「はは。これで、お互いにすっきりできた。かな?」

「ぬはは!そうっすね、すっきりした!」

ぼくとアブクマは、声を上げて笑った。

これからは、慕ってくれるこの後輩達に、隠し事をしなくても良いんだ…。

それに、シンイチとぼくの関係について話せる仲間が、こんなにも身近にできた。…すっきりして、気分が良い…。

「柔道部の主将を前にこんな事言っちまうのもなんだけど…」

そう言いながら、アブクマはぼくを上目遣いに見つめて来た。

「俺にとっての一番は、柔道でも、勉強でも、他の何かでもねぇ。キイチなんだ…。なもんで…、昨夜は取り乱して、みっと

もねぇトコ見せちまって…、済んませんした…」

深々と頭を下げたアブクマは、神妙な顔をする。

「ウッチーやオシタリが来てくれて、団長と主将が面倒見てくんなかったら…、俺、情けねぇけど何もできなかった…。ほん

とに…、本当に、ありがとうございました…!」

「や、やめてくれよ、そんな改まって…!寮監として、先輩として、当たり前の事をしただけなんだから…」

ぼくがそう言っても、アブクマは口を閉じなかった。

「でも、本当に有り難かったんす。我ながら情けねぇ事に、俺ときたら、いざって時にあんな有様になっちまって…。なのに、

主将達はキビキビ対応してくれて、キイチの面倒まで見てくれた上に、俺の事まで気ぃ回してくれて…」

テーブルに黒い鼻をくっつけて頭を下げるアブクマから、深い感謝の気持ちが伝わって来る…。

「何べん言っても足りねぇけど、ありがとうございます…!」

「解った!解ったからもう顔を上げてくれアブクマ!」

ぼくはくすぐったさに堪えられなくなって咳払いした。

「感謝の気持ちは、よ〜く解った。さっきも言ったけれど、困ったときはお互い様。そして、寮生の面倒を見るのが寮監の勤

めなんだ。…だから、そんなにかしこまらないでくれ…。こそばゆくって落ち着かないよ」

「…うす…!」

額を机に擦りつけて深く頭を下げたアブクマは、顔を上げて、ぼくに笑いかけてきた。

感謝が滲むその顔は、とてもすっきりしているように見えた。

きっと、今のぼくと同じ気分なんだろう。



「…という訳なんだ。頼めないかな?」

ぼくはテーブルを挟んで向かい合った狐に、イヌイの事を頼んでみた。

「ぼくとアブクマはあと少しで出発するけれど、日曜の夜には戻る。あと、今夜は寝るまでウシオが見ておくそうだけれど、

明日の日中は応援団も別の部活の応援に出るから…」

可哀相だけれど、イヌイは置いていく事にした。だいぶ落ち着いたとはいえ無理は良くないからな…。

今、隣室ではアブクマがイヌイにその事を伝えている。

「判りました。日中、イヌイの様子に気を配っておけば良いんですね?」

あっさりと承諾してくれたウツノミヤに、「助かるよ」と頭を下げたぼくは、

「まぁ、ボク一人じゃないので安心して行ってきて下さい。それに、今夜も副寮監が様子をみておく必要はないかもしれませ

んよ?」

という、何だか妙な言葉に首を傾げた。…今夜もみる必要は無い?

「どういう意味だい?」

「いえ、実は先程担任にイヌイの事が伝わりまして…」

「え?」

ウツノミヤの言葉を聞いたぼくは、彼らの担任である大きな虎の顔を思い浮かべる。

「パソコンの動作不良解決について電話で教えたついでに、イヌイの事も伝えました。そうしたら、寮監もルームメイトも抜

きじゃ心細いだろうって言い出しまして、夕食の時間辺りにこっちに来るそうです。…場合によっては泊まって行ってくれる

かもしれませんね」

「それは…、有り難いけれど、なんでそこまで…?」

「昨夜救急病院に行った事も含めて、少し大袈裟に伝えておきましたから。どうやら心配になったようですね」

ウツノミヤは口元を微かに歪めて、上手く行った事に満足しているような顔をする。

ひょっとして、トラ先生を看病役として利用する為に、わざと大袈裟に伝えたのか?…恐ろしい子だ…。助かるけれど…。



「そうか。トラ先生が来てくれるか」

部屋に戻った僕が告げると、シンイチはほっとしているような喜んでいるような笑みを浮かべた。

「ウツノミヤの…まぁ、計略でね」

微妙な表情を浮かべつつぼくが頷くと、大牛は不思議そうに首を傾げた。…かいつまんで話しておこう…。

「がはははは!やるなぁウツノミヤめ!」

簡単に事情を話してやったら、シンイチは愉快そうに声を上げて笑った。

「トラ先生には申し訳ないが、大人が見てくれるならワシも心強い。看病に慣れとらんのが不安の種だったからな」

「それは確かにそうだな…。その点、様子を見てくれるのが先生なら心強い」

親元を離れて暮らしているぼくら寮生は、少し自惚れるけど、家から通っている生徒に比べればいくらか自立が進んでいる。

それでも、病人の看病となってくれば話は別だ。

家族や兄弟を看病するのとはちょっと違う、仲間とはいえ余所様の子供の体に気を配るとなれば、責任やら何やらでプレッ

シャーも感じる。

もしも悪化させてしまったら?そんな事を考えれば萎縮もするという物だ。

…実を言うと、イヌイに付き添ったぼくも、看病疲れとは行かないまでも軽く気疲れしてしまっていた。

…半端じゃないんだよ。具合悪そうにしている相手を、大した事もできないまま観ている心苦しさと、何かあったらどうし

ようっていうプレッシャーは…。

「イヌイ本人にその事は?」

「ウツノミヤと一緒に様子を見ながら伝えて来た。アブクマにもね」

「そうか。二人も心強いだろう」

シンイチが嬉しそうな笑みを浮かべて頷くと、部屋のドアがコンコンっと、控えめにノックされた。

「どうぞ。あいているよ」

ぼくが応じてすぐ開けられたドアの向こうには、一年生のジャーマンシェパードが立っていた。

「珍しいな?どうしたオシタリ?」

意外そうにシンイチが言うけれど、オシタリがこの部屋に来るのは、珍しいどころか初めてじゃあないだろうか?

少なくとも、ぼくが居る時に訪ねて来た事は無いなぁ…。

「団長に…、話が…」

普段から口数の少ないシェパードは、ごもごもと言い辛そうに呟く。

「何だ?」

シンイチに先を促されると、オシタリは軽く頭を下げた。

「…明日、応援休ませて貰えねえすか?」

「む?」

訝しげな声を漏らしたシンイチは、次いで「ああ…」と声を漏らした。

「イヌイが気になるのか?」

「い、いや…、そんなんじゃなくて…。ちょっと別の急用が…」

ごもごもと口を動かすオシタリに、シンイチは笑いかけた。

「イヌイは、トラ先生が面倒を見てくれるそうだ。心配いらんぞ?」

「…あ?」

シェパードは目を丸くすると、一瞬ほっとしたような表情を浮かべ、次いでガリガリと頭を掻きながら顔を顰めた。

「…あの…、考えてみりゃ…そんな急用でも無かったんで…、やっぱ、応援行きます…」

オシタリは恥ずかしがっているように耳を倒してペコリと一礼すると、そそくさとドアを閉めて姿を消した。

本音を不器用に隠しての気遣いが実に彼らしくて、ぼくはシンイチと顔を見合わせて小さく笑う。

「…良い子だなぁ皆…」

「うむ。そして、皆からこれだけ気遣って貰えるのも、イヌイが普段からとても良い子だからこそだ」

その言葉で、ぼくはハッとしてシンイチの目を見る。

たぶん正しい意見だ。イヌイが嫌な子だったら、皆は勿論、ぼくらだってここまで身を入れて手助けなんてしなかったんじゃ

ないだろうか?

皆、イヌイの事を気に入っているからこそ、心配して骨を折ってやっているんだ。

とても良い子、か…。まったくもってその通り、可愛くてとても良い子だ。

「む?ひょっとしてずれた事を言ったか?」

「…いや、たまには普通に良い事言うなぁって…」

「む?むふ…、むふふふふ!そう褒めるな!ムズムズする!」

妙な笑い声を漏らすシンイチは、褒め言葉と取れるかどうかはかなり微妙なぼくの言葉で、尻尾をフッサフッサ揺らしなが

ら喜んでいた。

…まぁ、様々な物事をポジティブに受け止めるのは良い事だ…。うん…。

…もっとも、これが過ぎると大事なシチュエーションで空気読めなかったりするんだろうけど…。

…考えてみればいつもそうか…。