第十三話 「県大会」
「いよいよかぁ…」
ベッドの上に寝転がった大きな熊は、捲ったシャツの下から手を入れて、ぽっこりと盛り上がった腹をもそもそと掻きなが
ら、壁際のテレビを眺めたまま呟いた。
ぼくには広々としている普通サイズのベッドは、やたら体格が良いアブクマには少し狭そうにも見える。
食事も入浴も済んで、後は明日に備えて早めに寝るだけ。
…だがしかし、ぼくも大きな後輩も、ジャージのズボンにティーシャツという楽な恰好をしているが、あまりくつろいだ雰
囲気でもない…。
「ああ、いよいよだな…」
自分が試合する訳でもないのにずっとそわそわしているぼくは、ベッドの上にあぐらをかき、イヌイが纏めてくれていたス
ケジュール表を眺めながら応じる。
…そう、明日はいよいよ県大会…。
ぼくとアブクマは理事長に率いられ、今夜はここ、会場近くのビジネスホテルに一泊する。
会場は星陵から結構離れているから、大会当日に朝早くからの移動を行うのは避けた。これは勿論アブクマを疲れさせない
為の措置だ。
同じく県大会に挑む陽明の選手達も、今夜はこっち側に宿を取っているらしい。
ぼくらの盟友ネコヤマからのメールによれば、結構立派な旅館だそうだ。
…柔道については強豪だからなぁあっちは…。部費もたっぷりあるらしいし…。
本来ならぼくとアブクマとイヌイの三人で来るはずだったから、理事長はぼくら用に四人部屋をとっていた。
けれど今日、風邪をひいたイヌイを休ませる事に急遽決めたから、大慌てで連絡して部屋を変えて貰い、二人部屋をあてがっ
て貰っている。
幸いキャンセル料は取られず、宿泊費用は少しだけ浮いた。
…せこいと言うなかれ。昨年まで全く活躍していなかった我等柔道部は、それほど予算に余裕が無いんだから…。
ちなみに、顧問のホシノ理事長だけ別室でシングル。
予算の逼迫状況を知っている理事長は、申し訳ない事に自費宿泊で、おまけにぼくらの移動費用まで出してくれている…。
休日の稽古の度に寄越す差し入れといい、理事長には頻繁に個人的な出費をさせてしまっている。…有り難いけど心苦しい
な…。
…実は、今回の宿泊で部費はほぼ底をつく。もう遠征費用も残っていない…。
もしもアブクマが全国出場を成し遂げたら、宿泊と移動費用をなんとかして調達しなければ…。
…いや、今はまだそんな事まで考えなくて良いか…。その時になったら何とかしよう…。
ぼくはスケジュール表を見つめながら、これを作ってくれているイヌイの事を想う。
小さなマネージャーが居ないだけで、随分と物足りない気分になる…。
部員がたった三人だけな上に、良く気が付くイヌイに普段から支えて貰っていた部分が大きいからな…。
スケジュール表では、彼の恋人が挑む県大会を記したその日は、網掛けで目立つようにされていた。
…どんなに…、傍で応援してやりたかっただろう…。
ちらりと目をやれば、隣のベッドの上で、アブクマはもぞもぞと姿勢を変えていた。
いつもどっしりと構えている彼にしては珍しく、落ち着きが悪いように、さっきからずっと小刻みに体を動かしている。
今日は随分と口数が少なく、そして頻繁に、物思いに耽ってでもいるかのように、遠くを見るような目をする。
良ければ気分転換も兼ねて、同性愛者の先輩としての話を聞かせて貰いたいと思っていたんだが…、余計な事を訊けるよう
な雰囲気でもないなぁ…。
ぼくの視線に気付いたのか、アブクマはテレビから目を離し、首を捻ってぼくを見る。
「どうかしたんすか?」
「え?あ、いや…。緊張しているのかなぁと…」
「ん〜…。言われてみりゃ、ちっと緊張してるっすかね…」
呟いたアブクマは、ベッドに手をついて上半身を起こすと、小さくため息をついた。
「ネコヤマ先輩みてぇなのがゴロゴロしてんだろ?やっぱ色々考えちまうっすよ」
ぼくは、「おや?」と、疑問に思った。
手強そうな選手を見ると心底嬉しそうに興奮するアブクマが、尻込み…とは行かないまでも、あまり乗り気でないような…。
やっぱり、イヌイが居ないと調子が出ないんだろうか?
ふと思い浮かび、口をつきそうになったその疑問を、ぼくは発する寸前で飲み下した。
…今うっかり変な事を言って、気持ちを乱してしまうのはまずいよな…、うん…。
「あ。キイチが居ねぇからとか、そういうんじゃねぇっすよ?」
口をつぐんだぼくだったけれど、アブクマはまるでこっちの心を読んだかのようにそう言った。
「前にも話したけどよ、元々キイチは柔道部じゃなかったんだ。だから応援に来てねぇのには慣れっこっす」
「あ。確かにそうだったな…。それじゃあやっぱり、普通に緊張しているのかな?」
「たぶんそうなんすね。いや良く判んねぇけど…」
アブクマは首を捻ると、ボスンと背中からベッドに倒れ込む。
「まぁ、少し強めに緊張してるぐれぇが丁度良いのかもしれねぇな…。負けらんねぇんだからよ」
アブクマがボソボソと口にした言葉に、ぼくは何故か胸を突かれたような気分になった。
…あれ…?何だろう?何か引っかかるんだが…。
仰向けに寝転がり、頭の後ろで腕を組む姿勢で目を閉じたアブクマから視線を外し、ぼくは考える。
…負けられない…。
アブクマが口にした言葉の、この部分が何故か引っかかっている…。何故だろう…?
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生。柔道部主将と、第二男子寮の寮監を務めている。
そして夜が明け、大会の朝がやってきた。
ぼくは今、開会式を終えてすでに試合が始まっている会場で、壁際に陣取って身じろぎもせず立っている。
こんな空気…、初めて経験する…。
県大会その物は、去年も一昨年も観客として見に来ていたぼくだが、自分が「こちら側」の立場で観戦するのは初めてだ。
熱気に溢れた…、いつもはそう感じていたし、よくそう表現されている試合会場は、しかし今のぼくには肌寒い程に感じら
れている。
もうじき、県大会獣人の部、無差別級一回戦が始まる。
歓声やざわめきが溢れていながら、ピンと張り詰めた空気が満ちる会場…。
実際に試合する訳じゃないぼくがこれなら、挑む本人はどれほどの緊張の中に居るんだろう?
傍らに視線をやれば、小柄で若々しいホシノ理事長と世間話をしている熊の姿。
…緊張は見られない。…少なくとも、外から見た限りは…。
けれど、普段ならアブクマは多くの場合、熱心に試合を観戦している。
それが、試合にはあまり目を向けずに、理事長と雑談しているなんて…。
…気晴らし?緊張を解こうとしているんだろうか?
「済んません、ちっと便所…」
アブクマがそう告げて離れたのを見計らい、ぼくは理事長に話しかけた。
「理事長。アブクマの様子…、少しおかしくないですか?」
実年齢より20歳以上若く見える、外見上はまるっきり中年女性の理事長は、いつもの思慮深そうで穏やかな目をぼくに向
けた。
「そうですねぇ。とても緊張しているみたいですねぇ」
「…やっぱりそう見えますか…」
先代理事長と結婚して家庭に入るまで、教師として多くの生徒を見てきた理事長は、やはりアブクマの不自然な態度にも気
付いていた。
彼が緊張していると断言した理事長は、眼を細めて口を開く。
「けれど、ちょっと妙だと思いませんか主将さん?」
「妙…ですか?…それはまぁ、あのアブクマが緊張するなんて、珍しいとは思いますが…」
ぼくがそう応じると、理事長はこくこくと、ゆっくり、繰り返し頷く。
「前の大会では、自分が試合する時よりも、主将さんの試合の前の方が、むしろ緊張しているように見えました。今日のアブ
クマ君は、主将さんを試合に送り出していたあの時のような緊張具合ですねぇ」
理事長の言葉を、「あぁ、ぼくの時もそうだったのか…」と、微苦笑しながら受け止めたぼくは、この時理事長が、ご自分
でも気付かないままアブクマの異常の原因を言い当てていた事には、全く気付けていなかった…。
「じゃあ、行って来るっす」
「ああ、ファイトだアブクマ!」
「応援していますね」
ぼくと理事長の見送りを受けて、アブクマはのっそりと試合場へ向かった。
驚くほど静かで、すっかり落ち着いているように見える。
大柄な馬と向き合い、はじめの合図と同時に構えたアブクマを見つめながら、しかしぼくは何となく物足りないような気が
した。
…あ。今回はアブクマ、あの顔を叩くヤツ、しないで行ったな…。
相手も無差別級に入っているだけあって、馬と言っても、がっちりしていて体格が良い大柄な選手だ。
輓馬とでも言えば良いのか、サラブレッドのようなスラリとしたボディラインじゃない。
腰から足から腕から首から軒並み太く、ウシオ並にごっつい体格をしている。
アブクマと向き合っているせいで普通に見えるが、目の前に立ったらとんでもなく迫力があるだろう。
ポジション争いから組み合い、じりじりと横へ移動しながら隙を窺うアブクマ。
県大会初戦という事もあって警戒しているんだろう。いつもよりかなり慎重な立ち上がりだ。
普段なら仕掛けるようなタイミング…、相手がフェイントに足を出し、そして引っ込める最中にも、アブクマには攻め込む
様子が全く無かった。
萎縮している?…いや、どうやら普段よりかなり入念に相手を観察しているらしい。
瞬きを忘れたような目が、馬の手を、顔を、足捌きを、小刻みに動いて見つめ、挙動に注意し、隙を探している。
再び相手が動いた。襟を捉えた右手を引きつつ、素早く左足を出す。
引っかけに行った相手の足は、しかし良く見ていたアブクマが寸前で足を引き、ほんの少し掠っただけで通り過ぎる。
フェイントじゃなく、仕掛けるつもりで足を出していた相手は、足を畳につきながらも位置が良くない。
体勢も不安定で僅かながらバランスを崩している!
上体が引き付けられて距離を無くし、相手の左足が大きく前に出たこの状況で、足を上げず、畳の上を擦るようにしてかわ
していたアブクマは、しっかりと体勢を整えていた。
仕掛けるには絶妙のタイミングだ!
一瞬で相手が宙を舞う事を疑っていなかったぼくは、しかしアブクマが腰を引きながら出足払いで相手の体勢を崩したその
瞬間、思わず「え?」と声を発していた。
判定は…、良しっ!技あり!
拳を握り締めたぼくは、しかしまたもや「え…?」と、今度はさっき異常の疑問を込めて声を漏らしていた。
左の腿と臀部から畳に崩れた相手を、しかしアブクマは追撃しない。
いつもならそのまま寝技に行くような場面なのに、どうして…?
…しかし、このアブクマにしてはおかしい試合運びは、まだまだ序の口でしかなかった…。
ぼくの疑問が悪い予感に変わるまで、そう時間はかからなかった。
それから数十秒後、一旦わけられ、試合場の中央で向き合った二選手の一方、大きな熊が審判に注意された。
…あのアブクマが…、指導だって…?
どうしてしまったんだアブクマ?身内であるぼくの贔屓目で見ても、明らかに消極的過ぎる…。
まるで逃げ回るような消極的な動きを見咎められて指導を受けたアブクマは、その後も組み合うのを嫌がるようなそぶりを
見せていた。
「どうしたんでしょうねぇ?緊張が抜けていないんでしょうか…。主将さん?アブクマ君、いつもとちょっと違いませんか?」
柔道に詳しくない理事長も、さすがにアブクマの様子がおかしい事に気付いたらしい。不思議そうに首を傾げている。
「え?えぇ…、あの相手、アブクマにとっては苦手なタイプなのかもしれません」
ぼくにもアブクマの変調理由は判らない。けれど、とりあえずふと思いついた意見を述べてみたら、理事長はひとまず頷い
た。が、納得はしていないらしく、
「何だか、いつもと違って凄く辛そうですねぇ…」
と、アブクマを案じているように呟く。
確かに辛そうだ…。加えて言うならいつものような迫力も無い。
例えば何らかの得点を競うスポーツで、リードしたまま時間切れを狙っているような…、そんな、「何事も起こらず終わる
のを待つ」ような動きだ…。
結局、アブクマはそれ以降も受け身に徹して慎重に試合を運び、積極的に攻めることもないまま、判定で勝利を収めた。
勝って引き上げてくるアブクマの顔には、いつものスッキリした表情は浮かんでいなかった…。
二回戦目も、アブクマは同じような動きを見せた。
静かで落ち着いているというよりは、慎重過ぎて積極性に欠ける試合になっていた。
どうしたんだ?一体…。
緊張していたのかと思って、一試合目の後では詳しく話をしなかったけれど、これは明らかにおかしい…。
理事長もアブクマの様子が気がかりらしく、しきりに気にしていた。
またしてもかろうじて判定勝ちをおさめたが、試合内容は…。
一体どうしたんだアブクマ?
らしくない…、こんなのきみらしくないぞ…?
少なくとも、アブクマはこういう柔道を得意にしてはいなかったはず…。
スタイルとしてはああいう試合運びもあるが、アブクマの場合は戦術として出来上がっていない。あれじゃあただ逃げ回っ
ているだけだ。
おまけに、急にスタイルが変わって持ち味が活きていない…。
…これは、きちんと話をするべきだろう…。
「ひょっとして、体調でも悪いのか?アブクマ…」
二回戦を終えた後、話があると誘って廊下に出たぼくは、後輩の顔を見上げてそう切り出した。
「いや、そんな事ねぇっすよ?体も動くし体調も万全だ」
アブクマは笑みを浮かべながらそう言って、ぶっとい腕を上げて力こぶを作り、ポンポンと叩いて見せる。
「けれど…、攻めあぐねいているような…、慎重過ぎるような試合をしていたが…」
「ん?まぁ、慎重には…確かになってるっすね…」
アブクマはそう言うと、何かに気付いたように首を起こし、ぼくの頭の上から向こう側を見遣った。
視線を追って振り返ると、行き交う人々の間を縫ってこちらに歩いてくる、ややメタボ…体格の良い黒い山猫の姿。
「ネコヤマ!二回戦突破、おめでとう!」
「おめでとっす!先輩!」
ぼくとアブクマがそう声をかけると、歩み寄ったネコヤマは「ありがとう」と、表情一つ変えずに応じる。
ここまでの二戦を全く危なげ無く、文句なしの圧勝で抜けたネコヤマは、浮かれている様子も無く、いつもと変わりない。
…この大舞台でも平常心でいられるんだなぁ、ネコヤマは…。
「アブクマ君もおめでとう」
相変わらず表情を変えず、ネコヤマはアブクマを祝福する言葉を口にする。
…が、その目は祝っているというより、アブクマの様子を窺っているような…。
アブクマもそれに気付いたらしく、訝しげにネコヤマの顔を見つめる。
「何があったんだい?今日は二試合とも、どうにもおかしかった」
ネコヤマはそう切り出すと、すぅっと目を細める。
「実にキミらしくない試合だったけれど…、思えば、最近の稽古でも少しおかしかった。何故ああまでスタイルを変えたんだ
い?」
アブクマは顔を顰めて「らしくねぇ、か…」と呟く。
「勝機を逃す程に手を引っ込めて、判定を守って逃げ回るなんて、キミらしくないな。あれではキミの持ち味は活きない。怖
さが半減している」
頷いてそう言ったネコヤマが、「何故だい?」と言葉を重ねると、アブクマは目を伏せて呟いた。
「主将の為にも、勝たなきゃいけねぇんだ…。強引に行ってヘマなんてできねぇ。慎重に行くに越した事ぁねぇだろ…?」
…アブクマ…?
嬉しいはずの後輩の言葉を、しかしぼくは単純に喜んで受け止める事はできなかった。
重い…。重くて、そして苦しかった…。
…ぼくの為に、アブクマは自分のスタイルを変えた…。
見る者を魅了する、どっしりと構えながらも隙を見れば強引に、貪欲に、そして豪快に勝ちを狙いに行く自分本来の柔道を
捨てて、慎重な立ち会いに慎重な観察を重ね、臆病な程に攻め手を吟味する、負けない為の柔道に…。
ぼくのせいなのか?
ぼくのせいで、アブクマの強さと魅力は半減してしまったのか?
…ぼくが、アブクマをそうさせてしまったのか…?
心理状態で自分の柔道が変わる…。自分の柔道ができなくなる…。それは、ぼくもついこの間経験したばかりだ。
あの時ぼくは、とにかく勝ち残りたくて、先の事ばかり考えて目前の試合に集中できなくなってしまった。
いち早く気付いてくれたネコヤマからアドバイスされなかったら、早々に敗退していた事だろう…。
アブクマも、姿勢こそ違えどぼくと同じだ。
集中できなくなっているというよりは、今になってスタイルを変えようと考える程に深刻な重圧から、「負けられない」が
先に立って、慎重になり過ぎているんだろう…。積極性の面で、審判から注意される程に…。
理事長の言葉が耳元で繰り返された。
…ぼくの試合の時のように緊張していた…。
原因はそう、ぼくだったんだ。
ぼくの為に負けたくないから、アブクマは硬くなって…。
何と言えば良いのか解らず、ぼくが黙り込んでしまうと、
「立派な心掛けだね、アブクマ君」
しばらく黙っていたネコヤマは、そう静かに口を開いた。
しかしその声は、内容とは裏腹にどこか冷ややかで、目には決して好意的とはいえない光が浮かんでいる。
アブクマもそれに気が付いたのか、山猫の真意をはかりかねて、戸惑っているような表情を浮かべた。
「とても立派な心掛けだよ。呆れて眠くなるほど立派だ」
辛辣な言葉と口調で、ネコヤマはアブクマに語りかけた。
「訊きたいんだけれど、キミは「勝ちたい」のかな?それとも「勝たなければいけない」のかな?」
アブクマは「え…?」と声を漏らすと、耳を倒して考え込み、困惑気味に応じる。
「…どっちも同じじゃねぇすか?主将の為に勝ってやりてぇし、勝たなきゃいけねぇ…」
その答えへ、ネコヤマは首周りの被毛をゆっくりと逆立てながら言葉を重ねた。
「誰かの為に頑張る事、頑張れるという事、それは素晴らしい事だよ。…けれど今回のキミはイワクニくんのせいにしている
だけだ。先輩の為に勝たなければ「いけない」?キミは一体何様のつもりだい?」
「な、何様って…、俺は…、俺…」
ネコヤマの遠慮のない物言いと、静かに、しかし間違いなく怒っていると察せられる鋭い視線に、あのアブクマがたじろい
でいる。
ぼくだってそうだ。こんな風に憤っているネコヤマを見るのは初めてだし、普段の様子からは感情的になっている所を想像
するのは難しい。
しかし今ネコヤマは、そうと解るほど憤慨している。
静かに、けれど触れれば焼け付きそうな程…、まるで熾火のように…。
「図に乗るのもいい加減にするんだね。試合に挑んでいるのは誰だい?これはキミの試合じゃないのか?」
「そ、そりゃあ勿論…、そうだよ…」
応じるアブクマの声には力が無い。ぼくもそうだけれど、完全にネコヤマにのまれている。
どんな強敵相手にも怯まない、あのアブクマが…。
「イワクニ君の為に勝ちたいから、萎縮して逃げ回る柔道にスタイルを変える…。それでキミが負けたら、それはイワクニ君
のせいにはならないか?自分の戦いの理由を他人に求めるな。そんな理由でオドオドと試合をされたら、イワクニ君が迷惑だ」
刃物のように心に切り込んでくる、厳しい言葉を浴びせられ、アブクマは堪りかねたように項垂れた。
「イワクニ君の為という理由を盾にして、負けに対して臆病になっている今のキミには、オレが定期戦で感じたような魅力は、
残念ながら全くない。正直、かなり幻滅している」
辛辣な言葉を重ねて投げつけたネコヤマは、一度言葉を切ると、項垂れているアブクマに訊ねた。
「もう一度訊くよ?キミは「勝ちたい」のか?それとも「勝たなければいけない」のか?」
「…勝ちてぇ…っす…」
掠れた声で、アブクマは答えた。
「やっぱり自分でも…、俺の気持ちとしても…、勝ちてぇっす…」
ネコヤマは小さく頷くと、ぼくに視線を向けた。
そして、こっちを見たままちょっとだけ首を傾けて、アブクマに向かって顎を出す。
仕草で解った。彼は「キミが声をかける番だ」と言いたいのだと。
情けない事に、後輩への指導という損な役回りを、他校の選手であるネコヤマにさせてしまったぼくは、彼に恐縮しつつ、
改めてアブクマに向き直った。
「アブクマ…」
「うす…」
キツい物言いで気の持ち方を責められ、すっかりしょげてしまったアブクマは、申し訳なさそうに眉尻を下げつつ、上目遣
いにぼくを見た。
「アブクマの気持ちは嬉しい。けれど、やっぱりこれはアブクマが挑んでいる大会なんだ。柔道部の為にとか、ぼくの為にと
か、そっちは後回しで良いんだ」
肩を落として小さくなっている大きな後輩に、ぼくは言いたい事を纏めながら、ゆっくりと語りかけ続けた。
「ぼくの為に勝たなくちゃいけないとか、そういう風に考えながら挑んでいるんだったら、こっちも心苦しいよ…」
負けないような試合をする。それもきっとある面では正しい柔道だろう。
勝ち進めるように指導するのが正しい先輩の在り方だとすれば、ぼくはきっと間違っている。今のアブクマのスタイルは、
確かに負けにくいのだから。
けれど…、やっている本人が好きじゃない、そして納得できていないスタイルなら、そんな柔道はして欲しくない…。
ぼくはそう思いながら、アブクマに告げた。
「アブクマはアブクマで、自分の柔道を思い切りやって欲しい。ぼくは、勝ちに拘って萎縮してしまっている今の柔道より、
時々ひやっとするほど荒っぽい、アブクマ自身の豪快な柔道の方が好きだ」
項垂れていたアブクマは、ぼくが言い終えると、少しだけ顔を起こした。
「…主将…」
「うん?」
「済んません主将…。ネコヤマ先輩も済んません…。そんな気は無かったけど、言われてみりゃあ傲慢だったかもしれねぇ…」
アブクマは軽く頭を下げ、居心地悪そうに顔を顰めた。
「主将のためとか…、部のためとか…、感じの良い言葉にすりゃあそうなんだろうけど…、ネコヤマ先輩の言うとおり、きっ
と図に乗ってたんだ…。俺は俺でしかねぇのに、たまたま一人勝ち残ったってだけで、部の全部をしょってるつもりになっち
まってたんだろうな…」
目を伏せたアブクマは、ガリガリと乱暴に頭を掻く。
「恥ずかしくなるぜまったく…。一選手に過ぎねぇ一年坊が、何を勘違いしてんだ?ってよ…」
恥じ入ったように背を丸め、小さくなった後輩に、ぼくは笑みを向けた。
「気持ちは気持ちとして有り難いよ。けれど、アブクマが好きじゃない柔道をするのは、ぼくは嫌だ。せっかくの大舞台なん
だ、存分に自分の柔道をして欲しい」
「うす…」
上目遣いにぼくを見て、大きな後輩は小さく頷いた。
そして、ぶるるっと頭を振ると、深くため息をつき、
「ダメだなぁ、俺ぁ…」
そう呟くなり、やおら両手を顔の横に上げて、その頬をバチィンッと、両側から挟み込むようにして思い切り叩いた。
今日は初めて見る、アブクマお馴染みの気合い入れだ。
表情を引き締めたアブクマは、「うっし…!」と大きく頷き、ぼくらの顔を交互に見る。
「悪ぃ主将、ネコヤマ先輩、ちょっと顔洗って頭冷やして来るっす。時間ねぇんだし、さっさと頭を切り換えねぇとな」
「え?う、うん…」
面食らったままぼくが頷くと、気合いを入れ直したアブクマは、ぺこっとお辞儀するなり踵を返し、洗面所がある方へと向
かった。
足取りを見るだけで判る。力強く、堂々としたその歩みには、さっきまで感じていた引き摺るような重さは無い。
どうやら、いつものアブクマに戻ったみたいだな…。
後輩の姿が角を曲がって消えるまで見送り、ぼくは独り言ちた。
「ぼくの言った事は…、正しかったのかな…」
呟いたぼくに、無言でアブクマを見送っていたネコヤマが横目を向ける。
「正しいかどうかは判らないよ。けれど、オレもキミと同意見だ」
顔を向けたぼくに、黒い山猫は続けた。
「彼本来の柔道でも、高校では負け知らずだ。それに、彼が本来の強さを最も発揮できるのは元々のスタイルだと思う。普段
はそうは行かないが、さっきの試合までの彼は、オレなら簡単に崩せる」
さらりと言い放ったネコヤマは、相変わらず感情が読みにくいポーカーフェイスだが、かなり自信があっての発言のようだ。
「彼は完全な守り柔道はとても下手だ。上手い選手は守る中にも、得意な所へ攻め込ませる等の誘い方にも秀でている。けれ
ど根が素直過ぎるからだろう、アブクマ君の場合、守りに入ると攻めて欲しくない手がはっきり判る。少なくともオレにはね」
「そういう物なのか?」
「キミほどの観察眼がある選手なら、向き合えば見抜けるはずだけれどね」
ネコヤマは軽く肩を竦め、ぼくは先日までの稽古を振り返る。
…そうか。稽古していて抱いた違和感の正体は、これだったんだ…!
アブクマの仕上がりは順調だった。にも関わらず不安を覚えたのは、彼が試しにスタイルを守り重視にシフトさせて行くの
に、何となく気付いていたからだろう。
アブクマのそれとないスタイル変更過程で圧倒的な手強さが徐々に薄れている事を、無意識の内に察していたから…。
「自分に呆れるよ…。日々一緒に稽古しているぼくこそが、もっと早くに気付いて、忠告してやるべきだったのに…」
「仕方がないよ。はっきりとおかしくなったのは今日の試合からだ。稽古中はそうでもなかったからね」
ネコヤマはそう言ってぼくをフォローすると、再び軽く肩を竦めた。
「彼の勝負勘の良さは、その性質上、後の先を取ったり、攻めたりする中でこそ発揮され…」
山猫は唐突に言葉を切り、ぼくも耳をそばだてた。
「…で当たるの、星陵ってトコの選手だっけ?」
「あ〜。去年の中体連全国二位な」
廊下を歩いて来る、すらっと背の高いジャージ姿のカモシカと、かなり幅のある柔道着姿のカバが、そんな言葉を交わして
いた。
…カバの方は無差別級の選手…、アブクマの次の相手だ…。
「正直拍子抜けしたな。見たろ?あの腑抜けた試合。敵じゃないね」
低く笑うカバに、カモシカは含み笑いを返す。
「噂ほどじゃ無かったって?…まぁ、おれでも勝てそうだったけれどさ」
「全国二位もまぐれじゃね?ま、さくっと勝たせて貰おうかね」
二人がぼくらから少し離れた所を歩き過ぎて行き、十分に離れると、
「…知らないというのは幸せだね。いや、むしろ不幸かな?あの調子で侮って、開始早々無様な負け方をしなければいいけれ
ど…」
ネコヤマは口元を少しだけ緩め、クスクスと笑う。
「…あの選手、試合を見るに決して弱くはないが、ウチのオカザキよりは下だろう。いつものスタイルに戻ったアブクマ君相
手に、一体何秒保つかな」
「そうかな?ぼくには相当強そうに見えるけれど…」
「キミの後輩はもっと強いよ。彼がその気にさえなっていれば、秒殺だろうね」
自信ありげなネコヤマの言葉は、ぼくの不安を晴らすには十分な程、確信に満ちたものだった。
…それから三十分ほど後、ネコヤマの予言は的中した。
吹っ切れたかのようにスッキリした表情になったアブクマは、気合い満タンで試合場に向かい、150キロを軽く越える大
きなカバを、見事な一本背負いで投げ飛ばしてのけた。
意気揚々と帰って来るアブクマとは対称的に、開始から10秒程度で投げ飛ばされたカバは、「話が違う…!」とでも言い
たそうに、半泣きですごすごと引き上げて行った…。
普段のスタイルに戻ったアブクマは、打って変わって動きが良くなっていたから、本人にその気はなくとも、相手にすれば
騙されたような気分だろうなぁ…。
『無差別級優勝、星陵ヶ丘高校、阿武隈沙月君』
「うっす!」
大きな声で返事をしたアブクマは、大きな拍手の中、表彰状と盾を受け取った。
堂々としていて、とても凛々しい…。
県大会優勝という偉業を成し遂げた後輩の姿を眺めているぼくは、誇らしさで胸が一杯になって、泣きたくなった…。
カメラを回しているぼくの傍らでは、理事長が穏やかに微笑みながら拍手をしている。
…地区大会優勝のトロフィーは、間に合わせの棚を置いて飾っていたけれど、今度は立派な盾だ。並んで飾れるように、き
ちんとした棚を用意しないとな…。
「帰ったら、もう一つ額縁を用意しなくちゃいけませんねぇ」
「棚も買って来なくちゃいけませんね。あの立派な盾に見合う、立派なヤツを探さなくちゃ」
のんびりとした口調で理事長が言い、上機嫌のぼくは笑顔で頷く。
階級が別のネコヤマも、準決勝でこそ珍しく苦戦したものの、優勝候補だった豚を何とかくだして全国行きを決めた。
こちらは無表情で表彰状を受け取っていたけれど…、きっと彼の事だ、全国での試合を前にして、心は静かに燃えている事
だろう。
表彰式を終え、壁際で待っていたぼくらの所へ戻ってきたアブクマは、ニカッと歯を剥いて笑っていた。
どことなく恥ずかしそうだったけれど、その笑顔はとても魅力的だった。
「心配かけちまったけど、なんとか全国行きの切符、もぎ取れたっすよ」
頷いたぼくと理事長に祝福され、アブクマは耳を伏せて苦笑いする。
「ぬははっ!照れくせぇなぁ…!」
「照れないで威張って良いよ。それと…、ほら」
ぼくはある番号を呼び出しておいた自分の携帯を、アブクマの眼前に上げた。
「急いで報告してやらなくちゃ。な?」
一瞬きょとんとしたアブクマは、苦笑いを深くすると、礼を言ってぼくの携帯を受け取る。
番号を呼び出しておいた携帯は、アブクマの太い指がボタンを押すと、今日は応援に来られなかった仲間の元へと電波を飛
ばした。
「…いや違う、俺だよ!ぬははっ!今、閉会式終わったばっかでな、主将の携帯借りてんだ!…で、具合どうだ?…そっか。
ん、良かった…。え?お〜…、後でかわってくれ、俺からも礼言っときてぇ。ん?あぁ、そうだった!結果な…」
しばし相手の体調を気遣っていたアブクマは、すぅっと息を吸い込むと、
「次は全国だ!」
握った拳を頭上に突き上げ、首を長くして報告を待っていただろう電話の向こうのイヌイに、大声で告げた。
そう、次は全国!
今度はイヌイと一緒に、大舞台に立つ後輩を応援するんだ!