第十四話 「戦い済んで」

「凄いなぁ。こんなに詳しく…」

商店街のファーストフード店。その奥まった席でイヌイから手渡された資料を一通り見たぼくは、その細かさに驚いた。

全国出場者の一覧…、簡単な戦績までが抑えられている。

しかも、ウチと関係のある獣人男子の無差別級だけじゃない。獣人と人間、女子まで含めて各階級が全て網羅されている!

「実際に見に行くんですし、どうせなら、当日観戦して気になった選手の、地元での戦績調べに使えるようにと思って…」

とは製作者の弁。この辺りはセンス以上に性格が出る部分だろう。…結構凝り性だなぁイヌイ。

「ウチの部でもここまで綺麗には纏まっていない。我が部の顧問よりセンスが良いね」

ぼくの隣でも、固太りしたモサモサの黒い山猫が、資料を仔細に検分しながら頷く。

「実際には、昨日取りかかった訳じゃ無いんです。翌日からすぐ情報収集を始めていましたから」

ネコヤマにまで褒められて照れたように笑うイヌイは、尻尾を揺らしながら謙遜した。

いやいやいやそれでも早いよ。他にもやる事があったし、病み上がりで無理しないようにとアブクマの監視もあったはずだ

し、ここまで纏められるのは十分凄い!

かく言うぼくも半端に纏めてはいたんだけれど…、仮作成品を見たシンイチが…、

「まぁ…、アリ…じゃない…か…?…うむっ!見てくれが悪くとも中身が判れば問題無かろう、この手の資料は!」

…と、フォローになっていないフォローを入れるような代物だったりする…。

我ながらグラフや表を作るセンスが無い。

春の勧誘で部員が集まらなかったのは、ぼくの呼び込みチラシが悪かった訳じゃないと思いたいんだが…。

今は新聞部のゴタゴタで忙しいだろうけれど、この手の事には詳しいだろうヨギシやシンジョウにでも、一度ご教授願えな

いかなぁ…。

「こういう表とかパソコンで作んの、難しいのかキイチ?」

資料を片手にコーラをジルルルッと啜っていた大きな熊が、唐突に口を開いて傍らのイヌイに問いかける。

「慣れればそうでもないと思うよ?」

「そっか。んじゃ今度作り方教えてくれよ」

「いいけど、どういう事に使うの?」

「ん〜…、コレってのはねぇんだけど、便利そうだなぁって…」

アブクマは苦笑いしつつスパイシーチリドックを豪快にガブリ。

寮に帰れば普通に夕食を摂るんだろうに、この時間にセット二人前オーダーするのはどうかと思う。

…山場も一つ越えてイヌイのお許しが出たら、途端にこれだもんなぁ…。

県大会を終えて数日が経った今日、ぼくらは稽古無しだったネコヤマを誘って、互いの健闘を称えあっていた。

実は、この会合の言いだしっぺはイヌイだ。

ぼくらだけでなくネコヤマにも渡したい物があるからとの事だったんだが、この手の込んだ資料の事だったんだな…。

万年弱者の星陵柔道部ではアブクマの全国大会進出は驚くべき偉業なんだが、強豪校の陽明とて、ネコヤマの全国進出は群

を抜いて素晴らしい戦果だ。

…もっとも、フィッシュバーガーをモソモソと食す本人はいつも通りに表情が乏しくて、嬉しいんだかどうだかすこぶる判

り辛いんだけれど…。

そんなとりとめもない思考を遮ったのは、電話の呼び出し音だった。しかもジリリリリンというアレ。

「…ちょっとごめん」

ネコヤマが携帯を取り出してスライドさせると、レトロな呼び出し音が途切れた。

…着メロが黒電話か…。シンイチの「ピンポーン…」と良い勝負のセンスをしているな…。

ぼくが何となく親近感を覚えている間にも、ネコヤマは電話相手と話を続けている。

…が、何というかこう…、素っ気ない。元々愛想の良い方じゃないけれども…。

「ん?今?モフバーガー。…いや、星陵側。…うん。うん。…判った。それじゃ後で」

短い通話を終えて携帯を仕舞ったネコヤマに、イヌイが訊ねる。

「ご用事ですか?誰かから呼ばれたとか…」

「いいや、「今夜暇か?」と訊かれただけで、すぐどうこうという事でもないから」

『今夜?』

ぼくとイヌイとアブクマの声が、綺麗にハモった。

「うん。夕飯、一緒に食いに行かないかって誘われた」

「へぇ、友達からのお誘い?」

「うん」

頷くネコヤマの前で、ぼくは少しばかり意外に思っていた。

…ネコヤマの友達…。

いや、友人は居なそうだとか失礼な事を思っていた訳じゃない。本当に。

けれど、ネコヤマの友達ってどういうひとなのか、ちょっと想像し辛いなぁ…。

「…ってアレ?実家暮らしでも外食?家族と一緒じゃないのかい?」

ふと不思議に思って尋ねたぼくに、

「ウチは両親共働きだから。店を開けている日は夜中まで帰って来ないよ。だから殆どは自炊か、どこかで外食だね。小学校

中学年ぐらいからはずっとそうだった」

と、ネコヤマは家庭の事情を少し話してくれた。…またもやちょっと親近感。

「「どこかで外食」って…、ダチ連れて親御さんの店に食いに行かねぇんすか?」

「…ん…、仕事の邪魔になるから。それに友人を連れて行くのも何だか…」

大熊に問われた山猫は、珍しく口ごもった。

…それは…、何となく判るような気がする…。気まずいような恥かしいような感じかな?

見回せば、イヌイやアブクマも何となく察したようで、たぶん同じ事を感じていると認めたぼくらは揃って苦笑いした。

「…何?」

ネコヤマ本人は胡乱げな顔をしているが、ぼくらはそれがまた少し可笑しかったんだ。

だって、無表情で無気力そうで何があっても動じそうにないネコヤマが、自分の親のお店へ友達を連れて行くのは恥ずかし

いだなんて…!

何だかすごく普通で、異常にしっかりしてるようでも中身はぼくらと同じなんだなぁって改めて感じたから。

「…何?オレ、何か妙な事を言ったのかな?」

ネコヤマは不思議そうに呟きながら、ちょっと居心地悪そうに耳をぴくぴくさせる。

「妙な事なんてないよネコヤマ」

ぼくは笑いながら応じて手元の資料に視線を向ける。

開いてあった、そう遠くない内にアブクマが挑む無差別級のページを何気なく眺めた後、ぼくは見慣れない名前がある事に

気付いて目を止めた。

「…ん?」

視線を真っ直ぐに向け、改めてじっくりと資料を見つめる。

埼魂の無差別級制覇者は、まるっきり覚えの無い名前だった。…獣人の部無差別級については、昨年までの県大会資料はず

いぶんチェックしてきたし、今年の県大会進出者もずいぶん名前を覚えたのに、チェックしていなかった名前が載っている。

多くの地区では、年数の有利もあってぼくと同学年である三年生が勝ち上がっている。だから覚えのある選手の名前も多い。

けれど、他の地区は殆どの名前に見覚えがあるのに、埼魂の選手だけ名前を知らない。この選手も三年生なのに、だ。

「ネコヤマ、この…、埼魂代表選手の名前に覚えはあるかい?」

「いや、全く」

黒い山猫は首を左右に振るが、ぼくの表情を窺うように目を細くしていた。

「やはりキミも、その選手が気になるかい?」

どうやら同じく目に止まっていたらしいネコヤマの問いに、ぼくは小さく頷く。

それまで無名で、三年生になってから急に頭角をあらわす…。

有り得ない事じゃない。遅咲きの名選手というのは、頻繁ではないにしても時折現れる。

原因は色々だけれど、例えば名門校での先輩後輩の関係。

一年二年と、実力者の先輩の陰に隠れて活躍できず、上級生になってから日の目を見る地力のある選手…。たぶんこのケー

スが大半を占めるだろう。

他にあるのは…、急進化だろうか?

顧問などが変わって、真の理解者を得てスタイルや技術に革新がもたらされ、一年で別人のように強くなる選手も時には存

在する。

件の選手の学校は、遠慮せず言わせて貰うと、決して強豪校じゃない。

むしろ柔道に関しては無名だろう。ぼくが知らないぐらいだから…。

「判んねぇ時はあれっすよ。シンジョウにでも頼んで、新聞部の資料借りてみるとかよ」

アブクマの提案は、確かに現実的なんだけれど…、ぼくはちょっとばかり迷った。

彼女は今、かなり忙しいはずだから。

シンジョウさんと同じく、今の体制を良く思っていない新聞部の三年生…、知り合いでもあるヨギシを紹介したのは、本当

に正しかっただろうか?

相当悩んでいるようだったから勧めてしまったけれど、あれで本当に良かったのか…?

「主将?どうしました?」

イヌイに声を掛けられたぼくは、「つくづく良くできてるって感心していたのさ」と誤魔化しつつ、自分の行動が軽率でな

かったかどうか、悩み始めていた…。

「ところで…、ネコヤマ先輩の方はどうなんすか?名簿見て気になる選手とかは」

アブクマの問いに、もっさりした黒猫は資料を眺めつつ「気になる選手だらけだね」と応じる。

「そんでもほら、前々からマークしてたり、気になってたりした選手とかは居ねぇすか?」

目の肥えているネコヤマの見解が気になるらしく、アブクマは興味深そうに身を乗り出して繰り返す。

「強いて挙げるなら…、「道北の若虎」尾嶋勇哉」

おや、聞いた名が出た。アブクマと同郷、同じ中学の一つ上だったな。

「オジマ先輩かよ…」

知らない相手の名が出る事でも期待していたのか、アブクマは苦笑いする。

「先だって名前を聞いていた事もあるし、アブクマ君と同門という事もあるし、特に気になる選手だ」

「同門っつったって、俺ぁ別に道場とか通ってた訳でもねぇし、学校で一緒にやって同じ顧問から習ったってだけだぜ?」

「同じ道場で稽古する事だけを同門と呼ぶ訳じゃないさ。キミもオジマ選手も、同じ木田利恵(きだとしえ)先生の教え子だ」

ああ、中学時代のアブクマの先生か。…って、あれ?

「ネコヤマ。君、アブクマの先生の事を知ってるのかい?」

問いかけたぼくを、もっさり山猫は少しばかり不思議そうな顔で見つめた。

「知らなかったのかい?膝の故障で一線を退いたが、元国体選手じゃないか」

「…へ、へぇ…。そうだったんだ?女子柔道には詳しく無いから、よく判らなかったよ…。アブクマを投げたって聞いてたか

ら、只者じゃあないとは思ってたけど…」

…実はゴリラみたいな女性を想像していたぼくが頭を掻きながら呟くと、アブクマは腹を揺すって豪快に笑った。

「ぬははははっ!何度も思うけど、あん時ぶん投げられてなけりゃ、俺ぁ柔道やってなかったんだよなぁ!」

「そういえば、サツキ君得意の大腰って、その時キダ先生にかけられた投げなんだよね?」

イヌイが思い出したように訊ねると、大きな熊は「だな」と頷き、苦笑いしながら頬をポリポリと掻く。

「考えてもみてくれよ。俺の図体が、いくら大人ったってその半分もねぇ女にぶん投げられたんだぜ?そりゃあ衝撃だった。

…でまぁ、一番最初に刷り込まれたっつぅか、焼き付けられたっつぅか…、そんな訳でまず大腰を覚えた」

しばし黙ってコーラを飲みつつ聞いていたネコヤマは、咥えていたストローを離して口を開く。

「たぶん、超重量級のアブクマ君相手だと、体格差もあり過ぎるから、大腰で投げるのが理にかなっていたんだろう。腰の上

で支えるからなんとか可能だったんだ。…確か、現役時代の得意技は大外刈りだったはずだし。アブクマ君を柔道部に入れる

デモンストレーションとしては、転がすような投げじゃインパクトに欠けるから、あえて大きく投げられる物をチョイスした

んだろうね」

…あ。当時の状況はぼくも聞いているけれど、そこまでは考えなかったなぁ…。流石ネコヤマ。

柔道の話が出たのをきっかけに、ぼくらの話はおおよそそちら側にシフトした。

気になる選手の存在については、一時忘れてしまったけれど…、その間も、ぼくの頭の片隅には、ふと思い出した後輩の女

子の顔が浮かんでいた…。



「シンジョウの事は、間違っとらん」

明快な、…というよりも、あまり考えもせずに即答した大牛を、ぼくは傍らから見上げた。

「本当にそう思うかい?」

「うむ!」

シンイチは自信たっぷりに頷いた。沸騰した湯の中で泡だらけになっているラーメンを入念にほぐしながら。

点呼も終わり、夜食作りを始めたルームメイトに事の次第を話したのは、意見を聞きたいというのもあったけれど…、たぶ

ん、誰かに間違っていないと言って欲しかったっていうのもある…。

けれど、ろくに考えもせずにこう言われても、いまいち納得できないというか、安心に足らないというか…。

丼に移したラーメンにかけられたスープが、醤油の良い香りをぶわっと上げる。

シンイチの体がやたらとでかいのは、寝る前でもバクバク食うからなんだろう。

ハムと生卵を具にしたラーメンをリビングに運ぶシンイチに続いて、ぼくも居間に戻る。

なお、ぼくは腹も減っていないから、冷やしたお茶を飲むだけ。

「県大会前辺りからヨギシに同行して相撲部の取材に顔を出しとるとは聞いとったが…、そういう事情だったのか」

「うん。…シンジョウさん、順調に行けば部内でも良いポジションに付けたはずだろう?シゲのインタビューも担当している

し、気難しいヒョウノ君にも気に入られている。一年生とはいえ、新聞部内でも期待株に足り得るはずだ。なのに…」

そう、ぼくが入れ知恵をしたせいで、彼女は恐らくそのポジションを捨てる事になる。

ヨギシが何をするつもりなのか具体的には知らないけれど、シンジョウさんを通して聞いた「革命」という言葉からは、穏

やかな行動方針は連想できない。

「サトルが柔道について誇りを持っとるように、シンジョウもまた、新聞…あるいは報道という物について誇りを持っとる」

つまみ上げた麺をふぅふぅ冷ましながら、大牛は唐突に言う。

「納得できん物は納得できん。そういう性格だろうあの女子は?納得できなければ、恵まれたポジションであろうが躊躇無く

椅子を蹴るだろう」

シンジョウさんに対するシンイチの評価は、大概の場合非常に高い。曰く、「骨がある一年生」だそうだ。

…女子への評価としてはどうなんだろう?その表現…。

「そう言えば、シンジョウの事はジュウタロウのヤツも気に入っとる。いや、相撲部全体が女性記者に熱を上げとるような状

態らしいが…」

シンイチはゾルルッと勢い良く麺を啜り、「あぢっ!」と吐き出す。

「うわ!汚いなぁ!」

「済まん。熱かった」

耳を伏せて苦笑いしながら謝るシンイチを見て、ぼくは気付いた。

シンイチは、ちゃんと真面目に考えている。

麺が熱いにもかかわらずうっかりズルルッといったのは、考え事に気が行っているからだ。

「まぁとにかくだ…。サトルは間違っとらん。あの骨のある女子が主義に反する体制の中でぬるま湯に浸っとるとも考え辛い。

我慢ならんようになって独走し始めるより前に、一緒に走ってくれそうなヤツと会えたのは良い事だ。サトルがヨギシを紹介

したのは、その意味でも正しいと思っとる」

シンイチは麺を冷まし冷ましそう言って、ぼくの気分を軽くしてくれた。

単純愚直の単細胞で空気が読めないシンイチは、こう見えて頭が良い。

正直に言うと、ぼくが成績で勝っていたのは一年生の前半だけ。

シンイチが授業をサボらなくなってからは、どの科目も一度も勝てていない。

遅れを取り戻す最初の頃こそはぼくが教える側だったけれど、今じゃテスト前にはシンイチに復習を手伝って貰っているぐ

らいだ。

ぼくを柔道に打ち込ませる為にも、教えられるぐらいに勉強ができないと…。と、一念発起したそうで…。

そんなシンイチの言葉はただの慰めじゃなく、きちんと理論立っていて、ぼくを元気付けてくれた。

「シンジョウは、大丈夫だ」

「うん」

繰り返すシンイチに、ぼくは頷く。

「もしも苦しいようなら、ワシらも協力してやろう」

「うん…」

ぼくから何も言わなくても、力になってあげると宣言してくれたシンイチに、ぼくは微笑みかけた。

「こういう時は、どっしり落ち着いていて本当に頼りになるな、シンイチは。男前だよ」

ぼくが褒めた次の瞬間、シンイチはブバッとラーメンを吹き出した。

「うぎゃーっ!何してるんだよ汚いなぁ!」

「げふぁっ!がほっ!す、すす済まん!急に…ごっふ!男前などと持ち上げるから…!」

噎せ返るシンイチが大慌てで布巾を手に取り、ビックリして身を引いていたぼくは、被害を受けていないか衣類をチェック

する。

シンイチが机を拭いている間に、床の無事も確認しようと机の下を覗き込んでいると、ドアがノックされた。

「あ、開いてるよ」

顔を上げたぼくが声をかけると、ドアが控え目に開いてクリーム色の猫が顔を出す。

「あ…。お取り込み中でしたか?」

「いや平気。ちょっとウシオがやらかしただけだから」

噎せながらテーブルを拭いている大牛に目を遣れば、イヌイを見るなり理解の色を顔に浮かべている。

「ウシオに用事なのかい?」

ぼくが問うと、イヌイより早くシンイチが「うむ」と応じた。

「先日少しマッサージについて話をしてな。教えて欲しいと言われとったのだ」

「僕でも出来るとお聞きしたので、早速レクチャーして貰えないかと思ったんですけど…。やっぱり、出直しますね」

すすすっとバックでドアの向こうへ引っ込んで行くイヌイを、ぼくはちょっと可笑しくなりながら引き留めた。

「まあまあ、構わないよイヌイ。入っておいで」

手招きしてイヌイを室内に迎え入れたぼくは、隣に来るよう促す。

遠慮がちに入ってきたイヌイは、ちょこんと座ってきちっと正座した。

どうやらイヌイは、県大会に同行できなかった事を、ぼくらが思っている以上に申し訳なく感じているようだ。

あの手の込んだ資料の事といい、頑張り方から判るよ。

次は全国というさらなる大舞台に立つアブクマの力になってやりたいんだろうし、マッサージ等について覚えたいって思う

イヌイの気持ちは理解できる。

何せぼくだって、無力さを噛みしめながらここまで来たんだから…。

「しかし健気だなぁ。こんなに尽くしてくれる恋人が居て、幸せ者だねアブクマは」

シンイチが急いでラーメンをハフハフズルズルやっている内に、ぼくはイヌイが暇しないよう話しかけた。

「実際にはサツキ君の方が尽くすタイプなんですけどね…。洗濯から掃除から、いつの間にかささっと済ませちゃうし…」

イヌイは小さな体を縮めて応じる。

アブクマは確かに働き者だが…、同室のイヌイからすると心苦しいのかもしれない。

「主将と団長はどうなんですか?係を決めてやったりしているんでしょうか?」

「うん?ぼくらは家事の率トントンくらいかな?掃除なんかする時は声をかけあって一緒にやるし…。けどまぁ、どっちかと

いうとウシオの方が働き者かもしれない」

「だがイワクニの方が何をやるにも丁寧だ。やはり家業が家業だからだろうな」

シンイチが唐突に口を挟んだ。見ればいつの間にかどんぶりを空にして、布巾で口元を拭っている。

「さて、ウシオの手も空いたことだし、ぼくは邪魔にならないよう、シゲにでもちょっかいかけて来るよ」

「待てイワクニ」

立ち上がりかけたぼくを、シンイチが即座に呼び止める。

「レクチャーには実験台が居た方が都合が良い。付き合って貰おう。まずはちょっとそこに寝そべってくれ」

「真顔で何言ってんのウシオ!?悪い冗談だよ」

「む?いや本当だ。実演して見せるにも、イヌイの背中をマッサージしながら「よく見ておけ」などと言うのも酷だろう?」

言われてみればそうだが…。しかしマッサージされている所を誰かに見られるというのもちょっと恥ずかしいじゃないか!?

大柄な牛は手をわきわきさせながらイヌイに目を遣り、

「という事で、イワクニも快く引き受けてくれた事だ。実演しながら教えて行こう」

と、何となく偉そうな態度で大きく頷く。…何で得意げなのシンイチ?

「待てウシオ。快く引き受けた覚えは…」

「はい!よろしくお願いします。団長、主将!」

そんなシンイチに対し、クリーム色の小さな猫が生真面目に、そして元気に返事をする。おまけにぼくにも頭を下げる。

「いや…あのねイヌイ?」

「痛くしないように出来る限り気をつけますけれど…、先に謝っておきます。ごめんなさい!」

これから何するつもりなのこの子!?

「ではイワクニ、そこになおれ」

「何かおかしくないかその台詞!?」

「それと上は裸に」

「何故!?」

「その方が揉む箇所の説明をし易いからだ。…け、決して下心は無いぞっ!?」

「言及されると余計疑わしくなるっ!」

逃げたくて仕方がないぼくが退室の言い訳を考えている間にも、でかい牛と小さい猫は、さながら獲物との距離を慎重に縮

める狩人のごとく、じりじりと迫って来た…。



翌日、実験台として背中から太ももから腕から肩から散々揉まれたぼくは、朝から夕方まで体中が痛かった。

不慣れなイヌイのマッサージによる揉み返しが原因なのははっきりしていた。が、彼のやる気に水をさすのも躊躇われたの

で、黙って我慢したけれど…。

前夜の「こうですか!?」「気持ちソフトに!」「こうでしょうか!?」「もう少し愛を込めて!」という、イヌイとシン

イチの声は、いつまでもぼくの耳に残っていた…。



それから十日ほど経ってからの事だ。

ぼくが心配していた当の本人、渦中のシンジョウさんは、忙しいはずなのに柔道場に来てくれた。

イヌイに訊かれたとの事で、ぼくが気にしていた、聞いた事のないあの選手の事を調べてくれたそうだ。

その件で、驚くような事が判ったから、どうしても伝えたい事があるとかで…。

「どう言っていいか、私にも判断がつかないんですけれど…」

そう切り出した彼女が、車座になったぼくとアブクマ、イヌイの間にそっと押して寄越したのは、昨年のインターハイ資料

だった。

「どういう事だい?見落としていただけで、やっぱり上位に食い込んでいる選手だったとか?」

驚きながらも資料を手に取り、左右のアブクマとイヌイにも見えるようにして畳に広げ、「えぇと柔道柔道…」と呟きなが

らページを捲ったぼくは、シンジョウさんに「そこじゃないんです」と、困ったような声で止められた。

「「そこじゃない」?一体どういう…」

「柔道じゃないんです。私がその名前を見つけたのは…、空手の方で…」

『は!?』

一斉にシンジョウさんを見たぼくら三人の声が、見事にハモった。

「同姓同名です。ユリカが「聞き覚えあるかも」って言い出して…、それで、ヒョウノ先輩や引退した男子の三年生に訊いて

みたんですけれど…」

ヒョウノ君?三年生?え?って、空手!?

ぼくはバララッと急いでページを捲って、空手の結果資料を開く。

「男子の…、そうです、獣人の部。そこのページの一番上…」

シンジョウさんに示されたそこには、確かに昨日見た四文字…。

「どういうこった?こりゃあ…」

「今年の資料…、空手の全国出場者の名前が、間違って柔道の所に入っちゃったとか…?」

アブクマとイヌイが顔を見合わせ、シンジョウさんが「それは無いわ」ときっぱり否定する。

「私もイヌイ君と同じ疑いを持って調べてみたけれど、今年の全国進出者の名簿は間違っていないわ。祭玉の大会結果やトー

ナメント表にも同じ名前があるもの。けれど…」

シンジョウさんは言葉を切り、ぼくらは揃って首を捻る。

去年は空手で今年は柔道?これって、どういう事だ?

「その選手、空手でも無名だったそうです。去年突然現れて、今年は地区予選にすら名前が無かったとか…」

…え…?えぇ…!?

「…たまたま同じ名前なだけで、別人だとか…、か?」

大きな熊が丸太のような腕を組み、心底不思議そうに首を捻って呟く。…同姓同名の別人?

「学校まで同じじゃなかったら、私もそう断言するところなんだけれど…」

シンジョウさんの呟きを聞いたアブクマは、「う〜ん…」と唸り、指先で頬をポリポリと掻いた。

同じ学校で同姓同名…、しかも獣人…、ここまで揃っていて別人だなんて事、あるだろうか?

困惑するぼくらに、別の冊子を取り出したシンジョウさんは、さらに驚くべき事を告げた。

「それだけじゃありません。こっちは一昨年の資料ですけれど…、剣道競技でも同じ名前の人物が全国制覇しています。…ヨ

ギシ先輩が気付いて教えてくれたんですけれど…」

「ちょ、ちょっと待ってよシンジョウさん!」

慌てたようにイヌイが口を開く。

「あの…、柔道の選手だよ?」

「そのはずよねぇ…。けれど、同姓同名同校でこれだけ出揃うと…」

シンジョウさんも困ったような顔をして、眼鏡の中央を指で押して位置を直す。

「これ、そうそうある名前じゃないよね…?でも、本当に同一人物なのかな…?」

「そっか?もしかしたらそんな名字の家が結構あんじゃねぇのか?そっちの方」

「そう言えば御伽話とかに出て来なかったかしら?こんな名字…。えぇと…、何とか武者の何とか退治?はっきり覚えていな

いけれど…」

「あぁ、そう言えば祭玉だったかな?獣武者の鬼退治伝説って。…そう考えると地域に多い名字なのかも?」

博識なイヌイがそう言ったら、アブクマの「結構ある名字説」が少しばかり信憑性を帯びてきた。だが…。

「でも…、名字はともかく、名前と学校まで一緒っていうのはどうなんでしょう?」

イヌイが呟き、ぼくらは揃って首を捻る。

そう。結構多い名字だったとしても、結局そこに行き着くと別人とは考え辛くなる…。

空手に剣道、そして柔道。一人で三種目も好成績をおさめるなんてまず無理だから、別人だと考えるのが普通なのか…。

それとも…、たまたま同姓同名の身体能力に恵まれた別人が同じ学校に三人居てそれぞれの競技で好成績をおさめられるの

は不自然。そう考えて同一人物だとするのが普通なのか…。

「でも、私個人としては別人…、少なくとも二人以上かもしれないと思っています」

「何でだ?」

控え目な調子で言ったシンジョウさんに、アブクマが問う。余りにも理解し辛い事になって来たせいか、早く誰かに回答を

出して欲しそうな顔つきだ。

「一年生で剣道。二年生で空手。三年生で柔道。…今年の柔道はまだ全国進出が決まっただけの状況だけれど、全く異なる二

種目で全国制覇したスーパー高校生を、マスコミが放っておくと思う?一種目を長くやらなかったにしろ、このとんでもない

偉業を成し遂げている割には余りにも知名度が低いわ。それこそ不自然な程に…」

…言われてみればそうだ…。

判断がつかないまま、しかしあまりにも興味深くて、それからもああだこうだと四人で意見を出し合っていると、シンジョ

ウさんが「あ、済みません…」と断りを入れて、ポケットに手を入れた。

どうやら携帯に着信があったらしい。わざわざ立ち上がって壁際に寄りつつ、彼女は電話を受ける。

「なぁ主将。その選手の試合、どんな内容か解んねぇかな?」

同階級である以上、全国で当たる可能性もある。

当然実力の程が気になっているんだろうアブクマは、小声で電話しているシンジョウさんの邪魔にならないようにか、声を

潜めつつ少し身を乗り出して訊ねて来た。

「何処かで映像が見られればだけれど…、ネットにアップされるのは…」

ぼくは軽くかぶりを振った。

ただでさえそう多くない高校柔道の地方試合の動画は、大概が人間の部の物だ。

全国の試合ですらトーナメント上位しかアップされないのに、地方大会、それも獣人の部となったら期待できないだろう…。

学校のホームページにあった部活紹介にアクセスしてみたけれど、動画は勿論、顔写真も無かった。…そもそも柔道部なん

て参加大会の履歴程度しか載ってなかったんだけど…。

写真はまぁ、県大会の結果ページに表彰式のカットがあったから顔だけは解ったが…。

「大会参加校が録画しているだろうけれど、祭玉には親しい選手は勿論、知り合いすら居ないしな…。無関係な学校に頼んで

も、いわばぼくらは祭玉代表から見れば敵だ。当たるかもしれない相手に情報をくれるとは思えな…」

「嘘!?冗談ですよねヨギシ先輩!?」

シンジョウさんの驚いた声が響き、ぼくは言葉を切った。

「ええ、ええ、…それじゃあ…、本当…に…?」

呆然とした表情でこっちを見たシンジョウさんは、

「あ、いえ…、そこまでは良いです。自分でやります。有り難う御座いました…」

電話を終えると、一体どんな内容だったのか、珍しく呆然とした顔でこっちに戻って来て、「ますます判らなくなって来ま

した…」と呟いた。

「何がだい?いや、それはそれとして何か用事ができたならぼくらに構わず行っておくれ。ヨギシ達も君もただでさえ忙しい

んだから…」

「いいえ大丈夫です。私の用事とかじゃないので…。実は今の電話、そのヨギシ先輩からだったんですが…。先輩にも前に尋

ねていたんですよ。ユリカがまだ思い出す前に。先輩も、何度かそういう名前を見たかも…って言っていたから…」

彼女は一度言葉を切ると、軽く首を捻った。

「その名前を、別の事を調べている最中に見つけたっていう電話だったんです…。一昨年の資料の中で…」

「一昨年って、この資料?」

「剣道で全国制覇の?」

ぼくとイヌイが若干混乱しながら口々に言うと、ただ一人落ち着き払っていた…というよりも、考えたり悩んだりするのを

やめたのか、普段と変わらない様子のアブクマが口を開いた。

「んで、新人戦はどの種目にその名前があったんだ?」

その言葉で、ぼくとイヌイは凍り付いた。

「弓道よ。一昨年の秋。新人大会で優勝しているわ」

シンジョウさんがそう答えると、アブクマは「うお…」と、ちょっと驚いたように目を丸くした。

「半分冗談で訊いたのによ、本当にまた別種目かぁ」

「後で私も確認してみるけれど、あの先輩が見間違いなんてするとは思えないし…、確かな事と考えて良いでしょうね」

「ここまで来るとよぉ、もうアレだよなぁ…。同じヤツって事で良いだろ?」

考えるのが面倒になった…というよりは、その方が面白いと思っているのか、アブクマはニカニカ笑いながら言う。

剣道に空手に弓道に柔道…。何だか組み打ち含めた合戦の総合技術みたいな組み合わせだ…。複数の別人なのか?それとも

やっぱり同一人物なのか?

ここまで調べがついたからには、じきにはっきりするだろうけれど…。やっぱり気になるなぁ…。