第十六話 「穏やかな日々が」

もうじき日が落ちる、夕方と夜の境界に吹く風も、今日は少し湿っぽくてあまり涼しくない。冷房が効いたブックストア兼

レンタルビデオショップから出た途端に、じわっと肌に汗が滲んだ。

…風に混じって潮の香りがする…。林間学校、降らなきゃ良いんだけれど…。

「しかし、蒸すなぁ…」

ぼくに続いて自動ドアをくぐった大柄な牛は、ティーシャツの襟元を掴んでばたばた扇ぎ、胸元に風を入れる。

「うん。熱帯夜になりそうだな、今日は」

応じた僕もティーシャツの短い袖を指でつまみ、肌から離した。湿気があるせいで少量の汗もなかなか乾かない。

ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生。第二男子寮の寮監であり、柔道部の居残り主将。

期末試験を昨日終え、現在はルームメイトであり恋人でもあるシンイチとプチデート中。

それぞれ部活を終えて帰ってくるなり、そろっていそいそと出かけたぼくらは、まずDVDの返却にやって来た。…デロレ

ンの…。

…まぁ、せっかくだから続きも借りたんだけれど…。

ついでに漫画雑誌やコミックもひやかしていたんだけれど…、二人そろって空腹に耐えかねて、そのひやかしも半端に打ち

切って出てきた所だったりする。

特に何処で食べようと決めていた訳じゃないんだけれど、ハンニバルまでは距離がある。

空きっ腹をかかえたぼくらの足は、申し合わせたように目先のモフバーガーに向かっていた。



「夕食時はさすがに混み合うな」

注文を終えて奥の席に陣取るなり、シンイチは先渡しされたコーラにさっそく口を付けながら呟いた。

他の品もできあがり次第テーブルに運ばれて来るんだが、ぼくも待ちきれずにオレンジジュースを啜る。

ぼくらが着いているのは二人用の小さいテーブルだ。席がいっぱいだったから仕方ないんだけれど、向き合って座ったシン

イチは尻が椅子から少しはみ出て窮屈そうで、ぼくは思わず笑ってしまう。

「星陵の生徒も何人か居るな」

「うむ。見知った顔がちらほらと…、ややっ?あれは…」

突然眉間に深い皺を刻んで、目を凝らすシンイチ。その視線を追えば、確かにぼくらの見知った顔…。黄色と黒の縞模様が

あるがっちりめの体格を、ワイシャツと制服のズボンで覆った虎が、四人がけの席についている。

ぼくらと同じ寮に住む二年生、応援団員のマガキだ。

その横には、筋肉質で引き締まった体格の虎とは対照的に、たぷたぷに弛んだ体型の白い豚。

そして二人の向かいの席には、垂れ耳と口元の泥棒ひげのようなカラーリングが印象的な犬獣人。

…彼らは確か…、それぞれ相撲部と卓球部の子だな…。

三人が居るのはレジ近くの席なんだけれど、衝立のせいで死角になっていて、こっちの席に来るまで気付かなかった。

距離が結構あるせいで会話までは聞こえないんだけれど…、何だろう?ちょっと重苦しい雰囲気?

「どうしたんだろう?マガキも隣の子も深刻そうな顔をして…」

「むぅ…。これだけ離れとると、さすがに話は聞こえて来んな…」

ぼくとシンイチは潜めた声でぼそぼそ囁き交わす。聞こえそうで聞こえないから、かえって気になるなぁ…。

「何か悩み事かな?それで相談しているとか…」

ぼくが思いついた事を呟くと、運ばれて来たトレイを受け取りながらシンイチが頷く。

「顔を見るに明るい話題でもなさそうだ。おおかた困り事だろう」

ぼくらは三人の様子を窺いながら、もそもそぱくぱくじゅるじゅると、急いで食事を進めた。

何故って?それはその…、帰り際にあそこを通れば話が聞こえるかなぁって…。

三人の前の食事は全く減っていない。飲み物にしか手をつけていない状況で、重苦しそうな会話はまだ続いている。

黙々と、急いで胃袋にバーガー類を詰め込んだぼくとシンイチは、静かに席を立つ。…急いで詰め込んだせいで食った気が

しないけれど、好奇心の方が先に立った。

目立たないように店内を少し回り込んで、返却台にトレイを戻す。その、ゴミや氷を捨てる作業の中、彼らの声は聞こえて

来た。

「だ、だいじょうぶですよ!タモン君は可愛いですし、スポーツもできるですし…」

「…可愛いって…、メグちゃんもよく言ってくれたんだ…」

店内の軽やかな喧噪に紛れて聞こえる白豚の言葉を、ワンコの陰気な声が遮った。

「…あ、あっちのが背ぇ高いし…、ここ、子供扱いされてるっぽくて、恥ずかしくって、ヤだったけど…!けどっ…!」

……………!?

聞き耳を立てていたぼくとシンイチは、思わず顔を見合わせる。こ、これってもしかして…?

「と、とにかくですね!すぐ新しい彼女が見つかるですよ!」

少し慌てたような白豚の励ましには、しかしワンコのすすり泣きが続く。

「新しっ…かのひょ…なんへ…、いい要りゃにゃひっ…!えひっ…!め、めめメグちゃんがいいっ…!」

顔を覆ったのか、それとも机に突っ伏したのか、ワンコの声が急にくぐもって、白豚が「ふごっ!?」と驚いているような

慌てているような鼻の鳴らし方をした。

…何?雰囲気がとことん重いと思ったら、これってやっぱり破局直後の打ち明け話!?

「…ヤスキ…。お前少し黙ってろ…」

その後も続いた白豚の慰めは功を奏さず、やがてマガキが見かねたように口を挟んだ。

「そそ、そんな…!ぼくはですね、悪気なんかなかったんですよ?ホントですよっ?」

「解ってる。解ってるが黙っとけ。今は」

今は何を言っても逆効果。ぼくにもそんな気がしたけれど、マガキもそう考えたらしい。

白豚を黙らせた彼自身も口をつぐんで、ワンコはそのまま泣くにまかせている。

ぼくとシンイチはじりじりと退去し、こそこそと店を出る。

「ありがとうございましたー!」

という店員の声に、思わず「しーっ!」って応じそうになった…。

「…面白半分にデバガメなんかするもんじゃないね…」

「…うむ…」

ずっしり重くなった空気を背負い込みながら、ぼくとシンイチはせかせかと店先を離れる。

…凄い状況に出くわしちゃった…。



プチデートだというのに気分が重くなったぼくらは、そそくさと店から離れて、気分転換にコンビニに入った。

「そうだ。絆創膏は…」

「いや買ったから。準備はもうすっかり終わってるから」

林間学校の準備を兼ねた外出という構図がしつこく脳みそに居座っているのか、薬を見て気にするシンイチに苦笑いし、ぼ

くは棚の間を抜けながらカップ麺を品定めする。

「あ、新発売だって。キムチ担々麺レッド」

「む…?レッドと書いてあるが…」

「うん。レッドしかないねぇ…」

「レッドまでが名前なのか?バージョンという意味ではなく…」

「そうかも…。食べてみる?」

「いや、ワシはこっちを…、これも新発売だ」

新発売っていうのは魔法のワードだと思う。ぼくもシンイチも新発売表示に弱い。

何の表示もされずに並んでいたら目に止めないような物でも、新発売となればじっくり見たくなるし、美味しそうに見えた

り斬新に見えたりする。

こういうのに反応してしまうのは、やっぱり性格なんだろうか?別に新しい物好きって訳でもないと思うんだけれど…。

そういえばシゲはこういうのに無関心だよな?話してみても理解できずに首なんか傾げたりするし。…まぁ、いろいろ無頓

着だからなアイツは…。

「豚汁うどん?この暑いのによくそんなのを食べる気になるなぁ…」

「む?キムチは良いのか?」

「セーフかな、際どいけれど」

バーガーセットを食べたばかりだけれど、大急ぎで食べていまひとつ食った気がしないのも手伝い、新発売のピンク札に好

奇心を刺激されたぼくらはそれぞれ一個ずつ手に取った。

「今夜試してみようか?」

「うむ」

「じゃあ半分こして両方食べよう」

「何だ?結局サトルも豚汁うどんを食うのか?」

「だって…、進んで食べる気はしなくとも、どんなのだかちょっと気になるし…」

途切れる事無くぼくらの間を行き交う言葉。デートって感じは殆どしないけれど、それでもやっぱり楽しい。

「500円硬貨だ」

会計を済ませたシンイチは、太い指で真新しい硬貨をつまんで見せた。

「6回トライだな!」

親指で弾いて宙に上げた硬貨を顔の前でパシッと掴み、大牛はニヤリと不敵に笑う。

「今日は取れるかな?」

「任せておけ!」

鼻息も荒く、分厚い胸をどんと力強く叩くシンイチ。

無駄に頼もしいぼくの恋人は、しかしこの十数分後…、荷物を増やさずゲームセンターを出る事になった…。



DVDを借り、本をひやかし、外食し、後輩の苦悩を覗き見し、新発売のカップ麺を買い、ゲームセンターで散財し、のん

びりゆっくり歩いて帰る…。

他愛のないぼくらのプチデートは、おおまかにはそんな具合だった。

「いや、腕は上がっているんだぞ?あれでも…」

最後の1トライで人形のタグを掴みながらも、惜しいところで落としてしまったシンイチは、よほど悔しかったのか、衣類

をかごに放り込みながら唸っている。

日課の点呼前、ぼくらは寮の脱衣場で服を脱いでいる。

他の寮生達は夕食直後や点呼が済んだ後、ひとによっては時間ぎりぎりの最後に入ったりもするけれど、ぼくらは見たい番

組でも無い限りは、いつもこの時間の入浴だ。

食後少し間をおいた頃。そして、ゆっくり入浴しても点呼には悠々間に合う時間。点呼という役目を持つ寮監と副寮監には、

この時間帯が丁度良いんだよね。

「いつかプロ級の腕になって見せるからな。期待しておけ」

「…プロ級になるまでにいくら使えばいいんだろう…?先行ってるよ」

苦笑いしながら戸を開けたぼくは、無人の浴場のタイルをひたっと踏む。

湯船から立ち上る熱気と湿気で蒸された浴室の空気が、踏み込んだぼくの肌を汗と水蒸気で湿らせた。

鏡の前で椅子に座り、お湯の温度を調節しながらシャワーで身体を濡らし、洗面器に湯を張る。

鏡の中のぼくは、以前と比べて少し逞しくなったように見える。

調べて判った事だけれど、ぼくの身体はあまり筋肉がつかないたちらしい。それでも線は明らかに太くなった。

きっと、アブクマのハードメニューに付き合ったおかげだろうな…。

今は居残りっていう形で部活を続けているけれど、それも全国大会まで。ここまで引退が延びたのは計算外だったけれど、

嬉しい誤算だ…。

アブクマが大舞台に立ったその後は、ぼくは柔道着を脱ぐ。

そして、アブクマは選手兼主将として、マネージャーのイヌイと二人、助け合ってやっていかなくちゃならない。

悔いはないけれど、当然寂しい。

たった三人の小さな柔道部だったけれど、ぼくの生活の中では大きなウェイトを占めている。

引退したら、心と生活にぽっかり穴が空いたような気分になるんだろうなぁ…。

シンイチだってきっと似たような気持ちだろう。

この夏で引退して、二学期からは二年生が団長を引き継ぐ。休み明けに最後の一大イベントが残っているけれど、そこから

先は…。

「サトル」

「うん?」

声をかけられて振り向けば、怪訝そうな顔をしている大きな牛。

背が高くとことん骨太で、被毛と分厚い筋肉を纏い、その上に少しだけ脂肪が乗った堅太りの牛は、何かに気を取られてい

るのか、隠す素振りも見せずに雄のシンボルを大公開中だ。

いつの間にか浴室に入って来ていたシンイチは、首を捻りながらこっちを指さして口を開いた。

「溢れまくっとるぞ?湯」

顔を足下に向ければ、縁からだばだばとお湯をこぼしている洗面器…。どうやらこんな事にも気付かないくらい考え事に没

頭していたらしい。

お湯を止めたぼくの横で、シンイチもどっかり腰を下ろしてシャワーコックを捻った。

この辺りは手順の違いなのか、シンイチはシャワーを上からかぶらずに、まずは腰回りを流す。

それにしても立派な体格だ。いつ見ても惚れ惚れする逞しさ。アブクマに抜かれるまで校内で最も背の高い生徒だったシン

イチの体は、一年生の頃から高校生離れしていたっけ…。

被毛の下にはやや皮下脂肪がついているものの、骨組みからして頑健で、羨ましいほどの筋肉量を誇る大柄な体躯は、現在

191センチの165キロ。太腿なんてぼくのウエストぐらいある。

アブクマの体を見慣れた今でも、締まり具合がまた違うシンイチの体はつくづく立派に見える。

股間のモノだって体に見合った立派さだ。サイズ的には。…仮性包茎でフォルムは可愛いらしいが…。

「シンイチはさ…」

「む?」

ぼくは大牛が首をねじってこっちを向いたのを視界の端で認めながら、なんとなく訊いてみた。

「応援団引退したら、空いた時間は何に使うんだい?」

「それは当然!…む…」

答えかけたシンイチは、何故か途中で口ごもった。

「何?」

「あー…。むぅ…、そのぉ…」

耳を倒し、濡れた尻尾で椅子をぺちぺち叩きながら、シンイチは俯く。

そして、ちらちらっと、横目で何度かぼくの顔を窺ってきた。

「何だよ?気になるじゃないか?」

「いや…、あ、空いた時間はだな…」

シンイチは俯き加減のまま手を顔の前に持って行き、太い指で鼻先をコリコリとこすり始めた。

「…今日のような事をしていたい…」

「今日のような…」

繰り返したぼくは、シンイチが照れている理由をやっと理解した。

…そうか、シンイチは、空いた時間はぼくと過ごしたいのか…。

今日のプチデートみたいに、他愛もない話をして、買い物をして、一緒にぶらついて…。

「勿論、サトルの迷惑にならん程度にだが…」

「…それなら案外悪くないな…。来学期も…」

ぼくが呟くと、シンイチは「む?」とこっちを向く。

「いやこっちの話。…ありがとう、シンイチ」

笑みを向けたら、大きな牛は戸惑ったような顔をする。

「…いいのかサトル?」

「え?何が?」

「いや、ワシが言ったような…、ほれ…。そういった過ごし方でもいいのか?と…」

「いいじゃないか。それでいいんだ、むしろ」

ぼくは笑いながら洗面器を持ち上げ、照れ隠しに頭から被った。

そうだ。これから先のぼくの時間には、シンイチと共有する部分が多くなっていくんだ。

こういう事に考えが回らない辺り、ぼくもまだまだ交際しているって自覚が足りていないのかもしれない。

しかしシンイチは、そう考えを固めたぼくがシャンプーを手に取ろうと手を伸ばしている間も、もごもごと声を小さくしつ

つ続ける。

「いや…、ワシとでなかったら…、男相手でさえなかったら…、サトルも他のカップルのように…、あまり過敏に周囲を気に

せず、街中を恋人と歩けたのだろうなぁと考えたら、な…。ワシの告白を受けさえしなければ、サトルも…」

シャンプーボトルを取った手をそのままにして、ぼくは固まった。

…そうか。シンイチ、まだそんな事を気にしていたのか…。

ぼくが過ごし方について話をしたから、ぼくらの関係について改めて考えたんだろうな…。この大牛、ぼくを口説き落とし

た事を負い目に思っている節があるし…。

「シンイチ。もしかしたら勘違いしているのかもしれないから、念の為に言っておくぞ?」

おずおずと、ゆっくりと、大きな牛が横を向く。その顔を睨み上げて、ぼくは言ってやった。

「見くびるなよ?ぼくはきみに言われたから、約束したから、仕方なく付き合ってる訳じゃない。ぼくはぼく自身の気持ちで

答えを出した。流れに逆らえなかったり、断りきれなかったりして、今の状況に落ち着いた訳じゃない。断固として違う!」

静かに、でも強い口調で言ったぼくを、シンイチは耳を倒しながら落ち着かない様子で見つめる。

「くよくよするな!気に病むな!自信を持て!胸を張れ!そうでなきゃ、ぼくが交際を承諾したシンイチじゃない!」

「お、押忍っ!」

背筋をピンと伸ばして返事をしたシンイチに、ぼくは笑いかけた。

「もう止めなよ?そういう風に負い目に感じるのは…。言っておくけれど、ぼくは後悔なんかしていないんだぞ?まだ交際は

始まったばかりだけれど、シンイチとのこの関係を気に入っているんだ」

「う、うむ…。ワシだってそうだ…」

恐縮しているようにでかい体を縮め、胸の前でもじもじと手を揉むシンイチに、ぼくは続けた。

「ぼくらは好きあって付き合ってる。そこに負い目とか「たられば」とか、余計な物はいらないよ。「こうだったら」とか、

「あるいは」なんて、どっかに置き去りにしちゃえ!」

「う…、うむっ!」

大きく頷いたシンイチは、次いで耳をパタタッと動かして顔を弛ませた。

「きょ、今日のサトルは大胆だな!真っ直ぐな言葉が…、こう、胸にズシンと来る!」

え?…大胆…、だったかな…?

…言われてみるとそうかも…。



「シゲ、マガキ」

「あい」

「押忍っ」

居るのは見て判るけど、一応名前を呼んだぼくは、狼と虎がそれぞれ返事をすると、ドアの前で名前に丸を付ける。

「二人ともオーケー…と」

チェックしながらも、ぼくはマガキの様子をこっそり窺った。

強面の虎獣人は、いつも通りに背筋を伸ばして点呼に臨んでいる。…モフバーガーでのあの一件は、どうなったんだろうか?

珍しく空気を読んだシンイチは、ぼく同様に気になっているんだろうけれど、あえて尋ねはしなかった。

一方シゲも、交際オーケーの返事を控えているにも関わらず、完全にいつも通り。漫画本に視線を向けて…、ん?ひょっと

してあれは…。

「漫画版デロレンか?」

ぼくが抱いた疑問を、まるで考えを共有しているようにシンイチが口に出す。

「ええ。ウツノミヤから借りました。どうですデロレン?」

「面白かったよ」

シンイチに代わってぼくが応じると、シゲは「でしょう?」と口元をゆるめた。

「漫画もなかなかですよ?ウツノミヤが言うには原作とちょっとばかり展開が違ってて、ファンの間じゃ賛否がすっぱり分か

れるそうですが」

「時間ができたら借りてみようかな。今はアニメを観ているし」

「だな。あちこち囓っては混乱するかもしれん」

「そうだな。確かにそれは困る」

うんうん頷くぼくとシンイチに、マガキは妙な物でも見るような視線を注いでいた。

きっとシンイチ+アニメが不思議だったんだろう。イメージに合わなくて。



『んな根性あったら十一年もニートなんかしてねーっつーの!土嚢作るくらい労働意欲あったら近所のパン屋でバイトしてたっ

つーの!』

ぼってりと肥えた狸が、声高に言い放って胸を張る。

前をあけて羽織った毛皮のベストを左右に押しやる太鼓腹は、薄手のアンダーウェアを引き延ばしていた。

ぽってり下膨れの顔には、不機嫌そうな半眼になった目。その周りには狸の特徴でもある黒い円。

丸っこい胴体に太くて短い手足がついた、ずんぐり短身で肥満体な彼が勇者だとは、予備知識なしに見たらちょっと解らな

いだろう。

『威張らないで下さいデロレン殿!勇者たる者、困っている民を無下に見捨ててはなりません!』

純白の衣類に胸部と肩、腰回りを覆う革製の軽甲冑を身につけた若い女性狼が、何かに耐えるように目尻をひくひくさせな

がら訴える。

プラチナの毛並みが美しい美人だけれど、なまじ顔が整っているから、怒ると美しい迫力がある。

しかし、この元ニート狸がお付きの女騎士の説得に素直に耳を傾けるようなら、この作品は成り立たない。昨日初めて見た

ばかりのぼくでもそう思う。

かくして勇者デロレンは予想通りにごね始め、物語は今回もいよいよ喜劇の様相を呈してきた。

今回のお話は、数日前に大規模水害にあった村をデロレン一行が訪れるところから始まった。

村をあげての歓待を受け、前夜はご機嫌だったデロレンは、しかしその翌朝、お付きの者達が土嚢作りを手伝おうと提案し

たところでキレた。

曰く、自分は労働に向かない体質だの、土嚢作りは勇者の仕事じゃないだの言い始めて。

『オレの使命って魔王討伐だろ!?こんなとこで土嚢作って道草くってていいのかよ!?』

身振り手振りを交えて働きたくないと全力で主張する勇者デブタヌ。四肢が短いから動きがコミカルだ。

『しかし、まだ川が増水しており、橋が流されて渡河は不可能ですから、数日の足止めは回避できません。その待ち時間をも

てなしへのお礼に充てるのは建設的かと…』

いつも冷静な黒猫青年の魔法使いがもっともな意見を口にするけれど、しかしその程度の正論でやすやす納得するならデロ

レンじゃない。まだ出会ったばかりだけれど、ぼくはそう信じている。

『お前飛べるじゃん!すーって川の上飛んでけばいいじゃん!オレ抱えて!』

『デロレン殿が体重を三割ほど落として下さるなら、確かにそれも可能です。増水が収まるまでの数日間で三割落とせるか…、

チャレンジなさいますか?』

言葉遣いは丁寧なものの、遠慮も容赦もない鋭い切り返しに鼻白むデロレン。

ぼくとシンイチは笑いながら、黒猫魔法使いにやんやの喝采を送った。

「ぼく好きだな、魔導師カッツェル。小気味良い毒舌と辛辣なつっこみが良い」

「ワシは騎士ウォルフィーナが気にいっとる。生真面目さに好感がもてるし、何よりその振り回され方に同情する」

「デロレンは?」

「主役というよりトラブルメーカーとしては嫌いではない。…が、一番でもないなぁ」

「同じく」

揃って笑いながらアニメを観賞していく内に、夜は静かに更けて行く。

画面に夢中になっていたぼくは、ふと肌寒さを覚えて身震いした。

今夜の外はジメッと暑いから少し設定温度を下げていたんだけれど、下げ過ぎだったかも?

「冷房、きき過ぎだね」

言われて気付いたのか、シンイチは腕をさすり、「ふむ」と頷く。

そしてゴホンと咳払いすると、やおら尻を浮かせ、リモコンを手にとって設定温度を調節しているぼくの後ろにどすっと腰

を下ろした。

体育座りしているぼくを、後ろから抱く格好で…。

「し、シンイチ?」

顔を赤くしたぼくの肩の上に、シンイチの顔がぬっと出る。

「その…、林間学校前に…体調でも崩したら、困るだろう…」

「それにしたって…」

…恥ずかしい…。

言葉を飲み込んだぼくは、お互いの薄い肌着越しに背中に密着する大牛の分厚い胴体と、体に回る太い腕、そしてそこから

染み入って来る温もりを感じ取る。

…恥ずかしい…。恥ずかしいんだけど…、でも…不快じゃない…。

恥ずかしいのはシンイチも一緒なんだろう。何となく息が荒いし、言葉も途切れてしまった。

画面を見ているのに、内容が頭に入って来ない…。なんだかドキドキする…。

考えてみれば、シンイチとこうやってくっつく事なんて、体育の授業でもない限りはこれまで無かった…。

ぼくらはどれくらいの間そうしていただろう?たぶん五分かそこらなんだろうけれど、ほんの数秒に感じた。

ドキドキに気を取られている間に、時間が駆け足で過ぎて行ったような気がする…。

「そうだ!」

唐突にシンイチが声を上げ、ぼくはびっくりして背筋を伸ばす。

「うっかりしとったが、丁度良かった」

「うん?」

ぼくはシンイチを振り返りつつ首を傾げた。…丁度いい?何が?

「ラーメンだ」

「は?」

「新発売のラーメン。豚汁もキムチも、こういった室温なら…」

シンイチがニヤリと笑いながらそう言って、ぼくは納得した。

「夜食タイム?」

「だな」

腰を上げたシンイチは、DVDを一時停止させていそいそとキッチンへ向かう。大きな体が離れて行った背中が、急にスー

スーし始めた。

…もうちょっとあのままでも良かったかな…。そんな事を考えながらぼくも腰を上げる。

思い出したら小腹が空いてきたのか、それとも、肌寒いから暖かい物が恋しくなったのか、無性にカップ麺が食べたくなっ

ていた。

お湯を沸かして注ぎ、待ち遠しい三分をじっとやり過ごし、ぼくとシンイチは新発売という文言につられて選んだカップ麺

をそれぞれ開ける。

「あのさあシンイチ」

「む?」

カップ麺を分けて食べ比べしながら、ぼくはシンイチに話しかける。

「さっきの…、あの…」

「さっきの?」

「うん…」

ぼくはキムチで赤いカップスープに視線を固定し、ぼそぼそと続けた。

「後ろからこう…、ぺたっ…ていうの…。またやってくれないかな…」

…顔が火照って熱いのは、本当にキムチのせいだろうか…。

しばらく返事が無かったから、おそるおそる視線を上げたら…、シンイチは目を丸くしていた。

「…調子に乗ってあんな真似をしたが…、実は嫌がられとるんじゃあないかと…心配しとったんだが…」

「嫌じゃないよ。…うん…」

ぼくが再びカップ麺に視線を落とすと、シンイチは喉の奥で低く笑う。

「きょ、今日のサトルは、大胆だな…!真っ直ぐで、こう…、グッと来る…!」

…大胆だったかな?やっぱり…。

いや、後ろから抱きつくシンイチの行動の方が、よっぽど大胆だったと思うけれど…。