第十七話 「飛ぶように過ぎ」
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生で、柔道部の主将。第二男子寮の寮監でもある。
そんなぼくは今、せっせと空き缶を拾いながら…、
「うむ!潮風が心地良い!」
防波堤向こうの海に向かって仁王立ちし、腰に手を当てて胸を張っているシンイチをジト目で睨んだ。
「心地良いのは結構だけれど、手が止まってるぞ「ウシオ」」
「おっと…」
今日は一学期最後の大イベント、林間学校だ。
学年ごとに違う場所へ行くんだけれど、ぼくら三年生は海沿いのオートキャンプ場で活動する。
お昼には炊飯実習で、午後からは響きからしてステキな自由行動。
期末試験も終わり、夏休みが目の前という事もあって、皆のテンションも高い。
が、しかし…、楽しむ前には苦労も味わわなきゃならなくて、現在ぼくらは清掃奉仕作業中。
海岸線沿いの広くて長い砂浜や堤防に放置されたごみを、午前をほぼいっぱいに使って拾い集めるという苦行だ。
カッと照り付ける太陽の下、汗を流し流しずっと前屈みで地面を見ながら歩いて、落ちているごみをサーチ&キャッチして
行くんだから、当然腰にキく。
ぼく以外の班メンバー達も、時々背筋を伸ばして腰を叩いたりしている。
しかし強い子シンイチはこの作業も大して苦に感じないのか、すこぶるご機嫌で浮かれ気味。
シンイチ以外は疲労に加えて飽きが来て、げんなりし始めたぼくらの班の横で…、
パシャッ
…唐突に響いたのは、電子的な響きの合成シャッター音…。
首を巡らせれば、黒いヨークシャーテリアがカメラでぼくらの作業を撮影していた。
すっと軽く手を挙げ、さっさと歩き去って行く報道部長ヨギシ…。
太陽光線をやたらめったら吸収しまくる毛色と、もっさり無駄に保温が良さそうな被毛の量からすれば、その身を襲う暑さ
はぼくらの比じゃないと思うんだけれど…、相変わらずの様子だ。
…汗もかかなきゃ暑さも寒さも感じないっていう変わった体質らしいからな、彼は…。
それにしても、さっきのってデジタル一眼レフ?また新しいカメラ買ったんだな?さすがは富豪の三男坊…。
やっときつい清掃が終わって、オートキャンプ場の設備を利用した食事の準備が始まった。
だがしかし、ここから楽しくなって来るはずの野外炊飯は、悪戦苦闘の連続だった…。
女子班はともかく、何せこっちは料理に不慣れな男連中の班。インスタントな食事の扱いには慣れているものの、包丁を握
るとなると…。
防風林の中から絶え間なく上がるセミの声が、うるさいほど響き渡るキャンプ場の一角で、男四人は食材と薪の束と竈を取
り囲み、無言になった…。
腹は減っている。あんなに動いたんだから当然ぺこぺこだ。
しかし、食べるためには料理にトライしなければならない。疲れてはいるけれど…。
何だか今…、生きるために、食べるために働くっていう命の本質に、ちょっとだけ迫った気がする…。
疲れていたって、ここで働かないとご飯が出来ないわけで…。
「…ジャガイモなんかの皮剥きは、ぼくが何とかしよう…。リンゴと一緒さ、うん…」
「じゃあオレは米焚きしてみる。誰か薪係ヨロ」
「やるか。…火加減とかこれっぽっちも自信ねぇけどぉ…」
「ではワシは試食係で」
『うぉいっ!』
一斉に突っ込まれ、シンイチは「がはははは!冗談だ!」と豪快に笑う。
「ウシオの冗談は、時々冗談に聞こえないからタチが悪いんだよ…」
嘆息するぼくに、「む?そうか?」と首を傾げてみせる大牛。
…既に十分疲れてるんだから疲れる冗談はやめてくれ…。この中で一人だけ元気だなぁきみは…。
「あれ?何でもうルーの箱が開いているんだ?」
ニンジンを切りながら、ぼくはカレールーの箱を見遣って首を傾げた。
…いつの間に開いたんだろう?集中していて気付かなかった。
「答えは簡単!すでに投入済みだからだ!」
ニンジンを手でさらっていきながら胸を張って応じるシンイチ。やっぱり今日はテンションがちょっとおかしい。
昨夜も興奮してなかなか寝られなかったみたいだしなぁ…。遠足前日の子供かきみは?と突っ込みたくなったよ。
…たぶんだけれど、アブクマもシンイチと同じタイプだと思う…。
そんな事を考えながらシンイチの言葉を流しかけたぼくは、ふと違和感を覚えて眉根を寄せた。
鍋を見れば、まだ沸かしていない水に、切ったばかりのニンジンと一緒にぷかぷか浮かんでいる茶色の立方体…。
「…順番、そうだったっけ…?」
「なぁに、細かい事は気にするな!全部ぶち込んで火にかければできあがるだろう。材料は同じなのだからな!」
…持ち前の豪快さが悪い方に発揮されているような気がする…。
不安を覚えつつ、ぼくが不器用ながらも剥いて切って行く野菜類を、シンイチは大きな手で次々とかっさらって行き、鍋に
どぼどぼっと投入する。
…良いんだっけ?こういうやり方で…。
ふと竈の方を見れば、一向に火がつく気配のない薪の山と格闘する友人と、大量に白米をこぼしながらといでいるもう一人
の友人の姿…。
…もう既に明るいビジョンが見えない…。
しかし、ぼくの不安をよそにカレーは完成した。
…ルーが混じりきっていなくて、なんというかこう、どろっとした部分と水の部分があるんだが、それでもまぁ一応カレー
の匂いはする…。
「何とかなるもんだな…」
感心と安堵の混じった友人の発言に、ぼくらはうんうんと頷いた。
不安は確かにあるが、この香りだ。致命的な失敗作までは至っていないはず…。食って食えない事はないはずだ。うん。…
でもとりあえず…。
「味見…、いってみなよ誰か」
…実は、ここに至るまで誰も味見をしていなかったりする…。不揃いにカットされた野菜類と豚肉によって鍋の中で繰り広
げられた途中経過は、グロテスクですらあったから…。
ぼくの言葉に二人の友人は無反応。しかしシンイチは「ではワシが!」と挙手した。いや手は上げなくてもいいよ、手は。
不安がるぼくらの中で、シンイチだけは全く怯んでいない。…図太いというか肝が据わっているというか…。
ぼくらが固唾をのんで見守る中、鍋に突っ込んであったおたまを掴み、小皿を手に取ったシンイチは、おたまでカレーをか
き回してから「ん?」と顔を上げた。
…あれ?何かシパパパパッって…、これ羽音?
ぼくらの物より鋭いらしいシンイチの耳がピククッと角度を変え、目がソレを追う。
竈が並ぶ屋根の下に入り込んで高速で右往左往したソレは、ぼくが姿をはっきりと認識する前にコンッと柱にぶつかった。
やっと追いついたぼくの目に映ったのは…、あ、セミだ。
慌てて柱にぶつかったセミは、目でも回したのか、そのままゆるい放物線を描いて落下し…。
ぽたっ。ジッ!ジイィィッ…!
……………………?
!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?!?
ぼくらは硬直したまま、シンイチが覗き込んでいる鍋を凝視する。
…セミカレー完成…。
「…な、何だよ今の…。虫?鳥?ごみ?」
「セミだ…」
「セミ?」
「セミ入りカレー…」
「うえぇっ!?セミって何だよセミって!?」
「セミはセミだろ。ミーミージージー鳴くセミ…」
「うむ。間違いなくセミだな、これは」
「しかもここで言うセミは、セミ・フル・オートのセミじゃない。夏の風物詩でもある声高に鳴くあの昆虫、セミの事だ…。
もはやセミ・フル・オートのセミじゃない昆虫のセミを備えたカレーとなったんだ、ソレは…」
「いや解るってイワクニ。そもそもセミ・フル・オートがあるカレーってどんなカレーだよ?落ち着け少し」
セミが飛び込んだ…というより落ちて入ってしまったカレーの鍋をなかなか覗き込む気にもなれなくて、ぼくらは遠巻きに
しながら囁き交わす。…間近に居るシンイチだけは鍋の中をじっと見ているけれど…。
…空腹だが…、さすがにこれは食べたくない…。
「混じって来たら食わねば良いだろう?」
一人だけあまり気にしていないらしいシンイチはそう主張した。
って、何してんのシンイチぃいいいいいいいいいいいっ!?混ぜるな混ぜるなおたまを回すなぁああああああああっ!
あまりの事に声も出なくて、胸中でつっこみを入れるぼくの横で、友人の一人がボソリと口を挟んだ。
「…セミってさ…。飛んで逃げるとき、小便ふりまきながら逃げるよな…?」
ぼくらは『うっ…!』と呻き、彼はさらに続けた。
「あのセミ…、排尿後だと思う?それとも排尿ま…」
「判った!判ったから皆まで言うな!」
さすがに嫌になったらしいシンイチが言葉を遮った。
…食べる気がしないどころか、食欲そのものが減退してきたよ…。
「宇宙と…かけて…」
唐突に背後からボソボソと声が聞こえ、ぼくは総毛立ちながら振り返る。
いつからそこに居たのか、前髪に隠れて暗い目をしたヨークシャーテリアは、ぼくらの間を抜けて鍋に歩み寄ると、シンイ
チの横でカレーを覗き込んだ。
「セミ入りカレーと…とく…」
パシャッ
「…撮んなよ…」
顔を引きつらせる友人。しかしシンイチは気になったらしく、「その心は?」とヨギシに先を促した。
「…くうきがない…」
…ちょっとうまいけど気分は上向かないなぁ…。
ぼくらに向き直ったヨギシは、さらにボソボソと続けた。
「…もしも…、米だけの食事が…嫌なら…」
「嫌に決まってんだろ!?」
即座に口を挟んだ友人を無視し、ヨギシは首を巡らせて顎をしゃくる。
「…あそこに…、バケツで…二杯分の…カレーを…作っている…、河馬が居る…」
視線を追えば、鍋の前で汗を拭っている、でっかくてまん丸い河馬…相撲部の蒲谷重太郎(かばやじゅうたろう)君の姿。
頭に締めた捻り鉢巻きがやけに様になっているのは、家業が家業だからだろうか。
「何でそんなに作ってんのアイツ…」
友人が発した素朴な疑問に、
「料理人の…息子の…血が騒ぐとか…、そういう理由で…やけに…張り切っていた…。なお…、具材の半分は…、自前の…持
ち込み品…らしい…。まったく…、変わり者揃いで…退屈しない…」
かなり変わり者のヨギシは、自分の事を棚に上げてそんな風に答えた。
「何はともあれ、ジュウタロウに頼んで分けて貰えば万事解決!アイツが作ったカレーなら不味い訳がない。不安なカレーを
食わずに済んで、結果的には万々歳だな」
うんうんと繰り返し大きく頷くデカ牛に、ぼくらのじっとりとした視線が集中する。
「いや、あのねシン…ウシオ?確かにセミが入ってなくとも不安なカレーではあったけどさ…、口にするなよそれを…」
「頑張りが無駄になったような気がするじゃないか」
「空気読め」
不用意な発言に、ぼくらから口々に突っ込まれるシンイチ。
仲間内だったから良いようなものの、頼むからほんと空気読んで。お願いします。
幸運にもセミの入っていないカレー…しかもとびっきり美味い逸品にありつけたぼくらは、水の分量ミスでやや柔らかくなっ
てしまった米にたっぷりルーをかけ、舌鼓を打った。
カバヤ君が殆ど一人で作ったというカレーは、本当に美味かった。
野菜は綺麗に切られていて不揃いな物が全く無いし、持ち込んだという自前の食材に何か秘密があるのか、食欲を誘う適度
な辛さと、濃厚かつ奥深い味がぼくらを虜にする。
アブクマとササハラさんの合作カレーも相当な物だったが…、これもまた負けてないなぁ…。
木のテーブルについたぼくの隣では、シンイチが三人前はありそうな特盛りカレーライスを飲み込むように消費してゆく。
ぼくが並盛り…よりいささか多いカレーライスを食べ終わる前に、シンイチは皿を綺麗にしてしまった。
「ジュウタロウ。おかわりくれ」
「ちょ…!遠慮しろよウシオ!ただでさえ特盛り貰ったじゃないか!」
少しの遠慮も見せずにお代わりを催促しに行ったシンイチを、ぼくは慌てて引き留めようとした。
が、これも持参したらしい真っ白なマイエプロンを身に付けた大きな河馬は、気を悪くした風もなく破顔する。
「がっはっはっはっ!いやいや、気にせんで良いよ。むしろ遠慮無く食ってくれ」
カバヤ君は妊婦のような丸い腹を揺すって、もともとでかい口を大きく開けて豪快に笑い、シンイチから皿を受け取った。
「過分に張り切ってついつい作り過ぎてしまったからなあ。手伝って貰えて助かる」
「それにしたって悪い…。それにカバヤ君、全然食べてないじゃないか?さっきから皆によそってばかりで…」
ぼくは申し訳なくなって首を縮めた。
なにせこの巨漢の河馬は、ずっと鍋の前に付きっ切りで、お裾分けを貰いに来る他の班の生徒や班の仲間にカレーをよそっ
てあげている。
一番の功労者だろうに、自分は腰を下ろして食べる事もなく…。
「儂は、ごみ拾いでは役立たずだったからなあ」
シンイチの皿に再びカレーライスを特盛りしてやりながら、カバヤ君は目尻を下げて笑った。
「その分、飯炊きで人一倍働かんと割に合わんよ。はいお待ちどう」
「うむ。済まん」
気の良い河馬がシンイチにお代わりを渡す様子を見ながら、ぼくは思い出す。
彼はシンイチと仲が良いから、ぼくにもちらっと聞こえて来ていたけれど…、カバヤ君は膝を傷めていたんだったな…。
さっさとテーブルに戻って行ったシンイチをちらっと見遣り、後でもう少し詳しく話を聞いてみようかと考えてから、ぼく
は注意を目の前の巨漢に戻す。
アブクマと良い勝負のぶっとい手足に、どーんと突き出た腹。あんこ型の体躯はボリュームが尋常じゃない。
この体格なら、傷めた膝にかかる負担は相当なものだろう…。口ぶりから考えると、もしかしたらごみ拾いには参加できな
かったのかもしれない。それで炊飯を人一倍頑張ったのかも…。
「君もお代わりはどうだ?自分で言うのも何だが、悪くない味だろう?」
「え?う、うん。凄く美味い。…けれど…」
ボールに太い手足が生えたようなどっしり体型の河馬の顔を、ぼくは上目遣いに見上げる。シンイチよりは少し低いけれど、
昨年度までの校内最重量生徒はぼくより遙かに背が高い。
…膝を傷めているなら、座って休んだ方が…。調理中もずっと立ちっぱなしだったんだろうし…。
「ただ食べさせて貰うだけじゃ、やっぱり悪い。埋め合わせとしては不十分だけれど、配膳はぼくが手伝うからさ、カバヤ君
も食べて」
「いや、儂はまだ良いから食ってくれ」
「そう言わずに!実はぼく班長なんだ…。失敗した上に他のクラスの班にまで頼って、そのあげくにタダでご馳走になるんじゃ
面目が…。ここは顔を立てると思って、ね?…それと、美味しいカレーをご馳走になったお礼に、ぼくらに器具の片付けくら
いはまるまる任せてくれると嬉しい」
ぼくが両手を合わせて拝むように懇願すると、大きな河馬は体格の割に小さい目を細め、耳をパタタッと震わせた。
「気にせんで良いと言うのに、君は義理堅いなあ。…なるほど…、シンイチが惚れる訳だ…」
彼の言葉は後半がボソボソとした小声になり、聞き取り損ねたぼくは首を傾げる。
「そこまで言ってくれるなら…、うむ、頼もうか。済まんが儂も飯を食わせて貰おう」
「うん!有り難う!」
「有り難うはこっちのセリフだろうに…。君はつくづく義理堅いなあ」
カバヤ君はそう言って笑みを深め、布袋腹をポンポンと叩いて揺すって見せた。
「実はかなり腹ぺこだった。ここだけの話、匂いだけ嗅いどるのもなかなか辛かった…。つくづく痩せ我慢が保たんし似合わ
ん男だな、儂は」
冗談めかして肩をすくめた巨漢は、「こっそりやっとるダイエットの進みも思わしくない」と付け加え、皿を手に取る。
さっそくしゃもじを掴んだぼくは、大きな河馬が持つ皿へライスを山盛りにし、カレールーをたっぷりかけた。
「ごっつぁんです」
片手で拝むような仕草をしたカバヤ君に笑みを返したぼくは、ふと視線を感じて首を巡らせる。
視線の出所は、ぼくらの班がついているテーブルだった。
スプーンを咥えたシンイチが耳を倒し、物欲しそうな目をしてこっちをじっと見つめている。
…特盛り二杯食べたくせに…、また自分にもよそえってかい?
「…食い過ぎた…」
丸太をカットした形で趣のある長椅子に逆向きで座り、テーブルに背中を預けてのけぞっているシンイチは、そう呻くなり「んげぇふっ!」と盛大なげっぷをした。
苦しげにさすっている腹は、胃の辺りが丸くせり出ている。
「だろうな」
隣に座ったぼくは、そよそよと揺れる防風林の枝葉をぼんやりと眺めている。
食い過ぎで張った腹が苦しくて、食器洗いと片付けが終わった所で力尽きたシンイチは、せっかく自由行動になったのにす
ぐには動けそうにない有様だ。皆はもう浜辺で海水浴をしているのに…。
…何だか今日は…、駄目な所ばかり見せつけられているような気がする…。
中天を過ぎた太陽はますます生き生きしているけれど、このテーブルは斜めに落ちる大木の影の中にあって過ごしやすい。
砂浜からやって来る海風は、ここへ辿り着く前に防風林に濾過されて潮の香りと勢いを弱めている上に、木陰を抜けてきた
おかげで冷やされて、そよそよと心地良い吹き具合になっている。
悪くないかな、こういう昼下がりも…。
「やや?泳ぎには行かなかったのか、二人とも」
不意にかけられた声に首を巡らせれば、防風林内の小道からのっそり出て来る巨漢の姿。
「行く予定だったんだけれどね、ウシオが食休み中で」
そう応じたぼくに、やけにゆっくりした足取りで歩み寄ると、カバヤ君は食い過ぎで活きの悪い大牛に視線を向けた。
「そんなに美味かったか?」
「ああ、美味かった」
「うん。美味かった」
シンイチが短く応じ、ぼくも追従すると、カバヤ君は嬉しそうに少し目を細める。
「カバヤ君も浜に行っていなかったんだな?」
「うむ。腹ごなしにのんびり散歩をな。…よっこいせっ…と…」
テーブルを挟んでぼくと向き合う形で腰を下ろしたカバヤ君は、どこかおっさん臭い呟きを漏らした。
笑いそうになったぼくは、しかしすぐにその事に気付く。
こぼした声は、体型が体型だからというのもあるかもしれないけれど…、たぶんそれだけじゃない。
膝を傷めているから、立ったり座ったりはきっとぼくが考える以上に重労働なんだろう。
…考えてもみれば、本当はそれが理由で泳ぎに行かないのかもしれない…。
シンイチはぐったりしているし、カバヤ君もどことなく手持ち無沙汰のようだし、ぼくはしばらくここで話をしてみる事に
した。
カバヤ君の家は、鰻料理が有名なこの街の老舗…蒲谷屋を営んでいる。
ぼく自身は暖簾を潜った事が無いものの、時々シンイチが持ち帰りして来るから、カバヤヤの鰻重は何度か食べた事がある。
少し冷めていてもとびきり美味しい鰻重で、他所の鰻が食べられなくなる程の絶品だ。特にタレが凄く美味い。あれだけで
ガツガツご飯が食える。
そんな老舗の跡取り息子でもある彼は、卒業後は家の手伝いから初めて、家業を継げるように料理修行するらしい。
「今でも折を見て自炊しながら下準備をしてはいるものの…、腕はまだまだ合格水準に届かん」
カバヤ君は神妙な顔つきでそんな事を言う。あんなに料理が上手なのに、それでもまだまだなんだ?
偉いなぁ…、上手な事でもちっとも得意にならずに、上を見つめていられるなんて。
「家業を継ぐなら免許も取らんといかんしなあ…」
カバヤ君がそう続けた事で、ぼくの表情が自然と締った。
…家業…か…。
他人事でもないんだよなぁぼくも。今年度いっぱいで卒業なんだし…。
卒業後の身の振り方について考えていると、しばらく黙っていたシンイチがのそっと立ち上がった。
「さて…、腹もこなれたし、泳ぎに行くか!」
復活すると同時に空気の読めなさ具合を発揮し、唐突に提案するシンイチ。…今ちょっと真面目な話をしていたのに…。
「む?嫌か?」
ぼくの表情に気付いたのか、ウシオ・クーキヨメナイ・シンイチ(学名)は、不思議そうな顔をする。
どうしてそこまで流れとか雰囲気とかそういう物を気にせず突き進めるのか、ぼくの方が不思議で仕方ないよ…。
「嫌じゃあないけれどさ…、話題転換が急だ…」
「「善は急げ」とも言うぞ?」
シンイチは腰を捻って「おいっちにー」と、体をほぐしながら言う。…もう準備運動?
「「急がば回れ」とも言うな」
カバヤ君が肉の付いたたっぷり顎に手を当てながらそう呟くと、シンイチは肩を回しながら首を捻る。
「ではつまり「善は回れ」か…。回っておくか?」
「遠慮しておこう」
即答したカバヤ君は、思い出したように付け加える。
「泳ぐのも、遠慮しておく」
ああ、やっぱり膝のせいかな?とぼくが推察していると、シンイチは不思議そうな顔になった。
「何だ?海パンでも忘れたのか?何なら貸すぞ?」
「いや一応持って来ては…、貸す?」
言葉尻を捉えたカバヤ君が訝しげに首を傾げると、シンイチは胸を張る。
「備えあれば憂いなし!予備を持って来とる!」
へぇ、予備を持って…、…予備っ!?
「それは…、心掛け的には良いような気もするけれど…」
「ああ…、何を見越しての予備なのか、疑問ではある…」
ぼくとカバヤ君が眉根を寄せ、シンイチはさらに胸を張った。
「決まっとる!誰かがうっかり忘れてしまった場合に備えてだ!あるいはパンツが損傷してしまった場合!」
「後者はともかく前者はどうだろう?デカっ尻のシンイチのパンツだろう?普通のヤツにはデカ過ぎるよ…」
「そして、それでも儂には少々きついだろうなあ…」
「そうか?試してみたらどうだ?」
「何故自前の物があるというのに試さねばいかんのだ?」
「それもそうか。だがせっかくだから…、どうだ?」
「どうだもこうだも、謹んで辞退させて貰おう。…そもそもどういう「せっかく」だ?それは」
自分と同じ高校生とは思えない体格と口調をしている大男達のかけあいを眺めながら、ぼくは小さく笑った。
この二人、何となく似ている。なのに根っこの方がちょっと違う。
カバヤ君はシンイチと比べてもどっしりと落ち着きがあって、逆にシンイチの方がいくらか積極的で活動的なんだ。
シンイチとカバヤ君の気が合う理由、ちょっと解るなぁ…。
きっと、似た者同士なのに微妙な違いがあるから、しっくり噛み合うんだろう。
「とにかくだ。行こう海へ!浜へ!波打ち際へ!夏なのだから!」
ポスターの煽り文句みたいなセリフを吐きながら、防風林の向こうを指さすシンイチ。
腹がこなれてきたら途端に乗り気になってるよ…。ぼくが誰に付き合って待機していたと思っているんだい?
ぼくはカバヤ君の顔を見上げ、控えめに潜めた声で囁きかけた。
「無理に付き合わなくてもいいよ?」
カバヤ君は「ふむぅ…」と唸る。が、シンイチはさっさと歩き出しながらこう言った。
「水の中なら膝にもそう負担はかからんだろう。急に運動を止めたせいで多少なりとも欲求不満だろうし、この機会に少し体
を動かしたらどうだ?」
…あ…。ちゃんと考えていたんだ、シンイチ…。
ちょっと驚いたぼくの横で、カバヤ君は苦笑いした。
「やれやれ…。周りを見ていないようで、相変わらず気が回るな…」
小さく肩をすくめたカバヤ君は、ぼくに向けた横目を笑みの形に細めた。
「どれ、軽く泳ぐとするか」
「良いの?くどいようだけれど、無理しなくて良いよ?泳げないなら泳げないで…」
「こう見えて、水泳は得意だし好きだ。それに…、シンイチの言うとおり、水中なら膝も痛みはせんだろうし。何せ…」
大きな河馬は太鼓腹をスパーンと叩き、からからと笑った。
「人一倍脂肪がついとるから、浮力にはいささか自信がある」
笑い返した後、ぼくはちょっと首を傾げた。
…笑っていい所だったかな?今の…。
足の裏が焼けそうな程熱くなった砂浜を、ぼくらは波打ち際目指して進む。
「考えてみれば、海で泳ぐのは二年ぶりだった」
一歩踏み出す度に太鼓腹が揺れる大きな河馬がそう言うと、先を行くがっしり体型の大牛が訳知り顔で頷いた。
「稽古稽古で、ろくに遊んでおらんかっただろうからなぁ。イワクニと同じで」
浜辺はもう駆け回る生徒や、生き埋めにされている生徒で賑わっている。
海の中も同じく、あちこちの波間で浮き輪やビーチボールが鮮やかな色彩を放っていた。
カバヤ君の傷めた膝を気遣ってか、シンイチの歩幅はそう大きくもなく、普段と比べてもかなりゆっくりだ。当然、ぼくの
歩調もかなりゆっくり。
…どうでも良いが、この二人と一緒に歩くと自分が急に縮んだように錯覚するなぁ…。
倍以上のシンイチは勿論、カバヤ君なんてアブクマ同様、体重で言えばぼくの三倍以上だし…、大人と子供どころじゃない
体格差だ。
シンイチの右手には、さっき歩きながら膨らませたビーチボール。ちなみにスイカ柄。
どういう訳か、シンイチは一年半ぐらい前のある時期を境にこういった柄物を好むようになった。パジャマも牛柄になった
し…。
もっとも、本当に急に好きになったのか、それとも元々好きだったのを前面に出すようになったのかは定かじゃないけれど。
「さて…」
シンイチは波打ち際で歩みを止め、足を波に洗わせながら目を細めた。
「海だ!」
「海だな」
「海だね」
並んだカバヤ君とぼくも、足をさざ波に浸ける。
足の下からさらわれて行く砂の感触がこそばゆい。海に来たって感じがするなぁ…。
「ピッチャー振りかぶって、第一球…、投げたっ!」
自己解説と共にウシオが放ったボールは、ぼくの所へ来る前に斜め上へ舞い上がった。
…ビーチボールでそんな投げ方は無いだろうシンイチよ…。
狙いから大きく逸れ、離れてしまったボールを、さぱーっと平泳ぎしながらカバヤ君が拾いに行く。
河馬だからなのか、泳ぎは本当に達者だ。しかも結構速い。下手をしなくとも彼が陸上を歩くペースより速い。
体型が体型だからイルカのようにとは形容し辛いけれど…、その巨体がすいすい波間を進んで行くその様子は大型海棲生物っ
ぽい。トドか何か。
「本当に得意なんだ?泳ぐの」
感想を伏せたままぼくが褒めると、ボールを取ったカバヤ君が口をガパッと開けて笑みを作った。
「自慢ではないが、中学時代は泳ぎの達者さでは知られとってな、「星陵二中のカバ」と呼ばれとったよ」
「へぇ、二中の…って、まんまだなぁ…」
「うむ。せめてイルカとかトビウオとか言って貰えれば格好も良かっただろうが…。まぁ、カバでなければトドかセイウチだっ
たかもしれんなぁ…」
…自覚あるんだ…?
「水泳部と勝負して僅差で負けた事もある」
その言い回しがおかしくて、ぼくは肩を震わせて笑った。
「あはは!負けたんだね?」
「さすがに専門には勝てんかったなぁ…。ジュースを賭けとったんだが、実に残念だった」
「それは…、勝負に負けた事が?それともジュースを奢らされた事が?」
「ふむ。両方かな?いや、ややジュースの方が比重は重いか…」
本気とも冗談ともつかない調子で言いながら、カバヤ君はぼくにボールを放ってよこした。
海底の砂を蹴って肩のすぐ下まで来ている波から浮き上がり、絶好の位置に来たソレを巧みにスパイク。ボールはシンイチ
の元へ戻る。
ぼくは肩まで波が来るけれど、でかいシンイチは胸が海面から上に出ている。もともとぺったりしている被毛は、水に濡れ
て寝てもあまり変わらない。
カバヤ君も同様に胸まで海面から出ている。
筋肉で丘になっているシンイチの胸とは違って、カバヤ君の胸は垂れてむっちりしていた。暗褐色の肌との対比でピンク色
の鮮やかな乳首が目立つ。
「ピッチャー振りかぶって、第二球…」
「いい加減にしろ!」
シンイチがまた同じ事をやろうとしたので、ぼくは注意を戻し、両手で押すようにして水をかけた。
投げる直前に顔面を海水が直撃し、「わっぷ!」と声を上げながらボールを後ろに落とす大牛。
それを見たカバヤ君が肩を揺すり、からからと楽しげに笑う。
言葉遣いや落ち着いた態度で、同学年とは思えないほど大人びて見えるカバヤ君は、しかしこうして笑えばやっぱり普通の
少年らしい笑顔を見せる。
家業を継ぐ。
卒業後の進路はもう決まっているというカバヤ君の言葉が思い出されて、ぼくは一時笑みを消した。
忘れそうになるけれど、ぼくらは三年生なんだ。年が明ければ卒業が目の前の、高校三年生…。進学だったり、就職だった
り、それぞれの目標を見据えて巣立って行く…。
「む?どうかしたのか?イワクニ」
シンイチの訝しげな声で、ぼくは未来に向いていた思考を現在に戻す。
「ううん。何でもないっ!」
笑みを作って、ぼくは飛んできたボールを両手で捕まえた。
卒業後の事は…、今はいいや。目の前の事に意識を向けよう。
夏休みに全国大会、そして二学期は文化祭に体育祭、あっという間に過ぎて行くだろうけれど、それでも高校生活はまだ続
く。だから一つ一つの事にその都度しっかり目を向けて、思い出に変えて行こう…。
さしずめ今この時は…、まず、「思い切り遊ぶ事に目を向ける」…、かな?