第十九話 「やってきた」
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生で、柔道部の主将。第二男子寮の寮監でもある。
自分が出る訳ではないものの、全国大会を翌日に控え、やや緊張気味なまま星陵を遠く離れ、道北の宿泊地に来ている。
そんなぼくは今、長テーブルを挟んで大柄な虎と向き合っていた。
鋭い目に厳つい顔。虎ならではのストライプは、元々の迫力をさらに増進している。
一体どんな鍛え方をしたらこんな体が出来上がるんだ?絞り上げ、鍛え抜いた体には脂肪など全くついていない。文字通り
筋肉の塊のよう…。
身の丈は180センチを軽く越え、胸は分厚く肩幅は広く、手足は筋肉で盛り上がっている。
薄い黒のタンクトップを纏った上半身は、身に着けたぴっちり肌着で被毛が寝ているせいで、胸板の隆起がはっきり確認で
きる。
袖から覗く剥き出しの二の腕からは、少し動いただけで被毛の下で筋肉がうねる様が見て取れた。
ボディビルダーもかくやという見事な体躯は、聞けば136キロあるとか…。
もっとあると言われても納得してしまいそうな程に、みっちりと身が詰まって重量感と迫力のある体だ。
我が校の教師、でっぷりおっとりのんびり屋で気だての良いトラ先生とは対照的な、これぞ虎!と言わんばかりの見本のよ
うな虎獣人像…。同じ寮のマガキも体格が良いけれど、さすがにここまでじゃないなぁ…。
きっと握力も物凄いのだろうごつくて大きな手で緑茶のペットボトルを掴み、彼はコプッと静かにあおる。
飲み物には手付かずのまま汗をかかせるに任せていたぼくは、その様子を見て喉の渇きを覚え、ボトルのキャップを開けた。
自販機から出されたばかりで、きーんと冷えている麦茶が、喉を通って胃に落ちて行くのがはっきり判った。
稽古で存分に汗をかいたおかげで喉が渇いている。…だけじゃないな、この渇き方は…。
ぼくは緊張しているんだ。明日の事を考えて。…そして、目の前にいる選手の事を考えて…。
道北の若虎、尾嶋勇哉。
アブクマの中学時代の先輩にして、ネコヤマがマークしている140キロ級選手…。
つい先程目の当たりにしたばかりの全国レベルの実力に、ぼくは感動しつつも緊張を覚えた。
…アブクマが…、体重で50キロ近く上回るアブクマが…、ああも見事に投げられるなんて…。
あの熊が浅くしか襟を取らせて貰えなかった上に、足払いでああまで体勢を崩されるなんて…。
独特な、滑るような足運びで素早く懐深くへ入り込んだ虎に腕を捕らえられ、一本背負いで宙を舞った後輩の姿が脳裏に甦
り、ぼくは身震いする。
滑らかで力強い、神速の一撃。…肉食獣の動きだったよ…、アレ…。
クーラーが効き過ぎてる…、訳じゃない。何せ手にはじっとりと汗が滲んでいるんだから…。
硬くなっているぼくの前で、厳つい虎は黙っている。
…気まずい…。かなり…。
ここは、最終調整で合同練習に応じてくれた道北の強豪、醒山高校の校舎内。
今日は購買が開いていない学生食堂だけれど、休日も休憩所として席は解放されているそうで、他の部活の選手らしい生徒
達の姿がちらほら見える。
大会を翌日に控えている事もあって、軽めのアップと短い乱取りだけという合同稽古の後、この虎はぼくに声をかけて来た。
アブクマとイヌイ抜きで、二人だけで話をしたいと…。
だが、彼は座ったきり口を開かない。ただ黙ってお茶を飲んでいるだけだ。
…もしかすると、ぼくは彼に嫌われているのかもしれない…。
こうして後輩抜きで二人きりになったのも、文句を言う為なんじゃ…?
文句…。うん、言われるかもしれない事については、心当たりがある…。アブクマの事だ。
中学時代は指導者や稽古相手に恵まれていたアブクマは、星陵に来てからというもの、もっぱらぼくが稽古相手だった。
階級も違うし、人間だし、しかも弱いぼくは、彼にとって十分な稽古相手とは言えない。不足もいい所だ。
…いや、不足どころか、ぼくなんかと稽古していたせいで、中学で全国に駆け上がった全盛期の頃より弱くなっている可能
性も…。
彼が文句を言いたいとすれば、その事だろう。
指導力と稽古相手の不足…。ぼくのせいでアブクマが弱くなった。そう言われても反論はできない…。
実際、アブクマの稽古相手としては、練習試合で挑む強豪や、ネコヤマでなければ不足だった。
ぼくと稽古する事をアブクマは嫌がっていなかったけれど、どう贔屓目に見てもぼくが役立っていたとは思えない…。
勝負勘を鈍らせないためとはいえ、ぼくとの稽古が一体どの程度の効果を発揮していたか…。
むしろ、一人で打ち込みや筋トレでもしていた方が、アブクマにとっては戦力アップに繋がっていたのかも…。
思い悩むぼくは、相変わらず無言の虎の前で、ちらりと腕時計を確認した。
…もう五分も経っただろうか?いよいよ気まずさは最高潮…。
「…あ、あの…」
ぼくが意を決して口を開くと、厳つい虎は手元に向けていた視線を上げ、ぼくの顔をジロッと見る。
…うぁ…!やっぱり不機嫌だ…!
「は、話って、何かな…?柔道の…事…?」
雰囲気に飲まれそうになりながらも、ぼくはおずおずと続ける。
すると、しばしぼくの目をじっと見つめていた虎は、不意に動いた。
「わっ!?」
がばっと頭を下げた虎の動作を、掴みかかられる物と勘違いしたぼくは、一度上体を仰け反らせ、それから眉根を寄せた。
「…え?な、何…?」
戸惑うぼくに、ゆっくりと顔を上げた虎が視線を据える。
「話したい事は、沢山ありました。…が、席についても上手く言葉にできず…、切り出し方を考えていた…」
急な動きに驚いたけれど、一度ビックリした反動でいくらか落ち着いたぼくは、その事に気付いた。
いかにも厳しそうな虎の眼光の中に、迷うような色が浮かんでいる…。
ごつい虎は腕を組み、やや困ったように微かな唸りを漏らし、黒い縁取りのある耳を僅かに震わせた。
「褒める…というのも何かおかしい。目上の方に対してはなおさら…。そして、礼を言うのも相応しくないような気もする。
…何と切り出せば良いのか結局考え付かず、…とりあえず頭を下げました」
太く低い声を聞きながら、ぼくは首を傾げた。
…褒める?礼?ぼくに?なんで?
「これで全て伝えられる訳ではありませんが、短く言うなら…」
戸惑うぼくの前で、虎は顎を引いて頷いた。いかにも、ようやく言葉を探し当てたというように。
「貴方を、尊敬します」
「は!?」
予想外の言葉を聞かされ、素っ頓狂な声を上げたぼくは、思わず問い返していた。
「何の冗談だい?」
「冗談ではありません。イワクニ主将」
改まったようにぼくの名を口にした虎は、その視線をこっちの目にじっと注いでいる。
「…冗談にしか聞こえないよ…。ぼくは…、合同練習でもう判ったと思うけれど、とんでもなく弱い。…尊敬されるような選
手じゃ…」
照れる以前に、彼の言葉を鵜呑みにできないぼくは戸惑うばかりだ。
「不遜な言い方になりますが」
ぼくとは対照的に全く態度を変えない虎は、雷雲が話すような低い声で続ける。
「貴方は確かに強い選手とは言えない。…だからこそ俺は、貴方を尊敬します」
「強くないのに?」
「強くないからこそ、です」
訝るぼくに、虎は頷きながら応じた。
さすがにこのくらいの選手になると、面と向かって強くないって言われても腹は立たないな…。
「久々にアブクマを見て、そして初めて貴方を見て、心底思いました。あいつは先輩に恵まれたと…」
一見すると不機嫌そうにも見える虎は、厳つい顔に笑みの一つも浮かべず、ずっとぼくを見ている。
真っ直ぐ過ぎるその視線で、ちょっと居心地悪くもなるけれど、それでも、彼が本心を語っているらしい事は伝わって来た。
「アブクマの柔道には丁寧さが増していました。持ち味を損なわず、しかし細かな所で気を抜かない、そんなスタイルに。重
く、荒々しく、しかし雑では決して無い…。マイナーチェンジと言ってしまえばそれまでだが、しかし決定的に…」
一度言葉を切った虎は、少し考えるように間を開けてから、こう言った。
「強く、そして上手くなりました。貴方の影響を受けて」
「ぼくの?」
思わず聞き返したぼくに、虎は重々しく頷く。
「アブクマがどれだけ貴方と稽古をしたのか判ります。体格からして違うアイツを相手に稽古相手をしてやるのは、相当キツ
かったでしょう。それでも貴方は、アブクマのスタイルが無理なく自然に、しかし根本から変化するほど、稽古に付き合って
やった。結果としてアイツは、自分でも気付かない内に、より密度の濃い丁寧な柔道ができるようになった…」
「密度の濃い…?」
「はい。貴方の乱取りを見ていればはっきり判る。中学時代はかなり粗が目立っていたアイツの柔道は、今では一挙手一投足
を大事に、丁寧に、惜しむように繰り出すようになっていた。貴方の柔道のように、です」
虎は一度言葉を切ると、顎を引くようにして小さな会釈をする。
「感服しました。強いヤツが強く鍛えるなら、そう大変な事でもない。だが、弱い貴方がアイツを強くした事は、正直、感嘆
を通り越して驚嘆に値する。よほど教える事が上手い名伯楽か、それともよほどアイツとウマがあうのか、どちらか気になっ
ていたが…、どうやら後者のようだ」
そこで虎は、初めて目を細め、笑みらしい物をほのかに浮かべた。
「貴方は、どうやらかなり器がデカいらしい。俺の失礼な物言いにも気分を損ねず、泰然としている。まるで、どんな強風に
も折れない柳の枝だ。おそらくアブクマも貴方の事が気に入ったんだろう。だから無意識に貴方を追いかけた」
「ほ、褒め過ぎだよ…。ぼくはそんな大層な男じゃ…」
「大層な男です。例え自覚していても、「弱い」と目の前で断じられて、怒るでもなく相手の話を冷静に聞ける度量がある」
真顔の虎は、冗談を言っている風ではなかった。
むず痒くなって来たぼくは、いがぐり頭を掻きながら視線を逸らす。
…と、食堂入り口の隅からこっちを覗く、三つ縦に並んだ顔が目に入った。
…猫と猪と熊…。下から順に、イヌイ、知らない子、アブクマと、お団子のように縦に整列していた彼らの顔は、ぼくの視
線が自分達の方を向いたと同時に、一斉に「しまった!」という表情に変わってシュパッと引っ込む。
「アブクマ?イヌイ?」
「こらイイノっ!」
口を開いたぼくの声に、視線に気付いて振り向いた虎の怒鳴り声が重なる。
その、ガラスがビリビリ震える程の大声で、食堂の生徒達全員が弾かれたように虎を注視し、こそこそ覗いていた三名は、
観念した様子でおっかなびっくり食堂に入って来た。
おどおどと、先生に叱られる小学生のような態度で三人がやって来ると、オジマ君はジロリとぼくが知らない猪を睨んだ。
「邪魔はするなと言っただろう?」
「いや、邪魔する気なんてこれっぽっちもないんですけどね…」
顔は厳ついし牙も立派だけれど、優しげな目元とバリトンボイスが印象的な猪は、さっきの稽古でも見た顔…、醒山の柔道
部員だ。
背は平均より少し高い。ずんぐりとしたいかにも頑強そうな体躯で、少々腹は出ているが、半袖短パンから覗く腕や脚はと
ても太く、筋肉が盛り上がって逞しい。
…はて、猪…?醒山の猪って…、何か引っかかるキーワードだけれど…。
「…あっ!もしかしてきみ、イイノ君!?」
思わず口を挟むと、何か言いたそうだったオジマ君は一度口を閉じ、猪はほっとしたような顔をしてからぼくを見る。
「はい、そうですが…?」
「アブクマと同じ中学で主将をやっていたっていう、イイノ君!?」
「ええ。…そうか、コイツから聞いていたんですね?」
「そうか!きみがオジマ君と一回戦で当たって玉砕したっていうイイノ君か!」
話の中でだけ知っていた存在と実際に顔を合わせ、予想していたより大柄でごっつい猪の見た目に驚いていたぼくは…、気
付けば余計な事まで言っていた。
ずぅん…と、重苦しい空気を背負って項垂れた猪の口から、か細く長いため息が「はぁ〜…」と漏れている。
「あ…、ご、ごめん!」
ぼくは慌てて謝るが、猪は暗い目でじとぉ〜っと熊を見遣る。
猪に見つめられ、目を丸くしてあからさまにたじろぐアブクマ。その脇で「あ〜あ…」と小さく声を漏らすイヌイ。
「…そんな事までバラしてんだぁ?アブクマ…」
「うぇっ!?い、いやその、ちっと口が滑ったっつぅか…、…とにかくゴメン…」
「…ダメ…。許してやんない…」
うわ、ホントに余計な事まで言っちゃったらしいよぼく…!
気まずくしてしまったと後悔するぼくに、イヌイがするっと寄って来て、こそこそと耳打ちする。
「大丈夫ですよ。この二人、長い付き合いの親友同士ですから」
「…あ、そう言えば小学校から同じだって言ってたっけ…」
「ええ。ウシオ団長風に言うと「マブダチ」です」
ぼくがイヌイのこしょこしょ解説に耳を傾けていると、一度口を閉じていた虎が低い声を発した。
「…それでイイノ。何を覗き見していた?」
オジマ君から問いただされたイイノ君は、猪ならではのホンモノ猪首を短く縮めて、気まずそうに頭を掻く。
「え?い、いやそれは…。オジマ先輩ってほら、顔から体付きから存在から何から何まで怖いから…」
「大きなお世話だ…」
不快げに鼻を鳴らした虎を無視し、猪は先を続ける。
「だからアブクマとイヌイの大事な先輩を、普段から無駄に発散させてる迫力で無駄に警戒させてるんじゃないかと心配になっ
て…」
自覚があったのか、オジマ君は少し目を大きくした後、喉の奥で「うっ…」と唸った。
「巨大なお世話だ…」
目を逸らして口をへの字にした虎は、「だから…」と続けようとした猪を、手を上げて「もういい」と制した。
…まぁ確かに顔は怖めかな…。同じ厳つい顔でもアブクマとはまた違って、鋭い凄味があるし…。
「それにしても、先輩にしては珍しく、いつになく饒舌だったんじゃないですか?どんな話をしていたんです?」
思い出したように表情を変えたイイノ君が興味深そうに訊ねると、オジマ君は小さく鼻を鳴らした。
「昨日のフィギュアスケートについてだ」
虎の発言を受け、一様に疑わしげな顔つきになる一年生三名。
…下手だなぁ誤魔化し方…。
でも、分不相応に褒められた事を話すのは恥ずかしいから、ぼくも黙っておこう…。
アブクマから話を聞いていた虎は、ぼくがイメージしていた人物像に近かった。…実物は予想以上に迫力があったけれど…。
その夜…。
「え?帰り飛行機じゃねぇんすか?」
口元に運んでいた箸を止め、今更といえば今更な疑問を呈したアブクマに、我らが顧問でもある理事長が「そうですよぉ」
とのんびり答える。
アブクマの馴染みである虎と猪の好意に甘え、寮見学までさせて貰って羽を伸ばしたぼくらは、今は宿泊先の旅館で夕食中。
理事長だけ部屋は別なんだけれど、食事はぼくらが泊まる部屋に纏めて運んで貰っている。何でも、一人だけ別で食事をす
るのは寂しいらしい。
…練習試合に行った先なんかでいつの間にか男子更衣室に紛れ込んでいたりするのも、寂しいからって理由じゃないでしょ
うね理事長…?
見た目はせいぜい40歳前後、実年齢が60歳を越えているようには見えない若々しいホシノ理事長は、アブクマの驚きの
視線を浴びながら、
「あらあらイヌイ君、苦手な物をアブクマ君に押しつけちゃいけませんよ?」
と、まるでお母さんみたいな事を言って小柄な猫をたしなめた。
どうやら苦手らしく、アブクマの皿に魚の煮付けをせっせと移していたイヌイは、「は、はい…」と背筋を伸ばすと、箸を
止めて恋人に耳打ちした。
「ほら、ぼくらは帰りの途中で別れて帰省するから、帰りは新幹線…」
「…あ。そういやそうだった…」
何とも残念そうなアブクマの顔は…、唐突な雨か何かで遊園地行きが中止になるとか、そんな感じで楽しみを奪われた子供
のようで、申し訳無いけれど思わず吹いてしまいそうになった。
座席二つを占領してのフライトがよほどお気に召したらしく、初めての飛行機に大興奮だったからなぁ…。
落ち着くようにと注意していた猫も、ぼくが見たところではちょっとソワソワしていた。
イヌイの話によると、彼らは二人とも高い所が好きらしい。
機体中央の列だったからあまり良く見えなかっただろうけれど、アブクマは終始きょろきょろと機内を見回して、窓の外の
景色を楽しんでいたっけ…。
「こういう事は、あまり指導者が言うべき事でもないし、生徒に言うべき事でもないんですけれどねぇ」
行儀良く食事しながら、ホシノ理事長はぼくらの顔を見回す。
「全国大会まで進出した以上、来年の予算はもう心配ありませんし、地元でも知名度が上がっています。…独断で断らせて貰
いましたけれど、近くの中学や地元スポーツ少年団からも、稽古風景を見学させて欲しいと申し込みがありました」
それは…、うん、断って貰って正解だったかも…。部員三人だけのボロい道場での稽古は、見学に来た相手をがっかりさせ
るに申し分ない布陣だ…。
「ですからつまり…、何が何でも優勝とか、来年の為にとか、気負う事はないんです」
理事長は穏やかな口調でそう続けると、柔らかく微笑んだ。
「常々放ったらかしで、私は良い顧問にはなれませんでしたけれど、それでもあえて言わせて頂きます。「三人とも」、十分
に頑張ったと私は思っていますよぉ?誰にも恥じる事がない頑張りに、誰にも文句を言わせない結果をつけてくれました。誇
らしいですよ?理事長として、顧問として…」
…思うに、理事長が試合や大会…いや、柔道そのものについて自分の意見を口にしたのは、これが初めてかもしれない…。
選手であるぼくらを気遣ったり労ったりはしてくれたけれど、自分は素人だからと、一歩下がって控えていたから…。
「理事長…」
「ユリちゃん…」
「理事長先生…」
肩から余分な力を抜いてくれるような、優しくて柔らかな理事長らしい励ましに、ぼくらの胸が熱くなる。
…「三人とも」…。理事長はそう言ってくれた。
選手であるアブクマだけでなく、ぼくとイヌイまで含めて…。
「…こういう時ってよぉ、「死んでも優勝して来い!」…とか、尻ひっぱたいて言ったりするもんじゃねぇんすか?」
苦笑いするアブクマは、しかしまんざらでもなさそうだった。
「けど、理事長らしい、優しい励ましですね」
イヌイは微笑み、ぼくも同意する。
ニコニコと笑っている理事長は、「だって…」と再び口を開く。
「こう言ったら何ですけれどねぇ、結果に拘らず、行為そのものを満足するまで楽しんで欲しいですから。好きな事なら、せ
めてのびのびと…」
理事長の言葉で、ぼくは自分を肯定して貰えたような気がした。
強豪校なら出てこない言葉だろうし、貪欲さが足りない考えだろうけれど、ぼくみたいに弱くても、柔道をしていて良いん
だって、免罪符を貰えたような気分になって…。
その数時間後、俯せ大の字になった大きな熊の上に、ぼくとイヌイは跨っていた。
…まるで厚みがそのまんまな熊の敷物…。浴衣のサイズが合わなくて、いつも通りの肌着パジャマなアブクマは、高校生二
人が背中に跨ってもなお余裕があるサイズ。
当然、ぼくらはただ遊びか何かでアブクマの上に乗っている訳じゃない。明日の大一番に望む大事な選手に、二人がかりで
マッサージ中というわけ。
イヌイはアブクマの腰に座って頭側を向いて背中や肩を、ぼくはでかくて柔らかい尻に座ってぶっとい脚を、背中合わせで
それぞれマッサージしている。
何せ普通の男子高校生三人分はある巨体だ。二人がかりでなければ体力も時間もかなり費やす事になる。
イヌイは普段、一回に数箇所だけ重点的にやっていたそうだが、今日は特別。せっかくだから全身マッサージだ。
最初こそ申し訳ないからと遠慮していたアブクマだったが、一体どんな魔法を使ったのか、イヌイが腰…というか股の辺り
に手を伸ばして何かしたら、途端に大人しく、従順になった。
シンイチの手ほどきを受けたイヌイは、実験台にされていたぼくが言うのもなんだが、かなり上手い。
首後ろや肩を柔らかな手付きで丁寧にマッサージされ、とろ〜んと眠たそうな目をしたアブクマは、よほど気持ちがいいの
か、時々「んふぅ…」と唸りとも息ともつかない物を漏らしている。
風呂も終えてさっぱりしたせいで、もしかしたら本当に眠くなっているのかもしれない。
…しかし、これ結構重労働だな…。冷房が効いているのに汗が滲んで来る…。
丸太みたいな太股を両手で揉みほぐしていたぼくは、イヌイの「あ…」という小さな声を耳にして首を巡らせる。
「何?」
訊ねたぼくを振り返り、イヌイはクスクスと忍び笑いを漏らす。
「…サツキ君、寝ちゃいました…」
「あらら」
つられて笑ったぼくは、そっと背中から降りたイヌイに倣って静かに腰を上げ、俯せになっているアブクマの顔を覗き込む。
イヌイの言うとおり、太い腕を組んだ上に顎を乗せている熊は、目を閉じてゆるやかな寝息を立てていた。
何とも幸せそうな寝顔をしばし眺めたぼくらは、顔を見合わせて笑いを噛み殺す。
お邪魔した寮でもうたた寝していたけれど、きっとアブクマは、飛行機の興奮と昔の先輩や友人とのガチ稽古で疲れていた
んだろう…。このまま少し寝かせておいてあげようか。
イヌイも同じ考えだったらしく、足を忍ばせて窓際に寄りながら、口元に立てた指を当てて「しーっ…」と、音は出さずに
仕草でぼくに伝えると、ベランダへ出るドアの取っ手を掴み、外を指差す。
既に暗くなった窓の外には結構広いベランダスペースがある。展望用にできているテーブルとアームチェアが設置された小
洒落た空間が。
イヌイはドアを半分開けてするりと外の暗がりに滑り込んで行き、背中を上下させているアブクマを起こさないよう、ぼく
も足を忍ばせてその後を追いかけた。
山々の懐深く抱かれたこの街は、星陵とは風が違う。
ベランダに出て夜山の稜線を眺めるぼくとイヌイの頬を、嗅ぎなれた海の香りが全くしない夜風が撫でていった。
「涼しいなぁ…」
「ええ…。星陵も涼しいですけど、やっぱり北の大地は違いますね」
優しい涼風の心地良さに目を細めて呟いたぼくに、気分良さそうに耳を倒したイヌイが応じた。
ぼくらが宿泊している旅館の部屋は、街の中心に背を向ける格好。部屋の窓やベランダから見えるのは、幾重にも連なった
山々の稜線が織り成す、ため息が出そうなほど雄大な景色。
夏の生き生きとした緑に覆われた大きく深い山々は、駆け下りてくる風が木立を吹き抜けて来るせいでとても涼しい。
…もっとも、その分冬場の冷え込みはとんでもないレベルなのだと、オジマ君が顔を顰めて解説してくれたけれど…。
「いよいよかぁ…」
「いよいよですねぇ…」
涼しい風に体をくすぐられながら、ぼくらは呟く。
実際に試合をするのはアブクマでも、やっぱり緊張する…。
だって全国だよ?全国大会だよ?高校最強を決める大会なんだよ?その舞台に関係者として足を踏み入れると考えるだけで、
気持ちは自然と昂ぶって来る。
アブクマはいつもの調子だけれど、オジマ君との稽古で見せた気迫と顔から察するに、気合は十二分に充填されているよう
だ。でっかい体が一回り膨れて見えたくらいだから。
理事長もああ言っていたけれど、実はぼくも、今は似たような気持ちでいる…。
ここまで来たらもう、柔道部の名声も十分だ。十分過ぎておつりが出るよ…。
あとは、県大会でぼくやネコヤマが伝えたように、アブクマには自分の為の柔道をして欲しいと願うばかりだ。
限られた選手しか参加できない全国の大舞台で、他の何かのために頑張るなんて勿体無いじゃないか?明日挑む試合は、誰
かの為の物では決して無い。全部アブクマ本人の為の物でいいよ。
ここまで頑張ってくれたんだ。もう何の枷も無く、余計な事に気を取られず、存分に、思い切り、全部出し切った柔道をし
て欲しい。
それで全国の戦いを楽しんでまで貰えたら、ぼくとしては最高だ…。
イヌイもきっと、ぼくと同じ気分なんだろう。
今日はやけにこまめにアブクマに話しかけていた。普段にも増して労りの言葉が多かったっけ…。
緊張しているかどうか確かめたかったのと、もし過度に緊張しているなら和らげてあげたいっていう気持ちがあったんだろ
うな。何たって幼馴染で恋人同士の、最も親しいパートナーなんだから…。
ぼくらはしばし黙って、蹲る山々のシルエットを見つめていた。
「…サツキ君には…」
イヌイのそんな言葉で唐突に沈黙が破られたのは、会話が途切れて数分経った頃だった。
「彼には、歳の離れたお兄さんが居たんです…」
「え?」
ポツリと漏らしたイヌイの横顔を、ぼくは怪訝な思いで見つめる。
アブクマの口からは、実家では両親と自分の三人暮らしだったと聞いていた。だから一人っ子だとばかり思っていたんだけ
れど…。
少し考えた後、ぼくは納得した。
イヌイが浮かべる少し哀しげな表情と、何よりも「居た」と、過去形で語られた事に気が付いて…。
「こういう事を話すと嫌がるけれど…、サツキ君は、昔は凄く気弱で泣き虫で、引っ込み思案の大人しい子だったんです」
今のイメージとは合致しないけれど、これには割とすぐに納得が行った。…アブクマは恥ずかしがったりすると、時々態度
や口調がおとなしめで可愛くなるから…。
「両親が家を空ける事が多かったから、お兄さんに凄く懐いてて…。今はもうそんな素振りも見せないですけど…、きっと、
心の中じゃ年上に甘えたかったんですよ…」
眠っているように静かな北街道の懐深い山に、昔を偲ぶ様な遠い視線を向けながら、「だから…」と、イヌイは続けた。
「だからサツキ君は、ずっと嬉しかったんだと思います。ずっと幸せだったと思います。たった一人の部活の先輩が、とても
いいひとで…、尊敬できるひとで…、好きになれるひとで…、嬉しくて嬉しくて仕方なかったはず…。だって…」
イヌイは小首を傾げてぼくの方を見ると、気恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「ぼくが時々妬いちゃうくらい、サツキ君は主将を慕ってますから」
イヌイの表情を見ながら、ぼくは理解した。
自分で思っている以上に、ぼくがアブクマから好かれていたらしいという事を。
「…アブクマのお兄さんは、ぼくと似たような所があったのかい?」
夜に沈む木々の姿に目を戻したイヌイに、ぼくは訊ねた。
「…いいえ…、あまり似てません…」
応えたイヌイは笑顔で…、けれどどうしようもなく寂しそうで…、だからぼくははっきり判ってしまった。
この猫も、アブクマの兄の事が大好きだったんだろう。
そしてぼくは思い出す。
醒山の柔道部員達に案内された彼らの寮で目にした、イヌイやアブクマの奇妙な態度の事を。
…ミヅキサン…。
あの寮で、アブクマと顔立ちが良く似た、大きくて太った熊を見た時…、目を見開いて口元を覆ったイヌイは、確かそう言っ
ていた…。
驚きの表情を浮かべながら漏らしたあの小さな呟きは、きっと、アブクマの兄の名前だったんだろうな…。