第二十話 「全国の大舞台」(前編)
「一本!それまで!」
主審の声が響くなり、恰幅の良いもっさりした黒猫が押さえ込みを解く。
お見事!危なげない立ち合いの末、投げで仕留め損なった相手を寝技で捕らえたネコヤマは、そのまま全国大会初戦突破を
決めた。
試合場を見下ろすアリーナ二階席後ろの通路、思わず拳を握ったぼくの横で、
「おっし!やったぜ先輩!」
大柄な後輩が興奮した様子で声を上げ、大きな手でばすばす拍手した。
濃い茶色の毛に覆われた熊は極めて大柄で、着込んだ柔道着の胸元からは鮮やかな白い三日月が一部覗いている。
たった今ネコヤマが見せた、投げから間髪入れずに寝技へ持ち込む連携は、判断も流れも百点満点。鮮やかで隙が無く、ア
ブクマが熱くなるのも判る勝ち方だった。
もっとも、試合をしていた本人は軽く息を乱しているだけで、礼をした後は涼しい顔のまま下がっている。いつものように、
喜んでいる様子は外面からは窺えない。
「撮れたかい?」
「バッチリです」
訊ねたぼくに、カメラを構えたクリーム色の猫が親指を立てる。
「凄いですねぇ全国!素人の僕が見てても格好良い試合ばっかり!」
「まぁ、中には逃げ切り主体の戦い方をする選手も居るから、イヌイが楽しめるものばかりじゃないと思うけれど」
「えぇ〜?」
僕が苦笑いすると、イヌイはあからさまに不満げな顔をした。
柔道経験のないイヌイは頑張って勉強しているけれど、それでもやっぱり豪快だったり華麗だったりする技の応酬や、鎬を
削る力比べや技比べに目がいくらしい。リードを守る手堅く渋い柔道も、実際に試合をするぼくらには学ぶべき所が多いんだ
けれど、彼の目には退屈に映るそうだ。
「どうせなら、サツキ君やネコヤマ先輩みたいな試合をずっと見たいですね…」
「そりゃあ二人はパワー型と技巧+パワー型だから、見ていて豪快だし派手さもあるだろうけれど…、ポイントで勝てるよう
に戦う柔道も、そのスタイルならではの良さがあるんだよ」
可愛い後輩の可愛い顔を見ながらそう言ったぼくは、アブクマに袖を引っ張られて試合会場に目を戻す。
ネコヤマに続いて舞台に上がったのは、筋肉の塊のような体躯を柔道着で包んだ、大柄な虎。
「…今度はオジマ君だな…」
アブクマの先輩にして、二年生でありながらこの階級では道北最強の選手、オジマ君…。
お目の高いネコヤマを唸らせる程の猛者で、確かにそれも納得できる選手だ。昨日の合同練習ではアップ程度ながらもその
技術と実力を垣間見せてくれた。
アブクマの話では、中学時代から全国レベルだったそうだ。階級が上の彼をして、「体重じゃ勝ってるが、本気でやりあっ
たらちょっと自信ねぇすよ」と言わせるくらい。
しかも高校進学後、北の大地と分厚い選手層に育まれ、その実力は短期間で一気に上昇したらしい。昨日アブクマは「別物
になった」と言っていた…。
イヌイが緊張した面持ちでカメラを向ける先で、オジマ君は背の高い馬と向き合う。
身長は同じくらいだし、線も細くはない相手だけれど、がっしりしたオジマ君と比べると、とても小さく、弱々しく見えた。
呑まれている。それが離れて見ているぼくにも判った。
静かに、しかし闘志を内に秘めて立つオジマ君の正面で、その馬は過度に体を硬くしている。
はじめの合図に続いて両者が腕を上げ、同時に声も上げる。
まるで間に透明な柱でもあるように、やや横へ移動しながらじりっと間を詰めた二人は、程なく同時に動きを早めた。
先に動いたのは馬だった。けれど間合いを詰める踏み込みそのものはオジマ君の方が速くて、接触したのは試合場の完全な
中心部。大柄なものの、動き出せば二人ともスピーディーだ。
互いの腕の外側を掴むように、道着を両者の手が掴む。
大外刈りだ!組んだと同時に速攻を仕掛け、馬が大外刈りを試みる。
対するオジマ君は流石の反応。畳の上を擦るように動かした足が、まるで氷の上を滑るようにスムーズに位置を変え、相手
の足をすかした。直後に縞模様のある手首が道着の袖から覗いて、素早く振られて霞み…、…あれ?
「あ」
「あっ」
「うお…!」
ぼくが、イヌイが、アブクマが、ほぼ同時に声を上げた。
直後にズダンッ!と音が響き、馬は少し顔を顰めながら、何が起こったのか判っていないような表情で天井を見上げている。
「…あんなの…、ありなのか…!?」
ぼくは声が震えていた。大外刈りを外し、それを即座に大外刈りで切って捨てた、電光石火の早業に戦慄しながら…。
「前よりずっと速ぇよ…。昨日も思い切り手ぇ抜いてやがったな?オジマ先輩…」
呻くように言ったアブクマの顔は、僅かに笑みを浮かべてはいたが、かなり硬い。
それはきっと、自分があの馬の状態だったら、彼のカウンターから逃れられなかったと悟ったからだ…。
「…サツキ君、あの先輩に勝ったんだよね…?」
「まぁな。ただし一回だけ非公式な試合でだ。俺ぁ何十回も負かされてるから、勝ち越しちゃあいねぇよ」
「…あのさ…、今も…」
勝てる?たぶんそう訊こうとしたイヌイは、言葉を途中で飲み込む。
全国レベルの強豪を一瞬で切って捨てるあの猛者に、アブクマなら勝てるだろうか?…それはぼくも気になったけれど…。
「…どうだろな…。今ここでやれって言われたら、正直難しいぜ」
呻くように漏れたアブクマの言葉は、珍しく歯切れが悪かった。
…あの猛者と次の試合でぶつかるのか、ネコヤマは…。
そうそう、自己紹介がまだだった。
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生、柔道部の主将。今はここ道北の地で、全国大会の会場の空気を吸っている。
もっとも自分が出る訳じゃない。後輩の応援なんだけれども。
スパーン!と、大きな音が響き、周囲の人達がぎょっとしたようにこっちを見る。
いつものように、両手で挟み込むようにして頬を叩いたアブクマは、気合い十分の、しかし気負ってはいない顔をぼくとイ
ヌイ、そして理事長に向けた。
「んじゃ、行って来るっす!」
そう告げたアブクマは、ぼくらが口々に励ます前で踵を返し、試合場に向かった。
順番を一つ待ったらいよいよ試合…。本人は落ち着いた様子なのに、ぼくらはもうドキドキソワソワしている。
理事長はせわしなく前の試合と時計を見比べ、「アブクマ君、集中力保ちますかねぇ?」なんてぼくを不安にさせるような
事を言うし、イヌイは試合場を撮影しながらもチラチラアブクマの様子を窺うから、カメラはブレブレだ。そんな二人が、
「主将、ちょっと落ち着きましょうよ」
「そうですよイワクニ君、試合はまだなんですから」
なんて声をかけて来たから、ぼくは面食らう。
「結構落ち着いてると思いますよ?」
イヌイや理事長と比べれば…。心の中でそう付け足したぼくは、
「じゃあ、何ですかその手?拝むみたいにずっとすり合わせて…」
後輩にそう指摘されて、視線を下に向ける。
…あ。本当だ…。
ちょっと前屈みになって拝むような格好になり、ハエみたいに手をコスコス擦り合わせていたぼくは、気恥ずかしくなって
両手を体の脇に下ろす。
やがて、試合を終えた前の選手と入れ替わりで、後輩の巨体がのっそりと試合場に上がった。
無差別級とはいえ、アブクマほど大きな選手は他に居ない。
高く、厚く、でかい。感動的ですらある大柄さに、会場からは感嘆にも似たどよめきがあちこちから上がった。
対するのはやや太めのホルスタイン。確かに骨太で身長もあるけれど、アブクマと比べれば高さも幅も厚みもいくらか控え
めだ。…ついでに言うと、肥満というより堅太り。
初戦から獣人王国、北街道勢の洗礼を受ける事になってしまったアブクマは、しかし厳つい顔に闘志を漲らせて、僅かにも
萎縮している様子は無い。
全国の大舞台に立ってもなお、あの巨漢は緊張で硬くなるという事は全くないようだ。
試合前にアブクマは言っていた。例え相手が獣人王国の三年生でも、全国大会初出場なら、緊張は自分と同じだ、と…。
漲る闘志で体を膨れさせたようにみえる両者は、はじめの合図と同時に大声を張り上げ、両手を上げて、元々大きな体をな
お大きく見せる。
真っ直ぐ歩いて間合いを詰め、がっしり組み合った超ヘビー級の巨漢二人の姿は、無差別級ならではの迫力を伴っていた。
気合いは十分だが落ち着き払っているアブクマは、強引に攻めず、慎重な立ち上がりを見せた。
けれどその立ち上がりを目にしたぼくは、もしかして県大会の序盤のように、スタイルを変えた柔道をするつもりなのかと、
一瞬不安に駆られる。
アブクマは守る柔道も決して下手ではないけれど、彼の持ち味はやっぱり体格とパワーでねじ伏せに行く攻めの柔道にある。
多少強引にでも守りを破って圧倒する、攻めの柔道に…。
しかし、県大会を思い出していたぼくの不安は、一瞬で払拭された。相手の攻め手に呼応するように、それまでどっしり構
えていたアブクマが、実に彼らしいやや強引な動きを見せたせいで。
袖を引きつつ襟を掴んで押し、体勢を崩しにかかった相手に対し、巨漢の熊は体重に物を言わせてどしっと踏ん張り、押し
手を跳ね返すようにして相手の上袖を吊り返す。
かけた力でアブクマがビクともしなかった事で、牛の動きが僅かに停滞した。
その隙に、袖を取られたホルスタインの腕が上がり、体が僅かに反る。
そこへ素早く、力強く踏み込んだアブクマが、相手の腰に自分の腰を横向きで寄せる。
反応した相手の足が、まんまと策に填って絡みに来た途端、アブクマは無茶苦茶強引に体を捻った。
力任せに相手を巻き込んだアブクマの回転は、軸足に絡むホルスタインの足を物ともせず、相手の体を腰に乗せ、自らはお
辞儀するように上体を倒す。
かなり変則的な入り方だけれど、アブクマの十八番、大腰だ!
どちらかというと実戦ではあまり扱いやすい技じゃない大腰は、しかし柔よく剛を制すという理念に沿った形をしている。
崩しと回転、踏ん張り、そして相手の力や勢いを上手く利用する技術があれば、体格差があっても、体重差があっても、あま
り腕力に頼らず投げる事ができるから。
生まれて初めて投げられたというこの技を、アブクマは磨きに磨いて得意技にしている。
実際、彼の大腰はフォームがとても美しく、時には腕力に物を言わせた物になっているけれど、それでも綺麗なその形はま
ず崩れない。
おまけに応用と連携を追求し、いろんな状態から柔軟に大腰を狙って行けるまでになっている。
回転に巻き込まれたホルスタインは、アブクマの腰後ろ…つまり背面を転がるようにして宙へ投げ出された。
けれど流石に全国レベル。強引にしかけたせいで何処かに無理が生じたらしいアブクマの大腰は、相手に体勢を整えさせて
しまう緩さを伴っていた。
足が完全に畳から離れたホルスタインは、しかし宙でもがいて体を入れ替え、太股と膝、下半身から落ちる格好で畳に着地
した。
判定は…、技あり!
試合は止まらずそのまま続行され、中腰のまま袖と襟を取り合った二人は、引き摺り、押し、捻り、組み伏せようとする、
目まぐるしいせめぎ合いに移行する。
崩れたら寝技。立ったら組み技。例えどちらになっても自分の得意な形と技に持ち込みたい二人は、僅かな隙も見逃さず、
目をギラギラさせながら主導権を争う。
やがて、あまりに激しい攻防で道着がはだけ、アブクマの帯から抜けた片裾がばたつき、相手の道着が背中側にずれ込んで
襟元がだぶつくと、主審が二人を分けた。
お腹を出したアブクマは位置に戻りつつ、臍が見えるほど下がった下穿きをずりあげて、帯を締め直す。
一方で相手も同じく道着の乱れを直し、両者は開始時と同じ格好で再び向かい合った。
が、この時ぼくは、アブクマが優勢だとはっきり悟る。
二人とも息が上がっているけれど、疲労の色は相手の方が濃い。顔に疲れが浮き出るのを隠せないでいる。
対するアブクマは、直前まで荒かった呼吸が、衣類の乱れを直しながら深呼吸を繰り返す内にだいぶ落ち着き、いくらか静
かになっていた。
技術的にはそう差はないけれど、体重と膂力、そして持久力では、アブクマが上回っている。
一度止まった事で勢いが無くなり、疲労が誤魔化しきれなくなったのか、再開後の相手の動きは生彩を欠いていた。
稽古相手をしているぼくには判るけれど、規格外に大きなアブクマの体と向き合うのは、結構疲労感をあおられる。慣れな
い内は特にそうだったけれど、心理的な圧力でかなり疲れるんだ、これが…。
相手も大柄だけれど、アブクマほどデカい相手とやりあうのにはさすがに慣れていないはずだ。もしかしたら彼は、普段よ
りもハイペースで消耗しているかもしれない。
明らかに動きが悪くなったホルスタインは、アブクマの出足払いで体勢を崩されたのを皮切りに、疲弊してリズムを崩され
たまま寝技の応酬に持ち込まれた。
「…れ…!…まれ…!…決まれ…!」
ぼくの横では、イヌイが撮影しながらおまじないのように呟いている。
理事長は祈るように胸の前で手を組み合わせ、ギュッと握っている。
知らず知らずの内に、ぼくも体の脇で両拳を握っていた。
目まぐるしく体を入れ替えつつ相手にのしかかったアブクマは、大得意の寝技、上四方固めに持ち込んだ。そのまま押さえ
込みに入る!
もがく相手の上で巧みに体をずらし、圧力をかけて動きを封じるアブクマ。
ただし、アブクマ自身も流石に息が上がっている。下手をするとそのままひっくり返される可能性も大きい。
じりじりと時間が過ぎ、ぼくは秒読みしながら両手を口の前に持っていく。励ましの一言を叫ぼうとして。
「頑張れさっちゃん!」
ぼくが声を発する一瞬前に、イヌイが体に見合わない大声で叫ぶ。
たった三人の応援団…。相手選手側とは規模が大違いだけれど、気持ちじゃ負けてない!
イヌイに負けじと息を吸い込んだぼくは、
「気張れデブ!」
「勝ちは目の前よ!」
次いで上がった声で、再び発声のタイミングを崩された。
反射的に見上げれば、二階席の手すりを掴んで身を乗り出し、凄まじい形相をしているシェパードと、カメラを構えている
分厚い眼鏡をかけた人間女子の姿…。
オシタリ!シンジョウさんまで!
応援団本隊は野球の応援に、分隊は水泳部やボート部の応援に行っているはずなのに、オシタリは何故か一人だけこの場に
姿を見せている。
シンジョウさんも、柔道部の取材担当じゃないって言っていたのに…。
「粘れアブクマ!得意だろ!」
またも別方向から上がった声に視線を走らせれば、二階席通路で口元に両手を当てて声を張り上げる猪と、その横で腕組み
している大柄な虎の姿。そしてその周囲には…。
「よーし!そのまま押し潰せぇ!」
「ファイトファイトー!」
「がんばですよ〜」
「負けるなアブクマ君!」
顔から体型からデカさからアブクマにそっくりな羆に、ぽってり太ったスコティッシュフォールドなど、十数名の顔ぶれ…。
昨日知り合って親交を深めた、オジマ君やイイノ君の寮の皆だ!
たぶんオジマ君の応援に来ていたんだろうけれど、アブクマの事も応援してくれるのか…!
胸が熱くなったぼくは、溜めに溜めた息を大声にして吐き出した。
「決めろーっ!アブクマーっ!」
真剣な顔でホルスタインを押さえ込むアブクマの口元が、僅かに苦笑を浮かべたように見えたのは気のせいだろうか?
皆の声援を浴びて元気が出たように、アブクマは暴れる相手の上で僅かに崩れていた四方固めをきっちりと整え直し、万全
の体勢に持ち込む。
5…、4…、3…、2…、1…!
「それまで!」
主審の声が上がったと同時に、ぼくとイヌイは飛び上がる。
両者が中央に戻ると、主審は旗を上げ、アブクマの勝利が確定した。
…やった…。やった…!全国初勝利!勿論、星陵柔道部史上初の快挙!
互いの健闘をたたえて相手と一礼し合い、こちらへ戻って来るアブクマの顔には、疲労よりも濃い喜びの色。
「どーすか?いまいちパッとしねぇ試合だったかな?」
「いいや、最高だったよ!」
投げ技、組み合い、そして寝技…。柔道の縮図を見せるような濃い試合だった!
照れくさそうなアブクマは、ぼくに続いてイヌイとハイタッチ。
「格好良いところ、きちんと撮ったよサツキ君!」
「男前に撮ってくれたんだろな?」
「うん。ポロリもあったからファンサービスもバッチリ」
「ぬははっ!何だそりゃ!」
笑みを交わす二人を微笑みながら見つめていた理事長は、巨漢に向き直られ、頭を下げられ、「済んません、ユリちゃん」
と謝られると、若干困惑気味の顔になる。
「手…、跡ついてるっすよ?」
見れば、アブクマの言うとおり、堅く組んでいた理事長の手には、指と爪の跡がくっきり残っている。
「心配になるような試合しちまったかなぁ…」
「いいえ、これは心配になる試合をした証じゃなくて、夢中になれる試合をしてくれた証ですよ」
頭を掻くアブクマは、理事長にそう笑いかけられ、気を取り直したように口元を綻ばせた。
「全国での一勝。これは、いつもの試合とはまた違う重みがある」
声に振り向けば、もっさりした黒毛の山猫の姿。
「おめでとう。アブクマ君」
言葉少なく祝福し、踵を返そうとしたネコヤマに、アブクマはペコッとお辞儀した。
「どもっす。先輩も、おめでとうございました!」
肩越しに軽く手を上げたネコヤマは、振り返らずにそのまま歩き去った。
…ネコヤマ…、今ちょっとピリピリしていたかな?普段通りの無表情で判り辛いけれど、何となく緊張感が…。
黒い山猫を見送ったぼくは、一時忘れていた大事な事を思い出した。
ネコヤマの次の相手はオジマ君だ。それは緊張もするよなぁ。
前から要注意と言っているだけあって、調べて研究もしているんだろう。あの、群を抜いて強い猛者の事を…。
「どっちに勝って貰いたいかって言うと、微妙なんですよね…」
イヌイがポツリと呟き、ぼくは思わず深々と頷いてしまった。
…まさか、こんなに序盤で当たるなんて思ってもみなかったもんなぁ…。
それはまぁ、順当に勝ち進んで行けばいずれはぶつかる事になるんだが、それにしたって早過ぎるよ…。
ネコヤマとオジマ君がぶつかる、注目の二回戦まではまだ間がある。
アブクマもイヌイに付き添われて休憩がてら二階席に上がり、醒山の寮の皆や、駆けつけてくれたオシタリとシンジョウさ
んに挨拶をしに行った。
ひとりで働かせてばかりじゃ悪いから、体育館入り口ロビーに張り出されているトーナメント表をイヌイに代わって撮影し
に来たぼくは、アブクマの名前から伸びた線がくっきり写るようにカメラに収め、満足して頷く。
この遠征の費用を捻出するために、資金面で協力してくれたOB達に、さっきの試合を、そしてこのトーナメント表を、見
せてあげたい…。
先輩方。ぼくらの後輩は偉業を成し遂げましたよ…。
全国出場に加え、大舞台で堂々の一勝を上げてくれました…。
弱小柔道部のレッテルを貼られるまでにした自分達が、今会いに行ったらアヤをつけかねない。
ぼくの先輩達はそう言って、アブクマに会おうとせず、理事長に軍資金を渡してくれた。
…でも、ぼくはこうも思うんだ。
ジンクスまで気にしてくれる気遣いには頭が下がるけれど、アブクマと会って、星陵柔道部の事を色々話してあげて欲しかっ
たって…。
負けた話ばかりだけれど、それでもアブクマは喜ぶと思う。
だって、自分はあんなに強いくせに、弱いぼくを嗤う事なく、慕ってついて来てくれる後輩だから…。
しばし立ち尽くしてトーナメント表を眺めていたぼくは、とりあえず連絡先が判っている先輩達だけにでも送ろうと思い立
ち、携帯でも撮影する。
…そうだ。ウシオやシゲには特別に今送ってやろう。速報速報!
携帯を操作して馴染みに画像を送ったぼくは、送信作業を終えて振り向き、そしてギョッとした。
いつからそこに居たのか気付かなかったけれど、すぐ後ろに柔道着を纏った黒褐色の猪が立っていたせいで。
背丈は170半ばぐらいだろうか?でも全体的に丸みを帯びたその体は、相当なボリュームがあった。
太ってはいるけれど筋骨逞しく、酒樽みたいな胴は太く分厚い。
剛毛に覆われた四肢は異様に太くてくびれが見え辛く、丸太みたいに太いせいで短く見える。
首なんかはまるで無いみたいに見える。筋肉が異常に発達して、頭から首、そして肩が一続きのなだらかなラインで繋がっ
ていた。
鉄球…。そう、ビルの解体なんかで使う、クレーンから吊り下げたあの巨大鉄球を連想させる、ずんぐりとして重量感のあ
る体格だ。
全く気付かずに後ろに立たれていた事もあって驚き、のけぞりつつも思わずまじまじ見てしまったぼくに顔を向けると、猪
はクイッと口元を吊り上げた。
「どうも。ビックリさせちまったかねぇ?」
顔は厳ついのに予想外に人懐っこい笑顔を見せた猪は、笑みを浮かべたままトーナメント表に目を向け、「まずったなー…」
と、ちょっと困ったように呻く。
咄嗟に返事すらできなかったぼくの、それでも浮かんだ疑問の表情に気付いたのか、ずんぐり猪君はがりがりと頭を掻き、
眉を八の字にする。
「いやさぁ、試合まで余裕あったからウロウロ見物してたんさねぇ。けど気がついたらもうすぐ時間だったり…」
「はあ…」
勝手に話し始めた彼は、曖昧に返事をしたぼくに「そう。年甲斐もなく迷子してんだ、俺っち」と、目を閉じてうんうん頷
きながら続ける。
「あの…。もうすぐって、どのくらいすぐ?」
「あと五分ぐれぇかな?」
…それ、無茶苦茶余裕無いじゃないか!?
呆れたぼくの前で、しかし猪は慌てている様子もなく、ただちょっと困ってはいるような顔をしながら、ロビーから伸びて
いる通路を眺め回す。
「第二試合場つったってなぁ、こんだけ広いとちんぷんかんぷんさね。いや参った参った。だははははっ!」
豪快に破顔大笑する猪。いや焦ろうよ少し…。
「案内するよ。ぼく解るから」
そう案内を買って出ると、猪は「お?」と目を丸くし、次いでニカッと笑う。
「助かる!恩に着るよ兄ちゃん!」
ぼくは大急ぎで歩き出し、大股について来る猪を案内した。
「お前さん親切だなぁ。何処のひと?ここらの生徒?」
「いや、北陸から来てるんだ。後輩の応援で」
「そっかそっか。大変だなぁ」
自分が今大変な状況のくせに、全く焦った様子がないよこのひと…。
図太いというか何というか、大物だなぁ。たぶん案内するぼくの方が焦っているよ。幸いにも第二試合場はさっきアブクマ
が試合をした所だ。間違わずに案内できるけれど…。
「そうそう、俺っちイノタ。お前さん何てぇの?」
「イワクニ」
短く応じて角を曲がったぼくは、「すぐそこだから」と前方を指さして、
「あ!居た!何してんだカンバラ!すぐ順番が来るぞ!」
指し示した先に居たジャージの生徒にそんな叫びを上げられ、びっくりして手を引っ込める。
「おー!悪ぃ悪ぃ!ちぃっと迷っちまってさ!」
ぼくの後ろで声と手を上げた猪は、立ち止まったぼくを追い抜きながら肩をポンと叩く。
「助かったぜイワクニ君。サンキューなっ!」
ニカッと笑ってそう言い残すと、猪はジャージの生徒に急かされて、ドアを開けてアリーナに入って行った。
ぽかんとしていたぼくは、軽くかぶりを振ってから踵を返した。
が、はたと気付いて足を止める。
…イノタ…?
…カンバラ…?
ぼくの頭の中で、全国大会出場者名簿に載っていた文字が浮かび上がる。
驚いて振り返ったぼくは、そのまま近くのドアに取り付き、試合会場を覗いた。
ギリギリ間に合った猪は、時間いっぱいになった熱戦が繰り広げられている舞台の方へ、のっしのっしと歩み寄って行く。
あの猪が、不可解な記録で正体が解らなかった、無差別級埼魂代表の神原猪太(かんばらいのた)か…。