第二十一話 「全国の大舞台」(中編)
試合場に入ったぼくは慌てて二階席を見回したけれど、アブクマとイヌイはオシタリ達と一緒に引っ込んだらしく、さっき
居た所は勿論、何処を見ても後輩達の姿は無かった。
イヌイはビデオカメラを持っているし、たぶん会場のどこかから撮影していると思うけれど…。
うー、今は心配しても仕方ないか…。ぼくは二階席を眺めるのを止め、改めて会場に目を向け、そこに立つずんぐりした猪
を眺めた。
神原猪太。シンジョウさんが調べたところ、剣道など他の競技でも、この名前の選手が全国大会に出場している…。
同一人物なのか?それとも同姓同名の別人なのか?
…とにかく、「柔道の神原猪太」についてはここで実力を知る事ができる。
向き合った両者が審判の合図を受けて声を上げ、足を動かし始めた。
対するは黒いツキノワグマ。背丈では猪を上回り、がっしりした筋肉質の体つきで、とにかくごつい。
自分より10センチは背が高いだろう相手と、猪は真っ向から組み合った。
…けれど、ぼくは違和感を覚える。
カンバラっていうあの猪、足運びがちょっとおかしいぞ?何だかたどたどしいって言うか、ぎくしゃくしていると言うか…。
束の間そんな事を思ったぼくは、考え事を打ち切って目を見張った。猪が急な動きを見せたせいで。
組み合って揺さぶりをかけあっていた猪は、急に体を捻って反転した。
相手の腕に自分の腕を、肘の内側を合わせるようにして引っかけて、完全に相手に背中を向ける格好になり、尻をぐいっと
突き出す格好で上体を折る。深々とお辞儀するように…、いや、まるでそのまま飛び込み前転でもするかのような勢いで。
しかもそれらの動作は一瞬。やや開いた足を踏ん張る猪の動きに、大柄なツキノワグマが釣られ…、ううん、むしろ…巻き
込まれたと言うべきか?とにかく強引に引っ張り上げられて両足が畳から離れる。
ぼくが目を皿のようにしている中、ツキノワグマが宙を舞って、尻から落ちた。
変形の一本背負い。…に見えたけれど…、腰も足もバネを殆ど使ってない!ほぼ上体の移動と勢い、腕力だけで投げている。
あんな強引な背負い、これまで見た事無い!
水を打ったように静かになった会場で、開始数秒で勝ちを決めてしまった猪は悠々と試合場から下がり、仲間達に肩やら背
中やらばしばし叩かれ、祝われている。
…強い…。
強いんだけれど…、でも…。
ぼくは衝撃を受けながら、猪の姿をいつまでも眺めていた。
上手く言えない。言えないけれど、こう感じている。
…「違う」って…。
もし両者が順調に勝ち上がれば、アブクマは三回戦で彼と当たる。とにかく、今の試合について話をしないと…!
「あっ!居た!」
通路に出て少し歩いたぼくは、聞き馴染んだ声を背中で聞いて振り返る。
分かれた人の波の間をちょろちょろと駆けて来る小柄な猫と、その前方で藪漕ぎでもするように人混みをかき分けている大
柄な熊が、揃って目に入った。
「アブクマ!イヌイ!」
引き返すぼくに歩み寄るなり、アブクマは「主将!見たっすか!?」と鼻息を荒くして問いかけて来た。随分と興奮してい
る様子だ。
「「カンバライノタ」かい?勿論見た」
頷いたアブクマは、「なら話が早ぇ」と言いつつぼくの手を掴み、強引に引っ張って通路の隅に寄る。
「見て、どう思ったっすか主将?」
「どうって…」
感じる物はあったけれど、上手く言葉にできない…。
どう説明した物かと途方に暮れるぼくの前で、アブクマは腕組みして、難しい顔をしながら唸った。
「俺は、強ぇと思った」
「うん。強いなぁ物凄く…」
けれど、その「強い」は、ぼくらが言うところの、ぼくらが求めるところの「強い」じゃなくて…。
どう言い表せば良いのか判らずに困っているぼくをよそに、アブクマはしきりに首を捻っている。
「けど…、けどよぉ、ありゃあ違う気がする…」
後輩の言葉に含まれた一言に、ぼくはハッとなった。
「さっきからずっとこう言ってるんですよ、サツキ君。「何か違う」「違う気がする」って」
イヌイも考え込むように眉根を寄せ、顎下に細い指を添えて首を捻る。
違う、か…。ぼくもそう感じたんだ。でも、出し抜けに浮かんだその「違う」っていう感覚が、何に由来する物なのかピン
と来なくて…。
「違うんだよ。上手く言えねぇけど、ありゃあ違う…、あの選手のありゃあ…」
アブクマは頭から湯気でも出るんじゃないかと心配になるほど、苦悶するような顔で考え込み、やがてぽつりと言った。
「ありゃあ、柔道とは違う気がする…」
イヌイが「え?」と素っ頓狂な声を上げ、同時にぼくは電気が走ったように背筋を伸ばす。
そうだ。ぼくもそう感じたんだ。
あの選手は柔道をしていない、あれは、柔道とは違う何かだって…。
「どういう事なのサツキ君?柔道とは違う?僕にはさっぱり判らないんだけど…」
イヌイが困り顔でそう漏らすと、アブクマは「上手く言えねぇけど…」と首後ろをもそもそ掻く。
「そりゃあ柔道の試合してるけどよ、あの投げ、似てるけどどっか違うんだよ。崩れたとか、変形版のとか、そういう事じゃ
なくて…、えぇと、何て言や良いんだ…?」
「そう。似ているだけで、根っ子から別の、ああいう投げ技なんじゃないかと思う」
詰まってしまったアブクマの後を引き取ってぼくが言うと、大きな熊は我が意を得たりとばかりに「それだっ!」と大声を
上げた。
「柔道以外にも、日本には投げ技を使う格闘技はある。例えば合気道とかだね」
「ええと…、つまりあの猪選手は、柔道以外の格闘技経験者で…、その癖が試合にも出てる…という事ですか?」
ぼくの説明を受けて、イヌイは望んだとおりの回答をしてくれた。
「忙しい中、わざわざ彼女が調べてくれただろう?同じ名前の選手が、他の種目で全国制覇したっていう話…」
『あ!』
ぼくが説明を加えると、今度はアブクマとイヌイが揃って声を上げた。
「そうだ!シンジョウさんがはそう言ってた!」
「元々色々やってるヤツって事か!ちょっと納得したぜ」
「しかもそれぞれで結果を残せる…、一種の天才だ。でももう一つ押さえておいて欲しい事がある」
大きな後輩はぼくの顔を見下ろし、小さな後輩は見上げて来る。
「彼の足捌きは、いかにも柔道の物とは違っていて、少ししっくり来ていない…、いやむしろ、とてもやり辛そうに見えた」
「ああ…、確かに何かぎくしゃくはしてたかもなぁ…」
「あの腕力もスピードも脅威だけれど、彼は柔道そのものの経験は浅い。間違いなく。…その有利さを活かせれば…」
ぼくが言葉を切り、理解しているか確認する為に目を覗き込むと、アブクマは面白がっているように「なるほど」と頷いた。
「まさか全国まで来て、また異種格闘技戦やるハメんなるとはなぁ」
笑うアブクマの横で、イヌイが首を傾げた。
「サツキ君、異種格闘技戦の経験あるの?」
「おう!ま、相手は皆フリースタイルだったけどな!ついでに言うと俺も柔道はやってなかった。習った事喧嘩に使ったらキ
ダ先生に怒られちまうからよ」
「それ、ただの喧嘩じゃない…」
イヌイが呆れて呟き、ぼくは少しきつめに釘を刺す。
「柔道を喧嘩の道具に使ったら…、ぼくだって怒るからなアブクマ?」
「わ、判ってるっすよ…」
ちょっと居心地悪そうに身じろぎしたアブクマが、太い首を縮めて頭を掻くと、
「あ!そろそろですよ主将!サツキ君!急がないと!」
腕時計を覗き込んだイヌイが唐突に、慌てたような声を上げた。
「そろそろ?」
「何がだよ?」
揃って首を傾げたぼくとアブクマが『あ!』と漏らしたのと、イヌイが頬を膨らませたのは同時だった。
「もうっ!ネコヤマ先輩とオジマ先輩の試合っ!」
「やべ!そうだった!…場所どこだったっけ?」
「第四試合場だ!急ごう!」
慌ただしく駆けだしたぼくらは、周りの人に驚いたような、そして迷惑そうな顔をされながら、目当ての試合が行われる会
場へ急行した。
ぼくらが会場に駆けつけたのは、試合開始ギリギリのタイミングだった。
既にネコヤマとオジマ君は試合場の隅に立ち、今正に足を踏み出し、中央へ寄っていく所。
「間に合いましたね…!」
カメラを構えてほっとしているイヌイは、大慌てのアブクマに手荷物のように脇に抱えられ、運搬されて来たせいで息は切
れていない。
周囲の迷惑も顧みず、大声で謝り散らしながらラッセル車のように人混みの中を駆けたアブクマのすぐ後に続いたぼくは、
それなりに楽だったけれど息が上がっている。
「どんな試合見してくれるかなぁ…、先輩達」
やや息が乱れたアブクマは、丸太のような腕を組んで、睨むような厳しい視線を試合場の両者に向けた。
向き合った二人はどちらも高校トップレベルの実力者。特にネコヤマは、強豪である陽明柔道部でも歴代最高の選手だとい
う評判だ。
同じ階級とはいえ、両者は極端に体型が違う。
背丈はオジマ君の方がかなり高い。大柄で筋肉質なせいで、見た目から受ける存在感と力強さは圧倒的だ。
対するネコヤマはもっさりした被毛と堅肥り体型のせいで幅と厚みはあるけれど、身長で差がある上に、何というかこう…、
足が短い典型的な日本人スタイルな事もあって、オジマ君と比べて体格的にかなり見劣りしてしまう。
見ているこっちまで緊張する張りつめた空気の中、試合は始まった。
気合いの声を上げて足早に、真っ直ぐに歩み寄った両者は、横へ移動することも無く、フェイントも入れず、申し合わせた
ようにがっしり組み合う。
まるで、普段の稽古の乱取りか何かで、純粋な競い合いを始めるように…。
お互いに相手の左袖を取り、右襟を掴み、ぐっぐっと揺さぶりを掛け合った直後、ネコヤマの体が急に沈んだ。
長い被毛が頭の上で踊り、深く沈んだずんぐりボディが左に大きく揺れる。
何が起こったのか、一瞬把握し損ねた。
そして次の瞬間、ネコヤマは体勢を崩して左尻から畳に落ち、審判が旗を上げる。
…判定は有効!
「うっ…おぉ…!」
アブクマが呻き、ぼくは息すら止めて目を見開いていた。
…出足払いだった。オジマ君が出足払いを仕掛けたんだ。上体を殆ど揺らさず、動かさず、視界や注意から外したまま、ス
パンッと…。
「嘘だろう?あんな事…できるのか…?」
呻いたぼくの横で、アブクマが鼻面に皺を寄せて唸る。
「それが、尾嶋勇哉なんすよ。あそこに立ってたのが俺なら、たぶん綺麗に片足持ってかれてた。あの程度で踏み堪えられた
のはネコヤマ先輩のバランス感覚と反応の良さがあったからだ」
ネコヤマはオジマ君を引きずり込む格好で袖を引き、踏ん張って堪えた彼を手掛かりにする格好で即座に身を起こすと、再
び立って組み合った姿勢に戻る。けれど…、
「初めて見ました。ネコヤマ先輩のあんな顔…」
イヌイの呟きに、ぼくは頷いていた。
驚愕しているんだろう。常にポーカーフェイスのネコヤマが、目を見開いていた。
しかし臆する事も慎重になり過ぎる事もなく、ネコヤマはお返しとばかりに攻めに出る。
腕力勝負ではやっぱり不利なのか、押し合いへし合いの揺さぶりを諦め、黒い山猫は横への崩しに切り替えた。
時折足払いやフェイントを交え、払い腰すら仕掛けたけれど、オジマ君はその全てを捌き、防ぎ、合間に入れる反撃で逆に
ネコヤマに危機を与える。
彼の滑るような独特の足捌きは、体重移動が判り辛い上に、重心がどっちの足に偏っているのかが見分けにくい。
常にと言っていいほど畳の上を擦っているから、片足を払われても重心が即座に移動する上に、一見体重が乗っているよう
に見えた足が実は浮いているなんて事もあり得る。
あれはよほどボディバランスが良くないと無理な芸当だ。…いや、常軌を逸したバランス感覚が無いと、ああまで見事にフェ
イントを入れながら体重移動だなんて…。
「そこっすよ。それがあの先輩のおっかねぇトコだ」
分析を口にしたぼくに、アブクマは頷いた。
「オジマ先輩の何が一番おっかねぇって…、実は顔じゃねぇ」
「…うん。まぁ…」
イヌイが何か言いたそうにしたが、結局口を閉じた。たぶん、君がそれを言うのか?とでも言いたかったんだろう。
「あのバランス感覚だ。あれが一番おっかねぇしタチ悪ぃ。そりゃ腕力もスピードも、技の切れも勝負勘も、並の選手じゃ逆
立ちしたって敵わねぇ。けど、そいつら全部あの先輩の本当の強みじゃねぇんだ。投げられたって転がされたって、瞬き一つ
してる間に体を完璧に立て直しちまうバランス感覚と身のこなしが、何よりおっかねぇよ…」
アブクマの言葉に、ぼくは納得した。
類い希なバランス感覚を備えているが故に、投げは安定するし崩しにも滅法強い。おまけにあの独特の足運びも可能になる。
しかもパワー、スピード、ウェイトと、三拍子が並外れたレベルで揃っているとなれば…。
「なんつったっけなぁ?ローリングクレイドル?こう、ごろごろ転がるプロレス技。あいつを繰り返して平衡感覚磨いたって
話だった。どんな時も自分の状態を把握できるように…」
アブクマが言葉を切る。その視線の先で、内股を受けたネコヤマが技ありを取られた。
「あっぶね!」
「せ、セーフ!?まだセーフなんですよね主将!?」
アブクマとイヌイが口々に声を上げた。
技の切れが半端じゃない…!ぼくだったら抵抗できずに取られていたはずだ!
評判通り、オジマ君は強かった。あのネコヤマでも防戦を強いられる程に…。
一回戦で実力の一端は見たけれど、まさかここまでとは思っていなかった。…逆に言えば、ネコヤマだからこそ、彼にここ
まで手の内を晒させる事ができたのかも…。
ネコヤマには悪いけれど、ぼくには彼が勝てるビジョンが思い浮かばない。それほどまでに、オジマ君は鋭く、強く、底知
れなかった。
何とか引き倒しての寝技勝負へ持ち込みたいんだろう。ネコヤマは普段とは違う、牙を剥き出した険しい表情で必死に揺さ
ぶりをかける。
それでもオジマ君は揺るがない。もっとも、オジマ君が寝技を不得手にしている可能性は低く、ネコヤマの努力が実を結ん
だとしても、寝技勝負になったから有利になるとは限らない。
爪が手の平に食い込むほどきつく拳を握り込み、ぼくは心の中で大声を張り上げ、ネコヤマを応援する。
そんな時だった。アブクマがぽつりと妙な事を言ったのは。
「ネコヤマ先輩、すっげぇ楽しそうだな…」
ぼくとイヌイが仰ぎ見ると、大きな後輩はヤキモチを焼いている子供のように、ふてくされた顔をしていた。
「俺達との稽古じゃ、あんな笑い方してなかったくせによぉ…!」
ぼくは改めて試合場のネコヤマを見遣った。
鬼気迫るものがある、険しく、鋭く、獰猛な顔だけれど…、言われて見れば確かに、それは笑顔に見えない事もなかった。
…そう。ネコヤマは楽しんでいるのかもしれない。自分やアブクマを上回る強者…未だに底が見えない道北の若虎との激戦
を…。
「悔しいぜ…」
アブクマがポツリと漏らす。それはもう心底悔しそうに、仲間はずれにされた子供みたいなふくれっ面で。
「あんだけ稽古相手して貰ったってのに、俺ぁネコヤマ先輩に、たったの一回もあんな顔させられなかった」
楽しんでいる。一度そう言われたら、劣勢に追い込まれている黒い山猫の姿は、もう楽しげにしか見えなくなった。
流れはそのままオジマ君優勢で進み、時間も残り少なくなって来た頃、どうにか凌ぎながらチャンスを窺っていたネコヤマ
は、急に動きを変えた。
それまでの、いかにも畳に転がしたいといった様子の乱暴な動きを止め、急に一歩、素早く、鋭く、足を踏み出した。
その足にオジマ君のすり足がぶつかり、流れが僅かに滞る。
刹那、ネコヤマの体が反転した。
襟を、腕を取ったネコヤマの手が、体の捻りに連動して引き付けられ、僅かに動きが鈍った隙を突かれたオジマ君がこの試
合で初めて大きく傾く。
内股だ!
跳ね上がったネコヤマの足が、オジマ君の足を跳ね飛ば…、してないっ!?
あろう事かオジマ君の足は、まるで予め判っていたかのように自ら跳ね上がって、持ち上げに行ったネコヤマの足を避けて
いる。
内股すかしでバランスを崩したネコヤマは、…まだ動く!
跳ね上がる途中で急停止した足がすかさず戻り、体の捻れが逆向きに変わり、内股をすかすために足を上げて体勢が不安定
になっているオジマ君を付き押しつつ、残った軸足に足を絡める。
見事な連携!流石のオジマ君も一本足じゃ堪えられないはず!これなら狙っていた寝技に持ち込める!
と、ぼくが思ったのも一瞬。なんとオジマ君の足はたたみとゴムホースで繋がっているんじゃないかと疑わしくなる程のス
ピードで戻り、絡んだ足を外して二本の足で踏ん張りを利かせる。
…堪えられた…。ぐっと踏ん張って倒されるのを避けた虎は、前に出たネコヤマを逆にしっかりと捕らえ直し、あの素早い
出足払いを仕掛ける。
足を払われたネコヤマの体がまた揺れて…、いや、違う!
「うっ!?」
アブクマが呻いた。出足払いをすかしたネコヤマの足がくるっと小さな円を描き、オジマ君の足を追いかけた様を目の当た
りにして。
ネコヤマ得意の燕返しだ!
組んでいたネコヤマは見えていなくとも察したのか、試合ののっけに受けた読み辛い出足払いに、今回は見事に反撃して見
せた!
積み重ね、研鑽し、築き上げて来たネコヤマの柔道は、虎の牙を制した!
…ように、一度は見えた。
ダンッ!と、畳に膝がつき、崩れた下半身が横倒しになった音が響く。
審判が旗を上げ、ぼくらは揃って言葉も出なくなった。
尻餅をついたネコヤマは、手はまだ組み合ったまま、前屈みになっているオジマ君と至近距離で視線を交わしていた。
起死回生の燕返し…。けれど、結果的に失敗した。否、失敗させられた。
そしてオジマ君は成功した。
燕返しを、燕返しで潰す事に…。
円を描いたネコヤマの足の呼応するように、足払いを仕掛けたオジマ君の足も円を描いた。そして、外から巻き取るように
して燕返しをそのままお返し…。
尻餅をついていたネコヤマは、オジマ君に袖を引かれるようにして腰を上げた。
疲労のせいか、それとも張り詰めていた気が弛んだのか、ネコヤマの動作は普段ほどキビキビしていなくて、どこか緩慢な
印象を受ける…。
試合場の中央で向き合い、一礼しあった二人は、束の間見つめあった後に熱戦の舞台を降りた。
気付けばぼくらは、万雷の拍手の中、手を叩く事も忘れてその様子に見入っていた。
「凄ぇ試合だった」
アブクマのそんな言葉に続いて、大きな手が拍手を始める。
ぼくも、そしてイヌイも、それで我に返って二人に拍手を送った。
…ネコヤマ…。今、君はどんな気分だい?
負けはしたけれど、それでも君の試合は素晴らしかったよ。
この試合はきっと…、きっとこの大会を代表する名勝負になったはずだ…。
部活の仲間達に迎えられて、肩やら腕やらをバシバシ叩かれ、手荒い労いを受けているネコヤマの顔は、ぼくらの方からは
見えなかった。
涙ぐんでいる部員も居る。それは、勝てなかったのは勿論残念だっただろうけれど、レベルの高さに感動できるほど素晴ら
しい試合だった。きっと、仲間達も誇らしいんだろう。
今はもう、勝った負けたじゃなく、あんな試合をしてくれたネコヤマが、誇らしくて仕方無いだろう。
ため息を付いたぼくは、改めて試合の終盤を思い返す。
「あの出足払い、囮だったのか?オジマ君はあれでネコヤマを引っ掛けて、燕返しを返してみせた…?」
あの局面でフェイントを置く勝負勘…、どこまで規格外なんだ?ネコヤマが燕返しを得意にしている事も研究済みだったん
だろうか?
そんなぼくの疑問に、アブクマは首を振った。
「いや…、オジマ先輩のフェイントに見えるモンは、フェイントじゃねぇ事が大半っす。あれもきっと本気だった。…で、燕
返しを合わせられてから咄嗟に反応したんだ、きっと…」
「そんなレベルの反応なんて、できるものなのか!?」
「だから、それが尾嶋勇哉なんすよ」
アブクマは試合中に言った事を繰り返した。
「殆どの技で不意打ち食らっても、自分で気付く前に勝手に反応してんだ。稽古の虫だから、あの先輩は…」
感心しているとも呆れているともつかないため息を漏らしたアブクマは、「稽古相手が技のデパート、イイノだもんなぁ…」
と漏らす。
しばし無言で、胸のところに下ろしたカメラを見つめていたイヌイは、ふと思いついたように口を挟んできた。
「あの…。ネコヤマ先輩に、声をかけに行っちゃだめですか?」
ぼくとアブクマはイヌイを見下ろし、それから顔を見合わせて、少し黙った。
今は部活の仲間達と語らっているだろう。声をかけたいのはやまやまだけれど、少し待った方が良いかな…。
ぼくがその旨を伝えると、イヌイは素直に頷いた。「行きましょう」と言うんじゃなく、「行ってだめか?」と訊く辺り、
イヌイも状況を鑑みて、自重するべきかもしれないと思いながら口にしたんだろう。
「さて、俺も次の試合用に頭ぁ切り替えだっ!先輩達みてぇに、皆の度肝抜く試合してぇもんだな!」
胸の前でばすんと拳を平手に打ちつけ、アブクマは気合の入った顔でそう言った。
どうやらネコヤマとオジマ君の試合は、ぼくの後輩にも火をつけたらしい。
鼻息を荒くするアブクマの顔は、試合直前のように引き締まっていた。
まだ少し時間はあるものの、理事長と合流してからアブクマの次の試合場付近で待機する事に決め、通路に出て移動し始め
たぼくらは、
「あーっ!め〜っけ!」
行く手でぶんぶん手を振っているぽってり丸いスコティッシュフォールドに気付き、手を上げ返した。
「スゴ君。ひとりかい?」
距離が縮んでから声をかけると、猫族にしてはちょっと珍しい、ネコヤマ同様に骨太で、かつ彼とは違ってアンコ体型のス
コティッシュフォールドは、鼻と垂れ耳をぴくぴくさせながら笑った。
何でも彼は相撲部に所属しているそうで、言われて納得な判り易い体型。脂肪太りの体は歩く度にあちこち弾んでユーモラ
スだ。
「いやー、さっきまで寮監達と一緒だったんスけど…、試合場の間を移動してる途中でうろうろしてたら、見事にはぐれてたっ
ス!」
何処か楽しげというか、ちょっとは困りながらもそう深刻そうでは無いというか、あっけらかんとしたその態度に、ぼくら
の緊張もちょっと解ける。
「そだ、さっきの試合見た!すっげぇかっこ良かった!アブクマ君!」
「そいつぁどうも」
照れたように鼻の頭を掻くアブクマの胸を、スゴ君は握り拳で軽くドンと叩く。
「さっすが、寮監に似てるだけあってヤル時はヤル男前!」
人懐っこいスコティッシュフォールドのそんな言葉で、ぼくとイヌイは顔を見合わせた。
アブクマと彼自身はあまり意識していなかったようだけれど、ぼくは彼らの寮監を初めて見たあの時、一瞬アブクマと見間
違えた。
そしてふと思い出したんだ。アブクマの何世代か前の親族が、北街道に屯田兵として渡って、そのまま住み着いて戻って来
なかったっていう話を。
もっとも、アブクマも相手も遡った家系までは思い出せないそうで、確認はできなかったが…。
けど先祖が共通の可能性は高いんじゃないだろうか?ぼくよりアブクマを見慣れているイヌイが驚くぐらいなんだから、他
人の空似を通り越した似方だ。
…いや、イヌイは驚きの理由がまた少しぼくと違っていたみたいだけれど…。
「アブクマ君も一回戦勝ち抜いたし!オジマ先輩も二回戦勝ったし!見所多い〜!来た甲斐あったっ!ホントもう大興奮っ!」
アブクマが下したのは北街道勢のホルスタインだったんだけれど…、その辺りには頓着しないのか、スゴ君は手放しに喜ん
でくれた。
…まぁ、こっちはオジマ君が勝った事だけを単純に喜べる心境じゃないんだけれど、その事についてあえて言及する気は、
ぼくは勿論、アブクマもイヌイも起きなかったらしい。
「あっと!移動すんだよね?やばやば、邪魔してる…!」
スゴ君はそう言ってぺこっと頭を下げる。
「いや、大丈夫だよ。まだ時間あるから…」
「おーい!スゴぉ〜!」
ぼくが応じかけると、それを遮って大声が響いた。
「あ、寮監だ」
スゴ君がほっとしたように呟き、四人揃って声の出所を見遣れば、周囲に気を遣って通路の端を歩いて来る、見上げるよう
な巨体が強烈な印象を残す羆の姿。
「お!初戦突破、おめでとさん!」
「ぬははっ!どうも!」
笑みを交わす二頭の大熊は、やっぱりそっくりだった。何も知らなければ兄弟って言われても信用してしまうだろう。
体毛の色がちょっと違うのと、アブクマより相手の方が少し背が高い事、より脂肪太りである事なんかを除けば、顔立ちか
ら何から本当に良く似ている…。
「ほら行くぞスゴ!駄目だろうボーッとしてちゃあ。これでもう今日三回目だからな?はぐれるの」
「たはは〜っ、面目ないっス…」
頭を掻くスコティッシュフォールドの肩を掴んで回れ右させると、やたらデカい羆はぼくらに向かってにこやかな笑みを浮
かべ、片手を上げた。
「んじゃ、次も頑張ってな!客席で応援してるからさ」
「有り難う、ヤマト君」
「おう!どうもっ!」
「わざわざ有り難うございます」
ぼくとアブクマとイヌイが口々に返すと、羆はスゴ君を押してのっそのっそと階段方面へ歩き去る。きっと二階席に上がる
んだろう。
「さて、シンジョウとオシタリも来てくれてんだし、次も張り切って行くぜ!」
やる気満々のアブクマがそう言った瞬間、ぼくはすっかり失念していた事をやっと思い出した。
…そうだ。シンジョウさんもオシタリも来ているんだった。さっきは後回しにして挨拶しそびれたけれど、今度はきちんと
声をかけに行かなきゃ…!