第二十三話 「全国の大舞台」(後編)
「行け行け行け!行けアブクマー!」
会場に満ちたどよめきに、ぼくの声が混じり込む。
右、左、そして右と、揺さぶりから内股、凌がれたらさらにそこから折り返して大外刈りを仕掛け、息もつかせず畳みかけ
るアブクマの猛攻に、対戦相手のセントバーナードはたじたじだ。
序盤から圧倒されてすぐさま防戦一方になった彼は、確かに上手く粘るけれど、いつにも増して積極的な攻めを見せるアブ
クマに、自分の柔道を全くさせて貰えない。
防ぎ切るのも限界になったのか、攻め手に押し負ける格好で、ついにセントバーナードは足絡みを外し損ね、刈り倒された。
「やった!」
「勝ちか?」
「ええ、見事に一本よ!」
イヌイが、オシタリが、シンジョウさんが口々に声を上げ、理事長が微笑みながら拍手する。
会場の二階席では、きっと醒山の皆も応援してくれていたはずだ。
シンジョウさんは今日、本来の担当である先輩を拝み倒し、代わって貰って取材兼応援に来てくれたそうだ。
そしてオシタリは、彼女の周りが相変わらず不穏な事もあって、ボディーガード役で同行させられたらしい。応援団の旗手
を一日だけ、団長命令で強制的に休まされたとの話だけれど…。
シンイチめ、自分は自分で野球部の応援で本隊を率いる忙しい身なのに、遠く離れてもちゃんと気配りしているらしい。
まさか連中もこんな所で何か仕掛けて来るとも思えないけれど…、用心に越した事はないか。
戻ってきて満足げにニカッと笑ったアブクマは、並んだぼくらが上げた手に次々とハイタッチして小気味良い音を響かせた。
「アブクマらしい、持ち味が出た良い試合だったぞ!本当に良かった!試合運びも理想的な形だ!攻め手は強引でちょっと荒
かったかもしれないけれど、結果的には相手の体を硬くさせて手を出し辛くさせていたし、文句の付け所が見つからない!」
「でへへっ!そうすか!?」
ぼくが手放しに褒めたら、アブクマは嬉しそうに顔を緩ませた。
「とにかく、これで二回戦突破ね!まだ先はあるけれど、おめでとう!」
「…ま、せいぜい気張れ…」
シンジョウさんとオシタリが口々に言いアブクマは太い腕を曲げて力こぶを見せ、力強くガッツポーズ。
「次の相手って…」
イヌイが少し考えるように目を細めると、全員が黙って頷いた。
まだ確定じゃないけれど、件の埼魂代表…、カンバラ選手と当たる可能性もある。彼がこれから対戦する選手もかなり強い
から、どっちが上がって来るかはまだ判らないけれど…。
「とにかく、次の試合までは少し時間があるのよねぇ、イワクニ主将?一息入れて来たらどうかしら?」
理事長がやんわりとそう言ってくれたので、ぼくは皆を伴って通路に出る。
嬉しい気遣いで小銭も貰ったので、休憩コーナーへ行って自販機から思い思いの飲み物を買い、一息入れた。
試合が控えているアブクマは水分の摂取量にも気を遣って、お茶を一口飲んだだけでボトルのキャップを閉める。こういう
所はぼくが指導しなくても良いから助かっている。試合に臨む体勢作りが、すっかり身に付いているんだよなぁアブクマは…。
少し歓談した後、とにかく時間を忘れない事だけ確認しあって、ぼくらは一旦別行動に移った。
…さて、ぼくの方はちょっと声をかけたい相手が居るから、探しに行ってみようか…。
尋ね人は、案外早く見つかった。
彼が最後の試合をしたあの会場、そのすぐ傍の通路に、一人で佇んでいたから。
あてがあった訳でもないし、ここだと確信して来た訳じゃない。ただ、なんとなく居そうな気がして足を運んだぼくは、あっ
さり見つけた彼に片手をあげる。
既にジャージに着替えていたネコヤマも、移動する人の邪魔にならないよう壁際に寄ったまま、軽く片手を上げ返して来た。
そっとその傍に寄り、同じように壁に背を預けると、彼が見ていた物が判った。
試合場に通じるドア…。ネコヤマが最後の試合に向かう時にくぐった扉だ。
「…案外、あっさりと受け入れられたよ」
ぽつりと言ったネコヤマに、ぼくは頷く。
ぼくもそうだった。結構すんなり受け入れられた物だよ、終わりは…。
「完敗だった。悔しい気持ちは確かにあるけれど、全部出し切った清々しさの方が強いね」
「そうか…」
それは良かった。うっかりそう続けようとした言葉を、ぼくは飲み込む。
良いかどうかは判らない。ネコヤマがそう思っていたとしても、他者が口にするのはおこがましいと思えたんだ。だからぼ
くは別の事を口にした。
「でも残念だった。彼と当たるのがもう少し後だったなら、もっと勝ち進めていたかもしれないのに…」
「いや、運が良かったよ」
ネコヤマはそう言って、うっすらと口元に笑みを浮かべ、目を細める。
その、まるで夢見るように弛緩した顔付きは、これまでネコヤマが見せた事のない、とても柔らかくて、ゆるい表情で…、
何よりも雄弁に、彼の胸中を語っていた。
満足…。そう、ネコヤマは今、本当に満ち足りた気分なんだろう。
「もしもトーナメントで別ブロックだったら、彼と当たる前に敗退していたかもしれない。負けない内に当たれた事は、幸運
だったよ」
もさっとした顎を胸に埋めるように、深く大きく頷いて、ネコヤマはため息をついた。とても幸せそうに、満足げに…。
「けれど、これで本当に終わりになったわけじゃない。大学に進学して柔道を続けるつもりだからね。トップと自分との差を
実感できた高校最後の公式試合は、勿体ないほど有意義だったよ」
そう言って顔を上げた黒山猫は、いつものポーカーフェイスに戻っていた。
「受験勉強は勿論、鈍らないように稽古も続けなくちゃね。柔の道は長く深く険しい…。後輩達にはいい迷惑だろうけれど、
道場に通わせて貰おう」
「それなら、アブクマにも稽古をつけてやってくれよ。きっと喜ぶ!…そうだ、良かったらアブクマに声をかけてやってくれ
ないかな?まだ時間はあるし…」
ぼくが提案すると、ネコヤマは静かに首を振った。
「止めておこうかな。敗者だからね。これから試合のアブクマ君にあやを付ける訳には行かない」
「あやだなんて…、きみもウチのOB達みたいな事を言うなぁ…」
苦笑いしたぼくに微苦笑を返すと、ネコヤマはすっと壁から背を離した。
動いた視線の先を見れば、黒山猫を探していたんだろうか、陽明柔道部の後輩の姿…。
「それじゃあ、そろそろ行くよ。アブクマ君の次の試合も、応援しているから」
「ああ、有り難う」
軽く手を上げて去って行くネコヤマを見送り、ぼくは胸に手を当てる。
…そうか…。ネコヤマは大学に行って、柔道を続けるのか…。
羨ましいと思わないでもない。けれど散々我が儘を言って来たんだ、これ以上、好き勝手なんかできないよ…。
案の定というか何というか、カンバラ選手は勝ち残った。
開幕に不用意に組んだ所で、内股で投げられかけるという危うい場面もあったけれど、尋常じゃない下半身の粘りで片足を
残して踏ん張った。
そこからはもう反撃の投げ、それを堪えられたら反対の投げと、息もつかせず強引に攻め立て続けて、最後は変形の一本背
負いで仕留めている。
両利きなんだろうか?実に器用な左右のスイッチはぎこちなさが全然無い。どっちでも全く同じように投げに行けるのは強
みだなぁ…。
試合の決着を見届けて通路に出たぼくは、携帯の振動を感じて足を止めた。
…シンイチだ。トーナメント表の写真を今確認したらしい。忙しいだろうに返信してくる辺り、本当にマメだなぁ…。普段
の行動は結構ずぼらな所も多いくせに…。
バシィン!と、顔を両手で挟んだアブクマは、軽く首を振ってから気合いの入った顔を上げ、試合場を見据える。
「さぁて、行って来るぜ!」
送り出すぼくらを振り向かず、小山のような巨体をやや左右に揺すりながら、アブクマは試合場に足を踏み入れた。
対するは鉄球のような体躯の猪。アブクマ同様に気合いの入った表情をしていて、中央に進んで向き合えば、自分よりもか
なり上背がある大熊の顔を臆する事無く睨め上げる。
身長とウェイトじゃかなり差があるけれど、それでも侮れない。カンバラ選手はただ太って丸い訳じゃなく、首や肩なんか
は筋肉が盛り上がってとんでもない事になっている。勿論アブクマだって搭載した筋肉は並外れているけれど…。
大柄な選手ばかりが並ぶ無差別級においては、かなり背が低い部類に入るこのカンバラ選手は、体型的にはネコヤマをその
まま重くしたような相手だ。アブクマにとっては身長差にも慣れているサイズだろうけれど…。
はじめの合図に次いで声を張り上げ、威嚇するように両手を上げるアブクマ。
同じく野太い気合いの声を発したカンバラ選手は、しかし上に上げると言うよりは、より横方向へ腕を広げ、通せんぼする
ような独特のポーズ。
…やっぱり、どことなくちょっとぎこちない…。
そんな事を考えたぼくは、直後に目を見張った。
じりっと間を詰めるアブクマに対し、カンバラ選手は無造作に真っ直ぐ三歩、歩み寄った。すり足でもなければ素早く飛び
込んだ訳でもない。やや足早な、普通と言える歩調で…。
あまりにも無警戒なその動きに虚を突かれたのか、ぼくと同じく、実際に相手と向き合っているアブクマも目を大きくして
動きを止める。そこに何かあるのかと勘ぐって。しかし…。
「あ!」
声が上がったのは、ぼくの隣のイヌイからだった。
僅か一歩半にも満たない、手が届くかどうかギリギリの距離で、カンバラ選手はアブクマに掴みかかった。
それも襟狙いじゃなく、明らかに袖を狙って、上向きに腕を繰り出して。
ビックリしているんだろうアブクマが、ぼくが知る限りで初めて、試合中に狼狽の表情を見せた。
カンバラ選手の動きは、それだけ滅茶苦茶で型破りだった…。
袖を取られたアブクマが、迷いながらも仕方なしに相手の袖を取り返し、熊の右手と猪の左手がしっかり繋がる。そこから
気を取り直したように襟を取りに行ったアブクマの左肘付近で、カンバラ選手の右手が道着をしっかりと握る。
何て不意打ちだ!思いっきり真正面から行っているのに、効果はしっかり不意打ちそのもの!しかも何だか妙な具合の組み
方になったぞ?アブクマもやり辛そうだ…。
などと思った次の瞬間、カンバラ選手の体が急旋回した。
袖を掴み合ってしっかりロックしたアブクマの右手を引き、同時に左袖を掴んだまま強引に押すその回転に、あろう事か大
熊の巨体があっさり巻き込まれる。
お!か、それとも、あ!か、呻きのような声がアブクマの口から漏れたと思った次の瞬間には、両者はもつれ合うようにし
て畳に転げている。
…判定は有効!危ない!
おそらくは回転させつつ足を絡めて投げを打とうとしたんだろうけれど、アブクマの反応が良かった。掴んだ襟を引きつけ、
引かれた手を抱え込むようにして密着させ、自分も足を絡ませた事でカンバラ選手の体勢を崩し、刺し違えに近い形で潰しに
行っている。
しかし諸共に転げたとは言っても体勢は依然としてカンバラ選手が有利…。しっかりなアブクマ!
が、ぼくが心配するまでもなく寝技を警戒し、素早く膝立ちになったアブクマは、しかし袖を取ったままのカンバラ選手が
さっさと腰を引いて立ち上がると、またもや虚を突かれた顔をする。
…何から何まで予想を裏切られる…。物凄く組み難いぞこの選手!?
立ち上がったアブクマは、気を取り直したように揺さぶりをかけた。
が、どうした事か、体格で勝るアブクマが、カンバラ選手をリードできない。
けれど、考えてもみればあんな強引な投げ技を繰り出す選手だ。腕力も半端じゃないだろう。
…アブクマが持ち味の腕力でもそう優位に立てない。おまけにあの動き…、何から何までやり辛い!アドバイスしようにも、
ぼくが思い描く事が通用するような相手じゃ…。
「きゃっ!」
突然、シンジョウさんが声を上げる。おもむろに出された足払いを避け損ね、アブクマの巨体がぐらっと揺れたせいで。
丸太のような太股をしているし、足払いも強力だろうが…、しかしアブクマは妙な顔をして、戸惑っている。
避け損ねた事に納得が行かないのか?それにしたってそっちに気持ちを割くのは後にすべき…。
なんて思っている間に、反撃に転じようとしたアブクマはもう一度足払いを受ける。
またも避けたように見えたアブクマの足が、引き込まれるように動く。まるで、掠めるように接触したカンバラ選手の足に
吸い付けられるように…。…ん?
ぼくは眉根を止せ、今見た光景をできるだけ正確に、できるだけ細かく脳内で再生する。
…足が…。掠めて…。引っ張られて…。まるで何かトリックでも使ったかのように…。
考えている間にも、体勢を崩したアブクマがぐっと押されてたたらを踏む。まるで試すような揺さぶり…、仕掛けるタイミ
ングを計っているんだ!
まさに、「まさか」だった。
戸惑っている事もあるだろうけれど、アブクマがこんなにも一方的に、劣勢に追い込まれるなんて、思ってもみなかった…!
旗色が悪い事は、イヌイやシンジョウさんは勿論、オシタリにも判ったんだろう。声援が緊張と熱を帯びている。
「イワクニ主将。何だかこう…、アブクマ君が試合し辛そうですねぇ」
のんびりとした口調ではあったけれど、そう言う理事長も、表情は緊張してやや硬い。
「何か、アドバイスしてあげられませんか?」
「アドバイスと言っても…」
ぼくは口ごもるしかない。アブクマはぼくよりずっと強いし、相手だってそうだ。ぼくなんかがしてやれる事なんて…。
無力だ…。主将とはいっても名ばかりのぼくは、こんな時に後輩にただ声を送る事しかできない…!効果のありそうなアド
バイスなんて、何も…!
拳を握りしめるぼくの横で、理事長は続ける。
「私やイヌイ君は、何もできません。けれど、イワクニ主将?あなたなら、アブクマ君に効果的な事が言えるんじゃないのか
しらねぇ?何も具体的なアドバイスに限った事じゃなくていいの、心を押せる言葉が…」
そんな事…、そんな事を言われても…、ぼくは…。
足払いから引き込まれ、崩されかけたアブクマの体が再び揺れる。理事長の言うとおり、アブクマはやり辛そうだ。
自分の柔道ができていない。相手と噛み合わない。カンバラ選手の動きが、まるで駆け出しの新人の柔道のように、所々た
どたどしくてぎくしゃくして、予測不能なせいで…。
…ん?…新人の…柔道…?
自分の心の言葉がひっかかり、ぼくは改めてカンバラ選手を見る。
あの話…、他の種目でも全国制覇した選手は、やっぱり彼なんだろうか?
だとしたらちぐはぐなのも頷ける。少なくとも柔道歴は一年未満って事になるし、ちゃんぽんした他の競技の癖が抜けきっ
ていなくても不思議じゃない…。
…だとすれば…。だとしたら…。
「アブクマ!新人に胸を貸すつもりで行け!」
気付けばぼくは、声を張り上げてそう言っていた。
この会場の声援の中、アブクマの耳に届くかどうかは判らないが…、確信した。アブクマがこの事に気付きさえすれば、い
くらかやり易くなる!
頼む!シンイチの馬鹿声の半分でいいから、出てくれぼくの声!
「新人の後輩と組んだ時の事を思い出せ!指導した時の事を思い出せ!ちぐはぐでたどたどしい所は同じだ!」
声を張り上げたぼくを、イヌイが、シンジョウさんが、オシタリが、理事長が、そして近くの観客が見つめる。
それはそうだろう。全国の舞台に上がった選手を相手にしている今、「新人とやるつもりで行け」だなんてアドバイスは、
正気の発言とは思えない。
けれど、アブクマの動きは少し経つなり、劇的に変わった。
柔道の物としてはややおかしい相手の動きに対応するように、いつもよりやや腰を落とし、どっしり構えた備えの格好にな
る大熊。
まるで先輩が、駆け出しの後輩に仕掛けさせて、その動きをじっくりと見て指導してやる時のような格好だ。
途端に、アブクマは振り回されなくなった。素人特有の強引な動きや無駄を的確に捉え、反撃に揺さぶりすらかけている。
動きが変わるなり、見定めて引っかけた出足払いでカンバラ選手を横に崩して尻餅をつかせ、歓声が上がった。
有効!良し良し良しっ!良いぞアブクマ!
アブクマはそこで様子を見に行くそぶりを見せたが、ぼくは再び声を張り上げる。
「行けアブクマ!相手を休ませるな!寝技なら有利だぞ!」
根拠が無かった訳じゃない。さっきカンバラ選手が追撃に入らなかった事は引っかかっていたし、ぼくの想像通りに彼が初
心者だったとしたら、時間のかかる寝技の習熟は進んでいないはずだ。
やはりぼくの声は届いているのか、アブクマはカンバラ選手を押し倒しにかかった。
もがく猪を組み伏せて押さえ込みに入ると、横から四方に…、いや、体を反転させてすぐさま縦に、フェイントまで入れて
惑わし、巧みに巨体を乗せ、カンバラ選手を圧迫するアブクマ。
が、荒々しい鼻息を吹き出しながら、カンバラ選手はのしかかったアブクマの巨体を押しのけにかかり、押さえ込みに填ら
ない。
とんでもない腕力だ…!あのアブクマの体を、腕の付け根と脇腹に手を付けて押しつつ、ブリッジの格好で押し上げるなん
て!アブクマの腰は浮いている。腕二本にあの体重の殆どがかかっているぞ!?
当てられたカンバラ選手の手が腹に深く沈み込むほど粘ったアブクマだが、そのまま審判に分けられる。
仕切り直す両者は、道着が荒々しくはだけていた。
帯まで緩んでいたカンバラ選手はしっかりと締め直し、お腹がべろんと出ていたアブクマは道着の裾を引っ張って戻す。
両者とも息が上がっているけれど、疲労はそう深いように感じられない。
むしろアブクマは、さっきよりもずっと生き生きして、気力が充実しているように見える。
またも真正面から組み合う両者。やり難さを感じさせなくなったアブクマに、カンバラ選手は積極的に仕掛ける。
凌ぐアブクマはまだ余裕があって、的確に反撃しては相手を逆に揺さぶり、深追いし過ぎないで攻めと守りを的確に切り替
える。
…アブクマは意図していないのかもしれないが、あれは今までの彼には無い柔道だ。あんな配分まで身に付けていたのか…。
小山のような熊と、鉄球のような猪。重量級のぶつかり合いはド迫力で、会場は両選手の一挙手一投足に沸く。
息つく間もない目まぐるしく攻防を入れ替えるこの試合には、柔道に詳しくない人でも興奮するだろう。激しく、力強く、
荒々しく、しかしそこから繰り出される技は、決まりさえすれば美しい。
一瞬でも目を離せば決着がついているかもしれない…。そんな思いから目が離せなくなり、瞬きすら惜しんでしまう。
アブクマ…。ネコヤマがオジマ君と試合をした時、楽しそうだって、きみは言ったね…。
自分はネコヤマにあんな顔をさせられなかった。それが悔しいんだって、きみは言ったね…。
今、ぼくは同じ気分だよ…。
アブクマはいつだって楽しそうに、嬉しそうにぼくと稽古していたけれど、そんな顔は一度もぼくに見せてくれなかったも
んなぁ…。
妬けるよ、本当に…。
アブクマの体が揺れ、たたらを踏んで、会場がどよめく。
足払いに引っかけられたアブクマは、またも疑問の表情を浮かべた。外したはずなのに、何故引っ張られるのか?と…。
けれど…、今度はタネを見抜けた。これは組み合っている本人じゃ気付き難い。カンバラ選手が頻繁に牽制に使うあの足払
いは、かなり独特なんだ。
「くるぶしに指をかけられるな!足首を内側に曲げて避けろ!」
ぼくが声を上げると、アブクマは小さく頷いたように見えた。
対してカンバラ選手は一瞬注意が逸れ、「え?」とでも言いたそうな顔になる。
たぶん本人も気付いていなかったんだろう。足の指を熊手のように曲げて、相手のくるぶしに引っかけるようにして払うあ
の足払いが、いかに外し辛い物なのか。
慣れた様子から察せられるけれど、彼が元々やっていたスポーツか格闘技の名残なんだろう。柔道でも人によるけれど、で
きさえすれば強力な武器になる。何せ仕掛けられた側からすれば、吸い付かれたように足が外し難いんだから。
気になって仕方なかった、注意すべき足払いへの対処ができたアブクマは、より攻め手を強める。
攻勢に出たアブクマに、カンバラ選手が追い込まれる。
中学時代に全国二位まで登り詰めた実力者だ。まともに柔道ができるなら、どんな相手とも渡り合える!
いつの間にかさっきまでとは形勢が逆転し、逆にカンバラ選手がやり辛そうになっていた。
思うに、ここまでは経験不足を補って余りあるポテンシャルと、あの強引な試合展開で相手をねじ伏せて来た彼は、逆にま
ともな柔道の試合に引きずり込まれた事で戸惑っているんだろう。ペースを握れなくなったせいでボロが出始め、ポカミスが
立て続けに出る。
水を得たように活力が戻り、息も付かせない猛攻を見せるアブクマ。それを何とかかんとか凌いでいるカンバラ選手も、と
んでもない反応の良さだ。
仕掛けられた十八番、アブクマの大腰に反応して、途中で自ら崩れて難を逃れたカンバラ選手は、「参ったなぁ〜」とでも
零しているのか、何か呟きながら審判の旗を見遣った。
上がった判定は有効!惜しいっ!けれど行けるぞアブクマ!その調子だ!
開始位置に戻り、再び道着の乱れを直す両選手。
カンバラ選手は帯の締め方にも不慣れで緩いのか、毎回派手に着崩れている。
帯からすっかり抜けた道着が羽織りみたいになって、西瓜でも呑んだようなぽっこりお腹が臍まで丸出しだ。
服装を整えたカンバラ選手は、何やら困った様子でガリガリと頭を掻くと、ため息でもつくように大きく深呼吸した。
その顔付きが少し変わった事に、ぼくは気付いた。
当然アブクマも気付いただろう。少し訝しげな表情になり、次いで緊張したように顔が引き締まる。
何だろう?顔付きだけじゃない。雰囲気も少し変わって…?
はじめの合図で腕を上げ、吠えるアブクマ。
しかしカンバラ選手は腕を上げず。だらりと下げたままぐっと腰を落とした。そして、突進前に猛牛か何かがそうするよう
に、足でザッザッと畳を掻く。
その、あまりにも静かで、あまりにも異様で、あまりにも重々しい姿勢に、ぼくは固唾を飲んだ。
その直後に何が起きたのか、一瞬判らなかった。
低姿勢からいきなり前に出たカンバラ選手。その体が、前後に大きく伸びたように見えた。
照明を浴びる白い道着が尾を引いて目に残り、その先端がアブクマの懐に滑り込む。
「え?」
…ぼくが思えたのは、いや、きっとアブクマ本人もその刹那に思えた事は、そんな思考にもならない疑問じみた感覚だった
だろう。
気がついたその時には、反転したカンバラ選手に腕を掴まれ、引っこ抜かれる格好で、アブクマの巨体は宙に舞っていた…。
ずどぉん!と、ぼくらの足下に響いてくる強烈な振動。いや、衝撃、というべきか…。
背中から畳に叩き付けられたアブクマが、硬直したまましばし頬を膨らませた後、「げほっ!」と大きく噎せ返る。
直前まで会場を満たしていた大歓声が、今はすっかり静かになり、低いどよめきがあちこちから上がっている。
「…え…?」
掠れたその声は、イヌイの物だった。
ぼくだって「え?」だよ。何が起こったのか、目の当たりにしながら信じられない…。
懐に飛び込むなり反転し、無理矢理一本背負いで引っこ抜く…。あんな真似ができるものなのか?強引も強引…、相手の力
なんて一切利用していない、完全な力業だ…。しかも投げられたのは190キロもあるアブクマだ。だからこそ信じ難い…。
「一本…!」
やや遅れて、審判が旗を上げた。
それを見届けたカンバラ選手は、身を起こして座り込んだまま激しく噎せ返っているアブクマを見下ろすと、横に回り込ん
で手を差し伸べた。
噎せながら見上げたアブクマは、ニカッと、人懐っこそうな、しかしどこか申し訳なさそうな、眉尻を下げた苦笑いを浮か
べている猪に、してやられたと言わんばかりの苦笑を返す。
手を借りて立ち上がったアブクマが、カンバラ選手と共に試合場の真ん中に戻り、試合の終了が告げられると、場内から割
れんばかりの拍手が巻き起こった。
「…すげぇ…」
ぽつりと漏れたその声は、オシタリの物だった。
うん。そうだなオシタリ。ぼくも今、そんな言葉しか出て来ないよ…。
礼をして試合場を降り、引き返して来るアブクマを、ぼくらは手が痛くなる程の拍手で迎えた。
黙って戻ってきたアブクマはぐっと口元を引き結び、悔しげな顔で一瞬黙り込んだ後、「はぁ〜…」と、深いため息をつき
ながら項垂れた。
悔しくて、でもって落ち込んでいる?何か声をかけてやらなくちゃと言葉を探すぼくの前で、しかしアブクマはすぐさまが
ばっと顔を起こした。
「ぬははっ!負けちまったよ!ちっくしょ〜っ!見事にやられたなぁ!」
そう言いつつ太い指でポリポリと頬を掻くアブクマは、すっきりしたような、清々しい笑みを浮かべていた。
「済んません主将。ユリちゃん。やれるだけやってみたけど、勝てなかったよ…。悪ぃなオシタリにシンジョウ。応援に来て
貰ったのによ…。…キイチ。イマイチ決まんなかったなぁ俺…」
「そんな事…」
「そんな事無いっ!」
ぼくの言葉を遮ったのは、小柄なクリーム色の猫だった。興奮しているのか、細身の体は被毛が立ってぽわぽわ丸みを帯び
ている。
「僕はまだ柔道の事そんなに詳しくないし、自分でもやってないけど…、それでも思った!さっちゃんは立派だった!凄く立
派に試合してた!かっこよかったよ、とびっきり!」
真剣な顔で自分を見上げ、まるで反論を許さずまくし立てるようにして一息に言ったイヌイを、アブクマはちょっとびっく
りしたような顔で見下ろす。
「そうですよアブクマ君。立派でした。とても良い試合をしたと、私も思いますよ」
理事長が柔らかく微笑み、その横でシンジョウさんが口の端を上げて笑う。
「「どうだ!」って胸を張って良いわよ。誰からも文句がつけられない名勝負だったって、この私が保証してあげる!」
「…まぁ、見応えはあったぜ…」
面と向かって褒めるのは照れくさいらしく、オシタリはそっぽを向いてアブクマの顔を見ないようにしながら、ぶっきらぼ
うに呟いた。
そして、ぼくは…。
「アブクマ…。あの…」
出遅れた感もあっておずおずと口を開いたぼくは、大きな後輩の視線を受けて、言葉が続かなくなった。
アブクマはまだ息が乱れていて、激闘でかいた汗の臭いがする。
一生懸命頑張ってくれた後輩に、この大舞台に連れて来てくれた後輩に、あんな素晴らしい試合を見せてくれた後輩に、何
故かぼくは何も言えない…。
黙り込んでしまったぼくと向き合い、アブクマは少し恥ずかしそうに、指先で鼻をコリコリと掻きながら口を開く。
「主将の応援、きっちり届いたっすよ。おかげで善戦できた…。助かったっすよ本当に。やっぱ主将は頼りになるぜ!」
恥ずかしそうにそう言ったアブクマの言葉で、ぼくは胸がいっぱいになった…。
「…何言ってるんだよ…、ぼくは何も…、力になってやれなくて…」
震える声を絞り出し、大きな後輩の顔を見上げ、ぼくは無理矢理笑顔を作る。
そうでもしなければ泣けて来そうだったから…。
「お疲れ様…!ぼくは最高の後輩を持ったよ…、アブクマ!」
何故か視界が潤んで、アブクマの顔が揺れて見えた…。