第二十三話 「兵どもが夢のあと」

試合の熱も冷めない会場を後にして、ぼくはアブクマに付き添い、通路を歩いていた。

割り振られている更衣室を目指して。

汗を吸った道着を着込んでいる後輩を、今はゆっくり休ませてやりたい…。

こんなに頑張ったんだ。今からどんなにだらけたって、文句なんか言わないし言わせない。

イヌイもついてきたそうなそぶりを見せたけれど、彼には試合の撮影を頼んだ。

ぼくはここまでだけれど、アブクマには来年から先もある。全国レベルの試合記録は貴重な財産だ。

「終わりかぁ…」

アブクマがしみじみと呟く。

「そうだなぁ…」

ぼくもしみじみと応じる。

大会も進んで選手が絞られたら客もだいぶ減ったようで、ぼくらが並んで歩く通路は一時期と比べて空いている。

更衣室までの道程を、まるで惜しむようにゆっくりと歩むぼくらは、アブクマの体格のせいで人目を引いていた。

体を少し左右に揺らし、のっしのっしと歩きながら、アブクマはボソボソと小声で話し始めた。

「主将、俺さぁ…。前に一回怒られたけど、それでもやっぱ、主将とか皆の為にも勝ちてぇって思ってた。…勿論、自分自身

の勝ちてぇって気持ちもでけぇよ…。それでもやっぱ…、さ…」

「うん…」

「思い上がりだって事は判るよ…。けど、誰かのせいにするとかじゃなくてよ…、誰かのため「にも」って思うとさ、今まで

以上に頑張れた…。張り合いがあるっつぅか…」

「…うん…」

「学校の為とか、部活の為とか、主将の為とか…、何かの為「だけ」ってのは、頑張る理由として歪な気はする…。けどよ、

俺はやっぱ…、自分の為「だけ」じゃイマイチ張り合いがよ…。…欲張りなのかなぁ、俺…」

「そうだなぁ…。でも…」

不器用に言葉を紡いで、いつかの叱責に反論しようとするアブクマは、難しい問題に取り組む子供みたいな悩み顔で、一生

懸命で…、何だかとても可愛く見えた…。

だからぼくの顔には、自然と笑みが浮かんだんだ。

「ぼくやネコヤマはああ言ったけれど、もしかしたらアブクマは理由を欲張った方が頑張れるのかもしれない。…それはきっ

と、悪い事じゃないよ。むしろ素晴らしい事かもしれない」

怒られるとでも思っていたんだろうか?決まり悪そうに、そして窺うようにぼくを横目で見て来たアブクマは、耳をペタン

と寝せて首を縮めている。

その様子がまた可笑しくて、可愛くて、ぼくは笑みを深めてしまった。

「ぼくやネコヤマはさ、誰かの為にって思って打ち込めるほど、気持ちに余裕が無いんだよ。柔道の、試合の、相手の事…、

つまり自分自身と、自分が向き合う物に集中して、他に何か背負い込む余裕は無い。負担を軽くして試合に臨む為にも、他の

何かの為にっていう理由まで背負うのは厳しいんだ」

「背負い込む…」

呟いたアブクマに頷き、ぼくは続けた。

「けれど、きっとアブクマは体も心もでっかいから、ぼくらと違って他の物も背負えるんだろうなぁ。そしてそれが頑張りの

原動力にもなるのかもしれない。だから張り合いが感じられるのかもしれない。だとしたらそれは、とても素晴らしい事だよ」

ゆっくりと歩むぼくは、傍らの大きな後輩を見上げた。

「ああ…。何もかも越えて行くなぁ、アブクマは…。ぼくにはもう、手を貸してやらなきゃいけないような事は残って無さそ

うだ」

そう…。ぼくは今、実感していた。

普段はどっしり構えているのに、時には意気込みが空回りしたり、危なっかしい所が見えたり、時々妙に頼りなく思える事

もあった後輩が、今では独り立ちを果たせるほど立派に成長を遂げていた…。稽古で鍛えられて肉体的にってだけじゃなく、

精神的にも…。

もうぼくは、アブクマが必要とする事を何も与えてやれない。教えるべき事も、支えてやる必要も、もう無くなったんだ…。

肩の荷が下りた…という感覚はない。ほっとするより、寂しさの方が大きい。

何だかんだ言って、柔道じゃとても敵わないこの後輩の世話を焼いてやる事が、ぼくにとってはとても楽しく、嬉しかった

んだ…。

「…主将?」

アブクマの訝しげな、そして少し慌てているような声に、ぼくは首を傾げる。

「主将…、目…」

言われて目元に手を遣れば、目尻が濡れていた。

…寂しいからかな?それとも嬉しくてかな?この涙は…。

「はは!呆れるなぁ…。試合をしたのはアブクマだったのに…」

強がって笑うぼくの横で、涙を見ない気遣いからか、アブクマは前を向く。

「試合は、主将もしてたじゃねぇっすか。あの後半…、主将の声がけが無かったら、あそこまで盛り返せなかったぜ、俺…」

大きな熊はそう言うと、少し照れ臭そうに、そして嬉しそうに破顔し、頬を指でポリポリ掻く。

「…やっぱ主将は、最高の先輩だ!」

身に余る言葉だった。

だからまた泣けて来そうになって、ぼくは顔をやや上に向け、話題を変えた。

「帰路の途中でお別れだから、次に会うのは夏休み明けだな。休み明け最初の部活は、全国大会の反省会兼お祝いのミーティ

ングだ!」

「あー、そういや明日からしばらく会えねぇっすね」

話題に乗ってきたアブクマは、たぶん茶菓子なんかを期待しているんだろう、口の端を笑みの形にぐっと吊り上げる。

「祝いも兼ねてって事は、菓子とか用意してっすか?」

やっぱり菓子に期待か。判りやすいなぁこの食いしん坊は。

「そうだなぁ。パーッと行こうか!何せ…」

続く言葉を、ぼくは飲み込んだ。

そのミーティングこそが、ぼくが柔道部として過ごす最後の部活動になる。延び延びになっていた引退は、その時にこそ…。

言わなくとも察したんだろう。アブクマは一時押し黙り、それからおずおずと口を開いた。

「主将。その時さ…」

「うん?」

見上げた先にあるアブクマの顔が、ぼくの方に向けられた。

少し躊躇うように口ごもったあと、アブクマはもじもじと切り出す。

「あの…、そん時さ…、最後だから、俺と…」

そんなアブクマの言葉は、唐突に途切れた。

突然「よっ」と、後ろから声をかけられたせいで。

足を止めて振り向けば、ずんぐりむっくりした猪の姿。

遅れて振り返ったアブクマは、たぶんぼく同様に彼が声をかけて来たのが驚きであり、疑問でもあったんだろう。訝しげな

顔付きでペコッと会釈する。

「なんでぇなんでぇ?お前さんら同じガッコだったんだなぁ!いやいやこいつは吃驚さね!」

カンバラ選手はぼくとアブクマの顔を見比べると、厳つい顔を笑みで歪める。

「さっきはあんがとさん!イワタニ君!」

「どういたしまして。…イワクニなんだけど…」

「うっ…!?」

訂正したら、カンバラ選手は気まずそうに首を縮め、「こりゃ失礼…」と頭を掻いた。

それからアブクマに視線を向けると、意味ありげに目を細める。

「強ぇなぁ、お前さん」

「先輩のが強ぇっす。完敗だったぜ」

言い訳するでもなく、笑みすら浮かべて応じたアブクマを見つめ、カンバラ選手は何故か、決まり悪そうに少し顔を顰める。

「気持ちの良い野郎だなぁお前さん…。兄貴と賭けさえしてなけりゃ、ズル抜きで勝敗決めたかったけど…」

ボソボソと、半ば以上聞き取れない小声で呟いた後、「ま、一方的なズルでもねぇかね?」と零し、カンバラ選手はアブク

マの全身を窺うような目で眺め回した。

「…んで、ちょいと訊きてぇ事があるんだけどよぉ…」

「何すか?」

アブクマが応じるなり、猪はすぅっと目を細めた。

「お前さんの「そいつ」は…、生れつきかい?それとも後天的なモンかい?」

そう尋ねるカンバラ選手の表情に、ぼくはゾクッとした。

顔からは直前までの笑みが消えて、細められた目は鋭い眼光を放っている。

試合をしていた時とは別種の真剣さが伺えるカンバラ選手からは、ピリピリと張り詰めた、異様な空気が発散されていた。

思わず身を硬くするぼくだったが、見据えられている当の本人…アブクマは、「ん?」と訝しげに眉を寄せたものの、この

張り詰めた空気に気付いていないのか、それとも気にならないのか、いつも通りの態度を崩さない。

「生れつきって、何がっすか?」

首を傾げるアブクマをじっと見つめた猪は、小さく「んん…?」と鼻を鳴らし、しばしあってから頷いた。

「…ん…、なるほどな…、誤魔化してる風でもねぇし、どうやら自覚がねぇらしいやね」

「…だから、何がっすか?」

疑問顔のアブクマだが、ぼくだって話の中身はチンプンカンプンだ。

それでもカンバラ選手にとっては重要な事らしく、眼差しの厳しさは依然として変わらない。

「じゃあちょいと質問を変えるが…、お前さん、死にかけた事ぁねぇかい?例えとかじゃなくて、事故か病気か何かで、実際

によぅ」

その脈絡も無く投げ掛けられた奇妙な問いで、少しだけアブクマの表情が変わった。

驚いているようでもあり、痛がっているようでもある、奇妙な顰めっ面…。

その大きな手は何故か、丸々とした出っ腹に当てられていた。まるでそこが痛むように。

カンバラ選手はそんなアブクマの様子を、すぅっと一層細めた目で凝視する。心の微細な揺れや、僅かな表情の変化も見過

ごすまいとしているように、鋭く、慎重で、油断の無い目つきで…。

やがてアブクマが「なんで…」と呻くように漏らすと、猪は深く頷いた。

「どうやらこっちにゃ心当たりがある様子だなぁ?なるほどなるほど…」

一人納得したように呟いたカンバラ選手は、軽くひょいと肩を竦める。

「けどまぁ、俺っちの見立てじゃあ緩みも致命的って程じゃあねぇし、無自覚とはいえ制御もしっかりしてらぁ。悪ぃ風には

使わねぇだろうし、手ぇ出す必要もねぇさね?」

そう軽い調子で言うカンバラ選手からは、さっきまでの嫌な威圧感は消えていた。

「しっかし、お前さんには借りができちまったなぁ」

「借り?って何すか?」

カンバラ選手の意味が判らない言葉に付き合い、疑問続きで疲れてきたのか、アブクマは途方に暮れた顔付きだ。

「まぁこっちの話さね。…自覚ねぇんだから、説明しねぇで放っといた方がお前さんのためでもあるしなぁ…。とにもかくに

も、俺っちにしてみりゃあ借りは借りだから、いずれ返してぇとこだけど…、あ、そうだ」

考え込むように一度顔を顰めたカンバラ選手は、すぐさま何か思い付いたように表情を明るくする。

「もしもこっから先よぅ、お前さんが、普通じゃあり得ねぇような事でどうしようもなく困ったらなんだけど…」

カンバラ選手はまた酷く抽象的な事を言い出し、アブクマはもう苦悶するような顔になっている。

「何処でも良いから交番か警察署にでも駆け込んで、「五番目の猪に連絡取りたいから上のヤツ出せ」って言ってくんな。お

まわりさんによっちゃあ困惑するかもしれねぇけど、上役に「次男坊に用がある」って伝えてくれりゃあ話は通るから」

「あー…、ん…?えぇと…」

アブクマは眉根を寄せ、それからぼくを見た。

いや、目で問われても困るよアブクマ。ぼくだって何が何だか…。

「良いな?どうしようもねぇような時は必ずだぜぃ?悪いようにはしねぇって約束するから!」

一方的にそう言ってニカッと笑うと、カンバラ選手はごつい手をアブクマに差し出し、握手を求めた。

「どうも…」

大熊が釈然としない表情で手を握り返すと、猪は次いでぼくにも握手を求めて来る。

カンバラ選手の肉付きが良い手は、ゴツくて分厚くて、汗ばんでいて熱かった。

…凄い手だ…。相当鍛え込んでいるんだろう、手の平や親指と人差し指の間では、被毛が擦り切れて短くなって色が褪せて

いる…。人間だったら同じ部位の皮膚がごつごつに硬くなっているんだろうなぁ…。

「そういや、お前さん達どこの高校だっけ?俺っち個人の名前でしか相手の事確認してなかったから、高校とかいまいち判ん

なくてよぅ」

「星陵。北陸だよ」

ぼくがそう応じると、カンバラ選手は「んぉ?」と声を漏らし、酷く驚いたように目を真ん丸にする。

「星陵?北陸の?もしかして半島の?」

「うん。知っているかい?野球なんかではちょっと有名なんだけれど…」

「知ってる知ってる!…っつぅかね!知ってるってか、俺っちの知り合い星陵ケ丘に住んでんだよ!こないだも泊りがけでお

邪魔してきた!うはははっ!ほんっと、偶然ってなぁあるもんさねぇ!吃驚だぁ!」

カンバラ選手はぼくの手を握ったまま、上下に激しくブンブン振る。

…接点が見つかった途端に、急にテンションが上がったような…?

まぁあるけど、そういう事って。実際ぼくの方もカンバラ選手をちょっと身近に感じ始めて、急に親しみを覚えている。

「えっと…、イワクニ君は俺っちと同い年かな?」

「え?うん、三年生だけれど…」

カンバラ選手は手を握ったままずいっと身を乗り出して来て、勢いに押されるようにぼくは仰け反る。

「んじゃさ!いっこ上にミギワってトドが居たと思うんだけど、知んねぇかね?寮に入ってて、相撲部だったんだけど」

聞き馴染みのある名前が予想もしない所から出て、今度はぼくの方が驚いた。

「ミギワって…、藤堂汀(とうどうみぎわ)さん?恰幅の良いトドの?」

極めて寡黙な、大柄で太っているトドの姿がすぐさま思い浮かぶ。

「そうそう!知ってんだ!?うはははははははっ!こりゃまたすっげぇ偶然さねぇ!」

知っているも何も、一つ上のその先輩は、ぼくらの寮の先代副寮監だ。

ぼくにとっては寮監引継ぎの関係でお世話になった先輩の一人で、寮生仲間という事もあってそこそこ親しい間柄だった。

その事を告げると、カンバラ選手はさらに相好を崩し、ぼくの手を握ったままぐいぐい身を寄せて来る。それこそ擦り寄ら

んばかりに。

「うはははははっ!面白ぇねホント!」

カンバラ選手はハグでもして来そうな勢いでぼくに詰め寄ったまま猪首を巡らせ、困惑顔のアブクマに視線を向けてニンマ

リ笑う。

「俺っち時々そっちに行ってんだ!ダチも居るし、お世話んなってる人も居るからよぅっ!今度行ったら連絡入れるからゆっ

くり話でもしてぇね!」

勢いに飲まれたらしいアブクマが、「う、うっす…」と頷き、視線を向け直されたぼくも頷いてしまう。

「おっと、すっかり時間取らせちまった!」

カンバラ選手は思い出したようにパッと手を離すと、二歩下がってすちゃっと手を上げる。

「んじゃまたっ!」

釣られて手を上げ、軽くふらふらと揺らしたぼくとアブクマに背を向けて、ずんぐりした猪は歩き出し…。

「ああ、そうそう…」

言い忘れた事でもあったのか、立ち止まって振り返る。

「俺っち、ぜっ…………てーにっ!優勝すっから!たぶん今日の相手ん中じゃ、お前さん達が一番強ぇ!」

自信満々に言い切ると、猪は再びぼくらに背を向け、のっしのっしと肩で風を切って歩き去る。

「「お前さん達」…だって…?」

眉根を寄せたぼくの横で、アブクマが軽く肩を竦めて苦笑いする。

「そりゃあ「達」っすよ。主将の声が無けりゃあ手も無く捻られてたんだ。あのひともそこんとこ判ってんだろうなぁ…。そ

れにしてもよ…」

大熊は猪が去って行った方向を眺めながら、腕組みをして首を捻った。

「何つぅかこう…、台風みてぇなひとだな…」

…言いえて妙…。それと…。

「一つ、疑問に思った事があるんだけれど…」

下ろした手を見つめながら呟いたぼくを、アブクマが横目で見下ろした。

カンバラ選手にずっと握られていた手は熱くなって、ちょっと汗ばんでいる…。

「「連絡するから」って言っていたけれども…、ぼくらの連絡先も訊かずに?」

「あ」

アブクマが目を丸くする。

…まぁ、トウドウ先輩の知り合いみたいだし、本当に会うつもりなら先輩経由で連絡が入るかもしれないな。寮とかに…。



結局、カンバラ選手は宣言した通りに全国制覇を成し遂げた。

あの選手に負けたアブクマは、もしかしたら組み合わせによっては準優勝だったかもしれない。…とはイヌイの弁。

アブクマは「どうだかなぁ」と苦笑いしていたけれど、案外その通りかもしれないと、ぼくも思う。

贔屓は入っているかもしれないけれど、ぼくの目にはアブクマと比べて明らかに強いと確信できるような選手は居ないよう

に映った。

何より、アブクマ以上にカンバラ選手に食らいつけた相手は居なかったし…。

なお、別階級ではオジマ君が優勝を飾った。

彼に負けたネコヤマにも、イヌイの言う法則は当てはまる。

強い選手はたくさん居たけれどネコヤマなら準優勝まで登れたかもしれない…。と、彼に言ってみるべきだろうか?

…いや、そんな事を言っても喜ばないだろうな、ネコヤマは…。

こうして全国大会は終わって、柔道に明け暮れたぼくらの夏もまた、終わりを迎える…。



会場最寄り駅前のロータリーを、傾きが大きくなった陽が照らす。

そこでぼく達は、醒山の寮生十二名から見送りを受けていた。

なお、取材が残っているシンジョウさんは明日までこっちに残って、明後日の朝に帰るらしい。

応援が残っているオシタリも同様で、他の団員達と一緒に明後日帰路につくそうだ。

「名残惜しいなぁ。来年もアブクマ君全国来るだろ?そしたら次はもうちょっと余裕もって来てさ、丸一日一緒に遊ぼーじゃ

んか?」

ぽってり太ったスコティッシュフォールドが、すっかり仲良くなったアブクマの顔を間近で見上げてそう訴えた。

寮にお邪魔した際に彼とオジマ君とアブクマでやったプチ相撲大会はよほど楽しかったのか、スゴ君はまた一緒に遊ぶ事に

対して妙にこだわりを見せる。

種族と身長はだいぶ違うけれど、体型が似通っているせいで、シルエットだけ見れば二人は兄弟のようだ。

どうやらかなりの汗っかきらしく、熱心に訴えるスゴ君の、弛んだあんこ体型を包む薄手の袖無しシャツと短パンには、だ

いぶ涼しくなって来ているのに汗染みが浮いていた。

「あのなぁスゴ、来年の全国大会は首都になるはずだぞ?全国出場できてもこっちには来ないって」

そうやんわり指摘するのは、オジマくんのついでにぼくらの応援もしてくれた彼ら…醒山寮生達の引率者である、寮監のヤ

マト君。

こっちは背格好までボリューム万点でアブクマと酷似した体型。…いや、アブクマより幾分弛んだ体かもしれない。

おまけに顔立ちまでとても似ているから、「まるで」と言うより「まるっきり」アブクマの兄弟か従兄弟みたいに見える。

「あ。そうだったっスかね?ちぇっ…」

残念そうに口を窄める可愛らしい猫に、オジマ君が訝しげな顔を向ける。

「スゴも全国まで上がればいい。そうすれば来年首都で会えるだろう?」

「また軽く言うよこの先輩は…」

イイノ君がどこか呆れた調子で呟き、ため息を付いた。

が、スゴ君は目を大きくした後、「あ、そっか!」と声のトーンを高くする。

「盲点!さっすがオジマ先輩!あったま良いっス!」

「まあな」

物凄くすっきりしたような顔で感心しているスコティッシュフォールドと、まんざらでも無さそうに頷く虎。

そして、二人に何か言いたそうな顔をしながらも、しかしどこにどうつっこむべきか判らないらしく、神妙な面持ちで黙り

込む羆と猪。

まぁ、本人がやる気になっているんだし、水をさす必要もないよね?この場合…。

「寮監は毎日暇を持て余している。稽古をつけて貰え。相撲向きの体型と体格だから丁度良いだろう」

「勝手な事言うな。それと馬鹿言うな。俺は運動向きの体じゃないっての。こう見えてインドア派で頭脳派なんだから」

羆が顔を顰めながらそう言うと、スゴ君は「勿体無い体だなぁ…」としみじみ呟く。全くもって同感だ。競技によってはそ

のガタイだけでも武器になるだろうに…。

「しかし、寮監ならぶつかる相手としては申し分ないでしょう。贅肉が厚いので怪我もしないでしょうから。スゴが」

「スゴがって…俺はっ!?」

「む?帰宅部の寮監は、怪我をしても選手生命に関わるような事はないので問題ないと思いますが?」

オジマ君が小首を傾げてさらりと酷い事を言うと、ヤマト君は額に手を当ててため息を付く。

「加えて言うなら、張り手の練習台の柱よりはぶつかり甲斐もあるし張り甲斐もあるし役に立つでしょう。自信を持って下さ

い。俺が保証します」

「欲しくないぞそんな保証!?要するに頑丈なサンドバックって事じゃないかよソレ!…はぁ…。お前時々酷いよなぁ…。俺

の事先輩だと思ってないだろ?」

「そんな事はありません。敬愛しています」

オジマ君は真面目な顔をしている。どうやら冗談やからかいじゃないらしい。しかも何故ヤマト君が渋い顔をしているのか

判らないようで、首を捻ったままだ。

…悪気が無くてああいう事を言うのか、オジマ君は…。シゲと同じでややデリカシー不足なのかもしれない…。

そのやりとりに呆れ顔だったイイノ君は、気を取り直したように咳払いしてこっちを向いた。

「おれと先輩も明日の昼過ぎにはこっちを発つから、また東護でな、アブクマにイヌイ」

「おう!」

「うん!」

イイノ君の言葉に二人は頷く。久々の故郷で過ごす夏休みが、楽しい物になるといいな、二人とも。

「いいな〜!連れてってよイイノ」

スゴ君がそう言ったものの、イイノ君は苦笑いして首を横に振る。

「だめだろスゴは?お盆あけに神社の奉納相撲大会があるから、夏休みも居残っていたんじゃないか?」

「あ〜、そうだった…。う〜…!」

口を尖らせるスゴ君。子供っぽいその様子にぼくらは笑みを零してしまう。

「帰ったらキダ先生にご挨拶に行く。お前も付き合え。それと、稽古にもな」

そうオジマ君が横から声をかけると、アブクマは短い尻尾をモソモソ振って嬉しそうに頷いた。

「全国制覇したばかりなのに、もう稽古の話ですか先輩?少しくらい羽を伸ばしたってバチは当たりませんよ?」

「決勝が終わった瞬間から、来年の総体は始まっているんだぞイイノ」

生真面目な返事をした虎に、猪は苦笑いを向けた。

「大変立派な心掛けだと思いますけどね。そんなんだとそのうちに尻尾の先から柔道が生えますよ?」

…それは…、一体どんな状態なんだいイイノ君?

オジマ君とアブクマも気になったのか、それぞれ自分の尻尾を振り返っていた。

「主将も腰辺りから柔道が生えて来たりして…」

イヌイがぼくの腰を見ながらそんな事を呟くから、ついつい気になってぼくも振り返った。

…大丈夫、まだ生えてない…。

「さて、名残惜しいけれどそろそろ時間だ。お世話になりました」

ぼくはいましばらく話していたい誘惑を断ち切り、頭を下げながら醒山の皆に告げた。

気を利かせて距離を取り、駅の入り口内で待っていてくれた理事長を遠く見遣れば、小さく頷いている。やっぱり、そろそ

ろ列車が来るらしい。

「道中気をつけて。残りの夏休み、たっぷり楽しんでな?」

ヤマト君がにっこり笑う。笑顔までアブクマそっくりで、どうしてぼくらがこんなにも早く彼に馴染めたのか、理由が判る

気がした。

彼が人望がある寮監である事は、同じ寮監であるぼくには、寮生達とのやりとりから判る。

威張る事なく、皆と仲良く、親しく、気持ちよく、一緒に過ごせるよう努力したんだろう。その人柄は会ったばかりのぼく

らの態度を軟化させたように、寮生全員の心を掴んでいるはずだ。

「有り難う。とても楽しかったし、応援してもらえて心強かった。感謝してるよ」

「がっはっはっ!なんのなんの、友達だろ?当り前だって、当り前っ!」

ヤマト君の言葉に、寮の皆も笑顔で頷いている。

友達と呼んでくれた事が、とても嬉しかった…。

後ろ髪を引かれる思いで彼らと別れ、ぼくらは駅の構内に入る。

理事長と合流しながら振り向くと、大きく手を振っている皆の姿が見えた。

「いいヤツばっかだったよな、醒山の皆…」

手を振り返しながら、満面の笑みでアブクマが言う。

「そうだね、皆いい人だった」

イヌイが一生懸命手を振りながら微笑んだ。

「携帯の番号も交換したし、いつでもまた話せるさ」

ぼくが半分自分に言い聞かせるつもりで呟くと、後輩達が頷く。

「来年の修学旅行、北街道にしましょうかねぇ?」

冗談めかして理事長がそう言うと、アブクマは腹を揺すって大笑いした。

「そいつはいいや!俺暑いトコ苦手っすから!」

「あらあら?じゃあ本当に考えちゃいましょうか」

「良いですね、北街道!」

盛り上がるアブクマとイヌイ。

…冗談交じりっぽいけれど…、気付いているか二人とも?その方は、本当に修学旅行の行き先を決められるひとなんだぞ?

…さて、いよいよ帰路か。

長かったようで、思い返せばあっという間の夏だったな…。

涼しい道北の風は既に秋の気配を漂わせ始めていて、ぼくに夏の終わりを実感させた…。