第二十四話 「しばしの別れと夏休みの開始」

長い長い帰りの電車が海峡の下を潜るトンネルを抜けて、ぼくらは本州へ帰ってきた。

地図上では海で隔てられているのに、電車で行き来できるのも妙な具合だなぁ…、なんて考え込んでしまう。行きが飛行機

だった事もあってちょっと不思議な気分だ。

「長かったなぁ!すっげぇ長ぇ!へぇ〜!これ全部掘るのどんだけかかったんだろな!?」

デッキに出てドアに張り付き、顔を窓にくっつけて後ろを見遣り、通り過ぎてしまったトンネル出口を何とか見ようとする

アブクマ。

図体はともかくその様子はまるっきり子供。やや興奮しているのか、でっかい尻の後ろからぴこっと出た短い尻尾がせわし

なく、そしてしきりにモソモソと動いている。

「えぇと…、着工から運用開始まで27年くらい?計画から数えたらもっとかも?」

博識なイヌイがアブクマに応じる。が、ぼくからはその姿が見えない。

…というのも、イヌイはアブクマと同じように窓にひっついて、彼の腹とドアの間に収まっていて、後ろから見るとすっぽ

り隠れているからだ。

帰りが空路でない事を残念がっていたアブクマは、しかしトンネルもまんざらではなかったらしく、ややテンション高め。

イヌイも落ち着いているように見えて、実は結構動き回っている。

ぼくはどちらかといえば、景色よりも二人の反応を面白がっている。しっかりしている割に、結構子供っぽいところがある

んだよなぁ二人とも…。

後ろを車内販売のカートが通り、やや通路寄りに立っていたぼくは道を譲る。すると気配でも察したのか、アブクマが反応

して窓から顔を離した。

「…サンドイッチとか食いたくねぇかキイチ?」

「さっきお弁当食べたじゃない?」

ドアを潜って消えたカートを見送りながらアブクマがそう呟くと、イヌイは呆れたように肩を竦めた。

「弁当は弁当。今はツナサンドな気分なんだよ。判んねぇかなこれ?」

「ごめん、さっっっっっっっぱり判んない」

共感を求められたイヌイは力いっぱい否定。

「主将はどうすか?」

次いで話を振られたぼくも、「今はいいかな…」と顔を顰める。夕食から三十分と経っていないし、流石に今は食べる気が

しないよ…。

「大会終わったからって早速飛ばし過ぎだよ?休み明けまでにデブデブになっても知らないからね?」

嫌味…と言うよりは本当に心配している様子でイヌイが忠告する。

だがしかし、大仕事を終えて浮かれ気味のアブクマは、「平気だって!平気平気!」と、気にする様子もない。…後でイヌ

イに自転車であおられながら半べそかきつつ延々と長距離ランニングを繰り返す羽目になっても知らないぞぼくは?

食べる気満々のアブクマは足早にドアを潜り、ぼくとイヌイは顔を見合わせて肩を竦める。

「サツキ君ってば、危険域近くになると慌てるくせに、ちょっと余裕ができるとすぐああなんですから…」

「喉元過ぎれば…ってヤツかな。まぁ、秋の新人戦までは調整だろうし、練習試合の申し込みも殺到するだろうから、休み中

に少々膨れても自然と絞られていくんじゃないかな?」

ぼくが困り顔のイヌイに苦笑でそう応じると、小柄な猫は思い出したように「あ」と声を漏らした。そして小さく首を傾げ

て頬を掻く。

「そうですね…、全国も終わったし、有名になっちゃったし、次の新人戦を見据えて動かないと…」

「頼むよイヌイ?ぼくもできる限りサポートはするつもりだけれど、正式には部員じゃなくなるんだから」

神妙な顔で素直に頷くイヌイ。その目がきょろっと、上目遣いにぼくを見た。

「あの…、まだこんな事を言うのは早いかもしれないんですけど…」

「うん?」

イヌイは少し間を開けて、それからペコッと頭を下げた。

「今まで本当に有り難う御座いました、主将」

改まって、かしこまって、丁寧に礼を言われたぼくがきょとんとしていると、イヌイははにかみ笑いで続ける。

「サツキ君や主将の力になれればって、マネージャーになってはみたけれど…。僕、柔道の事は本当に素人で、それどころか

運動部の事も、…ううん、部活っていうもの自体よく判ってなくて…、右も左も判らない役立たずでした」

「イヌイ?そんな事は決して…」

「いろいろ教えて貰って、ようやく形になりましたけど…、部活に集中しなきゃいけない主将の時間を取らせてしまいました」

「それは仕方ないんじゃないかな…。初めてなんだし」

「そう、主将はそう言ってくれますよね?」

ぼくの言葉で我が意を得たとばかりに、真っ直ぐに見つめて来るイヌイ。

「主将は至らない僕を怒鳴る事もなく、根気よく、丁寧に指導してくれました。…勢いで飛び込んではみたけれど…、教えて

くれる先輩が主将でなかったら、こんなに楽しく部活を続けて来れたか判りません」

再び深く頭を下げるイヌイに、ぼくは慌てる。

「い、いいよ、大したことじゃないんだから!そんなに改まって言われたら照れくさいじゃないか!」

こんな風に言われるとくすぐったくて堪らない!困ってしまったぼくの前で顔を上げたイヌイは、耳を寝せて微笑んでいた。

「サツキ君には敵いませんけど、ぼくも主将に感謝してます。最初は不安もありましたけど、マネージャーをしてみて本当に

良かった!」

お世辞を言っている風でもなく、イヌイは真っ直ぐな言葉で、真っ直ぐな気持ちを伝えて来た。

イヌイは社交的ではあるものの、そんなに我が強くなくて、どちらかというと控えめだ。

ぼくとの関係にしたって、まずはアブクマとぼくとの繋がりありきで、一歩引いた所からぼくを慕ってくれている雰囲気が

あった。

だからまぁ、こんな風に言われるとは思ってもいなかった訳で…。

…もしかしたらこれも、ぼくには見えていなかった、イヌイの本当の姿なのかもしれない。

「…ぼくも…」

照れくさくて、くすぐったくて、いがぐり頭を掻きながら、ぼくはやや俯きがちにイヌイを見つめる。

「感謝してるよ。イヌイがマネージャーでいてくれたおかげで、どれだけ助かったか判らない…。本当に感謝している…」

改まってお礼を言い合ったぼくらは、お互いに恥ずかしくなって苦笑いを交わす。

「…ぼくらも戻ろうか?」

「あ、はい…」

頷き合って足を踏み出したぼくは、しかしすぐ足を止めた。

先に行かせようと道を譲ってくれたイヌイが、「あ」と小さく声を漏らしたせいで。

イヌイは携帯を取り出すと、畳んだまま小窓を確認し、意外そうな顔をした。

それからぼくに「お先にどうぞ」といった感じで手振りし、電話に出る。

「もしもし、キイチです!…珍しいねアル君?僕に寄越すなんて…」

普段会えない地元の友達からなのかな?イヌイはちょっと驚いている風ではあったけれど、声を弾ませて嬉しそうだった。

「え?うん、今帰り道!あ、録画したから今度アンドウさんのパソコンに送るね!…サツキ君?ううん、起きてるよ?今まで

一緒だったけれど…」

イヌイはドアの方を見遣る。電話の相手はアブクマとも知り合いらしい。

…居ても邪魔になるな、先に戻ろうか…。

ぼくはドアを指し示し、先に戻るとイヌイに伝える。

頷いたイヌイに「アブクマに声をかけるよ」と小声で告げたら、申し訳なさそうに耳を寝せた。

「ゴメンね?サツキ君、携帯電話携帯しない事が多いから…。すぐ来るからね?そうしたら電話かわるね?…いや大丈夫だよ、

そんなに疲れてる様子でもないから。っていうかすっごい機嫌良いから。トンネル潜ってハイテンション!…ん?トンネルも

やっぱり巨大建造物扱いなんじゃないかなぁ?だからテンション上がってるんだと…」

後ろで閉じたドアがイヌイの声を遮ると、ぼくは座席に目を向ける。

おねだりでもしたんだろうか?カートからサンドイッチを買っている理事長の後ろで、アブクマは超ホクホク顔だ。

…サンドイッチとかおにぎりでそこまで幸せ顔になれる君が、ぼくは時々羨ましいよ…。

去っていくカートと入れ替わりで席に寄ったぼくは、座席二つを占領してサンドイッチのビニールを外しているアブクマに

声をかける。

「アブクマ、イヌイに友達から電話が入っているみたいだぞ?」

「ん?友達?」

怪訝そうな顔をするアブクマ。

イヌイの言葉から察するに、どうやらアブクマにかけても繋がらなくてイヌイに行ったらしいから、そこもあわせて説明す

ると、大きな熊はますます怪訝そうな顔になり、太い眉を八の字にする。

「誰だ?俺とキイチの共通の友達で、携帯知ってるって…、イイノ達か?何か忘れ物したっけ?」

アブクマは壁のフックにかけていたポーチをまさぐり、携帯を探す。

「とにかく、早く行ってやりなよ。確か…、え〜と…?「あーくん」?とか言ってたかな?」

「アルか!」

心当たりがあったらしく、振り返ったアブクマは声を大きくした。

「…うお、本当に着信してる!すんません主将、ゆりちゃん!ちょっと行って来る!」

慌ただしく席を離れるアブクマに道を譲ったぼくは、強引に出て来ようとした大熊の腹と壁の間でぎゅうっとサンドイッチ

にされた。

「い、いいけど…!地元の友達かい?」

そんなに興味があった訳でもなく、何となく発したぼくの問いに、

「俺を二回負かした相手っす!…ま、勝ち逃げされちまったんすけど…。ぬははっ!」

アブクマはそんな妙な答えを置き去りにして、どすどすと慌しくデッキに出て行った。

…二回負かせた?勝ち逃げ?何の話だろう?

首を捻って椅子に座ると、通路を挟んで隣り合った席の理事長が、にこやかに缶コーヒーを差し出して来た。

「わ!す、済みません!」

理事長は今のカートからぼくやイヌイの飲み物も買ってくれていたらしい。

恐縮して受け取るぼくに、理事長は笑みを深めた。

「お疲れ様でした、イワクニ主将」

「あ…、ありがとう…ございます…。でもぼくは…」

「「何もしていない」…なんて言うのは無しですよ?」

言葉を先取りされたぼくが押し黙ると、理事長は畳みかけるように続けた。

「立派に務め上げてくれました。たった三人の柔道部…、それも全国大会ですよ?常連さんとは違いますし、何から何まで間

に合わせで、何から何までサポーター抜き…。こう言うのも何ですけれど、私も最低限の事しか手伝えませんでしたからねぇ。

貴方達は自分達だけで殆どの事を準備し、備えなければいけなかった…。中でも主将?貴方の物理的、心理的重責は、後輩達

以上だったでしょう…」

柔らかく、優しく、理事長は言う。

くすぐったくて、恐れ多くて、勿体なくて…、ぼくは首を縮めて小さくなる…。

「貴方の頑張りがあったからこそ、アブクマ君も気持ちよく頑張れたんだと思います。イヌイ君だって、貴方が上に居たから

こそ…、何かあった時に後を受け持ってくれる、頼れる先輩が居たからこそ…、初経験となるマネージャー業を安心してこな

して来られたんですよ」

「……………」

「今からこういう話をするのも無粋ですけれどねぇ…。とびっきりの結果まで残せましたから、来年は柔道部の待遇も変わっ

て、きちんとした顧問も迎えられるでしょう。部員もきっと入ってくれます。ですから…」

理事長はぼくの顔を優しい眼差しで見つめ、静かに頷きかけて来た。まるで菩薩様のような笑顔で…。

「もう、心配要りませんよ…。お疲れ様でした。イワクニ主将…」

まだ確定ではないけれど、理事長が来年の事を保証してくれて、安堵と寂しさを覚えたぼくは、目頭を熱くした。

…ああ…。本当に…、もう終わりなんだなぁ…。

柔道に打ち込んで来たぼくの生活は、もう終わってしまうんだなぁ…。

「ありがとうございます…。理事長…」

ぼくは頭を下げ、涙が滲んだ目を見られないようにする。そして、声が震えないように苦労して口を開いた。

「…そう言って頂けて…、報われました…。強くはなかったけれど…。強くはなれなかったけれど…。それでもしがみついて

きたのは…、無駄じゃなかった…!」

そう。諦め切れなかった。往生際悪くしがみついていた。そうして続けて来た柔道とも、これでお別れ…。

生まれて初めてぼくの事を強いと言ってくれた大きな牛の顔が不意に脳裏を過ぎって、ぼくは軽く首を振る。

アブクマやネコヤマみたいな強い選手には、結局なれなかったけれど…、それでも後悔はしていない。

お前は強い、と言ってくれたヤツが居た。素晴らしい後輩と出会えた。素敵な友人と巡り会えた…。

親にはわがままを言ったけれど、柔道を続けてきて良かった…。今は心底そう思う…。

「心から…、心から感謝しています…!後輩達にも、先輩達にも、勿論理事長にも…。御世話になりました。そして、これか

らもアブクマとイヌイを、よろしく御願いします…!」

気持ちを上手く伝えられない不器用なお礼の言葉と同時に頭を下げると、理事長の小さなため息がぼくの耳に届いた。

「…自分にも他人にも厳しいあの子が、満点をつけて貴方を指名した理由…。今はよく判ります…」

…?あの子?満点?指名?何の事だろう?

顔を上げ、眉根を寄せたぼくには構わず、理事長は前を向き、遠くを見るような目をしながら続けた。

「トウドウ君にしか気を許さず、友達らしい友達も作らなかったあの子が、貴方やウシオ君…、……ガキ君には…特別に…。

気難しかったあの子が、気に入った理由が…、今は何となく…」

疑問で濁った頭の中が、理事長の聞き取り辛い小声から判別できた言葉で次第に澄んで行った。その片付いた心の中に懐か

しい先輩の顔が薄っすらと浮かぶ…。

「…もしかして…」

呟いたぼくは、ハッとして目を大きくした。

…何で気付かなかった?どうして考えもしなかった!?あのひとは、あの先輩は…、理事長と同じ…!

「もしかして…、その、ぼくに満点をつけたとかいうのは…、寮監の事ですか?ホシ…」

「ぬははははっ!あんな風に褒められると照れくせぇなぁ!」

言いかけたぼくは、聞き馴染んだ後輩の声を耳にして言葉を飲み込んだ。

ドアを潜ったアブクマは、イヌイの両肩に手を添えて押しながら、満面の笑みを浮かべてこっちへ歩いて来る。

「ぼくに直接なんて珍しいと思えば…、だめだよぉさっちゃん?携帯は携帯しなくちゃ」

「だなぁ。持ち歩くだけじゃなく、出かけた先に忘れて来ねぇように、ちゃんと持ち歩く癖も付けねぇと」

「そうそう!無くしちゃったら大変だもん」

うわ…。友達とどんな話をしていたのか知らないけど、和気あいあい…。

後ろ髪を引かれる思いではあったけれど、先輩について訊ねられる雰囲気でもなくなったから、ぼくは理事長への質問を控

えた。

…何だ…?何なんだ一体…?

カンバラ選手の口からトウドウ先輩の名前が出たと思ったら、今度は理事長から元寮監の事が…。

ぼくの頭には、その二つの名前と切っても切れない関係にあるアイツの顔が思い浮かんでいた。

…シンイチ…。かなり親しかったのに、ぼくには先輩の素性について一言も言わなかった。

それだけじゃない。柔道に集中していたせいか、今の今まで気にならなかったのに、先輩達の事が急に気になりだした…。

もしかしてあの先輩は…、理事長の…?



長い行程、南北に長い東北地方を突っ切る線の途中で、アブクマとイヌイは一足早く列車を降りた。

アブクマの家族が途中の駅まで車で迎えに来てくれるそうで、彼らとはここでお別れ。次に会うのは夏休みが終る頃、寮で

の事になる。

「気をつけてね?アブクマ君、イヌイ君。良い夏休みを…」

「うっす!理事長と主将も!」

「お疲れ様でした」

列車の降り口の内側で理事長がひらひらと手を振ると、アブクマは破顔してさっと手を上げ、イヌイは丁寧にお辞儀する。

多くの学生は夏休みを満喫している間、ぼくらは部活に打ち込んで全国大会に臨んだ。つまりぼくらにとっての夏休みは、

これからようやくやって来るわけで…。

「二人とも、夏の間はずっと部活だったんだから、遊びほうけてもバチは当たらないさ。のんびり羽を伸ばして来るんだぞ?

…ちなみにこれ、主将命令で寮監命令だから」

ぼくが冗談めかして言うと、アブクマは太鼓腹を揺すって豪快に笑い、イヌイはクスクスと笑いながら頷いた。

「キイチが一緒じゃなかったら、ぜってぇ迎えに来なかったぜ?親父のヤツ。お前に感謝だな」

「そうかなぁ?そんな事無いと思うけど…」

体格の良いアブクマが笑いながら肘でつつくと、小柄なイヌイはそれだけで少しよろめく。

このでこぼこコンビは、久しぶりの帰郷でも仲良く過ごすんだろうなぁ…。

名残を惜しむぼくらの前で、アナウンスに続いて列車のドアがプシューッという微かな音を立て、スライドして閉まる。

ドアで隔てられた向こうの景色は、程なく水平に滑り出し、笑顔で手を振っていた大きな熊と小さな猫の姿がたちまち見え

なくなる。

…お疲れ様、アブクマ、イヌイ…。久々の故郷を、実家を、ゆっくり楽しむんだぞ?



理事長とぼくは乗り換えがある途中の街で一泊し、星陵に帰り着いたのは翌日の昼前だった。

長時間の列車移動はそこそこ堪えたけれど、帰って来たっていう感傷と相まって、伸ばした背筋の引きつれ具合までが清々

しかった。

夏も終わりに近付く中、以前のような噎せ返りそうな緑の匂いはナリを潜めている。

星陵に降り注ぐ日差しはまだ強いけれど、吹く風は幾分涼しい物に変わっていた。

理事長と学校前で別れ、久々に長く足を動かしたぼくは、幾度も通った道を抜け、何度も抜けた門を通り、見慣れた寮を見

上げて、その場にしばし立ち尽くした。

そして、顔を緩めながら呟く。「ただいま」と…。

「感慨深い物があるなぁ。いや実家という訳ではないし、離れていたのも数日なのだが…」

漏らした呟きに応じるように、突然後ろから声が聞こえた。

ビックリして振り向けば、ほぼ真上から降り注ぐ陽の下で真っ黒い団服に身を包み、真っ黒い影を足元に従え、腕組みして

いる大牛の姿…。

見ればその脇には同じく団服姿の厳つい虎。うちの寮の応援団員が、揃って帰寮して来た所だった。

「おかえり。そしてただいま。脅かすなよ…」

「ただいま。そしておかえり。脅かすつもりは無かったが、お前がいつまでもそうやって寮を見上げているもんで、声をかけ

辛くてな。邪魔しても悪いかと…」

珍しく気を遣ったらしいシンイチに笑いかけ、ぼくは虎に目を向ける。

「マガキもご苦労さん。あっちは暑くて、熱くて、大変だったろう?」

「いいえ。寮監こそお疲れ様でした」

低い声で生真面目に返したマガキは、

「先に行って構わんぞ?シロアン君が土産話を待っとるんだろう?」

そう言ったシンイチに顎をしゃくられると、ぼくらに深めの会釈をしてから足早に寮へ入って行った。

「シロアンクン?」

首を傾げたぼくに、ウシオは、

「アイツのダチだ。ほれ、前にハンバーガーを食いに行った時に見ただろう?白豚の…、こう、でっぷりした…」

腹の辺りを手で抱えるようにして、身振り手振りを交えて説明する。

「…あ、思い出した。…一人泣いていて、気まずい空気が漂っていたあの時の…」

「そうそう。そこに居た白豚だ」

あの後どうなったのか顛末が気になるが、シンイチも知らないらしい。…かなり無神経なこの大男でもさすがに訊けないの

か…。

それはそうと…、コホンっ!

「な…、中に入ろうか?疲れているだろう?」

声音に注意したぼくが促すと、シンイチはちょっとばかり目を逸らし、

「お前の方こそ…、疲れとるんじゃないか?」

と、何か誤魔化そうとしているような、とぼけた顔で言う。

目を合わせないぼくらの間で、やや涼しくなった夏の風が踊り、通り過ぎて行った。

シンイチの団服から漂う制服スプレーと汗の香りが、ほのかにぼくの鼻をくすぐる。

彼が野球部の応援で遠征していたのは、そんなに長い間でも無かったのに…、嗅ぎ慣れたその匂いは、今はとても懐かしい

物に感じられた…。

「…終わったよ、全部…」

「…うむ…」

呟くぼくに頷くシンイチ。

さっきまでの清々しい気持ちは、しかし妙な緊張感で霧散している。

…変だな…。シンイチ相手に、話す事に困るなんて…。

「サトル…」

「う、うん?」

シンイチは何か言いかけてから躊躇い、「あ〜、アレだ、アレ…」と、鼻の頭を擦りながら言葉を探した。

「…ちょっと見なかっただけなのに、サトルは…、何と言うかこう…、立派になった気がする…」

シンイチが言ったその事は、ぼくもまた彼に対して感じていた。

大牛は、ちょっと見ない間に前にも増して男らしく、堂々として見えて…。それなのに少し戸惑っている様子は、やっぱり

何処か純朴な少年のようで…。

ぼくの精神的な変化が、彼を違う目で見させているんだろうか?

そして、シンイチの側からもまた、同じように…。

「喉が…、渇かんか?」

「うん…。ジュースでも飲もうか?」

「うむ…。あ、荷物は持つぞ?どれ貸してみろ」

「いや、いいって。そっちの方が大荷物じゃないか?」

足を止めたまま言い合うぼくらの横を、着替えて戻って来たマガキが不思議そうな顔をしながら会釈して、通り過ぎて門を

抜け、出かけて行く…。

中天にかかる太陽は、ぼくらの影をくっきりと、焼き付けるように地面へ落としていた…。



ほんの数日空けただけの部屋は、どこかよそよそしく見えた。

シンイチもそうなんだろう、熱気が籠もった部屋の入り口で、ぼくと並んで目を細めている。

部屋に踏み入ってまず換気したぼくらは、早速エアコンのスイッチを入れて、部屋着に着替える。

ぼくはジャージのズボンに半袖ティーシャツ。シンイチの方はタンクトップにトランクスの肌着ルックだ。

くつろげる格好になったぼくらは、部屋が冷えて来るまでのやけに長い時間を、冷蔵庫の中で冷えていたジュースを飲みな

がら過ごした。

キーンと冷えたコーラは、熱気が抜け切っていない部屋では甘露に思える。かなり温度差があるせいで、コップはコーラを

注いで間も無くから汗をかいていた。

「これまで…、こうして節目を迎える度に、時間は進んでいるんだって実感してきた。一昨年も…、去年も…」

座卓について呟いたぼくに、窓際に立って外を眺めているシンイチが頷く。

真っ白いタンクトップの背中には、部屋に篭っていた熱気に当てられたせいで浮いた、楕円形の汗染み…。

連日炎天下での応援で相当汗をかき、疲れたはずなのに、シンイチにはへばっている様子も、痩せた様子も無い。

暑さも寒さも根性で捻じ伏せる。…と常々言っているけれど、それで我慢ができても、辛い事には変わりないだろう。

「今度は、ワシらの番だな…」

いつしかその横顔に見とれてしまっていたぼくに、シンイチは後を引き取るようにして言った。

「うん…。先輩達のように、ぼくらも後輩に色んな物を譲り、託す時が来たんだ…。もっとも…」

ぼくは向き直ったシンイチを真っ直ぐに見つめる。

「シンイチはもう一回、大きなイベントが控えているけどね」

「うむ。「団旗の集い」がある」

裏方として選手を支える応援団。そんな彼ら自身が主役になる、年に一度のイベント…。それが「団旗の集い」だ。

つまりはぼくらで言う所の大会で、近辺の各校応援団が演舞やエールで競い合う。

団として活動する応援団が減っているせいで、近年では最盛期に比べて参加校が随分と減ってしまったそうだけれど、それ

でも毎年最低でも七校の応援団が集う。

ちなみに、昨年の最優秀賞は我らが星陵応援団。

前応援団長に率いられて五年ぶりに勝ち取ったこの王座を守り、二連覇する事が、シンイチ達…、今期応援団の大きな目標

になっている。

「また、練習辛くなるのかい?」

尋ねたぼくの顔を、シンイチは何故か面白がっているような笑みを浮べながら見ている。

「どことなく残念そうだな?」

「いや、そんな事はないけど…」

口ごもるぼくは、しかし自覚している。

…シンイチが応援団の練習に打ち込むなら、残り少ない夏休みも一緒には過ごせないから、少し残念なわけで…。

ダメダメ!ダメだぞぼく!そんな身勝手に残念がったら!

「がはははは!心配無用だ!厳しく行きたいのはやまやまだが、皆に里帰りもさせねばならんし、休養も取らせんといかんか

らな!皆揃って夏休みだ!」

ニカッと笑ったシンイチは少し嬉しそうにも見えて、ぼくも釣られて笑みを浮かべる。が、大牛は急に肩を縮め、あちこち

に目を泳がせ始めた。

「…と、いうわけで…、だな…」

急に声を潜めたシンイチは、目を瞑って一度わざとらしく咳払いすると、右目だけ薄く開けてぼくを盗み見る。

「…迷惑でなかったら…だが…。またそっちの…、そのぉ…、実家に遊びに行っても良いかな…」

遠慮がちに訊ねてきたシンイチに、

「勿論!」

ぼくは去年と同じように、飛びっきりの笑顔で頷いた。

…かくして、ぼくとシンイチの夏休みが、皆に遅れて始まろうとしていた。

しんみりした部活へのお別れや感傷は、ひとまず飲み下して…。