第三話 「定期戦」
「はい、30秒っ!」
ストップウォッチを覗き込んでいた小柄な猫の声が道場に響くと、大きな熊が上四方固めを解き、ぼくの上からのっそりと
身を退けた。
「ぜぇ…はぁ…ぜぇ…はぁ…!」
荒く息をしながら、ぼくは体内に酸素を送り込む。
…アブクマの腹に顔が埋まって…、窒息しかけた…!…これは凶悪だ…!
「大丈夫ですか主将?」
心配そうに尋ねるイヌイに片手を上げて応じたぼくは、立ち上がってアブクマと向き合い、礼を交わす。
はなから解っていた事だが、ぼくではアブクマの相手にならない。
それでも彼は何が楽しいのか、得る物なんて何もないだろうに、本当に楽しそうにぼくと乱取りする。
…まぁ、ぼくとしては良い稽古になっているんだけれども…。
のっけから見苦しいところを見せて申し訳ないが、自己紹介を…。
ぼくは星陵ヶ丘高校三年生、柔道部主将の岩国聡。第二男子寮の寮監も任されている。
「そろそろ時間ですよ?このくらいにしておいた方が…」
イヌイはそう言うと、プラスチック容器に入ったスポーツドリンクを手渡してくれた。
なお、アブクマにはダイエット用との事で、物凄い味がする痩せられるお茶、超痩身茶なる謎の飲み物を渡している。
「そうだな。定期戦目前だし、やり過ぎは厳禁だ…。今日はここまでにしておこうか」
マネージャー初経験となるイヌイは、本当によくやってくれている。
細かい気配りができるし、色々な事に気が付く。元々マネージャーに向いていたのかもしれない。
稽古に熱を入れすぎて、オーバーワークにならないように気を付けて見ていてくれるし、部費の割り振りなども適切だ。
今年、ぼくが引退した後は、柔道部は一年生二人だけになる。
当初は少し不安だったけれど、この分なら、きっと二人で上手くやっていけるだろう…。
新調した畳と古い畳が入り混じった道場を軽く掃除した後、たった三人だけのぼくら柔道部は、神棚に礼をして今日の稽古
を終えた。
「いよいよ明後日かぁ…」
道着の上を脱ぎながら、アブクマはぽつりと呟いた。
口元が笑みの形に弛んでいる。きっと、定期戦が楽しみで仕方がないんだろう。
獣人の部には団体戦がない。彼にしてみれば団体戦、それも勝ち抜き形式なんて、滅多にできる物じゃないからな。
「仕上がりはどうだい?」
「それなりっすかね。でもまぁこの通り、ちっとは絞れたっすよ」
ぼくの質問に、アブクマは豊かな被毛に覆われた、ぼよんと突き出た腹を両手でポンポンと叩いて見せ、苦笑いした。
…その揺れる脂肪の乗り具合は、前と変わっていないように見えるんだが…。
あの腹で窒息させられかけた身としては、体を絞らない方が寝技の破壊力は高いのではないかとも思ったが…、まぁそこは
指摘しないでおこう…。
「ん?どしたキイチ?」
腹をポンポンと叩いていたアブクマは、目の前に立って、揺れる腹をじっと見つめているイヌイの顔を見下ろした。
「サツキ君…。今何キロ?」
「ぬふふ!驚くなよ?減量の成果が出てな、昨日の風呂上りで178だ!」
…成果1キロか…。アブクマの体重だと誤差の範囲じゃないかなぁそれ?
イヌイはしばらく黙っていたが、やがて手を上げると、ぽふっと、アブクマの鳩尾の辺りを叩いた。
「出てないじゃない!さっぱり成果出てないじゃない!だから寝る前に物食べちゃダメだって言ってるのに!昨日だって夜中
に起き出してこっそりプリンなんか食べてっ!」
ばふばふばふばふっと、駄々っ子パンチを繰り出すイヌイ前に、アブクマはタジタジだ。
「うぇっ!?ば、バレてたのか!?い、いや、小腹が減って切なくなってだな…、疲れが取れんだよ甘いモンは…!それに、
あのぐれぇは食った分に入らねぇだろ!?」
「何のためにカロリー早見表作ったと思ってるのっ!?そういう積み重ねがダメなの!そういうのが蓄積されてデブデブになっ
ちゃうの!」
オシタリからデブと悪態をつかれても平気な様子だったアブクマだが、イヌイの発言には顔色を変えた。
「うっ…!?も、もしかしてきっちゃん…、お、怒ってる…?」
「怒ってない!腹を立ててるだけ!」
…イヌイよ…、それは怒ってるって言うじゃないか…。
「ご、ごめぇ…!気ぃつけるよぉ…。夜の菓子も我慢するから…」
アブクマが眉を八の字にし、なんとも情けない表情で謝ると、イヌイは駄々っ子パンチを止めた。
「ホント?」
「ほんと…」
「ホントにホント?」
「ほんともほんと…。もう隠れて菓子食ったりしねぇから…。約束…」
耳を寝せたアブクマは、叱られた子供のような顔で右手を出し、小指を立てた。
何かと思ったら、イヌイと指きりげんまんしている。
「ゆ〜びき〜りげ〜んま〜ん、う〜そつ〜いた〜ら痩身茶7.5リッター飲〜ますっ!」
「きっちゃん!?今のものっそいヤな指きりの文句は何!?」
アブクマが慌てて声を上げる。…量が半端で具体的なのがなんだかいやだな…。
「じゃあ…、う〜そつ〜いた〜らカンナでお腹の肉削〜ぎ落〜とすっ!ゆ〜び切ったっ!」
「きっちゃん!?今のやたらコワい指きりの文句は何っ!?」
「約束守れるなら、罰則なんて何だって構わないでしょ?…それとも約束守れない?」
「ま、守るよぉ…。守るってばぁ…。だからそんなコワい顔しないでよぉ…」
なにやら言葉遣いまでおかしくなっているアブクマに、目をつり上げていたイヌイは、少しだけ表情を緩めた。
「普通に食べる分なら、文句言わないから。でも、食べ過ぎや、真夜中のお菓子だけは当面禁止っ!総体が終わるまでは、しっ
かり監視するからね?」
「んんぅ…」
大きな熊が小さな猫に叱られている様子は、二人には悪いがちょっと微笑ましい…。
そうそう。アブクマのトレーニングメニューを一緒にこなすようになってから、ぼくの手足はだいぶ太くなった。
キツいだけあって、効果はてきめんだ。以前と比べると、食事の量も増えてきている。
数日は単に筋肉が突っ張っている感じだったものの、腫れが収まらずにそのまま筋肉になったような感じ。
だから、アブクマの体重が落ちないのは、脂肪のせいばかりじゃないと思う。
このトレーニングで、柔道をしていなかった期間中に落ちていた筋肉が戻っているのも、体重が落ち難い原因だろう。
その内、保健委員の友人にお願いして、体脂肪も測れる体重計を借りて来よう。ウシオやカバヤでも使えるヤツだから、大
きなアブクマも正確に測れるはずだ。
「さぁて、戸締りして帰ろうか」
着替えを終えたぼくが声をかけると、途中だったアブクマは慌てて頷き、着替えを再開した。
そして、ついに定期戦の日がやってきた。
多くの生徒は事前に出した希望書によって、野球やサッカーなどのメジャーな種目の応援に割り振られて、先生方に引率さ
れて試合場に行っている。
が、ぼくらのような参加者は、それぞれの試合会場へ直行。
…ちなみに、我らが弱小柔道部は、他の不人気な競技同様、応援希望の選択肢に入ってない…。
「すげぇ人だかりだなぁ、あっち…」
陽明の道場につめかけた、あちらの応援の生徒を見て、アブクマは感心したように言った。
「向こうは地区内でも上位だからね、柔道部も期待されてる」
頷いて応じたぼくは、ちらりと後ろを振り返る。
ぼくらの側はがらんとしていて、ニコニコと笑っている理事長以外に応援の姿は無い…。
「こっちは…、何だか少し寂しいですね…」
呟いたイヌイは、道場の入り口に姿を現した眼鏡の狐獣人を見て、軽く手を上げた。
ぺこっとお辞儀して道場に入ったウツノミヤは、応援席にぽつんと佇む理事長に気付いて、一瞬ぎょっとしたような顔をし
た。…無理もないか。
「応援は二人だけですか…」
「へっ!二人だけでもせっかく来てくれたんだ。応援に来た甲斐があるって、そんな風に思えるような試合を見してやるぜ!」
寂しげなイヌイとは対照的に、アブクマはなにやらうきうきしている。
見回せば、他校の監督や生徒の姿もちらほら見える。
もちろん、目的は昨年の中体連で全国二位に輝いたアブクマと、あっちの選手達の仕上がりの確認だ。
両校の部員達が全員整列し、ぼくと相手校の主将が揃って定期戦の宣誓をすると、場内で歓声が沸き起こった。
そして、一度控えスペースに戻ったぼくとアブクマは、道着の弛みなどを最終チェックしてから引き返し、試合場の中央で
陽明の選手達と向かい合う。
端から見れば二対五だが、実質は一対五だ。アブクマ一人で五人抜き、これがぼくらの理想の形なんだけれど…。
今更になって、ぼくは少々不安になった。
この数週間、稽古を怠ってはいないものの、アブクマは実戦から離れて久しい。
ぼく程度との乱取りでは、全国二位にまで登り詰めた、あの全盛期の頃の勘を取り戻すに至っていないだろう。
相手チームの顔ぶれを見れば、大将を務める向こうの主将以外は、全て獣人だ。
いずれも昨年、目覚しい成績を残しているベストメンバー…。
…ぼくはアブクマに…、高校に上がって間もない後輩に…、無茶な注文をしてしまった…。
「…なぁ、アブクマ…」
「なんすか?」
待機位置に戻ったぼくは、屈伸して体をほぐしているアブクマに声をかけた。
「軽い気持ちで言ってしまったけれど…、負けたって全然構わないんだからな?」
一年生のアブクマに、ぼくは、あんな事を言ってプレッシャーをかけてしまった…。
考えてもみれば、部の今後の為とはいえ、デビュー戦を前にした後輩に、「勝て」って命令したも同然だ…。
デビュー戦だからこそ、肩の力を抜いて、結果に拘らずに試合に打ち込めるようにしてあげなければいけなかったのに…、
ぼくってヤツは、アブクマの心情にまで頭が回らなかった…!
申し訳なく思って項垂れると、アブクマはぼくの背中を叩いた。
それほど力を込めたんでもないだろうけれど、体格の良いアブクマのする事だ、ぼくは前のめりになりそうになってたたら
を踏む。
「任してくれよ!主将は大将らしく、でんと腰据えて堂々としててくれ!」
アブクマは太い笑みを口元に浮かべると、審判の立った試合場へ、のっしのっしと歩いて行った。
そして両手を広げ、自分の顔を叩く。
バチィン!と、物凄い音が響き渡り、道場が静まり返った。
「…さぁて、任して貰ったんだ…、主将の期待に応えねぇとな!」
相手校サイドの応援やざわめきが収まった道場で、アブクマが呟いた言葉は、ぼくの耳にはっきりと届いた。
「一本!」
畳を打つ強い音に次いで、審判の手が上がる。
「す…、凄い…!」
ぼくは思わず呟いていた。
相手の先鋒。昨年は県大会まで進出した白馬を、アブクマはたったの30秒足らずで破ってのけた。
互いの様子を窺っての事だろう。アブクマにとっては、初めて試合する他校の高校生。
相手にとっては、中学時代に全国二位に輝いた大型新人。試合の立ち上がりは静かだった。
が、静かな立ち上がりと、慎重な襟の取り合いから一転し、相手の右腕がやや高めに掴みに来たその瞬間、アブクマは、そ
の巨躯からは信じられないほどに素早く動いた。
シンプルで、力強く、そして綺麗なフォームの一本背負い。
非の打ち所も無い一本に、会場は水を打ったように静まりかえった。階級が二つ下とはいえ、ここまであっさりと…!
ちなみに、高校柔道ルールでは、獣人の部は全部で4階級ある。
最軽量が80キロ級で、次が110キロ級、その上が140キロ級、最後に無差別級だ。
ちなみに無差別級は、一切の体重制限が無い、文字通りの無差別。
極端な話、体重が80キロ以下の選手でもエントリーできる訳だけれど、実際には相手が自分と比較的近い体格に絞られる
体重別に出た方が有利だ。
「あ〜…。もう始まってるんじゃねぇか?」
「仕方ないじゃない?あんな事があるなんて予想もしてなかったもの…」
「こら、静かにせんか二人とも…。幸い、まだ始まったばかりのようだ」
聞こえてきた声に振り向くと、大柄な牛と、目つきの鋭いシェパードと、眼鏡をかけてカメラを持ち、新聞部の腕章をつけ
た女子が、道場の入り口に立っていた。
ウシオにオシタリ…。それに、一緒に居るのは確か、一年のシンジョウという女子だったかな?珍しい組み合わせだ。
三人は静かに道場に入ると、理事長の隣でビシッと正座しているウツノミヤの隣に腰を下ろす。
見れば、アブクマも三人に気付いたのか、口の端を微かに上げて笑みを見せていた。
「…一本!」
豪快な大外刈りで、文字通り相手を刈り倒したアブクマに、今度は道場内から大きな拍手が起こった。
凄い…!凄いぞアブクマ!強いとは思っていたけれど、ここまでなんて…!
今度の相手は猪獣人。昨年の県大会でベストエイトまで登り詰めた選手だが、アブクマは彼を文字通り秒殺してしまった。
相手チームですらも惚れ惚れと見入る、そんな綺麗な大外刈り…。
体力だけじゃない。アブクマは技術、実戦経験、勝負勘、どれを取っても非の打ち所のない選手だ!
「お、もうやってますね!」
「おぉ…、勝ち抜いてるみたいだなぁアブクマ」
聞き慣れた声に振り向くと、灰色の狼が目の上にひさしを作って、アブクマの姿を眺めていた。
一緒に入って来たのは、むっちり太った大柄な虎。
自分の出番は終わったのか、シゲはタンクトップにゼッケンをつけた、競技中の姿のまま、アブクマに親指を立てて見せた。
その隣で、アブクマとイヌイの担任である、我らが良き理解者トラ先生が、ニコニコしながら肩の高さに手を上げる。
確か、生徒数が多くなる野球かサッカーの会場で引率に当たっていたはずだけれど、どうやらどちらも終わったらしい。
アブクマは二人に気付くと、軽く手を上げて見せる。
そして、次いでぼくに視線を向け、ニィ〜っと、歯を見せて笑った。
「どんなもんだ?」とでも言いたげな、子供が得意げにしているような、そんな無邪気な表情に、ぼくは思わず笑みを返し
ていた。
「い、一本っ!」
自分と同じ熊獣人を内股で仕留め、アブクマは襟を正す。
場内はもう、アブクマから目が離せなくなっている。
すでに敵味方もない。相手校の応援までが、アブクマに拍手を送っている。
堂々と一礼するアブクマの勇姿を見ていると、誇らしく、そしてほんのちょっぴり悔しい気分になる。
えらい後輩を持ってしまったものだ…。ぼくは、彼が胸を張れるような先輩になれるんだろうか?
「サツキ君!気を抜いちゃだめだよ!」
ぼくの横からイヌイの声が飛んだ。
写真を撮るシンジョウさんに催促されて手を上げて見せていたアブクマは、決まり悪そうに頭を掻き、場内から忍び笑いが
漏れる。
そう。気は抜けない。次の相手は、陽明最強…、いや、県内トップクラスの選手…。
昨年秋の北陸ブロックトーナメント戦、140キロ級の覇者、猫山公希(ねこやまこうき)だ…。
「はじめ!」
長毛の黒猫獣人と向き合ったアブクマは、相手の実力を感じ取ったのか、これまでになく慎重な立ち上がりを見せた。
声を上げつつも、互いに無理に組みにゆかず、じりじりと間合いを狭める。
アブクマの実力を目にし、その巨体を間近で見て警戒しているんだろう。普段なら速攻戦を仕掛けるネコヤマが、いつにな
く慎重に歩を進める。
体格は圧倒的にアブクマの方が大きい。
ネコヤマは猫獣人にしてはかなり体格が良く、128キロで170センチ…、結構太めの体型だ。
それでもアブクマの方が30センチ近く背も高く、体重もかなり重い。公式試合ならあり得ない組み合わせだ。
両者手を上に上げたまま、立ち位置を変えつつ、じりじりと間合いを狭め…、
「ふっ…!」
仕掛けたのはネコヤマだった。
太めながらも、猫獣人特有の柔軟性と機敏さが失われていない。しなやかな体が黒い長毛を波打たせ、アブクマの懐に滑り
込んだ。
襟を取りに行ったアブクマの手が、彼の肩を掠めて空を掴んだ。
丸みを帯びた体に見合わぬ、とんでもない速度で踏み込んだネコヤマは、アブクマの帯を真正面から左手で掴む。
右手はしっかりと襟を取って、手の甲を押し当てるようにしてアブクマの胸を押す形になった。
今日、アブクマが立ち会いで遅れを取るのは、これが初めての事だった。
懐に飛び込まれ、体で押される形になったアブクマは、即座に腰を落としつつ、襟を取ったネコヤマの右腕と、左の襟を取
りに行く。…が、
ネコヤマは即座に帯と襟を掴んだまま下がり、一転して引きに入る。
素早く、そして無駄の無い動作からの揺さぶり。普通なら前のめりになってたたらを踏み、足を出して崩されるところだ。
が、崩しに行ったネコヤマの目が、鋭くなった。
アブクマは僅かに腰を落とした姿勢のままビクともせず、ネコヤマの腕と襟を取る事に成功していた。
今度はアブクマが、腕力に物を言わせてネコヤマを引き付けに入る。
ネコヤマは右手を襟から放し、すぱっと素早く捻って、袖を掴むアブクマの左手を外した。
あのアブクマの握力を振りほどく、肘から先が霞んで見えるほどのとんでもないスピードだ!
だが、アブクマはいささかも怯まず、右手で取った襟を強引に引き付ける。
引き摺られるように前に出たネコヤマの両足の間には、アブクマの右足があった。
一閃!体を反転させつつ、アブクマの足が跳ね上げられる。強引に引き付けつつ入る、変則の内股。
だがしかし、寸前で帯を放していたネコヤマは、同じく右足を上げ、アブクマの背にはりつくようにして、同じ格好で内股
をすかしていた。
「…へっ…!」
互いの襟を掴みあったままの状態で体勢を戻す刹那、アブクマの顔が、嬉しそうに輝いた。
ネコヤマもまた、口元に不敵な笑みを浮かべ、目を細めている。
まるで影のように、ネコヤマの太めの体がなめらかに動いた。
掴まれた襟はそのままに、くるりと体を捻ってアブクマの手をほどきつつ、体勢を立て直す途中のアブクマの左足と、帯の
後ろを取った。
ほとんど背を向ける格好だったアブクマは、下ろしたばかりの右足で踏ん張り、屈み込むように身を捻って、崩しに耐える。
力で強引に崩すのは無理と判断したんだろう。ネコヤマは素早く左足から手を放したが、その時には、アブクマの右手が道
着の左肩を取っていた。
なんて攻防だ…!ぼくは目を見張ったまま、一瞬たりとも二人から視線を外せない。
ぼくだけじゃない。場内に居る誰もが、固唾を呑んで二人の勝負を見守っている。
自分の左脇の下から引っ張り出すようにしてネコヤマを引き付けつつ、アブクマはネコヤマの右襟を左手で深く取る。
ネコヤマもアブクマの両襟を取って踏ん張り、両者は斜に構えた喧嘩四つの体勢に落ち着いた。
これは、絶対的にアブクマが有利なポジションだ。
めまぐるしい攻防の果てに、両者は乱れた息を整えながら、間近で鋭い視線を交わす。
…ちょっと妬けるな…。ぼくも、あんな試合がしてみたい…。
今度はアブクマが先に動いた。襟を引き付けつつ、前に出たネコヤマの右足首を払う。
…いや、ネコヤマが合わせて足をずらしている。アブクマの左足は空振りして、不安定な格好になった。
引き手に合わせて前に出たネコヤマが、体を預けるようにしてアブクマを押す。
…これは…、谷落だ!
スピードと柔軟性だけじゃない。パワーも兼ね備えるネコヤマの肩で押されたアブクマの体が、ぐぐっと後ろにかしいだ。
畳から浮き上がり、宙に泳いだ左足に、ネコヤマの右足が素早く絡んでいる。
アブクマの体は後ろ向きに崩れ、尻餅をつく寸前…。これは一本になってしまう!
ぼくがそう思った、まさにその瞬間だった。上から覆い被さるようにアブクマを崩したネコヤマの体が、妙な感じに上に跳
ね上がったのは。
ネコヤマの腰、脚の付け根に、アブクマの右足が当てられている。
それが見えた途端にぼくは理解した。あんなにもあっさりアブクマが崩された理由を。
…崩されたんじゃない、誘い込んだんだ。この形に持ち込む為に。
空振りに終わった足払いは囮…、ネコヤマに強引に攻め込ませるための布石だったんだ。
なまはんかな崩しには素早く対応できるネコヤマでも、両襟を取られ、自分から片足を絡ませた状態で、腰に右足を押し当
てられたこの形になれば、さすがに回避はできない。
畳に背をついたアブクマの上で、ネコヤマの体が綺麗なアーチを描いた。
見事な巴投げと、バァン、と畳が鳴る音から少し遅れ、
「い…一本!」
審判が試合の終わりを告げる。
場内は、割れんばかりの声援で沸き返った。
アブクマは身を起こすと、仰向けになって荒い息をついているネコヤマに手を差し伸べた。
間近で黒猫を見下ろし、ニカッと笑みを浮かべる大熊。
ネコヤマはどこか楽しげな、そしてちょっと悔しげな苦笑いを浮かべつつ、アブクマの大きな手を取り、身を起こす。
立ち上がり、礼を交わした二人に、惜しみない拍手が注がれる。
ぼくも、イヌイも、手が痛くなるほどに拍手していた。
…凄い試合だった…!県レベル…、いや、地区ブロック大会でもそうは見られないレベルの試合だ!
こんな好カードも、公式戦では見られない事を考えれば、ぼくはとても運が良いといえる…!
胸の奥で、なんだか熱く、焦げ付くような感覚があった…。
ぼくも…、ぼくも、こんな試合がしてみたい…!
当のアブクマは、実に機嫌良さそうに耳をピクピクと動かして、次の相手を待ち受けていた。
「最後がなぁ…」
試合を終えた帰り道、アブクマは不満げに呟いた。
「仕方ないさ。あっちもぼくと同じ、名ばかりの大将だからな」
アブクマは、相手の大将を開始三秒で沈めてしまった。…少々気の毒だったな…、あれは…。
「あっちの副将…、ネコヤマ先輩だっけ?あのひとはすげぇなあ!運が良かったぜ!」
「へ?運が良かった?」
「あ〜…実は…。何回か反応間に合わなくて、勘で動いたトコあるんすよ…。技術勝負じゃやべぇと思ったんで、誘い込んで
巴仕掛けたんすけど」
苦笑いを浮かべるアブクマの横で、イヌイが首を傾げた。
「山猫のハーフかな?あの先輩…。僕達とだいぶ違うような…」
「ん?あぁ〜…、言われて見りゃ結構違うなぁ…」
「まぁそれはそれとして…。かっこよかったよ。サツキ君」
ニコニコしながら言ったイヌイの言葉に、アブクマは笑みを浮かべる。
「長距離走や勉強の真っ最中とはまるで別人だったよ!」
「…厳しぃなぁ…」
ガリガリと頭を掻いて顔を顰めたアブクマに、ぼくは…、
「アブクマ…」
「ん?」
申し訳ない気持ちで一杯になり、頭を下げた…。
「済まなかった…。考えてみれば、高校デビュー戦だった君に、ぼくはあんな無茶な注文をして…。軽率だった…」
本当に、ぼくは浮かれていたんだろう…。
結果的には本当に五人抜きしてくれたが、ぼくが出した注文は、後輩にプレッシャーをかけるだけのものだった…。
今後のことを考えるあまり、彼自身の今を考えてあげられなかった…。
「何言ってんすか?」
アブクマはきょとんとしながら首を傾げた。
「主将が、俺なら五人抜きできるって信じてくれた。なら、応えようって頑張んのは当り前じゃねぇっすか」
「でも…」
「俺、嬉しかったんすよ?」
ぼくの言葉を遮り、アブクマは照れているように少し笑いながら、鼻の頭を擦った。
「会ってまだ一ヶ月しか経ってねぇ俺を、信用してくれて、評価してくれた…。おまけに、最後の定期戦の出番、無くてもい
いってまで言ってくれた…。そこまで言われちゃあよ…」
アブクマは視線を上に向け、歩きながら続ける。
「俺さ、先生も先輩も、これまで厳しいひとばっかだったから、主将の人柄っつうのか…、その…、優しいトコ、さ…、なん
つぅかこう…、良いなって、思うんすよ…」
ごもごもと呟くアブクマの横で、イヌイが小さく吹き出した。
「サツキ君、主将の事が大好きなんですよ」
「なっ!?ち、ちがっ!!!」
慌てて否定しようとしたアブクマに、イヌイは首を傾げながら尋ねる。
「じゃあ嫌いなの?」
「…い、いや…好きだけど…よぉ…」
またごもごもと呟きだしたアブクマから視線を逸らし、イヌイはぼくに向かってウィンクした。
「もちろん。僕も主将の事が好きです。寮監もしてるのに、全然威張ったところがなくて、僕達下級生にも自然体で接してく
れるところなんか、尊敬しています」
「そ、それは…、ぼくの性格であって、誉められるようなところでは…」
「僕もサツキ君も、主将のそういうところが大好きなんですよ」
イヌイはそう言って、悪戯っぽく笑う。
「一種の才能ですよ、性格って。人柄で慕われるのって、勉強が出来たり、スポーツが出来たりで慕われるよりも、ずっと難
しい事だと思います。良いじゃないですか?主将は僕ら後輩を大事にしてくれる。僕達はそんな主将の期待に応えられるよう
に頑張る。これもまた、持ちつ持たれつって言えるんじゃないですかね?」
ぼくは歩きながら、ぼそりと呟く。
「そう…なのかな…」
「そうっすよ!」
「そうですよ」
二人の笑顔に、ぼくは笑みを返す。
ぼくは先輩なのに、主将なのに、二人に教わってばかりだ…。もう少し、しっかりしないとな…。
「アブクマ。ぼくも、今日みたいな試合がしてみたいんだ…。見るだけじゃ、なんだかもう満足できない…。ぼくを、ああい
う試合ができるように鍛えてくれないか?」
アブクマは少し驚いたように眉を上げ、それから照れたように笑った。
「教えられる程、上手い柔道やれてる訳じゃねぇけど…、俺でいいならなんぼでも!」
アブクマの試合を傍で見ていたら、胸の奥に何かが灯ったような気がする…。
最後の大会、悔いなく終えられるよう、一層稽古に励もう!