第四話 「定期戦翌日」(前編)
ぼくは岩国聡。星陵ヶ丘高校三年生、柔道部の主将だ。
定期戦の翌日の午後、道場に集合した後、
「さっそく来ているそうだ、合同練習のお誘いが!」
顔が勝手に綻ぶのを抑えきれないまま、ぼくはアブクマとイヌイにそう告げた。
定期戦は毎年休日を使って行われるため、今日は振替休日となっている。
稽古も軽くだけするつもりで集まった我ら柔道部は、現在ミーティングの真っ最中だ。
「昨日の定期戦終了後、話をしていた陽明の顧問と理事長のところに、他の学校の顧問が何人か来たそうだ。陽明はもちろん、
ウチにも合同練習のお誘いがかかったらしい!」
「試合直後にですか?凄いですね…」
目を丸くしている小柄なクリーム色の猫の横で、大きな熊が面白がっているような笑みを浮かべる。
「主将の狙い通りに行ったって事っすか!」
「そうだな。…まさかいきなり三件も入って来るとまでは思ってもみなかったけど…」
「三件!?」
イヌイが驚いたように大きな声を上げる。
「うん。理事長も本当にビックリしてらっしゃったよ」
本当に驚きだ。歴代地区内最弱と言われ続けたウチに、合同練習のお誘いが一気にかかるなんて…!
「ぼくとしては、合同練習を申し込んでも断られ難くなれば良い…、くらいの期待だったんだが、嬉しい方向に予想を裏切ら
れたな。それもこれも…」
ぼくは強豪、陽明の猛者達を一人で抜いてしまったアブクマの顔を見つめ、感謝を込めて笑いかけた。
「アブクマのおかげだよ。本当にありがとう…!」
「うぇ!?よ、よしてくれよ主将!なんすか改まって…!?」
なんだか困ってでもいるかのように顔を顰め、耳を伏せて頭を掻いているアブクマに、イヌイも柔らかく笑いかけた。
「誉めて貰ってるんだから、そんなに困らないでよ?素直にありがとうって、それで良いんだよ?」
「そ、そうか…?…あ〜…、ありがとっす、主将…」
頭を掻きながら会釈したアブクマは、ボソっと続ける。
「誉められる事なんて滅多にねぇから、何か尻がムズムズしちまうよ…」
「そう照れないで良いんだぞアブクマ?胸を張って威張って良いだけの快挙を成し遂げたんだから」
アブクマは本当に良くやってくれた。何もしていないぼくが恥ずかしいぐらいの大手柄だよ。
効果は予想以上。この分なら他校との合同練習には困らない。
ぼくはもちろんの事、稽古相手(つまりぼく)に不足があるアブクマにとっても、他校の選手と稽古ができるのは有り難い。
「これからは、合同練習の予定をスケジュールに組み込んでいく。土日に入れていくようになるから、なるべくなら都合の悪
い日を事前に教えて欲しいんだけれども…」
「俺は別に予定とかねぇから、良いように合わせて貰って良いっすよ」
「同じくです。それと主将、スケジュール調整、僕がやらせて貰えませんか?」
イヌイがそう申し出てくれたので、ぼくは少しばかり驚いた。
「相手校との話し合いとか、日程のやりくりとかしなきゃいけないんですよね?マネージャーの仕事は半人前ですから、そう
いった所で働かなくっちゃ」
耳をピクピク動かして、真面目な顔でそう言ったイヌイに、ぼくは笑いかける。
「半人前なんかじゃないさ。イヌイは立派にマネージャーをしてくれている」
これはお世辞じゃない。それまで全く経験がなかったイヌイは、たった一ヶ月ですっかり仕事を覚えてしまった。
色んな事に良く気が付くし、熱心に働いてくれている。
ところが、イヌイは微妙な表情で首を横に振った。
「でも、たった三人だけの部活でなんとか務まっている程度じゃあ、来年以降、入部希望者が殺到した後が大変です」
「…そうなれば嬉しいが…、来るかなぁ…?」
「少なくとも二人は入って来てくれる予定です。…片方が入試を突破できるかどうか、ちょっと…いやだいぶ…、って言うか
かなり心配ですが…」
「ああ、あいつらなぁ」
イヌイはそっと目を伏せてため息をつき、アブクマは楽しげな笑顔を見せた。
「後輩かい?」
「うす。進学先は星陵にするって早々と決めちまったヤツらが居るんすよ。…ぬははっ!近ぇトコとか、ダチと一緒に行ける
トコとか、他にも色々あんだろうによぉ…!」
ぼくが首を傾げて尋ねると、アブクマは嬉しそうにそう応じた。
「それはともかく、話を戻しますけど…」
イヌイはアブクマを見遣って続ける。
「サツキ君はそういうの苦手でしょうし、僕がするべきかと」
「え?俺だってやれるって」
アブクマが心外そうに応じると、イヌイは疑わしげにジト目になる。
「ホントにそう?サツキ君ってば大事なことに限って、狙ったようにコロッと忘れちゃうじゃない?」
「うっ…!?そ、そりゃあまぁ…、否定できねぇかなぁ…」
困り顔で頬をポリポリ掻くアブクマ。
「でも、イヌイはまだ一年生なんだ。やっぱりぼくがやるよ」
ぼくがそう提案すると、イヌイはアブクマから視線を外してぼくを見る。
「でも…、いつまでも主将に頼っているわけには行きませんし…、二人には稽古に専念して貰いたいですから、今からぼくが
慣れておかないと…」
イヌイの言葉を聞いている内に、ぼくは悟った。
ぼくが引退した後は、アブクマとイヌイの二人だけで部を回していかなくちゃならない。
だからイヌイは、今の内にノウハウを掴んでおこうと考えているんだろう。
「気を付けなきゃいけない事とか教えて貰えれば、きっとできると思います。やらせて貰えませんか?」
イヌイの真剣な顔を見ながら少し考えた後、ぼくは結局、首を縦に振った。
「判った。済まないけれどもお願いするよ」
理事長の都合もある。お忙しい中申し訳ないけれど、理事長の都合とあっちの都合を合わせて、ぼくらがスケジュールを合
わせていくようにしよう。
ちょっと大変だとは思うけれど、イヌイの申し出は有り難い物だし、ちょっぴり嬉しくもあった。
…ぼくの後輩は二人とも、本当にしっかり者だ…。できれば、もう一年早く出会いたかったな…。
「で、今日はどうするんすか主将?」
ちょっとしんみりしていたぼくは、アブクマの問いで気持ちを切り替える。
「体を休める為の振替休日だし、今日は軽い運動だけにしようと思う」
「え?俺別に疲れてねぇっすよ?」
稽古したそうなアブクマの反応で、ぼくは顔を引き攣らせた。
…昨日帰って来てから「軽く」って言って始めた稽古…、かなりキツかったんだけれどな…?腕がガックガクで握力無いし…。
「やり過ぎ厳禁。でしょ?ちゃんと体を休めなくっちゃ」
イヌイがそう横から告げると、アブクマはちょっと残念そうに頷いた。
「土手一往復ぐらいの軽いジョギングをして汗を流そうか。疲れが残らない程度にな」
「…う、うす…」
今度は、長距離走が苦手なアブクマが顔を引き攣らせた。
やけに暑かった昨日の名残か、今日もかなり良い陽気だ。
海側から吹き付け、川上へと上って行く風が、堤防の上のサイクリングロードを走っているぼくらの背を柔らかく押す。
かなり暖かいので、ぼくはジャージの上を腰に、袖を結んで帯のようにして巻いている。
少し潮の香りを含んだ風が、半袖ティーシャツに心地良い。
ペースはあまり速くないんだが…、
「はっ…!はひっ…!へひぃ…!」
巨体を揺すり、必死の形相でドスドスと走る隣のアブクマは、もう息と顎が上がってる。
減量の為に、この陽気の中でジャージの上下の上からウィンドブレーカーを着込んでいる大熊は、十分と経たずに汗だくに
なった。
寮の備品である自転車で同伴しているイヌイは、まるで「ペースを落とす事は許しません!」とでも言わんばかりに、アブ
クマの真後ろをのろのろ走行中。
…最近思うんだが、可愛い顔してアブクマにはそれとなく厳しいよなぁ、この子…。
しばしサイクリングロードにもなっている土手を上って行ったぼくらは、折り返しに定めている道の端で、一度足を止めた。
「ぜひっ!げふぁっ!げほっ!ひぃ…、ふひぃ〜…!」
アスファルトの上に仰向けにひっくり返ったアブクマは、ウィンドブレーカーのジッパーを下ろした。
大きな腹を激しく上下させ、苦しげに喘いでいるアブクマの顔を、脇に屈み込んだイヌイが手でパタパタと扇いでやっている。
不思議な事に、とんでもなくスタミナがあるアブクマは、少し長めに走り込んだだけで息が上がる。他の稽古はどんなに長
時間続けても平気なのに、だ。
何でなんだろう?やっぱり体が重かったり、太っていて暑さに弱いせいだろうか?
川を眺めると、ボートやカヌーが何艘か浮かんでいるのが見えた。
向こう岸近くに目を遣れば、アメンボのようにスマートな形の一人乗りボート、シングルスカルが、すぅ〜っと川上に切り
上がって行く。
緩いカーブの外側を流しているそのボートは、灰色の狼を乗せていた。こっちに気付いている様子は無い。
あのラインはシゲのお気に入りらしい。なんでも、水が重くて体をほぐすのに丁度良いとか何とか…。
川面に浮かんでいる数は、普段と比べるとあまり多くない。
やっぱり今日はどこの部活でも、休養か軽い練習に留めているんだろう。
ふと横を見れば、イヌイも気付いたのか、目の上に手でひさしを作ってシゲを眺めていた。
そうやって、ボート部とカヌー部の練習風景を眺めながら五分ほど休憩すると、グロッキーになっていたアブクマはガバッ
と身を起こした。
「うし!戻るっすか!」
と、さっきまでゼェハァ言っていたのが嘘のように、もうすっかり元気になっている。
「それじゃあ残り半分、頑張ってこうか」
軽く屈伸してから走り出したぼくに、アブクマと、自転車に跨ったイヌイが続く。
やがて、またアブクマの息が上がり始めた頃、行く手に二人、女子が居る事に気付いた。
ぼくらが走った後にやってきたんだろう二人の一方は、顔見知りの女子だった。
ジーンズに薄手のトレーナーという、動きやすそうな格好の、眼鏡をかけた女子…。
アブクマとイヌイの同郷、一年生の新聞部員、シンジョウさんだ。
ゴツいデジカメを首から提げているが、今はファインダーを覗かずに、川面を滑るボートやカヌーを眺めている。
もう一方、目の上に手でひさしを作って日光を遮り、同じく川を眺めている女子は、学校の物じゃない、黒地に白いライン
が入ったジャージの上下を身に付けている。
体色と同じ白黒ツートンのいでたち、体格が良いむっちりしたその女子は、この国では珍しいジャイアントパンダだ。
そう言えば一年生にパンダが居るって、クラスの誰かが言っていたっけな…。
ぼくらに気付いたシンジョウさんは、こっちに顔を向けると、ペコッと会釈した。
そのまま通り過ぎるのもアレなので、ぼくは足を緩める。
「やあ。何してるの?シンジョウさん」
「はぁ…、はぁ…、よ…、よう、シンジョウ…!」
自転車を止めたイヌイがにこやかに挨拶し、それに追われるようにひぃふぅ言いながら走って来て止まったアブクマが、呼
吸を整えてから口を開く。
「こんにちはイワクニ先輩。それにお二人さん。定期戦翌日だっていうのに、精が出ますね?」
眼鏡の奥の目を細めて笑みを浮かべたシンジョウさんに、軽い運動だけだという事を伝えると、もう一方のパンダっ娘が何
か言いたそうな顔をして、彼女の袖を後ろからついついっと引っ張った。
「あ、そうだ。紹介しておきますね?私のルームメイトで、空手部の笹原百合香です」
シンジョウさんが半歩退いて促すと、パンダっ娘はその丸顔に、にへら〜っと緩んだ笑みを浮かべる。
「どもぉ、笹原でっす」
人懐っこい笑みを浮かべて自己紹介したパンダは、何というかその…、凄くふと…いや、うん。ダイナマイトボディだ。
空手部か…。ぼくのクラスメートの雌豹の後輩だな。
ぼくも名乗ると、顔は知っているらしいが挨拶した事はなかったらしく、アブクマとイヌイも自己紹介していた。
新聞部は記事纏めを終えて午後からはフリー。空手部は休みだったそうだ。
それで二人は昼食を摂りつつ買い物に出て、その後ぶらぶらと散歩していたらしい。
もうそろそろ帰ろうかと話をしていた所だったらしく、ぼくら五人は何となしに連れ立って土手の上を歩き出した。
皆が歩きなのでイヌイは自転車から降り、アブクマがそれを押している。
互いの紹介をしていたらまったりしてしまい、ジョギングを続ける雰囲気でもなくなったしな…。
「お昼はハンニバルで食べて来たの」
「あそこのラーメン、ンマいよねぇ〜」
「俺はトンカツ定食が一番良いかなぁ」
「僕はお蕎麦派。月見蕎麦美味しいよ?」
「ぼくは肉うどんが好きだな。そういえばウシオはカツカレーが好きだったか…」
『カレーうどん!』
何気なくぼくが口にしたその言葉に、アブクマとササハラさんが過剰に反応した。
「…はい?」
二人してぼくを見た熊とパンダが、それぞれウンウンと頷く。
「カレーうどん食べたくなって来ちゃったぁ…」
「俺も…。そういやしばらく食ってねぇなぁ…」
イヌイとシンジョウさんが顔を見合わせ、呆れたように肩を竦める。
「今日の夕方は寮食休みだし、カレーうどん作るかなぁ…」
「あ〜、良いなぁそれぇ。…って、アブクマ君、料理できんの?」
ササハラさんが意外そうに尋ねると、アブクマは「似合わねぇだろ?」と苦笑いしながら応じた。
まぁ無理もないだろう。ぼくだってイヌイから聞いた時は意外だった。このごっつくてでっかい後輩が、料理を得意として
いる事は…。
「こないだ買ったルーあるし、今日はカレーうどんでも良いかキイチ?」
「うん。楽しみ!」
にこやかに笑いあうイヌイとアブクマを、ササハラさんは人差し指を咥えて眺めている。
…よっぽど食べたいんだろうな、カレーうどん…。
その視線に気付いたのか、アブクマはササハラさんに首を傾げて見せる。
「なんなら食いに来るか?少なく作んのも多く作んのも、大して手間は変わんねぇしよ」
ササハラさんはパァッと顔を輝かせ、アブクマはシンジョウさんに視線を向けた。
「シンジョウもどうだ?たぶんウッチーとオシタリも来るからよ。二人やそこら増えたトコでどうって事ねぇぞ?」
「お隣さん達も、いつも一緒に食事してるの?」
意外そうに尋ねるシンジョウさん。これはぼくも初耳だった。
「あ〜、何つぅんだ?ほれ、寮食無ぇ日はアレだろ?で、オシタリの飯も一緒に作ってんだ。一人じゃウンって言わねぇから、
ウッチーもまぁ付き合いで一緒にな」
ぼくには聞いていても良く判らない説明だったが、シンジョウさんはそれで納得したのか、「なるほどね、良い事だわ」と
笑っている。
アブクマが「主将も予定あいてんならどうすか?」と尋ねてくると、ぼくが答える前に、シンジョウさんが「あ!」と、何
かに気付いたように声を上げた。
「私達が夜に男子寮に入るのはまずいんじゃないかしら?確かそうですよね、イワクニ先輩…?」
イヌイもそれに気が付いたのか、耳をピクっと動かし、アブクマとササハラさんは『そうだっけ?』と、声を揃えて首を傾
げている。
「確かに、夜間は他の寮の生徒や部外者の入寮は原則禁止。と、寮則で決められている。特に事情がある場合、先生方の許可
があれば、本来寮生でない生徒が宿泊する事も認められるけれど、それは例外中の例外だ」
ササハラさんは残念そうに肩を落とし、シンジョウさんがその背中を慰めるようにポンと叩く。
…あれ?何か勘違いしてないかい?
「あくまでも「夜間は」だよ?午後七時以降の話だから」
ぼくがそう付け加えると、四人は不思議そうな顔をした。
「七時までに退寮すればオーケーなんだから、夕食を食べに来るぐらいは問題ないさ。ただし、来訪者名簿にはきちんと名前
を記入しておく事。他の寮の生徒が来ると、とにかくそれを忘れがちだからな」
イヌイは視線を上に向けて少し考えた後、微苦笑しながら口を開いた。
「判りづらいですよ主将…。てっきり、やっぱり駄目なのかと思っちゃいました」
「あ?ああ、悪い…!とりあえずシンジョウさんの質問に答えようと思ったから、夜間は駄目っていう所から…」
先に大丈夫だって事から伝えるべきだったな…。
「へ?んじゃぁつまり…、行っても良いんですかぁ?」
ササハラさんがおずおずと尋ねて来たので、ぼくは「刻限さえ厳守できるなら勿論」と頷く。
再びパァーッと顔を輝かせたパンダっ娘は、
「えへへぇ〜っ!やぁ〜ったぁ〜っ!あんがとぉセンパ〜イ!」
声を上げながら、ぼくにガバッと抱き付いてきた。
「え!?あ!?ちょ、ちょっと君!?」
ボリュームで言えば倍はありそうなパンダに抱き締められ、ぼくは動揺して裏返った声を上げる!
ぼくより大きいササハラさんの体は、しかしやっぱり女の子だからなのか、いやに柔らかくて…。
…いや、失礼だけど、単にぽっちゃりしているからかもしれない…。この埋もれ具合はきっとそうだ…。
「ちょっとユリカ!先輩に失礼でしょ!?」
助け船が入ったのは、ほんの一瞬後の事だった。
シンジョウさんが慌てた様子でササハラさんのジャージの背中を掴み、グイグイ引っ張ってくれた。
「んぁ?あ〜…、ごめんですセンパイ…!」
ようやくぼくの体を放したササハラさんは、頭を掻きながら「えへへぇ…」と笑い、軽く頭を下げた。
「本当に済みません…!ユリカ、嬉しくなると手近なモノに抱き付く癖があって…」
ルームメイトと並んで頭を下げるシンジョウさん。…ぼくは手近なモノか…。
女子に抱き付かれるなんて初めての経験だったから、かなりドキドキしている…。
「な〜にしてるんだい?ご一行さん」
突然かかった声に首を巡らせると、一人乗りのボートを担いだ灰色の狼が、土手の石段を登って来ながらこっちを見ていた。
「お疲れっすシゲさん」
「や、やあ!練習は終わりかい?」
アブクマとぼくが声をかけると、ボートを肩に乗せて軽々と担ぐシゲが、石段を登り切った所でこっちに向き直る。
「練習っていっても、軽く流すだけでしたから。そっちも?」
「はい。ジョギングだけです」
イヌイが応じ、シゲも「うん。試合後だし、それがいいだろな」と頷く。
「昨日はイケてたぞアブクマ?ははっ!やるもんだねぇ!」
「へへ…、どもっす…」
シゲに褒められたアブクマは、照れ臭そうに指先で鼻を掻く。
次いでシゲは女子二人に視線を向け、不思議そうに首を捻った。
「今日はどういう取り合わせなんです?サトルさん」
「さっきそこでばったり会ったんだ」
ぼくが二人を紹介すると、シゲはハンサムな狼の顔に笑みを浮かべて、「ミナカミだ。よろしくお二人さん」と名乗った。
「新聞部のシンジョウです。先輩のご活躍はたっぷり聞かされています」
「きみとは、昨日柔道場でも会ってたよな?」
シゲは笑みを浮かべたままそう言うと、ササハラさんに視線を向ける。
少しぼーっとしているような様子でシゲを眺めていたササハラさんは、目があうと慌ててペコリとお辞儀した。
「あ、アタシ…、ササハラって言います…」
ぼそぼそと名乗るパンダっ娘。たぶん緊張してるんだろうな。
シゲは校内でも一番人気の色男だ。普通に対応できるシンジョウさんのような女子の方が珍しい。
「よろしく。部活はやってるのかい?」
「え、えっとそのぉ…。い、一応は…」
「へぇ。どこの部だい?」
「そ、それはぁ…、そのぉ…」
「空手部です。昨日の試合では、あっちの主将をやぶる大活躍をしたんですよ?」
モジモジしているササハラさんが歯切れ悪く答えると、シンジョウさんが代わりに答えた。
「し、しーっ!ミサト、しーっ!」
ササハラさんは何故か口元に指を当てて黙るように促し、シンジョウさんも、もちろんぼくらも首を傾げる。どうしたって
言うんだろう?
「そうだ。今夜カレーうどん作るんすけど、シゲさんもどうっすか?」
アブクマが思い出したようにそう言うと、
「お?アブクマが作るのか?いいねぇ。アトラのヤツも遅くなるって話だったし、お邪魔するかな」
誘われたシゲはニンマリと笑う。…この口ぶりだと、アブクマの手料理を食べた事があるのか?
「主将も、ウシオ団長誘って来たらどうすかね?」
シゲが首を縦に振ると、アブクマは、今度はぼくに尋ねて来る。
さっき返答し損ねたのに、ぼくが参加する事は決定されているらしい。まぁ、良ければお邪魔するつもりだったけれど…。
「ウシオはダメだ。今日は遅くなるから外食にするって言っていたから。今日は忙しいらしいんだよ、応援団」
ぼくがアブクマに説明すると、シゲは少し声を潜めて話しかけて来た。
「アトラだけじゃなく、そっちもですか?何かあったんですかね?応援団が動くような事が…」
「どうかな?まぁ、訊いて答えられるような事なら、初めから遅くなる理由を言っていくさ。詮索しないでおこう」
訝しげに目を細めたシゲに、ぼくはそう応じる。シンジョウさんは何か引っかかるのか、首を傾げていた。
「っと…、大荷物を持たせたまま話し込んで済まない。…オールは?」
「ああ、後輩が持ってってくれたんで」
話しながら歩き出すと、後ろをついてくる女子二名がかわす、ボソボソと小声の会話が耳に入って来た。
「…なんで、シーッ、だったのユリカ…?」
「…だってぇ…、女だてらに空手やってるとか言ったら…、ダサいって思われるじゃん…」
「…そんな事無いと思うけれど…」
あぁ、それでさっき口ごもっていたのか。
もっとも、空手をやっていると聞いた所で、シゲはどうとも思っていないだろうけれど。
…いや、女性への繊細な配慮というモノを、生まれて来る前にお袋さんのお腹の中に落っことしてきたシゲの事だ…、逆に
どんな無神経な事を悪気無しにうっかり言ってしまうか判ったものじゃないか…。
配慮に欠けるという訳でもないのに、どうして女性への気配りがなっていないんだろうなぁコイツ…。